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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/09/22(金)
第660回:飛騨金山町(6)
 今回から、旅の話はお仕舞いにして、たまには写真についてのあれこれを書くつもりでいたのだが、粘り腰に長けたぼくはまだ諦めることができず、執拗に今回も掲載させていただこうと思っている。本当は、あと2枚暗室作業が間に合わずに残っているので、次回こそを、このシリーズの最終回とすることにした。

 友人は、ぼくの文章には、多分にけんか腰の気配が窺われるという。しかし、それはとんだ誤解というもので、争いごとの嫌いなぼくがそんな挙に出るはずがない。
 いつも「百歩譲って、三歩だけ主張する」のが、ぼくの生活態度の基本である。三歩の主張がいたずらに繁衍して、毒素や腐臭を漂わせることはあるだろが、それはぼくのいいたいことを正面からではなく、斜めからしか見ようとしないからだ。したがって、ぼくの責任ではない。ただ、 “婉曲に言い表す” なんて、国家間の外交文書のような書き方はしたくないし、第一そんな芸当は持ち合わせていない。これでも、ネットという事情を顧み、かなり遠慮がちに述べているつもりだ。そこが読者対象がある程度限定できる活字文章とは異なる。

 前回の、新幹線隣席のご婦人の喰らう弁当についての記述は、友人にいわせると「かなりのもの」だったらしく、「昔から君は、辛辣なことをオブラートに包み、さらっといってのける」のだそうだ。ただそのオブラートが時に破れ、それとない苦(にが)みを知らずのうちに放っていることはあるだろう。
 ぼくに、皮肉っぽくものをいう気持はまったくないのだが、もしそうであれば、それはぼくのひねくれた性分に起因しているのだろうと思う。そしてまた、ぼくは琴線に触れた出来事やその感覚に激しく反応し、それを訴えたい気持が人様より強く増幅してしまう傾向があるからだ。

 友人の言を借りれば、「君の『ただきれいなだけの写真』」という表現も、極めてシニカル(冷笑的であるさま)かつ複雑なもの」なのだそうで、また「忌み嫌うというニュアンスがそこにはふんだんに盛り込まれている。 “きれいな” をどう定義するかにもよるだろうが、君は常々『 “きれい” と “美しい” の意味はまったく異なるものだ』といっているしね」と、彼は取調室の刑事よろしく、言及の手を緩めなかった。ぼくは素直に、「汲み取ってもらえれば、それで仕合わせ」とだけ返しておいた。

 文章をどう解釈するかは写真とよく似ており、自身の作品について自ら述べる必要性などまったくないし、それは相手方にとって大きなお世話というものだ。それを自ら進んですることは、むしろ野暮天の極みだ。ぼくは自身の写真について、巷よく見かける「題名」など、そんな不粋かつダサイものを付けたくはない。小っ恥ずかしく思うだけだ。
 「問われれば丁寧に、真摯に思うところをお答えする」姿勢があればいいわけで、礼を逸することにはならない。ただ、文章は写真より具体性があり、写真はより抽象的であるところが異なるのだが、何でも直裁に記せばいいというものでもない。

 飛騨金山町について、旅行通の坊主(息子)が1年ほど前に、「飛騨金山町というところは、昭和の佇まいが色濃く残っているらしい」と説明してくれた。彼はまだそこを訪れてはいないのだが、彼いうところの「昭和」という言葉が、昭和人間のぼくに幻影を与え、淡い望みと期待を持たせてくれた。ただ、歴史の好きな坊主は常に旅行者として様々な地の歴史探訪をすればいいのだが、ぼくは写真屋だ。漁師はボウズ(魚が1匹も釣れないこと)で帰ることはできない。飛騨の山中にあって、こんな駄洒落をいっている場合ではなかった。

 ネットなどで情報をかき集めたが、それを見る限り飛騨金山町の売りである「筋骨」にはさほどの関心を持てないのではと直感した。大漁は期待できないのではないかと思えた。「筋骨」の特異な形式、そして珍しい佇まいではあるが、それを写真に収めるにはただならぬ困難さがあるように思えた。焦点がなかなか絞れないのではないかという恐怖にも駆られていた。残念ながら、ぼくの直感は当たっていた。

 実際この地に立って、「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」という気配が感じられなかった。タクシー会社は日曜なので休みだというし。妙に観光地ずれしていないことに好感を持ったが、「筋骨」が観光の目玉になるかどうかは意見の分かれるところだろう。
 珍しさはあっても、人目を惹くような “きれいな” 景観でないことはいいとしても、さりとてどこに焦点を当てれば自身のアイデンティティを示す写真を撮ることができるのだろうかと困惑した。ぼくはそんな不安に襲われっぱなしだった。

 「フォトジェニックに」という言葉が頭のなかでぐるぐると回転していた。もちろん、この「フォトジェニックに」という意味は、他人に見せるためのものではなく、また人目を惹くためのものでもなく、自身の姿を写真上に正直に表すことができるかという一片の意味を含んでいる。
 なまくらなぼくが、同じところを行ったり来たり3往復もするのは異例のことで、それは非常事態といっても良いが、見知らぬ土地はいつもそうだったことを思い出し、唯一の慰めとした。
 来た以上、タダで帰れないのは商売人の辛いところだが、ぼくはM(マゾっ気)の傾向があるらしく、べそを作りながらも、静かな雄志を抱き、右往左往していた。

 今回掲載した写真は、ダリアと百合で、金山町である必然はない。どこにでも咲いているものだが、困惑しながら歩くぼくに、その美しい姿を一服の安らぎとして与えてくれた。この地に於けるぼくの苦悩の烙印として、取り急ぎシャッターを押してみた。

https://www.amatias.com/bbs/30/660.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF50mm F1.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
雲の間から、一条の光りが、スポットライトのようにダリアに射した瞬間。
絞りf8.0、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.67。

★「02飛騨金山町」
どの百合を撮ろうかと迷ったが、背景を考えながら、三分割法の構図を取りやすいものを選んだ。
絞りf2.0、1/100秒、ISO 200、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/09/15(金)
第659回:飛騨金山町(5)
 今回の短い旅のなかで、ぼくは常に「自分が自分であることの証」としての写真のありようについて考え続けていた。
 長年(正確には27年間)ぼくの脳裏に深く刻まれているA. ソクーロフ監督のドキュメント映画『オリエンタル・エレジー』の美しい映像に、憧れの気持を抱いてきたことはすでに記述したが、真似事をしても意味がないことも同時に述べたので、これ以上繰り返さないが、ささやかではあるがやっと今回の旅で何かのきっかけを掴んだようにも感じている。
 この旅で撮影したもののなかで、 “手応え” とまではいかないが、良いヒントを得、前進する気力を得たような気がしている。齢75にしてのことだから、この事実は上出来であり、写真の楽しみが増したようにも感じている。憧れを抱き、維持できるというのは、まことにありがたいことだ。

 自身の写真を、ぼくは決して“きれいな” 写真だとは思っていないし、むしろそれを嫌い、どちらかといえば “ばっちいなぁ” とさえ感じている。もちろんそれでいい。自身の必然に基づいた正直な写真であることを第一義に考えているからだ。上手く撮れたかは別としても、との注釈付きであることは癪だが。
 しかし、ぼくにだって人並みにきれいな写真に憧れた時期(20代くらいまで)はあったのだ。それはきっと誰もが通る道なのではないかと思う。一見するときれいだが、その先が見えない写真のありように非常な抵抗感が芽生えたのは30歳の少し前だったように記憶している。きれいなだけの写真は深度に欠け、そのようなものにはすぐに飽きが来るし、それはつまり自分自身に飽きてしまうということと同義である。

