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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2022/12/16(金)
第623回:晴れて鉄道博物館(13)
 水際立ったことではなく、すでに分かりきったことなのだが、写真に限らずどの様な分野でも、“先ず基本ありき”から始まる。基本をないがしろにすれば、“労多くして功少なし”ということになる。基本を疎かにしたり、顧みることをしなければ、進歩はおろか、その人は堂々巡りに陥り、病膏肓(やまいこうこう)に入る。
 そしてやがて、病魔に冒され倒れる。倒れたことに気のつかぬ人も時折見かける。しかし、この厄介な病の初期症状に気のつかない人は、自己流による自己満足・独善という底なし沼にはまり込む。これが、通り相場というもの。
 結果、作品は品位を失い、普遍的な美に無頓着・無理解となり、そこには、遊泳術に長けたあざとさだけが残る。凡庸なほうが、まだ質が良く、救いがあり、好感さえ持てる。だが、他人と異なることを個性と勘違いした独善的な作品から脱出するためは相当な労力を要し、なかなか容易なことではない。
 これは、プロアマに限らず、物づくりをめざし、憧れる者の宿痾(しゅくあ)というべきものかも知れない。そして、厄介なことに、自分の体臭は、自分では気づかぬものだから、なおさらである。

 このような作品を写真展などで目にすると、ぼくは他人事(ひとごと)ながら、いたたまれぬ気持に襲われるが、もうこれ以上嫌われたくないので、「大きなお世話だよね」を自らに強く言い聞かせ、悶々としながらも、じっと口をつぐむことにしている。
 そのような人に限って、問題指摘をすると「表現の自由」めいたものを振りかざし、それを拠り所として憚らないからかなわない。物づくりは試行錯誤の繰り返しだが、試行錯誤が試行錯誤に終わり、そこに沈殿していることに気づいていない。これが前述した堂々巡りというもの。そして、「表現の自由」の論点が、まったくずれていることにも気づいてくれない。なので、ぼくは賢明にも、幼少時のだんまり(前号にて記述)を決め込み、そこに立ち返ることにしている。敢えて「弱り目に祟り目」に遭おうなんて思うほど勇敢でもないし、そのような粋は持ち合わせていないもんね。

 と、もっともらしいことを述べているが、これは自省と自戒の念を込めてのことであり、“先ず基本ありき”は、大仰にいえば、ぼくの座右の銘といってもいい。これなくしては、前に進めないと思っている。そして、迷った時には、長い間風雪に打たれ、耐え抜いてきた古典作品を“先ず顧みる”ことを是としている。「古典に帰る」を心に刻み、自己の様子を窺う。
 「古典に帰る」とは、古いものを何の批判もなく受け入れるのではなく、そこにある普遍的な美しさの発見に努め、自身の体質に合ったものを虚心坦懐に学ぶ、という意味なので、誤解なきよう。そして一方で、「作品は、常に時代とともにある」というのもぼくの持論である。
 このことは、何度いってもいい過ぎということはなく、他人事で済ませることでもない。何故かといえば、症状の悪化に見舞われた人、そうありつつある不幸な人たちをぼくは数多く見ているからだ。したがって、「人の振り見て我が振り直せ」という、少し冷ややかで厳しい格言は、誰にとっても良薬であり、ぼくの目には生きたものに映る。

 物づくりを試みる人は、自分なりの新しい秩序を求めて、試行錯誤を繰り返すのだが、それがある程度のものに確立するその過程には、様々な葛藤や混乱が生じる。「葛藤」とは、広辞苑によると「心の中に、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の欲求や考えがあって、その選択に迷う状態」とある。
 そんな時、ぼくは同じことの(基本の)飽くことなき繰り返しが(退屈極まりないが)、やがて結論を導き、自分特有のトーンを生み出し、実を結ぶものだと信じている。ぼくのような凡庸な人間にはそれしか頼るところがないことを直視すれば、たとえ作品が未熟であっても、ある程度の納得がいく。

 個性というものを変哲と勘違いしている人の多くは、自身のアンニュイ(退屈、気怠いさま、憂鬱なさま)や一本調子を感知していないので、見せられるほうは、少しも腹の足しにならず、やはり評価に値しないと断を下してしまう。写真展などで、こんなぼくにでさえ作品評をしろと迫られると、ぼくは本当に弱ってしまう。

 「写真をしっかり撮る」ことの難しさの前振りとしては、あまりにも長く書き過ぎたと反省しきりだが、60数年かかっても思うようにならないので、ぼくは写真を続けているのだとは、あまりに弁解のし過ぎであろうか?メカ的な技術は誰にでも一通り身につくものと思いがちだが(一応他人にはそのように諭す)、それがあに図らんや、なかなか成るものではない。そんな時の、ぼくのうろたえようは、我ながら呆れる。一体お前は何年写真に取り組んできたのかと。だが、他人にそれを悟られまいと振る舞う技術はすでに心得ており、それは十人並(凡人という意)ではなく、立派に一人前なのである。

 よしんば一通りメカ的な技術を修得したとしても写真は成り立つものではなく、センスとのバランスを欠いては絵にならない。「技術に負けている」との評に甘んじざるを得ず、これはややもすると、前述したあざとさに抵触しかねない。
 昔、拙文で「技術とセンスのバランス」について述べた記憶があるが、センスの修得となると、こちらは途方もないもので、他人に伝えることは、ぼくはほぼ不可能だと思っている。自ら学ぶとしかいいようがないのだが、方法はいくつかあるように思う。それらを少しまとめて発表できればいいのだが。

https://www.amatias.com/bbs/30/623.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105 F4L IS USM。RF16mm F2.8 STM。 
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
前にも紹介した1号機関車(1871年英国製。国鉄150形蒸気機関車)。1905年に英国より輸入され、新橋工場内に於ける入れ換え専用として働いた。質感を重視し、しっとり落ち着いた雰囲気をイメージ。
絞りf13、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.33。

★「02てっぱく」
C57の前面を超広角レンズで、思いっきりパースをつける。ハイライトの加減に留意し、露出補正を決める。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.67。

(文:亀山 哲郎)

2022/12/09(金)
第622回:晴れて鉄道博物館(12)
 先週、何年ぶりかで神田神保町に出向いた。友人2人に会うためだったが、皆の住んでいる中間点が便利であろうと、そこにある喫茶室で落ち合うこととなった。
 その喫茶室は、社会人になってから何度か通ったミニシアターの草分け的な存在である岩波ホール(今年7月に閉館)に隣接し、都営新宿線神保町駅から地上に這い出るまで、ぼくは何故か運悪くエスカレーターに見放され、何百段の階段を登らざるを得ず、年老いたジジィはもう息も絶え絶え。まさに、這々の体であった。あれこれ嘯(うそぶ)いていた普段のウォーキング、あれは一体何だったのだ? どこへ行ってしまったのか? 小さなバッグに入れたカメラが、ことさらに重く感じられた。

 この界隈は、中学時代から非常に馴染みのあるところだ。今のように地下鉄が蜘蛛の巣のように張り巡らされていなかった頃、ぼくは国鉄(現JR)御茶ノ水駅で下車し、明大通りを下り小川町に出、そこに居並ぶ古書店を練り歩き(主に写真関係の雑誌や書籍を物色)、駿河台にあった管楽器専門店(ぼくは中・高と吹奏楽部に所属し、大学では管弦楽部だった)に通うことを常としていた。時には父の命(めい)を受け、明治大学の図書館に本を借りに行ったりもしていた。
 そして、一通りの用を済ますと、気の向いた時には、というよりかなり意欲的に神田須田町にあった交通博物館(1936〜2006年。昭和11〜平成18年)に立ち寄ったものだ。ぼくにしては、毎度かなり規則正しい手順を踏んでいた。

 この頃のぼくはまだ若く(当たり前)、休日でも午前中に床を蹴り、上記の目的をしっかりこなしつつ、息切れもせずに、首からカメラをぶら下げて闊歩していたのだから、熱意と向学心に満ちあふれた正しい青春時代だった。
 お茶の水詣での一方、カメラ関係はもっぱら銀座通い(後に新宿と地元の量販店となったが)が常で、ぼくはあっちこっちに出没しなければならず、これでもけっこう忙しかったのだ。

