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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2009/11/02(月)
第380回「新型インフルエンザ猛威をふるう」
「飲み物持ってるよねえ?」
舞台がセットの入れ替えで真っ暗になったほんのわずかな隙に、隣に座っている妻に声をかけました。妻は、バッグの中からペットボトルのお茶を私に差し出します。

「飲食禁止だけど、そんなこと言ってられないよね。咳が出る度に気になっちゃうよ。いくらハンカチあてがっても、誰だって”新型かも?”って不安になるでしょ。周りの人だって逃げたい気分になっちゃうよね。もし、自分じゃなくて、隣の席に座っている人が咳してたとしたら、やっぱり気になるもんね」

花粉症の発症以来、アレルギー症状がひどくなり、人混みに入るとよく咳き込んでしまう私。まったく新型ではありませんが、舞台の上を所狭しと駆け回るような展開の劇では、ホールという閉ざされた空間の中に、様々なほこりが舞うので、しばしば咳き込んでしまいます。
前回見に行ったときは、定員が200名にも満たないほどの小さな劇場だったこともあり、劇場に入る前にあらかじめキャンディを買って、キャンディをしゃぶりながらの観劇。今回もそうすればよかったものを、劇場が大きいということもあってか油断してしまい、途中で咳き込むことに。

咳というのは、こらえようとすればするほど、ひどく咳き込んでしまうもの。「もう我慢ができない」という限界まで我慢せず、むしろ咳が出そうだと感じたら、軽くいなす感じで咳をしてしまえば、案外1度の咳ですんでしまうこともあります。
一応ポケットからハンカチを出して口に当て、軽く咳をしてみましたが、その程度では収まりません。徐々に力を入れて、2回、3回と咳をしてみますが、やはりダメ。とうとうハンカチを強く口に当て力一杯咳をしてみました。それでもまだ落ち着きません。
これ以上咳き込むようだと席を立って一旦ホールの外へ出るしかないかと考えましたが、開演中に座っている人をかき分けるように通路に出るのもちょっと。結局、妻がペットボトルを持っていることを思い出し、「飲食禁止」はわかっていたんですが、小さく身をかがめ、ハンカチでペットボトルを覆って、ちょっと失礼してしまいました。

咳が収まるまでそのまま咳き込んでいるか、座っている人をかき分けて外に出るか、飲食禁止を破って飲み物を飲むか、3つに1つ。まあ、飲み物を飲むといってもほんのちょっと口をしめらす程度なので、飲食という定義に入るかどうか…。それで一応収まったので、勘弁してくださいということでしょうか。

昨日(10月31日)は、孫の通う小学校の音楽会。新型インフルエンザが子どもたちの間に蔓延している川口市ではあるけれど、よく「陸の孤島」という言われ方をするような川口市の外れの外れ。
まだまだ学校の中に本格的には広がっておらず、一時5年生(?)のクラスが学級閉鎖になったとか、学年閉鎖になったとかいう話を娘から聞きましたが、とりあえず今は、学級閉鎖も学年閉鎖もないとのこと。とは言え、小さな体育館に、子どもたち全員と保護者がほぼ全員来ると相当な混雑になります。しかも、6年生の間では、つい先日実施した修学旅行以来、ちらほら新型らしき症状を訴える子がいるとか。
学校も様々なケースを想定して手紙を配布しました。携帯電話へのメール配信もあるので、最終的には31日の朝の登校の状況を見て判断し、携帯電話にどのような形で開催するのかを連絡するということに。結局6年生以外には広がりがなかったので、全体としては予定通りの開催(ただし保護
者は全員マスク着用で、会場に入場の際は手の消毒を行う)で、6年生のみ音楽室に待機し、先生が撮影しているビデオカメラを通した映像を音楽室のモニターに映して観賞。歌を歌うときだけ体育館の舞台に上がって歌うという方法で行いました。
まあ、苦肉の策ということですが、果たして伝染にどれほどの効果があったのか…。知り合いのお子さんが通う小学校で、一学年が学年閉鎖になったそうです。ところが、他の学年は平常通りの授業を行っていたので、学年閉鎖になった子の兄弟姉妹から、他学年に広がり、一気に全校に感染が拡大してしまったそうです。誰が考えたって当たり前だろっという感じです。
まだ、どの程度の症状になるのかがわからなかったとは言え、日本に初めて入ってきたときは、飛行機で近くに乗り合わせた人まで隔離される物々しさだったのに比べると、重症化する例は少ないとは言え、感染を防ぐといいながら、各小学校の取っている方法は、ずさんな対応と言わざるを得ません。
間もなく、ワクチン摂取が学齢期の子どもたちまで広がります。小学校低学年に重症例が目立っているとのこと。ワクチンにどれくらいの効果があるのかはわかりませんが、せめて子どもたちのワクチン摂取がすむまでは、もう少し慎重な対応が必要なのだろうと思います。
ほとんどの子は重症化しないとしても、たった一人でも命を落とす子がいるとしたら、ずさんな対応の責任を誰が取るのでしょう。亡くなったお子さんの命は戻りません。公教育の責任ということを考えたとき、「慎重すぎるくらいが適当」、そんな気がしてなりません。もう一人も死者が出ないことを祈るだけです。
(文:大関 直隆)

2009/10/26(月)
第379回「これをしたらお友達?!」
「今ねえ、あそこの酒屋さんのところ車で通ったら、すごい勢いで道路の端を走ってくる背の高い男の子とすごくちっちゃな女の子がいるから徐行したら、沙羅だったよ。まだ赤ん坊のように思ってたけど、ああやって男の子と走り回るようになったんだなあ。同じ組の子だろうけど、完全に頭一つ背が違ったけどな」

「あれっ、なんでそんなとこにいるの?! 公園で遊んでるように言ったんだよ」

「じゃあ、言いつけ守ってるつもりなんだろっ? 公園の中じゃないけど、すぐそばだから。ばあさんのとこ、行ったのか? 徐行してたら、沙羅が急に止まって”窓開けろ、窓開けろ”って手で合図するから慌てて停車して窓開けたら、”曾ばあちゃんがね、連絡してって言ってたよ”て必死の形相で伝えようとしてたぞ。”さっき曾ばあちゃんから電話かかってきたよ”って言ったら、安心した顔でニッコリ笑って、また男の子の後を追いかけて行っちゃったけどな」

「ふーん、そんなこと言ったんだぁ。さっき、ばあさんのところに行ったら、”直隆に用があるから連絡させろ”って言われた。それ聞いてたんだね」

「まだ小さいけど、何か役に立ちたいと思ってるんだろっ、きっと」

「男の子って誰だろう? さっき公園に行ったときは、同じ組の男の子は誰もいなかったけど…」

「名札付けてたけど、走ってたからわからなかった。一緒に楽しそうに走ってたから、誰でもいいだろっ。何であんなに全速力で走ってるかはわからないけど、そういう友達ができたってことだよ」

webサイトを覗いていたら、「gooランキング」に「これをしたら友達なこと」ランキングが掲載されていました。
10位 恋人を紹介した
 9位 恋愛の相談をした
 8位 家族を紹介した
 7位 一緒に買い物に行った
 6位 二人で買い物に行った
 5位 一緒に旅行に行った
 4位 二人で飲みに行った
 3位 家に遊びに行った
 2位 二人でご飯を食べた
 1位 家に泊まりに行った

このランキングについて、サイトにコメントを寄せている人たちは、かなり批判的。「友達なんてこんなことで定義できるの?」という趣旨のコメントが多いように思います。これは、もちろん大人(一部子どもも入っているかもしれませんがおおむね若い男女と思われます)に対するアンケートのランキング。
子どもにとって、友達って何だろうって考えたとき、「相手の目を見てニッコリ笑えたら友達」っていうのはどうでしょうか。

三男の翔が、妻と次女の麻耶の3人でヨーロッパにいる努のところを訪れたとき(私は気圧が下がるとひどいめまいに襲われてしまうので飛行機に乗れません。そのため、うちで留守番でしたが)のこと。
当時努が住んでいたインスブルックからスイスに住む努の友達のヨハンナの家を妻、努、麻耶、翔の4人で訪ねました。ヨハンナには、ヨーウェルという弟がいましたが、まだ8歳。翔も同じく8歳です。お互い、相手の言葉がわかるはずもなく、会話は成り立ちません。ところが会った途端、そこら中を駆け回り、楽しそうに遊び出したそうです。妻が翔に、
「かっくんは初めて会う子でも5分で友達になれるんだね」と言うと、翔から返ってきたのは、
「違うよ、5秒で友達になれるんだよ」という答えだったそうです。
子どもは、人を疑わない純粋な心を持っています。「会ったら5秒で友達」そんな風に子どもたちが思えるような世の中だったらいいですね。

「家に泊まりに行ったら友達」と考えている若者も「プライベートを見せる」「心が許せる」そんなことが基準になって、「友達」を判断をしているようです。男の子と走り回っている沙羅も、しっかりと「友達」を感じているんだろうと思います。「心と心が開き合える」、そんな友達がいくつになっても持てるといいですね。
(文:大関 直隆)

2009/10/19(月)
第378回「子どもを守る」
ちょっと前のことになりますが、平成18年8月に警察庁が「治安再生に向けた7つの重点」という施策をまとめました。
身近に起こりうる刑法事件から、暴力団、テロ、交通安全といった警察庁が扱う様々な分野を網羅したものになっていますが、その中で最初に扱われているのが、子どもを犯罪被害から守り、少年の非行を防止するという施策です。
目次は、

はじめに
1 安全・安心なまちづくり
(1) 子どもを犯罪被害から守り、少年の非行を防止するための対策
ア子どもを犯罪被害から守るための取組み
○登下校時の安全確保対策の推進
○学校内等における安全確保対策の推進
○子どもを犯罪に巻き込むおそれのあるインターネット環境対策の充実強化
イ少年の非行を防止するための取組み
○少年の立ち直り支援の充実強化
○学校における少年の問題行動等への対応の強化
(2) 防犯ボランティア活動の活性化方策
○防犯ボランティア団体のネットワーク化等の促進
○安全・安心なまちづくりの国民的な機運の醸成

以下(重要犯罪等に対する捜査の強化・組織犯罪対策・来日外国人犯罪対策・テロ対策・諜報事案対策・サイバー空間の安全確保・交通安全対策の順)省略

という具合になっており、他の犯罪の質から考えても、子どもを守ろうという警察庁の強い意志のようなものを感じます。

昨日(17日)、TBSの番組で、子どもを守るための防犯対策の特集を見ました。
地域のボランティアによる監視やパトロールといったものから、近隣で発生した子どもに関わる事件を直ちに親の携帯電話に知らせるシステム、ランドセルに付けた小型発信器により定点に設置したセンサーが感知して、子どもの定点通過を監視し、携帯電話に知らせるシステムなど、様々なものが紹介されていました。
塾に通うお子さんをお持ちのご家庭では、携帯電話に搭載されたGPS機能により、お子さんの居場所を監視するといったことを行っている方も少なくないと思いいます。子どもの連れ去り事件や殺人事件が起こると、親として何とか自分自身で子どもを守ろうと考えるので当然のことです。
私の子どもは全員成人しましたので、まさか居場所を監視するということはしませんが、孫のことを考えるとそろそろ行動範囲も広がりつつあり、”携帯電話を持たせるのが当然”とまで考えてしまいます。

とは言え、昨日の特集にはやや抵抗感がありました。家を出ると定点を通過するたびに携帯電話に報告のメールが来て、校門を入る時は、動画で子どもが校門に入ったことまで確認できる。帰りは帰りで、同じように校門を出たこと、定点を通過したことがメールで送られてくる。
”取材を受けているから”ということもあるのでしょうが、家を出て学校に着くまで親は子どもの登校に常に気を配り、帰りは校門を出てから家に着くまで登校時にまして気を配り…。そのこと自体は、当たり前と思うのですが、監視されている子ども、監視している親という構図にかなりの抵抗感がありました。
私はそういう監視をしたことがないので、何とも言えませんが、ある定点を通過して、次の定点を通過するまでのおおよその時間はわかるわけですから、それが大幅に遅れれば(実際、テレビの取材中も道草をしてしまったので定点間の通過時間が倍くらいに伸びてしまっていました)、心配になります。その親が子どもを心配する心と親が心配をするからと考える子どもの心が大きな問題だと感じたのです。
うちに教育相談に訪れるお子さんはほとんどの場合、心配し過ぎる親、心配され過ぎる子どもという問題を抱えています。何が過剰で、何が過剰でないかというのは難しい問題ですが、一度子どもの行動を監視し始めた親が、果たして子どもがいくつになったらやめられるのか…。
子どもにとっても、多少道草をして、悪戯をする、そんなことが子どもの創造性や協調性を養うことになると思います。そういうことがなくなってしまって、いつも決まった行動しかできないとしたら、子どもとして獲得しなければならない、何か重要なものが欠落して大人になってしまう気がします。

命だけを守れば子どもを守ったことになるのか…。命も守りつつ、子どもとしての生活も守る。そのためにはどうすればいいのか、丁寧に考える必要があるのだろうと思いいます。
(文:大関 直隆)

2009/10/13(火)
第377回「子どもの冒険心」
1984年2月12日、冒険家、植村直己さんは世界初のマッキンリー冬期単独登頂に成功します。ところが翌13日、飛行機との交信を最後に消息を絶ちました。
最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認の可能性が高いとは言われていますが、3日後の16日、小型飛行機が植村さんと思われる人物が手を振っているのを確認し、その後悪天候により見失ってしまったという情報もあります。出身の明治大学山岳部により2度の捜索が行なわれましたが、発見されることはなく、捜索は打ち切られ、現在に至るまで遺体は発見されていません。

植村さんと言えば、日本人初のエベレスト登頂、世界初の五大陸最高峰登頂などの登山はもちろん、アマゾン河6,000キロにわたる単独筏下り、北極圏12,000キロ犬ぞり単独行、世界初の犬ぞり単独行による北極点到達など、輝かしい経歴が並びます。
1941年2月12日生まれ(43歳の誕生日にマッキンリー登頂に成功したわけです)で、現在生きていれば68歳ですが、43歳での死は大変惜しまれ、様々な映画やテレビ番組が制作されました。犬ぞりと一緒に北極圏に立つ植村さんの映像は、皆さんの目にも焼き付いているのではないかと思います。
植村さんほどではないにしろ、人間にはみな冒険心があります。特に子どもの冒険心には驚かされることがよくあります。

10月7日の水曜日、非常に強い台風18号が日本に接近していました。上陸することはほぼ確実。台風の進路は紀伊半島近辺に上陸し、その後北東に進路を取り、関東地方にも接近するということは必至でした。8日は交通機関も運休が相次ぐことが予想され、早い段階で翔の通う大学は臨時休講。
麻耶の通う大学も午前7時の段階で最寄り駅に着くJRの路線が運休になっていれば休講ということになっています。蓮と沙羅の小学校はというと、「保護者の方が、登校時に風雨が強く、「通行不能」や「危険」と判断された場合は、安全が確保されるまで、児童の登校を見合わせてください。(保護者の方がいかなる判断をされても、遅刻・欠席の扱いはいたしません。)」というお知らせが来ました。

「何これっ? 行かせた方がいいんだか、行かせない方がいいんだかよくわかんない! どっちなんだかはっきりしろよって感じ」
「教員が来られるかどうかもはっきりしないわけだから、仕方がないって言えば仕方がないけど…。事故があったら親の責任、”学校は来させろとは言ってませんからね”ということだろっ。たいした事故でもないのに”学校が悪い”って騒ぐ親もいるし、働いてる親にしてみたら、台風が通過するまでの何時間かのために学校が臨時休校っていうのも困るんだろうから、安易に休校にはできないんだろうし、まあぎりぎりの言い方っていうところじゃないの?!」
学校の苦肉の策とでもいうところでしょうか。とても学区の狭い学校なので、もうちょっとはっきりした言い方でも良かったようにも感じますが…。
「蓮くん、沙羅ちゃん、明日はね、台風が来て風が強かったら弱くなるまで待って学校へ行ってもいいんだって」
「蓮くんね、何があっても朝ちゃんと学校行くよ! 絶対学校、行くもん!」
「沙羅ちゃんも!」
おやおや、どうやら蓮も沙羅も普段より張り切っているようです。
翌日夜が明けると、普段より1時間も早く蓮も沙羅も起きてきて、「台風来た?」「雨は?」「天気予報は?」と大騒ぎ。
「まっすぐこっちには来なかったけど、すごい風だよ」
カーテンを開けて庭をのぞいた蓮は、弓なりにしなる桜や白樺の枝を見て、
「あんまり風吹いてないよ。玄関の方も見てくるぅ!」
今度は、玄関から外へ出て、
「やっぱり玄関の方も全然風吹いてなかったぁ!」
おいおい、とんでもないだろっ!大人だって吹き飛ばされそうな風だって!
いつも、もたもた支度をしている蓮も沙羅も、今日はとばかりどんどんカッパを着て、長靴を履いて、「行ってきまーす!」と飛び出していきした。さすがに心配なので、娘の麻耶は、学校の門まで見渡せる我が家のマンションの入り口まで行って、学校へ向かう蓮と沙羅を見送っていましたが、戻って来るなり、
「学校まで一気に走って行っちゃったよ」
とややあきれ顔。

