【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

全500件中  新しい記事から  231〜 240件
先頭へ / 前へ / 14... / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 / 28 / ...34 / 次へ / 最終へ  

2007/08/06(月)
第270回「定員割れ大学のターゲット」
先日テレビを見ていたら、少子化により定員割れの大学が、今春4割を超えたというニュースが流れていました。
読売新聞によると、
「今春の入試で、入学者が定員に満たなかった4年制私立大学の割合が前年度の29・5%から40・4%に急増し、過去最高となったことが24日、日本私立学校振興・共済事業団の調べで分かった。私立短大の定員割れも前年度比10・2ポイント増の51・7%に達した。同事業団では、18歳人口が減る一方、大学設置認可の緩和などで大学や学部の新設が相次ぎ、定員自体は増えているためと分析している。少子化に伴い、私学経営が厳しさを増している状況が、改めて裏付けられた」そうです。

大学の生き残りをかけた営業活動も活発化していて、営業活動の矛先は、受験生本人ではなく、授業料を負担する親に向かっているとか。テレビの映像でも、受験生本人と学校説明会に参加する母親の姿が映し出されていました。

その映像を見ていて、おもしろいなあと思ったのは、どの親子も、必死になっているように見えるのは受験生本人ではなく母親の方。何組かの親子の映像が流れていましたが、私の見る限り、どの親子にも共通して言えるので、見ているうちにだんだん滑稽に見えてきました。
「あの子は大学に入って何を学びたいのかねえ?」
と私が思わず疑問を投げかけると、娘の麻耶(まや)が、
「別にやりたいことなんて、ないんじゃないの」
「やっぱりそう見えるよなあ。じゃあ、何で大学行くんだろう?」
「学生でいたいんじゃない?! 親にお金出してもらって、遊んでいられて、楽だし…。すごく無責任でいられるしさあ」
「まったく」
そんな会話をしていたら、その親子のインタビュー映像が流れました。
「息子は何をやりたいかはっきりしていないんです」
という母親。”だから私が決めてやってる”と言わんばかりです。
「僕は、まだ何をやりたいかよくわからないんです」
”だから母親に決めてもらってる”と言わんばかりの息子。
”何をやりたいか”はさておき、とにかく”大学”というところに入れたい母親、”何をやりたいか”はさておき、親が言うから”大学”というところに入りたいと思っている息子。そんな様子がとてもよく表れていました。

昔も今も”大学”というところを目指す理由に、いい会社に入社(難しい資格を取得)し、より多くの収入を得、いい暮らしがしたい(させたい)というのがあると思いますが、テレビのニュースで流れていたのは、定員割れに悩む不人気の大学が、定員割れ対策として親をターゲットに営業戦略を立てているというもの。どう考えても、最終的に”いい暮らし”という目標を持てるとは思えない。とうとう”大学”までもが、消費志向を満たすための商品になってきてしまったんだなあ、という印象です。
そして、親が子どもを自分の元に縛っておくために大学を利用し、子どもは子どもで、親の傘の下から出ないための道具として大学を利用し始めたということのように感じます。そうした親子のニーズと定員割れに追い込まれている大学のニーズとがピッタリとマッチしたということのなのでしょう。

けれども、大学本来の目的やあるべき姿を見失ったこうした状況は、未来に大きなツケを残すことになる気がしてなりません。
(文:大関 直隆)

2007/07/30(月)
第269回「家族って何?」
ドイツ・ミュンスターの市立劇場で専属ダンサーとしてモダンダンスを踊っている長男・努(つとむ)が3年ぶりに、夏の休暇を利用して帰ってきました。前回、一時帰国したときも、ここに登場させたような気がしたので、バックナンバーを調べていたら、なんと「第120回」(ちょうど3年前だから当たり前だけど)。「早いもんだなあ」というか「ずいぶん長かったなあ」というか・・・。私とは12歳違いで、12月で38歳になります。19歳で渡欧して、一時期日本に戻ったこともありましたが、20年というもの、ほとんどヨーロッパ暮らしです。

前回の帰国は、4年ぶりでした。そして今回は3年ぶり。1年というのは長いようでそれほど長いわけではなく、その1年の間に何か大きなことが起こるというのは事故でもない限り少ないのですが、3年、4年というのは、短いようで長くて、その3年、4年の間に、生活に大きな変化が起こったりします。前回、努が帰国したときは、努がドイツにいるうちに、妹の麻耶が結婚し、二人の子どもを出産し、そして離婚をし、家に出戻っていました。努にとっても、麻耶の子どもたちの蓮と沙羅にとっても、初めて会うわけですから、ちょっとくらいは人見知りでもするのかなあと思いきや、会ったとたんに蓮も沙羅も努にべったり。伯父さんと甥・姪の関係ってこんなもの?とびっくりしました。

そして今回の帰国までの3年間に、祖父と祖母の二人が亡くなってしまいました。前回の帰国の時には、一緒に海水浴に行ったのでしたが、その約1年後に祖父、さらにその1年後に祖母。努の意識の中には、一緒に海水浴に行った元気な祖父と祖母のイメージ(とはいえ、その時すでに祖父は91歳、祖母は88歳でしたから、次回帰国の時には、二人とも亡くなっているかもしれないという気持ちもすでにあったと思いますが)があったのでしょう、翌年、祖父が亡くなったことをメールで知らせると、大きなショックを受けた様子のメールが返ってきました。

