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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2021/03/12(金)
第537回:背景の黒について
 前号の題目で、「本当にこれでいいの?」といってはみたものの、本来の責任感の強さ(どこが?)から、この1週間ぼくなりにそれを事あるごとに反芻し、再々言い含めながら実践(撮影と暗室作業)してきた。公にすると後に引けなくなるから、やはり言ってみるもんだ。 
 拙稿は、いつも自戒の念を込めて書く羽目に陥るので、ぼくにとって、良いきっかけと気づきを与えてくれる。逆にいえば、言い逃れのできないように自分を仕向けることに役立っている。
 時には、異形なる写真表現への欲を抑えて、度を超さぬよう控え目であることが好ましいのだと言い聞かせもする。それを称して、ぼくの苦手とするところの “抑制” というらしい。欲と自制のせめぎ合いのために、「本当にこれでいいの?」との自問は、自身を制御するために必要不可欠な処方箋でもあるようだ。

 余談ではあるが、公に他人に何かを伝えようとする行為は、文語であれ、口語であれ、自ら学ぶことに直結するものだ。ひとつのことを相手に伝えようとすれば、自分は5〜10のことを知っていなければならず、したがって恥を晒すことなく体面を保つには自ら勉強せざるを得ない。「教えること = 学ぶこと」との図式は、このような仕組みから成り立っているようだ。

 話を元に戻すと、前号の題目を反芻しているのは、非常な正論を述べていると思いつつも、かなり抽象的であることに気がついたからだ。
 本意は理解していただけたと勝手に思い込んでいるが、勝手であるが故に少しばかり心許ない。その文章について、「本当にこれでよかったの?」との思いがないわけではない。それはいってみれば、あくまで撮影時や画像補整をする時の心構えであり、実務的な教えとはいえないところが辛くもあり、難点でもある。けれど、「急がば回れ」との諺をぼくは信じているからこそのお題目である。反対に、「慌てる乞食は貰いが少ない」ともいうしね。地に足をつけて、被写体をよく観察せよ、ということは何度言っても言い過ぎることはない。

 この抽象論は、「良い子にしていなさい、そうすれば何か良いことがありますよ」というに似ているが、如何せんそこには確約がない。かなり乱暴な譬(たと)え話だが、人は誰でもが “確約” を求めたがる。あなたもぼくも、それほどに厚かましい。まぁ、ものの上達に約束事など存在するはずがなく(本人にその気がなければ、いくら口角泡を飛ばし熱弁を振るっても、空虚なものとなる)、すべてはあなた次第なのだとぼくは一応論理的な逃げを打っておくけれど、しかしこの世界には、抽象的であることのなかから、実務に変換できることが多々あるので、ぼくはそこに一縷の望みをかけている。それが、確約といえば確約である。
 長年写真に従事してきて、そのような抽象論のなかから、実践に役立つものや利用できるものを探し当てようと努めてきた。それは、「塵も積もれば山となる」とかで、ぼくの貴重な財産ともなっている。

 さて、こんな話をしていると取り留めがなく、一応抽象論ではない写真のような話をしよう。以下は、何人かの読者諸兄からいただいた質問の要約である。

 花の写真ばかり掲載し始めて今回で42回目となった。写真もその倍の84枚を数える。数例を除いたすべては、お天道様のもと(つまり太陽光)で撮ったものだ。生け花ではなく、地面に根を張った本物の(?)花々である。
 読者諸兄のご質問は、「太陽光であるにも関わらず、ほとんどのものの背景が黒、もしくはディープシャドウで描かれているのは、画像ソフトを使用し、かなり慎重に花弁を “選択” し、背景を落としているのか?」だった。
 黒バックについての写真的な心理効果については他の機会に譲るとして、まず読者のご質問にお答えしようと思う。

 撮影はすべてRawデータであり、それをRaw現像時に、主要部以外のトーンを落とす(暗くする)。この作業のために、選択範囲を作ることはしない。
 使用ソフトはDxO社のPhotoLab であり、「部分調整」という非常に便利で詳細な調整のできる機能が附属しており、もっぱらそれのお世話になっている。面倒な選択範囲を作らず、暗くしたい色(花弁の背景は緑系や黄色系の葉や地面が主)の上にマウスでポイントを置き、多様に変化・調整することが可能。撮影時の注意点としては、「白飛び」(情報を失うということ)をさせぬことだけ。
 この作業だけで、大まかに花弁や重要な部分を浮かび上がらせることが可能となる。時間も労力も、今までとは比べものにならぬほど節約できる。節約できぬのはソフトにかかる費用だけだが、しかし、十分に元は取れる。デジタルに於ける文明の利器は、あなたの身を助けるのだから、進んで使うべし。

 Raw現像した画像をPhotoshopに渡すのだが、他に3社のプラグインソフトを組み込んでおり、絵柄やイメージに合わせたプリセットを随時組み合わせる。それをしているうちにシャドウ部がどんどん潰れていく。その塩梅は、Photoshopのレイヤー機能を使い、 “ほど” を微細に調整すればよい。この作業に「本当にこれでいいのか?」とつぶやきながら数時間を要することもある。

 画像ごとにその手順や進行具合が異なるので、共通する部分だけを書き出してみた。出し惜しみをしているわけではなく、これ以上はそれぞれに作法が異なるので、書きようがない。プロは非常に多くの場数を踏んでいるのだから、ぼくはこの期に及んで出し惜しみなどという姑息なことは決してしない。それをシェアしてプロはなんぼのものだ、というのがぼくの信条でもある。
 黒バックの話は、次回にもう少しだけ述べたい。

http://www.amatias.com/bbs/30/537.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
直径60cmほどの巨大な葉牡丹? 「君、今日まで頑張って生きたね」と労いの言葉をかけてやりたかった。
絞りf9.0、1/15秒、ISO400、露出補正-2.00。
★「02さいたま市」
切り株を見ると、ぼくはいつもE. ウェストン(米国の写真家。1886-1958年)を思い浮かべる。この大きな切り株は落雷にでも遭ったのだろうか? 表皮がすでに失われていた。風雪に打たれ、年輪のような皺と筋が浮き出ていた。
絞りf11.0、1/40秒、ISO200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2021/03/05(金)
第536回:本当にこれでいいの?
 前号からちょうど1週間経ったが、未だ書きたかったことが何であるのか、どうしても浮かんでこない。あれこれと思い返してみるのだが、それは宇宙の果てにまで飛んで行ってしまったか、あるいはブラックホールに吸い込まれてしまったかのようで、取り戻すことはほとんど絶望的であるように思える。自然の摂理に従えば、過去を呼び戻すことは不可能なので、今回は気を取り直し、他のことについて記したいと思う。
 いつかひょっこり思いもしないところで再会することがあるようにと、星に願掛けでもしておこう。天空に、無数に散らばる星のひとつがぼくを憐れんで、願いを叶えてくれるかも知れない。

 今回も思いつくままに綴る。
 シャッターを押す時に、ぼくはハタと思い直したように「おまえ、本当にこれでいいの?」と問いかけることがある。本来なら「シャッターを押す毎度の如くに」が正しい人生の歩み方、延いては写真の撮り方なのだが、そんな気ぜわしいことをして写真など撮るもんじゃないと言い訳をしておく。
 そして、撮った写真を自身の描いたイメージに合致させるよう暗室作業をし、仕上げの段階で「概ねこれでよろしいか? なんだけどぉ、でも本当にこれでいいの? ちょっと違くね?」と変な日本語で自問してみせる。一応気休めのために、自身にこんな振りをしてみせるのだ。なんともいじましく、しみったれた所作だ。これは公序良俗に反しているように思えてならない。