台風であったり、大雪であったりすると、子どもたちは大興奮。子どもの冒険心がうずくんでしょう。こんな子どもの冒険心を大事にしてやりたいですね。こういう気持ちが、未知のものに対する興味になったり、新しいことをはじめる勇気や決断力になっているんだろうと思います。
今回の台風騒動は、私の心から消えかけていたそんな冒険心を蓮と沙羅が思い出させてくれたように感じます。常に冒険心を持って人生が送れたら、人生が10倍も100倍も楽しくなるような気がします!もっともっと冒険心を持って、人生を楽しまなくっちゃ、ですね。
もちろん植村さんほどの冒険心があるわけではないので、まあほどほどにということでしょうけれど…。
(文:大関 直隆)

2009/10/05(月)
第376回「スーパーマーケットの持つ社会的責任」
「おい麻耶、これなんだよ? お酒? ”酒”って書いてあるじゃん」
「うん、お酒」
「誰が飲むんだよ?」
「間違えちゃったんだよ、カルピスみたいに割って飲む子どもの飲み物って思ったんだもん」
「牛乳で割るのか?」
「そう。イチゴミルクになると思ったの。蓮と沙羅がイチゴミルク好きだから。割って飲めるんだったら、いいかなって…」
「このボトル見ると、そんな感じだけど…。おまえ飲んでみた?」
「飲んでないよ。うちに帰ってきて、冷蔵庫に入れようとして、”あれっ?お酒じゃん!”ってなっちゃった。それで、フタ開けて匂いかいでみたらぷーんってすごいアルコールの匂いがしたから、間違って蓮たちが飲まないように野菜入れの奥の方に入れといたんだよ」
「今日はもう車の運転しないから、どんな味がするんだか、ちょっと飲んでみようかな?!」
娘の麻耶が間違えて買ってきたという牛乳で割ったらイチゴミルクになりそうなリキュールのボトル。イチゴの上にミルクがかかっているようなラベルで、ちょっと見ただけでは、牛乳で割ったら「普通のイチゴミルク」と思うのは無理もありません。

確かに正面から見ると、全体の大きさに比べて比較的大き目な文字で「お酒」と書いてあるので、メーカーもそれなりに配慮したということなんでしょう。その下には、「リキュール アルコール分14%」ともあるので、ちょっと気を付ければ明らかにお酒だっていうことはわかりますが、その下に「苺果汁12%」の文字があること、さらにボトルの後ろの「おいしい飲み方」の部分は、牛乳と割っている絵、アイスクリームにかけている絵と、まるで子どもの飲み物のような説明になっているので、紛らわしさを増長しているようにも思います。

「これねえ、置いてあるところが悪いんだよ。牛乳のところにあるんだよ。そんなところにアルコールが置いてあると思わないでしょ?! お酒の売り場だってちゃんと別にあるんだよ。そういうスーパーだったら、普通さあ、アルコール類はまとめて売ってない? 牛乳のところにあったから、まさかアルコールだなんて思わないで、蓮と沙羅に飲ませようと思って買っちゃったんだよ。そうしたら、アルコールなんだもん」
「なんだよ、そんな置き方してあったの?! 間違っちゃったらどうすんだろう? スーパーとしては無責任。そりゃあスーパーだから商売は商売だろうけど、色々な人が来るし、子どもだって買うし、公共性の強いところなんだから、だますっていうつもりはないだろうけど、やたらと消費を煽るようなやり方っていうのはどんなもんだか。少しでも間違いや事故が起きないように配慮するのは当たり前なのに…」
「そうだよねえ。やっぱりそう思うよねえ。間違えちゃって、なんだか気分悪かった」
そう言いながら、麻耶と二人で飲んでみました。
「ん? これ、うまいじゃん。普通のイチゴミルクとかわんない」
「ほんとだ、イチゴミルクの味がする!」
「よーく最後まで味わってると、ちょっと苦みがあるけど、何かを食べた後だったら、子どもだって普通にイチゴミルクだと思って飲んじゃうだろうな」
「うん、そう思う。匂いもイチゴミルクだし…。あたしの、結構入れたけど、アルコールっぽくない。甘いしね。これだったら、蓮も沙羅もゴクッて飲んじゃうと思う」
「おまえ、これ、捨てとけよ。蓮と沙羅が飲んじゃうと大変なことになる」
「そう思って、野菜入れの一番奥に入れたんだよ。でも、こんなにイチゴミルクっぽいとはねえ」

もう飲んだことある方もいるかもしれないけれど、ほんとにボトルも味もまるでイチゴミルク。これがスーパーマーケットの牛乳売り場の辺りにあったとしたら、ほとんどの人がソフトドリンクと思うんじゃないでしょうか。
売ろうとする店側の戦略なんだろうけれど、もし子どもだけで買い物に来て、ボトルの絵だけを見て、文字をよく見ずに買って飲んでしまったら、どう責任を取るんでしょう。14度で、小さなボトルだから、割って飲んでいる分には、子どもでも急性アルコール中毒とまでは行かないとは思います。
が、スーパーのこのやり方には、判然としないものがあります。お酒を買う人は、必ずお酒のコーナーを訪れるわけだから、いかにも衝動買いを誘うようなこういったやり方は、もっと公共性、安全性を重視して然るべきです。こんなところにも、子どもに対する危険は、潜んでいるんですね。
(文:大関 直隆)

2009/09/28(月)
第375回「ひいばあちゃん、頑張る!」
「明日から連休の間は原山に預けるしかないな。ちょっとこっちも仕事で見てられないから」
「…」
「もし一日中見てるのが大変そうなら、空いた時間に見に行くなり、早めにうちに連れて帰るなりするしかないだろ」
「わかった」
「原山」とは、私の実家のこと。一昨年父が他界したあと、母と弟、それに叔母が住んでいましたが、今春叔母も他界し、今は母と弟が住んでいます。父は10人兄弟の長男で、一応実家がその10人兄弟の「本家」ということなので、それなりの広さのある家ですが、母がお茶店をやっているので、一部店舗に利用しています。
「ばあさんに電話したら、お彼岸は家を空けるわけにもいかないし、今商店会で金券配ってて、それでお茶を買いに来るお客さんもいるから、店は連休も休まないで開けてるんだって。だから見てられるってよ」

娘の麻耶は、今頃になって幼児教育の大学に通っています。普段は、孫の蓮と沙羅を学童保育に預けているのですが、このシルバーウィークは学童保育はお休み。たまたまその休みの期間と大学の乳幼児園への実習が重なってしまい、万事休す。麻耶は、私の母のマシンガンのように繰り出す愚痴とネガティブな会話や蓮と沙羅がテレビ漬けになってしまうことなどを嫌って、あまり「原山」へは連れて行きたがりません。それで、前述のような会話になったわけです。
学童の休みが4日間という長期にわたること、私と妻の忙しいこと等を考えたとき、今回はひいばあちゃん(蓮・沙羅にとって)に頼むしかないとあきらめたらしく、「原山」へ預けることになりました。
母にその旨電話すると、
「連休中は大丈夫だから見てるよ。いつ帰るんだい? パジャマとか勉強の道具とか持ってこさせてよ」
はっ、何言ってんだ?
麻耶の実習は、5時半まで。場所は実家とは正反対なので、一旦自宅に寄り、バイクを車に乗り換えて2人を迎えに行くので、6時半くらいになってはしまうけれど、麻耶が迎えに行くという前提で話をしているつもりが、母は連休ということもあってか、どうも「泊まり」を想定しているらしい。
「はあっ?何言ってんだよ、泊まらないよ。麻耶が6時半くらいには迎えに行く」
「あ、そう。それならそれでいいけどさ」
そんなことがあって、とりあえず泊まらないということで蓮と沙羅を「原山」に預けました。

麻耶が、実習を終えて「原山」に迎えに行くと、蓮と沙羅は大騒ぎ。「お墓のお掃除してきたよ。お墓にお水かけて、雑巾で拭いたんだよ」「猫が3匹いるおばちゃんちにも行ったよ」「おうちの裏でね、水かけて遊んだんだよ」。テレビ漬けどころか、どうやらやりたい放題やっていた様子。「原山」で夕飯まで食べて、3人は帰ってきました。
「あれじゃあ、ばあさん疲れちゃうんじゃないかなあ。蓮たち、大騒ぎしてるみたいだし…。夕飯は用意してあるし、私に”おまえも大変だろ”だって。そんなこと言われたことないのに。なんかしゃべり方が今までと違ってた。どうしちゃったんだろっ?」
「曾孫の面倒見て、元気が出たんじゃないか?」
「ははっ、そうかも。でもあれじゃあ、見終わったら倒れちゃうかも…。ちょっと張り切り過ぎだと思うけど」
どうも母は、蓮と沙羅を泊めたいようにも思えるので、翌日は泊めてみることにしました。
「今日は、パジャマと勉強の道具も持ってきたから。もし大変そうなら、いつでも来るから電話して」
と言うと、ばあさんは早速、蓮と沙羅をどこで寝かすか段取りをし始めました。
「やっぱり、泊めたかったのかねえ?」
「そうかも…」
麻耶が、夕飯の時に一応電話をして「大変だったら行くけど」と言ってみると、ばあさんから返ってきたのは「私はそんなにやわじゃないよ」という答えだったそうです。
そこまで張り切らなくてもいいのに…。
翌日、家に戻った蓮と沙羅に話を聞くと、「裏のおうちのおじいちゃんともキャッチボールしたんだよ。明日は駒場サッカー場で野球やってくれるって。サッカー場だったらちょっと広いところがあるんだって」
おいおい、おまえらもいい気になり過ぎだあ!裏のうちのおじいちゃんて、いくつだと思ってるんだあ!もうとっくに80を過ぎてるんだぞ!

子どもの力って、計り知れないものがあるようです。地域に小さい子どもがいる、それだけでお年寄りも元気になるのかもしれません。これまで、なんとなくぎくしゃくしていた麻耶とばあさん(母)との関係も、大きな転機を迎えているようです。
(文:大関 直隆)

2009/09/14(月)
第374回「郷に入れば郷に従う」
10年以上も前のことですが、大阪に行ったときのこと。
吉本興業の近くの地下(だったと思います)にあるレストランに入りました。そこは、ビュッフェタイプのレストラン(もしかするとランチだけが食べ放題かも)で、入り口でお金を払い、トレーにお皿を乗せ、後は好きなもの好きなだけ取ったら、席に着くといったごく普通のビュッフェタイプのレストランでした。
最近の傾向としては、お店のスタッフがまず席に案内して、人数確認をし伝票を書くという後払いのシステムが多いように思いますが、そこのレストランは先払いで、高速道路のサービスエリアのレストランでやってる朝食バイキングのような形式。
それほど大きな荷物を持っている人はほとんどいないので、お金を払うとそのまま食べ物の並べてあるテーブルへ直行。好きなものをお皿に乗せて空いてる席に座る。まあ、そんな感じです。私も全くその順序で、お金を払い、トレーを持って料理を取りに行き、席に着きました。まだ正午には少し時間があったので、席にも余裕がありました。席に座って食べ始めると、サラリーマン風の若い男性が3人、入ってきました。3人とも、やや大きめなビジネスバッグを持っているので、そのままトレーを持って料理を取りに行くわけにはいきません。キョロキョロと店内を見回すと、私の席からそう遠くない席を選んで、椅子に荷物を置くと、料理を取りに行きました。しばらくすると、私の前をトレーの上のお皿ではなく、まるでトレーに直に料理を山盛りにしたのかと思えるくらい山盛りに料理を乗せたおばさん3人がキョロキョロしながら通りました。
正午を少し周り、店内もかなり混んできています。
「どこ行くんだろう?こっちの方には空いてる席はないと思うんだけど…」と私がいぶかっていると、さっきサラリーマン風の3人が椅子に置いたビジネスバッグを手に取り、バッグを通路にどけてその席に着くと、何食わぬ顔で食べ始めるではありませんか!
「ひえーっ!信じらんなーい!」
そこへサラリーマン風の3人が戻ってきました。当然、椅子にバッグを置いたわけですから、バッグを置いた席を探して、またまたキョロキョロしています。椅子の陰になっていたのか、まさか通路にあるとは思わなかったのか、しばらく「あれっ?」という顔でキョロキョロしていましたが、そのうち通路にあるバッグに気づき、3人で顔を見合わせ、目を白黒させて驚いていました。3人のおばさんたちの行動を見ていないので、いともあっさり椅子にあったバッグを通路にどけたとは思っていないようで、おばさんたちに抗議や非難をするというよりは、「何でこんなところにバッグが置かれてるんだろう?」という疑問の顔つきでした。

そのサラリーマン風の3人も明らかに関東の人間。私も浦和近辺にしか住んだことがないので、この文化の違い(?)には驚きました。この日は、他にも2つビックリしたことがありました。片道何車線だったか、ちょっと広い道を車で走っていると、3重に縦列駐車をしているところがありました。どう見ても運転手は乗っていません。一番歩道よりに止まっている車は、どうやって外に出るのか全く見当がつきません。もちろん2列目の車だって出られませんよね。その後、電車で移動したときは、それほど混んでいたわけではないので、私がゆっくりドアから降りようとすると、ホームで待っていた人たちが、いきなりドーッと乗り込んできてしまい、危うく降り損なうところでした。「すいませーん、降りまーす!」と叫んで、やっと降ろしてもらったわけですが、「モタモタしてんじゃねえよ!」という視線をびしびしと感じて、「すいません、すいません」と小さくなるしかありませんでした。

先日、陶芸教室の会員さんで大阪出身の人たちに「私は大阪には住めませんよ」とその話をすると、「えーっ!大阪っていい人ばっかりなのにーっ!」と言いながら、目が笑っているので、「文化の違いですか?」と言うと、さらに笑って「大阪はね、モタモタしてちゃだめなんですよ」と言われてしまいました。大阪で暮らしたことがある人に言わせると、とても住みやすくいていい街だというのですが、どうも私には大変そうな感じ。でも「人」というのは、順応性があって、そこで暮らせばそこのカラーに徐々に染まり、馴染んでいくものです。

夏休みの終わりに、私の母と孫たちを連れてビュッフェスタイルではありますが、ファミレスよりはややかしこまったレストランへ行きました。孫たちは何度かそこのレストランへ行っているので、もう慣れている感じ。初めて行ったときは、他の人に迷惑がかからないようずいぶん私が注意しましたが、その日は、ほとんど注意することもありません。夏休みの終わりということもあってか、普段はほとんど子どものいないその店も、その日はかなりの数の子どもたちがいます。ほとんど気にならない子もいますが、お皿を片手にあちこちウロウロする子、何も持たずにあっちへ行ったりこっちへ行ったり、まるで運動会を繰り広げる子。親が注意をしないということもあるのでしょうが、ウロウロしている子たちは、まだ慣れていない感じ。
「この子たちも次に来るときはもう少しマナーを覚え、その次に来るときはもっとマナーを覚え、徐々にその雰囲気に馴染んでいくんだろうなあ」そんなことを考えながら、子どもたちの様子を見ていました。子どもだって、そこがどういう場かっていうことを感じ、その場に従うことを覚えていくんですよね。「郷にいれば郷に従う」。子どもは入れる郷によって、いかようにも対応するんですよね。まあ、それだけ体験が重要っていうことにもなるのかもしれません。
私も、しばらく大阪にいれば、郷に従えるようになるのかなあ???
(文:大関 直隆)

2009/09/07(月)
第373回「中高一貫教育」
中高一貫教育を掲げる千代田区立九段中等教育学校(定員160人)で、中学段階を終えた生徒のうち、18人が高校段階に進まず、他の学校に進学したという記事が朝日新聞に載っていました。
驚くことに、中学3年段階での転学も7人いるそうで、計25人が学校を去ったことになります。中高6年間を通常の中学3年、高校3年のカリキュラムをあえて崩してまで教育している学校で、3年間で15%以上の生徒をこぼしてしまうというのは、いかがなものでしょうか。とても公立高校としての社会的責任を果たしているとは言い難いですね。

学校が言うには「高校の授業についていけない可能性があり、納得のうえでの転学」「授業中にノートをとらなかったり、学校が求める補習に参加しなかったりなど学習態度に問題があった」と、保護者を交えて面接して「高校で授業についていけず、留年の可能性もある」などと話して、外部進学を選択肢として示したんだそうです。
校長は「いずれの場合も保護者を含めて納得した上での選択だった」と言っているそうですが、高校がよくやる手ですね。積極的に退学にするには、あまり大きな問題がないので、子どもと親を「留年」をちらつかせて脅すことにより、自ら退学することを促しているわけです。

進路選択が多様化してきたとは言え、少子化により、学校を選ばなければ誰でも高校に入れる時代。一般的に言って高校浪人というのは避けたいのは当然ですから、3年次が終わった段階で、「留年」という言葉を出されると、子どもも親も怖くなります。中高一貫教育の目指しているところは、学校側も保護者側も、まず間違いなく有名大学への入学。学校に見捨てられたという虚脱感は、学校に対する反発や未来への希望も失わせてしまったことと思います。

国際基督教大の藤田英典教授は、「中学と高校の接続を滑らかにして、6年間を通じたきめ細かな教育をするという中高一貫校の制度の趣旨から考え、学校の責任放棄としか言いようがない」とコメントしていますが、全くその通りだと思います。ただ、千代田区にしても東京都にしても「6年間を通じたきめ細かな教育をするという中高一貫校の制度の趣旨」というのは表向きで、「大学合格のための進学指導」を重視し有名私立高校に勝てる公立高校を作るという、公立の復権が本音なのですから、もともと無理があったのだろうと思います。中高一貫校を選ぶとすれば、子も親もそういうリスクがあるということを知っておくべきでしょう。

藤田教授は、「問題のある生徒は手っ取り早く放り出してしまったように見える。−中略− 入学した生徒について最後まで責任を持ってケアする態勢をしっかりと整えなければならない」ともおっしゃっています。これまでの様々な経験から言うと、残念ながら、ほとんどの高校にそういう意識がないというのが実態です。何度も取り上げてきた「ゼロ・トレランス」方式により、高校だけでなく、小・中学校にも同じような流れがあることも注意しておかなければいけないことだと思います。

この連載の第202回に、自由の森学園のS君の話を取り上げました。私はその中で、
「学校が留年や退学を生徒や保護者に突きつけることは、たやすいことです。けれども、それは最後の最後の手段であって、そこに至るには、切り捨ててしまう学校側の相当の努力があって初めて認められることです。 −中略− 私は遠藤校長と何度も話をしました。校長は「自由の森の卒業生としてこのまま社会に出すわけにはいかない」と言いました。私は、『3年間で(高校を)出すという前提がなくて、“3年間で出せない状況なら留年させればいい”という発想で考えているのなら、それは学校の教育の放棄だ』と言って、校長と議論しました。」
と述べました。

自由の森学園の場合は、社会に出したら学校の不名誉になるという発想から、生徒を「抱え込もう」としました。九段高校の場合は、抱えていることが学校の不利益になるという発想で、生徒を切り捨ててしまいました。どちらも、学校の利益が優先して、生徒の利益は二の次という点では共通です。奇しくも、藤田教授も私も「放棄」という言葉を使いました。学校に課せられた責任、教師に課せられた責任をもっと深く考え、一人一人の生徒に対し、最後まで責任を全うする教育をしてもらいたいものです。大阪府に代表されるように、全国統一学力テストの結果に一喜一憂しているようでは、ますます邪魔な生徒の切り捨てが行われるのではないかと心配です。私たちも、テレビをはじめとするマスコミの報道に踊らされるのではなく、いま目の前の学校で何が起こっているのか、よく見ることが大切ですね。
(文:大関 直隆)

2009/08/31(月)
第372回「パンくん危機」
日テレ系の「天才!志村どうぶつ園」で人気のチンパンジー、パンくん。そのパンくんの芸が批判にさらされているんだそうです。
8月27日の朝日新聞は、阿蘇市の民間動物園「カドリー・ドミニオン」が、パンくんを過度の擬人化でテレビ出演させていたとして、日本動物園水族館協会から厳しくとがめられたことを伝えています。協会が、「擬人化は野生動物本来の個性や形態を誤解させ、繁殖活動にも影響が出る」とテレビ出演自粛などを勧告したところ、園はそれを拒否。協会を自主退会してしまいました。
「カドリー・動物園」の年間入園者数は40万人で、その8割はパンくんを「テレビで見た」ということで訪れているらしく、パンくんのテレビ出演自粛は、動物園の経営にきわめて大きな影響を与えます。そんな事情から、自粛を拒否して自主退会という方法を選んだのでしょうが、繁殖目的で飼育許可を得ている(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」によると、チンパンジーやゴリラ、オランウータンなど国際希少野生動植物は、陳列や譲渡を原則禁止しています。
学術研究や繁殖目的と認められた場合に限り、環境大臣に申請をして許可を受けることになっています)そうですから、園の経営のために、自粛要請を拒否して、テレビ出演を続けるというのは問題があるように思われます。

パンくんを見たことがありますか?
ホントにすごいですよね。勿論、編集によるものも大きいと思いますが、まるで人間の子どものような行動をします。あの映像を見る限り、人間とチンパンジーではそれほど大きな差がないのではないかと思えるくらいです。

チンパンジーは3、4歳くらいまでを母親や群れと一緒に過ごし、その間に見よう見まねで繁殖行動を学びます。そのことから考えると、おそらく「パンくんには繁殖は無理」と京都大学野生動物研究センター長の伊谷原一教授は述べています。

”協会加盟の動物園「伊豆シャボテン公園」(静岡県伊東市)は、チンパンジーのショーを続けているが、協会からおとがめはない。チンパンジーが学んだことを披露する「学習発表会」と位置づけ、パンツをはかせるだけで服は着せずに擬人化も避ける。何よりショーを引退した個体も群れに戻し、90年から6頭も繁殖に成功しているからだ。
堤秀世・名誉園長(61)は81年からチンパンジーを訓練してきた。「言語使用をのぞけば、力、スピード、忍耐力や状況判断などすべての面で彼らは人間を超えている。あれだけ高等な動物の能力を伝えるには、担当者と一体になったショーが一番」という。”(朝日新聞)

シャボテン公園については、協会も認めているようですが、私はどうも引っかかります。「あれだけ高等な動物の能力を伝えるには…」という「大衆に伝える」ということの意義がいったいどこにあるのかが不明瞭だからです。伝えることでチンパンジーという種の生存の重要性を訴えているとも思えません。
もし、堤園長が言うように「すべての面で彼らは人間を超えている」のなら、チンパンジーが地球を支配し、人間が絶滅危惧種で、人間がチンパンジーに見せ物に使われているだろうという気もします。どんな形でチンパンジーを使うにせよ、結局は、利益追求を目的とした見せ物、商売でしかないのではないか。そんなふうに思えてなりません。

チンパンジーの目には、白目がないことを知っていますか?
高等哺乳動物で白目があるのは、人間だけだそうです。今、カウンセラーを目指す人向けのテキストを作っているんですが、その過程で、チンパンジーの話が出てきて、改めて白目について考えてみました。
色々写真を見て検証してみましたが、確かに人間以外のどんな動物の目にも白目はないんです。人間は、言語と非言語を使って考えを人に伝えます。人間の白目は、そんなときに重要な役割を果たします。
「目は口ほどにものを言い」、そんなことを実感したことありますよね。おそらくこれは、言語を使うことによる進化です。だとすると、やはり支配しているのは人間で支配されているのはチンパンジー。チンパンジーの生態を研究することは大事なことだとは思いますが、「見せ物を正当化する」のはちょっと違う気がします。

さて、白目は人間特有のものです。ということは、白目の存在というのは、目を見て話をすることの重要性を物語っているとは思いませんか。人は、「人に育てないと人にはなれない」という話を折に触れしてきましたが、白目が人間にしかないということは、子どもを育てるときは目を見て話をする、それを怠ると、子どもは白目の重要性を学ばずに成長してしまうので、ひょっとすると「人」に成長できないことになるかもしれません。
最近、子どもと目を合わせない生活様式になっていませんか。あと数千年、数万年後には人間が退化して目から白目が消えないよう、毎日子どもの目を見て話をしましょうね。
(文:大関 直隆)

2009/08/24(月)
第371回「電話しといてね」
「じいちゃん、今日何時に帰ってくる?」
「うーん、わかんないなあ」
「じゃあ、ばあちゃんは?」
「ばあちゃんもわかんないなあ。また、じいちゃんだけ帰ってきて、ばあちゃんは研究所にお泊まりしちゃうかもしれないよ」

ここのところ、締め切りの決まっている仕事が入ってしまい、妻はここ一週間、カウンセリング研究所に泊まり込みで仕事をしています。私も一緒にやっている仕事なので、私も忙しさは同様なのですが、映像関係を私が、文章関係を妻がという棲み分けができている関係で、私の作業は自宅でないとできないものが含まれているため、夜中になるか、朝になるかは日によりますが、とにかく日に一度は、自宅に戻っています。

これは、私が朝自宅に戻り、再び研究所に戻ろうとしたときの、孫の沙羅との会話です。「昨日、じいちゃん、ママに電話した?」
「あっ、忘れた!沙羅ちゃんに頼まれてたっけね」
「うん。何時に帰れるかママに電話してって言ったでしょ。帰れなくても電話してって。沙羅ちゃんは寝ちゃってるかもしれないけど、ママはきっと起きてるからって」
「そうだったねえ、ごめんね。じいちゃん忘れちゃったよ」
「じゃあ、今日は電話してね。沙羅ちゃん寝ててもママに電話しといてね」
「うん、わかったよ」
そのときは、そう返事をしたものの、日付が変わった今も仕事中。日付が変わる直前まで女性スタッフ3人も一緒に仕事をしていたこともあり、またまた沙羅との約束をすっかり忘れてしまいました。

ここのところ、沙羅はよく電話をするように頼みます。沙羅が電話にに出て話をしたいのならまだわかるのですが、沙羅の言い方は、「電話してね」というパターンの言い方だけではなく、「電話しといてね」というパターンもあります。その区別は、どうやら沙羅が起きているかいないかにあるようで、起きているときにかかってくることを想定して話しているときなら「電話して」、寝てしまってからの電話の電話を想定して言うときは「電話しといて」となるらしいことはわかりました。

とは言え、沙羅が寝てしまってからの、私から娘の麻耶(沙羅の母親)への電話にどんな意味があるのか、まだ私にはそこの部分の沙羅の気持ちはわかりません。

その他にも沙羅は、私や妻によくものを頼んだり、何かを訴えたり、蓮の悪口や告げ口をしにきたりもします。もう小学校に上がったので、当然一人で解決できていいことなども、私や妻の姿を見れば、一人で解決できるかできないかは別として、必ずと言っていいほど、そばにやってきては何か言います。沙羅にとって、私と妻(特に妻)はなくてはならない存在。気を付けないと、ただただ甘い祖父母となりかねないわけで、一緒に暮らしている孫との関係の難しさというものを実感しています。

あと4、5日すると、妻の研究所暮らしも解消して、自宅に帰れるようになると思いますが、ますます沙羅の「電話しといてね」はエスカレートするかもしれません。
(文:大関 直隆)