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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2008/10/20(月)
第330回「文化の違いとグローバル化 その1」
「とにかく全部英語だから何言ってんだかよくわからないんだけど、どうもフランスに来ないかって言ってるみたいなんだよ」
「来ないかってどういう意味?」
「うーん、たぶん留学しないかっていう意味だと思う」
「留学って言ったって、そんなに簡単に留学できるわけないだろっ!」
「うーん、でもたぶんそう言ったんだと思う。スカラシップ(奨学生)でお金はかからないってからって言ってるよって、近くにいたSさんが通訳してくれたから」
「ほんとに?」
「うん、そうみたい」
「それでお前はなんて答えたの?」
「うーん、ニコニコしただけであんまりはっきり答えなかった。あんまり急だったし、“えっ、こんなんで留学できちゃうの?”ってわけわかんなかったんだもん。ちょっと考えさせてくださいって」
「なんですぐ、お願いしますって言わないんだよ!」
「明日まで、大宮のパレスホテルに泊まってるから、その気があるなら連絡してだって」
「えーっ! じゃあ早く早く、パレスホテルにいるうちに“ぜひお願いします”って頼んで来いよ!」
「うぅん」
まごまごしている努の背中を私と妻が思いっきり押して、努のフランス、カンヌのバレエ学校への留学が決まりました。(その辺の事情は、第213回でも取り上げています)

努を誘ってくれたのは、エドワード・クックというアメリカ人で、カンヌのバレエ学校の先生です。後でわかったことですが、どうやら一人ひとりの指導者が何人かの留学生枠のようなものを持っているらしく、指導者一人の決定で、スカラシップで入学が許可されるという仕組みになっているようでした。
「ミッテラン大統領(当時のフランス大統領)の家の方には足を向けて寝られないな。フランスってどっちの方向?」なんて冗談を言いながら、今のダンサーとしての努を費用無しに育ててくれたフランスには感謝、感謝です。

先日、フランスのダディ法相がシングルマザーになるというニュースが新聞に載りました。誰が父親かは公表されておらず、様々な憶測が飛び交っているそうです。シングルマザーとして法相を務めることになるダディ氏は、さすがにフランスでも特異な存在らしく、多くのマスメディアに取り上げられているそうですが、産休明けには無事(?)公務に復帰するとか。

日本でシングルマザーの法相が認められるかと言えば、まず間違いなく無理。努の留学のことと重ね合わせて考えると、フランスという国の自由さが際だちます。これはやはり国民性というか、文化の違いということなのでしょう。別にフランス国民が、いろいろと理屈をつけて海外の留学生を受け入れているわけでもなく(もちろん理屈はあるのでしょうけれど、感覚的にそういうものを受け入れる土壌があるという意味で)、理屈をつけてシングルマザーになるダディ法相を受け入れているわけでもない。

逆に日本はどうかと言えば、ずいぶん外国人を受け入れるようになったとは言え、まだまだ外国人は外国人で、日本人にとってはかなり異質な存在。とても外国人を無条件に受け入れる雰囲気はないし、ましてやシングルマザーの大臣などというものが受け入れられるわけはない。だいたい女性で法相の候補にあげられそうな人は、与野党双方を考えても、今の私に思い当たるのは田中真紀子氏くらいなもの。
そこには大きな文化の壁というものが存在するんだなあと感じます。
厳然とした文化の違いがありながら世界を覆い尽くすグローバル化の波。そんな中での子育て論を次回お話したいと思います。

つづく
(文:大関 直隆)

2008/10/14(火)
第329回「崩れる学校選択制」
学校選択制が揺れています。東京都品川区が2000年に大都市圏で初めて導入して以来、学校の活性化策として急速に広がりましたが、東京都江東区は来年度から小学校については徒歩通学圏に限定する見直しを決定。群馬県前橋市では原則廃止する方針が打ち出されました。

学校選択制とは、公立の小中学校で地元の校区を越え、学校を志望できるようにするもので、規制緩和の一環として、政府部内で検討が始まり、いじめや不登校への対応ということも加わり、品川区の導入後、一気に広がったものです。
ただし、すべての市町村で同様な制度なわけではなく、その形式は以下のように様々です。

A)自由選択制: 当該市町村内の全ての学校のうち、希望する学校に就学を認めるもの
B)ブロック選択制: 当該市町村内をブロックに分け、そのブロック内の希望する学校に就学を認めるもの
C)隣接区域選択制: 従来の通学区域は残したままで、隣接する区域内の希望する学校に就学を認めるもの
D) 特認校制: 従来の通学区域は残したままで、特定の学校について、通学区域に関係なく、当該市町村内のどこからでも就学を認めるもの
E)特定地域選択制: 従来の通学区域は残したままで、特定の地域に居住する者について、学校選択を認めるもの
F)その他

導入した自治体で「よかったと思うこと」は、@子どもの個性にあった学校で学べる A保護者の関心が高まった B特色ある学校づくりができた C学校の競い合いで質が向上した Dその他 の順。
逆に導入していない自治体の「理由」は、@入学者が減り、適正規模が維持できない A地域との連携が希薄 B安全確保が難しい C序列化や格差が生じるおそれ Dその他 の順。

この理由を見ていくと、まるで小泉内閣による構造改革を見ているように思いませんか。政治主導で進められたことですから、当たり前なんですが、導入している自治体は、古い教育制度の殻を打ち破ろうという意識。導入していない方の自治体は、これまでの教育制度の理念を守ろうという意識。そんな雰囲気が見て取れると思います。小泉内閣の弊害として、地方の疲弊や都市部との格差の問題、治安の悪化などが上げられますが、この学校選択制もまったく同様に、ここへ来て、小規模校の疲弊や格差の問題、そして安全の問題がクローズアップされてきたように思います。

学校選択制の導入にあたり、各自治体が大きく見落としていたのは、地域の力です。もちろん地域の崩壊を危惧する意見もあるにはありましたが、弊害として大きく取り上げられるでもなく、学校選択制が広がっていったように思います。私は、この連載で何度となく述べてきたように、子育て・教育には地域の力が必須で、その地域の力が非常に色濃く反映されるのが、学校教育だと思っています。それを大きくゆがめてしまった原因の一つに、学校選択制があるのではないか…。おそらく行政は、地域住民の力を過小評価していたのでしょう。

辞任した中山前国土交通大臣は、わがまま三昧で道徳教育が身についていない子どもたちに対する責任は、偏に日教組にあると言っていましたが、地域という基本的には逃げることのできない「閉ざされた人間関係」の中で、「人」として本来学ばなければならない「妥協」や「我慢」ということを教えることなく、「嫌なら別なところへ行けばいい」というメッセージだけを送り続ける行政の責任をきっちりと見て行かなくてはいけないのだろうと思います。

「人」は、常に選択を繰り返して生きている動物ですから、教育においても「選択制」ということがすべて間違っているとは思いませんが、規制緩和により様々な私立学校ができている今日、大きな視点で教育を眺め、「自由」「義務」「安全」など様々な観点から、公立学校が果たさなければならない役割はなんなのかということを、しっかり考えなければならないときが来ているのだろうと思います。

参考:10月12日 朝日新聞朝刊
(文:大関 直隆)

2008/09/29(月)
第328回「次代の子どもたちに与えるべきものは…」
サブプライムローンに端を発したアメリカの金融危機は、改善の兆しさえ見えず、まだまだ多くの金融機関が破綻に追い込まれるかもしれません。これほどの金融危機は世界恐慌以来、中には世界恐慌を上回るという人までいるくらいです。9月14日の米証券4位のリーマン・ブラザースの経営破綻は負債総額6130億ドル(64兆3600億円)、その後も25日には米貯蓄貸付組合最大手ワシントン・ミューチュアルが経営破綻、さらに米銀行4位のワコビアも経営危機に陥っていると言われており、株価は急落しています。

私も株式の売買を始めてちょうど30年、いろいろな急落、急騰場面を見てきましたが、これほど長期にわたって乱高下する市場を見るのはもちろん初めてで、投資家の不安心理を見事に表現していると思います。機関投資家のように桁違いの資金を扱っているところを別にすれば、株式の売買というのは上がっても、下がっても儲けを出す方法はあるので、株のベテランという人たちにとっては、儲けるチャンス到来。乱高下は魅力的な相場ということになります。前回の長期的な上げ相場の時、30万円を5年(?)で数十億円にしたという若者が話題になりましたが、おそらく彼などは今や売買の規模を数百億円にしているのではないかと思います。

日本の株価は、ライブドアショックや村上ファンドの崩壊というあたりからおかしくなりました。その後一旦持ち直しますが、サブプライムローン問題が表面化し、再び急落。今に至っているわけです。しかし、それまでの株価は、2003年4月30日のバブル後の最安値7603円76銭を底に、順調に推移していて、昨年2月28日には1万8300円39銭と約2.5倍になりました。
小泉内閣の構造改革路線は、金融機関の不良債権をなくし、景気浮揚に一定の成果はありました。けれどもこの間、規制緩和により様々なものが教育の現場に持ち込まれ、子どもたちに大きな影響を与えるようになりました。

最近よく耳にするファイナンシャルプランナー。暮らしとお金についてのプロですから、けっしてそれ自体悪いわけではないのですが、竹中平蔵氏のアメリカを手本とするような経済政策による様々なファンドの台頭は、ファイナンシャルプランナーを中心として、学校教育の中で株式の売買を教えるということにまでなりました。
お金を回せばお金が生まれる、そんな考え方で、経済を回そうとしているように感じます。今のアメリカに象徴されるような「証券化」を中心とした錬金術は、お金を回すということがその柱です。頭と神経は使いますが、よく言う「額に汗して働く」というのからはほど遠い感覚です。もちろん人間は少しでも楽にお金を儲けようと考えるのは当然ですから、仕方のないことですが、そこには「労働による創造」と「労働の価値」がありません。「創造」無しに生み出したお金は実態がありませんから、いつかは必ず崩壊し、今回のような金融危機を招きます。

私も、30年も前から当時100万円以上したパソコンを使って、株式の売買をしてきましたので、株の売買を資産運用と考えることに、多くの日本人よりは前向きだと思います。けれども果たして学校で教えなければならないようなことかといえば「否」です。本来子どもたちに教えなくてはいけないのは、「お金の価値」すなわち「どうやってお金を儲けるか」ではなく、「労働の価値」すなわち「働くことによる創造の喜び」です。