次の年、祖母の死を電話で告げられた努が返した言葉は、
「次はお母さんかあ・・・」。
その時はみんな、努の言葉をとても唐突な、大げさな言葉として受け止め、
「まったく何言ってんだろうね、努は!」
と、あまりにも飛躍したと思える努の言葉を、ちょっとバカにした感じで受け止めていたのですが、今回戻ってきた努に翔が「次はお母さんかあ・・・」の受け止め方の話をすると、「お前たちはさあ、いつもそばにいるだろっ。だからわかんないんだよ。ずっと離れていてみろっ。おじいさんが死んで、おばあさんが死んで、次はお母さんかあって、必ず順番考えるから!」
と努は言いました。

努が成田に着いた6月25日には、私の父がかなり悪い状態でした。私の父と努とは血のつながりはないわけですが、成田に着いたその足で、私の実家へ寄った努は、疲れを口にすることもなく、父の介護の手伝いをしてくれました。休暇で、身体と心を休めに帰国したはずの努でしたが、私の父が亡くなるまでの10日間というもの、とても積極的に父の介護にかかわり、看取ってくれました。義理とは言え、努にとって「おじいちゃん」と呼べる最後の存在であった父の最期を見届けることで、実の祖父母の死に立ち会えなかったという自分の気持ちの寂しさを、少しでも埋めようとしているようでした。
「せっかく休暇で帰ってきて、楽しい夏休みを過ごそうと思ってたんだろうに、父のことで休暇の半分を使わせちゃって悪かったねえ」
と私が言うと、妻は、
「いいんじゃないの、あの子にとっても。熊谷の父と母の死には立ち会えなかったわけだから。あの子にとって家族として、家族の死に立ち会う経験ができたっていうことは大事な経験だったと思うよ」
と言いました。

ドイツへ帰る前日、努と妻が話をしていました。
「家族っていいよねえ。どんなに離れていても、こうして帰ってくれば、無条件で受け入れてくれる。もちろん、僕も受け入れる。そういう関係なんだよね。僕も今まで、そういう関係のものを作ってこなかったけど、やっぱり作りたいなって思うよ」
「ふーん。そんなふうに考えてたんだぁ・・・」

成田空港で、搭乗者のゲートをくぐった努に、蓮と沙羅が一生懸命手を振っていました。そして努も一生懸命手を振り返していました。
(文:大関 直隆)

2007/07/23(月)
第268回「モンスターペアレント 後編」
親からの理不尽なクレームで学校が困ってしまうパターンには、いくつかのパターンがあるように思います。まず、とにかく自分の子どもがかわいいので、「私の子どもには××させてくれ」あるいは逆に「私の子どもには××させないでくれ」というパターン。次に、子どものことというより、親自身が自分の満足のために学校にクレームをつけるパターン。そしてもう一つは、内容の問題ではなく、とにかく学校不信に陥っているため、大したことではないにもかかわらず、まったく学校には相談することも無しに、学校を飛び越して、教育委員会などへ、激しく抗議をしてしまうパターン。

他にもまだまだ、いろいろなケースがあるとは思いますが。おおむねそんな分類に属するのではないでしょうか。「悲鳴をあげる学校」(旬報社)の著者の大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、
「子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい」
「自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ」
「親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ」
「今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ」
などの実例を挙げています。「ほんとかよぁ!」と耳を疑いたくなるような内容ですが、実例と言うことですから、驚きです。

最近、給食費未納の問題も大きく報道されました。一昔前は、給食費が未納ということは、経済的に「払うことが困難」という状況で未納になっていたと考えられますが、最近の状況はそれとはまったく違い、どうやら「無理矢理払わされるまでは払わない」という身勝手な親もいるようです。

この連載の中でも、何度も述べてきていますが、最近の親子関係は、非常に近い関係になってきています。毎朝のようにファミリーレストランに朝食に訪れるニートと思われる子どもと母親。いつも腕を組んで買い物をしている母娘。手をつないで通勤・通学をする父と娘。本来なら、関係が近いからこそ、子どもを叱り、しつけができるという関係であったはずなのに、ここのところの状況は、その近さの質が変わり、子どもを叱り、しつけるどころか、子どもの悪事に対して、それをかばい続ける傾向が顕著になってきています。また、個人主義的傾向の高まりは、子どもに対する親としての責任すら果たさず、自分を守るためなら、子どもをも犠牲にする親まで、現れてきています。親子関係のまずさから、子どもが精神的ダメージを受けているにもかかわらず、自分の対応の悪さはさておき、「子どもが病気」という言い方をする親などがこれに当たるでしょうか。

モンスターペアレント出現の原因を、「教師への尊敬の念の薄さ」という人もいます。けれども、それは結果であって原因ではない。前回も少し触れましたが、私は、モンスターペアレントの出現の原因の一つは、「自分たちの力では、どうあがいてもどうにもできない人たちの存在」と考えています。小泉内閣誕生以来、格差社会が広がったと指摘されています。弱者は、強者に対して、無力です。学校も、子どもや親から見ると圧倒的強者。そんな強者に対して、「尊敬の念」を持っていたら、とてもじゃないけど、やってられない。一見、一人の教師に向けられているように見えるクレームも、実は教師個人に向けられたものではなく、もっと漠然とした“教師”という権力に向けられていると考える方が正しい見方ではないかと思います。もちろん、多種多様なケースがあるので一様ではないと思いますが。

