![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2023/07/28(金) |
第653回:滋賀県近江八幡(3) |
このところの、今まで体験したことのないような凄まじい熱暑に、世のお勤めの方々はさぞや命懸けの日々を送っておられるだろうと、同情しきりである。ぼくはまだ隠居の域に届いているとは思っていないが、さすがにこのあるまじき炎天下での撮影は、熱中症を通り越して、若ければまだしも、この歳になると生命の危険に晒されるように感じるほどだ。車に轢かれたヒキガエルのようにカラカラに干からびてしまうと思えるほどの、尋常でない今夏の暑さである。
生来、寒い分にはまったく意に介さず、人一倍元気なのだが(極寒のシベリアを2度ばかり堪能している)、暑いとなるともういけない。それに湿気が加わると、厭世的な気分にどっぷり浸り、何もかもが怨敵に思えてくる。ぼくは捨て鉢となり、恨み骨髄ながらも天を仰いで唾するわけにもいかず、しかも、日本の暑さは底意地悪く、我慢のならない湿気によるベタベタ感が加わるので、大変な不快指数だ。息も絶え絶えとなり、それを大義名分に、課せられた務めを何とか回避しようとやっきになっても罪にならぬとぼくは決め込んでいる。 今、日本の味わいのある夏の風物詩は、この何年間か忌むべき武漢コロナに煽られ、そして今夏は酷暑という危機に晒されている。であるからして、風月を友とするわけにもなかなかいかず、写真屋も、うかうかしていられない。 「撮影で命尽きるのであれば本望だ。悔いはない」なんて、どこかで聞いたことのあるような、気張った、しかも胡散臭い科白は、どことなく生っぽく、いかがわしくもお間抜けで、洒落にもならぬ。 この歳になって、そんなことを仰々しくも、そして白々しくいう気もないし、それどころか「死んで花実が咲くものか」と、反逆精神がもりもりむくれ上がるのである。そんなに息むことはないじゃないかといいたくなるくらいだ。 もし、この炎天下でファインダーを覗きながら倒れたら、同情は疎か、気にもかけてもらえず、「身の程知らずだねぇ。阿呆だねぇ、だから年寄りは困るのさ」と嘲罵されるのが落ちというものだ。 しゃがみ込んで花などを撮り、立ち上がった瞬間に軽い目眩を覚えたのは、つい最近になってからのことだった。「えっ、どうしてなの?」と、初めての体験に少々うろたえたのは、つい2年ほど前の夏日のことだった。それが老化によるものか、気温によるものかは定かでないが、「どうやら、両方らしい」との覚えは、とても不気味なものだった。だがいずれにせよ、ふてぶてしくも、味噌も糞も一緒くたである。 だからぼくは、切りの良い後期高齢者となった今年から、酷暑の夏を親の仇とし、何日間もじっと自室に籠もり、不快な夏をやり過ごそうと決めている。 だが世の中、思うように事は運ばない。 つい数日前に、よんどころなく、心ない人々に懐柔され、あろうことか、ミュージカルの撮影を命じられてしまった。普段なら、「人でなし!」とか「人非人!」とか「老人ハラスメント!」と毒突いてやるのだが、依頼主は人生のすべてを丸呑みにしたような力感溢れるこわ〜い、コワ〜イ、人を人とも思わぬ百戦錬磨のおばさま軍団なので、ぼくに抵抗の術はなく、蛇に睨まれた蛙のように、その凄味の前に身動きが取れなくなってしまった。金縛りというやつだ。名画『恐怖の報酬』(仏1953年、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)のイヴ・モンタンのような心境だった。 会場での次第を書き連ねると、5000字を優に超えてしまうので、断念するが、ぼくはこの撮影後の3日間は寝たきり老人を余儀なくされた。全身の筋肉がバリバリと音を立て、その痛さに悲鳴を上げ、ベッドから這うようにしてトイレに到るその様は、人生終焉のベルが鳴り響いているように感じられた。撮影を手伝ってくれた同年の士も、やはりぼくと同様に悲惨な夢物語にうなされたのだそうだ。 しかしぼくは誰をも恨むことなく、体力の限界を素直に受け入れることにした。この原稿を認めている今も、ぼくはまだあの後遺症に悩まされている。そして、焦りながらも、とんと、近江八幡まで辿り着けないでいるのだ。 前号で、「現在の近江八幡は『上手く化粧を施した女(ひと)』」と書いたが、困ったことに、どこにレンズを向けても、被写体となるものが上手に整いすぎており、隙が見当たらないのだ。「破綻のない」とはこのようなことをいうのだろう。 写真に限らず、絵画でも、文学でも、ある対象物(素材)の破れを見つけ、それを自身の流儀に従って、上手に味付けをし、作者でしか成し得ない味わいというか一種の妙味を表出・表現するのが創造の醍醐味だとすれば、近江八幡はぼくにとって誠に手強い相手だったといえる。ましてや、半世紀ほど昔の残像(幻影)に取り憑かれた身として、それを振り払い、現在の整備された佇まいに放り込まれての発見は、不器用なぼくにとって、容易なことではなかった。 初めに目にした街案内版に大きな文字で、「すんでよかったまち 訪れてよかったまち もう一度訪ねてみたいまち」との標語が掲げてあったが、その語句に偽りはない。 ぼくは八幡堀や街並での5時間の滞在で、確たる被写体を見出すことができなかったが、不思議と無念さが湧かなかった。なんだかんだいいながらも、この街に好意を寄せたのは、やはり遠い昔の恋心が消えずにいたからだろうか。 https://www.amatias.com/bbs/30/653.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM。 滋賀県近江八幡市。 ★「01近江八幡市」 「かわらミュージアム」の敷地に置かれてあった大きな鬼瓦。日本の伝統工芸の一つとして、かつて鬼瓦制作の工程を、埼玉県小川町で撮影したことがあった。奈良時代以降は厄除けとして鬼面が多く用いられるようになり、鬼瓦と呼ばれるようになった。 絞りf5.6、1/320秒、ISO 100、露出補正-1.00。 ★「02近江八幡市」 新町通りを歩きながら。空は雲ひとつなく晴れ上がり、疲れと暑さでげんなりしながらも、意気揚々とシャッターを押す。 絞りf6.3、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/07/21(金) |
第652回:滋賀県近江八幡(2) |
バスのなかで小銭(100円玉1枚、50円玉1枚、10円玉7枚の計220円)を盛大にばらまくという大失態を犯したぼくは、すっかり身の置きどころをなくし、我を失ってしまった。乗客すべての、いいようのない視線が、気弱なぼくに注がれたように感じられた。この手の注視は最悪といえる。ぼくはこの時、まさに、忌むべき “死神の降臨” に遭ってしまったのだ。
