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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2005/10/11(火)
第180回「運動会の主役」
最近の地球環境の変化に、とうとう晴れの特異日も降参?かな。8日、9日、10日とせっかくの3連休が3日とも雨。8日も9日も運動会を予定していた幼稚園、小学校も多かっただろうに、残念でしたね。わが家の孫も9日が初めての運動会。楽しみにしていた(親とおじいさん、おばあさんだけ?が)のに、9日の朝に電話が鳴って延期。一応順延ということにはなってるけど、順延になった10日も朝から雨で、また電話がかかってきて順延。またまた一応順延になってはいるけど、11日も朝のうちは雨の予報で、さてどうなるのかな? 今、午前5時だけど、今のところ雨は上がってるみたい。ただし、問題はグランドの状態。果たして雨は降っていなくても、使えるような状態なのかなあ? まあいずれにせよ日曜日だった予定が平日にずれ込んじゃったので、見に来られる人は限られちゃう。孫の通っている幼稚園は、自由保育でちょっと普通の幼稚園とは違うので、“運動会、運動会”ってそんなに騒いでいるわけではないけれど、運動会が一大イベントになっている幼稚園では、すごく残念がってるお父さん、お母さんも多いだろうね、きっと。何日も前から“お弁当何にしようかな?”なんて考えて、10人も座れるようなレジャーシートを用意して…。

そうそう、そう言えば、真(まこと)と麻耶(まや)の運動会の時は、敷き詰められたビニールシートにびっくりしたっけ。1人の園児にお父さん、お母さん、お父さんのお父さんお母さん、お母さんのお父さんお母さん、全部揃った家だとなんとそれだけで6人になっちゃうわけだから、すごい数だよね。それに兄弟まで来たら、大変なことになっちゃう。

ビデオなるものが家庭に普及し始めたのは約30年くらい前。出始めのころは、デッキとカメラが別々で、デッキをベルトで肩からぶら下げて、カメラを肩の上に乗せて、まるでテレビや映画の撮影みたい。それがテープ内蔵のカメラになって、その後は記録媒体がどんどん小さくなって、今では手のひらサイズが主流でしょ。しかも録画時間が格段に延びて…。
運動会っていうのは、それにはもってこいの被写体だもんだから、みんな持ってる、持ってる。自分の子どもが出場しているときは、ずっとファインダー覗いて、応援はそっちのけ。結局、運動会が終わるまで一度も生で子どもの姿を見ないで終わっちゃったりしてね。撮るのに夢中で、何が何だか全然わからなくて、家の画面で見て、“へえ、こんな風だったんだあ!?”なあんてね。私にもそんな記憶がある。

真と麻耶が通った幼稚園では、最後の年長組のクラス対抗リレーが呼び物。とにかく、リレーにかける先生方の思いは半端じゃない。子どもたちはトラックの中でしゃがんで応援してるのに、「××君、がんばれー!」、「いけいけー! そうだー! 抜け、抜けー!」なんて立ち上がって黄色い悲鳴を上げているのは先生方。挙げ句の果てに、レースが終わると勝ったクラスの先生も負けたクラスの先生も、感極まって号泣。子どもたちはきょとん。いったい誰が主役だったっけ?なんてことになっちゃって…。

さーて、外はどうかな?
雨は降ってはいないけど、庭の木の葉っぱから雨のしずくがポタポタ垂れてるよ。もうすぐ今日の予定の電話がかかってくるかな? なんだか今日もできそうもないね。晴れの特異日は、いったいどこへ行っちゃったんだろうね。
(文:大関 直隆)

2005/10/03(月)
第179回「待つということ」
人の死というものは、たとえそれが93歳という高齢で、”死”が当然予定されたものであったとしても、身近なものにとっては、「そこに存在することがまるで空気のように当然で、”いない”ということが当然には感じられないのだなあ」と徐々に実感がわいてくるものですね。”当然であって当然には感じられない死”ということを悲しむべきなのか、93年という長きに渡る”生”を喜ぶべきなのか、なかなか気持ちの整理がつきません。

義父とはいえ、父には多くのことを学びました。強固な意志、人としての尊厳、生きることへの執着…。

父は人の手を借りることを極端に嫌いました。
数年前の冬、スキー場でのこと。90歳近くになった父は、まだスキー板をつけてリフトに乗っていました。すっかり身体も硬くなり、それほどうまく滑れるわけではありませんでしたが、とりあえずゲレンデを斜めに真っ直ぐ斜滑降で滑り、ゲレンデの端まで行くと、くるっとターンをして、また反対側へ斜滑降で滑るというように、ゲレンデを何度か滑り降りていました。何度目かの時、リフトを降りて、身体を下に向け滑り出そうとした瞬間、スキー板がはずれてしまったことがありました。転びはしませんでしたが、斜面で身体を自由に動かすことはかなり難しいらしく、ブーツをスキーにはめようとしてもなかなかはまりません。父にトラブルがあったとき、すぐに対処できるようそれなりの距離にいた私は、しばらく様子を見ていましたが、あまりにも長時間にわたり苦労している父を見かねて、そばに寄り、手を差し出しました。ところが、すごい勢いで振り払われてしまいました。そして、なんとか一人でスキー板をつけた父は、何食わぬ顔でリフト乗り場を目指し一人で滑っていきました。

父は温泉が好きでしたが、10年ほど前、野沢温泉のペンションでのぼせて倒れてしまったとき以来、父のお風呂には私が必ず同行することになりました。年をとってからは身体が温まるのに時間がかかるらしく、お湯の温度に関係なく、長時間肩まで湯船に浸かります。大きなお風呂の湯船の中を移動するときも、しゃがんで肩を湯船に浸けたまま移動します。一度倒れたにもかかわらず、いつもそんなふうですから、人を頼るのが嫌いな父がうっとうしがらず、しかも万一倒れたときには頭を打つ前に支えられる距離にいるよう心がけるようになりました。

普通なら倒れた経験から、長湯はしないよう気をつけるものですが、頑固な父はそんなことお構いなし。肩まで湯船に浸かると、のぼせない方がおかしいというくらい、肩まで湯船に浸かり、出ようとしません。当然のことながらのぼせるのですが、それからが大変。湯船から出ようという気になっても、一気に出ると野沢温泉の二の舞になってしまうので、まず肩まで浸かっていたものを胸まで湯船から出し、そしてその状態で約10分、そしてお腹、そして膝というふうに約10分ずつかけて、徐々に湯船から上がっていきます。すっかり湯船から出るまでには、ゆうに30〜40分を要します。その間、私は例の距離を保ちつつ、父が湯船から出るのをじっと待ちます。つい手を貸したくなるのですが、近くに寄って手を出そうものなら、スキーの時同様、振り払われるので、じっとがまん、がまん。4年ほど前に訪れた乳頭温泉では、膝から下だけを湯船に浸けて、父が上がるの待っていたら、あまりにも長時間温泉に足を浸けていたものだから、湯船に入れていた部分だけが真っ赤にかぶれてかゆくなってしまいました。父が気づかぬよう、脱衣所でこそこそ足をかいていたのですが、食事の時になると父は「なお君(私のこと)はなあ、足がかゆくなっても、わしが風呂から上がるまで、ずっと待っていたんだ」と言いました。いったいどこで見ていたのでしょう?

去年の秋、秋の宮温泉では、湯船から出た途端、気を失って洗い場のタイルの上に倒れて(私がそっと横にしてやった)しまいました。さすがに私も動揺しましたが、息をしていることを確かめて、あとはじっと待ちました。かなりの時間が過ぎたころ、やっと目を開き、珍しく私に向かって「起こしてくれ」と頼みました。この間じっと待つこと2時間。私も気がきではなかったので、そんなに時間が経過しているとは思いませんでした。

子育てにおいても「待つということ」は重要なポイントです。子どもが何かをやろうとしたとき、「早くしなさい」「何するの?」と言うのではなく、ただじっと待ってやること。待ってやることが、子どもを受け入れてやったことになり、子どもの人格を認めてやったことになるからです。大人が子どもに何かを尋ねたとき、次に言葉を発するのは子どもの番。多少時間がかかっても、じっと待ってやる。待ってやることが、自己決定の能力を育て、物事を自分で判断できる子に成長させることにつながるからです。
(文:大関 直隆)

2005/09/26(月)
第178回「義父の死」
義父が逝きました。9月23日お彼岸の中日、朝7時、それまで早かった呼吸が徐々にゆっくりになり、静かに止まりました。妻がどんなに大きな声で「おとうさん!」と叫んでも、もう二度と返事をすることはありませんでした。

93歳の大往生でした。義父にとって、妻や娘、孫に囲まれての自宅での穏やかな死は、おそらくこれ以上の幸せはなかったのだろうと思います。
春のお花見、夏の海水浴、秋の紅葉狩りは、毎年欠かすことのない年中行事でした。ここ数年の体力の衰えは急で、毎年出かける距離を縮めることを余儀なくされました。何年か前には春の吉野へ出かけました。弘前城の桜も見ました。それが去年は、山形になり、今年は会津になりました。

八幡平の紅葉が好きでした。2泊3日の八幡平への旅は、走行距離が2000キロにも及びます。以前は初日に八幡平まで行けていましたが、最近では2日目に八幡平を目指すようになりました。それでもやはり八幡平でした。ほとんど限界に近い体力にもかかわらず、何も言わず私の車の助手席に座っていました。田沢湖方面から玉川温泉を通って八幡平の頂上へ向かうルートの美しさ。カーブを曲がるたびに、拍手をしながら、
「おー、うつくしいなあ! おーっ、おーっ!」
と歓声を上げた父。まるで子どものようでした。
もう、父の歓声を聞くことはできなくなりました。
祭壇の奧に飾った父の遺影は、今年の春、会津の鶴ヶ城で撮ったものです。右手を挙げて、カメラを構える私に、「おーっ!」と軽く声をかける仕草は、義父のお気に入りのポーズ。じっと眺めていると、今にも写真を飛び出して、「おーっ!」という声が聞こえてきそうな気がします。

21日の午後、それまで比較的落ち着いていた父の様子が急変しました。母との電話で一人で急いで実家に向かった妻から、「すぐ来て」という連絡が入りました。私は、子どもたちに連絡を取りながら、熊谷の実家へ向かいました。どこを眺めているわけでもない視点の定まらない目は、もうほとんど“死”を予感させていました。

翔(かける)は、死が直前に迫った祖父を見て、涙をぼろぼろ流しながら泣きました。麻耶(まや)、蓮(れん)、沙羅(さら)は、じっと立ったまま、眺めています。まだ幼い蓮と沙羅には、その光景が何を意味するのか、よくわからない様子です。何か、とても不気味なことが起こるといった様子で、母親である麻耶の手をぎゅっと握りしめたり、後ずさったり・・・。しばらくして、曾祖父の脇に座った蓮と沙羅は、促されて“ひいじいちゃん”の手を取りました。おおよその意味は理解できたのか、もうすでに骨と皮だけになってしまっているやせ細った“ひいじいちゃん”の手を、沙羅がそっと撫でています。
と突然、それまでほとんど反応のなかった義父の手が、「よしよし」と子どもをあやすように、上下に振られました。
「やっぱりわかってるんだ!」
驚きました。

93年間、生を尽くしてきた義父が孫と曾孫に生を託した瞬間でした。通夜が終わった昨夜、「明日、ひいじいちゃん焼くんだよ」という麻耶の話に、「食べるの?」と聞き返した蓮は、皆の笑いを誘いました。きっと、曾孫たちも、義父に守られながら、しっかりと育っていくのだろうと思います。今日の午後、義父は骨になります。
(文:大関 直隆)

2005/09/20(火)
第177回「飲み会」
「麻耶(まや)遅いなあ。早めに帰ってくるって言ってたろっ?」
「うん。長くなるようなら、早く出てくるようなこと言ってたけどね」
「“そういうのって普通2時間くらいだよねえ?”って言ってたよなあ。でも、“世話人やってる人が言うには、そこのお店11時半くらいまでは全然大丈夫ですからって言ってるから、それくらいまでやるつもりかなあ?”とも」
「うん。そんなようなことも言ってた。飲み会なんて慣れてないから、早く出てくるにも、タイミングっていうのがわからないって言ってたよ。どういうタイミングで出てくればいいんだろって」
「今の電話、おじいちゃん(妻の父)がずっとワアワア騒いでて、一昨日から一睡もできなくて、“もう疲れた!”ってお母さんがパニック寸前になってかけてきたんだよ。お母さん一人じゃ大変そうだから、これからちょっと熊谷まで行ってくる。今11時だから、今出れば12時くらいには着けるだろ。悪いけど蓮(れん)と沙羅(さら)もう少し頼むな」
「わかった」
「6時半から行ってんだから、いくら何でも麻耶もそろそろ帰ってくるだろ」

今年のゴールデンウィーク前までは、会津までお花見に行けるくらい元気だった93歳の義父が、7月くらいから急に弱ってしまい、今では寝たきり状態。88歳の義母と熊谷で二人暮らしなので、しばらくはヘルパーを頼んで凌いできましたが、もうちょっとそういうレベルではなくなって、妻がほとんどずっと付き添っています。自宅で看取るという選択をして、かなり大変ではありますが、現在は妻が介護の合間に仕事をするような生活になっています。いつもなら4歳の蓮と2歳の沙羅の面倒は、妻か私が見るのですが、妻は介護、私もこの日は仕事をはずすことができず、麻耶が出かける6時過ぎには戻れません。結局、翔(かける)がちょうど文化祭ではあったのですが、文化祭が終わり次第、家に戻り、蓮と沙羅の面倒を見ることになりました。この日麻耶が参加する飲み会は、幼稚園に通う蓮のクラスの懇親会。麻耶から話を聞いたときは、ビックリしました。
「昼間、お茶会をするんじゃないの?」
「うーん、普通はそうだよねえ。6時半からじゃあ、子どもを誰かに頼まなきゃなんないもんね。みんなお父さんが見てるのかなあ?蓮の幼稚園はバスの送迎なし、延長保育なし、しかも毎日お弁当なんていう幼稚園だから、片親なんていう家、まずないからね」
「まあ、そうだろうな。それにしても、父親が仕事で都合がつかない家だってあるだろうし、まだ赤ちゃん抱えたお母さんだっているだろうし、夜6時半からの飲み会っていうのはね。しかも、12時近くまで飲もうっていうんじゃ、本末転倒だね。母親の息抜きっていうレベルも超えてる」

翌日、私は熊谷から仕事に出ました。仕事をしていると、「おじいさんの具合はどう?」と麻耶から電話がありました。
「お前、昨夜は何時に帰ったの?」
「12時半頃になっちゃった!」
「そんなに遅くなったの?」
「うん。もっと早く出ようと思ったんだけど、出ようとすると蓮と仲良しの子のお母さんが隣に来て“これからもよろしく”なんてなっちゃってタイミングをはずしちゃったんだよ。ああいう席って、途中で立つの難しいね。」
「まあちょっとやってることが非常識だね」
「なんか他のクラスのお母さんに“夜、飲み会やる”って言ったらビックリされたらしいよ。そこのクラスは昼間お茶会したんだって」
「そのくらいにしとかないとね。子どものために親同士が親しくなろうとして、子どもをほったらかしにしちゃっては、なんの意味もない。母親に用があるときに父親が子どもの面倒を見るっていうのは当然だけど、度を超しちゃってる。見る人がいるか、いないかの以前の問題」

