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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2012/04/09(月)
第500回(最終回)「蓮くん、我が家に戻る!」
「蓮はどうしたいの?」
「この前、電話で話した時は、帰るって言ってたよ。でも、まだ気持ちが揺れてるみたいだね。蓮以外の4人の男の子のうち、担任の先生のお子さんは先生の移動でどうなるかわからないんだけど、後の3人の男の子は島に残ることに決めたんだって。それを聞いたら、戻るって決めてた蓮の気持ちも揺れちゃったみたいよ。学年は違うけれど、蓮が一番下で、みんな弟みたいにかわいがってくれてたから。レストランもない、コンビニもない、お店もない、レジャー施設もない、とにかく何にもない中で、島の人たちの心の温かさはどこにもないくらいいっぱいだから、蓮にとっては新鮮で、居心地もよかったんだと思う」
「やっぱり、迷うだろうなあ…」
「そうよね」

昨年の4月に「鹿児島県鹿児島郡十島村平島」(http://www.tokara.jp/index.html)に留学した孫の蓮は、1年間の留学を終え、我が家に戻ってくることになりました。留学の仲介をしてくださった十島村教育委員会の教育長さんをはじめ、教育委員会の皆さん、蓮を温かく迎えてくださった平島の皆さん、そして里親を快くお引き受けくださった日高さんご一家にはお礼の言い様もないくらい感謝しています。
1年間、平島小中学校の最上級生として蓮の面倒を見てくれた日高さんのお嬢さんも、無事鹿児島市内の高校に合格し、4月から自宅を離れ新たな生活の一歩を歩み始めたそうです。
まさか孫の蓮がこのような出会いを作ってくれるとは…

「ばあちゃん!? 今、鹿児島に着いたよ。今日帰るからぁ!」
妻と携帯電話で話す蓮の声が、隣にいた私にも聞こえてきました。平島に渡った時、弾んだ声で電話をかけてきた蓮。1年前と同じように、鹿児島からの声は弾んでいましたが、その声の調子からは1年前とはまったく違う、成長した蓮を感じ取ることが出来ました。

3月29日午後8時40分羽田着。
「蓮、おかえりー!」
「ただいまー!」
蓮が帰ってきました。お正月にも戻ってきてはいたのですが、帰宅を決心して戻ってきた蓮には、親元を離れ1年間一人で平島を過ごした自信のようなものがみなぎっていました。
この1年間の経験は、蓮にとっても、母親の麻耶にとっても、妹の沙羅にとっても、そして私たち祖父母にとっても、大切で貴重な経験になりました。

蓮が戻った翌日、妻が食卓の上にあるビニール袋を手にとって、
「これ、なあに?」
と聞きました。
「それ、するめだよ。この前、原山のばあさん(私の母)がよこしたの」
「これがぁ?」
不審そうに妻が袋から取り出したものは、40センチくらいの白い板のようなもので、ラグビーボールをつぶしたような形をしています。
「あれっ? 違う違う。それはどう見てもするめじゃない。それ、何っ?」
と私が言うと、遠くの方から蓮が、
「イカの骨だよ」
イカの骨かあ…。こんなもん、見たことない!
そういえば、平島から釣り上げたイカの写メを送ってきたことあったっけ。
「10キロ以上あるんだよ」
蓮が言いました。
私がしたこともない経験を小学4年の蓮がしてきたんだなあ、とつくづく感心しました。
子どもや孫の成長は私たち大人の想像をはるかに超えています。子どもが自ら育つ力を信じ、そっと見守ることが子育てなんですね。

昨年から我が家にはいろいろな動きがありました。長男の努は、20年間所属していたオーストリアやドイツの市立劇場の舞踊団を退団してフリーになり、三男の翔は、初めて日本アマチュアゴルフ選手権の決勝ラウンドに進み、国体での団体優勝も果たしました。そして、今日、4月1日は、昨年32歳になった娘の麻耶が3月に大学を卒業し、新たな一歩を歩み始め、孫の蓮は前述の通り…。
そして私は、10年、500回を迎えた連載を終え、今日、ペンを置くことにしました。いや、パソコンを閉じることにしました。かな?

ご愛読いただいた皆様、本当に長い間ありがとうございました。
また、違った形でお目にかかれる日が来ることを楽しみにしています。
よしっ! 連載も終わったことだし、明日から長〜い旅に出るぞーっ! 
2泊3日ですけどね! 
それでは、(⌒∇⌒)マタネー!!



(文:大関 直隆)

2012/03/26(月)
第499回「教育はどこへ行く その3」
2002年3月12日にこの連載を始めて10年あまりが経ち、ちょうど区切りのいい次回第500回で「子育てはお好き? −専業主夫の子育て談義−」を終了することにしました。これだけの字数の文章を毎週更新するというのはけっこう大変で、私の生活にかなり変化を与えましたが、それはそれで、楽しい機会を与えていただいたと思っています。

さて、ちょうど10年目、まさに連載を終えようとしている時に、今後の「教育行政」に大きな影響を与えるかもしれない大阪府の教育基本条例案が可決成立したことは、何か因縁めいたものを感じます。今回まで3回連続で取り上げている「教育はどこへ行く」は、実は朝日新聞の記事を見て、それを基に1回で完結させるつもりだったのですが、「落ちこぼれゼロ法」と「大阪府教育基本条例」をいろいろ調べているうちに、500回にわたる連載の中で、私が述べてきたこととの関わりを強く感じて、だんだん伸びてしまい、とうとう3回目まで来てしまいました。

