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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2020/12/18(金)
第526回:読者諸兄からのご質問(2の続き)
 1回では書き記すことができなかったので、今回は前回からの続編。内容は以前にも触れた部分があろうかと思われる事柄も含まれるが、多方面からの見方も必要なことなので、それを踏まえたうえでお話しをさせていただこうと思っている。

 暗室作業に於ける補整は、如何なる補整であっても元画像より画質劣化をもたらすという事実をまずは知っていただきたい。補整を加えれば加えるほど画質はどんどん劣化していく。
 「劣化」とは何かとの定義は難しいが、平易にいえば元画像にはもともと存在しなかったものが付加されている状況と考えていい。画像を拡大すると、誰が見ても気持の悪いゲジゲジやバイ菌のようなものがウジャウジャ繁殖しているのを発見することがしばしばある。あるいは質感に乏しい、例えば青空などに縞模様(トーンジャンプ。モアレ)が出現したり、時にはそこに飛蚊文様を多く発見する。暗部には偽色(被写体にはない色の画素。 ”false color” といったほうが分かりやすいかな?)が際立ったり、なにかと慌ただしい。

 偽色ばかりでなく、劣化を防ぐには「力技」、「大技」をできる限り控えるしかない。しかし、プリセットには人の知性を容易く奪い取る麻薬的な、「力任せ」とも思えるようなものが含まれるので要注意である。人はどうしてもこれに取り込まれてしまうものだ。ハニートラップならぬプリセットトラップである( “トラップ” とは “罠” )。
 我が倶楽部にも著しく知性と理性の欠如した人たちがいる。この「力技」に取り込まれ逃げ場を失い、「悪いのはあたしではなく、プリセットなのだ」といつも責任転嫁を図る。ぼくは寛容で穏やか、かつ仏のような慈悲深さを有しているので、このような時、「これも試行錯誤に熱心なあまりのことであろう」と精一杯の仏心を示そうと「見て見ぬ振り」をするのだが、実はちゃ〜んと分かっているのだ。心うち「オレをかめやまと知っての狼藉か!」と遠慮がちに叫ぶ。彼らはいつだって聞こえぬ振りをする。
 
 ここだけの話だが、ぼくもこの「力任せ」のようなプリセットをやむを得ず用いることがある。トラップにかかってしまうのだ。我ながら情けない。理由は後述するが、画質劣化の事態に陥った時、根本的な治療はできずとも、多岐にわたる対処療法を試みる。それらのいくつかを記しておこう。劣化の程度にもよるが、重症でない限りほとんどの症状はこれで事なきを得られるだろう。

 対処療法のいくつかを大まかに紹介すると、Photoshopで画像を拡大し、「ぼかしツール」を使って(強さ10〜20%)画質の荒れた部分をなぞる。一見すると解像感が失われたような恐怖感に襲われるが、その影響は視覚的にはほとんど影響を及ぼさないので、これは一種のトランキライザー(精神安定剤)のような役割を果たす。ゲジゲジやバイ菌、飛蚊が去って行く。
 場合によって、Photoshopとともに、そこに組み込んであるプラグインソフトも動員され、明瞭度(他のソフトの呼称では、マイクロコントラスト、微細コントラス、ダイナミックコントラスト、ディテール等々、それに類するもの)をマイナス方向に。被写体の質感を損なうほど量を大きくしないことが肝心。
 グロー(Glow)やノイズリダクション、あるいはNik Collectionにある「美肌効果」や「グラマーグロー」も、画質の荒れを軽減してくれる良い対処療法である。これらを併用することで、大きな効果を得られる。
 明瞭度や質感描写を損なうことなく、上手にさじ加減することが、第522回に述べた「道具を使いこなす」にも通じてくる。

 プリセットトラップにかかることは、悪いことばかりではなく、良いこともある。それを「功罪相半ば」というのだろうが、「功」の部分について述べてみよう。
 プリセットをあれこれ試していると、そこに思わぬ発見があったり、「そうそう、これだ、これだ!」という場面に出会(くわ)す。あるいはまた、描いたイメージをさらに豊かなもの、上質なものへと導いてくれることが往々にしてある。この体験はまこと貴重このうえなしで、それはあたかも天からの贈り物であるかのような錯覚をもたらす。このような恩恵に与ることしばしば。
 そのプリセットがドンピシャリとはまることはまずないが、しかし微調整機能が備わっているので、手を震わせながら(大袈裟じゃない)、意気揚々、嬉々としながら、微調整のバーを行ったり来たりさせることとなる。そのさま、あたかも犬の「嬉ション」(尾籠な喩えですいません)の如し。
 
 Photoshopでも同様の結果を導くことはできるのだが、そのためには相当の技量とかなりの手間暇を必要とする。しかしプリセットは、呆気なく結果を示してくれるので、ぼくらはどうしてもトラップに遭遇する。プリセット溺愛のあまり自主性を失ったり、足をすくわれかねない。
 プリセットを活用しない手はどこにも見当たらないのだが、足元をしっかり見ていないと、意外な落とし穴にはまる。大きな口を開けてあなたを待っている。このブラックホールに吸い込まれ、身動きならずという状況に追い込まれる人をぼくは何人も見ている。ぼくとて他人事(ひとごと)じゃない。
 落とし穴について記さなければならないので、やっぱり2回で終わらなかった。嗚呼!(次号に続く)

http://www.amatias.com/bbs/30/526.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
山芋の葉を凝視していたら、それがエイリアンの一部、あるいはクモヒトデのように見えて気味が悪かった。もう少し被写界深度が欲しかったが夕暮れ時でままならず。
絞りf11.0、1/20秒、ISO400、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
バナナの葉。さいたま市園芸植物園の温室。葉の裏側に太陽が来るようにアングルを取る。真逆光に葉脈が浮き上がる。
絞りf13.0、1/80秒、ISO200、露出補正-1.00。


(文:亀山哲郎)

2020/12/11(金)
第525回:読者諸兄からのご質問(2)
 前々回第523回で、読者の方から「掲載写真についての状況をさらに具体的に詳しく述べて欲しい」とのご要望があったと記した。ここにある “状況” とはどのようなことなのかがぼくにはイマイチ判然としなかったので確認を取ったところ、「暗室作業をどの様な手順で行っているのか? それを知りたい」とのことだった。
 
 「ぼくは出し惜しみなど決してしない質であることを信じていただきたい」と述べたので、男に二言はないのだが、今頭を抱え込んでいる。何故そうなのかを簡潔に述べると、

1.自身の撮った写真であっても、暗室作業のありようは各写真によってまちまちであること。つまり大雑把にいえば、お定まりの手順というものがないということ。

2. 暗室作業を行う道具仕立て(使用ソフト等)がぼくと同じである人はまずおられないだろうということ。もしおられたとしても、それは非常に稀であろうと思われる。Webという性格上、記す以上はある程度使用ソフトの一般性・共通性を重んなければと思うと(本欄のぼくの話はあまり一般的でないものが多々あることは承知しているが)、極めて困難であること。

3. 世界的に最も広範に使用され、また認められている多機能画像補整・修正ソフトであるAdobe Photoshopの使用を前提としての話にならざるを得ないのだが、それは拙稿をお読みいただいている読者諸兄にとって、役立つものかどうかが見通せないこと。つまりPhotoshopを使用することを前提としてよいものかどうかということ。

