![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
全753件中 新しい記事から 191〜 200件 |
先頭へ / 前へ / 10... / 16 / 17 / 18 / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / ...30 / 次へ / 最終へ |
2021/09/24(金) |
第563回:テスト魔の独り言 |
ぼくは病的といってもいいくらいのテスト魔(実際、カメラマン仲間の何人かにそういわれたことがある)だと過去何度か述べた。
この5ヶ月間でぼくは主軸となるカメラとレンズを、自身の使用目的と体力を再思三考しながら少しずつ入れ替えたのだが、テストらしいテストをほとんど、というよりまったくせずに、いきなり花撮りの実戦に投入している。 余談だが、ぼくをよく知る人たちは、ぼくが花を集中的に撮っているのがどうにも解せず、「かめさんが花など撮るのは似合わないから止めろ」などと要らぬちょっかいを出してくる。大きなお世話だっての! 忌むべき武漢コロナのお陰で、改めて花の美しさを発見し、そして感受しながら、自分の世界を見直したり、構築したりしている。今その最中にあるのだから黙っていてもらいたい。だが、この流行り病が沈静化したら、他人の指図を受けるまでもなく、従来撮っていた被写体に再びレンズを向けたいと考えている。ぼくを揶揄する輩にはいわず、こっそり撮ることにしている。 閑話休題。 機材を納得するまでテストし、また吟味する機会に恵まれてはいるが、今回ぼくはそれを利用せず、選んだカメラやレンズのほとんどが「不見転」(みずてん。出たとこ勝負。見通しもなく行動すること)である。それは仕事用に購入したものではなく、写真を楽しむためのもので、いつか述べたぼく流の「アマチュア回帰」への一環でもある。 正体知れずのカメラとレンズを、ぼくは意気揚々と何の不安もなく持ち出し、このコロナ禍、出歩くことも憚られるので近隣の狭い範囲を、花を中心に据え、歩き回っている。 「ぶっつけ本番」などという大胆で横着極まりない、こんなありさまは、ぼくの写真人生にあって前代未聞である。そしてまた、付き合ってみなければ得体が知れないという、ある種こんなに気楽で、スリリングであるが故の愉しさも30代を最後に、味わったことがない。 幸いながら、今のところ「ギャーッ!」といった失敗はないが、「ゲッ!」と叫んだことは何度かある。それはカメラやレンズ自体に責任があるのではなく、ぼくが使用法を誤ったからに過ぎない。横着の報いを受けるのは当然のことと甘受している。 しかし、横着とはいえ、枕元にカメラを置き、如何にして手に馴染ませようかと(ボタンやダイアルが、年寄りには意地悪とさえ思えるほど、あたかも思春期のニキビのようにたくさん付着しているのである)、この約5ヶ月間毎晩訓練に怠りない。目をつむったまま操作できなければ、写真屋の沽券にでも関わるとでも思っているのだろう。我ながら見上げた心得である。 ぼくの不見転の、そんな放胆ぶりは、本(もと)を正せば、使用目的が仕事ではなくなったからだろうと思う。そしてまた、齢70を過ぎて、テストに費やす労力と時間が惜しくなったからでもあろう。精や根がなくなったのではなく、その必然性が減じたからである。「ぼくは写真に対していい加減になった」のではなく、「他にもっと重要視する事柄があるのではないかということに、遅まきながら気がついた」と、ここで一応優等生的な発言をして、それらしく体裁を整えておきたい。 かつて、テスト魔に至るいくつかの理由を述べた。それらは嘘ではないが、元来自分の購入したものの正体を知らずして使用することを極力恐れていたというのが、本当のところであり、さらに深く自身の心をほじくり返すと、根が「テストが好き」で「物の正体を探る好奇心に満ち溢れている」という性格上でのことだと思う。 カメラやレンズの長所・短所を知ることに快感を覚えてしまった(この麻薬的作用を “道楽” という)ことにより、ぼくは若い頃、身上を潰しかけたことはすでに述べた。だが、写真屋になってからは道楽ではなく、快感の伴わぬ義務となった。仕事で使うには、さすがのぼくも不見転、もしくはぶっつけ本番というわけにはいかない。最低でも半月はテストに明け暮れ、おおよその正体を見極めないと恐くて使うことができない。写真屋にとってそれは商売道具なのだから、当たり前のことだろう。 テストをし、さらに1ヶ月(30日)は様々な条件下で実践してみないと、レンズの本来の力量や性質は推し測ることができない。そのくらい手のかかるものだとぼくは思っている。したがって、ネット上でよく耳にする、「今日初めてこのレンズを手にし、近所をスナップしてきました。早速このレンズの特徴などをレポートいたしましょう」との器用さを、ぼくはとてもじゃないが持ち合わせていないので、ただひたすら、その慧眼ぶりに感心するばかり。 テストとは、しっかりした三脚を使い、普段からよく理解しているレンズとともに、被写体の距離を変え(室内と野外)、開放絞りから最小絞りまでを使い(最低でも1絞りずつ。できれば億劫がらずに1/3絞りずつが理想)、レンズチャートやカラーチャート、新聞紙などの平面体と立体物を撮る。室内なら、光の一定したストロボや蛍光灯を使用。野外であれば、被写体との距離を何通りか設定し、安定した光源下で撮る。明度やコントラストが変化しては、厳密なテストができないからだ。また、ホワイトバランスも手動で一定させておく。撮った写真を1枚1枚PCのモニターで拡大表示して、唸ったり、喜んだり、鳥肌が立ったり、悲喜こもごも。 「こんなことをしなければ写真は撮れないのか?」と問われれば、「ここまでしなくても良いけれど、道具の性質はなるべく理解しましょう。その理解が撮影を助けてくれることは請け合います」と、テスト魔のぼくは上目遣いで、遠慮がちにいうことにしている。 http://www.amatias.com/bbs/30/563.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro STM。RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 ゆり。異様に長い雌しべが1本。雄しべにフォーカスを合わせる。風が強く、膝をついたままぼくも花に合わせて身体を前後左右に振る。 絞りf8.0、1/400秒、ISO1000、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 ピンクの大きな芙蓉。へそ曲がりのぼくは、きれいな色より花弁の質感に惹かれ、それをモノクロで。 絞りf7.1、1/80秒、ISO500、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/09/17(金) |
第562回:写真YouTuber |
前回第561回目では写真にまつわることにはまったく触れず、読者の迷惑をも顧みず、自身のプライベートなことにばかり集中してしまった。そのような狼藉も1 / 561回、パーセントにすれば0.002%にも満たず(したがって、取るに足りないことなのだから1回くらいはいいじゃない、との心胆)、本欄の担当諸氏から何のお目玉も頂戴することなくほっと一息ついている。