 古希を過ぎても、泰然自若とはいかず、真逆の方向にぼくは歩を進めている。写真のありように自信と確信が持てないので、不安ばかりが心のなかで増幅する。撮れば撮るほど、勉強をすればするほど、写真とは何だか分からなくなってくる。
 霞んでいく自分の姿を警戒しようとする気持だけは盛んだが、それが誤った方向に自身を導くこともあるとの自覚は、辛うじて保持している。そんな時、「強引さはいつも大敵と思し召せ」とも言い聞かせる。そしてまた、自身の姿の輪郭をなぞることはできるが、中身となると曖昧模糊としていて、その見通しの悪さには自分でも気持が鬱(ふさ)いでしまう。結果、写ったものを見て「こんなものかぁ」とか「これしきのものか」としばし悄然とする。

 「おまえ、本当にこれでいいの?」との問いかけは、撮影時より暗室作業に従事している時のほうが多いような気がする。本来なら双方が等量等質であるべきものだが、何故このようなアンバランスを生むかと謙虚に考えてみるに、撮ってしまったものに決定的な欠陥があれば、それはもう取り返しがつかず諦めもしようが、しかし原画に多少の欠陥があるくらいなら暗室作業で何とか挽回できるかも知れないと思いたくなるのが人情というものだ。このような誤った色気は人間をダメにする。ここんところがぼくのヒジョーに姑息で、のっぴきならぬ心胆を表している。我ながらなんとも痛ましい。

 過去、何度か触れたことでもあるのだが、「質の落ちる写真に対して、いくら暗室作業を凝らしてみても、何の足しにもならない。暗室作業で写真の質を救ったり、補ったりすることはできない。ただし、その補整が突飛であったり、奇矯であったりして、取り敢えず目先を誤魔化すことはできるかも知れないが、誤魔化せる人を相手にしてはいけない。人は騙せても、自分は騙せないんだから。そこには普遍的な美がないので、すぐに嫌気が差してしまうものだ。そしてまた、あなたの写真の品格を落とすことにもなるから、姿形の良くない写真を補整で何とかしようなんてことは、厳に慎まなくっちゃね」ということを、どこでも、誰に対してでも、憚りなくそう言い切ってきたのはぼくである。
 だが自分のこととなると、この格言(?)をすぐに忘れ去ってしまい、「溺れる者は藁をもつかむ」との言葉に甘んじ、貴重な時間を無駄と知りつつも浪費してしまうのである。
 昔、植木等の歌に、「♪わかっちゃいるけど、やめられない♪」という、人心(ひとごころ)の核心を突く名歌詞があったが、人は事が切羽詰まるとなり振り構わず、にわか作りの、分別のない慈悲に縋(すが)ろうとするものだ。

 しばらく前に、題名は忘れてしまったが、ネット動画である職人の話を聞いた。その職人おばちゃんは、世界的なピアノメーカーであるスタインウェイに40年間勤め、出来上がったピアノ一台一台の最終調整を担っていた。その作業を動画で見ていると、まさに神業とも思える名人芸であった。
 ドイツ人インタヴュアーの「このお仕事は、相当耳が良くないとできませんね」との問いに、彼女は「そのようなことをよくいわれますが、そうではありません。大切なことは、『あなた、本当にこれでいいの?』と自問することです」と答えていた。
 ぼくは彼女ほどの名人芸を備えてはいないが、膝を打ち、我が意を得たりと鼻を膨らませた。ただ、彼女とぼくの異なるところは、同じ言葉でも彼女のそれには十分な説得力があり、ぼくにはないということだけだ。だが、悲観することはない。ぼくにはまだまだ前途洋々たる未来が待っているのだから。

http://www.amatias.com/bbs/30/536.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:マクロレンズFE100mm F2.8 USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
紅葉葉楓と書いて、「もみじばふう」と読むのだそうな。公園に落ちていたものを拾って持ち帰る。実の中がどのようになっているのか興味津々だが、まだ分解していない。
絞りf22.0、20秒、ISO200、露出補正-1.00。三脚使用。
★「02さいたま市」
八つ手を見ると思わず撮ってしまう習性がある。埃だらけの場所にあっても、何故かいつもピカピカと艶っぽい。しかし、こんな虫喰い八つ手も珍しい。虫に喰われながらも、やはりピカピカして、艶を失わない不思議な八つ手。 
絞りf11.0、4秒、ISO100、露出補正-1.33。三脚使用。


(文:亀山哲郎)

2021/02/26(金)
第535回:忘却の悲しみ
 原稿を書くにあたって、毎回「今日は何を書こうかなぁ?」と自問自答してみるのだが、今回は前日に恰好のあらすじが浮かび、ぼくはすっかり良い気分となり、バッハのチェンバロなどを聴きながら寝入ってしまった。ぼくにしては、普段ほとんど気にしない “起承転結” に従った筋立て(それは端整で眉目秀麗なバッハのようだった)であったが、それでも良いと思った。内容もいつになく意味のあるもののように思えたので、なり振り構わず、「今回はバッハに倣おう」と夢現(ゆめうつつ)で考えた。

 しかし、もともと “起承転結” などという文章構成や順序は、どのような分野にあっても、それは一応の体裁を取り繕うようなもので、実際には、創作の筋立てや面白さ、そして内容の起伏や意外性に大きく寄与するものではないとぼくは常日頃からそう考えている。元より “起承転結” は、創作に関わる大切な因子には直結しておらず、いってみれば、それはパソコンのアプリなどについている定形のサンプル、つまりテンプレートのようなものとぼくは捉えている。
 創作に於いて、そもそも “起承転結” などという融通の利かぬ固形物は “予定調和” の予備軍のようなもので、そのようなものに関わり、そして囚われては面白くも何ともなく、したがって百害あって一利なしである。 “起承転結” などに気を取られていては、俗離れしたものへの期待なぞ望むべくもない。今、ぼくは極論、もしくは暴論を述べていることは百も承知している。

 人生とはいつも流動物であり、矛盾と誤謬に満ちており、一寸先は何が起こるか分からないから愉快なのだ。原稿と人生を一緒くたにして、横着にも分け隔てなく論じ、快活に扱おうとするから、思わぬところで足をすくわれ、転んでしまうのだが、ぼくはそれを由としている。写真も斯くの如しだ。
 昨晩ぼくは、布団のなかでバッハにかまけ、良案だったあらすじのメモを怠った。「書き留めなくても忘れるはずがない。オレはまだそんなにボケてはいない。寝床でメモを取るなんて、そんな世知辛いことなどしておれるか」との思い上がりが過ちのもとだった。

 寝惚け眼で目覚めてみると、思いついた原稿の妙案をさっぱり覚えていないのだ。数時間も思い返しているのに、どうしても思い出せない。この無念さと憤りをどこにぶつければいいのだろうか。
 煎れたばかりの、とっておきの珈琲をすべて床にこぼしてしまったとか、後生大事にしまっておいたへそくりをどこに隠したか忘れてしまったとか(未だに不明)、意中の女(ひと)に素気(すげ)なく振られたとか、あるいはまた他の女にも思いのほか袖にされたとか、そのようなことが今走馬灯のように浮かんでは消えた。そのどれもが実際に体験したことなので、まこと詮方無い(せんかたない。たまらなく悲しい。悲しみにたえがたい。大辞林)。
 メモを怠ったことと過去の不覚とが合わさって今尋常でない痛みが全身を走り回っている。この痛みは、痛風と結石を併せたくらい強烈なものだ。どうしてこんなことを今ここで公表しなければならないのかとも思うのだが、そのくらい今日の忘却が悔しくてならない。この自白を称して、自暴自棄とか焼け糞という。持って行き場のない忌々しさに奥歯が擦り切れそうだ。
 とてつもない損害を蒙り、今晩はバッハどころではない。ベートーヴェンの荒れ狂うような第7交響曲か、ダミ声のM. デイヴィスでも聴こうか。
 取り返しのつかないヘマをしてしまったぼくは、今何を書くべきかが分からず途方に暮れている。今日は、何をどう取り繕うかに終始しなければならないかと思うと、なんだかお先真っ暗で、ひどく気が重い。