4. デジタル撮影の当初からぼくはRawデータ(直訳すると、素材のままの生データという意。カメラのイメージセンサーが捉えた光の情報をそのままに記録する方式。最も広く使用されているJpegなどは情報が間引かれ、圧縮されている。その時点ですでに画質劣化をきたしているので、解像度の不足や、そして滑らかなグラデーション(階調特性)が最良の状態とはいえない。Rawデータと比較すると上記のようにJpeg(非可逆圧縮)は、データ量が圧倒的に少なく、それを画像ソフトなどで補整すると画質はさらに劣化する。
 暗室作業を前提とするならば、Jpegでの撮影は不向きであるということ。

 上記を考慮したうえで、「男に二言はない」ので、最大公約数的なものに限定して読者のご質問にお答えしようと思う。

 撮影したRawデータは、そのままでは活用できずRaw現像ソフト(カメラメーカーやサードパーティから提供されているもの)を使用して、一般的な拡張子を持つ画像に変換しなければならない。ぼくは長年DxO社(最新バージョンDxO PhotoLab 4)のRaw現像ソフトを愛用している。使用レンズの歪曲収差や色収差を含め、様々なことが非常に細かく調整できるので重宝このうえなしで、また相性もいい。
 この現像ソフトでできる限り撮影時のイメージに添った補整をして、情報損失のほとんどない可逆圧縮方式のtif形式 16bit で保存。可逆圧縮なので、目的によっては容量の少ない8bitでも支障はない。同じ8bitでも、普段我々が最もお世話なっているJpegには申し訳ないが、画質の劣化を考えると、恐くてとても使う気になれない。
 体力のない(メインメモリー。RAM容量が少ない)PCであれば16bitでの作業は処理速度が遅くなる。因みにぼくはメモリーを増設し、40GBを積んでいるので、重両級のソフトをいくつも同時に扱えるマッチョPC。動画は扱わないので、これで十分過ぎ、お釣りが来るくらいだ。大食らいのPhotoshopには40GBの70%を充てている

 Raw現像したtif 画像をPhotoshopに渡す。Photoshopにはプラグインソフトとして、DxO FilmPack、ON1社の各ソフト、Nik Collectionを組み込んでいる。これらを合わせると膨大な量のプリセットとなるが、ありがたいことにこれらのプリセットは非常にきめの細かい調整ができるので、いくつかのプリセットで得られた美味しい部分だけを、Photoshop上でレイヤーマスクを作り、ブラシ一筆でちゃっかりいただくようにしている。
 時によっては、10数通りのプリセットを作ることにもなるが、こうなるともう根気どころではなく、執念めいたものとなり、まさに「江戸の敵を長崎で討つ」が如く鬼気迫るものとなる。ここでぼくは一種の偏執狂と化す。この作業は、ぼくが妄念とか邪念を振り払う唯一の瞬間でもある。

 あまりにも多様多種にわたるプリセットだが、どれほど執念深いぼくでも、一つひとつそれらを試すわけにはいかない。そんなことをしていては、いくらスピード感溢れるマッチョなMacを駆使しても、追いつくものではない。ぼくの寿命が尽きるのは明白なので、見当をつけたものにだけ突進し、思いに適わなければ類似したものをいくつか選択しながら、「あ〜でもない、こ〜でもない」と思い悩んでいる。ぼくにとって、イメージしたものに近づくのは容易なことではない。時には思いあぐねて、妥協せざるを得ない場合も残念ながらある。
 “妥協”という言葉は使いたくないので、“どこかで折り合いをつける”とでもいい直そう。どうにかやっと1枚の写真を仕上げた時、ぼくは疲労困憊で放心状態となり、二日酔いが酒も見たくないと同じような心境に至る。ぼくはもう少し精神的なマッチョになりたいとも思う。(次号に続く)

http://www.amatias.com/bbs/30/525.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
名前分からず。白と緑の葉に小さな可愛い花が。群生のなかからどれを主人公にしてやろうかと迷う。
絞りf11、1/40秒、ISO200、露出補正ノーマル。
★「02さいたま市」
山芋。葉の周りが黄色くなりかけた山芋の葉。直射の夕陽を浴び、「もう最期だからよく見ておきなさい」といわれているような気がした「では、モノクロで撮ってやるわ」と返す。
絞りf13.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2020/12/04(金)
第524回:読者諸兄からのご質問(1)
 写真愛好家の、あるいは写真を撮るのが好きだという人たちの何パーセントくらいが、自ら進んで自身の手で暗室作業に取り組んでいるのか、残念ながらぼくには知る術がない。見当すらつかないのだが、手広く写真指導をしているアマチュアの人の話によれば、「おおよそ10%から多くても20%くらいではなかろうか。中間を取って15%くらいだと感じる」とのことだった。彼も「確たる自信があるわけではないのだが」とつけ加えた。
 ここでいう “暗室作業” とは、スマホやコンデジに附属しているワンタッチでできる便利なプリセットではなく、あくまでもPC上で(フィルムであれば、フィルム現像から引き伸ばし作業まで)、詳細に画像調整のできるソフトを使用しているという意味である。

 ぼくは撮影時に暗室作業に於ける結果をあらかじめ想定してからシャッターを切ようにしているので、暗室作業は欠かせぬものとなっている。同時に、被写体に対峙した時に、それを印画紙上にどう再現するかをイメージして撮影する。
 したがって、写真の良否はイメージが豊かか、貧困であるかにかかっている。写真はそれを素直に、ストレートに具現し、また反映もする。ここには誤魔化しの効かない世界が確実に存在している。写真とは斯様に残酷なものだ。

 曖昧なイメージで撮ってしまうと如何に暗室作業を駆使しても、良い写真には決してならない。元が貧困であれば、写真もそうなるという悲しい現実が待っている。
 イメージが豊かで、しかも厳格であればあるほど、写真も厳しい美しさを放つものだとぼくは信じている。

 しばらく前に、読者の方から「イメージを構築するって、どのようなことなのですか? どうすればそれができるのでしょうか? また、暗室作業というものは必須のものなのでしょうか?」との示唆に溢れた貴重なご質問をいただいた。ぼくの返信メールを要約(これでも)すると以下のようになる。

 「もし貴方がカラオケでマイクを握ったとする。その時に選んだ曲を “このように歌いたい” という希望や願望が必ずありますよね。つまり、歌詞をなぞりながら、 “ここをこのように歌いたい” との思いがあるはずです。ところが実際にそうは歌えないのが現実ですね。

 頭に描いた通り(これがイメージというもの)発声できるものではありません。確かな音程もリズムも取れない。それを叶えるためには血の滲むような練習が必要です。プロになるのでない限り、練習はあくまで楽しいものでなければなりませんね。ぼくは自分が絶対的な音痴であることを熟知しており、決して人前で歌ってはいけないと親から躾けられているのでカラオケはしませんし、相手にも迷惑千万との思いを抱かせること間違いなしです。これはまさに、落語の『寝床』に似たり。

 しかし歌は誰でもが好きなものなのですから、歌う以上は少しでも上手に、気持ち良く歌いたいとの願望を持っています。下手でも、人前で遠慮会釈なく、迷惑も省みず、また憚ることも厭わず、自分の世界に浸ることができるという得な性分の人も大勢います。そのような人に限って、実は下手くそなのですが、仕合わせな人々ともいうべきです。しかし、ここでその思いに酔ってしまうと上達が遠のいて行きます。これが現実です。

