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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2007/10/15(月)
第280回「鳥取県倉吉市から その1」
今日は、倉吉に来ています。
倉吉と言えば、つい先日市長が、舛添厚労大臣に一首長の立場で噛みついた所。地方のそれほど大きくない、けれども歴史のある個性を持った町が、さいたま市のような首都圏のそれほどはっきりとした特徴のない大都市とどう違うのか、ほんの短い時間ではありましたが、観光地や倉吉の町のなかを散策したり、また教育長さんとお話をさせていただいたり、PTA連合会でご活躍の皆さんと交流が持てましたので、鳥取というところ、倉吉というところで、私が感じた文化の違い、子どもとの関わりの違いを2回にわたって、皆さんにお伝えしたいと思います。

少し前のことになりますが、月刊「教育ジャーナル」(学研)に、映画「あしたの私のつくり方」の原作者、真戸香さんと妻との対談が載りました。それをご覧になった教頭先生の推薦で、倉吉市のPTA連合会の方々が中心となり、講演会にお招きいただきました。当初、カウンセラーとしての妻への講演依頼だったので、子育てについてのスキルを主な内容とした講演会というお話だったのですが、幅広い年齢層のお子さんを持つ方が対象とのことだったので、子育てについてのスキルを中心に据えると、どうしてもある程度年齢層の絞り込みをしなくてはならないので、むしろ映画「素敵なお産をありがとう」の上映と私と妻の話ということではどうですかとこちらからご提案をさせていただき、上映会と講演という形で、行うことになりました。

担当の方から、丁寧に飛行機の時間までメモでお送りいただいたのですが、私の身体の関係(気圧が急に下がると、座席にも真っ直ぐ座っていられないくらい目が回って、汗が噴き出し、吐き気がする)で、飛行機には乗れないので、車で向かうことにしました。運転はちょっと大変ですが、自由に動き回れるので、初めての山陰で、見てみたいところもたくさんありましたし、その土地の人たちと交流ができることを、とても楽しみにしていました。

800キロ近い距離なので、10時間以上はかかります。昨年車で行った北九州に比べればかなり近いとは言え、朝出ても夜になってしまう距離。鳥取砂丘も行ってみたいし、大山(だいせん)、出雲大社にも行ってみたい。近くに多くの有名な美術館もある。朝、3時くらいに家を出て、お昼過ぎには鳥取砂丘にという計画でしたが、それでは砂丘以外を見て回る余裕はなさそうだったので、前の晩仕事から帰ると、「このまま出ちゃおうか」ということになり、夜11時に家を出ました。

わかっていたこととは言え、東名高速道路の集中工事のためかなり長い区間が一車線通行になっており、予定通りには行きません。中央高速にすればよかったと悔いても後の祭り。早く出たにもかかわらず、結局出雲大社と大山は次の機会にということになってしまいました。

鳥取砂丘を初めて訪れた人の感想は、様々だと思います。期待はずれとがっかりする人、期待通りと思う人、期待以上と感動する人・・・。私は、だいたい期待通りでしたけれど、予想以上に感動したかな・・・。砂の色、砂の感触、そして何よりも砂と海と空とが織りなすコントラスト。思わず走り出したくなるような高揚感。広い砂丘の上に靴を置き去りにして、裸足で頂上まで登りました。そして目の前に広がる大きな海。周りにいる人たちも、すっかり子どもに返ったようでした。ただ、残念だったのは、砂丘にとてつもなく大きな落書きがあることです。少し前にニュースでも取り上げていましたが、砂丘の持つ価値、公共性を無視したとても悲しい行為だと感じました。

陶芸教室の生徒さんから、「砂丘にいるラクダと並んで写真を撮ろうとしたら、乗ろうとしたわけじゃないのにお金を要求された」という話を聞いていたので、「本当かよ?」と思いましたが、ラクダにはあまり近づかず、遠くの方から写真を撮りました。売店で、孫に買うおみやげをあれこれ選びながら、「この砂時計(砂丘の砂が入っている)、どうかな?」と妻と話をしていると、まだ決めたわけでもないのに、売店のおばさんがすでに包装紙に包みかかっていたのにはビックリ。「なるほど。ラクダの写真は遠くからにしといてよかった!」と納得がいきました。

そして、もう1カ所立ち寄ったのが、あの大黒様とワニ鮫に皮を剥がれてしまった因幡の白ウサギの話で有名な白兎海岸です。海岸に面して道の駅があり、その道の駅から山側には白兎神社があります。昼食をこの道の駅で取ることになりました。

つづく
(文:大関 直隆)

2007/10/09(火)
第279回「子どもの声は騒音か」
西東京市の「西東京いこいの森公園」の近くに住む女性が、噴水で遊ぶ子どもの歓声やスケートボードの音がうるさいとして、公園を管理する市に騒音差し止めの仮処分を申請した事件で、東京地裁八王子支部が、女性の訴えを認める決定を出しました。都環境確保条例の騒音規制では、この地域の午前8時〜午後7時の基準値を静かな事務所内に相当する50デシベルと定めているんだとか。そんな基準を子どもが遊ぶ公園に当てはめようとするのはとても無理な話です。

心臓などの病気療養中で、「子どもの声などで精神的な苦痛を受け、不眠に悩んでいる」と訴えていた女性に対し、市は「基準は超えても受忍限度を超える騒音には当たらない」と主張したそうです。

この公園は、旧東大原子核研究所の跡地を利用して、2005年4月に市が開設したもので、敷地面積は4万4000平方メートル、噴水は遊具などが置かれた広場の中にあって、複数の噴水口から水が断続的に噴き出す仕組みで、水の間を縫って遊べるようになっています。こういった公園の状況を想像しただけで、「キャーキャー」はしゃぐ、子どもの声が聞こえてくるようです。