これも再三指摘していますが、もう一つの大きな原因は、間違いなく“地域社会の崩壊”にあります。政治や行政の大きな方向の間違いが、地域のコミュニティを崩壊させてしまった。学校や教師に対する不満は、一旦親同士の中で話され、強い不満を持っていた人の気持ちがやや落ち着いたり、薄まったり、あるいは自分と反対の考えの人がいたりすることで、とりあえずある程度消化されたものが、学校に届いていた。ところが、地域社会が崩壊したことで、個人vs学校、個人vs教師という構図に変わってしまって、まったく未消化のまま、直接学校や教師にぶつけられるようになった。このことは、とても大きなことだと思います。それは、時に、地域の権力の象徴である学校というものに個人で対抗するため、教育委員会というさらに上の権力に向かっていくことになる。

私が思うに、この状況を変えて行くには、信頼関係を回復するしかないと思うのですが、どうも政治や行政が向かっている方向は、まったく逆な方向のようで、学校の問題を弁護士やカウンセラーといった、直接、教育と関わりのない人たちに任せようとしている。実は、学校にはもともとそういうふうに子どもや親たちと向き合うことを嫌う傾向があった。現状を変えて行くには、信頼関係を回復すること。それには、誠実にたくさん話をすることしかありません。それがモンスターペアレントをなくす唯一の方法だと思うのですが・・・。

 
マスコミ・世論対策の一環に思えます2007/07/30 8:07:40  
                     朝からカレー

 
「モンスターペアレンツ」の対策は、信頼を回復すること。
もともと学校に、子どもと向き合うことを避ける傾向があるのも、そのとおりだと
思います。「モンスターペアレンツ」を育ててきたのも、
学校です。世代を超えた不信感が、横たわっているのではないかと
感じます。

   ところで、この「モンスターペアレンツ」という、
なんのひねりもセンスも無い名詞。
このところずっとくり返されてきた、
「学校は、こんなに○○」というメディアのあおりを
受けての、反学校(?)情報対策なのではないかと
いう気がします。この名前のつけかたからしても、
いかにも学校関係者らしい、まじめなつけ方ですね。
 

元の文章を引用する

 
同感です2007/08/02 19:09:57  
                     大関直隆

 
私も同感です。
ただ、私も仕事上でかなり理不尽な要求をされることがあるので、世の中全体の流れも否定は出来ないのかなあとも感じます。もちろん、ほとんど政治の責任と思っているわけですが。
学校ということで言えば、全く信頼関係の問題ですね。
私がいろいろな場面で学校批判をすると、まるで私がいつも学校と喧嘩をしたり、あるいは、うちにご相談に訪れた方に、学校と喧嘩をしたり、教育委員会に文句を言うように勧めていると誤解をする人が(特に学校関係者や委員会の方々)います。でもそれは、全く違いますね。
どんな場合でもそうですが、まず問題の当事者同士で話し合いをすることによって信頼関係を回復することですから、とにかく徹底的に担任と話し合いをすることを勧めます。「担任は全然わかってくれません」と言われても、とにかくまず担任です。ほとんどの場合、それで解決することが多いです。もっとも、言い訳ばかりでごまかそうとする教員も多いですけど。
問題の質(子どもにわいせつ行為をするみたいなものは話し合う余地はありませんが)にもよりますが、そこからスタートしないで、いきなり管理職や委員会というのもどうかと思います。
よく言われることですが、教員は批判に慣れていません。なかなか親と話し合おうという姿勢の人は少ないように思います。教員が「話し合おうという姿勢」を持ってくれさえすれば、それでほとんどのモンスターペアレントは、モンスターじゃなくなるんじゃないでしょうか。先生方には、親と話し合うという姿勢をぜひ持ってもらいたいです。
教員研修なんかに講師に呼ばれたときにそういう話をすると、皆さんとってもよくわかってくれるんですが、なかなか現場ではそうならないですよね。
先生方にも期待しているんですが…。
何度も連載の中でも触れていますが、最近、一つ気になっているのは親子の距離です。
自分の子どもをかわいがるあまり、ほかの子に目がいかなくなっている親も多い。「自分の子どものため」というのは、まず基本ですけれど、「周りの子どもたちのため」という気持ちがないと、必ず自分の子どもにも跳ね返ってくる。自分だけに都合がいいなんていうことは、なかなかないんです。
特に学校というような場所というのは、「誰にとってもいい場所」であることを目指さないと、学校全体が荒れたりすることになりますから…。
なかなか難しいですけれど、そういう気持ちで親も教師も関係を作っていけたら、「モンスターペアレント」なんていなくなると思います。
まあ、順序からいったら、権力を持っている学校が「モンスターティーチャー」の根絶に向けて動き出すことだと思いますけどね。
ちょっと皮肉っぽくなっちゃったかな?
秋には、何カ所か講演や研修に呼ばれているので、じっくり話をしてこようと思います。
 

元の文章を引用する
(文:大関 直隆)