 まったく同じ事が写真にも当てはまります。撮りたい被写体を前に、 “こんな風に撮りたいなぁ” との気持が高ぶれば、それにつれてイメージが固まっていくものです。それがシャッターを押す動機ともなります。それを繰り返すうちに、自分は何を撮りたいのかがしっかり認識できるようになる。 “何故私はこれを撮るのか?” を無意識のうちに確認できるようになる。向上心さえあれば、それにつられて技術も向上していきます。ここまでくればしめたものです。そうなるまでに大して時間はかかりません。

 ぼくが写真評をする時にしばしば使う “あなたは一体何を撮りたかったの? それが伝わって来ない” との文言を避けることができるようになるでしょう。
 少し大雑把ないい方になりますが、自分の描いたイメージをより強固なものにするために、ぼくは手段のうちのひとつとして暗室作業を何よりも重視しています。撮影技術はもちろん必要ですが、ある程度のところでいいのです。

 ここで声を大にしていいたいことは、 “貴方の描いたイメージは貴方自身のものであり、他人のためのものではない” ということです。ここで他人の目を意識したり、見せようとしたりする意識(邪心)が勝ってしまうと作品がどうしてもあざとくなり、また面白味が欠如してしまいます。やがて堂々巡りが始まり、貴方自身のオリジナリティやアイデンティティというものが失われて行く。他人に阿(おもね)るようなものは、もはや作品というには烏滸がまし過ぎ、すでに創作の本質を失っているということです。ここには多大な自制心が必要ですね。
 他人を喜ばせるために、ベートーヴェンやピカソ、ドストエフスキィは作品を物したのでしょうか? 違いますよね」というようなことを、この字数の2倍ほど費やして返信。
 平素からの、ぼくの主義主張を認(したた)めたに過ぎないのだが、繰り返すことで自身にも自制を呼びかけたという次第。

http://www.amatias.com/bbs/30/524.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ:FE135mm F2.0L USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
皇帝ダリア。強風の吹き荒れる日、すぐ近くの民家玄関脇に左右90°に激しく揺れる身の丈3mほどの皇帝ダリアを見つけた。家に飛んで帰り、135mmの単レンズを装着し現場に駆けつける。ぼくの上半身も花に合わせて90°振る。強風のためヨレヨレの花弁もまた乙なもの。
絞りf6.3、1/1000秒、ISO200、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
ツワブキ。皇帝ダリアを撮った後、木陰にうずくまっているツワブキを見つけ、小さな花火を連想させてくれた。
絞りf9.0、1/100秒、ISO200、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2020/11/27(金)
第523回:まだ10年早いわ!
 「悪いことなど何もしていないのに、何故か無慈悲に時間ばかりがやたら早く過ぎていく」と、嘆き節全開の今日この頃。加速度的に速くなっていく時間の経過に唖然としている。
 何事も時間とともに変化を遂げていくものだが、それにしても早すぎるとの感覚に悩まされている。何もできないうちに、気がつけばあっという間に時間ばかりが駆け足よろしく無為に通り過ぎて行く。自分のしていることを思い返しつつ、良否の判断もつかぬままに、こんなことをしていていいのだろうかと、得体の知れない罪の意識に苛まれたりもしている。 “自責の念にかられる” とはこういうことを指すのだろう。

 これは怠惰がもたらすものなのか、あるいは無我夢中であるが故のことなのか、その判別をしかねるので、なおさらの感がある。勤勉でないことは素直に認めるが、かといって贔屓目に見てそれほど怠け者でもないような気もするのだが、確信が持てないだけに、ぼくの懊悩はどんどん深まっていく。なんともやり切れない日々だ。

 「時は金なり」との格言や「時の経つのを忘れて」という言い方があるが、夢中であることに変わりなくとも、慰めにはやはりほど遠い。
 自分なりに上記したことの遠因を探ってみると、しなくてはならないことがたくさんあり過ぎて、身動きが思うに任せないからではないかとの思いに至る。
 限りのある時間を手際よく配分するための要領を得た知恵がぼくには著しく欠如しており、その結果ではないかとするのがどうやら妥当であるように思える。

 写真屋を志した時に、多趣味だったぼくは、「今こんなことをしている場合じゃない」とすべてを潔く捨てた。心血を注いだ分不相応に高額なオーディオ装置やアルピナ・チューン(BMWのレーシング仕様)を施した車、多量のLPレコードやライツ製カメラ(ライカ)やそのレンズ群も手放した。
 「こんなことにかまけていては、プロの写真屋になることなど到底覚束ない」との正しい認識をもって「覚悟のほど」を自身にも家族にも示さなければ身の置き所がないと悟ったからだった。したがって、ぼくの無趣味はなるべくしてなった結果でもあった。

 写真屋になってからも、趣味はこんにちまで復活することなく、未だ完全な無趣味人間を通しているが、良くいえば自身の思考をより豊かにしようとの読書や写真的な観察眼を養うための訓練は、「自分の写真を撮る」ための使命感に基づいており、烏滸がましくもそれを「精進」と置き換えてもいい。悪くいえば、汲々とした日々を送っているということでもある。
 他を顧みず、いくら写真ばかりに熱中しても、「一見して上手い写真」を撮ることは前進するだろうが、それはいわゆる “写真バカ” というもので、それが言い過ぎなら、 “写真の美にしか感応できない井の中の蛙” になってしまう。その度合いに比例して「良い写真」は遠のいて行くというのがぼくの持論でもある。

 過去何度か述べたように、ぼくは「上手い写真」より「良い写真」を尊重するし、また自分の写真もそうありたいと願っている。作品から作者の姿が窺えず、ただ上手いだけの写真は、ぼくに何の感動も与えない。「上手い写真」を撮るための腐心は、自我の発露である創作に何ら必要のないものだ。このことは、もちろん仕事の写真についてもいえることだが、私的な写真となると、ぼくの持論にさらなる優先権を与えてもよいと考えている。ぼくにとって私的写真に「上手い写真」など無用のものであると憚りなくいってきた。

 「良い写真」への願いに近づくためには、他の分野の美を学ぶことが必須だと考えている。能動的な読書(能動的なだけに、苦痛をもたらすこと多々ありだが、自身の精神年齢を維持し、向上させるには必要不可欠なものと考えている)や受動的な絵画・音楽鑑賞はぼくにとって趣味とはいえず、好きな落語をも含めて、すべてが「良い写真」に通じるための、いわば学びの道具と定めている。楽しむための趣味は、写真屋を続ける以上「まだ10年早いわ!」と、やせ我慢をしながら言い聞かせることにしている。
 時間のやり繰りが適わないのは、学ぶことが多すぎて、あれもこれもと欲が深すぎるのかも知れない。まさに、先日記した「多岐亡羊」の嘆(たん)ありといったところだ。