ぼくの出版社での編集経験に照らせば、このような身勝手で頓珍漢な執筆者は最も困りものなのだが、編集者は揉み手をしながら遠慮がちに書き直しをお願いすることになる。執筆者というのは、本来、我の塊のような種族なので、書き直しを命ずることはかなりの勇気を必要とする。編集者は執筆者と編集長の双方の顔色を窺いながら、あの手この手で、執筆者の機嫌を損ねることなく、自分の望むような文章に書き直しをさせるのが、編集者の身上(しんしょう。この場合は “本来の値打ち” 、 “本領” )というものだ。 編集者にとって “我の塊” のような人種は、執筆者ばかりでなく、カメラマンもデザイナーも似たり寄ったりといったところだ。ぼくはもう何十年も写真屋と執筆者の両刀遣いなのだから、その “がんまち” (京言葉で、我の強いこと。自分勝手なこと)ぶりは、自慢ではないが、推して知るべしである。 執筆者に対しての文章手直し要求を、年に1度くらいはしたと記憶するが、第561話のぼくの “がんまち” は、11年に1度(本稿については未だかつて、書き直しの要求はない)なのだから、取るに足りないことであり、当然看過されるべきだなどと調子の良い解釈をしている。 本連載は、編集者と執筆者の立場が逆なので、それをいいことに、「お小言さえ食らわなければ、この際素知らぬ顔をして、鷹揚に受け流してもらうことにしよう」と目論んでいた。再びこのようなことをしでかすかも知れないので(するに違いない)、取り急ぎここで予防線を張っておこう。今日も怪しく、なんだか危ない。 写真のことなどどこ吹く風と、前号にて触れた「オールドメディア」について、同年配の友人2人から異口同音に、「まったくもって君のいう通り。例えば、これからの総裁選に我々一般国民には投票権がないが、しかしテレビや新聞を見ていると、オールドメディアは如何に世論やネットとかけ離れた論を展開し、時には意図的な不平等さが見て取れ、そこには捻れた悪意さえ感じる。君の主張はとても正しい」と、わざわざご注進してくれ、ぼくは強い味方を得たような気分になった。 2人の同意を得ただけでも、常日頃からオールドメディアを「マスゴミ」といって憚らぬぼくには、写真を放り出して書いた甲斐があるというものだ。おそらく見ず知らずの読者の方々のなかにも、ぼくの論調に賛同してくださる人たちがおられるに違いない。 オールドメディア一辺倒の情報弱者は、インターネットの発達により、少しずつ減少しつつあるのではないかと感じる。どのような思想信条を持とうが、自由民主主義国家では、それぞれが尊重されるべきことだが、ジャーナリズムが嘘八百を並び立てては、もはや民主主義国家とはいえない。ぼくの批判は、イデオロギーなどには関係のないことだ。 さて、今良心がズキズキと疼き始めたので写真の話を持ち出さざるを得ない。このコロナ禍で在宅時間が多くなり、曖昧な知識しか持ち合わせていないレンズの諸収差についてもう少し理解を深めようと、ネットをかき回していたところ、今まで見たこともなかった「写真YouTuber」という奇異な人種を知った。 ぼくが説明するまでもなく、読者諸兄は彼らの動画をとっくにご承知であろうと推察するが、ぼくが感心するのはそこで話されている内容ではなく、あまり好ましい言い方ではないのだが、その様実に「口八丁手八丁」であることだ。ぼくはこのありように、ただただ感心して動画を見ている。ぼくにはとても真似のできぬ芸当であるからだ。 写真YouTuber には、プロもアマも混在模様であるが、特にプロと称する人たちは、写真かYouTubeか、そのどちらを生活の糧としているのだろうかとぼくは訝っている。あるいはその両方なのであろうか? 職業選択の自由をぼくは尊重しているが、ぼくにしてみれば、実に不思議な生き方をされているとしか思えない。器用といえば器用だし、おそらく多才で潰しの効く能力をお持ちなのだろう。 カメラやレンズ、その周辺機器の紹介や評価で、動画のほとんどが満たされているが、閲覧者にとって有益なものもあるだろうし、そうでないものもあろう。ユーザーにとっては、製品選びの取捨選択の余地が生まれることもあるだろうし(そこでの評価や指摘が正しいかどうかは別問題だが)、購入の目処が立つということもあろう。 しかし、YouTuberのなかには、これも良い表現ではないが、敢えて申せば、「メーカーの腰巾着」のような存在と思える人を見かける。実のところは分からないが、動画を見ているとそう思わざるを得ない場面に出会すことがしばしばある。それもひとつの器用な生き方として認めるが、そのような人の言辞を鵜呑みにしてはいけない。何事に於いても、胡散臭さは最大の敵である。 ぼくは、長年の編集者生活で、評論や評論家の世界を垣間見ているので、そう勘ぐりたくもなるのである。肝心なことは、あなたがひとつの物事について多面的な見方をし、世間の評判ではなく、あなた自身の使用目的を正しく認識し、それに沿っているかをよく吟味することに尽きると思う。 https://www.amatias.com/bbs/30/562.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4L IS USM。RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 キク科のエキナセア。別名ムラサキバレンギク。薬草の一種。ちょうど花火のように見えたので、それを強くイメージしながら、願掛けをする。 絞りf13.0、1/80秒、ISO400、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 カンナ。日没直後の撮影。原画にON1社の “Diffuse Glow”(ディフューズ・グロウ)プリセットを使用。原画に比べると暗部が落ち、光拡散フィルターをかけたように。 絞りf11.0、1/25秒、ISO500、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/09/10(金) |
第561回:予期せぬ人々の襲来 |
SNSにほとんど関わりを持たない(自己発信にはあまり興味がなく、したがって、その必然性を感じておらず、むしろ “今そのようなものと関わりを持ちたくない” との気持が強い。SNSに関しては、ぼくの自己顕示欲は発揮されず、眠っている。それほどSNSに対しては素っ気ない)ぼくではあるが、しかし、拙『よもやま話』のおかげで、何十年も音沙汰のなかった昔の知人・友人から、メールをもらうことが最近は頓(とみ)に多い。突然の来訪者は、何処からここを見つけ出すのか? 「もう我々は、何が起こっても不思議でないお年頃」との思いがそうさせるのだろうか。
巷では、「ジジ・ババといった高齢者はオールドメディア(主にテレビ、ラジオ、新聞、雑誌など)一辺倒であり、そこで見聞きした偏った情報を信じて疑わない。あるいは意図的な捏造報道しか見ていないから、すぐに騙されてしまう。テレビや新聞を唯一の情報源(特に政治や世界状況など)としている恐ろしい人もいる」といわれるようだが、ぼくは「昨今、身の回りを見渡してみると、あながちそうともいえない」と感じている。ただ、オールドメディアに対する評価はもっともなもので、非常に正しい。新聞もテレビも、あの体たらくでは衰退の一途を辿りつつあることは当然至極だ。 また、例によって話が他にぶっ飛んでしまう。「もとい!」。 三日にあげずカメラをぶら下げ、近隣徘徊をしていると、ぼくよりご年配と覚しき男女が、スマホをサクサク操作している姿をよく見かける。 花の名前が分からない時なども、ぼくの傍らでスマホのアプリを操作しながら、「これっ、これだ!」と、画面を見せながら教えてくれる人もいる。お年寄りは、押し並べてみなさん親切なので(時には恐そうなおばさんがいることもあるが)、こちらもありがたく拝聴している。ただ悲しいかな、その記憶(花の名前)が、帰宅するまで持続するかどうかは甚だ疑問である。 長年音沙汰のなかった知人・友人の予期せぬメールでの訪問は、まさに予告なしの、「ある日突然」といったところだが、そんな時ぼくは必ず「おや、おや」と決まったような台詞回しをする。なんだか照れ臭いような気持がそういわせるのだろう。誰も見ていないのにね。 ネットでの公開というのは、こちらの意志や機嫌などにお構いなく、「何時、何処で、誰が」見ているか分からない。このことは、前回にも述べたが、ネット世界は、いろいろな面で功罪相半ばというところなのだろうが、こちらは相手を選択できないのだから、不気味である。ぼくのように半ば鳴りを潜め、庵を結び隠遁しようとしている者にとって、まことに油断ならない。 だがしかし、もらったメールに電話番号が記されていたら、ぼくはパソコンのキーボードを叩くより先に、迷うことなく、少し胸を躍らせてスマホのプッシュボタンを押すことにしている。 