司法は、公共の福祉論を展開し、個人の権利(特に土地所有権などにおいては)を制限的に解釈する場合が多いように思うのですが、子どもの遊ぶ権利については、公共の福祉論を展開せず、かなり制限的に法解釈をするということのようですね。もちろん、裁判官によっても、違いがあるわけですが・・・。

とは言え、公共の福祉に鑑み、女性の権利が認められなくてもいいのかと言えば、それも違います。私の立場は、常に「何をおいても子ども優先」の立場なので、「なにも子どもの声くらいで・・・」という気持ちも強いのですが、条例という根拠があるわけだから、女性が訴える正当性もあるわけです。(女性側が勝っているわけだから、当然ですが)ここで考えなくてはいけないのは、「もし、基準となる条例がなかったらどうだったか」ということです。私は、おそらく、女性が訴えを起こしていなかったのではないかと思います。万一、訴えを起こしたとしても、条例がないことで、騒音の基準が曖昧だったとすれば、市が主張する「受忍限度を超える騒音には当たらない」という主張が裁判官に受け入れられる可能性がかなり高くなってきます。そうなった場合には、おそらく今回の結果とは逆の決定が下っていたのではないでしょうか。

今回の事件で、私が一番問題だと感じたのは、2つの行政の無責任さです。その1つは、ただ単に住宅街だということで単純に決められたと思われる都環境保全条例の50デシベルという騒音基準。2つ目は、環境保全条例があるにもかかわらず、なんの対策も講じることなく作られた公園。裁判所も、「騒音は受忍限度を超えている。設計段階から騒音は予測できたのに対策をとらず、配慮が全く欠如している」と市の姿勢を批判して、決定を下しているのです。そういう意味では、子どもたちの遊ぶ権利は「行政の怠慢の犠牲になった」とも言えなくもありません。多くの子どもが遊ぶような住環境で、50デシベルという基準が適切か。もし適切であるとすれば、子どもが遊ぶ権利を都はどう保障するのか。また「設計段階から騒音は予測できた」ということですから、噴水を住宅に影響のないところに設置するとか、最も近い住宅との間に防音壁の役目をするような遊具なり、トイレのような建物の設置をするといった対策を、西東京市はなぜとらなかったのか。

子どもの権利という公共性と女性個人の権利とのバランスをどう取るかということはもちろんのこと、少子高齢化が大きな問題となっているにもかかわらず、産婦人科、小児科医療に対する無策が問題になっている今日、子どもの権利に対するあまりにもお粗末な行政の対応が明らかになった事件でした。

 
Re: 第279回「子どもの声は騒音か」2007/10/09 20:07:21  
                     関の赤おやじ

 
私、きかんき、大暴れの小猿3人の父です。中2、小6、小2。かみさんは毎月、白幡中か大里小に謝りに!浦和のマンションに引っ越して14年(引越し当日が、神戸での大震災→小生の本社が神戸で、一週間前まで出張でいた神戸をみながら引越ししていました。それは差し置いて)今回、確かマンションの子供の足音でも30万近い支払いが!子供はペットではありません。これからの国家を背負ってく子供らを馬鹿な大人らの判断で!!!!!!!自宅の近くの別所沼公園は常に子どもたちの活気にあふれた大きな声とそれを見守る良識のある大人たちが今後も見守っていけると思います。
そのうち祭りの神輿がうるさいと言い出す馬鹿が出ると思います。
子供ものびのび育てられない国家にこの日本がなってしまったかと!!!!!
 

元の文章を引用する

 
Re: 第279回「子どもの声は騒音か」2007/10/13 23:28:20  
                     市民

 
正直、公園のほうの問題に対しては
公園設置時に防音対策をしなかった事が
原因だと思います。

ただ、マンションの騒音の裁判の方は、
騒音主の方が悪いと思います。
ちゃんと新聞やニュースを見ましたか?
被害者は、騒音主に対して何度も苦情を言いに行っているんです。
それに対し、乱暴な口調で対応され追い返されたんですよ。
ノイローゼになるほどの騒音だったようです。

>中村裁判官は
>「夜間や深夜には騒音が階下に及ばないように、
>長男をしかるなど住まい方を工夫し、
>誠意ある対応を行うのが当然」と述べた。

うちの隣の部屋の1歳の子どもも五月蝿いです。
去年は夜泣きに悩まされました。
窓を開けたまま夜泣きですよ。
不動産屋に言って、夜泣きをしている時は
窓を閉めてもらうよう指導してもらいました。
仕事をしている人にとって、夜中に何度も起こされるのはたまったものじゃありません。
今年はどすどすと走り回る音です。
1歳児には何を言っても無駄だとは思いますが、
夜中11時を過ぎても響く音。ひどいときは、日付が変わっても。
マットを敷くとか、早めに寝かすとか色々対処はして欲しいですよ。

長々と書きましたが
要は、騒音主の普段の行動や対応の仕方だと思うんです。
引越ししてきた時も挨拶も無いし、深夜に引越し作業は行うし、
煙草のポイ捨て、深夜に階段で電話・・・。
そういう住人の子どもなら余計に腹が立つものです。
子は宝といいます。
その宝をどう輝かせるか、親の育て方に掛かっていると思うんです。
 

元の文章を引用する

 
こういう問題は、どこにでもあるんですよね2007/10/19 8:11:21  
                     大関直隆

 
子どもの声や音の大きさにもよるのでしょうが、子どもを持っているか持っていないか、子どもが好きか嫌いか、といったことで、寛大になるか、厳しくなるかが大きく変わるので、難しいですよね。大切なのは、人それぞれ感じ方が違うということを両者が理解することだと思います。私も「子どもの声くらいは」と思いますが、現在マンションに住んでいて、以前2階の子どもの走る音やどこかから飛び降りる音が気になって、とても困ったことがありました。
人によって感じ方が違うということを十分に理解し、相手の主張に耳を傾ける姿勢が必要ですよね。お互いにそういう気持ちを持つだけで、声や音が違ったものに感じたり、やや静かになったりするかもしれませんよね。
今回の公園の件は、人それぞれだということを行政が理解していなかったんですよね。住民同士の憎み合いになってしまう可能性もあり、行政としてはとてもまずい対応ですね。
 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)

2007/10/01(月)
第278回 「子どもを信用するということ その2」
ポニー乗馬コーナーを離れようとすると、大きなカメを持ったお姉さんがやってきました。かなり重そうです。甲羅の直径は、50〜60pはあるでしょうか。甲羅の脇に手をあてがって、やっとの思いで腰の辺りにぶら下げ、おっちらやっこら持っているという感じ。そしてそのカメを、高さ1mくらいの木の柵で囲まれた10畳ほどの細長いスペースに入れると、今度はどこからともなく草のいっぱい入ったバケツを持ってきて、小学生の女の子を従え、柵の中に入っていきました。
「××さん、今度はお食事ね。この草をカメにやってね」
(ああ、そう言うことね。この草って、カメのエサなんだぁ)
お姉さんはそう言うと、まず自分でカメにエサをやって見せました。そして、小学生の女の子がそれに続き、エサをやっています。その光景をずっと見ていたので、気づかなかったのですが、いつの間にか柵の周りには、小学生の女の子のお父さん・お母さんらしき人と、おじいちゃん・おばあちゃんらしき人がカメラを構えて立っていました。その後ろには、「副園長」というプレートをつけた男の人も立っていました。
「カメって、こんな草を食べるんですね」
私が、カメを抱えてきた動物園の係らしいお姉さんに声をかけると、
「ええ。このカメは陸に住んでいるカメで、こういう草も食べるんです」
と答え、柵の中でその大きなカメの背中に今にも乗りそうなくらいの勢いで、まったく怖がることもなく、平然とエサをやっている小学生の女の子を不思議そうに見ていた私たちに対し、
「今、この子が甲羅をタワシで洗ってくれたんです。今日は、この子が一日このカメの面倒を見てくれるんですよ」
と言いました。
「へぇーっ?!」
私たちが、びっくりしたような顔をすると、
「この子はイベントの当選者なんですよ。この子の“願いごと”が、カメの世話をすることだったので、今日は一日カメの世話をしてもらっているんです」
と続けました。
「へぇーっ?!」

こんなところ(公立の動物園)が、イベントの当選者に『豪華(?)賞品』を出すということに、まずびっくりして、そして目の前のとってもおとなしそうな小学生の女の子が、その『豪華賞品』に「カメの世話」を選ぶとは・・・。エサをやり終わった女の子とカメは、お父さんカメラマンとおじいちゃんカメラマンのモデルになって、たくさん写真を撮ってもらっていました。

次に、回ったのは「なかよしコーナー」です。ここには、どこの動物園でも触れ合うことのできるモルモットやウサギといった小動物がたくさんいます。そして、ここもまたカブトやクワガタと同じように、たくさんの子どもや大人に囲まれた台の上にモルモットやウサギが無造作にたくさん放されています。係の人はそれぞれの台に一人ずつ。どう見ても、子どもたちすべてを管理するには、人数が足りません。
「勝手に抱いちゃっていいのかなあ?」
「自由に」ということに慣れていない私たちは、係員によって管理をされないといろいろな場面で躊躇します。子どもたちは、とても順応性が高く、すぐその雰囲気を察知するのか、どんどん自由にいろいろな動物をだっこしていました。

ここは、基本的に子どもたちがいたずらや悪いことをしないという前提で運営されているということが、伝わってきます。動物園にいる間、禁止や注意をする職員の声を一度も聞きませんでした。そして、子どもたちもそれに応えて、とても丁寧に動物を扱っています。「子どもを信用すること」、そういうところから、子どもたちの優しい心は生まれるんだということを目の前で見た気がしました。
(文:大関 直隆)

2007/09/25(火)
第277回「子どもを信用するということ その1」
「ああ、疲れたぁ! これって仕事で疲れてるわけじゃないよね?」
「たぶん、違うんじゃない?!」
「そうだよね、足とかだるいもんね」
「あそこ行くと疲れるんだよ、広いから。坂ばっかりだしね」
「やっぱり、年寄りにはきついかな? 若いうちじゃないと全部一日で回るなんて無理だね」

ちょうど昨年、第229回で扱った「埼玉県子ども動物自然公園」に再び行って来ました。昨年も9月25日にその話題を掲載してもらったのですが、今年再び9月25日の掲載になるとは・・・。

今日(24日)は、午後から東松山の浄土真宗・西照寺で、本堂建立の記念講演に妻が講師として招かれていたので、そのついでに午前中は、孫たちを「子ども動物自然公園」に連れて行くことになりました。午前中は、私と妻が孫の面倒を見、その間、娘の麻耶が講演会の資料作成をしてくれることに。9時過ぎに、私たちは「子ども動物自然公園」に向かいました。麻耶も資料作成が終わり次第、公園に向かい、お昼前には麻耶に子どもたちを引き渡す計画です。

天気はあまりはっきりしませんでしたが、3連休ということもあってか、車はやや多め。それでも、渋滞というほどのことはなく、途中三芳のパーキングエリアに寄りましたが、家を出て1時間ほどした10時過ぎには、公園に着きました。麻耶との交代までは、おおよそ1時間半。園内をゆっくり見て回る余裕はないので、入り口近くで開催されている昆虫展、ポニー乗馬コーナー、なかよしコーナー、乳牛コーナーに絞って回ることにしました。

