大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。 |
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2003/09/29(月) |
第80回「万引き」 | ||||||||
「大関さんのお宅ですか? 今、お宅のお嬢さんを警備員室でお預かりしているんですが」
「はっ?」 「こちら丸広百貨店ですが、ちょっと万引きの疑いがありまして、警備員室でお嬢さんからお話を伺っているところなんです」 「…。本当に万引きをしたんですか?」 「お嬢さんは否定しているんですが、その疑いがありまして…」 「そうですか。じゃあ、はっきりしてないんですね?」 「はあ、まあ…。疑いがあるということです」 「わかりました。じゃあ、すぐ伺いますから」 「ウチの子に限って…」なんていうことが言えるわけがない。自分の子どもとはいえ、犯罪を犯すことがある。なんて考えながら、それでもなお「まさか」と思いながら、飯能の丸広百貨店まで出かけていきました。部屋には店長の他、社員が一人、警備員が一人、そして娘の麻耶と麻耶の友達が一人。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どういう状況だったんでしょうか?」 「お嬢さんとこちらにいらっしゃるお友達が店内をいろいろと回った後、CD売り場の辺りでしばらくしゃがんでいまして、警備員からするとちょっとその様子が不審に思えたので、万引きしたのではないかと…」 「それで、何か商品を持ってたんですか?」 「いえ、そういう物は…」 「持ってなかったんですか?」 「はあ、まあ。一応、荷物は調べさせていただいたんですが…」 「じゃあ、万引きをしたというわけじゃないんですか?」 「はあ、その疑いがあるということで…」 「麻耶! お前しゃがんで何やってたんだ?」 「しゃべってただけだよ」 「何も取ってないんだな!?」 「取ってないよぉ!」 「何も乱暴されてないな?」 「別に…。ここに呼ばれて荷物調べられただけだよ」 「「万引きをした』っていうことじゃなくて、『したかもしれない』っていうことなんですか?」 「はあ、まあそういうことになりますねえ」 店長も歯切れが悪い。警備員としてはかなりの確信を持って連れてきたようなのですが、他に仲間はいない、品物をどこかにおいた形跡はない、荷物の中からも出てこない、というわけで、はっきりとした証拠もなく、双方が謝って店を出てくるという変な結末になりました。娘が高校1年生の時のことです。 麻耶は4歳のころ、スーパーの棚からお金を払わず持ってきたガムをトイレに隠れて食べていたことがあります。便器の陰から何枚もの包み紙が出てきて気づきました。ガムを買い与えるということをしなかったので、お金を払わずに持ってきてしまったことと、普段与えられないガムを食べているということに対する罪悪感のようなものが4歳の麻耶にもあったのでしょう。 9月20日の新聞に「大人の万引き」の記事が出ていました。ホームセンターという限られた店種ではありますが、埼玉県内のある店では「ここ1ヶ月で見つかった万引き犯はすべて40歳以上」というのにはちょっとビックリしました。青少年による犯罪の増加や凶悪化がクローズアップされている中で、お金の価値、労働の価値、犯罪の意味をわかっているはずの大人の万引きが増えていることはとても残念です。30歳以上の万引き犯の比率はどんどん増えて昨年はとうとう50%。未来を担う子どもたちのためにも手本である大人でありたいですね。 万引き犯灰色だった麻耶は、最近ではすっかり「モラリスト」になって、態度の悪い大人や高校生の文句ばかり言っています。 「まったくそこの高校の生徒の交通マナーはなってないんだから! あんまりひどいから学校に文句の電話してやった。そうしたら電話に出たやつの態度も悪いから、『そういう対応してるから生徒も悪くなるんだ』って怒鳴りつけてやった」 なーんていう調子。 やっぱり「ウチの子に限って…」だったかな?