 思い出せないでいる事柄とは別件なのだが、ぼくのもとに毎月ある写真量販店からニュース(メール)が舞い込んでくる。そのHPには、時期(季節)に沿った写真が掲載されており、それらのほとんどは、あまりにぼくの写真のありよう(改めて書く必要もないと思われるので書かないが)とは、技術的にも感覚的にもかけ離れており、表現も正反対のものだ。
 きっと世の中の大半は、ぼくの写真より、量販店のHPに掲載されたもののほうに共感するのだろうし、好意を持つのであろう。もちろん、それでいい。人にはそれぞれの役目があるからこその百人百様である。

 今月はたまたま「花」をテーマとして扱っていた。ぼくの徘徊するところでは、冬場に咲く花がなかなか見当たらず、苦心しているので、なおさらそこに掲載された花の写真に興味を持った。写真の良し悪しではなく、そこに掲載された花の写真が、あたかも女子中学生や女子高生に「あらっ、きれい! 私もこんな写真を撮ってみたい」と思わせるようなものであり、それを以てして「ぼくとはまるで正反対」なのである。
 ぼくの花は、クローズアップ気味で、どこか暗く、花盛りのものは少ない。朽ちかけたものだったり、虫喰いだったり、葉脈が毛細血管のように浮き出ていたりする。それらは生あるものに対峙した時に、折に触れて浮かんだ断片的な思いを切り取ったものだ。つまり花の断想ともいうべきものだ。したがって、おおよそ若い女性には不人気であろう。ぼくは、他人を喜ばすのではなく、自分のために写真を撮っているので、もちろん、それでよかよか!
 
 前号で、写真展に伺ったことについてのポジティブな感想を述べたが、それは良い意味での、大人の成熟した写真であり、そこにはぼくが大切にする文学的・宗教的・哲学的な要素が、二次元の世界に確たる意志を持って、しかも有機的に盛り込まれていたからだった。作為がないだけに、ぼくは久しぶりに心地良さを感じたのだった。
 その余韻のおかげで、今日の容易ならぬ忘却も帳消しになれば良いのだが。

http://www.amatias.com/bbs/30/535.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
「いろいろな葉牡丹が咲いてますよ」と教えられ、駆けつけた。「葉牡丹」って、とても風雅な名前だが、撮るのは難しく、ぼくには一苦労。
絞りf11.0、1/50秒、ISO400、露出補正-1.67。
★「02さいたま市」
葉牡丹。「おまえ、キャベツみたいだな」といったら、「キャベツよりきれいよ」と、何故か女ことばで返してきた。
絞りf10.0、1/60秒、ISO200、露出補正-1.67。


(文:亀山哲郎)

2021/02/19(金)
第534回:ある写真展
 長年手芸教室を開いているぼくの嫁が、ある写真展にいそいそと出かけて行った。聞くところによると、教え子の姪御さん(都内在住)がさいたま市のギャラリーで個展を催しているとのことだった。

 嫁は普段から、亭主や家庭を奈落の底に落とした写真というものに、そこはかとない恨みの情、もしくは冷ややかな感情を抱いているようだ。それをぼくは肌でヒシヒシと感じ取ってきた。写真を撮るために、家庭的なものをすべて犠牲にしてしまった与太者であるぼくへの心情として、嫁のそれは当然のことのように思える。そこに弁解の余地はなく、ぼくは嫁の反感を素直に受け入れざるを得ない。彼女は長年まんじりともせず、ぼくの写真に無関心を貫き通している。そこにはいいようのない強固な意志と忍耐が存在しているようにも思える。
 ぼくも、嫁も(嫁は、生まれも育ちも京都)、京ことばでいうところの “がんまち” (がむしゃらさ。我の強さ。身勝手なさま。頑固。それらを複合した便利な言葉)を競い合っているかのようでもある。

 彼女は家庭にあって、ぼくの写真とはもっぱら疎遠であろうとし、ひとえに我関せずを通しているが、ぼくに恨み言をいわないことだけが唯一の救いであり、嫁にしてみればそれがぼくへの理解を示す精一杯の挙措(きょそ。立ち居振る舞い)なのだと思う。亭主の専横な振る舞いに恨み辛みはあるだろうが、表立って取り乱す姿を見せたくないのだろうと、ぼくは勝手な解釈をしている。
 もう一言彼女のためにつけ加えるのであれば、素知らぬ振りをしていることは即ち「そこそこの “女振り” を示している」と解釈でき、冷ややかな視線を感じているぼくとしては、ここで一通りの胡麻をすっておかなければならない。それが人道というものだ。「女振り」などというと、昨今の姦しく騒ぎ立てるあの愚昧な一派の、ばかばかしい限りの「差別用語」としてぼくは槍玉に上げられるのか? 阿呆らし!

 写真展から帰ってきた嫁が開口一番、「あの写真であれば、あなたは認める。だから行ってきなさい!」と、ぼくを追い出すように、命令調で言い放ち、そう断言したのである。ぼくが認める写真とそうでないものを、何故か彼女はすでに心得ているということに他ならない。ぼくはジトッと汗ばんだ。
 普段、無関心を装いつつも、どこかで亭主の一挙手一投足をじっくり観察しているに違いなく、嫁というものはやはり油断がならず、気を許してはいけない。壁に耳を押しつけ、しっかりと聞き耳を立てているに違いない。「壁に耳あり、障子に目あり」だ。

 穏やかな日和に誘われ、ぼくは健気に嫁の命令に従うべく、歩いて30分のギャラリーに足を運んだ。明治24年築の純日本風の建物で、1階が喫茶室、狭い階段を上がった2階がギャラリーとなっており、土壁と梁の露出した落ち着いた空間であった。
 この佇まいからすると、短絡的だがモノクロ写真や和紙での仕上げが似合うような気がした。少なくとも、光沢紙のカラー写真はどこか違和感を覚えるかも知れない。

 2階の畳の間に展示された作品は、おおよそ30点ほどだったろうか。モノクロの銀塩写真で、作者の心情や撮影意図がダイレクトに伝わって来るものだった。久しぶりに質の高い、神経の行き届いた良い写真に出会えて、ぼくの体に緊張が走った。油断ならぬ嫁の「あなたは認める」という標準語は正しかった。  
 汗ばんだ額を拭いながら、作品を一点一点丁寧に鑑賞した。ぼくにしては珍しく、眼鏡を外したりしながら、印画紙に目を近づけて “観察” したもの多々ありだった。作品の仕上げから、作者の写真に対する真摯な姿勢や熱が直接伝わってきた。細やかな神経とバランスの良さを感じ取れたので、老眼人間特有のポーズを取らざるを得なかったのだ。
  その仕上げの精緻さから、ぼくはその精神に相応しい「優秀な引き伸ばし機。多分、ライカのフォコマート」との確信に至った。約20年間もフォコマートと付き合ったぼくは、自分の見立てを確かめようと、作者に「非常に良い引き伸ばし機ですね」と話を向けた。「はい、フォコマートです。これを初めて使った時、自分の写真が数段良くなったように感じました!」と、その時の感動を吐露された。ぼくもそのお返しに、ライカレンズとフォコマートにまつわる鳥肌が立つような体験をお話した。

 一連の展示作品『鹿渡り』は、極寒の北海道に6度通い続けて撮ったものだそうだ。印画紙を厳選し(日本で買うと高価なので、海外から直接取り寄せているとのこと)、カメラや引き伸ばし機に拘り、そんな姿勢が如実に作品に転写されていることに、ぼくは大いなる共感を示した。かつてのぼくと似たような姿をそこに見たような気がしたからだった。彼女もまた、あらゆることを犠牲にして写真に取り組んでいる。その様子が、手に取るようにぼくの心に響いてきたのだった。
 彼女が写真を生業としてやっていけることをぼくは衷心より祈っている。
 自己犠牲と十分な覚悟を身に付けた彼女もまた、気概のある「女振り」を示していた。彼女のお名前は、白石ちえこさん。これから岩手県での展示に向かうそうだが、先日の地震で新幹線が止まっており、深夜バスで移動するのだと、この原稿を執筆中に東京駅から電話をいただいた。ぼくも昔、足しげく通った岩手。岩手の座敷童子も、「女振り」が良いと聞く。

http://www.amatias.com/bbs/30/534.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
さつきとつつじの区別がつかぬぼく。これは6月に撮ったもの。
絞りf4.0、1/1000秒、ISO100、露出補正-0.33。
★「02さいたま市」
葉牡丹。モノクロ写真に調色をしたもの。前回掲載した葉牡丹のほうが断然すきなのだけれど・・・。今の季節、花がなかなか見つからないのだ!
絞りf13.0、1/30秒、ISO200、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/02/12(金)
第533回:マスクの効用
 前回、専門的にならぬ範囲で、色温度の変化によって雪が青く発色する現象について記したが、こういう話は、読むほうも書くほうも、あまり面白いものではない。知識として知っておくことはデジタルを操作するうえでとても大切なことなのだが、ホワイトバランスや色相について厳密さを求める必要はなく、撮影時に感じた記憶色(イメージカラー)に重きを置いたほうが現実的な面で、絵作りには役立つということをぼくはいいたかった。実際に、厳密さを期すと面白さや深みを失ってしまうこと多々ありというところだ。物事は、きっと夾雑物がほど良く含まれていたほうが心地良い。

 とどのつまり、“そこそこのところで良い” とぼくは正直に述べた。このことは、安心を得たり与えたりするためではなく、個人に限定された写真的色調の心地良さ(誰でもが持っているであろうもの)を第一にすべきとの考えに基づいている。
 どこに心地良さを求めるかは、物理的な理論に頼るのではなく、あくまであなたの心情的・情緒的・絵画的・文学的といった多方面な事柄に由来するものと考えるべきだろう。つまり、そのことはあなたの人生観に依拠することだといっていい。そこに理のある融通を利かせれば、それが一番だと。

 今回はぐっと砕けた話に方向転換したいと思っているのだが、根が真面目(?)なだけに上手く話を進められるかあまり自信がない。脱線話をどこで写真に結びつけるかに苦労することは目に見えているからだ。まぁ、気にせずやってみるか。

 ぼくは毎日散歩に出る。時間はまちまちで、場所も決まっていない。心趣くままといったところだ。この1年、武漢ウィルスによる流行り病のお陰で、道行く人々の様相は一変した。猫も杓子も、誰も彼も、老若男女に関わらず、マスクで顔を隠している。それは異様な光景だが、マスクのせいで人格が多少変化する人もいるのではないかと思う。特に、シャイな人はマスクをすることにより普段覆われ隠れた部分(大胆さ)を晒すことを厭わなくなるとぼくは思うのだ。それが自然の心理ではあるまいか。

 そしてまた、今やマスクはどこへ行くにも必携アイテムとなってしまった。マスク大嫌いなぼくも、仕方なくそれをしたり、ポケットに忍ばせたりしている。うっかりマスクを忘れようものなら、気が咎めてコンビニにも立ち寄れない。まるで法を犯しているような気分にさせられるのだから、憤懣やる方ない。
 この流行り病に激しい怒りを覚えつつも、その矛先を転じることができずにいるものだから、ぼくはどうしてもその矛先ならぬ視線を女性に向けざるを得ない状況に立たされる。何の因果で女性なのか?

 マスクで顔を覆った(隠した)女性は、 “押し並べて” 美人に見えたり、あるいは可愛く見えたりする。「多分実物より」というところが味噌だ。少なくともマスクによりクオリティが上がるのだ。そう感じるのはぼくだけではないだろうと思うのだが、世の人々はぼくのように、あからさまに「美人」とか「いい女」などとはいわず、黙している。まるで「そんなことは露ほども考えたことはない」とでもいう風に、どこか上品ぶったり、紳士を気取ったりしている。
 あるいは、気取り屋の彼らは、「マスク如きに誤魔化されやしない」とでもいっているようにも思える。ぼくは、「そうだとすれば、なんと夢のない、気の毒な人たちであることか」と、人間味に欠ける彼らに白い目を向ける。おおよそロマンに欠ける現実的な人々である。きっと退屈な人生なのだろうなぁと、大きなお世話を焼いてみたくもなる。

 そして、ぼくは美人に見えるその人のマスクを一度くらいは悪戯に引っぺがしてみたいとの衝動に駆られる。「本当のところは果たしてどうなのだろうか?」との探究心は尽きることがない。「おれは2,000人以上の顔を凝視しながらポートレートを撮ってきた。だから節穴ではないのだ。間違えるはずがない。確認してみようではないか」と思うと、ますますマスク引っぺがしは、已(や)むことが困難に思えてくる。
 心は揺らぎ手は震えながら、しかし意図せぬところで衝動に突き動かされ、狼藉を働いたらどうしようと、止めどもない不安に襲われる。世知辛(せちがら)い世にあって、ぼくは戦々恐々としながら、街を歩いている。けれど、「美人かも知れない」と思うと、変わり映えのしない街の風景も妙味が加わって、そうそう捨てたものではないと思えてくる。マスク様々である。

 そんな時いつも落語の科白が、水面に浮かんだ枯れ葉のようにゆらゆらと立ち現れる。落語好きのぼくに免じて、その話を2題だけ引用させていただきたい。
 与太郎噺に『錦の袈裟』という演目がある。女郎買いの趣向として高価な錦を下帯(ふんどし)にし、吉原に繰り出す噺だが、この噺は3代目三遊亭金馬(1894-1964年)のものがぼくの好みには一番ぴったりする。錦のふんどしを見た花魁たちは「あの中はどんなだろう?」と。ふんどしとマスクを一緒にしちゃうところがぼくらしい。
 もう1話、古今亭志ん朝演ずる『化け物使い』で、のっぺらぼうの女妖怪が出てくる。人使いの荒い隠居が、モジモジする女妖怪に、「目鼻なんぞ無くたっていいんだよ。さっぱりしていていいんだよ、そのほうが。なまじ目鼻がついているために苦労している女はいくらでもいるんだから」と。
 この類の噺はいくらでもあるのだが、取り急ぎ今回はここまで。

 上記2題の解釈は読者諸兄にお任せするが(角が立つといけないのでぼくはいわない)、写真に於いてもマスク効果は非常に有用な手段である。写真は絵と異なり、存在するものは写ってしまう。ここが厄介だ。
 主被写体を如何に引き立て、そうでないものを目立たなくさせるか。女性のマスクが、見る側の想像次第で如何様にも実体を変化させることができるのと同じであるように、写ってしまった好ましからざるものを、暗室作業で如何に脇に追いやり(引き算)、美人に仕上げるかは、あなたの腕次第だ。

http://www.amatias.com/bbs/30/533.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
葉牡丹。引き算をしながら “ぼくの葉牡丹” を描く。
絞りf13.0、1/25秒、ISO200、露出補正-0.67。
★「02さいたま市」
農園に放置され腐りかけた白菜。筋やら血管やらが浮き上がり、まるでエイリアンのように見えた。小さな番小屋の隙間から矢のような斜光が一筋。
絞りf13.0、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/02/05(金)
第532回:雪のシャドウは何故青い?(続)
 太陽が真南に来た晴天時の色温度を5500Kと定め、それに基づいてデーライト(Day Light)用フィルムは正しい色再現ができるように作られていると前号に書いた。そしてもう一種は、タングステン光用のフィルムで、これは3200Kに設定されていた。写真スタジオなどで使用されるタングステンライトの色温度がこれに相当する。
 すでに生産終了したフィルムなので、これ以上は記さない。

 フィルムでもデジタルでも、色温度に対する考え方は同じなのだが、デジタルはフィルムと異なり、撮影時に色温度や色相に注意を払う度合いが極めて少なくて済む。色温度計を睨みながら撮影する人はまずいないのではないかと思う。このことはデジタルの大きな利点と捉えてよいだろう。
 色被りをパソコン上で取り除くことのできるデジタルは、心理的な負担を大きく軽減させてくれる。撮影時には手間暇が省け、色温度に頓着せずに済むとしている人が大半なのではないかと思う。斯くいうぼくもそのうちの一人だ。だが反面、仕事の写真では暗室での作業に神経を遣わなければならず、それは致し方のないことと諦めている。「あちらを立てればこちらが立たず」というわけだ。
 フィルム使用時の繁雑なフィルターワークに比べれば、デジタルの色温度に関する配慮など無に等しく、その簡便さを以てすれば、補って余りあるものだ。

 前号で、「ホワイトバランスを取ることにより、 “一応の” 再現が可能」と述べたが、ホワイトバランスとは、白いものを白く表現するための、デジタル特有の機能である。
 しかし、この世に混じり気のない白など存在しないことはすでにみなさんご承知の通り。人間は脳が命令を下せば、錯覚を起こしたり、疑似体験をさせたりもする。暗示も荷担するから、白いと思えば、白く感じるようにできているので、人は難なく誤魔化されてしまうのだ。
 優れた職人は機械以上の精密な感覚と直感を有しているので、誤魔化されることはないのだろうが、その分きっと窮屈な思いを抱き続けるのだろう。あるいは、職を離れればフツーの人になれるのであろうか? ホントは色温度やホワイトバランスの話より、こちらの話のほうがずっと興味深いと思われるが、またおかしな方向に進んでしまうので、無念ながら、元い!

 カメラは機械であるが故に、融通が利かず、誤魔化しも効かず、肉眼が感じるようには反応してくれない。
 撮影目的が忠実性にあるのでなければ、 “実際の色とは異なるが、自分の願ったような色に” と、まずは「ホワイトバランスに頓着することなく」始めてもよい。几帳面である必要もないだろう。機械もしくはデジタルという杓子定規で機転の利かないものを上手に操るのはあなた自身である。なんでも機械任せにしてしまっては、あなたの沽券に関わろうというものだ。

 「ホワイトバランを取る」とは、本来はとても厳密な作業なのだが、ぼくは敢えてみなさんに、「目(め)見当」でいいですよと申し上げたい。ぼくも私的な写真は自由そのものだし、また多くの方々同様に、図鑑やカタログのような厳格かつ忠実な色再現が目的ではなく、自身の感動や現場での空気感など、主観を交えた要素を重要視し、それを写真で表現したいと望んでいるのだから、「たとえ実際と異なっていても、見た目が作者にとって心理的に好ましいのであれば、それを大切にすればいい」とぼくは思っている。

 ここで、グレーカードやカラーチェッカーの話を持ち出さずとも、デジタルの作業に於いて、モニターのキャリブレーションは非常に重要な事柄である。しかしぼくは、印刷やプリントを極度に重要視するのでなければ、 “そこそこ” で良いと考えている。“そこそこ” とは、あなたのモニターを、できる範囲で調整すべきという意味であって、商売人でもない限りそこに大枚を叩くことはないということだ。ただ、その原理と手立て、方法論をないがしろにしては、基本が崩れてしまうので、応用が効かなくなる。一応の基礎知識は身に付けたほうが、やはり何かと融通が利き、身を助けるものだ。

 ぼくはモニタとプリントが酷似するように、Photoshopでプリセットをアクションとして作ってしまった。考え方として、それは本末転倒といわれるかも知れないが、結果が酷似していればそれでいいという年相応の(!?)鷹揚な考え方をしている。結果オーライである。
 
 また、ぼくは4種のRaw現像ソフトを持っているが、同じ数字(色温度)を打ち込んでも、出てくる結果はそれぞれに異なるという奇異な現象に出会す。微妙に異なり、同じ結果を示したことはない。いい加減なものだ。
 故に、雪のシャドウに浮かぶ青については、ホワイトバランスなどを取らずに、出会いの時の記憶色(イメージカラー)を再現できれば良いのではないかと思う。色温度を下げ、青を除いたら不自然で、きっと「暖か味のある雪」というチグハグな絵になってしまうだろう。
 結論として、ホワイトバランスは見た目がおかしくなければ、そこそこのところで良く、それほど神経質にならなくてもいいよということだ。

 「地方新聞に、『雪の間から不思議にも目にも鮮やかな一筋のエメラルドグリーンの神秘的な発色をこの目で見たのだ・・・』という記事を見つけた」と、「ゴムまり」が、鼻を膨らませ、鼻息も荒く、共感・狂喜する様子を伝えてきた。今回、ぼくの説明も熱意が勝ち過ぎて、話が予想外に膨らみ過ぎたと気落ちしている。
 エメラルドグリーンの現象について、もう改めて説明する必要もないだろうと、今ぼくは一人ごちている。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:マクロレンズFE100mm F2.8 USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
風の吹き荒れる日、我が家の路地に変色した美しい葉を見つけた。どこからか風に吹かれてここに辿り着いたのだろう。それを拾い、ありのままに、図鑑的に撮ってやろうと自室に持ち込んだ。赤い色と質感を出すのに四苦八苦。
絞りf20.0、6秒、ISO200、露出補正-0.67。三脚使用。
★「02さいたま市」
前号に掲載したザクロが気に入ったので、再び同じ場所にてザクロを拾ってきた。今度は枝付きとあって、縦写真にする。虫喰い穴がいくつも開いて、炭化しつつあった。
絞りf25.0、10秒、ISO200、露出補正-0.67。三脚使用。

(文:亀山哲郎)

2021/01/29(金)
第531回:雪のシャドウは何故青い?
 筋入りプリント(原因はプリンタの目詰まり)をいつも平然と持参していた筋金入りの確信犯である我が倶楽部の「ゴムまり」女史が、昨年の12月に金沢に住まいを移した。メンバーが1人少なくなるので寂しいなぁと思いきや、
 「でも、倶楽部はデッタイ辞めないかんね。時々金沢から通うかんね。勉強会後の飲み会にも必ず出るかんね。そん時は友人宅に泊めてもらうことになってるんだかんね」と “かんね節” 満載で言い放ち、取り敢えずはさいたま市から去って行った。
 彼女はいつも飲み会で、蟒蛇(うわばみ。大蛇。大酒飲みの意)のようにビールを喉に流し込む。ジョッキを両手で持ち、ラッコが腹の上で貝を割るようなスピード感溢れるテンポで上下させながらぐいぐいとやる。それでいてまったく酔った様子を見せないから、大した傑物でもある。

 我が倶楽部には、都内はむろんのこと、果ては栃木県の宇都宮や神奈川県の辻堂といった遠距離からやってくる人もいて、地元さいたま勢は押され気味の時期があった。顧みると、大部屋のようなおかしな倶楽部でもあった。
 しかし、金沢から通うと豪語した「ゴムまり」には、何はともあれ敬服せざるを得ない。生まれた時から根無し草生活(父上の仕事の関係上、全国を転々)を送ってきた彼女のことだから、いつまたこちらに舞い戻ってくるか知れたものではない。まったく油断がならない。
 「わっちが出席できない時は、あ〜た、テレワークとかさぁ、ZOOMもあるんだかんね。今はそ〜ゆ〜時代なんだかんね。そ〜ゆ〜ものをしっかり利用しなさいよ。そこで写真評やホトショップ(彼女は “Photoshop” を正しく発音できない)の使い方も指南できるんだかんね」と、追い打ちをかけるように白髪の老いぼれジジィをこき使おうと、これでもかと脅迫してくる。こ〜ゆ〜婦女子は強し。まさに女傑である。

