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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2006/12/18(月)
第240回「教育基本法改正」
とうとう教育基本法が改正されました。今回の改正は、タウンミーティングのやらせ問題が発覚したにもかかわらず、その責任を安倍首相を始め、タウンミーティングに関わりのある閣僚が、給与の一部を返納するという形で処理をし、やらせ問題に一応の幕引きを図った上で、半ば強引に成立させたものでした。改正自体は、衆議院、参議院において審議に費やした時間等を考えれば、手続き上問題のあるものではありませんが、タウンミーティングで、国民の声を聞くことが改正の大きなきっかけ作りであっただけに、賛成の世論形成が、多額の税金を使ったやらせにより、法案提出側の政府によって画策されたとすれば、法案制定の過程に大きな瑕疵があったわけで、給与の返納という一時的な責任のとり方ですませていいわけがありません。筋からいえば、当然タウンミーティングはやり直すべきでしょう。こういうことが繰り返されると、これまで以上に教育行政に対する信頼は揺らぎます。たまたまテレビの国会中継を見ていたときに、神本議員の「お金で解決するのか?」の質問がありました。ちょっと興奮気味に「お金で解決するという言い方は失礼じゃないですか」と答えた安倍首相の態度にはがっかりしました。

学校で事件が起こると、加害者になった児童・生徒に、被害者になった児童・生徒のところに菓子折か何かを持って謝りに行くよう、学校から指示されることがよくあります。私も親として謝りに来られた経験が2回あるんですけれど、「おいおい、菓子折で解決するんですか?」(加害者になった子どもに対してではなく、学校に対して)と言いたくなります。ほとんどの場合、加害者になった子どもと学校との関係性の問題から起こっていることなのに、菓子折を持ってこさせてすまそうとしたところで、何も根本的な解決につながらないからです。

今回の安倍首相の答弁は、それとよく似ているなあと思いました。大切なのは、責任論ですませることではなく、タウンミーティングを真に有効なものにすることです(もっともタウンミーティングという手法を「認める」「認めない」の問題はありますが)。そういう視点の欠けている今回のやり方、これが、今まさに「教育」(行政も現場も含めて)に問われている問題なのだと思います。にもかかわらず首相からしてこれでは・・・。

私は、これまでの教育基本法を絶対に改正するべきではないと思っているものではありません。以前から、何度か言ってきましたが、時代は変わります。最近では、そんな話も出ないでしょうが、真(まこと)、麻耶(まや)が小学生のころは、「鉛筆をナイフで削れない子がいる」「風呂敷を縛れない子がいる」なんていうことが、PTAの中で大問題だったわけですから、おかしなものです。ひょっとするとこれを読んでくださっている方の中にも、「風呂敷」がわからなかったり、「ナイフ」をカッターナイフと思っている方がいますよね。「ナイフ」っていうのは、「ボンナイフ」ですよ。よく「不良」って言われた子たちが喧嘩のときのために持っていたんです。もちろん「不良でない子」も筆箱の中に入れていましたが。

子どもの遊びはどんどん変化し、大人の生活も変わりました。私が子どものころにはなかったファミレスやコンビニが登場し、いろいろなものが機械化され、一日中、一度も人と話をしなくても生きていかれる社会になった。この急激な変化の時代に、変えてはいけない法律があるというのもナンセンスだと思います。もちろん、教育基本法もその例外ではない。

が、それでは、時代の流れに合わせて改正すべき部分が教育基本法に本当にあったのか、また改正をしようという国民的議論があったのかと言えば、どうもそこには疑問がある。今回の改正で、いくつかのの問題点が指摘されています。皆さんよくご存じの、愛国心や道徳心の問題、男女共学の問題・・・。そういうところも問題だと思いますが、私が今回の改正で最も危惧しているのは、法律の方向性ということです。これまでの教育基本法は、国民の教育のために国が果たす責任を明確化したものでした。けれども、今回の改正でその方向性はまったく逆になり、国のために国民はこうあるべきという方向性になってしまった。これは明らかに文明の退化です。

これまで繰り返し述べていますけれど、子どもの成長にとって最も大切なことは、自ら選択し、自ら獲得すること。大人の価値観を押しつけるのではなく、「選択できる幅をいかに広げ、いかに獲得しやすくしてやるか」が大人の責任だと思うのですが、国家がこれではね。国旗・国歌やいじめに特化したこんな目先の法律を作るより、半世紀以上がたっても古さを感じないこれまでの教育基本法のような、遠い時代を見据えた、真に国民のための法律を作ってもらいたいものです。
(文:大関 直隆)

2006/12/11(月)
第239回「最近の親子事情 その3」
今日(10日)は、浦和教育カウンセリング研究所主催で、子どもの自殺を考える緊急シンポジウム「子どもを自殺に追いやらないために」を開きました。埼玉弁護士会で子どもの権利委員会に所属し、「子どもの弁護士ホットライン」に関わっておられる岩本憲武弁護士をお招きして、「子どもたちの叫び」−少年犯罪の現場から−と題するお話を聞かせていただきました。事件の中に垣間見える親子関係には心が痛むものがあります。完全に崩壊した夫婦関係の中で育った子、まったく経済力のない母親一人に育てられた子、希薄な親子関係の中で育った子、それぞれ子どもの抱える心の闇には、大変深いものがあります。

板橋の両親殺害事件に象徴される、少年事件の厳罰化が果たして正しい方向なのか。裁判所は両親による重大な虐待はないとの判断だったようですが、言葉による虐待が繰り返されていたことが明らかになっているだけに、情状酌量の余地がなかったのか、懲役14年の実刑判決には、大きな疑問を抱かざるを得ません。

今日の岩本先生のお話からも、事件を起こす子どもたち自身の責任を感じることはできませんでした。大人によって歪められていく子どもたちの心、豊かな愛情に包まれ育てられてさえいれば、おそらくまっとうな子どもに育ったであろうことは充分想像できます。単純に厳罰化を進めるのではなく、こういうときだからこそ、大人の問題としての捉え方が重要になっているのだろうと思います。

さて最近の、あまりよくないと考えられる親子関係は、大きく分けて二つのパターンに分けられます。何度かこの連載の中でも触れてはきましたが、一つは、親が自分自身の生活を大切にし、子育てをほとんど放棄してしまっているようなパターン。もう一つは、「子どもなしでは生きられない」という親のパターン。もちろん、それが複雑に絡み合って、両者を行ったり来たりしているよう場合も考えられます。

教育問題が政治的に利用されようとするとき、「戦後の行き過ぎた民主教育」という言葉がよく使われます。しかし、学校における子どもたちの状況や親の主張、あるいはうちに教育相談に訪れる子どもたちの状況などを見ていると、「戦後の民主教育」などというものでは全くなく、日本経済に踊らされた親子関係、特に80年代バブル期における国民全体の消費志向の高まり、それが現代の教育問題に大きくのしかかってきていると言っても、過言ではないと思います。

バブル崩壊後、日本は長期の不況に見舞われました。しかし、そこで国民の意識が変わったかというと、どうも変わっていない。むしろ景気が悪くなればなるほど、企業は物を売る努力をするので、日本全体の消費支出の総体は減ったとしても、「お金があったら買いたい」あるいは「安い物なら買いたい」という意識は根強く存在した。おそらく、国の財政はほとんど破綻状態だったにもかかわらず、個人の懐はそれほどでもなかったのではないでしょうか。だから、景気が回復する以前から、ブランドブームが押し寄せた。これは、経済を優先してアメリカ化を強く押し進める政府の政策ともぴったり合致しているのです。

高校を中退し、万引きや援助交際を繰り返す子の話をよく聞き、行動を分析すると、“やめられない消費”(物を買うことが喜びといった)にたどり着くことがほとんどです。それほど高い物ではないにしろ、あまり必要とは思えないような物を次から次へと買う。あるいはダイエットのために薬やサプリメントを使ったり、エステやジムに通ったり・・・。使うためのお金が必要なのだから、楽にお金を得る方法を考える。親にお金をせびったり、ときには親の財布から黙ってお金を抜いたり、さらに一歩進んで援助交際をしたり・・・。しかしそれも、もとをたどれば、お金を使うことに抵抗のない親の消費志向にたどり着きます。親の夜間の外出や頻繁に行われる外食といった子どもの心と結びつくような場面の少なさ・・・。

そういったケースでは、親は自分のために生活を回している場合が多く、例えばお金を子どもに与えるにしても、思春期を迎えた子どもとの壮絶なバトルを嫌って、自分が楽になるために、子どもをおとなしくさせようとお金を与えることが多いのです。また、子どもにすべてをかけてしまっている親の場合、夫婦関係に問題があったり、地域の中で孤立をしているといった場合が大変多い。人間は関わり合いの中で生きている動物ですから、夫との関係が希薄であったり、地域との関わりが少ない中で生きていくのは困難です。結局、その困難さを乗り越えるために子どもを利用することになります。子どもに過度の期待を寄せて子どもが不登校や自殺に追い込まれるケース、何でもない子どもを病気と称して抱え込んでしまうケースなど、少なくありません。不登校や引きこもりで悩みながら、いざ子どもの状態が改善すると、親が再び子どもが不登校や引きこもりになるよう策を弄する(もちろん自分では子どものためにやっていると思っているのですが)こともしばしばです。

病める子どもたちは、自ら選択してそうなっているわけではなく、ほんのちょっと親の関わり方が変われば、大きく生きる方向を変えることができるのです。とは言え、親が子どもにうまく関われないのも、親自身の責任ではなく、もっとはるかに大きな力が働いてのことではあるのだろうと思いますが、めまぐるしく変わる社会の中で、まず子どもの一番身近にいる親が、自分の子育てを振り返り、子育てはどうあるべきか、そして今自分が、目の前にいる子どもにどう接したらいいのかを考えるときなのではないかと思います。

子どもの弁護士ホットライン 毎木曜日15:00〜18:00
TEL 048−837−8668(“ヤァみんな ハロー ローヤー(弁護士)”と覚えてください)

埼玉弁護士会の弁護士の皆さんが、子どもの皆さんからのお電話を待っていてくださいます。もちろん一切無料です。困ったときは、一人で悩まず、ぜひお電話してみてください。法律関係のことに限らず、どんなことでも相談に乗ってくださいます。
(文:大関 直隆)

2006/12/04(月)
第238回「いじめ問題への緊急提言」
今回は前々回からの続つづきの「最近の親子事情 その3」の予定でしたが、教育再生会議より「いじめ問題への緊急提言」が発表され、いろいろと議論になっていますので、「最近の親子事情」は次回に送って、緊急提言に対するコメントを述べることにしました。

教育再生会議の構成メンバーは、果たして教育のことがわかっているのだろうかと疑問を感じます。教育を語る人間には、いじめる子、いじめられる子を問わず、どんな子もかけがえのない一つの大切な命として、平等に扱う感覚が要求されていると思うのですが、果たしてそういった委員がどれだけ存在するのだろうと大変不安になります。

例のヤンキー先生こと義家弘介氏が主張する「出席停止」が、見送られたことは一応評価はしますが、「見て見ぬふりも加害者」としたり、毅然とした対応の例示が、社会奉仕、個別指導、別教室での教育などと、加害という概念が非常に広く解釈されていたり、いわゆるいじめた側を一方的加害者と断ずるような提言には、到底納得しがたいものがあります。飲酒運転や少年事件への厳罰化という政治の流れをくむものですが、子育てや教育は、厳罰化では対応できないことは明白です。

筑紫哲也をはじめとするニュースキャスター(フジTVはやや違ったニュアンスですが)が、提言に対してもっぱら批判的なコメントを発しているのも、当然のことと思います(ワイドショーのコメンテーターの中には、「来させなければいい」などといった発言を非常に安易にする人がいますが)。

よく言われるように、いじめる側といじめられる側は紙一重。それを現場に求めるのは無理があります。いじめられた子が、いじめる側に回ることも少なくなく、はっきりした線引きは容易ではありません。「いじめ」という行為が、なぜ起こったかを深く掘り下げていけば、「いじめ」という行為自体は、許し難い行為だとしても、いじめた子を、単に厳罰に処したり、他の子と差別化を図ったりすることだけでは、「いじめ」という行為の本質に何ら迫っていないことに気付くはずです。

もちろん、いじめが起こっているまさにその時には、毅然とした態度で接することが必要であることはもちろんですが、それはあくまで緊急避難的措置(先日、テレビ放送(日テレ?)の中で他のコメンテーターが出席停止は当然といったコメントを連発する中、精神科医の香山ミカだけ「緊急避難といじめ対策は別」というようなコメントをしていました)であって、そうした措置が「いじめる子」「いじめられる子」の差別化を助長し、かえってマイナスになる可能性も大であることを充分に意識しながらの措置でなければなりません。「いじめる子」になる原因の一つに、「疎外感」が考えられますが、差別化こそ疎外感を助長するものだからです。

いじめに対する対応としては、いじめられた子の心のケアはもちろんとして、いじめた子にも心のケアをすることが大切です。何よりもまずいじめた子の心を理解し、癒してやること。どうしていじめたくなるのかを追求し、そこに効果的な手を打つ以外に、いじめをなくす有効手段はありません。

提言の中には、地域という言葉が何度か登場しますが、委員諸氏はどれだけ地域に密着した生活を送っているのでしょう。地域がどのような状況になっているかを検証もせず、安易に地域を持ち出しても、何の意味も持ちません。「おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気付いた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う」というくだりがありますが、大人の地域社会が崩壊寸前の現状で、しかも多くの学校で、「声をかけてくる見ず知らずの人間を不審人物として扱っている」ことを考えれば、地域社会の力を利用しようとするのには、現状のままでは無理があります。公園もない、学校も開放されていない、地域に存在した駄菓子屋はコンビニに取って代わり、駅前の塾まで自転車や親の運転する自家用車で通う。日々の買い物ですら地域からはほど遠い大型店。そういった状況の中で、大人も子どももどんどん地域との関わりを失っているのです。もし、地域の力を活用しようというなら、もっと地域を活性化させるような政治的施策を施さないと…。

まず大切なのは、いじめている子への厳罰ではなく、いじめている子の心にどれだけ寄り添えるかということです。どんなにひどいいじめっ子だとしても、「生まれながらにいじめっ子」などということはあり得ないのだから。

ちょっと長くなりますが、以下「いじめ問題への緊急提言」全文です。

 すべての子どもにとって学校は安心、安全で楽しい場所でなければなりません。保護者にとっても、大切な子どもを預ける学校で、子どもの心身が守られ、笑顔で子どもが学校から帰宅することが、何より重要なことです。学校でいじめが起こらないようにすること、いじめが起こった場合に速やかに解消することの第1次的責任は校長、教頭、教員にあります。さらに、各家庭や地域の一人一人が当事者意識を持ち、いじめを解決していく環境を整える責任を負っています。教育再生会議有識者委員一同は、いじめを生む素地をつくらず、いじめを受け、苦しんでいる子どもを救い、さらに、いじめによって子どもが命を絶つという痛ましい事件を何としても食い止めるため、学校のみに任せず、教育委員会の関係者、保護者、地域を含むすべての人々が「社会総がかり」で早急に取り組む必要があると考え、美しい国づくりのために、緊急に以下のことを提言します。

(1)学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>
(2)学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。<例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保するため校内で全教員が一致した対応をとる>
(3)教員は、いじめられている子どもには、守ってくれる人、その子を必要としている人が必ずいるとの指導を徹底する。日ごろから、家庭・地域と連携して、子どもを見守り、子どもと触れ合い、子どもに声をかけ、どんな小さなサインも見逃さないようコミュニケーションを図る。いじめ発生時には、子ども、保護者に、学校がとる解決策を伝える。いじめの問題解決に全力で取り組む中、子どもや保護者が希望する場合には、いじめを理由とする転校も制度として認められていることも周知する。
(4)教育委員会は、いじめにかかわったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する。<東京都、神奈川県にならい、全国の教育委員会で検討し、教員の責任を明確に>
(5)学校は、いじめがあった場合、事態に応じ、個々の教員のみに委ねるのではなく、校長、教頭、生徒指導担当教員、養護教諭などでチームを作り、学校として解決に当たる。生徒間での話し合いも実施する。教員もクラス・マネジメントを見直し、一人一人の子どもとの人間関係を築き直す。教育委員会も、いじめ解決のサポートチームを結成し、学校を支援する。教育委員会は、学校をサポートするスキルを高める。
(6)学校は、いじめがあった場合、それを隠すことなく、いじめを受けている当事者のプライバシーや二次被害の防止に配慮しつつ、必ず、学校評議員、学校運営協議会、保護者に報告し、家庭や地域と一体となって、解決に取り組む。学校と保護者との信頼が重要である。また、問題は小さなうち(泣いていたり、寂しそうにしていたり、けんかをしていたりなど)に芽を摘み、悪化するのを未然に防ぐ。<いじめが発生するのは悪い学校ではない。いじめを解決するのがいい学校との認識を徹底する。いじめやクラス・マネジメントへの取り組みを学校評価、教員評価にも盛り込む>
(7)いじめを生まない素地をつくり、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、しかるなど親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気付いた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。子供たちには「いじめはいけない」「いじめに負けない」というメッセージを伝えよう。
(8)いじめ問題については、一過性の対応で終わらせず、教育再生会議としてもさらに真剣に取り組むとともに政府が一丸となって取り組む。
(文:大関 直隆)

2006/11/27(月)
第237回「最近の親子事情 その2」
ついさっき茨城県笠間にある工房ヒメハルの穴窯(薪で焚く陶芸窯)での焼成を終え、帰ってきました。ヒメハルというのは、笠間から益子に向かう途中の仏頂山に生息する天然記念物、片庭ヒメハルゼミから取ったもので、この工房ヒメハルは、私が長年陶芸窯の築窯をお願いしている橋本電炉工業が所有していて、そこの穴窯をお借りして焼成させていただいています。工房ヒメハルの穴窯による焼成は、今年3月に初めて行いました(第203回「ゆっくりと過ぎる時間」参照)が、その時の評判が大変よかったため、当初年1回の焼成を予定していましたが、急遽今回の焼成になりました。前回に引き続き、数日間におよぶ穴窯焼成は、陶芸教室を休みにしないで行うために窯焚きを手伝えるスタッフの数と時間が限られており、私一人にかかる肉体的負担も大きいので、今回もけっこうきつい窯焚きになりました。今回は3昼夜、約74時間ほどの焼成でしたが、その間眠ったのはわずか4時間。「もう限界」という感じです。

その今回の焼成を支えてくれたのが、現在工房ヒメハルで作家として活動し始めたO氏。川崎育ちのO氏は、川崎で仕事を持っていましたが、その仕事を辞め陶芸作家の道を選び、数年前から笠間で作家として生計が立てられるよう努力を続けています。まだ道半ばというところでしょうか。かろうじて生活はしているようですが、普通に生活ができるようになるまでには、あと少しといった様子でした。
「もっと寒いと思ってたら、今回は窯の周りを薪で囲んだのが幸いしたのか、火を入れたばっかりでまだ窯が暖まっていなかったのに、夕べは寒くなく過ごせましたよ。前回は2晩、とんでもなく寒いおもいをしましたからね」
「ほら、前回大関さんが窯焚きをしていたときがありましたよね。大関さんが窯焚きをしているっていうのは聞いてましたけど、あのころの私は、まだここできちっと仕事してたわけじゃなくて、その辺のコンビニの駐車場で寝袋に入って転がって寝てたんですよ。あのときはまた春なのに寒かったんですよ」

「変わった若者だなあ」と思いました。陶芸家を目指す人の中には、ときどきこういう人がいます。有名美術大学で陶芸を学び、生活は親がかりで、比較的楽に陶芸作家としてデビューする人もいれば、かなり厳しい経営状況の陶芸業界の中で、製陶所への就職もままならず、O氏のように必死でデビューを目指す作家のたまごもいます。とりあえず生きていくことだけはできるようになったO氏は、満足そうに、
「泣き言みたいなことは言えないですよね。同級生なんかと会ったとき、そんなこと言ったら“おまえ自分で選んだんだろ”って言われちゃいますよ」
と笑っていました。

彼に年齢のことは聞きませんでしたが、30歳は越えているだろうと思える彼の両親はどう思っているんだろうと思いました。“充分な生活”にはほど遠い彼の生活ですが、そこには“充分な満足”は感じることができました。これから彼がどんな生活を送るのか、それは彼自身が決めていくことですが、そこに“充分な生活”が待っていなくても、きっと彼は“充分な満足”を手に入れることはできるんだろうな、と思いました。

カウンセリングや教育相談を受けに来る子どもたちを見ていると、そこには共通していることがあります。それは、子どもたちが自分の夢を持てなくなっていることと、親の夢(自分の子どもにはこう育ってほしい)を押しつけられていること。当たり前といえば当たり前ですが、この2つがセットになっていて、子どもたちの上に大きくのしかかっているのです。うまくいけば、その「親の夢」は、“充分な生活”を保証するものなのですが、たとえうまくいって“充分な生活”を手に入れたとしても、それは親にとっては“充分な満足”でもあるのに、あくまでもそれは「親にとって」であり、子どもにとって“充分な満足”につながるとは限りません。

O氏の生活が、人間にとってすばらしい生活であるかどうかは、価値観の問題ですから、何とも言えません。けれども、どんな子どもたちにも必要なのは、“充分な生活”なのではなく、“充分な満足”なのだということには、確信を持っています。

どうしたら子どもたちにおける“充分な満足”が手に入れられるのか、さらに考察を続けたいと思います。

つづく
(文:大関 直隆)

2006/11/20(月)
第236回「最近の親子事情 その1」
11月15日は、娘の麻耶(まや)の誕生日。その日は13日で2日早いけれど、「今日だったら私も妻も何とか時間が取れるから」ということで、
「どこか外で食事でもしようか」
ということになりました。

ところが、私は11日(土)に大腸ポリープを取ったばかり。去年の春にも、大腸ポリープを取ったんですけれど、結構大きなポリープがあったので、先生曰く、
「もう少し大きかったら、お腹を切るところだったよ」
ということで、大きな傷があるにもかかわらず、さらに傷の数が多くなるのを嫌ってか、全部は切除しなかったとのこと。
「まだ、残っているけど、あとは来年の5月ごろ取りましょう」
ということになっていました。なかなか時間が取れなくて、やっと11月になって切除ができたというわけです。

そこの病院では、土曜日にポリープを取るために、金曜日の昼から食事を検査用の柔らかくて軽い、レトルトの検査食のみに制限されます。そして、土曜日に内視鏡で確認しながらポリープを切除するのですが、小さなものでもポリープを切除すると、基本的には翌日、日曜日の昼まで入院させられます。昨年は、あまりの大きさのため、月曜日の昼まで泊められてしまったのですが、今年は日曜日の昼までですみました。

13日は、退院の翌日。12日の午前中までは点滴のみ。お昼にやっと葛湯(?)のような物が、どんぶり一杯。夜は、病院からもらったレトルトの重湯。13日朝は、やはり病院からもらった、ささみ入りのおかゆ。お昼は、やっとうどんかバター付きのパン、夜は白身の煮魚とおかゆならOK。そんな具合で普通食が食べられるのは、16日(木)以降。

娘の誕生日に、娘と孫と食事をするのにはどうかとは思ったけれど、うどんか白身の煮魚という私の状況が許すところということで、和食系のレストランに行くことになりました。まあやや値段の高めな和食のファミレスなので、普段は小さい子ども連れというのはまずいないのに、どういうわけかその日に限って、一部屋に5テーブルあるうちの3テーブルが埋まっていて、3テーブルとも幼稚園以下の子どもがいるという状態。何となく雰囲気が落ち着かないなあと気にしていたら、さっそく隣のテーブルの女の子が泣き出しました。2歳くらいの女の子を連れた、やや年齢の高そうな夫婦です。ちょっと話をするのにも、邪魔になるくらいの泣き声なのに、なかなか部屋から連れ出そうとしません。わが家の他のもう一組もちょっと気になるらしく、ちょっとうっとうしそうな仕草をしています。さすがに私もちょっとイライラしてきたその時に、やっとお父さんが子どもを抱いて立ち上がりました。

しばらくすると、泣きやんだ子どもを抱いてお父さんが戻ってきましたが、戻ってくると間もなく、また子どもがぐずり始めました。やはりしばらく泣かせていましたが、今度はお母さんが子どもを連れて部屋から出て行きました。

そこまではまだ我慢ができたのですが、そこからさらにひどいことになりました。
戻ってきたお母さんと子どもは、何か手におもちゃを持っています。そのおもちゃをテーブルの上に置くとお母さんと子どもで、そのおもちゃを袋の上からいじり始めました。

「か」「め」、「し」「か」、「さ」「る」・・・。文字を押すとその音(おん)を発声するおもちゃじゃありませんか。かなり大きな音で、そのうるささといったら、泣き声といい勝負。さらに歌が流れるボタンもあって、とうとうお母さんが、そのおもちゃに合わせて歌を歌い始めたのです。せっかく娘の誕生日にゆっくり落ち着いて食事でもしようかということでやってきたのに、とんでもないことに。

「あれさぁ、買ってきたんじゃないんじゃないの? たぶんレジのところにあるおもちゃを勝手に借りてきて使ってんだよ!」
と麻耶が言いました。
「まさかぁ。あんなに乱暴に使ってるじゃないかぁ」
私はまさかと思いましたが、確かに買ったにしてはビニールも開けないし、腑に落ちないところもありました。やがて、食事が来て、とりあえず食べている間はやや静かになりましたが、食事が終わると、
「××ちゃん、おもちゃ返してこようね」

「ん? ほんとだぁ! 勝手に使ってたんだぁ!」
そのあまりにも平然とした態度に、ただただビックリ。
ごく一般的な親子に比べると、やや遅い出産だったのかなあという感じの夫婦で、よく言う「今どきの若いお母さん」というのからは、はずれている年齢だと思います。社会的常識という点で考えれば、当然ある程度の常識を持っていていい年齢だと思いますが、まったくそういう常識が働いていない。

一人の大人(ここでは夫婦ですが)のモラルのなさということはもちろんなのですが、どうもそれだけではなくて、「自分の子どものことになるとモラルが働かなくなる大人」というものもあるような気がしてなりません。

次回、もう少し踏み込んで「親子関係」について述べたいと思います。
(文:大関 直隆)

2006/11/13(月)
第235回「揺らぐ教師への信頼」
今回の未履修問題は、教育界の閉鎖性や独断性を強く示したものと思います。学校というところはかなりモラルが欠如したところに成り下がっている。かなり厳しい校則を設けて、生徒に守らせているにもかかわらず、教師はというと社会のルールを守らない。そういう教育界のいい加減さが、今回の事件の根底にあると思います。根本的な解決には教育課程の見直しや入試改革が必要なことはいうまでもありませんが、制度に問題があるとしても、だからといってそれを守らなくてもいいということにはならない。守れないようなルールなら、守らないのではなく、ルールを変えるのが筋。それを「こんなことを守るのは無理」とか「この程度のことはどこでもやっている」とばかりに、ねじ曲げてしまう教育関係者の多いこと。例えば、マラソン大会で外に出て、半日で終わって生徒と教員を帰して教頭だけが学校に戻る。教員は勤務時間いっぱい勤務したことにして、「何か(事件、事故のようなことが)あったら、時間休を取ったことにしておきますから」とあとは教頭が処理をする。生徒に対する暴力が発覚して、教育委員会から処分を受けるような場合でも、部活動等である程度実績を残している教員なら、別室に呼んで「まあ、一応呼ばないわけにもいかないので」とあとは雑談をして終わりにする。こんなことは、法の精神を逸脱して、完全にルールに反していますが、教育の現場ではけっこう常態化している。

そんな体質で教育行政が回っているわけだから、いじめなんて発見できるわけがない。「教育に携わっている」のだから、なおさらもう少しまともな流れにしないと・・・。ある校長先生は、「校長になったら校長室で新聞を読んでるくらいしかやることがなくなっちゃってね。隅から隅まで新聞読んでるよ」と言う。何があっても校長が最終責任を負わされるのだから、そういうことがあってもいいとも思うけれど、「何言っても教員はいうこときかないから、何もしない方がいいんだよ」となると、ちょっと首をかしげたくなる。教員は忙しい忙しいと言うけれど、ある教員の奥さんが「うちの亭主って教員でしょ。ヒマだからさあ、夏休みになったとたん、ずっと家にいて困っちゃう」と愚痴とも、自慢とも取れるようなことを言う。

確かにわが家も、妻が教員をしているころには、海・山・山とか海・海・山とか、夏休みには2泊3日や3泊4日の旅行に3回くらい出かけることはあったし、冬になれば必ず子どもを連れてスキーにも行ってた。妻は現職中でも子どもたちと一緒に、ドイツにいる息子のところに40日間の旅行に2回も出かけることができた。妻も子どもも若干の休みは取りましたけれど、そんなことができたのは教員だったからです。今でも教員をしている従姉妹は毎年フランスへ長期(1ヶ月くらいの)の旅行に出かけている。ずいぶん恵まれているなあと思うんです。

妻が教員という恵まれた条件の中だったから、今の私の生活もあるんだなあとつくづく感謝しています。もし教員じゃなかったら、今のようなわが家を築けていたかというと、たぶん無理だったんだろうなあと・・・。ただ、その代わりと言っては何ですが、夜中の1時ごろに「息子が暴れていて、2階の部屋で教科書や物を投げつけるんです」という電話をもらい、夜中ということもあったので、私が運転して夜中に家庭訪問したこともありました。不登校のお子さんや謹慎になったお子さんのお宅を、夜訪ねたことも1度や2度ではありません。妻が学年主任だったときには、学年の会議が夜11時くらいまで終わらず、私がたくさんおにぎりを作ってバイクで差し入れに行ったこともありました(途中で警察の取り締まりに止められて、前のかごに入っている袋を「これは何ですか?」と聞かれたので「おにぎりです」と事情を説明しながら袋を開けたら海苔の匂いがしたので、「失礼しました」と敬礼をされたんです。結局、学校に着いたときにはもう会議が終わっていて、先生方が門から出ていくところでした。結局そのおにぎりは家まで持ち帰り、私が食べちゃったんですが)。

どうして教員は、そういう実態をきちんと開けないのかなあと思います。教員の大変さもわかります。とは言え、教員は、大変さは主張しますが、楽をしている部分は公表しない。時間外勤務のことは主張しても、「勤務を要する日」に休んでいることは言わない。東京都は、かなり教員に対する締め付けが厳しくなりました。私は、それには反対です。人と人とが関わる仕事に、単純な管理で対応していいのかという疑問をいつも感じています。ゆとりがない勤務の中からは生徒に対する優しさなどというものが生まれてくるわけがないと思うから。

ただ、厳しくなるのには理由がないわけではなくて、都立(高校)の場合などは、通常の休みの他にも週に1日研修日といって実質休みの日があった。何が研修かなんていうことは微妙な問題だから、研修の内容を書類で出すにしたとしても適当に書くこともできれば、なんでも通ってしまうということもある。極端に言えばパチンコ屋に行くんだって生徒指導だし、映画に行くんだって研修になってしまう。都知事が石原氏になってから、そういうところをねらい打ちされているわけです。普通の人の感覚からすれば、ただでさえ休みが多い教員に、公には勤務していることになっている裏の休みがあるわけだから、当然風当たりは強くなる。研修日という言葉を使っていたこと自体、教員にも「休み」とすることには抵抗があったわけで、「休み過ぎ」の批判を受けるという意識があったのだと思います。他より優遇されるのであれば、当然自分たちを自分たち自身で律しなくては。

「ドリームエリア」という民間会社の調査で、子どもに関する悩みの相談相手を、児童・生徒らの保護者に聞いたところ、「学校の先生」と答えたのはわずか1.1%、「相談できる人がいない」の1.5%よりも少ないのだそうです。トップは「配偶者」の約54%。以下「友人」(約26%)「両親」(約10%)の順。

もちろん、最近の教員バッシングが影響しているとも考えられますが、まあわかる気もします。何とか早く、学校への信頼を回復しなくては・・・。

ここのところ教員の話ばかりしているので、次回は親の話。
(文:大関直隆)

2006/11/06(月)
第234回「教育再生のスタート」
未履修問題は受験競争の産物という見方もあります。もちろんそれは否定しません。未履修問題に限って言えば、指導要領通りにやらない学校が悪いという学校責任論だけを論じても、あまり意味がありません。未履修問題を解決しようとするなら、大学入試制度の改革や指導要領の見直しは不可欠です。けれども、今教育の現場で起こっている問題はそれだけではない。不登校の問題、いじめの問題、学級崩壊の問題・・・。どれをとっても、政治を抜きには語れない。「教育基本法改正問題」「教育バウチャー制導入問題」など、次から次へとあまりにも乱暴な教育改革が進もうとしている。ですが、その辺のことは“す〜爺”氏が「浦和の隅から教育をのぞく(http://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=1&forum_id=17)」の中でいつも大変詳しく取り上げてくださっているので、私は教育を“親”という立場と妻や義妹、妻の両親や叔父、叔母までが教員という環境の中で、今の学校をどう捉えるかという観点で、最近の教育現場で起こっていることを語りたいと思います。

11月4日の新聞に、足立区における「学力テストで予算に差」という記事が載りました。教育内容の一部(学力や偏差値といった)に偏った競争が、今回の未履修問題を生んだのではないかという議論がある中で、足立区教委は学力テストの結果により、予算配分を変えるという決定をしました。大学の入試制度改革にしろ指導要領の見直しにしろ、今後教育の中身についての議論が進むであろうと予想されるときに、単純に学力テストの結果を基にその成績に応じて、小学校では400万円〜200万円、中学校では500万円〜200万円という予算配分をするというのですから、どうしてそんな暴挙に簡単に進めるのか、その感覚を疑います。この連載でもずっと取り上げてきたように、「その感覚こそが教育問題の根底にある一番大きな問題なんだ」と私は思っています。

個々の教師の資質や力量、個性ということで言えば、優秀な教師はたくさんいます。「教えるのがうまい」「子どもに優しい」「子どもの心に寄り添える」「厳しい指導ができる」「毅然としている」・・・。そういったものはとても大事なことで、そういう先生たちが、今の政治の悪さや行政のいい加減さを一手に背負い、奮闘しているのだと思います。

ところが、教員バッシングはまったくとどまる気配がない。私は、親という立場で、今のバッシンムードが広がる前から、教員の姿勢に対する批判をしていますが、それは教員に囲まれている(まあ、私も非常勤ではありますが10年近く専門学校の講師をしてはいましたが)という生活環境の中で、学校に期待しているからに他なりません。教育学者の大田堯氏(東大名誉教授)が、日本の社会を「学校信仰」という言葉で表現したことがありました。「私がまさにそれかなあ?」と考えることもあります。だからこそ主張したいのですが、「教師は自戒し、しっかりとした意識改革をするべき」です。

とにかく、まず「自分たちが正しい」という思いこみをやめる、学校だから何をやってもいいという感覚のもと社会のルールを踏み外さない、権力を持って子どもたちと接しない、そして何より謙虚でいる。まあ、少なくともこれだけのことが実行できたら、すぐ学校は変わると思います。こう言うと、「そんなことはわかっているし、そうしている」という先生方も多いと思いますが、そう思っている感覚が、もうすでに社会の感覚とずれていると思うのです。それに教師が気付かないと、バッシングは止まらない。そして、政治のいい標的にされ、教育現場は混乱する。

「学校」という場所は、社会の中で特別に保護されている場所です。それは当然そうあるべきです。さまざまな外圧が排除され、自由でなければいけない。けれどもそれは、子どもたちのためのものであって、教師のためのものではない。そこの区別がつかなくなっているのではないかと感じます。最近の状況を見ていると、「本来生徒を保護する場所なのに、教師を保護してしまっていることが露呈した」、そんな観さえします。

教育を取り巻く環境が、厳しくなっていることはよくわかりますが、一人一人の教員が目の前にいる子どもたちのことをどれだけ真剣に考えているか、教師はもう一度自分に問いかけてみる必要があるのではないでしょうか。

先週の週刊文春は、未履修問題を含めた教育問題をかなりスペースを割いて掲載しています。その最後の部分に『「自分のため」にやった校長の責任』というコラムを載せて、各新聞報道を「報道では、保護者会で謝罪する学校長の姿を紹介しているが、「生徒のためを考えてやった」という言い訳を容認している節がある」と批判し、「有名大学に何人合格させたかが出世のバロメーターであっただろう。ヤリ手校長と呼ばれるうちに感覚がマヒしていった、つまり、「自分のためを考えてやった」側面を、新聞は検証し、きちんと批判すべきであろう」と結んでいます。もちろん、「生徒のため」がなかったわけではないと思いますが、この週刊文春の見方もはずれているわけではない。

私が、専門学校に勤めていたとき、生徒の卒業制作展のため、期日ぎりぎりに焼き上がった大きな陶器の壺を、展示会当日の朝早く、何個もワゴン車に積んで運ぼうとしていたことがありました。ちょうどそこへ科の主任が通りかかって声をかけてくれたのですが、その先生から出た言葉は、なんと「生徒の作品なんだから、そんなに一生懸命やらなくてもいいですよ」という言葉でした。私は非常勤講師、相手は主任で私は指示を受ける立場、特に授業の内容以外はまったく指示通りに動くしかない立場だった上、とても真面目で、いい先生だと思っていた方からの言葉だったので、「はぁ」というのが精一杯。唖然として返す言葉もありませんでした。

毎年毎年繰り返されるカリキュラムの中で、自分が楽をしたり、出世をするためなら、目の前にいる一人一人の生徒は抹殺され、“生徒”という十把一絡げな存在になり、そこに存在する人格すら認めない。「マヒ」というのはこういうことなんだろうなあ、と思います。教師は皆、今一度胸に手を当て、日々の自分の言動、行動を振り返ってみる必要があるのではないか。そんなところに教育再生のスタートはあるのではないかと思います。
(文:大関直隆)

2006/10/30(月)
第233回「未履修ついに発覚!」
各地の高校で、必修科目の未履修が明らかになっています。現場を知っている者からすると、「なにを今さら」という感じ。今日(10月29日)の段階で410校という報道もありますが、まだまだかなりの高校がビクビクしているのでは?

息子が男子高に通っているとき、家庭科共修が大きな問題になりました。PTA広報部の企画で座談会が開かれ、私も参加したのですが、「県からの指導で調理室を設けることになるが・・・」というテーマに対して、座談会に参加していた先生が発言したことといったら、
「うちの生徒は実習なんてしなくても、机の上で本を開けば何でもわかるんだから、調理室なんて作ることないですよ。実習はやったことにしておけばいい。調理実習なんて偏差値の低い学校の生徒がやればいいことで、あんなことは無駄」
ですからね。
この先生は、県の教育委員会からの評価も高い人だと思うんです。その後、女子の進学校に勤めてますからね。

これは、家庭科のことですが、他の授業についても受験に関係ないものはやることないという発想は、いくらでもあります。必修クラブなんていうのは、その最たるものだったんですよね。教員間では「やったことにする」という共通認識があった。私も必修クラブがそれほど重要な役割を果たしていたとも思わないので、「やったことにする」というだけなら、まだその気持ちは理解できなくもないけれど、「やったこと」になっているわけだから、それに対する予算は付くわけで、「もらうものはもらって、使っちゃえばいい」なんてことになっちゃう。普通の感覚なら犯罪といってもいいような大変なことなんだけれど、結構やってたところが多いんじゃないかな。教員の感覚って、そんなもんですよね。

今回の社会科の履修問題も、一つは「俺たちの勝手にやればいい」という感覚の産物ですね。教員はルールを守ることが下手な人種だから。いろいろなところでいろいろなものが改ざんされているわけで、公文書偽造になるんだろうけど、いったいどう処分するんだろう?
刑法は公文書偽造を、
第百五十五条   【 公文書偽造等 】
第一項 行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。
第二項 公務所又は公務員が押印し又は署名した文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。
第三項 前二項に規定するもののほか、公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は公務所若しくは公務員が作成した文書若しくは図画を変造した者は、三年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。

と定めているんです。私は、厳罰主義を唱えるものではないので、本来刑罰によって悪事をただすという考え方をあまり好きではないし、特に教育の中身については、杓子定規に対応することには大反対ですが、「教育現場」ということだけを盾にとって、こういうことがゆるんでしまうのはどうかと思えてなりません。わいせつな教員に対しても、せいぜい職場の移動とか数ヶ月の停職くらい。もっとひどい例だと「もう少し気をつけろ」なんていう校長の言葉でおしまいとかね。

まあそれはさておき、私は今回の未履修問題を、受験競争の問題、個々の学校や地方の問題として捉えるだけでなく、教育行政の仕組みの問題、教員という職業的な意識の問題としても捉えています。すでに3県の教育長が高校の校長時代から、未履修について認識していたのに、行政のトップである教育長になってからも黙認していたことを認めているそうですが、そんなこと当たり前です。教諭から管理職になろうとするとき、まず管理職試験を受けます。それに受かると、一旦教育委員会に籍を置く人たちが多い。その後、校長・教頭の退職者に応じて各学校に移動になっていくわけですから、委員会は現場と切り離されているわけではありません。特に各学校を直接管理している指導課は、管理職試験に合格して教諭から人事異動で上がり、教頭・校長予備軍となっている人たちが多いことは、子どもを学校に通わせたことがある人なら皆さんご存じかと思います。

以前にあまりにもひどい校長のことで、教育委員会に電話で相談したときのこと。電話に出た主事さんはとても正直な方らしく、
「大変申し訳ないんですが、校長の指導は我々にはできないんですよ」
と答えてくれました。当たり前ですよね。その校長は主事さんがお世話になった先輩かもしれないし、その後、自分がその校長の部下になってしまうかもしれないわけだから。もちろん、唐突に民間から校長や行政職の長を出せばいいなんて考えてはいませんけれど、現場と行政が一緒になって自分たちの保身をしていたのでは、教育に対する信頼なんて回復するわけがありません。こういう仕組みも、問題を隠蔽し、問題が発覚したときにはとてつもなく大きな問題にしてしまっているんだろうと思います。今回の未履修の問題も、そんな仕組みの中で起こっていることなので、「教育委員会が把握していなかった」なんていう報道も一部ありましたが、そんなはずがないじゃないですか。委員会が隠していたんです。

ここのところの報道を見ていると、「受験競争のあおり」とか「地域格差」とかいう視点だけで議論がなされていて、「必修科目の見直し」や「受験制度の改革」といった方向に進んでいきそうな気配です。一つの方向としてそういうものが必要であろうとは思いますが、不登校やいじめ、教員の不祥事など、次から次へと起こってくる教育問題を考えるとき、未履修の問題をそれだけにとどめるのではなく、もっと根本的な教育行政の見直しが必要なんだろうと思います。

政府も教育改革を最重要課題と位置づけているようですが、私は、小泉内閣以来の教育改革はまさに多くの問題を吹き出させた元凶だと考えています。経済主導で進めていくような教育改革ではなく、もっと「人の心」に立ち位置を移した教育改革を実行してほしいものです。
(文:大関直隆)

2006/10/23(月)
第232回「小さな幼稚園」
小さな幼稚園の運動会を訪ねました。
「鈴木京子ちゃん」
「はーい!」
「田中直美ちゃん」
「はーい!」
「佐藤美香ちゃん」
「はーい!」
「小林由美ちゃん」
「はーい!」
徒競走のスタートラインに並んだ園児たちは、先生に一人一人名前を呼ばれると、手を挙げながら「はーい!」と元気よく返事をしました。
「第2のコース、大関直隆、JAPAN」
と名前を呼ばれるオリンピックさながらの光景がそこにはありました。(大げさ!)
「位置について、ヨーイ、ドン!」(最後の「ドン」はもちろんピストルの音)
小さな園庭に描かれたトラックを必死で走る園児たち。どの子の顔も、真剣そのもの。けれども、ゴールした子どもたちの顔は、1等賞になった子も、残念ながらビリになってしまった子の顔も、みんなさわやかな顔でした。
「う〜ん、一人一人が、一人一人として対応されるって、こういうこと?」

この幼稚園は、定員が80名の幼稚園ですが、現在の在園児はわずか20名。これまでの園の経営方針が、うまく母親の心を受け止められなかったらしく、近隣には大規模な幼稚園があるにもかかわらず、昨年までは存続の危機にさらされていました。今年度の園児募集の時期から理事長が替わり、大きく経営の舵を切り直したおかげで、限りなくゼロに近づいていた園児の数が、今年度から切り返し、20名にまでなりました。理事長曰く、
「今年は入園の問い合わせがだいたい40件くらい来ているから、来年は倍になりますよ」確かに、今日の運動会に集まった未就園児の数からすると、まんざらでもない様子。
そうは言っても、現在の園児数は定員にはほど遠い数なので、いろいろと特別室のようなスペースを作ったとしても、まだ半分が空き教室です。

徒競走が終わると、
「はーい! 今度はお母さんとダンスをしまーす!」
徒競走が終わって一旦引っ込んだ園児たちが、今度はダンスをするために、お母さんと手をつないで、入場行進を始めました。とにかく園児は園庭の真ん中にいるその子たちですべてですから、大変です。それでも、ニコニコしながら定位置に着くと、

Under the spreading chestnut tree 大きな栗の木の下で
There we sit both you and me あなたとわたし
Oh how happy we will be なかよく遊びましょう
Under the spreading chestnut tree. 大きな栗の木の下で

と歌いながらダンスを始めました。
「英語もやってるんだ!?」
ちょっと取って付けたような感じはしました。園児が少ないので、普段は職員4人体制でやっているとか。子どもと関わる人が少ない分、英語やリトミックを外部の先生に頼むことで関わりを増やしているようでした。

園で行われている英語やリトミックといった幼児教育の質の良し悪しは別として、運動会全体を眺めたとき感じたのは、「子どもたちがのびのびしているなあ」ということです。つい先日、孫の通っている幼稚園の運動会がありました。そこの幼稚園も、わが家の近所では自由保育で有名なところで、落ちこぼれる子というのもほとんど見受けられず、子どもたちはとてものびのびしています。けれども、今日見た子どもたちは、それにも増してのびのびしているように見えました。
「う〜ん、これが人数が少ないっていうことかぁ・・・」
あまりの早さで進行していく運動会にちょっと寂しさも感じはしましたが、一人一人の園児と関わることの大切さをまたひとつ学んだように感じました。
(登場する人物はすべて仮名です)
(文:大関直隆)

2006/10/16(月)
第231回「命の重さ」
また悲惨な事件が起きてしまいました。
さっきテレビのニュースを見ていたら、流れてきてのは横須賀の小学5年生が自殺したというニュースでした。まだ、はっきり自殺と断定されたわけではないようでしたが、警察は「自殺した可能性があるとみて調べている」とか。地上約1.8メートルの電柱を支えるワイヤのプラスチックカバーの上から自転車のチェーン錠をかけ、首をつっていたらしい。発見される直前に、自宅のある団地施設内で焼き芋を焼こうとたき火をしているところを帰宅した母親に叱られ、自転車で家を出たということのようなので、母親に叱られたことが原因ではないかと見られているとのことでした。
日常的な母親と子どもの関係がどんなふうにあるにせよ、たったそれだけのきっかけで命を絶つ必要があるのだろうか…。とても信じられない気持ちでニュースを見ました。
先日の北海道滝川市の小学6年女児の自殺の問題は、当初「いじめの事実は確認できない」としていた滝川市教育委員会に、遺書の内容が報道されて以来抗議が殺到し、とうとう教育長が辞任するという事態にまでなりました。
10月2日、毎日新聞北海道版の記事によると、遺書は次のようなものでした。

■女児の遺書の内容 ※一部抜粋、かな遣いなどは原文のまま
◇学校のみんなへ
この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう
私は、この学校や生とのことがとてもいやになりました。それは、3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。
6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました。何度か自殺も考えました。
でもこわくてできませんでした。
でも今私はけっしんしました。(中略)
私は、ほとんどの人が信じられなくなりました。でも私の友だちでいてくれた人には感謝します、「ありがとう。」それから「ごめんね。」 私は友だちと思える人はあまりいませんでしたが今まで仲よくしてくれて「ありがとう。」「さよなら」。(後略)
◇6年生のみんなへ
6年生のことを考えていると「大嫌い」とか「最てい」と言う言葉がうかびます。(中略)
みんなは私のことがきらいでしたか? きもちわるかったですか? 私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。(後略)

報道によると「私が死んだら読んでください」とのメモ書きとともに計7通の遺書が教壇の上に置いてあるのが見つかったそうですが、すべてを鵜呑みにするということではないにしても、なぜここまで追い詰められた少女の気持ちを真っ直ぐに受け止めようとしなかったのか…。
横須賀の5年生の問題のあとには、11日に自殺した福岡の中学2年生の男子の問題が、子ども同士のいじめだけではなく、教師からのいじめを受けていたというニュースが流れてきました。本日(16日)の朝刊に大きく報道されているようなので教師の言動については触れませんが、教師の言動としてというより、人としてまったく信じられない言動が繰り返されていたことに、あきれるばかりです。
人が人として生きていく上での倫理観は、いったいどこに行ってしまったのか…。
先日、向井亜紀・高田延彦夫妻の代理出産による双子の出生届の受理について、品川区長に対し出生届の受理を命じる決定が、東京高裁から出されました。
昨日(15日)は、娘夫婦の受精卵を50代後半の実母の子宮に戻し出産した事例があると、長野県の産婦人科医師から発表がありました。
私には実子がいるので、子どもができない人たちの苦しみが充分にわかるとは言えませんが、正直言ってここのところの報道や世の中の動きには、かなりエゴイスティックなものを感じ、違和感があります。向井・高田夫妻の双子の出生届が受理されないという状況も、実際に子どもは生まれてしまっているわけですから、高裁の判断というのは妥当かなとは思います。けれども代理出産自体、あまりにも子どもを親の立場からだけ見てはいないか。科学の進歩とともに、いろいろな形での出産が可能になりました。私が子どものころ、妹が「小麦粉をこねこねして赤ちゃんを作る」と言ったことがありましたが、最近の命の誕生は、まるでこういった表現が当てはまるようにすら感じることもあります。代理出産の是非を頭ごなしに非とするつもりはありませんが、もっと子どもの人権という立場での議論が必要なのではないか…。
そういう議論をどこかに置き去りにして、世の中が進んでいる現状が、倫理観の欠如を助長し、子どもの自殺にもつながっているように感じてなりません。子どもは親のものではなく、社会全体のものなんだという意識を社会全体が共有したとき、初めて子どもたちが大切にされる世の中が来るように思うのですが…。
(文:大関 直隆)