 読者諸兄からいだだくメールには、「かめやまさんの写真は難しい」とか「難解だ」とかそれに類する表現が寄せられることがしばしばある。これらのご意見にぼく自身は説明できずにいるのだが、ただ、きれいな写真に囚われ、「見せよう、見せよう」との意識があるうちは(それは写真を見れば分かるものだ)、写真は凡庸の域を出られず、そしてまた、それは一過性のものに過ぎない。それで写真が写るはずもない、というのがぼくの考えである。
 自身の人生経験に照らし合わせ、うわべだけのきれいな写真は、30歳まででいいんじゃないかと思っている。

 「酸いも甘いも噛み分ける」好々爺風や修業を積んだ御坊のような心境には、まだ残念ながら至っていない。いや、そんな境地には絶対に至りたくない。至らずに苦悶するのが物づくり屋の本志だとの信念を持っている
 亡父は「砂を噛み、血反吐を吐け」とよくいっていたが、まさに父はそれを実践していた。その反動か、磊落(らいらく)でもあった。ぼくはそんな父の重石を背負った辛そうな背中をよく見ていた。職種は違えど、「やっぱり『蛙の子は蛙』だ」とよく冷やかされるが、父と異なるところは、ぼくは努力家でないことと、それ以上に知性が絶対的に不足していることだ。

 写真活動に限りのある年齢に差しかかって、ある程度の独善を自分に許してもいい年頃かも知れないと近頃思っている。
 ただ、今のぼくには独善に走る勇気がなく、アカンタレ(関西言葉で、駄目な人、意気地のない人間を罵っていう言葉)なのだ。この臆病風は、ぼくの常套句である「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に起因しているようにも思える。ぼくには、もっと大胆不敵さが必要なのだと感じているが、まだ、独善であることの匙加減が分からないでいる。それが、美に通じれば独善もまた然りというところだが、そこがなかなかに難しくも荷厄介だ。

 飛騨金山町の「筋骨」と飛騨街道を、土砂降りの雨に遭いながらも2往復し、努力家でないぼくは座敷童子の出る味わいのある宿に戻り、女将に宿泊せずに帰宅する旨を告げた。里心がついたわけでなく、疲労に負けてしまったからだった。お茶の一杯もいただいていないが、休憩料を払うと女将に申し出たら、「いえいえ、いいですよ。また来て下さいね」と、心温まるお言葉をいただいた。

 よろよろしながら、飛騨金山駅に辿り着いたぼくは、午前中に車に乗せてくれた食堂の割烹着おばさんのところに顔を出し、そのお礼を述べ、別れを告げた。食堂では、地元の団体さんが宴会中で、その盛況ぶりを目の当たりにし、何だか嬉しさが込み上げてきたから不思議である。そして、どうやらこの町の衆は、酒宴にはやる気を見せるらしいということが分かった。
 駅で30分ほど特急列車を待ち、名古屋から新幹線に乗り込んだ。ぼくは2人掛けの通路側だったが、同時に乗り込んだ窓際側のご婦人の形(なり)を見て、少しばかり驚いた。ふわふわした極端に大きな帽子と羽を広げた孔雀のようなフリルの付いた満艦飾の装いは、まるで『マイ・フェア・レディ』(1964年ミュージカル映画)のオードリー・ヘップバーンを思わせるようであった。

 映画より恰幅の良いヘップバーンは、席に着くなり間髪を容れず駅で買ったと覚しき弁当をやおら広げ、それにガツガツと音を立て、人目も憚らずむしゃぶりついたのである。その弁当は、カツの上に何やら得体の知れぬ、決して心地良い色合いとは思えぬ、どちらかというとババ(関西言葉。意味はご自身でお調べください)に近いペースト状のものが付属しており、それがビニール袋から放(ひ)り出され、カツの上に塗りたくられたのだった。なんて凄まじくも恐ろしい代物だ。ぼくは鳥肌が立った。

 着飾ったヘップバーンがババ付きカツに食らいつくその様は、到底この世のものと思えず、ぼくは身震いが止まらなかった。それは感動を飛び越えた戦慄に近いものだった。旅の最終楽章に、ぼくはとんでもない光景に出会ってしまったのである。その鬼気迫る光景を撮り損ねたぼくは、やはりまだまだ修業が足りない。 “ばっちい” 写真を自認するぼくは未熟者だ。くそっ!

https://www.amatias.com/bbs/30/659.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
筋骨巡りの路地に置かれてあった懐かしい風呂桶。昭和時代のもの。
絞りf5.6、1/60秒、ISO 100、露出補正-1.67。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道散策中、突然の集中豪雨に慌ててビニールのレインコートでカメラを覆う。ガラス戸に描かれたひまわりが何とも可愛い
絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2023/09/08(金)
第658回:飛騨金山町(4)
 食堂の親切な割烹着のおばちゃんと、特製かつ丼との取り持ちにより、見込み通りに事を運ぶことができたぼくは、おばちゃんの自家用車に乗せてもらい、宿まで徒歩約10分の道のりを歩かずに済んだ。旅に於けるこのような好意は終生忘れ難いものだ。
 当日は日曜日でタクシー会社も休業だと、たったひとりの駅員さんにすまし顔でチャラっといわれたぼくは、恨み辛みの感情を抱き、旅情豊かな駅の待合室で怨嗟の声をあげた。
 駅に掲げてあったタクシー会社の電話番号に僅かな期待を寄せダイアルしてみたが、呼び鈴だけが無情に鳴り続け、さっぱり音沙汰なしだった。やる気のない町である。

 金山町唯一のタクシー会社の、しかも存在するたった1台のタクシーに乗りそびれたぼくは、前号にて記したが、駅前の大きなアーチに設えられた「WELCOME」という大袈裟な文言に果てしないほどの憤懣を抱いた。
 「なにがWELCOMEなものか! やたら意味の分からぬ外国語を使えば来訪者の気持を幾分かはぐらかせると思ったら、それは大間違いだぞ。こんな見え透いた、見せかけだけのものを如何にもそれらしく掲げるな!」と、ぼくの気持は、旅の疲労と神経過敏により、当然のことながらすっかり荒み、捨て鉢になっていた。
 「旅の恥は掻き捨て」を厳に慎むことを鉄則とし、それを如何なる時にも守り通してきたぼくは、なおのこと反動が大きかったのだ。「WELCOME」に気持を逆撫でされたような気持だった。この拙文を金山町の誰かに、是非読んでもらいたい。

 宿に着き、恐る恐る玄関を開けたぼくはすっかり気を取り直し、「こんにちは〜」と声を張り上げて来訪を告げた。細い土間の左手に居間があり、大きなテレビが野球放送をがなり立てていた。テレビの前には年老いた爺ちゃんがぼくに尻を向け鎮座し、食い入るように野球を観戦中だった。ぼくの声などまるで届いていなかった。やはり、ここもやる気が感じられない。客など、何処吹く風である。だが、ぼくは悪い気はしなかった。

 齢80をとうに越えていると覚しき爺ちゃんは耳が遠いとみえ、大きな声は出したくなかったが、訪問を告げるにはそうするほかなかった。客人に気のついた爺ちゃんは、笑顔を見せ、家人を呼んだ。人の良さそうなおばちゃん(多分娘さんと思われる)が、間口は狭いが、やたら奥行きのある建屋の奥から押っ取り刀で、体を弾ませながら駆けつけてきた。この町の女性はどうやらやる気があるようだ。