まず最初に行ったのは、昆虫展です。孫の蓮(れん)は、家を出る前から昆虫を見たがっていて、以前「森林公園」でカブト虫を見たことがあったので、「子ども動物自然公園」よりはむしろ森林公園に行きたがっていました。今日は時間的に余裕がないこともあり、「森林公園」はやめ、蓮を説得して「子ども動物自然公園」に行ったのでしたが、偶然開催されていた昆虫展のおかげで、蓮も大満足の結果になりました。昆虫展の会場には、世界各国から集めたカブト虫やクワガタがいます。もちろんケースに入っているのですが、一部の場所で生きているカブトやクワガタに触ることができます。私たちが、会場に入っていくとTシャツを着た小学3年生くらいの男の子がわざわざ寄ってきて、嬉しそうに室内を眺めている蓮に、
「あっちで生きてるやつに触れるよ」
と教えてくれました。あまりにも珍しい(私にとってだけかもしれません。蓮は名前をよく知っていました)虫たちが、とても無造作に置いてあるので、近くにいた係のお兄さんに、
「これ、こんなに子どもたちが触って死なないんですか?」
と聞いてみると、
「ええ、大丈夫ですよ」
という答えが返ってきました。その、お兄さんの様子を見ていると、台の上に放されたカブトやクワガタたちには、ほとんど意識がいっていません。虫たちを興味深そうに眺めたり、触ったりしている子どもたちにすべてを任せているのです。蓮も、納得のいくまで自分のお気に入りのカブトやクワガタに触って、大満足で昆虫展の会場を出ました。

ポニー乗馬コーナーでは、乗ると言ってチケットを買った沙羅(さら)が、ポニーにまたがるための台のところで立ち往生。そこでポニーを引いてくれているお姉さんは、沙羅の様子を見て無理に乗せることはせず、かなり長い間、黙って待っていてくれました。そして、もう1頭の小さいポニーを連れてきて、檻越しに顔を出させ、触らせてくれようとしました。
「こっちのポニーさんとお友だちになろうか?」
そう言われても、沙羅はポニーの顔を撫でることもできません。沙羅は、手にしっかりとチケットを握りしめてはいるので、乗る気はあるようなのですが、どうも恐怖心が取り除けないようで、結局ポニーに乗ることは断念。もうすでに一度乗った蓮が、沙羅の分も乗ることになりました。

つづく
(文:大関 直隆)

2007/09/18(火)
第276回「最後まで食べなさい!」
先日の安倍首相の辞任劇は、ほとんどの国民にとって、驚きであったと思います。私は、インターネットに流れてくる速報ニュースで知りました。
「首相が辞意を表明」
その文字を見たとき、すぐには安倍首相のこととは理解できず、
「? どこの国の首相?」
というのが、まず私の頭に浮かんだことでした。常識的に考えて、他国の首相なら「首相」の前に国名が付くはず。何も付いていなければ、日本の首相に決まっているのに、まったくそんなことは頭になく、「どこの?」と考えてしまうほど、唐突な辞任劇でした。

参院選後の内閣の状況から、辞任あるいは解散が既定路線であるというのは、誰から見ても明らかではありましたが、参院選後の強気の続投表明や前々日に行った所信表明演説を考えると、代表質問開始まで1時間を切った時点での辞意表明は、あまりにも「サプライズ」でした。

辞任の理由については、様々な憶測が飛んでいます。民主党の小沢党首に会談を断られたこと(民主党との主張とはだいぶ食い違っているようですが)や自分が辞めることで局面の打開を図りたいとの理由が首相自身の口から語られましたが、苦しい首相の弁明をフォローするかのように、与謝野馨官房長官から、首相の健康状態のことが語られました。

本当のところ、辞任の理由がなんだったのか・・・。健康状態は、確かに良くはなかったようですが、これほどのタイミングで辞任しなければならないほどだったのかと言えば、どうもそうではなさそう。仮に健康状態が理由だとしても、先に健康状態の悪化があったのではなく、むしろ首相としての責任が果たせなくなり、精神的なストレスから健康状態が悪化したと見る方が、自然な気がします。

理由はさておき、今回の辞任劇で私が一番強く感じたのは、「子育て・教育の崩壊もここまできたのか」ということです。ちょっと大げさな言い方をすれば、今回の辞任劇は、「子育て・教育の勘所の欠如」というものを端的に表していたと思います。初めての戦後生まれの首相ということで、タカ派、ハト派という意味ではない、何か新しい価値観というものが生まれる期待もあったと思うのですが、それが「総理」という職を「投げ出す」ということで終わってしまいました。

現代の子育て・教育の問題点としてまず挙げられるのが、「怒れない親・過保護な親による甘やかし」です。その結果として何が生まれるかと言えば、責任感がなく、自分勝手でわがままな、自己中心的な子ども。皮肉なことに、それを掲げて教育再生に取り組もうとしていた首相自らが、国民にそう映ってしまうことになるとは・・・。首相という重圧は想像をはるかに超えたものなのだろうと同情はしますが、親が子どもに何を教えるべきかと言えば、学力云々よりまずは「人と人とは違いがあるにせよ、それを認めつつ違いを超えて結びつくこと」であり、「投げ出さずに最後までやり抜く責任感」であるのだろうと思います。にもかかわらず、強行採決を繰り返したあげく、辞任。今どきの若者の代表が首相?

もちろん我々の子どもが総理大臣という職に就くことはまずないので、何かを投げ出しても、それほど大きな非難をされることはないかもしれません。とは言え、どんな立場に生きていたとしても、人と人との関わり合いの中で生きている以上、「小さなことも投げ出さない」、「最後までやり抜く」、子どもにはそう教えたいですね。自分の言動には責任を負わせる、親が子どもの尻ぬぐいをしない、そんなことが子育てでは重要なことなんだろうと思います。

じゃあ、私が何をやっているかと言えば、おかわりをした茶碗にご飯を残している孫に、「おまえが自分でおかわりって言ったんだから、最後まで食べなさい!」なんて、やってるわけです。自分の言動に責任を持つ!もし、うちの孫が総理大臣になるようなことがあれば、こんなタイミングで総理を辞さないと思います!
(文:大関 直隆)

2007/09/10(月)
第275回「警察官の平手打ち」
事件そのものはたいした事件ではないのに、先週大きく取り上げられたのが、「警察官の平手打ち」事件です。

「神奈川県警大和署の巡査長(33)が拳銃の形をしたライターを持っていた高校2年の男子生徒(16)を平手打ちし傷害容疑で現行犯逮捕された」(毎日新聞)という事件ですが、県警監察官室の当初の発表は、巡査長は生徒が周囲の注意を受け入れてライターをしまったのに「反省の色がみえない」と顔を3回平手打ちしていたとし、「警察官の行動としてふさわしくなかった」とコメントしながらも、生徒からの事情聴取が終わらない段階で「生徒がライターをもてあそんでいたため、巡査長が注意しようとして口論になったと思われる」と説明していました。

そして、この事件については「注意できる大人がいない中、きちんとしかるという行動は安心できる」「あまり厳しく処分しないで」など巡査長の行為をたたえる電話やメールが神奈川県警に殺到、約2000件にもなったといいます。

ところがその後、注意された高校生の母親から「報道は事実と違う」というクレームがあり、県警は担当記者を集めて当初の説明を変える異例の釈明を行いました。
「各紙によると、相鉄本線二俣川駅で停車中の普通電車内で拳銃型ライターを持って悪ふざけをしていた男子高校2年生(16)は、小磯巡査長ではなく、車掌から注意された。すると、高校生は、「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまったという。小磯巡査長は、隣の車両からこの様子を見ていたが、車掌が去った後に高校生が友人と談笑しているのをみて、「反省していない」と思い込んだ。

高校生が次の鶴ヶ峰駅で降り、改札を出て階段を下ると、小磯巡査長は、高校生の髪の毛とカバンをいきなりつかみながら路上に連れ出し、「カバンの中のものを出せ」と言って顔を3回平手打ちにした。高校生は、「怖かったので口答えもしなかった」という。神奈川県警では、小磯巡査長は「注意したというより、因縁をつけて殴った状況」としている。
−中略−
高校生は、友人と2人で二俣川駅に停車中の電車に駆け込んできた。そして、友人が座席に寝転がり、高校生は扉付近でホームに向けて例の拳銃型ライターを構えていた。そこに、たまたま、車内巡回中の車掌が通りがかり、「止めて下さい」と声をかけた。高校生は、「すいませんでした」と車掌に謝り、ライターをバックにしまい、友人も起き上がった。特に口論などはなかったという。」(J-CASTニュースより)
高校生が乗っていた車両には、高校生2人以外には乗客はなく、ホームにもほとんど人影はなかったとか…。

この事件は、今の社会的状況をとてもよく映しています。
・公的機関の身内に甘い対応
・今の若者はマナーがなっていないという先入観
・マスコミ報道により形成される短絡的な世論
・悪事に対する報復的処罰の容認

J−CASTニュースの取材によれば、この高校生2人の行動で問題だったのは、「座席に寝転がったこと」「拳銃型ライターを構えて遊んでいた(持っていた)こと」の2点です。けれどもそれは2人以外には乗客がいない車両という特別な状況下で、しかも車掌の注意に素直に謝り、すぐに起き上がり、ライターをバッグにしまった行動を考えれば、むしろ今の高校生の中では、ある程度のモラルを持った高校生とも言えなくもない。この事件の本質は、高校生の行動ではなく、酔って絡んだ巡査長の行動であり、事情はどうあれ、何かの解決の手段として暴力を許すかどうかということです。

飲酒運転事故をきっかけに、最近、司法における厳罰化というのが大きな流れになっています。もちろん、私も飲酒運転にはもっと正しく法を適用すべきだと思いますが、法というのはちょっと使う方向を間違えると、正義と悪が入れ替わってしまうことにもなります。今回のこの事件も、酔った巡査長が暴力を振るったわけで、その点からすれば厳罰に処せられなくてはならないのは巡査長側ですが、事実を真っ直ぐに見ないと、高校生が悪くなってしまう。

いろいろな子どもがいるにせよ、基本的に、社会の中で子どもたちは弱者です。その子どもたちの行動を正確に見聞きしないで、何らかの処罰をすることはとても危険なことです。子どもに対し、常に大人は権力であるということを忘れずに、力によるしつけや教育は厳に慎まなくてはなりません。

子どもたちに対する教育が、単なる厳罰化の流れの中に埋没しないよう、子育て、教育の場は進んでいくといいのですが…。
(文:大関 直隆)

2007/09/03(月)
第274回「携帯電話のリスク」
第185回(2005年11月)で、「携帯電話」を取り上げたことがありました。携帯電話の進化の速度は、きわめて速く、たった2年の間に、携帯電話が抱える問題の質も、大きく変わってきました。

第185回で取り上げたのは、“個対個”のコミュニケーション手段が集団としてのコミュニケーションを阻害するおそれがあるということでした。避けることのできない人間関係の中で、それぞれが“関わり合いの智恵”を絞ることで、築いてきたコミュニティー。そういったものが、携帯電話が生み出す“個対個”の人間関係によって破壊され、地域社会の存在が壊れようとしている。さらにそれが、引きこもりやニートという問題にもつながっている。というような内容でした。

ところが最近、携帯電話にまつわる問題は“個対個”のコミュニケーションの問題ではなく、ネット上に氾濫する様々な情報の取得あるいは情報の発信という問題になってきました。これまで、インターネットといえば、PCというのが一般的でしたが、最近では携帯電話(モバイルサイト)に取って代わられようとしています。インターネット上にホームページを持っている企業、店舗の多くはモバイルサイトにもページを持っています。うちですらカウンセリング、教育相談のモバイルサイトを持っていて、そのサイトから直接カウンセリングの予約ができるようになっています。

ここであらためて言うほどのことでもありませんが、モバイルの利点は、何と言っても双方向の情報のやり取りにあります。もちろんPCでも双方向の情報のやり取りは可能ですが、携帯電話はPCのように準備をして構えなくてはならないものと違い、常に持ち歩いていて、スタンバイ状態なので、情報が届いた瞬間にそれを確認することができます。しかも、その大きさから場所を問わず、どこでも簡単に使うことができるので、その情報のやり取りを秘密裏に行うことも簡単です。

9月2日朝日新聞朝刊に、携帯電話についてのアンケート結果が公表されていました。これは、朝日新聞の無料会員サイト「アスパラクラブ」が8月に行ったもので、10,936件の回答をもとにまとめたものだそうです。

それによると、はじめて携帯を持たせた年齢は、小学校入学前/1%、小学生/15.4%、中学生/24.6%、高校生になってから/38.3%、高校を卒業してから/20.8%(記事では小〜中学生までは、学年ごとの統計になっています)。アンケート対象の年齢幅が広いため、かなり以前に子育てが終わった人の数字もカウントしていると思われ、そのために「高校生になってから」「高校を卒業してから」の割合が多くなっていると考えられます。もし、今小学生の子どもたちが成人したときにアンケートを実施したとしたら、「高校生になってから」「高校を卒業してから」の割合がかなり減るのではないかと思われます。年齢層を切ることによって、アンケートの数字はかなり違ってくるように思います。したがって、皆さんの感覚では、アンケートの数字よりかなり低年齢化が進んでいるという感覚ではないでしょうか。

子どもの携帯電話のメリット、デメリットの比較については、「メリットの方が大きいと感じている人」が41.6%、「デメリットの方が大きい」と感じている人が、26.9%、「わからない」が31.5%。この結果を見る限り、携帯電話に対する親の見方はかなり割れています。おそらく、親がどのように携帯電話を利用しているかによって、評価が割れていると思われます。
このアンケートで、私が最も注目したのは、「お子さんの携帯電話に“フィルタリング”をつけていますか?」という質問です。フィルタリング(携帯電話会社がオプションとして行っている有害サイトへのアクセス制限)がどの程度効果があるかについては、私は懐疑的(サイトとしての体裁をしていない有害な情報も氾濫しているから)な考えを持っていますが、「つけている」10.6%、「つけていない」58.6%、「わからない」17.9%、「フィルタリングについてよく知らない」12.9%という結果は、あまりにも無防備と言わざるを得ません。

私自身は、基本的な考え方として、子育て・教育における「制限」「規制」ということを好みませんので、もし今私に、小・中・高校生の子どもがいたとして、フィルタリングを利用するかと聞かれれば、答えは“ノー”です。が、それはあくまで、モバイルサイトの有害性(興味本位に走った誤った性情報や出会い系サイトなどの誘惑など)を理解した上での判断であって、有害サイトから子どもを守るには、それなりの知識を子どもに教える必要があります。それ無しに、子どもがモバイルサイトをすべて利用することは、大変リスキーなことです。けれども、アンケートの結果からすると、そこまでモバイルサイトの危険性を認識している人はそう多くはない。

山谷えり子氏が、首相補佐官に就任して以来、男女共同参画や性教育は大きく後退してしまい、学校ではほとんどまともなジェンダーに対する教育や性教育をしなくなってしまいました。ネット上に氾濫するいかがわしい性情報から、子どもたちを守る手段は、詰まるところ、正しい性の知識、性に対する感覚を子どもたちに、身につけてもらうしかありません。フィルタリングさえ、浸透しているとは言えない状況ですが、どんどん便利にそして危険になっていく携帯電話から、子どもたちを守り、さらにうまく利用していくためには、「フィルタリング」や「携帯電話の使い方」などという“規制”や“HOW TO” ばかりに頼るのではなく、子どもたちの持つ根本的な知識や意識から変えていく必要があるのはないでしょうか。
(文:大関 直隆)

2007/08/27(月)
第273回「習熟度別って効果ない?」
8月26日、朝日新聞朝刊に「習熟度分けても英語成績伸びず」との見出しで、全教・教研集会での和歌山県の県立高校教諭からの報告の記事が掲載されていました。

03,04年度に普通科2年生2クラス80人を対象に「英語U」で上位2つと下位1つの3グループに分け、習熟度別授業を試みたそうです。全国模試の平均偏差値で見ると、03年度、04年度も大きな変化はなく、習熟度別の効果は確認できなかったとか。ちなみに04年度に行われた7,11,1月の3回の模試の結果は、上位が「48.7→48.0→47.7」、下位が「46.1→44.5→45.6」。

この結果を見る限り、7月より1月の方が模試の結果が悪いので、確かに習熟度の結果が出ていないようにも見えますが、標本が2クラス80名と少ないこと、そして習熟度別クラスとそうでないクラスの比較ではなく、習熟度別クラスの時間的経過だけが比較対象になっていることなどを考えれば、実際にはほとんど意味のない調査になってしまっていると言わざるを得ません(新聞報道が、比較対象を時系列的偏差値のみに絞った可能性もあるので、すべてが無駄とは言えないのですが、新聞報道を読む限り、調査としてあるいは記事として、とても稚拙と言えると思います)。