教育基本条例(私の含め、正しい理解がされているかは甚だ疑問ですが)については、かなり国民の意見も割れているというのが現実だろうと思います。マスコミ各社も割れていて、私がこの問題を取り上げるきっかけになった朝日新聞は反対姿勢、ネットを見ると毎日放送は報道特集で批判的な番組を放送していたらしいですから、毎日新聞、TBSは反対? 産経新聞はこういった条例を全国に広げようという主張をしていますので、賛成。読売がどうなのかは確認していませんが、日の丸・君が代の問題からすれば、当然賛成なんでしょう。朝日新聞は社としては反対なんだろうと思いますが、テレビ朝日の番組の中には連日橋下市長の動向や主張を取り上げている番組があるらしいので、社の方針だけで動いているのではなく、テレビという媒体の性質から、視聴率やプロデューサー、出演者に影響されているものもあるようです。

私は、これまでずっと述べてきたように、教育行政や学校・教師の姿勢、教育の閉鎖性などという問題については、非常に批判的なので、そこを正そうとする教育改革の方向性は理解できます。
既得権益というか、職場の環境を守ろうとする教職員の人たちの中には、この条例に強く反対する人たちが多くいると思いますが、公教育に関わる人たちの感覚と、保護者を中心とする社会一般(もちろん教員も社会一般人ですが、そういった関係の人を除く人という意味で)の人たちの感覚のずれが、今回の条例がそれなりの支持を集める結果につながっているんだろうと思います。
長年、問題を指摘されながら、なかなか状況を変えられない教育現場のツケとも言えるのでしょう。もっとも橋下市長は教職員組合だけをことさら批判していますが、私は組合であろうとなかろうと、全く同じことだろうと思います。

とはいえ、私はこの条例に大きな危惧を抱いている一人です。それは、教育が政治主導で行われていいのかという疑問を強く持っているからです。
憲法に規定する基本的人権の教育を受ける権利を覆すということでないとすれば、政治が教育に深く立ち入るということは、その時々の政党、政治家によって教育が支配されるということで、憲法上許されないと思っています。
法律論でいうとややこしい部分がありますが、まあ今の日本では考えられないことですが、たとえば社民党や共産党が政権を取ったら(市町村レベルなら絶対ないとは言えないかもしれませんが)、全く逆になっちゃっていいのか、教育ってそんなもんなのかということです。公教育は本来、普遍的であるべきと考えるのですが、どうも今回の条例はそうは思えない。それだけではなくて、公教育でどういう子どもを育てるかという部分で、経済優先の人間教育になっているように感じる。
経済優先で教育を考えた場合、たとえば米国の「落ちこぼれゼロ法」のように競争や数値化で教育行政を進めるようなことが起こるんでしょうが、それは「落ちこぼれゼロ」どころか、必ず落ちこぼれを生むという強い確信を持っています。経済優先の教育は、「人」を育てるというより、むしろ経済構造の中の一つの歯車を作ることに他なりません。

私は、教育や子育ては、思春期くらいまでは母性的(女性という意味ではなく男性の中にもある母親的な感覚)な関わりが中心であるべきと考えていますが、競争原理を中心に教育を行えば、それとは全く逆の方向に進んでいってしまいます。今回の条例は、母性的な感覚を排除していると感じてなりません。私の感覚では、それはとても怖いことです。

教育基本条例案の可決により、教育が一歩政治主導の方向に踏み出したことになるのでしょうが、競争や数値ばかりが前面に出て、ぎすぎすとした世の中にならないといいのですが・・・。

政治がこういう方向に舵を切り始めた時だからこそ、家庭の中では優しさいっぱいの子育てをしたいですね。人と人とが関わる時に、他人を思いやる優しさ以上に大切なものはないですから。
(文:大関 直隆)

2012/03/19(月)
第498回「教育はどこへ行く その2」
ブッシュ政権で教育調査官を務めたニューヨーク市立大のダイアン・ラビッチ教授による、「すべての子どもたちに基礎学力をつける」と聞いた時は感激したが、現実にはそうはいかず、4年後から反対に転じたといい、「落ちこぼれゼロ法」の失敗の理由を二つあげています。

一つは、学力の低い子ほど、最寄りの学校で家の事情も知る慣れた先生に教えてもらいたがる現実を無視して学校のランク付けをしたことで、下位の子の自尊心を傷つけ、やる気を失わせたこと。
もう一つは、ノルマを果たせなかった学校の改善がうまくいかず、テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまったこと、と言っています。

「落ちこぼれをなくす」という理念について、反対する人はほとんどいないと思います。私もまた、公教育の目指す方向の一つとして、「落ちこぼれをなくす」という理念が重要であると思います。ただ、ここで問題なのは、どんな子どもが落ちこぼれかという「定義」と、どうやって落ちこぼれをなくすかという「方法」です。
当然のことながら、落ちこぼれの「定義」が違えば、それをなくすための「方法」ももちろん違うわけですから、第一義的には「定義」が重要ということになりますね。

子育てをしていると、遺伝的にはとても近い自分の子どもたちでも、子どもによって、それぞれまったく違った個性を持っていることを感じます。遺伝的には近いわけだし、育っている環境もまったく同じ(生まれてきた順序を除けば)なわけだから、他人から見れば多くが似ているのでしょうが、親から見ればそれぞれの子どもによってまったく違った個性を感じます。食べ物の好みですら、正反対なんて感じることだってあります。
子どもたちにはそれぞれ個性があって、向き不向きが全く違うにもかかわらず、それを無視して、「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」は、「落ちこぼれ」を考える基準を限りなく「学力」に限定してしまっていることが大きな問題点です。
「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」について、「学力とは何か」と問えば、どちらも「テストで何点取れるか」という定義になるのでしょう。橋下市長の発言を聞いていると、「優秀な子=高偏差値な子」ということでほぼ一貫しているように感じます。

「テストでいい点を取れる」ということが、「人間の価値か」ということは、いつの時代も問題になることです。米国の母親が「学校はテストのための勉強ばかり」と言っていることや、ラビッチ教授が「教育技術を学んだ教師を送り、テストの点を上げる反復練習を繰り返した結果、一時的に点は上がった学校もあった。だが、長続きしなかった。テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまった」と言っていることから、どうやら日本も米国も同じことのようです。

私は「テストの点の悪い子」を落ちこぼれの「定義」と考えたくはないのですが、百歩譲ってそう考えたとしても、「落ちこぼれゼロ法」が落ちこぼれをなくすことに適切な法律であるのかといえば、ラビッチ教授の話から、どうやらそうでもなさそうだということがわかります。

中学3年生の中ごろに、偏差値35〜40程度に低迷している、俗に言う「落ちこぼれ」という子どもたちに勉強を教えていた経験から言わせてもらうと、明らかに学習障害と言われる子どもを除けば、こちらのアプローチ次第で、1〜2ヶ月で全員が偏差値で10、順位で言えば100人中後ろから4、5番がほぼ真ん中くらいまで上がります。
これには、「こつ」、言い換えれば「技術」があるわけですが、実は「技術」よりもっと重要なものがあります。それは教える側と教わる側の「信頼関係」です。信頼関係を築けない子どもは、脅しても、罰を与えても、100%うまくいきません。教える側の空回りに終わるだけです。テストの点を上げるには、本人のやる気が何よりも重要な要素であり、「落ちこぼれ」と言われる子どもたちのやる気は、脅しや罰はもちろん、教えることの技術だけでは到底引き出せないからです。

つづく

(文:大関 直隆)

2012/03/12(月)
第497回「教育はどこへ行く その1」
先週の日曜日、朝日新聞朝刊に「学校に競争 米改革不評」との見出しで、10年前にブッシュ政権が作った「落ちこぼれゼロ法」の記事が載っていました。「落ちこぼれゼロ法」というのは、教育から格差をなくすという理念のもと、学校に競争と淘汰を導入するというもの。学力アップにノルマを課し、果たせなかった学校を閉校または民間委託にするというものです。

具体的には、3〜8年(日本の小3〜中2)に毎年英語と数学のテストを受けさせ、12年後に「良」をとる生徒が100%になるよう目標を設定。2年続けて目標達成ができなければ、保護者は子どもを転校させることができる。4年連続教職員の総入れ替え。5年なら、閉校か民間委託にします。
この方式でいけば、ダメな学校(「良」を取れない子をなくせない学校)はすべて閉校か民間委託となり、ダメな学校は残らないわけだから、落ちこぼれはいなくなる、ということだったようです。
では、実際はどうなったのか・・・。

ニューヨーク州ブルックリンの高校で開かれた教育委員会での市当局の話では、州のテストで「良」を取った子の割合が、この10年で、英語30% → 44%、数学30% → 57%になったとのことですが、教職員組合は、国のテストの成績が横ばいであることを根拠に「達成率が上がったのは州のテストが難易度を下げたから」と主張しています。
このような議論が続く中でも、学校の統廃合は進み、教職員組合によると、市内の公立小中高校の1750校のうち150校が閉校になり、市内の教職員の4分の3に当たる6万6千人が定年に加え、強制的な配置転換や激務によるうつ病で退職したそうです。(朝日新聞参考)

以前から、朝日新聞の教育問題に対する論調は、極端に教職員寄りなので、廃校や退職した教職員の数字の正確さはともかく、閉校の原因が単純に「落ちこぼれゼロ法」による基準によるものであり、教職員の退職の原因が「落ちこぼれゼロ法」による強制的な配置転換や激務によるうつ病であると決めつけることはできません。
とはいえ、格差是正を競争だけに頼って行おうとした、この「落ちこぼれゼロ法」は、まったく教育の本質を見誤ったもので、結果として閉校や教職員の退職が起こったということもかなり真実に近いものである気がします。

ある高校の体育教師は「この10年、市内はテストの数字を基に教師を責めるばかり。貧困家庭の子どもの状況は何も改善されていない」と言い、5人の子どもを持つ母親は「学校はテストの勉強ばかり」と憤る。学校では英語と数学の授業が増え、音楽、美術、体育の授業が減った。毎日同じCDを流して単語書き取りと計算ドリルをやらせる。要するに、点数を追い求めるあまり、機械的な学習を増やしているということです。

日本では、大阪市の橋下市長が打ち出している教育改革が、この「落ちこぼれゼロ法」によく似ていると指摘されています。
たとえば、「学力テスト」をどう利用するかという点では、米国は、「学校別に結果を公表し、保護者はそれを基に学校を選択」、大阪市は「保護者が小中学校を選べるよう、学校別に結果を開示」。
「教員の評価」については、米国は「テストの結果が4年連続で目標に達しない場合、教員を総入れ替えする」、大阪市は「保護者の申し立てや校長の評価で、不適格教員を現場から外して研修」。
「学校の統廃合」については、「5年連続で目標に達しない場合や卒業率が低い学校は閉校」という米国に対し、大阪市は「3年連続で定員割れした府立高校は再整備。
小中学校でも学校選択制により選ばれなかった学校は統廃合も考慮」、児童生徒の「留年」については、米国は「テストの結果が標準に達しない子は低学年から留年させることができる」、大阪市は「小中学校で、学力不足のこの留年を検討する」。
まあ、ここまででもよく似てるんですが、バウチャー制度は、米国は「テストが2年連続で目標に達しない場合、塾や家庭教師に使えるバウチャーを支給」、大阪市は「所得が低い地区のこの保護者に、塾や習い事に使うバウチャーを支給」。所得格差は、学力格差と言われていますから、結果としてはほぼ同じ内容のように思います。
教育委員会の位置づけは、米国は「シカゴ、ニューヨークなどの大都市で市長直属に」、大阪市は「教育の基本計画は首長が教育委員会と協議して作る」となっています。
全体的な方向性としては、ほぼ同じといってもいい内容です。果たして、問題はないのか、教育はこれで変わるのか・・・

つづく
(文:大関 直隆)

2012/03/05(月)
第496回「子どもに何を、いつ、どう与えるべきか」
「このテーマで、この振り付けを子どもに踊らせるのは無理がある気がするなあ…。技術的には子どもたちはとっても上手いし、振り付けられた通りに一生懸命踊ってるけど、テーマや振り付けの意味を理解してるかっていうと、どうなんだろっ? たぶん、理解してないんじゃないかなあ? ただ一生懸命踊ってるっていう感じ」
「伸びゆく彩の国さいたまの子供達によるバレエ・モダンダンスフェスティバル」を観ていた時の感想です。

今年は先月行われたローザンヌ国際バレエコンクールで、21人のファイナリストのうち5人が日本人、さらに神奈川県厚木市の高校2年生、菅井円加さんが優勝したということもあって、子どもたちの通うクラッシックバレエあるいはモダンダンスの教室の指導者の皆さんも、かなり熱が入っているようで、とてもハイレベルな舞台を見せてくれました。

とはいえ、いろいろ感じることはあって・・・
「この衣装、踊っている子どもに合わせたっていうより、指導者の好みっていうか趣味っていうか・・・。子どもをかわいいだけの子ども扱いしないっていうことも大事だけれど、衣装も含めて、子どもらしくっていうか、子どもが自分の表現として踊れる次元でっていうことも大事だと思う。今の衣装は子どもの次元に合ってない。たぶん、指導している人が自分自身表現したいことや自分の好みを衣装を使って表現したんだと思う。踊り手が子どもである必然性みたいなものを感じないもん」

自分が指導したり、踊ったりするわけでもないのに、偉そうに勝手な批評ばかりしているわけですから、指導者の皆さんも、たまったもんじゃないですね。
勝手なことばかり言ってすみませんm(_ _)m
プロとして踊っている息子やプロとして演劇をやっている息子にも厳しいので、まあちょっと勘弁してもらって・・・。

金曜日に、TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ」を聴いていると、本日のニュースランキングのコーナーで「子育て支援法案の骨子を政府が決定 総合こども園を創設」という話題を取り上げていました。学習院大学経済学部教授、鈴木亘氏によると、

「当初、消費税値上げにより7000億円の予算を捻出し、すべての幼稚園を総合こども園にすることで待機児童対策とする予定だったのに、今回の決定では、消費税を上げても、あらかじめ7000億円のうち3000億円は待期児童対策に使わないことが決まっている上(消費税を上げることが前提の法案です)、残りの4000億円もすべて待機児童対策に使われるわけではない。しかも、現状の待機児童は0〜2歳児が8割を占めているにもかかわらず、幼稚園は幼稚園としての存続を認め、3歳児以上を預かればいいことになっており、保育園を総合こども園にしたところで、待機児童対策にならない骨抜き法案になってしまった。待機児童対策が法案の看板ということになってはいるが、偽りの看板といった方がいいと思う」

とのことでした。なかなかここまで詳しく解説されることはないので、法案の中身が大変よくわかりました。これに関連して、首都大学東京教授、社会学者の宮台真司氏が、「幼稚園が3歳児未満を預からないというのは待機児童対策になっていない」と鈴木氏に同調した上で、幼稚園と保育園の中身の違いに言及し、

「もともと幼稚園が保育をするということだったのに、保育園を幼稚園に近づけるという話になった。私は、保育園とか保育所というところが好き。それは教育をしないから。保育園や保育所のように子どもには、預かって遊ばせるということが大事。ちびっ子に、行儀とか礼儀作法とか、集団行動みたいなうんこみたいなこと(集団行動を金魚の糞にたとえていった言葉だろうと思います)を教えているのは日本だけ。(ここで荒川強啓氏が「(行儀とか礼儀作法も)大切だよ」と言葉を挟むのですが、それを「違います!」と強く否定して)集団行動というのは、実は楽。集団行動が一切なしのところだと、朝、行ったらまず誰と遊ぶかっていうところから考えなければならない、そういうところで社交性も身につくし、依存よりも自律的的メンタリティに近づいていく。幼稚園で教育とか、ちびっ子に教育なんてどうだっていい、そんなの適当でいい。我々(大人)が、子どもたちが集団的に保護されるような社会的責務を果たすということが大事なわけで、子どもをちゃんと保護して親が安心して働けるようにすることが求められている」

と、かなり強い口調で主張していました。
これは、以前から私が主張していたことと重なるわけで、私も、宮台真司氏が子どもを通わせている「まったく集団行動のない幼稚園」とほぼ同様な幼稚園に翔を通わせていたわけです。
「幼稚園で早期教育をしないと小学校に入学した時、勉強について行けない」という人も多いわけですが、そういう幼稚園に行っていたからといって、小学校での学力が問題になったということは全くなかったわけで、むしろ子どもの発達段階に合わせて、何を子どもに与えるべきかという点で考えれば、幼児教育では、宮台氏が言うように「朝、行ったらまず誰と遊ぶかっていうところから考える。
そういうところで社交性も身につくし、依存よりも自律的的メンタリティに近づいていく」という部分なんだろうと思います。
もちろん、大人が段取りをして与えるということではなく、「教育をしない」というやり方で。逆に言えば、そこが欠けているから行儀や礼儀作法が欠けた人間に育ってしまうと言ってもいいのかもしれません。
子どもが、他者という存在を意識し、理解する前に行儀や礼儀作法をただただ形式的に教えてしまうので、行儀や礼儀作法の本当の意味を理解できない。そんなことが起こってしまうんだろうと思います。部活動でスポーツをやっている子どもたちが礼儀作法やモラルに厳しい教育を受けているにもかかわらず、しばしば事件を起こしてしまうのも似ていますよね。

バレエとモダンダンスの話に戻ると、子どもたちに、今、何を与えるのかと考えた時、振り付けや衣装など、むしろそういった芸術的なものこそ、「依存よりも自律的的メンタリティに近づいていくことが大事」という点において、子どもの発達段階に合わせた対応をしないと、個性のない物まねだけの踊り手になってしまうんだろうと思います。
(文:大関 直隆)

2012/02/27(月)
第495回「桃太郎 その2」
「温羅」(うら)が吉備国の英雄であったという話は、移動に利用していた観光バスのガイドさんの話の中に出てきました。

「へーっ、そうなんだぁ」
ガイドさんの話は、「百済から海を渡ってやってきた大男たちの「かしら」が「温羅」で、やがて北の山に住みつき、そこで鉄の道具を作りそれを利用して生活していた。それをうらやましく思った吉備人(きびびと)たちも一緒に鉄を作るようになった」というような話でした。
鉄を作っていた温羅たちを恐れたのが「やまと」。大和朝廷です。朝廷から、温羅を倒すために送られたのが、「吉備津彦命」(きびつひこのみこと)。吉備津彦命が桃太郎だとすれば、温羅が鬼ということになります。

総社市観光ガイドには、
鬼ノ城(きのじょう)は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。
と記されています。

「鬼ノ城」の名が古代の正規の歴史書に登場しないということであれば、「温羅」の存在そのものが「鬼」につながっていたのではなく、まず「鉄」を恐れた大和朝廷の吉備征伐があり、そのため「鬼ノ城」という話が生まれたと考える方が自然のように思います。
岡山の人たちに「温羅」が、「鬼」として恐ろしい存在と捉えられているだけではなく、「英雄」としての存在として捉えられている(?)のは、「温羅」が吉備に繁栄をもたらしたという事実があるからなのかもしれません。
備中国分寺を訪れた際、そこで「新・吉備路のおはなし“温羅と桃太郎”」という小冊子を見つけました。編集・発行は「県立博物館を誘致する会」で、それによると、

桃太郎を呼べ! やまとの王が言いました。
吉備の鬼を退治せよ
鉄を奪うのじゃ
鉄を持つ吉備の国が、大和よりも強い国になっては困るのです。

そんなくだりがあり、吉備国の長(おさ)が戦いのため集めた民衆に向かって、温羅が
「私たちは父母の恨みを晴らす武器をひそかに作り、それを持っている。だが、戦争は新しい恨みを生むだけだ。真のしあわせとは何か。吉備国の平和のために、私は戦わない」と言ったとあります。
温羅は、鉄の武器を大和朝廷に差し出すことを条件に、桃太郎に吉備人を滅ぼさないよう頼み、桃太郎もそれに大きくうなずくのですが、家来の放った矢が温羅の胸を射貫いてしまいます。温羅は吉備国を戦場にしないため、雉子に姿を変え飛び立ち、桃太郎も温羅との約束を誓うため、鷹に姿を変え温羅に追いつきますが、温羅は力尽き、川に落ち鯉になり、その血が川を真っ赤に染めたんだそうです。
桃太郎は、大和の王に使いを出し、鬼は亡びたと伝えます。そしてたくさんの武器を王に差し出した桃太郎は、吉備国を治めることを許され、温羅との約束通り、吉備国と人々を大切にし、のちに「吉備津彦命」と呼ばれたとなっていました。
もちろん伝説ですから、どちらの内容がより史実に近いのかはわかりません。でも私は、温羅は英雄であってほしいし、岡山の人たちもそう思っているんだろうと思いました。

桃太郎の話は、子どものおとぎ話ですが、実はそのもとは遠い昔の国と国との争いだったと考えると、ちょっと寂しい気がします。
やっぱり桃太郎の話は、川上から流れてきた桃を拾ったおばあさんが、その桃を持ち帰り、切ってみると中から元気な男の子が生まれ、桃太郎と名付けました。
そんなお話のままがいいですね。
おとぎ話は、おとぎ話で存在することに意味があるのかもしれません。
(文:大関 直隆)

2012/02/20(月)
第494回「桃太郎 その1」
♪ももたろさん ももたろさん
お腰に付けた きび団子
一つ 私にくださいなぁ

やりましょう やりましょう
これから鬼の 征伐に
ついて行くなら やりましょう

というわけで、岡山に行ってきましたぁ!

私にとっては、初岡山です。今回の旅行はロータリークラブの親睦旅行で、一泊二日でしたので、ちょっと強行軍でしたが、一日目に日本三名園(水戸偕楽園、金沢兼六園、それに岡山後楽園)の一つ、岡山後楽園、倉敷の大原美術館を見学し、美観地区を散策して、アイビースクエアに宿泊。二日目は、吉備津神社、備中国分寺を見学し、鷲羽山から瀬戸大橋を眺め、帰路につきました。

一日目は、岡山では珍しいという雪が舞う天気。後楽園を見学しているときには、はらはらと雪が舞い始め、とても風情のある庭園鑑賞が出来ました。バスでの移動中にはかなりの降雪になった時間帯もありましたが、幸いそれもバスの移動中だけ。大原美術館、美観地区の散策のときには雪は上がり、傘をさすことなく、散策が楽しめました。団体旅行ではありましたが、毎週顔を合わせている仲間ということもあり、またあまり行動を縛られないということもあり、短時間ながら心に響いてくるものがたくさんありました。

大原美術館のコレクションの数々はよく知られています。やはり名画というものには人を絵の中に引き込むような強さがあります。エル・グレコの「受胎告知」ももちろんですが、様々な画家の風景画は、じっとそれを眺めていると、まるで絵の中に立っているような錯覚さえ起こします。幻想の世界をさまよっているような、奇妙な感覚の時を過ごしました。

二日目の吉備津神社は、誰もが知っている「桃太郎」の元となったとも言われる「温羅(うら)退治」の話が伝わる神社です。「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上の方から、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れて来ました…」というようなくだりで始まる桃太郎ですが、吉備津神社に伝わる話はやや違うようで、
吉備津神社の公式ホームページによると、

『むかしむかし異国よりこの吉備国に空をとんでやってきた者がおりました。その者は一説には百済の皇子で名を温羅(うら)といい、目は狼のように爛々と 輝き、髪は赤々と燃えるが如く、そして身長は一丈四尺にもおよび腕力は人並みはずれて強く、性格は荒々しく凶悪そのものでありました。温羅は新山に城を築 き都へ向かう船や婦女子を襲っていたので、人々は温羅の居城を鬼の城と呼び恐れおののいていました。都の朝廷もこれを憂い名のある武将を遣わして討伐しようとしましたが、すばしこく変幻自在の温羅を誰も討伐できず都に逃げ帰る有り様でありました。そこで武勇の誉れ高い五十狭芹彦命が派遣されることになりました。大軍を率いて吉備国に下って来られた命は吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築き戦いの準備をしました…』

と、こんな具合に始まります。ここでは「温羅」(うら)が悪者で、「五十狭芹彦命」(いさせりびこのみこと)、別名「吉備津彦命」(きびつひこのみこと)が英雄に扱われていますが、この話には違った話もあって、異国より来たといわれる「温羅」を英雄として扱ったものもあります。

つづく

(文:大関 直隆)

2012/02/13(月)
第493回「誕生日プレゼント」
「沙羅の誕生日のプレゼント、どうする?」
「うん、まだ何も考えてない」
「もう持ってないものがないんだよねぇ・・・」
「バッグとか財布は?」
「いっぱい持ってるよ」
「そうかぁ・・・。困っちゃったなぁ」
プレゼントに困っちゃうようならやめればいいんだけれど、5人の子どもたちにもそうしてきたように、孫たちにも機会あるごとにプレゼントをやってきたので、そろそろネタが尽きてきたっていう感じ。「不思議の国のアリス」の本の中に「お誕生日じゃない日、おめでとう!」なんていう台詞があって、我が家ではそれが口癖のようになっていて、誰かの誕生日じゃない日に何かご馳走を作ったりすると、
「お誕生日じゃない日、おめでとう!」
なんて冗談を言っては乾杯したりしています。
でも今日は、孫の沙羅の本当の誕生日。「お誕生日じゃない日、おめでとう!」なんていう冗談では済まされなくて、とにかく何かプレゼントを用意しなくっちゃ!

5人も子どもがいて、さらに孫となるとこれが意外と難しい。なぜかというと、1番上の弘子の時は、2番目の努が生まれるまではプレゼントの対象は弘子一人。弘子にプレゼントをやるのも、両親だけ。ん?1歳の弘子にはプレゼントはやらないかな? 私と長女の弘子は11歳しか違わないので、私はこの状況を経験していないわけだけれど、まあ一般的にいって、1歳の子どもに何か物でプレゼントをするということはあまりないかな? むしろ、夫婦で子どもが1歳になったことを喜ぶというか・・・。
弘子と努は年子なので、努が生まれてもこの状況にさほど大きな変化はなし。ところが何年かして、弘子と努が自分の誕生日というものを理解するようになり、誕生日にプレゼントをもらうということが特別なんだということがわかるようになると、誕生日というものが本人にとっても、周りにとっても意味を持ってきます。

3番目の真が生まれた時、弘子は9歳、努は8歳。真の1歳の誕生日は、それぞれ10歳と9歳。この頃になると、真の誕生日というものが、親だけでなく弘子と努にも弟の誕生日を祝うという意味を持ってきて(真本人にはまだほとんど意味がないんですけれど)、弘子も努も真にプレゼントをあげたいということになってくるわけです。子どもが5人ということは、これが延々と繰り返されることになります。
1番下の翔の1歳の誕生日には、弘子20歳、努19歳、真11歳、麻耶9歳。そろそろ、親が考えるプレゼントと、弘子や努の考えるプレゼントは、同じようなものになってきて、そこからさらに10年、20年を経過すると、それぞれ少しはお金を使えるようになるので、小さいころのように折り紙をプレゼントするとか、画用紙に似顔絵を描いてプレゼントするなんていうものは全くなくなり、とにかくお金をかけて何かを買ってくるということになって、誰かとかぶらないようにするのに一苦労。
誕生日は毎年同じ日にあるわけだから、たとえば妻の誕生日なら、12月14日。ちょうど寒さも厳しくなってくる時期で、すぐ頭に浮かぶのは、手袋とかマフラーといった防寒具。これまでのべ何人の子どもたちから手袋とマフラーをプレゼントされたことか・・・。
「お母さんの誕生日、何プレゼントするか決めた?」
と誰かとプレゼントがかぶらないように周りの状況を確かめます。平たく言えば、贈る物の取りっこになるわけです。その結果として全員が、その時の年齢にふさわしい物は別として、ほとんど持ってない物はないくらい、様々な物を持っていることに。
最近、麻耶は母親の誕生日にはストッキングと決めているようで、使ったお金が無駄にならないようにしています。それはそれで、一つの工夫であって、妻も喜んでいるのですが、誕生日プレゼントのサプライズ感は全くなくなってしまいました。なかなか難しいですね。

で、孫の沙羅のこととなると、さすがにもう限界。ドイツにいる努からもプレゼントが届く(ほとんどかぶる心配はないのですが)ので、プレゼントを渡す方のプレゼント選びは過酷の極み。結局今日は、伊勢丹、パルコを1時間以上ウロウロして決まらず、午後6時から会合があり、8時には終わるだろうから、急いでドン・キホーテでも行こうかと考えていたら、会合が10時過ぎまでかかってしまって・・・。
本当の誕生日だというのに、一緒に食事やケーキを食べてやることもできず、
「沙羅ちゃん、ごめんね。今日はプレゼント用意する暇がなかったんだ。じいちゃんともう一回誕生日やろうね」
誕生日プレゼント探しの試練は、まだ明日も続くことになってしまいました。
(文:大関 直隆)

2012/02/06(月)
第492回「内山高志 “心は折れない”」
「当たった! 倒れた、倒れた! 大の字だ、大の字だ! 目があいていない! 止めた、止めた!」
テレビ東京の斉籐一也アナウンサーが叫びます。
「見事なTKO。内山、ワンパンチで、ワンパンチで倒した」
やっと落ち着いた声に戻ったものの、途中で声を裏返しながら言いました。
「見事な王者統一です。すごい内山! 第11ラウンド左一発! なんという強さだ、なんというすごさだ!」

昨年12月31日に行われた、WBA世界スーパーフェザー級王座統一戦、内山高志(ワタナベ)×暫定王者/ホルへ・ソリス(メキシコ)の試合、第11ラウンドKOシーンです。

*****(テレビ東京オフィシャルサイトの解説)
内山 17戦全勝(14KO)。ソリス 46戦40勝(29KO)3敗2分1無効試合。
世界奪取から4連続KO勝ちという、日本記録を更新中の“ノックアウト・ダイナマイト”内山高志が、いよいよ過去最強の相手と激突する。今年1月、日本人の強打者、三浦隆司を8R逆転TKOで下し、史上初めて「王座奪取から4連続KO勝ち」の記録を樹立した内山高志。
しかしその強打の代償は大きく、右拳の怪我は思いのほかの重傷となり、約1年のブランクを余儀なくされた。
そんな内山に立ちはだかるのは「もう一人の世界王者」ホルヘ・ソリス(メキシコ)。3月に狙った二階級制覇こそ失敗に終わるも、この階級では最強を自負するソリス。
ブランク明けで過去最強の敵を迎える内山。これまで通りの圧勝で自らの世界王座が“本物”であることを証明出来るのか!?
*****

これは試合前の解説なので、現在の内山選手の戦績は18戦全勝(15KO)。
ボクシング好きの人なら知っていると思うけれど、内山選手は埼玉県春日部市の出身で、花咲徳栄高卒。

昨日(2月4日)は、そんな内山選手の講演を聴き、サイン入りの本を買い、握手をし、一緒に写真も撮ってもらいました。
テレビで見る試合での印象とはだいぶ違って、とても優しそうな雰囲気で、人なつっこい感じ。さすがに旅行会社で2年間サラリーマンをしていたというだけのことはあり、ボクシング選手にしてはあまり荒々しさを感じません。中学校ではサッカー部だったそうですが、中学2年のとき偶然テレビで見た「浪速のジョー」こと辰吉丈一郎さんの姿が新鮮に映り、花咲徳栄高校の学校見学でボクシング部を見て、ボクシングをやることに決めたそうです。
大学は拓殖大学に進みましたが、大学ではエリートボクサーが多い中、補欠にも入れず、4年生の先輩にスパーリングでボコボコにされる毎日。並の人なら、ここでボクシングをあきらめるのでしょうが、やめなかったところが内山選手の強さなんでしょうか。
大学の代表としてでなく、埼玉県の代表として出場した全日本選手権で、拓大で「部内一の天才」と言われていた先輩に勝ってしまいます。4年生のときに、全日本選手権で初優勝しますがプロには進まず、旅行会社に勤めながら2004年のアテネオリンピックへの出場を目指しましたがアジア予選で敗退。

話を聞かせてもらう限り、挫折や苦しい思いを何度もしています。それをあっけらかんと話してしまうところに、プロ転向から18戦負け無し、15KOということの自信が表れているように感じました。

彼の話を聞いていると、「ボクシングが好きなんだなあ」ということがひしひしと伝わってきます。人間、好きなことに出会えるというのは本当に幸せなことですよね。テレビを見ていたら、中学入試とその合格発表の映像が流れていました。
超難関校に合格した子が「今までで一番嬉しい」と涙を流しながらインタビューに答えていましたが、それを見ていたら、内山選手が世界戦のリングに上がっても「なんだか実感がわかなくて」とか、勝った瞬間も「嬉しかったことは嬉しかったんですけど・・・」となんとなく間が抜けたような話っぷりだったのを思い出しました。この違いっていうのは、続けたくないことをやっている人間と続けたいことをやっている人間の違いなんでしょうかねえ???

「心は折れない」は、内山選手の本のタイトルです。昨年1月の三浦隆司選手とのタイトル戦の際、右手首を脱臼、骨折しながらも左手1本で勝利した試合をもじって付けたタイトルのようですが、何があっても「心は折れない」、まさにそんな感じの人でした。でも、それもボクシングが好きだからこそですよね。私は格闘技は苦手なので、まさか子どもや孫にボクサーになってほしいとは思いませんけれど、好きなことをやって生きている、そんな人生を送れる子どもや孫に育てたいですね。
(文:大関 直隆)

2012/01/30(月)
第491回「炭起こし」
一昨日の晩から、孫の沙羅が
「じいちゃん、日曜日学校来て!」と騒いでいました。
「何があるの?」
「七輪で炭起こしてお餅焼いて食べるの」
「ああ。去年だったか一昨年だったか、蓮がやったやつね」
「そう。じいちゃん、来られる?」
母親の麻耶も行くらしいので、私が行く必要もなさそうなんですが、なぜか沙羅は私にこだわっていて、
「ん〜、仕事あるしなあ…」と言っても、
「なんとか来られないの?」
そんなこと言われては都合をつけないわけにはいかず、なんとか行ってやることにしました。

沙羅の中では、いろいろなことがそれぞれ誰にふさわしいかという考えがあるようで、「七輪で炭をおこして餅を焼く」ようなこと、要はアウトドア系のことは私ということのようで、「来てね、来てね」と何度も念を押される始末。そういえば、蓮の時も私と麻耶で行きました。みんな炭には慣れていないようで、七輪の中にぎゅうぎゅうに新聞紙と割り箸を突っ込み、さらにその中に炭を突っ込み、まるで火事のように七輪から高い炎を上げて炭起こしをしていたのを覚えています。
その時学校から配られたプリントには、新聞紙と割り箸に火をつけたら、そこへ炭を入れ、七輪の下の方にある空気窓からうちわであおいで風をたくさん送るように書いてありました。実際にやってみればわかるんですけれど、これは大きな間違い。炭が充分赤くなって、上から炭を足す場合は、それでもいいのですが、新聞紙と割り箸を燃やした直後に下の窓からうちわで風を送ると、新聞紙の燃えかすが一気に上に舞い上がってしまいます。
うまく火を起こすには、新聞紙と割り箸にほどよく火が回ったところで炭を入れ、新聞紙と割り箸の火がほぼ消えるくらいまで待って(炎が収まったころには炭の角の部分にはやや火が移っています)、なるべくうちわを七輪に近づけ、一気に上からあおぎます。
この時のこつは、うちわで送った風が効率よくすべて七輪の中に入るように、できるだけうちわを七輪に近づけ、小刻みになるべく強く(腕が痛くなるくらい)あおぐこと。こんなに勢いよくあおいだら消えてしまうんじゃないかと不安になりますが、強くあおげばあおぐほど、炭のはじに着いていた火が広がり、ぱちぱちと音をあげ始めます。
「ぱちぱち」音がし始めたらあおぐのを止め、炭から炎が上がるのを確かめれば炭起こしは終了。七輪の炭を起こすくらいなら、まあ1〜2分もあれば充分ですかねえ。
どのグループも配られたプリントを見ながら、その通りやろうとしてなかなかうまくいかず、いくつかのグループは私が手伝いました。

今日は、そのようなプリントはなくて、模造紙様のものに手順が書いてあるだけ。しかも蓮の時に比べれば、炭のおこし方についての説明はおおざっぱ。説明がおおざっぱなことで、どのグループも試行錯誤しながらとはいえ、大人の知識をフルに発揮して炭起こしをしていたので、逆に蓮の時よりはうまくいっているようでした。

今日とてもおかしかったのは、私が新聞紙と割り箸が燃えている中に炭を入れようと、ビニール袋から素手で炭を出したとたん、若い女性の先生に「あぶない」と言われたこと。私に言ったのかどうかは定かではないけれど、うちのグループでその瞬間に何かしようとしていたのは私だけ。沙羅もその先生の言葉が私に向けられたと感じたらしく「じいちゃん、軍手した方がいいよ」と言いました。そんなことから考えると、おそらく私に向けられた言葉かと・・・。先生は「炭はトングでつかむもの」と杓子定規に思っているらしく、素手でつかんでは、何か危険(手を切る? 七輪に入れる時にやけどする?)と感じたのでしょう。

私が炭を素手で持ったのは、素手で持つことでその炭の特徴というか、性質というか、そんなものを感じて、餅を焼くにはどれくらいの炭を七輪に入れるかとか、この炭の火力はどれくらいかといったものを知りたかったわけですが、炭はトングで挟んで入れるものと思っている若い先生にはちょっとそこまではわからなかったようです。

無事、1〜2分で炭起こしは終了、あっという間にお餅も焼けて食べ終わりました。うちのグループが片付けに入ろうかというころ、まだ炭を起こしているグループもありましたので、いかに早く作業が済んだか…。でも、こういう作業というのは早く済めばいいというものでもなくて、他のグループと同じような早さで作業を進めることも、ある意味大事なことなので、今日については大成功のような、大失敗のような・・・。

私が子どものころ、まだ学校のストーブは石炭のだるまストーブ。クラスの誰もがストーブ当番というと紙に火をつけ、薪に火をつけ、石炭に火をつけ、という作業をしていたものです。今日も七輪の中にぎゅうぎゅうに新聞紙を突っ込み、その上に牛乳パックをちぎったものを突っ込み、さらに炭を突っ込み、その周りにまるで何かの宗教の儀式のように割り箸をいっぱい直立させているのを見ると、思わず吹き出しそうになりました。あまりに炭を起こしすぎたところは、お餅が真っ黒焦げになってしまったんですよね。
これはなかなか経験がないとわからないことですけど、餅を焼くにはほとんど炭はいらないんです。だからこういう経験をさせているんでしょうけれど、先生方もあまり慣れていないようで、まだまだ皆さん修行が足りないというところでしょうか(笑)

もし、七輪でお餅なり、肉なり、サンマなり、焼いてみたい人は、ぜひ前述のやり方、試してみてください。間違いなく、炭起こしに3分とかかりませんから。
(文:大関 直隆)