そして、照れ隠しに「おあいにくさま。どっこいオレはまだ生きているぞ。どうだ!」というようなことを電話口に向けて返す。なんだか仕返しをしたような気になって、ぼくは少々の得心をするのだが、この歳になると、話題は直ちに病気自慢に収斂されていき、それに輪を掛けて競い合ったりするものだから、まったく始末に負えない。辛い病気について話す時、どうして人はあれほど嬉々とするのだろうか。それは、「全治したぞ」とか「克服したぞ」との合図なのだろう。病気自慢は快癒あってのことだ。 病気自慢についてのぼくの負けず嫌いはこの際眠らず、際限なく自己顕示に突っ走る。痛風、結石に2度の癌、最近はめまい、吐き気、耳鳴り、腰痛が同時進行するときているから、オレは病気の大看板なのだと嬉しそうに大見得を切っていたりする。ぼくも彼らと同じ穴の狢(むじな)じゃないか? 彼らの無秩序な急襲に遭いながらも、声を聞いて相手の昔の姿形を瞬時に思い起こすことができるのだから、ぼくはまだボケにはほど遠いのだと、取り敢えずひと安心する。声の音色や調子などは、個人差もあるだろうが、総じて非常に生っぽく、年を経てもさほど変わりがないことに気づく。 「どんなジジ・ババになっているのだろう」とその容姿を盛んに勘ぐるが、なかには50年ぶりという人もおり、しかしその姿の変容が窺えず、声を頼りに、彼もしくは彼女の実像を面白く想像していた。まるでタイムマシーンに乗って悠久の時を流れ落ちるような感覚にぼくは襲われた。突然の知らせというものは、程良い安心と刺激をもたらしてくれるボケの良薬なのかも知れない。 特に、このコロナ禍にあって、みなさん不要不急(この行政的な言葉の使い方はおかしいんじゃない)の外出は避けろとのお達しもあってか、自宅に閉じ込められ、悶々としていたのだろう。そんな気運もあり、ぼくをからかいに来たのだろうと思っている。 今回は、最近見たYouTube(写真関係)について触れようと思ったのだが、何十年ぶりかのジジ・ババたちの襲来に圧倒され、写真のことも、カメラのこともそっちのけで書いてしまった。1 / 561回というのは、たまたまの範疇に入るのではないだろうか。写真掲載があるのだから、どうかご寛恕を乞うといったところだ。 担当諸氏からお叱りのメールか電話が舞い込むかも知れない。願わくば、電話でなく、メールで苦言を呈してもらえればと、勝手なことを考えている。 電話だと、「あ〜たは、 “たまたま” じゃないでしょ〜!」という鬨(とき)の声が、耳鳴りとともに聞こえてきそうだ。 http://www.amatias.com/bbs/30/561.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 ダリア。原画はもう少し赤が鮮やか。Adobe Photoshopのチャンネルミキサーで補整したものをイメージに従って何通りかレイヤーで重ね、ブラシで削り取る。 絞りf4.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 花名分からず。ほぼ原画通り。 絞りf6.3、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/09/03(金) |
第560回:Web展終了のお礼、並びにその考察 |
拙稿でご案内させていただいた我が写真倶楽部の1ヶ月半にわたるWeb写真展が先月末日をもって無事終了いたしました。多くの方々にご覧いただき、また、貴重なご意見を賜り、まことにありがとうございました。この場をお借りして、みなさまに心よりお礼申し上げます。
昨年に引き続きのWeb写真展は、私たちにとって新たな試みでありましたが、忌むべき疫病蔓延のため、それもやむなしというところでした。デジタル時代(インターネット時代)の流れに沿っての選択肢でありましたが、この方法についてぼくは功罪半ばすと考えております。ある意味、文明の利器がもたらす宿命のようなものだとも考えています。得るものがあれば、そこには必ず失うものがあるという定めなのでしょう。便利さの裏には、失うものがあるのだということを覚悟しなければなりません。 功の部分は、遠方(国内、国外とも)に居住される方々やご年配の方々にわざわざ出向いていただかなくても済むことや、感染の恐れを避けることができることなどでしょう。 私たちが、恒例の美術館での開催を取り止めた理由は、申すまでもなく疫病感染という大きなリスクを負うことにありました。そのリスクを冒してまで開催すべきかどうかとの判断は、とても難しいものがあり、倶楽部内でも意見の分かれるところでした。美術館での開催よりWeb展のほうが好ましいと考えているメンバーはひとりもいないというのが実際のところです。 「にも関わらず」の決断は、目に見えぬ病原体の蔓延に荷担してしまう可能性があるとの気持からでした。まさに「後ろ髪を引かれる思い」と「断腸の思い」が重なり合って、Web展の遂行は苦渋の選択でした。 罪とまではいえないまでも、負の部分は、やはりバーチャルでの世界は人間同士の、肉体的にも精神的にも、血の通った往来に著しい欠損を生じることにありましょう。モニター上での観賞は、意見の交換などがバーチャルであるので、やはりジジィにとっては違和感のあるもので、ぼくは自身の作品の「仮の姿」をみなさんに見ていただいているような気に襲われました。相手の顔が見えないというのは、なんとも不思議な感覚でした。 しかし、「あちらを立てればこちらが立たず」というシーソーのような不文律というか、そこには変えることのできない原理原則が立ちはだかっていたのだと思います。 作品をご覧いただきながらの会話や挨拶が、いってみれば “ face to face ” でないというのは、誰しも不安を呼び起こすものです。お互いの表情や仕草、口調から、感情のやり取りができないもどかしさは、やはり隔靴掻痒(かっかそうよう)の感ありというところです。 デジタル写真が市民権を得るようになって久しいですが、やはり自分の写真はオリジナルプリントで見ていただきたいとの気持が、ぼくなど古い質の愛好家は、おそらく若い人たちより何倍も強いのではないかと思います。ぼくは特にフィルム育ちの人間ですから、なおさらなのでしょう。 しかし、時代に逆らう気持は毛頭もなく、否むしろ新しいテクノロジーを積極的に取り入れ、それを使いこなすことに興味津々といったところなのですが、写真を見ていただくことに関しては、「やはりプリントでしょう!」との気持から脱することは難しいようです。そのくらい印画紙には強い思い入れのようなものがあります。 その時に描いたイメージを苦心惨憺しながら暗室作業により作り上げ、それを直接鑑賞者に見ていただきたいとの思いはまっとうなものでありましょう。何百何千通りのモニター上で再現される自身の作品もぼくの作品には違いないのですが、そこには何千通りの亀山があらぬ姿で出現しており、どれがぼくの本当の姿であるのか、その解決や決着はどのように成されるのでしょう。 ぼくが人様の写真を鑑賞することになった時、作者のモニターとぼくのそれがどのくらい異なるのか、その乖離の大小を窺い知ることはできません。考えてみれば、それは空恐ろしいことのように思われます。 今年も大きな作品展の審査委員をしましたが、その審査はもちろんモニター上ではなく、実物を会場に並べて行いました。審査などは、特にそれが順正なことであろうと思います。 他人のモニターでの再現は、極論すれば、あくまで自分の姿は他人任せであり、これほど居心地の悪いものはないとぼくは感じます。ぼくの姿は唯一無二のプリント表現で見て欲しいと願うことは、贅沢でも、我が儘でもないと思っています。 先の見えぬこのコロナ禍で、ぼくらの生活様式が少しずつ変化せざるを得ない状況に追い込まれています。来年の4月にはすでに埼玉県立近代美術館での開催が決まっています。なんとか疫病が沈静化の兆しを見せ、Web展ではなく(同時開催もありかな?)、オリジナルプリントを展示し、みなさまにご覧いただけることができますよう願っています。 今回はみなさまにWeb展のお礼の気持をしたためようとの思いから、気がつくと何時になく、「です・ます調」で書いておりました。 http://www.amatias.com/bbs/30/560.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 どうやっても良い構図を得るための足場が確保できず(他の植物を踏んでしまう)、カメラを片手で持ち、バリアングルを頼りに撮る。 絞りf4.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。 ★「02さいたま市」 クレオメ。ピンクの可愛い花だが、それはぼくの意に添わないので、冷黒調のモノクロをイメージしてシャッターを切る。 絞りf5.6、1/50秒、ISO250、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/08/27(金) |