 写真と音楽にかまけ、当然のことながら、学業はそっちのけの体で、今思うと、教育熱心だった父はぼくの行状に頭を痛めたであろうことは想像に難くないが、それを口にしたり、咎めたりしたことは一度もなかった。手厳しさと寛容(平たくいえば、恐さと優しさ)のバランスが非常に整っていた父だったが、「母・娘」の特別な関係と異なり、「父・息子」の男同士の関係は、最大公約数的見地からして、敵(かたき)同士に似ており、良しにつけ悪しきにつけ、ある種の作法のように、不要な遠慮をするものなのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。それは、「親しき仲にも礼儀あり」の変形版といったようなものかも知れない。親子に限らず、男同士というものは、顔を合わせるとどこかに照れが存在しているものだとぼくは感じている。

 今となって、ぼくの、道楽への暴走をどうして押し止めてくれなかったのかと、父に逆恨みめいた感情を抱いてもいる。ぼくが、まともな社会通念を持ち得なかったのは、父のせいだと責任転嫁の権化となっている。けれど、もし社会通念に囚われていたら、ぼくの人生は堅実を以て、情趣に乏しく退屈至極、つれづれを慰めることは間違いのないことというのは言い過ぎだろうか。
 それを思うと、「お互いに上手くやったな」と、75歳を来月に控え、亡父との和解が少しは進んだような気がしている。

 その父が、どのような手を使ったかは未だに不明だが、交通博物館に置かれてあったC12形蒸気機関車の精巧な模型(Oゲージ。縮尺1/45)を、ぼくのクリスマスプレゼントのために、せしめてきた。
 いつの頃だったかはっきりした記憶はないのだが(おそらく小学校2年の頃)、当時の値打ちにしたらかなりのものだったろう。第一、博物館に陳列してあるものを幾ばくかで譲ってくれるものなのだろうかとの素朴な疑問が残るのだが、あの父だったらやりかねない。生き方や交渉事は非常に不器用であったが、日本語の使い方には恐ろしく長けていたので、相手をやんわりと懐柔したか、あるいは根気強く拝み倒したのかは定かでないが、重量感溢れるC12の模型をぼくの枕元に置くことに成功したのだった。彼は、まんまと「やってこました」(どこの方言?)のである。

 京都から埼玉に越して以来小学校3年生まで、ぼくは限られた人間にしか物言わぬおかしな子供になっていた。主な理由は、住む地の変わったことによる環境の激変で、いわゆるカルチャーショックだったのだが、そんなぼくに対して、父はよほど心を痛めていたのだろう。ぼくは、何人かの精神科医の診察を受けたりしていたのだが、一向に効果が見られなかった。ぼくは依然黙りこくったままだった。
 考えあぐねた父は博物館で、もしかしたら、息子のために、藁にもすがるような気持で、一世一代の、伸るか反るかの大博打を打ち、結果「やってこました」のだった。彼は、ぼくをも蒸気機関車で懐柔を目論んだのだが、その試みは1/4ほど功を奏したように思われる。ぼくはそれでは飽き足らず !? 小学校4年になってすぐに、カメラと野球のグローブをそれとなく要求し始めた。今度はぼくが父を懐柔する番だった。

 無事、念願のカメラとグローブを手に入れ、そして担任の先生も物言わぬ子供への理解を示してくれたこともあり、それを機に、ぼくはだんまり症を完全に克服し、今までの分を取り戻すべく、活発な少年へと変身を遂げた。写真という特効薬は、一種の精神安定剤と活性剤の両面を果たしてくれたのだった。ぼくの駄文が、冗舌でコテコテなのは、きっとその時の後遺症なのであろう。

https://www.amatias.com/bbs/30/622.html

カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。 
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
40系電車。1932〜1942年(昭和7〜17年)にかけて製造。父は「省線電車」と称していた。
この電車に初めて乗ったのは京浜東北線だった。モーター音は未だに、明確に耳に残っている。
当時の車内のイメージを模して補整。
絞り5.6、1/8秒、ISO 2000、露出補正-0.33。

★「02てっぱく」
C57の動輪。被写界深度を浅く、柔らかく表現。刻印部分にピントを合わせる。
絞りf3.5、1/15秒、ISO 3200、露出補正-0.33。
 
(文:亀山 哲郎)

2022/12/02(金)
第621回:晴れて鉄道博物館(11)
 人は何歳まで記憶を辿れるものなのだろうか? 個人差もあるだろうが、おおよそのところ3歳前後ではないかと思われる。ぼくの、この定義はもちろん学術的なものではなく、また人間科学的なものでもない。ただ自己の経験による推測である。
 何故、このようなことを言い始めたのかというと、初めての鉄道乗車(京都市内の路面電車を除く)の記憶があまりにも鮮烈に脳裏に焼き付いているからだ。
 その時、車窓から眺めた風景は、まさに童謡唱歌にある『汽車ぽっぽ』であり、その一節、♪スピード スピード 窓の外 畑も とぶ とぶ 家も とぶ♪ のように、網膜に映し出されたあらゆるものが、あたかも激しい目眩に襲われたかのように焦点の定まる暇もなく、次から次へと目まぐるしく宙を飛び交い、生涯経験したことのないような速度で瞬間移動をしていたのだから、それは驚愕以外の何ものでもなかった。ぼくは窓にへばり付き、景色を追うこともできず、唖然としていたのだろう。それが、ぼくの、人生初の、視覚がこびりついた記憶である。

 その乗車体験は、2~3歳時に、父に連れられ奈良に住まう友人宅(以下I氏)を訪ねた際に起きたことだった。時は1950〜51年頃(昭和25〜26年頃)で、そこで乗った近鉄京都線奈良行き(関西は国鉄より私鉄のほうが発展している)の恐るべき速さに、上述の如く、子供心ながらに仰天し、異次元の世界に引き込まれた。
 おそらく、ぼくの生涯にとって、忘我の境に入った最初の体験であり、息を呑むような思いでもあった。

 その超絶的な快感を得たいがために、ぼくは父に奈良行きを強くねだるようになった。I氏もぼくを殊のほか可愛がってくれ、いつも肩車をして東大寺や若草山に連れていってくれたものだ。I氏宅の生け垣には小さな穴がぽっかり開いており、ぼくはそこから入り込むのが好きだった。
 若草山のびっくり体験(編み上げの革靴では、若草山のつるつるした芝の上は歩きにくく、ぼくは何度も転がった。後に知恵がつき、裸足で登るようになった)も忘れがたい思い出だが、それを書き出すと話がとんでもない方向へ行ってしまうので、ここは隠忍自重。
 十銭紙幣(A号券と呼ばれるもので、1947年に発行され、1953年に無効)に描かれた鳩の絵が、気持ち悪いと泣き叫ぶぼくを、I氏は「鉄道を見に行こう」、「大仏様を見に行こう」と懸命になだめてくれたことも記憶に残っている。
 なかなか「写真」の二文字が出て来ない。「隠忍自重」などといっておきながら、何という体たらくだ。
 ぼくの頭は至って安普請だが、記憶力は40歳くらいまで尋常の出来ではなかったと自負している。今、その並外れた記憶力は、♪記憶も とぶ とぶ 念も とぶ♪ であり、嗚呼、まったく洒落にならない。

 上記したぼくの目眩は、そのような速い乗り物を体験したことがなかったからこそのものだが、これはぼくに限らず、また時代に関わらず、多くの人が子供の時の乗車初体験で味わうものではないかと思う。もし、そうでなかったら、よほど可愛げのない子供だと決めつけていいだろう。
 そして、返す返すも、『汽車ぽっぽ』は麻薬的な響きを伴い、リアリティに溢れた童謡唱歌であることを実感する。この感覚は衰えを知らず、ぼくは、新幹線に乗る度に、胸をワクワクさせながら堪能している。