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(文:大関 直隆) |
2003/09/22(月) |
第79回「戦争で傷ついた子どもたち」 | ||||||||||||||||
講演会に呼ばれると必ず話すのが、妻と私の育った時代背景だ。
妻は昭和16年(1941年)生まれ、私は昭和32年(1957年)生まれの16歳違い。16年の開きがあると「同じ時代背景」で育つなどということはあり得ないが、ほんのわずかではあるが戦争を知っている世代とまったく戦争を知らない世代ということで、さらに年齢差が増幅されて感じられることがある。 昭和16年といえば、12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦の年。義母は日米開戦の報にショックを受け、14日に妻を早産したという。この前後に生まれた子どもには「太平洋」の「洋」を取って「洋子」という名前が多い。 私の生まれた昭和32年は、どういうわけか高度成長を象徴するような巡り合わせの年だ。小学校入学の年(1964年)が東京オリンピック、中学校入学の年(1970年)が万国博覧会。その後何度か聞いているせいもあろうが、「パーン パカパッパッパッ パッパッパッ パーン …」というオリンピックのファンファーレは今でもよく覚えているし、万国博覧会で数時間も並んで入ったソビエト館の記憶もある。 もちろん食べ物の好みも違う。妻の子ども時代は米を食べることが難しかった。最近はだいぶ変わってはきたが、妻は小麦粉を練って作ったようなもの(すいとん、うどん、お好み焼き、ピザ…)は「代用食」と言ってあまり好まなかった。 私の育った時代も、ファミレスもない、ファーストフードもない、我が家のおやつは、さつまいもの蒸かしたものやじゃがいも・里芋の茹でたものなどということが多く、決して今ほど豊かではなかったが、食べ物に困るなどということは想像もつかない。 妻はよく白米のおにぎりのおいしさを語るが、私の知っている「炊き立てのゆげの立っている白米のおにぎり」のおいしさではなく、「真っ暗な防空壕の中で見ず知らずのおじさんからもらった、たった一つの白米のおにぎり」のおいしさなのだ。 ついさっき、「世界ウルルン滞在記」(TBSテレビ)を見た。”東ちづる”の行った「ドイツ平和村」の映像が流れた。「平和村」は、戦争で傷ついた子どもたちを収容し、治療し、リハビリし、祖国に帰すことを目的とするところだ。その運営はすべて募金で賄われているそうだ。現在はアフガニスタンの子どもたちが中心で、われわれ日本人からは、想像もつかない惨状がそこにはあった。地雷で両手を失った子、放射能と思われる被害で顔の形状が変わってしまった子、爆弾で全身がただれてしまった子、頭蓋骨のない子、足のない子、筋肉がえぐられた子…。 ある男の子が、祖国に「帰りたいけど、帰りたくない」と言ったのはとても印象的だ。数ヶ月から数年に渡る治療とリハビリがすんで、祖国に帰れることになった子の発表の日、祖国に帰れることになった子の喜びと残って治療を続けなければならない子の悲しみは私の心を強く打った。調査をした上で帰国をさせるようではあったが、その子どもたちが祖国に帰った時、片親だけでも生きているという保証はどこにもない。私は、どこでどう使われるかわからないので、寄付や募金は好きではないのだが、この子たちのために、なにがしかの金額を送ろうと決めた。 何かと批判の矢面に立たされ、政界引退を決めた野中氏だが、先日「ニュース23」(TBSテレビ)のインタビューの中で、「二度と戦争への道を歩んではいけない。日本人が傷つくことも、他国の人を殺すこともあってはならない」と強く叫んでいた。イラクに自衛隊を派遣することが本当に国際平和に貢献することなのか、私にはどうしても疑問に思える。まさに自分の手で子どもを抱き上げ、育てたことのある人間の感覚なのかもしれない。今、目の前にいる子どもたちを絶対悲惨な目に合わせたくない。
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(文:大関 直隆) |
2003/09/16(火) |
第78回「学校のモラル」 |
「ダーッ、大変! 7時50分!」
