大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2006/07/24(月) |
第220回「うちわ祭(まつり)」 |
一昨年の夏(第117回)ちょっと触れた熊谷の「うちわ祭」。昨年は、義父の具合が悪くて行けなかったんだけれど、今年は孫を連れて行ってきました。
どういうわけか、娘の麻耶(まや)が、どうしても4歳の蓮(れん)と3歳の沙羅(さら)を“叩き合い”(http://www.city.kumagaya.saitama.jp/kanko/kumagayautiwamaturi/index.htmlこちら</a>を参照)の中に入れるんだと張り切っていたので、「しょうがないなあ、じゃあ肩車でもしてやるか」というわけで、先に叩き合いが行われる“お祭り広場”(“広場”と言うけれど、ここは普通に言う“広場”ではなく、大きな十字路なんですが、毎年そこで各地区から12台の山車が集まり、交差点の中央に向かって、祭り最後のお囃子の叩き合いをする場所になっていることから、“お祭り広場”と呼ばれています)に行っていた麻耶(蓮、沙羅つき)と連絡をとり、お祭り広場のそばで合流しました。 お囃子の叩き合いは、祭りが行われる3日間を通して場所を変え、毎日行われるのですが、最後に行われる叩き合い以外は、基本的に12台の山車を扇形に並べて行います。うちわ祭最後の叩き合いだけは、中央に舞台が設営された十字路、お祭り広場を、四方向から山車が囲んで、360度を山車が囲んだ状態での叩き合いですから、その中にはいると、とにかく圧巻です。 問題は、山車に囲まれた中にいる人の数。“山車に囲まれたい”と、早くから人が集まっているところに、さらに四方向の道から広場に向かって山車が迫ってくるわけですから、交差点内ではなく、四方向のそれぞれの道にいた人たちまでもが、山車に押されるように交差点の中に“ギューッ”と圧縮、詰め込まれてくるわけです。初めから中にいた人間は、押されて倒されないように、かなり踏ん張らないと危険です。 広場からかなり遠くで、待機していた山車が、こちらに向かって動き出したのが見えました。天気がはっきりしなかったせいか、例年よりは人手が内輪な気がしたので、蓮と沙羅を連れていても、それほど危険はないと判断して、頭の中で押し込まれたときのシミュレーションを展開して、一応広場の中心で、山車が来るのを待つことにしました。 「もうじき山車が来るぞ! 準備はいいかっ!? 蓮、気合い入れろっ! しっかりつかまってろよっ!」 もちろん、半分くらいは演技で、肩の上に乗っている蓮に声をかけると、 「おーっ、おーっ、おーっ!」 と蓮も、両手をやや下に広げて、気合いを入れて見せました。もちろん、それも蓮の演技なんですが、その仕草がいかにも本当に気合いを入れているようで、とてもおかしいので、思わず、 「ぷっ!」 と吹き出してしまいました。なかなか、蓮も演技派のようです。 山車が広場の直前まで来たとき、どういうわけかそのすごい人混みの中に、救急車がサイレンを鳴らして入ってきました。 「救急車が通過します。道をあけてください」 警備の人たちは、必死で道をあけようとしますが、とにかく危険なくらいの人混みですから、そう簡単にはいきません。けれども、そこに集まっている人たちもなんとか救急車の通る道をあけようと、精一杯後ろに下がり、なんとか無事救急車は通過することができました。自分だって危険にさらされているにもかかわらず、一生懸命道をあけて救急車を通そうとする人々の優しさ。協力して道をあけた、近くにいた人たちとは、言葉こそ交わしませんが、妙な連帯感が生まれたのがわかりました。 いよいよ山車が迫ってきます。人の波は、すごい力で外から内へ、外から内へと押してきます。その波の力を、まるで水をかくように両手で脇へ逃がし、なんとかやり過ごします。「もうちょっと。もう山車が止まるよ。ほーら、止まったあっ!」 思った通り例年よりずいぶん人出が少ないようでした。それほど危険を感じることもなく、12台の山車が止まり、叩き合いが始まりました。 交差点の中心で待つこと1時間。すごい音、すごい熱気。汗が容赦なく首筋を伝わります。そのとき、肩車をしている蓮が急に動いたように感じました。 「れーん!」 「寝ちゃってるぅ! こんなにすごい音の中でも寝られるんだぁ!」 明るいうちから、麻耶に連れ回され、大興奮の蓮と沙羅。普段歩いたこともないような距離を歩かされ、しかも今はいつもならもう眠りについている午後9時です。手には、露店で買ったおもちゃをしっかりと握りしめ、コックリコックリし始めてしまいました。 「おりたいよぉ! だっこぉ!」 仕方なく、肩からおろして、だっこしてやりました。さすがに、蓮もぐっすり眠るわけにはいかないらしく、なんとか最後まで持ちこたえました。お祭り広場で待ち始めてから、2時間あまり。蓮君も沙羅ちゃんもご苦労様でした。さすがに大興奮ではあるようで、実家までの2キロ近くの道のりを、一言もぐずらずに、蓮も沙羅も歩き通しました。 熊谷中が大興奮のうちわ祭。とっても楽しい時間を過ごしましたが、ただ一つしらけたことがありました。それは、何人ものあいさつがあった後、ほとんど最後に近くなってからあった県知事のあいさつ。毎年県知事がみえていて、来賓代表であいさつをするのですが、なんと上田知事は「うちわ祭(まつり)」を「うちわ祭(さい)」と発音したあげく、熱気というかその情熱というかそういうものを表現しようとしたんだと思うんですけれど、「涼しいぞ、熊谷! 熱いぞ、熊谷!」と叫んじゃったんですよね。知事のいた席は、来賓用にしつらえたかなり高い舞台の上。人混みの中の暑さなどまったく、感じ取っていなかったようで、「うちわ祭(さい)」と気候の涼しさを言った「涼しいぞ、熊谷!」で、お祭り広場は、一瞬シーンとなりました。あいさつが終わった後も拍手はまばら。行政を司る人は、もっと県民の気持ちに寄り添えないとね。 お祭り広場での叩き合いが終わり、各地区へ帰っていく山車とすれ違うたび、蓮も沙羅も大きな声で「バイバーイ」とちぎれんばかりに山車の上で鉦や太鼓を叩いているお兄さん、お姉さんに手を振っていました。 もう来年は、蓮君を肩車するのは、勘弁勘弁! |
(文:大関直隆) |
2006/07/18(火) |
第219回「ジダン」 |
サッカーW杯が終わっちゃったら、なんとなく寂しくなっちゃいました。あの心地良い(?)眠さ。予選リーグから決勝トーナメントまで、とにかく放送がある試合は、全部見た(つもり。実は画面の方に顔を向けたまま、寝たり起きたりと言うより、寝たり寝たりしていたので、気がついたら試合が終わってニュースが流れていたこともあったんだよね。ドイツvsイタリア戦なんて最悪。延長後半12分まで見てて、「ああ、もうこれはPK戦だぁ」と思った瞬間、ふっと意識が遠くなったらしくて、気づいたら2対0になってた。?????てな具合で、ハイライトシーンで状況を飲み込んだ始末。)ので、W杯の開催中は、とにかく眠くて眠くて、「ああ、サラリーマンじゃなくてよかったなあ」なんて考えたりしてね。
W杯は、日本戦があった予選リーグがおもしろかったって言う人もいるみたい。でも私はやっぱり決勝リーグがおもしろかったなあ・・・。こんな言い方をすると、日本代表を必死で応援していたサッカーファンに怒られちゃうかもしれないけれど、日本敗戦後あちこちで言われているように、「日本の実力なんてあんなもんでしょ」と正直私も思います。予選の組み合わせが決まったとき、日本の決勝トーナメント進出はないなあと感じていたので、あの初戦のオーストラリア戦以降は、すでに興味は決勝トーナメントに移っていて、いったいどことどこが、決勝トーナメントに進んで、最後にはどこが勝つんだろうと、興味津々でした。 どこを応援するでもなく、ただ単にサッカーを楽しみたいという思いで見ていたけれど、私が買っていたのは、ドイツとポルトガル。ゴール前でのクローゼの強さとバラックの何となく知的な表情(勝手に私が思っている)。「ドイツがいい線行くんじゃないの」と思わせたし、ポルトガルも、予選からフィーゴの良さが際立っていて、デコの切れの良さやコマーシャルでおなじみのクリスチアーノ・ロナルドのドリブルの早さもなかなか他にはないものを感じていたので、決勝までは勝ち進めないにしても、「なんかやってくれそうじゃん」と楽しみに見ていました。 とは言え、イタリアの優勝は、納得でした。あの守りの良さはすばらしい! 決しておもしろいサッカーとは言えないけれど、やはり守れないチームは勝てない。その証明みたいな終わり方でした。「攻撃は最大の防御」という言葉があるけれど、「防御は最大の攻撃」(これはちょっと変かな? まあ、武器というとこかな?)なんですね。 ジダンもすごかった。MVPは当然でしょ! 確かにブラジルのロナウジーニョのテクニックやベッカムのフリーキックもすごい。でも一人のテクニックではなく、チームでやるサッカーとしてみた場合、やはりジダンはすごかった。試合をまとめる巧みさは、一枚も二枚も上に感じました。「人間、一人でできることはたかがしれてる」そんなことさえ思わせるジダンの活躍でした。あれで引退? そんなことってあるのかなあ・・・。もうちょっと見たいなあ・・・。ああいうプレーを見ていると、やっぱりそう思っちゃう。 あの頭突きで退場のシーンも“ライブ”(カメラはプレーを追っていて、画面には映っていなかったので、実際はVTRだったんですけど)で見ました。突然のことで、驚きました。マテラッティがあれだけ飛ばされたんだから、相当すごい頭突きだったんでしょうね。あの頭突きがきっかけで、世界中が大騒ぎになっています。「ジダンが悪い」「ジダンがあそこまでやるには、マテラッティがひどいことを言ったに違いない」。真相はまだはっきりしませんが、どうやらマテラッティがジダンの家族について、人種差別的な挑発をしたらしい。サッカーというスポーツにそういうものが似つかわしいのか、似つかわしくないのか・・・。いろいろな報道を見たり聞いたりしていると、サッカーに挑発はつきものとのこと。では勝つために何はしてもよくて、何はしてはいけないのか・・・。どこで線を引くかは難しい問題のようだけれど、どうもこれまでの流れでは、“言葉の暴力は許されるけれど、手や足(もちろん頭も)を出してはいけない。ただし、人種差別については別”ということかな? 私は、かなり体育会系なので、スポーツは大好きです。野球、サッカー、ラグビー、バスケットボール、バレーボール、卓球、陸上、水泳、スキー、体操、柔道、剣道・・・。とにかく何でも見ます。息子も娘も学校の部活動でバドミントンをやったり、サッカーやゴルフをしたり・・・。ずいぶん遠くまで応援に行って、楽しませてもらいました。今年大学に入学した一番下の翔(かける)はゴルフでプロを目指していますが、どうなることやら・・・。 が、ちまたでよく言われる「スポーツをやっているから、いい子」というのは錯覚です。スポーツをとことん突き詰めれば、勝たねばならないので、今回のマテラッティとジダンのようなことは当たり前。たまたまW杯で、しかも決勝戦。さらに延長後半で残り時間は10分。さらにさらにジダンにとっても現役の残り時間は10分。だから、こんなに大きく取り上げられているけれど、これがもうちょっと注目度の低い試合だったら、スポーツ新聞の片隅に載る程度で、なんでもなく通り過ぎちゃう。もちろんそんな大事な試合に、なぜジダンがあんなことを・・・ということはあるけれど、それにしてもユニフォームを引っ張ってビリビリにしたり、ひじ鉄を食らわせて相手にケガをさせたり、挑発をしたり・・・。それがサッカー。果たして、そういうことをするような人間に育てることが、子育て・教育として正しいことなのか・・・。 この連載でも、何度も言ってきたけれど、スポーツと教育は、相容れないものを持っています。私もスポーツが好きだから、はっきり言うけれど、「うちの子はサッカー(あるいは野球、あるいはラグビー、あるいは柔道・・・)をやっているから、礼儀正しい」なんていう言い方は、やめた方がいい。私は、人間の楽しみとして、スポーツはとてもすばらしいものだなあと思います。勝つために戦っているあの真剣さ。ああいうものが、人生の中で重要なんだということも否定しません。でも、人間の成長にとって「スポーツ万能」みたいな錯覚は、やめた方がいい。子育ての中にスポーツのようなもの(物事に真剣に打ち込むということ)が必要なのは、わかります。でも、それで充分なわけではない。人と人とが結びつけるような、みんながお互いに支え合えるような心の優しさ、そういうものは、スポーツとは別な形で養ってほしいと思います。それが、未来を担う子どもたちを育てる親の役目かなあ。 高校で同じクラスだった田嶋幸三君はたびたびテレビに登場するし、中学で同じクラスだった加藤好男君も、オシムジャパンのコーチとして働くらしい。いやあ、やっぱりあのころの浦和はすごかったんだなあ・・・。ガンバ大阪の西野監督も含め、浦和出身の人たちが今の日本のサッカー界を背負って立ってるんですよね。4年後のW杯は、浦和パワー爆発で、ぜひ決勝トーナメントに進んでほしいですね。 |
(文:大関直隆) |
2006/07/10(月) |
第218回「“どうして××なんだろう?”という心のゆとり」 |
「子育て・教育」の勘所というか、とても重要なことのひとつに、「どうして××なんだろう?」という問いがあります。もちろん、子どもに「どうして××なの!?」と詰問するという意味ではなくて、親なり、教師なりが、子どもの様子や行動を見て、「(この子は)どうして××なんだろう?」と自分自身に問いかけるという意味です。
「おまえはどうして××なの!?」という子どもに対する問いかけは、実は子どもに対して問いを発しているわけではなく、大人の価値観に照らして、「なんでこんなことくらいができないのか」とか「なんでそんなことをするのか」などと大人が腹を立てて、子どもを非難しているのだということは、皆さんご理解していることと思います。 「どうして××なんだろう?」という大人の自分に対する問いかけは、これとはまったく違って、客観的事実の観察等から生まれてくる子どもに対する疑問を、自分に対して問いかけたものです。そしてその答えを見出すには、さらに細かい観察をしなければなりません。 今朝も娘の麻耶(まや)が、孫の沙羅(さら)に 「どうしておまえは牛乳に醤油とケチャップを混ぜちゃうの!」 と怒鳴っていました。どういう意味で「どうして・・・」と言っているのかというと、もちろん、「牛乳に醤油とケチャップを混ぜるのはなぜか」なんて言うことを沙羅に尋ねているわけではなく、「牛乳に醤油とケチャップを混ぜるんじゃありません」と言っているわけです。 「どうして・・・」という言葉に沙羅は答えるすべを知りませんし、また答える気もありません。麻耶と沙羅の間に残ったものは、“麻耶が沙羅に対して怒鳴った”ということだけです。「××すると怒られる」という次元では、沙羅は学習するので、何回も同じパターンを繰り返すうち、いずれは牛乳に醤油とケチャップを混ぜることはしなくなるのでしょうが、ひとつひとつの事例ごとにこのような学習をさせていたのでは、とんでもない期間と労力を必要としてしまいます。しかも、怒鳴ったり叱ったりして育てるリスクは絶大で、子どもは次第に親の顔色を窺うようになってしまいます。 「どうして・・・」という言葉を“問い”として、麻耶が自分に向けていれば、状況はまったく違います。 「どうして沙羅は、牛乳に醤油とケチャップを混ぜてしまうんだろう?」と麻耶が自分自身に問いを発すれば、その後麻耶は沙羅の行動を事細かに観察して、麻耶の感じた「どうして・・・」を解決すべく、努力をすることになります。そうすることは、子どもを理解することにもつながりますし、子どもも怒鳴られないわけですから、親との関係にも“顔色を窺う”ような不安定要因を残しません。そのうち麻耶は沙羅がどういう性格の子で、どういう思考パターンを取るのか、観察をすることによって客観的事実の積み上げの上に学び、当然のことながら麻耶と沙羅との相互理解は深まります。 これは、教育の現場でも言えることです。保育園や幼稚園、学校で、保育士や教員が子どもとどう接しているかと言えば、「どうして・・・」を詰問に使っていることが圧倒的に多く、自分に対する問いとして、答えを見つけようとすることは少ないのではないかと思います。子どもの行動に対し、「どうして××なんだろう?」と考えるゆとりを大人が持つことこそ、子育てであり、教育です。子どもと同じ土俵に立って、子どもを怒るのではなく、一歩下がって子どもを客観的に見る余裕、それが子育て・教育の勘所のひとつです。 |
(文:大関直隆) |
2006/07/03(月) |
第217回 「親が子どもを、子どもが親を・・・ 後編」 |
ついさっき、ネットのニュースを見ていたら、滋賀県で妹が 姉を2階から突き落とす事件が起きたと流れてきました。幸い突き落とされた姉さんは、玄関上のひさしに当たってコンクリートの地面に落ちたため、腰を打っただけで軽傷だったようですが、突き落とした方の無職の17歳の妹は、姉さんに対し、「死んでもかまわないと思った」と話したらしく、警察は殺意があったと判断し、殺人未遂の現行犯で逮捕したそうです。
これが「マイタウンさいたま」にアップされるころにはもう少し詳しい情報が報道されていることと思いますが、両親とは別の棟で生活しているという姉妹が「無断外泊をしたことなどを巡り、言い争いになった」とのことなので、現段階の情報から推察すると、“親に自分の生活を注意されて、親に対して殺意を抱く子ども”という構図の“親”の部分が、“姉”に置き換えられたのかな、という気がします。 もう何度となく述べてきているように、一番大きな問題は、子どもに対する過干渉です。普通に考えれば、干渉するのは親、干渉されるのは子どもということになりますが、もしその干渉を“是”とする姉と、“否”とする妹がいたとして、姉が母親の代わりをしてしまえば、そこには親子間に存在する問題とまったく同じ問題が、姉妹間に存在するであろうことは、容易に想像できます。 さて、それでは過干渉を“否”とすることが問題で、“是”とすることは問題ではないのでしょうか? 一見、過干渉を“是”として、受け入れている子どもは従順でおとなしく、いい子に映ります。また、“否”として受け入れていない子は、反抗的でひねくれた、悪い子に映ります。問題は、過干渉そのものであって、子どもが過干渉を“是”とするか“否”とするかにあるのではありません。一般的に言って“是”とする場合、子どもは不登校やひきこもり、ニートなどになりやすく、“否”とする場合には、非行や暴力という状況に陥りやすくなります。しかも、子どもの態度が“是”か“否”か、どちらか一方という場合ばかりでなく、ある時期、ある瞬間で、どちらかに大きく振れるという場合もよくあるので、普段は過干渉を“是”として親に従順で、母親と腕を組んで買い物をしているような娘が、ある時ある瞬間、ほんの些細なことをきっかけに、過干渉を“否”として親に反抗し、父親や母親に罵声を浴びせたり、暴力を振るったりするということが起こるのです。 事件を起こした親子を知る人たちのインタビューに、「優しいご両親、おとなしくていいお子さんでしたよ」などという評価が多くあるのは、そういったせいだと考えられます。もちろん「親が子どもを、子どもが親を・・・」ということが、そういった事情だけで引き起こされているわけではありませんが、“子どもの虐待死”ということを除けば、かなりの割合で、“過干渉”が問題の根源にあるのではないかと思います。 過干渉を生む原因は、いろいろあると考えられます。相談の事例から考えると、一つは少子化、一つは受験志向の高まり、そしてもう一つは夫婦の不仲です。少子化により、これまで何人かの子に振り分けられていた親の意識を、すべて一人の子に振り向けることになりました。私が子どものころは、「一人っ子」というものを批判的に見る風潮がありました。「一人っ子はかわいそう」「一人っ子だからわがまま」、そういった見方が一般的でした。最近、若いお母さんたちと話をすると、「私の愛情を二人に分けたらかわいそう」とか「二人も三人も子どもがいたら、好きなものも買ってやれないでしょ」と、むしろ「一人っ子」に肯定的で、溺愛タイプのお母さんが増えてきているように感じます。手のかかる子どもが一人しかいないわけですから、親の愛情は薄まることなく一人の子どもに注がれ、過干渉にもなりやすくなります。 受験志向の高まりも、非常に危険です。過度な期待を子どもに寄せ、自分の分身として子どもに自分の夢を押しつける。また、子どもの安全の観点から、塾への送り迎えをする母親をよく目にしますが、それが母親の生活の一部としてしっかりと根を張ってしまうと、塾への送り迎えの必要がなくなっても、何か新たな子どもとの関わりを探して、“子どもから離れられない親になる”なんていうのはよくあるパターンです。 夫婦が不仲で、自分たちの愛情の受け皿がなく、子どもに向かってしまうというのもよくあります。“子どもが生きがい”と平然と言える親も過干渉になりがちです。 いずれにせよ、「親が子どもを、子どもが親を・・・」という裏には、自立できない親、自立できない子の影が見え隠れします。そういった状況を作り出すのは、政治に大きな責任があると思いますが、「親が子どもを、子どもが親を・・・」という状況を人ごととは思わず、自分たちの子育てを今一度振り返って、過干渉の芽を摘む必要があるのではないでしょうか。 |
(文:大関直隆) |
2006/06/26(月) |
第216回「親が子どもを、子どもが親を・・・ 前編」 |
ほぼ毎日、仕事の帰りに近くのスーパーに寄って、夕飯の買い物をします。午後10時閉店のスーパーに、ぎりぎりで飛び込んで、家に帰るのは10時過ぎ。ちょうどテレビ朝日のニュースステーションの時間です。食事の支度をし、食事をする間は、私にとって1日の情報収集の時間。ゆっくり食事をして、お茶を飲みながら、ニュースステーションの後は、TBSのニュース23。それがほぼ家に帰ってからの日課です。
最近は、この夕飯がまずいこと、まずいこと。ニュースで流れてくるのは、テロや拉致、殺人や子どもの虐待といった暗い話題ばかり。たまに明るい話題といえば、本来4つ足の動物が2本足で立ったとか、アザラシだったか何だったかが、水族館の水槽の中で逆立ちしただとかいうような、別にどうでもいいような極端にくだらない話ばかり。久しく美味しく食事をしたことがありません。 私がカウンセリングをしているわけではないけれど、カウンセリングとか教育相談とか、そういう仕事に関わっていると、どうしても頭が硬直化したり、ネガティブになりがちで、どこかの段階で頭をほぐしたり、気分をガラッと切り替える必要が生じるんです。テレビのようにこちらが積極的に頭を動かさなくていいようなものは好都合なはずなのに、最近テレビから流れてくる話題は、カウンセリングや教育相談に訪れる皆さんの相談内容を象徴するような出来事が多く、かえって頭を硬直化させ、気分が変わるどころか、テレビを見ることで、逆に頭が仕事モードに戻されてしまうこともしばしばです。唯一スポーツは、何も考えずに観戦できるものだから、気分転換にはもってこいなんですが、サッカーW杯はあんなことになってしまって・・・。特別熱狂的サポーターというわけでもないし、日本の実力なんてあんなもんとは思っていたけれど、浦和に生まれ、浦和のサッカー全盛期に育った人間としては、やっぱりちょっと気が抜けてしまいますよね。もちろん、充分に世界のサッカーを楽しませてもらってはいるのですが・・・。まあ、サッカーの話題は、「燃える闘魂! サッカー命!」のPIDE氏に譲るとして・・・。 先日の「奈良・放火殺人事件」は大変ショッキングでした。ああいう事件が起こると、マスコミが家庭環境を事細かに調べ上げ、ワイドショーや週刊誌がそれをやたらと大げさに取り上げて、あたかもそれが事件の大きな原因かのように扱いますが、それだけに目を奪われると、事件の裏に潜む根源的な原因を見失ってしまうことにもなりかねません。 今回の事件も、母親が継母であったり、3人兄弟のうち、事件を起こした長男だけが先妻の子であることが報道されていますが、それだけに囚われることなく、もっと大きな視点で事件を見ることが必要なのではないかと思います。 最近の「子殺し」「親殺し」事件の増加は、個々の事件の個別的要因だけで説明するには、あまりにも事件の増加が急激であり、やはり社会的要因をその裏に見出さずには、説明がつきません。以前にも述べたように、うちの研究所に相談に訪れる人たちの直接的な訴えは、不登校であったり、非行であったり、リストカット・オーバードラッグであったりですが、ほとんどの場合、実はその背景にうまく築けない親子関係の悩みがあります。 次回、その親子関係について改めて取り上げ、事件の背景にあると思われる社会的要因についても考察したいと思います。 つづく |
(文:大関直隆) |
2006/06/19(月) |
第215回 「子育て・教育のコーディネイト 後編」 |
壁紙や床の前にペンキを塗れば、養生の必要がないので、古いものを取り去った後のリフォーム工事は、まずペンキ塗りからです。ペンキ屋さんの邪魔をして、文句を言われるのも嫌だったので、まずペンキ屋さんに3色のペンキを塗ってもらい、そのあと翔(かける)と残りの4色のペンキ塗りです。これから貼られる壁紙を想像してのペンキ塗りはとても楽しいもの。塗り進むにつれて、どんどんその部屋のイメージが湧いてきます。リフォームで私が一番大切に考えたのは、「楽しさと落ち着きの調和」。ペンキを7色も使ったり、店舗用の壁紙を貼ってもらったり、業者さんから言わせると、私の指示は「バラバラで無茶苦茶」と言うことになるのかもしれませんが、私に言わせれば、全体の統一はとれているのです。
リビングの壁紙(壁紙屋さんが言うには、スナックには使ったことがあるけれど、一般の住宅では使ったことがないという黄色味がかったベージュに柔らかい四角の模様が入った和紙でできている壁紙)を疑心暗鬼に貼り始めた壁紙屋さんが、リビングの3分の1ほど貼り終わったところで、 「これ、いいなあ…。こういう使い方もできるんだねえ。考えたことなかった」 何言ってんだか、全体を想像して考えたんだから、当然だっちゅーの! なーんちゃって、そんな偉そうなこと言える立場じゃないし、たまたまうまくいっただけだけど、壁紙屋さんが言う通り、最終的にリビングダイニングの雰囲気は、壁紙といい、システムキッチンの色合いといい、ペンキの色といい、家具との調和といい、申し分のないものになりました。他の部屋もリビングほどではないけれど、まあまあ満足のいく仕上がりで、あとはカーテンや照明器具、時計など、それぞれの部屋のインテリアを決めるだけ。 ところがこれが意外に難しい。リフォームのようにすべての部屋のイメージを考えながら、インテリアを決めようとしても、すべて一度に考えられるようなカタログもなければ、全体のコーディネイトをしてくれる業者もいない。住宅雑誌を見たり、TVなどでちょっとしゃれたものの情報を得たりすると、わざわざ国立や立川の方まで出かけていったり、時には骨董市などを訪ねてみたりと、内装工事自体よりもむしろそっちの方が大変なくらい。こだわり過ぎかもしれないけれど、カーテンと照明器具を決めるだけで、3ヶ月もかかっちゃいました。とうとう最後は食器まで替えちゃったりして・・・。 先週、朝日新聞の朝刊に「朝ご飯給食」の見出しで、学校で「朝食」を出す動きが広がっているという記事が載っていました。朝食の補完として町が予算化して1時間目の終了後乳製品を摂らせている学校。食堂で朝ご飯を出している学校。給食の残りをおにぎりにして冷凍しておき、朝食を家で摂ってこなかった子に温めて食べさせている養護教諭・・・。なんだかとても違和感がありました。学校っていうところはいったい何をするところなんだろう? やむにやまれずとは言うけれど、まず「学校の仕事」の整理が必要なんじゃないのかなあ。学校と家庭の境がまるっきりなくなっちゃってる。パブリックとプライベートの境がなくなってしまうと、精神的な疲労度は増しちゃうと思うんだけど・・・。 それとは別に気になったのは、「給食の残りをおにぎりにして…」の話。わが家の子どもたちが学校に行っていたころ、給食の残りのパンをすべて残飯にしている光景にびっくりしたことがありました。私が小・中学生のころは、残ったパンはもらっておいて、部活動の前に食べたり、家に持って帰って食べたりしていたものなので、先生に聞いてみたら、給食の時間以降に食べて食中毒になると大変なので、給食の時間内で処理をさせているとか。確かに食中毒は怖いけど、別にパンまで捨てることはないと思うけどね。おにぎりの話は、その給食のパンの話と逆さまなので、ちょっと不思議に思いました。学校の中でも校務分掌(学校の中での先生方の役割分担)によって、考え方が違うのかなあ? 「食」には養護教諭が関わってると思うんだけど・・・。 ある保健士が、育児相談に答えて、「子どもは9時前に寝かせましょう」と言いました。「子どもにとっての睡眠というのは、大人にとっての睡眠というものより、とても大切なものなので、父親の帰りを待って9時過ぎにお風呂に入れてもらったり、一緒に食事をさせるなどということはもってのほか。とにかく決まった時間にきちっと寝かせてください」 ある講演会に行きました。子どもと父親とのふれあいについての重要性を得々と語っておられました。「できる限り、一緒に食事をしましょう。お風呂に入れてやったり、一緒に遊んでやったりすることも大切です。ちょっと遅くなってもお父さんの帰りを待ってあげるのもいいんじゃないですか」 最近、子どもを巻き込んだ事件が頻発しているため、各地で子ども自身が自己防衛できるよう指導が行われています。 「知らない人が近づいてきたら逃げなさい」 「声をかけられても知らんぷりして、そばに寄っちゃダメですよ」 かたやあちこちに「あいさつ通り」なるものがどんどんとでき、PTAや町会・自治会などでは、率先して子どもたちに声をかけるよう運動しています。 ゆとり教育が見直されているとはいえ、教育行政の言っているのは、「基礎・基本の徹底」かたや塾はと言えば、受験のための詰め込み。 子育て・教育で大切なのは全体のコーディネイトです。私がリフォームの時に困ったのは、すべてを仕切ってくれる人がいないことでした。誰に言っても返ってくる答えはバラバラ。それを自分でつながなければなりません。点や線をつないで面や立体にするのはとても大変なこと。全体の相談に乗ってくれる人がどんなにほしかったか・・・。 最近の教育のドタバタを見ていると、リフォームとまったく同じことを感じます。それぞれの立場の人間が、それぞれの立場で主張し、指導している。それに振り回されるのは、子どもや親です。うちにカウンセリングに訪れるご両親やお子さんたちは、ほとんどの場合そこの狭間で揺れています。“子どもに関わる大人”の立場で、ものを言うのではなく、その子の性格、能力、おかれている環境すべてを考慮して、子育て・教育をコーディネイトすることが、いい子育てにつながるんだと思うのですが・・・。 |
(文:大関直隆) |
2006/06/12(月) |
第214回「子育て・教育のコーディネイト 前編」 |
最近では“リフォーム詐欺”という言葉が新聞を賑わすほどポピュラーになったリフォーム。私が今住んでいるマンションの部屋をリフォームした9年ほど前は、まだまだリフォームだけを専業で行っている業者もそれほど多くはなく、わが家は知り合いで地元の建設業者にお願いしました。知り合いの業者は、もともとは解体業から出発し、不動産業、建設業と業種を広げ、うちが知り合ったころは、1店舗で経営しているさほど大きくない有限会社だったのに、あっという間に県内にいくつもの営業所を抱える大きな株式会社になりました。
そういう会社ですから、そのころはもちろん下請けも数多く、リフォームはお手の物。すべてお任せすることにして、担当の監督さんをわが家に呼び、相談することになりました。もちろん私はリフォームについては素人ですが、ちょうどそのころ専門学校の“デザインアート科”という科で教えていたり、陶芸という職業柄というか、主夫柄というか、インテリア等のコーディネートにはそれなりのこだわりがありました。 「新聞でコルクの床っていうのを見たんですけど、フローリングと比べてどうですかねえ?」 「キッチンはシステムキッチンで、私の身長に合わせて台を高く。ガス台はそれぞれ火力が違う3つ口で。リビングが油で汚れちゃうので、換気扇も大きい方がいいなあ」 「お風呂は浴槽をもう少しゆったり取りたいんですけど、ユニットで可能ですかねえ?」 「壁紙も白のビニールクロスだけっていうのはねえ。少しモダンな感じにしたいんだけど・・・」 「だいたいわかりました。それぞれの業者を大関さんのところに来させますから、相談してもらえますか」 そして翌日から、それぞれの業者と細かい打ち合わせです。まず壁紙と床の業者さん。 「リビングはこのコルク。子ども部屋はこれとこれで。壁紙は・・・、カタログってこれしかないんですか? もうちょっと派手目なっていうか、もうちょっと色の付いてるっていうか大きな柄があるっていうか・・・」 「それじゃあこのカタログにはないから、今度店舗用のカタログ持ってきますよ」 壁紙は店舗用の壁紙から選ぶことになって、 「この部屋はこれね。ここは子ども部屋なので楽しそうなやつがいいなあ。あれっ?この壁紙って、電気消すと光るの? へーっ、楽しそうじゃん! じゃあ、この部屋の天井はこれね。ここはエスニックっていうか、アラビアンっていうかそんな感じでしょ。こっちの部屋は純和風、洗面所は海かなあ。ああ、いいの見つけちゃった! このヨットの絵がついてるやつ」 次は、システムキッチンとユニットバスの業者さん。 「リビングダイニングの壁紙はこの色なので、そうだなあ・・・、キッチンはこの色かなあ。お風呂はこの大きさのものが付きますかねえ? 混合栓もこのタイプかなあ・・・」 最後は、ペンキ屋さん。 「それぞれの部屋の壁紙が、全然雰囲気が違うので、部屋ごとにペンキの色も替えてほしいんですよ。ここは青、ここはこげ茶かな。ここはちょっと濃いめのクリーム。全部で7色」 「大関さんねぇ、普通のお宅は、これくらいのマンションだったら3色くらいなんですよ。そんなちょっとの量をうちも仕入れられないし、こういうのって特殊な色だから、残っても他のお宅に使えないでしょ。7色は無理ですよ」 私はムッと来て、 「あなた塗装屋さんでしょ、そんな難しいこと頼んでないじゃない! 別にどこのどういうペンキ使ってくれっていってるわけじゃないんだから、ドイトだってエッサンだって買ってきて塗ってくれればいんだよ。ちっちゃい缶一つあればいいんだし、コストが上がった分なんて、うちが払うでしょ! 数百万のリフォーム代のうち、たかが数百円だよ」 「・・・」 「じゃあ、何色だったら塗ってくれるわけ?」 「なんとか3色以内に納めてもらえませんかねえ・・・」 「わかった。じゃあ、もういいよ。3色だけ塗ってください。後は私が自分で塗るから」 結局、7色のうち面積の広い3色をペンキ屋さんに塗ってもらうことにして、残りの4色は、私と翔(かける)の二人で塗ることになりました。 ・・・つづく・・・ |
(文:大関直隆) |
2006/06/05(月) |
第213回「ドイツのバレエ事情 後編」 | ||||||||||||||||
努(つとむ)は2年間、飯能から藤井先生のところへ通い続けました。習い始めのころのダラダラとした練習態度からすると、まったく信じられないことでした。レッスン中の努の態度を見ると、怒鳴りつけたくなることもしばしばでした。にもかかわらず、2年間も飯能から通い続けるなんて…。
努の卒業が迫ったとき、その後の進路について藤井先生に相談しました。 「本人ももう少し本気でバレエを続けたいようなのですが、どこか卒業後の受け皿はないでしょうか?」 「う〜ん、なかなかねぇ。どこか進学した方がいいんじゃないかなあ。大学で何か勉強しながら、今まで通り週に2回くらいレッスンに来たらどうですか。昼間、毎日通ってレッスンをするようなところっていうのはねえ…。日本には、バレエで生活できるような受け皿はないんですよ」 藤井先生から、期待するような答えは、返ってきませんでした。 バレエを本格的にやりたいという努の気持ちは、宙に浮きました。卒業後の努は、毎日ベッドでゴロゴロしてばかり。週に2回、藤井先生のところのレッスンに通ってはいましたが、昼間は特にやることもなく、やっと2歳になった翔(かける)をたまに公園で遊ばせるくらいなもの。結局、そんな生活のまま1年が過ぎてしまいました。 ちょうど1年経ったころ、転機が訪れました。その年たまたまローザンヌ・バレエコンクールが日本であり、その審査やダンサーの指導にフランスから訪れていたエドワード・クックという指導者にレッスンを受けることができたのです。それは、藤井先生が中心になって企画してくださった、セミナーでした。 身体は硬いし、特別センスがいいというわけでもない努の、どこがクックの目にとまったのか未だに謎ですが、クックは努に”カンヌのバレエ学校に来ないか”と誘ってくれたのです。しかもスカラシップで3年間授業料は一切かからないというのです。後でわかったのですが、フランスのバレエ学校というのは、小さなカンパニー(舞踊団)をいくつか持っていて、そのカンパニーで踊ることを条件に、授業料を免除しているらしいのです。もちろん国籍を問われることもなく、カンパニーの指導者の推薦だけで入学が許可されるのです。バレエで生計を立てようと考えていた努にとって、願ってもないことでしたが、突然のことで、さらに自信もなかったらしく、努は躊躇していました。これを逃してはと、親として背中をほんのちょっと押してやりました。 あれから18年。カンヌの学校で3年間を過ごした後も紆余曲折があり、一時は”闘牛士になる”とか言い出したこともありましたが、ハンガリー、イスラエル、オーストリア、そしてドイツと、とりあえずずっと向こうで踊っています。 現在のミュンスターは、ドイツでは2カ所目。ミュンスターの前は、ダルムシュタットで踊っていました。日本から見るとヨーロッパは、芸術を大切にする憧れの地。けれども実際は、そうとも言えません。基本的にダンサーは、スポーツ選手と同じような存在です。ずっと踊り続けられるわけではない。まあ、頑張って踊ったとしても、熊川哲也君のような世界のトップダンサーは別として、40歳まで踊り続けるのはかなり難しい。当然のことながら、故障も多くなるし、下には故障もしない、身体も利く若いダンサーがたくさんいる。 日本でも最近増えてきましたが、ヨーロッパでは劇場がそれぞれオーケストラや歌劇団、舞踊団などを持っていて、それらが交代で公演をします。もちろん給料もちゃんともらっていて、公演のない日も毎日稽古をしているわけです。努が言うには、劇場の舞台に立っている人間は、町の中でも特別な存在らしく、時々声をかけられたりするそうです。ドイツの場合、今はサッカーワールドカップで盛り上がっていますが、経済的には東ドイツの統合によりかなり厳しい状況にあります。劇場の予算はどんどん削られ、劇場そのものの維持が困難になるところもあるとか。つい先日かかってきた努からの電話でも、去年削られてしまいそうになった舞踊団を無理に残してもらったので、給料が大幅に下がって、今年は休暇になっても日本に帰る旅費がないと言っていました。 努は今年の12月で37歳。そろそろ舞台に立つのも限界です。ヨーロッパのダンサーは、多くが別の資格(たとえば弁護士とか医師とか)を持っていて、ある程度の年齢になるとダンサーをやめ、別な仕事に就くそうです。 日本のピアノ普及率が、他の先進国に比べて抜きん出ているのは、有名な話です。先日、日本楽器製造が現在のヤマハへと成長していった変遷を取り上げている番組を見ました。日本のピアノ普及率の高さは、ヤマハによってもたらされたものです。そして「ヤマハ音楽教室」という形態が、現在の「××教室」という形態に大きな影響を与えています。 ダンサーとして踊れなくなった努が、ドイツで「バレエ教室」を開くことは、かなり困難なことです。バレエを習うのは、努がお世話になったカンヌのバレエ学校のようなところであり、町中にある「バレエ教室」ではないから。給料をもらって、いかにも恵まれた環境の中で踊っているように見える努は、日本のように子どもたちに教えることで、一生バレエと関わっていくことは難しいのです。 どうやら努は、日本に帰ってバレエと関わって生きていくか、それともドイツに残って生きていくか、相当悩んでいるようです。 「この前ね、お祭りみたいなところで焼き鳥売ってみたんだよ。結構人気でね、200本がすぐ売れちゃった。ドイツで焼鳥屋っていうのも何とかなるかも」 と、妹の麻耶(まや)にだけは、話したそうです。 さて、いよいよ今日(6月5日)は、東京創作舞踊団創立45周年記念公演です。藤井先生のところでバレエを習っている子どもたちの将来はいかに! どんな道に進むにも、バレエを習っていたことが、人生を豊かにしてくれるといいですね。
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(文:大関 直隆) |
2006/05/29(月) |
第212回「ドイツのバレエ事情 前編」 |
ドイツのミュンスターでバレエ(正確に言うとモダンダンス)を踊っている長男・努(つとむ・36歳)がお世話になった、藤井公先生と利子先生率いる東京創作舞踊団が、創立45周年記念の公演「観覧車」を行うことになりました。藤井先生ご夫妻には、努、真(まこと)、麻耶(まや)の3人が、大変お世話になりました。
藤井先生との出会いは、24年前。1982年のちょうど今ごろの季節でした。詳しい話をするととんでもなく長くなってしまうので省略しますが、現在浦和駅西口にあるライブハウス「ナルシス」を私が始めた(ほんの短い期間でしたが、当時はB1が喫茶店、4Fがパブというかクラブというかそんな形態のお店で、2フロアで営業していました)とき、前衛芸術家の皆さんの作品を店内装飾にお借りしていました。お借りした芸術家のお一人から「とってもおもしろい舞台を作る舞踊家がいるから」と紹介されたのが、藤井公先生でした。私の印象は、「? この人が舞踊家? ただのおじさんじゃん!」というような印象でした。後で知ることになるのですが、公先生の二人のお嬢さんのうち、上のお嬢さんは私の妹と中学で同級生、下のお嬢さんは従妹と同級生、私と妹は2つ違いですから、上のお嬢さんは、私とも1年間中学校で重なっているんだということがわかりました。 「麻耶にね、バレエ習わせようと思うんだけど、どうかなあ? どこか、いいバレエ教室ない?」 妻は、自分が幼いころ習いたかったバレエの夢を、麻耶を使って実現しようとしました。「う〜ん、バレエねぇ・・・。あっ、そうだ! いつか大野さんに紹介された藤井さん、確か藤井舞踊研究所って看板出して、教室やってなかったっけ?」 「ああ、そうだねぇ。とにかく行ってみようか?」 それから藤井先生のところとの関係が始まりました。妻が麻耶にやらせたかったのは、トーシューズを履いて、チュチュを着て踊るクラシックバレエ。藤井先生のところでやっているのは、モダンバレエ(モダンダンス)。どこがどう違うんだか、違いがよくわからず、とにかくトーシューズを履くかはかないかの違いなんだということだけは、何とか理解して、麻耶を藤井先生のところに通わせることにしました。真にその話をすると、まんざらでもない様子。そのころかなり太っていた真を、何とか痩せさせるには、バレエっていうのはいいんじゃないか、そんな気持ちで真にも習わせることに。そして最後は努。 「努はさぁ、今のまま自由の森学園を卒業させても、そんなに学力もないし、特別何かの才能があるわけでもないし、進路に困っちゃうでしょ。真と麻耶が通ってる藤井先生のところでバレエやらせるっていうのはどうかなあ? バレエの世界なら、まだまだ男は足りないし、何とかなるかもしれないよ」 まさか、努がプロのダンサーになるなんていうことを、本気で考えていたわけではありませんでした。高校2年生、17歳になった努には、まだ“これっ”というものが見つかっていませんでした。バレエが何か努の人生のきっかけにでもなればというつもりで、 「おまえも、公先生のところへ行ってみない?」 と声をかけたところ、 「うん。見に行ってみようかなあ」 と努が乗ってきたのです。 そのころ努は、飯能にある自由の森学園のそばに下宿をしていました。藤井先生のところは浦和ですから、我が家からなら自転車で10分、15分の距離。けれども努の下宿先からは所沢、秋津と2回乗り換えがあって、2時間近くかかります。努はその距離を週に2回ずつ通っていました。努は高校生ですから、稽古はもちろん夜です。家にはちっとも帰ってこない努でしたが、夜9時前に終わることのないレッスンには、休まず通ってきていたのですから、驚きです。 つづく |
(文:大関直隆) |
2006/05/22(月) |
第211回「お弁当 後編」 |
朝起きてきた翔(かける)は、妻に言いました。
「今日はお弁当いいや」 「なんで持って行かないの?」 「・・・」 「ご飯も今炊いたんだから、持って行けばいいじゃない」 「いいよ」 「なんで?」 「だって、おふくろの作った弁当って、あれ弁当じゃないよ」 「はぁ?」 「だってさあ、“そのものだけ”しか入ってないじゃん! おれが好きって言うとそればっかりずっと続くし・・・」 「おまえの好きなもを入れてやろうとしてるんじゃないか!」 「そりゃ、わかるよ。だけど、いなり寿司がうまかったって言ったからって、一週間もいなり寿司が続いたら、いい加減やんなるよ。しかもだよ、弁当箱のふた開けたら、いなり寿司が8個、ドンドンドンって入ってるだけだろっ。あんなの弁当って言えるかよ!」 「じゃあ、どういうのが弁当って言うんだよ!?」 「弁当っていうのはさあ、ちゃんと何種類かのおかずがきれいな仕切りとかケースで仕切ってあってさあ、ふた開けたときに“わーっ、美味しそう!”って思えるようなのが弁当。そりゃあ、毎日そうしてくれとは言わないよ。だけどさぁ、昨日はいなり寿司だけドンドンドン、今日は弁当箱いっぱいカツ丼が詰まってて、あとは何も無しって言うんじゃ、みっともなくて、友達にも見せられないよ。それに何だよ、あの仕切り。ただのアルミホイルをちぎっただけじゃん。あれって、汁が周りに流れて、全部同じ味になっちゃうんだよ。なんで汁が出るようなものをあんな仕切りで入れるかねぇ・・・。もっときれいな仕切りとかしっかりしたケースとか売ってんじゃん!」 「おまえが贅沢なんだよ。好きなものがいっぱい入ってて何が悪い!? あたしが子どものころなんて、ご飯だけでおかずが何も入ってないなんていうのはましな方。なかにはふたを開けても中が空、水だけ飲んでおなかをふくらませた子だっていたんだよ。それでも、みんなにお弁当を持ってきてないことがわからないように、空の弁当箱を持ってきてたんだ」 「何言ってんだよ! それは次元が違うだろ!」 「わかった。じゃあ、もう弁当は作らないからな!」 「いいよっ、食堂で食うからぁ!」 この「弁当いらない事件」のあと約半年間、翔は妻の作ったお弁当を持っていきませんでした。半年くらい経ったある日、翔は私に、お弁当のことについて話しました。 「お母さん、“弁当作って”って言ったら、作ってくれるかなあ?」 「う〜ん、どうかなあ・・・。基本的には作りたいんだから、作ってくれるんじゃないの」 妻と翔がどのように和解をしたのか、私は知りませんが、なんとか和解が成立したらしく、その後、翔はおにぎりを持って行くようになりました。けれども、弁当箱に入った弁当を持っていかないところから察するに、妻の作った弁当が“弁当ではない”と言ったことに対して全面的に謝罪をしたというよりは、お互いの妥協点を探って、適当なところで和解をしたということなのでしょう。 孫の蓮(れん)の幼稚園もゴールデンウィーク明けからお弁当が始まりました。娘の麻耶(まや)は、 「入園するときは、“毎日お弁当といっても、負担にならないように、できる範囲でいいんです”って言う幼稚園の話をそのまま聞いてさぁ、食パンにジャムとバターを塗ったやつとか、肉まん半分とかね、そんなことでもいいのかなって思ってたんだけど、やっぱりそうはいかないよね。去年はお母さんにもずいぶんやってもらっちゃったけど、今年はあたしも一生懸命作ろうと思うんだ。もうちょっとすると沙羅(さら)もお弁当が始まって、二人分になるしね」 と話しました。そして、なにやらいろいろな道具を買い込んできて、でんぶでご飯の上にアンパンマンの顔を描いたり、ウインナーをカニのように切ってみたり、いろいろ工夫をしては、蓮が喜びそうなお弁当を作っています。モミの木の形に切られたハムを持って、蓮が私のところに飛んできました。 「じいちゃん、これ何だかわかる?」 「う〜ん、何だろうなあ?」 「これはねえ、ハムでしたぁ!」 なんだよ、形のことじゃなくて、素材のことかぁ・・・。てっきり形のことかと思ったぁ。 お弁当箱にきれいに飾り付けられたお弁当を見て、妻が言いました。 「ああ、これがお弁当かぁ。これがお弁当なら、私の作ってたのは、確かにお弁当じゃなかったかもなあ・・・」 かくして、「弁当いらない事件」は、決着したのでした。 まだお弁当の始まらない沙羅は、空のお弁当箱を幼稚園のカバンに詰めては、 「沙羅ちゃん、幼稚園でお弁当食べるぅ!」 と大騒ぎ。 「沙羅ちゃんも、もうすぐお弁当が始まるねぇ! 楽しみだねぇ!」 「うーん!」 |
(文:大関直隆) |