 東京駅を発ち、新横浜を過ぎた辺りから、徐々にアクセルを踏み込みスピードをアップしていくあの感覚はたまらない。尻の辺りがモゾモゾする。なるべく早いうちに、とにもかくにも、ぼくは320km/hの東北新幹線に乗りたくてたまらないのだ。もちろん、好きな東北地方への撮影行である。おっ、やっと写真らしき話に入れるか。
 ただぼくは、目下撮り鉄ではないので、野外で走り来る鉄道を撮る気持はない。自分独自の表現をする自信もないし、また如何に上手に、恰好良く、しかも勇壮に撮っても、ポスターや宣伝写真の域を出られないような気がしている。それはぼくにとって意味のないことだ。ただそれだけの写真なら、ぼくが撮る必然性のようなものを感じないし、興味も湧いてこない。したがって、今撮り鉄にはなり切れないのだ。

 そしてまた、ひねくれ者の、古参の写真屋からすれば、痒いところに難なく手が届くような昨今のカメラは、なんだか “痛し痒し” の面が多いのだが、少なくとも技術的には「腕の見せどころ」が極めて限定されるので、どうにもやりきれないでいる。
 長年培ってきた技量が、いとも簡単に自動でできてしまうことを嘆いているのではない。それどころか、楽で確かなものは大いに利用すればいいとさえ思っている。だが、撮影に際しての、一種のレジスタンス(抵抗や困難さ)のようなものが、どうしても必要な場合があるとぼくは考えているので、その “痛し痒し” をどうにか解決しておかなければならない。
 文明の利器を上手に使いこなすのは、現代人の宿命ともいえるが、それ以上に重んじたいことは、自分の生き様に向き合い、それをどのように表現するかにあるのだと思う。

 暗い「てっぱく」で、車輌を凝視しながら鉄道の歴史を知り、それに携わってきた鉄道人に思いを馳せる時、とても感慨深いものがある。歴史や人物を身近に感じられるうちは、歓びを持って『汽車ぽっぽ』を口ずさみ、シャッターを切ることができそうだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/621.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
9850形蒸気機関車の機関室。現像補整で、意図的に簡素化し、象徴的な部分のみ敢えて白飛びさせている。
絞りf6.3、1/10秒、ISO 5000、露出補正-1.00。
★「02てっぱく」
ぼくの好きなC51(1919年、大正8年製)の機関室。塗装はして欲しくないなぁとつぶやきながら。
絞りf7.1、1/20秒、ISO 8000、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2022/11/25(金)
第620回:晴れて鉄道博物館(10)
 「てっぱく」シリーズも、止(や)ん事ない理由で、とうとう10回になんなんとしている。だがおあいにく様、「好きこそものの上手なれ」とはなかなかいかない。写真も鉄道も好きなのだが、そうは問屋が卸してくれない。世の中、それほど甘くはないようだ。それをいやしくもぼくはここで実証し、みなさんに晒していることも承知している。それは、自虐でも謙遜でもない。ぼくの正直な直感がそういわせている。
 被写体に対する理解は、撮影を手助けし、良い写真を撮ることの一条件であることは重々認めるが、好きであることと理解することはまったくの別物であるということを、今回改めて露呈してしまった。写真も鉄道も好きなのに、ぼくは逃げ場を失った。10回も続けてきて、ぼくは今、慚愧に堪えない。

 ともあれ、ぼくはおどおどしながらも心を躍らせ、初めての「てっぱく」に突入した。館内をざっと見渡し、並み居る強者ども(展示物)を丹念に検分してまわり、ふたつの予期せぬことに戸惑いを覚えた。
 そのひとつは、復元された年代物の客車内があまりにも綺麗すぎることだ。博物館の展示物が、いわゆる年代物である時、本来は、古び、色褪せ、汚れ、傷つき、そのためにそれが辿ってきた歴史を、来場者は五感を働かせ、想像したり、ロマンを感じたりするものだ。少なくともぼくはそうだ。

 博物館や美術館の展示物に、修復や復元はつきものであることは、ぼくとてよく理解しているつもりだが、ぼくの尺度からすれば、鉄道車両は自然のなかで厳しい風雪に打たれながら活動してきたが故に、なおさら「新品同様」の装いはどこか違和感を覚えずにはいられない。
 遠慮がちにいえば、「少しやり過ぎではないか」との思いを隠しきれない。博物館に「苦言を呈す」とまではいかないが、ロマンとリアリティの匙加減が、どこかちぐはぐしていると感じるのは、ぼくの思いが強すぎるからなのだろうか。

 そしてもうひとつぼくが首を傾げてしまうのは、蒸気機関車の見せ場である動輪、主連棒、連結棒など、本来はむき出しであった素材に塗装が施されているものがあることだ。元は塗装などされていなかったと思うのだが、どうなのだろう? たとえ「保護」の目的があったにしろ、塗装のために金属特有の質感が失われてしまうのは、一写真屋の嗜好からして、考えものだと感じる。

 すべての蒸気機関車ではないが、創生期のもの(1号機関車や弁慶号)のそれには塗装がされているので、塗料が “生きていた頃” の面影や生傷を覆い隠し、そのためにリアリティや躍動感を失い、どこか玩具化されてしまっているように思えてならない。
 あの無慈悲なる塗装は、年増女の厚化粧を思わせ、非常に好ましくない。それがために、主連棒や連結棒に打たれた刻印(創生期のものにも打たれているとすればだが)を塗りつぶしてしまうという大罪を犯している。もしかしたら、塗装は錆止めのために塗られていたのかも知れないが、であれば、ここは剥げたままでいいので、塗り直さずに、油で磨いて欲しいものだ。
 展示物は、可能な限りオリジナルな姿を保ち、保護していこうとの姿勢はもちろんあるのだろうが、いくら美形であっても、厚化粧の女性を撮ろうとの意欲を殺がれてしまう。
 模型ならいざ知らず、本物の機関車として撮影するのは気が引けてしまったのである。撮るには撮ったが、現像する気にすらならないでいる。失意とはこのような状態を指すのだろう。

 ぼくは今回を機に、「刻印マニア」という風変わりな性癖を持つ人々の存在を知り、彼らの気持ちや期待を察するに、塗装を呪う気持がよく理解できるようになった。鉄道ファンとは、やはり一方ならぬ多趣向人間の集団であるとぼくは改めて感じている。時刻表を諳んじることができる人もいると、巷でいわれるくらいだから。
 そしてまたぼくも、主連棒や連結棒、クロスヘッド(シリンダー内のピストンの動きを、主連棒に伝える部品)などに打たれた不揃いの刻印文字を見ながら、さまざまな想いにふけることができることを再確認したが故に、「刻印マニア」の気持が痛いほど理解できる。「刻印友の会」でも、立ち上げるか! 
 我が倶楽部の、ぼくに無断で京都の梅小路に抜け駆けをした薄化粧のM女史も「刻印マニア」の一員で、「東京駅の『動輪の広場』に置かれているC62の動輪廻りにもちゃんと刻印があった」と、ぼくを出し抜いた罪悪感からか、鼻を膨らませながら、贖罪気取りでそう伝えてくれた。

 中学時代に大宮の機関区に立ち入り(60年前は斯様におおらかだった)、機関士さんに刻印について訊ねたことがある。濃紺の作業衣を纏った彼は、笑みを浮かべながら、「まぁこれはね、悪戯書きのようなものなのだけれど、落書きではない。部品間違えをしないための大事な名札のようなものでもあるんだよ。君に名前があるのと同じようなものさ」と教えてくれた。油で磨かれた金属のあの美しい光沢感は、今も脳裏にしっかりと刻印されている。
 塗装で覆われたものを、「想像力で補え」といわれれば、返す言葉はないが、写真は正直者故、いくらAI化が進んでも、厚化粧を剥いで、素顔を写すほどの器量は持ち合わせていない。

https://www.amatias.com/bbs/30/620.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4L IS USM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
ナデ6141。大正3年(1914年)製の電車内部。通勤電車の元祖で、2017年に重要文化財に指定された。カラー原画はとても美しいのだが、外観とのバランスがチグハグで、敢えてセピア調のモノクロに仕上げた。
絞りf5.6、1/15秒、ISO 8000、露出補正-0.67。

★「02てっぱく」
マイテ39。昭和5年(1930年)製。戦前は東京〜下関間の特急「富士」の一等展望車として使用され、戦後は特急「つばめ」「へいわ」に使用。外気に開放された展望デッキを持ち、京都に帰京の際に、東京駅でその後ろ姿を見るのが楽しみだった。
絞りf8.0、1/8秒、ISO 4000、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2022/11/18(金)
第619回:晴れて鉄道博物館(9)
 「写真のことなど、何も触れずに、ただひたすら我が道を行く。嬉々として蒸気機関車のことばかり書いている! 君はホントにいい性格してるよなぁ」と前号について、ぼくの周囲の、粗探しの好きな、どちらかというとあまり性格の好ましくない取り巻き連中にそう茶化された。
 ぼくも、原稿を書きながら、自分の勝手放題に感心していたくらいなので、まったくの同感。感心などしている場合じゃないのだが、しかし、もうとっくに自覚しているので、敢えて指摘されても、馬耳東風で済ますことができる。ぼくには、「だから何なの?」と開き直る余裕さえあった。

 「写真を律儀に掲載しているのだから、それでいいじゃないか」と、襟を正しながら!? 喉元まで出かかった言葉をぐっと呑み込んだ。そこには得体の知れない余裕のようなものが生じていた。呑み込んだ理由として、「律儀な掲載」といいつつも、それはぼくの勝手な仕業で、体の良い逃げ口上として、あるいは写真屋としての男振りをどこかでしっかりと上げておこうとの魂胆だったのかも知れない(もしかしたら、1週毎に2枚の写真掲載は、ぼくにとって荷の勝ちすぎたことで、それ故大事な男振りを “下げて” いるのかも知れないが)。「墓穴を掘る」って、こ〜ゆ〜ことなのだろうか?
 だがしかし、思ったことや感じたことを咄嗟に口にせず、一呼吸置いてのんびり対応するとの、至難の業を会得するには、ぼくはまだまだ発展途上にあるのだが、 “時と場合により” その真似ごとくらいはできていると思いたい。この連載のお陰で、年相応の成長を遂げつつあるぼく。「我田引水」って、こ〜ゆ〜ことなのだろうか?

 「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」と、どこか性格の陳(ひ)ねた、というよりひん曲がった、ある種、屁理屈だけが頼りの人々から自己を守ろうとするのは苦痛であり、時にひどく疎ましくもあるのだが、邪険にするのもどこか心が痛む。彼らだって、多少の可愛げがあるし、人間の本性は善であり、悪の行為や考えは、環境による意志の弱さによるものだそうだから、すぐにかばい立てをしたくなるぼくは、寛容といえるが、とても損な性分ともいえる。寛大というのも、時と場合によっては考えものだと感じている。

 性善説はさておき、今年9月9日にふらっと「てっぱく」に出向いたのだが、“こんなこと”になるとは当初予想もしていなかった。「3回くらいの連載で」と軽く考えていたのだが、その3倍も書き連ねており、これを称して、「焼けぼっくいに火が付く」と世間ではいうらしい。
 火を付けた罪深き者は、我が倶楽部の面々であり、彼らはぼくの知らぬ間に「てっぱく」やら、ぼくの故郷である京都は小雨の梅小路(ここに「京都鉄道博物館」がある。蒸気機関車の宝庫であるにも関わらず、ぼくがそこに行かなかったのは、それほど鉄道に疎遠となっていたからだった)にまで、こっそり足を伸ばしている。そして、「夜の先斗町で、ほれっ、ついでにこんなスナップも撮った。どうよ!」と、何食わぬ顔で、そのプリントをぼくの目の前に晒すのだ。京都弁も喋れないくせに。

 ぼくが無用の用に刺激され、それに倣い、「若かりし頃、今はなき『交通博物館』(東京都千代田区神田須田町にあり、2006年まで営業。翌年よりさいたま市の「てっぱく」に引き継がれた)に何十回も通ったのだから、地元にできた『てっぱく』に行ってみるか」と意を決した。そこで、極めて暗い(との噂)ながらもしっかり写真を撮って、取り敢えず指導者もどきとしての沽券をしっかり示し、若さを取り戻そうとの気概があった。
 
 武漢から漏れ出た長引く疫病のため、自由に出かけることがままならず、近くにある花ばかりを撮っていたここ2年余り。花の撮影は、奥深いものがあり、興味もあるのだが、ぼくには、どちらかというと元々縁遠い被写体であったため、不遜ながらもいささか食傷気味となっていたことは否めない。なんとか浮気の正当な理由を欲していた。
 そんな時の「焼けぼっくい」は、無意識のなかで、根が好きなだけにやはりくすぶり続けていたに違いない。見て見ぬ振りをしていた無理が祟り、ぼくの「鉄道大好き」は一気に噴出したようだ。特に、「陸蒸気」(おかじょうき。明治時代に呼ばれた「蒸気機関車」の俗称)には、首っ丈(くびったけ。すっかり惚れ込んで、夢中になること。今、こんな言い方するのかなぁ?)である。

 平日だったためか、「てっぱく」の駐車場は思いのほか空いており、館内の混雑を窺わせぬその雰囲気にぼくは胸を撫で下ろした。年老いて心の琴線が弛みかけ、百戦錬磨だけが取り柄のジジィが、胸の高鳴りを抑えきれずにいたくらいだから、その心情を察していただきたい。
 バッグからカメラを取りだし、レンズを装着し、鉄道の「指差し呼称」さながらに、カメラの設定をし(ボタンやダイアルが多すぎるんだってば!)、息を整えぼくは戦場に赴いた。

 撮影モードは、EOS-Rシリーズから装着された便利で有用この上ないFv(フレキシブル・バリュー。マニュアルとオートのいいとこ取りをしたハイブリッドな使い方のできる機能)AEモード。ぼくの使い方は、任意のf値、任意のシャッタースピード、任意の露出補正をあらかじめ設定し、ISO 感度だけをカメラ任せにし、適正露出を得るという方法。使用カメラの優れたISO高感度特性により、暗所の「てっぱく」で安心して使える。この点に関しては、ひと時代以前のものとは、隔世の感ありといったところだ。
 ボタンやダイアルをカスタマイズしておけば、サクサク使える。ただし、何をどうカスタマイズしたかを忘れなければの話だが。
 昨今のカメラは、使いこなすほどに、なるほど便利この上なく、痒いところに手が届くような仕掛けがなされており、加え高齢者のためのボケ防止機能までメーカーは用意してくれていることを知り、すべて手動で育ったぼくなど感慨無量である。「命長ければ蓬莱に会う」(ほうらい。不老不死の地)と思いきや、「命長ければ恥多し」ともいう。たかがカメラではないか、難しいことは言いっこなしだ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
第613回でも登場したストーブ列車。今回はローアングルで。20年以上も前のイメージは、頭のなかですっかり古び、渋くなっている。
絞りf10.0、1/4秒、ISO 8000、露出補正-0.67。

★「02てっぱく」
やっぱり美しい陸蒸気。この動輪が急勾配で空転し、息も絶え絶えに客車を引いていた。
絞りf5.6、1/10秒、ISO 1250、露出補正-2.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/11/11(金)
第618回:晴れて鉄道博物館(8)
 蒸気機関車のプロポーションを成す印象的なパーツは、何といってもあの大きな動輪や主連棒・連結棒(シリンダーの動力を、往復運動から回転運動に変えるためのロッド)にある。電気機関車や電車、そして新幹線などのそれとはそもそも動力伝達方式や形状が大きく異なり、あの大きく格好の良い動輪は見る者に対して特有な感情を呼び起こす。鉄道ファンでなくとも、蒸気機関車の動輪や主連棒・連結棒に魅せられる人はきっと多いのではなかろうかと思う。

 そして、幼児言葉でいうところの「汽車ぽっぽ」や「シュシュポッポ」は、煙突から煙をもくもくと立ち上げ、シリンダーから蒸気を噴射し、象が腰を上げるような重々しいリズムで走り出す。「さぁ、行きまっせ〜!」(ここは関西言葉が最適)との、こんな堂々たる気概を直に示してくれるものは、蒸気機関車をおいて他に見当たらない。「汽車ぽっぽ」という言葉は、小柄の蒸気機関車か、原初の頃の、例えば前回の「弁慶号」などのまだ可愛さの残ったそれを想起させる。
 大人の!?蒸気機関車は、この世で最も大きな音とも思える汽笛、というより勇壮な雄叫びを上げ、沿線の住民に如何なる遠慮会釈もなく、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」とばかり、地響きを立て、煤をまき散らしながらの、堂々のお通りである。
 あの姿を見ていると、「あんな生き方をしてみたいものだ」とか、それほど大胆でなくとも、小心者のぼくなどもう少し控え目に、「一度くらいはあのように振る舞ってみたいものだ。一度でいいからさぁ」との気にさせられる。

 そしてまた、山々にこだまするあの汽笛は、まるで名手の吹き鳴らす管楽器のように美しく響き渡る。全身全霊、あらん限りの力を振り絞りながら驀進するあの様は、まさに感動的ですらある。鉄道ファンが、あの雄姿に群がるのは、然もありなんというところだ。
 現代にあって、汽車の実際の活動は限定的だが、美しくも勇猛で、人間臭紛々としたあの佇まいを、いつまでも後世に残して欲しいと切に願うばかり。

 我が倶楽部にも動輪中毒のご婦人(ぼくは彼女を「ドーリンM子」と命名)がおられることはすでに述べたが、ぼくとて、中学時代に与野駅や大宮駅の操車場で、何十輌も連結された貨車や客車が動き出す瞬間に、蒸気機関車の動輪が恐ろしい速さで空転するのを初めて目の当たりにした時の驚きは、今も鮮やかに脳裏にこびり付いている。ぼくが動輪に一方ならぬ想いを抱き、あの時がいわば「ドーリンの哲」になった瞬間でもあった。今から60年も昔のことである。

 一緒にいた鉄道好きの学友とともに空転する動輪を見て、「ウォーッ!」と声を上げ、「今の見たかい! おれたち、すごいもの見ちゃったな!」と、顔を見合わせながらひどく興奮したものだ。予期せぬ御利益に動転した中学生のぼくらは、もちろん写真を撮るどころではなかったのだが、「逃がした魚は大きい」とは思わなかった。それどころではない驚愕だったのだ。
 動輪の空転時間は、おそらく2〜3秒くらいのものではなかったかと思う。人生のなかの、その2,3秒が、ぼくの年輪の成り立ちに何らかの影響を及ぼしているのだと感じる。それは、生涯決して忘れ得ぬ瞬間でもあったのだ。
 いやしくも写真屋となった今、空転する動輪をそれらしく撮ってみろといわれれば、かなりの用意周到さを必要とするだろうが、一度でそれを “らしく” 撮る自信はない。

 ぼくは知らなかったのだが、東京駅の八重洲に「動輪の広場」というものがあって、そこに蒸気機関車として最後に製造されたC62形の動輪(動輪径はC57形と同様175cm)が3つ展示されているそうだ。その写真を、今や「同じ穴の狢(むじな)」である「ドーリンM子」がこれ見よがしに送ってくれた。M子も哲も善人であるので、ここでのこの諺引用は誤用か。
 それはともかくも、C62形にまつわるぼくの思い入れは尽きぬものがあり、書き始めると取り留めのないことになってしまうので、今回は良識を示し、簡略に努めたい。第一、写真もないし。

 最大、最強の蒸気機関車C62形が初めて製造されたのは、昭和23年(1948年)なので、ぼくと同年である。この大型蒸気機関車は世界最速の時速129キロを記録した韋駄天(いだてん。バラモン教の神。転じて、足の速い人)でもあった。
 小学〜大学時代の、季節の休みには、母方の郷里である京都か、父の仕事場でもあった軽井沢のどちらかでぼくは過ごしていた。年に何度かは、C62形(東海道線)やアプト式電気機関車(横川ー軽井沢間の碓氷峠)のED40形のお世話になっていた。
 8時間で、東京駅ー大阪駅間を走った特急「つばめ」と「はと」は、東海道本線全線電化(昭和31年。1956年)まで、C62形が牽引機を務めた。その後を継いだのがEF58形電気機関車だった。

 残念ながら、さいたま市の「てっぱく」にぼくと同い年のC62形は置かれておらず、現存する5両のうち3両が京都鉄道博物館に保存(1両は動態保存)されているのは、何かの因果因縁かとぼくは勘ぐったりしている。京都は梅小路にも行かなくっちゃ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
C57形の動輪と主連棒。光沢の部分に色が塗られていない(ありがたい)ので、質感とともに刻印がしっかり見える。
絞りf7.1、1/15秒、ISO 10000、露出補正-1.00。

★「02てっぱく」
C57形。こちらも刻印がたくさん見える。古い汽車は保存のためか、塗装されてしまっているので、リアリティに欠け、写真的にはあまり面白くない。
絞りf7.1、1/13秒、ISO 3200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2022/11/04(金)
第617回:晴れて鉄道博物館(7)
 読者の方や本稿の担当氏から、ぼくの最後のお気に入りだった電気機関車であるEF58形が、先月30日より「てっぱく」にて、もう一両(61号)新たに常設展示されるとのご報告をいただいた。鉄道開業150周年の賜か。
 「てっぱく」には、すでに同形の 89号が鎮座しており、ぼくはその雄姿を20数枚撮ったが、外観写真は1枚もものにならなかった。つまり、撮影の段階で何かが間違っているのだが、見逃したもの(原因)を今のところ発見できずにいる。
 憧れた女性の写真をうまく撮れず、身の置き所を失い、体裁を繕いながら縮こまっている惨めな姿に似ている。「似ている」のであって、「重なって」いるわけではない。
 余計な話はさておき、EF58形を撮った写真を検討するたびに、「おまえ、違うだろ。どこを見てる! なんでこんなにつまらぬアングルになってしまうのか。ファインダーを覗いた時に気がつきそうなものなのに。このスカタン!」と、振られた腹いせに20数回も声を尖らす。嗚呼、この自虐的な姿、みっともないったらありゃしない。

 この悲痛な叫びは、確実にぼくの脆くなった老体を内攻し、サラミスライス戦略のように命を確実に削り取っていく。どれほどまで持ち堪えることができるだろうかと案じながらも、夢と憧れ多き鉄道博物館で、寿命を縮めるようでは、洒落にならぬ。「まったく様にならないよなぁ」と、9月初旬の訪問以来嘆くことしきり。ぼくにとって、「てっぱく」再訪は勇気の要ることと気がついた。

 新たに展示されたEF58 61号は、1953年(昭和28年)に「お召し列車専用機」として製造され、2008年(平成20年)まで、現役として働いてきたとのことだ。「お召し列車」としての仕様に従って様々なものが仕立てられ、いつしか「ロイヤルエンジン」と呼ばれるようになったそうだ。
 実物も、模型も、どうにも思い通りに撮れなかった、曰く因縁尽くのEF58形だが、ぼくはどうあってももう一度「てっぱく」に行く必要があるようだ。そうなると、すでに疎遠となっている鉄道に、根が好きなだけに、再び病を得るようなことになりかねない。武漢コロナにより中断している「 “年間パスポート” はまだか」と、その再開を心密かに願いつつ、そんな戯(ざ)れ言を吐いている。

 しかし、ぼくの鉄道熱や知識などは、子供の頃に得たそれと何ら進展しておらず、本来あるべき鉄道ファンの足元にも及ばない。彼らにくらべれば、ぼくの知識などしれたものだ。 “本物の” 鉄道ファンの知識や熱は、まったくもって狂気の沙汰という他なし。畏敬の念さえ覚えるくらいだ。英語で、 “enthusiast” という言葉があるが、それに相当すると思える日本語が見つからない(熱狂者、熱中しているひと、愛好家などなど、いずれもぼくの感じるニュアンスとはちょっと違う)のだが、まさに彼らは “enthusiast” というに相応しい。熱心な鉄道ファンの話を聞くにつれ、「世の中にはたいしたひとがいるもんだ」と感心しきり。

 最寄り駅の沿線(浦和駅から与野駅付近)や線路上の歩道橋に群がりカメラを構える子供たちやおっさんたちの姿を目の当たりにするにつけ、半狂乱(失礼!)であることの仕合わせを実感するのだ。そしてぼくは、走り来る車輌を撮ることの興味を、今やまったく持ち合わせていないことを知る。それは多分、その類の撮影に興味が失せたのではなく、車輌に感心を示さなくなったのだろう。そして、ごく一部であろう撮り鉄の、不躾で、無礼極まりない身勝手さを知るにつけ、ぼくの心は萎えていくのだ。

 「てっぱく」には、ガラスや透明アクリルの類が多く(ここから写真の話に入る)、必然的にそこに何かが映り込んでくる。その映り込みを作画に利用するもよし、あるいはそれを取り除きたければ、偏光フィルター(PLフィルター)を用意すればいい。
 ただし、「てっぱく」は悪霊に取り憑かれたかのように暗いので、光の量を減少させる偏光フィルターは、極めて分が悪い。露出でいえば、約1絞り半〜2絞り分変化するので、スローシャッターを用いるか、もしくはISO感度を上げるしか方法がない。絞りを開けるという方法もないわけではないが、それでは被写界深度が変化し、撮影時に描いたイメージが否応なく変化してしまうので、これは邪道ととらえるべし。
 いずれにせよ、偏光フィルターは嵩も取らず、常時バッグに忍ばせておけば何かとお役立ちの安心ツールである。

 反射の除去について、最も効果の期待できる角度は被写体の平面に対して斜め30〜40度であり、真正面からでは効果がない。フィルターを回転させることにより、映り込みの程度(濃淡)が変化するので、程良いところを選べばいい。
 一眼レフ以外のカメラで使用する時は、ファインダーでは効果が確認できないので、フィルターを目の前で回転させ、イメージに合ったところをレンズにかざせばよい。なお、スマホではモニターで確認でき、使うことは可能ではあるが、不器用なひとは落とす可能性があるので、お勧めしない。また、偏光フィルターは経年変化し、メーカーによると、通常の使用状態、保存状態で7年前後だそうだ。

 偏光フィルターを購入した我が倶楽部のご婦人曰く、「このフィルターって何回シャッター切るまで使えるの?」。「偏光フィルターが、シャッター回数を数えてくれるんかい!」とぼく。身近にもぼくの心身を蝕むようなことを平然というひとがいる。「てっぱく」だけでも、一杯一杯なのに。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
弁慶号(7100形)。1880年(明治13年)、北海道の官営幌内鉄道の開業にあたり、アメリカより輸入された。
絞りf5.6、1/8秒、ISO 400、露出補正-1.33。

★「02てっぱく」
日本に現存する唯一のマレー式機関車(スイスの技術者アナトール・マレーに因む)の9850形。製造1912年(大正2年。ドイツより輸入)。牽引力に優れ、曲線を通過しやすくした「関節式台枠」を採用。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.33。

(文:亀山 哲郎)

2022/10/28(金)
第616回:晴れて鉄道博物館(6)
 60年来の友人が危うく轢かれそうになったという電気機関車EF58形(1946−1958年までに172両が生産され、1980年代に営業運転から撤退)は、ぼくが憧れた最後の車輌だった。そして、この車輌は電気機関車としては、今までのデッキ付きを廃し、流線型を採用した最初のもの(異形のEF55形を除く。今回の掲載写真)だった。すでに記述したが、EF58形が地元の路線から姿を消した頃、ぼくは鉄道への興味を失い、そしてそこから遠ざかっていった。

 ぼくの最もお気に入りの電気機関車(ぼくらの子供時代には、子供も大人も “デンカン” と称した。省略言葉を極力嫌うぼくは、小学校の時から、 “デンカン” という嫌な語感に大きな抵抗感を持っていたので、使用したことはない)は、EF53形(1932−1934年に19両が生産)で、大きなデッキ付きの、そしてリベットで身を固めた、これ以上にない実に格好のいいデンカンだった。
 これを撮りたいがために、ぼくは中学校に隣接した新潟鉄工所の際で、カメラをぶら下げて線路脇を走り回っていたのだが、ドジな友人と異なり、危ない目に遭ったことは一度もなかった。いわば、場をわきまえた、正しい元祖撮り鉄だったのである。今から60年ほど前の話だ。その時に撮ったフィルムやプリントはおそらくどこかへ消失し(もしかすると、家捜しをすればあるかも知れない)、残念ながら手許にないことが悔やまれる。ぼくも、他人のことはいえず、やはりドジな奴なのかも。

 デッキ付きの、この格好いいEF53形は、現在群馬県の「碓氷鉄道文化むら」と広島車輌所(こちらはカットボディ)に静態保存されており、2018年に世界遺産の富岡製糸場(ぼくの希望を適えてくれなかった珍しい世界遺産)を訪問したついでに、「碓氷鉄道文化むら」のある横川駅に足を伸ばし、EF53形にお目にかかるつもりだったのだが、連れが何人かいて、碓氷第三橋梁、通称めがね橋(重要文化財)やアプト式鉄道跡(ぼくは少年期から青年期にかけてここを何十回も往復している。現在、線路が取り払われた部分は遊歩道になっている)を先に訪れ、そこで時間を取られてしまい、「碓氷鉄道文化むら」の営業時間に間に合わなかった。
 二度と行くことのない富岡製糸場で費やした時間をどれほど恨めしくも腹立たしいと思ったことか。富岡の街のほうが、ずっとフォトジェニックなものを発見できるだろう。少なくとも、ぼくはそう感じた。今、当時の恨み辛みを並べ立てているが、ぼくはEF53形を撮り逃したことが、痛恨の極みなのだ。
 今回の「てっぱく」訪問をきっかけに、眠っていた子を叩き起こされたぼくは、もう一度、どうしてもEF53形にお目通り願いたく、来年にでも機を見て「碓氷鉄道文化むら」を訪れたいと思っている。

 さて、EF58形にまつわるぼくの写真的大失敗談を述べると前々回で述べたにも関わらず、前回にて書き損じたので、今回改めて述べる。写真の基本として大切なことなので、恥をものともせず、しかと綴っておく。
 今ここで、ぼくのかつての鉄道模型熱について述べると、何ページあっても足りそうもないので、それは後回しにして、まず「ギャーッ!」という話を。写真の話だかんね!

 多くの気の良い大人たちを言葉巧みにたぶらかし、ぼくは中学2年時に、発売されたばかりの、憧れのEF58形電気機関車の模型(HOゲージ。Oゲージの半分の縮尺)キットを手に入れた。それは多くの部品を組み立てる真鍮製のキットで、極めて精度の高いものだった。子供の小遣い程度ではなかなか手にできぬもので、当時、既製品はまだ発売されていなかった。
 それ故、黄色いテカテカの、真鍮むき出しの模型は、それぞれがエナメルで好きな色に塗れと仕様書に記してあった。ぼくは色を塗る前に、出来上がったその雄姿を先ず写真に収めるべく、買って間もないキヤノネット(第613回参照)で、本棚の上に飾ったEF58を線路に乗せ、正面から30度ほど斜めに置き、真横のアングルから、三脚を使い撮った。当時ぼくには、同じ物を何枚も撮るという知恵も習慣もなかった。写真は1枚撮ればすべてよしと考えていたし、フィルムの値段も馬鹿にできなかった。
 撮影後、ぼくは胸を躍らせ、近所にあった信頼すべき写真店にネオパンSS(フジフィルム製ISO100のモノクロームフィルム)を持ち込んだ。歩いて7,8分の距離にあるその写真店まで、下駄履きで突っ走って行ったことを覚えている。

 ぼくは精一杯張込み、カビネサイズ(120 x165mm。当時は65 x 90mmの大名刺サイズが一般的だった)にしてもらい、プリントされたEF58の写真を見て、まさに驚天動地の大混乱。ピントを合わせたEF58の顔以外は、すべてボケボケで、「なんだ、これは!」と、気を失いそうになった。機関車の末端部分までしっかりと写ることを頭に描いていたので、まったくそうでない写真の出来映えにぼくはすっかり落胆し、狼狽え、その日の夕食が喉を通らなかったことを今でもよく覚えている。

 翌日は日曜日だったことも覚えている。よほどの衝撃だったに違いない。ひとは生涯に、決して忘れ去ることのない出来事をいくつか経験する。この味わいもそのうちのひとつだ。
 ぼくは意を決し、父に写真を見せ、「と〜ちゃん、なしてこぎゃんなっちしもうたっちゃろう? 教えてちゃ」と泣きついた。
 父は、中学生のぼくに嚼んで含めるように、丁寧に、しかし難しい日本語遣いで、そして不器用な標準語の発音で、赤子を諭すような調子で教えてくれた。ぼくはこの時、初めての写真用語「被写界深度」というものに出会い、それが何たるかを学んだ。キヤノネットはシャッター優先AEで、しかも室内撮影。レンズ開放値はF1.9。三脚を使ったとはいえ、カメラはきっとf1.9 を指示したのではないだろうか?

 60年後の今、人様の写真を見て、「ドジ、マヌケ、スカタン」を連呼するぼく。父は東京大学やケンブリッジ大学でインド哲学の教鞭を執ったことがあるが、ぼくが人様に何かを伝えるのは、知識の問題ではなく、人格としてまったく不具合で、相応しくないということだ。そんな人間が、しかつめらしくも(まじめくさって、堅苦しい感じ。如何にも道理に適っている様子)、616回も回を重ねているのだ。なんか、おかしいね。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
文中にある「異形のEF55」(1936年に3両制作)。北浦和駅の開かずの踏切でこれに初めて遭遇した時の形容し難いほどの違和感。「なんじゃ、このカッコウは。カッコワル!」。今は、ただただ懐かしい。天井ライトの写り込みと背景の映写スクリーンを意識して。
絞りf6.3、1/15秒、ISO 2500、露出補正-0.67。

★「02てっぱく」
同EF55の横腹。双方とも、現像方法の一種である、いわゆる「銀残し」(Bleach Bypass)を撮影時にイメージ。
絞りf7.1、1/15秒、ISO 3200、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/10/21(金)
第615回:晴れて鉄道博物館(5)
 いつまで「てっぱく」の話を続けるのか、書いているぼく本人もよく分からない。根が単純そのものであり、しかも楽天的でもあり、 “出たとこ勝負” を生きることの旨としているので、だからぼくは愉しくもおめでたいのだ。それをして、他人はぼくを無責任とか無軌道な奴などとおっしゃるが、然に非ず、父の口癖であった「人生は取り敢えず」に痛く共感し、それに従って生きてきた。それはぼくにとってまことに好都合な、しかも大切な教えでもあり、物の真理であると感じている。こんな心強い味方は他にあろうはずがない。なにしろ「真理」なのだから。

 あらかじめ人生の設計図を描き、敷かれた規定通りの線路の上を自制を利かせ転がっていくなんて、退屈で窮屈の極みではないか。不如意に出くわさないよう、安全な規定(線路)に自己を囲い、外れることなく身を縛るのは、少なくとも物づくり屋の精神にはまったく合わない。百人百様の生き方を極力尊重するが、ぼくには “出たとこ勝負” が生きやすく、似合っているということなのだろう。
 ぼくは父の言葉を座右の銘とし、その教えに従順であろうと努めているに過ぎない。そんなぼくを不料簡と罵る輩は、「人生は取り敢えず」という哲学の奥義や、仏の教えなどに、まさに “縁なき衆生は度し難し” といったところだ。

 「てっぱく」には4時間の滞在ながらも、ぼくは童心に返り、そして無我夢中となり、子供時分に鉄道に関連した様々な事柄について教えてくれた人々の姿が(主に父と叔父や中学時代の学友。当時は秋葉原の「交通博物館」が学習の主だった場であり、そこに足しげく通ったものだ)、シャッターを切る度に、走馬灯のように、次から次へと浮かび上がっては消えていった。
 と同時に、ぼくから鉄道の趣味を奪った元凶はどこにあるのだろうかと、その犯人捜しにも躍起になっていた。もちろん、ぼくの心のなかで犯人はとっくに御用となっているのだが、その確証探しを「てっぱく」で写真を撮りながらしていた。ぼくは忙しかったのだ。

 「やっぱり犯人はお前たちか! 直ちにここから去れ!」と、憤懣遣る方なく独りごちた。ここで、犯人を槍玉に挙げるような恨めしいことはしないが、ぼくの鉄道離れは、懐古主義によるものではなく、自分にとって「何が美しいか」の一点に集約される。それが唯一の指標である。
 坊主は、「とーちゃんは、かつての鉄道を懐かしんでいるのであり、今の子供たちは気の毒だとの見方は間違っている」と指摘する。坊主の言い分の3分の1くらいは素直に認めても良いが、「てっぱく」で、子供や若者に人気のあるものは、ぼくが鉄道好きから遠のく以前のものであるように見受けられる。ぼくの、彼らに対する刑事のような目配りは鋭く、犯人を多角的に捜そうとしていた。勝手な能書きはこのくらいにして、前号からの続きね。

 ISO感度を上げることによる弊害は、ざっくりいえば画質の劣化に尽きるのだが、特に昨今はAI(人工知能)の進化により、優れた画像ソフトを使用することでかなり防ぐことができるようになった。もちろん、カメラも進化を遂げている。今さら、遅ればせながらの感ありといったところだが、なにしろ化石写真屋なのだから、大目に見てもらいたい。
 とはいえ、商売人は高感度ISOをむやみに使うことなど恐くてできないというのが、生真面目で正しい写真屋のあるべき姿であり、本音でもある。であるがゆえに、ぼくが時代遅れの写真屋というのはちょいと的外れであると、こっそりとくぐもった声でいっておきたい。

 それはともかくも、撮影時は、RawもしくはJpegでの撮影が一般的であると思われるが、高感度撮影による目障りなノイズ(輝度ノイズとカラーノイズ)を、画像ソフトは最新の技術をもって緩和しようと努めてくれる。
 画像ソフトにあるノイズリダクションを使用し、輝度ノイズ(ざらつき)とカラーノイズ(RGBの気持ちの悪い斑点模様)を、調整バーを動かしながら軽減させていくのだが、この度合いが過ぎると画像は途端に解像感を失っていく。この画像の質感を敢えて表現するのであれば、「どこかプラスティック的な、質感に乏しいのっぺりとした感じ」とでもいっておこうか。

 ノイズリダクションをどの程度かけるかとの “頃合い” を見計ることは経験と感覚に頼るほかないのだが、大事なことはその画像がどのような状態で鑑賞されるのかということにある。そして、ぼくは補整途中に、シャープネスはかけない。ノイズとともに画質劣化の元凶でもあるシャープネスは、補整の最後にかけるのが、画像補整の正しいありようだと信じている。シャープネスのかけ方は、非常な慎重さを要し、しかもあまりにも多岐にわたるのでここでは言及しない。

 昨今は、従来とは多少様相が異なり、印画紙ばかりでなく、モニターで鑑賞される機会が多くなった。これは、撮影者にとって大ごとであり、まことに由々しきことらしい。 “らしい” などと、ぼくはまるで他人事のようだが、それにはまったく頓着していないからだ。だが、観賞される写真の大きさは鑑賞者次第なんて、一昔前には考えられぬことだった。この容易ならぬ事態はしかし、個人の使用状況や感覚による差異で大きく考え方が変わってくる。だから、ぼくはその恐さを認識しつつも、頓着しないのだろう。しても仕方のないことだ。
 また、ノイズ如きはプリントの大きさ(拡大率)により、見え方は順次変化するので、やはり “頃合い” を見計る感覚を磨くことが、ノイズ除去の技術とともに必要となってくる。
 第612回で掲載したISO25600の写真は、RawデータをDxO PhotoLab5のノイズリダクションを用い現像し、細部をPhotoshopで仕上げ、さらにNik社のDfine2(これもノイズリダクション)に渡している。つまり、二重がけである。その画像にシャープネスをかけ、A2プリントに引き伸ばすとどうなるかの実際を試みたが、ノイズはまったく気にならぬほどに押さえられていたことをご報告しておきたい。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
我が倶楽部には、蒸気機関車の動輪中毒のご婦人がいらっしゃる。「てっぱく年間パスポート」をいつも懐に忍ばせているあのひとである。このような掲載写真を現像する時にぼくが留意し、着目することは、その質感描写である。だが、その気持ちが強すぎると、ギトギトの写真になり、品位を下げてしまうので、要注意。これが、ぼくの限度だ。
絞りf4.0、1/30秒、ISO 2000、露出補正-2.00。

★「02てっぱく」
モノクロ写真に調色を施し、イメージ した通りの写真となった。写真の生命感はこちらのほうが上。
絞りf4.0、1/15秒、ISO 1600、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/10/14(金)
第614回:晴れて鉄道博物館(4)
 60年来の友人が、ひと月に1度の割合で、約1時間半という長旅にめげることなく、いそいそと我が家に遊びにやってくる。いくら仲が良くてもぼくには到底できぬ仕業であり、何かに思い詰めたようなその精勤さは、一種の技芸を思わせるくらいだ。
 来宅早々、息を整える間もなく、「かめさんも、あの新潟鉄工所(前号にて言及)に隣接した線路脇で遊んでいたんだね。危ない思いをしなかった?」と、同じ中学の4年後輩にあたる彼は当時を懐かしむように目を輝かせながら問いかけてきた。
 そして、「ぼくはさ、あそこでEF58に危うく轢かれそうになって、ホントに “命からがら” 爆走してくるEF58を除けたんだ。恐ろしいほどの汽笛を鳴らしながら迫ってきて、急停車する列車を尻目に、あそこから遁走したんだよ。ついでに、罪悪感もぼくの跡を追ってきた。それ以来、あそこで遊ぶことはしなくなったけれど」と続けた。

 列車に轢かれかかったことにはそれほど感情を動かされなかったが、ぼくにとっての驚きは、彼の口から「EF58」という具体的な電気機関車の名称が突如吐かれたことと、彼が「鉄道大好き人間」であったこと。それに加え、60年間親しく付き合ってきたのに、お互いが「鉄道好き」であることをまったく知らなかったこと。そして、ぼくの拙よもやま話を、彼はまるで世捨て人が人目を憚るように、素知らぬ顔をして読んでいたというこわ〜い事実。しかし、そんな様子を彼はおくびにも出さなかった。う〜ん、やっぱりこわ〜い。
 ぼくは友人知人に極力拙話の存在を知られぬように努めてきたのだが、非常に身近な友人がこっそり、しかも長年にわたり読んでいたという事実を知り、それはぼくを震撼たらしめるものがあった。ネットとは、顔の見えぬ隣人の如くであり、まことに気味の悪いものだ。

 ここに述べた「EF58」については、第612回の掲載写真の説明に、「EF58が地元の路線から姿を消すとともに、鉄道ファンから身を引いた」と紹介しているが、この列車に関する写真的な思い出(無知による失敗談)は、撮影についての大切な事柄なので、恥を忍びつつも、次号あたりで触れようと思っている。今、それについて述べると、またもや宿題を放り出すことになってしまうので、取り敢えず、難しい問題「暗所での撮影」について、お伝えするのが先決だ。

 暗所での撮影に最も心強い味方は、誰が何といっても(誰も何ともいってないが)三脚を使うことにある。それに異論を挟むひとはいないだろう。写真を撮るにあたって、これほど力強い味方は他にないことは衆目の一致するところだ。これさえあれば、まさに “恐いものなし” である。しかし、何事に於いてもメリットとデメリットが共存するのだから、ここに誰もが頭を痛める。ご都合主義的人間は、何が何でもデメリットにばかり肩入れし、強調したがる。曰く「だって重いんだもん」。とにかく楽をすることばかり目論んでいる。

 どこかの写真倶楽部の指導者は、私的写真に三脚を持ち出すことは滅多にないので(仕事では9割方使用するらしい)、生徒たちはそれでいいものだと大いなる勘違いをしている。とんでもない横着者の集団である。それでいて、「てっぱくでは、三脚が使えないしぃ〜」などと、平然としながら、あたかも恨み言のようにいう。さもしいったらありゃしない。
 ぼくは、呆れを通り越して、おもむろに「後頭部、しばいたろか!」と関西言葉でいい、それでも飽き足らず「後頭部ば、張り倒しゅぞ!」と博多弁を追加して、彼らの、まるで際物師のような立ち居振る舞いに、ここを先途とそのご都合主義をなじる。それらの罵声を、だがしかし、ぼくは口に出すことができず、心のなかで叫ぶので、畢竟彼らに届くことはない。ぼくには猛烈なストレスだけが残る。そのたんびにぼくの心身は蝕まれていく。

 写真を損じる大きな要因は今まで何度も述べたように、「ブレ」と「ピンボケ」と「露出」だ。これはあくまで、計算のできる人間と、それに対応できるカメラの世界での話である。したがって、すべてが自動で操れるカメラについての言及ではない。
 三脚なしで「ブレ」を防ぐには、より早いシャッター速度を用いなければならないが、そのためには絞りを開けるか、ISOを上げるしかない。「三脚を使えばブレないわけではない。三脚を頭から信用してはいけない」と、随分昔の拙稿で述べた覚えがある。三脚の代わりに、ISO感度を上げるというのは、横着事始めだが、もっともな論理である。
 今さら、ぼくがみなさんにブレ防止の方策をお話しするのも気が引けるのだが、ざっかけなくいえば、撮影の三種の神器である「f 値、シャッター速度、ISO」を適切に使いこなせば事足りるということに尽きる。ここでいう「適切」とは、「撮影者の描いたイメージを、できるだけ画質を劣化させずに、正確にイメージセンサーに転写できるような設定」のことで、「使用機材を使いこなす」という意味でもある。

 三脚を使えず、しかも暗所であれば、「ISO感度を上げれば良い」の答は、まったく正しい。1カット毎に感度を変えることができるという離れ業を演じることのできるデジタルは、大変便利で有用なものだと認めるが、感度を上げれば上げるほど、ノイズが発生し、画像を汚すという結果をもたらす。「あちらを立てればこちらが立たず」という具合だ。便利さには、悪魔が宿るという訳だ。
 何年かぶりに新調したカメラは、常用感度が100〜102400と、ぼくには信じられぬほどのばかばかしさなのだが(102400は、まだテストさえしたことがない)、少なくとも「てっぱく」の EF58の運転席(第612回で掲載)の写真はISO25600を使用しており、それはぼくの生涯最高感度記録達成の瞬間でもあったが、しかしながら、画質の劣化は優れた画像ソフトを使いこなすことで、低感度ISOとほとんど遜色のない画質を提供してくれた。
 「なんてこった。こんなことがあっていいものだろうか?」と、化石写真屋のぼくは首を傾げながら、未だに信じ難い思いでいる。最新の画像ソフトもまた、優れた技芸を見せてくれた。またしても、この話、次号に持ち越しだ。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF16mm F2.8 STM。
埼玉県さいたま市。『鉄道博物館』。

★「01てっぱく」
新幹線E5系。子供の頃には、考えられぬプロポーションだ。まるで潜水艦か飛行機か魚雷かあひるの如くである。地上を320km/hで走るには、こんな恰好が必要なのか?
絞りf6.3、1/25秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

★「02てっぱく」
同じくE5系の横っ腹をグラフィックに描いてみた。2例とも、超広角レンズでしか描けぬ世界。
絞りf5.0、1/100秒、ISO 400、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)