すごい勢いで翔(かける)が起きてきました。いつもなら妻は6時に起きて翔のお弁当を作るのに、さすがに前の晩遅かった(というより寝たのが明け方だった)ために寝過ごしてしまいました。私はというと妻と同じく寝たのが明け方だったので、翔が起きてきたのも気づかずに寝ていました。妻は寝ぼけていて何事が起こったのか、すぐには飲み込めない様子。翔の慌てようにハッと気づいて時計を見ると7時50分。 「大変だあ!」 「家から駅まで自転車、電車を2本乗り継いで、さらに駅から学校まで自転車」の翔は7時10分には家を出ないと8時半の始業に間に合いません。もうとんでもなく遅刻です。ただし授業は9時からなので、授業開始に間に合うか間に合わないか微妙なところ。 「車で送るから」と妻は言うなり、車のキーを持って飛び出しました。翔もあとに続いて飛び出します。(私はまだ寝ていたので、ここまでは妻の話から。タハハッ!)翔は9月の2学期開始以来、耳の具合が悪くて4日間休んでしまっていました。妻は私立の”厳しさ”を知っているだけにここで遅刻をさせるわけにはいかないという思いがあったのでした。 ちょっと事情があって9月いっぱい私の車を停める自宅の近くの駐車場が借りられていないので、私の車は会社の駐車場に停めてあります。そんなわけで9月中は毎朝浦和の会社まで妻と一緒に出かけているので、目が覚めて妻のいないことに気づいた私は、妻の携帯を鳴らしました。 「どこ?」 「翔を学校まで送ってきたところだよ。今、学校を出たとこ」 「大変だったねえ。あいつ、夜遅くまで起きてるから。まったくしょうがないなあ」 「“寝坊しちゃってごめんね”って謝ったら、“お母さんのせいじゃないよ。僕が起きなかったんだから”だって。まあ、なるべく遅刻しないですむようにと思って学校まで送ったけど、校門のところで部活の先輩見つけたら、昇降口の方へ行かないで反対に先輩の方へ駆け寄って一緒にのろのろ歩いて校舎へ入っていくからさあ。“もう早く行け”ってイライラしたよ」 「“頭髪は耳にかかったら、部活動禁止で床屋に行かせる”“男女交際が発覚したら即退学”なんて言ってる学校が遅刻にはうるさくないのかねえ?」 「校門の辺りに先生がいて、“早くしろ”なんてちょっと頭小突かれたりはするらしいけど、その程度らしいよ。だらしがなくて遅れてくる生徒ってほとんどいないらしい」 「ふーん。運動では全国レベルっていう子が多いから、生徒の行動には一目置いてるのかねえ?」 「まあ、そんなとこなんじゃないの。教師よりもある部分ではずっと能力ある子がたくさんいるわけだから、自主性に任せてるっていうか、怒るんじゃなくて育てるっていうか…」 そんなわけで、ぎりぎり9時に間に合った翔は、それほどひどく怒られることもなくすんだようでした。 そして翌日。 「ったくう!」 毎朝私が仕事に出かける時間は、ちょうど近くにある私立高校の登校の時間と重なります。駅から学校までの線路に沿った道は真っ直ぐで見通しはいいのですが、駅からの距離の3分の1くらいが片側のみ歩車道分離、あとの3分の2くらいはやはり片側のみお義理程度の部分に白線で歩車道の区別をつけています。長女は高校生のころ自転車通学をしていましたが、前から歩いてきた高校生をよけた時に右手を車に引っかけられて軽いけがをしたことがありました。 「また広がってるよ。なんで歩道もあるこんな広いところも車道にはみ出して走ってくるの!?」 「今、校門のとこで教員がメガホン持って通学してくる生徒の方に“遅刻だぞー”って叫んでたから」 「気がつかなかったよ。またやってんだあ。あれっ? 生徒の後ろから自転車に乗った先生がハンドマイクで“急げー!”って叫んでる! 学校って何考えてるんだか…。たかが1分か2分の遅刻をさせないために交通ルールは無視していいのかねえ???そのためにこっちは何度も車停めてんだよ。ここの歩道は広いのに…」 社会のルールを教えるための校則じゃないの? 遅刻指導っていうのはいったい何のためにあるのか、もう一度考えた方がいいような学校っていっぱいあるんじゃないのかあ…。「学校のモラルを守らせるために社会のモラルを守らせない」これじゃあどんな大人ができるか恐ろしくなっちゃうよね。そしてそういう指導をしている教員の感覚も恐ろしくなっちゃうね。 |
(文:大関 直隆) |
2003/09/08(月) |
第77回「叱り方」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
「久しぶりの買い物だねえ。もう10年くらい来てないような気がする」
「ほんとねえ。あなたはここがホームグランドでしょ?」 「そうそう。なんかやっぱりこうやって買い物してると落ち着く。25年もずっとこうしてきたからねえ、こうしてることが普通だもん。買い物してるとやっと自分に戻った気がする。今日はいっぱい買っちゃおうかなあ」 前回も書いたとおり、ここ2ヶ月というもの会社のことが忙しくて、まともな時間に帰ったことがない状態。帰りは毎晩(というか毎朝)2時か3時。その間ウチで食事をすることは全くなくて、外食かコンビニのお弁当。買い物をするっていうことがこんなに気持ちが落ち着いて、幸福を感じるとはね。やっぱり私は根っからの主夫なのかも…。たった2ヶ月が10年に感じるなんて…。 「今晩はカレーにしようか、お刺身にしようか」なんてことを考えながら、幸せな気分で買い物をしていたら、ちょっとコスプレ風の女性が入ってきました。かなりのフレアなミニスカートなので、目を引きます。さらに1歳くらいの子が乗ったベビーカーを押していました。