【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

全500件中  新しい記事から  71〜 80件
先頭へ / 前へ / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / ...18 / 次へ / 最終へ  

2010/11/08(月)
第430回「ところ変われば文化も変わる その2」
「やっぱり三味線とピアノのコラボレーションっていうのは無理があるんじゃない?」
「ん〜、そうかもねぇ…」
「あんな不協和音を想像していたのかねぇ?」
「どうなんだろっ? 途中であれだけ頻繁に糸巻を調節して音を合わせているわけだから、基本は不協和音を想定してないわけでしょ、たぶん」
「そうだろうね」

もう相当前(何年も前)のことになりますが、埼玉会館で三味線とピアノの演奏会を聴きにいったことがありました。
最近は、様々なものが多様化し、音楽もその例外ではありません。クラシックあり、ジャズあり、ポップスあり、ロックあり…。もちろん邦楽あり、ラテンあり、様々な民族音楽あり…。なんだか一つでも紹介し忘れたりすると、そのジャンルに関わっている人に怒られそうな…。
あっ、シャンソンあり、カンツォーネあり…。(ラテンを言って、これを言わないと怒られそう)
ああ、もうどういう基準で分けているのかわからなくなっちゃいました。

音楽のジャンルもさることながら、その中で使われる楽器がそれぞれ単独で演奏されたり、コラボレーションしたり、あるいは聴くことを中心とした芸術が、見ることを中心とした芸術(絵画や書、立体造形といった)とコラボレーションしたり…。
ただ、そういう中にもミスマッチはあって、「なんで××と××のコラボなの?」と感じることも少なくありません。
この三味線とピアノも、そのミスマッチと感じたわけです。

何がミスマッチと感じたかというと、とにかく音として、高さが合っていない。というのは、三味線とピアノで音を合わせようとして努力しているのはわかるのだけれど、どうしても演奏の途中で三味線の音が下がってきて(フラットする)しまうわけです。
なので、三味線を演奏している人が、曲の途中でも頻繁に糸巻を締め直して音を上げる(シャープさせる)わけですが、演奏しながらですから演奏前の調弦のようにはピッタリとはいきません。そのためどうしても曲全体が不協和音の連続のようになってしまうわけです。

「それがコラボレーションなのだ」といわれればそうかもしれませんけれど、演奏している曲が本来持っている和音を、編曲でもしたかのような不協和音に変えてまで、堅い音色のピアノと柔らかい音色の三味線を合わせる必要があるのか…。
聴くまでは、おもしろそうだと思ったのですけれど、聴いてる最中に、これはもととも無理があったんだ、と思いました。それはなぜかというと、異文化の中で育った楽器を単に音を出すものとして扱って、単純に合わせればいいという発想が安易なのだと気付いたからです。

以前、薪能を見たときに、”謡のいい加減さ”に驚いたことがあります。”いい加減さ”というのは、適当にごまかしているということではなくて、音の高さや長さのほとんどが謡い手個人に任されていて、周波数的な合わせ方をしていないという意味です。西洋音楽を中心に関わってきた私にとっては、音の高さと長さはある意味音楽の命なわけですが、”謡い”というのはそれが根本的に違ったのです。なんとなく全員が曖昧で、それが妙に空気を振動させて深みを増し心に響いてくる。「これが日本古来の音楽の神髄かぁ…。」このとき、謡いの中に日本人が持っている曖昧さを見た(聴いた)気がしました。

ピアノと三味線のコラボレーションに違和感を感じたのは、本質は文化のコラボレーションだったのに、それを単に音のコラボレーションにしてしまったからだったのです。西洋文化の象徴としてのピアノと日本文化の象徴としての三味線と…。

先日テレビで、ぎくしゃくしている日中関係について、中国で中国劇の主役を務めて成功している坂東玉三郎氏がインタビューに答えていました。彼によると、中国人と付き合うときは論理的でないといけないということでした。そういわれてみれば、胡弓の響きって、三味線よりはバイオリンに近いなあ、と妙に納得がいってしまいました。

今後、国際化が急速に進んでいくことと思います。次の世代を担う子どもたちは、個々のジャンルや出来事もさることながら、文化の違いをどう乗り越え、どうコラボレーションを図っていくのか…。難しいけれど、とてもおもしろい時代を生きていくのだなあと思います。お互いの文化の違いを理解し、尊重して、そしてそれがさらに融合し、発展して平和な世界が築けていったらいいですよね。

(文:大関 直隆)

2010/11/01(月)
第429回「ところ変われば文化も変わる その1」
「ニュージーランドから来てたキャサリンがね、またやっちゃったんだよ」
「えっ、何?」
「だからウォシュレット」
「ウォシュレットって、何?」
「ほら、うちのトイレって、流すレバーがタンクに付いてるんじゃなくて、便器の脇に付いてるだろ。あのレバーのありかがわかりにくいから、どこをいじれば流れるかわからなくて、レバーじゃなくて、ウォシュレットのボタンを押しちゃうらしいんだよ」
「お尻を洗うためじゃなくて?」
「そう。お尻にお湯が当たるなんて思ってないから、お湯がお尻に当たった瞬間にビックリするらしい」
「えっ?! じゃあ、慌ててお湯をかぶっちゃうとか?」
「そういうこと。なんか大騒ぎしてるから慌てて飛んでいったら、服はびしょびしょ、トイレの床もびしょびしょっていうわけ」
「ビックリしただろうね?」
「ビックリなんてもんじゃなかったみたいよ。ウォシュレットなんて使ったことはもちろん、見たこともなかったんだって。この前来た中国の李さんもやっちゃったし…。レバーの位置がわかりにくいから”ここを押して流してください”て紙が貼ってあるだろ。日本人でもレバーがわかりづらくて、聞きに来る人いるくらいだから、紙を貼っておいたんだけど、あれって日本語で書いてあるから、外国人には読めなくて意味ないんだよ。レバーを探してるうちに、ウォシュレットの水が噴水みたいに吹いてるマークを見つけて、“これだ”って思っちゃうんだろうね。流せなくてパニックになってるから、よく見ないで判断しちゃうんだろ、きっと」

実家の母からこの話を聞いた私はビックリ。
何がビックリかっていうと、水をかぶってしまったということはもちろんですけど、それよりもっとビックリだったのは、外国人はウォシュレットを知らないということ。ウォシュレットっていうのはてっきりアメリカかヨーロッパから渡ってきたのかと思っていたら(それはまんざら外れてはいないのだけれど)、どうやらTOTO(当時は東洋陶器)が開発したものらしい。
歴史を紐解くと、元々は1964年に米国から温水洗浄便座「ウォッシュエアシート」という製品を輸入して販売したのが始まりとか。1968年に国産化して、1980年に「ウォシュレット」という名前になったんですね。
ウォシュレットというのは、TOTOが商標登録していて、INAXの製品は本当は「シャワートイレ」というんだそうです。全然わかっていなかった。そういえば、確かに広告なんかで「シャワートイレっていう名前も聞いたことがありますね。他にもパナソニックをはじめ家電メーカーは何らかの名前で販売しているけれど、「ウォシュレット」という名称があまりにも有名で、洗浄便座の代名詞みたいになってますよね。

歌手のマドンナが2005年に来日した時、「日本の暖かい便座が懐かしかった」とコメントしたそうですが、日本の家庭の標準装備になりつつある洗浄便座を元祖アメリカではマドンナくらいの人たちでも使っていないということですよね。これは、私には信じられないことでした。
日本人に比べ、はるかに消費マインドの高いアメリカ人が、「ウォシュレット」を使ってない。そんなこと考えられますか?アメリカ人が好む、あの大型冷蔵庫を想像したとき、考えられないことですよね。どうやら、このウォシュレット(洗浄便座)の普及は、日本人独特の文化らしい。今でこそ、中国・香港・台湾・韓国・ベトナム・シンガポール・インドのアジア各国やドバイを中心とした中東地域、アメリカ・カナダといったところで販売されているそうですけれど、果たして日本のように普及するものかどうか。

日本人の「きれい好き」という文化が、急速な普及に一役買ったということなんでしょう。

つづく
(文:大関 直隆)

2010/10/25(月)
第428回「学童保育の事故」
「今日、学童行かなくてもいい?」
「んーっ、今日は学童行かなきゃダメだよ」
「みんな学童やめちゃったからつまんない」
「そうかあ。でも蓮君だけ帰ってきても、家で一人になっちゃうし…。沙羅ちゃんだっていよ」
「・・・」
「だから今日は沙羅ちゃんと一緒に学童に行こうね」
「・・・」
「しょうがないでしょ!」
「うぅ〜ん」

その日、嫌々ながらも蓮は学童に行くことになりました。
孫の蓮と沙羅は、毎日学童保育(放課後児童クラブ・留守家庭児童保育室)を利用しています。授業が終わる時間はクラスや学年によっても違いますが、授業の終わった子どもたち(1年生から3年生まで)から、三々五々校舎内の片隅にある学童保育室に行き、保護者あるいは保護者に代わる者が迎えに行くまでそこで過ごします。どこもそれほど大きな差異はないと思いますが、孫の通っている学童保育の場合、毎日決まった時間におやつが出て、最終は6時半。特に指定された迎えの時間はなく、6時半までの都合のいい時間に迎えに行けばいいことになっています。4時くらいに迎えが来る子も少なくなく、また6時を過ぎる子はそれほど多くはないようです。様子を見ていると5時前後に迎えに来る保護者が多いようで、それを過ぎると子どもの数が急に減ります。

現在、孫の通っている学童保育室は、指導員が常時2〜3名。学校の中にあるにもかかわらず、教育委員会ではなく、社会福祉協議会(社協)から派遣されています。学校の中なので、時間中は校庭も利用できます。子どもたちの時間の過ごし方は、おおよそ宿題、読書、おやつ、自由(中遊び、外遊び)という割り振りのようですが、保育時間内の子どもの管理については、指導員の裁量にゆだねられているようで、どのような考えの指導員が配置されるかによって、子どもの過ごし方も変わってくるようです。

学校の時間割が変わり、下校の時刻が変わった影響もあるようで、蓮が1年生の時には、4時過ぎくらいに迎えに行くとほとんど毎日校庭で指導員と一緒に遊んでいたのに、最近は校庭で遊んでいることが少なくなりました。限られた時間の中で、宿題までやっているわけですから、ある程度やむを得ないものの、やはり子どもですから、校庭で伸び伸び遊びたいという気持ちも強いようで、最近の自由がない状況に、「学童はつまんない」ということになっているようです。蓮は「つまんないからみんなやめちゃったんだ」と言っています。

問題なのは、指導員が社協から派遣されてくるために、教育のプロ(多少なりとも教育についての知識があるというレベル)ではなく、とにかくその時間を見ていればいいという感覚であるということ。そのため、どんな指導員が指導に当たっているかによって時間の過ごし方の質が大きく変わってしまいます。子どもたちと活発に外で遊んでくれる指導員もいれば、椅子に座って子どもの行動を監視しているだけの指導員もいる。座って監視しているような指導員にかぎって、やたら怒ったり怒鳴ったりすることも多いわけです。ですからその指導員の質によって、子どもたちも楽しく過ごせたり、楽しくなくなったりします。

23日に流れてきたニュースに、「学童保育:初の事故統計 半年で1人死亡、104人重傷」(毎日新聞)というものがありました。学童保育での事故実態を厚生労働省(保育という位置づけなので、孫の通う学童保育室のように学校の中にあっても厚労省の管轄)が一定期間、正式に集計して公表したのは初めてだそうで、毎日新聞だけでなく他紙も同様の記事を掲載していました。死亡したのは沖縄県内の1年生の女児で、夏休み中、学童に到着する直前、道路を横断中に車にはねられたとのこと。「学童保育の事故」というにはやや違和感があります。「YOMIURI ONLINE」によると、「国民生活センターが、市区町村が把握する2008年度の同様事故を調べたところ、1万1034件に上った。具体例が分かったのは4804件で、このうち骨折は840件」だそうです。厚労省は事故の多くを把握しきれていないということでしょうか。

この記事を読んで、私はとても心配になりました。
5月1日現在、クラブ数1万9946カ所、登録児童数81万4439人だそうですが、その数に対して、事故の数が多いというレベルなのかどうか…。こういった報道が大々的にされると、指導員は責任を被らないようより慎重になり、外で遊ばせることを避けるのが常です。学童保育特有の事故ということならともかく、厚労省の調査では、遊具の使用39人、ボール遊び25人、子供同士のふざけ合い12人、転落や転倒12人だそうですから、学童の問題というわけでもなさそう。だとすれば、それによって子どもが縛られたのでは、ますます「つまらない」ということになりかねません。身体に傷を負うのも問題だけれど、それを防ぐために心に傷を負ったら何もなりません。多少のけがのリスクはあったとしても(私は学童が特別にけがのリスクが高いとは思いませんが)、それなりに長時間を過ごすことになる学童保育なのだから、伸び伸び遊んで、豊かな心を育んでもらいたいものだと思います。

(文:大関 直隆)

2010/10/18(月)
第427回「右回り? いやいや実は左回り」
ハイ!
皆さんもやってみてください。
言葉だけで説明するのは難しいけれど…

まず、右手(左利きの人は左手でもOKです)の人差し指を頭の上で天(天井)に向かって突き立ててください。
そして、ゆっくりと右回りに回して…。
右回りってわかりますよね? そうそう、時計の針が回る方向ですね。
次に、手(指)を右回りに回しながら、人差し指を天に向けたまま、らせんを描くように徐々に下におろしてください。
最初頭の上で回っていた手(指)が顔の前を通過し、首の前を通過し、胸の前を通過し、お腹の辺りまできましたか?
お腹の辺りまできても、人差し指は上を向いたままにしておいてくださいね。
さて、そこで手(指)の回っている方向を見てください。
あなたは右回りに回していたはずですよね。
でもどうですか? 左回りに回っていませんか?
「あれっ? なんで?」
って思った方も、
「当たり前じゃん!」
って思った方もいることと思います。なんでかよくわからない人は何度もやってみてください。頭の上で回し始めた手が、あるところを過ぎたときから、右回りが左回りになります。

当たり前なんですよね。大したことじゃありません。皆さんは、右回りって、すごく客観的なことだと思っていませんか? でも、こうして右回りっていうことの意味を考えてみると、見る方向が違えば、右回りにも左回りにもなることに気づきます。

向かい合わせになっている人を指さして、自分(私)にとって右回りに指を回してみると、向かい側にいる人からは左回りに見えます。誰もが日常的には鏡で体験しているわけですけれど、鏡の中ではあまり右だとか左だとかを意識しませんよね。なぜなら、自分の右手が鏡の中の自分の左手になっているということを、誰しも知っているし、それを当たり前と思っているからです。

最初にやってもらった手(指)を頭の上からお腹の前まで、回しながらおろしてくるなんていう行為は、普通やらないので、鏡の中の自分のように当たり前ではなかったんですね。そのせいで「なんで?」と思った人もいるんだろうと思います。

さて、右回り。実は客観的な事象ではなく、自分の見ている方向で決まる主観的なものということが言えますよね。言い換えれば、同じ一つの出来事でも、見る方向というか見方を変えれば、まったく逆にもなるということです。

長野の善光寺の拝観の一つに「お戒壇巡り」というのがあります。何のことはない、要するに善光寺のご本尊の下(地下)をぐるっと一回りしてくるのですが、善光寺のホームページには「内々陣の奥、右側を進むとお戒壇巡りの入口があります。お戒壇巡りとは、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊を巡り、中程に懸かる「極楽の錠前」に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の御本尊様と結縁を果たし、往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただく道場です。入口には、タイ国王より贈られた仏舎利(お釈迦様の御遺骨)とお釈迦様の像が御安置されています」と解説されています。

この春、私も入ってみたんですが、これがほんとに真っ暗。「目が慣れたら…」なんて思う人もいるかもしれないけれど、まったく光がないので、慣れるも慣れないもありません。目が慣れてもまったく見えないんです。
私は、「暗くて狭いところがけっこう得意」なんて思っていたんですけどとんでもない。入って数メートル進んだだけでパニック状態(もちろん騒いだりしませんよ。でも心臓が“ばっくんばっくん”だったんです。もうちょっとで折りたたみ式の携帯電話を開いちゃうところでした)。
自分の意識の中で、「ああ息苦しい」とか「このまま出られなかったら…」とか「頭をぶつけたりしたら…」とか「ここで地震でも来たら…」とか、とにかく悪いことばっかり考えちゃうんです。心の中にまったく出口がなくなってしまって、悪いイメージばかりがぐるぐる回るんですね。

昨日カルチャーセンターのカウンセラー養成講座で教えているとき、チリの落盤事故の話からこの「お戒壇巡り」の話になったんです。すると受講生の一人が「入ったことある」という話になって、私が「あれって、けっこうパニックになるでしょ?」と言うと返ってきた答えは「すごくおもしろかったですよ」。「“極楽の錠前”を夢中で探してて触れたときは感動しちゃった」んだそうです。

ほうっ…
見方が違うと、パニックになるようなことでも楽しいって思えたりするんですね。私もパニックになっていたときにうまく見方を変えられれば、“ばっくんばっくん”もすぐに収まったのかもしれません。右回りだって、見方を変えれば左回りになるんですもんね。

チリの落盤事故で閉じ込められた人たちも、助かるか助からないかの恐怖の中で、恐怖にばかり目を向けず、助かることに意識を向けられたので、33人が元気で生還できたのかもしれません。

これって、とっても大事なことで、子育ての極意です。子育てで辛くなったときは、大きく息を吸って大きく吐いて…。辛くて苦しいことにばかりに目が向いている自分の意識をくるっと反対に向けて、いいことばかり考えてみると、それまで辛くて苦しかった子育てが楽しくなってくるはずです。ぜひ一度試してみてください。子どもを怒鳴りつけたくなっていた自分が、気がついたら子どもを抱きしめているかも…
「右回りが左回り」納得できたかな?
(文:大関 直隆)

2010/10/12(火)
第426回「いったい何? この番組! その2」
(前回からつづく)

一番下の翔ときたらそれどころではありません。
「明日、ラウンドなんだけどさぁ、3万円くらいもらいたい…」
「一昨日もやっただろっ! 何で3万なんだよ!」
「まあそのぅ…。明日と明後日二日分ってことで…」
ゴルフをやらせておいて、ラウンドの費用を自分で出せとも言えず、毎回出してやってはいるけれど、もう蓄えも底をつき、
「お前なあ、ゴルフやってるんだから多少お金がかかるのは仕方ないけれど、ゴルフ以外でその辺をぶらぶらしてお金使ったり、時間使ったりしてるんじゃないよ!そういう時間があったら、アルバイトでもしろっ! ラウンド代の他にも、車の維持費、ガソリン代、高速代だってかかってるんだぞっ! 自分で稼ごうっていう気はないのかよっ!」
「まあ、それは、その…」
大学の先輩後輩を見回しても「こんなボロ車に乗ってるのはいない」というくらいボロの車(義父が生前乗っていた車でかなり古い上、距離もかなり乗っているので、そろそろあちこちトラブルが起き始めている)ではありますが、それでも我が家の生活からすると、ぎりぎりで何とかしているというレベル。
子どもにゴルフをやらせている家っていったいどんな生活なんでしょう。遼君くらいになる可能性が0.1%でもあれば、今は貧しい生活をしてでもそれにかけるっていうのもあるんでしょうが、そんな可能性は皆無。あああっ、ゴルフなんてやらせるんじゃなかった…。大変なのは親だけかぁ…。

そんな親のやるせない気持ちを打ち払い、仕事モードに気持ちを切り替えるには時間がかかります。何か美味しいものを食べてみたり、ゆっくりお風呂に浸かったり、ただただボーッとしてみたり、歌を歌ってみたり、テレビを見てみたり…。
そんな気持ちの切り替えにテレビを見ていたら、NHKで「東京カワイイ★TV」なる番組をやっていました。

その日の内容はといえば「空前絶後!日豪モデルKAWAII対決」と題し、オーストラリアの超人気番組「オーストラリアズ ネクスト トップモデル」で5000人の中から選ばれたTOP4が「東京の最先端ファッションを着こなす!」というもの。
4人のモデル(ケルシー・ジェシカ・アマンダ・ソフィー)がそれぞれ「ロリータファッション」「制服ファッション」「ギャル系ファッション」「フェアリー系ファッション」に挑戦して、都内の名門服飾専門学校スタイリスト科の学生たちの投票によって順位を決めます。結局このコーナーの優勝はギャル系ファッションを着たアマンダに。
まったく体型の違う日本の少女ファッションをオーストラリアの少女が着て何の意味があるのか、企画の意図がよくわからなかったけれど、とりあえずこのコーナーは良しとして…。

私がびっくりしたのは、男性ファッションを扱ったコーナー。
「進化を続ける東京ストリートファッションにまた一つ新たなムーブメントが生まれようとしています」というナレーションで紹介されたのは、なんと歌舞伎町のホストファッション。ナレーションは「おしゃれなホストたちがブレークさせたまったく新しいスーツスタイルが今注目を浴びています」と続きます。
ここで紹介されたのは、エレガントな細身のスーツに大きめのクロスタイとウイングカラー、シルバーアクセサリーにネイルという「王子様系スタイル」、シックなスーツにイタリア高級ブランドのカラフルなネクタイの「王道派スタイル」 、おめでたいときに着用する「白スーツスタイル」、もちろんただの白ではなくラメ入りで男の色気をアピール、そして最後は小物使いが特徴という「カジュアル系スタイル」。なんでもこの「カジュアル系スタイル」が最近ホストの間で増えているそうで、かっこよければデニムもありとか。

そして司会の沢村一樹 とBENIが最もお金のかかっているコーディネイトを予想。
沢村一樹の予想は、王道派スタイルの健さん320万円。BENIの予想は王子様系スタイルのユイさん260万円。順位の予想は川村一樹が的中。ただし実際のコーデの総額は140万円。ここで、320万円と予想した川村一樹が、総額が半分以下だったことに驚いてみせる。
身につけているもので最も高価なものは時計のおよそ200万円と考えたとのことだったけれど、実際は120万円。それ以外のもの全て(洋服とアクセサリー)で20万円とか。時計が120万円と聞くと20万円はずいぶん安いような気がするけれど、健さんの26歳という年齢を考えると、やはりとんでもなく高額です。

4人の中で総額が最も安いのは、カジュアル系スタイルの来夢(らいむ)さん。それでも小物のネックレスが20万円で、総額70万円だとか。
いったいこの世界ってどうなってるんでしょう?
さらに出勤前に立ち寄る美容室を紹介。キャバ嬢発、盛りヘアブームがホストに拡大中とかで、美容師の“まぁ〜ちゃん”曰く「(ホストの髪型は)毎日同じなんですけど、ちょっと変えたりとか」「はやりがどんどん変わっていくので、常に勉強していないといけない」。
そして「歌舞伎町発、男のおしゃれは日々進化しているんです」というナレーションで結んでいました。

確かに、ショッピングモールなどを訪れてみると、この番組で扱っているような男性ファッションが流行っているようには感じます。とはいえ、値段には格段の差がある。東京のファッションを紹介すること自体は悪いとは思わないけれど、果たして若者の射幸心を煽るような紹介の仕方を公共放送を自認して、受信料の支払いを強制するNHKがやっていいのかどうか…。

カウンセリングや教育相談に様々な少年少女が訪れます。その少年少女の多くが過度な消費志向から抜け出せず、生活が壊れ苦しんでいます。うちに通ってくる少年少女はそこから抜け出そうという意志があるのでいいのですが、消費が止められない少年少女の中には、犯罪すれすれのことをしてまでお金を稼ごうとする子もいます。

以前、援助交際をしている少女を取材したことがありました。「なぜ援助交際をするの?」と尋ねると、「だってお金が欲しいんだもん」という答え。洋服を買ったり、アクセサリーを買ったり、中にはホストクラブに通うお金が欲しいという子もいました。通常の労働で稼げる金額よりも多くの支出をしようとすれば当然のことです。中には、欲しいものは万引きで手に入れるという子もいました。

今回初めて見た「東京カワイイ★TV」のコンセプトはいったいどこにあるんでしょうか?「おしゃれなホストたちがブレークさせた…」、まるで「みんな真似しなさいよ」と言わんばかりの内容。140万円のファッションを真似するためにどんな少年少女が現れることやら。とても公共放送が扱う内容とは思えませんでした。

我が家の息子たちも、どいつもこいつも金、金、金。まったく困ったもんですが、さすがに120万円の時計を買おうとする息子はいないみたいです。

(タレントのお二人は敬称を略しました)
(文:大関 直隆)

2010/10/04(月)
第425回「いったい何? この番組! その1」
仕事のこと、子どものこと、孫のこと、自分のこと…
ここのところ一度にいろいろなことが押し寄せてきた感じで、毎日がドタバタ。前からずっとドタバタだった「生活」、っていうか「人生」がさらにドタバタになって、もうパニック状態。もっともそのパニックを楽しんでいるんだから、ドタバタはいいことと割り切って生きているわけですけどね。
昨今のドタバタ(昨今っていうのは何だ? ちょっと第三者的で大げさかな?)は、いったいどこから始まったのかを考えてみると、
「う〜ん、どこだぁ?」
たぶん、ドイツの劇場でダンサーをしていた努が、6月いっぱいで劇場を辞めてフリーになるとか言いだした辺り?

息子の努は、私とは12歳違いの義理の息子。16歳でモダンダンスを始めて、19歳で単身フランスに渡って間もなく41歳。これまでオーストリアのインスブルックやドイツのダルムシュタット、ミュンスターの劇場で踊ってきました。それがフリーになるとか。7月に帰国したとき、聞いてみました。
「お前、このあとどうするんだよ?」
「う〜ん、ヨーロッパと日本を行ったり来たりしようと思ってるんだ」
まったくずいぶん軽く言う奴!
行ったり来たりするにもお金がかかるし、舞台をやればやったでお金がかかる。しかも誰が舞台のチケット売るんだか…。11月にはなんとかモダンダンス界の重鎮「本間祥公」先生(女性です)から、舞台を1日もらって公演をやることにはなったものの、後は未定。その後ドイツに戻っちゃって、誰が日本の公演をプロデュースするんだよ!
次の息子の真。今年で33歳。これがまた俳優なんかやってるから飯が食えない。最近は演出助手やNHKの番組のシナリオなんかも書いたりして、不定期にはちょっとお金が入ってくることもあるらしいけれど、飯が食えるほどではない。そんな状態だから、つい先日、
「やっぱり現金収入がほしいんだよね。それで貸スタジオやろうと思って物件探してたら、下北沢の駅前にいいのがあったんだよ。そこを借りようと思うんだ。」
「あっ、そう」
「家賃も安いし、敷金、礼金も条件がいいし、毎日貸せれば、数万円は利益が出ると思うんだ。みんな、安くて便利な貸しスタジオ探してるし、借りてくれそうな人脈は今まで作ってきたからね。赤字にはならないでやれると思う」
「負担が大きくないなら、いんじゃないのか? やってみたらいいだろ」
私もずいぶん貸店舗、貸事務所は借りてきたので、新しいことを始めるにはお金がかかることはよくわかっています。
「お金どうするんだ?」
「うん、まああんまりかからないから…」
私には、“という話”だったのに、どうやら私には黙って妻の方に話をしていたらしく、
「明日の午後、真が来るって」
「なにしに?」
「お金取りに来るんだと思うよ」
「お金って何で? この前電話で話したときは、自分で何とかするようなこと言ってたけど…」
「私にはそんなこと言ってなかったよ」
「はっ? 今そんなお金出せるわけないでしょ! “今月家賃どうしようか状態”なんだから」
「とりあえず、お金をかき集めて、貸しといてやるから、あなたはいいよ」
「はあ? 何だよ、結局そういうことかよ!」
ふぅ、変な息子たちを作ってしまうとこれだからね。
やっぱり、“息子はサラリーマンに限る”っていうところかな…

翌日、めったに現れない真がやってきて、妻からほんの少しだけれど、お金を受け取ると嬉しそうに帰って行きました。カウンセリングや教育相談をやっている立場からすると、子どもに対するこういう親の行動は最悪とも言えるんだけれど、ダンサーや俳優にした親の責任ということで、仕方ないんですかねぇ…
さらに一番下の翔はゴルフなんだから、どうしようもないですよね。

つづく
(文:大関 直隆)

2010/09/27(月)
第424回「“これ何?”“クッキー”の危険」
「先生がね、結婚するからもう来ないんだって!」
べそをかきながら、娘の麻耶が言いました。
「はっ? そんな話、聞いてないよ」
「A先生が今日の帰りの会で言ったもん。明日、先生の結婚式で、結婚したら先生やめちゃうから、月曜日からもう学校来ないって言ったんだもん」
「そんなわけないだろっ! そんな話、親に言わないわけないじゃないか! 何にも聞いてない」
「だって言ったもん!」
「A先生が言ったの?」
「そうだよ、A先生が言ったんだよ!」
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴りました。麻耶と同じクラスの“さっちゃん”です。
「さっちゃん、こんにちは。今、麻耶ちゃんとお話ししてたんだけど、担任のA先生結婚するんだって?」
「うん。明日結婚式なんだよ。学校やめちゃうから、月曜日から来ないんだって。みんな、泣いちゃったんだよ」
「そうなんだあ…」
「うん!」
私は納得がいきませんでしたが、月曜日になればわかることなので、その場は二人の話を聞き流すしかありませんでした。

そして、月曜日。
PTAの役員をしていましたので、確かめれば確かめられないことはなかったのですが、麻耶が帰ってくればわかることなので、そのまま麻耶の帰りを待ちました。
「おかえり! A先生来た?」
「うん。麻耶ちゃんたちのために結婚やめたんだって」
「はっ?」
「結婚やめたから、学校もやめないんだって」
まったく話がわからないので、学校に行ってA先生に直接確かめることにしました。
「先生、ご結婚なさるんですか?」
「いいえ」
「麻耶とNさん(さっちゃん)から、結婚して退職するっていう話を聞いたんですけど」
「ああ、はいはい。昨日友達の結婚式があったものですから、結婚式をするって言ったんです」
「退職するからもう学校には来ないって言ったんですよねえ?」
「はい」
「それって、まずいでしょ! 子どもたちは真っ直ぐ受け取って、麻耶もべそかいてましたよ。帰りの会で、何人か泣いてたそうじゃないですか」
「はあ、まあ」
「子どもに嘘を言われたら困りますよ。子どもは純粋だから真っ直ぐ受け取るんです。まだ、小学2年生ですよ」
私の声がやや大きくなったらしく、少し離れたところで様子をうかがっていた女の先生も何事かと近くにやってきました。
「小さい子どもをだますようなことはまずいでしょ!」
そこでその先生が口を挟んで、
「冗談ですよ、冗談。たいしたことじゃないですよ」
「はっ? 冗談? 帰りの会で泣き出す子どもはいる、麻耶だって家へ帰ってきてA先生がもう学校に来ないってべそをかいてる。今日までそんな気持ちを二晩も引きずってたんですよ。なんで子どもたちがそんな気持ちにならなきゃならないんです! それが冗談? そんなこと言っていいわけないでしょ! 今日だって、あなたたちのために結婚やめたって言ったんでしょ?! 全然違うじゃないですか!」
「冗談なんですよ。それくらいダメなんですか!」
「ダメに決まってるでしょ! 子どもが二日間も悲しむような冗談を言って、“冗談だからいい”なんていう教師なら、教師をやめた方がいい!」
二人で“冗談だからいい”と何度も言い張るので、多少声を荒げたら、A先生には涙を流されてしまいました。それでも、“教師の冗談”で子どもの心を傷つけることの重大性を理解できないようだったので、「二度とこういうことがないように」とお願いをして帰ってきました。

実はこの後、A先生とはとてもいい関係を築くことができたのですが…。


25日の産経新聞に大阪市内の府立高校で、女生徒が家庭科の教員が自宅で作ったゴキブリ退治用のホウ酸団子を見て「これ何?」と尋ねたところ、その教師が「特製クッキー」と答えたため、教師が目を離したすきにそれを食べてしまい、病院に搬送され胃洗浄をして回復したという記事が載っていました。

教師と生徒の関係を考えれば、冗談が通用しないのはすぐわかること。例の殺人が題材の割り算の問題を出していた教師は、その前にも「みんなを殺してしまう夢を見た」と発言していたそうです。「クッキー」の教師も「殺人」の教師も「軽率だった、反省している」と述べているそうですが、教師の冗談がどんな結果を招くのか、教師はしっかり肝に銘じて、子どもたちに接してもらいたいものですね。
子どもたちに対してはどこまでも真摯であること、教師に求められる最低限のことだと思います。
(文:大関 直隆)

2010/09/21(火)
第423回「保護者は教員を高評価?」
9月14日、朝日新聞朝刊に「教員働きぶり、保護者は教委より高評価 文科省調査」という見出しの記事が掲載されました。

「アンケートは幼稚園・小中学校・高校の教員、保護者、教育学部などの学生ら計約4万3千人と、全国の教育委員会、教職課程がある864大学を対象に、今年4〜8月に実施。教員の仕事ぶりや教員養成の今後の課題などを尋ねた。」

その結果、教員の働きぶりについては
(1)「子どもへの愛情や責任感がとてもある」は保護者44%、教委18%
(2)「コミュニケーション能力がとてもある」は同じく25%、3%
(3)「子どもを理解する力がとてもある」は23%、4%。
(2)(3)のように保護者の評価が低い項目でも教委との隔たりは大きかった。教員の「自己評価」は大半の項目で教委と保護者の中間に位置しており、保護者の評価の高さが際だった。
との記事でした。

長い間PTA活動に携わってきた私としては、どう考えても受け入れがたい数字。
記事はこの後、
「文科省幹部は「保護者が我が子の通う学校の先生を意識して回答したのに対し、教委は地域の学校総体の評価をしたことにより、温度差が出たのではないか」と話す。」
と続きます。
実際、このアンケートは立場の違う人間を同じ土俵に乗せて、数字だけを取り上げて評価したものなので、まったく意味のないものです。保護者に対して、どんな方法でアンケートを実施したのかよくわかりませんが、学校、あるいは教委、あるいは文科省の名前で実施したものであるとすれば、自身の回答が子どもにどう跳ね返ってくるものなのか、強い不安を感じるので、学校や教員を悪く言うわけにはいきません。それを学校や教員が、自分たちに対する保護者の評価と受け止めるとすれば、あまりにも自分本位の解釈の仕方で愚かしい。

また教委は教委で、学校、教員を管理・監督する立場だから、学校、教員を悪く言うことはあっても、なかなか高い評価を与えるわけにはいかない。当然のことながら、高評価を与えれば、身内に甘いという社会からの誹りを免れないし、学校、教員に対する厳しい査定はしにくくなるので、管理が緩んでしまうことになります。だから、数字は開くことになる。
そんなこと子どもを育てている保護者や学校教育に関わっているものなら、すぐにわかることなのに、いったい何を考えてアンケートを採っているのやら…。

教育行政を考えたときにいつも思うことは、実際に子育てに関わったことのない人間のくだらない「やってるふり」だなあということです。しかもそれをまた、朝日新聞のような大新聞が、鬼の首を取ったような勢いで「教員、よく働いている」なんていう見出しを付けて、あたかも保護者が教員を支持しているような記事を掲載する。この記事は、調べてみても朝日新聞以外では扱われていないようなのですが、だとすればこの朝日新聞の姿勢にはあきれるばかり。

記事を丁寧に読んでみると、どう考えても見出しに問題が…。
見出しを読むと「保護者が教員を高く評価している」と受け取れますが、記事中の文科省幹部の話からして、文科省自ら保護者と教委の立場の違いを認めている(「温度差」という言葉を使ったとすれば適切ではないと思いますが)わけだから、少なくとも見出しは「教員、よく働いているかの問い、立場により数字に差」くらいがいいところでは?
そして中身は、教員の働きぶりではなくて、アンケートの結果から、「立場の違いによって数字に大きな影響が出ている」あるいは「親は学校や教員にビクビクしている」という結果を導き出す。そんなことだと思うのですが…。

この記事を見た学校相談員が、数字に愕然としていました。というか苦笑していました。この数字は、中央教育審議会に提出されるのだそうです。中央教育審議会には、自分の子どもと近所の公園で遊んだり、参観日や懇談会に毎回出席したりした人がどれくらいいるのでしょう。直接子育てに関わってきた人がいないと、また数字だけが一人歩きして、教育行政がおかしな方向に行くことになってしまいますよね。そんなことにならないよう願っているのですが…

(文:大関 直隆)

2010/09/13(月)
第422回「疑似科学にご用心!」
「さっきのNさんの話、おかしいよね」
「なんで?」
「だってあの人の血液型ってB型でしょ。だったらさっきの話、絶対おかしいよ。B型だったらそんなのありえない!」
「そうなんだぁ!? NさんてB型なんだぁ。だったら確かにさっきの話はおかしいねえ」
2週間ほど前、お昼に入ったお蕎麦屋で、近くのテーブルにいた60歳くらいの男性2人、女性1人のグループの会話です。聞く気で聞いていたわけではありませんが、アルコールがだいぶ入っていたこともあってか、声が大きくて自然に耳に入ってきてしまいました。私がテーブルについたとき、ちょうど1人の女性が出ていったのですが、どうやらその女性がNさんのようでした。

何があり得ないのかはわかりませんが、どうやらB型の人間の行動としてはNさんの話の内容はおかしい、だからNさんの話は信用できないということのようでした。
いろいろなプロフィールに記入欄があり、まことしやかに性格との関連性が語られる血液型。
ある血液型性格判断サイトによると、
A型は、
男性なら、“石橋をたたいて渡る”タイプ。何事にも細かく計画を立てて慎重に行動するし、物事の道筋が通らないことを嫌う。女性なら、人格や品行が清くいさぎよく、
清楚で、控えめなタイプが多い。
B型は、
男性なら、ゆったりとした心の持ち主で明朗。いつもマイペースに行動する。いったん決断すると、真っ直ぐに目標に向かって突進する。女性なら、常にマイペースで物事を運ぶタイプ。魅力的で、明朗な人が多い。
O型は、
男性なら、自分の目標をしっかりと持って、絶えずそれに向かって前進しようと努力する。勝ち気で人に負けることをとても嫌う。女性なら、純粋で夢や理想を求めるロマンチストなタイプ。花や動物など生き物に愛情を注いで、趣のある生活を好む人が多い。
AB型は、
男性なら、あらゆる面で物事を器用に無駄なくこなせる能率的なタイプ。感受性が豊かで、感傷的で詩的なところもあって、かなりの理想論者。女性なら、趣味の幅が広く、多くのことに興味を持っていて、才知に富んでいる。純粋無垢な心を持つ少女のような雰囲気。

これはまったく「まことしやかに」なのであって、「血液型性格分類は数々の出版物により一部の者に信じられているが、科学的検証では性格や気質と血液型との意味があると思われる関連性は発見されていない。欧米諸国ではそのような血液型性格分類は支持されておらず、科学界は、迷信や疑似科学などの信念だと否定した」(Wikipedia)ということでしかありません。
さらに「ABO式血液型と性格の間に明確な関係は見られない、という多くの結果を踏まえて、社会心理学では近年、血液型気質相関説を研究の題材として取り上げ、このような説が社会に流布する仕組みや、このような説が流布することによって人の認知にどのようなひずみが生じるのか、あるいは血液型相関説を「信じているように振舞う人の動機は何か」といった角度から研究されており…」として、逆に血液型による性格判断を信じている人たちの行動が研究されているということのようですね。
上述のような性格というのは、人のごく一部を取り出して判断しているものだから、どこかは当たっていて、どこかは外れている。でも、信じたい人からすれば、外れているところは無視して、当たっているところだけを切り抜いて都合のいい解釈をするわけだから、信じてしまうわけですよね。
占いなんかも同じですね。占いなんて、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」。とはいえ、信じることで心が癒されたり、気持ちが前向きになれるのであれば、当然カウンセリングと同じような効用はあるわけですが…。

先日、朝日新聞に「保健室でホメオパシー」という見出しの記事が掲載されました。ホメオパシーとは、「健康な人間に与えたら似た症状をひき起こすであろう物質をある症状を持つ患者に極く僅か与えることにより、体の抵抗力を引き出し症状を軽減する」治療法のことで、学会や学術誌などではその科学的効果を否定されていますが、ヨーロッパなど一部地域では浸透している国もあります。