普段でも滅多にない、いや、生涯でも初めてのことを、あろうことか、決してあってはならない場面で、やらかしてしまった。 「歳を取っても爺むさくあるまい」という家訓 !? に背いてしまったからには、ご先祖様に合わせる顔がない。何故かこの時、親父と、会ったことのない親父の父(つまり祖父。ぼくが生まれた時にはすでにこの世の人ではなくなっていた)の顔が、突如出現した。ぼくをこよなく可愛がってくれた母方の祖父でなかったところが面白い。だが、この時は面白がっている余裕などなかった。それどころではなかったのだ。 常日頃、「おれはおれだから」と人目などまったく頓着せず、勝手気ままに振る舞うぼくだが、我が道を行きすぎた報いを受けたのだろう。とうとう焼きが回ってしまったのだ。 この時ばかりは、涙より先に前身から汗が噴き出るような感覚を覚えた。貴重な体験といえばそれまでだが、恥のあまり、忍者のように煙遁の術を使いたいと思ったくらいだった。こんな恥かきは金輪際御免だと、ぼくはよほど身にこたえたのだろう。 ぼくの隣に、観光目的の老夫婦が腰掛けており、「どちらまで行かれるのですか? 八幡堀(はちまんぼり)や街並観光なら降りるところも私たちと同じですね」と、ぼくの気まずい心情を察してか、にこやかな顔で優しく語りかけてくれた。「捨てる神あれば拾う神あり」である。このありがたさにぼくは安堵し、死神の降臨に遭いながらも、まだ徳が残っていると感じ、気を取りなすことができた。 老夫婦の言葉に死神はすごすごと立ち去り、ぼくはそれに意を強くし、石を投げつけてやろうかと、罰当たりなことを本気で思い立ったくらいだ。 この貴重な体験は、「ひとり旅」であるからこその大きな収穫であり、味わいでもあることを、声を大にしていっておきたい。ツアーや友人を伴った旅では、決して体験することができないものだ。 「旅の味わいは、絶対ひとりに限る。どんな人でもひとり旅に出ると、感覚が鋭敏となり、そして情感が増し、同時に発見するものも多くなり、にわか詩人に変身する」がぼくの確たる持論である。 こんな出来事に国内で遭遇するとは、まったく想像さえしていなかった。しかしぼくは、自説の正しいことを確認し、今、バスでの粗相に鼻を膨らませている。 精神的窮地に陥った観光客でないぼくの気持ちを和らげてくれた老夫婦に、降車後「どうぞ良い旅を」と別れを告げた。 小さなカメラバッグに、16mm F2.8単レンズと24-105mm F4.0 Lズームの横着レンズを忍ばせ、その2本で、今日の近江八幡を賄うことにした。ぼくが、仕事の写真以外に200mm以上の望遠レンズを使わないのは、立体感を重視する自身の作画に合わないと感じているからだ。これは、もちろん良し悪しの問題ではなく、撮影者の意図する、あるいは望む表現に依拠する事柄でもある。 また、写真でしか表現出来ない広角レンズ特有の遠近感が好きということもあろうと思う。 バスを降り、八幡堀(安土・桃山時代に造られ、城下町として繁栄する一因となった物資運搬のための水路。昭和初期まで町の人々の行き交いに貢献したが、戦後は陸上交通の発展により廃れた。堀に沿って土蔵や白壁の旧家が建ち並び、往事を偲ぶことができる。現在は、観光客用に屋形船が頻繁に往来し、観光名所のひとつとなっている)に行き当たったぼくは辺りを眺めつつ、約半世紀前の古い記憶に塗り染められた場所を求めるには、無理難題であろうとの予感に襲われた。 そこは、あまりにも月日が経ちすぎて、今やきれいに整備された風物に取って代わっていた。おそらくぼくの見たかつての佇まいは、すでに幻と消えたといっても過言ではなかろうという気がした。 とはいえ、近江八幡は、名所旧跡をこれ見よがしに商売道具に変えてしまう行儀の悪いどこかの町とは大きな違いを見出すことができる。品格があるのだ。 それはきっと、近江商人の商人哲学である「三方よし」(商売に於いて、売り手と買い手が満足し、それにとどまらず、社会に貢献できてこそよい商売といえるとの考え方)や「陰徳善事」(自己顕示をせず、そして見返りも期待せず、人のために尽くすこと)が現在もしっかり息づいているからだろうとぼくは推察する。近江商人は、営利至上主義を諫める教えを持ち続けていることが、ある種の心地よさを醸しているのだと思う。 女性に喩えれば、現在の近江八幡は「上手く化粧を施した女(ひと)」といえ、ぼくは半世紀前にスッピンの美人に出会ったのだと思っている。幻影は未だ風化せず、といったところだ。 https://www.amatias.com/bbs/30/652.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 滋賀県近江八幡市。 ★「01近江八幡市」 八幡堀際に建ち並ぶ旧家。晴れたり曇ったりの天候だったが、日傘をさす2人の女性が運良く通りかかってくれた。 絞りf5.6、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。 ★「02近江八幡市」 八幡堀にある「かわらミュージアム」へ通じる道。瓦が敷き詰められている道を、隙間より超広角のパースを生かして撮る。 絞りf6.3、1/160秒、ISO 100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/07/14(金) |
第651回:滋賀県近江八幡 |
前回に引き続き、下手をすると今回も写真の話はほとんど出番がなく、先頃の旅についてのささやかな話に終始するかも知れないことをあらかじめご了承いただきたい。紀行文というほどえらそうなものではないが、取り敢えず先回りをして、その伏線を敷き、自己保身をはかっておくことに。
まったく困ったものだと自認するが、ぼくとて人の子、多少の良心は持ち合わせているのだが、しかしながら、担当者の顔がどうしても目の前にちらちらするのが癪の種だ。「人の疝気を頭痛に病む」(自分に直接関係のない余計なことに気を揉むことのたとえ)のは弱りものだ。 しかし、他人を困らせたり、困惑させたりするのも、人生の楽しみと思えば気が楽になる。立ち回りの上手い人間は、得てして面白味に欠けるというのがぼくの持論。第一、そのような人物は可愛げがなく、信頼も置けない。 大津のホテルで目覚めたぼくは、真っ先にカーテンを開け、空を眺めた。ピーカンの予想とは少々異なり、どうやら雲のまにまに、薄日がもれていた。雨の降る気配が感じられなかったので、後ろ髪を引かれるような思いで梅小路(京都鉄道博物館)を諦め、40数年前に感動を与えてくれた近江八幡に行くことにした。このことが嬉しいのかそうでないのか、今度はぼくが困る番だった。自分の困惑は楽しくないし、気楽でもない。担当者をして、「他人の不幸は蜜の味」というわけだ。 ホテルから大津駅までリュックを背負って歩くのは大変な勇気を必要としたので、ぼくは気迷うことなくタクシーを呼んだ。タクシーという文明を利器は、まさに蜜の味である。 大津から近江八幡までは30分ほどの行程である。近江八幡駅に隣接した観光案内所に飛び込み、取り敢えず荷を降ろすためのホテルを調達してもらってから、40数年前にぼくに感動を与えてくれた場所がどの辺りかを質問してみた。 今そのイメージは、もちろんモノクロ仕立てのもので、しかも画像の周辺がすでにセピア色となり、色褪せて薄くなっており、ぼくは頼りない質問をした。 「古式な木造家屋で、その横に細い水路のあった、とても風情豊かな所」という、簡略を極めた説明を試みた。その1シーンしか記憶に留めていないのだから、ぼくとて、それ以上に詳細なことを伝えることはできなかった。脳裏に焼き付いているとはいえ、40数年前の曖昧な記憶による佇まいについて、「それはどこか?」と問うことに、ぼくはいいようのない恥じらいを覚え、ひどくきまりが悪かった。 ぼくの、乱暴で、茫漠とした、心許ない質問に、案内所のおねえさんはしきりと首を傾げ、「どうしましょう。分からないわ」とうろたえるばかり。彼女は、直ちに年配の男性に助けを求めた。ぼくのような半世紀近い昔の思い出に凝り固まった手合いの扱いに慣れているかどうかは分からないが、年配のおじさんは、案内所のベテランとして、「お訊ねの場所かどうかはっきりお答えできませんが、八幡堀か旧家が建ち並ぶ、いわゆる近江八幡の名所に、まずいらしてみたらいかがでしょうか」と、彼としては至極まっとうで誠実な答を返してくれた。情報不足のぼくは、「では、そこを訪ねてみます」と、素直に答えるしかなかった。 ぼくに満足な返答ができなかったおねえさんは、「そこに行くには、駅前の6番のバスに乗って、小幡町資料館で降りてください」と、申し訳なさそうに、懐古の情に駆られた、分別を失いかけた初老のぼくに、精一杯のいたわりを示してくれた。 