大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2006/05/15(月) |
第210回「お弁当 前編」 |
私はもちろん給食世代なので、小学校、中学校は完全給食。小学校の時にお弁当を持って行ったなんていうのは、遠足と運動会くらい。中学校では、土曜日にも部活動があったので、土曜日は家に帰ってお昼を食べて改めて出かけるか、お弁当を持って行くか、あるいは近くのパン屋さんかなんかで買って食べるか・・・。
私は母の作るお弁当が嫌いで、土曜日は毎回学校の近くの“おかめや”(焼きそばや調理パンを作って売ってるお店)でパンを買って食べてました。とにかくその“おかめや”のパンのうまいこと。少ないときで焼きそばパンや餃子パン(餃子を揚げてホットドッグ用のロールパンに挟んだもの)、ハンバーグパンとかを6個、多いときはパン8個と焼きそば1人前。それに牛乳3本か4本。よくあんなに食べられたなあと思うけど、それでも全然太ってなかった(というより痩せてた)んだから、あの年代の子どもたちのエネルギー消費量って半端じゃないんですね。でもそれって、私だけ? 幼稚園の時はどうだったっけなあって考えると、どうもはっきりは思い出せない。でも、ジャムの塗ってあるサンドイッチが楽しみだったっていうことと、当番がいてパンを配ってたっていうことは記憶があるんだよね。幼稚園のことってほとんど覚えてないのに、どうして当番がパンを配ってたっていうことを覚えてるかっていうと、たぶん休みの子かなんかがいて、配り終わって残ったパンを、廊下にあったパンを運んでくる箱の中にひょいっと投げ入れた私は、怒られてしまったからです! 私を注意した先生は、雨宮先生。カハッ! 幼稚園のことなんてほとんど覚えてないのに、名前まで覚えているんだからね。しかも、雨宮先生は担任じゃなくて、隣の組の先生。まあ、恨んでるっていうわけじゃないけど、いや〜な気分になったことだけが、のどに骨が引っかかったときのように心のどこかに引っかかってるんですよ。いやいや、怒り方っていうのは難しいよね。先生が注意をするのは当たり前だし、「パンを投げちゃダメだよ」って言った程度だったのにもかかわらず、“いや〜な気分になった”とか言って、50歳近くなっても、記憶の底から湧いてきちゃうんだからね。今覚えてるっていうことは、たぶんもう一生覚えてるっていうことでしょ? こりゃあ、雨宮先生にしてみれば、いい迷惑。誠実に職務を果たしただけなのにね。雨宮先生、ごめんなさい! さて、真(まこと)と麻耶(まや)の通った幼稚園はというと、給食というかちっちゃな箱弁でした。お金はかかる(たしか1食240円とかそんな値段で、10円、20円の値上げも親に反対されるかもしれないといって幼稚園側はピリピリしてました。親は平気で1,000円以上するようなランチを食べたり、お茶したりしてたんですけどね)けど、親の立場からすると楽ですよね。“おかずは何にしようか”なんて考えるのは、とっても大変。それだけじゃなくて、もちろん買い物もしなくちゃいけないし、朝、実際にお弁当を作らなくちゃいけない。給食なら、一切そんなこと気にしなくていいわけだから、とっても楽。真と麻耶の時にはほんとに楽をさせてもらいました。 でもね、親が楽っていうことは、もしかするとその負担が子どもにかかっているかもしれないって考えてあげないとね。幼稚園のころの真は、けっこう太っていて、とにかく何でもガツガツ食べるやつだったので、給食で困ったことはなかったけれど、麻耶はねぇ・・・。麻耶はとにかく長いものじゃないと食べない。そば、うどん、スパゲッティ、しらたき、春雨、それにもやし。“もやし”なんて言うと、「なんだそりゃ?」ってな感じだけど、普通の食材よりも長いっていう感じのものなら何でもいいらしくて、炭水化物に交じって“もやし”まで好きなわけ。全然味の違うものなのに、長さで好き嫌いを決めてるんだから、まったく変な娘でしょ!? 幼稚園の給食に長いものばかり出るわけがない。むしろ、今列挙したようなものは、まず出ない。麻耶は、毎日給食の時間が楽しくなかったみたいです。全部食べるとシールがもらえるんだけど、なかなか全部は食べられない。他の子は教室に貼られた表にどんどんシールが貼られていくのに、麻耶はなかなか増えていかない。それでも麻耶はまだましで、なかには1枚もシールを貼られていない子もいて、なんとその子は、先生に無理矢理食べさせられて、吐いちゃったとか。人間にとって大きな楽しみであるはずの“食”が台無し。 そう考えると、「ん〜、親は大変でも、子どもの好きなものをお弁当に入れてやるっていうのも、いいよなぁ」 翔(かける)の通った幼稚園(今、孫の蓮と沙羅が通っている幼稚園ですが)は、給食なし。毎日お弁当でした。 つづく |
(文:大関直隆) |
2006/05/08(月) |
第209回「そして鯉のぼりはなくなった」 |
ほぼ毎日夕飯の買い物をする近所のスーパーマーケットに、大・中・小、3種類の鯉のぼりが並んでいました。
「これ、蓮(れん)に買ってってやろうよ」 「まだいんじゃないの。あんまり早く買っていっても、気持ちも保たないし、壊しちゃってもしょうがないし・・・」 「でも、なくならないかなあ?」 「だいじょぶでしょ。まだあんなにあるから」 「私、あの中くらいの鯉のぼりがいいと思うんだけど、どう?」 「そうだね。一昨年麻耶(まや)が買って、ベランダに付けといたやつは、風で破れちゃったからね。外に出さないで家の中に飾るんなら、あの真ん中のやつだろうね。来年も使おうっていうわけじゃないよね? 今年限りっていうことなら、あれでいんじゃないの」 「まっ、1,000円だしね」 「ん? じゃあ、あの大きい方だったら来年までとっとくわけ?」 「まっ、1,500円だからね。もったいないでしょ? もし破れちゃったりしたら、来年また買ってもいいけどね」 「当たり前でしょ! 1,500円だからって、あんなの来年までとっとく気!?」 「まあ今年1年でもいいかなぁ。とうとう鯉のぼりも使い捨て時代到来かぁ・・・。寂しいもんだね」 「ん〜、確かに。昔は、男の子のいる家は、どこの家も庭に鯉のぼり用の棒が立っててさぁ。あれって、抜いたり立てたりした覚えないから、1年中立ってんだよね」 「あ〜、そうだねえ。女の子しかいない家は、肩身が狭かったんだろうね。あんまりそんなこと考えたことなかったけど。うちなんて、女二人だから普通だったら肩身が狭い思いしてたんだろうけど、母なんてそういう行事に疎い人だったからね。父は男の子がほしかったみたいで、だから私を男みたいに育てようとしたんだよ」 「今は、棒を立てとく庭がなくなったおかげで、“うちには男の子がいます!”みたいじゃなくなって、そういう意味では昔よりよくなったとも言えるのかな?」 「ん〜? いいのか悪いのか・・・。確かに差別はなくなったって言えるかもしれないけど、自分の家に子どもがいることを外に公表しない分、昔みたいに子どもが大事にされてないような気もする。一人っ子を大事にするっていうのとは違った意味で、すべての子どもが地域の中で大事にされてたよね、誰のうちの子どもっていうことではなく」 「そうだね。それは、その通りだと思う。鯉のぼりにしても、ひな人形にしても、それ自体その子のものっていうよりは、むしろそういうものを飾ることで、社会に対して“こういう宝がうちにはいますよ”ってアピールしてるわけでしょ。それを社会も受け入れてた。飾っている方は飾っている方で、“一人前の大人に育てますよ”って、社会に対して宣言してるわけだよね。そういう意識が、“自分の子”っていう意識から“次世代を担う社会の子”っていう意識を養うんだと思うな。家の中にちっちゃな鯉のぼり飾ったり、ガラスのケースに入ったひな人形じゃあ、そういう意識は生まれないよね。隣の家に子どもがいるかいないかすら知らない、なんてことになりかねない」 「ん〜、まったく」 その日は結局、鯉のぼりを買わずに帰りました。2日後、そのスーパーマーケットを訪れると、 「あ〜っ、やっぱりな〜い!! だから言ったじゃない! もう大きいのしか残ってない!」 「まあ、いいじゃん。その大きいの買っていけばぁ」 「1,000円だから買おうとしたのに!」 「1,500円だと買わないわけ?」 「そういうわけにいかないでしょ! いいよ、それでぇ!」 鯉のぼりをもらった蓮くんは大喜び。果たしてこの鯉のぼりは、来年までとっておくことになるのでしょうか。 |
(文:大関直隆) |
2006/05/01(月) |
第208回「お子様ランチ」 |
「回転寿司行こうよ」
「どこの?」 「17号沿いのだよ」 「えーっ! あそこはいやだよ」 「なんで?」 「“なんで”って言われてもなあ・・・。なんかね、落ち着かないの。子ども連れなら、テーブル席で周りに気兼ねしなくてすむからまあいいんだけど、二人でカウンターはねぇ・・・」 「ふーん」 「たぶん、目の前が狭いからだよ。なんだか壁に向かって一人で食べてるみたいで、楽しくないし、圧迫感はあるし。何でもいいから“腹一杯になればいい”ってもんじゃないでしょ。やっぱり食事は楽しくないと! 会話も無しに目の前に流れてきた皿をどんどん取って食べるっていうのもねえ・・・」 「あーっ! それってわかる、わかる! しかも“寿司っていうほど寿司じゃない”しね」 「ははっ、あれは”寿司”じゃないよ。”回転寿司”っていう新種の食べ物。でも、あれはあれでいいんじゃないのって思うこともある。寿司って言えば、板前さんと言葉を交わしながら握ってもらうのが本当なんだと思うけど、最近寿司をおいしく食べさせてくれるような会話ができる板前さんが少なくなって、“なんでお客が板前のご機嫌取りながらお金払って寿司食わなくちゃいけないの!”っていう店が多くなってる。そう考えると、回転寿司は気楽でいいっていうことも言えなくはないんだよね」 「そうだね。でも、“おいしい寿司をおいしく食べる”それが王道だよね。そうそう、そう言えばドイツにも回転寿司があるの。けっこう人が入ってる。日本人じゃなくてドイツ人がね。あれを食べてあなたがなんて言うか、食べてみてもらいたいよ。驚いたことに生ものはそんなに高くないんだけど、いなり寿司が一皿に2個乗ってなんと600円! 考えてみれば、海があれば魚はどこだって捕れるんだろうから、いなり寿司みたいなものが高いのは当たり前なんだろうけど、やっぱりびっくりするよね。それがさぁ、とにかくまずいの。翔(かける)なんてね、“こんなの寿司じゃねえ! ドイツ人がこれが寿司だなんて思ったら困る”って言ってたよ。確かにそれくらいまずかったけど。なんか違うんだよね、日本のお寿司とは」 「米も違うだろうし、ネタとかもやっぱり違うんだろうね。ドイツの人にも本物の寿司をを食べてみてもらいたいね」 私なんかは、やっぱり本物にこだわっちゃいますよね。とは言え全然セレブなわけじゃないので、“本物”なんて言ったら、セレブな人たちには笑われちゃうんだろうけど、そんなに高くない寿司屋でいいから、カウンターに座って板前さんに握ってもらって・・・。 いやー、だんだんうまい寿司が食いたくなってきたあ! 食べ物の偽物って言えば、思い出すのは“お子様ランチ”。どうも私、あれには抵抗があるんです。かたくなに“絶対子どもに食べさせない”っていうことはないんだけど、長い子育ての経験の中で、何度も失敗したことがあるので、あんまり取りたくないんですよね。ついこの前、孫と行ったファミレスでも、お子様ランチに付いてきたライスにかちかちのところが混ざってて、孫が長い間噛んでたと思ったら、ペッっと出しちゃった。もうほとんど食べ終わってたので、まあいいかなと思ったんだけど、よく行く店なので、ちょっとお店の人に話したら、ぜーんぶ取り替えてくれちゃって、孫はもうほとんど満腹だったので、私が食べちゃった! それにしても、お子様ランチに付いてくるあのハンバーグ、あのスパゲッティは何だ! あのゼリーは何だ! 子どもだと思ってばかにしてんのか! 何度真っ黒で石のようなハンバーグが出てきたことか。何度ひからびてフォークを入れても形が変わらないで持ち上がってしまうスパゲッティが出てきたことか。 子どもには発達段階に応じて、それにふさわしいものを与えることは重要なことだと思います。でもね、小さいからってまずいもの食わせることないよね。それは発達段階に合わせたんじゃなくて、「子どもなんかこんなもんでいいや」っていう発想でしょ。おもちゃにつられてる子どもに、あんなまずいものを食べさせちゃ、かわいそう。だから私はなるべく大人のものを分けてやってた。まあ、どうしてもおもちゃにつられちゃうこともあるけど・・・。 やっぱりドイツの人にも、子どもたちにも本物の味を味わってほしいなあ。でも、私は回転寿司に行くけどね。あれは、寿司の偽物じゃなくて、本物の回転寿司だからね! |
(文:大関直隆) |
2006/04/24(月) |
第207回「送り迎えは自転車で」 | ||||||||||||||||
「かっくん!」
「はい!」 「かっくん!」 「はい!」 ・ ・ ・ 「かっくん、眠くない?」 「うん!」 「お歌、うたおうかあ?」 「うん!」 「♪南の島の大王は その名も偉大なハメハメハ・・・♪」 「♪あんなこといいな できたらいいな あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど〜♪」 「かっくん!」 「・・・」 「かっくん!」 「・・・」 後ろへ手を回してみると、翔(かける)の頭はすっかり下に垂れ、自転車の荷台に取り付けてある椅子で、ぐっすりと寝てしまっています。 「ああ、一生懸命、楽しそうな歌うたったのに、やっぱり寝ちゃった」 翔の通った幼稚園は、送迎バスがありません。送り迎えはいつも自転車。自転車で10分ほどの距離を、朝は元気に2人で歌を歌いながらいくものの、幼稚園でよく遊んでくるらしく、帰りは疲れて、家に着くまでに寝てしまうこともしばしばです。一応、椅子に着いているベルトで留めてはありますが、あまりにも深く前に頭を垂れるか、前後左右に頭をコックリコックリさせるので、取り付けた椅子からいつか落ちてしまうのではないかとヒヤヒヤです。あまりにも姿勢が悪いときには、一旦止まって座り直させたり、もっとどうにもならないときは、降りて自転車を引っ張ったり。 それでも後ろに乗せられるようになってからは、まだましです。もっと小さいころは、ハンドルからぶら下げるほんの小さな椅子で、寝てしまうこともよくあって、これは前なので、見えているとは言え、頭が前にうなだれて、ハンドルに付きそうになるのを見ると、とてもそのまま走り続けることはできなくて、必死で片手を離し、頭を持ち上げたり、あるいはハンドルを両手で握ったまま、両肘を中に絞り込んで、肘と肘の間に小さな頭を挟み込んだり。 兄弟2人を、前と後ろに乗せるなどというときはもっと悲惨。前も後ろも寝られてしまうと、もう手の出しようがない。“なんとか家にたどり着くまでに落ちませんように、落ちませんように”なんて祈っちゃう。まあ、ほんとに落ちたら大変なことになっちゃうわけで、“祈ってないで自転車止めろよ”って感じですが、いつも祈ってるだけで、とにかく自転車は走らせてました。“ああ、恐ろしや恐ろしや” 孫の沙羅(さら)も入園し、娘の麻耶(まや)も蓮(れん)と沙羅の2人を自転車に乗せて、幼稚園に送り迎えすることに。自転車を買おうと麻耶はパンフレットをもらってきたり、あちこち見て回ったりしていました。昔と比べるとずいぶんと安全に配慮され、乗りやすく設計されているもんだと思ったのですが、一つ気になったことがありました。ハンドルに引っかける椅子は、太ももの中に子どもを挟み込むように乗るので、自転車がこぎにくい(女の人はなおさらだと思いますが)のですが、逆に足にも腕にも包まれる形になるので、親と子どもの一体感はある。最近の自転車は、子どもも乗りやすく、大人もこぎやすくはなっているのだけれど、親と子どもの距離が遠い。実際に乗ってみてどんな感じになるのかは、注文をした自転車がまだ届いていないので、何とも言えないのだけれど、親と子どもの間に隙間があるのは、どうなのかなあ・・・。何かあったときに守りにくいということももちろんだけど、心がなあ・・・。 思春期を過ぎて、もう成人と言えるような年齢になって、腕を組んで歩いている親子はよく見かけるけれど、以前にも紹介したように、幼児とは手をつながずリードをつけて、まるで犬のように、引っ張っている親子がいる。幼児期の親と子どもの物理的距離って大事なのに・・・。どちらかっていうと、私は新しい安全な自転車より、多少危険でも子どもの頭を必死で支えながら乗る、昔の自転車の方が好きかも・・・。 さて、新しい自転車の乗り心地はいかに・・・。もちろん孫を乗せるのは、娘なんだけどね。
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(文:大関直隆) |
2006/04/17(月) |
第206回「お花さんがね・・・」 |
「じいちゃーん、いってきまーす!」
「いってきまーす! じいちゃん、バイバーイ!」 「ハーイ! 行ってらっしゃーい!」 孫の蓮(れん)と沙羅(さら)は、毎朝楽しそうに幼稚園に出かけていきます。昨年まで一人で年少組に通っていた蓮は、自分が年中組になり、沙羅が年少組に入ったことで、今まで以上に幼稚園が楽しくなったらしく、昨年の何倍も何十倍も楽しそうに出かけていきます。沙羅は沙羅で、蓮の参観や懇談のときに麻耶(まや)に連れられ、必ず幼稚園を訪れていたので、この4月に入園したとは思えない大きな態度で、幼稚園での時間を過ごしているようです。 入園式の翌日、幼稚園から戻った蓮は言いました。 「沙羅ちゃんのことが心配だから、今日は沙羅ちゃんのお部屋まで見にいってきた!」 そしてその翌日は、今度は沙羅が、 「ねえねえ、沙羅ちゃんねえ、今日ねえ、蓮くんのお部屋へいって、蓮くんのお友達と遊んできたあ!」 いやいや、こりゃどっちもどっちだ! 沙羅の入園式には、何とか時間の都合をつけて、私も妻も参加しました。 この幼稚園は、翔(かける)が卒園した幼稚園で、自由保育の幼稚園です。園服、帽子、カバンは一応決まっていますが、バスがない、給食がない、延長保育がない。当然のことですが、近所での評価は、「だから入れる」という人と「だから入れない」という人に分かれます。確かに翔のときも大変でした。毎朝必ず園まで送っていく。そして必ず園まで迎えに行く。しかも毎日お弁当。とは言え、苦になるということは全然なくて、かえって楽しい幼稚園児の親業をさせてもらったなあと思います。食物アレルギーのあるお子さんや障害のあるお子さんもいて、そういうお子さんにとっては、なくてはならない幼稚園だなあと思います。 私が思う欠点と言えば、園長先生を始め、園の先生方の話が長いこと。沙羅の入園式の園長先生の話も、 「園長先生がね、花壇の方へ行ったらね、赤いお花さんがね、“園長先生、園長先生!”って、園長先生を呼ぶの。そしてね、“今度タンポポ組さんには、どんなお友達が入ってくるのかなあ?”ってお話しするの。それでね、園長先生がね・・・・・・・」 ってな具合に、赤いお花さんから、黄色いお花さん、紫のお花さんまで続くわけだから、まあ結構長い。これは、園児に対するお話で、その後当然保護者に対するお話も続くわけで、3歳児がいるっていうことを考えれば、とにかく長い。さらにそれに追い打ちを掛けるように、先生方全員(規模の小さい幼稚園なので、8人だったかな?)のあいさつ(まあ、それはほんの一言ではあるけれど)、おばあちゃん先生(園長先生の奥さん)のあいさつがあるんだから、ますます長い。みなさん、一生懸命子どもたちに語りかけてくださっているので、3歳児たちもまあ何とか保つには保ったけど、“いやあここの先生方は翔のころと変わらず、話し好きだあ!” 「お花さんがね、お話しするの」っていう園長先生のお話を聞いていたら、「おいおい大丈夫かなあ? 幼稚園児じゃあ本気にしちゃうよ」と文学の世界だけじゃなくて、自然科学の世界も教えてほしいなあとか思ったけれど、その後の蓮と沙羅の「いってきまーす!」という元気な声を聞いていると、何がどうだろうと、子どもたち全員が、登園拒否にならず、楽しく幼稚園に通えるということが一番大切なことだよなあと、改めて先生方の話の長さにも納得するのでした。 さて、そろそろ今朝も「ばあちゃん! じいちゃん! おはよう!」と蓮と沙羅が起きてくるぞっ! |
(文:大関直隆) |
2006/04/10(月) |
第205回「命の価値」 |
「ケイちゃん、こんばんは!」
「かっくんは?」 「今日は来てないんだよ」 ケイちゃんは、その答えに満足できなかったらしく、 「かっくんは?」 と再び聞きました。 「来てないけど、元気だよ。今日はおうちでお留守番してるよ。ケイちゃんと一緒に遊べなくて、ごめんね」 ダウン症のケイちゃんは複雑な表情を見せながらも、ニッコリと笑いました。ケイちゃんは、うちの翔(かける)を「かっくん」と呼びます。 ケイちゃんは、私と妻が月に2回通っていた大田堯氏(元教育学会会長、元都留文科大学学長、東大名誉教授)のご自宅で開かれるサークルに、お母さんと一緒にたびたび来ていました。サークルは、午後6時から8時まで。誰でも参加でき、大田先生のお話を聞いたり、参加者同士の情報交換をしたり・・・。今の私にとって、子育て・教育の原点となっているサークルです。いつも1階の書斎で開かれていて、サークルの開かれている間、ケイちゃんやかっくんは、お亡くなりになられた大田先生の奥様が2階で見てくださっていたのです。 ケイちゃんは、年下の翔の面倒をよく見てくれていました。幼い翔にも、ケイちゃんの状況は飲み込めていましたが、翔にとってケイちゃんはいいお友達。会えば必ず楽しそうに遊んでいます。ケイちゃんと私たちとは、あまり会話が成立するとは言えないのですが、翔と私たちの関係はちゃんと理解していて、大田先生のお宅はもちろん、他の場所で会ったときにも、私と妻には、必ず、「かっくんは?」と翔のことを尋ねます。ケイちゃんにとっても翔の存在は、いいお友達だったのかもしれません。 先日、朝日新聞の夕刊に 『「健常者並み」勝ち取る 障害ある息子交通死、逸失利益求め両親提訴 』 という記事が載りました。ちょっと長くなりますが、どうしても状況を皆さんに伝えたいので、お読みになった方もいらっしゃるかとは思うのですが、ほぼ全文(一部省略しています)をご紹介します。 階上町の田代文雄さん(47)、祐子さん(46)夫妻は、交通事故で亡くなった次男の尚己(なおき)君(当時8)への「死後の差別」と戦ってきた。損害賠償を求めた民事訴訟で、死ななければ将来得られたはずの逸失利益を、ダウン症の障害を理由に「発生しない」と反論されたからだ。2月に和解が成立するまで、息子の尊厳を守る闘いが続いた。 加害者に損害賠償を求める民事訴訟を地裁八戸支部に起こしたのは事故2年後の命日。他の事故遺族から「もっとつらくなる」と止められ、弁護士には「障害をつかれますよ」と助言されたが踏み切った。 求めた総額約5,700万円のうち、逸失利益は3,156万円。18歳から67歳まで働けたと推定し、男性の全国平均年収約565万円から生活費5割を引いて計算式にあてはめた。 対する被告側の主張は「逸失利益は発生しない」だった。 ダウン症は、ほかの病気になりやすいとする説や、知能の遅れが年とともに進み平均寿命も健常者より10〜20年短いという説を提示。その上で、尚己君の通った病院や通所施設などからIQ判定や保育記録を取り寄せ、「健常者と同等の就労ができ、収入を得ることができる可能性は認めがたい」と主張した。 「尚己を否定され、悔しかった」と祐子さん。地域の子と同じ保育園、小学校に通学し、成長を促す発達の訓練にも通わせていた。成長を記録したビデオを法廷に提出した。保育園で縫った布袋や編んだ縄跳びなども示し、健常児と比べて見劣りしないと訴えた。 ダウン症を持ちながら活躍する人たちを探した。ピアニストや画家、俳優、飲食店従業員など国内外49人分の活動記録を提出した。「色々な可能性があったと感じ、つらい作業でした」 昨年6月、裁判官から和解案が示された。青森県の健常者の平均給与で計算し、労働可能な年限も67歳。計1,800万円弱を認める内容だった。和解は今年2月9日、成立した。 原告側の西村武彦弁護士(札幌弁護士会)は「うまく能力を伸ばせれば、将来の可能性があると裁判官がみたのだろう」。被告側は「ダウン症の未就労児の将来をどうみるか、先例は少ない。客観的データに基づき裁判官の見解を求めるには、立場上、障害に踏み込まざるをえない」と話す。 私も法律事務所の勤務経験があるので、司法の考え方は理解しています。けれども、こういう状況を見聞きすると、「人の平等」をうたった憲法は、どう生かされているんだろうと憤ります。加害者も平等であるという論理に基づくのだろうけれど、人そのものの価値が差別されていいのだろうかと、どうしても疑問に思います。翔もかけがえのない命、ケイちゃんもかけがえのない命。二人の命の重さは何ら変わりません。そして二人は「お友達」なのです。 今回の和解が前例となることを祈ります。 |
(文:大関直隆) |
2006/04/03(月) |
第204回 「大倉浩弁護士来る!」 |
ここのところほぼ月1回のペースで行っている「カウンセリング特別講座」に地元浦和で弁護士としてご活躍の“大倉浩先生”にご登場願いました。大倉先生のご実家と私の実家はすぐそば。大倉先生の方が私より1歳年上ですが、赤ん坊のころからの関係で、原山中学校でもバレー部の先輩、後輩でした。もちろん家族ぐるみで親しくさせていただいていたわけですが、大倉先生のお父上が浦和市の総務部長をなさったあと、私の父も総務部長をさせていただいたという関係もあってか、父もプライベートなことでいろいろとお世話になっているようです。
つい先日まで、私の会社で行っていた損害賠償請求事件でも、代理人になっていただきました。少年事件を数多く手がけていらっしゃる関係もあり、研究所開設当初より、特別講師としてお名前を連ねていただいていましたが、やっと今回講座をお願いすることができました。 たはっ、どうも大倉さんの話を一生懸命敬語を使って話そうとすると、頭が混乱してきちゃうなあ。子どものころから“ヒロシくん”“なおちゃん”の関係だったので、中学校で先輩、後輩になったときも、かなり混乱はあったんですけど、今回も結構混乱しちゃってます。 まっ、そういうわけで、大倉さんに講師をお願いしたわけです。 弁護士という立場で、少年事件に関わった話を聞く機会というのは、そう多くはないので、今回の講座はとても有意義なものになりました。大倉さんの人柄ということもあるのかなあ???子どものころからとにかく真面目で、熱血漢。正義感はめっぽう強いし、しかも涙もろいときてる。今回も、2時間の話の中で何度涙を流したことか。 おもしろかったのは、映画「戦場のピアニスト」を見たときの話。なんと、映画の中の主人公が撃たれそうになったとき、思わず「あぶない!」と叫んじゃったとか・・・。たぶんどこかの映画館での話じゃないかと思うけど、普通の人じゃあ考えられない。でも、講座に参加してた人たちは、ぼろぼろ涙を流す大倉さんを見て、おそらくすごく納得がいったんじゃないかな。小さいころから彼をよく知っている私としては、“いやーっ、ヒロシくんらしいなあ”と思うわけです。 そんな大倉弁護士が、少年事件について強く語っていたのは、“事件は子どもたちのせいじゃない”っていうこと。事件の責任は、事件を起こした子どもたちを取り巻く大人の責任であるということを力説していました。もし、事件を起こした子どもたちが、違った親、違った環境で育てられていたら、事件は起こさなかった。愛情のない家庭の中で育てられて、事件を起こしてしまった子どもたちも、愛情のある家庭の中で生活することで、更生できる。実際に少年事件に関わっている大倉さんの話には、大きく心に響くものがありました。 うちの研究所を訪れる多くの子どもたちも、皆とても優しく、いい子たちです。そういう子どもたちが、問題を抱えて苦しんでいる。そんな苦しんでいる子どもたちにさらに負担を掛けるのでなく、周囲の大人が責任を負ってあげることでどれだけ子どもたちが楽になることか。 人間は他の動物に比べて未熟で生まれてくる。未熟で生まれてくるからこそ、人間なんだ。オオカミに育てられたという“カマラ”と“アマラ”のことを思い出しました。 う〜ん、親は親としてきちっと責任を全うしなくては・・・。親の責任、大人の責任を痛感させられる大倉弁護士のお話でした。 |
(文:大関直隆) |
2006/03/27(月) |
第203回「ゆっくりと過ぎる時間」 |
1280℃。
穴窯に挿した温度計が、目標であった温度に達しました。ここまで来るのに3日間、ずっと薪をくべ続けました。けれども、これで終わるわけではなく、ほぼこの温度を保ちながら、さらに丸1日薪をくべ続ける予定です。しかも、これまでは前面にある焚き口からのみ大割にした薪をくべていたのですが、最後の一日は、窯の両脇にそれぞれ2つずつあいた直径15pほどの穴からも小割にした薪をくべる予定になっています。 「やったぁ! 1280℃になったぁ!」 窯焚きの要領は、焚く人や中に入れた作品の種類によって変わります。今回の穴窯焼成は、いったん素焼き(粘土で作った作品をうわぐすりを掛けやすくするためや本焼きの際破損しにくくするために、約700℃くらいで一旦焼成すること)した作品をうわぐすりを掛けずに窯に詰めたので、比較的破損しにくいとは言え、作品にたっぷり薪の灰が被り、趣のある作品になるよう、4日間焚く予定でスタートしました。最初の1日で約700℃。2日目で1200℃。3日目は1200℃前後をほぼキープしながら、脇の穴から薪を差し始める4日目までに、目標の1280℃まで温度を上げて、できるだけその温度を保つという予定でした。 陶芸教室を始めて19年間、会員の皆さんがそれぞれどこかの穴窯焼成に作品を入れてもらって焼成するということはこれまでもあったのですが、うちの教室が単独で穴窯焼成をするのは今回が初めて。私も穴窯焼成を手伝ったという程度の経験はありましたが、最初から最後まで私の責任で穴窯を焚くのは初めてです。諸々の経費を入れると50万円を優に超える今回の窯焚きでは、参加した会員が約70名、窯に詰めた作品の数も約400個に上ります。未知の経験と責任の重さで、緊張の連続でした。 「そろそろ、脇から薪を差しましょうか」 脇の穴から細い薪を差すと、一気に火が噴き出します。“ボォー”というより“ゴォー”という窯の叫び声は、私たちを威圧し、そのあまりの熱さに仰け反ることもしばしばです。 「お疲れ様でしたぁ! それでは止めます!」 薪をくべることを止め、それまで焚き口として利用していた穴をすべて密閉し、窯焚きを終えました。教室としての初めての窯焚きは、上々のできで終えることができました。窯から作品を出すのは、1週間後の土曜日。果たしてどんな作品になっていることでしょうか。 この穴窯は、茨城県笠間市の楞厳寺(りょうごんじ)というお寺の境内にあります。楞厳寺は禅宗の寺で、山門や所蔵の千手観音像は国指定重要文化財にもなっています。笠間から益子に向かっていく途中の仏頂山にあり、とても静かなところです。山の陰ということなのか、携帯電話はほとんど通じず、窯の隣にある小屋の中には10円を入れるとかかる公衆電話のようなものがあるにはあるのですが、窯のそばにいると薪のパチパチという音や炎のゴーッという音で、気づかないことも多く、まったくと言っていいほど、外の世界とは隔絶された世界。薪をくべるという行為は、火をつけてから火を止めるまで、ずっと続く行為なので、温度が下がらないように窯に薪を入れ続けるためには窯から離れられる時間というのもトイレに行くのがやっとというくらい。差し入れられた食べ物を食べるのも窯の前。4日間で横になって寝たのは10時間にも満たず、よく身体が保ったなあという感じ。けれども、いつも電話に追われ、食事を摂る時間すらあまりない浦和での生活とは別世界で、そこで流れる時間というものは、まるで時計が止まったような早さ。夜になれば、窯の周りに点った灯り以外、漆黒の闇。懐中電灯無しに歩くことは、まず不可能。聞こえる音といえば薪のはじける音、炎の音、窯と煙突が膨張してきしむ音。時折やってくる蛾の羽音にもびっくりするくらいの静けさ。朝はウグイスが鳴き、キツツキが木をつつく音が聞こえたりもします。夜中に一人で窯焚きをしている私の足下に、一匹のアカガエルがやってきました。小さなアカガエルにさえ“こんばんは”と声を掛けてしまうような心の優しさ。そこのスピードには、そういう優しさがありました。まだ稲を植える前の枯れた田んぼや畦道で、セリやヨモギを摘むおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん。ちょっと声を掛けると、“窯焚きが終わったら摘んでいけば。いくらでも摘めるし、うまいぞう”と返ってくる。 “こういう、ゆったりとした平和な時間は、都会の生活にはないなあ” 子どもたちには、こういった時を過ごすことが絶対に必要だと強い確信を持ちました。大人に準備されたものではない、自らが何かをしないと何も起こらない、まるで時間が止まったような空間。そういうものを子どもたちに与えられたら、きっと子どもたちの心も優しくて暖かいものになるのだろうと思いました。 窯焚きという私にとっては仕事でしたが、思わずまったくそれとは別な優しい時間をもらいました。 |
(文:大関直隆) |
2006/03/20(月) |
第202回「卒業」 |
20年前のことです。
息子の努は飯能にある自由の森学園に通っていました。自由の森学園は、三鷹にある明星学園の先生方何人かが中心となって設立した学校で、努はそこの第1回生です。1つ下には「寅さん」や「北の国から」で有名になった吉岡秀隆君がいます。校長は遠藤豊氏(故人)で、その人脈を生かし教育研究協力者には教育界だけでなく様々なジャンルの有名人が数多く名を連ねていました。 努は中学生の頃、いじめに遭っていました。身体にアザができたり、ケガをしたりしたようなときでも、親には何も話さず、自分の中で処理していたようです。ある時、ワイシャツに付いた血を洗面所で洗っているのに妻が気づき、いじめに遭っていることがわかりました。まじめでおとなしい子だったので、トイレで一人で掃除をしていると、トイレにたばこを吸いにきた同級生に“邪魔だ”と言われ、その辺にある掃除用具で殴られたり、先生に頼まれてOHP(授業で使うスクリーンに映像を映写する機械)を運んでいると、手がふさがっていることをいいことに、すれ違いざまに頭をこづかれたりしていたようでした。気づいてからは、何度も学校に足を運び、短期間で解決はしたのですが、そういう子ですから、進路については、どうしても慎重になります。いろいろと悩んでいたときに、TBSラジオの「子ども電話相談室」で長い間回答者を務めていた無着成恭氏の講演会が蕨であり、その話の中で自由の森学園が開校することを聞いたわけです。 設立の趣旨や取りたい生徒像などが、努にも適しているのではないかということになり、全く未知の学校で不安はありましたが、まだ建設中の現場を飯能まで見学に行ったり、設立に関わっている先生方の話を聞きに行ったりと、様々な手を尽くして学校の情報を手に入れ、自由の森学園に決めました。 それがきっかけになって、舞台の道を選び、現在の努があるわけですから、それはそれで正しい選択だったのだろうと思いますが、自由の森学園では設立当初の混乱と親や子どもたちの個性の強さから、多くの問題が起こりました。自由の森学園での3年間は、いい意味でも悪い意味でも、いろいろなことを学ばせてもらったなあと思います。 S君は努と同級生で、まだ始まって間もなかったピースボート(NPO法人が世界の人々との交流を目的に1983年より行っているクルーズ)にも参加したことのあるような子で、学校の自治や政治については、大人顔負けの論を展開する高校生でした。3年生の夏休み明けになって、その子の卒業が問題になりました。はっきりとした理由もなく、校長が「S君を留年させる」と言い出したからです。遠藤校長という人は、校長という立場にもかかわらず、子どもたちとよく関わっていました。S君と遠藤校長は、明星学園からのつながりで、校長はS君のことをよく知っていました。お母さんも遠藤校長とは、長く関わっていましたので、よく知っています。そういう中でのことでしたが、S君の留年という話は、S君にとってもお母さんにとっても、そして私たち保護者にとっても唐突で、納得のいくものではありませんでした。それは、自由の森学園の理念が、生徒の個性を大切にし、徹底的なテストの排除と自主的学習を尊重することにあり、そのためには教師も生徒も時間と精力を惜しまないという前提があったからです。 学校が留年や退学を生徒や保護者に突きつけることは、たやすいことです。けれども、それは最後の最後の手段であって、そこに至るには、切り捨ててしまう学校側の相当の努力があって初めて認められることです。S君の場合、それがなかったと思われたので、私は納得がいかなかったのです。留年を突きつけられたS君のお母さんは、とても謙虚な方で、ただただ困り果てていました。 私は遠藤校長と何度も話をしました。校長は「自由の森の卒業生としてこのまま社会に出すわけにはいかない」と言いました。私は、「3年間で(高校を)出すという前提がなくて、“3年間で出せない状況なら留年させればいい”という発想で考えているのなら、それは学校の教育の放棄だ」と言って、校長と議論しました。 自由の森学園の場合は、卒業させられないと考える生徒の「抱え込み」でしたが、最近、これとは逆に、生徒を「切り捨てる」というケースが増えています。やり方は逆ですが、どちらも生徒を自校の卒業生として社会に出さないということでは共通しています。学校が生徒を切り捨てるについてどれだけの努力をしたか、常にそれを明確にし、最大限切り捨てないことが、学校には求められるのだと思います。 数ヶ月に及ぶ話し合いの結果、S君は留年せず、無事卒業することができました。 |
(文:大関直隆) |
2006/03/13(月) |
第201回「個性」 |
せっかく九州まで行ってきたんだから、どこかで「湯布院の感想を」って思っていたのに、真のケガあり、翔の卒業式ありで・・・。ずいぶん時間が経っちゃったので、だいぶ気持ちが冷めちゃったけど、湯布院の話。
いやぁ、とにかく遠い! 行きは門司までだったけれど、帰りは湯布院からうちまで直接帰ってきたので、距離が200km延びて、約1,300km。湯布院を昼の12時に出て、軽い食事とトイレと給油でほんの数回、それも10分、20分の単位で休んだだけで走り続けたのに、うちに着いたのはなんと翌日の午前4時。結構いい調子で走ってきたら、そんな時間にもかかわらず、工事で首都高が大渋滞。自分のリズムで走れるっていうことが、長距離の運転には重要で、リズムさえ崩されなければ、かなりの長距離を走っても、それほど疲れは感じないもの。東名までは、本当に快適なドライブで、“ルンルン”なんて調子で走っていたのに、用賀からがどうにもならない。午前3時に着くと思っていたのが、結局4時。一気に往復の疲れが出た感じ。 湯布院での一泊は“期待通り”というわけには行きませんでした。もちろん一つには真のケガ(第199回)のこともあったのだけれど、それよりも宿泊した宿が“う〜っ・・・”。いやいや、こう言うと“そんなにひどい宿だったんだぁ”と感じる人もいるかもしれませんが、いろいろなランキングを見ても常に湯布院で1、2位を争うような宿ですから、まったくそんなことはなくて、“接客よし、食事よし、泉質よし”。全室に露天風呂も付いているし、何と言っても静かだし・・・。 ところが何かが欠けているんです。“なんだろう、なんだろう”ってずっと考えていたら、わかったんです。 “湯布院”が欠けていたんです。すごくいい宿なのに、そこには“湯布院”がない。「はぁ?」ってお思いの方もあるかもしれませんが、そこは湯布院にあるけれど、湯布院じゃなかったんです。大きな露天風呂に入っても、部屋に付いている露天風呂に入っても、おいしい食事を食べても、何をしても“湯布院に来たぁ!”っていう感動がないんです。ここの宿の主人は、造園業とかで、庭はよく手入れをされていて、食材にもこだわりがあるとか。米も自家米だそうです。でも、私が求めていたのは、そういうものじゃなくて、“湯布院だぁ!”っていう満足感。ここの宿にはそういうものがないんですよね。妻に言わせると、「なんだかAさん(三室の知り合いの植木屋さん)ちの庭でお風呂に入っているみたい」。う〜ん、その通り! ここは湯布院だけど湯布院じゃないんだぁ! 宿の持っている個性というのは、その宿だけが持っている個性っていうのも個性なんだけれど、もっと大きなそこの土地(温泉)が持っている個性もないと・・・。那須には那須の、草津には草津の、箱根には箱根の色がある。そういったものがないと、どんなにサービスの質を高めても本当の満足は得られない。 宿を選ぶとき絶対に必要なのは、その土地の個性。その後に、その宿の個性。 サービスを尽くした湯布院の宿は、とてもいい宿でした。けれどもサービスを尽くすだけなら、それは東京でもできる。むしろ東京の一流ホテルに泊まった方がいいくらい。よく「一流ホテルに来たみたい!」なんていう言い方するけれど、そういうものを望むなら、一流ホテルに泊まればいい。 人間も似てるんじゃないかなあ・・・。一生懸命勉強して、一流大学に入る。でも勉強だけなら誰でもできる。それで終わったら、ただのサービスのいい宿にしかなれない。もちろん勉強することを否定するわけではないけれど、その前に一人の人としての個性があってほしい。そのことを忘れないで子どもを育てないと、いくら努力をしてもなんの魅力もない人間になっちゃう。子どもたちにどういう個性があるのかゆっくり見てあげられる親の目も重要なんじゃないかな? もちろん先入観と偏見、自分勝手な親の価値観の押しつけはダメだけどね。 いい宿だったんだけどなあ・・・。でも今度湯布院に泊まるときは、そこにいるだけで“湯布院だぁ!”って感じられる宿に泊まることにしよ!っと。 |
(文:大関直隆) |