2007/07/17(火)
第267回「モンスターペアレンツ 前編」
最近、マスコミが頻繁に取り上げている問題に「モンスターペアレント」の問題があります。
「モンスターペアレント」っていうのは、ご存じの通り、“担任教師や学校に対し、自分の子に関する「理不尽な苦情」や「無理難題な要求」を突きつける保護者”(もり・ひろし=新語ウォッチャー)のことです。1ヶ月ほど前、港区教育委員会が、保護者のクレームに対応するため、250万円かけ、5人の弁護士と契約したという報道がありました。

それに続いて、つい先日は、「文部科学省が本格的な学校支援に乗り出す方針を固め、来年度の予算要求に盛り込みたい考えである」という報道がありました。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立して、学校にかかる負担を軽減することを検討しようとするもので、各地の教育委員会にも対策強化を求めるとしています。

こうした親の存在というのは、かなり前から指摘されていて、それほど目新しいものではありませんが、安倍内閣の教育改革が進むにつれ、報道が過熱感を増しているように感じます。私も、モンスターペアレント(イチャモン親)や故意に給食費を払わない親など、非常に問題だと感じていますが、最近の流れは、小泉内閣時代の「官から民へ」の流れに逆行するもの(というより、“強者はより強く、弱者はより弱く”という小泉内閣の本質が引き継がれたものと言えなくもないのですが)、まさに揺り戻しというふうにも感じています。

官僚組織への批判は、公務員批判となり、教員バッシングへとつながっていきました。私は、ある意味(仕事の内容、民間との賃金格差など)、その流れは、正当であると考えていますし、今後もそうあるべきだろうと思います。けれども、その流れによる“利益”が国民の末端にまで行き着く前に、大企業や民間の権力者のところで止まってしまい、流れが逆転してしまったら、大変怖いことです。最近の報道の過熱ぶりは、「世の中の強者にとってちょうどいいタイミング」、そんな危惧さえ感じさせます。

産経新聞社がネット上に配信している記事によると、「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払え」「保護者から毎晩電話がかかり、その日の子供の活動を細かく報告させられた」「(運動会の組み体操をめぐり)なぜうちの子がピラミッドの上でないのか」「体育祭の音がうるさい」などが、親の無理難題として取り上げられています。単純に何の理由もなくこんなクレームが親から寄せられれば、それはもちろん「モンスターペアレント」でしょう。けれども、何も理由がないということは、あまり考えられない。ほとんどの場合、そうなるまでにいきさつがあり、それに対する対応の悪さから、そういう結果になっているとも考えられます。

それを明らかにしないで、「モンスターペアレント」として、大騒ぎするのはどうも意図的にしか映らない。
「先生の訴訟費用保険加入が急増」という見出しで取り上げられているのは、公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。医療関係者が、個人で保険に加入するというのはよく聞きますが、教員までという感じはします。学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となる中で、仕事に関するトラブルで訴えられた場合に弁護士費用などを補償する「訴訟費用保険」に加入する教職員が、東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人が加入したんだそうです。都福利厚生事業団が窓口となり平成12年から都職員の加入を募集し、保険料は月700円だそうですから、その加入のし易さから、当然かな(学校行事などで子どもがケガをしたり、死亡した場合、業務上過失致死傷などに問われ、損害賠償請求される場合もなくはないので)とも思います。事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、全体の約7割を占めるそうですが、産経新聞の記事でも、「実際に都内で同保険が適用され、弁護士費用などが支払われたケースは過去7年間で約50件といい、不安が先行している面もあるようだ」とまとめています。50件の内訳が学校関係だけによるものなのか、全体でなのかもよくわからりませんから、コメントは難しいですが、何が正しいのかきっちり見極める必要はありますよね。

とは言え、私も増えていると感じる「モンスターペアレント」。次回は、親の愚行について考えます。
(文:大関 直隆)

2007/07/09(月)
第266回「曾孫の威力 後編」
7月6日午前4時7分、父は永眠しました。通夜は実家の近くにあるお寺の会館を借りて行うことになりました。これから通夜へ向かうところです。まだ父は、実家にいます。たった今、曾孫の蓮と沙羅が自宅から実家へやってきて、お線香を上げました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は、6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか・・・、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、会の皆さんと最後まで同行することはできませんでしたが、一泊して無事帰ってきました。午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段だと夜9時過ぎくらいには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは12時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、6日に亡くなったのです。

何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに現在の父には、病名がつくようなものは一切ありませんでした。しかしそれは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、体力も限界に来たと判断し、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。「やることがない」父の、唯一の「やること」が、曾孫と食事をし、遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、
「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」
という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の生への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

死の直前、大人の呼びかけには応えなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父のいなくなった部屋の時計をじっと見ていた蓮が、
「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」
と言いました。
(文:大関 直隆)

2007/07/02(月)
第265回「曾孫の威力 前編」
一昨年の義父、昨年の義母に続いて、今年は私の実父が危うい状況になってきてしまいました。義父は93歳、義母は90歳。それに比べて父は79歳なので、いかにも早い気がしますが、どうもお酒がたたっているようです。若いころには一升酒は当たり前。多いときには一晩で2升くらい飲んだこともありました。とにかくお酒の好きな父です。

一時、軽い糖尿病を患ったり、腹膜炎を起こしてみぞおちから下腹部まで大きくメスを入れたり、そうかと思うと大腸癌で大腸を30センチほど切除したり・・・。それでも、お酒はやめませんでした。「酒が飲めないくらいなら、死んだ方がましだ」それが父の口癖です。

一昨年の秋、父と母を福島の温泉へ連れて行ったことがありました。参加者は、私と妻、それに孫(父と母にとっては曾孫)の蓮(れん)と沙羅(さら)です。午後3時のチェックインに合わせて宿に到着し、部屋に入るといきなり、
「おい、酒頼んでくれ!」
“いきなりかよぉ”と思いつつも、フロントへ電話をかけると、
「申し訳ありません。冷蔵庫のお飲み物の他は、お部屋にはお持ちしておりません。もしよろしければ、おみやげ売り場には冷酒用のお酒も取り揃えてございますので、それをお買い求めいただき、お部屋で召し上がっていただければと思いますが・・・」

結局、妻がおみやげ売り場で4合瓶の冷酒を買い、それを父に渡すとあっという間に空けてしまいました。2時間ほどして食事になると、さらにお銚子2本を頼み、それもすぐに空。若いころのようには飲めなくなっているにもかかわらず、テンポも速過ぎたのか、他のお客もいる広間で、大の字になって歌まで歌い出す始末。なんとか部屋まで連れて行くには行きましたが、そこでも大の字になって歌。食事どころではなく、結局、私も妻も何も食べられませんでした。

そんな父ですから、お酒がたたるのも無理はありません。昨年痴呆の傾向が強くなり、市の相談会を訪ねると、
「うーん、アルコール性の脳萎縮症だな」
と医師から言われてしまいました。

父に対しては、2つの大きな問題がありました。一つは車の運転。もう一つは、もちろん毎日飲むお酒をどうやめさせるかということでした。けれども、どちらも大きなリスクを伴います。それは、痴呆が進み始め、身体も弱りつつある父から、その二つを取り上げたときに、父の生に対する意欲はどうなるのだろうということです。

昨年秋まで車の運転をしていた父から、車を取り上げるのは至難の業でしたが、父が家の中でキーをなくしてしまったことをきっかけに、車はうまく取り上げられました。毎晩、家の前にある居酒屋でお銚子2本飲んでくる習慣は、誰かれかまわず、デジカメを向けてしまうことから他の客とトラブルになったり、お酒が入るとひどくよだれを垂らしたりすることから、お店の方から「お客が減ってしまって」という話をされて、「俺があんなに世話をしてやったのにふざけるな! あんな店にはもう行かん!」とカンカンに怒って、それもなんとかやめさせることができました。

けれども思った通り、その二つのことがなくなってしまった父は、まるで抜け殻のようになってしまいました。社会との関わりの窓口を失ってしまうということは、人間にとっては、「生きる」ということそのものを失ってしまうことなのです。

そんな中で、父の「生きる」意欲をかろうじてつないでいるのは、曾孫の存在です。人間にとって、「生」をつなぐということが、どれほど「生きる」という意欲につながっているのか、そのことを実感する毎日が続いています。

つづく
(文:大関 直隆)

2007/06/25(月)
第264回「そろそろ不登校の季節」
うちの研究所には、数多くの不登校の相談が寄せられます。開設当初は「浦和教育カウンセリング研究所」という名称だったものを、心理カウンセラーの養成や結婚・妊娠・出産といった夫婦の問題のウェイトが増してきたことに伴い、昨年「教育」の文字を取って「浦和カウンセリング研究所」と名称を改めました。「教育」の文字を取るまでは、心理カウンセリングのウェイトが増しているということで「教育」を取ったつもりなのに、いざ取ってみると、もともと「教育」からスタートしているせいなのか、今度は「教育」についての相談のウェイトが増してきたように感じます。どうも世の中というのは皮肉なものですね。

さて、その「教育」の中でも、断トツ多いのが「不登校」。リストカットやOD(過料服薬)もほぼ「不登校」を伴いますし、「いじめによる不登校」という訴えも、よく話を聞いてみれば、実は「不登校」が先にあり、子どもが「不登校」になったのは、「学校でいじめにあっていたからに違いない」という親の勝手な思いこみが、子ども本人にまで伝わり、「不登校」になっている場合がほとんどで、そういったものを「リストカット」や「OD」、「いじめ」といった括りではなく、「不登校」という括りに含めれば、95%くらいが「不登校」でしょうか。

もちろん、うちの研究所に相談に来たからといって、すべての「不登校」が直る(学校に行けるようになる)わけではありません。けれども、うまくいく事例、うまくいかない事例には、ある決まりがあることがわかっています。

うまくいく事例は、お子さんではなくお母さんが中心に相談に訪れた場合であり、うまくいかない事例は、お母さんではなくお子さんが中心に相談に訪れた場合です。

「不登校」のみの訴えの場合は、あまりそういう言い方をしませんが、リストカットやODを伴って「不登校」になっている場合などは、「子どもが病気なので、直してください」と言って相談にいらっしゃる場合がほとんどで、こういうパターンにはまって、お子さんだけをカウンセリングに来させるといった場合には、仮にいったん学校に出られるようになったとしても、何日もしないうちに再び「不登校」になり、完全に「不登校」を克服し、学校に出られるようになるということは、まずありません。

それに対し、お母さんが中心にカウンセリングを受けにいらした(おおよそ1回1〜1.5時間、月2回程度のカウンセリング)場合、これまで相談に訪れたすべての場合で、修学旅行や入試ということをきっかけに、「不登校」という状態を脱しています。

「不登校児」に対する対策として、居場所作りが盛んですが、果たして有効な解決策になっているのかというと、必ずしもそうは言えません。何を目標に置くかということで考え方は変わってくるのでしょうけれど、『「不登校」が解決する』という正しい姿は、「学校に行ける」ということです。そういう意味で考えると、居場所作りは意味がない。もちろん、学校を非難したい親御さんの気持ちはよくわかりますが、学校批判をしても、それはますますお子さんの「不登校」を後押しすることになるだけで、逆効果です。明確な行く場所のない「引きこもり」の緊急避難的行き場としての「居場所」というのがあってもいいとは思いますが、まだ「学校」という明確な行き場がある場合には、「居場所」を作るよりは、「学校」に戻すべきです。

これほど、「不登校」の多くなかったころ、「不登校」の子どもたちが安心して通えるところを作った方がいいのではないかと考えていたことがありました。けれども、そのころと今では、状況が一変しています。カウンセリングの結果、「不登校」を克服したお子さんを見てみる(実は写真以外一度もお子さんを見ることなく克服していったケースが50%なんですが)と、問題の根はお子さんにあるのではなく、お母さん(まれにお父さん)とお子さんの“関係”にあるということに行き着きます。お母さんなり、お父さんがそのことに目を向け、いち早く対応すれば、100%「不登校」は克服できます。

もし「不登校」になったら、お子さんの置かれている環境をよく振り返って、適切な対処をしてくださいね。必ず「不登校」は“直り”ます。無理矢理、お子さんを学校に出そうとしたり、むやみやたらに怒鳴り散らしても、状況を悪くするだけで、何の解決にもなりません。ディズニーランドでご機嫌を取る、なんていうのも、もちろんだめです。おそらく、問題の根っこは、無理矢理、学校に出そうとしたり、むやみやたらに怒鳴り散らし、そして時にはディズニーランドでご機嫌を取る、そうした親子関係にあるのですから。
(文:大関 直隆)

2007/06/18(月)
第263回「子育て・教育における法律論の台頭」
多少法律をかじっているものとして言わせてもらうと、最近の被害者中心主義による厳罰化の流れって、どうなのかな?って思います。加害者が、加害者としての認定を受けてから、マスコミに登場して弁明するなんていうことは、ほとんどあり得ないので、マスコミにおける報道は(まれに加害者の弁護士の会見なんていうのはありますけれど、加害者の「弁護士」という立場なのに、なんだか見ている側からすると、その弁護士が悪者に映ってしまうくらい)、ほぼ被害者側の立場からの一方的な報道になってしまいます。被害者が亡くなった場合、被害者の家族の立場になって考えれば、「加害者が死刑になったとしても許せない」と感じているのは当然だし、もし私が、被害者の家族の立場におかれたとしたら、多くの被害者の家族と同じように、加害者の死刑を望むかもしれないなあと思います。

けれども、法律ということで考えてみれば、単純に結果だけを基に厳罰に処すればいいというものでもなく、被害者の家族にとっては家族の一員が亡くなるというまったく同じ状況だとしても、加害者の故意あるいは過失の度合いによって、罪の重さは違ってくるわけです。というのは、どういうことかというと、法体系全体を見たときのバランス、例えば殺人罪と過失致死罪の量刑のバランスなどということを考慮しながら、法律は決まっていくものだし、同じ殺人、過失致死といっても、死にいたるについての責任の度合いによって、当然量刑は変わってくるというわけです。

最近、よく耳にするのが「危険運転致死傷罪」と「業務上過失致死傷罪」。交通事故というのは、家族で車に乗っている時に起こったり、子どもの列に車が突っ込んだりすることがよくあるので、「悲惨さ」ということでいうと、一般の殺人事件よりも、人々に与えるインパクトは大きく、「厳罰に処せ」という家族の叫びが、より受け入れられやすい気がします。考えてみると、交通事故というのはすべて過失(殺人を目的に事故を起こすということを別にすれば)なんだから、「故意に人を殺した」ということよりは、量刑が軽いのが当然なのにもかかわらず、「過失にいたる過程が故意(当然そのような結果を引き起こすことが予見できるにもかかわらず、自ら過失にいたる原因を作る)」というような理屈で、過失であっても結果次第では、故意より厳罰に処すという流れになってきています。本来客観的、第三者的でなければいけない法律が、やや当事者的で感情的なものになってきてしまっているような・・・。

ここのところ、テレビのバラエティ番組に法律を扱うものが多くあり、昔に比べると、法律がかなり身近なものになってきたことは確かです。アメリカのような訴訟社会に比べれば(法律的に進んだ社会と考えるなら)、日本はまだまだ遅れています。「一人一人の日常に法律が入り込む」というところまでは全くいっていない。にもかかわらず、先日、港区教育委員会が、学校への親からの苦情、相談に法律家を導入するという報道がありました。法的な解決を図らなくてはならないときに、顧問弁護士のようなものを置いて、その弁護士に解決を頼むとか・・・。背景には、親からの相談の多様化というようなことがあるように記事には書いてはありましたが、どの程度のものなんでしょう?

親をやっていた立場からすると、学校に相談なりクレームを持っていくときっていうのは、ほとんどの場合、担任なり学年なりの対応がどうなっているかということを知りたいときであり、法的に解決したいときではありません。例えば、いじめにあって子どもがけがをしたというような場合でも、いきなり賠償問題で騒ぐ親なんていうのはまれで、もしそういうことがあったとしても、それは学校の対応に誠意を感じなかったり、今後も同様なことが起こるのではないかという不安を親に抱かせたときであって、学校の対応抜きで、いきなり賠償問題なんていうことは、親とするとあり得ない感じがします。そういう意味で、教育の問題というのは、とても当事者的で、感情的なものです。

最終的に、法律問題になることはあるにしても、教育委員会が「法律の専門家を置く」などと、客観的、第三者的になってもいいものなのか。

法律というのは、どんな場合も社会全体の中で運用されていかなければならないものであって、解決には第三者が入ります。学校で起こる問題というのは、本来家庭と学校の二者で解決していくべきものです。だからこそ、教師と子ども、教師と保護者の間に信頼関係が生まれる。解決できないくらいひどい親が増えてきたという学校の言い分をすべて否定するものではありませんが、客観的な回答をもらうことではなく、信頼関係を築くことこそ教育の中に必要とされていることなのだと思うのですが。
(文:大関 直隆)

2007/06/11(月)
第262回「父子家庭の増加」
「おまえ、今どんな生活してんの?」
「ん、オレ? オレはね、息子と二人暮らし。高校生の息子と二人で住んでんだよ。息子ってかわいいよなあ。ほんと、もうかわいくってさあ!」
「!? ほんとに高校生の息子と二人で住んでるの?」
「ん、そうだよ。ずっと。もう10年かな」
「父子家庭?」
「そう」
「なんで?」
「んー、なんでって言われてもなあ・・・。別れちゃったからさあ。子ども渡すのイヤじゃん。やっぱさあ、育てたいじゃん。オレの子だよ。それに、なんかさあ、奥さん、子ども育てたくなさそうだったんだよなあ。だから、引き取ったんだ。でもね、最近親離れって言うかなあ、そろそろもう大人だろっ。ちょっと寂しいよ。けっこう仲のいい親子なんだぜ」
「へーっ! おまえってさあ、高校時代から変なやつだったけど、ますます変なやつになってるなあ!」
「そう? オレはオレ。昔からそうだったんじゃん。あんまり、変わってねえよ」

今から4年ほど前のことです。20数年ぶりに会った同級生のK君から、一人で息子を育てているという話を聞きました。彼は、高校1年生の時のクラスメイトで、特別仲がいいというほどの関係かと言えば、そういうわけではありませんが、どういうわけか話をしていると、気持ちがスッと通じるところがあると言うか、そんな感じの変な友人です。私は、自分から積極的に“友達を作りにいく”というような、性格ではないので、男友達と一緒に何かをしたという経験は皆無なのですが、このK君とだけは、高校1年生の時参加した伊豆大島への地学巡検(火山や地質、地層などの学習のため、地学の授業の一環として1年生の希望者が参加して毎年行われていた学校行事)で、丸3日というもの自由に行動できる時間は、すべて二人で行動していたという経験があります。牧場で牛乳を飲んだり、整髪に使う椿油を買ったり、三原山を二人で駆け下りたり、溶岩の色が反射して真っ赤に染まった雲を眺めたり・・・。今から30年以上も前のことですが、私はあまりそういう付き合い方をする方ではないだけに、大島で過ごした3日間は、今でもよく覚えています。

その頃は、別にそれほど仲がいいというわけではないのに、どうして気持ちが通じるのかよくわかりませんでしたが、父子家庭で長く過ごしているという彼の話を聞いて、「子どもに対する思い」という点で、かなり価値観の近い部分があって、そういうところが私と彼をつなげているんだなあと、えらく納得がいきました。

彼の話は、4年前のことですが、昨日(10日)ネットに、「『シングルファーザー』急増のわけ」というタイトルのニュースが流れてきました。総務省のデータによると、幼い子どもを抱える49歳までのシングルファザーは、05年に20万3000人で、00年からの5年間で、1万2000人も増えたそうです。理由は、離婚が15万7000人、死別2万7000人、未婚1万9000人。もちろん離婚が最も多いわけですが、“未婚の父”が、この5年間で4割以上も増えたそうです。

“未婚の母”っていう言葉は、よく使うけれど、“未婚の父”とは・・・。シングルファザー支援に取り組む横須賀市議の藤野英明氏は、「育児放棄が社会問題となっているように、子育てできない女性が増えているのが大きい。私がかかわった共働きの公認会計士とスッチー夫婦は、妻が『子育てにのめり込めない』といいだしたため離婚した。また、男性にも『パートナーはいらないけど、子どもはほしい』という考えが広がっているせいもあるでしょう」と言っているそうです。

私のあまり好きではない本に「父性の復権」なんていうのがあったけれど、近いうちに「母性の復権」なんていう本が登場するかも・・・。いやいや、もしかして、もうある?
今、ネットで調べたら、もうありました! もっとも、「父性の復権」も「母性の復権」も“林道義”著でしたが。

私は、母親が失ってしまった母性を、父親が補うのは大いにけっこうと思います。けれども、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う母親のように、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う父親が増えてしまうことを、懸念しています。両親揃って子育てができることに越したことはないけれど、様々な事情で一人親家庭になってしまった場合でも、大人のエゴによって、子どもが不幸になることがないよう、子どもの権利をしっかりと守った子育てをしたいものですね。
(文:大関 直隆)

2007/06/04(月)
第261回「父と子」
たった今、東京芸術劇場から戻ったところです。
真(まこと)が初めてプロデュースと演出をしたスーパー・エキセントリック・シアター ジェネレーションギャップvol.1 「NO BORDER」を観てきました。

『統一か分断か・・・ 第二次大戦後、アメリカとソ連の侵攻により東西に分断された日本。戦後まもなくソ連統治下から独立した東日本は、2007年に建国60周年を迎える。そんな時代に娘は言った。「トウサンハフルイ」父は言った。「オマエハヌルイ」東西統一を主張する娘。分断継続を主張する父。ちょっとだけすれ違ってしまった、親子の物語。』だそうです。

「う〜ん、なるほど」
確かにそんな感じのわかりやすいストーリーでした。もちろんおわかりの通り、朝鮮半島問題をもじったものですが、ちょうど折しも国政の世界でもいろいろなことが起きているさなか、「国家評議会議長」「官房長官」「広報宣伝大臣」という役柄は、観ていた人たちも、劇そのものの出来はともかくとして、それなりに興味を持って観られたんじゃないかと思います。初めての演出ということで、ちょっと心配はしていたのですが、“杉野なつ美”さん(広報宣伝大臣の役も好演でした)の脚本にも助けられた上、千秋楽ということもあってか、会場の拍手もとても暖かく、「まあ、よかったなあ」とホッとしました。

確かにシナリオ自体はしっかりしているし、演出もそんなに悪いとは思わなかった。が、パンフレットのコメントはなんだぁ!


 親父と酒を飲むのが僕の夢です。
 うちの親父は酒が飲めません。
 昔から家事をやっているのは親父でした。
 (多分「主夫」ってやつの先駆けだと思う)
 だから昔気質の親父ってのを知りません。
 もしかしたらこの作品はそんな親父像への憧れかもしれません。

 本日はご来場頂きありがとうございます。
 観劇後、ちょっとだけ家族のことを
 思い出してもらえたら幸いです・・・
 どうぞごゆっくりお楽しみください。

 あ、酒飲めないのは僕もでした・・・夢叶わず・・・


今年30歳にもなるのに、親を越えてなーい!
劇に出てくる小学校が「さいたま市立・・・」であったり、待ち合わせの場所が蕨駅であったり・・・。「初めての演出作品がこれ?」そろそろ、そんなところからは抜け出てほしいと思うのですが・・・。

昨日、真から電話があり「最近TVの取材を受けてて、終わったあと親のコメントがほしいって言われてるんで、終わったあとほんのちょっとでいいんだけど、残っててくれる?」なんで親?とは思いましたが、「あっ、そう」
そしてついさっきのインタビュー(どうもTVではないみたいだけど、とりあえずTVカメラみたいなものを向けられましたが)では、「クライマックスが、父親が死んで『おとうさん、起きてよ。起きてよ、おとうさん!』っていうのはどうかなあ・・・。まあ一般受けはするかもしれないけれど、子どもは親を越えていかなくちゃいけないんだから、次に創る劇は、親を踏みつけても乗り越えて成長していくっていうサクセスストーリーかなんかにしてほしいですね」と答えておきました。

つい先日、読売新聞のコラムに、「『王子の育て方』 斎藤家・石川家共著」というのが、出ていました。早稲田大学野球部の「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹君、国内男子プロゴルフツアーで史上最年少優勝を果たした「はにかみ王子」こと石川遼君のことを題材にしたジョークです。

ここのところマスコミは、すっかり「親子(特に父子)」ブーム。特にスポーツ界では宮里、横峯、亀田等々、有名なスポーツ選手の育て方や父親を取り上げています。その影響で、第2の宮里、横峯、亀田を目指して夢中になっている父親も少なくないのでは・・・? けれどもそれは、スポーツ界だけをとってみても稀の稀。うまく育たず潰れてしまうのが落ちです。

もちろん、今のスポーツ界で有名になっている親子関係はある意味では成功でしょう。けれども、それは非常に特殊な世界での、さらに特殊なことであって、すべての家庭での子育てに当てはまるわけではありません。「親に育てられた子」というのが、どうやって「親を乗り越える」のか・・・。

どの子も思春期があり、反抗期があり、親と対抗することで、一つの成長を遂げます。「親に育てられた子」には、それがない。これは、スポーツの世界ばかりでなく、受験競争の世界にも言えることです。ずっと親の庇護の下で育っていった子どもたちは、いったいどんな人間になってしまうのか・・・。

ニートや引きこもりといった子どもたち、また大きな事件を引き起こしてしまう子どもたち・・・。子育ての大きな方向を見誤らぬよう、マスコミに踊らされるのではなく、一人の人間として自立できる子育てをしたいものですね。
(文:大関 直隆)