私の近くで買い物をしていたのでしばらく見ていましたが、お母さんはずっと眉間にしわを寄せていて、私のように幸せな気分で買い物をしているようには見えません。そこへお父さんらしき人が合流しました。お母さんのコスプレ風の格好とはまったく正反対の格好のお父さんです。ちょっと不似合いな感じはしましたが、近くに寄ってきたお父さんを見て、お母さんがニコッとしました。 そのあと、私は幸せな気分で買い物を続けました。カレーにしようかお刺身にしようか迷ったあげく、ますます幸せな気分で半額になったお刺身をたくさん買って、カレーは明日にすることにしました。「ちょっと高いけどこのカマンベールも買っちゃおうかなあ。ヨーグルトもこっちの高い方にしちゃおっ」なんていう調子でどんどん買い込んじゃいました。 レジに並んでいると突然後ろの方から赤ちゃんの泣き声が…。買い物をしている間に見かけた子どもは、さっきのコスプレ風のお母さんが押していたベビーカーの子だけ。かなり激しい調子で泣くので、「さっきの子かな?」と思って後ろを振り返ると、ちょうどその瞬間すごい勢いでお母さんが子どもを叩きました。 思わず目を覆いたくなるような瞬間でした。買い物したものをお父さんが袋に詰めている間、お母さんと子どもが出口の近くで待っている様子です。子どもは叩かれることに慣れているらしく、まるで叩かれることが合図のようにピタッと泣きやみました。 「子どもが叩かれるところを見るのはいやだね」 妻が言いました。 「そうだね。今なんてそんなに長く泣いてたわけじゃないし、もう出口のところにいたんだから、ちょっと外へでも出ればよかったのに」 買い物をしている様子にはそんなにせっぱ詰まった様子は感じませんでしたけれど、また逆に叩かなくてすむよう機転を利かす余裕があるようにも映りませんでした。「お母さんが袋に詰めて、お父さんが子どもを見てればよかったのになあ」ちょっとそんなことを感じながら、私はレジを通りました。こんな時は怒らないで、もっと「優しい叱り方」ができたらいいのになあ…。
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(文:大関 直隆) |
2003/09/01(月) |
第76回「学校の子ども?家庭の子ども?」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
「翔(かける)、宿題終わったのかよぉ?!」
「ううん」 麻耶(まや)に聞かれた翔は、曖昧に答えます。 「ねえ、お母さん。翔まだ宿題終わってないみたいよ。明日から学校始まるのにあれで学校行けるのかねえ? 2、3日前に聞いたときはまだ宿題終わってないっていってたのに、今日聞いたら終わったっていうような答えだったよ。でもね、あれ怪しいよ。全然やった気配ないし、答え方もなんか曖昧だったもん。」 「まあもう高校生なんだから自分で考えるんじゃないの」(笑) 8月31日(昨日)に私の経営してる会社のパーティがあったために、我が家の中はグチャグチャ。「私が社長で妻が副社長、娘が監査役で、あとは無し」なんていうようなちっちゃな会社が、会社の規模に似合わないようなおっきなパーティをやろうとするもんだから、準備が大変。ここ2週間くらい妻はずっと会社に泊まりきり。私は帰るには帰っていたけれど、帰るのはほとんど朝。「翔の顔を見たのは、いつだったっけ?」てな感じ。翔は翔で、高校のゴルフ部なんかに入っているもんだから、朝早かったり夜遅かったり、まともな時間帯で生活しているわけじゃない。こんなに翔の顔を見ないのは、翔が生まれて初めて。そんないい加減な子育てをしている親の代わりに、娘の麻耶がときどき翔を管理していたらしく、昨日パーティの後始末が終わって家に帰ってくると、麻耶から翔についての報告がありました。 翔も高校生になったので、こんな適当な親のやり方であまり曲がらずにそれなりの生活はしているけれど、やはり中学生だった去年までは大変でした。夏休みが終わる1週間くらい前から親も子どももピリピリし始めます。長期休業中はどうしても生活が夜型になりぎみ。我が家の場合などは、元もと夜型のところにさらに輪をかけて夜型になるから大変。1週間かけて遅刻をしない時間に起きられるように調整するわけです。これは、よほど生活のリズムを守り通しているお宅以外はどこのお宅でも同じようなんじゃないかな? それともウチだけ? あるサークルに参加をしていたときのこと。 「夏休み明けは生徒がダレてて、どうしても学校が荒れるんですよ。学校のペースに慣らすのに時間がかかるんです」とある先生。 確かにまあ生活のリズムっていうことについていえばわからなくもない。でも、この先生がいっているのはそういう意味じゃなくて、子どもたちの気持ちっていうか、態度っていうかそういうものについていっているらしい。 「先生、それちょっと違うんじゃないかなあ? 親の立場からいわせてもらうと、夏休みに入ったばかりのときは大変。