 今回は読者の方からいただいた質問について、お答えしようと思っていたのだが、1行目を書き始めたら例の如く異なる方向へ行ってしまった。まったくしょうがないやつだ。自分の舵取りもできやしない。
 「掲載写真についての状況をさらに具体的に詳しく述べて欲しい」とのご要望だったのだが、それこそ「多岐亡羊」となり、ただでさえ冗長なのに、それに輪を掛けてしまうことになりかねない。今日のように「尻切れトンボ」のようになる可能性大。ぼくは出し惜しみなど決してしない質であることを信じていただきたいので、機を見て応えるよう心がけようと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/523.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
芙蓉。ぼくは芙蓉を好んで撮る。花弁の透明感や葉脈、そのデリケートさに魅せられる。雨上がりの雲の間から一瞬微かな光りが射した。そのグラデーションの美しさに思わずパチリ。
絞りf10.0、1/40秒、ISO400、露出補正-0.67。
★「02さいたま市」
芙蓉。日没寸前の雨上がりなので、肉眼では一様に白く見えるが、僅かに残る夕陽(色温度が低い)とシャドウ(色温度が高い)が花弁に透けて写るはず。カメラは正直故に、Rawデータのホワイトバランスと色相はデフォルトで現像。
絞りf11.0、1/40秒、ISO400、露出補正-1.00。

訂正:前号第522回の掲載写真「01さいたま市」の撮影データを誤って記載いたしました。シャッタースピードが1/150秒となっていますが、正しくは1/15秒です。慎んでお詫び申し上げます。亀山哲郎。

(文:亀山哲郎)

2020/11/20(金)
第522回:道具を使いこなす
 写真屋を志す以前、ぼくは音楽とオーディオを専門とする出版社で働いていた。その分野では最大手だったが、その前に働いていた総合出版社より規模は小さくも、色々な点で小回りが効き、しかも出版分野がぼくの生活の重要な部分を占めていた音楽とオーディオだったので、結局11年間も居座ってしまった。落語の噺にある迷惑この上ない『居残り佐平次』のようなものだ。
 編集者としてのぼくは、会社にとって決して好ましい存在とはいえず、迷惑をかけることのほうが多かったと自覚している。
 
 ぼくが音楽(クラシック音楽)とオーディオに興味を持ち始めたのは亡父のお陰で、音楽は生まれた時からゼンマイ仕掛けの蓄音機(78回転のSPレコード)が狭い部屋のなかでベートヴェンやバッハ、ワーグナーを奏でていた。ぼくにとってそれは子守歌のようなものだった。
 京都から埼玉に越してからは父に付き合わされ秋葉原の電気街に通い、アンプやスピーカーなどの部品漁りをする父を横で眺めていた。当時の秋葉原は今とは様相が異なり、オーディオ好事家のメッカだったのだ。
 工業高校出身の父は、元々電気(弱電も強電も)に詳しく、家の配線も自分でしていたくらいだった。家にはハンダゴテ(スズと亜鉛の合金を熱で溶かし、電気機器などの部品を溶接・接合するためのこて)から発する煙の、一種独特のあの香がいつも漂っていたものだ。見よう見まねで、ぼくもハンダ付けの極意を学んだ。
 
 やがて青年期を迎え、ぼくは様々なものに首を突っ込んだ。オーディオ界で名機とされていた海外のアンプの回路図を手に入れ、それらを模したアンプ(真空管アンプ)作りに精を出した。それは心躍るような体験で、ぼくも父を真似て、秋葉原通いをするようになっていた。そうこうしているうちに、ぼくは知らず識らずのうちに前述した出版社に潜り込んでいたというわけだ。正式な入社試験を経ずして、正社員としてちゃっかり編集部の椅子に座っていた。ぼくはその伝で、インチキ社員だったといってもいい。

 編集者として従事しているうちに、ぼくは生涯の師と仰ぐべき人に出会うことができた。オーディオ評論家であり工業デザイナーでもあったS氏は並外れた審美眼と慧眼(けいがん。物事の本質を見抜くすぐれた眼力と鋭い洞察力)の持ち主で、音楽ばかりでなく、文学や絵画、カメラやレンズ(写真家木村伊兵衛氏の主宰するライカ倶楽部の一員だった)にも大変造詣が深かった。稀なる本物のインテリでもあった。
 また、損得に頓着することをひどく嫌い、良い意味で子供のような純真さを保持していた。そのために心ない人々から非難を受けたり、誤解されもしたが、彼はそのようなことには見向きもせず、自身の信念を貫き通した。生き方も不器用そのもので、ぼくはそんなS氏をオーディオの師として、また人生の師として仰いだ。もしぼくに “美意識” というものがあるのだとすれば、それは父とS氏によってもたらされたものだとの確信に至っている。

 某オーディオメーカーの広い試聴室で、S氏は月に1度、好事家(当時は、今では考えられぬほどオーディオに活気があった)を対象としたレクチュアを施し、特に “使いこなし” に力点を置いていた。如何に自分の道具を使いこなすかということだ。これは写真にも通じる。
 S氏の手さばきにより、持ち込まれたスピーカーの音が、あれよあれよという間に変化を遂げていく。鮮やかな手品を見るような思いで、聴衆は固唾を呑み、コンサートホールの特等席に吸い込まれていくような錯覚と幻覚をS氏は訪れた人々に惜しげもなく提供し、披露してみせた。
 スピーカーの有するポテンシャルを十二分に引き出していくS氏の見事な作法に、40〜50人の好事家たちはシーンと静まり返ったものだ。ぼくも編集者としてその現場に何度も立ち会っている。「スピーカーって、扱いと調整によってこれほどまでに変化するものなのか」との思いは、ぼくのオーディオ熱にますます拍車を掛けた。
 無機的なオーディオ・パーツに命を吹き込み、有機物に変えてしまうS氏のセンスと手腕に瞠目し、ぼくも斯くありたいと願ったものだ。

 S氏は天寿をまっとうすることなく46歳という若さで亡くなられた。ぼくも心の支えを失い、編集業に熱が入らなくなっていった。S氏の死は、父を失った10ヶ月後のことであった。心の拠り所をほぼ同時に失い、ぼくは失意のどん底にあった。そして、組織のなかで働くことは資質的な面ですでに限界を迎えていたこともあって、オーディオにも増して興味を持ち続けていた写真の道を選ぶことにした。

 オーディオで学んだことは、写真を学んでいく上で大いに役立ってくれたように感じている。そこには多くの共通点が見出せたからだった。オーディオは音を操り自身の音楽観や美学を表出するのに対して、写真は光を見極め、探り、操りながら、独自の世界観を表現する。
 思うに任せない苦悶は伴うものの、それを払拭するには「こんな愉快な作業はない」と思い込む他なし。写真は誰かに見せるものとの意識はまったくなく、自身を問うものだとの考えは変わらないが、父とS氏だけは、ぼくの写真を見て何というだろうかと、時々考えることがある。父には「坊主らしい」といわれ、S氏には「かめさんらしい」といわれることをぼくは密かに願っているような気がしてならない。

http://www.amatias.com/bbs/30/522.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
名は分からず。ほとんど原画のママ。陽はとっぷりと暮れ、小さな花が人目を忍ぶように咲いていた。孤独な佇まいに思わず惹かれて。
絞りf5.6、1/15秒、ISO800、露出補正-3.00。
★「02さいたま市」
カンナ。先月撮ったものだが、カンナは生命力が強いのか、まだちらほらと見かけることができる。Photoshopの「色相・彩度」で空をスポイトで選び、無彩色化して、明度を落とした。
絞りf11.0、1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2020/11/13(金)
第521回:終生撮ることのない薔薇
 被写体に相応しい花を渉猟するために半年ちかく近所を彷徨っていて、秋は見かける花の種類がめっきり減ったように感じている。晩秋に咲く花をネットや図鑑で調べてみると決して少なくはないのだが、近所限定では思うような発見ができず、少し寂しい思いをしている。

 あちらこちらで菊は見かけるのだが、ぼくは昔からどうしてもこの花が好みに合わず、レンズを向ける気にならない。菊人形とやらの、あのセンスもぼくには良い印象を与えず、受け入れがたいものがある。また、花をたくさん切り落として見世物に興ずるというのも気に入らない。もっとも、このことは菊に責任があるわけではないが、菊人形の美感にも、また人間のありようにも芳しいと思えるものが見出せないでいる。それらを総合してみると、菊とぼくは畢竟波長が合わないということになる。
 したがって、心血を注いでイメージの構築に乗り出そうとの気が起こらないのが必然というもの。そのようなことが頭をよぎると、どう撮っていいかの決定できず、敬遠する他なしということになる。結局は素通りしてしまうとの解釈がまっとうなのだろう。今盛りを過ぎた鶏頭(けいとう)も然りで、これも “その気” にさせてくれない。

 鶏頭を嫌う理由は、幼少時代に鶏に突かれ痛い思いをさせられたからだ。鶏のくちばしに突かれたのではなく、あの赤い鶏冠(とさか)に突かれたと勘違いし(実は大人にそういわれたから)、それ以来、鶏頭を見るとあの痛さが蘇ってくる。ぼくにとってあの鶏冠は、恐怖なるものだとの意識が自然に刷り込まれてしまった。
 幼少時代に受けた傷は、70年の歳月を経ても払拭できないものなのだろうと思う。これは貴重な教訓であろう。そしてまた、「おれはお前を無視することによって仇を討つ。撮ってやるものか!」との稚拙な潜在意識が心のなかに確実に存在していることをぼくはよく知っている。

 四季折々の花々は季節の変わり目を自ずと知らせてくれ、我々の目を楽しませ、また過去のさまざまな思い出を紡ぐありがたい所以ともなってくれるが、遠出の憚られる昨今にあっては、狭い範囲でそれを味わおうとするのは無理難題というものなのだろうか。晩秋特有の、どこか哀愁帯びた空気に輪をかけて、どことなく侘しく、心細い今日この頃。

 前述したこととは反対に、ぼくの最も好きな薔薇(ばら)は写真掲載していない。春秋に咲く薔薇はまったく撮らなかったし、夏の風物詩ともいえるひまわりはとても好きな花だが、撮るには撮ったが、1点を除いて(掲載)合点のいくものではなかったので、Raw現像すらしていない。
 ひまわりはアマチュア時代から何度か好んで撮影している。それらのうち何枚かはここで掲載したかも知れないが、モノクロのひまわり(アマチュア時代に4 x 5インチの大型カメラで撮影したもの)は記憶が定かでない。
 今、掲載写真をすべてひっくり返す余裕がなく、ひまわりのモノクロ写真については心許ないのだが、至近では第419回に足利市で撮ったひまわりは確認できた。ぼくにしては珍しくもひまわりをカラーで撮った初めての作品。
 余談ではあるが、仕上げはたまたま画像ソフト(独ON1社のもの。8年前からぼくの常用ソフトのひとつ)から別途提供されているテクスチュア(コンピューターで画像を合成する際、背景などに重ねて使用する模様や生地)を試用したもので、痛んだポジフィルムをシミュレートした。細かい調整が自由自在で、被写体によっては異なった雰囲気の表現ができる。名称は「Photomorphis Texture Bites」で、使い方は非常に簡単。ご興味のある方はぜひ一度お試しあれ。

 閑話休題。
 花の中で最も心惹かれるものは青年期よりこんにちまで薔薇である。花といえば「先ずは薔薇」というくらいで、ぼくはいつだって薔薇一辺倒である。
 多趣味だった亡父は何事に於いても徹底しており、薔薇の栽培に一意専心だった。今から半世紀も前のことだが、日本ばら会などの品評会で、常に賞を獲得していたくらいだから、家族はその煽りを食って大変だった。ぼくの学生時代(高校・大学)はぼくの友人たちが総動員され、農家から腐葉土などをリヤカーに積んで、よく運んだものだ。庭には鉄骨が組まれ、ペンキを塗らされたり、寒冷紗を張らされたり、土を掘らされたりと、土木・建築作業にこき使われたものだった。父は約2,000株の薔薇を丹精込めて育てていた。
 そこで成育された薔薇がどの様なものかをぼくはよく知っているので、「薔薇とはああしたもの」との固定観念ができてしまっている。父の育てた薔薇と近所に咲くそれをどうしても見比べてしまうという不幸に見舞われている。本物の薔薇がどのようなものかを知らされていたので、いくら薔薇が好きでも、本物以外のものに、やはりレンズを向けようという気にならないでいる。
 人の顔ほどもある名花シャルル・マルラン(赤味を帯びた黒薔薇)やピース(クリームイエローの花弁の先にピンクが載る優雅な薔薇)は薔薇の王者だが、風格や品格を備えた姿形の美しい立派なものは、高位の品評会などでしかお目にかかれない。父が逝って42年が経つが、ぼくはそれ以来薔薇を撮っていないし、これからも撮ることはないだろう。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
シロガネヨシ。逆光に輝くシロガネヨシ。もう僅かに上を開けたかったのだが、カメラを持ち上げなければならず(上向きにすると空が入ってしまう)、ジャンプして撮るわけにもいかず。身長が4cmも縮んだことが悔やまれる。
絞りf11.0、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
花の名分からず。農園の柵に絡みついていた。造形が面白く、風が収まるのを見極めて思わず撮ってしまった。
絞りf9.0、1/50秒、ISO400、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2020/11/06(金)
第520回:花との対峙
 昔からの仕事仲間が面白いことをいってきた。曰く「約50枚の、一連の花の掲載写真を見てつくづく思うのだけれど、かめさんのそれはますます図鑑的なものから真逆な方向に進み、遠ざかっている。忠実な再現を求められるコマーシャル写真とは一線を画し始めたとぼくは見ているのだけれど、違う? どんな心境の変化なの?」と。
 仕事上、忠実な再現を一途に試みてきたぼくとしては、彼の指摘は当を得ているし、またその言葉に勇気づけられたことも確かである。写真の際立った特徴のひとつである忠実性(何をもってして “忠実” とするかの定義は一旦さておき)には頓着せず、自身の主張や表現にこだわるぼくのありように彼は理解を示してくれているように思えた。

 ここ10数年来(50代半ばから)、ぼくは専門分野であるコマーシャル写真から意図的に距離を置くようになった。カタログ、ポスター、美術工芸品の図録や雑誌の世界から足を遠ざけるようになって久しい。経済的な損失は免れないが、それは十分覚悟の上で、コマーシャル写真ではなかなか適わなかったもっと自由な写真表現を求めることを強く望むようになっていった。ぼくとしては必然の結果である。仕事と趣味の同居は、かなり難しい面があるのは明白なことだった。
 自分が自分であることの証明を、あるいは生き様の論拠をプライベートな写真に求めざるを得なかったからだ。自己表現の手段としての写真は、ぼくにとってはそれが最も親和性を有していたということになる。言い換えれば、他の手段をぼくは持っていなかったともいえる。

 アマチュア時代を含めて、ぼくが写真に愛着を抱き始めてから、もうかれこれ60年以上の歳月が経つ。それにしては何も分かっちゃいないのだが。これをして「慚愧(ざんき。元々は仏教用語。自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと)に堪えぬ」という。つまり、「我慢できぬほどに恥ずかしいこと」という意。
 途中、あれこれと横道に逸れた(オーディオ、車、パイプ作り、模型などの趣味)ことはあるものの、一貫して興味と関心を抱き続けたものは、やはり写真が筆頭格だったのである。一番番頭の写真であるそのそそのかしに似た悪魔のようなささやきは、ぼくをすっかりその気にさせ、抗うことがどうしてもできなかった。趣味が高じて、「ミイラ取りがミイラになる」のたとえ通りにぼくは突き進んでしまった。
 一番番頭とは、我が家の、いわゆる “血統” のようなものに同位していたに違いない。と、ぼくはご先祖様にこの場を借りて、取り急ぎ責任の転嫁をしておく。

 写真で糊口の資を得ようなどという不埒で安直な考えは、得てして敬遠されるものだが、エゴの発達しすぎたぼくはそれを押し止めることができなかった。
 先ずは、プロにはプロの掟や約束事、流儀といったものがあるのだから、師匠に弟子入りしてからは、写真の技法を学ぶより先に、まずそれを習得する必要があった。「撮影技法は見て学べる」からだ。

 師匠の撮影を目の当たりにし、アマチュア時代に知ったつもりでいたことが、プロの世界ではほとんど通用しないことを知り、「こんなはずではなかった」と思い知らされたものだ。それ故、修業時代は(現在も)多岐亡羊(たきぼうよう。学ぶことが多方面にわたりすぎて、真理を得難いこと。また、道がたくさんありすぎて、どれを選べば良いか思案にあまること)にて無我夢中だったが、今思えばよほど辛かったとみえ、未だに当時の夢をよく見る。どれも悪夢に近いものだ。ぼくはこの種の夢に、命が尽きるまでつきまとわれ、悩まされ続けるのだと確信さえしている。きっとぼくは罰当りな人間なのだろう。
 目下、贖罪を果たすにはどうしたらいいのだろうかと、あれこれ気迷っている。写真により、善行を施そうなどとは思っていないから、選択の道はますます狭くなり、まことに始末が悪い。本人のあずかり知らぬところで、何某かのお役に立てることがあるだろうと信じることが自身への労りというものか。

 半年間花ばかり撮ってきたが、ぼくは終始一貫して、一般的にいうところの “きれいに撮る” ことを強く拒んできたし、「ではどのように撮るか」に悩まされもした。花は元々がきれいなものだ。それを誰もが撮るように写し取っても意味がない。それこそ、図鑑が目的ではないのだから。
 どのような被写体にもいえることだが、特に花は誰もが知るものなので、そこに一種の固定観念のようなものが生まれている。「ひまわり」といえば、それを見ずして誰もがその姿形を脳裏に浮かべることができる。花とはそのようなものの最たる存在でもある。
 その固定観念を打ち破り、「自身の花」を撮らなければ意味がないと言い聞かせると、花はますます厄介な被写体となる。つまり、「花を通しての自己表現」を完成させなければならないと、今までにも増してその使命感に迫られることになる。

 それを解決する手立てをぼくは知らないが、「自身の花」を撮ることを成就しようと試みるのであれば、より多くの花に接し、より多くのシャッターを切り、より多くの場数を踏み、より細かく観察することに尽きるのではないだろうか。そこにしかぼくの思いは至らない。
 武漢コロナも収まりを知らず、しばらくは近所を彷徨い、花との対峙を繰り返すことになるのだろうか。やれやれ、である。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
花の名は分からず。白色のとても良い香りのする花だった。滑らかな質感を醸すために、モノクロ化し、調色を施した。ぼくのモノクロは、花以前は僅かな暖色系を好んだが、花は何故か寒色系が好きだ。
絞りf13.0、1/50秒、ISO100、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
クチナシ。雨上がりの日没寸前。花の盛りは過ぎているが、その姿形と色合いに心惹かれて。
絞りf11.0、1/50秒、ISO320、露出補正-1.67。


(文:亀山哲郎)

2020/10/30(金)
第519回:年貢米の果報
 ここ何回か、ぼくにしては真面目に写真の話をしてきたような気がする。独断と存分立ての傾向はあるものの、「 “写真” よもやま話」らしさを多少は意識してのことだった。
 けれど、ぼくにとって毎回の写真話というのはどうも窮屈でいけない。息苦しさも感じるので、ここらで一旦肩の荷を降ろして、写真とは直接関係のない茶飲み話の類に走ってしまおうかとも考えるのだが、なかなかその勇気を奮い起こすことができずにいるというのが今の心境である。
 生来の生真面目さ(どこが?)が災いして、どうしてもそこに踏み切れない(よくいうわ!)でいる。

 今、ぼくの横長の机には2台のiMac 27インチが我が物顔で陣取っている。一見この壮観さは、持ち主がまるで写真かデザインの専門職であるかのような様相を呈しており、大仰すぎて我ながらどうにも体裁が悪い。そして、旧iMac(2010年に購入)と新参のiMac(今年9月に購入)の間を行き来しながら、右往左往している。まるでデザイン事務所のデザイナー諸氏のように、椅子を蟹の横ばいのように移動させながらの作業である。
 因みに今書いている文章は旧iMac を使用している。理由は単純で、新しいiMacには文章ソフトであるOffice Wordを入れていないからだ。今、旧iMacで使用しているWordは新iMacのOSには対応しておらず、やむを得ずといったところだ。旧iMacがお釈迦になるまでは、蟹の横ばいも乙なものだと負け惜しみをいってみたりもしている。
 
 パソコンというまったく不完全極まりない商品は(よくもまぁこんなものが商品として通用するものだと感心する。車なら即リコールである)、10年間の酷使によく耐抜いてくれたものだと思うが(Mac専用のメンテナンスソフトであるTechTool Proを定期的に使用してきた甲斐があってのことかどうかの因果関係は不明だが)、しかし最近は動作が緩慢になり、従来のスピードを取り戻せなくなった。まどろっこしい思いは、心身ともに良い影響を与えない。
 塵芥(ちりあくた)除去のソフトもいくつか試みたが、長い間にパソコンに付着し、蓄積した塵芥は完全に拭いようもなく、そう遠くない将来に終焉を迎えるだろう。一般的にいわれるハードディスクの寿命をとっくに越えているので、崩壊を予見しての新調であった。
 また、OSやソフトなど、古いパソコンでは対応できないものも出現し始め、「新しもの好き」の商売人としては、支障というか不自由が生じつつあった。これが買い換えを決めた大きな理由のひとつでもあるのだが、しかし最大の利点と魅力は何を置いてもそのスピードにある。このことは後述する。

 「十年一昔」というけれど、技術の進歩著しいこの世界では、10年を経たパソコンに不自由が生じるのは致し方ないことと諦めざるを得ない。消費者は、まるで年貢米を強要されるようで、ただ涙を飲むばかりである。パソコンは元々が不完全であるが故に、新しい物のすべてが良くなるわけではないところが、メーカーの落とし所でもあるので、油断は禁物である。
 ぼくはパソコンマニアではなく、あくまで仕事の道具としての完成度を求めているに過ぎない。したがって、「新しいパソコン(OS)ではこんなことができます」という御触書(おふれがき)にはほとんど興味なく、自身の暗室作業が如何にスピーディに、思い通りに運ぶことができるかに関心が注がれる。
 動作が緩慢(挙動不審はあまり生じなかったが)になることは、イライラが高じ、精神衛生にも極めて悪く、また「次の段階に進もう」との意欲を削ぐことにもなる。その伝だけは、ぼくは悠長ではいられない質なのだ。

 今回パソコンを新調して学んだことは、壊れる前に新しいものを購入するのが良策ということだった。当初、慌てて新しいものを購入せずとも、壊れてからでいいと決めていたのだが、データの保存に不備はないものの、さまざまな設定などを、旧製品を見ながら行えるという利点がある。
 旧製品を失ってからでは(あるいは、機能不全に陥ってからでは)、深い憂鬱とストレスに見舞われることになる。壊れる前に購入したお陰で、さまざまなデータ移行にも時間の節約を計ることができた。
 いつ壊れるか分からないのが機械というものの定めだが、パソコンは不完全であるが故の予防策として「そろそろ寿命間近」と感じた時が、買い換え時であるということだ。

 肝心の画像処理スピードを比較してみた。あくまで個人使用の機械なので、さまざまな要因(状況)が絡み合い、一概に客観的な結果とはいえない面もあるが、ある程度の目安はつけられるのではないだろうか。
 例えば、常時使用のソフトであるPhotoshopで約200枚の画像をバッチ処理(画像などをまとめて一括処理する方法)してみた結果、新iMacは旧iMacの約6〜9倍(平均すると7.5倍)の速さを稼ぎ出した。つまり、さまざまな条件に於いて、画像処理能力の平均は今までの1 / 7.5で済むということになる。これはかなり驚異的な数値であり、省線電車(今のJRの前が国鉄。国鉄の前の呼称が鉄道省。その前は鉄道院。ぼくの生まれた頃は鉄道省といった)と新幹線の違いほどもある。
 時により、500枚近くをバッチ処理することも少なからずあり、まさに「時は金なり」と、ぼくは欣喜雀躍、相好を崩しっぱなしである。数字は合理的な理由となり得るので、このような年貢米であれば、進んで奉納しようではないかとの気にさせられる。やはり、悠長なことはいっておれんわ。

http://www.amatias.com/bbs/30/519.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
グラジオラス。きれいな赤とピンクの色合いなのだが、夏の気怠く息苦しいなかで咲く花の生命感を表出したいと、冷色系のモノクロとした。
絞りf14.0、1/320秒、ISO100、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
カンナ。この写真を撮ったのは7月中旬だが、カンナは生命力が強いのか、10月下旬になってもまだ咲いている。梅雨の最中、傘をさして撮る。
絞りf11.0、1/30秒、ISO320、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2020/10/23(金)
第518回:柔らかな光は宝物
 美術工芸品や企業の製品撮影全般を、業界用語で “物撮り(ぶつどり)” と呼ぶ。業界用語を門外の人たちに向けて用いることは、ぼくの良識や生活感情から著しく逸脱するのでとても心苦しく、また無作法なことと承知しているが、説明のため一時的に使用せざるを得ず、お目こぼしいただきたい。
 業界用語というものは、 “隠語” や “符帳” とは意味が異なるので、それを得々として用いる人のセンスをぼくはいつも疑ってしまう。

 “物撮り” はコマーシャル写真の一部分だが、目的はポスターやカタログ、あるいは雑誌でのさまざまな種類の紹介記事など(最近はWebも含まれるようだが、ぼくはWeb用途の撮影は何故か未だ縁がなく、せいぜい紙媒体用に撮ったものを担当者が流用する程度)、その用途は多岐に及ぶ。他に料理、ファッション、ポートレート、建築などがコマーシャル写真の分野に含まれる。

 “物撮り” は特別な理由がない限り、通常 “柔らかな光” で撮影される。 “柔らかな光” とは光学的原理から “光源の面積が広い” ことを意味する。光源の面積を広くするために、トレーシングペーパー越しにタングステンランプやストロボを使用したり、アンブレラに光をバウンス(傘バンという。これも業界用語かな)させたりして、光源の面積を広げる。天井バウンスもその一種。 “柔らかな光” は、物を美しく見せる光質であることを写真屋(もしくは写真に長じた者)は経験上知っている。
 面積の広い光源は陰も柔らかくなり、薄くなる。逆に “硬い光” とは、 “光源の面積” が小さいことを指す。スポットライトなどの点光源はこの典型といえる。陰は硬く(輪郭がはっきりしている)、濃い。つまり、光源の面積が狭く小さくなるほど、被写体のコントラストは高くなるという理屈である。

 この原理を自然界に当てはめてみると分かりやすい。つまり “光源の面積が広い” とは、曇り空、もしくは雨降りの状況下であり、点光源である太陽光が雲により拡散された状態である。雲がトレーシングペーパーの役目を果たしてくれ、空一面が大きく広い光源となる。
 反対に、雲ひとつない天気を “ピーカン” (大辞林に出ているので、現在では業界用語ではないようだ。「野外撮影現場の俗語。直射日光の当たる快晴の状態」とある)といい、コントラストが強く、撮影には良い条件とは言い難く、不向きである。何故不向きかというと、太陽のような点光源に照らされた被写体は濃度域が広すぎて、フィルムもしくはデジタルの再現領域に収まらないからだ。被写体の状況によっては、ハイライトは飛び、シャドウは潰れ、という悲惨な状況に見舞われる。ただし、色の彩度は上がるので、美しい紅葉を鮮やかに撮りたければ晴天下に限る。

 高コントラスト下に於ける厄介な現象を防ぐ手立てはある。撮影時の露出調整と暗室作業が最も良い手助けとなることは論を俟(ま)たない。過去、何度か拙稿にて述べたことがあるが、デジタルの露出決定はフィルムとは逆に、ハイライト基準(白飛びをさせぬように露出を制御すること)である。
 余談だが、仕事の関係者のなかには未だ「今日はよく晴れて、撮影には持って来いですね! よかったですね」と、嬉々としながら仰る方がいる。時にはぼくに同意を求めてくることさえある。そんな時、ぼくはいつも黙して「スカタンのワカランチン! ピーカンはダメなんよ、勘弁してよ」と悲しい顔をして見せるのだ。こういう編集者やデザイナー、たくさん、たくさんいらっしゃいます! 全体、何たることか!

 上記のようなことを喋々喃々(ちょうちょうなんなん。つまらぬことをしきりに喋ること)と説いたのは、武漢ウィルスのため遠出が憚られ、家の近くで花ばかり撮ることになったためである。花をどのような条件下で撮っているかを知っていただく(読者諸兄からのご質問も複数あったので)ためだ。