第559回:健全なる精神は写真に不向き |
いわゆる「義理立て」をしなくて済む年齢というものが果たしてあるのだろうか? もしあるのだとすれば、それは何歳の頃なのであろうか? そして、どのような理由であれば「義理立て」の放棄を世間様から容認されるのであろうか? と、寝返りを何度も打ちながら、ぼくにしてはかなり真面目に考えてみた。「不義理の許可」を考えるようになったのだから、やっぱりそれは歳を取ったということの、ひとつの証なのではあるまいかと思う。
ぼくがこのようなことを真面目に顧みなければと思うようになったことの一因は、最近あちらこちらに不義理を重ねているからだ。これほど居心地が悪く、精神衛生に悪いことはない。不義理をしてはいけないことは重々承知なのだが、あれやこれやの雑務に追いかけられ、本来すべきこととの優先順位が逆転し、どうにも身動きが取れずにいる。いろいろなことが、先延ばしとなり、そしてそれが自分への言い訳の繰り返しともなり、精神がか細く、軟弱なぼくはこんなことできっと自律神経を冒され、寿命を縮めていくのではあるまいかと思念している。また、それはやむを得ないことと受容もしている。 迫り来る期日に怯えながら約1万5千字の駄文(写真にまったく関係のない事柄についての頼まれ原稿)を丸4日もかけて書き殴り、書き終わるや小休止を取る間もなく、半ば本能に突き動かされるように、カメラをリストバンドに巻き付け、当てもなく彷徨った。しかし、うだるような暑さに、ぼくの生半可な本能はすっかり萎えてしまった。 中腰になりファインダーを覗いているだけで、汗が噴き出し、息も上がり、腰も痛く、とても撮影に挑むというような果敢なる精神を保てない。肉体もまた然りである。猛暑のなか、心身ともにすぐにあごを出してしまった。こんなことはかつてなかったのにと、ぼくは悄然とし、虚ろな目で彼方を見遣っていた。 余談となるが、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とローマの詩人がいったとか。これは精神と身体の相互関係と解釈されているが、それは誤りで、現在は誤用がまかり通っている。 今それはさておき、ぼくはそれを少し捩(もじ)り、写真は一般にいうところの健全なる精神の持ち主には至って不向きなものであると考えている。これは断言してもいい。多くの写真愛好家と称する人たちに接し、身をもって感じ取ったことである。そのような人はどうも写真より、他のことに精を出したほうがいいのではないかとさえぼくは思っている。 いや、写真ばかりでなく、物づくりはすべからくそれが当てはまる。極論すれば、世間の一般常識に頼りすぎる人、いわゆる「堅物」(生真面目で、融通が利かず、冗談が通じない人)は、物づくりに向いているとは到底言い難い。 「猿は人間に毛が三筋足らぬ」そうだから、それを捩れば、反対に髪の毛が猿より3本足らぬくらいが、物づくり屋にはちょうどよいのではないかと思う。常識的な作品ほど退屈なものはない。 話を元に戻すと、お盆の明けた今、ぼくの周辺では花の種類も少なく、やたらひまわりばかりが目につく。揃いも揃って、何故かみんな東を仰いでいる。きっと「ひまわり組合」のようなものがあって、組長の「東向け、東!」との号令に従い、同じ方向に顔を向けている。聞くところによると、成長期にある若いひまわりは、夕方には太陽を追ってちゃんと首を捻り西に向くのだそうだが(ぼくは気づかなかった。というより、意識したことがなかった)、ホントかなぁ? ひまわりはご承知の通り、漢字で「向日葵」と書くので、やっぱり本当なんでしょうねぇ。 種子を育まなければならぬひまわりは人間でいえば初老らしく、もう首が固くて回らないとのことだ。どこか人間と似ているね。ぼくは他の理由で首が回らないのだけれど。 初老のひまわりは種子育成のため、全員一斉に東を向き、逆らうことも覚束ないのである。誰か1人くらい個性に溢れ、気骨稜々たる御仁はいないものかと子細に観察をするのだが、そのような成らず者は見つからない。ひまわりって、大きな顔をして咲くくせに、けっこう気の小さい烏合の衆のようだ。 ひまわりは、ぼくが今まで一番多く撮った花に違いない。盛花でも、朽ちても、ぼくの感覚からすれば、絵にしやすい花の最右翼なのだと思う。 うだるような暑さで、撮影を諦めたぼくは、それならと、決してきれいとはいえない朽ちかけた茶褐色の大きなひまわりと炭化したような子振りなものを農園のおばちゃんに譲ってもらい、家に持ち帰った。といっても、家に持ち込めば必ずや家人に嫌な顔をされることは確かなので、今車のトランクに入れてある。週末にでも、気が乗れば枯れたひまわりをこっそり自室に持ち込んで、自然光で撮ってみようと思っている。 しかし、何故朽ちた花や作物に多くの人は感情移入をしないのだろう? したがって、ぼくの撮るそれらはきっと不人気の極みなのだろうと、ぼくは本心よりシニカルな笑顔を浮かべ、そしてほくそ笑んでいる。 今、写真展をWebで開催中だが、ぼくの撮る花を称して、それはぼくの「人生観」や「原風景」そのものなのであろうとのメールを何通かいただいた。ぼくをよく知る人たちの意見だが、そのような解釈はきっと少数派なのだろうと思っている。ぼくはコマーシャルの写真屋なので、特に女性が胸に手を当てて、「まぁ、きれい!」と叫んでくれるような花の写真を撮るのは造作もないことと、偉っそうにいいたいが、しかし「そんなものを撮って、お前は嬉しいか?」と自問するに決まっている。やっぱりぼくは非常識の出来損ないでいるほうが心地いい。 「かめやまからみなさまへのご案内」 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は今月一杯です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。 https://www.fototortuga.com http://www.amatias.com/bbs/30/559.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 今まで撮ったひまわりは裏側のほうが圧倒的に多い。魅せられる部分が多いのだろう。黄色い花弁が鮮やかだが、これは当初からモノクロをイメージして。 絞りf9.0、1/50秒、ISO800、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 暮れなずむ空を背景に。「みんな、東向け、東!」というところ。 絞りf5.6、1/60秒、ISO250、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/08/13(金) |
第558回:青春の血潮 |
「ワクチン打った?」というのが仲間の合い言葉のようになって久しい。かくいうぼくも、2度目のワクチンを接種し、時間的にはすでに免疫ができており、主治医にいわせると「本来ならもうマスクをする必要はないが、このご時世、要らぬ難癖をつけられる恐れがあるので、君子はマスクをしたほうが良い」のだそうだ。ぼくはいつの間にか君子に大化けしているらしい。