子どもが全然自分の子どもじゃないみたいに我が家とペースが違う。1ヶ月ちょっとでやっと我が家の子らしくなったと思ったら、夏休みがあけたとたん、また学校のペースに戻されて我が家の子じゃないような子どもにさせられちゃう。そろそろ子どもを学校に合わせるっていう発想を変えて学校が子どもに合わせてもいいんじゃないかなあ」 よく家庭に戻すなんていう言い方をするけれど、「家庭に戻す」ってどこか変ですよね。確かに学校で生活している時間が長いけど、子どもの基本的な生活の場は家庭なんだから。その家庭のやり方を曲げてまで学校のやり方に従うのはどこか変。学校と家庭が子どもの取り合いをするんじゃなくて、きっちりとした棲み分けができるといいんだけど…。そうしたら、どっちのペースに合わせるなんていうことはなくなって、子どもは子どもらしくいつも自分のペースで生活できるのにね。
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(文:大関 直隆) |
2003/08/25(月) |
第75回「這えないのに這う沙羅」 |
深夜2時。
台所。 私は水を飲みに行きました。暗闇の中で、 「ガサッ、ガサガサッ。」 と音がします。ゴキブリのような小さな虫が出す音とは明らかに違います。音がするなどということをまったく予想していなかったので、音の出た場所があまりよくわかりません。あたりをぐるっと見回しますが、視界には何も入ってきません。 「???」 何かいる気配はあるのになんだかわかりません。こっちからは見えなくても、向こうからはこっちが見えているっていうこともあるので、ちょっと不安な気持ちになりながら、 「猫?」 (でもどこも開いてないよなあ…) 以前、玄関を開けていたらリスが入ってきてビックリしたことがあったので、まず「動物」という想像をしました。動物ならこっちの気配を感じれば大きく動きます。 一歩動いてみることにしました。 反応無し。 「ガサッ、ガサガサッ」 また音がしました。今度はこちらも音がするだろうという想像がついていましたので、音の出ている場所がだいたいどの辺か見当がつきました。 どうもダイニングテーブルの下あたりで音がしているようです。ダイニングテーブルを挟んでちょうど私が立っている反対側です。どうやらあまり動きの早くないもののようです。おそるおそる近づいて覗いてみました。 「沙羅ちゃーん!」 そこにいたのは生後6ヶ月になる孫の沙羅(さら)でした。 沙羅は母親の麻耶と一緒に隣の部屋で寝ているはずでした。確かに隣の部屋との境の戸襖が開いてはいましたが、沙羅はまだ這うことができないので、まさかこんなに遠く(5メートルくらいはあるでしょうか)まで移動しているとは夢にも思いませんでした。 「沙羅」 と声をかけるとこっちを向いてニコニコしています。 「こんなところまで来ちゃったんだあ。お母さんのところへ帰ろうね」 そっと抱き上げて、麻耶の隣へ寝かせました。またこっちを見てニコニコしています。そのうちくるっと向きを変えて、母親のおっぱいの辺りに潜り込みました。麻耶は寝ぼけているのか、目をつぶったまま沙羅を胸の中に抱え込みました。 翌日、沙羅の様子を見ているとまだ這うことはできませんが、自分のほしいものがあると、夢中になって手を伸ばし、おなかで滑って移動します。 「こうやって移動しちゃったんだ」 「おとなが眠ってるときは気をつけないとダメだね。うっかりすると、その辺に落ちてるもの、飲んだり食べたりするから、きれいにしておかないと…」 5人の子どもを育てていたときのことは、もうすっかり忘れましたが、この沙羅の様子を見ていて感じたのは、人間はやはり「その気になる」ことが重要なんだなあということです。沙羅はまだ「這うことができる」という状況にはほど遠いのに、とにかく自分の興味のあるもののところへは必死に手と足を動かして進んでいきます。このときの目の輝きは、普通の状態の時とはまったく違って、キラキラしています。おそらく昨夜もこんな風にして自分の興味のあるものの方へと進んでいったに違いありません。沙羅にとっては相当の大旅行です。こんなに小さな赤ん坊でも、行動するときには「何かを獲得しようとする意志」が重要なんだということを強く感じさせる出来事でした。 おそらく、赤ん坊が這えるようになるには、運動能力はもちろんですが、この自分の興味のあるものを獲得するために「その気になる」ということが最も必要なんだなあと思いました。 |
(文:大関 直隆) |
2003/08/19(火) |
第74回 「たった400人の島 その2」 |
粟島の東側(フェリーが着く港)が内浦、西側が釜谷。私たちが泊まるのは、西側の釜谷。フェリーが泊まる内浦は、それなりに賑やかで(何を基準にいってるのかねえ…。船が着く時を除くと、人なんて誰もいないんだけどね。本土からの船が着く時だけ、民宿のマイクロバスやワゴン車で賑やかになるだけだよ。)、何軒かのお店と最近掘り当てた天然温泉の「漁り火温泉 おと姫の湯」なんていうのがある。