もちろん幼稚園主導で開かれた会ではなくて、音頭をとったのも役員さんではないようですけど、さすがにちょっとね。親同士が親しくなることはとても大切だし、息抜きをしたいお母さんの気持ちもよくわかるけど、まあほどほどにね。
(文:大関 直隆)

2005/09/12(月)
第176回「夏休み明けの問題 その2」
1学期の間はなんとか学校に行っていた子どもたちも、長い夏休みを過ぎるとどうしても学校に行けない子どもが増えます。
今までは”学校に何か行きづらいことがあるのだろう”といじめを疑ったり、学校の厳しい管理を疑ったり、おそらくそんなことで解決してきたんだと思うのですが、最近はどうも傾向が違うようです。
夏休みも終わりに近づいたころ、
「宿題終わった?」とA子に尋ねると、
「うううん、終わってない」
とりあえず宿題の状況を確かめると、まったく手をつけていません。ちょっとやるように促しても、「うん」と返事はするものの、一向にやる気配もない。学力もどちらかと言えば低い方なので、素直に考えれば、「なんとか宿題をやらせないと学校に行きにくくなる」と考えるところですが、どうも違う。

よく話を聞いていくと、”宿題が終わっていないから学校へ行きたくないのではなく、学校へ行きたくないから宿題をやっていないのだ”ということに気づきます。
B子は、過去に学校でいじめにあったから、学校へは行きたくないと主張します。B子の主張を聞く限りでは、確かに許されないようないじめがあり、学校に行きたくないのも当然と思えるのですが、数ヶ月にわたりB子と話をしていると、B子の主張に周りがついて行けないことに気づきます。自分の主張が通らないとまったく人を受け入れないのです。自分勝手というより、もう”だだをこねる”というのに近い。

さて、A子もB子も1学期はなんとか学校へ行っていました。夏休みを迎えた途端、これまで限られていた親子の接触の時間は、格段に増えます。学校という他人との関わりの中では、A子もB子も自分の主張がすべて受け入れられるわけではないことをよく知っているので、A子もB子もあまり目立たぬよう、たいしたわがままも言わずにおとなしく過ごしています。二人とも、部活動や外での活動といったものがないので、夏休みに入ると、人間関係はほとんど親子の関係に限られてしまいます。

A子は、親に対し”学校へ行きたくない”と主張すれば、必ず最後は自分の主張が受け入れられることを、小さいころからの親との関係の中で学んでいるので、いろいろな手を使って”学校へ行きたくない”とアピールするのです。宿題をやらないのもその一つなのです。夏休み前半は、A子にとって平穏な日々でしたが、2学期が近づくにつれ、アピールがひどくなり、両親がわかってくれないとリストカットをする、食べ過ぎたと言ってオーバードラッグする…。これは、学校に通学しているときには親との関係が時間的に制約されているので、あまりひどく起こらないのです。こういう状況になったときに、両親が毅然とした態度で、子どもの言動を拒否できれば、時間はかかってもどの時点かで必ず状況を打破できるのですが、子どものそんな様子に親がストレスを感じ、怒っては甘やかし、怒っては甘やかしを繰り返し、親に限界が来たときには、子どもの主張をすべて認めてしまい、結局子どもの主張通り、宿題はやらない、学校へは行かない、お前は病気だから何もしなくていいよ、ということになっていってしまうのです。A子の場合、まったくそういう負の連鎖になってしまいました。

B子は違いました。休みに入ってからも母親が必死で、子どもと距離を置く(放って置くという意味ではなく、よけいな口出しをしないこと)努力をしたからです。とにかく口出しをしないように、じっと我慢をしていたようです。その結果、B子のエネルギーは、母親に向かわず、外に向かうことになり、親子の感情のぶつかり合いによるストレスはなんとか避けられたようです。もっとも母親は我慢をしていたのでそれなりのストレスを溜めてしまっていたようですが。B子は2学期のはじめから無事に学校に行っています。

夏休みの過ごし方は、親子の関係が近づくだけに、関わり方を間違えると、その後様々な問題を生じます。最近の傾向として、親子関係が著しく近くなる傾向にあるので、夏休みのようにさらに親子関係が近づくような場合には、あえて距離を置く努力が必要なのだろうと思います。これは夏休みに限ったことではないけれど、特に夏休みのような長期の休みに求められる重要なポイントだろうと思います。そこでの失敗は、後々まで尾を引く可能性があるので、ぜひ注意してください。
(文:大関 直隆)

2005/09/05(月)
第175回「夏休み明けの問題 その1」
8月下旬にいくつかのフリーペーパーに教育カウンセラー資格取得講座の広告を出しました。その広告を見てか、9月に入ってからかなり多くご相談の方が研究所(浦和教育カウンセリング研究所)を訪れます。やはり夏休み明けというのは、いろいろな問題が一気に吹き出す時期なのです。「学校に行けない」「家で暴れる」「男の子(女の子)と付き合い始めた」等、親子間ではうまく解決できず、研究所を訪れることになるようです。