調査をした先生に、「効果がないのではないか」あるいは「効果があるはずがない」という考えがもともとあって、そういう結論を導き出すための調査であったのかなという気もしなくはありません(あくまでも「報道の内容がすべて」という前提でですが)。

とは言え、私も「習熟度別授業」を単純に支持するものではないので、「教師を増やした割には効果が見られなかった。同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」という、この先生の後半部分のコメントにはある程度納得できます。塾をやっていた経験から言うと、短期間に特定の子の成績を上げようとすれば「習熟度別」というのは、絶対に必要です。「先に進む」あるいは「さらに難易度の高い問題をこなす」ということであれば、当然それについてこられない子どもたちは「足手まとい」になります。「足手まとい」になった子どもたちを切り捨てずに、なんとかしようとすれば、クラスを分けるしかない。一般的に言って、個別指導でない塾はそれを実践しているわけで、成績の順にクラス分けを行っています。塾の目的は、ただ単に少しでも多くの生徒の学力を、できる限り現状より良くすることが目的なので、上下の学力格差が広がり差別が助長され、ある程度の落ちこぼれが生まれようと、そんなことはお構いなしです。もっとも、経営上、低学力の子どもたちを切り捨ててしまっては「もったいない」ですから、簡単に切り捨てようとはせず、丁寧に面倒を見ているように装いますが・・・。

それを即、公立の学校に当てはめてうまくいくかというと、そうはいきません。「習熟度別」に分けるということ自体、学力格差による「差別」という議論もあると思いますが、その後、分けることによって、さらに学力格差が広がってしまい、「差別を生む」ということをどうするのかというのが、大きな問題です。

どうも日本人は、文化として、格差を広げることを好まない傾向があるように思います。今回の参議院選挙の結果を見ても、相次ぐ閣僚の不祥事や安倍さん個人のキャラクターの問題はあったにしても、やはり根本的にくすぶっていたのは、格差の問題です。置き去りにされた地方の反乱というのは、もちろんありますが、都市部でも格差については、はっきり「ノー」です。

和歌山県の先生の言う「同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」というコメントも、日本の文化として捉えた場合、とても良く理解でき、おそらくこれからも、それを打ち破るのは並大抵のことではないのではないかと感じます。単純に成績順に「習熟度別に分ける」ということではなく、もっと日本の風土にあった「新たな習熟度別」が必要なのかもしれません。
(文:大関 直隆)

2007/08/20(月)
第272回「不登校、再び増加に転じる! 後編」
うちの陶芸教室にも、不登校の子どもたちが何人か通ってきていました。一つは、陶芸というものが作業として、不登校の子どもたちにも受け入れられやすいこと、もう一つは、教室に通ってきている他の会員の皆さん(不登校の子どもたちが訪れる時間帯というのは、ほとんど主婦を中心とした50代後半から上の方たちが中心ですが)が、不登校児というものを意識せず、差別することなく受け入れていること、そんな理由から不登校の子どもたちも居心地がいい(というよりは、他のところよりは居心地が悪くないといったくらいかもしれません)のだろうと思います。

カウンセリングや教育相談といった、カウンセリング研究所における不登校についての直接的な関わりではないので、うちの陶芸教室としては、他の会員の皆さんと同じようなサービスを提供し、それがその子に合えば通ってくるし、合わなければやめていくという単純なことで接するようにしています。もちろんスタッフは陶芸を教えることはできますが、教育やカウンセリングのプロではありませんので、そういう意味ではおそらく扱いは雑です。「不登校児」という扱いではなく、やや若い「陶芸教室の会員さん」という扱いです。日常的に「不登校」であるということを意識し、あるいは意識させられている子どもたちにとっては、陶芸教室にいる時間は、「不登校」から意識が離れられるほんのわずかな時間なのかもしれません。おそらくそれが「居心地が悪くない」という状況を作り出しているのだろうと思います。

入会時にあまりプライベートなことには触れませんので、スタッフは不登校かどうかも詳しくは知りません。ただ、なんとなく隠しているようになってしまうのは本人にとっても苦痛でしょうから、私は率直に「学校、行ってないの?」と聞いてしまいます。学校に行けるようになることが目標ではなく、うちとしては陶芸を長く続けてくれさえすればいいことなので、「不登校である」ということを開示してしまってくれれば、こそこそして居心地が悪くなることもないので、率直に聞いてしまった方がいいかなあと考えているわけです。私としては、「いつ続かなくなっちゃうだろう」と常に心配をしているわけですが、そういう事情ではない一般の会員さんより、むしろ定着率がいいようなくらいで、中学校で不登校になった女の子や高校で不登校になった男の子たちが、就職が決まり仕事を始めるまで通ってくる例も少なくありません。まあ、週に1〜2回程度ですから、学校に比べればはるかに負担が軽いわけで、そういったことも影響しているんだろうとは思いますが・・・。

前回も少し触れましたが、不登校が問題として取り上げられ始めたころというのは、「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。これは、子ども自身の持つ内面的な要因は認めながらも、学校の状況や対応の悪さに直接的原因を求め、その原因を取り除くことで、子どもの心を救おうとしたものでした。居場所がないことを実感している子どもたちにとって、フリースクールは、自分たちの居場所としての存在を示し、ある一定の大きな成果を生みます。そして、今もそこに通っている子どもたちにとって、大きな存在になっていることは確かです。