記事によると「沖縄県名護市の公立中学校の養護教諭が5年以上前から、保護者や校長、校医の了解を得ずに、民間療法「ホメオパシー」で使う「レメディー」という砂糖玉を、保健室で生徒に日常的に渡していたことがわかった。複数の生徒や卒業生によると、教諭は「普通の薬はいけない」と話していたという。保健室に特別の装置を持ち込み、砂糖玉を加工していたという」ということだそうです。この養護教諭は、沖縄県の全小中学校の養護教諭が加盟する沖縄県養護教諭研究会の元会長だったというですから驚きです。
科学的効果が否定されているというのは、複数の科学者が検証してもその効果が確かめられないということであって、当然のことながら公共性の高いところで行われるべきものではないということ。子どもたちが与えられていたのは「砂糖玉」だそうなので、飲んだりなめたりしたことによる害というものはほとんどないのだろうけれど、子どもたちの心に与えた影響は少ないないと思います。

人の心は複雑で、科学だけで人が幸せになれるものではないけれど、疑似科学のようなものを信じて疑わないことは、ときに真実に蓋をし、現実から逃避することにもつながります。真実にしっかり目を向け、楽しいことや辛いこと、嬉しいことや悲しいことにも向き合って、自分の力で幸せを獲得していくことが大切なんですよね。
「私の血液型は××だから、××なんだ。だから、××なのはしょうがない」なんて、現実に目を背けていませんか。

血液型による性格判断も、占いも、ホメオパシーも、みんなで楽しく語れる程度の遊びの範囲ということにしておいた方がいいみたいですね。
ちなみに私の血液型はB型です。「やっぱりねえ」なんてよく言われるんですけど、読者の皆さんとはもう8年半ものお付き合い。私の性格をけっこうご存じなのではないかと思いますが、当たってると思います?
(文:大関 直隆)

2010/09/06(月)
第421回 「『落語・らくご・THE RAKUGO』 やっぱり舞台はおもしろい その2」
司会進行はうちのスタッフのFさん。
もちろん最初は主催者を代表して、NPO法人日本カウンセラー連盟理事長で浦和カウンセリング研究所所長である妻のあいさつ。

いつもは比較的あいさつのうまい妻ですが、何をどう思ったのか、今回は話が長い長い。早く切り上げて、談慶師匠につなげばいいのにと冷や冷やしながらあいさつを聞いていました。妻に言わせると、普段うちとあまり関係のない人たちが多かったので、何とか宣伝をしようと思ったとかで、結局それが裏目に出て、話の趣旨がよくわからなくなってしまったみたいでした。
談慶師匠は、さすが話のプロ。そんな妻のあいさつをとても上手に受けてくださいました。
「子どもでも楽しめる落語」という初めは、小咄から。
「よっ姉さん、粋だねえ!」
「あたしゃ、帰りだよ」
(ははははっ!)
から始まり、いくつかの小咄を経て、一つ目小僧の国の話へ。
山の遙か向こうに一つ目小僧の国があるということだから、さらってきて見せ物小屋に売って一儲けしようと考える人間二人が、山を越えて一つ目小僧の国に行き着いたまではよかったけれど、そこは一つ目小僧の国。逆に二つ目は珍しいと人間の二人が一つ目小僧に捕まってしまうという話。
これが、第405回で紹介したカウンセリングにおける「内的照合枠からの理解」とかなり近いことを言っている。

現在のカウンセリングの基礎を築いたカール・ロジャーズの「私たち一人ひとりが見ている「世界」は、私たち一人ひとりが目で見える世界をどのように受け取っているかによって決定されている」という考え方とつながっている。ロジャーズはカウンセリングにおいて「内的照合枠からの理解」が重要であると言いました。「内的照合枠からの理解」とは、一人ひとりが認知している世界を、その人の認知の仕方で理解することです。つまり、その個人の世界の受け取り方を理解して、その人を取り巻く様々な関係を内側から理解していこうとすることです。(第405回より)
要するに、この話でいえば、二つ目である人間は二つ目が普通で、一つ目は珍しいと考えている。そのことを理解してクライエント(二つ目)と向き合う、そんなような意味ですかねえ。

二つ目は、二つ目のことしか見えていないんだということを理解するっていうような…
この話では、「二つ目は二つ目の世界しか見えていないので、一つ目に捕まってしまう」ということで、ロジャーズのいう「私たち一人ひとりが見ている「世界」は、私たち一人ひとりが目で見える世界をどのように受け取っているかによって決定されている」ということを具体的に示しているんですね。
落語はその物の見方のおもしろさで笑いを取り、カウンセリングはその物の見方をしていることを理解しクライエントに寄り添うわけです。こんなところで落語とカウンセリングがつながっているのは驚きでした。

師匠に「カウンセリングと関わりのある話を選んだんですか」と聞いてみると、「そういうわけじゃないですよ」と。落語はその「人の思い込み」で笑いを取るものが多いんだそうです。言われてみれば確かにそうですね。
そして子どもたちお待ちかねの「寿限無」。
「寿限無、寿限無、五劫の摺り切れ…」
師匠の「寿限無」に続いて、高砂小学校5年生のN君にやってもらっちゃいました。
これが「うまい!」
会場中、拍手喝采。
N君、ありがとう!

休憩を挟んで、父親から伯父さんの家の新築祝いに行って来るよう頼まれた与太郎が、とんちんかんなことを言って褒めてくるという「牛ほめ」です。
これもまた、大盛り上がり。
普段聞いたことがあるようであまり聞いたことがない「落語」が子どもたちの身近になったように感じました。
いやぁ、舞台の力ってすごいですね。
なかなか売れない息子たちだけれど、人々に笑いや涙や感動を与えることのできる舞台芸術に、二人の息子が携わっているっていうことを幸せに思わなくっちゃね。
(文:大関 直隆)