学校というのは、子どもたちにとって大きなプレッシャーになっているようで 、9月1日の朝には、姫路市の中学2年生の男の子が飛び降り自殺をするという事件も起きました。もちろん私たちが子どものころも、夏休み明けのプレッシャーというものがなかったわけではありません。宿題が終わらなかったり、その後に待ち受ける授業や部活動が嫌だったり、様々な理由で大きなプレッシャーを受けていたものでした。私も中学1年生の夏休み明けに、約1ヶ月不登校を経験しましたので、そのプレッシャーの感じというのはよくわかります。けれども、私たちが子どものころに感じた夏休み明けのプレッシャーというものは、ほとんどの場合1週間もすれば、感じなくなり解決していったものでした。現在もそういったプレッシャーを感じている子どもたちも数多く存在し、相変わらず宿題提出の日を欠席して慌てて家で宿題を終わらせたり、学校に到着するやいなや、「お腹が痛い」「頭が痛い」と保健室に駆け込んだりと、私たちが子どものころとった対応と同じような対応をしているではないかと推察されます。

ところが「夏休み明けの問題」も、最近傾向が変わってきているように感じます。2学期開始と同時に学校に行けないという現象は、昔も今も変わらないのですが、「1週間で解決」などというわけにはいかず、少なくともうちの研究所を訪れる子どもたちの多くは、かなりの長期にわたり「学校に行けない」あるいは「リストカット」あるいは「オーバードラッグ」などという状況を覚悟しなければなりません。これは、おそらく夏休みに原因があるのではなく、夏休みがきっかけとなり、その状況が現れたと考えるべきだからです。

夏休みというのは、学校がある時期と比べて、親子で過ごす時間が圧倒的に増えます。以前であればそういう時期というのは、家庭での生活により、学校でのストレスを解消する時期であったはずなのですが、第161回から7回にわたって述べてきた「言ってはいけないその一言」でも扱ったように、親子の関係が著しく歪み、学校がないということが「ストレス解消」どころか、かえってストレスを生み出すことになってしまっているのです。その結果、夏休みがきっかけとなり、親子関係の悪さを露呈し、長期にわたる苦悩と向き合わなければならなくなるのです。けれども、元々の親子関係が悪かったわけですから、夏休みをきっかけに問題が表面化したことは決して悪いことではありません。どんなことでもそうですが、問題の芽は早く摘んだ方がいいに決まっているのです。

さて次回は、夏休みに表面化した問題を具体的に説明したいと思います。
(文:大関 直隆)

2005/08/29(月)
第174回「一足早い二学期」
いやーっ、夏休みももう終わり。”短かった”と感じるか”長かった”と感じるか、それは人それぞれだと思うけれど、その人が「夏休みをどう評価しているか」、「あるいは学校に対してどういう感情を持っているか」によって変わりますよね。
自慢じゃないけど私なんか、夏休みが長いなんて感じたことは、1回もありません。
ありゃありゃ、それは困った問題だ!
やっぱり早く学校に行きたいって思うようじゃないとね。それが本来子どもたちに抱いてもらいたい学校に対する感情ですよね。学校としては1日も早く学校に行きたいと思わせるような学校でないと、学校の存在価値が問われます。

8月25日、葛飾区の中学校全校が二学期を開始したという報道がありました。23区の学力比較で、葛飾区の中学校は確か下から2番目とか。
う〜ん、葛飾区の教育委員会としても、なんとか状況を打破すべく、夏休みを短縮し、授業時間を確保しようっていうわけですよね。
これはもちろん葛飾区だけの動きじゃなくて、文部科学大臣が替わり、これまでの「ゆとり教育」の見直しが叫ばれる中、各地で起こっている動きです。「ゆとり教育」=「学力低下」というのは、非常にわかりやすい図式なので、あたかもそれが真実のように語られているけれど、以前にも取り上げたように、それが100%正しいかというと、どうも怪しい。果たして、子どもたちには圧倒的に不評の「夏休みの短縮」が学力アップにつながるのか?
しかも、毎日新聞の報道によると、
「同区教委は増えた授業時間の使い方を各学校に任せている。すべてを英語の授業にし
たり、基礎を定着させる学力向上教室、学習コンテストの開催などに取り組む学校があ
るほか、増えた授業時間の半分は、球技大会など行事の充実に使う学校が多いという」。これってなんだか区教委が「夏休みの短縮」を決定した理由と少しずれていませんか?どうも行政のやってることは、振りにしか見えない。もう少し一貫性のあるやり方はできないのかなあ?
徐々にではあるけれど、公立学校にもクーラーが設置されるようになり、ひどい暑さで授業ができないという学校の状況は、改善されつつあります。そういった意味では、「夏休みの短縮」ということが考えられるのも、まあ筋ではあると思いますが、報道によると現場は反対にもかかわらず、「増えた授業時間の使い方を各学校に任せている」と言うんだから、やってることのつじつまが合わない。
私は、学校の裁量ということで教育が進んでいくことに、どちらかと言えば賛成ですけれど、そこにはそれぞれの学校の力量とそれを支える行政機関との連携が必要だと思います。今回の「夏休みの短縮」は、どうもそういうふうには映らない。どこだったかのテレビ局が実施したアンケートによると、保護者の過半数が「夏休みの短縮」に賛成なんだそうです。これも本当に学力の向上を願ってのことなんだか、「早く学校に行ってくれないと手がかかる」ということなんだか、よくわかりません。学力向上を前面に出しつつ、保護者の本音は、後者かな? だいたい保護者は学校を信用してないんだからね。
塾をフランチャイズ展開している某会社からお誘いがあり、フランチャイズ展開の説明会に出席したことがありました。その中で、葛飾区、江東区辺りは、学力が低いという話がありました。大手の塾との競争は避け、そういうところを狙えと言うのです。いろいろ見せられたVTRに対し、あまりに質が低いので「フランチャイズには誰でも教えられるというマニュアル化をすることが必要というのはわかるが、大事なのは個々の教師の力量」と私が発言したことで、社長と大議論になってしまいました。塾経営の話の中で、「講師の面接の際、誰を採るかで迷ったら、とにかくイケメンを採ってください」という話もありました。しかも「私はいまカラオケ屋をやっているんですが、今後の事業展開として塾をと考え、参加させてもらいました」なーんていう人たちが、塾経営に関わろうとしている。
こんなに馬鹿にされているのに、現場と行政、さらに保護者までがバラバラでは、子どもたちの学力向上なんて夢のまた夢。学力向上がすべてではないけれど、「夏休みの短縮」なんて小手先の手段を使ってもたもたやってるんじゃなくて、もっと真剣に子どもたちの教育の根本を考えることが必要なのだと思います。
(文:大関 直隆)

2005/08/22(月)
第173回「プールの安全」
「そこの小学生!走るなあ!」
「飛び込み禁止!プールサイドから飛び込まないで!」
「ほらほら、そこの僕。悪ふざけはしないで!」
「時間ですからあがってください。係員の笛の合図があるまでプールに入らないでください」
公営のプールに行くと、ひっきりなしにハンドマイクでの怒鳴り声や注意や指示の放送が流れます。とにかく聞き苦しいこと、甚だしい。1時間くらいすると、あまりに流し続けられるその騒音に慣れてしまって、気にならなくなるのですが、そこでまた大声で怒鳴られたりすると、「はっ」とその騒音にまた気づかされて、ほんとにイライラしてきます。
「こんなに怒鳴らないとダメなのかねえ?! 確かに言うこときかないで危険なことする子もいるんだろうけど、今日は見たところそれっぽい子はいないけどね。怒鳴っても、穏やかに注意をしても、そんなに違うとは思えないし、まず楽しくないと、かえって心が荒れて、乱暴になるもんだけどね」

いつ行っても、どんな状態でも、とにかく怒鳴る、怒鳴る。特にひどかったのは、今はなくなってしまった、蕨の北町にあった蕨市民プール。その怒声といったら半端じゃない。あんなに怒鳴って、声がかれないのかなあと思うくらい。プールの監視員ていうのは、ほとんどが高校生のアルバイトで、直接話をしてみると、そんなに怒鳴るような子には思えないんだけれど、人間っていうのはいったん権力を握ると、とにかくそれを誇示しようとする。

それに比べて沼影の市民プールは、ややおとなしめでした。怒鳴るというよりは、むしろ「××してください」「××はしないでください」いう指示が多い。以前からそうだったのですが、つい先日妻が孫を連れて訪れると、さらにソフトになっていたとか。以前ならあきらかに怒鳴るようなケースでも、怒鳴ることはせずに、そばまで行って注意をしている。だいぶ静かになったようなので、それはそれでよかったなあと思って妻の話を聞いていたら、やっぱり妻は腹を立ててる。
「いやあ、ひどい注意の仕方してるんだよね。怒鳴らないようにかなり指導はされてるみたいで、大声出したりはしないんだけど、小学校1年生くらいの子が幼児プールに入ってきたら、その子のところまで行って、すごくしつこく注意してるの。私が蓮(れん)と沙羅(さら)をそこで遊ばせてて、気にならないくらいだったし、おとなしい子で、すぐに出て行こうとしてたしね。あんまり注意されるもんだから、なんだかすごく小さくなっちゃってて。あそこまでやらなくたっていいんじゃないのっていう感じだった。注意してたあの高校生は、いつもあんな風に学校で怒られてるんだろうなって思ったよ」

これで妻の話は終わりませんでした。
「それでねえ、蓮があのほら、ポリでできてるよく幼稚園にあるような、ちっちゃな滑り台あるでしょ。あれで滑ってて、そのうち滑るところじゃないちょっと脇のところで滑ったら、少し角度がきついから、“ぼしゃん”て頭まで水に浸かっちゃったんだよ。蓮もビックリしたみたいだったけど、すぐに笑い出して、私と沙羅と3人で笑ってたら、その監視員が来てさ、“危険ですからそこで滑らないでください”って注意するんだよ。何回か滑ってるの見てたんだよ。“ぼしゃん”って落ちたの見たから来たんだろうけど、“私がここで見てるんだし、そんなに危険なことしてないでしょ?”って言ったら、“前に事故があったので”って言うんだよ。“ほんとに事故があったんなら、そんなもんここに置くな!”ってだんだん腹が立ってきてさ、“責任者呼べ!”ってなったの」
「それで責任者と会ったの?」
「そうそう。女の人だったけど、事情を話して、もう少し注意の仕方を考えろって言ってきた。その人は事故があったなんて言ってなかったよ。事故があったって言えばいいと思ってるんだよ」
「そういうやり方はまずいよね。危険なことは危険って注意していいと思うけど、権威を示すために威張ったり、事故を持ち出したりするのはね。ほんとに事故があって危険なものなら、そんなところにあっちゃまずいし。蓮は見てたからいいけど、ちょっと親が目を離した隙に事故でも起こったら大変。“事故があったから危険”っていうのはちょっと変だよね」

公営のプールに行くたびに思うのですが、事故防止は重要だけれど、本当に防止をしようとするのなら、怒鳴って注意ばかりするのではなくて、もっときちっとした目を光らせて、安全を確保してもらいたいものですね。もうだいぶ前になりますが、陶芸で有名な笠間に行ったとき、市民プールに入ったことがありました。ここのプールは、平日にもかかわらず、お父さんと子どもという組み合わせがたくさんいたのにビックリしました。どうやらほとんどのお父さんが陶芸に関わっている方のようで、やはり土地柄なんでしょうか。そしてもう一つ驚いたことがありました。監視員の声を一度も聞かなかったんです。もちろんプールサイドには数人の監視員がいるのですが、声を出すことがありませんでした。そのうち、休憩時間になると、監視員がすべて建物の中に入ってしまい、プールサイドは誰も監視員がいない状態に。いやあ、これで大丈夫なのかなあと思いましたが、もちろん事故も事件も起きませんでした。混み具合も違うので、さいたま市でそんなことができるはずはないけれど、人を信用するという根底の姿勢は、見習って欲しいですね。
(文:大関 直隆)

2005/08/15(月)
第172回「子どものころの記憶」
母に尋ねたことがありました。
「おじさん(母の兄)が亡くなったとき、横山のおばさん(父の従姉)が告別式に来てたよねえ?」
「来てたよ」
「おじさんを送るとき、おばさんに抱っこされて送ったような気がするんだけど、告別式におばさん来てたの?」
「そうだよ。お前は、あの時まだ3歳だっただろ、だからねえちゃん(父の従姉なんだけれど、父の兄弟のように育ったので、父と父の兄弟は“ねえちゃん”と呼んでいます)が、お前の面倒を見てくれてたんだよ」
「ふーん。なんか、あの時の記憶って、やけに鮮明なんだよね。たぶんおばさんの左手に抱かさって、ちょうど玄関の前のT字路のところで霊柩車を送ってたんだと思うんだよね」
「そうかもしれないねえ」
「横山のおばさんなんて、そんなに関係が近いわけじゃないから、おじさんの告別式に必ずいなきゃならない人じゃないでしょ。だから、おばさんに抱かれてたって思ってるっていうことは、これってやっぱり記憶なのかねえ? 3歳の時のことなんて、そんなにはっきり覚えてるもんかねえ? 誰かにそのときの様子をあとから聞かされて、それを自分のイメージとして持ってるのかなあ? 姫野(母の実家)の兄弟に抱かれてたって思うんなら、そこにいて当然の人だから、ちゃんと記憶があるわけじゃなくて、あとで自分で勝手に想像したっていうこともあり得るんだろうけど、横山のおばさんっていうのがねえ・・・。おばさんがそんなところにいるなんて、普通だったら考えないと思うんだけど、抱かれてたって思ってるっていうのは、ほんとに記憶があるのかもしれない。すごくはっきりとその情景が浮かんでくるんだよね」
「へえ」
「3歳の記憶なんてあるのかなあ? 4歳の時のことならはっきりと覚えてることがあるんだよ。お店(祖母が越谷街道沿いでやっていた駄菓子屋)の前をね、自衛隊の車が何台か列をなして通ったことがあったんだけど、その自衛隊の車に向かって敬礼してたのをよく覚えてるよ。親父がお酒を飲むたびに、“帝国海軍”の話を聞かされてたし、うちに飲みに来る人たちが、みんな涙を流しながら軍歌を歌ってたからねえ」

何歳くらいからのどういう記憶が鮮明に残るのか、よくわからないけれど、どうも私の頭の中には若干ではあるけれど3歳くらいの記憶があるみたいです。

「戦争の記憶なんてあるの?」
「うーん、全部覚えてるわけじゃないけどね。例えば飛鳥山の下にあった防空壕の中で、見ず知らずのおじさんにもらった白米のおにぎりのこととか、焼夷弾が落ちてくる時のヒューっていう音、そして爆発する時の地響きのようなドーンという音とか、戦隊を組んでとんでくるB29とか、そういう記憶はあるよね」
「1945年の12月で4歳だから、東京大空襲の直前に岐阜に疎開した時は、まだ3歳になったばかりのころだよねえ?」
「そうだね」
「そうするとさあ、3歳になったばっかりのころの記憶っていうことでしょ。それって、その後大きくなってから人に聞いた話とか、いろいろな報道とか映画とかそういうものを見て、自分の意識の中で膨らませていったものじゃないの?」
「うーん、そういうこともあるんだろうけど、いくつかのことはかなり鮮明に覚えているから、自分の記憶だと思うよ。父と母はあまり感じないみたいだけど、私は未だに暗いところが嫌いだったり、花火の破裂するドーンっていう音が嫌いだったりするしね」
「ああ、そうだよねえ」

1941年生まれの妻には、戦争の記憶があるようです。子どものころの記憶というのは、単純に何歳何ヶ月くらいからあると考えるよりは、子どもにとってその出来事がどんな意味を持つのかで変わってくると考えた方がいいような気がします。そう考えると、幼少のころに楽しい体験をたくさんさせてあげることが重要で、大きなショックを受けるような経験はさせるべきではないということなのでしょうね。

“まだ小さいから”という考えはやめて、どんなに小さい子どもでも、一人の人間として尊重し、大切に育てたいものですね。
(文:大関 直隆)

2005/08/08(月)
第171回「明徳義塾高校野球部の連帯責任」
名門、明徳義塾高校野球部の一部部員による喫煙行為、下級生に対する暴力行為が明るみに出て、全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)開幕直前に、出場を辞退するということになりました。こういった問題は、賛否両論あって、とても取り上げにくい問題なのですが、あえて取り上げることにしました。出場辞退が報道されると、さずがにここ数年甲子園を湧かせ続けてきた学校だけに、大きな社会問題となり、「一生懸命努力してきた3年生に、連帯責任はかわいそう」という連帯責任反対派から、「部活動も教育なのだから連帯責任は当然」という連帯責任賛成派まで、テレビやラジオなど、さまざまなマスコミで取り上げられています。

私は、基本的に「連帯責任」という考え方は、間違っていると思います。「連帯責任」という考え方は、管理をするために存在するものであって、子どものため、生徒のために存在するものではないからです。小学校でよく行われている班別の行動は、連帯責任という名の下に、管理の道具として使われています。例えば、“班員の1人が忘れ物をしたために、全員が怒られた”、“班員の1人が掃除をさぼったために、全員がもう1度掃除をさせられた”・・・。おそらく、皆さんもそんな経験があるでしょうし、皆さんのお子さんも、今まさにそういう経験をしているのではないかと思います。

これは、とてもひどいことです。“自治を教える”ことを理由に、本来教員が一人一人の子どもたちにしなければならない指導の手を抜いているだけで、教育になっていません。教育の現場で行われている連帯責任というのは、責任を取らされる子どもたちに、まったく責任を取らされるいわれはないのです。

では、今回の明徳義塾高校野球部の問題はどうか。
この問題は、小学生の班の連帯責任とは少し違います。班の中で、忘れ物をしたり掃除をさぼったりした子は、その原因が班の中にはないのに比べ、明徳義塾野球部の問題は、その事件の原因が、野球部自身の中に存在すると考えられるからです。

私が以前講師をしていた専門学校の生徒の中に、甲子園の常連校から来た生徒が何人かいました。その生徒たちが口を揃えて言うのは、「普通の生徒が万引きをすれば、即停学か退学になるのに、野球部の生徒がやるともみ消されるんだよ」ということ。これは、別にこの生徒たちが通っていた高校だけの問題ではありません。明徳義塾高校も全く同じことをしようとしたわけだけれども、結果的にうまくいかなかった。そういった意味では、出場辞退というのは、連帯責任という言葉をもって片づけられようとしているけれど、問題を起こした生徒に起因する連帯責任としての対処ではない。

もう一つ見落としてはいけないのは、本当に問題を起こした生徒個人の問題なのかということ。1年生部員8人と2年生部員3人の計11人が喫煙していたと報道されていますが、一般的に言って上下関係が厳しい野球部やサッカー部のような部の部員で、3年生が喫煙していないのに、寮内で1、2年生が喫煙できるわけがない。暴力行為にしてもしかりです。これは私の想像の域を出ませんけれど、おそらくこの問題を放置すると、さらに別な問題が表面化した可能性があるのではないかと思います。そういうところに目を向けないで、連帯責任論だけで、この問題を片付けることはできません。

ある高校で、サッカー部員が万引きをしたことが発覚しました。以前は全国高校サッカー選手権にもたびたび出場していた高校ですが、この年は県予選で敗退してしまっていたので、出場辞退などと大げさなことにはなりませんでしたが、万引きで校内処分を受けたサッカー部員は部員全体の3分の1を超える30数名に上りました。こういうことはよくあることです。こういう問題は、万引きをやった生徒個人の問題ではなく、サッカー部全体の体質の問題だからです。

明徳義塾高校にも、そういった体質の問題はなかったのか。
今回の辞退という状況に一番納得しているのは、明徳義塾高校の野球部員かもしれません。私は、今回の辞退は当然のことと考えますが、今こそ問い直されなくてはいけないのは、事件を起こした生徒たちではなく、大志を持った子どもたちの夢をかなえるべき指導者の質だと思います。教育の名の下に行われている部活動の指導者に一番求められているのは、単に勝負に勝つことではなく、人として成長していく子どもたちに何を伝えるのかということです。果たして明徳義塾の馬淵監督にそういったものがあったのかどうか・・・。出場を辞退した生徒たちの未来が、辞退したことで失われないことを願っています。
(文:大関 直隆)