大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2007/03/12(月) |
第250回「誰の子?」 | ||||||||||||||||
民法772条により「戸籍がない状態になっている子」が問題になっています。
最近、テレビのニュースなどで大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いと思います。 民法772条【嫡出の推定】には、 (1)妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。 (2)婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。 と規定されています。 第1項により、婚姻中に懐胎した子は嫡出子と推定され、さらに第2項により、婚姻成立の日から200日経過後、または婚姻の解消もしくは取消の日から300日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定するわけです。 民法752条で、「夫婦は同居し、互に協力し扶助しなければならない」と定めていますから、夫婦は、同居して共同生活を営むというのが通常であり、さらに、770条【 裁判上の離婚原因 】で、夫婦の一方から離婚の訴を提起できる理由を、 (1)配偶者に不貞な行為があつたとき。 (2)配偶者から悪意で遺棄されたとき。 (3)配偶者の生死が三年以上明らかでないとき。 (4)配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。 (5)その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。 という5項目に限っていることを考えると、民法は、婚姻関係が継続している状態での夫婦以外の性的関係をかなり厳格に規定しているものと言えるわけです。 これは、「誰の子であるか」という問題が、ことさら財産権の問題である以上、やむを得ないのだろうと思います。 「夫婦は不貞をはたらかない」という前提のもと、それぞれの財産に関わる権利、養育の義務等を規定しようとすれば、妊娠期間を考慮して、表現としてこんな形になるのでしょう。今は、出生届を受理されず、「戸籍のない状態の子」が取りざたされていますが、よく考えてみると、実は“前夫”の子ではないにもかかわらず、養育費を払い続けさせられている“前夫”というケースも多いのではないかと思います。そういった意味では、不利益を被っているのは、女性や子どもだけとは言い難い部分もあります。 772条は、第1項、第2項ともに、「推定する」となっています。民法の規定には、「推定する」という表現の他に「看做す」(みなす)という表現があります。「看做す」という表現は、「性質を異にする事物について、法律上これを同一視する」「実際はどうであるかにかかわらず、こういうものだとして扱う」という意味で、「同一視する」「こういうものだとして扱う」というわけですから、基本的にはそれをひっくり返す余地はないわけです。772条は「推定する」となっているので、嫡出子ではないと証明されれば、夫の子ではないと判断がひっくりかえる可能性を含んでいます。そういう意味では、ひっくり返すこともそう難しくないということでもあるわけです。 それでは何が問題なのかと言うと、772条ではなくむしろその後の、 773条【 父を定める訴え 】 733条第1項(前婚の解消または取り消し後6ヶ月以内は結婚できない)の規定に違反して再婚をした女が出産した場合において、前条の規定によつてその子の父を定めることができないときは、裁判所が、これを定める。 774条【 嫡出の否認 】 772条の場合において、夫は、子が嫡出であることを否認することができる。 775条【 嫡出否認の訴え 】 前条の否認権は、子又は親権を行う母に対する訴によつてこれを行う。親権を行う母がないときは、家庭裁判所は、特別代理人を選任しなければならない。 という3条です。 どの条文を見ても、母親からは訴えを起こせない。 科学技術の進歩により、誰の子であるかがほぼ確定できる今日において、果たして、事実関係を曲げて戸籍を作ることや事実関係が明らかになるのにもかかわらず、形式を重んじて出生届を受理しないということが正しいのか・・・。 長勢法相は9日の閣議後の会見で「考える点、見直すべき点があるだろうと思う。どういう方策がよいか考えている」「きちんとやっている人が、あの条文のためにいろいろ支障を生じることがあるという話を聞いている」と述べて、法の運用を見直す考えを明らかにし、前夫との離婚成立後に妊娠したことが明らかなケースなどを念頭に置いて、救済策を講じる意向を示唆したそうです。事実関係がわからないならともかく、「わかる」という状況がある以上、どんな場合でも事実関係に基づいた処理ができるよう、法の運用を柔軟にすべきだろうと思います。 おそらく法相の発言の中には、「不貞をはたらいた女性まで保護する必要があるのか」という含みがあるものと思われますが、少なくとも前夫による婚姻中の不貞による「慰謝料請求」という道が閉ざされるわけではないわけだから、「親子関係不存在確認の訴え」や「嫡出否認の訴え」といった後ろ向きの訴えだけではなく、たとえ前夫の協力が得られないとしても、母親なり子どもあるいは新たな夫なりが、どんな形にせよ証明することで、「親子関係存在確認の訴え」が認められるよう配慮すればいいと思います。 事実を事実として真っ直ぐに捉える、それでこそ「推定する」という条文が生きてくるように思うのですが・・・。
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(文:大関 直隆) |
2007/03/05(月) |
第249回「ディズニーとマクドナルド」 |
「あれっ? また夕飯食べた形跡がない」
「??? ほんとだ! 何食べたんだろっ?!」 私と妻が家に帰るのは、ほぼ毎日10時過ぎ。この日も家に帰ってみると、朝、食事をしたときの形跡がやや残っているけれど、昼、夜を食べた形跡がありません。娘の麻耶が、二人の子ども(孫)たちに夕飯を食べさせると、いつもだったら食べさせたものが何か食卓やガスコンロの上に、多少は残っているもの。麻婆豆腐であったり、サラダであったり、カレーやシチューであったり・・・。カレーやシチューの時なんて、半端じゃない。「これで、明後日の朝まですませるんだから」なんて横着なことを言って、大きな鍋に20人前くらいのカレーやシチューが作ってあることもあります。 孫の蓮と沙羅は、まったく給食のない幼稚園に行っているため毎朝お弁当。朝、ご飯を炊いて、麻耶と孫たちが夕飯で食べてちょうどご飯がなくなり、私たちが帰るころまでにご飯が炊けるように炊飯器がセットしてあることもよくあります。私と妻の夕飯の分まで、おかずを作っておくようには言ってないので、カレーやシチューの時のように、麻耶の作ったもので充分におかずが足りてしまうこともあれば、仕事帰りにスーパーで買い物をして、私が何かおかずを作って食べることもあり、夕飯のパターンもいろいろ。ただ、どんなパターンの時でも、麻耶と孫たちが家で夕飯を食べたときは、何か形跡があって、麻耶と孫たちの食べたものがなんだか、おおよそ見当がつきます。ところがこの日はまったく形跡がない。 私がおかずを作って、夕飯を食べ始めようとしていると、娘の麻耶が寝室からリビングへ出てきました。 「おまえたち、どこか外で食べてきたの?」 「うううん。うちで食べたよ」 「? 何食べたんだよ?! 食べた形跡がないじゃん」 「まあね。買ってきてうちで食べたんだよ」 「はっ? またマクドナルド?!」 「へへへっ、そう!」 「おまえさぁ、別にそんなに時間がないわけじゃないだろっ?! 自分の子どもに食べさせるおかずくらい作ってやれよ」 「今日はいろいろ忙しかったんだよ。幼稚園で役員会があったでしょ、その後、スイミングでしょ」 「なんだよ、そのくらいのことでマクドナルドになっちゃうのかよっ!」 「へへへっ、まあね。蓮も沙羅も“マックがいい”って言うんだもん」 「まったく、これだよ。“いい”って言ったんじゃなくて、言わせたんだろ?!」 「まあ、そういうこと!」 食べた形跡がないときは、だいたいホカ弁かマクドナルド。今の子どもたちの生活は、私が子どもを育てていたころに比べると、ちょー多忙。孫の蓮と沙羅を見ていても、やたらと習い事が多いので、時間に追いまくられている。その分いろいろ外食産業やファーストフード店などが発達して、便利にもなっている。 先日、チャールス英皇太子が訪問先のアラブ首長国連邦で、マクドナルドは禁止すべきだと発言して、物議を醸しているそうです。皇太子は有機食品の熱心な提唱者として知られ、英メディアによると、皇太子はアブダビの糖尿病センターを訪れ、栄養学者と糖尿病対策について話をしている最中に、「マクドナルドを禁止しようとしたことはありますか? それが重要です」と語ったと言いますから、かなりはっきりマクドナルド批判をしたのでしょう。 それに関連にして、ウォルト・ディズニーが、これまでのマクドナルドとの契約を契約期間満了を機に切るというような報道もありました。これまでは、ディズニーのキャラクターをおまけにつけることで、マクドナルドは子どもへの販売を伸ばし、ディズニーは映画の宣伝などをしてきたわけですが、ディズニーによると子どもの健康面への配慮から、ファーストフードとの提携は打ち切ることにしたのだそうです。 日本では、子どもに対する食の安全は、子どもの将来の健康ということも含めて、非常に無頓着。アトピーや花粉症といったアレルギーが増加する中、もっと“食”ということを大切に考えた方がいいのではないかと思います。 |
(文:大関 直隆) |
2007/02/26(月) |
第248回「赤ちゃんポスト」 |
熊本市の慈恵病院が、「赤ちゃんポスト」の設置を市に申請している問題で、厚生労働省は、市に対し「医療法や児童福祉法などに違反しない」として設置を認める見解を示したそうです。
厚労省の辻哲夫事務次官は22日の定例会見で、「赤ちゃんの遺棄はあってはならないが、遺棄されて死亡するという事件が現実にある。今回は十分な配慮がなされてポストがつくられれば、認めないという理由はない」と述べたということです。 刑法施行当時のことから考えると、「子どもを捨てる」ということは想定内、「子どもを捨てさせる」ということは想定外ということだったのでしょう。だから、「捨てる」という行為は罰せられても、慈恵病院の行為のように「救う」ということが前提の「捨てさせる」という行為に対しては、認めない理由がないと…。 そうは言っても、専門家の中には、保護責任者遺棄幇助に当たると考える人たちもいるようです。子どもの捨て場所を作るという行為が、「救う」なのか、「捨てさせる」なのか、いずれ法の場で裁かれることになるかもしれません。 多くの赤ちゃんポストが設置されているドイツが、よく引き合いに出されますが、歴史も宗教観も違うところを単純に引き合いに出すことは、どうかと思います。 テレビを見ていると、この問題について、ニュースキャスターやコメンテーターが、様々な意見を言っています。おおかたの意見は、「反対だけれど、捨てられて死んでしまう子どもを救うためって言われると…。難しい問題ですね」というような感じでしょうか。 賛成という人たちの考え方というのは、「ポストの設置によって一人でも赤ちゃんが救えるのなら」ということでしょう。そして反対という人たちの気持ちの中にも、「遺棄を助長するから」という気持ちはあるけれど、「死んでしまうよりはまだましかも」という迷いがある、「じゃあ遺棄されて死んじゃってもいいの?!」と言われると、なかなか有効な手段が提示できないだけに、「絶対反対」とは言いづらい。 私は、こういった議論の中に、決定的に欠けていることがあると思います。それは、「子どもが死んでしまうような遺棄の仕方をする人が、わざわざポストまで行って子どもをそこに入れるのか」という議論です。これまでの赤ちゃんの遺棄事件を考えたとき、「もしポストがあったら救えた」というような事例があったでしょうか。いくら考えても、押し入れの中の段ボールに生まれたばかりの赤ちゃんを入れてしまうような人や道端に赤ちゃんを放置してしまうような人たちが、果たしてポストまで赤ちゃんを入れに行くのか、という疑問にぶつかってしまいます。 「捨てる側」と「救う側」の意識のずれは、相当大きなものなのではないか…。 赤ちゃんが死んでしまうような捨て方をする人たちの中に、「子どもを助けて!」という叫びがあるのだろうか、と疑問を抱かずにはいられません。 おそらく、今回のポスト設置で、殺される子どもたちは減りません。私が懸念しているのは、むしろ「赤ちゃんをポストに捨てる」ということを国が認めるということで、命を軽んじる風潮が広がり、殺される子どもが増えるかもしれないということです。多くの人が心配しているように、ポストがなければ捨てられないのに、ポストがあるから捨てられるということは起こるでしょう。それを「ポストのせいだ」と証明するのは難しいことですけれど。慈恵病院は「ポストがなければ、この子は死んでいたかもしれない」というような言い方をして、ポストに入れられる子が多ければ多いほど、ポストの正当性を主張するのだろうと思います。ポストがなかったら、捨てられないですんでいたかもしれない赤ちゃんなのに…。以前、病院やお寺の前などに子どもが置き去りにされるということがよくあった。もしかすると、子どもが死んでしまうかもしれない、でも死なせたくない、そういう葛藤の中で、子どもが生き延びられる可能性が高いところを選んで遺棄した。そこには、「子どもが死んでしまうかもしれない」という遺棄に対する歯止めがあった。絶対死なないとわかっていたら、かなり遺棄はたやすくなる。 子どもは、「社会のもの」、「地域や国の宝」という考え方があります。私もそれには賛成です。子どもは夫婦が育てるというより、国民すべての総掛かりで育てるといった方が正しいのだろうと思います。けれどもそれは、子育てのすべてを地域や国といった社会が負うという意味ではありません。子育ての責任を負っているのは、当然のことながらまず第一に両親です。親が親として子どもを育てられるよう援助していく、それが政治や行政や国民すべてにおわされた負担だと考えるべきです。 ポストの設置によって守られるのは、いったい誰の権利なのか。一見、「死から子どもを守っている」ように見えるけれど、仮にポストで子どもを死から守れた(私はそう考えませんが)としても、やはり犠牲になっているのは子どもに他ならないのです。結局保護されるのは、親の無責任とエゴだけです。 社会全体に、「辛くて苦しいことはイヤ!」という風潮が蔓延している現在、また一つ「大人が楽をする」という流れを作ってしまうことがとても心配です。親が親としての責任をしっかり背負って、それでも楽しく子育てができるよう援助をするのが、あらゆる社会資源の責任。対処療法的スタンドプレイに走るのではなく、遺棄される子どもを守るために、もっと子どもの立場に立った地に足の付いた援助の仕方を真剣に考えるべきだろうと思います。赤ちゃんポストの設置以外に子どもの命を救う方法がないというほど、日本の子育てに対する支援がやり尽くされているとは、到底思えないのですが…。 |
(文:大関 直隆) |
2007/02/19(月) |
第247回「穏やかな春の風景」 |
「麻耶(まや)に電話してよ。こんな日のこんな時間に来たってダメだと思ったよ。この車の列。20台くらい並んでるでしょ?」
妻が助手席で麻耶の携帯に電話をしました。 「駐車場に入るのに凄い車の列だけど、どうする? 今、列のところを通過しちゃったんだけど、どうしてもグリーンセンターがよければ、戻るよ」 妻の携帯から時折漏れる麻耶の声は、別にグリーンセンターに固執しているわけではない様子。携帯電話での妻と麻耶の会話に聞き耳を立てながら、ゆっくりと車を走らせ、グリーンセンターから離れました。 「麻耶はどこでもいいってよ。列に並んでまで、グリーセンターでスケートにこだわってないって」 2月12日の振り替え休日、笠間での穴窯焼成(第246回参照)に5日間を見ていたのが、たまたま温度上昇がうまくいき、4日間で済んだために生まれた私の休日。孫の蓮(れん)と沙羅(さら)が、アイススケートをやりたがったので、川口グリーンセンターに向かいました。グリーンセンターでのスケートは、未就学児の入場には、原則子ども一人に対し、大人一人の付添が必要です。前回初めてスケートのためにグリーンセンターを訪れたとき、麻耶が一人で蓮と沙羅を連れてきてしまったので、入場してから(原則は子ども一人に大人一人ということになってはいるらしいのですが、このときは何も言われずに入場はできたんだそうです)わざわざ翔(かける)を呼んだということがあったので、めずらしく私と妻そして翔までが一緒に出かけられたこの日は、麻耶一人では連れて行くことができないグリーンセンターでのスケートということになったのです。 「蓮くん、沙羅ちゃん、グリーンセンターは混んでるから、今日は大崎公園に行ってみよう!」 「うん!」 蓮と沙羅の元気な返事が、後ろの座席から返ってきました。暖冬のためか、すでにいろいろな花が楽しめる今年は、遊具有り、花有りのグリーンセンターのようなところは、小さい子ども連れから年配の人たちまでもが押し寄せるので、混んでいるのは当たり前。ちょっと見通しが甘かったようでした。 妻は、大崎公園も混んでいるのではと心配していましたが、さすがにグリーンセンターとは違い、すぐに車も止めることができました。蓮と沙羅のお目当ては、有料の遊具。真っ先に二人乗りの足こぎのモノレールとバッテリカーのところへ向かいます。たまたま足こぎのモノレールには列がなく、すぐに乗ることができました。 「バッテリーカーは、どこに並ぶのかなあ?」 「並ばなくてもいいみたいよ。ほら、あの子みたいに自分の乗りたいやつを狙ってて、空いたら急いで走っていって乗ればいいみたい」 「取りっこになっちゃたりしないように、列を作った方がいいんじゃないの?」 「それほど混んでるって判断してないんじゃないの、係のおじいさんたち。待ってる子のことは気にしないで、乗ってる子たちに注意がいってるもん」 シルバーの人たちが整理に当たっていましたが、周りで待っている子どもたちにはまったく意識がいっていない様子。でも、しばらく見ていても、取りっこになっている様子もなく、みんな適当にそれぞれが目指す車に乗っています。パトカー有り、消防車有り、二輪車有り・・・。ここの周りで子どもに付き添っているのは、お父さんが多いのですが、どうやらお父さんたちが取りっこにならないよう、子どもの気持ちをうまく抑えているようなのです。 「たっくん、ほら待ってる人がいるんだから、早くどいてあげようね」 「マーちゃん、あの車はあの子が乗りたいんだよ。こっちの車に乗ろうね」 まったく大人の怒鳴り声もなく、子どものぐずる声もなく・・・。 バッテリーカーに何度も何度も乗ったあとは、隣の遊具へ。ジャングルジム有り、滑り台有りの遊具です。私がベンチに座って、子どもたちの遊ぶ様子を見ていると、自分の子どもがケガをしないように見ているお父さん、お母さんたちが、ここでも他の子どもたちに気を遣って、 「順番だよ。一度やったら、後ろに並ぼうね」 「小さい子がそばにいるんだから、乱暴に遊んじゃダメだよ」 と自分の子どもに注意を与えていました。 「最近の若い親」という言われ方をしている若いお父さんやお母さんたち。いやいや、とんでもない。一生懸命いい子育てしてるじゃないの。日本の未来も捨てたもんじゃないかな。それに比べて、最近の政治家は・・・。 子どもを育てるお父さんやお母さんたちの優しい心に、ほのぼのとさせられた久しぶりの休日でした。 |
(文:大関 直隆) |
2007/02/13(火) |
第246回「地球温暖化」 |
「夜、一人で窯焚きをしてるとね、薪が話しかけてくるんだよ」
「???」 「だからさ、薪がね、“フニャララ フニャララ、チャクチャクチャクチャク・・・”ってね、しゃべるの! だからさぁ、ほら、こうやって耳に手を当てて、よく聞いてみたんだよ」 「???」 「あぁ〜、もう! だからさぁ、こうやってぇ、耳に手を当てるでしょ、それで薪がしゃべってるのを聞いたんだって!」 「言葉?」 「そうだよぉ! 薪が何かしゃべってるんだってばぁ!」 「はぁ? 大関さん、やばいよ!」 「なんで?!」 「ちょっとさぁ、あんまり寝てないんで、おかしくなってんじゃないのぉ?」 「何言ってんの! 薪もしゃべるのぉ! それだけじゃないからねっ! そこのほらっ、煙突の後ろのとこ、赤い大きな光がすーっと登っていったんだからぁ!」 「ほらほら、きたきたっ! そのうち“でた〜!”とか言うんでしょ?!」 「えっ? 私は幽霊なんて信じてないもん! 無神論者だし。でも、薪はしゃべるの!」 3回目の穴窯焼成。(第203回参照)四晩の徹夜を覚悟しましたが、空気が乾燥していたせいか、温度の上昇も順調で、大きなトラブルもなく4日目の夜、火を止めて、一晩早く帰ってくることができました。窯の火以外まったく意識させない、文明から隔絶された真っ暗な闇は、人間の弱さと孤独を感じさせます。普段人間社会の中で生きていると、世界は人間で回っているとばかり思っているのですが、この楞厳寺での窯焚きの時間は、人間は大きな自然の中のほんの小さな生命なんだということを実感せずにはいられません。温暖化の影響でしょうか、2月というのにとても暖かく、窯焚きの間一度も北風が吹きませんでした。昼は暖かく、夜中には夕立のような雨が降る。すぐ近くに落雷があったようで、ものすごい閃光と雷鳴が、孤独感を一層強くさせました。なすすべもない自分を強く意識し、孤独感は増大します。人間なんて、自然界の前では何もできない存在なんだ。 「もしこの雨が強くなって山が崩れたら、私は助かるだろうか?」そんな疑問は、疑問にもなっていません。答えは明らかなのだから。そんなとき、自分が人間であることを止めて、自然の中に入ってしまうと、ずいぶんと気が楽になります。薪が出すさまざまな音に耳を傾け、屋根をうつ雨の音や木の葉を擦る風の音とも会話をする。自分のすべてを自然にゆだねる。 温室効果ガスの影響で、地球の温暖化が進んでいます。まるで、自然に勝ったように誇らしげに生きる人間。けれども、自然の驚異の前に人間には為す術がありません。自然に勝とうとどんなに立ち向かっても、人間の微力さを痛感するだけです。人間は、一刻も早く自然と対話をし、謙虚に自然と向き合う必要があるのではないかと思います。 子どもたちにどんな地球を残せるのか、私たち大人は少しでも世代間の不平等を埋める努力をしなければならない時がきています。 車の排ガス規制が一段と厳しくなろうとしています。これまでの文明をさらに文明を進化させることで自然を守ろうとしているのです。それもとても大切なことですが、一人ひとりがもっと自然を大切にし、人間も自然界の一員なんだという自覚を持つこと、そして自然に対して謙虚になること、そういうことが求められているんだろうと思います。 地球温暖化は、待ったなしです。異常気象が年々ひどくなっていく中、子どもたち、そしてその子どもたち、そしてさらにその子どもたちにも、平等な地球環境を渡すために、真剣な取り組みをしなければならないということを実感した、自然とのふれあいの4日間でした。 |
(文:大関 直隆) |
2007/02/05(月) |
第245回「いじめ加害者の自殺」 |
とうとう加害少年が自殺してしまいました。今回の千葉県での中学2年生の自殺は、いじめの加害者として指導を受けた翌日の事件で、前日の指導が引き金になっているのではないかと見られています。
報道によると、自殺した少年は、普段いじめられていたといい、今回初めていじめる側に回ったとされています。同級生の男子は、自分の母親に「まじめないい子。彼もいじめられ、ストレスになっていたのでは」と話しているとのこと。倒れていた生徒の脇には「ごめんね」などと書かれたノートが落ちていたんだそうです。しかも、ノートには被害生徒の名前もあり、男子生徒が謝罪の気持ちを記したのではないか、と・・・。 自殺した場所は、被害生徒の住むマンションでした。自殺した少年にとって、いじめに加わったことが大きな心の重荷になっていたのでしょう。今回の事件は、亡くなったお子さんのご家族だけでなく、いじめの被害者になった子どもとその家族、他の加害生徒とその家族、そしていじめの指導に当たった先生たちなど、すべての立場の人間にとても大きく、深い傷を残してしまったように思います。自殺した生徒の担任で40歳代の女性教諭は、ショックで寝込んでおり、事情を聞ける状態ではないのだそうです。お気の毒なことです。前日の指導に行き過ぎがなかったか、市教委などが事情聴取を行っているようですが、亡くなった少年が、死を選んだのですから、それがどんな内容の指導であったとしても、その子にとっては、自殺をするくらいの「行き過ぎた指導」であったことは明らかです。ただ、それが指導をした教員の責任であるかというと、それもまた違います。 問題なのは、どんな指導をしたかではなく、教育再生会議が盛んに主張している「いじめる側の生徒に対する毅然とした指導」、つまり「いじめる側といじめられる側という区別をして、いじめる側を指導する」という行為であり、その区別が存在する限り、今回のような事件は今後も起こり得ると言えます。「毅然とした」ということに、すべて反対なわけではありませんが、それが「体罰(出席停止とか別室で指導とかいうことに強制力を持たせるようなことも含めて)を伴う厳罰化」を意味するものであるのであれば、それは今回の事件のような引き金になるだけで、いじめの本質的な解決や、自殺の防止につながるとは、到底考えられません。 マスコミをはじめ、いろいろなところで語られている「いじめる子もいじめられていた」とか「いじめる子も、いついじめられる側に回るかわからない」とか、またその逆に「いじめられている子も、いついじめる側に回るかわからない」などの見解も、それはその通りでしょう。けれども、もっと重要なのは、「いじめる側になる可能性」や「いじめられる側になる可能性」ではなく、いじめている子が、なぜいじめるのか(他人をいじめるという行為に走るのか)という点を突き止め、解決することです。 いじめは、いじめを引き起こす原因をなくせない限り、続きます。いじめた子に対し厳しい指導をし、その子がいじめを止めたとしても、いじめを引き起こす原因が解決されていなければ、今度は別な子がいじめをするだけで、なんの解決にもなりません。 いじめた子に対する指導というのは、指導する側にとって非常にわかりやすく、周りに対しても「指導をした」ということが明確になるので、説得力を持ちます。しかも一時的には、いじめた子どもたちもおとなしくなるので、効果があったようにも見えたりしますが、実は見えないところでいじめが起こっていたり、いじめのない状況が長続きするとは言えません。いじめている子どもたちに対する心のケア(どうしていじめたくなるのか)の部分を先送りしたのでは、いじめに対し対策を講じたことにはならないのです。しかも、全体像を見ずして指導をすれば、今回のような加害生徒の自殺という最悪の結果を招きかねません。 今、大人に必要なのは、「いじめる」「いじめられる」の区別ではなく、「いじめられる側」も「いじめる側」も、「大人が作り出した社会構造の中での被害者である」という、子どもに対する優しさや思いやりです。 今回の千葉県の事件で、実際にどのような指導が行われたかは、定かではありません。けれども、それは加害生徒に対する指導の強化という政治的な動きの中で、学校がとった対応であり、学校や指導に関わった教員の問題ではありません。 学齢期に達していないような小さな子どもたちを見ていると、子どもたちの持っている純粋さが伝わってきます。その純粋さを失わせ、「いじめる子」「いじめられる子」の区別を作ってしまっているのは誰なのか、私たちはもう一度深く考えなければなりません。われわれ大人が自分たちの行ってきたことに対する責任を子どもたちに転嫁し、叱り、指導するのではなく、われわれ大人の責任として大人の中で解決していく必要があるのではないでしょうか。子どもたちは、どんな子どもたちも被害者なのです。 |
(文:大関 直隆) |
2007/01/29(月) |
第244回 「運転手さん、ありがとう!」 |
受験シーズンたけなわです。
うちのカウンセリング研究所に教育相談やカウンセリングに訪れている子どもたちも、何人かが高校受験を迎え、先週くらいから合否の報告が寄せられるようになりました。うちは塾ではないので、訪れている子のほとんどが、いじめに遭っている子であったり、不登校傾向のある子であったり、リストカットやオーバードーズ(過量服薬)の子であったりと、受験についてはご両親も本人もそれなりに不安を抱えている子どもたちです。通常、受験勉強を見ることはしないのですが、塾に通ってはいても、勉強の仕方がかなり雑であったり、塾に行くことでかえって家庭学習への意欲がそがれていたりといった場合には、「生き方」の軌道修正のために、教育相談やカウンセリングの中に受験勉強を取り入れることもあります。けれども、それはあくまで教育相談やカウンセリングであって受験勉強ではないので、偏差値を上げることが本来の目的ではありません。心に傷を負っている子どもたちが、いかに明るく、前向きに生きていけるようになるか、そのお手伝いをしているだけです。入試の合格が本来の目的ではないわけだから、「合否だけ」に一喜一憂することはないのだけれど、この受験を「どう乗り越えるか」ということが、その後の教育相談やカウンセリングに大きく影響を及ぼすことにもなってくるので、受験をどう感じ、どう行動し、どうなったかということが、とりわけ気になります。入試が大きな心の重しとなって、それがうちを訪れることのきっかけになった子も少なくないので、そういうお子さんや親御さんは、無事合格することで、一山越えることもしばしばですが、そんな場合でも、「どう乗り越えるか」がその後を大きく左右することにはかわりありません。 今年の受験生ですが、何人からか合格の連絡をもらいました。本人もご両親も、無理かもしれないという不安な中での入試だったので、とても喜んでいる様子で、きっと合格したことが、今後の自信につながっていくことと思います。 さて、受験ていうのは、子どもたちにいろいろな経験をもたらします。その受験生A君の話から。 A君は学校でいじめに遭い、不登校傾向があり、本人ではなくお母さんが相談に来ています。2学期からはほとんど休むことなく学校に通えていたのですが、それまでのことや入学後の生活にも不安を抱えながら、先日高校受験に望みました。そんな不安のせいなのでしょう、受験当日、駅から学校までの道程に自信が持てず、近くにいた制服を着ている子に付いていくことにしました。ところがこれが大失敗。同じ駅を使っている別の高校の子たちに付いて行ってしまったので、気付いたときには自分が受験する学校に急いでも、間に合いそうもない。その上お金も1,000円しか持っていませんでした。 お母さんに電話をして、「どうしよう!?」ということになったらしいのですが、お母さんは「駅に戻って、タクシーを使いなさい。運転手さんに事情をよく話して、もし足りなければ、こちらの連絡先を伝えて、お金をあとで送ることにして」と指示したとか。A君は急いで駅まで戻ってタクシーに乗り、8時50分までに学校に着かなければならない旨を運転手さんに告げました。「よっしゃ、まかせとき(関西弁ではなかっただろうけど、“き”っていう柔らかさだったんじゃないかと勝手に解釈して)。15分で行ってやる!(このときすでに8時30分でしたが45分には着く計算)」 タクシーは、本当にほぼ15分で到着。着いたときは8時46分でした。 ところが、運賃は1,080円。やはり足りない。メモ用紙に住所を書こうとしていると、「そんなことしてなくていいから、早く行きな!」運転手さんは、80円足りない運賃を受け取り、A君を降ろしてくれたんだそうです。 う〜ん、こういう人もいるんだなあ・・・。世の中捨てたもんじゃない。『間違えたA君が悪いんだから、しっかり指導しなきゃならん。』厳罰主義を掲げる教育再生会議の委員さんなら、そう言いそうだけれど、教育なんてそんなもんじゃあない。A君が間違えたのは、これまでのいろいろな背景があってのこと。こういう大人の心が、将来の優しい大人を作るんだよなあと、合否とは無関係なことなのに、受験だからこそ遭遇したそんなエピソードに、A君は一回りも二回りも大きくなったことと思います。 たかが80円のことだけれど、A君は一生80円の恩を忘れないんでしょう。そして、もう一度受験をすることがあったら、今度は制服の子どもたちに付いていくなんていうことはしないんだろうと思います。 「運転手さん、ありがとう!」 とても優しい運転手さんにめぐり逢えたA君。でもこれは偶然ではなく、もしかすると受験に真っ直ぐ立ち向かおうとしているA君の姿勢が、優しい運転手さんを作ったのかもしれません。 |
(文:大関 直隆) |
2007/01/22(月) |
第243回「♪ミルキーはママのあじ〜♪」 |
不二家と言えば、私の世代の多くは「ミルキー」という言葉が返ってくるんじゃないかな?♪ミルキーは ママのあじ〜♪のCMは有名。ペコちゃん・ポコちゃんのキャラクターは、たかが洋菓子メーカーのキャラクターというには、あまりにも大きな存在で、私に言わせれば、今のハローキティやアンパンマン、ドラえもんなどにも匹敵する、いやいやそれ以上の存在かもしれません。もちろん少し前の人形にはプレミアが付いているし、私たち「洋菓子と言えば不二家」というような世代ではない今の子どもたちでも、ペコちゃん・ポコちゃんを知らない子どもはまずいないんじゃないかと思います。
それがあんなことになっちゃって・・・。 ミルキーの、ペコちゃんが大きく描かれた赤いパッケージは、とにかくかわいい。明治や森永のキャラメルとは違い、「ウチのターゲットは子どもですよ」と宣言しているよう。ミルキーの千歳飴を食べたときは、ほっぺたが落ちそうになるくらい美味しいと思っちゃいました。「これは負け〜!」っていう感じです。まだまだ私のころには、七五三に千歳飴を配ることが多くて、よくあちこちからもらったものですが、ミルキーの千歳飴をくれた人に対するイメージが、もらう前と比べてがらっと変わっちゃったりして・・・。冗談じゃなくて、それくらいインパクトのあるものだったんです。今そんなものってあるかなあ??? 経験がある人もいると思うんですが、15pくらいの千歳飴を一気に食べてしまうんです。なかなか止められないあの味は、まさに「ママの味」で、子どもたちにとって、チョコ、キャラメル、アイスというようなお菓子の種類を総称して呼ぶようなものの中にはくくることができなくて、ミルキーはチョコ、キャラメルと同じように「ミルキー」という一つのお菓子のジャンルを作っているなあと感じます。 ソフトクリームを食べると、ときどきその「ママの味」のするものに当たることがあって(確かどこかのコンビニだったかファミレスだったかで食べた)、「あっ、これミルキーの味がする!」と感動します。それって本当は「ミルキーの味」じゃなくて、「ミルク」の味なんだけど、「ミルキーの味」って言わしめるミルキーのすごさ。 そんなミルキーの「不二家」の事件はショックだし、許せません! 子どもに夢を売るはずの、お菓子メーカーがこれほどの体質だったとは・・・。次から次へと出てくる不祥事にただただあきれるばかり。食品の「期限切れ問題」は雪印問題が記憶に新しいところ。あれほどの事件になったのに、どうして懲りないのかなあ? 私なんて、未だに雪印の製品を買うのを躊躇しちゃいます。でも、スーパーに行ってチーズやマーガリンの棚を見ると、ほとんどが雪印製品。同程度の製品で、同程度の値段のものを探そうとすると、なかなかなくて苦労します。それでもつい一週間ほど前に雪印のマーガリンを買うまでは、雪印は買わなかったんです。そうしたら、今度は不二家でしょ。 消費者は、期限切れにはかなり敏感です。肉や魚といった生鮮食料品を買うとき、消費期限を重視するのは当然ですけれど、牛乳やジュースみたいなものでも、同じ棚に消費期限が違うものがあれば、割引にでもなっていない限り、消費期限がより長いものを買おうという心理が働きます。お菓子のようなものでさえ、一応消費期限は見ますよね。けれど、消費者には原材料のところまで確かめる手段がないわけだから、そこのところはメーカーとの信頼関係だけで成り立っているわけです。 不二家のように、主なターゲットを子どもに置いているようなところが、今回のような不祥事を起こすのは、とても残念です。会社として考えれば、三菱ふそうやパロマ、シンドラー社といった一連の不祥事と何ら変わるところはないし、むしろ死者が出ないということでは、もっと軽い問題なのだろうけれど、子どもに夢や喜びを与えるようなメーカーには、利益追求だけではなく、もっと純粋であってほしい。 大人たちが今、子どもたちとどう向き合っているかといえば、不二家と同じような姿勢で子どもたちと向き合っている大人が多いのでないかと思います。一人ひとりの大人が、子どもたちとどう向き合うかしっかりと考えないと、これまで以上に子どもの受難は続くことになるだろうととても心配です。 子どもの夢を裏切らない、誠実な大人社会であるよう、私たち一人ひとりがもっと真剣に考え、これからの社会を担っていく子どもたちを、もっと丁寧に育てていくことが強く求められているのだと思います。 |
(文:大関 直隆) |
2007/01/15(月) |
第242回「地震、雷、火事、親父」 |
あけましておめでとうございます。
一昨年の義父に続き、昨年は9月に義母が亡くなったので、プライベートには新年のあいさつは遠慮させてもらったのですが、やはり仕事の部分ではそうもいかず、1000枚に近い年賀状を買って、陶芸教室、ライフクリエイト、カウンセリング研究所の名前で、出させてもらいました。二人とも90歳を越える高齢で、それほど社会と大きな関わりがあったわけでもなく、本当に近しい人たちだけで送ることにして、こちらから積極的にお知らせをすることをしなかったので、20通ほどの義母宛の年賀状を受け取ることになってしまいました。義父が亡くなってから、ヘルパーの皆さんに助けてもらいながら熊谷で一人暮らしをしていた義母に、何度となく「こっちに来れば」と誘ってはみたのですが、いつも返ってくる応えは、「もう少し家の片付けをしたいんだよ」でした。 義父とたった二人で暮らしていたわけですから、片付けなんてあるわけもなく、それまでの自分の生活を変えることはとっても難しいんだなあと、つくづく感じました。そんな風な生活のまま、まったく患うこともなく逝ってしまった義母なので、死の瞬間に立ち会ったとは言え、なかなか義母の死を受け入れられずに4ヶ月が過ぎてしまいました。義母宛の年賀状を見ると、「お義母さん、こんなんでどうですか?」と義母が出す年賀状をパソコンで作っていた記憶が、昨日のように蘇ってきて、あらためて義母がいないという実感が遠くの方に追いやられてしまうのでした。 義母は、90歳という長寿を全うし、苦しい戦争体験はあったにしても、孫や曾孫にまで囲まれて、幸せな最期だったと思いますが、昨年は、いじめによる自殺や子殺し、親殺しなどが次々と起こり、とても悲しい1年でした。今年こそは、そんな悲しい流れを断ち切り、子どもたちにとって幸せな年でありますようにと願わずにはいられません。 さて、昨年暮れに産経新聞の取材を受けてから、どういうわけかマスコミづいていて(それだけ教育が世の中の大きな問題であるということなのでしょう)、12月27日に妻が「ジェネジャン!!」(日テレ)の収録に行ってきたと思ったら、一昨日(1月13日)は読売新聞からコメントがほしいということで電話をもらいました。「ジェネジャン!!」のオンエアも一昨日で、収録の日には、「今回はわりにうまく言えたんじゃないかなあ・・・」なんてめずらしく言っていた妻でしたが、TVっていうのは、話したことのすべてがオンエアされるわけではなく、放送を見るまで自分がどういう感じに視聴者に映るかがわからないので、昨日は収録の日以上に緊張しているようでした。まあ、放送を見た限りでは、悪い感じには映っていなかったけれど、「もっとしゃべったのに、大事なところ切っちゃってる!」と文句を言っていました。「肩書きはカウンセラーで」って言ったのに、妻が話し始めの部分で、「夫は16歳年下の教え子で」みたいなことを言うから、結局高校の卒業アルバムは使うわ、肩書きは「元教師」になっちゃうわで、「ああ、またやっちゃったぁ」っていう感じでした。今は、カウンセラーとして仕事をしているので、そろそろそこからは脱皮しなくちゃいけないんですけどね。 読売新聞の取材は、県の青少年課が青少年に対する政策の基本方針となる「青少年健全育成方針」を作成するために5年に1度行っている調査に対するものでした。その調査では、今回初めて親のしつけに関する質問項目を盛り込んだんだそうですが、子どもから見ると父親のしつけを「厳しい」と思うのは53.4%、母親のしつけを「厳しい」と思うのは62.2%とのことでした。また、保護者から見ると、「父親が厳しい」は43.7%、「母親が厳しい」が54.6%。質問の内容は若干違いますが、保護者も子どもと同様、母親が厳しいという結論になったようでした。 読売新聞からの電話は、「昔は“地震、雷、火事、親父”と父親は怖いものの代表だったが、今回の調査では“甘い父親”、“怖い母親”という調査結果になっているけれども、それについてどう思うかというものでした。 確かに父親のしつけという点では、昔と比べて甘くなってはいるんだろうと思います。では、母親のしつけは厳しいのかというと、実はそれも甘くなっている。それではなぜ、父親よりも母親の方が厳しいと感じるのかというと、いくつか理由はあると思うのですが、一つは、父親が子どもに関わる時間が母親よりも絶対的に少ないので、子どもに対する理解も浅い上、厳しく対応する物理的時間もないこと、もう一つは、長時間子どもと接している母親が、「しつけ」というよりも、子どもを自分の思うように動かそうとさまざまな要求をしていることを「しつけが厳しい」と親も子も勘違いしているからだろうと研究所として答えておきました。昨日(14日)の朝刊に「大関洋子」の名前でコメントが載っています。どちらかというと、あとの方に重きを置いたつもりだったのですが、載っていたのは前の方でしたが・・・。 「地震、雷、火事、親父」。う〜ん、そんな言葉があったっけなあ・・・。すっかり死語になっちゃってるみたいです。確かに、子どもにとって「厳しい」ということは必要なことなのでしょう。最近の父親、母親の傾向を見ていると、子どもに対する「甘さ」が目立ちます。「しつけ」というものがもっとあってもいい。けれども、「しつけ」というものは、社会にモラルがあって初めてあるものです。政治家の事務所経費の問題や不二家の期限切れ牛乳の問題を見ていると、「モラルがないのは子どもの世界ではなく、大人の世界」。「子どものしつけ」なんていうことを議論する前に、まず「大人のしつけ」をしないことには、子どもに対する必要な厳しさも、語ることができませんよね。 今年も、「大人に厳しく、子どもに優しく」でいきましょう! |
(文:大関 直隆) |
2006/12/25(月) |
第241回「ほんとにサンタクロース?」 |
ピンポーン。朝10時。
玄関のブザー(“ブー”じゃないからブザーじゃなく“呼び鈴”?)が鳴りました。妻が受話器をあげて、「はい、はい」と答えています。 「印鑑どこだっけ?」 どうやら、宅急便らしいです。玄関で荷物を受け取っている妻の声が聞こえました。リビングに戻ってきた妻は、4、50センチくらいの蓋が少し盛り上がった段ボールを抱えています。 「蓮くん、沙羅ちゃん。サンタさんからプレゼントが届いたよぉ!」 「えっ?!」 私、麻耶、翔が、一斉に声をそろえて顔を見合わせました。私も、麻耶も、翔も、誰かから送られてきた小包を、妻が「サンタさんからのプレゼント」と言ったとばかり思って、「誰?」と妻に聞くと、 「だから、サンタさんだよ」 こういう日に届くように、こういうやり方をするのは、「そうかぁ、努!」と思いながら、「いやいや、まてよ。努はドイツだから、宅急便っていうことはあり得ないし、それじゃあ、真? いや、弘子かな?」と考えながらも、まだ妻のジョークだと思っている私は、「誰?」ともう一度妻に尋ねました。 「だから、サンタさんだよ」 「はぁ?」 「ほら、差出人のところが“サンタクロース”ってなってるの! だから、配達のお兄さんも、“うっ!”と詰まって、“サンタクロースさんからお届け物です”って言ったんだよ」 私、麻耶、翔が、また一斉に、 「はぁ?!」 「ほんとだぁ! “サンタクロース”しか書いてなぁい! 住所が書いてないけど、住所なしで電話番号だけでも出せるんだぁ!」 と変なことに感心しながら、 「でも、誰だろうこの番号? マコちゃん(真のこと)でもないし、弘子ちゃんでもないし・・・。一番やりそうなのはオーちゃん(努のこと)だけど、宅急便はあり得ないしね」 そう言いながら、麻耶は電話番号を元に、携帯で送り主を調べています。 「サンタさんからだって! ほら、開けてごらん」 妻が蓮と沙羅に声をかけました。 「送り主が誰だかもわからないうちに開けちゃっていいのかなあ?」と思う私を横目に、荷物がどんどん開かれていきます。 「ワーイワーイ! これ沙羅ちゃんほしかったの!」 「あーっ、雪だるまだぁ!」 蓮も、沙羅も、大騒ぎです。送り主を調べていた麻耶も、 「この犬の人形、ほんとに沙羅がほしがってたんだよ」 どうやら、沙羅に取っては何よりのサンタさんからのプレゼントだったようです。 「あっ、わかった! おばちゃんだ!」 送り主は、妻の妹でした。9月に義母が亡くなったあと、ちょっと喧嘩になって、今まで音信不通状態だったのですが、何とか関係を修復したいということでしょうか。 「やっぱり何とかしたいんじゃないの?」 「そうだよね。そろそろ何とかしないと・・・」 「だいぶ考えたね、こりゃあ」 夜になりました。いよいよ、例年通り「本物のサンタ」(第141回参照)がやってきます。ローストビーフやらローストチキンやらを食べていると、蓮が今にも吐きそうに、「オエッ!」となりながら、目を白黒させています。 「ほらっ、この鳥の丸焼きがダメみたい。ちょっと赤いところがあるでしょ。この血がついてるところがダメなんだよ」 「ほんとに神経質だね、蓮は。そう言えば、この前も何だったかで同じようになってた」 しばらくすると今度は沙羅が、 「もう寝よっ! ねえ、寝ようよぅ! サラちゃん、サンタさん怖いぃ」 と言い出しました。 「ほら、やっぱりやり過ぎなんだよ。蓮もローストチキンのせいじゃなくて、怖くて緊張しちゃってるんじゃないの?」 「??? そうかも・・・」 布団に入ると程なくして、翔サンタが鈴を鳴らしながらやってきました。 「サラちゃん、サンタさんと握手するぅ!」 さっきまで怖がっていた沙羅はどこに行ってしまったんでしょう。 一応「眠ってないとサンタさんは来ないよ」ということになっていたにもかかわらず、蓮と沙羅の緊張をほぐそうとしてか、妻は翔サンタに、 「メリークリスマス! サンタさん」とか何とか、大きな声で声をかけています。 「おいおい、眠ってないとサンタさんは来ないことになってたんじゃないのかよ!」 あごにつけたひげが取れそうになっている翔は、必死でひげが取れないようにしゃべっているので、思うように口を開くことができず、 「モローコロソモーソ」 とわけのわからないことを言いながら、プレゼントを蓮と沙羅に渡すと、二人と握手を交わし、再び鈴を鳴らしながら、帰って行きました。 まったく、毎年毎年、どいつもこいつもやり過ぎなんだよぉ! 先日、TBSテレビのグローバルナビで「新日本様式」協議会のことが取り上げられていました。その中で、日本のものつくりの衰退についていろいろと話が出ていましたが、今後の日本に必要なのは、効率の追求ではなく、遊び(心のゆとり)や創造なんだという話をしきりにしていました。 21世紀は文化の時代。無駄と思うようなものが、価値に転化する。そう考えると、やり過ぎのサンタクロースも21世紀的なのかもしれないなあと勝手に解釈するのでした。 |
(文:大関 直隆) |