釜谷地区はっていうと、民宿が何軒かと食堂(というよりラーメン屋さん)が1軒、お土産屋さんが1軒。お昼はその2軒しか食べるところがないので、食堂で「磯ラーメン」っていうサザエがいっぱい入ったラーメンを食べるか、お土産屋さんでやってる立ち食いそば風のそばかレトルトカレーを700円で食べるか、しかない。そのお土産屋さんで、「ヤマザキパン」みたいなパンは売ってるけどね。 そんな本当に何にもないところなんだけど、何にもないところだからこそ学ぶことがあるんだよね。とにかくそこの人たちはいろいろなものを大切にしてる。小さな島だから土地がない。おそらく木を切り倒して畑を作ればできないこともないんだろうけど、そんなことしたら雨水が山からまともに流れて来ちゃうだろうし、山を通して湧いてくるきれいでおいしい水がなくなっちゃう。だから、ほんのわずかな土地を畑にしていろいろな作物を作ってる。もちろんそれを収穫して民宿で出すわけだけど、畑はけっして民宿の近くじゃなくて、かなり急な坂を上っていった山の上の方にあったりするんだよね。40代くらいの若い(?)女将さんたちは泊まり客の対応に追われているから、畑仕事をしているのは、どうもそういう若い女将さんたちの親の世代、要するにおばあちゃんの仕事らしい。私でもきついと思えるような悪路をそういうおばあちゃんたちが行ったり来たりして畑仕事をしているんだから、これはすごい! そうやって収穫した食べ物が貴重でないはずがない。 前回、ちょっと触れた「わっぱ煮」。これが名物なんだけど、まあ簡単に言っちゃえば焼いた魚とネギの入ったみそ汁。どこが変わっているのかっていうと、その日に捕れた魚を入れるので魚の種類が決まっていないっていうことと、「わっぱ」の中のみそ汁に焼いた石を直に入れて、ゴトゴトと「わっぱ」の中で沸騰させること。こう言ったらちょっと失礼だけど、魚をいったん焼くので生臭くはないけれど、「おいしい!」っていう感じじゃない。どっちかって言うと「へーっ!」っていう感じ。 でもそれがまた、どんな雑魚でもとにかく捕れた魚は大事に食べるっていうことを教えてくれる。これが限られた食料の中で生きるっていうことなんだなあ…って。 泊まってる民宿のおばあちゃんが、 「今日は鯛が獲れたから、夕飯はご馳走だよ。やっぱり鯛はうめえよなあ」 って言うんだけど、普段スーパーやデパートの魚売り場を見慣れてる私たちにすると、 「えっ、これが鯛? これは店頭にも並ばないような屑じゃん」 まあ、ちょっと大げさかもしれないけれど、そんな感じ。海だからって、伊豆の旅館やホテルで出るような豪華な食事を想像したら、とんでもないことになっちゃう。 鯛の刺身が出れば、みそ汁が鯛のあら汁になるか鯛のかぶと煮がつくかなんだよね。そういう世界。 今年は、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)も連れて、総勢9名。孫を連れてお土産屋さんに行ったら、そこのおばさんがとにかくもう、蓮と沙羅をかわいがってくれるわけ。そこから民宿まで歩っていると、また近所のおばあちゃんたちが寄ってきて二人に触りまくる。これがまたなんとも愛おしそうに触るんだよね。粟島のおばさんやおばあちゃんたちは、みな同じ。ビックリするくらい赤ん坊を大事にしてくれる。粟島には赤ん坊がいないんだよ。 こんなに子どもを大事にしてくれる地域が存在していることに、暖かさと寂しさが入り交じった複雑な気持ちで船に乗りました。 今回の宿泊費は、7人(赤ん坊はもちろんただだよ)、のべ14泊で、なんと9万えーん!「わっぱ煮」だって1杯800円で、全部で10杯頼んだのに、いったいどういう計算になってるんだろっ? 「本当にいいんですか?」って何度も女将さんに確かめて、深々と頭を下げて感謝感謝!でした。 もちろん下船の時は、「蛍の光」が流れていたよ。なんだか、どうもドンキホーテで買った安いハーモニカの音みたいだったけどね。 |
(文:大関 直隆) |
2003/08/11(月) |
第73回「たった400人の島 その1」 |
新潟県に佐渡島があることはみなさんご存じと思いますけれど、粟島があることをご存じの方は少ないと思います。
粟島は佐渡島よりやや北に位置している周囲約20qの小さな島で、人口は約400人(2年前くらいには「440人」て出てたんだけどなあ…。今ネットで調べたら「約400人」になってる)、島全体で粟島浦村という一つの村になっています。2001年に行われた村長選挙で、当時の村長が、立候補をしようとした人の住民票を休日であることを理由に交付せず、選挙妨害で訴えられて、いったんは選挙無効で村長を失職しながら、やり直しの村長選挙で失職した村長が17票差で再び村長に当選したことから、昨年大きく報道されたので、覚えている人もいるんじゃないかな?どうも村長選挙のゴタゴタは対岸の村上市との合併問題が理由で、再び当選した現村長は推進派らしいので、ひょっとするとそう遠くない将来に「粟島浦村」は消滅してしまうかもね。3市合併で「浦和」っていう市がなくなってしまったのとちょっと違った意味で、こういう小さな村が消えていっちゃうのは寂しい気がする。 4年前「ズームイン朝」で島の名物の「わっぱ煮」の紹介をしていたのを見て、私はこの島を初めて知りました。ちょうど夏に義理の両親を連れて行く「海」を探しているところだったので、さらに「粟島」についての情報を収集してその夏は「粟島」に行くことに。義父はちょっと難しい人なんだけどえらく粟島が気に入って、それから毎年「粟島」に出かけています。 そんな小さな島だから、本土からの車の乗り入れはできなくて、対岸の岩船港に車をおいて、フェリー(一般の車両は乗れないんだけど、フェリーなんだよね???地元の人の車は乗れるらしい)で渡ります。55分で渡れる高速船もあるけど、やっぱり船はゆったり行くのが一番だね。とはいえ、フェリーでもたった1時間半だけどね。 汽笛とともに船が出航したときの気分といったら、もうなんとも言い表しようがない。なっ、なんと去年からハーモニカ持参(これがまた出かける前日の夜に「やっぱり船にはハーモニカが似合う」なーんて言っちゃって、出かけるまでに何時間かしかないのに、夜中にわざわざドンキホーテまで行って買ってきたハーモニカだからね)して、船の上でハーモニカ吹いてるの。もちろん、なるべく他の人の迷惑にならないようにデッキの上の、人のいないところでだよ。 ♪はーれた空〜 そーぐ風〜(もちろんハーモニカだから歌詞はないよ) とか♪カモメ飛ぶ あーおい空〜 ひかりかがやく 海ばーら とかね、知ってる? やっぱり船にはハーモニカだね。 そのうち子どもが集まって来ちゃったりして、 そしたら、♪南の島の大王は その名も偉大なハメハメハ とか♪アーイアイ アーイアイ おさーるさーんだよ〜 とかやってるわけ。 北へ行ってるのになんで南の方の曲ばっかりなんだかわかんないけど、そういえば明るい曲って南の方ばっかりだね。北の方へ渡る船って、なんか暗いねえ…。 ♪上野発の夜行列車降りたときから −中略− 連絡船に乗り〜 とかなっちゃう… ちょっと話がずれた…。 それでその「粟島」観光のキャッチなんてね、「何にもないを楽しもう!」みたいなやつ。それでほんとに「何にもない」の。それがまた何とも言えないんだよね。船は島の東側に着くんだけど、真ん中の山を越えて西側に行くと携帯電話も全然通じないし…。一昨年まであった公衆電話(島の西側にはそれ一台だけだったんだよ)も去年から撤去されちゃってるし…。 (携帯電話通じないんだから撤去するなっちゅーの!) 海に沈む夕日はとっても美しいけど、やっぱりセンチメンタルになるね。真っ暗になった空を眺めると天の川がくっきり見えるよ。 次回につづく |
(文:大関 直隆) |
2003/08/04(月) |
第72回「幼稚園の子にできて、小学校の子にはできないこと」 |
「あらあら、危ないなあ」
交差点を左折しようとした私の車の前をお母さんの乗った自転車に続いて、5歳くらいの男の子の乗った自転車がヨロヨロしながら横切りました。ヨロヨロはしているけれど、きちんと信号を守ってお母さんに続いています。歩車道の境目のところが若干段になっているので、車輪の小さい子ども用自転車は大人用に比べて大きくハンドルを取られてしまいました。 「おーとっとっと」 ちょっと転びそうになりましたが、なかなか器用にバランスをとって、無事転ばずに私の前を通り過ぎました。 「今の子、とっても上手に自転車に乗っていたけれど、小学校に入学してからも自転車に乗れるのかなあ?」 現在25歳になる真(まこと)が小学校に入学したとき、真が通う小学校には規則があって3年生になるまで自転車はダメ。変な話だけど、幼稚園に通っていたときには、自由に自転車に乗っていたのに、小学校に入学した途端、親が一緒にいても自転車に乗れなくなっちゃう。私が小学校のころもやっていたんだけれど、年に1回「交通安全教室」みたいなものがあって、婦警さんと交通安全協会の人かなんかがきて、1、2年生は横断歩道の正しい渡り方、3、4年生は自転車の正しい乗り方とか(5、6年生はなんだか忘れた。3、4年生に手本を示すのが5、6年生だったような気がする)そんな感じで指導をしてくれていたんだよね。交通事情もあるんだろうけど、私のころは「自転車の正しい乗り方」を教わるまで自転車に乗ってはいけないなんていうものはなかったんだけど、息子の学校では学校で「正しい自転車の乗り方」なるものを教えるまでは自転車に乗ってはいけないということになっていたらしい。 変な話でしょ?! だって、中には3、4歳くらいで自転車に乗ってる子だっているのに、6歳になって小学校に入学すると乗れなくなっちゃうんだから。別にそんな何から何まで学校で教えてくれないとできないなんていうことはなくて、そんなのはもう学校の勝手な主張。 