 部屋に案内され、女将はエアコンのスイッチを入れることだけが自分の仕事と心得、無駄口を叩くこともなく、すぐに部屋を出て行った。お定まりの宿帳もお茶菓子も電気ポットもなく、60歳をちょっと過ぎたと覚しき女将は「自由にくつろげ」といわんばかりに豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。ぼくが声がけをしない限り女将は金輪際やって来ないのだと察した。
 部屋に鍵はなく、廊下と部屋は模様入りのガラス障子1枚で仕切られており(前号「01」掲載写真のように)、今時まったく珍しくも、プライバシーのない造りであった。ぼくは男なのでそれでいい。
 昭和40年(1965年)、何事にも寛容であった時代に建てられた独特の空気感あるこの旅館の部屋がとても気に入ったので、スマホで2方向から記録しておいた。友人に「今時珍しいだろ。良い味わいだろ」と自慢気に見せたいとの思いがあった。ぼくがスマホを取り出して撮ることなど滅多にないことだ。残念ながら、それは記録写真なので、拙稿では掲載しない。

 さて、前号の掲載写真「01」についてだが、部屋を出ようと廊下に出たところ、向かいの部屋のガラス障子が半開きとなっており、誰もいないはずなのに、人がひとり座っている。ガラス越しのシルエットを見る限り、ぼくは「はて???」となった。客はぼくひとりと聞いていた。シルエットは間違いなく女将ではない。では、誰なのか? だが、障子の隙間から覗くことはしなかった。

 40数年ほど昔に、ぼくは岩手県の遠野に撮影と『遠野物語』を初めとする民話を詳しく知りたいために、足しげく通っていた時期があった。まだ、随所に「曲り家」が存在していた頃だった。当地では、古(いにしえ)から座敷童子やら河童やらキツネが頻繁に出没するらしいが、現地のとんでもなく廃れた神社などで、「何でこんなところに人がいるの !? 夢か幻か?」との経験が3度もあった。それも、よりによって3人とも美人揃いだった(もう時効だ)ため、未だに信じ難い思いでいる。「事実は小説より奇なり」を、地で行くような体験だった。したがって、ぼくの『遠野物語』は今以て3人の美女に集約されている。

 あれから半世紀近く経って、飛騨の人里離れたこの地で、「もしかしたら遠野の再来か?」と思わせる事象だったが、ぼくはもう美人に気を奪われるより(そうかなぁ?)、「このガラス越しの光景は、ソクーロフの『オリエンタル・エレジー』のようではないか!」と、芸術的な美に惹かれた。こんなことは、人生に於ける初体験だった。
 ぼくは直ちに部屋に取って返し、レンズを付け替え(16mmの超広角に)、サイレントシャッターに設定し、足音を立てずにファインダーを恐る恐る覗いた。そして、静かにシャッターを下ろした。

 撮影後、障子の隙間から部屋を伺おうと一瞬思ったが、自身の不粋を嫌悪する気持が好奇心を上回った。もし、同じことがもう一度あったなら、ぼくはやはり好奇心を捨て去るだろう。不粋なことをすれば、写真も不粋さを免れないものになるからだ。だが、エロスは美の本質だし、弱ったものだ。
 「七十にして矩を踰えず」(しちじゅうにしてのりをこえず。どんなに錬成した人物でも、自身の行動や考えをコントロールできるのは70歳になってからだとの意味)というらしいが、「そがんことなか!」。
 自分の撮った写真を見て、「おれの人生はまだこの程度のものか」と、やはり悲嘆に暮れる今日この頃であります。

http://www.amatias.com/bbs/30/658.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
第654回で掲載した「02」写真のほぼ同じ位置から、モニターを確認しながら、突然の雨中の「筋骨」を。シャッタースピードを5段階に分けて撮る。
絞りf6.1、1/5秒、ISO 640、露出補正-1.00。

★「02飛騨金山町」
第656回で紹介した銭湯。湯船の底に貼られた明治時代の陶器質本業タイル。天窓からの光りが、作画に上手くバランスしてくれた。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67
(文:亀山哲郎)

2023/09/01(金)
第657回:飛騨金山町(3)
 物にはどうやら順序というものがあるらしい。いくら世事に疎いぼくでも薄々それは感じている。順序通り物事に対処しないとぼくに辛く当たる者はあくまでも、事象を柔軟に捉えることのできない四角四面の、世間の常識という窮屈の極みのような宗教を信じて疑わぬ、融通や柔軟さとはまったく縁遠い人たちを指す。ぼく自身はそんな友人たちに与しているわけでないが、しかしどう贔屓目に見ても、ぼくが世事に長けているとは到底思えない。
 順序通り、しかも要領良く、との作法に著しい欠陥があることは素直に認める。筋道を追って考えることが苦手なので、ぼくはもしかしたら頭が悪いのだろう。そうしておけば、「無事是名馬」(ぶじこれめいば)なりだ。

 だが世間様が勝手に決めたそのような堅苦しくも、面白味のない決まりごとについて、ぼくが実直に従わなければならないという法はない。それどころか、そうしてしまえば自分がダメになってしまうと堅く信じているので、身を守る本能に従い、そんな些末なことはどこ吹く風である。自由気ままだからこそ、例えば13年間もの長きにわたって拙連載(駄文の極み)が続けられるのだ。この一例を取っても、ぼくは正しい。
 ぼくはぼくの法に従い、つまりそれを世間では “勝手気まま” とか “放埒” というらしいのだが、生き易さという観点から物事を図るべしというのが、もっぱらの、ぼくの生き易さの法である。

 ということで、旅の時系列を無視して書き連ねてきたけれど、今ここで改めて時間軸を戻し、近江八幡から飛騨金山町に到る行程を少し述べてみたい。旅情溢れるとまではいかないが、個人のささやかな心情を知ってもらえば、掲載写真も違った方向から見てもらえるかも知れない。
 加えていうなら、旅情を味わうのであれば、車は鉄道に追いつかぬと知りつつ、撮影は体力だけが勝負なので、どうしてもハンドルを握ることに頼ってしまう。また、現地での便利さと体力的な負担を考慮すれば、やはり車に軍配が上がる。このことは、今回の旅でことさら身に染みた。

 近江八幡から飛騨金山までは、岐阜から特急ひだ号を利用すれば、2時間半ほどで行ける。JR東海道本線の米原を過ぎるとやがて左手に大きな伊吹山(いぶきやま。標高1,377m。滋賀県の最高峰で、琵琶湖国定公園に指定)が間近に現れ、ぼくは感無量の面持ちだった。そして、それを窓越しに何枚も情に駆られながら、記念写真にと撮った。
 というのは、もう65年以上前、小学時夏休みに京都で過ごしていたぼくは、第650回「滋賀県大津」で登場願った叔父が、高校の同級生と伊吹山登山に出かけ、帰ってきた時の、日焼けしたその肌色の凄まじさに仰天してしまった。伊吹山は常に叔父の日焼けに連動している。

 海で日焼けすることは知っていたが、山でもこれほど黒くなるものなのだと、初めて知った出来事でもあった。ランニングシャツ1枚と半パンで登ったのだろう。銭湯に一緒に行った時は、叔父の墨で乱雑に塗りたくったような肌色文様があまりに汚らしくて、ぼくは恥ずかしく、決まりの悪い思いをしたことを今でもはっきり憶えている。伊吹山と聞くと、おかしな文様だらけの、どこぞやの原住民の姿を思い浮かべてしまう。そのくらい叔父の日焼けは、子供を萎縮させるほど不気味で恰好の悪いものだったのだ。
 因みに、伊吹山は日本百名山なのだそうだ。確かに、車窓から見るそれは威風辺りを払うものがあるが、叔父貴はそこに登ったがために、みっともない姿を銭湯にて振りまいていたのだった。

 岐阜から高山線JR特急ひだ号は飛騨川沿いに走る。飛騨川沿いには、国道41号が併走するのだが、その道を、これも思い出話になってしまうのだが、半世紀ほど前、女房の母を助手席に乗せて、下呂温泉まで行ったことがあった。その後最晩年の彼女を京都から埼玉に引き取った経緯もあり、彼女には特別の思いがあった。その母も4年前病院の不手際で亡くなり、車窓の隣を走る国道41号線を見ながら、我が家で過ごした母との楽しくも懐かしい思い出にふけっていた。

 飛騨金山町にたったひとり降り立ったぼくは、タクシーで宿に行く算段をしていた。たったひとりの駅員さん(7 : 40分 ~ 15 : 00分まで営業)が、「この町にタクシーは1台だけあるのですが、今日は日曜日なので、あいにく営業はしていませんよ」と、素っ気なくおっしゃる。たったひとりの旅人を気遣う気配などまったくなし。駅前には大きなアーチが設えてあり “WELCOME” と正しいスペルで、しかも大文字でデカデカと記してあるのがあまりにもチグハグな感じで、ぼくはその英語がひどく癇に障った。

 「腹ごしらえの時間だが、はてどうしたものか?」と思案していると、食堂らしきものが一軒。取り敢えず、そこに飛び込むしか手がなさそうだった。ぼくは、駅前広場に面したそこに割烹着仕立ての、救いの神がいると信じた。吸い込まれるように、「何か食わせて」という仕草をしたら、案の定、割烹着の神が躍り出て、「何になさいましょう?」と、にこやかにメニューを見せてくれた。ぼくは「特製」と銘打った「かつ丼」を迷うことなく注文し、割烹着の女将に、「Aという宿はどう行けばいいの? 歩いてどのくらい? タクシーは客がいるのに休業なんだってね。ぼくを歓迎してくれるのは、どうやらこの食堂の貴方だけのようだね」。ぼくの目論見が功を奏し、割烹着おばさんは「あたしが車で宿まで送ってあげるよ。心配しなさんな」と、ぼくの心中を見事見透かして、特製かつ丼の見返りにと、ぼくは半世紀後に、この地で助手席に乗ることになった。

https://www.amatias.com/bbs/30/657.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24−105mm L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
宿の廊下を歩いていたら、こんな光景に出会った。「ソクーロフに取り憑かれたかも」と思い、嬉々としてシャッターを押す。前号同様、「超広角の歪曲収差なんて気にするな。捨て置け」とソクーロフの心強い声が廊下にこだました。この写真の詳細は次号で。
絞りf5.0、1/15秒、ISO 640、露出補正-0.337。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道。「これは僅かに暖色系のモノクロで」との声が、どこからか聞こえてきた。カラーより断然ここの空気に合っている。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2023/08/25(金)
第656回:飛騨金山町(2)
 今ぼくは、前号末尾に「27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである」と不用意に記してしまったことにちょっと後悔している。その気持に何ら変わりはないのだが、それを書き記そうとすれば、相当な文字数を覚悟しなければならない。今回、思うところのすべてを書き切れないもどかしさはあるが、要点だけに絞ることはできそうだ。

 それより、本来は、旅の行程について順序立てて記すべきであった。つまり、近江八幡から飛騨金山町の宿に辿り着くあらましを先に述べるべきであった。何でも無計画にことを済ませてしまおうといういい加減なぼくの性癖が災いしてしまったというわけだ。
 「順を追って」という人生の掟を生殺しにしてきた報いなのだろう。だがぼくは、「出たとこ勝負」とか「ぶっつけ本番」の危うさに生の実感を得、それが好きなのかも知れない。多分にMの傾向があるのかも知れない。だが、そのうちきっと自爆するだろう。極楽とんぼの行く末はしれている。

 友人から「『脳裏に焼き付いている映画監督の映像』と述べているが、それって誰の何という映画か? 含みを持たせたような言い方などしないでさっさといいなさい」とドスの利いた脅迫を受けた。まったく癪に障る。そんなことはぼく自身がとっくに承知していることだ。

 今まで、ぼくの憧れた写真家や映画監督の映像から、多くのものを得たことは間違いないのだが、ただ単にそれをそっくり真似ても無意味であることを知っている。真似るだけで自身の写真のクオリティが上がるわけでもない。真似だけでは、どう足掻いても真似で終わってしまう。自身のオリジナリティがなければ創造も無意味だ。
 憧れを抱いた映像作家たちは自身の描くイメージを表現するために独自のもの(トーンやアイデア)を編み出したのであって、ぼくの描くイメージが彼らと同じであるはずはなく、そっくり真似ても意味がない。前述したように、それはただの真似事であり、二番煎じでもあり、独自のものを開拓・開発しなければ、創造とはいえない。

 例えばA. アダムスの風景写真に多くの人が憧れ(ぼくもそのうちのひとり)、彼の編み出した「ゾーンシステム」の理論を修得した人々(多くは欧米の人たち。ぼくは彼らを写真家とは呼ばない)の作品を観ると、「ゾーンシステムのためのゾーンシステム写真」に終始していて、そこに優れたものをぼくは見出すことはなかった。

 アダムスの教本による撮影や暗室技術の理論は大変参考になり、ぼくとて真剣に取り組んだが、当然のことながら、それだけで写真として恰好がつくものではない。
 写真のクオリティは、技術や理論は必要だが、それ以前に被写体の発見とどの様なイメージを描くか(撮影者の人生観や美意識、加え知性によるところのもの)がさらに重要で、そのうえでクオリティが決定する。それがぼくの確たる考えだ。描くイメージが貧困であれば、どれほど「ゾーンシステム」を修得し、重用しようが、良い写真は成り立たない。

 27年前、NHKで放映されたアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・ソクーロフ(ロシア。1951年生まれ)監督による短編ドキュメント映画(43分)『オリエンタル・エレジー』を観て、ぼくは腰が抜けた。ドキュメントの分野に入っているが、一片の、内省的な映像詩といったほうがしっくりくる。

 霧に包まれた幽玄かつ哲学的な映像は日本が舞台で、ぼくはこの映像の底知れぬ詩的な表現に参ってしまった。何という美しさか! その映像は、生涯忘れ得ぬ衝撃だった。
 ぼくは写真屋なので、動画ではなく、これを静止画(つまり写真)で表現しようとしたら、果たして写真として成り立つだろうかとの疑念が常に頭の中で渦巻いていた。技法的、そして心理的な面でそれを解決するには、動画と静止画の視覚に於ける人間工学的な面での相違について理解する必要があるだろう。そんな結論に至ったが、ではどのようにすれば良いのか、未だに分からない。試行錯誤を繰り返し、のた打ち回るしかないだろう。

 まだぼくの写真は憧れの域を出られずにいるが、20年ほど前に買い求めた『オリエンタル・エレジー』のDVDを久しぶりに観て、レンズの解像度や諸収差について、あれこれいきり立って語ることの虚しさを覚えた。「そんなことはどうでもいいよ。映像美にとってはひどく些末な問題だ」と、昨今の “写りすぎる” デジタルカメラやレンズに反目したい気持を支えてくれた。この映画は、ぼくのそんな懸念と疑問をなぎ払ってくれたように感じている。

 霧に咽(むせ)ぶような『オリエンタル・エレジー』についての映画観は述べずにおくが、飛騨金山町の「筋骨巡り」で出会った家々の佇まいを仰ぎ見た時に、ぼくは巷でいわれる『ハウルの動く城』などではなく、「これぞソクーロフ」と思わず呟いたほどだった。映画の家屋とは古さも建築様式も異なるが、どこか共振するものがあった。
 憧れの映像をどの様にぼく流に調理すればいいのか、飛騨の地にあってやはり途方に暮れるぼくだった。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
飛騨街道のくぼみにあった昭和の銭湯。1988年(昭和63年)まで営業。現在は立ち入り自由。「銭湯の中を見られた方は表の扉を閉めて行ってください」と但し書きの看板がぶら下がっていた。昔懐かしい脱衣所と脱衣入れ。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 800、露出補正-0.67。
★「02飛騨金山町」
銭湯の番台。鬱陶しい写真、だからぼくは好かれない。牛乳瓶には「下呂牛乳」(音読してはいけない)と赤い文字で書かれてあった。もう1cmほど瓶を右に寄せたかったが、一切手を触れてはいけないと思い、そのままの状態で。超広角の歪曲収差は、ソクーロフに倣って補正せず。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/08/18(金)
第655回:飛騨金山町(1)
 見知らぬ土地の情報を得るに、今は便利な時代となった。ベッドに寝転びながらスマホ片手にネットを探れば多くのことが、情報の当否は別としても、得ることができる。こんな横着をして情報を手に入れることにぼくは多少の後ろめたさを感じている。長年のアナログによる情報収集に身をやつしてきたぼくにとって、安易さはどこかに必ず落とし穴が潜んでいるものだとの感を拭えない。

 だがやはり、 “お手軽” という誘惑には何としても勝ち難く、無意識にキーボードを叩いている物臭な自分がいる。けれど、何事にも表裏があるものだ。ぼくはこのことに素早く気づく優れた性質を有しているのだが、いつも意志薄弱が邪魔をして、楽して実(じつ)を取ろうとするから、質(たち)がよろしくない。よしんばそれが怪しげな実であっても、自分にとってどの様なものであるかの正しい判断ができると過信しているところが、輪を掛けて、おめでたくも素晴らしい。

 昨今の、あまりの情報の多さに、人は惑わされる。取捨選択の苦手な人の多くは、疑うことを知らぬとの仏心を得ているので、それ如きのことで右往左往などしない。彼らは、ネット情報やテレビでの見聞きを鵜呑みにできるという特異な技を持っている。
 似て非なるものを瞬時に嗅ぎ分ける能力など必要ないといわんばかりにあっけらかんとしており、疑心暗鬼に凝り固まったぼくなどにとっては、何とも羨ましい限りだ。

 それはそれでよいのだが、一方、情報過多は自分の立ち位置を見失わせるとの危険性につきまとわれることになる。善と悪、正と誤は常に隣り合わせという具合になっているから余計に始末が悪い。それらは、いつも似たもの同士というわけだ。幸いないことに、ぼくはそのことに少しは気を寄せている。
 しかし、この道理に神経を尖らせないほうが、かえって生きやすいのかも知れないと、ぼくはこの歳になってそう思う時がしばしばある。

 父は、「ケチは好ましくはないが、欲張りはいかん」といっていた。母方の祖父は、「ケチはいいが、シブチンは絶対にいかん」が口癖だった。ならぼくは、「ケチもダメ、欲張りもダメ」でいいじゃないかとしている。
 祖父は、決して知的な人間ではなかったが、道理に沿った好ましい人間であろうと努めたことをぼくは認めているし、評価もしている。

 ネットなどない時代は、俗悪ではあるが、今よりは多少ましであったテレビや新聞(現在は、双方とも “オールドメディア” と揶揄されているが)に、世の人々は “お手軽” を頼っていた。
 現在のように、ネットによる正確な情報(情報の信憑性は受け手次第であり、知識力と判断力による)を容易に得ることができず、それなりの労力と幾ばくかの金銭を必要としたものだ。それがために、自分にとって必要な情報を選別し、身の振り方を熟考する必要があった。撮影に限っていえば、国内での撮影はもちろんのこと、海外でのそれは必須条件だったし、今でもそれに変わりはない。

 ネット情報が、如何なる心理的効果をもたらすかは千差万別だが、今度の旅で、かつて体験したことのある場所は、近江八幡だけだった。神戸の三ノ宮は撮影目的ではなかったので、下調べは何もしなかったが、今回取り上げた飛騨金町に行こうとのきっかけは、暇さえあれば旅にばかり出ている坊主(息子)の言葉だった。彼はまだその地を体験していなかったのだが、多くの旅情報を親父に内緒で抱え込んでいた。

 曰く「飛騨金山町は、細い路地が張り巡らされており、そこには昭和の佇まいが多く見られるらしい。ぼくもそのうちに行こうと思っている」。
 いつも坊主に先を越されるぼくは、ここだけの話、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。今回こそ、やつを出し抜いてやろうとの野心に燃えた。
 ぼくはネット情報とYouTubeをかき回した。負けず嫌いのぼくは用意周到に、空き容量の少なくなった脳味噌に精一杯の知識を詰め込んで出かけた。それでも「手落ち」や「意外性」は避けることができないのだが、そこが旅の面白さでもある。現場での実体験こそ、「世界広しといえども、私だけのもの」なので、そこで自身が何を感じ、それをどう写真に反映させるかに、ぼくは非常な楽しみと関心を寄せた。

 飛騨街道の宿場である飛騨金山町には、前号で述べた「筋骨」の他にも見所があるらしいのだが、ぼくはいわゆる「筋骨巡り」に重点を置くことにした。あれもこれもでは、集中力を欠いてしまいかねないからだ。今回は「ひとつだけ」と心に決めた。
 ネット情報によると、そこは『ハウルの動く城』だとか「ジブリ」との形容が数多く記されていたり、また述べられてもいるが、残念なことにぼくは双方に大した興味を持っていない。
 何故かといえば、それらはぼくの指標とする写真表現とは遙かに遠い距離にあり、日本のアニメを評価しつつも、映像に関しては、ロシアのアニメ作家であるユーリー・ノルシュテイン(1941年生まれ。代表作『霧につつまれたハリネズミ』や30年以上も制作をし続け、未だ完成を見ない『外套』など)に、より高品質なものを感じているからだ。同じ土俵で比べるべきでないことを承知の上で述べれば、ノルシュテインはずっと「大人な」表現なのである。

 そして、「筋骨」の路地に降り立ち、そこで見上げた家々は、ぼくにとって、巷でいわれている、先述したところの『ハウルの動く城』などではなく、27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
強い日射しが、一天にわかにかき曇り、いきなりの驟雨(しゅうう)。画面左下が細い路地。水路を跨いで家が建つ。
絞りf11、1/6秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道から、「筋骨」の路地を下る。紫陽花が窮屈そうに咲いていた。左側が水路。
絞りf9.0、1/50秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2023/08/04(金)
第654回:近江八幡から飛騨金山町へ
 ステーキや牛肉には子供のころからこんにちまで目のないぼくだが、今回の旅で、神戸では神戸牛、大津では近江牛の、嵐のような激しくも際どい誘惑に打ち勝ち、倹(つま)しくも雄々しい写真屋のあるべき姿を示すことができたと悦に入っていた。単純な男だ。だが、関東ではなかなか味わえぬほど美味い牛たちである。ぼくは彼らの迫り来る肉の誘惑に見事勝利した。勇猛果敢に、牛たちを闘牛士のように打ち負かしたのだった。

 これはこれで一種の、とかく野菜嫌いの人間にとって、極めて高貴で勇気溢れる振る舞いではなかったかとぼくは自身への讃辞を惜しまなかった。「やればできる」との貴重な教えを得たのだった。食欲などという浅ましき欲に打ち勝ち、倹しくあることは人として誠に尊ぶべきことだ。このことは、貴賤の分かれ目とも思える。
 「おまえがそれをいうか!」との的外れな声が関西方面から聞こえてくるのは重々承知しているが、それは食欲旺盛だった若かりしころの話だ。誰でもそのような時期があっただろうに。だから、そんなことはもう忘れてもらいたい。

 ぼくがいいたいのは、この歳になって、食や酒について、あれやこれやの、意味のないことに蘊蓄(うんちく)を傾ける所作は、誠にはしたないということなのだ。だが、それに気のつかぬ、行儀の悪い人々がたくさんいる。
 「このことは、食に限らず写真でも同様である」と、ぼくは「写真よもやま話」に相応しく?あろうと、 これに託けて声を大にしていいたい。年相応の写真こそ尊いと思っているし、そのような写真をぼくは高く評価している。「年相応の写真を撮りましょう」というのが、ぼくの常套句でもある。
 第一、還暦を過ぎれば肩の力も抜け、食や酒に関する蘊蓄に踊らされることもなかろうにと、ぼくは自省を込めて思うのだ。

 また時に、年配の方々がもっともらしく、「若い人の写真を見て、その感性から学ぶべきことが多々ある」とわけ知り顔でうそぶく。そのような光景に時折出会(くわ)すのはぼくばかりではないだろう。よくある話である。
 だが、自分のことはさて置き、「あなただってその時代があったのでしょう? その時に学ばなかったの? 若い人の作品から学ぶべきことがないなどとは決して思わないが、今、あなたは若い人にない多くの人生経験を持ち、そこで得た人生観は唯一無二のあなただけのものなのだから、それを宝物とし、作品に反映させることを第一義とすべきではないのか」と、ぼくは相手の顔を覗き込みながら伺いを立てる。若い人には若さに相応しい作品を。年配者はその人生に嘘を吐かぬ作品をとの思いが、ぼくには強固なまでにある。

 あれれ、これ以上説教がましくなってはいかんので(もう十分になっている)、話を元に戻そう。
 倹しくあることは素晴らしきこととの自身の考えを今回の旅で実践できたことに、いうにいわれぬ高揚感と満足感を覚えた。「おれもまだまだ捨てたものじゃない。この地で、小銭をばらまくという大失態を演じてしまったが、しかし、老いぼれちゃいないのだ」との意を強くした。
 このような肉欲 !? に打ち勝つことは並大抵の人間ではできぬことだと、ぼくは現地にて、これ以上にないほど自慢気に鼻を膨らませた。何とも仕合わせな男である。

 八幡堀や新町通りの撮影に悩みながらも5時間を費やし、「近江八幡の撮影は本日をもって終了。雪の季節なら、また別の趣があっていいだろうな」と思いつつ、歩いてホテルに引き上げることにした。
 疲れ切っていたが、「ホテルまでの道中、もしや良い被写体に巡り会うかも知れない。ならば、歩くほかなし。バスを利用すれば、往路での小銭ばらまき事件を知っている人に、もしかすると出会ってしまうかも知れない。あるいは同じ運転手さんという可能性も大だ。心に突き刺さるような視線を投じられるのは敵わない。世の中、何があるか分かったものではないからな。見くびってはいかん」とぶつぶついい、ふらつく足を引きずりながらも、ホテルまで約2kmの道のりを歩いた。

 やっとの思いでホテルのベッドに倒れ込み、夕食までの時間をうつらうつらし、体力の回復に努めた。やがて空腹を覚え、手軽で美味しい店を教えてもらおうと、フロントに出向いた。ところがここでぼくは卑怯な闇討ちに遭ってしまったのだ。
 フロントマンは得意気に、「お客さん、せっかく近江に来やはったんやし、それやったらやはり近江牛でっせ。それしかおまへん。ええ店を何軒か紹介しまっさ」と、この旅で得たぼくの掛け替えのないささやかな矜恃を、彼は妄(みだ)りに打ち砕こうとしたのだった。肉欲に打ち勝ってきたぼくを差し置いて、何たる戯言(たわごと)。ぼくは、寝小便を咎められた小僧のように、べたべたの関西言葉に対抗の手を失い、打ちひしがれるしかなかった。ぼくはフロントマンの意向にやむなく従い、いそいそと近江牛を喰らいに、店の敷居をまたいでしまった。

 今回は、飛騨金山(かなやま)(岐阜県。2004年に益田郡の他4町村が合併し下呂市となった。正しくは、下呂市金山町。駅名は、飛騨金山)に辿り着く予定だったが、いつもの如く余計なことばかり書き連ね、辿りそびれてしまった。掲載写真だけが、そこに辿り着き、それでお茶を濁すことに。な〜にやってんだか!

 来週は、お盆休みのため休載です。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
金山町は「筋骨」(きんこつ)と呼ばれる名物がある。「筋骨」とは、飛騨地方の呼び名で、細い路地が迷路のように絡み合っている公道を指し、その様が人間の筋や骨のようであることから、名付けられた。町なかの飛騨街道から、人がやっとすれ違うことのできる階段を降りるところから始まる。この写真はその一例。
絞りf9.0、1/80秒、ISO 400、露出補正-1.00。
★「02飛騨金山町」
「01」写真に見える小さな橋から、見上げた風景。下に水路が通っている。この写真のイメージの成り立ちは次回にて詳しく記すことに。
絞りf5.6、1/800秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2023/07/28(金)
第653回:滋賀県近江八幡(3)
 このところの、今まで体験したことのないような凄まじい熱暑に、世のお勤めの方々はさぞや命懸けの日々を送っておられるだろうと、同情しきりである。ぼくはまだ隠居の域に届いているとは思っていないが、さすがにこのあるまじき炎天下での撮影は、熱中症を通り越して、若ければまだしも、この歳になると生命の危険に晒されるように感じるほどだ。車に轢かれたヒキガエルのようにカラカラに干からびてしまうと思えるほどの、尋常でない今夏の暑さである。

 生来、寒い分にはまったく意に介さず、人一倍元気なのだが(極寒のシベリアを2度ばかり堪能している)、暑いとなるともういけない。それに湿気が加わると、厭世的な気分にどっぷり浸り、何もかもが怨敵に思えてくる。ぼくは捨て鉢となり、恨み骨髄ながらも天を仰いで唾するわけにもいかず、しかも、日本の暑さは底意地悪く、我慢のならない湿気によるベタベタ感が加わるので、大変な不快指数だ。息も絶え絶えとなり、それを大義名分に、課せられた務めを何とか回避しようとやっきになっても罪にならぬとぼくは決め込んでいる。
 今、日本の味わいのある夏の風物詩は、この何年間か忌むべき武漢コロナに煽られ、そして今夏は酷暑という危機に晒されている。であるからして、風月を友とするわけにもなかなかいかず、写真屋も、うかうかしていられない。

 「撮影で命尽きるのであれば本望だ。悔いはない」なんて、どこかで聞いたことのあるような、気張った、しかも胡散臭い科白は、どことなく生っぽく、いかがわしくもお間抜けで、洒落にもならぬ。
 この歳になって、そんなことを仰々しくも、そして白々しくいう気もないし、それどころか「死んで花実が咲くものか」と、反逆精神がもりもりむくれ上がるのである。そんなに息むことはないじゃないかといいたくなるくらいだ。
 
 もし、この炎天下でファインダーを覗きながら倒れたら、同情は疎か、気にもかけてもらえず、「身の程知らずだねぇ。阿呆だねぇ、だから年寄りは困るのさ」と嘲罵されるのが落ちというものだ。
 しゃがみ込んで花などを撮り、立ち上がった瞬間に軽い目眩を覚えたのは、つい最近になってからのことだった。「えっ、どうしてなの?」と、初めての体験に少々うろたえたのは、つい2年ほど前の夏日のことだった。それが老化によるものか、気温によるものかは定かでないが、「どうやら、両方らしい」との覚えは、とても不気味なものだった。だがいずれにせよ、ふてぶてしくも、味噌も糞も一緒くたである。
 だからぼくは、切りの良い後期高齢者となった今年から、酷暑の夏を親の仇とし、何日間もじっと自室に籠もり、不快な夏をやり過ごそうと決めている。

 だが世の中、思うように事は運ばない。
 つい数日前に、よんどころなく、心ない人々に懐柔され、あろうことか、ミュージカルの撮影を命じられてしまった。普段なら、「人でなし!」とか「人非人!」とか「老人ハラスメント!」と毒突いてやるのだが、依頼主は人生のすべてを丸呑みにしたような力感溢れるこわ〜い、コワ〜イ、人を人とも思わぬ百戦錬磨のおばさま軍団なので、ぼくに抵抗の術はなく、蛇に睨まれた蛙のように、その凄味の前に身動きが取れなくなってしまった。金縛りというやつだ。名画『恐怖の報酬』(仏1953年、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)のイヴ・モンタンのような心境だった。

 会場での次第を書き連ねると、5000字を優に超えてしまうので、断念するが、ぼくはこの撮影後の3日間は寝たきり老人を余儀なくされた。全身の筋肉がバリバリと音を立て、その痛さに悲鳴を上げ、ベッドから這うようにしてトイレに到るその様は、人生終焉のベルが鳴り響いているように感じられた。撮影を手伝ってくれた同年の士も、やはりぼくと同様に悲惨な夢物語にうなされたのだそうだ。
 しかしぼくは誰をも恨むことなく、体力の限界を素直に受け入れることにした。この原稿を認めている今も、ぼくはまだあの後遺症に悩まされている。そして、焦りながらも、とんと、近江八幡まで辿り着けないでいるのだ。

 前号で、「現在の近江八幡は『上手く化粧を施した女(ひと)』」と書いたが、困ったことに、どこにレンズを向けても、被写体となるものが上手に整いすぎており、隙が見当たらないのだ。「破綻のない」とはこのようなことをいうのだろう。
 写真に限らず、絵画でも、文学でも、ある対象物(素材)の破れを見つけ、それを自身の流儀に従って、上手に味付けをし、作者でしか成し得ない味わいというか一種の妙味を表出・表現するのが創造の醍醐味だとすれば、近江八幡はぼくにとって誠に手強い相手だったといえる。ましてや、半世紀ほど昔の残像(幻影)に取り憑かれた身として、それを振り払い、現在の整備された佇まいに放り込まれての発見は、不器用なぼくにとって、容易なことではなかった。

 初めに目にした街案内版に大きな文字で、「すんでよかったまち 訪れてよかったまち もう一度訪ねてみたいまち」との標語が掲げてあったが、その語句に偽りはない。
 ぼくは八幡堀や街並での5時間の滞在で、確たる被写体を見出すことができなかったが、不思議と無念さが湧かなかった。なんだかんだいいながらも、この街に好意を寄せたのは、やはり遠い昔の恋心が消えずにいたからだろうか。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
「かわらミュージアム」の敷地に置かれてあった大きな鬼瓦。日本の伝統工芸の一つとして、かつて鬼瓦制作の工程を、埼玉県小川町で撮影したことがあった。奈良時代以降は厄除けとして鬼面が多く用いられるようになり、鬼瓦と呼ばれるようになった。
絞りf5.6、1/320秒、ISO 100、露出補正-1.00。
★「02近江八幡市」
新町通りを歩きながら。空は雲ひとつなく晴れ上がり、疲れと暑さでげんなりしながらも、意気揚々とシャッターを押す。
絞りf6.3、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/07/21(金)
第652回:滋賀県近江八幡(2)
 バスのなかで小銭(100円玉1枚、50円玉1枚、10円玉7枚の計220円)を盛大にばらまくという大失態を犯したぼくは、すっかり身の置きどころをなくし、我を失ってしまった。乗客すべての、いいようのない視線が、気弱なぼくに注がれたように感じられた。この手の注視は最悪といえる。ぼくはこの時、まさに、忌むべき “死神の降臨” に遭ってしまったのだ。

 普段でも滅多にない、いや、生涯でも初めてのことを、あろうことか、決してあってはならない場面で、やらかしてしまった。
 「歳を取っても爺むさくあるまい」という家訓 !? に背いてしまったからには、ご先祖様に合わせる顔がない。何故かこの時、親父と、会ったことのない親父の父(つまり祖父。ぼくが生まれた時にはすでにこの世の人ではなくなっていた)の顔が、突如出現した。ぼくをこよなく可愛がってくれた母方の祖父でなかったところが面白い。だが、この時は面白がっている余裕などなかった。それどころではなかったのだ。

 常日頃、「おれはおれだから」と人目などまったく頓着せず、勝手気ままに振る舞うぼくだが、我が道を行きすぎた報いを受けたのだろう。とうとう焼きが回ってしまったのだ。
 この時ばかりは、涙より先に前身から汗が噴き出るような感覚を覚えた。貴重な体験といえばそれまでだが、恥のあまり、忍者のように煙遁の術を使いたいと思ったくらいだった。こんな恥かきは金輪際御免だと、ぼくはよほど身にこたえたのだろう。

 ぼくの隣に、観光目的の老夫婦が腰掛けており、「どちらまで行かれるのですか? 八幡堀(はちまんぼり)や街並観光なら降りるところも私たちと同じですね」と、ぼくの気まずい心情を察してか、にこやかな顔で優しく語りかけてくれた。「捨てる神あれば拾う神あり」である。このありがたさにぼくは安堵し、死神の降臨に遭いながらも、まだ徳が残っていると感じ、気を取りなすことができた。
 老夫婦の言葉に死神はすごすごと立ち去り、ぼくはそれに意を強くし、石を投げつけてやろうかと、罰当たりなことを本気で思い立ったくらいだ。

 この貴重な体験は、「ひとり旅」であるからこその大きな収穫であり、味わいでもあることを、声を大にしていっておきたい。ツアーや友人を伴った旅では、決して体験することができないものだ。
 「旅の味わいは、絶対ひとりに限る。どんな人でもひとり旅に出ると、感覚が鋭敏となり、そして情感が増し、同時に発見するものも多くなり、にわか詩人に変身する」がぼくの確たる持論である。
 こんな出来事に国内で遭遇するとは、まったく想像さえしていなかった。しかしぼくは、自説の正しいことを確認し、今、バスでの粗相に鼻を膨らませている。

 精神的窮地に陥った観光客でないぼくの気持ちを和らげてくれた老夫婦に、降車後「どうぞ良い旅を」と別れを告げた。
 小さなカメラバッグに、16mm F2.8単レンズと24-105mm F4.0 Lズームの横着レンズを忍ばせ、その2本で、今日の近江八幡を賄うことにした。ぼくが、仕事の写真以外に200mm以上の望遠レンズを使わないのは、立体感を重視する自身の作画に合わないと感じているからだ。これは、もちろん良し悪しの問題ではなく、撮影者の意図する、あるいは望む表現に依拠する事柄でもある。
 また、写真でしか表現出来ない広角レンズ特有の遠近感が好きということもあろうと思う。

 バスを降り、八幡堀(安土・桃山時代に造られ、城下町として繁栄する一因となった物資運搬のための水路。昭和初期まで町の人々の行き交いに貢献したが、戦後は陸上交通の発展により廃れた。堀に沿って土蔵や白壁の旧家が建ち並び、往事を偲ぶことができる。現在は、観光客用に屋形船が頻繁に往来し、観光名所のひとつとなっている)に行き当たったぼくは辺りを眺めつつ、約半世紀前の古い記憶に塗り染められた場所を求めるには、無理難題であろうとの予感に襲われた。
 そこは、あまりにも月日が経ちすぎて、今やきれいに整備された風物に取って代わっていた。おそらくぼくの見たかつての佇まいは、すでに幻と消えたといっても過言ではなかろうという気がした。

