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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2010/03/29(月)
第400回「コラーゲン食べて美肌になっちゃおう!」
「このロールキャベツにはコラーゲンが付いてくるんですよ」
「コラーゲンが付いてくるって何?」
「このロールキャベツはオーブンで焼いて持ってくるんですけど、その他にスプーンの上にコラーゲンを乗せて持ってくるので、それを中に混ぜて食べてもらうんです」
「なんか面倒くさくない? そんなことするんだったら、最初から料理の中にコラーゲン混ぜとけって感じでしょ?」
「まあそうなんですけどね」
「コラーゲン食べると美肌になるって、あれね!? 要するに、別に付けることでいかにもコラーゲンを食べてるっていう感じにしたいわけだ」
「まあそういうことですね(笑)」

浦和駅周辺には、これっていう目立ったレストランはありませんが、わりと小さなお店がたくさんあります。
お昼を食べようと思えば、どんなものでも食べられるのですが、タバコの煙が嫌いな私は、しっかり分煙のところじゃないとダメ。ランチタイムだけは全席禁煙っていうところも増えてきましたが、ほとんどお昼にお昼を食べない(3時とか4時になっちゃうこともしばしばなんです)私としては、ランチタイムのみの禁煙は無意味。そうなると行くところがかなり絞られてしまって、結局行くのは、ほぼ毎日近くのファミレスということになります。

そのファミレスに、今はメニューから消えてしまったんですけど、つい最近までロールキャベツがメニューにありました。そのロールキャベツには、料理とは別に、なぜかコラーゲン(よくビジネスホテルなんかにある紙に包まれた丸い石けんくらいの大きさの、なんか変なゼリーみたいなものです)がスプーンに乗って付いてくるんです。
皆さんの中にも食べたことある人いるんじゃないですか?
オーブンで焼くので、上に乗ったナチュラルチーズがとろーり溶けて、見かけはこってりですけど、食べてみると見かけよりはかなりあっさり。低カロリーで、美味しいので、しょっちゅうこれを食べてました。

ロールキャベツがメニューに加わったとき私に勧めたのは、前出の会話の店長。おもしろい人で、私とよく話をするんですが、新メニューが加わると必ず私に勧めます。せっかく勧めてくれているんだから、よほど私にとってまずそうでなければとりあえず一度は食べてみます。ロールキャベツもその一つだったんです。これにはけっこうはまりましたね。何度かロールキャベツを食べたあと店長に、
「ほら、すっかり美肌になったでしょ?」
と言うと、
「おーっ、すごくきれいになりましたね」
だって。まさかそんなわけないでしょ! のりのいい店長なんです。

コラーゲンは、最近やや下火になった感がありますが、一時ずいぶん流行ってました。肌に塗ったり、錠剤のようなものを飲んだり…。ロールキャベツについてくるコラーゲンは錠剤みたいなものに比べるとかなり大きいし、いかにも食べた感じがするせいか、ほんとに肌がつるつるになった気がするんだから、変なもんですよね。

ところがこのコラーゲン、分子が大きいので、肌からは吸収されないし、食べてもさらに分解されて吸収されるので、意味ないんですってね。じゃあ何のために塗ったり食べたりするんだってことになります。まあ、化粧品会社や食品会社を儲けさせるために塗ったり食べたりしてるってことなんですかねえ。

肌の弾力を保つコラーゲンだが、肌に直接塗っても分子が大きいため吸収されないことは周知。そこで、「飲むコラーゲン」などがありがたがられているが、それらも「肌のコラーゲンにはならない」。
「分子の大きいほうから順に、タンパク質、コラーゲン、ペプチド、アミノ酸となっています。コラーゲンを経口で摂っても、一度アミノ酸まで分解されて、全身のいろいろな場所に分配され、骨や筋肉などいろいろな形で使われます。肌まで行き届かないこともあるし、結局、肉や魚などタンパク質を食べていれば同じことなんですよ」(Web SPA!)

とは、よしき皮膚科クリニック銀座院長、吉木伸子氏の話。
この手の話は、ほとんど信じない私ですけど、そんな私ですら、しょっちゅうコラーゲンを食べてると何となく肌がツルツルすべすべになった感じがするんですから不思議です。

日本人は、とても集団心理に流されやすい人種ですよね。やたらと変な定説があります。そのほとんどが何かの商売と結びついてるわけですが、定説もほどほどにしないと…。私と店長は、お互いにもちろん信じていないレベルで会話を楽しんでましたが、もしこんな話が、純真無垢な子どもたちに情報として流されたら、簡単に信じてしまって、そのつまらない定説から抜け出すことに苦労することになってしまいます。
こんな疑わしい定説は、大人の遊びと割り切って、ほどほどにということですかねえ。
(文:大関 直隆)

2010/03/23(火)
第399回「狩猟本能」
「あっ、ワラビだ!」
「えっ?」
「だから、ワラビ!」
「ワラビって山菜のワラビ?」
「そうだよ」
「運転してるのにわかるの?」
「わかるよぉ、そりゃあ。ほらっ、またあった! あそこ!」

私は、運転しながら左手で道ばたのワラビの方を指さしました。
「なんでわかんのよ? こんなスピードで走ってるのに」
「“なんで”って言われてもなあ…。ほらあれっ、あれだよ。あそこの草の中からヒョロヒョロ一本伸びて、先っちょがなんかクルクルってなってるでしょ!?」
「はっ? ぜんぜんわかんない」
「じゃあ、今停まって教えてあげるよ」

しばらく走ると、またワラビが何本か生えていたので、車を止めて妻にワラビを教えました。もちろん妻だってワラビを知らないわけではありませんが、地面から生えているワラビにはあまり実感がない様子。
「そりゃあ、こうやって見ればワラビだってわかるけど、あなたあのスピードで運転しててもわかるんでしょ?」
「わかるよ。だって、特徴あるでしょ、あの先っちょ」
「先っちょねえ…」

亡くなった義父に言われたことがありました。
「なおくん(私のこと)は狩猟本能があるよなあ。海に行けば貝とか魚を捕ったり、海草を採ったりするだろ。そうかと思うと山に行けば山菜を採ったり、川で魚を捕ったりするだろ。採るだけじゃないんだよなあ。それをそのまま生で食べちゃったり、料理してみんなに食べさせる。なあ、狩猟本能あるだろっ!」
義父にそう言われてみると、確かにそうだと思いました。季節季節でいろいろなものを自分で採っては食べるなあと…。

とはいえ、それを趣味のようにして、いろいろ調べてはあちこちに摘みに行くというようなことをするわけではなく、旅行に行ったり、子どもたちと遊んだりしているときに、たまたま道ばたで見つけたツクシやヨモギ、セリ、フキノトウなどをちょっと採っては料理するといった程度。
見つけたら必ず採るというわけでもなく、高野山金剛峯寺の墓地の周りに出た無数のフキノトウや翔のゴルフの応援に行った栃木のゴルフ場に出た大量のワラビなんかは、商売にできそうなくらいに出てましたけど、摘みませんでしたよ(当たり前か…)。

義父は、明治生まれの人にしては、英語が話せたり、スキー、スケート、水泳となんでもやる人でしたが、その辺で生きているものや生えているものを採って食べたりはしません。「汚い」という意識があったり、「食あたりを起こす」と考えているようでした。なので、当然妻もそういうことをしません。そういえば、「××狩り」もしません。

私の子どものころは、セリ摘み、潮干狩り、梨狩り、栗拾いなど、親や伯父叔母に連れられよくしたものでした。庭には梅、桃、びわ、イチジク、ザクロ、ゆず、柿、グミなど、食べられるものがたくさんなっていたので、自分で採っては食べていました。

やはり、こういうことって、どう育てられたかで決まるものなんですね。私の意識の中には、「人間も自然と共存している」「人の生は自然に支えられている」ということを子どもたちに伝えたいという意識もあるように思います。
「汚い」「あたる」と考えていたらしい義父も、私が採って調理したものは食べました。

いよいよ春全開!
セリを摘んだり、ワラビを摘んだり、潮干狩りに行ったりしますかねぇ…。
子どもたちとそんなことをしてみると、珍しい花や虫たちを見つけたり、見たこともない生き物に出会ったりできますよ。
今年は妻も車の中からワラビを発見できますかねえ…。
(文:大関 直隆)

2010/03/15(月)
第398回「大人になったら何になる?」
「沙羅は大きくなったら何になりたい?」
「ケーキ屋さん!」
「ケーキ屋さんになりたいんだぁ?」
「うん。ケーキ屋さんじゃなかったら、お花屋さん!」
「ふーん」
「蓮は?」
「えっとねぇ、野球選手!」
「へーぇ、野球の選手になりたいんだぁ?」
「うん。だから、毎日練習したい!」
「そうだな、いっぱい練習しないとな」
「うん」

ちょっと古いデータになりますが、2007年に第一生命が行った「大人になったらなりたいもの」というアンケート調査の集計データ(全国の未就学児および小学1年〜6年生 男子364人 女子628人 計993人)があります。男女別に見ていくと、
男子            女子
1位 野球選手       食べ物屋さん
2位 学者・博士      看護師さん
3位 サッカー選手     保育園・幼稚園の先生
4位 お医者さん      学校の先生(習い事の先生)
5位 大工さん       お医者さん
6位 パイロット      飼育係・ペット屋さん・調教師
7位 警察官・刑事     花屋さん
8位 食べ物屋さん     ピアノ・エレクトーンの先生・ピアニスト
8位 料理人        美容師
10位 消防士・救急隊     歌手・タレント
(8位は同率)

どうやらうちの孫もこれに準じているようです。
こういう調査は、時代背景やテレビの影響をとても強く受けるので、どんな時代に育ったか、どんなものが流行っていたかで大きく変わってしまうものもありますね。あと2〜3年すると、男子も女子もプロゴルファーなんていうのが登場するんじゃないでしょうか。いやいや、もう登場してるんでしょう。親にとっても子どもをプロゴルファーにするなんて、大きな夢なんでしょうから。遼君も藍ちゃんもカッコいいし、しっかりしてるし、お金も稼ぐ。

はあぁっ、それに比べてうちの息子は…。トホホッです。まあ、愚痴はやめましょう。もともと私だって息子がプロゴルファーになることを期待して、ゴルフをやらせていたわけではないので。ちょっとは賞金を期待していたんですけどね。