「学校ってそんなに偉いのかよ?!」って感じ。 懇談会でいろいろ意見を言って、とりあえずその年は親と一緒なら乗ってもいいっていうところまで変えてもらって、その次の年だったかなあ?そんな規則は全廃してもらった。学校はそんな規則があることに何の疑問も感じてなかったみたいだけれど、意見を言ったら「そりゃそうだな」って思ったらしくて、それについてはすぐ対応してくれたんだよね。今住んでいるところの小学校は小規模で、学区の境目の道路に信号が2カ所(一つは押しボタン)あるだけで、学区内にはほとんど地域に住む人の車しか入ってこないようなところだから、当たり前なんだよね。 さいたま市内の小学校でもまだそんな規則があるところもあるんじゃないの? つい数年前まで大宮市内のどこかの小学校はそうだったって聞いたから。(そこも意見を言ったらすぐ変わったらしいけど)幼稚園の子は自由に乗れるんだから、誰が考えてもおかしな話でだもんね。 今日見かけた男の子は、小学校に入学しても自転車に乗れるといいね。とっても自転車の乗り方が上手だったもん! |
(文:大関 直隆) |
2003/07/28(月) |
第71回「特別養護老人ホーム」 |
今日は困っちゃったなあ…。
都内で越境入学をさせていて学校でトラブルになった話を聞いたので、その話にしようって決めていたんだけれど、昨日(27日)「浦和教育カウンセリング研究所」の仕事で秩父の大滝村まで行って特別養護老人ホーム(特養ホーム)を2カ所見学させてもらったら、あまりにも大きな衝撃を受けて、他のことがすっかり頭のどこかに飛んじゃった。越境のことはまた今度にして、今頭にあること書くしかないかなあ…。 大滝村は埼玉県の一番西に位置し、群馬県、長野県、山梨県、東京都と隣接しています。たった一つの村が4つの都県と接しているなんて、それだけでもすごいね。これまで峠越えだった国道140号線の山梨県へ抜けるルートに平成10年雁坂トンネルが開通して、かなり便利になりました。子どものころの私の印象では、「埼玉県の一番奥の観光地」っていう感じでしたけれど、雁坂トンネルができたことで「秩父から甲府への通り道」っていう印象に変わりました。雁坂トンネルが開通した年に山梨県側から埼玉県側に抜けたことがあるのですが、昨日久しぶりに訪ねてみて、やはり「観光地」というイメージから「通り道」というイメージになったなあと感じました。 大滝村を訪れたのは、NPO法人の方が「教育施設を作る」についての意見を聞かせてほしいということで訪ねたのですが、大滝村を一通り回って見せていただいている中で、2カ所の特別養護老人ホームも見学させてもらいました。 大滝村はかなり激しい過疎化の波にさらされているそうで、人口流失がどこで止められるかが大きな課題だということでした。産業がないため、若年層の流失は深刻で、人口構成における高齢化が進み、子どもがいなくなってしまったため、小学校が廃校になっていました。国の問題として取り上げられている「少子化」の問題とは違った意味での「少子化」問題がここには存在していました。 「過疎」という問題は、車も通らない遠い山奥や海沿いの町の話のように思っていましたが、交通量も比較的多く、ちょっと車で走れば都会というようなところでも深刻な問題になっていることに驚きを感じました。逆に都会の近くの村だからこそ、都会への人口流失がなおさら深刻になるのかもしれません。なんとか子どもを呼び戻して、村を再生させたいという大滝村の方の気持ちがとても強く伝わってきました。 『私たちは林業の世界で生きてきましたからねえ。そんなに目先のことを考えているわけではないんですよ。20年、30年、50年後の大滝村のことを考えているんです』 街の中で生活している私たちとはまったく違う子育ての大切さがここにはあることを感じました。 「特養ホーム」は約50名の方を30名あまりのスタッフで看ているそうです。入居者の方たちは重度の痴呆(介護度からいうと重度ではないそうですが、私には重度に見えました)で、「こんにちは」と声をかけても返事が返ってくる人はまれです。中にはニッコリと微笑んではっきりしない言葉で「こんにちは」と返事を返してくれる人もいるにはいますが、多くの人は表情も変えずに車いすに座ったままです。集団で話をするわけでもなく、じっと車いすに座って、時折うつろな視線をこちらに向けてくる老人の方たちに、かなり大きな衝撃を受けました。 階段から落ちないように置かれた衝立、殺伐とした食堂、かなり高い位置に設置されたドアの開閉用ボタン…。何もわからずに集団の中で生きながら、死期のくるのを待っている老人に、私たちができることはなんなのか?今まで社会を支えてきてくれたその老人たちに何か返せるとしたら、それはこれからの社会をしっかりと支えることのできる次の世代を育てることしかないのではないか、そんなことを考えながらウチに帰ってきました。 |
(文:大関 直隆) |