 とはいえ、近江八幡は、名所旧跡をこれ見よがしに商売道具に変えてしまう行儀の悪いどこかの町とは大きな違いを見出すことができる。品格があるのだ。
 それはきっと、近江商人の商人哲学である「三方よし」(商売に於いて、売り手と買い手が満足し、それにとどまらず、社会に貢献できてこそよい商売といえるとの考え方)や「陰徳善事」(自己顕示をせず、そして見返りも期待せず、人のために尽くすこと)が現在もしっかり息づいているからだろうとぼくは推察する。近江商人は、営利至上主義を諫める教えを持ち続けていることが、ある種の心地よさを醸しているのだと思う。
 女性に喩えれば、現在の近江八幡は「上手く化粧を施した女(ひと)」といえ、ぼくは半世紀前にスッピンの美人に出会ったのだと思っている。幻影は未だ風化せず、といったところだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/652.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
八幡堀際に建ち並ぶ旧家。晴れたり曇ったりの天候だったが、日傘をさす2人の女性が運良く通りかかってくれた。
絞りf5.6、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02近江八幡市」
八幡堀にある「かわらミュージアム」へ通じる道。瓦が敷き詰められている道を、隙間より超広角のパースを生かして撮る。
絞りf6.3、1/160秒、ISO 100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/07/14(金)
第651回:滋賀県近江八幡
 前回に引き続き、下手をすると今回も写真の話はほとんど出番がなく、先頃の旅についてのささやかな話に終始するかも知れないことをあらかじめご了承いただきたい。紀行文というほどえらそうなものではないが、取り敢えず先回りをして、その伏線を敷き、自己保身をはかっておくことに。
 まったく困ったものだと自認するが、ぼくとて人の子、多少の良心は持ち合わせているのだが、しかしながら、担当者の顔がどうしても目の前にちらちらするのが癪の種だ。「人の疝気を頭痛に病む」(自分に直接関係のない余計なことに気を揉むことのたとえ)のは弱りものだ。
 しかし、他人を困らせたり、困惑させたりするのも、人生の楽しみと思えば気が楽になる。立ち回りの上手い人間は、得てして面白味に欠けるというのがぼくの持論。第一、そのような人物は可愛げがなく、信頼も置けない。

 大津のホテルで目覚めたぼくは、真っ先にカーテンを開け、空を眺めた。ピーカンの予想とは少々異なり、どうやら雲のまにまに、薄日がもれていた。雨の降る気配が感じられなかったので、後ろ髪を引かれるような思いで梅小路(京都鉄道博物館)を諦め、40数年前に感動を与えてくれた近江八幡に行くことにした。このことが嬉しいのかそうでないのか、今度はぼくが困る番だった。自分の困惑は楽しくないし、気楽でもない。担当者をして、「他人の不幸は蜜の味」というわけだ。
 ホテルから大津駅までリュックを背負って歩くのは大変な勇気を必要としたので、ぼくは気迷うことなくタクシーを呼んだ。タクシーという文明を利器は、まさに蜜の味である。

 大津から近江八幡までは30分ほどの行程である。近江八幡駅に隣接した観光案内所に飛び込み、取り敢えず荷を降ろすためのホテルを調達してもらってから、40数年前にぼくに感動を与えてくれた場所がどの辺りかを質問してみた。
 今そのイメージは、もちろんモノクロ仕立てのもので、しかも画像の周辺がすでにセピア色となり、色褪せて薄くなっており、ぼくは頼りない質問をした。
 「古式な木造家屋で、その横に細い水路のあった、とても風情豊かな所」という、簡略を極めた説明を試みた。その1シーンしか記憶に留めていないのだから、ぼくとて、それ以上に詳細なことを伝えることはできなかった。脳裏に焼き付いているとはいえ、40数年前の曖昧な記憶による佇まいについて、「それはどこか?」と問うことに、ぼくはいいようのない恥じらいを覚え、ひどくきまりが悪かった。

 ぼくの、乱暴で、茫漠とした、心許ない質問に、案内所のおねえさんはしきりと首を傾げ、「どうしましょう。分からないわ」とうろたえるばかり。彼女は、直ちに年配の男性に助けを求めた。ぼくのような半世紀近い昔の思い出に凝り固まった手合いの扱いに慣れているかどうかは分からないが、年配のおじさんは、案内所のベテランとして、「お訊ねの場所かどうかはっきりお答えできませんが、八幡堀か旧家が建ち並ぶ、いわゆる近江八幡の名所に、まずいらしてみたらいかがでしょうか」と、彼としては至極まっとうで誠実な答を返してくれた。情報不足のぼくは、「では、そこを訪ねてみます」と、素直に答えるしかなかった。

 ぼくに満足な返答ができなかったおねえさんは、「そこに行くには、駅前の6番のバスに乗って、小幡町資料館で降りてください」と、申し訳なさそうに、懐古の情に駆られた、分別を失いかけた初老のぼくに、精一杯のいたわりを示してくれた。
 バスは出発したばかりで、次のバスは45分ほど待たねばならなかったが、その合間にホテルで荷を降ろした。頃合いを見計らい、6番乗車場に赴いた。

 バスに乗り込んだぼくは予期せぬ不安に襲われた。バスという文明の利器を最後に利用したのは十数年前のことだった。その時、支払いにオタオタし、運転手や降車を待つ人たちに迷惑をかけた記憶がある。そのことがやおら蘇ってきた。降車時の段取りなど、もうとっくに忘れていた。
 十数年ぶりにバスに乗ったぼくは、様々なことに思いを巡らせた。目指す停留所までの値段はいくらなのか、どうやって支払うのか、小銭が足りなかったらどうすればいいのか、お釣りはくれるのだろうか、降車時に他の客に迷惑をかけ、「ジジィはこれだから」と嘲笑されるのではないか、教えられた「小幡町資料館」停留所を見過ごしてしまうのではないか、などなどの不安がひとまとめとなり、胸が痛くなり、息苦しくもなり、いいようのない情けなさに襲われたのだった。

 見ず知らずの、言葉の通じない海外でも、このような鬼気迫る緊張を味わったことなど一度もなかった。何処へでも、カメラを首に掛け、平気の平左で潜り込んでいたのに、「言葉の通じる慣れ親しんだ母国にあって、おれとしたことが、何たるうろたえようか!」と、ぼくはすっかり我を失っていた。降車の作法(手順)も不安だったが、それ以上に、その不安に戦く自分に「これしきのことで」と猛烈に腹が立ったのだ。
 運転席の左上にある案内版がくるくると点灯するのを見つけ、料金が220円であることを知った。ぼくは不安を拭い去ろうと、小銭の貯まったポケットを弄(まさぐ)った。不安のあまり汗ばんだ手で、子供のように小銭を手のひらに乗せ、勘定をしながら220円をしっかり握りしめた。
 このような時に限って、不運が束になって襲い掛かってくるものだ。ぼくは、あろうことか、手にした小銭を車内にばらまいてしまったのだ。もう、何をかいわんやである。

 乗客の人たちが席を立って、ばらまいた小銭を親切にも拾い集めてくれた。ぼくは、耄碌ジジィそのものだった。思わず、自分の不甲斐なさに天を仰いだ。歳を取っても、 “爺むさく” (じじむさい。年寄りくさく、むさくるしいこと)あることは、厳に避けたいと常に念じていたが、この一件で、おじゃんとなってしまった。
 40数年後、あの風情豊かな地で、気がついたらぼくはすっかり爺むさい耄碌ジジィに変身していた。
 
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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
約半世紀前に出会った近江八幡の風情ある場所はどこかさっぱり分からなかった。しかし、ここの名所風情は何処を見ても絵葉書そのもので、そのような写真を好む人には良いかも知れないが、ぼくのような “えぐみ” (あくが強く、舌やのどがひりひりするような味や感覚)ある写真を好む者には、昔の思いがあるだけに、何処にレンズを向ければ良いのかと、戸惑いばかりが先に立つ。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.33。
★「02近江八幡市」
このような佇まいが数百m続く新町通り。あと1絞り絞れば(f10)良かったかな。雲の間から一瞬陽が射す。
絞りf7.1、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.33。
(文:亀山哲郎)