 そのような生活を始めたのは4月からで、もうかれこれ半年ばかりの花三昧ということになる。プライベートで、しかも野外で花一途というのは初体験なのだが、振り返ってみると仕事でライティングをして花を撮ったことが大いに役立っている。
 野外の自然光下で、花をどのように撮るかはその時の光質により臨機応変に対応しなければならないが、直射日光に照らされた花は、色こそ鮮やかに再現できるが、コントラストが強く撮りにくい。
 したがってぼくは、敢えて曇り空や雨降りの時を選ぶことが多い。特に雨降り時は、色の鮮やかさは多少犠牲になるが、花弁に水滴が付き、別の趣が得られるので、これを好んで撮る。掲載写真にも水滴付きが多いと思う。
 そして、直射日光下をできるだけ避けるのは写真屋の本能のようなものなのだろう。修業時代からこんにちまで、ライティングに身を預けてきたこともあり(ライティングにより写真の品質の半分は決定されてしまうとの世界で生きてきたので)、思い通りにならない自然光はぼくに恐怖さえ与える。自然光を何とかして牛耳ろうなどという悪賢い心胆は持たぬが良い。直射日光下では、せいぜいレフ板(白や銀紙を貼った反射板)のお世話になるくらいが、自然に対する賢慮というものだろう。
 あるいは、陽が傾き始め、花に直射光が当たらぬ時間帯に素早くいただくのも良い方法だ。前もって「この花」と決め、「モデルになってください」とお願いしておけば、程好いシャッターチャンスに恵まれること請け合いだ。柔らかな光は宝物である。

http://www.amatias.com/bbs/30/518.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
曇天下のダリア。背景をどれほど柔らかく描写して、ダリアを浮き上がらせるかに注力。
絞りf7.1、1/100秒、ISO100、露出補正-1.33。
★「02さいたま市」
コスモスの一輪撮りは無風状態でないとなかなか難しい。この日は風があり、今年初めてのコスモスは集合写真。
絞りf8.0、1/250秒、ISO200、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2020/10/16(金)
第517回:デジタルは自家製フィルム
 前号、実はぼくにしては珍しく、先に標題を掲げてから本文に取りかかろうとした。たまには多少の責任感を持って、いつもの「出たとこ勝負」や「書いてみなければ何が出てくるか本人ですら分からない」とのいい加減な態度を改め、標題について考慮しながらキーボードを打ってみようと決意した。

 その標題とは『往年の名フィルムとデジタル』(わざわざ二重括弧にする必要もないのだが)というものだった。カラーはあくまで「カラーポジフィルム(スライドフィルム、もしくはリバーサルフィルムともいう)」を指す。
 昔から一般に広く使用されているネガカラーフィルム(フィルムベースがオレンジ色のもの)は対象外である。その理由は、ネガカラーフィルムはプリント専用フィルムであり、プリント時にカラーの調整ができ、フィルム本来の特徴が直接認識しにくい面があるからだ。色調や濃度などが、プリントの加減次第で如何様にもコントロールできるので、プリントを見て「これは何々フィルム」と言い当てるのは不可能に近い。
 色調や再現域がダイレクトに視認できるカラーポジフィルムとはここが決定的に異なる。カラーポジフィルムは色調の調整ができず、いってみれば本来のフィルムが持つ特色が生(き)のママに現れる。フィルター操作を除けば、調整する余地がなく、全責任を撮影者が負うのがカラーポジフィルム。
 そしてまた、ネガカラーフィルムに比べ、カラーポジフィルムは、露出や色温度に極めて敏感で、いわゆる「オタク仕様のフィルム」、もしくは「好事家向け」といったところだ。扱いにくいが、熟練すれば素晴らしい味わいを発揮する。
 先週は、そのようなフィルムについて述べようとのぼくの固い決意を余所に、肝心の標題についてあれこれ考えるうちに疑念が湧き、気持が揺らいでしまった。

 「往年の名フィルム」について、述べたいことは多々あるのだが、よくよく考えてみると、それはいわゆる “老人の繰り言” に近いものになってしまうのではなかろうかとの恐れがあった。あるいは “老人の繰り言” とまではいかずとも、「誰もそんなフィルムを知らない」とか「使ったことがない」とかね。
 となると、とどのつまり多くの人々が興味を抱いていないことを知りつつも、ぼくは滔々と、古き良き時代を惜しみながらあれこれと主張を繰り返すのだろう。そして懐かしむ気が勝ち、やはり一種の “老人の繰り言” である「昔は良かった」との常套句を声を震わせながら連呼した挙げ句、揶揄されるのがオチなのではないか。そこで、遺憾ながら固い意志は脆くも崩れ去ってしまった。

 しかし、やはりどうしても思いを断ち切れないので、印象深かったフィルム(ぼくを育ててくれたといっても過言ではないフィルムの名称など)を “一老人の記憶” として、ここにメモ程度に記しておきたい。読者諸兄のなかにはフィルム派がおられるかも知れないから。

 最も長い間使用したのは米コダック社のモノクロフィルムであるTri-X(トライ・エックス。ISO感度400。ぼくは半分の200で使用)で、18歳から使い始めていた。当時決して安くなかったこのフィルムを使いたいがために、せっせとアルバイトに精を出していた。
 今まで使用していたモノクロフィルムに比べ、理由は分からなかったが、立体感というか空気感のようなものが今まで以上に表現できると感じ、デジタルを始めるまで半世紀以上もこのフィルムのお世話になった。
 使用条件の自由度も高く、現像時間による調子のコントロールにも優れていた(現行モデルについては知らない)。何十種類もの現像液(ほとんどが欧米の参考書による自家調合)で試してみたが、最終的には濃縮現像液のHC-110(コダック製)による階調の豊かさがお気に入りであったため、20年近くこの現像液を愛用していた。

 当時99%以上の人々が何の疑いもなく使用していたコダック社のD76現像液は、ハイライトがブロック(寸詰まり。階調飛び)する傾向にあり、ぼくはどうしても好きになれず、ほとんど使うことがなかった。後にアンセル・アダムスも同様の意見を述べているのを知り、ぼくは大いに気を強くしたものだ。
 ある大きな組織の会合で、データを示しながら「D76はTri-Xの良さを殺いでいる」と弱輩ながら公言して憚らなかった。他人の受け売りで、科学的な実証もせず、この世界にはバカげた都市伝説が未だに幅を効かせている。ぼくたちはそんなまやかしに乗せられてはいけない。

 カラーは、コダック社のコダクロームとエクタクロームを主に愛用したが、それとは別に、冷戦当時の東ドイツで使用したオルヴォ(Orwo。東独製。近代のカラーフィルムを開発した独アグファ社の前身)の印象は忘れがたい。おおよそ「忠実度」からはかけ離れているのだが(この点ではぼくの大好きなポラロイドも然り)、独特な風合いと重厚な色調にうっとりさせられた記憶がある。あの色調をデジタルで再現できればどんなに素晴らしいことだろうと思っている。半世紀前のOrwoは終生忘れがたく、未だ脳裏に焼き付いている。カラー写真の概念が良い意味で覆されたフィルムだった。英イルフォードや独アグファにも思い出深いフィルムがあったが、それに触れているとメモどころではなくなってしまうので、残念ながら割愛。

 デジタルはフィルムより色の忠実性は勝っていると思われるが、味わいという点に於いて、良し悪しを別としてもフィルムには適わない。デジタルの優れたところは「自分の色探し」ができることだろうとぼくは考えている。つまり、自分自身のフィルムを作れる可能性が大いにあるということだ。それを棄て置く手はない。今はそのような時代なのではあるまいか?

http://www.amatias.com/bbs/30/517.html
          
カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: FE24-105mm F4L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
どしゃ降りのなか、カメラにハンカチを乗せて撮る。花弁に付いた水滴をきれいに写し取るためにアングルを慎重に選ぶ。僅かな加減で水滴は豆電球のように点いたり消えたりする。彼岸花は何処に焦点を合わすかがとても難しい。
絞りf14.0、1/80秒、ISO400、露出補正-1.33。
★「02さいたま市」
朽ち果てた白い彼岸花。化け物か妖精が踊っているようで、どこかおかしい。
絞りf8.0、1/20秒、ISO600、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)