バスは出発したばかりで、次のバスは45分ほど待たねばならなかったが、その合間にホテルで荷を降ろした。頃合いを見計らい、6番乗車場に赴いた。 バスに乗り込んだぼくは予期せぬ不安に襲われた。バスという文明の利器を最後に利用したのは十数年前のことだった。その時、支払いにオタオタし、運転手や降車を待つ人たちに迷惑をかけた記憶がある。そのことがやおら蘇ってきた。降車時の段取りなど、もうとっくに忘れていた。 十数年ぶりにバスに乗ったぼくは、様々なことに思いを巡らせた。目指す停留所までの値段はいくらなのか、どうやって支払うのか、小銭が足りなかったらどうすればいいのか、お釣りはくれるのだろうか、降車時に他の客に迷惑をかけ、「ジジィはこれだから」と嘲笑されるのではないか、教えられた「小幡町資料館」停留所を見過ごしてしまうのではないか、などなどの不安がひとまとめとなり、胸が痛くなり、息苦しくもなり、いいようのない情けなさに襲われたのだった。 見ず知らずの、言葉の通じない海外でも、このような鬼気迫る緊張を味わったことなど一度もなかった。何処へでも、カメラを首に掛け、平気の平左で潜り込んでいたのに、「言葉の通じる慣れ親しんだ母国にあって、おれとしたことが、何たるうろたえようか!」と、ぼくはすっかり我を失っていた。降車の作法(手順)も不安だったが、それ以上に、その不安に戦く自分に「これしきのことで」と猛烈に腹が立ったのだ。 運転席の左上にある案内版がくるくると点灯するのを見つけ、料金が220円であることを知った。ぼくは不安を拭い去ろうと、小銭の貯まったポケットを弄(まさぐ)った。不安のあまり汗ばんだ手で、子供のように小銭を手のひらに乗せ、勘定をしながら220円をしっかり握りしめた。 このような時に限って、不運が束になって襲い掛かってくるものだ。ぼくは、あろうことか、手にした小銭を車内にばらまいてしまったのだ。もう、何をかいわんやである。 乗客の人たちが席を立って、ばらまいた小銭を親切にも拾い集めてくれた。ぼくは、耄碌ジジィそのものだった。思わず、自分の不甲斐なさに天を仰いだ。歳を取っても、 “爺むさく” (じじむさい。年寄りくさく、むさくるしいこと)あることは、厳に避けたいと常に念じていたが、この一件で、おじゃんとなってしまった。 40数年後、あの風情豊かな地で、気がついたらぼくはすっかり爺むさい耄碌ジジィに変身していた。 https://www.amatias.com/bbs/30/651.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。 滋賀県近江八幡市。 ★「01近江八幡市」 約半世紀前に出会った近江八幡の風情ある場所はどこかさっぱり分からなかった。しかし、ここの名所風情は何処を見ても絵葉書そのもので、そのような写真を好む人には良いかも知れないが、ぼくのような “えぐみ” (あくが強く、舌やのどがひりひりするような味や感覚)ある写真を好む者には、昔の思いがあるだけに、何処にレンズを向ければ良いのかと、戸惑いばかりが先に立つ。 絞りf5.6、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.33。 ★「02近江八幡市」 このような佇まいが数百m続く新町通り。あと1絞り絞れば(f10)良かったかな。雲の間から一瞬陽が射す。 絞りf7.1、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/07/07(金) |
第650回:滋賀県大津 |
三ノ宮駅から1時間ほどで、鉄道ファンもどきを演じてくれた同行者の仰せの通り、快適なJR神戸新快速は大津駅に滑り込んだ。途中の京都駅で大半の人が降車してしまったので、車窓からの眺めは見通しが良くなり、より多くのものが目に入るようになった。
車窓マニアと勝手に自称しているぼくは、そわそわし始めた。速度に関係なく、列車や電車のそれは、通り慣れた場所であっても、必ず何かしらの発見があり、それが楽しく、やっぱりぼくは、人一倍車窓を楽しむ “車窓マニア” といって差し支えない。ここが、車の車窓とは一線を画すところだ。 ハンドルを握りながら、流れる風景のなかに点在するものを、捜し物でもするように視線を置いていたら、危険極まりない。だからどうしても、車からの車窓観察は、気が置けず安穏としていられない。鉄道は他人まかせなので、気が楽というものだ。 京都駅を出発し、山科(京都市東部)通過時には車窓に目を凝らした。というのは、ここにぼくを可愛がってくれた叔父、叔母とその家族が一時期住んでいたことがあり、学生だったぼくはよくここをねぐらとし、あちこちに出かけたものだ。叔父、叔母は、60代に病で亡くなってしまったが、多感だった青年期をここで過ごした日々は、今も深く脳裏に刻まれている。そんな経緯もあって、山科には一種特別な感情を抱いている。 当時は新幹線から、「ああ、あの辺りだな」と、ありし日のねぐらに当たりを付けることができたが、今回はさっぱりだった。叔父、叔母を思いながら、ぼくは車窓を眺め、ちょっと感傷的な気分に襲われた。 京都駅から大津駅は約10分の道のりだ。感傷に浸る間もなく、大津駅に到着。ぼくは貴重な感傷を奪われた。 大津駅は、今まで何十回も通過したことがあるが、下車したのは今回が初めてだ。当地に不案内のぼくは、ホテルとは反対側の南口に出てしまった。よく見ると間近に山が迫っており、初っ端から重大なミスを犯してしまったことに気づいた。 「わしとしたことが、何たるドジや」と、意図せぬ京都言葉と抑揚でつぶやいた。これが博多駅だったら、「わしっちしたばいこつの、何たるドジか」と、やったのだろう。いつもどこか無節操なぼく。やはり根無し草なのだろう。 ドジを踏んだぼくは、あたかも現代風に、得意気になってスマホをポケットから取り出し、ホテルの位置確認をしようとしたところに、折好く3人の高校生がやって来た。 スマホを気取るより、アナログ的に、人に訊ねたほうが手っ取り早い。これぞ賢人の作法と、無節操なぼくは直ちに判断した。この変わり身の早さ、ジジィにあるまじき、である。 ぼくが訊ねると、彼らはすぐにスマホを取り出し、手さばきも鮮やかに、「おじさん、ここ、ここや」と、画面をかざして見せてくれた。実は1ヶ月程前に、近くのスーパーで子供に生涯初めて「おじいちゃん」と声をかけられて、愕然としたのである。それが「おじさん」(京都で自然に使われる「おっちゃん」でもよし)ときたものだから、ぼくに得体の知れぬ何かが込み上げてきた。 そうだ、おれは「おじいちゃん」などと他人にいわれる筋合いは現在のところまったくなく、「おじさん」と呼ばれるのが断固正しい。 ぼくは地下道を通り、反対側の北口に出た。「滋賀県の県庁所在地って確か大津市だよなぁ」と確認しなければならないほど、県庁所在地の駅前にしては、えらく大人しく、また質素だった。 埼玉県の県庁所在地は浦和(現さいたま市)だが、ぼくはいつも浦和を指し、「全国の県庁所在地で最も賑わいのない貧相な街。おまけに歴史的遺構もほとんどない味気のない街」と半ば自虐的な見方をしてきた。「住めば都」というが、どうもそうはいかないようだ。 人生の大半をここで過ごしているにも関わらず、ぼくに郷土愛が芽生えないのは上記したことも起因しているのだろう。愛するものがないというのは、寂しいことだ。 浦和駅の名は、東西南北を冠した4駅と中浦和駅、武蔵浦和駅があり、ご大層に7駅も存在しているのだが、浦和駅は特急も急行も縁がない実に不思議な県庁所在地なのだ。日本の七不思議といってもいい。 さて、高校生の親切に感謝し、ホテル向かって歩き出したぼくだが、空身ならいざ知らず、リュックを背負っての行軍は思いのほか、ホテルまで遠く感じられ、もうぐったりしてしまった。