私が子どものころなりたかったのは「魚屋さん」。なぜかというと、毎週決まった日(確か火曜か金曜だった気がする)にうちの庭に車を止めて魚を売っているおじさんがいたんです。そのおじさんが魚をさばくのを見ていたら、それがおもしろくておもしろくて。「絶対やりたい!」と思ったわけです。
高校に入ってからも、調理師になるとか魚屋になるとか考えていました。それがのちの主夫につながっていったんですね、きっと。最近忙しくてあまりやらなくなりましたけど、よく魚もおろしてました。鯖やいなだ、鰹なんかも。
小さいときに抱いた夢っていうのは、大人になってもそう大きく変わらないものなんですね。

先日、朝日新聞に「訓練費700万円を自己負担し、約1年半かけて列車の運転免許を取得して運転士になる――こんな社会人向け運転士養成プランの参加者を、千葉県の第三セクターいすみ鉄道(本社・大多喜町)が募集したところ、1週間で20人が応募し、1回目の募集を10日に打ち切った」という記事が掲載されました。
最初「この不景気な時代に700万円もかけていったい何を考えてるんだろう、この人たちは」と思いましたが、次の瞬間、急に納得がいって、人の夢っていうのは、お金には換えられないくらい価値があるんだなあと思いました。夢を持ち続けられるくらい幸せなことはないのかもしれませんね。

今の子どもたちは夢を失っているとよく言われます。でも、小さい子どもたちを見ていると、目はぎらぎらと輝き、しっかり夢や希望を持っているように見えます。そんな子どもたちが、どこかの時点で夢を失ってしまうのです。
次代を担う子どもたちが夢を失うことのないよう、私たち大人が自分の夢の実現のために必死で生きている姿を見せる必要があるのかもしれません。
運転士を目指す皆さんに心よりエールを送ります!
(文:大関 直隆)

2010/03/08(月)
第397回「『科学と学習』とうとう休刊」
『科学と学習』と言えば、学研の代名詞。その『科学と学習』の『学習』は2009年度冬号(2010年1月1日発行)、『科学』は2009年度3月号(2010年3月1日発行)をもって休刊しました。

『科学と学習』の歴史は古く、『学習』の創刊は、1946年(昭和21年)、『科学』の創刊は1957年(昭和32年。私の生まれた年)。

各学年ごとに出版された本の中身は、比較的堅いものにもかかわらず、読んでいて楽しく、スッと頭に入ってくる内容。そして、毎号付いてくる工夫された付録の楽しさ。私も小学生のころ、一時期『科学』も『学習』も購読していました。
科学好きだった私は、『学習』の購読は途中でやめてしまいましたが、『科学』は中身もさることながら、とにかく付録が楽しみで、ずっと購読していました。次号の付録がどんなものなのか、前号の予告ではわかるものの、付録を使って実際にやってみる実験の楽しさは格別で、発行日が近づくとワクワクしたものでした。

中学生のころは、マニアックというわけではありませんが、めっぽう理科好きな少年でした。家で教科書、参考書、問題集など、全く開いた記憶がないのに、どういうわけか理科の成績だけはいい。100点とまではいきませんけれど、ほとんどがそれに近い点だったと記憶しています。
それはなぜか?
それは『科学』の力に負うところが大きかったんだと思います。
付録を開けて、まず組み立てる(組み立てのいらないものもありますが)。そして解説を読み実験を進めていく。ところが子どもですから、付録の作り方、実験の進め方、なかなかうまくいかないこともあります。ここで、教えてくれる人がいれば、あるいは手伝ってくれる大人がいれば、わけなく付録作りと実験は成功するわけですが、どういうわけか『科学』は人に見せたくない、見られたくない。

自分ひとりが知っている秘密にしておきたい気分になるんです。実験が成功して、「××はね、××なんだよ」と大人に対して知ったかぶる快感。そんなものを感じていたのかもしれません。日常生活の中に「あるようでない」「ないようである」、そんなことが科学の実験にはつきものなので、大人でも知っていそうなのに、ちゃんとは知らない。そういうことがおそらく子どもの心を揺さぶったのでしょう。

そんなわけで、人にはあまり知られたくないので、近くに大人がいたとしても、あまり味わうことのできない大人に対する子どもの優越感が、大人に教わることをさせなかったんだと思います。

結局、誰にも頼らず自分ひとりで最後までやり通すしかなくなります。簡単に「実験終了!」となることもありますが、中には手こずる付録もあって、そんな場合は試行錯誤をくり返して、何とか実験が成功する。うまくいかなくても、大人に教わりたくないのですから、何度でもくり返しやるしかない。

自分ができるまでやる、自分が納得のいくまでやる、そういった姿勢が理科に対する興味や考え方を育てたのだろうと思います。
最近、理科の実験教室があちこちで開かれていますが、どうもあれは「科学の付録」とは違う気がします。それはなぜかと言えば、子どもの中に驚きはあっても、試行錯誤が少ないから。

確かに実験を体験しないよりはよほどいいとは思いますが、そこにはあまり失敗ということがないので、基本的には会得や体得ではなく記憶でしかない。そう考えると『科学』の力はすごかったんだなあと思います。

日本のライフサイエンス誌は、次から次へと休刊に追い込まれているそうです。資源のない日本にとって、「科学技術立国」というのが一つの目指す方向だったはず。完全に黄色信号が灯っている状態のようですね。知識としてではなく、子どもの生活の中に自然な形で科学が根付いていくような方向性が求められているのだと思います。
(文:大関 直隆)

2010/03/01(月)
第396回「メジャーとマイナー」
母から電話がありました。
「おまえ、明日4時ごろ忙しいかい?」
「忙しいって言えば忙しいけど、何?」
「いや、ちょっとそのくらいの時間に、駅のとこから家まで送ってもらおうかと思ってさ」
「別に、それくらいだったら出来るけど…。なんで?」
「明日からね、”彩果の宝石”が特売なんだよ。だから、いっぱい買っとこうと思ったの。あれ、けっこう重いだろっ、だからバスじゃ大変だし、かといってタクシー使っちゃ、特売で買っても何にもならなくなっちゃうから。だから、おまえに送ってもらおうと思ってさ」
親というのは、いったい何を考えているのか…。いくら安くなっているのか知らないけれど、私が1時間仕事を空けて、ガソリン代をかけて母を実家まで送ったら、どれほどの経済的損失になるかっていうことを考えない。あああ、めったに頼むこともない親だから、たまに頼まれたときくらいの親孝行は仕方ないかあ…。
そんな話を妻にすると、
「私がお母さん乗せてくよ。明日は、仕事があまり入ってないから、お昼前でも、午後でも時間取れると思う。何時だって?」
「並んで買うから、はっきりしないけど4時くらいだって」
「ふーん。買って持って行けばいいんだったら、私が並んで買えばいいんでしょ。わざわざお母さんが来ることないんじゃないの?」
「無理だと思うよ。すごい列らしいから…」
「じゃあ、私がお母さんに電話して聞いてみる」
妻が母に尋ねたところ、伊勢丹を一周しちゃうくらい並ぶんだとか。妻は軽い気持ちで、「私が買って届けますよ」なんて言ったはいいけれど、あまりの列の長さに母に電話すると、
「いんだよ、私が並ぶから。そこに並んでる人たちと話したりするのも楽しみなんだからさ」
なんだ、なんだ! いったい何がほんとの目的なんだよ!
結局、実家のそばに新しくできた本店の方に並ぶことになり、妻が送っていきました。並ぶこと1時間あまり。何とか無事に”彩果の宝石”を買うことが出来て、妻が母を実家まで送り届けました。
日本人は行列が好きですね。

バンクーバーオリンピックもいよいよフィナーレ。期待の浅田選手は残念ながら金メダルに手が届きませんでした。オリンピックがある度に思うのですが、日本のマスコミが騒ぐほど、日本人はメダルに近かったのか…。上村愛子選手にしろ、浅田真央選手にしろ、世界でトップクラスの実力があるのはよくわかりますが、マスコミが騒ぐほど金メダルに近かったのか。実際にその上をいった人たちの競技を見てみると、やはり勝てていないなあというのが私の実感です。

今日(28日)、スピードスケートの女子パシュート(団体追い抜き)の日本チームが銀メダルを獲得しました。金メダルのドイツチームとは、わずか0.02秒差。ラスト半周までは日本チームがリードする大接戦で、惜しくも敗れました。前回トリノでも4位と健闘したのですが、今回あまり話題に上っていませんでした。
今日のレースの様子を見ていると、どう考えてもフィギアスケートよりは金メダルに近かった感じがします。あっという間に終わり、派手さのない競技なので、注目されないのもわかりますが、”彩果の宝石”の行列と同じく、誰かが騒ぎ出すと、内容はともかく騒ぎに乗っておけという日本人の行動パターンの表れのように思います。

政府が行った事業仕分けで、マイナースポーツへの補助の是非が問われました。フィギアもリンクがなくて困っているそうですが、マイナースポーツの選手たちの財政的苦労は、フィギアの比ではない。
45歳の越選手で注目されたスケルトンやボブスレーなどもしかり。聞くところによると、ボブスレーは前回のオリンピックで使ったそりをまだ使っているとか。強いチームと比べると、最新型の新車と中古車で競争をしているようなものだそうです。
そんな状態で勝てるわけがない。そうなると、ますますマイナーになってしまう。もちろんスポンサーも付きません。パシュートの田畑選手と穂積選手が所属する富山市の地質調査会社「ダイチ」は、社員わずか40名ほどの中小企業。年間の売り上げが9億円という小さな会社が年間2000万円ほどかかるという2人の給料や遠征費を背負っている。社長の給料を削っているといいます。
果たして事業仕分けで補助金を削減するのがいいのか悪いのか…。私の考えでは、民間が日を当てないマイナーだからこそ政府が日を当てる、そう思うのですが…。

これは教育でも全く同じですね。目立たない子、弱い子、他のこと違う子、そんな子どもたちに目を向けることで初めて質の高いクラス経営、学校経営が出来るのだと思います。社会がマイナーなものを排除しない方向に進んでいってほしいものです。

ゴルフの宮里藍選手が米国女子ツアー開幕2連勝を飾りました。44年ぶりの快挙だそうです。宮里選手の所属はサントリー。ボブスレーやパシュートの選手にも、いいスポンサーが付くといいですね。
「ダイチ」の社長さんの心意気に感謝!
(文:大関 直隆)

2010/02/22(月)
第395回「誰の責任?」
スポーツ好きの私は、今回もバンクーバー冬季五輪を楽しく見ています。ただし、今回は録画だったり、もうすでに結果が出てしまっている競技をトピックスで見る感じ。いつもはLIVEなんですけどねえ…。

今回のLIVE映像は、時差の関係で毎晩午前2時以降。いつも(夏季五輪や全英オープン、全米オープンといったゴルフ中継など)なら、そんな時間はなんのそので、生中継を見るんですけど、今年は少なめと言われる花粉ですが、もうとっくに症状が出ていて、だいぶ前から花粉症の薬を飲み始めているので、薬を飲んだあとは眠くて眠くて、「ああ、もう無理!」っていう感じ。午前0時を過ぎたくらいのところで毎晩ダウン。朝起きるのもどうしても遅めで、起きた途端に会社に出るという感じなので、残念ながら今回はほとんど生中継を見ていません。(くやしぃ〜!)
結果を知ってる録画なんて、緊張感がない。おもしろくないわけじゃないですけど、スポーツは緊張感というか、スリルというか、そういったものがないと、見ててもニュースを見てるって感じですね。
「高橋、4回転! あっ、失敗!」
なんて言ったって、飛ぶ前から転ぶことがわかっているわけですもんね。国母選手にしてもしかり。転んでしまったのは知っているし、口から血を流している映像もあらかじめネットで見てしまっていたので、夜の報道番組で見ても、ドキドキ感がない。スポーツの醍醐味はなんと言っても、そのドキドキ感。それがないわけだから、やっぱりちょっとね…。

カーリングの初戦。アメリカとの試合も最後の最後まで勝者がわからない展開。でも、日本勝利を知っていたので、「よくやったよねえ」みたいな見方になっちゃう。
「あああ〜」
でも昨日(20日)のイギリス戦は、LIVEで見ました。純正ナビの付いてる車で走りながらだったので、走ってる最中は映像が映らないんですよ。音声だけ聴いてたら、カーリングって何がどうなってるのか全然わからないんですよね。ストーンが氷上を滑ってる間は、アナウンサーも解説者もほとんど何も言わない。映像を見てると何とも思わないのに、映像がないと「なんだよ、実況は!」って思っちゃう。でも無理ですよね。
「真っ直ぐ進んでいます。真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ。あっ、曲がりました!」
「あと10メートル、5メートル、3メートル、1メートル、あっ、当たりました!」
これじゃ、なんだかわけわかんない。カーリングは映像がないと…。
で、イギリスとの攻防は、結局最後は車を止めて、見ちゃいました。第9エンドの目黒選手の試合を決めた1投。あれは圧巻でした。そこまでは大接戦。その1投も第9エンドとはいえ、成功するか、失敗するかで勝敗を大きく左右することは確実。まさかその1投でイギリスがギブアップするとまでは思いませんでしたが、
「行け、行けぇ! 当たれ、当たれぇ! 出ろっ、出ろっ、出ろーっ!」
いやーっ、大興奮! おかしかったのは解説の人(お名前は存じ上げませんが、日本カーリング協会(そんなのある?)の方だと思いますが、「自分のチームだけではなく、相手のチームのナイスショットにも拍手を送るところがカーリングのいいところ。私も日本だけではなく、相手のチームにも拍手を送って、偏らない解説を…」というような話をしていたのに、舌の根の乾かぬうちに、
「よし、よし、いいぞ、いいぞ、よーしっ!やったぁー!目黒、ナイスショット!」
みたいな解説になっちゃって(こりゃあ解説じゃありません。どう考えてもただの応援です)、思わず笑っちゃいました。
そう言えば、モーグルの里谷多英選手が金メダルを取ったときの解説も「多英スゲェ、スゲェ、スゲェ多英!」っていう解説で話題になったことがありました。

さて、そんな大興奮のオリンピックにも、ケチが付いちゃいましたね。国母選手の服装はさておき(服装も最初の会見もあの方がいいとは思わないけれど、私はどちらかというとあれが彼の正装なんじゃん#h)、女子リュージュとスケルトンの失格問題。4年に1度の大事なオリンピックでなぜあんなことが起こるのか。選手にも責任がないとは言わないけれど、オリンピックに人生を賭けているのも選手。極度の緊張状態にあるであろう選手を責められません。
周囲はいったい何をしていたのか…。国母選手に対する非難への対応に時間を割くより、もっと選手に対して時間を割いた方がいいのでは…。「おもりがほんのちょっと重かった」「貼るべきステッカーを貼っていなかった」なんていうつまらない理由で失格とは…。

これは、子育てや教育でもよくあること。親の責任で子どもに不利益がかかる。そんなときに誰に責任を負わせるのか…。親だけでなく学校が加わると、ますます子どもに責任を取らせようとします。スポーツは公平なルールの上に成り立っているので、その責めが選手に及ぶのもやむを得ませんが、子育てや教育は、人との比較だけで行われているわけではない。あえて子どもにかぶせる必要はないはず。

今回の失格を教訓に、誰が誰のために何をすべきか、社会全体で考えてみたらいいのではないかと思います。
(文:大関 直隆)

2010/02/15(月)
第394回「性同一性障害」
「今、歌ってる歌手なんていうの?」
「はるな愛」
「ふーん。わりと美人じゃん」
「うん、まあね。でもあれ、歌ってないよ。振りだけあややのまねしてんの。それに、あいつ男だよ」
「はっ? 男?」
初めて「はるな愛」を見たとき、翔(かける)とこんな会話になりました。私はてっきり女性だと思って見ていました。何ていう番組だったかまでは覚えていませんけど、そんなに真剣に見ていたわけではく、テレビの中の会話まではきちんと耳に入っていませんでした。何人かのタレントと一緒に椅子に座って並んでいる「はるな愛」が、そのうち「エアあやや」を始めたのをぼんやり眺めていて、こんな会話になりました。

「へえ、男かあ…。そう言われてみれば、あの肩の肉の付き方とか輪郭とか、男に見えなくもない」
「うん」
「だけど、言われなかったらわかんないなあ…」
最近、見かけることが少なくなりましたが、以前「カルーセル麻紀」というタレントが、ニューハーフであることをネタに、よくテレビに出ていました。本名は平原徹男という男性で、1973年にモロッコで性転換手術をしたことは、当時大きな話題になりました。当時はまだ法律上男性が女性になることが認められていなかったので、性転換手術により外見上は完全に女性になったにもかかわらず、戸籍上は男性のままでした。
2004年、性同一性障害者特例法の施行により性別変更が認められたため、本名を平原麻紀へ改名して、現在は戸籍上も女性となり、続柄が二女になったそうです。

カルーセル麻紀は、性転換手術をする前からかなりの美形。以前、外国人男性に10人の日本人女性(カルーセル麻紀と美人女優9名)の中から最も美人と思う女性を選ばせるという番組を見たことがあります。9名が誰だったか全部は思い出せませんが、確か山本富士子、浅丘ルリ子、若尾文子、山本陽子、松岡きっこなどがいました(若い人にはわからないかも)。まあ好みはあるにしても、誰をとっても超美人。そんな10名の中でも、カルーセル麻紀が外国人が選ぶ美人の上位になっていたのが印象的でした。カルーセル麻紀を選んだ外国人男性が「これは男性ですよ」と言われたときのリアクションがとてもおもしろかったと記憶しています。

土曜日の朝日新聞に、「性同一性障害相談 低年齢児童から増」という記事が掲載されていました。埼玉県内の公立小学校で、性同一性障害と診断された小学2年生の男児が女児として受け入れられたという記事ですが、なかなか難しい問題を含んでいると感じました。

先進諸国の例を見ると「性同一性障害」という概念の言葉は存在しないようで、ヨーロッパ諸国のガイドラインによると「性別移行」は精神疾患とはみなされないそうです。性同一性障害についての私の立場も、ほぼそういった立場ですが、問題は「低年齢児童から増」ということ。

性同一性障害の意味は「およそ“(肉体とは)反対の性別に対する持続的な同一感とその外性器とそれに由来する肉体の性に対する持続的な不快感と肉体の性により課される役割に対する不適切感”といった意味」(ウィキペディア)だそうですが、低年齢の子どもにそれを当てはめようとした場合、子どもの意志に反する「親の期待」というものを徹底的に排除できるかという点で、どうしても疑問が残ります。

「男の子がほしかった親の期待によって女の子が自分の性を否定しないか」、「女の子がほしかった親の期待によって男の子が自分の性を否定しないか」。両親が、「男の子がほしかったんだぁ」「女の子がほしかったんだぁ」と自分の性と反対の性の子どもを望んでいたと感じたことのある人も少なくないのではないかと思います。両親がそう思っていると考えた子どもの取る行動と言えば、両親の期待に添うことです。

精神疾患の診断は大変難しいものです。性同一性障害の人たちを差別しないのは当然のこととして、しかし両親の期待によって作られた新たなジェンダーが増え、また子どもが大人の犠牲者にならないことを強く願うだけです。

(文:大関 直隆)

2010/02/08(月)
第393回「鬼は外! 福は内!」
「鬼は外! 福は内!」
2月3日は節分。私の子どものころは、節分にはあちこちの家々から「鬼はー外! 福はー内!」の声が聞こえたものですが、うちがマンションのせいでしょうか、最近ほとんど聞かなくなりました。
とはいえ、行事好きな我が家。うちは必ずやりますよ!
「蓮と沙羅が待ってるから、豆を買って早く帰らないと…」
「うん、そうだね」
近くのスーパーに寄って、
「豆、豆、豆、豆。豆はどこだー?!」
と豆を探しますが、豆が見あたらない。
「だいたい、入り口の近くにあるもんだよなあ…」
と入り口の近くを探していると、赤い鬼のお面が目につきました。
「あったー!」
と近づいてみると、ヒイラギはあるものの、煎った大豆がない。よく見ると、殻つきの落花生や殻をむいたピーナツの袋に鬼のお面が付けてあるものが3、4袋ありました。
「えーっ、大豆はぁ?」
近くをいくら探しても煎った大豆がない。別な棚に鬼のお面を見つけて、お面の下を覗いてみると、ピーナツに黒砂糖がまぶしてあるお菓子の袋が付いています。
「売り切れ? ダメだよぉ、こんなんじゃあ! 豆撒けないじゃん!」
慌ててそこのスパーを飛び出すと、近くの別なスーパーへ。ところがそこのスーパーにも落花生はあるのに大豆がない。
「えーっ!? あのー、豆まきの豆ないんですか? 大豆の福豆がほしいんですけど…」
「すみません。売り切れなんです」
「えっ、やっぱり…。しょうがないなあ、もう近くにスーパーはないし、こんなことしてたら、遅くなっちゃうから、落花生で我慢するしかないかぁ…」
結局そこのスーパーでは、鬼のお面の付いた落花生の袋を買いました。車に乗ると妻が、
「ねえねえ、コンビニにあるんじゃないの?」
「あっ、そうだ! コンビニにあるかも!」
今度はコンビニ巡り。家に着くまでの帰り道、2軒のコンビニがあります。とにかく行ってみることに。1軒目のコンビニに寄ると、「すみません、売り切れです」。そして2軒目のコンビニに寄ると、
「あったー!」
残りはたった1つ。最後の1つをゲットしました。
「これから豆撒きするのに、どこ行ってももう売り切れでなかったんですよ」
と店員さんと話をしていると、それを見ていた”アラフィフ”(50歳前後の。50歳前後って何か言い方ありますか?)のおばさんが、
「よかったねえ、ほらほら鬼のお面もおまけに付いてるよ。これ持ってけば!」
と、豆はないのになぜか大量に残っていた鬼のお面を何枚も私に渡してくれました。なんだかとても心が温かくなる瞬間でした。

節分といえば、2月3日と思っている人が多いと思いますが、節分ていうのは年に4回あるんですよね。節分とは季節を分けるという意味ですから、立春、立夏、立秋、立冬の前日がすべて節分。2月3日の節分の行事は、宮中での年中行事であった延喜式がもととか。今のように豆を撒くようになったのは室町時代以降だそうです。北海道・東北・北陸・南九州では落花生を撒くとも…(これってほんと?)

2月1日の新聞に、白岡町にある興善寺の豆撒きの話題が載っていました。この地域は、鎌倉時代に一帯を治めていた領主が「鬼窪氏」であったため、鬼を追い出すわけにはいかず、「鬼は外」ではなく「鬼はご随意に」と言って豆を撒くんだそうです。「ただし、「鬼にどうぞご勝手に、と子どもに教えるのはどうか」との指摘があったといい、子どもたちは「鬼は外」と言って豆をまいた」(朝日新聞)とありましたが、どうですかねえ。文化ですから、子どもも大人もない気がしますが…。
「鬼はご随意に」とってもおもしろいですよね。各地にある鬼を祭神または神の使いとしている神社などでは、「鬼は内」のところも多く存在するようです。(鬼鎮神社(埼玉県嵐山町)「福は内、鬼は内、悪魔は外」、大原神社(京都府福知山市三和町)「鬼は内、福は外」(Wikipedia))

我が家の豆撒きも無事終了!
孫たちも大喜びで鬼のお面をかぶり、交代で鬼になりました。落花生はこれからゆっくり食べることにしましょう。

そういえば、去年も何軒かスーパーを回ったような気がします。まったく懲りない私です。来年は、早めに豆をゲットすることにしましょう。
(文:大関 直隆)

2010/02/01(月)
第392回「後を絶たない虐待死」
また、虐待により子どもの命が奪われました。
1月23日午後8時ごろ、江戸川区に住む電気工で継父の岡本健二容疑者(31歳)と実母の千草容疑者(22歳)は、小学校1年の海渡君を、「ごはんを食べるのが遅い!」という理由から1時間にわたって暴行を加え、死亡させたとされています。
健二容疑者と千草容疑者は、海渡君を正座させたまま、顔を10回くらい平手打ちし、健二容疑者がさらに足を4、5回、蹴りつけたということです。
「子どもがぐったりしている」
と千草容疑者が119番通報をし、病院に搬送されましたが、翌24日午前7時ごろ、亡くなりました。
搬送した救急隊員が、打撲の痕などを不審に思い、110番通報したそうです。駆けつけた警察官が、病院にいた健二容疑者と千草容疑者から事情を聴いたところ、2人が暴行の事実を認めたため、逮捕されました。
2人は、
「普段から食べるのが遅く、きちんと食べるようにしつけていた。今回もしつけの一環でやった」
「日ごろからウソをついたり、素直に謝らなかったりしたときはビンタしていた」
と言い、健二容疑者は「男の子だから、厳しくしつけていた」とも説明しているそうです。

捜査関係者の話では、遺体の腕や肩、胸、足といったいたるところにあざがあり、背中には多数のやけどの痕も残っていて、比較的古い感じの傷もあることから、長い間、虐待が繰り返されていた疑いがあるとのことです。
子どもの虐待でいつも言われる「しつけ」。ここでもまた、「しつけ」を理由に、幼い子どもが虐待を受けていたことになります。

この事件は、この親子の問題にとどまりませんでした。
昨年の9月4日、海渡君が歯科医院にかかったとき、あざに気づいた歯科医が海渡君に問いただすと、海渡君が、
「パパにぶたれた。ママは見ているだけで、何も言わない」
「何も悪いことをしていないのに、ぶたれた」
と話したため、それから10日後の14日、歯科医は、虐待情報を受け付ける区の「子ども家庭支援センター」に通報し、センターから連絡を受けた小学校の校長や担任が、17日に家庭訪問を行っているのです。
その時の海渡君の顔は、パンパンに腫れ上がっていたとのことで、健二容疑者は、
「うそをついたので、しつけの意識で殴った。二度と殴らない。男の約束だ」
と話したそうです。

この時点で学校が、強制的対応の権限を持っている児童相談所に、具体的な対応を求める「通告」を行っていれば、海渡君が亡くなることはなかったかもしれません。けれども学校は、「通告」をせず、情報提供したのみで、「見守る」ということにしてしまいました。
こういう事件が起こると必ず問題になるのが、学校や児童相談所(児相)、行政の対応です。どの時点でどういった対応をするかは、親の養育権との問題で、非常に難しい判断を強いられます。ここ数年の虐待事件を見ていると、常に後手後手。もちろん、正しい判断により救えた事例は事件として報道されないので、なおさらそう感じるのでしょうが、報道を通して知る学校や児相、行政の具体的対応には、驚かされることもしばしばです。

かといって、そうした報道に現れる内容を個々の事例ごとに学校の責任、児相の責任、行政の責任として論じるのは、私はあまり正しい議論とは思いません。
江戸川区の児童課長は、
「これで解決というつもりではなかったが、『二度とやらない』という確認をとっており、保護者との信頼関係があり、見守り続けたいということで…」
と説明しているそうです。結果としてこれは間違いでした。こういった対応に対し、
「学校や区の対応が理解できない。『しつけのためにやった』という言葉は一番危険度が高いし、母親が虐待を止めようともしない時点で危ない状況だ」

といった厳しい批判もあるようです。もちろん私も同感ではあるのですが、これまで何度も述べてきているように、「教育は性善説に立って行われるべき」と考えているので、まず虐待ありきという対応になってしまうことも、学校の権限の強大化につながり、公教育の崩壊につながる思います。

現在、児相の職員は行政職です。これまでの様々な関わりから言わせてもらうと、とても教育がわかっているとは思えない。学校はと言うと、あまりにも司法に弱い。そこのバランスをどう取るか…。それが今後の子どもの虐待死を防ぐ鍵になっているように思います。
虐待を察知して子どもを守るしっかりとしたシステム作りを急ぐとともに、子どもはどう育てるべきかということを、これから子どもを育てる若い世代にしっかりと伝えていく責任を私たちが負っているのだろうと思います。
(文:大関 直隆)

2010/01/25(月)
第391回「ecoブーム」
1月も残すところあと1週間。
今日(24日)は、年賀はがきの当選番号の発表もあり、正月気分もそろそろ終わりというところでしょうか。

地球温暖化が大きく取り上げられるようになり、世の中はecoブーム。ところが、お決まりのようになっていた「猛暑に暖冬」に、やや変化が…。
昨年、今年の寒波や大雪で、微妙に冬の様子は変わってきているように感じます。今年は、寒い冬で暖房器具の売り切れが続出しているとか…。そう言えば、12月の笠間での窯焚きも半端じゃない寒さで、ちょうどその間片山右京氏の事故が起こったりしました。

ここのところさいたま市の最低気温が氷点下なんていう日がよくあります。つい先日も、天気予報で「最低気温 氷点下3.9℃(?)」なんていう数字を見て、びっくりしました。我が家から仕事場に向かう道端の水たまりの水が、ががちがちに凍っているのを見たのは、もう何年ぶりくらいでしょうか。この寒さが続くと、「温暖化」という意識が薄れちゃうかもしれませんね。

ecoポイントやecoカー減税ですっかり日本に定着した貫のあるeco。自民党政権のころから景気対策にecoを利用したことこともあって、とにかく日本中がeco、eco、ecoで大騒ぎ。けれども今年の様子が続くようだと「eco」という言葉が、温暖化とは切り離されて、単に企業戦略の一部に成り下がってしまうかもしれません。いつも、日本人は飽きっぽいですからね。

ecoの代表格と言えば、家電製品と車。我が家でもテレビの具合がいまいち。映らないというわけではないんですが、ケーブルテレビをつないでいる接続端子部の接触が悪いらしく、テレビの前を誰か通っただけで音が聞こえなくなったり、画面が真っ黒になったり…。今ではとうとう端子のところにティッシュペーパーを挟み、不安定さを解消している始末。
電気店に自分で持って行くのも大変だし、その間テレビがなくなってしまうことにもなるので、出張で修理してもらうしかないのでしょうけれど、修理代金の他に出張費も取られては、新たにテレビを買った方が安上がりなんじゃないか。そんなわけで、現在テレビの購入を検討中。
私の感覚では、テレビなんて見えればいいっていう程度の感覚なので、それほど大きなテレビは必要ないのですが、やはりリビングに置くので、最低32インチかなあと考えているところです。ところがこのecoに問題有り。確かに新型のテレビの方がecoに優れてはいるのでしょうが、今のテレビは20インチくらいしかないので、テレビが大きくなることで、排出する二酸化炭素の量は宣伝のイメージほどは減らないとか。テレビを買い換える時って、ほとんどの人が大きくするか、台数を増やすかするでしょうから、結局あまりecoには貢献していないんですよね。

先日、「国連「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は20日、07年に公表した4次報告書の記述のうち、ヒマラヤの氷河が35年ごろまでに消失するという予測が誤りだったと発表した。」(毎日新聞)というニュースが流れました。
「2035年」は「2350年」の誤りだったというのです。このことで、地球温暖化に懐疑的な人たちを勢いづかせるのではないかという見方が広がっています。私は、それほど科学には詳しくないので、二酸化炭素の排出量がどれほど地球温暖化を招いているのかはよくわかりません。

ですが、世界各地でこれまでにない異常気象が発生しているということは、強く感じます。せっかく始まったecoブーム。氷河消失のスピードの正確さも大切でしょうが、次世代、次々世代の子どもたちに、今のままの地球をどう残すかという世代間の平等を実現するよう努力していくことが、今を生きる私たち大人の責任なのだろうと思います。

テレビを買うと決めたときには、もう一回り小さいテレビにすることも考えてみようかな...
(文:大関 直隆)