けれども、最近の不登校事情を見ると、それだけでは対応できないような不登校が増えているように感じます。

26,7年前、学校が荒れたことがありました。うちの子どもたちの通っていた中学校でも掃除の時間中に「窓から火のついた雑巾が降ってきた」というようなことがありました。暴力がはびこり、授業は成り立たず、当然のことながら不登校も増えました。大きな原因の一つに「管理教育」があったことは、間違いありません。その頃、「大学のような高校を作ればいい」(今の単位制高校のような)というのが私の持論で、実際に県から学校設立に関する膨大な資料を取り寄せたりもしました。まだ規制が厳しい時代で、資金繰りにめどが立たず断念するのですが、その数年後、伊奈に公立の単位制高校が開校しました。当時とすると画期的な発想で、荒れた教育に対する救世主的な存在でした。不登校対策というよりは、むしろ中途退学や“やる気”に対する対応策という要素が大きかったと思います。そして、その後規制緩和がどんどん進み、単位制の高校が開校しやすくなりました。私はそれが、不登校に対する考え方を変えなければいけない転機に結びついたのだろうと考えています。

もちろん、その後も「居場所のない子どもたち」は増え続けます。それに対して、多種多様な形態、内容の学校も増えていきました。そしてそこへ少子化の波。当然のことながら、学校間で子どもの取り合いが始まります。その結果、学校が子どもにこびる結果となった。
「ここの学校が嫌ならこっちの学校、こっちの学校が嫌ならあっちの学校」というように、決められた場所に適応しようとせず、今の自分を受け入れてくれるところを探すという状況が生まれます。それは、ある部分では正しいのですが、ある部分では子どものわがままを助長することになります。そこへよく言われる「80年代」世代の子どもたちが、学校に通い出す・・・。

これからの不登校対策は、以前のような「子どもの居場所」作りではなく、ある一定の閉ざされた場所で、子どもたちがいかに人間関係を築けるよう育てていくかにかかっているんだろうと思います。

県も親を教育することに力を入れはじめたようですが、県のやっていることはどうも復古的過ぎる。社会構造が多様化しているにもかかわらず、父親、母親の役割を限定的に捉え、「昔の親子関係に戻す」的な発想で、進めようとしているように感じます。とは言え、親子関係を見直すことが必要な時期にきているというのは、私も感じていることで、今後の不登校対策は、親子関係をどう構築していくのかにかかっていると思います。

親子関係の作り方も、陶芸教室に通ってきた不登校の子どもたちの様子の中に、ヒントがあるような気がするのですが・・・。
(文:大関 直隆)

2007/08/13(月)
第271回「不登校、再び増加に転じる! 前編」
8月10日の新聞各紙は、文部科学省が発表した学校基本調査(速報)から、これまで減少傾向にあった「不登校」が、再び増加に転じたことを伝えました。

現在の基準で調査を始めたのは、91年度。01年度まで増加しましたが、その後02年度から05年度までは減少していたものが、06年度には再び増加に転じたことがこの調査でわかりました。しかも、中学生の不登校は、率で2.86%を記録し、過去最高。1クラス40人とすると、どの中学校もクラスに1人は必ず不登校の生徒がいることになります。

「学校基本調査」とはどんなことを調査しているのかというと、学校数、学級数、在学者数、教職員数などの学校についての主観が入らない客観的な数字の調査。その調査の1項目に「理由別長期欠席者数」(長期欠席者というのは、1年間で30日以上欠席した者をいいます)という項目があって、さらにその「理由別」という中身が、「病気」「経済的理由」「不登校」「その他」に別れているので、「不登校」の数が、毎年比較できるわけです。単純に「数」の調査ですから、本来なら主観が入る余地はなく、客観的であるはずなのですが、「不登校」という定義自体がとても曖昧なので、各学校の報告のもとが不統一で、やや客観性に欠ける部分はあります。

今回の調査で、3年連続不登校率第1位になったのは島根県で、1000人当たりの不登校児童生徒数が、16.3人。第2位は高知県の14.9人、第3位が和歌山県で14.7人。反対に最も少ないのが愛媛県で8.2人、次に少ないのが宮崎県の8.3人、3番目が秋田県で8.7人。多いところと少ないところでは、約2倍の開きがあるわけです。

これについて、島根県の教育長は、
「やや弁解めいた答弁となりますが、本県では、欠席理由が例えば頭痛や腹痛であっても、不登校が懸念される場合は『不登校』扱いで整理しており、本人の状況の把握に努め、適切な支援を行うよう各学校にお願いしているところであります。不登校児童生徒の出現率、これは全国一位となっておりますが、こうした認識の上に立って対処していることの結果でもあると考えております」(J-CASTニュースより)
と答えているそうです。要するに、「不登校」という意味を他県よりも広く解釈していると言いたいんだろうと思います。そういう意味では、客観性に疑問がないわけではないのですが、都道府県別の数字はさておき、全体として捉えたときには、増加傾向にあるということは概ね間違いないのでしょう。

いじめによる自殺者がなくならない中、不登校の理由についても「いじめ」という原因が注目を集めています。不登校のきっかけとなる原因について、この調査では初めて「いじめ」の有無を聞きました。その結果、不登校の具体的理由で多かったのは、「いじめを除く友人関係」15.6%、「親子関係」9.3%、「学業不振」7.9%で、「いじめ」は3.2%です。

不登校問題を考えるとき、この「理由」を抜きには考えられません。不登校が問題として取り上げられ始めたころ、「個性を軽んじた画一化教育」や「親の過保護」が不登校の原因としてよく取り上げられました。「画一化教育が個性的な子どもの居場所を奪い、学校に対して不適応な子どもとして、外に追い出した」、あるいは「過保護で失敗経験のない子どもが壁にぶつかった」「優等生が優等生でいるのに疲れた」等々。「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。奥地圭子さんが1985年に始めた「東京シューレ」は、とても有名で、不登校の問題を世に知らしめるとともに、大きな役割を果たしてきました。

フリースクールの果たす役割と今後の不登校に対する取り組みについて、次回取り上げます。

つづく
(文:大関 直隆)