チェックインを済ませ、心地の良いビジネスホテルの一室でぼくはベッドに身を横たえ、19時に目覚ましをかけ、夕方の短い昼寝を決め込んだ。少しでも体力を回復し、そして温存をしておこうとの計らいからだった。 明日が雨なら、京都の梅小路(京都鉄道博物館)で動態保存されている蒸気機関車を撮影しようと夢見ていたのだが、ぼくの念願は「梅雨時の予期せぬピーカン」に見事に打ち砕かれてしまった。晴れなら、40年ほど前に訪れ、良い印象を残してくれた近江八幡に行こうと当初より決めていた。 40年前、近江八幡の一角で出会った家々の佇まいや、その通路沿いに流れる幅1mにも満たない水路の情感溢れる佇まいを今も忘れることができない。その風情に、長い歴史がどっしりと腰を据えていた。ぼくは非常な感動を覚え、それをフィルムに定着させるにはどうしたら良いか、身悶えするような思いで、4 x 5インチの大型カメラをそこに据えた。そんな思いをもう一度近江八幡でできるだろうか? https://www.amatias.com/bbs/30/650.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。 神戸市三ノ宮。 ★「01神戸市三ノ宮」 縦長のモニターの下から順繰りに映像が走る。素早い動きだが、1/160秒なら流れを止められるだろう。画像の流れが速いので、一瞬、連写機能(メカシャッターで秒間12コマ)を使おうかとの思いが頭をよぎったが、「恰好悪ぅ。無様なことをしないで、一発で仕留めろよ」との声が聞こえてきた。「これしきのことで、連写なんか、このおれがするわけないだろう!」とうそぶく。 絞りf4.0、1/160秒、ISO 1000、露出補正-1.67。 ★「02神戸市三ノ宮」 鏡とガラスの写り込みと色合いが面白かった。単レンズゆえ、何の迷いもなく構図が決まる。 絞りf5.6、1/100秒、ISO 800、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/06/30(金) |
第649回:三ノ宮から大津へ |
式典での仕事を無事に終え、審査員何人かと三ノ宮駅へと向かった。右も左も分からぬ新参者のぼくにとって、彼らは見知らぬ土地の案内人であり、また同時に救世主のようにも思えた。老体には似合わぬ重いリュックを背負って、うろうろする必要がないので、その心理的負担の軽減は大なるものがあった。「涙が出るほどありがたい」とは、まさにこういうことをいうのだろう。
加え、ぼくは彼らの人としての品格や審美眼をとても尊重しており、なおのこと心地よさを感じていた。 今回の関係者のうち、よ〜く考えてみたら、なんとぼくが最年長者であることに気づいた。昨今は、ほとんどの集まりで、ぼくは知らぬうちにもうそんな立場に追いやられている。だが、この無自覚さは非常に尊いものだとも思っている。「知らぬが仏」というではないか。知らないでいることを美徳のひとつとするこの教えは極めて貴重である。 式典後の懇親会で、「おれ、よ〜く考えてみたら、最年長者なんだよねぇ」と嘆いてみせたら、「その最年長者が、一番のやんちゃ!」と、誰かが言い切った。 「やんちゃ」という多様な意味を含むこの難しい語彙について、ぼくは自分なりにそれを解釈してみた。何でも自分のことは都合良く解釈するおめでたい性癖のぼくは、その言葉を「緊張の場にあって、『みなさん、お気楽に』と、二言目には緊張緩和のための冗談をいい、機知に富んだ人物のこと」と定義づけた。 だからぼくは、同窓生などに「おまえは良い性格をしてるなぁ〜」と憫笑(びんしょう。憐れみのこもった笑い)されてしまうのだ。まぁ、害虫とか、老害(嫌な言葉だね)などといわれるよりはずっとましだ。 最近やたらと耳にする “老害” とは、広辞苑によると「硬直した考え方の高齢者が指導的立場を占め、組織の活力が失われること」らしいが、広辞苑の第5版にはまだこの言葉は登場していない。 “老害” の意味が実際そうだとしても、こんな言葉を不用意に、しかも平然と口にする輩は、やはり己を知らない人品卑しき人々である。それが人間の格というものだ。「子供叱るな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ」である。 三ノ宮駅から在来線に乗ったぼくは、リュックを床に降ろし、車窓に抜かりなく目をやりながら、同行した彼らと、今回の審査会や式典の愉快なあれこれについて話し合った。そうこうしているうちに、ぼくは車窓の眺めが非常に速いことに気づき、「在来線でも、こんな速度で走るんですね。感動的だなぁ。新幹線みたいだ!」と感嘆の声をあげた。 大阪に詳しいひとりが、「そうなんです。なにしろ120km/h以上のスピードを出してくれるので、この線をいつも利用する私は大助かりなんですよ。JR神戸新快速なら大津まで1時間ほどで着きますよ」と、鉄道ファンのような口上で得意気にいわれた。 何故大津かというと、本来であれば、親戚や友人の多い京都に立ち寄り、そこに宿泊すればいいのだが、撮影に注力したいとの思いから、京都泊をやめた。もし、明日雨なら、念願の梅小路(京都鉄道博物館)にて動態保存されている蒸気機関車を撮るつもりでいた。大津からは2駅、約10分で行ける。しかし、天気予報によると、待望の雨の気配はまったくなく、どうやらピーカンであるらしい。それじゃダメなのだ。 というのは、数年前、我が倶楽部のTさんが梅小路に行き、そこで撮影した雨に煙る扇形車庫の全景写真にぼくはえらく感じ入ったので、一応指導者もどきのぼくは、それを凌駕する写真を撮らなければ立場が危ういと感じたからだった。「よし、おれも梅小路に行くぞ」というと、倶楽部の同輩は、「かめさんは、ホントに負けず嫌いなんだからぁ」と嘲笑う。 「うちのおっさん(ぼくのこと)は、写真のことは何も教えてくれない」がTさんの口癖であるのだが、「写真なんて、他人に教えられるものか。そんなものがあったら反対に、おれが教えてもらいたいくらいだ」とぼくは返す。 ぼくがTさんのその写真を褒め称えた時、彼は得意技である、鼻を一気に膨らませ、小指を釣り針のようにし、鼻の穴に引っかけ持ち上げるという変態的かつ奇妙奇天烈な所作を何時もしてみせる。同時に口も引きつれ、ひん曲がるのである。如何にも、ひねくれ者そのものの動作を無意識にするのだから、ぼくは褒めながら笑うというおかしな対応をせざるを得ない。 ぼくばかりでなく、周囲の誰もがその変態的な仕草を周知しており、「また始めた」と、腹をひくひくさせながら精一杯笑いを堪えることに終始している。悲しいかな、その厳然たる変質的行為に彼はまったく気がついていないのだ。 扇形車庫に動態保存されている機関車の裏手に回り、雨中の柔らかい光を逆光に、様々なアングルによるイメージがぼくの頭にしっかり格納され、それを試してみたかった。思い通り撮れれば、膨らんだ彼の鼻が一時的ではあろうが、収縮するはずだった。負けず嫌いのぼくは、それを密かなる楽しみにしていたのだが、ピーカンの予報が、ぼくのささやかな企みのすべてを奪い取った。 「この梅雨時に、選りに選って青天とは何事ぞ」と、ぼくは大津のホテルの一室で意気消沈した。あの変態おやじは、再び鼻を膨らませ、嘲笑しているに違いない。 https://www.amatias.com/bbs/30/649.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。 神戸市三ノ宮。 ★「01神戸市三ノ宮」 ショーウィンドウのなかの鏡に映し出された別嬪さん。ガラスに写り込む夾雑物を避けるため、ぼくはファインダーを覗きながら、蟹の横ばいで立ち位置を定める。デジタルなので、「後で消せばいい」なんていう不埒な料簡をぼくは持ち合わせていない。それでは、撮影の厳正なる精神に支障を来す。 絞りf2.8、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.33。 ★「02神戸市三ノ宮」 人通りの途絶えた旧居留地に、一際美人がボーッと現れた。少し離れたところにテールランプと覚しき赤い点がふたつ。この位置を定めるために(構図上の塩梅を見るために)、ライブビューを利用し、少し高所から撮影。 絞りf3.2、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/06/23(金) |
第648回:初めての神戸市三ノ宮 |
久しぶりに新幹線に乗った。新幹線の写真を撮ることに興味はないが、乗ることは、いつだってぼくの気をわくわくさせる。車窓からの風景が信じ難い程の速度で飛び去る( “飛び散る” といったほうが正しいかな)その様は、到底信じ難いもので、ぼくにとってこの世のものとは思えない。この空間移動の感覚は飛行機では味わえないものだ。したがって、何度乗っても慣れるということがない。まったくの異次元世界にぼくは我を忘れ、子供のように夢中になってしまう。
なかには、この異次元体験をものともせず、平然としている人たちがいるが、彼らは一体どんな神経をしているのだろうかと、理解に苦しむ。そして、この不感症の人たち(失礼!)を気の毒だとさえ感じてしまう。大きなお世話だね。 今回は “待望の東北新幹線” ではなく、通い慣れた東海道新幹線プラス山陽新幹線(今回は東京ー新神戸間)なのだが、いつもは仕事柄、機材が重いので移動はどうしても車利用になりがちだ。北は北海道から南は九州まで、ぼくは日本全国を車で走り回っていた(数年前から、すでに過去形となっているのだが)。 今回の仕事は、神戸市三ノ宮にあるアメリカの大手会社の日本支社に呼ばれてのものである。撮影ではなく、ある催しの式典に参加しなければならず、Tシャツにジーンズというラフな出で立ちながら、僅かばかりの時間、演壇に立ってお喋りをしなければならなかった。 通常、ぼくは写真以外の仕事でどこかに出向く時は、見ず知らずの土地であってもカメラを持参しないことにしている。写真を撮ることに気を取られるに違いなく、それは仕事を依頼してくれた方に礼を逸するとの考えで、ぼくなりの仁義を通したいとの思いがあるからだ。思いのほか、ぼくはこれでも律儀というか物堅いほうなのだ。 だが今回は、「あと何年写真が撮れるだろうか?」との不安に打ち勝つことができず、葛藤しながらも掟破りを敢行することにした。ボディ1台にレンズ3本という、写真屋にしては極めて軽装であったが、使い古した大きめのリュックに旅装を詰め込むと、やはりそれなりの重さとなった。 初めて三ノ宮駅に降り立ったぼくは、クライアントが予約してくれたホテルに、老体にとって厄介な重さに違いないリュックを背負いながら、右も左も分からぬ場所を探し回るのはあまりにも気が重く、駅で客待ちをしているタクシーに乗り込み、行き先を告げた。 駅からほど近い神戸の旧居留地(安政五ヶ国条約により外国の治外法権が及んでいた外国人居留地)にあるOホテルに着くや否や、制服姿のホテルマン2人がタクシーに駆け寄って来、ぼくの薄汚れたリュックを、映画でよく見るあのピカピカに磨かれた真鍮枠の付いた荷運び車に移し、ヨレヨレのTシャツに半ズボン姿という場違いな風体のぼくを、うやうやしく、あれこれ行き届いたフロントに連行した。 クライアントはぼくに似つかわしくない宿泊所を精一杯奢ったのだと悟った。 部屋に通されたぼくは、旅装を解く間もなく、条件反射のようにリュックからカメラを引っ張り出し、16mmの超広角レンズを取り付け、豪奢な部屋の撮影に取りかかった。 誰に見せるわけでもなく、ましてや一銭にもならぬ写真を、記念のため撮るなんて、我ながらどこか照れ臭く、また滑稽でもあり、ぼくは苦笑しながらも、ファインダーを覗きつつ、部屋のライトを調整し、ついつい仕事モードになり切っていた。コマーシャルカメラマンの悲しき性とでもいうべきか。 ロケに出た時、ぼくは鼻を利かせながら当地の居酒屋に潜り込むことを常としていた。三ノ宮は不案内だが、ホテルまで乗車したタクシーの運転手さんによると、「ここに来やはったら、やはり神戸牛でっせ」と、関西弁丸出しで勧めてくれたが、大層な神戸牛専門店より、ぼくは気楽で庶民的な居酒屋のほうに魅力を感じていた。これはぼくの性分なので仕方ない。今回はステーキより、瀬戸内の海鮮料理に軍配を上げた。 タクシーの車窓から、かつての居留地を眺めた。ぼくは運転手さんに「ここらへんはまるで東京の銀座のようですね」と話しかけた。彼は、「神戸いうたら、ここらが最も贅を尽くしたところですわ」と、自慢気に返した。 旧居留地は現在、海外の著名なブランド店が居並び、ほとんどが時間的に閉店していたが、ショーウィンドウだけが煌々と輝いていた。 三ノ宮駅界隈の繁華街に夕食を取りに行く時に、ここに居並ぶショーウィンドウを、前回の掲載写真同様に撮影しようと決めた。 35mmレンズを1本だけ持ち出し、すっかり身軽になったぼくは、やっと元気を取り戻し、海鮮料理に食らい付く前に、意気揚々と、片っ端からショーウィンドウに食らい付いた。 単レンズ故、身も心も軽く、構図も距離感も戸惑いがなく、良い写真が撮れたかどうかは別としても(ここが悲しい)、40分で120枚ほど撮った。20秒に1枚の計算だ。ズームレンズならおそらく1時間は費やしただろう。 翌朝、ホテルで遅めの朝食を取り、会場に出向いた。顔見知りの担当者に、「あんな豪奢なホテルでなくとも、ぼくはありきたりのビジネスホテルでいいんだよ。これからはそうしてね」と、生まれて初めて、心にもない嘘をついた。 https://www.amatias.com/bbs/30/648.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。 神戸市三ノ宮。 ★「01神戸市三ノ宮」 旧居留地のブランド店での1カット目。夜なので、ガラスに写り込みが少なく、自動車の流れるテールランプをどこかに入れようと思ったのだが、まったく通らず。 絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-1.00。 ★「02神戸市三ノ宮」 Raw原画はもう少し色鮮やかなのだが、年相応に?彩度を落とす。 絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/06/16(金) |
第647回:ちょっと前回の補足 |
Bokehについては前回で打ち止めの予定だったのだが、ちょっとだけ補足をしておきたいことがあり、もう少しだけお付き合いを。
Bokehについて、思うところを漏れなく書き連ねようとすると、あまりにも多くの字数を必要とし、ぼく自身がその冗長さにうんざりし、読者のみなさんも辟易されるに違いないので、ぼくの一番苦手な自制心とやらを働かせて、ひとつだけ遠慮がちに追記させていただこうと思う。 しかし、隠忍自重(いんにんじちょう。ひたすら我慢して軽々しい振る舞いを慎むこと。大辞林)というのは、ぼくのような軽薄で自己顕示の強い人間にとって、えらくエネルギーを必要とするものだ。 今からもう半世紀も昔のことだが、カメラの本家本元であるライカ(ドイツ。ライツ社製のカメラの呼称)の技術者と懇談する機会を得た。若造のぼくは、まったく分不相応であるライカに活力の大半をつぎ込むというような状態だった。ぼくもご多分に洩れず、いつの時代にもいる青臭くて、生っぽい若者だったのだ。 そののめり込みのせいで、ライカと心中もやむなしという状況に危うく至りかけたのだが、アルバイトにも精を出し(会社員だったぼくだが、今となってはもう時効なので潔く白状しておく)、何とかうまく繰り合わせていた。道楽が過ぎて身上(しんしょう)を潰しかけていたが、唯一の救いは、友人・知人に借金をしなかったことぐらいだろう。また、当時のぼくは、将来写真を生業にしようとは露ほども思っていなかった。 また、ライカばかりでなく、ぼくは何かと気が多く、節度や慎みといった大人の作法に反抗心を隠さずにいたこともあって、得手勝手な振る舞いをしたものだ。他のものにもつぎ込むことが多く、どこを向いても身動き取れぬような有り様で、自己を振り返る暇(いとま)がなかった。多趣味とか好奇心の発露といえば通りは良いが、しかしこれをして放蕩というのだろう。 身持ちの収まらないぼくは、良い写真を撮ることより、カメラやレンズに心を奪われていたと、この歳になってやっと本末転倒の愚かさに気がついた。普段、写真の愛好家に、「カメラやレンズが写真を撮るのではない。あなたが撮るのだ」と、憚りなくいっておきながら、実態はこの体たらく。ほんにいい気なものだ。半世紀近く経った今になって、若かりし頃の妄動に気づかされるのだから、やはり長生きはするものだ。これも「三文の徳」なのだろうか? 話がどんどん横道に逸れていくことを承知しながら、なかなか本題に入れないのは、ぼくの大きな欠点。半世紀前に話を戻そう。まだ、Bokehという言葉が国際化されていない頃のことだ。 ドイツから出張でやって来たライカの技術者2人にぼくは興奮気味にこう切り出した。できるだけ、忠実に再現をしてみる。半世紀前とはいえ、鮮烈な思い出だったので、それ程の誤りはないだろう。 「90mmのズミクロン(ライカ製F 2.0の中望遠レンズ)を最近購入したのですが、このレンズに限らず御社の製品は描写の切れ味はもちろんのこと、そのボケ味の美しさに感心するばかり。レンズのボケ味について、どのようなお考えをお持ちでしょうか? そしてまた、何か特別な設計上の秘策があるのでしょうか? 差し障りがなければお教えください」と、青二才のぼく。 2人の熟練技術者は、「隠し事なしにお話ししますが、レンズの設計に秘策といえるようなものは特にありません。ですが、会社設立以来、長い間に積み重ねた経験が私たちにはあります。私たちは、レンズやカメラを設計する際にまず心がけることは、 “商品として、どこに妥協点を見出すか” ということではありません。このことについて議論したことは一度もありません。それは技術者の誇りです。 レンズの諸収差や解像度、逆光時のハレーションやゴーストなどについて、これ以上にないほどの光学的・科学的な検討を重ね、そこには一切の妥協はありません。経験値に基づいた科学的知識とその応用は誤魔化しの余地が生まれないものです。故に、価格の上昇を止められませんが、私たちは経営者ではなく、技術者ですから(笑)。あなたのいわれるボケ味に関して、私たちは特別意識したことはなく、あくまで光学的な欠点を可能な限り取り除いたその結果に過ぎません。もう一度いいますが、ボケを考慮してレンズを設計したことはないのです」と、如何にもドイツ人らしい厳格さと技術者としての良心を以て、誠実に答えてくれた。 彼らは、ボケを意識してレンズを設計しているわけでないという予想外の事実に、ぼくは驚いた。レンズには付きものの諸収差を妥協することなく注意深く取り除いていったその結果として、美しいボケが得られるということであり、彼らは普段レンズのボケについて考えたことはなかったと、正直に語ってくれた。日本人の若造は反対に彼らにボケというある種の異国情致とそこで生れた特有な概念を与えたのだった。そしてこの時、ボケに特別のこだわりを見せるのは、日本人の特質であることを知った。 若い頃に思う存分本物を堪能できたことは、ぼくの人生に計り知れないほどの恩恵をもたらした。現在でもライカは素晴らしい製品を提供し続けていることを認めるにやぶさかでないが、しかし昨今、ライカをやたらと神格化する一派がいる。半世紀前ならいざ知らず、ぼくは今、 “はて” と首を傾げている。 https://www.amatias.com/bbs/30/647.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。 東京都中央区銀座。 ★「01東京都中央区」 馴染みの店を出たら、表はざんざん降り。パーキングメーターに止めた車に急ぎながら、長年のテーマとしてきた「ガラス越しの世界」に見合った光景に出会い、1枚だけかすめるようにいただく。 絞りf5.6、1/125秒、ISO 1250、露出補正-1.33。 ★「02東京都中央区」 上記に続き、雨でぐしょぐしょに濡れたスニーカーを気にし、頬を伝う雫を拭いながら、かすめ撮る。 絞りf6.3、1/160秒、ISO 3200、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/06/09(金) |
第646回:ボケ味(Bokeh)は今や国際語(2) |
まだアマチュアだった30代前半に、アメリカのワークショップのいくつかに参加し、そこで発行する冊子を定期購読していた。まだ、ネットのない時代だったので、手紙でやり取りをしながら、欲しい物があれば発注し、それらを航空便や船便で送ってもらったりしていた。当時、1ドルは確か200~220円前後だったと記憶する。懐も痛んだが、胸も痛んだのである。写真好きだった父は、「君は、度胸んある買い物ばしよるとね」と、一言だけいって笑っていた。
嵩のはる重い物は、航空便というわけにはいかず、当然船便だったので、何ヶ月か待たなければならなかったが、大型フィルム用引き伸ばし機やアクリル製の大きな印画紙水洗装置などは、待つに十分値するものだった。 欧米にくらべ、暗室道具後進国(知識も機材も)の日本にあって、冊子に記された様々で有用な暗室道具(日本では手に入らぬ物ばかりだった)や、撮影機材についての評価など、参考にすべきものも多く、大変興味深かった。 特に、日本では手に入らぬ蛍光灯による散光式引き伸ばし機(アンセル・アダムスの撮影及び暗室理論である「ゾーンシステム」を実践するには、日本にはない散光式引き伸ばし機を必要とした)を初めとする便利な用具を個人輸入したものだ。 アメリカから送られてくる荷物は、通関後自宅に配送され、その都度仕事で不在だったぼくに変わって母が関税(輸入税)を否応なく肩代わりしてくれた。会社から帰宅したぼくに、「この木箱に何が入っているのか知らんけど、不意のことやで、家中の現金をかき集め、払っておいたで!」と小言を並べつつも熱意溢れたぼくの向学心ある道楽に大いなる理解を示し、後押ししてくれた。 母のことは、今になってこよなく嬉しくもありがたく思う。母の愛情を感じつつも、若いころのぼくは一方的な確執を抱いていたことを今頃になって恥じ、存命中に和解を果たしておくべきだったと衷心より悔やんでいる。この原稿を書きながら、当時のことを懐古するだに、傷が疼くような思いをしている。嗚呼、なんてこった! 母に借りをつくることを由としなかったぼくは、ある時から、欧米からの輸入品を、千葉県市川市原木(ばらき)にあった海外からの荷物集積所留めにし、税金を懐に入れ、車を走らせたものだ。まだ、京葉道路ができたばかりのころで、千葉まで開通していなかったと記憶する。 ドイツ製の印画紙(独Agfa社のもの)だけは、宅配依頼をし、送られて来た印画紙輸入税は、相変わらず母が肩代わりをし、支払ってくれていた。ぼくは、母の支払った金額に、幾ばくかの煙草銭を上乗せし、うやうやしく上納していたものだ。煙草銭とはいえ、今となっては、このことだけが救いである。 何カ所かのワークショップから送られてくる冊子には、レンズのレポートも含まれていたが、日本の雑誌に述べられているような、いわゆる「レンズのボケ味」に関するものは一切記載されておらず、徹頭徹尾解像度や収差についての事柄一辺倒だった。レンズの性能を推し測るには、それらの項目で十分だと、合理的な欧米人は考えていたようだ。彼らにとって、「ボケ味」などは、レンズ評価の対象外だったのである。それは1980年ごろのことで、 “Bokeh” という単語が出現するようになったのは、それからずっと後のことで、Wikipediaによると1997年のことだそうである。 「レンズのボケ味」について、「もともと欧米人は日本人にくらべ、良い意味でも悪い意味でも、どちらかというと大らかな感覚を持った人が多く、あまり頓着しない」ことを、ぼくは彼らとの交流で実感していたので、それを考慮しながら、レポートを読んでいた。 日本語がそのまま英語(あるいは外国での外来語)となった例でよく知られるのは、たとえば津波(Tsunami)などがあるが、Bokehもそのひとつで、その概略をWikipedia(以下、Wiki)から借用し、それにぼくの解釈をつけ加えてみる。 Wikiでは、「写真による(ぼけ、英bokeh)とは、レンズの焦点(被写界深度)の範囲外に生みだされるボヤけた領域の美しさ、およびそれを意図的に利用する表現手法である。基本的に主たる被写体にはピントが合っていることが前提であり、ソフトフォーカスレンズの効果とはまったく異なる概念である。この概念や手法は日本国外でもbokehと呼ばれている」と記されている。 過不足のない、何とも味気ない文章だが、平たくいえば、「主被写体にピントを合わせ、それ以外をボカして作画する技法。撮りたいものを際立たせる方法として用いられ、パンフォーカスとは逆の撮影方法。絞りf値を空ける(数値を小さく)か、被写体との距離を縮めることにより、被写界深度は浅くなり、ボケ加減は大きくなる。そのボケ方が、きれいかどうかが、レンズ評価のひとつの要素となる」。 ぼくの掲載写真が、比較的パンフォーカス気味の写真が多いとお感じの読者もおられるだろうと思うが、本稿では人物を特定できるような写真は掲載できず、そのことも要因のひとつである。つまり、ポートレートは、人物の前景、後景をボカすことが多いので、結果としてそのようになってしまうのだ。 とはいえ、武漢コロナの間はひたすら近くの農園で花ばかり撮っており、その多くを紹介した。花の撮影や接写について、かなりボケ加減に注力し撮影している。ぼくは欧米人ほどパンフォーカス人間ではなく、そこのところ、どうか誤解なきよう。 http://www.amatias.com/bbs/30/646.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。 東京都荒川区。茨城県結城市。 ★「01東京都」 年季の入った波板トタンの向こうに真っ白な現代的な建物が顔を覗かせていた。 絞りf6.3、1/500秒、ISO 100、露出補正-0.67。 ★「02結城市」 「土蔵の側面にトタン板など張らないで」と願いつつ、不幸にもぼくはそれが好きなので、思わず撮ってしまった。 絞りf7.1、1/125秒、ISO 100、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/06/02(金) |
第645回:ボケ味(Bokeh)は今や国際語(1) |
日本人は器用な人種だとよくいわれる。誰が、いつ頃から、何を根拠にそういい始めたのか、ぼくはまったく知らないし、第一ほとんど興味がない。といいながら、少しばかりこの話をするのだけれど。
もし本当にそうであるかどうかを考察するのであれば(そのようなことに意義があるのだとすれば)、他国や他民族との比較を、それこそ数え切れないくらいの例を上げて、徹底検証・考証しなければならないだろう。その項目は、素人のぼくが想像しても天文学的な数にのぼるに違いない。 もちろん、衣食住にまつわる文化的な背景を含めた人間工学的、医学的、生理学的、遺伝子学的などの、あらゆる分野の学問に於いて公平な比較検討をしなければ意味がない。つまり、全人文科学的な、考え得る限りの事象について、精緻かつ細密な調査を必要とする。そんなことが可能だろうかと思うのだが、可能な方向に舵を切るのが、学問というものなのだろう。 だがそのなかで、科学では解き明かせないことも多く存在する。科学は、あることの一面を証明する方法論の一端に過ぎないなどというと、その方面の人たちのみならず、科学信奉者から非科学的な人間との反駁を加えられるだろうが、そんなことはぼくにとって屁の河童である。 そのような学問的試みが現在実際にどの程度進んでいるのか、あるいはそれがどのくらい人類の発展に寄与するのか甚だ疑問だと思うことしばしば。 そして、もし科学的論理を可能な限り遂行すれば、結論らしきものを導けるのかというと、ぼくは、 “はて” と首を傾げる。 一応ぼくは常に写真の生成に心血を注いでいるつもりなので、これでも科学信奉者もどきの一面を有しているのだが、科学では解き明かせないものが身近にたくさんあるという現実を素直に受け入れているし(ただし、UFOや宇宙人、心霊現象の類はまったく信じておらず、頭から否定している)、またほとんどの写真愛好家もそうであろうと思いたいが、どうであろうか? だが、科学者や学問の探究者がいなければ、世は俗にいう進展・進歩(何を以て “進展・進歩” とするのかは、また別の問題だが)は望めないのだが、だからといって科学や学問一辺倒では、人間の頭脳は硬化し、むしろ退化してしまうと考えるべきだ。これは常に表裏一体を成している。この表裏一体を由とせず、片一方にだけ肩入れしたがる学者が多数いることも事実だろう。その結果、人類に直接的・間接的に不幸をもたらす科学もたくさんあるのだから。 そして、個人的なことだが、文系と理系は常に敵対関係にあり、融和的な精神が愉快なことにぼくには存在しない。また、敵対関係を解消しようなどという無謀なことにも関わりたくないと思っている。お互い、心理的に理解の範疇に留まってなどいないことをぼくは悟っている。そのくらい思考回路が異なっており、知れば知るほど相互理解には絶望的なものを感じている。 何事にも融通無碍(ゆうずうむげ。何ものにもとらわれることなく自由であること。大辞林)の精神をぼくは尊びたく、何が何でも数字や公式が正しく、常識や因習に従わなければ罪のように振る舞う人たちとは住む世界が異なり、無縁でいたいとさえ思っている。「縁なき衆生は度し難し」というわけだ。ぼくが頑固なのではなく、相手が頑固なのだと、ぼくは決めつけている。 日本人が器用かどうかの、ぼくの個人的な見解を述べるのであれば、人種や国民性の違いは、世界の色々な国をひとりで放浪したところによると、ある程度存在することは認めるが、それより個人差の方がずっと大きいと考えている。 その国に生まれ育てば、人間は曲がり形(なり)にも、その国の環境や習慣に順応し、思考回路もそのようになるというのは一理あるのだが、個人の資質によるところのほうがやはりずっと重いような気がしてならない。 若い頃、ヨーロッパの国々の写真愛好家と色々な話に花を咲かせた。もちろん、デジタルではなくフィルム時代のことだ。彼らと酒を酌み交わしながら写真話をして、面白いことに気がついた 日本では、ぼくもご多分に洩れず、雑誌などの影響により、レンズのボケ味(英語の “Bokeh” は、もはやこんにち国際語となっている)についてのこだわりがあり、その蘊蓄を傾けようと思ったのだが、彼らヨーロッパ人の写真愛好家の誰ひとりとして「レンズのボケ味」に頓着しておらず、歯牙にも掛けていないように思われた。「何故、レンズのボケ味などにこだわるのか?」と、彼らは首を傾げたものだ。 写真もたくさん見せてもらったが(写真展なども含めて)、主被写体以外をぼかすような手法をあまり用いず、隅から隅までパキパキにピントがくるような写真が多く見られた。 写真好きの父も長い間ロンドンに住んでおり、写真愛好家との交流を多く持っていたが、やはりぼくと同じような意見を述べていた。「レンズの評価について述べる時、彼らからいわゆるボケ味についての話を聞いたことなどついぞなかった」と、父は述懐していたものだ。 当時は、写真についての様々な事柄は、ヨーロッパのほうが日本より進んでいたはずだが、この例ひとつ取っても、日本人の繊細さというか神経質な様子が窺えようというものだ。これが、日本人の一種の器用さに通じるものだとぼくは感じている。(次号に続く) http://www.amatias.com/bbs/30/645.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。 栃木県栃木市。 ★「01栃木市」 例幣使街道沿いにある嘉右衛門町伝統的建造物保存地区内のヤマサ味噌工場跡地に立つ煙突。現在、工場はすでに廃業だが、建物などを有効活用しながら嘉右衛門町の情報発信や交流施設として整備中。工事用柵の間から、レンズを無理矢理突っ込み撮る。レンズの焦点距離は50mmだが、80〜100mmで撮りたかった。 絞りf8.0、1/500秒、ISO 100、露出補正-1.00。 ★「02栃木市」 何度か撮ったことのある建物。日は地平線に傾き始め、月が出る。思わず、アンセル・アダムスの『月とハーフドーム』を頭に描く。4年前も、時計は2時40分を指していた。因みにこの時は、今年5月2日午後5時5分。 絞りf8.0、1/800秒、ISO 100、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2023/05/26(金) |
第644回:栃木のおばあちゃん |
今から6年前になろうか、相性の良い栃木市へ撮影に出向いた時のこと。その件(くだり)は、拙稿の第365回:「改まってポートレート」(2017年9月22日)に記したが、その一部をもう一度ここに書き移しておこう。今回掲載させていただく写真についての説明を、ついでにしてしまおうとの、ちょっと姑息な魂胆も実は交ざっている。
第365回は、話の枕に「学問に王道なし」を述べ、そして、掲載日の前々日に出会ったおばあちゃんのポートレート撮影について言及している。 撮影のきっかけとなった状況を改めてここに引用すると、「裏通りを行くと廃業して長い年月が経とうとしている木造家屋が目に入った。表に掲げられた看板はペンキが剥げ、錆だらけで色あせ、辛うじて文字が読めるほどのものだった。その家屋を正面から1カットいただき、遠目に電気の灯っていない薄暗い中を窺うと年老いたおばあちゃんが土間に置かれたソファに座っていた」とある。 今ぼくはその時の情景をまざまざと思い起こす。撮影後、おばあちゃん(当時御年90歳だったが、とてもしっかりされていた。今ご存命なら96歳になられたはずである)に写真公開の許可をいただいていたので、第365回におばあちゃんのポートレート写真を2点掲載させていただいた。 今月初旬にぼくは少しずつ変わりゆく栃木市を、少々気落ちしながらも訪れた。よそ者のぼくは、相性の良い栃木市に、武漢コロナで訪問を中止していた間に街の様相が変わって欲しくないと勝手なことを願っていた。そして、ここを訪れる度におばあちゃんの安否を気にしていた。初めてお会いしてからぼくはこの地を何度か訪れているのだが、おばあちゃんに会うことはなかった。お歳がお歳だけに、訪ねることにぼくは怖じ気づいていたのだろう。お元気でおられることを願うばかりであった。 「新しもの好き」のぼくだが、家の佇まいなどはどうしても昭和人間故、懐古趣味といわれようとあの時代の郷愁を求め、磁力に引かれるように足を向け、ついでにレンズも向けてしまうのだ。栃木市は、確かに観光都市でもあるのだが、観光目玉より、上記した昭和の香り漂う家屋やショーウィンドウの醸す気配のほうがずっと好きで、そんな空気感を撮りたくて、飽きもせずに足しげく通っていた。 ぼくも人並みに、日本全国にある有名な名所旧跡に興味はあるものの、写真の対象となると、ぼくは偏屈なのか、人並みでなく、さっぱり興味が湧かない。だが、ぼくのダメなところは、そのように思いつつも、「もしかしたら」という意地の汚い色気、言い換えるならスケベ心が心の片隅に巣くっているようで、自分を罵りながらも何食わぬ顔で撮ってしまうのだから情けない。食べ物を前に、「待て!」がどうしてもできない犬のようだから、やはり我ながら情けない。 そんな写真をおそらくもう何十万枚も撮ってきたのだろうが、許せる写真は、歩留まりでいえば、おそらく0.1%にも満たないだろう。これも情けない。 許せる写真とは、自分の世界が描けたと感じるもの。つまり自身のアイデンティティが示せた写真という意味である。名所旧跡に於ける写真のように誰が撮っても一様なものは、ぼくのなかで写真の範疇には入らない。それを「写真」とはいわない。そのような写真が欲しければ、観光写真を買えばいいのであって、ぼくが(あなたが)撮る必然性などどこにもないのである。 この歳になって、そんな観光写真紛いを悦に入って撮ったり、他人に自慢気に見せたりすれば、それこそ人格を疑われてしまうし、写真愛好家として本当に情けない限りだ。 話を今月の栃木行きに戻す。 意を決して、6年ぶりにおばあちゃんを訪ねてみることにした。きっとぼくを憶えてはいないだろうが、ぼくはよく憶えている。会話をすれば思い出してくれるかも知れない。 市内のメインストリートから400mほど離れた位置にあるおばあちゃんの家に辿り着いたぼくは、屋号の書かれた錆びた看板がすでに取り払われていることに気づいた。店の扉はカーテンで閉じられ(掲載写真「02栃木市」)、なかを窺うも人の気配がまったく感じられなかった。家の周りをぐるぐると歩きながら、人の居住している痕跡を探ったのだが、誰もいないことを知った。 おばあちゃんへの思いが胸に去来し、消息のあれこれを思い浮かべ、悲痛な気持に襲われた。同時に、後悔の念にも襲われ、何か取り返しのつかないようなことをぼくは仕出かしたようにも感じられた。あの時撮ったポートレート写真をまだ手渡していないことにひどい後ろめたさを感じていた。ぼくは礼を逸していた。 「おばあちゃんがご存命であれば96歳だし、こんな時は全体どうしたものか?」と、ぼくは途方を失い、6年間の無沙汰を恥じた。そして、自分を庇い立てるための辻褄合わせを盛んにしていた。もうひとりのぼくが、「みっともないから、そんなことはやめろ」とぼくを難じた。 おばあちゃんの「彼岸の入り9月20日に」と題した書き物をぼくは6年前に写真に撮った。その一部に、「支えあっての人生だ…魂は心が現れる…」とあった。6年前にそれを読んでくれたおばあちゃん。90年の年季がずっしりと入った言葉だった。 https://www.amatias.com/bbs/30/644.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。 栃木県栃木市。 ★「01栃木市」 ジーンズ店の窓に鯉のぼりが泳ぐ。 絞りf10.0、1/80秒、ISO 100、露出補正-0.67。 ★「02栃木市」 なんだか、変に宗教的(抹香臭い)?な写真になってしまったような。このカーテンの向こうにある土間でおばあちゃんを撮影。ガラスに描かれた文字はひび割れし、カーテンにその陰が投影されていた。人の気配はまったくなかった。おばあちゃんは、お元気だろうか? 絞りf8.0、1/800秒、ISO 100、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |