大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2006/10/10(火) |
第230回「政治の責任」 |
車を止めて、テレビのスイッチを入れると、自民党衆議院議員で元文部大臣の鳩山邦夫氏の顔が、アップで大きく映し出されていました。
「教育の現状についてどうお考えですか?」 「今の子どもたちは幸せそうじゃないね」 「教育改革については、どう思われますか?」 「私が週休2日制を導入したので、ずいぶん悪く言われましたよ。子どもにとって、大事なのは、いろいろなことを学ぶこと、体験が大事なんじゃないかな。教科のことばかり教えていてもね。“やろう!”っていう意欲が湧くような教育をしないとダメですよ。“再チャレンジできる世の中を作る”といったって、それには“やろう!”っていう意欲が必要なわけで、それがないから今のようにニートが増える。子どもにはいろいろな体験をさせて、意欲を育てたいですね」(記憶をたどっているので、少し言葉が違うかもしれません。ニュアンスだけ取ってください) そんなことを語っていました。基本的には大賛成です。子育て・教育における体験の欠如は、“やる気”が育ちません。“やる気”というのは、もちろん教科における学力とも密接に関係するわけで、どんなに教え方のうまい教師が“教える”というテクニックだけを駆使して教えても、子どもに意欲がなければ学力もつきません。しかも、“競争”ということを“エサ”にやる気を引き出したのでは、競争に負けたときや勝ってしまって先がなくなってしまったときの反動が大きい。“競争”というのは、目先有効であっても、目的が非常に矮小化しているので、それだけではそう長くは意欲が持続できない。もっと人間の根本の部分から意欲を引き出さなくては・・・。 鳩山氏の考え方は、そういったものだと受け止めました。 文部科学省はゆとり教育を改めようと、大きく舵を切りました。ここ1、2年の方向転換は、まさに180度。教育現場の混乱もかなり大きなものになっています。長期にわたった小泉内閣から、安倍内閣にバトンが渡されました。経済界からは、「改革なくして成長無し」の言葉の元、構造改革の継続を望む声が数多く出されているようです。現在政府が進めている“改革”の是非はともかくとして、経済政策の継続性はとても重要なことです。誰が考えても当然のことです。 教育に継続性は無用なのか。 安倍内閣の発足により、今度は小学校における英語教育の方向性が180度変えられようとしています。前任の小坂大臣は「柔軟な児童が、英語教育に取り組むのは否定すべきことではない」と、必修化に前向きな姿勢を示していました。ところが今回就任した伊吹大臣は、「私は必修化する必要は全くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と話し、否定的な見解を示しました。小学校の英語の授業をめぐっては、文科相の諮問機関である中央教育審議会の専門部会が今年3月、5年生から週1時間程度の必修化を提言、中教審で議論が進められています。にもかかわらず、大臣が替わる度にこんなことが起こっていいのでしょうか。 必修ということに限って言えば、私はどちらかというと伊吹氏指示ですが、それはともかくとして、教育行政の変わり様は、いつも180度。これで、健全な教育が行われていると言えるのか、はなはだ疑問です。教育行政の中身が、文部科学相の個人的な好みによって左右されている現状は、とても憂うべきことです。何が子どもたちにとって最善か、もっと現場を重視し、長期的なビジョンをもって政治が進められることを強く望みます。 |
(文:大関直隆) |
2006/09/25(月) |
第229回「子ども動物自然公園」 |
一昨日(23日)何年ぶりかで、東松山にある「埼玉県子ども動物自然公園」に行ってきました。25年ほど前に妻と私が生活を始めたころ、子どもを連れてよく遊びに行ったところで、私たち家族にとっては、他の場所とはちょっと違う特別に思い出深いところ、聖地です。娘の麻耶(まや)は、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)を連れて何度か訪れているようですが、私が最後に行ったのは、いつだったかもう忘れてしまって思い出せないくらい前(確か今19歳になる翔が、お弁当を食べているときに近くにやってきたクジャクを怖がって、お弁当を食べるのを止めて逃げ回った時が最後のような気がするので、たぶん15、6年前? そのあとに一度行ったような気もするけど、よく覚えていない)です。
関越自動車道の東松山インターを出て、鳩山方面に向かうと10分ほどで公園に着きます。駐車所に入ったとたん、 「ああ、ここだ、ここだぁ!」 と何とも言えない気持ちが込み上げてきました。ちょっと大げさに思うかもしれないけれど、ここにはそれくらいの思い入れがあります。当時の写真がアルバムに貼ってありますが、まだまだ経済的にも生活は不安定、夫婦の年齢は16歳も違う、その上私とは血のつながりのない子どもがいる、普通の家族と比べると、そうとう危なっかしい船出をした私と妻にとって、浦和レッズにとっての駒場スタジアム(レッズファンには怒られそうですが)のような、わが家の歴史はここから始まったと言ってもいいくらいの、そんな場所です。 入り口を入ってすぐの水の流れの中に建つ動物のモニュメント。 「ここで撮った写真あるよね」 そこから真っ直ぐ進むと、左側にポニーの乗馬コーナー。 「真(まこと)も麻耶も怖がって乗らなかったんだよね」 さらに真っ直ぐ進むと大きくそびえる「天馬の塔」。 「ここで翔とお弁当食べてたら、クジャクがそばに寄って来て、翔が逃げ回ったっけ」 行く先々で思い出がよみがえってきます。 牛の乳搾りができる乳牛コーナー、実物大のモニュメントがある恐竜コーナー、中に入っていろいろと楽しめるこどもの城。初めて訪れたときには、まだなかった東園。20年ほど前に、そのころ日本ではまだ珍しかったコアラが来て、見に行きました。当時と比べると、動物の種類も増えて、ずいぶん整備されたなあという感じ。カンガルーコーナーでは、放し飼いの状態で、手の届くところにカンガルーがいるし、園内全域にマーラ(げっ歯目 テンジクネズミ科)とクジャクが放してあるので、「動物を見る」という動物園とは違い、「動物と共存」するということを肌で感じることのできる動物園だと思います。 一昨日は、園で孫と待ち合わせをして、一回りしてきました。とにかく広い広い。ひとつのコーナーから別のコーナーまで相当な距離があるので、コアラとカンガルーを見て、恐竜コーナーへ行って、こどもの城、乳牛コーナーと回ると、数キロを歩くことになります。そんな広い園内に、まだまだ人の数なんてまばら。以前、平日に行ったときは一回りしても数人の人にしか出会うことがなかったのですが、昨日の祭日があの様子だと、今も昔とそれほど変わっていないのでは? 「こどもの城」の内部はずいぶん変わっていました。時代の流れのせいでしょうか、以前は子どもの力で動かすもの(手で回すとか、ペダルをこぐとか)が多かったのに、手で触れると画面が変わる、マウスをクリックしながら画面に映る質問に答えるといった“画面を見る”というタイプのものが増えていました。 一昨日は、久しぶりにずいぶん長い距離を歩きました。とても懐かしく、楽しい3時間あまりでしたが、今日は床に入ってもとにかく足がだるい。日頃の運動不足が露呈した感じです。以前もこんなにだるかったっけなあ??? やっぱり年の流れを感じますねえ。きっと、私の他にも自分の歴史を刻んでいってる人がいるんでしょうね。 |
(文:大関直隆) |
2006/09/19(火) |
第228回「義母の死 その2」 |
義母の手を取っても、握り返す力もありませんでした。ここに妻と私がいるということはわかっているようですが、義母にはすでに自分の意志を伝えるだけのエネルギーが残っていないように見えました。すっかり変わり果てた義母をじっとそばで見つめているのはとても辛くて、私は義母の足の方に下がりました。
しばらくすると、看護師が、先生が話をしたいと言っていると伝えに来ました。日曜日ということで、病院の体制も平日とは違い、看護師の数もほんのわずか、医師も当直の医師でしたが、前回の検査入院の時に撮ったきれいな胸のレントゲン写真と、ほんのちょっと前救急車で運ばれた直後に撮った、胸に水が溜まりすっかり白くなってしまったレントゲン写真を2枚並べて、救急隊からの連絡の時点ではそれほど深刻な状況だと思わなかったということ、ところが病院に着いたときには自分で呼吸ができる状態ではなかったこと、心筋梗塞との判断で取れる限りの処置をしたこと、あと10分到着が遅れたらその時点で亡くなっていただろうということ、そしてここ1〜2日くらいが山、それを持ちこたえられるかどうかで、どちらの方向に進むかが決するであろうということを、丁寧に説明してくれました。 娘の麻耶(まや)が、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)を連れて病院に来ました。麻耶は、昨年義父が亡くなる前の晩、蓮と沙羅を連れて熊谷から川口の自宅に戻っていました。ところが、その日の晩、父の容体が悪化し、急いで麻耶が熊谷の家に来たときには、、すでに義父が亡くなった後だったので、今回はどうしても義母の臨終の瞬間には、自分も立ち会いたいし、蓮や沙羅も立ち会わせたいと、急いで飛んできたのです。そして努を除く、子どもたち全員が、ほんのわずかな間に集まり、それぞれ義母に声をかけました。どうやら義母には、その様子がわかっているようで、それまでただ苦しそうだった義母の顔が、やや柔和な表情になったように感じられました。 月曜、火曜と一旦は義母の状態も改善に向かい、口から人工呼吸器の管を入れているので、しゃべれはしないものの、点滴をしている手をゆっくりと動かし、画用紙にサインペンで字を書いて、意志を伝えられるようにはなりました。 「今の(看護師)は、(処置が)ヘタ」とか「主治医を呼べ」とか「それは何の薬?」とか、声ではなくサインペンで書かれた文字ではあるけれど、いつもの義母らしい会話が戻ってきたので、“ここ1〜2日の山”が、もしかしたらいい方向に越えられたのかな?と期待をさせたのですが、結局火曜日の深夜(水曜日の夜明け前)、息を引き取りました。 最後に画用紙に書いた言葉は、「生か死か?」という言葉でした。とても親切で優しい男性の看護師さんが、義母のベッドでの姿勢を替えに来たとき、義母は、自分が生の方向に進んでいるのか死の方向に進んでいるのかを看護師さんに尋ねたのでした。 「生か死か?」 看護師さんは、義母からサインペンを受け取ると、画用紙に書かれた「生」の文字をはっきりと強いタッチで、何重にも丸で囲みました。義母は小さく頷きました。 結局、その日の晩、義母の異変はその男性看護師さんに伝えられ、医師の必死の心臓マッサージの甲斐もなく、義母は息を引き取りました。義母を見つめる看護師さんの目には、私たち同様涙がいっぱい溜まっていました。 義父もそうであったように、義母の最期も孫や曾孫から何かをもらい、そして何かを伝えているようでした。それまで誰に対しても何の反応も示さなかった義父は、蓮と沙羅が手を撫でた瞬間、「よしよし」とひ孫をなだめるように手を振りました。苦しそうにほとんど何もできないでいた状態の義母も、蓮と沙羅に手を撫でられると、しっかりと蓮と沙羅の手を撫で返していました。一人一人の孫たちにも、自分は死んでいくんだということを、しっかり伝えているようにも見えました。娘や孫、そして曾孫たちに囲まれて息を引き取った義母の顔は、これですべてが終わったというような、今までに見たどんなにきれいな義母の顔よりも、さらにきれいで優しく、穏やかな顔でした。 義母の臨終に立ち会うことができた麻耶や蓮や沙羅は、きっと何かを義母から受け取ったことと思います。昨年、義父を火葬にする話を聞いたとき、「食べるの?」と聞いた蓮は、今回は黙っていました。そして、義母の骨をしっかりと箸で挟んで、骨壺に収めていました。 |
(文:大関直隆) |
2006/09/11(月) |
第227回「義母の死 その1」 |
義父の一周忌を目前にした先週5日(火)、90歳の義母が亡くなりました。
その電話は、先週の日曜日、9月3日、ちょうどこの連載の原稿を打っているときにかかってきました。 「母が救急車を呼んで入院したっていうんだけど、今カウンセリング中であと20分くらいかかるから、終わったときにすぐ出られるように支度してて」 慌てていましたが、ちょっと面倒くさそうな妻の声。 「またぁ?」 「ヘルパーが付き添って救急車で運ばれたって、ヘルパーステーションから電話があった」 「ふーん。じゃあ、そのころ車を持って下にいるから」(駐車場が仕事場からちょっと歩ったところにあるので、急いでいるときはどちらかが先に車を取りに行きビルの下で待機しているのです) 義母は、昨年9月23日に93歳で義父が亡くなってから、一人暮らし。何度も「わが家へ来てください」と話したのですが、「もう少し家の中の整理をしたいから」と言って、朝昼晩と食事の支度にヘルパーに入ってもらって、わが家にはきませんでした。毎週欠かさず1度か2度は妻と私が熊谷の実家へ行き、夕飯の支度をして一晩泊まってくる。ここ1年間、ずっとそんな生活でした。義父が生きているころから5、6回あったでしょうか、義父の面倒を見るのがつらくなったり、こちらにちょっと甘えたくなったりしたときは、「これから救急車を呼んで入院するから」とこちらを驚かせる電話がかかってくるのです。もちろん昼夜かまわずかかってきて、夜中の3時なんていうこともありました。 「わかりました。それで今、どんな具合なんですか?」 と様子を聞き、場合によっては「こちらから飛んで行きますから」と救急車を呼ぶことを待たせたり、あるいは救急車を呼ばせたり・・・。「今行きますから、待っていてください」と言ったのに、熊谷に着く前に病院から「今、救急車で病院に来ましたから」と連絡が入ることもありました。 しかも一週間ほど前に胸から背中にかけてが痛いからと言って検査入院し、一応心臓の様子も見てもらいましたが、結局「肋間神経痛」という診断で、8月27日(月)にたった一週間の入院で退院してきたばかり。それも、いつもだったら大したことがなくても長く入院したがるのに、今回は「もう一週間くらい入院してれば」とこちらから言ったにもかかわらず、どうも同室のメンバーが気に入らなかったのか、看護師が気に入らなかったのか、土曜日くらいから「出たい、出たい」と大騒ぎ。それで退院したいきさつがあったので、またいつもの入院騒動と高をくくっていたのです。 「ヘルパーステーションに電話して、様子聞いといて」 妻との電話を切って、すぐにいつも義母がお世話になっているヘルパーステーションに電話を入れましたが、ちょうどそのとき実家にいたヘルパーが救急車に同乗してくれたこと、そこの会社の専務さんが病院に向かっていて、こちらが到着するまで付き添っていてくださることはわかりましたが、義母の様子はわかりませんでした。病院に電話をすることも考えましたが、救急車で運ばれて間もないので、少し待つことにして、それまで打っていた原稿をそこまでにして、荷物をまとめ、車を取りに行きました。 妻が車から病院に電話を入れると、返ってきた言葉は「心筋梗塞」。義母が自分で救急車を呼び、しかも病院は実家から車で2、3分という距離なのにもかかわらず、病院に到着したときは、自分で呼吸ができなかったと・・・。 「意識はありますが、人工呼吸器を付けて点滴をしています。どなたが来られますか?」 妻と私は、やっと事の重大性を飲み込み、子どもたち全員に連絡をとり、義母の状態を伝えました。 1時間ほどで病院に着きましたが、そこで見た義母は、いつもの母ではなく、人工呼吸器のリズムと一緒に胸がふくらみ、やっとのことで息をしている、まったく動かない義母でした。 「お母さん、来たよ!」 妻の言葉に、ぴくっと身体が反応しました。 「あなたに会いたがっていたんだから、声かけてやってよ。わかるよ」 「お義母さん、遅くなってすみません。今来ました」 と手を取ると、義母はゆっくりとそして小さく頷きました。 つづく |
(文:大関直隆) |
2006/09/04(月) |
第226回「教育改革」 | ||||||||||||||||
先日の安倍晋三氏の出馬表明で、自民党の総裁選挙も候補者が出そろいました。小泉政権の是非はともかくとして、小泉後の課題は、おおむね東アジア外交、格差是正、財政再建の継続、教育改革ということになるのでしょうか。
最も総裁(首相)に近い人間として扱われているのが安倍氏だけに、9月1日の安倍氏の出馬表明は、否が応でも注目を集めることになりました。あの日は一日中、あちこちの番組に生出演していた安倍氏でしたが、インタビューに応えているその中身はというと、「う〜ん、物足りないなあ」という感じ。さすがに、“首相”ということを意識してか、憲法についての発言にしても、靖国についての発言にしても、これまでよりはややトーンダウンしているように、感じられました。これまではいわゆる国家主義的考えを前面に出して話しているなあという印象でしたが、それがかなり抽象的な表現に終始していて・・・。トーンダウンというよりは、“慎重に”ということなのでしょうけれどね。 ここは、外交や経済について語る場ではないので、とりあえずそういった問題には触れず、私が気になった教育問題について、少し私の意見を述べたいと思います。 記者会見やニュースのインタビューに応えていた安倍氏の発言の中に、気になった部分がありました。それは、今までずっと述べてきたことなのですが、安倍氏も今までとまったく同じように、現代社会が抱える多くの子どもの問題を“子どもに対する教育”という形で対処しようとしているんだなということです。 あるニュース番組の中で、多発する少年犯罪や親殺しのことを取り上げて、教育は小泉内閣がし残してきた重要課題の一つであり、親や年長者を敬う心を教えなければならないと力説していました。はっきり言って、もうそういった主張は聞き飽きました。まず、政治や行政がやらなければならないのは、子どもに教えることではなく、なぜそういう状況が生まれているのかを明らかにすること、そしてその原因を元から絶つことです。対処療法的な教育改革なら、そんなものはやらない方がいい。対処療法を取ることで、見た目は改革が進んで問題が解決したように見えても、問題の根本の部分では、病巣がますますひどくなっていることに気づかないことがあるから。 熱が高い病人にも、医師は簡単には解熱剤を処方しません。熱が下がってしまうと原因を探るのが難しくなるからです。それでも身体の場合ように、自覚症状があれば、その原因を突き止めることはそう難しいことではないけれど、教育の場合は、そう簡単にはいきません。自覚症状のようなことがない場合もあれば、ずっと先になって表れることもある。だからなおさら、子どもたちがいろいろなところでいろいろな悲鳴を上げたときには、大人はそれをしっかりと受け止め、その深部を突き止める必要がある。 そういう難しさの中でも、はっきりと言えることがあります。それは、子どもは無垢な存在であるということです。まさか生まれたばかりの赤ん坊に、将来親を敬う子どもと将来親を殺す子どもの区別があるはずがない。「親の教育のせい」という人もいるけれど、その親だって、もともとは子どもだったわけだから無垢だったわけで、その親だって育った環境に原因があるはず。結局詰まるところは、政治や経済とかいうところに行き着くんだろうなと思います。変革を求められているのは、子どもではなく子どもが育つ環境を作る大人なのです。 ここ5年間の少年犯罪の増加、凶悪化というものには、目を覆いたくなるものがありました。私は政治に大きな原因があったと考えますが、局所的な部分を取り上げて言えば、問題が起こった際の対処の仕方が、子どもたちだけに向き、子どもたちの負担がますます増加していることにあると思います。 子どもたちは、本を読まなくなったという。でもそれは、子どもたちが本を読まないのではなくて、大人が本を読まないのです。子どもたちがTVゲームに明け暮れているという。でも考えてみれば、自分のウチの居間では、薄型の大きなTVが威張っていませんか。にもかかわらず、無理矢理読書の時間を作ったり、ゲームを禁止してみたり・・・。読書の時間は一定の効果をもたらしているという。でもこれまでその時間にやってきた計算ドリルや漢字書き取りはどこへ行ってしまうんでしょう。今度は学力が落ちたと言って、計算ドリルや漢字書き取りの時間を作るのでしょうか。くだらないことに、人と人とのつきあい方まで、学校が教えて子どもの負担を増やしている。学校という世界は、非常に閉ざされた世界なので、“先生と言われる人たち”は、人と付き合うことがうまくないと、誰もが思っているんじゃないですか?そういう人たちがマニュアルを教えるより、親同士がいい人間関係を作ったらいい。 子どもたちは、習うことが多すぎて、もうパンク状態。にっちもさっちもいかない状態の子どもたちに、さらに大人を敬う心を教えるのですか?子どもの頭の中は、すでにいっぱいなんだから、また何か大切なものがこぼれてしまうことにならないか・・・。大人が敬われたいと思うなら、そんなことは簡単です。子どもに敬う心を教えるのではなくて、大人が敬われる大人になればいい。そういった発想で考えていかなければ、教育の再生なんてあり得ない。 あるお母さんが、「ウチの子どもは、習い事と塾で一週間が埋まってしまうんです。今の子どもはかわいそうですよね。そうは思うんですけど、みんながやってるから、通わせないと不安で」と言います。だったら、思い切ってやめさせたらいい。「でも、子どもも行きたがるんです」と言うかもしれないけれど、それはおそらく子どもも、「みんながやってるから」じゃないのかな?要するに、子どもをそういう気持ちにさせているのは親がなんですよね。 教育の問題は、「子どもにどう教えるか」という問題ではなく、「大人がどう変わるか」という問題として捉えてほしいと思います。おそらくそれが最も効果的な教育改革なんだろうと思います。
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(文:大関直隆) |
2006/08/28(月) |
第225回「企業の倫理と親の責任」 |
幼児がシュレッダーに指をつっこみ、指を切断するという事故が起こったという報道がありました。シュレッダーは紙を細かく裁断する機械なので、歯と歯の隙間が狭い上、複雑な動きをするので、指が潰れてしまい、縫合することはできないとか。ということは、事故にあったお子さんは、一生指がない状態で生きていかなければならないということ? 交通事故のように、1つの事故が生死に関わるような大きな事故ではなく、周りから見ればほんの些細な事故なのに、一人の人間の人生を大きく左右してしまうような結果を招いてしまう。そんなこともあるんですよね。
一生のうちのすべての瞬間を、身体のすべてが健康な状態でいるというのは至難の業で、前にも触れたように、わが家の子どもたちも、麻耶(まや)は腎臓と血管の血液をやり取りする腎杯が半分くらい壊れてしまっていて、爆弾を抱えているような状態だし、翔(かける)は、色弱で複雑に色が混ざったものはうまく見分けがつかないので、ゴルフコースに出たとき、キャディーさんから見えないピンを狙う目標について「グリーンの奥に丸く刈り込んである赤い木が3本あるでしょ。その真ん中の木を狙えばいいですよ」と言われて、翔曰く「色なんて言われたって全然わからないから、一生懸命丸い形の木を探しちゃったよ」という具合で、おそらく紅葉なんてただの枯れた木がいっぱいに見えているんだろうなって思います。私にしても、気圧が下がると目が回るので、飛行機はもちろん、高度の高い峠道は車の運転ですら気をつけないと目が回って危険な状態。海外に出るなんて、船で行くしかないので、韓国、中国を除けば、夢のまた夢。旅費も半端じゃなくかかるし、なかなか長期で休みを取るなんていうことは難しいし、いつになったらいけることやら…。 わが家の子どもたちや私が背負っているハンデに比べたら、指がないというハンデは、もっと根源的に”生活する”ということに直接関わる、大きなハンデなので、とても気の毒に思うけれど、しっかりとそれを受け止めて、明るく生きていってほしいと願うばかりです。 今回のシュレッダーの事故の報道を見ていると、企業の責任が大きく取り上げられています。雪印や三菱自動車などから露見した企業倫理の欠如は、とどまる気配もなく、最近ではトヨタ自動車のリコール隠しが明らかになったり、パロマ工業製湯沸かし器の欠陥から死亡事故が起こったり、ついには行政のずさんなプール管理までが明るみに出て、われわれのものつくりや安全管理に対する信頼はずたずたになっています。けれども私は、今回のシュレッダーによる事故を、こうした企業や行政の倫理の欠如と単純に同一化して考えることは、間違いだと思います。 製造メーカーとして、どのようにしてものを作るかと考えた場合、より安全性の高いものを作るというのは、当然のことです。しかし、ものを作る側は、ものを使う側の要求にどう応えるかということも重要な要素なので、シュレッダーのようなものでは、安全性を取って挿入口を狭くするか、大量な紙を一度に処理できるよう挿入口を広くするかとか、安全性という付加価値を追求して高く売るか、付加価値は必要最低限に抑えて安く売るかとか、そういった点で何を選択するかは、まず企業が経営戦略的に選ぶものであって、その後に消費者がどんな製品を選ぶかという問題であると思います。 今回事故が発覚したシュレッダーは、事務機器メーカーのものだそうですが、家電メーカーの製造したシュレッダーは、もう少し安全性が高かったとも聞きました。私も小さな手回しのシュレッダーは時々使いますが、それほど危険を感じたことはありません。メーカーが、幼児が触るということを想定していなかったのは、落ち度と言えなくもありませんが、もともと私たちの意識の中にもシュレッダーを幼児の触るところに置くという意識はない。その辺のところは、子どもがいるとすれば、利用者の注意義務の範囲内ではないか…。 もちろんメーカーには、より高い安全性を求めます。けれども私は、子育てをしてきた者として、それを利用する親たちには、さらに高い安全管理を求めます。 パチンコ店の従業員が、炎天下の駐車場に止めてある車の中に乳幼児が置き去りにされていないか見回っているところが報道されました。店側にすれば、自分の店の駐車場で、子どもが死亡したということにでもなれば、相当なイメージダウンになりますから、当然といえば当然ですが、もともと炎天下の車の中に子どもを置き去りにするということが当然ではないのです。 私が子どもを育てていたころは、まず子どもの手が届く範囲の観葉植物をどかしました。土が見えないように飾ってあった石を子どもが飲み込んでしまう可能性があったからです。子どもが簡単にコンセントの近くに行けないよう、家具でコンセントの周りを囲んだり、余計なものはコンセントに差さないようにしました。家庭の中にも危険はたくさんあるのです。包丁、アイロン、針、はさみ…。大人がなんでもなく使っている箸やフォーク、ボールペンや鉛筆も、とても危険です。とは言え、まさか切れない包丁や熱くならないアイロンを作るわけにはいかない。 仕事の形態の変化により、家庭の中にどんどん仕事が入り込んできています。当然、子どもにとっては危険が増しているわけで、親にとってはより多くの注意が必要になってきています。ほんのちょっとの気配り、それが子どもを守るのです。メーカーの安全対策もさることながら、メーカーにだけ責任を押しつけるのではなく、私たち親も、もっと子どもの安全に対する認識を高め、負わなくてもいい負担を子どもに負わせないよう、できる限りの注意を払う必要があるのではないでしょうか。 |
(文:大関 直隆) |
2006/08/21(月) |
第224回「初めての富士登山 後編」 |
翌々日のお昼過ぎ、娘の麻耶(まや)から、携帯電話に画像が添付されたメールが送られてきました。
[今、6合目にいます] というメッセージと一緒に送られてきた写真は、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)が携帯電話のカメラの方を向いて、ニコニコ笑っているものでした。 どうもあまり天気はよくないらしく、二人の後ろの方には、霧らしきものが見えます。けれども蓮も沙羅もまったく天気など気にしていない様子で、とにかく嬉しそうです。それまで写真でしか見たことのなかった富士山が、“足の下にある”という実感があるらしく、ただ単純にニコニコしているというより、幼いながらも“何か達成感のようなものを感じている”、そんな表情をしています。 [蓮も沙羅も楽しそうだね。雲は取れそうか!?] と返事を送ると、 [取れないって(笑)] と返ってきました。 [それは残念。どんな雲が来るか楽しみだったんだけどなあ・・・] [今、取ろうとしてるけど取れないって(笑)] [あんまり無理をしなくていいよって言っといて。蓮くんのおなかにいっぱいためといてって] しばらくすると・・・、 [また困ってるよ(笑)] とメールがきました。 富士山の6合目で雲と格闘している蓮の姿がとてもリアルに目に浮かんできて、思わず吹き出しそうになっている自分を感じて、さらにまたおかしさがこみ上げてきました。そこまで私とメールのやり取りをした麻耶は、今度は妻に、 [まったくじいさん、変なこと言うんだから困っちゃうよ(笑)。ウチって、いつからそんな非科学的なこと、子どもに教えるようになったんだよ!? “雲って何?”って蓮に聞かれたって私にはうまく答えられないんだから、そういうことを科学的にちゃんと教えてやってくれっちゅーの! よけいなこと言うから、大変なことになっちゃうじゃないか! 今、必死で息吸い込んで、“口開けると雲が出ちゃう”って困ってるよ(笑)] とメールが送られてきました。蓮とのほんの些細な会話が、どうやら大変なことを巻き起こしちゃったみたいです。 3人が富士山から帰ってくる日は、昨年亡くなった義父の新盆の準備に、熊谷の妻の実家に行かなくてはならないので、3人を家で迎えてやることができませんでした。麻耶から、“家に着いた”というメールがきました。 [今、着いたよ。蓮が口を開けると、雲が出ちゃうって言って、息を止めて真っ赤な顔になってるんだけど・・・(笑)] 家に着いてから、息を止めたってなんにもならないのにね。富士山から家まで、どうやって息止めてたんだろ? 翌日、3人も熊谷にやってきました。私の方にやってきた蓮はにやにやしています。 「じいちゃん! 雲さん出すからね!」 と言うと、“ふーっ!”と私の目の前に息を吹き出して見せました。 「あーっ! 雲さんだぁ!」 と私と妻が調子に乗って言うと、今度は、 「はぁーっ!」 と息を吹き出してにやにやしています。蓮は、雲が持ってこられないものだったことをちゃんと知っているのです。取れないものを取れると思っていた自分に対する照れと、取れないものを取ってこいと言った私に対する非難と、そして何よりも本物の雲の中に立ち、雲というものがどういうものなのかということを自分自身で悟った満足感が入り交じった複雑な表情、私には蓮の表情がそんな風に見えました。いつからこんな俳優さながらの“ごっこ”ができるようになったんでしょう。 新聞の一面に、血だらけの子どもがお父さんに抱えられているレバノンの写真が載りました。その写真をかなり長い間見ていた蓮は、なんの脈絡もなく突然、 「蓮くん、大人になったらお医者さんになって、この子を治してあげる!」 と言いました。世界のあちこちで戦争や紛争が起こり、多くの子どもたちが犠牲になっています。世界中の子どもたちが、みな幸せに、楽しく暮らせるよう、今に日本の平和を世界に広げたいなあ、つくづくそう感じました。 |
(文:大関直隆) |
2006/08/14(月) |
第223回「初めての富士登山」 |
娘の麻耶(まや)が突然
「夏休み中にね、蓮(れん)と沙羅(さら)を富士山に連れて行こうと思うんだ」 「ん? なんで?」 「なんでってこともないんだけど、やっぱり富士山は日本一高い山じゃん。観光名所っていうか、とにかく有名でしょ。そういうとこって、小さいうちに一度見せてやった方がいいかなって」 「ふーん」 「日光とか京都とかさ・・・。日光はもう行ったでしょ。京都は、ちょっと遠いしね。だから、今年は富士山かなって」 「ふーん。そういうもんかねえ」 「何歳くらいからだったら、富士登山できるかなあ?」 「はっ? 蓮と沙羅を富士山に登らせようとしてる?」 「そうだよ。せっかくだもん、登らなきゃ!」 「おまえだって登ったことないのに・・・」 「だから、経験させてやりたいんだよ」 「かっ! まだ無理だろっ、幼稚園の年中と年少じゃあ!? せいぜい、小学校の5、6年生くらいにならないとぉ」 「やっぱりそうだよねえ・・・」 「あたりまえだろっ!」 「でも登らせてみたいんだよ。頂上までっていうことじゃなくて、いけるとこまででいいからさ」 「ふーん。まあ、登らせたけりゃ登らせればいいけど、おまえが大変だぞ」 「まあね。それはわかってるんだけど、登らせてみたいんだよ。もし、どうしても途中でダメになっちゃったら、私がひっ背負ってやる!」 「はあ、すごい気合いだなあ。そこまで登らせたいかねえ?!」 いよいよ富士山に出かける前日。あいにく台風が来ていて、明日の天気が心配されました。朝、私がパソコンを開いていると、蓮が近くにやってきました。 「蓮くん、今度富士山登るんだって?」 「そだよ」 「いいねえ」 「うん」 「蓮くん、どっか山登ったことある?」 「うん、あるよ。この前、森林公園のお山、登ったよ」 「?(森林公園に山なんてあったっけ?) ふーん。じゃあ、富士山も登れるかな?」 「うん、登れるよ! じいちゃん、富士山の写真見せてよ!」 「いいよ!」 インターネット上で、“富士山”で検索し、写真をパソコンの画面に表示してやりました。しばらく富士山の写真を眺めていた蓮が、何を基準に言ったかはわかりませんが、 「うーん、高いなあ・・・。登れないかもしれない」 と急にトーンダウンして言うので、ちょうど中腹あたりにかかっている雲を指さして、 「これが雲だよ」 と説明すると、 「んー」 と言いながら、何度も首をかしげています。と、突然、 「蓮くん、じいちゃんに雲さんを取ってきてあげる!」 と言いました。 「うん、そうだね。じゃあ、じいちゃん楽しみに待ってるからね。お天気、いいといいねぇ」 「うん!」 そして、娘の麻耶と孫の蓮と沙羅は、三人で富士山に出かけていきました。 つづく |
(文:大関直隆) |
2006/08/07(月) |
第222回「信用の上に成り立っていること」 | ||||||||||||||||||||||||
最近、腹立たしいことがたくさん起こります。“不正免除にはとどまらず、払ったものまでもが未払いにされているという社会保険庁の年金問題”、“紙幣やコインまでをも燃やしたり、ゴミとして処分をしたという岐阜県の裏金問題”、“ふじみ野市のずさんな管理が明るみに出たプール事故”、“パロマやトヨタの企業倫理を疑いたくなるような無責任、隠蔽体質”、“まだまだ氷山の一角と思える教員の生徒に対するセクハラやわいせつ事件”、そして“どうしてあれで勝ちなのかまったくわからない亀田興毅のタイトルマッチ”。これだけ、許し難いことが連続して起こると、もう感覚が麻痺してしまって、多少の悪事では、悪事には見えなくなりそう。
今回のプール事故は、なんとすぐお隣?(すぐ合併しちゃうので、どこが隣でどこが隣じゃないかよくわからなくなっちゃった)のふじみ野市での事故。しかもそのプールを管理していたのがさいたま市の会社ということでは、どうしても一言言いたくなるよね。その前に、さいたま市のプールの管理ってどこの会社がやってるんだろう? まさかあのずさんな会社? 私はよく知らないけど、すごく不安で、市民プールなんて行けなくなりそうだ! プールの監視員にはいっぱい言いたいことがあって、ちょうど去年の今ごろ、第173回でも触れたけれど、思った通りというか、不安が的中してしまったというか、やっぱり悲惨な事故が起こってしまいました。公営のプールを利用したことがある人なら、みんな感じているんじゃないかと思うけれど、どこのプールの監視員も、ほとんどが高校生。そしてその高校生たちは、安全管理ということの本質をまったくわかってない! もちろん、その高校生たちに責任があるわけじゃなくて、その上に立つ者が“安全管理”ということをまったく理解していないから、高校生も訳のわからないことをやってる。 どこのプールも皆同じように、監視員がやっているのは、プールに入りに来ている人たちに対する管理。それが絶対いらないとは言わないけれど、母親がついててやらせていることまで、「××はしないでください!」と怒鳴りまくってる。そりゃあ、確かに自分の子どもを殺しちゃう母親も多くいるから、何をするかわからないと言えば確かにそうかもしれないけれど、基本的にはプールに子どもを連れてきているような親が、そんなに子どもを邪険に扱うわけがない。子どもが安全に楽しめるように注意を払いながら、その上で親が子どもにやらせていることにでも、とにかく大声で注意をする。多くの人が楽しむ場所では、自分勝手な行動は、厳に慎まなくてはならないのは当然で、最近マナーの悪い人が多いのは確かだけれど、監視員がそのマナーにだけに目を光らせて、やたらと威張ってばかりいたのでは、本来監視員も含めた管理者側が、市民に対して保証しなければならない安全が、保証されたとは言えない。プールの安全管理を司る者が、誰に対して厳しくなくてはいけないかと言えば、それは市民に対してではなく、自分たちに対してなのだ。そんな原則すらわからずに、管理を請け負っている会社、そんな会社が何をしているか確かめもしないで安全管理が充分だと思っている市。まさか、そんなずさんな管理しかなされていないなどと、少しも思わない市民の信頼を裏切るものです。 人と権力との関係というのは、もともと信用の上に成り立っている関係です。「権力を持つ者は誠実に物事を進めている」という大前提の基、権力を持たない側は行動しているわけです。例えば、教師と生徒の関係。これも、教師は誠実に子どもたちに接しているという前提で、教育は成り立っている。ところがその信頼を裏切る教師がたくさんいる。例えば、親と子の関係。まさか自分の親に虐待されたり、殺されるなどと考えている子どもはいない。子どもたちは、教師にも親にも限りなく無防備なのです。それが最近崩れ始めて、子どもは自分を自分で守らなくてはならなくなった。寂しいことですよね。信用の上に成り立っている社会ほど、平和で優しい社会はないと思うんだけれど・・・。 全然話は違うようだけれど、亀田興毅のタイトルマッチも、レフェリーやジャッジに対する信用の上に成り立っていたことの一つです。それなのに、あんなことになっちゃって・・・。あれだけ派手なパフォーマンス、派手な演出の結末があれではね。誰も勝ったと思ってなかったんじゃないかな? 解説をしていた竹原、畑山といった元世界チャンピオンたちも、最後の方はほとんど“亀田が負け”という前提で解説をしていたにもかかわらず、勝ってしまったから、亀田興毅の名前がアナウンスされた後、しばらく沈黙しちゃってたよね。勝ちを宣言された瞬間のお父さんの顔。喜んでいるというより“ハッ?”という表情。これまで一生懸命やってきた亀田興毅がかわいそうに感じました。 社会全体に信用できないことが充満してきたこのごろだから、スポーツだけはって見てたのに・・・。少なくとも子どもに関わる部分だけでも、信用の上に成り立っている社会を守りたいですね。
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(文:大関直隆) |
2006/07/31(月) |
第221回「カブト虫」 |
「今日は、森林公園に行ってきちゃった。今度はじいちゃんが連れてってよ」
「なんで!? そんなの母親の役目だろっ!」 「だって、カブト虫見つからないんだもん。じいちゃんと行って見つけてもらうしかないよ。じいちゃんなら見つけられるでしょ? あたしじゃダメだった。いくら探しても、頭のとこだけ折れて、死んじゃってるやつしか見つからないんだよ」 「どこ探してんだか」 「いっぱい見つけたって言ってる人もいたのに・・・」 「去年からあんなにたくさん飼ってて、卵だってふ化させたんだから、どういう所にいて、どんな風に行動するか知ってるんだろっ? おまえがずっと世話してたじゃないか」 「だって、ケースの中だよ。それに、ほんとは世話したくないのに、無理に世話してたんだもん、そんなことわかんないよ。触れないんだよ、ほんとは。蓮(れん)君、今度はじいちゃんとばあちゃんと行くんだよね!?」 「うん! じいちゃんにカブト虫見つけてもらう!」 「おやおや」 「だから連れてってやってよぉ!」 「しょうがないなあ。うまく時間がとれたらね」 一昨日、突然東松山の森林公園に行ってきたという麻耶(まや)が騒いでいます。どうもこの雲行きだと、近いうちに孫二人を連れて、私が森林公園へ行くことになりそうですね。 これがアップされる31日は、孫の蓮の誕生日。去年の私からのプレゼントは、カブト虫のオス3匹とメス3匹。それに飼育ケース2つでした。私が蓮にプレゼントをした直後、中古車センターのキャンペーンで、さらにメス5匹をもらってきて、わが家で暮らすカブト虫は全部で11匹に。まだ4歳の蓮に一人で世話ができるわけもなく、もちろん本当に世話をするのは娘の麻耶。虫が嫌いな麻耶は、なんだかんだ文句を言いながら、なんとか蓮と沙羅(さら)の三人で、産卵から成虫になるまでの一年間、世話をしてきました。 「あーっ、幼虫がいるよ!」 「ひえーっ、でっかーい!」 「こんなにたくさんいるよー!」 「じいちゃん、昆虫マット替えてよっ!」 「あーっ、さなぎになったぁ!」 「見た見た、じいちゃーん? ほらっ、カブト虫になったよっ!」 飼育ケースの中で、何か変化があるたびに大騒ぎ。カブト虫っていうものが、お店に売ってるものと思われたり、家の中の飼育ケースで育つものだと蓮や沙羅に思われてしまうのも困るけれど、とにかく一年間、卵を産んで、それがまた幼虫、さなぎ、成虫となっていく姿を見られたことは、孫の二人にとっても、娘の麻耶にとっても、いい経験だったように思います。 「じいちゃん、成虫になったやつが、オスとメス一緒に入ってるから、ちょっと分けてよ」「それくらいおまえがやればいいだろっ!」 「ムリムリ。だって、ビニールの手袋、もうなくなっちゃったんだもん。直接手でなんて触れないよ」 こんなんでよく一年間育ててきたもんだよ。私が子どものころは、カブト虫は育てるものじゃなくて、採るものだったんだけどね。 「じいちゃん、カブト虫ってどうやって育てればいいの?」 と去年聞かれたとき、 「そんなもん知らないよ。インターネットで調べればいいだろ!」 と答えた私。今年はどうやら、 「カブト虫見つけてよ」 ということのようなので、うまく仕事の都合がつけば、見つけてやることにしましょうかね。 |
(文:大関直隆) |