 彼女については第479回「筋入りプリント・続報」で、ぼくは罰を与えてやろうと槍玉に挙げたが、その彼女から数日前に写真添付された全員宛メールが送られてきた。差出人に「ゴムまり」とある。ぼくはドキッとし、しばらく開封する勇気が持てないでいた。ぼくの強迫観念(考えまいと思っても、自分の意志で恐れを払いのけることができないこと)も相当重症化しつつある。
 恐る恐る開封してみると、金沢で降った雪の程度を示した写真が貼り付けられており、そこに「どん位、降ったかとゆ〜と、こんくらい。60センチ以上だかんね」と記してある。「どん位」とか「こんくらい」って、一体何語? もしくはどこの方言? これって、根無し言葉? 何故、「位」と「くらい」が漢字と平仮名に分かれるのか? と探究心旺盛なぼくは数冊の辞書を繰ってみたが、分からなかった。

 いつもしゃべり言葉(口語)をそのまま書き言葉(文語)に転用し、平然と記してくる彼女の大胆かつ勇ましい文章は、加え主語と述語がごっちゃごちゃなので、解読するのが大変。それは多分彼女が長年幼児保育に携わってきたその後遺症なのではあるまいかとぼくは見立てている。
 思考と言語回路が不幸にもどこかで中断、もしくは縺(もつ)れているのだと思われる。思考は大人でも、言語中枢はきっと幼児のままなのだろう。彼女の人柄を考察すれば、それもこれも「愛嬌」で済まされるから、特異な人徳の持ち主だともいえる。ぼくのささやかな「パワハラ」など、勇猛果敢な彼女にとっては、どこ吹く風であろう。ちょっと悔しい。

 かつて仕事で真冬の金沢に述べ1ヶ月ほど滞在したことがあるが、金沢は比較的雪の少ないところであろうと思われる。しかも、湿気を十分に含んだ、長靴必携のベタベタ雪である。ブカブカの長靴を履いて、雪の坂をゴムまりのようにコロコロと転がる彼女の姿が容易に想像でき、微笑ましくもある。
 しかし油断ならない彼女は、メールの文面にちゃっかり以下のようなことを記してきた。曰く「なんかね、雪の間の色が見たこともない青さで、びっくり。え? どしてなんさ?」。
 彼女はこの重大な問題を意欲的かつ論理的に解決したいと願っているのか、あるいはただ憂いの感情を示そうとしているのかがぼくには判別できなかったのだが、全員宛メールだったので、ぼくは彼女の疑問を好都合と捉え、この現象について、全員に簡単な解説をした。

 結論からいうと、この現象は雪に限らずシャドウ部は色温度(単位ケルビン。Kで表示)が高くなることによる。色温度が高くなると寒色系(青系)の色を示し、低くなると暖色系(オレンジ系)の色を示す。白い雪は、この現象が際立つので、肉眼でも殊更に青く見えるのである。色温度計を使用し、ぼくが実測した経験では、雪のシャドウ部は9000K〜13000Kだった。雪ばかりでなく、白い磁器などのシャドウ部にも青が浮いたり、被ったりする。

 因みに、デーライト用カラーフィルム(スライドフィルムは特に敏感に反応する)は撮影時の色温度が5500Kに設定されており、これは太陽が真南にある時の状態とされている。したがって、5500K以外にあるものは、正しい色再現ができないということになる。フィルムはフィルターワークで正しい色再現を、デジタルではホワイトバランスを取ることにより、 “一応の” 再現が可能とされている。わざわざ “一応” とお断りしたのは、これで完璧ということではないからだ。ホワイトバランスに加え、色相(デジタルのソフトでは、マゼンタとグリーン)も調整しなければならない。

 余計なことばかり長々と書いてしまったので、この話は専門的にならぬ範囲で次号に持ち越すことに。たまには「こんくらい」のこと、許していただきたいと切に願う。こ〜ゆ〜こともあるんだかんね。

http://www.amatias.com/bbs/30/531.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:マクロレンズFE100mm F2.8 USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
いつも歩く貸し農園の樹木や草は茶褐色化し、すっかり見通しが良くなってしまった。花も見当たらない。近くの公園に落ちていたザクロ(カチカチに硬くなっている)を歓び勇んで拾う。久しぶりに自室(自然光のみ)で撮る。
絞りf25.0、8秒、ISO200、露出補正ノーマル。三脚使用。
★「02さいたま市」
毬栗。同上。カラカラに乾いた棘は、金針同様で、手のひらに乗せることすらできない。「いてっ、いてっ」と叫びながら持ち帰る。
絞りf20.0、8秒、ISO200、露出補正-0.33。三脚使用。

(文:亀山哲郎)

2021/01/22(金)
第530回:にこにこ作戦
 アマチュア時代からぼくは街中での人物スナップに撮影の重きを置いてきた。プロになってからも、国内外を問わず、やはり人物スナップがぼくの性分には一番合っている。ぼくにとっては人物スナップが最も撮り甲斐のある分野であるに違いなく、それは五感と技術を集結させ、そのすべてを研ぎ澄まさなければ成し得ないとの考えに基づいているからだ。
 つまり、「次に何が起こるかを、アンテナを四方八方に張り巡らせながら、常に予見し、今まで獲得してきた基本的な技術を一気に解放すればよい」からである。また、街中に於ける人物スナップは、人物と背景、そしてその時代を瞬時に切り取り、自身のものにする醍醐味を最大限に味わえるものと考えている。

 その考えは今も変わらないが、 “人物スナップにカラー写真” はぼくの目論見(写真的情緒とリアリズム)にはどうしても適うことがなく、モノクローム一辺倒となっていた。海外で撮ったものを除き(かつて掲載した海外での人物スナップは仕事の関係上カラー写真だが)、国内のモノクロは残念ながら未だ掲載できずにいる。
 その原因たるや、写真屋にとっては恨み辛みに溢れたものだ。昨今の何事にも行き過ぎた反応を示す世情、もしくは肖像権過敏症とやらで、掲載を躊躇せざるを得ない状況に追い込まれている。人物スナップを撮りたいと思っている写真愛好家の誰もが同じ思いに囚われているのだろう。それはとどのつまり悪用の輩を野放しにしていることにも一因があるのではないか?
 毎週写真を掲載することを自らに課している身としては、人物が特定できるような写真はWebでは厄介を起こしかねない。世の中、総ヒステリーのなかにあって、いつかはそれを是正し、打破したいものだ。

 ぼくが私的な写真にカラーを持ち込んだのは、以前に拙稿でも述べたが、2016年の7月からだった。その動機はすでに述べたので割愛するが、昨年以来のコロナ禍により拙掲載写真も目下のテーマである「ガラス越しの世界」から離れ(撮りに行けないので)、花を主とした植物ばかりとなっている。厄介を誘発する恐れのない花の写真は、このコロナ禍にあって物怪(もっけ)の幸いでもあった。
 私的な花写真は植物図鑑目的ではないので、自身の感じた色をイメージに添って自在に操れるという大きな利点と喜びをぼくに与えてくれる。「可能な限り忠実に」とのコマーシャル写真の枠組みから大きく外れても、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)のように小うるさい担当者から文句をいわれることもない。ぼくは大手を振って花に対峙することができる。

 改めていうことでもないのだが、いくら花の撮影が自由だからといって、最小限の約束事は守らなければならない。これは、花に限ったことではないのだが、私有地への無断立ち入りと土地を踏み荒らさないことが大前提だ。ぼくの徘徊する数ある貸し農園では、時に所有者がいないこともあるが、施錠のない限り、「土地は踏み荒らしませんので、入らせていただきます」と、免罪符を得るための呪文を心うち唱えることにしている。

 貸し農園に出入りしていると、思わぬ御利益に与ることもある。それは、持ち主(時には農夫)との会話だ。顔なじみでなくとも、へっぴり腰でカメラを構えるぼくに、作業の手を緩めわざわざ花の説明をしてくれたり、育て方を伝授してくれたり、時には苗を分けてくれたりもする。
 「朝いらっしゃれば、もっときれいに咲いているんですよ。朝にね」と、朝が大の苦手であるぼくを見透かしたように上目遣いで、殊更「朝」という語彙を強調し、念を押すようにおっしゃる。ぼくは返事に窮す。不遜な生返事をするわけにもいかず、仕方がないので、ひたすら笑顔で接し、しかしぼくは、「はい、ではそうします」とは決していわない。いえないのだ。ここをうまく取り繕うには、百戦錬磨のにこにこ作戦しか思い浮かばないのだから、ぼくはホントにぼんくらの木偶(でく)の坊だ。そんなぼくに対する彼らの行為は、花への愛着や愛情といった共感からくるものなのだろう。

 今回掲載したシクラメンは、売り物として栽培されているものなのだが、広い温室にたった1人いらした管理者(栽培者)と覚しきおばちゃんにぼくは恐る恐る「写真を撮らせてもらってもいいでしょうか?」とお訊ねし、そのご好意に甘えたものだ。
 数日後、その温室近くを通り過ぎたところ、おばちゃんがひょっこり顔を出し、愛想良く挨拶してくださった。ぼくらはすでに花仲間(ぼくだけがそう思っているのかも知れないが)であったが、「もう一度撮らせて」という勇気もなかったので、ぼくは照れながらもやはりにこにこ顔で挨拶し、気分良くお別れをした。

 シクラメンは、実は以前に栃木で「ガラス越しの世界」を撮った際に(第390回に掲載)、十分に得心できたので、今回は多くを望めなかったのだが、「ものは試し」であるからして、あれ以上のものがもしかすると、という色気があった。
 今回の掲載写真は、シクラメンそのものより、温室内に天井から降り注ぐ光を優先して被写体を選ぶことにしたのだが、おばちゃんに顔向けできるようなものが撮れたかどうか今のところ定かではない。以前にもシクラメンの写真を撮った人がわざわざおばちゃんにそのプリントを献上したそうだが、さて、ぼくのシクラメンは一般的にいう「きれいな」からはかけ離れているので、再会した折りには、やはりにこにこ作戦で誤魔化してしまいそうな気がする。

http://www.amatias.com/bbs/30/530.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。シクラメン2態。

★「01さいたま市」
ピンクの花弁の縁が白く、とても美しいシクラメンだった。光の加減を見定めるためにぐるっとこの鉢植えを1周する。「はい、これはモノクロね」とつぶやきながら、静かにスローシャッターを押す。
絞りf13.0、1/15秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
鮮やかな赤一色のシクラメン。ハイエストライトを探し出し、そこを飛ばさぬように露出補正。全体に赤の彩度を抑えている。花弁の柔らかな質感を損なわぬように画像補整をした。
絞りf13.0、1/25秒、ISO640、露出補正-1.67。


(文:亀山哲郎)

2021/01/15(金)
第529回:理論よりまず実践
 ぼくが現代随一と認める噺家古今亭志ん朝(1938-2001年)が、父である名人古今亭志ん生(5代目。1890-1973年)について語っている。そのなかで志ん朝は、父からの教えを噛み砕きながら、「噺家は、技術はある程度のところまで行ったら、それを忘れて、培ってきた人物(語り手と登場人物)を出してくるのが最終的な目的だ」と述べている。とても含蓄のある言葉だと思う。

 烏滸がましくも、ぼくも似たようなことを分不相応に、手を替え品を替え拙文にて述べてきたが、このことは自身にも肝に銘じることのひとつだと常に意識している。
 コマーシャルカメラマンという性質上、どうしても技術的な方向に傾かざるを得ないことがしばしばある。仕事を請け負った時に、担当者(主にデザイナーや編集者、あるいは営業担当者など)の無理無体(ホントに、無茶苦茶なことを何食わぬ顔でおっしゃる人がいる。今ここに名前を挙げ、仇を討ちたいくらいだ)な要求になんとか応えようとぼくは健気に振る舞ってきた。そのためには、撮影現場で知り得る限りの技術と無い知恵を搾り出すことに専念しなければならなかった。そんなことをぼくは35年以上も繰り返してきたのだ。

 公平を期すために敢えていえば、多くの現場に立ち会っている経験豊富で柔軟な思考を持ち合わせている人もいれば、そうでない人もいる。しかし、かなりのベテランと思われる人でさえ、写真映像に関しては素人だ。つまり、彼らは自分たちが頭のなかで描くものがそのまま映像として再現可能だと信じているらしい。「信ずる者は救われる」と思い込んでいるから厄介だ。そうはいかないのが浮世だということを知らないのか、あるいは責任上、「浮世とはそのようなもの」と認めたくないのだろう。

 このような時、いわれるがまま、彼らの要求にこちらがイエスマンになってしまっては、取り返しの付かないことになる。つまり、光学的・物理的に何故それが写真で再現不能かを論理的に懇切丁寧に述べ、彼らを説得しなければならない。これも職業カメラマンの重要な仕事のひとつだ。そして彼らが描いている以上のものを提供しなければならない義務がぼくらに課せられているのだから、難儀この上なしだ。
 「光があれば陰も生じる。写真は無いものは写らない。有るものは写ってしまう」という原理原則を無視しての要求に、ぼくはあらん限りの知恵を総動員し、まさに “ 手を替え品を替え ” 彼らを懐柔しなければならない。撮影以外にも、懐柔マンの技も兼ね備えなければ、この商売はやっていけないのだ。カメラマンは写真さえ撮ればそれで済むというわけではない。

 時には、火花が飛び散るような修羅場を体験することもあるが、ここでカメラマンがおかしな妥協をしたり、甘んじたりしてしまうと、後々必ず禍根を残すことになる。最終的な責任は、いつだってすべてカメラマンに負わされるのだから。
 齟齬をきたした時、相手を「ねじ伏せる」のではなく、誠意と根気を持って接する訓練も必要で、ここで徒弟制度によって培われたものが初めて身を助けてくれることになる。徒弟制度は決して時代遅れのものではない。徒弟制度とは、理不尽・不条理に自身がどう対処するか身を以て教えてくれる場でもある。朝一番の掃除や雑巾がけが、やがて撮影を助けることになるのだから不思議である。
 徒弟制度は、危うい妥協が禍根となり、その染みがアザとなり、やがて腫瘍に発展し、気の付いた時にはすでに取り返しの付かないこととなってしまわないようにするための大切な一過程であるとぼくは捉えている。そして、徒弟制度は「パワハラの宝庫」でもある。「取るに足りないおまえのプライドなど、直ぐに捨ててしまえ」というわけだ。それができれば、もう恐いものなし。徒弟制度はいわばフリーランスで生きていくための必須工程でもある。

 写真を撮るときに一番頼りにするものは何であろうかと考えてみるに、それは理論や技術ではなく、より多くの場数を踏むことだとぼくは考えている。場数を踏まなくては、進歩も発展もないというのがぼくの持論だ。
 場数を踏むことによって、理論も技術も正直にくっついてくる。「より多くの状況でたくさん撮ること」を金科玉条としていい。経験値を多く積み重ねることで、柔軟性や応用力が養われること疑いなし。

 同じ状況下での撮影は生涯二度とないもので、そこで得た情報(データや技術)はまさに宝物と呼べるものだ。一つひとつの体験を大事にし、記憶しておくことで、頭のなかの引き出しが増えていくことになる。もちろんそれは心がけ次第だが、記憶に留めておくことを疎かにしなければ、臨機応変な対応ができるようになる。一過性のものとして扱えば、いくら多くの撮影機会に恵まれようとも肥やしになりにくい。それでは、後先知らずの出たとこ勝負になってしまう。
 「この撮影状況に対応するには、この引き出しからあの時のデータを持ち出せば良い」との考えが浮かべば、そこに安心感と余裕が生まれる。ついでに僅かばかりの自信も得られるようになるものだ。安心感と余裕は技術的な事柄ばかりでなく、イメージの構築にも大いに役立ってくれる。誰でもが直面する撮影時の「手探り状態」(不安)を最小限のものとし、そこから抜け出すには、とにかく場数を踏んで、より多くの引き出しを持つことこそ最良の策である。このことはもちろん、プロもアマチュアも関係がない。

 忘れっぽいことを自覚しているぼくは、修業時代から20数年間撮影データをまめにノートに書き留めていた。コマーシャル写真から距離を置くようになって久しいが、今のぼくはもうメモ魔ではなくなっている。

http://www.amatias.com/bbs/30/529.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
以前、アンスリウムはセルロイドの作りものかと思っていた。そうでないと知ったのは50歳を過ぎてからで、ぼくはよほどおめでたい知識の持ち主だったのである。光の角度や光質を選べば、セルロイドのようにはならないことが判明。さいたま市の暗い温室で。
絞りf10.0、1/20秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
同じ温室で。ビカクシダ(麋角羊歯)の大きな葉。暗茶色の葉となったなかで、辛うじて緑を残す一葉が。
絞りf13.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.33。


(文:亀山哲郎)

2021/01/08(金)
第528回:改めてアンセル・アダムス
 謹んで新年のお慶びを申し上げます。重ね、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 年末から年始にかけて、訳の分からぬ野暮用ばかりに追いかけられ、自分のしたいことの一分すら適わなかった。もちろん写真を撮る時間も失われた。そんな慌ただしいなか、就寝時に子守歌としてYouTubeの梯子に明け暮れていた。若い頃から、ベッドに潜り込むと「ああ、やれやれ、やっと今日はこれで眠れる」との安堵感は何ものにも替え難い心地良さをもたらしてくれたものだ。その感覚は今以て変わらない。

 YouTubeでは、海外の著名な指揮者のリハーサルがたくさんあり、そのほとんどが英語かドイツ語なので、指揮者の音声の明瞭度を得るためにヘッドホン(時にはイヤホン)を使用することとなる。このような御利益(しかも無料で!)はインターネットでしか与れない。ぼくは進取気鋭のジジィではないが、自身で容易く操作することのできる文明の利器は進んで取り入れることにしている。
 普段は、落語が子守歌の役を果たしてくれているのだが、こちらは日本語なのでヘッドホンを必要としない。しかし外国語となると、ぼくの聞き取り能力ではどうしてもヘッドホンは必須アイテムとなる。目覚めるとヘッドホンのワイアーが枕に絡みついているのを発見して、いつの間にか眠ってしまったことを知らされる。住みにくい現実にあって、このことはぼくのささやかな仕合わせなのだと実感している。

 中学・高校では吹奏楽部に、大学では管弦楽部に所属していたこともあってか、指揮者と団員がどのように音楽を作り上げていくかについて殊のほか興味がある。アマチュア音楽愛好家の端くれであり、知らない曲のレコードを買う際には、必ずスコア(楽譜)を同時購入していたものだ。曲を覚えるにはこれが最も手っ取り早い方法だったのだが、ソルフェージュも碌にできないくせにね。ヤマハ銀座店にとってぼくはお得意さんであり、「鴨が葱を背負ってくる」ようなものだった。
 YouTubeで見ることのできるオーケストラ・リハーサルは、ぼくの経てきたものとは、当然のことながら技術的にも感覚的にも、またその繊細さにも雲泥の差があるが、そんな彼らでさえ微に入り細に穿って音楽を磨き上げていく。その様は、暗室作業にも通じる何かがあるように思えてならない。否、それどころかYouTubeに見る音楽家たちが、音楽を磨き上げていくのも、写真を磨き上げていくのも、まったく同じ作業なのだとの確信に至っている。

 アンセル・アダムス(米国の写真家。1902-1984年)の有名な言葉に「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である」というのがある。音楽に造詣の深かった(生涯の仕事として写真家になるかピアニストになるか、長い間迷っていた)アダムスならではのこの言葉は世界に流布されているが、言い得てまことに妙であると思う。このうえなく素晴らしい喩えである。
 アダムスのモノクロ写真の美しさは、他の追随を許さない。このことは誰しもが認めるところだろう。オリジナルプリントを何度か見ているぼくも、その美しさに圧倒され、筆紙に尽くし難いと感嘆するばかり。
 アマチュアではあったが、本格的に写真を勉強しようと思った根っ子には常にアダムスの写真があった。アダムスの写真(オリジナルプリント)に出会わなかったら、ぼくはもう少しましな人生を送っていたようにも思う。

 彼は教本を3冊、 “ The Camera ”、 “ The Negative ”、 “ The Print ” を著している。20〜30代にかけて、ぼくはそれを翻訳しては暗室に飛び込んでいたものだが、ぼくの撮る写真には彼の提唱する優れた技法である “ ゾーンシステム ” は合致しないことを悟りながらも、“ ゾーンシステム ” を基本に、自身のトーン(モノクロであれ、カラーであれ)を模索すべきと、30代半ばを過ぎた頃に感じ始めていた。
 被写体に接した時、まず “ ゾーンシステム ” に倣い、ディープシャドウからハイエストライトを頭のなかに描き、それを元に「ぼくはこう描きたい」とのイメージを抱く。それが撮影の事始めとなる。それがなければ写真はただの「写し取り作業」に過ぎず、画を描くほうがはるかに創造的である。

 撮影したRaw画像は、アダムスいうところの「ネガ」(楽譜)に相当する。撮影時に頭に描いたものに添って、その「ネガ」をイメージ通りどう再現(プリント。演奏)するかに苦心惨憺する(暗室作業)のだが、「ネガ」自体の質が良くないと、どのように暗室作業を凝らしても、 “絶対に写真の質は向上しない!”。音楽がつまらないものであれば、如何なる名指揮者を以てしても、曲の評価が上がるわけではないのと同じことだ。この事実は肝に銘ずるべきだが、ぼくは何千回もこの愚行を飽くことなく繰り返している。きっと心がやましいのであろう。

 そしてアダムスはその教本のなかで、イメージすること(それを彼はVisualizationと称している。イメージの視覚化)の重要性にも触れている。ぼくはヨセミテ国立公園には行ったことがないが、実際に行った人の話によると、アダムスの有名な作品『月とハーフドーム』について、「ハーフドームは決して写真のようではない」と断言していた。きっとその通りであろうと思う。それはアダムスだけに見えた「ハーフドーム」であったに違いない。
 優れた写真や音楽は(他の分野も同様)、描いたイメージを如何に具象化するかにあるのだと思う。そしてまた、誤解を恐れずにいうのであれば、オタマジャクシで表される無機的な楽譜や写真の原画に息吹を与えるには、技術と感覚、思索と想像の程良いバランスがなければ成し難いということなのだと考える。「程良いバランス」は至難の業だ。

 今夜は久しぶりにヘッドホンなしの落語を聴いて、笑いながら寝るという、遅ればせながらの正月気分を味わおうと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/528.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
雨中、茂みのなかの不気味な紫陽花が一条の光に浮かび上がる。爬虫類のような色彩で。だから紫陽花って嫌なんだ。
絞りf11.0、1/50秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
陽が落ち、一天にわかにかき曇り、突風が吹く。
絞りf9.0、1/125秒、ISO200、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)