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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2005/08/01(月)
第170回「未知のものの恐怖 その2」
「カエルさんの声は聞こえるけど、真っ暗で見えないねえ」
「うん」
「カエルさんって、ゲロゲロって鳴くんだよね」
「うん」
「たくさん鳴いてるね」
「うん。うるさい」
「蓮くんと沙羅ちゃんは、カエルさん触れるんだっけ?」
「うん。触れるよ」
蓮はもちろん、沙羅までが返事をしました。
カエルを身近に見たことすらないのだから、触ったことなどあるはずがないのに、ぐっと恐怖心を押さえて、蓮は私に強がって見せたのです。蓮も沙羅も水族館のようなところで水槽に入ったとても貴重な珍しいカエルは見たことがありましたが、田んぼで鳴いているカエルというのは、見たことがありません。にもかかわらず、カエルという存在は、小さな蓮や沙羅にもポピュラーなようで、
「今度、カエルさん捕まえに行ってみようか?」
と私が蓮に尋ねると、
「う〜ん」
蓮は、肯定とも否定ともつかない微妙な返事をしました。

− 数日後 −
「蓮くん、これからカエル捕まえに行こうか?」
「うん」
今日ははっきりと返事をしました。
「沙羅ちゃんもぉ」
怖がって「行かない」と言い出すのではないかと思っていたのですが、やけに威勢のいい返事に、私と蓮と沙羅の3人でカエルを捕まえに行くことになりました。近くに田んぼがなくなってしまったので、車で20分ほど走り、やっとカエルがいそうな田んぼにたどり着きました。
「カエルさん、いるかなあ?」
3人で畦道を歩くと、カエルが草の中から田んぼの水の中へ飛び込みます。おたまじゃくしのしっぽがやっと取れたばかりの小さなカエルは、よく見ないと見逃してしまうくらいの大きさです。最初のうちは、その存在に気づかなかった蓮と沙羅は、私の後ろについてきていましたが、その存在に気づいてしまった瞬間に、2人の足はピタッと止まりました。「じいちゃん、手つなごう」
蓮は言います。沙羅は一歩も足を前に出せなくなり、立ち止まったままべそをかき始めました。
「蓮くん、カエルさんいるねえ。ほらっ、おじいちゃんについておいで」
私は沙羅と手をつなぎました。蓮は強がっていた手前、とりあえず1人で踏ん張っています。
「蓮くん、カエル捕まえられる?」
「うううん。捕まえられない」
「怖いの?」
「怖いの。だってカエルさん噛みつくでしょ?」
やっと本心を私に告げた蓮はちょっと気が楽になったようでした。
「大丈夫。カエルさんは噛みつかないよ。じゃあ、じいちゃんが捕まえてあげるから、そこでじっとしててね。蓮くんと沙羅ちゃんが動くと、カエルさん逃げちゃうからね」
5匹ほどカエルを捕まえて、ビニール袋に入れました。ビニールの中にいるカエルは、蓮と沙羅をおそわないということは2人にもわかっているらしく、2人ともじっと観察しています。カエルに対して自分が優位に立っているということを悟った蓮は、さっきまでカエルを怖がっていたのが嘘のように、今度はカエルの入ったビニール袋を持ちたがりました。
畦道を車の方に向かおうとすると、また沙羅が動きません。ほんの5pか10pの草が怖いのです。草の中に何が潜んでいるかわからない恐怖は、沙羅にとっては相当なもののようで、私がかなり強い調子で促すまで、全然動かなくなってしまいました。

家に帰って、金魚の水槽にカエルを放すと、水草の陰に隠れたり、ガラスにへばりついたり。蓮も沙羅もカエルというものがどういうものかを知り、恐怖心も和らいだようで、3日間ほど水槽の中で飼ったあと、近くの川に逃がしてやりました。
「あのカエルさん、あんよの指が一つなかったんだよ。かわいそうだねえ」
充分に観察をしたらしく、すっかりカエルは、蓮と沙羅の身近なものになりました。

「今年もサザエ、たくさんいるかねえ? 去年は少なかったような気がするよ。潜ってもあんまりたくさんは見つからなかった」
「潮の関係もあるんだろうけど、だんだん減らなければいいけどね。まだお母さんは、あなたが泳げるっていうの、半信半疑みたいだね。波が怖くて、砂浜に降りられないっていうんじゃ、無理もないけど」
「なんだかわからないものが怖くないっていう方がおかしいんだよ。未知のものを怖がらずに何でも平気っていうのは、乱暴なだけだよ。少しずつ確かめて、恐怖心を克服していく、そういうことが子どもにとっては重要だと思うけど。それが本来の強さだよ」
「なんとか言っちゃって! 波が怖くて海の家から一歩も出られなかったっていうあなたは、極端なんだよ」
「まあ、そうかも。でも今は、サザエ採れるんだからいいでしょ!」
(文:大関 直隆)

2005/07/25(月)
第169回「未知のものの恐怖」
「あいつ泳げないんじゃないの?」
「? とんでもないでよ、すごく達者ですよ」
「そうかい?」
「どこまででも泳いで行っちゃいますよ」
「? だってあいつはねえ、4才のとき鎌倉の海水浴場に連れて行ったら、海の家から一歩も外に出られないんだよ」
「全然海に入れないんですか?」
「違うよ。海に入れないんじゃなくて、海の家から砂浜に降りられないんだよ」
「・・・」
「わかる?砂の上に足がおろせないの。結局、海の家から全然出ないで帰ってきたんだから」
「それって、かなりすごいですねえ!」
「そうだよ。直隆(なおたか)って、そういう子だったんだよ」
「臆病っていうか、用心深いっていうか・・・。じゃあ、うちの子どもたちが、波が怖くて海に入れないのも仕方ないですね」
「そうだろうね。海に入れないっていうだけなら、直隆よりはずっとましだよ」
「はあ・・・」
「本当にあいつが潜ってサザエを採ったのかい?200個も?」
「そうですよ、お母さん。すごくうまいんですよ」
「どうも信じられないねえ」
「採ったやつを岩で潰して、その場で食べたんですよ。5、6個食べてあとはみんなにがしてやったんですけどね。セリとか山菜とかを摘んだり、何かを捕まえたりとかするの、とってもうまいし、そういうの好きみたいですね。だから、山の中をどんどん歩いたり、泳いだり、そういうこと得意ですよ。クマとかサメに出会っても平気そうです」
「おかしいねえ、あんなに臆病だったのに・・・」
「きっと未知のものには、用心深いんですよ。すごく神経質ですしね」

「蓮(れん)くん、沙羅(さら)ちゃん、ホタル見に行こうか?」
「うん、行く!」
10年ほど前、新聞の一面にホタルが乱舞している写真が載ったことがありました。ここ数年は、ホタルの保護に力を入れているところが増え、一時に比べいろいろなところでホタルが見られるようになりましたが、そのころは今ほどホタルブームではなく、ホタルが乱舞するほど見られるところは限られていました。新聞に載ったのは、長野県の辰野という町で、毎年ホタル祭りというのを大々的に開催しています。新聞に載った乱舞のすごさに、すぐさま辰野に出かけることにしました。私と妻の仕事が済んでから出かけたので、辰野に着いたのは12時ごろ。ホタルが最も乱舞するのは、8時前後とのことなので時間的にはやや遅い時間(土地の人の話では、9時くらいにいったん飛ばなくなって、遅くなってからまた飛び出すという人もいるのですが)だったのですが、そのとき見たホタルはまるでプラネタリウムの星のよう。

孫にもそんなホタルが見せてやりたくて、ホタル狩りに行くことにしました。ただし、辰野はあまりにも遠いので、塩原にしました。何となくどんよりとして蒸し暑い、絶好(?)のホタル日和と思って出かけたのですが、ちょうど塩原に着いたときに雨がパラパラと降り出しました。以前に心ない人がいたとかで、HP等には場所を公開していないので、電話をかけたり、交番で聞いたりと、やっとそれらしきところに着いたのですが、全然ホタルはいません。
「やっぱり、辰野みたいじゃないねえ。雨も降ってきちゃったし、ダメかなあ・・・。せっかくここまで来たんだから、ちょっとでいいから見せてやりたいよねえ」
そんなことを言っていると、10mくらい先を、星が流れるようにスーッとホタルが1匹飛びました。
「いたーっ! ほら、蓮くん、沙羅ちゃん、あれがホタルだよ」
蓮と沙羅を車の外に出すと、蓮は私に、沙羅はおばあちゃん(妻)にしがみついて、べそをかいています。
「ほらっ、あそこにも飛んでる! あそこにも。ほらほらほら!」
蓮も沙羅もホタルどころではなく、しっかりとしがみついたままホタルを見ようとしません。ホタルを保護している場所というのは、真っ暗です。目が慣れるまでは、足元を見ても、どこが道だか全くわかりません。漆黒の闇、まさにそんな形容がぴったりのようなところです。てっきりその暗さを怖がっているのかと思っていたら、どうやらそうではなくて、蓮と沙羅が怖がっていたのは、カエルの鳴き声でした。

真っ暗でよくわからないのですが、辺りは田んぼが広がっているようです。確かにすごいカエルの鳴き声で、怖がるのも当然といえば当然。私と妻はその騒音のような音がカエルの鳴き声で、カエルが頬をふくらまして鳴いていることも知っています。けれども蓮と沙羅にとっては初体験です。。
「あれはね、カエルさんの鳴き声だよ。蓮くん、カエルさん知ってるよねえ?」
「うん」
返事はか細く、とても恐怖が治まった様子ではありません。
「カエルのうたが〜 きこえてくるよ〜 グヮグヮグヮグヮ ゲゲゲゲゲゲゲゲ グヮグヮグヮ〜」
その騒音のような音がカエルの鳴き声とわかり、ほんの少しだけ落ち着いたようでしたが、「じいちゃん、車に入ろう。もうお家帰る!」
おいおい、わざわざ塩原までホタルを見に来たんだよ。そう簡単には帰れないだろうが・・・。もっとしっかりホタルを見てくれよ!

遠くを飛ぶホタルの光とまるで騒音のようなカエルの声。本では見たことはあっても、いったいそれがどんな生き物なのか、蓮と沙羅はまだその実態を知りません。

つづく
(文:大関 直隆)

2005/07/19(火)
第168回「さわやか相談室の限界」
ある中学校のさわやか相談室からの通信を手に、とても憤慨しているお母さんがいらっしゃいました。その通信を見てびっくり。「子どもの心をどうひらくか」という見出しが付けられた部分で、どうやら精神分析か何かの本を引用しているようなのですが(ちょっとそれも曖昧)。

★問題児のお母さんに共通して言えることは
1)いつでも自分本位で、子どもが勉強したくない時にさせようとし、子どもが勉強をがんばりたい時に心配してやめさせようとすることです。
→若いのだから当人が自発的にやりたくてする時は、一晩や二晩徹夜したって大丈夫です…と言わざるを得ない。
2)親がきちんと自我を育てて、本能を無理なく後退(我慢)させておけば
→社会の厳しさに十分対応できる子供になる。
3)自我をしっかり大きく育てるために
→親は寛容と忍耐に裏づけられた一貫性をもつことが、親として必要なことである。
『まとめ』★理屈も何もない無知な母親に、しっかりした良い子が育ち、高学歴の母親に自我の弱い問題児を育てたりするようになるのは、そのあたりの事情によるものと考える。
子供の精神育成は→叱り方、ほめ方等の技術ではない。口先や小手先でうまくやれるような簡単なものではない。

と記載されていました。
これはいったい何を目的に配っているのでしょう?
前回まで数回にわたって述べてきたカウンセリングマインドということからはほど遠い内容です。「問題児のお母さん」とか「一晩や二晩徹夜したって大丈夫」とか、何を根拠に言っているのかまったくわからない。「問題児」という決めつけも、誰にとってどう問題児なのかが不明確な上、保護者に対して配るものとしては言い方がとても不適切。

『まとめ』の部分の「理屈も何もない無知な母親」「高学歴の母親に…」に至っては、もうあきれて言葉もない。こんなものを母親に対して配っておいて、学校と家庭との関係がよくなるわけがない。上記はあえて原文のまま載せたものですが、文法的にもおかしいと思うようなところが数カ所あります。私も文法を大切に文章を書く方ではないので、あまりそういう批判はしたくないのだけれど、そんなお粗末な文章にしては内容が強すぎる。
これはプリントの後半部分ですが、プリントの前半部分には「生徒」「1年男子」「2年男子」「保護者」という言い方をしておきながら「スクールカウンセラーさん」「スクールカウンセラーの××先生」という言い方をしている部分があります。プリントを発行している立場からすると明らかに敬語の間違いです。

こういうものを取り上げて、重箱の隅を突っつくような批判をすることは、あまり気分のいいものではないし、建設的なこととも思えないのだけれど、今学校で何が行われているのか、これからの学校はどうあるべきなのかという、一つの問題提起としてあえて取り上げて批判をしました。学校との関わりの中では、「何か変だなあ」「どうも気分が悪い」「納得がいかない」、そんなことがよくあるはずです。そういう時は、納得がいくまで学校と話をすることが大切です。今回のことは、「さわやか相談室」という、まさにそういう悩みを解決するべきところで起こっていることです。

うちの研究所にも、さわやか相談員を目指して、教育カウンセラー資格を取得するため学んでいる人たち(採用の要件ではありません)がたくさんいますが、さわやか相談員の皆さんには、カウンセリングマインドをしっかり学んでいただき、少しでも質の高い相談員になっていただきたいものです。
(文:大関 直隆)

2005/07/11(月)
第167回「言ってはいけないその一言 −終章−」
第161回から前回まで「言ってはいけないその一言」ということで、親が子どもと接するときの基本的な姿勢を述べてきましたが、まだまだ具体例を挙げればきりがありません。一応今回でまとめて、今後機会があれば改めて取り上げたいと思います。

さて、何度か述べてきた子育てに対するカウンセリングマインドの基本的態度を覚えていますか?
『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』
それには、「子ども自身の成長していこうとする力をまず信じること」が必要です。
これは、肉体的にも、精神的にも言えることです。この連載の第6回から第8回までで扱った娘の麻耶(まや)の腎臓病の時のことです。主治医の赤城先生は現代医学では治療法が確立していない麻耶の病状に対し、子どもの生命力を信じ、「お子さんの生命力にかけましょう」とおっしゃいました。この赤城先生の言葉は、子育てにおけるカウンセリングマインドとも通じるところがあります。医学的な治療においても、子育てにおいても、最も大切なのは、本人の持っている力を最大限信じることです。信じた上で大人が何をすべきか考えるということが重要です。「うちの子はどうにもならない子だ」「放っておいたらどうなるかわからない」という発想は絶対にやめましょう。

そして、子どもの心に耳を傾けましょう。お子さんとの関係がそこから始められれば、「言ってはいけないその一言」は、ほとんど発していないはずです。親が子どもの心に耳を傾けられないケースにはいくつかあります。親が子育てを放棄したいケース、大人の都合で子どもに自由を与えたくないケース、勝手に子どものためと思いこんで押しつけるケース、わがままを認めることを耳を傾けることと勘違いしているケース。だいたいこの4つくらいでしょうか。子育てにおいては、常に自分の言動がこういったケースに当てはまらないかを検証していくことが大切です。そして、子どもの心に耳を傾けるには、常に客観的事実を正しくとらえ、自分自身の心を真っ白な状態に置くこと、それができて初めてカウンセリングマインドで子どもに接することができるのだと言えます。

カウンセラーは、常に自分自身の中にある偏見との戦いをしています。「今、目の前で話をしているクライエントの言葉は真実だろうか」、「本当にクライエントは心を開いているだろうか」と。時としてカウンセラーは自分の能力を過信し、自己に甘くなり、クライエントは「私だけには真実を語る」「私だけには心を開く」と思いがちです。けれどもそれは、単なる思い過ごしでしかありません。カウンセラーの勝手な思いこみの中からは、カウンセリングの効果は望めないのです。

「子どもを信じる」ということは、「子どもの言うことを鵜呑みにする」ということとは違います。子どもの言うことや行動を、真っ白な心で聞き、真っ白な心で見、子どもの心を理解する、それがまさにカウンセリングマインドであり、子どもの心に耳を傾けるということです。

子育てにおいて重要なのは、心が無垢であることです。大人が社会の中で生きていると、社会の中から様々な影響を受け、なかなか無垢ではいられません。子どもを大人の社会に合わさせようとするのではなく、我々大人の偏見を取り除き、子どもを信じて、真っ白な状態で子どもの心に耳を傾けることができれば、お子さんは必ず「いい子」(自分の足で大地を踏みしめている)になるはずです。

カウンセリングマインドの子育てということから、長々と述べてきました。啓蒙的な文章は好きではないのですが、かなり啓蒙的になりました。あまり長い文章は避けようと、大分はしょったので、説明不足もあるかもしれませんが、今までの連載のほんの些細なエピソードの中に何度も述べてきたつもりなので、お時間があったら読み返してみてください。次回は、あまり啓蒙的でない文章にしようと思います。
(文:大関 直隆)

2005/07/04(月)
第166回「言ってはいけないその一言 −甘やかし編−」
さて、今回は「甘やかし編」です。
前回の「先回り」と「甘やかし」は、密接に関係しています。「親の都合」ではなく、「子どものため」と考えている点では、同じです。「先回り」の対応をしている人のほとんどは、「甘やかし」の対応も取っています。そのことを見ると、「先回り」と「甘やかし」の根っこは同じで、親が積極的に子どもに関与しようとした場合に「先回り」になり、受け身になった場合に「甘やかし」になると考えられます。

こうして育った子どもは、「先回り」と「甘やかし」をとてもうまく利用します。自分のやりたくないことはなるべく先送りにし、親がやるのを待つ。自分がやりたいことは、それが実現できるよう積極的に親にねだる。そういう傾向がとても強く、自分の思ったように事が運ばないと「だだ」をこねます。

「うちの子どもはわがままで困ります」なんていう人がいますが、「わがまま」の中身をよく聞いてみると、ただの「だだ」。まるで2〜3歳くらいの子がだだをこねるのと同じように、高校生がだだをこねているわけです。もちろん、2〜3歳の子のだだなら、聞いてあげてもそれほどのことではないけれど、相手が高校生となるとそうもいきません。「髪の毛を染めたい」「エクステしたい」「ジムに通いたい」「ヴィトンのバッグが欲しい」…。普通に考えれば、そう簡単には聞いてやれない「だだ」のはずなのですが、それを聞いてやらなければならない親子関係を作ってしまうのが、「先回り」であり「甘やかし」なのです。

ここでは、親子の力関係が逆転してしまっています。一般的に言って「子は親の言うことをきくもの」なのですが、「親は子の言うことをきくもの」になってしまっているのです。

わがまま三昧に振る舞い、遊びほうけている娘が、終電近くになって帰ってくる。
「お母さん、駅まで迎えに来てよ」
と言われて、のこのこ車で駅まで迎えに行く母親。
「遅かったねえ。夕飯は? まだ食べてないなら、お前の分は取ってあるよ」
本来なら、「こんな時間まで何してたの! もっと早く帰ってきなさい!」と怒るべきなのに、緩んでしまう。怒られるかもしれないと、内心びくびくしながら帰ってきたのに、母親の緩んだ態度を見透かして、
「うん。お腹空いてるけど、コンビニのお弁当食べたいから、どこかコンビニに寄ってよ」娘のために残しておいたせっかくの夕飯は、無駄になってしまう。
「先回り」や「甘やかし」で育った子どもは、人の気持ちを考えません。相手の親切心や優しさをうまく利用するようになります。

「甘やかし」は「受容」とは違います。子どもを受け入れるという点では似ていますが、「受容」が、子どもの心を受け入れることであるのに対し、「甘やかし」は子どもの都合(主に物欲)を受け入れることです。いったん「甘やかし」の中で育ってしまうと、そこから抜け出すのにはかなりの時間が必要になりますから、「受容」と「甘やかし」の違いをはっきりと意識することはとても重要です。

「先回り」と「甘やかし」に共通しているのは、子どもが親から与えるものがとても多く、子どもが子ども自身の手で獲得するものがとても少ないということです。自分で獲得することを覚えないと、目標や目的意識というものを持ちにくく、結果的に意欲がなくなり、不登校やニートになったり、また目的が矮小化することにより、創造志向でなく強い消費志向を持ったりするようになります。また、誰かにやってもらおうという意識が強く、責任の伴うことを嫌がるようになります。
子どもの要求に対しては、その要求がその年齢の子どもの要求としてふさわしいのか、いつも検証しながら子育てをするくらいの、慎重さが必要だと思います。

どう考えても必要と思えないような要求に対しては、毅然とした態度で拒否しましょう。
「エクステしたいんだけど」なんていう要求に、「いくらかかるの?」はやめましょう。
(文:大関 直隆)

2005/06/27(月)
第165回「言ってはいけないその一言 −先回り編−」
今日は言葉だけでなく、行動も大きなポイントになります。
今まで述べてきた「脅迫」や「取引」というのは、「親が自分の都合で子どもを動かす」という「親のため」という側面が、はっきりと見えているので、それに気づくことはそう難しいことではありませんし、親が気づいてすぐその行動を変えれば、目に見えて子どもの様子も変わります。ところが、これから扱おうとしている「先回り」というのは、一見「子どものため」に映ったり、親の意識の中に「子どものため」という明確な意識があるので、教育相談やカウンセリングで指摘をしても、なかなかその意識を変えることは難しく、とてもやっかいです。しかも、子どもも親の言動(おもに行動)によって自分が楽になるので、その親子関係を拒否しません。昔は反抗期があるのが当然だったわけですが、うちの研究所を訪れるクライエントさんを見る限り、最近では親の「先回り」が子どもの自立へのエネルギーを奪ってしまい、反抗期をも飲み込んでしまうほどです。子どもが拒絶をしないので、親もその状況になかなか気づきません。「深く潜行し、一気に出る」という感じでしょうか。何か問題が表面化したときには症状が深刻なので、“人間としての存在の回復”(自立)にはかなりの時間(回復の方向に向かっていたとしても、長ければ10年とか20年とか)を要します。大きな問題は、親の子どもに対する姿勢が簡単には変えられないということです。今とても問題になっている「ニート」という状況にも深く関わっていると言えます。

「先回り」の場合の多くは、子どもも親も「被害者意識」を持ちます。「いじめを訴えてはいるけれど、周りにそういった事実が確認できない」、「他人の悪さを強調して自分の非は認めない」、そういった場合は、幼児期からの親の「先回り」が影響している場合がよくあります。本来、一刻も早い対応が求められる深刻な「いじめ」のようなケースを、親の「先回り」による過剰な被害者意識と取り違えてしまう場合もある(学校のような場所ではなるべく問題が公の問題ではない方がいいと考えるので、いじめの問題を「親子の問題」ととらえる傾向にあります)ので、「いじめ」を訴えられる立場(教員とか各種相談機関に従事している人など)の人たちは、充分な検証が必要です。

それでは実際にどういうものが「先回り」でしょうか。
ここで思い出していただきたいのは、概論で述べた『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』。「受容」「共感」「自ら決定していくのを助ける」「見守る」というように、すべて親の側は受け身であることを忘れないでください。

「先回り」には、大きく分けて2つのパターンがあります。1つは「待てない」パターン、もう1つは「先走り」パターンです(どちらも大差はないのですが、わかりやすいようにあえて分類しました)。

「待てない」パターンというのは、一応選択は促すんだけれども、子どもが決める前に誘導してしまうようなパターンです。たとえば、
「今日はカレーにするんだけど、ビーフにする? それともチキン?」
という風に問いかけておきながら、
「あなたは牛肉が好きだから、ビーフにするね」
“いやいや、そんなことはやってない”なんて思うかもしれないけれど、意外にやっているのでは?

「先走り」パターンとは、低年齢のお子さんなら、“「これおいしいよ」なんて、まだ食べたことのないものを口に入れてやる”、“前の晩に翌日の時間割を調べて忘れ物のないようにランドセルの中に教科書を入れておいてやる”、高校生くらいのお子さんなら、”部屋に脱ぎ捨てた洗濯物を洗って干して、アイロンをかけてたたんでやる”、“カバンの中に入っている弁当箱を出して、洗って、翌日は弁当を詰めてカバンに入れておいてやる”、そういった行為全般です。

すべて子ども自身でできることです。まあ、“洗濯して干す”なんていうあたりは、主婦の仕事だから、親がやってもいいけれど、部屋に脱ぎ捨ててあるものまでわざわざ取りに行って洗濯するのはやめましょう。

“「先回り」がどういう結果を招くのか”は、次回「甘やかし編」で一緒に説明したいと思います。
(文:大関 直隆)

2005/06/20(月)
第164回「言ってはいけないその一言 −取引編−」
ちょっと本題に入る前に、奈良県警が“子どもに声をかけちゃいけない”なんていう馬鹿げた条例案の要旨を15日に発表したので、それに対して一言。

もちろんこれは「小1女児誘拐殺害事件」を受けてのものですが、禁止されるのは、「保護監督者が近くにいない13歳未満の子どもに対する(1)惑わしたり、うそをついたりする行為、(2)言いがかり、ひわいな発言、体をつかんだりつきまとったりする行為のほか、(3)13歳未満の子どものポルノ映像や画像の所持、保管」(16日 朝日新聞朝刊)だそうです。親の立場で「子どもを守る」ということに重きを置いて考えるとすれば、支持する人もいるかもしれませんが、こういうものは、その実効性と弊害をきちっと検証しないといけない。そこで、この条例案を見てみると、まず(1)も(2)も声をかけた内容について、誰がどのように判断するのか全くわからず、犯罪の構成要件がはっきりしない。しかもどれをとっても現行法で対応できる。となれば、条例そのものの持つ実効性というものは、全く疑わしいと言わざるを得ません。しかも弊害を考えると、大人と子どもの信頼関係を大きく損なわせ、地域社会の持つ教育力を崩壊させかねない。今までの私の経験から言うと、地域と子どもとの関わりは、防犯の観点からも、子どもの健全育成の観点からも大変重要です。もし、子どもに声をかけることが犯罪になるとすれば、そういった地域社会と子どもとの関わりは、ほとんど失われることになります。それがどんなに子どもを孤立させ、子育てを難しくしてしまうか・・・。むしろ、積極的に声をかけることを促し、地域社会における大人と子どもとの関わりを密にすることこそ、子どもを守ることにつながると思うのですが・・・。

教育は人を信頼することから始めるべきです。社会の現状がそれを許さないことも事実ですが、行政がやらなければならないことは、子どもたちの大人に対する不信感をあおることではなく、“どうしたら子どもが大人を信頼できる社会を構築できるか”を真剣に考えることだと思います。こんな条例案が可決しないといいのですが・・・。

さて、「言ってはいけないその一言」に戻りましょう。
前回の「脅迫編」同様、親がよくやってしまうパターンに「取引」があります。
先日、スーパーで泣き叫んでいる4、5歳の男の子がいました。なぜ泣いているのかよくわかりません。泣き始めたときは、おそらくはっきりした理由があったのでしょうが、その様子からすると、どうやら本人もなぜ泣いていたのかよくわからなくなってしまっているようでした。

こういう時の親は、本当に困ってしまうもので、泣いている子どもには腹が立つのに、うっかり変な言葉をかけようものなら、火に油を注ぐようなことになってしまう。本来、毅然とした態度で臨むべきなんだろうけれど、周りの買い物客はって言うと「何いつまで泣かしてるのよ!」ていうような冷たい視線でこっちを睨みつけたり、「呆れた親」みたいな雰囲気で露骨に無視したり・・・。

結局この時のお母さんは、子どものそばまで行って怒鳴りました。
「いつまで泣いてるの! いい加減に黙りなさい!」
まあ、ここまではよかったんだけど、どうもこの後がいけない。
「泣くのやめたらチョコレート買ってやるから黙りなさい」
あらあら、なんと言うこと。泣いていることとチョコレートは、まったく関係がないのに・・・。
その言葉につられてか、子どもの泣き声はあっという間に小さくなり、10秒もしないうちに聞こえなくなりました。しばらくすると、誇らしげにチョコレートの箱を手にしたその男の子とすれ違いました。どうやら、約束通りお母さんにチョコレートを買ってもらったようでした。

これはこの親子の、“人生における不幸の始まり”なのです。
このお母さんは子どもに、“泣き叫べば欲しいものが手に入る”ということを教えてしまったのであり、この男の子は“欲しいものがあるときは泣き叫べばいい”と学んでしまったのです。

どんな言葉が取引に当たるのか、そして取引がどんな結果を引き起こすのか、次回に続きます。
(文:大関 直隆)

2005/06/13(月)
第163回「言ってはいけないその一言 −脅迫編−」
さて、今回からは、具体的事例を扱いたいと思います。「言ってはいけない言葉」をいくつかのグループに分類して、説明します。ただし、小手先の技術ととらえるのではなく、子どもと向き合う姿勢を間違えると、結果としてこういうことを言ってしまうととらえてください。あくまでも、子どもと向き合うときは、『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』。いつもそれを忘れないでください。

孫を連れて釣り堀で釣りをしていたときのこと。
「おまえ、何で寄ってくるんだよ」
「うぇーん、うぇーん…」
3歳になるかならないかの男の子が、お父さんのそばに寄っていって何か訴えていますが、お父さんは取り合わず、大きな声で怒鳴っています。少し離れたところに小学生くらいのお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、3人兄弟(?)のよう。もうそろそろ終わりの時間が近いらしく、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、時計を気にしています。一番下の男の子は、釣りのような長時間かかる遊びができる年齢のはずもなく、要するに飽きてしまっただけ。
「だから、そういう風にベタベタ寄ってくるなって言ってんだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「うるせえんだよ。魚が逃げちゃうだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「そんなにいつまでも泣いてると、池の中に放り込むぞ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「いいんだな、池の中に放り込んでも!」
と言って、男の子の体を捕まえるふりをしました。さすがに父親にそこまでやられると、男の子も自分の要求が通らないことを悟り、少し後ずさって、泣き声も小さくなりました。私がいるところからは少し距離があったので、子どもの要求がなんだったのかよくわかりませんでしたが、どう見てもそんなに大声で怒鳴りつけなければならない状況には思えませんでした。子どもを怒鳴りつけるお父さんの形相が、あまりにもすごかったので、私もちょっと驚きました。

こんな事例を挙げると、誰もが大声で怒鳴っている父親の形相を想像して、「ひどい父親」と感じるのでしょうが、ここで一番問題なのは、大声で怒鳴っていることではなく、「池の中に放り込む」という脅しです。子どもにとって自分の生命を自分で守ることができないという恐怖は、もうどうすることもできません。大声で怒鳴られているだけならば、最終的な選択は子どもに残されていますが、「池の中に放り込む」と言われてしまっては、子ども自身による選択の余地はありません。もっとも、親も選択の余地を残させないために脅しているわけですから、親にとっては成功ということになるのでしょうが。

みなさん、こんなひどいことはやっていないと思うかもしれませんが、よーく考えてみると身に覚えがあるのでは?
「家に入れません」「家を出て行きなさい」「食事はさせません」なんていうのも、程度の差こそあれ、方向は同じですね。親の決意を示すということも大切なので、100%言ってはいけないとまでは言わないけれど、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”になっているかどうかの確認は必要ですね。ただし、”即、命に関わるような言い方”や“身体的に危害を加えるような言い方”(“手をちょん切るよ”とか“熱湯をかけてやる”というような)だけは、絶対にやめましょう。
(文:大関 直隆)

2005/06/06(月)
第162回「言ってはいけないその一言 −概論 その2−」
子育てをするとき“カウンセリングマインド”で子どもに接することができれば、子どもはとても楽だし、自由にのびのびと育っていくことは確かだと思います。ということは、結局親も楽な子育てができるということで、とてもなめらかで暖かい親子関係が築けていくことと思います。ただし、これはあくまでも子どもが自立を目指し、将来親を超える存在(地位や名声、財産などといった具体的なものではなく、もっとメンタルな意味で言っているのでお間違いなく)になっていくという意味においてであって、親の“洗脳”によって親の都合のいい子どもに育てるという意味でないことは言うまでもありません。そういう意味の上に立った“カウンセリングマインド”です。時に、親にとっては辛いことになる場合もあります。けれども親は、自分が楽になるため、あるいは自己満足のために子どもを利用しないように。それは、基本の基本です。うまくいかない夫婦関係のはけ口に子どもを使ったり、夫や妻との間の“行き場のない愛情”を子どもに向けるなどということはもってのほかです。“カウンセリングマインド”というのは、当然そういうことも含んでいるわけですが、“カウンセリングマインド”を単なるテクニックと勘違いしてしまうと、本質的な部分が曲がってしまい、全く違った方向に進んでしまうので、単なるテクニックととらえるのではなく、“一人の人間が一人の人間と関わりを持つときの基本”というようなとらえ方をしてください。ですから、親子関係だけでなく、子どもと関わりを持つすべての職業(保育士、幼稚園や学校の先生、看護師、教育関係の相談員、スポーツ少年団のコーチ、保護司などなど)の人たちは、必ず“カウンセリングマインド”で子どもと接するべきです。

もうすでに、この連載の中で述べてきましたが、まず子どもを信頼するところから始めましょう。そういう気持ちがないと、“まずお説教”になってしまって、子どもには受け入れてもらえません。“自分が正しい”という感覚も捨てましょう。相手がどんなに小さな子どもでも同じです。“教えてやる”という発想の中からは、“カウンセリングマインド”は生まれません。“相手を一人の人間として尊重すること”がとても重要です。もっとも、そうできれば、“カウンセリングマインド”で接することができているということなのでしょうけれど。

さてそれでは、子育てにおける“カウンセリングマインド”を具体的にどうとらえたらいいかと言うと、前回ご紹介した“カール・ランサム・ロジャース”(ロジャーズとも)の“非指示的カウンセリング”(後の来談者中心療法)が基本と考えます。(興味のある方は、“カール・ロジャース”あるいは“来談者中心療法”でネット内を検索してみてください)繰り返しになりますが、“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです。私なりの解釈では、“自ら決定していくのを助ける”ことが行き過ぎてしまったものが「過保護」、“子ども自身が自分の力で成長していくことを見守る”ことができずに、口出ししてしまうのが「過干渉」です。

ちょっと概論が長くなりました。次回から、具体的な例を示してお話ししたいと思います。それまでとりあえず、「何やってるの!」と「早くしなさい!」をやめてみてください。それだけでも、必ずお子さんの態度に変化があるはずです。「何やってるの!」と言ってお子さんの行動を止めたいのなら、「××するのはやめようね」と言いましょう。「早くしなさい!」と言う前に、そう言わなければならない状況を作らないよう親が努力をしましょう。もしどうしても「早くしなさい!」と言わなければならない状況になってしまったら、お子さんが本当に早くしなかったらどうなるのかちょっと考えてみてください。ほとんどの場合、それほど早くしなくてはならない理由はないはずです。「早くしないと幼稚園に遅れる」なんていうのはだめですよ。幼稚園に遅れることなんて、お子さんにとって生死を分けるほど重要なことではないのですから。私に言わせれば、しょっちゅう「早くしなさい!」を連発することは、生死を分けるのと同じくらいお子さんの人生を左右することなのです。まず、受容的態度と共感的態度です。

次回は「言ってはいけないその一言 −脅迫編−」です。
(文:大関 直隆)

2005/05/30(月)
第161回「言ってはいけないその一言 −概論−」
いやいや、翔(かける)は大変なことになってしまいました。どうやらおたふくで抵抗力が弱くなっているところへ溶連菌感染があったようで、結局土曜日から4日間40度以上の熱と吐き気で、何も食べられない日が続きました。アレルギー体質で、使える抗生物質が限られているため、点滴による水分補給と座薬による解熱が中心。主治医曰く「消去法で残ったペニシリンを一か八かで使ったら、副作用も出ずに効いてくれました」ということで、水曜日からはなんとか熱も下がり、「はら減った」を連発。病院の食事では足りないと、近くのコンビニで買ったおにぎりやお弁当を病院の食事の後に食べています。木曜日には血液検査をしましたが、“まだまだ”の数値だったようで、金曜日には退院をしたかった本人の希望はかなわず、この原稿がアップされる月曜日に退院ということになりそうです。

長男の努(つとむ)はアレルギー性紫斑病、次女の麻耶(まや)は腎臓病、そして翔が溶連菌感染症と、内科的な病気での子どもの入院は3回目。子どもの数が多いっていうことは、それだけ心配も多くなりますね。

23日から始まった高校の中間試験は、追試期間にも間に合わず、“どうなるんだろう”と心配していたら、試験期間に公欠ということはあったけれど、出席停止だったということは学校にも例がないとかで、現在保留中。どうやら、期末試験の一発勝負で今学期の成績をつけるということに落ち着きそうです。『出席停止』という意味を考えると、まあ妥当な線なのかなっていう感じ。当然のことながら、追試扱いだと何点取っても本試験の8割とか。推薦基準のこともあり、だいぶ気にしていた本人も少しほっとしたらしく、“2週間後の試合に向けて、どうやって体力を回復しようか“ということに意識が向き始めたようです。

さて、2ヶ月ほど前に、なっつんさんから“カウンセリングマインドの子育ての特集”というお話がありました。“主夫”という立場でなく、“教育カウンセリング研究所を主宰する者”として、少しお話をしたいと思います。

現在の日本のカウンセリングに最も影響を与えたのは、カール・ランサム・ロジャースという心理学者です。以前の日本におけるカウンセリング(相談)とは、お説教や説得という概念でしたが、ロジャースの唱える非指示的カウンセリング(後に来談者中心療法)によって、大きく変わることになります。

ロジャースは、カウンセリングに必要な要素は、技術よりも態度であり、そして、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さであると言っています。来談者中心療法でのカウンセラーの役割は、クライエント自身が自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けることと考えられます。それは、クライエント自身が自分の力でよくなっていくという考えに基づいたものです。

この考え方は、そのまま子育てにも当てはまります。そしてこれを基に、極端な言い方をすれば、親が何もしなければ、子どもはまっすぐ育つことになります。もちろん実際は、子どもに影響を与えているのは、親だけではないので、そうはいかないわけですが。けれども、こういった発想は重要です。どこまで親が子どもに関わるかという、その距離感と、どういう関わり方をするかというその内容によって、子どもは大きく変わってしまいます。子ども自身の成長していこうとする力をまず信じることです。ですから、まさに技術より態度なのであって、その態度を学んで(学問的に学ぶというよりは、自分の感性を研ぎ澄まし、自分自身が謙虚になる。そしてその中から気づくこと)、実践することが、子育てのポイントなのだと思います。

次回は、具体的なことを述べたいと思います。

 
Re: 第161回「言ってはいけないその一言 −概論−」2005/05/31 15:39:00  
                     なっつん

 
なっつん、、という言葉が出てきて、おもわずお茶をこぼしてしまいましたよ。。笑。

特集くんでいただきありがとうございます。

「親が何もしなければ、子どもはまっすぐ育つ」ということを丁度最近考えていました。
この子は本当は勉強をしたくないんじゃないか、、とか無理にスポーツをさせているんじゃないのか、、、とか。。
親がそのエゴで子どもの将来を決定しているのかもしれないですよね。子どもが本当にしたかったことさえも否定してきたんじゃないか、、とか。。

実は私は子どもにテレビを見せないで育ててきました。しかし幼稚園にはいって子どもがお友だちからいじめられたんですよね。いわゆる○○レンジャーというヤツをみていなかったがために常に悪者の役をやらされていたのです。しかも○○レンジャーは大体が5人組。(一人の悪者に5人がかり、、というテレビ番組の設定もちょっと卑怯だぞって思うんですけど。。)夜中に泣いたり幼稚園にいくのを嫌がるようになりました。
テレビを見せないできたのは親のエゴかもしれない。と私は思ったのですね。。。
結局○○レンジャーも見せてみたけど、子どもの中でのマイブームになるほどでもなく、通り過ぎていきました。
親がこうあってほしい子ども像や親の理想を押し付けることは、子どもにとって幸せじゃないときがある、ということを学んだ一件でした。。

来週も楽しみにしていますね。

かけるくん、お大事に。。。
 

元の文章を引用する

 
過干渉2010/10/20 16:14:47  
                     
                              http://www.ed-cou.com大関直隆

 
「親が何もしなければ、子どもはまっすぐ育つ」というのは、極論なので、まあ”ほどほどに”ということにしてください。
今までの経験では、”放任”よりは”過保護”の方が、はるかに”いい子”(親にとってというよりは、むしろ社会にとって)に育つと考えています。ただし、”過干渉”は、問題です。私としては、”過干渉にならずに過保護であれ”と言いたいのですが、”過干渉”と”過保護”の違いというのが、他人のことなら何となくわかるんだけれど、自分のことになると、これがどうもわからなくなってしまう。
現代における”過干渉の問題”というのは、相当大きな問題ですね。”放任状態で育った子ども”というのは、”放任”ですから、それ以上状態が進行することはないわけで、成長過程のある時期において”すばらしい人”(こころを揺り動かされるような)に出会ったりすると、劇的に人間的な成長を遂げることがあるのだけれど、”過干渉で育った子ども”は、日々の親子の関わりが子どもに影響を与えているわけだから、どんどん進行していってしまう。改善するきっかけなんて、親が死んでしまうということくらいしかないわけです。そして、”過干渉で育った子ども”が、またさらにひどい過干渉になったりする。
なんだか、どんどん増殖を続けて人間に襲いかかるアメーバーか何かの恐ろしいSF映画でも、見ているみたいですね。
冗談じゃなくて、なんだか最近本当にそんなことを考えますよ。
大変、ご心配をおかけいたしましたが、翔は昨日退院して、今日から元気に学校へ行きました。ちょっと体力がなくなっていますが…。さっき担任から電話があり、どうやら、今日、明日で補習をして、明後日から追試になるみたいです。子どもの病気っていうのは、いくつになっても心配なのもですね。
 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)