ぼくの生きて来たたかだか70年余の間に、これほど酷い疫病が世界中に蔓延し、多くの人々に苦しみを与え、そして膨大な犠牲者を出すとは夢にも思わなかった。人類史を振り返れば、医学の進歩した現代であっても、いずれ、恐ろしい伝染病が人類に襲いかかってくるであろうとの予感はあったが、まさか自分の人生の晩年になってとは考えもしなかった。 武漢コロナは、倹(つま)しい一介の写真屋の活動を極端に制限し、また晩年の貴重な時間を無残にも奪い取っているのだ。 2度のワクチンを済ませて、その効果はどれほどのものか当人には分らないが、この熱暑が和らぎ始めたら、少しずつ疫病以前の、自分の写真を撮るための行動様式に戻ろうとの意を固くしている。様子を見ながら、撮影の行動範囲を徐々に広げていきたい。 感染しにくいということは、他人に移しにくいということでもあるので、ぼくは副反応のリスクよりこちらを優先した。人様に迷惑をかけることなく、医療体制の逼迫をも緩和し、少しでも晴れた気持で写真を撮りたいとの思いが先に立った。もしかして、医者さんのいうが如く、ぼくは君子に化けているのかも。いや、「化けて」いるのではなく、「気取って」いるのかも知れない。 この1年半、我慢の甲斐もありせっかくいろいろな花とも馴染みができたので、今後も彼らと上手くお付き合いをしていきたいが、中断を余儀なくされている街の佇まいや人物スナップ撮影の勘を取り戻さなくてはと思っている。 何年も撮り続けてきたのだから、その勘は案外早く戻ると思いたいが、今、その楽しみと不安が混在しており、気持だけは厚かましくも「熱き青春の血潮」 !? なのだが、おいそれと身体がその血潮に反応してくれそうもなく、どうしても悲観が勝つ。気持に身体がついていかないことを実感することほど悲しいことはない。誰もが体験してきたことを、ぼくは今自分のこととして、信じ難い思いを抱きながら悲嘆に暮れている。 また、多くの人々は、ある年齢に達すると、社会や家族に対する義務や責任から解放され、肩の荷を降ろすことができるらしいが、どっこいフリーランスの物づくり屋というのは、息絶えるまで自身へのそれから逃れることはできないのだと思う。良いものを作る義務と責任を自ら背負い、そのような生き様を演じざるを得ない種族だとぼくは考えている。それは宿命のようなもので、やはり、君子など気取っている場合じゃないのだ。 先日、暑い最中に、いつものように貸し農園の周辺を徘徊していたら、盛りを過ぎた鬼灯(ほおずき)の実がいくつか地面に落ちていた。鬼灯というのはどこか情趣があり、子供の頃は、実のなかを取り除き(よく揉んで柔らかくし、皮を破らぬように芯を慎重に取り除く)、それを口に含んで音を鳴らして遊んだものだ。 積み重なった枯れ枝の上に落ちていた何個かの鬼灯に子供時分のそんな懐かしい思いを乗せて撮ってみた(掲載写真01)。演出はしたくないので、落ちていた何個かの散らばっている鬼灯のバランスを吟味し、ありのままの姿を中腰になりながら真俯瞰で撮った。 ぼくの使用している何種類かの画像ソフトにあるグロウ(Glow。光彩とでも訳すのかな)やグランジ(Grunge。写真用語としては適切な日本語が見当たらない)を何種類か組合わせれば、浮いたように描ける。面倒な選択範囲などを作らずに済み、最小限の作業でイメージ通り描ける。物臭なぼくはそれを頼りに、腰をふらつかせながらシャッターを切った。 焦点距離50mmの標準レンズを付けていたので、かなり腰を折る姿勢となった。足を開くと陰が鬼灯にかかってしまい、足を閉じ不安定な恰好で速いシャッターを用い、1枚だけ気合いを入れて撮った。 他人には「何枚か絞りやシャッター速度、露出や構図を変えて撮りなさい」というくせに、相変わらずの横着を決め込んでいる。先日の蓮撮影の失敗もどこ吹く風、ぼくはいつだってまるで他人事のようだ。なので、イマイチ説得力というものがない。 ファインダー越しに鬼灯を覗きながら、「色合いといい、艶といい、何だかプラスティックのような質感で面白いなぁ。鬼灯ってこんな感じだったかなぁ」とぼくはひとりごちた。3個の鬼灯は、1本の幹から落ちたものであるにも関わらず、それぞれが三者三様の佇まいを示しており、氏も育ちも違うような顔をしていた。自己主張の強い3人の鬼灯たちだった。 この三者よりもう少し年配と思われる鬼灯がひとつ離れて落ちていた(掲載写真02)。実を覆う表皮が3分の1ほど失われ、繊維が露出していた。被写体としてはこちらのご年配のほうが魅力的であり、惹かれるものがあった。 仏教でいうところの輪廻転生を思い起こさせ、宗教的でさえあった。この枯れた鬼灯にも、熱き青春の血潮の時代があったのだ。 ぼくはこれを拾い上げ、持って帰ることにした。自分の部屋で、先輩と覚しきこの鬼灯にじっくり対峙し、流転について学びながら、写真を撮らせてもらうことにした。 「かめやまからみなさまへのご案内」 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。 https://www.fototortuga.com http://www.amatias.com/bbs/30/558.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 三者三様の鬼灯。同じ親から生まれて、人間と同じだね。 絞りf4.0、1/300秒、ISO400、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 このまま置いておけば、いつかは全部繊維になるのだろうか? ならないよね。 絞りf20.0、1秒、ISO400、露出補正-1.33。部屋の自然光。三脚使用。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/08/06(金) |
第557回:開放絞り信奉者(3) |
絞りにまつわる失敗談(前号)を本テーマとは少し離れたところで述べてしまったので、本題に入れず立ち往生となった。「開放絞り使用」について、もしかしたら誤った考えをお持ちの愛好家がおられるかも知れず、大きなお世話を重々承知で書き連ねるつもりだった。
あれもこれもがあまり出来の良くない頭のなかで錯綜してしまったものだから、途中から立ち戻る気力や知恵を失い、もう開き直るしか手立てが残されていなかった。 「この際だから、失敗談を恥じることなく披瀝し、参考にしてもらえばそれでいいのではないか。絞り値の選択が作画に際して如何に大切な役割を担っているかを知ってもらえればよい」との思いから、突っ走ってしまった。 本来、ぼくの目論見からすれば、このテーマは2度の連載で済むほどの素朴な内容である。開放絞りについて、ぼくにレンズ設計者が語るような専門的な知識があるわけでもなく、加えレンズ光学的な事柄にも疎い。写真屋と設計者は別世界に住んでいるものだ。 絞り開放値の明るいレンズ( F値の数字が小さい)を手にした時の喜びは人情として十分理解しているつもりだし、ぼくにもそのような体験が過去に何度かあった。レンズは明るければ明るいほど値が張るので、それを手に入れれば、意地でも開放絞りで使ってみたくなる。何でもかんでも「開放絞り信奉者」となり、それ一辺倒となる気の毒な人をぼくは何人か実際に見てきた。それを使わなければ損をしたような気になるらしく、端で見ていると不憫でならない。これまた情理の成せる業である。また、開放絞りで撮影した時の特有の描写能力もぼくは承知している。だがそれは、総じてよろしくない。 ぼくが本来ここで述べたいことはとても単純というか大味なことで、「絞り開放による撮影は、そのレンズ特有の描写をするけれど、それはレンズの最も美味しくない部分(潔くいえば、欠点が多い)を使用したものであって、それを承知の上で使うこと」に尽きる。 レンズの絞り開放とは、さまざまな収差が最も盛大に発生する状態と捉えていい。収差とは、以前に拙稿でもお話ししたことがあるが、Wikipediaに上手くまとめてあるのでそれを借用すると、「収差とは、望遠鏡や写真機等のレンズ類による光学系において、被写体から像への変換の際、幾何的に理想的には変換されずに発生する、色づきやボケやゆがみのことである」(ママ)とある。 複雑に絡み合う各収差を如何にして取り除くかにメーカーなどのレンズ設計者は苦労しておられるといっていい。収差(レンズ設計)というのは、「あちらを立てればこちらが立たず」という厄介な性質を有しており、コンピューターやAI(人工知能)を駆使しても、商品として成り立たせるのは大変な苦労だと聞く。 収差を毒に喩えるのなら、レンズの開放絞りは毒がたくさん入っているきわどい状態といい換えても良いだろう。稀に、その毒が良い味を提供する場合もあるが(これは主観的、もしくは我がレンズ可愛や的な見方による)、ほとんどの場合、そうではないことを知っておいて欲しい。 頑なに「毒を食らわば皿まで」を踏襲する豪気な人をたまに見受けるが、そのような意地っ張りでは、「毒薬変じて薬となる」世界には縁遠くなるばかりだ。 大味にといったので、それに倣って、 まず「毒その1」。周辺光量落ち。これはどのような高価なレンズでも発生する。しかし、この現象は時として、中心部に主被写体を置いた時に訴求力・求心力を増すという利点がある。これは視覚心理学に基づいたものらしい。現像ソフトなどで周辺光量落ちを修正することが可能だが、敢えてそうせずにこの効果を利用するもよし。この現象は、絞りを絞っていくにつれ減少していく。 「毒その2」。レンズの本来有する解像度を得られにくい。また、周辺部に行くほど像が乱れたり、コントラストが減少する。全体に、甘く、柔らかいとの視覚的な印象を与えるが、デジタルでは画像をPCモニターで拡大することができるので、その弱点が目に付き、それを承知で使用するのは、特殊な場合だ。シャッタースピードを速めたり、ISO感度を低く抑えることができるが、画像解像度や抜けの良さなどについて、大きな期待は寄せられない。 「毒その3」。そのレンズの有する本来の解像度に関して、それを得るには、定説では開放絞りから2絞り絞ったあたりだといわれている。押し並べて、最大公約数的には、その論は概ね正しいが、これは人間と同じく個体差があるので、鵜呑みにはできない。実写で試す他なし。また、単焦点レンズとズームレンズを、同じ土俵で論じるべきではないというのがぼくの見解である。 「毒その4」。倍率色収差(波長の異なる各色がレンズを通して、合焦点に色ずれを起こす現象)がコントラストの強い画像周辺部で生じやすい。この現象は、絞ることにより減少していく。あるいは画像ソフトなどで取り除くことができるが、良質なソフトを使用することをお勧めする。なお、アポクロマートと命名された高価なレンズは、この色収差が補正されている。 上記のようなさまざまな毒が最も色濃く現出するのが、開放絞り値である。実際にはカメラを三脚に据え、あなたの愛用するレンズの絞り値を変えながら、平面、立体の両方を実写するしかない。絞りを変えることにより写真の表情も変化していくので、あなたの撮影イメージに添って絞り値を選べばよい。誰かのように横着をせず、絞りを変えて何カットか撮っておけば保険もかけられるし、また愛用レンズの正体を知ることもできる。 そうすれば、レンズ選びも写真趣味の一興となる。誰かのように、それで身上(しんしょう)を潰さぬように。 「かめやまからみなさまへのご案内」 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。 https://www.fototortuga.com http://www.amatias.com/bbs/30/557.html カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 花弁の散ったひまわりが川辺にひっそり。 絞りf2.8、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 夕陽に一斉に背を向けて咲く一群。こちらは花弁がきれいに映える。 絞りf11.0、1/100秒、ISO800、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/07/30(金) |
第556回:開放絞り信奉者(2) |
このテーマに関連したぼくの至近の失敗談を先ず恥じることなく、えらっそうに一席ぶつ。前号で、「どのような絞り値を選択するかというのは、撮影の基本中の基本である」と大上段に構えて述べたばかりなのに、早速その過ちを犯してしまった。えらっそうなことをいわなければよかったと、ほとほと後悔している。PCモニターを見ながら心密かに、「オレとしたことが、なんてざまだ! 穴があったら入りたいくらいだ。でも、誰も見てないし、いわなきゃバレないんだけど。正直であるべきか、とぼけるか、そこが問題」とハムレットのような心境でつぶやいた。「正直の頭に神宿る」ともいうしね。
さいたま市を東西に貫く国道463号沿いに「浦和くらしの博物館民家園」という、どちらかといえばジジ・ババ向きの、まったりとくつろげる静かな空間がある。ぼくはここに好んで立ち寄り、年に何回かはここのベンチに座ってボーッとしたひとときを過ごす。いつも閑散としているので心地が良い。 案内によると、「市内に伝わる伝統的な建造物を移築復原し、その保存をはかり、あわせて過去の生産、生活用具を中心とした民俗資料を収集・保存し、これらを展示公開している野外博物館です」とある。用事がてらの通りすがりに、たまたま中望遠レンズ(焦点距離135mm)を持っていたので、ここで栽培されている古代蓮を撮ってみようと寄ってみた。新たに発注したRFマウントの100mmマクロレンズがまだ手元に来ていないので、いささか心許ない。愛用していた旧マクロレンズは友人に譲ってしまったので、今のぼくは等倍マクロレンズを持っていないインチキ写真愛好家である。マクロレンズというものが如何に頼り甲斐のあるものかを、改めて知る縁(よすが)となった。 それはさておき、ぼくの立ち寄った時間は夕刻だったので、すでに花は閉じていたが、この日は花が目的ではなく、シャワーの噴出口のような、あるいは蜂の巣のように見える花托(かたく。古名「はちす」。蜂の巣からきているとするのが通説。また、「花床」ともいう)を撮ってみたかった。20年ほど前、上野の不忍池でたくさんの花托を撮って以来の試みだった。 背景とする蓮の葉と花托、そしてレンズと花托との距離を確認し、その関連性をとくと言い聞かせ、絞り値を塩梅した。3つの花托を矯(た)めつ眇(すが)めつ観察し、アングルを変えながら計6枚、それぞれを2枚ずつ撮った。 絞りを変えて何通りか撮れば良いものを、前号の言い草を再び用いれば、「賢い方法にそっぽを向き、『一発で決める』なんて粋がっている。何かの沽券にでも関わると思っているのだろうから、ホントに賢くない」のである。この横着が失敗を招いたのだった。横着は身を滅ぼすことを知りつつ、やはりぼくは、賢くなかった。「油断大敵」とはよくいったものだと、今頃になって知らされた。 撮影直後にカメラモニターで画像を確認することはあまりない。恰好をつけているわけではなく、せっかちのため面倒臭いのと(これが一番の理由)、純然たるフィルム育ちなので、そこには意味のない誇りと意地のようなものがあるのだろう。そして心の隅に、そんな所作はどこか “ぼくの沽券に関わる” との気持が潜んでいることも素直に認めなければならない。また、「職業写真屋たる者が、撮る度にモニターを覗き込む仕草はおまえのしみったれた美学に背くばかりでなく、酷くみっともないから即やめろ」との声がまるで調子っぱずれの輪唱のように騒ぎ立て、追い打ちをかけてくる。余計な雑音に振り回されながら、カメラモニターという文明の利器を敢えて否定したがる愚かな自分があっちこっちにいるのだから、嫌になる。ぼくはぼくで、あれこれ大変なのだ。もっと楽に生きたいものだ。 帰宅し、撮影したRawデータをPCで確認してぼくは愕然とした。被写界深度が足りないのだ。こんなヘマはほとんどやらかしたことがない。昨今、新調した3本のレンズの正体を見極めようとご執心のため、最近あまり使用していなかった焦点距離135mmの被写界深度を見誤っていたのだろうか。絞りf 8.0 で花托と背景の葉の描写を計算したつもりが甘かったようだ。被写体とカメラの距離、被写体と背景の距離などの、それぞれの相関関係を掴みきれなかった結果だった。 頭に描いた映像を再現するには f 8.0ではなくf 11.0を必要とし、安全を見越せばf 13といったところか。つまり1絞り分足りなかったということになる。滅多にない粗相をしてしまったもんだから少し狼狽えはしたが、立ち直りの早いぼくは、すぐに気を取り直し、翌日親の仇を取るような気持で、夕刻まだ暑気が漂うなかバンダナを巻いて再撮に出かけた。 仕事の写真であればこのような横着はせず、しっかり保険をかけ、リスクを避けるのだが、気の緩みによる自信過多というか、腕に覚えがあり過ぎたあまりのしっぺ返しだった。良い勉強をさせてもらった。 できるだけ手短に失敗談をと思ったのだが、本題を外れてここまで来てしまった。ここから仕切り直しができるほどぼくは器用ではないので、取り敢えずこの場をどう取り繕うかに腐心せざるを得ない。 突然、何の前ぶれもなく本題に入るのはあまりにも不用心のような気がしている。それはいつものことなのに、何故か今回は殊勝な様を装っている。 「唐突」という言葉に従い、事を進めようかとも思ったのだが、それをするにはすでに字数をオーバーしており、時すでに遅し。因みに「唐突」とは、大辞林によると「前ぶれもなくだしぬけに物事を行って不自然であるさま」をいうのだそうだ。「唐突の感は否めない」という言い回しがあるくらいだから、畢竟「今さら無様であるから、やめておけ」ということなのだろう。本テーマは、恐れながら次回に持ち越したほうが良さそうである。どうかご容赦あれ。 蓮の花托を2点掲載させていただくけれど、これは再撮という殊勝な心がけの表れとでもしておこう。 「かめやまからみなさまへのご案内」 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。 https://www.fototortuga.com http://www.amatias.com/bbs/30/556.html カメラ:EOS-R6。レンズ:EF135mm F2.0L USM。 埼玉県さいたま市「浦和くらしの博物館民家園」の古代蓮。 ★「01さいたま市」 花托に残った種子がちょうど人の目のように見えた。髭も生やして、どことなくユーモラスだ。 絞りf13.0、1/80秒、ISO800、露出補正-0.67。 ★「02さいたま市」 逆光に映えた葉を背景に、花托と浮き出た葉脈。葉の彩度を極力控え目に。 絞りf11.0、1/100秒、ISO800、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/07/16(金) |
第555回:開放絞り信奉者(1) |
先週、「開放絞り信奉者」について、ちょっとした皮肉を交えて述べようと思ったのだが、何かが咎めたとみえて、ついつい書きそびれてしまった。ぼくもまだ一片の良心と残り火のような体裁をどこかに宿しているらしい。とはいえ、やはり誤った考えによる「開放絞り信奉」について、この場をお借りして、控え目に言及しておきたいと思う。
ぼくも過去に於いて、知識不足のため同じ過ちを犯し、大口径レンズ(この定義は極めて曖昧で、数字的な規定はない。レンズの焦点距離にもよるし、単焦点かズームかでも異なってくるが、一般的には開放絞り値が小さい明るいレンズを指す。たとえば、F 1.2とかF 1.4などはその範疇に属するといっていい。中望遠レンズであればF 2.0もそうだろう)を振り回しながら得々として、「何とかのひとつ覚え」よろしく開放絞りでばかり撮っていた時期がある。遠い昔の、恐いもの知らずによる若気の至りだが、「知らぬが仏」とはよくいったものだ。今、当時のことを思い出すと思わず顔が火照る。 絞り値の選択は、撮影意図によって、敢えて開放絞りを利用し、それは目的あってのことであり、「知らぬが仏」ではないので、咎める理由にはならない。 おそらく、かつてのぼくと同じような開放絞り一辺倒(大口径レンズにかぎらず、通常のレンズの開放絞りも同様に)の方もおられるのではないかと案じている。大きなお世話といえばそれまでなのだが、 「ぼくの “良心” 」などといいながらも、利便性(シャッタースピードが有利となる)に頼ることへの警戒心から発するぼくの親切心は、おためごかしの嫌いがあるかも知れない。けれど、ぼくは殊の外、写真に関しては心配性でもあり、また自身の失敗を交えての告白なので、そこのところはどうかお目こぼしをいただきたい。 どのような絞り値を選択するかというのは、撮影の基本中の基本である。撮影目的に応じて(描いたイメージに応じて)、使用f 値を選択することに撮影者は迫られ、頭を捻ることになる。このことは、撮影時に於ける非常に悩ましい問題である。ぼくなど、未だにこの段となると鈍化した頭をフル回転させながら、右往左往している。ああでもない、こうでもないと、それほど厄介で、難しい。絞り値の違いにより、写真のイメージががらりと変化するので、神経質にならざるを得ない。 迷った時は、絞り値を変えて何カットか撮るのが一番確かで、賢い方法だ。これしかない。絞り値と被写体との距離、そしてレンズの焦点距離の相関関係による描写の違いについて、たちどころに答を出せる人はまずいないだろう。これは途方もないような困難さを伴う課題なのだ。 絞り値を決める時、その難しさは重々承知なのだが、そのような時には必ずといっていいほど、質(たち)の良くない虚栄心とか見栄のようなものが心にうごめき、誰も見ていないにも関わらず、辺りをキョロキョロと見回しながら、ぼくは賢い方法にそっぽを向き、「一発で決める」なんて粋がっている。何かの沽券にでも関わると思っているのだろうから、ホントに賢くない。関西弁でいうのなら「ほんま、アホやねん」。佐賀・博多弁なら「ほんなこつ、バカばい」。 f 値を変えれば自動的にシャッタースピードが変化すること(前回に記した絞り優先モードの場合)の初歩的原理は記さないが、絞り値決定の大きな要因は「被写界深度」をどのくらい取るかにかかっている。ファインダー内にある(あるいはカメラモニターで見る)遠近の異なる物体のどこからどこまでピントを合わすかは、作画上非常に重大な事柄だ。 絞り込めば絞り込むほど、被写界深度が増し、逆であればピントを合わせたところ以外のボケが大きくなる。 さて、ぼくが学生時代に犯した「絞り開放病」についてだが、その因となったのが、バイトをし、やっとのことで購入したN社の定評ある50mm標準レンズF 1.4 。 憧れのレンズを手にし、開放絞りばかりを得意になって使っていた。1ヶ月ほど経ったある日、今までしたことのなかった新聞紙の複写を試みた。この知恵を授けてくれたのは子煩悩であった父で、「坊主、新聞紙を、絞りを変えて撮ったらいい」と、その作法を教えてくれた。この実験がどれほど恐ろしくも残酷な結果をもたらすか、18歳の小僧であるぼくには知る由もなかった。それは、生まれて初めての正式な “複写” であった。要領を父に教わり、ぼくは表で三脚を立てて、噴き出る汗を拭き拭きの作業。夏の暑い盛りの頃だった。 モノクロフィルムを現像し、あるいはカラースライドフィルムをルーペで覗き込んであがりを確認する作業は、ぼくの写真生活に於いてすでに日常化していた。 複写したモノクロフィルム(フジフィルムのネオパンSS。感度ASA100)で撮った新聞紙を、さらに倍率の高いルーペで熟視したぼくは、「えっ、なんで? どうして? このレンズ壊れているのか?」と声を発し、体中から血の気が引いていくのを覚えた。父は、奥の書斎からぼくのそんな姿を見つつ、「坊主も、ちかっとは利口になったじゃろか?」と、佐賀言葉でいったに違いない。