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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2009/01/13(火)
第340回「また子どもたちが犠牲に…」
イスラエルとハマスの6カ月の停戦期間が12月19日で終了し、23日にはガザとイスラエルの境界付近で爆弾を仕掛けようとしていたハマスの戦闘員3人が、イスラエル軍によって射殺され、ハマスはそれに対する報復のためロケット弾や迫撃砲をイスラエル側に打ち込みました。
そして、ロケット弾や迫撃砲からの自衛のためという名目で、12月27日、イスラエル軍は、とうとうガザにあるハマスの警察本部を空爆しました。今では、どんどん戦渦が広がっています。フランスやエジプト、国連も停戦に向けて動き出していますが、まだ爆撃が続いています。

フランス通信(AFP)がガザ地区の救急当局者の話として伝えたところによると、27日の攻撃開始以降のパレスチナ側の死者は、少なくとも800人に達し、うち230人が子どもで、92人が女性、負傷者は3,330人に上るそうです。(国連集計によると8日までの死者は801人、うち子どもは257人)

ネット上のニュースサイトによると、地中海沿いの難民キャンプでは、近くでイスラエル軍の砲撃が始まったのにもかかわらず、少年たちがサッカーを楽しんでいたという記事が…。

その中の14歳の少年は、「家にいるように命じる父親を振り切ってきた。家には難を逃れてきた親せき多数が身を寄せており、居場所はない。もちろん怖いけど、サッカーのほかにすることもない」と言い、13歳の少年は、イスラエル軍の無人機に挑発的なポーズをとり、「僕らが逃げだしたって、砲弾の方がずっと速い。できることなんて何もない」と話しているんだそうです。

イスラエル政府報道官は「ガザの子供たちに被害を及ぼしたくない」としているそうですが、ガザ在住の心理学者は、砲爆撃で子どもたちが既に心的外傷を抱えているとして、親の無力さを感じた子どもたちが今後、民兵や自爆テロに志願する可能性もあると指摘しているんだそうです。

日本は、1945年の敗戦以来、他国と交戦をしないできました。もちろん私も戦後の高度成長時代に育った人間ですから、戦争の怖さや悲惨さを肌で感じたことはありません。妻は、1941年生まれ。第172回でもちょっと触れましたが、戦争の記憶が少しあります。45年の敗戦の時はまだ3歳8カ月ですから、はっきりした記憶というよりは、自分が経験した記憶と、その後親や周りの人間から聞いた話が入り交じった記憶なんだろうと思います。
妻の記憶というのは、その程度の記憶であるにもかかわらず、かなり最近まで、打ち上げ花火の音(特に一斉に多くの破裂音がするスターマインという種類の花火)は、爆弾が破裂する音や機銃掃射の音と似ているからといって嫌っていました。うちのそばにあるパチンコ店が空に向けて照射している広告用の光。
高速道路なんかを走っていても、けっこうあちこちで見かけます。まるで空の何かを探しているように、ゆっくりと回転しています。私が、「あれ嫌だよね。星を見るのにとっても邪魔になる」と妻に話すと、妻は即座に「私はね、探照灯みたいで嫌だ」と言いました。「探照灯」という言葉で、「ああ、ああ」という方もあれば、なんのことかわからない方もあるかもしれません。
私は、子どものころ見た白黒の映画によく登場していたので、「ああああ、戦争の時に空を飛んでる飛行機を探すやつね?」と言ったら、また即座に「違う違う! あれは飛行機を探しているんじゃなくてB29を探しているの!」という答えが返ってきました。もちろんB29も飛行機ですから、妻はそれを本気で否定したわけではなくて、それくらい戦争の記憶が今でもリアルに蘇ってくるということを言いたかったんです。

昨年亡くなった叔父が、「こんなこと言ったら不謹慎なんだけどな、東京大空襲の時、そばの高台に上って、東京の方を眺めたら空が真っ赤に染まって、すごくきれいだったんだよ。今でも、はっきり思い出すなあ…」と亡くなる少し前に話したことがありました。話しをしている叔父の目は、何となく潤んで、遠くを見るようでした。「きれい」という言葉の中に、「おれには何も出来なかったんだ」というとても強い無力感を見た気がします。幸い、我が家では父が予科練習生として何度か危険な目にあっただけで、戦争で直接亡くなった者はいませんでしたが、叔母が一人、戦争の混乱の中、幼いうちに赤痢で命を落としました。

亡くなった父も、叔父と同じように、よく遠い目をしました。私は、ああいう遠い目をしたことがありません。あれが、まさに心に受けた戦争の傷跡なんでしょうか…。

ガザで死んでいく子どもたちや、子どもを亡くした家族たちに、イスラエルの理屈など通じるわけがありません。武力には武力、報復には報復。なかなか終わらない負の連鎖を一刻も早く裁ち切り、平和が訪れるといいですね。

ガザの子どもたちのために、平和を守っている日本だからこそ、私たちに出来ることはいったいなんなのか、真剣に考えてみなくては…。
(文:大関 直隆)

2008/12/24(水)
第339回「インフルエンザの予防接種 その2」
※前回(その1)は第289回です。

今年もインフルエンザの予防接種を受けました。
去年の予防接種が効いた?
いやいや、そんなことまったくわかりません。予防接種が効いたかどうかを判断するのって難しいですよね。
去年は、誰もひどいインフルエンザには罹らなかったんです。我が家で、インフルエンザの予防接種を受けたのは私一人。みんながひどい症状になったのに、私だけが軽くすんだということなら、「予防接種が効いた」ということになるのでしょうが、残念ながら(?)去年はそういうことにならなかったわけです。

で、今年はどうしようかなあと迷ったんですが、先月の笠間(茨城県中部の都市。東京方面から向かうと水戸のちょっと手前。笠間稲荷や陶芸、日動美術館などで有名。
先日、孫の蓮が日記に「笠間に行った」と書いたら、担任の先生から「笠間ってどこ?」と書かれてしまったので一応説明しておきます。)での穴窯焼成以来、左肘に痛みがあって、近所の整形外科に通っているので、ついでにそこで予防接種も打ってもらうことにしました。
去年もそこで打ってもらったのですが、そこの整形外科の料金は2000円。料金のことはよく知りませんでしたけれど、もちろん保険はきかないので自費。
先日、テレビのニュースを見ていたら、1500円程度のところもあれば、7000円を超えるところもあるとか。2000円というのは、どうやらかなり安い方だということはわかりました。自由に料金設定ができるので、設備のいい大きな病院やそれとはまったく逆の地方でワクチン消費量が極端に少ないところは高い傾向にあるとか。
多少の値段の開きは仕方ないとしてもここまで開いているのには、疑問を感じちゃいます。これも規制緩和の成果なんでしょうかねぇ。

その整形外科は、開院間もない患者がまだほとんどいないときからずっとお世話になっている整形外科ですから、そこに通う患者さんの様子もある程度はわかります。
浦和駅から浦和第一女子高校(一女)までの通学路ということもあって、最初のころは一女のボート部の生徒がけっこう通ってきていました。ここのところ、患者の数も急増。けっこう混んでいることが多くなりました。昼の患者の中心は年配者。時間が遅くなると、サラリーマンやOL。どこの整形外科でも当たり前の光景です。

ところがところが、私が通う時間帯(夕方4時半〜6時くらい)は様変わり。
ここのところ、待合の椅子は小学校低学年のお子さんとそのお母さんたちで占領されています。受付で、
「最近、こんなに小学生の患者さんが増えたの?」と聞いてみると、返ってきた答えは、
「いえいえ、インフルエンザの予防接種ですよ」。
学校で誰かが相当勧めているんですかねえ? それともここが安い(近所の病院の料金はわかりませんが)と評判なんでしょうか。いつ行っても10人以上の小学生がいます。

鳥インフルエンザの変異による新型インフルエンザが話題となり、映画やドラマまで出来ている昨今、インフルエンザの流行よりいち早く流行しているのは「インフルエンザの予防接種」という感じ。果たしてその効果と副作用の関係はいかに…。
予防接種をするとき、看護師さんに聞いてみました。
「これって効く?」
「型が違っちゃうと効かないんですよ。去年は、私も打った後、インフルエンザに罹って、打ったからひどくならないと思って無理しちゃったんです。そうしたら翌日、動けなくなっちゃいました」
そりゃそうだよね。

要するに、効くか効かないかもはっきりしないけれど、効いたとしても、罹ったときには軽くすむなんて安易に考えないで、早めに休養を取って無理をしないこと。予防接種をしたからといって、罹っても元気でいられるというわけではないんだよね。
私が予防接種を打つちょっと前の土曜日。夜帰ってみると孫の蓮が熱があるような顔をしてぐったりしていました。

「どうしたんだよ? 熱か?」と聞くと、蓮はぐったりして何も言いません。娘の麻耶が、「うん、熱っぽくて、調子悪いんだよ」と応えました。
「明日も日曜日じゃ、やってる病院もないし、なんか薬あるのか?」
「うーん、ないんだよね」
「昼間から?」
「うーん、昼間は三種混合打ったんだよ」
「なんだよぉ、それを早く言えよ! じゃあ、たぶんそのせいじゃないか!」
蓮は、翌日は元気に飛び回っていましたが、夜になって私のところに来て腕をまくると、
「じいちゃん、注射のとこ、こんなになっちゃった!」
と腫れている腕を見せてくれました。どうやら、うちの子どもや孫たちは、いろいろと過敏なようで、予防接種を打たずにインフルエンザを乗り切るしかないようですね。とにかく帰ったらすぐうがいと手洗い。ビタミンCをしっかり取って熟睡を心がけるようにしなくっちゃね!

子どもの予防接種は、どんなものにせよ、土曜日はやめた方がいいかもね。何かあったときの対処に困ることがあるかもしれません。
(文:大関 直隆)

2008/12/15(月)
第338回「プラスαの味」
陶芸教室の扉を開けると、なんだかとっても甘いにおいがしました。
いつも食事の時に皆さんが囲んでいるテーブルを見ると、スタッフが果物ナイフで柿をむいていました。床には大きな段ボールに山になって柿が入っています。
「わーお! この柿どうしたの?」
「Fさんからいただきました」
Fさんは、88歳。東京大学教授を退官後、うちの教室に20年近く通ってくださっています。今年、柿はこれで4箱目。今回は今までいただいた3箱よりもはるかに多い量の柿が、箱からあふれんばかりに入っています。粒は今までよりやや小粒。どうやらご自宅の柿の木に残っていた柿をすべて取って持ってきてくださった様子。4箱全部で何個くらいになるでしょうか。100や200ではありません。おそらく1000個をはるかに超えているんじゃないでしょうか。
「どうやって持ってきてくれてるの?」
「タクシーで来てるんですよ」
「柿を運ぶために?」
「はい。そうみたいです」
こういう会員の皆さんに支えられて、21年という長い年月、陶芸教室を続けてこられたんだなあと感謝、感謝です。
「私、どうもね、柿とイチジク、ビワ、ザクロなんていうものは、八百屋やスーパーでは買えないんだよね。そういうものはね、買って食べるっていうより庭になっているのを食べるっていう感じ。お金を出そうっていう気持ちにならないだよね。今年はめずらしく柿を何個か買って食べたけど、そのあとこうしてFさんからいただいたんで、また今年もほとんど買わないで終わりそう」
私の意識の中には、そんな気持ちがあります。
「おいおい、柿はそんなふうにナイフで皮をむかないで、手で握ってズボンでキュッキュと拭いたら、そのままかじればいいんだよ」なんて思っちゃいます。柿の皮は固いですから、そんな食べ方ばかりではなくて、子どものころから皮をむいて食べた方が多かったのでしょうけれど、柿というイメージは、やはり枝から取った柿をズボンでキュッキュというイメージなんですね。ずいぶんそんな食べ方をしたものでした。

地方の子どもたちは別として、都会の子どもたちは、果物ってスーパーで買ってくるものと思っているんでしょうね。「××狩り」なんていう楽しみ方もあるので、そういう経験のある子どもは、なっているところを想像したり、木から取って食べるというイメージがあるんでしょうけれど、「××狩り」がないものについては、自分で木から取って食べるなんていうイメージはあまりないのかもしれません。
柿のなっているお宅は今でもよく見かけますが、その柿を自分で1つずつ苦労して取って食べるなんていうイメージを持っている子がどれくらいいるか…。長い竹の先を割って、そこに実のなっている枝を挟んではくるっと回し、枝を折って取ったものですが、挟まり方が悪いとよく地面に落ちてしまって割れちゃうんですよね。地面に落ちそうになったのを手でうまくキャッチできたときは、「やったー!」と妙に感動したりして…。
不思議なことにその感動が柿を美味しく感じさせたりもするんですよね。おそらくお金を出して買った柿の方が品種改良が進んでいて、美味しいのでしょうが、やはり自分で取った柿と比べて、味に深みがないように感じてしまいます。

先日結果が発表された国際教育到達度評価学会の07年度「国際数学・理科教育動向調査」について、14日朝日新聞の朝刊に、「学ぶ意欲、高得点の国ほど低く」という見出しで、韓国や台湾、日本といった高得点の国の方が数学を楽しいと思う子どもの割合が低く、むしろそれらの国より得点の低いアルジェリア、エジプト、カタール、ガーナといった国の方が数学を楽しいと思う子どもの割合が高いことがわかったという記事が掲載されていました。
おそらく、高得点の子どもたちにとって数学というものが、自分の身近な生活から離れ、受験勉強の単なる一教科に過ぎなくなっているのでしょうね。
最近理科離れも深刻という話を聞きますが、本来学問というのは、人間の生活に深く関わっているものだったはず。それが順位を付けるためだけの道具になってしまって、学問の持つ本来の意味が希薄になってしまった、その結果が「楽しい」という意識を奪ってしまっているんですね。

スーパーで買った柿は、確かに甘くて美味しいかもしれないけれど、地面に落ちそうになった柿をキャッチしたときのプラスαの味がないんですよね。柿っていうのは、私の意識の中では「ニコニコしながら楽しそうに食べる物」という感覚があるのですが、うちの子どもや孫たちが柿をニコニコしながら嬉しそうに食べているのを見たことがありません。やはり、体験からくる感動というのは、食べ物の味さえ変えてしまう、とても大切なものなんだろうと思います。

数学や理科も、単なる受験勉強の道具ではなく、地面に落ちそうになった柿をキャッチしたときのようなプラスαが加わったら、ニコニコ楽しそうに学べるものになるかもしれませんね。
(文:大関 直隆)

2008/12/08(月)
第337回「子どもの携帯電話」
大阪府教育委員会は12月3日、公立小中学校への児童生徒による携帯電話の持ち込みを原則禁止する方針を明らかにしました。
府立高校でも校内使用を原則禁止。文部科学省は携帯電話の使用について校内ルールの明確化を求めてはいますが、都道府県単位で一律に禁止を打ち出す例はこれまでないとか。
ルールに反した児童生徒の携帯電話は学校で預かるということですから、まあほぼ私立のルールと同じくらいのものということでしょうか。けれどもその一方で、登下校時の防犯上の理由などから持たせたいという保護者があれば、認めるということなので、ややルールに抜け穴があるというか、中途半端というか…。最後のところで混乱を避けるため、保護者に媚びたということなんでしょうかねえ。

ただこれまでも、大阪府内の小中学校の多く(公立小学校の88%、中学校の94%)は、携帯電話の持ち込みを禁止しているので、今回の措置は府内全域に及ぶ方針の大転換というわけではなく、「ルールを徹底すること」と、「子どもを巻き込んだ犯罪や子ども同士のいじめといった様々な問題に対する警鐘」という意味合いが強いのかもしれません。

個人的なレベルで言うならば、私も学校に携帯電話は必要ないと考える方だと思いますが、今回の大阪府の方針に賛成かと言えば、はっきり否です。それは、よほど積極的に持たないと決めている人を除けば、ほとんどの大人が使って便利と感じているものに対して、子どもであるというだけで一律に禁止して持たせないということに、誰もが納得する明確な理由があるとは思えないからです。

例えば、年齢による制限がある(制限の年齢に対する議論の余地はあると思いますが)ものに、酒やタバコ、自動二輪や車の免許、婚姻や法律行為といったものがあります。酒やタバコには、肉体的成長に悪影響があるというような理由があります。自動二輪や車の免許なら、どんなに使用方法を教えたとしても技術の習得の問題や他人を傷つけてしまった場合の経済的補償の問題などがあります。婚姻についても、子どもを育てる能力、あるいは家庭生活を営むに足る経済力の問題などがあります。また法律行為ということで言えば、制限の意味の中には、成長過程にある子どもを守るという面もあります。

そのように考えていったとき、果たして携帯電話の所持や使用にそれと同等な理由があるのかどうか…。
報道を見ている限り、それほどの理由があるとはどうしても思えない。橋下知事はこの問題について定例会見で、「携帯電話への過度の依存は学習、健康の妨げになる。ルールを決めたら守らせるのは家庭、保護者の責任だ」と言っているそうですが、一律に制限をするというにはあまりにもお粗末な理由です。
「過度の依存」というのがどの程度の依存なのか明確ではない。学習、健康の妨げになるということにしても、どういう妨げがどれほどあるのかもはっきりしない。その上「ルールを決めたら守らせるのは家庭、保護者の責任」とまでいくともうめちゃくちゃ。保護者が自分たちで納得して決めたルールならともかく、なんの話し合いもなく(お上が)「ルールを決めたから守れ」というのでは、まるで専制政治の世界。

具体的理由として挙げられているのは、「携帯メールや学校裏サイトへの書き込みによるいじめが絶えない」「有害サイトにより犯罪に巻き込まれる危険性がある」「携帯電話の使用に伴う集中力の低下」「授業中でも隠れてメールをする」等々。どれをとってもちゃんと使っている人間の側を規制するということではなく、悪質な使い方をしている人間を取り締まれというような内容ばかり。便利なものには落とし穴があるのは当然で、その落とし穴を埋めてこそ利用方法が成熟するものです。その努力は、精一杯なされているのか…。
「携帯電話の使用に伴う集中力の低下」「授業中でも隠れてメールをする」なんていう類になると、「おいおいそんなことされないように、子どもが引き込まれるような楽しい授業をしろよ」と言いたくなる。

子どもが被害者になる事件が頻発している中、犯罪から子どもを守ることについては、自己責任、自己防衛を強く求めながら、一方で自己防衛の手段は取り上げる(親から申請があれば認めるということにはなっているようですが、申請をするには相当のプレッシャーがかかるし、多くの家庭が申請をしたら禁止をする意味がない)というのはどういうことなんでしょう(もっとも私は子どもの居場所を知るために携帯電話を使うというのはあまり好ましいとは思わないんですが)。中学や高校の部活動では、顧問と部員の連絡に携帯電話が必須アイテムになっているところすらある。

文明が進んで新しいものが出てくると、必ずその使い方に問題が出てきます。その問題を解決してこそ、便利さを享受できるもの。うまく使えないから使わせないという発想ではなく、うまく使えないならうまく使えるように指導する、本来はそういう方向に向かうべきなんでしょう。これだけ携帯電話が普及しているのに、その流れに逆行するような今回の決定が、果たして有効で、正当なのか。教育現場に守れないルールを作るということは、そこからモラルハザードだって起きかねないということを、橋下知事はあまりわかってないようですね。
(文:大関 直隆)

2008/12/01(月)
第336回「小さくなる赤ちゃん、戦前をも下回る」
「楽しみだなあ」
お産の神様とまで言われた故・三森孔子(みもりよしこ)助産師が生まれたばかりの翔(もちろんその時はまだ名前がありませんでしたが)を助手の近藤未知子助産師(当時)に預けながら言いました。
近藤助産師も、
「へへへへ、楽しみですねえ」
と返しながら、翔を秤に乗せます。そして、
「4,060g」
分娩室に、「おーっ!」という声が響きました。
「でけえ、でけえ。でけえと思ったんだよ」
三森先生は、楽しそうにそんな言い方をしました。

妻が、45歳の時の出産ですから、そんな大きな赤ちゃんの出産が楽しいわけはありません。翔が生まれるまでの緊張感は、それはもうすごいものでした。けれども生まれてしまった後は、そんな緊張感などみじんも感じさせない三森先生の優しさにあふれたそんな言い方は、分娩室にいたすべての者に安堵と喜びを与えてくださいました。
「前の子も大きかったんだっけ?」
「ええ、真は4,800gくらいありました。自宅分娩だったんですけど、お産の後、助産師さんの手が震えちゃって、しっかり計れなかったんです」
「うわぉー、子宮が大きくなっちゃってんだよ」
本当かどうかはわかりませんが、三森先生は目を大きく見開いて、そんな風におっしゃいました。

真の時の状態を今考えると、分娩直後の妻の顔は真っ白でしたから、とても危険な状態だったんだろうと思います。その次の麻耶が生まれるときには、もう一度自宅で考えたのですが、真を取り上げてくださった助産師さんに、高齢を理由にお断りをされてしまいました。そんなことがあって、麻耶と翔は三森先生のところで出産することになりました。

「栄養付けなくちゃと思って、揚げ餅いっぱい食べさせちゃったんですよ」
それだけではないでしょうけれど、そんなことが胎児の大きくなる原因だったのかもしれません。

つい先日、日本の赤ちゃんが小さくなっているという報道がありました。
産経新聞によると
『昭和大学医学部小児科教授・副院長で日本小児科学会新生児委員会委員長の板橋(いたはし)家頭夫(かずお)さん(55)は語気を強める。
厚生労働省は昭和35年から10年ごとに行う乳幼児身体発育調査で、最新の平成12年調査結果を翌秋発表した際、平均出生体重の減少について、「前回(2年)と比べやや減少」などと危機感を示さなかった。この時の平均は男児3040グラム、女児2960グラム。最高だった昭和55年の3230グラム、3160グラムから20年で約200グラムも減り、昭和35年平均も下回っていた。

しかし、最近になって板橋さんが戦前の記録を調べ直したところ、昭和15〜17年平均(3050グラム、2970グラム)さえ下回っていることが分かったのだ』そうだ。成人の体格が大きくなっている先進国では出生体重も増加しており、減っているのは日本だけとか。出生時の体重や身長が、その在胎週数に応じた標準分布の下位10%以内に入る子を子宮内発達遅延(SGA)児と呼びますが、SGA児は筋肉や骨が少なく、相対的に脂肪がつきやすいため、成長後、メタボリック症候群を発症しやすかったり、食欲を抑えるレプチンがうまく働かないため過食になりやすく、糖尿病や高脂血症、高血圧、動脈硬化の危険が増すんだそうです。SGAまでは至らない低出生体重児でも同様の危険はあるそうです。

低出生体重児の原因ははっきりはしないようですが、女性のダイエット志向や高齢出産、喫煙など、いくつかの要因が考えられるようです。まあ、確かにそういうことも考えられるのでしょうが、私が思うに、産婦人科の行き過ぎた体重管理にもあるのではないかという気がしてなりません。最近私の周りで妊娠した人の話を聞くと、かなり徹底した体重管理をされている人が多く、皆一様に「体重を増やしちゃダメって言われてるんです」と言います。そしてまったくお腹が目立たないのに出産したということがよくあります。
リスクを少しでも減らすため、「小さく産んで大きく育てる」まさにそういったことを産婦人科が目指しているんだとばかり思っていました。どこか間違っているんじゃないかという思いもありましたが、そんな折の今回の報道だったので、私の中に、違和感があったことは否めません。小児科医師の中にブレはないのかもしれませんが、産科医療全体で見た場合、何が正しくて何が間違っているのか、よくわからなくなりました。

我が家の場合の子どもの体重は、ちょっと行き過ぎとしても、人間が健康を維持するのには、自然に逆らうような無理があってはいけないということなんでしょう。
過度なダイエットや過度な体重管理にならず、健康な赤ちゃんを産んでほしいものですね。
(文:大関 直隆)

2008/11/25(火)
第335回「公立学校の小中一貫教育」
私が高校を受験したころの埼玉県の状況といえば、公立高志向が強く、とにかくメインは公立高入試。3月1日の公立高の入試に照準を合わせて勉強していました。私立高は滑り止め。まず2月3、4日くらいに埼玉県内の私立高の入試が集中してあり、2月18日くらいに都内の私立高の入試がありました。
一般的な受験の仕方は、まず県内の私立高でどこか公立高を落ちたときの押さえをする。合格の確約を取れているところを受験するのが普通なので、まず間違いなく合格する。そして都内の私立高で、やや自分の実力よりも高めのところに挑戦してみる。うまく受かれば、そこに入学するかその後受ける公立高の合否の結果により授業料の安い公立高にするかを選択する。
元々公立高が本命の場合、都内の私立高も公立高のレベルよりもやや低い場合もあり、その場合は、もちろん公立高の合否の結果により、受かれば公立高に入学する。
まあ、こんなところが高校受験のやり方だったでしょうか。

そしてこれが、例の竹内克好県教育長の「偏差値廃止」まで、ほぼ変わりなく続いていました。「15の春を泣かすな」をスローガンに、公立高の数は急増し、少子化とも相まって入学定員と受験者の数が明らかに逆転し、一転「どこでもよければ、必ず入れる」(入学定員に満たないにもかかわらず、障害を理由に一部受験生の入学を拒否した
ことで問題になったケースもありますが)状況になります。

そのころから、推薦入学枠の拡大や中高一貫教育をする私立高が増え、それまで中高一貫教育を行ってこなかった公立高にも中高一貫校が登場するようになりました。
元々は、私立高の生徒の囲い込みが目的だったと言えなくもなくもない中高一貫教育が、そのメリットを強調することすることにより、多くの生徒を獲得しようとする私立高の思惑と、中学校ではのびのびと生活させ、あまり過酷な受験勉強をさせたくないという親の思惑(現在ではそれがただ単に受験競争の低年齢化になってしまっただけで、かえって厳しくなっている状況もありますが)が重なって、増加に拍車をかけることになりました。

中高一貫教育(学校によっては中、高、大)には、それなりのメリットがあります。部活動が盛んになる中学以降、受験勉強に割く時間がなくなるので、部活動に集中できる、中学校と高校での学習内容の精査をし、整理することで効率的な、集中的な学習が可能になる。6年間と期間が長くなることで生徒管理がしやすくなり(停学・退学という切り札を学校が有することで効果が絶大になる)、教師の負担が軽減する、などなど。そのことにより、文武に優れた生徒の力を伸ばし、部活動で優秀な成績を残したり、有名大学に多くの生徒を合格させるというところも出てきています。

ただしこれは、メリットを強調して見た場合であり、そこにはほんの些細なことで停学や退学になったりする生徒がいたり、学校が合わなくて短期間のうちに転校を余儀なくされたり、不登校になったり、あるいは学校経営を維持するためだけに存在する生徒になったりと、そのデメリットも多くあることも知っておかなければなりません。

そんな中で、うちの地域の小学校が、小中一貫教育モデル校(とはいえまったく同一の学校というわけではないので、中高一貫教育とは異なったものになると考えられますが)に指定されたというお知らせを孫が持ってきました。
この小学校は、私の子どもたちが14年間にわたってお世話になった小学校、中学校の方は12年間にわたってお世話になった中学校で、どちらもその間私がずっとPTA役員をやらせていただいていた小中学校です。一貫教育のメリットがやたらと強調される中、地域も小さく、2校あった小学校が合併により今年から1校になり、1中学校区、1小学校という体勢になったため、やりやすかったのだろうと思います。
まあ、前向きにということで進めようとする政策でしょうから、無理もないのですが、お知らせとともに実施されたアンケートは、どちらかというと肯定的に捉えた内容ばかりが並びます。学校から来るアンケートに否定的なことを述べるのは難しいという親の気持ちを考えると、デメリットがどこかに追いやられてしまう可能性があるとやや心配になりました。

中高一貫教育と小中一貫教育で大きく異なるのは、期間が長いこと、成長過程の部分で小学校1年生と中学3年生の開きがあまりにも大きいことなどがあげられます。人間はよく失敗をします。小学校で思ったような生活が送れなかった子は、中学入学をきっかけに別な自分を作ろうとすることはよくあることで、そういう意味では小学生から中学生になる時期というのは、思春期を迎えるとても大切な時期です。自分を変えたい、変えやすい時期でもあります。それをどう学校が理解し、教育に反映させていくのか。まだまだ失敗を本人の責任にすることは難しい年齢だけに、学校の対応次第では、伸びる子もでれば、潰れてしまう子も多くでる、そんな状況をはらんでいるなあと感じました。

子どもの持つ可能性を少しでも多く引き出せるよう、誰のためのどんな政策なのかということを、子どもの最善の利益を考えて進めていってもらいたいものだと思います。
(文:大関 直隆)

2008/11/17(月)
第334回「泰葉の離婚騒動」
今日は「泰葉(林家三平・海老名香葉子夫妻の次女)騒動」についてのコメントがほしいということで、女性自身の記者のK氏がやってきました。
今回の春風亭小朝と泰葉の離婚騒動の泰葉の行動についての分析ということでした。すでにほぼ書き上がっているK氏の記事を読ませてもらうと、海老名家(林家三平一家)の 子育てが浮かび上がります。
戦争で家族を亡くしてしまった香葉子さんの生い立ちや子どもを必死で育てる様子が、詳細に述べられているのですが、私の印象としては、ご自身が不幸な生い立ちを持っている分、子どもたちに入れ込んでしまって、親の期待を押しつけてしまっていたのかな、という印象です。もちろん芸能界のこと、何が真実で何が真実でないのかを判断することは難しいし、様々な要素で今回の騒動が持ち上がっているのは確か。子育て論だけで論じるわけにはいきませんけれど、記事の内容から香葉子夫人の子育てということに絞って、K氏と話をしました。

K氏とは旧知(というのか、17年前に取材を受けたことがきっかけで、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいています)の間柄。ご家族でうちに来ていただいたときに、小学生(たしか2年生か3年生だったと記憶していますが)ながら、ピアノを音楽性豊かに(どんな曲でも即興で転調するわ、アレンジするわで)弾いてくれた息子さんも今では24歳になり、某少年少女合唱団の指導者として活躍中とか。「泰葉」の取材が終わった後、久しぶりに一緒に食事をし、子育ての話やライブに夢中になっているというK氏の近況など、話に花が咲きました。

K氏は「私は好きなことやってるから」と楽しそうに何度もおっしゃっていましたが、基本的にはそれを子育てにも生かしているようで、お子さんも「朝から晩まで音楽三昧で、好きなことやってるから」との話。

海老名家はそこが違ったのかなあ???
記事を読む限り、海老名家の子育ては、子どもを「しむけた」、子どもに「させた」というのがほとんどの感じ。最近子育てに悩んでいる親たちが抱えている問題と共通しているように感じます。子どもをかわいがるあまり、子どもとの距離の取り方がうまくいかない。その適度な距離が子育てには大事で、距離があって初めて、子どもは自立していくわけです。ところがその距離がない。しかも、親自身が自分の人生に満足していないと、自己の欲求を子どもに肩代わりさせようとしたり、自分の要求を子どもに突きつけたり…。
時に子どもの失敗を親が尻ぬぐいして、子ども自身の責任感は消失する。親は、子どもをかわいがり一生懸命子育てをやっているつもりなので、虐待や放任と違い、親の悪さが際だたない。結果として、批判されるどころか、むしろ「いい親」、「仲のいい親子」と見られがちで、なかなか悪さに気づかない。
そんなふうに「泰葉」は、形成されていったのかな?
あくまでも、報道をそのまま解釈し、「泰葉」の行動が悪いという前提に立って分析すればという意味ですが。
海老名家とも親交があるというK氏は、「やっぱり香葉子さんも反省した方がいいのかなあ」と言って、帰って行きました。

どんな場合でも、子どもの行動には、親の育て方が反映するもの。子どもの行動に問題を感じたら、子どもの行動を批判する前に、まず自分の子育てを反省することが必要かも…。ここのところ同じようなことをずっと述べてきているけれど、子どもと親は別なもの。自己実現を子どもに求めるのはやめて、子どもには子どもの人生を歩ませたいものですね。
(文:大関 直隆)

2008/11/10(月)
第333回「学校にマニフェスト?」
11月8日の朝日新聞朝刊のトップ記事は「公立小・中が「学力公約」 学力調査正答率95%・中3の60%英検合格」という記事でした。東京都荒川区では今年度から「学力向上マニフェスト」を導入したそうです。

勉強をして結果として成績が上がるのは子どもですから、勉強をする子ども自身が目標点数を掲げて、それに向かって努力をするというのはわかるんですが、「勉強するのは子ども、尻を叩くのは教師」という構図のこういった目標が、果たしてマニフェストなのか、どうも引っかかってしまいます。

小学生向けの某有名塾が、順位を付けるためのテストばかり行っていて内容をほとんど教えないので、その塾のテストで高得点を取るために、多くの塾生がテキストを持って別の個別指導塾に通っているという話は、よく聞く話です。某塾とすれば、別に他の塾に通えと言っているわけではないでしょうけれど、家庭における負担(母親なり父親なりが毎日数時間にわたり着きっきりで教えないと宿題がこなせない)があまりにも大きいので、そうせざるを得ない状況があるわけです。
出した宿題がこなせなければ、塾は「この程度がこなせないようでは有名校には受かりません」「下のランクのクラスに落ちますよ」「他のお宅では皆やってますよ」と脅して、それで済ませているわけです。
おそらく教材に自信があるから「それでいい」と考えているのだろうと思います。もちろん、こなせれば、ある程度合格には目途が立つわけですが、果たして何割くらいの子どもたちがこなせるのか…。

それでも進学塾の場合、その塾についていけないと考える子どもは入塾していないことに加え、頻繁に行うテストで徹底したクラス分けがなされているし、全体として「正答率××%」なんていうことは言わずに、「××中学(高校) 合格××名」といった表記をしていることが多いので、「マニフェスト」を掲げているようで、実は結果だけの表記で目標としての「マニフェスト」を掲げているわけではない。それを公立の学校でやろうというのですから…。

新聞報道というのは、とかく大げさというか、センセーショナルな見出しを付けがち(特にこういう問題での朝日新聞は)なので、「公立小・中が「学力公約」 学力調査正答率95%・中3の60%英検合格」という見出しが、荒川区教委や現場の考えていることそのままかというとやや疑問は残りますが、その朝日新聞の記事の見出しや内容についての私の考えということで言えば、記事中にある教育評論家の尾木直樹氏の「数値目標を掲げた途端、教育は窒息しないか。
1人でも『切り捨てられた』という思いを持ったら失敗だ」(これももしかすると言葉足らずかも…と感じるのですが)というコメントには概ね賛成です。ここのところ、公立学校に通う子どもたちの学力低下が叫ばれ、行政はそれに応えるべく、様々な施策を打ってきています。今回の「マニフェスト」もそれに沿ったものです。数値目標というのは外部に対して大変わかりやすいので、受け入れられやすいということなのだろうと思います。「うちの教育委員会は、これだけ高い志を持って教育に取り組んでいる」そういったイメージを作りたいということもあるのでしょう。けれども、はじめに述べたように、点を取らなければならないのは子どもであって、教師ではない。
子どもがやる気になって自ら進んでやるということにより達成されるのであれば、それはそれで意味のあること(そこにも大人の誘導によってやる気にさせられているということがあれば、本来子どもが人として獲得しなければならないものの中で犠牲になるものも多いと思います)とは思いますが、数値目標というのは、そういうことを飛び越え、目標が目的になってしまって、目標達成のためなら手段を選ばないという結果になりかねない。
看護士を目指す学校(短大や専門学校など)で、正看護士の国家試験の合格率を上げるために、成績の悪い学生は受験させず、分母を在籍数ではなく受験者数にして合格率を上げているという話を聞いたことがあります。

社会保険庁の保険料の納付率をあげる手段とよく似ていますよね。目標達成に邪魔な子は、どんどん排除する。そういうことが起こる可能性もある。また、某塾のように成績を伸ばすためにどんどん宿題を出して、家庭での負担を増やすということも考えられる。「しつけのできていない子が増えている」という一方で、本来学校が担わなければならないことを家庭に押しつけ、しつけをする余裕さえ奪ってしまう可能性だってある。公立学校の持つ役割はなんなのかということを改めて考える必要がある。

「マニフェスト」といって掲げるのなら、子どもたちへの押しつけの前に「自分たちは××しますということをはっきり謳って、その結果として子どもたちの成績が伸びる」という展開をしてもらいたいものです。
忙しい、忙しいと言われる(自分たちが言っている)中学教師の中、2年間も発覚せずに勤務時間中に乗馬クラブに通っていたという教師がいました。高校の修学旅行の昼食時にビールを飲んでいたという教頭や教師もいました。
もちろんすべての教師がそうというわけではありませんが、個々の教師が起こした事件というのとは違い、教師全体の勤務実態の問題と捉えるべきことだろうと思います。現場の勤務実態を教師自らの評価でなく、正しく開示することで今後の教育のあり方を議論することが大事でしょう。

まず、教師自ら襟を正す。子どもたちに強いる前に、そんな「マニフェスト」を作ってもらいたいものだと思います。
(文:大関 直隆)

2008/11/04(火)
第332回「文化の違いとグローバル化 その2」
前回は、給食のパンを詰まらせて窒息するというショッキングな事故があったので、予定を変更して、学校給食についての考察を述べさせてもらいました。

今回は、前々回のつづきです。

ちょっと間が空くと、必ずどこかで事件・事故が起こって、「ああ、これについても何か一言」「これについても…」「あれについても…」とまったく激動の世の中で、ついて行くのが大変です。
今回も、文化の違いと関連して一つ。
10月31日(日本時間の1日午前)に、また強盗と間違えられた12歳の少年が銃で撃たれて死亡するという事故が米国、サウスカロライナ州で起きました。ハロウィーンでは1992年、愛知県から米国、ルイジアナ州の高校に留学していた16歳の日本人少年が、仮装パーティーに参加しようとして訪問先を間違え、住民男性に射殺されるという事故が起こったことをご記憶の方も多いのではないかと思います。日本でも、銃による犯罪が増えてきているとはいえ、まだまだ銃というものは国民感覚からはかけ離れています。日本では、子どもが銃による犯罪や銃による事故に巻き込まれることはほとんどありません。今回のハロウィーンでの事故も、アメリカという銃社会が引き起こしたなんとも痛ましい事故でした。「自分のことは自分で守る」という考え方が浸透しているアメリカで、銃の所持はなんの疑問もないことになっています。事件や事故が起こるたびに、銃規制の問題が取りざたされますが、銃を扱う企業、産業などからの圧力もあって、規制の実現はほど遠いようです。日本人の感覚からは、到底考えられないことです。

さて、フランスに渡った努は、3年間まったく帰国することなく、カンヌでバレエ学校に通いながら生活していました。渡仏してから初めて日本に帰ってきたとき、すっかりフランスかぶれしていたのか、それともわざとなのかはわかりませんが、玄関で靴を脱がずにリビングまで入ってきました。
「何やってんだよ!?」
とみんなが一斉に非難すると、
「ああ、そうだっけ? ごめん、ごめん」
と白々しい様子。まあ、そんなやり方も努らしいといえば努らしい。その時は、フランスから持ってきたコーヒーのポットで、ドロドロになるまで煮詰めて、デミタスカップに入れたやたらと濃いコーヒーに、ミルクと砂糖をたっぷり(ミルクはそれほどでもありませんが、角砂糖は7〜8個)入れて、飲んでいました。
「なんだよ、それ!?」
「ん? いつもこうやって飲んでるの」
私もちょっと飲んでみましたが、コーヒーというよりは、むしろビターチョコといった感じでしょうか。
その後、バレエ学校を卒業した努は、ハンガリー、イスラエルを経て、オーストリアの劇場で踊ることになりました。様々な文化圏を渡り歩くことで、様々な体験もしたようで、イスラエルでは、地雷をよけて遠回りした大型バスの中で、アジア人というだけで、テロリストと疑われ、一緒に乗っていたダンサー仲間から一人隔離され、兵士数人に銃口を向けられたこともあったそうです。また、オーストリアでは、友達と道路に自転車を止めて話をしていると、ネオナチと思われる年配の男性から、いきなりつばを吐きかけられたこともあったんだそうです。

第2次世界大戦で同盟関係にあった日本とドイツとは考え方が近いと言われることがありますが、努が我が家へ連れてきた何人かのドイツ人女性を見ていると、とてもそんなふうには思えません。ものの見方、自己表現の仕方、どれをとってもドイツ人はドイツ人。私は、いつもそういう彼女たちと文化の話をします(ドイツ語もちろん英語もほとんどしゃべれないので、努が通訳をしてですが)。グローバル化が進む中、お互いに相手の国の政治や文化といったものを頭では理解しているので、話としてはよくわかります。けれども、感覚はなかなか近づけることができません。この夏、我が家を訪れた歌手のカトリンとも長時間にわたって文化について語り合いました。いろいろな場面、場面でのものの考え方や「わび・さび」についても話しました。カトリンも話し好きでかなり深い話ができたと思っていますが、感覚という部分で、カトリンが理解したかどうか。

どんなに個人と個人が親しくなったとしても、国と国とが親密な関係になったとしても、文化の違いはあります。グローバル化の波に飲み込まれるのが必然だとしても、すべてを同化させるのではなく、自分の持っている文化の感覚を大切にしながら、お互いの違いを認め合い、そして違いを超えた相互理解の上で、グローバル化していけるような、そんな世界になったらいいですね。そんな世界を目指して、子育てをしたいものです。
(文:大関 直隆)

2008/10/27(月)
第331回「緊急提言 給食のあり方を考える」
給食のパンを喉に詰まらせ死亡するという、とても痛ましい事故が起こってしまいました。亡くなったお子さんのご両親はもちろん、一緒に給食を食べていた子どもたち、担任の先生にとっても、なかなか心の傷の癒えない大きなショックであったろうと思います。

今回は、前回の続きである「文化の違いとグローバル化 その2」の予定でしたが、ちょっと予定を変更し、今回は、前述の事故を受けて、給食について考えてみることにしました。
皆さんすでに報道でご存じことと思いますが、ざっと今回の事故の概要をお話しすると、

千葉県船橋市立峰台小(末永啓二校長、児童数696人)で6年の男子児童(12)が、17日午後0時45分ごろ、給食に出たはちみつパン(直径10センチ)を一口食べた後、二つに割って一度に口へ入れたところ、突然苦しみ出した。担任の女性教諭が気付き、洗面所で吐き出させたが、教室に戻った後、再び「苦しい」と訴えたため教諭らが背中をさすったりしたが収まらなかった。
市消防局によると、学校側の通報で午後1時ごろに救急車が到着したが、既に心肺停止状態だった。同乗していた医師らが器具を使ってのどに詰まっていたパンを取り出し、心肺蘇生をして病院へ運んだが、同6時15分ごろに死亡した。
(毎日新聞より抜粋)

というものです。当初、校長の説明は、あわてて無理矢理パンを押し込むような状況はなかったというものでしたが、遺族からの再三にわたる疑問の投げかけに対し、その後の遺族への謝罪と記者会見で、友達が「おれはこのパンを前に3秒で食べたことがあるんだよ」と話したのを児童が聞き、「おれはもっと早く食べられる」と、パンを二つに割って口の中に入れたという状況であったと説明を修正しました。

東京消防庁の発表によると、06〜07年に東京都内で食べ物をのどに詰まらせて救急搬送された患者は2443人で、うち71人が病院到着時までに死亡。食べ物をのどに詰まらせる事故は高齢者や乳幼児に多く、70歳以上が1501人、5歳以下が426人。死亡した71人は全員50歳以上で、のどに詰まらせた食物は、ご飯・すしが377人、餅が241人、野菜・果物が200人、パン類は135人だそうです。パン類を詰まらせた例では、135人中8人が死亡、42人が重体や重症の状態で運ばれていて、パン類による窒息の場合、他の食べ物に比べ、死亡や重症になる割合が高くなっていることがわかります。これはあまり知られていない事実ではないかと思います。
こういう数字を見ると、「食べる」という行為が人間にとって、かなり危険な行為なんだということがわかります。

平成17年6月10日、「食育基本法」が成立し、知育・徳育・体育と並んで「食育」が学校教育でも大きく取り上げられるようになりました。人間にとっての「食べる」ということの意味や生きるために必要な栄養価の大切さを学習したり、地域の特長を生かした給食が提供されたりと、「食べる」ということが学校教育の中でもある一定の地位を築き、マスコミもこぞってそういう状況を報道してきたように思います。

しかし、教育における「食」が、充分に正しく教えられているとは到底思えません。第315回の中でもちょっと触れましたが、孫の給食試食会では、私たちの子どものころに増して、「時間内に食べる」ということ、「静かに食べる」ということが強調されていました。学校教育における「食育」ということが果たしてそれでいいのか、丁寧に検証する必要があるのだろうと思います。
友達が「おれはこのパンを前に3秒で食べたことがあるんだよ」と話したのを児童が聞き、「おれはもっと早く食べられる」と、パンを二つに割って口の中に入れたという状況が、なぜ起こったのか…。

学校教育の中での「食育」が「早く食べる」「全部食べる」ということに偏りすぎていないか、テレビ番組にある大食い競争や早食い競争が「食」の大切さをないがしろにしてきたのではないか…。確か以前に早食い競争だったか大食い競争だったかで事故が頻発し、テレビからその手の番組が消えた時期があったように記憶しているのですが、そんなことがあったことはすっかり忘れられ、大食い競争に勝った人たちがアイドルと化してしまう時代。ダイエットブームが持てはやされている一方で、大食いや早食いも持てはやされる。「生きるための食」が「遊ぶための食」にすり替わってしまっている。
これを機会に、学校や家庭では「食」についてのあり方を改めて考える、マスコミ各社は「食」についての乱暴な番組作りを一切やめる。そんなことが重要なのではないかと思います。

今回の事故をただの事故として忘れ去るのではなく、改めて「食」について考えるきっかけとして欲しいと思います。
(文:大関 直隆)