今回のアメリカでの金融危機を教訓に、学校教育では子どもたちに「働くということの意味」や「働くということの喜び」をしっかりと教えてもらいたいと思います。カウンセリングに訪れる若者を見ていると、労働を単純にお金に置き換える傾向が強いように感じます。そしてそのことが、「自分のやりたいこと」を見えなくしているようにも感じます。「なぜ働くのか」という命題を子どもたちに与えることが、若者の活気を取り戻すキーになるのではないか。アメリカの金融崩壊は、そんなことまで考えさせました。
(文:大関 直隆)

2008/09/22(月)
第327回「だれの利益を考えて行動するか」
「いったい何考えて行動してるんだよ!」
具体的に何についてどうすればいいのかわからないので、怒り方としては最悪。
でも、そんな怒り方をしたくなるくらい腹が立つことって、ありますよね。何がどうのこうのじゃなくて、とにかくやってることすべてが気に入らないんだよ、みたいなぁ…。

先日、私も陶芸教室のスタッフにやってしまいました。
陶芸教室にも様々な形態の教室があります。うちのように一応会社組織になっていて、「教室」ということをビジネスとしてやっているところ、自称作家が、不安定な収入をカバーするため作陶の合間に近所の人たちを中心に集めて開いた小規模なところ、陶芸好きな仲間が集まって外部から講師を招いて運営しているところ、などなど。
うちの教室のような「教室業」は、まあサービス業。会員の皆さんにいかに楽しんでいただくかが問題で、物を作ったり、物を売ったりしているビジネスとは違い、ある意味で、品質(陶芸の技術)よりも、「接客」(お茶を入れたり、様々なお世話をしたり)に重きを置かなければならない部分もあります。そう割り切れていればいいんですが、「教室」というのは「教育産業」の端くれ(現に陶芸の学校というのも存在するわけだし、私も専門学校の講師をしていた)という要素もあるので、これがなかなか難しい。

どんなに若いスタッフでも、70歳、80歳の方たちに「××先生」と呼ばれるので、ついつい天狗になって命令口調になったり、威張ったりということになってしまうわけです。以前、カルチャーセンターが新たに開講するとき、陶芸の希望者があまりに多いので、いきなり7講座を開講することになったことがありました。うちの講師が2講座、うち以外の講師がそれぞれ2講座と3講座を受け持つことになりました。幸いにしてうちから派遣した講師のところではないのですが、開講初日、年配の男性が2時間の講座の途中で怒って帰ってしまうという事件が起こりました。講座が終わるとその男性のそばで受講していた女性二人が受付に来て、
「あの男性、一生懸命作っていたんですけど、他の人と比べるとちょっと時間がかかって、しかも先生の言う通りうまくできなかったんです。そうした先生が男性に向かって“あなた不器用ねぇ”って言ったんですよ。それで男性は怒って、出て行っちゃったんです」
と、ことの一部始終をカルチャーセンターの店長に話していました。もちろん、その男性は退会。その講師は、1講座につき30名近い生徒がいる3講座を受け持っていたにもかかわらず、どんどん生徒がいなくなり、半年(月2回の講座ですから半年で12回)保たずに3講座ともなくなってしまいました。
陶芸の講師には、こういう人が多いですね。完全にサービス業としての意識を欠いてしまっている。

さて、私がうちのスタッフに対して怒り心頭だったのは、粘土の整理の仕方と道具の使い方についての注意書き。粘土を販売するのに、粘土を棚から出しっぱなしにした方が販売しやすいのですが、その上が作品を乾燥させるための棚になっているので、会員さんは作品を置きにくくなってしまうのです。ところが、粘土は常に出しっぱなし。道具の使い方について、「使ったあとはきれいに洗ってしまいましょう」と貼り紙がしてある。スタッフの立場からすれば、その方が楽で効率がいいということになるのでしょうが、うちが会員の皆さんに売っているは「陶器の作り方」と「楽しく過ごせる時間と空間」。「気分を害することがないよう心がけること」そのものを売っているわけです。にもかかわらず物事が会員の皆さんのためでなく、スタッフが楽になるよう展開されていく。それはどう考えてもサービス業にはふさわしくない。

土曜日に、孫の通う小学校で運動会がありました。台風が接近しているということもあって、予報は朝まで雨。運動会ができるかできないかは微妙な状勢でした。孫二人は、バスタオルで1メートルもあろうかという大きなてるてる坊主を作り、カーテンレールにぶら下げていました。その甲斐あってか、開始時間を15分遅らせて開催することに。そこまではよかったのですが、開始をたった15分遅らせただけで、午前中に予定されていた未就学児の競技をカットしてしまったのです。未就学児の競技といえば、来年入学する子どもたちと学校との信頼関係を築くための最初の機会。カーテンレールにぶら下げた大きなてるてる坊主には、リレーの選手に選ばれた1年生の蓮(れん)の願いはもちろん、来年入学する沙羅(さら)の未就学児の競技に対する期待も込められていたのに。

未就学児の競技が近づくと、わざわざ靴を替えに家まで行ったお子さんもあったとか。ところが突然放送が入っての中止。時間を遅らせたくないという学校の考えもわからないではないですが、未就学児の競技をカットしてまでたった15分の時間を守ろうとする必要があったのか。そこには、「誰のための運動会」という意識が完全に欠落しています。もちろん在校生が中心なのは当然ですが、たった15分。校長の話、PTA会長の話、あまりに抽象的な競技に対する諸注意、長々とした市長からの電報、PTA競技等々。はしょろうと思えばはしょれるものはいくらでもあって、15分を浮かすことなどわけはないことなのにです。

私は仕事で、中止の瞬間にはその場にいなかったのですが、娘が校長と教頭に猛抗議をしたらしいのです。午後の競技に間に合って私が来賓席(元PTA会長なので)に着くと、まもなくPTA競技が始まろうとしていました。校長と教頭が、
「小さい子どもさんたち、いるかなあ?! 玉入れやるよぉ!」
と本部の周りの子どもたちを集め始めました。未就学児の競技は午前中に予定されていたので帰ってしまった子どもたちも多かったようですが、一人、二人と集まりはじめ、結局20〜30人の子どもたちが集まって、玉入れをやりました。靴を取り替えに行ったお子さんも無事参加することができました。

教育というものは誰のためのものなのか、ちょっとでも気を許すと、「子どものための学校」ではなく、「学校のための子ども」になりがち。学校は、サービス業ではないけれど、「誰の利益を考えて行動するのか」、常にそれを考えて、学校運営を図ってもらいたいものです。
何はともあれ、未就学児に運動会に参加する機会を与えてくれた、校長、教頭に感謝です。
(文:大関 直隆)

2008/09/16(火)
第326回「第3次不登校ブーム到来の予感 その3」
不登校の問題は、大きく変わろうとしています。最近の不登校の状況は、明確な「いじめ」の問題を除いて、学校の問題というよりも、親子の関わりの問題が大きくなってきているように感じます。

コミュニケーションスキルが身についていない子どもたちも増えていて、「自分のやりたくないことはしない」「自分の気に入らない子とは付き合わない」という傾向がどんどん強くなっています。コミュニケーションスキルの欠如を補うために、学校の授業でスキルを教えるところも増えてきていますが、どうもこれはナンセンス。学校というところは閉鎖性が強いうえ、常に上から目線で人と接するという教員という職業の特殊性は、人と人とのコミュニケーションを教えるにはどう考えても不向き。上から目線で一律にマニュアル化されたスキルを教えるだけで、スキルが身につくはずもなく、むしろ「教えるということ」で、画一化されたスキルを覚えるということにとどまり、様々な相手に対応する自分自身の適応力を阻害するということにもなりかねません。

コミュニケーションスキルは、まず親や兄弟、隣近所といった身近な人たちとの間で何度も失敗を繰り返しながら身につけるべきものだと考えますが、最近、過保護というレベルをはるかに超えた「親の過干渉」という状況により、身につけることが困難になっていると言えます。

前回も述べたように、親子の距離がとても近く、子どもの自立を妨げています。距離が近いというのは、仲がいいということとは違います。親は自分の希望通りに行動することを子どもに要求し、子どもは親を喜ばそうと、親の要求に応えるよう行動するということであり、子どもは自分の欲求を満たそうと親に要求し、親は子どもが満足するよう子どもの要求に応えるということです。

例えば、有名私立校に入ってもらいたいと期待する親とそれに応えようと努力する子ども。また「××したらゲーム機を買って!」という、ただのわがままとも取れる子どもの要求に応えて、ゲーム機を買ってやる親。こういった状況は、「努力をする」「買ってやる」という「行為をする側」に主体性がなく、不登校の下地を作ってしまう危険性をはらんでいます。
子どもの自立には「行動における主体性」が欠かせません。不登校やニートで悩む人の親子関係を見ると、ほとんどのケースで親の「先回り」が見られ、子どもの主体性は置き去りにされています。「今の学校、僕には合わないからやめたい」と子どもが言えば、行きたい学校を子ども自身で見つける前に、「この学校なんて楽しそうだよ」「この学校だったら友達できるんじゃないかな」と先回りして次の学校を探してしまう親。
ダイエットをしたいという子どもに、子どもが自分自身が見つけるダイエット方法は危険だと、スポーツジムや自分が見つけたダイエット法を子どもに勧めてしまう親。不登校で外に出ない子どもを何とか外に連れ出そうと、高級レストランでの食事やディズニーランド、果ては海外旅行にまで子どもを誘ってしまう親。
母親の力だけでは、子どもが言うことを聞いてくれないと思うと父親までかり出して、親の言うことを聞くようにし向けます。「父親にまで言われたんじゃ、行ってやるよ」あるいは「こんなに親が言うのに行ってやらないとかわいそう」と、まるで主体性なくジム通いをしたり、ディズニーランドや海外旅行に行くことになる。
親御さんのお気持ちはよくわかるのですが、そういった行動で満足しているのは、子どもではなくて(無責任でいられるので子どももそれなりに満足はしているのですが)、実は親御さん自身なのだということになかなか気づかない。行動パターンが逆転すれば、不登校もニートも必ず直るのに、親も子も行動パターンを変えようとはしない。お互いに相手のそういう行動を必要としている、まさに共依存ということです。そこから抜け出すには、覚悟を決めて、親子の物理的距離を離してしまうことなんですが、2〜3カ月、親がセットをして子どもを離したところで、所詮は親の作為。もう子どもとは一生会わないくらいの出来事が偶然起こるといいのですが…。

不登校やニートは親の力では直りません。そういう傾向があると思ったら、ご両親はすぐに子どもと関わることをやめてください。うちにご相談にみえた方には必ずお話しするのですが、「関わらないという関わり方」をしましょう。
(文:大関 直隆)

2008/09/08(月)
第325回「第3次不登校ブーム到来の予感 その2」
ニートというのは、仕事に就けず(就かず)、職業訓練も受けず、学校にも行っていない15〜34歳の若者を指す言葉であると、前回もお話ししました。

最近、一旦は就職してもその仕事が自分に合わない、あるいは職場の人間関係がうまくいかないということで、軽度のうつ状態になり、休職しているという「中年ニート」世代からの相談が増えています。一旦就職はしていて、企業あるいは地方公共団体といったところに席があるので、「中年ニート」にはカウントされませんが、状態はまさに「中年ニート」そのものなので、「中年ニート」の潜在的数はもっと多いものと思われます。

これは、ニートと定義される世代(15〜34歳)にも着実に増えていて、ほとんどの人が心療内科に通院し、うつと診断されては休職と復職を繰り返しています。
そしてニートも含めて同じような状況にある人たちに共通して言えるのは、「やる気のなさ」です。昔(おそらく今も)、学校の朝礼や卒業式で「やる気・元気・根気」なんて叫んでいた校長先生がいたのではないかと思いますが、そんな校長先生の姿が虚しく映ります。

現在の不登校を考えたとき、この中年ニートやニートのパターンがぴったりと重なることに気づきます。不登校という状況に陥った場合、周りはその不登校という状況をなんとかすべく、まず原因を考え、多くの場合その原因を学校でのいじめに求めます。「いじめられたことが原因で学校に行けなくなった」と。
ところがよく話を聞いてみると、学校でのいじめはほとんどない。お母さんやお父さんは、「いじめられた」と主張し、本人も親御さんと一緒の時には、それを否定するでもなく黙って無表情で聞いていますが、本人とだけ話をしてみると、本人にはいじめられているという認識がない。何か嫌なことがあるのかと聞いてみても「これが嫌」ということがはっきりしない。
一昔前なら、いじめはもちろんのこと、宿題がやってないから行きたくないとか、私の例のように部活動が嫌とか、本人にもそれなりの認識があったのですが、今はまったく状況が違います。

では何が原因かといえば、以前にもこの連載の中で少し述べたようにも思うのですが、一つは「親子の関係が近すぎる」こと。もう一つは、「受け皿が多すぎる」こと。
私が子どものころ、「××ちゃんは一人っ子だからわがままなんだよ」という言い方をよくしました。3人、4人と兄弟がいる子も少なくなく、むしろ一人っ子という方が少ない時代。
今では、兄弟が多いと子どもにしっかりと手がかけられないから子どもは一人と考える(あるいは経済的に二人は無理)夫婦が多い時代。けっして一人っ子だから不登校になるということではありませんが、世の中の状況として必要以上に子どもに手をかけられる(あるいはかけたがる)ようになったということ。
しかも夫婦の関係が希薄になり、本来夫や妻に向かうべき愛情が子どもに向かってしまう。あるいは、よくテレビで見かけるスポーツ選手親子(これは非常に特別な例で一般的には当てはまらないのに)のように、親子の距離が近いことがいい親子と勘違いをしている。

最近、腕を組んだり、手をつないだりして買い物をしている母娘をよく見かけます。本来外に目が向くべき年齢に達しても、家族の方ばかりに目が向いてしまい、なかなか外に目が向かない状況。経済的にも豊かになり、いつまでも子どもを養い、また子どもも養われていたいと考える状況。そういった社会状況が、親を頼り、やる気のない、働かない若者を生み出していることは明らかです。朝の通勤通学時間帯に南浦和の駅前交差点で信号待ちをしていたとき、セーラー服を着た女子高生が中年の男性と手をつないでいるのを見ました。見たことのない光景だったので、
「はっ!?」
と目を疑い、はじめは「あれはパパ(パトロン)?」と思いましたが、18歳未満との淫行はかなり厳しく取り締まられている現在、そんなわけもなく、さらによく観察してみるとどうやら父娘のよう。ここまで父娘関係は近くなったんだなあとさすがに驚きました。
親子の関係がそれだけ近いと、お互いに他人と関わるよりも楽ですから、なかなかそこから出ようとはしません。最近の不登校の傾向として、「学校が嫌」というより、「家がいい」という傾向がどんどん強くなっているように感じます。

つづく
(文:大関 直隆)

2008/09/01(月)
第324回「第3次不登校ブーム到来の予感 その1」
さいたま市周辺の公立小中学校は、今日から2学期。お子さんは、楽しく登校できましたか?
皆さんご存じの通り、5、6月と9、10月は不登校が増加する時期です。4月に入学、進級して、新しいクラスになると学習の中身や環境、人間関係が変わり、それに適応できない子どもたちが不登校になります。うちの研究所へも多くの新しい相談が寄せられます。この時期というのは、「学校へ行けない」あるいは「会社へ行けない」という訴えが他の相談に比べ特出していて、「変化に対する適応」ということの難しさを窺わせます。

不登校というのは、ずいぶん前からありました。というより、「学校」というものが存在すれば必ずあるのかもしれませんが、「不登校の中身」(どういう理由で、どのような形の不登校になっているかということ)は、その時代とともに変わります。私も中学1年生の時と高校2年生の時に学校に行けないという状況になったことがあります。
中学の時は、ちょうど今の時期で、夏休み明けから1カ月ちょっとの間、学校を休みました。なぜ休みだしたかというと、夏休み中の部活。それまでサッカー部に所属(以前にも述べましたが、現ガンバ大阪監督の西野朗監督や現日本代表コーチの加藤好男君も所属していました)していましたが、どうもサッカー部のやり方が肌に合わないというか、自分の性格とサッカーというものの持っている荒々しさというか、そういうものがしっくりこなかったように思います。
厳しさについていけなかったと言えば、そうも言えるのかもしれませんが、その後転部したバレー部(県大会で6連覇していた強い部でした)はある意味サッカー部以上に厳しい部で、そこでエースアタッカーをやらせてもらっていたので、単純に厳しさについていけなかったというのも正しくないように感じます。
祖母がどこかの神社へお参りに行って天井にお札を貼ったり、もちろん病院にも連れて行かれて、「胃アトニー」とかいうわけのわからない病名をつけられたりもしました。あえて病気と言えば、病院で血圧を測ったら「上が70 下が40」でしたので、とってつけたような言い方をすれば「低血圧」ということになるんでしょうか。

高校の時は、2年生に進級した4月1日、交通事故で2週間ほど入院し、それから6月くらいまでぐずぐずしていました。この事故は妻への気持ちの転換点になった大きな出来事だったので、メンタルなことが心の中心にあり、心が不安定になっていたことがあったり、自転車同士の事故だったんですが、道路に投げ出されてむち打ちがひどかったので、身体の不調ということも本当にあったんだろうと思います。

昨日の新聞に、「増える中年ニート」(35〜44歳)という記事が出ていました。ニートというのは、仕事に就けず(就かず)、職業訓練も受けず、学校にも行っていない15〜34歳の若者を指す言葉ですから、「中年ニート」という言葉は、正確には正しくありません。この記事はニートという定義を説明した上で、あえて定義の年齢を外して「中年ニート」と言っているわけです。
このあたりの年齢層(我が家の長女と長男の世代)というのは、団塊ジュニア世代で、「第一次不登校ブーム」(今だけ使っている私の言葉です)に育った世代です。このころ不登校は、学校の管理教育からはじかれた子どもたちで、「不登校になる子の方が感性が豊かなんだ」というような言われ方をしていました。
まるで、管理教育に順応して学校に行けている子どもたちは「悪」で、行けていない子どもたちが「善」のような言い方で、少し変ですね。そういう発想だったせいか、行けていない子どもたちの意思に重きを置いて「登校拒否」というのが一般的でした。学校や社会の対応もまちまちで、「無理矢理学校に行かせる派」、「隔離して鍛え直す派」、「そっと見守り本人の行動を待つ派」と分かれていました。このころ起こったのが、戸塚ヨットスクール事件です。その世代に、中年ニートが増えているというのです。

つづく
(文:大関 直隆)

2008/08/25(月)
第323回「子どもたちにつなぐ平和な未来を願って」
北京オリンピックも終わってしまいました。時差が1時間しかないので、日本の私たちにとっては、眠気をこらえなくていいオリンピックでしたけれど、なんと言っても大国アメリカの放映権料の問題で、水泳の決勝が午前中だったり、球技や陸上の決勝が夜11時過ぎだったりと変則的で、すべて「金(かね)金(かね)金(かね)」ということを印象づけたオリンピックだったように感じます。

開会式の花火の映像がCGであったり、子どもの歌が口パクであったりしたことも、「当然の演出」と簡単に言ってしまうあたりは、文化の違いもあるのかもしれませんが、日本人にはなかなか理解しがたい部分ですね。開会式は史上最多の204の国と地域の参加ということもあり、あまりの入場行進の時間の長さに耐えきれず、日本の入場までは何とか頑張っていたものの、とうとう寝てしまい、気づいたときは、もう中国。
「ありゃ、アメリカは?」
と言っても後の祭り。もっとも大国の入場行進は、必ずニュースでやるので、あとで見られたには見られましたが、ニュースで見たんじゃ、やっぱり緊張感がないですよね。
閉会式もほぼすべて見ましたけれど、やっぱり一部が欠落しているような感じです。どうやらなんとなくウトウトしていたようで…。ちょっと長すぎるんじゃないですかね。

今回の開会式、閉会式を見ていると、中国の威信をかけたオリンピックだったということがよくわかります。とにかくお金のかけ方が半端じゃない。何から何まで大げさ。オリンピックというのは本来ドキュメンタリーの極みであるはずなのに、すべてがフィクションに映ってしまい、正直ちょっと興ざめでした。前回のアテネがオリンピックの「原点に帰ろう」という雰囲気であっただけに、かなり違和感を感じるものでした。
「これでもか、これでもか」という演出は、見ていて疲れてしまったし、実際に競技をする選手が主役ではなく、「中国」という大国そのものが主役の座にあったように思います。閉会式の派手な演出を見れば見るほど、温暖化により沈みゆく国を思い、この瞬間にも命を失っている多くのアフリカの幼い子どもたちを思い、どこか人間の向かっている方向は間違っているのではないかという気持ちが湧いてきてしまったのは私だけでしょうか。

キューバのテコンドーの選手が判定を不服として審判を蹴って、永久資格停止処分になり、またレスリングで銅メダルを獲得したスウェーデンの選手は、やはり判定を不服として、銅メダルの授与を拒否。マット中央に銅メダルを置き、表彰式の会場から立ち去りました。そしてオリンピックとはまったく別な場所では、まさにオリンピックの開会式のタイミングに合わせ、ロシアがグルジアを攻撃しました。何もないときであれば、連日大きく報道されるような問題ですが、どこのチャンネルのニュースを見ても、メインはオリンピックでの日本選手の活躍の様子ばかり。見ている側の気持ちもオリンピックぼけで、グルジアの問題が流れても、「へーっ、軍事衝突してるんだぁ」といった程度の感覚。開会式のタイミングに合わせたロシアのグルジア攻撃を中国も抗議しましたが、ロシアがオリンピックのタイミングをねらったことは明らか。ことさら、民族や国境を越えての世界の融和を訴えた開会式と閉会式が虚しく映りました。

そんな中でも、エアピストルで銀メダルを獲得したロシア選手と銅メダルを獲得したグルジア選手が抱き合ったり、ビーチバレーで対戦したロシアとグルジアの選手も抱き合ってお互いの健闘をたたえました。男子マラソンでは、給水に失敗したケニアのワンジル選手に、接戦を演じていたエチオピアのメルガ選手(たしかそうだったと思うのですが)が自分のスペシャルドリンクを手渡すという心温まる場面もありました。それをきっかけにするかのように、ワンジル選手がスパートし、ワンジル選手は金メダル。メルガ選手はメダルものがして4位。こんなところにかろうじてオリンピックらしさもあったのかなあ…。

次回はロンドン。オリンピックが子どもたちの夢をつなぐ平和の祭典であることを心から望みます。
(文:大関 直隆)

2008/08/18(月)
第322回「親の態度が子ども決める」
「あなた、この間から鰻が食べたいって言ってたでしょ?」
「そうそう。この前も近くの鰻屋へ行ったんだけど、満席で入れなかったんだよ。お昼の混みそうな時間はちょっと外して行ったんだけどね。ここのところ2回続けてだよ。やっぱり夏は鰻っていう人多いのかねえ??? さすが(鰻消費量日本一の)浦和って感じだね」
「じゃあ、食べに行く? とにかく今お座敷取れるか訊いてみようか?」

というわけで、行きつけの鰻屋さんへ電話を入れると、今日はお座敷が取れないとの返事。今日は、孫もいないのに椅子席の食堂というのも風情がないから、お座敷で食べられるところということで、普段はあまり行かないちょっと離れた鰻屋さんへ行くことになりました。

入り口を入ると右側に伸びている広い長方形の和室にテーブルが5台。片一方の長辺に3台、もう一方の長辺は入り口があるため2台。私と妻は入り口側長辺の奥のテーブルに座りました。

ここは浦和近辺では最も安い(私の感覚ではそうだと思う)鰻屋です。私たちが行ったときには、私たちが座ったテーブルとちょうど対角の位置のテーブルに3人連れのお客が入っていただけで、あとのテーブルは空いていました。
「この鰻が2匹入ってる鰻重でいいよ。数量限定だし、2匹入って2千円以下ってかなり安いじゃん。たぶん鰻が小さいんだと思うけど」
「でもちっちゃい鰻じゃ脂乗ってないんじゃないの?」
前にも一度取ったらあまり美味しくなかったような気がしてやや迷いながらも、結局二人ともそれを取ることにして、鰻重が来るのを待っていると、小さい子どもを連れた夫に初老のおじいさんという4人のお客が入ってきて、隣の席に着きました。

そろそろ食べ終わるというころ、妻が私に、
「隣のおじいさん、あの夫婦のどっちの親だと思う?」
と聞きます。私は、それとなく隣の家族を見る(おじいさんは私のちょうど真横に座っているので横顔だけで表情がよく見えないのですが)と、おじいさんの鼻と女性の鼻がよく似ているので、一旦
「女の人のお父さんじゃないの」
と言ってはみたものの、ちょっと観察してみると、おじいさんの左隣に座っているのが男性、その男性の前に座っているのが女性、そしておじいさんの前には小さい孫。しかも女性は、食事の間中足を崩さず正座をしていることから、
「違う、違う。あれは男性の方のお父さん。お父さんの鼻が女の人の鼻に似てるからそうかなって思ったんだけど、もし女の人が娘さんならお父さんの隣に座るよね。それにあの女の人ずっと正座してるし、姿勢を崩してないからあれは男の人のお父さん」
と言いました。
「そうそう、そうだよね。私も男の人とお父さん、似てないなって思った。きっとお母さん似なんだね。さっき話してる声が聞こえてきたら、“〜です”ってお父さんに対して全部丁寧語使ってたから、男の人のお父さんだよね」
「たぶん、そうだと思う」
「あのお子さんもおとなしいよね。2歳くらいかなあ? あんなに小さいのに声もしないよ」
「そうだね。お母さんが正座して、姿勢を崩してないから、そういうせいもあるんじゃないかな。お母さんがおじいさんにも丁寧に接してるしね。さっき帰ったけど、あっちのテーブルに3人連れのお客(対角の位置にいた客)いたでしょ。つい立てがあるから体全部は見えないけど、座布団2枚使って足を通路の方に伸ばして座ってて、つい立ての脇から素足が見えてたの。つい立てがあるから他のお客にあまり気を遣わないんだと思うけど、さすがに裸足が見えるとあんまり感じのいいもんじゃないね。もし、あのグループに小さい子どもがいたら、騒がしかったかもよ。たぶん、隣の子どもみたいじゃないと思う」
「そうだね」
小さい子どもはいなかったので、何とも言えないけれど、たぶんその通りになるんじゃないかな???

子どもは親を見て育つもの。親がどういう態度で、生きているかは子どもに忠実に反映します。子どもがどうにもならないとき、ただ子どもを叱るのではなく、一番反省しなくてはいけないのは親ということですね。
(文:大関 直隆)

2008/08/11(月)
第321回「ほんとにメダル候補?」
「今度のコースはね、距離が短いし、ラフも深くないから、それなりのスコアで回れると思うよ」
「いくつくらいで回れば、予選通るんだよ」
「76くらいがカットラインかな」
「それでおまえは、いくつで回れるの?」
「74、5くらいでは回れると思うよ。練習ラウンドはパープレイ(72)だったしね」

ゴルフをやっている翔(かける)が高校生の時の会話です。
ゴルフは1ラウンド18ホールで、おおよそ72打(コースによっては72でない場合もあります)を基準(これをパーと言います)に、72よりも少なければアンダーパー、多ければオーバーパーと言い、打数を競います。もちろん少ない方が勝ちです。
ここで、「76くらい」と言っているカットラインを4オーバーと言います。それよりも少なければ予選通過、多ければ予選落ちということになります。カットラインの決め方は、あらかじめ決められた打数なわけではなく、予選通過者の数が決まっていて、上位からその人数に達したところのスコアで切るので、その日の全員のスコア次第で上下することになります。(ゴルフを知らない人にはわかりにくくてすみません)
試合から帰ってきた翔は、かなり落ち込んでいます。

「ダメだった。カットラインは77だったんだけど、おおたたきしちゃった。アウト(前半)が40、イン(後半)が42で82だった。」
「10オーバーかよ。何やってんだか…」
「ショットは曲がっちゃうし、パットも入らないし…」

翔はすっかりしょげていました。
おそらく翔の実力から言って、そんなものだったんでしょう。人は、どうしても自分の力を持っているもの以上に感じたいので、自分に対する評価は甘くなりがちです。周りの期待も同様ですね。私も予選くらいは当然通るのかと思っていました。

オリンピックが始まりましたが、いつものように報道は過熱するばかり。すべての競技で金メダルがねらえるような報道ですが、これもいつものようにふたを開けてみると惨敗の連続。もともと力が世界のレベルまで達していないことも多く、にもかかわらずマスコミがやたらとメダル奪取を強調するものだから、選手にのしかかる重圧というものはすごいものだともいます。

メダル第1号を目指した女子重量挙げの三宅宏実選手。埼玉栄高校で、翔の2年先輩ということもあり応援していたのですが、メダルを逃し6位に終わってしまいました。とても残念です。私が子どものころ見た三宅義信氏と三宅義行氏は強かった。名門一家の重圧というところでしょうか。テレビ朝日が松岡修造氏をつかって取材をしていましたが、松岡氏の勢いではまるで金メダルを取るのが当然といった様子。確かに応援する側からすれば、金メダルを取ってほしいと思うものですが、優勝した中国の陳選手の実力からすると、他の選手が優勝する可能性は、陳選手にアクシデントがない限りほぼゼロ。視聴率を考えると、「金メダルは陳選手で決まっています」なんて言ったらだれもテレビを見なくなっちゃうので、そういうわけにもいかないのでしょうけれど、朝日新聞の記事によれば、「1カ月前、母育代さんに打ち明けた。「私、最近眠れないの」。2時間おきに目が覚めた。夢の中でもバーベルを持ち上げている。― 中略 ― そのころは、練習も最悪状態だった。自己ベストの80%ぐらいの重さでも落としてしまう。「怖くてシャフトに触れなかった」。練習場の片隅で泣いた。目標の重量に追いつけない焦り。競技を始めてから書き続けてきた練習ノートも1週間、空白が続いた。「話しかけると泣きそうだから」と父でコーチの義行氏が話しかけることもなくなった」そうです。筋肉もそげ落ち、体重も軽くなって1回目の試技の重量を下げざるを得なかったとか。難しいことですけれど、もっと楽な気持ちで力を出し切ってほしかったですね。選手にとってはそれもまた強くなるために必要なことなのかもしれませんが。三宅選手には次を目指して頑張ってほしいです。

スケールは小さいですけれど、これと同じようなことが、受験の時には子どもの心の中で起こっています。「受かってほしい」「受からないわけはない」という親からの重圧。三宅選手のお父様は、「話しかけると泣きそうだから」話しかけなかったそうですが、受験の重圧に負けそうになっている子どもに、普通の親は「そんなことじゃダメ」と叱咤激励しますよね。行き過ぎは禁物。親の期待は親の期待、子どもの実力は子どもの実力。それを冷静に見つめる目が、親には大切ですね。川口の父親殺傷事件は、それがわからなかったのかもしれません。
(文:大関 直隆)