(次号に続く) 「かめやまからみなさまへのご案内」 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は7.15〜8.30 の1ヶ月半です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。 https://www.fototortuga.com http://www.amatias.com/bbs/30/555.html カメラ:EOS-R6。レンズ: RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 久しぶりにショーウィンドウに飾られた造花を撮った。50mm標準レンズはなんでも「ストン!」と撮れてしまう。今さらながらだが、はまると虜になるような気がする。 絞りf4.5、1/125秒、ISO125、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 アンネ・フランクを記念し命名された「アンネのバラ」。オランダのアンネ・フランクの隠れ家を訪ねたこともあるが、ぼくはアンネ・フランクに同情はするが、遺憾ながら興味は持てない。いろいろな思いを込めて、この花を撮る。 絞りf2.8、1/100秒、ISO160、露出補正-1.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2021/07/09(金) |
第554回:題名のない無駄話 |
レンズの f 値について述べようとすると、物理光学の専門家ではないぼくでさえも、かなりの文章量を必要とする。撮影に必要不可欠な要素であるf 値の意味するところは、ぼくのような数字音痴でも、思い通りの写真を試みるための大切な知識と道具立てなのだが、ここで説明のための数字を羅列すれば、それは面白くも何ともなく、ほとんどの読者諸兄に敬遠されるだろう。ぼくも書くのは面倒だし、退屈だ。
数字の示す世界、言い換えれば数字で説明できてしまうような物事というのは、数字で生活している人を除けば、第一に味気ないし、面白味のあるものではないというのが世間の通り相場である。 ぼくがしばしば持ち出す自説、「写真はカメラやレンズが撮るのではなく、あなた自身が撮るのだ」は、いってみれば写真撮影についての氷山の一角であり、水面下には「では、我々は何をどのようして撮るのか?」との大命題が潜んでいる。それを何とか伝えようと、ない知恵を絞りながら拙稿を554回も重ねているのだが、それができれば、ぼくはもっとましな写真を撮っているのだと思う。 今回は、数多く巷に棲息する「開放絞り信奉者」を揶揄しようと書き出したのだが、どこかで曲がってしまい、元に戻れそうもないので、このまま雑談めいた話にしちゃおうと考えている。煙に巻くつもりが、巻かれてしまった。なんともはや。 ぼくは “科学信奉者” であることを、今までに何度か述べてきたが、写真にも科学的論拠を求めて然るべき場合が多々ある。科学の面白さというものはまた別物でもあるし、それを知ることにより表現の幅が広がったり、的が定まるということだってある。したがって、写真は感覚や情緒だけでは、やはり写ってくれないのだ。 写真の道具は、科学と化学に基づき成り立っているので、それを疎かにしては成るものも成し得ない。「何故写真が写るのか」との原理原則くらいは、知っておいて損はない。それを知るのとそうでないのとでは、スマホ写真でさえ、差が生じるというものだ。 しかしほとんどの場合、理論ばかりに固執しては、せっかくの写真を成し難いものにしてしまうことにぼくらはそれとなく気づいている。 物づくりに於いては、優れた論理も欠かすことのできぬ大切な要素であることは重々認めるが、それより、先ずは豊かな感受や洗練された情趣に憧れを抱き、その確保に研鑽を積んだほうが、訴求力のある表現を産み出すには有効だとぼくは感得している。鋭敏で豊かな感性を先ず養う努力が、余計な固定観念に囚われずに済むということでもある。 だが、何事もどちらか一方に偏るというのは、塩梅がよくないものだ。今、「お前は一体どちらなんだよ」との声が聞こえてきそうだが、偏りによる “いびつさ” はやがて “意固地” を生む。双方のバランスを大切に扱うことがより大事なことなのだろう。ファインダーを覗きながらそこに示される様々な情報を吟味し、そしてシャッターを押す。最近のカメラは、あれやこれやの情報がファインダー内やモニターに所狭しと示されるので、自分に必要な最低限の情報の理解に努めることが大切。 それらの情報のうち、おそらく誰もが真っ先に注意するのは、f 値とシャッタースピードではあるまいか。自動露出(AE。Automatic Exposure)を利用するのであれば、絞り優先モード(Av)かシャッター優先モード(Tv)、事始めの人は無難なプログラムAE(P)といったところだろうか。プログラムAE以外は、露出という撮影上最も難しい事柄に直接関わってくるので単独で語るには無理がある。露出を決定するf 値・シャッタースピード・ISO感度の三つ巴の相関関係については、今ここで改めて述べないが、写真への理解は先ずここから始まるといってもいい。 毎回の掲載写真には撮影データを記している。本連載初めの頃に掲載していた資料や説明のための写真を別にして、いわゆる私的写真について、データの開示を決めたのは複数の読者の方からのご要望があったからである。 ぼくの撮影データなどたいして参考にもならないだろうと思うが、50年ほど昔に勉学の師と仰いだA. アダムスの教本には、撮影データが記されてあった。大変なテクニシャンであった彼の撮影データを見て、ぼくは非常に参考になったし、また学ぶところ大であった。アダムス先生にくらべれば、ぼくなど屁のようなものだが、ご要望があれば、これは公共機関のHPなのだから読者の声に従うのが筋であろう。 ぼくの使用する撮影モードは、仕事では90%ほどがマニュアルモードだが(したがって “露出補正” という概念がない)、私的写真は圧倒的に絞り優先モード(オート露出なので “露出補正” を必要とする)が多い。しかし、新調したミラーレス一眼(今年4月)では、もっぱら新しく組み込まれたキヤノン独自の新機能であるFvモード(フレキシブルAE)をありがたく使用している。 これはマニュアルモードとオートのいいとこ取りをしたハイブリッド撮影モードである。前述した “三つ巴 + 露出補正” をそれぞれ任意に決め、あとはカメラが程良い露出を指示してくれるというありがたい機能だ。ぼくはf 値・シャッタースピード・露出補正を自分の希望する値に設定し、ISO感度をオートとすることで、適正露出を得ている。こんなことが、ちゃっかりできてしまうカメラなのだ。長年の勘による不見転(みずてん)でこのカメラを新調したが、この機能については買うまで知らなかった。不見転で失敗した経験がないのは、ぼくの数少ない自慢である。これはかつての道楽三昧の賜である。 Fvモードのような我が儘がすんなり通るところが、人間社会とは大きく異なる。「あちらを立てればこちらが立たず」という露出の大原則(従来の常識)を打ち破って、勝手三昧を許してくれるのだから、このうえなく重宝している。 なんだか取り留めのない話になってしまい、揶揄されるのは「開放絞り信奉者」ではなく、ぼくのほうであるようだ。 http://www.amatias.com/bbs/30/554.html カメラ:EOS-R6。レンズ: RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。 ★「01さいたま市」 たまには花でないものを撮りたくなり、カメラのリストストラップを手首に巻き、まさにお散歩写真。 絞りf4.0、1/1250秒、ISO360、露出補正-1.00。 ★「02さいたま市」 ガラス越しに見る女性は、何故かいっそうきれいに見えるものだ。 絞りf2.8、1/800秒、ISO100、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |