【マイタウンさいたま】ログイン 【マイタウンさいたま】店舗登録
■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

全687件中  新しい記事から  81〜 90件
先頭へ / 前へ / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / ...19 / 次へ / 最終へ  

2022/08/19(金)
第607回:値段の割には案外・・・(1)
 坊主(息子)が、お盆のお供えのため鎌倉にある菩提寺に行くというので、そのようなことにはまったくもって没義道(もぎどう。人の道にはずれたり、不人情なこと)なぼくも、この際しばし心を入れ替え、神妙な面持ちで菩提を弔ってもらおうと同行の意を伝えた。本業以外の仕事に追われ、その忙中にあって、一日家を空けてしまうのは辛いなぁと思いながらである。

 ぼくの心中を読み取ったのかどうか定かではないのだが、坊主は案じ顔で「と〜さん、墓参りに行くのはやめたほうがいい。今鎌倉を歩いたら熱中症で倒れてしまうよ。それに、この炎天下、墓石を洗ったりするのも大変だしね。どの道、行ったついでにカメラを振り回するのだろうから、なおさら危険だ。秋にはここで祖母の法要を営むことになっているし、お参りはその時にすればいいよ」と賢くも孝行者を気取ってくれた。
 せっかく、「行かなくてもいい」という助け船を出してくれたのだから、ぼくは遠慮なく乗船することにした。この船の出現を俗世界では、 “渡りに船” というらしい。道はちゃんとつくものだ。

 ぼくは、自分が神事やそれにまつわるしきたりに対して外道であることは素直に認めるが、肉体の衰えについてそのような危うい印象を、家人ばかりでなく他人にも与えているのだとすれば、やはり穏やかではいられない。それは心外なことといいたいが、しかし最近はそれをよく自覚しているので、ことさらにぼくは落ち込む。ぼくの鎌倉行きを思い止まらせた坊主の遠慮会釈のない文言は、やはり孝行者の言葉とはいえないのではないかとの疑念が浮かぶ。いわれたほうは、それを無慈悲なものと受け取り、どうあってもかなりヘコむ。
 けれど、親の存命中には「子というものは元来親不孝なもの。それでよし」とぼくは自分に言い聞かせ、見えを切ってきた。かつて親にしてきたことを思い起こすと、このような都合の良い言葉に甘んじてきたような気がする。
 親がぼくにしてきたことについては、 “反面教師” なんて言葉を持ち出したがる。つくづく考えてみるに、まったくいい気なものだ。

 内輪話はほどほどに、前回触れた最新の低価格レンズから受けた印象について(性能の良し悪しではなく)、思うところを述べてみたい。ぼくは、写真を撮ることを生業としている人間なので、必然的に道具について関心を寄せざるを得ない。しかし、いわゆるカメラやレンズのレポーターでないことをあらかじめお断りしておく。

 そしてまた、そのようなことをして副収入を得ようとの算段もぼくにはまったくない。とはいえ、日進月歩のデジタル機材の動向は知っておきたいので、それについてはもっぱらネットやYouTubeをかき回し、論評や人物を取捨選択しながら世評を窺っている。メーカーに興味ある機材を提供してもらうこともできるが、それを行使したことはほとんどない。そのような特権をSNSなどでさりげなく装う人がいるが、そんな言行は時に三味線を弾くが如くであり、ぼくのような天の邪鬼(あまのじゃく)には、ただひたすらに尻こそばゆい。

 以前述べたように、ぼくの機材購入はこの40年間ほとんどが “不見転” (みずてん。あと先を考えずに事を行うこと)だが、幸いにもしくじりはなかった。これはきっと若い頃から過当と思えるような “テスト魔” であったことと、分不相応にも道楽三昧をした挙げ句の果報ともいうべきもので、まさにその証であろうと思う。知らず識らずのうちに、見込みをつける技を身につけたのだろう。それをして、「転ばぬ先の杖」とでもいうのかな。「自慢高慢馬鹿のうち」というが、これはぼくの数少ない自慢のネタでもある。スーパーテスト魔 !? のめでたい面が実践できたと思っている。

 主観的、もしくはそれに類した議題については如何なる人の評価もまったく考慮しない。ぼくは、疑り深い性格では決してないのだが、科学的根拠の欠けること(つまり主観性を主軸とし語っているもの)は、若い頃から自身の体験のなかで培ってきた感覚しか頼りにしないことにしている。これが「買って後悔しない」ことの最善策である。世上の取り沙汰ほど、無責任で、しかもいい加減なものはない。それは、分外な道楽をしたことのない堅気の、往々にしてありがちな無定見さである。

 趣味の道具に関して、ぼくはネットやYouTubeで見聞する「コストパフォーマンス」で物品を量るという概念を持たない。いわゆる “コスパ” をひとつの尺度にするとの考えを理解しないわけではないが、要するに「安かろう悪かろう」という真実が厳然と横たわっているだけだ。「値段の割には」という情に絡め取られると、後で「買わなきゃ良かった」とか「すぐに飽きてしまった」との後悔を残すのではないかと、他人事ながらぼくは坊主を真似た、案じ顔をして見せる。

 猛暑のさなか、新調したレンズのテスト撮影に、さいたま新都心を走り回ったと前回記したが、まだ憧れの鉄道博物館には行っていない。怠けているのではなく、時間が取れないことと、夏休みの子供の嬌声から逃れたく、おそらく9月の声を聞いてからになるだろう。
 ぼくは超広角域のレンズをすでに2本持っているが、今回ミラーレス一眼専用の、廉価な超広角単レンズを購入した。キヤノンのRF16mm F2.8 STMで、世間ではこのようなレンズを称して、どこで聞きかじったか、 “撒き餌レンズ” などと、もっともらしくも得意気にいう下品な輩がいる。それはともかくも、重さがなんと、老い込んだ人間が泣いて喜ぶ165gである。しかも4万円前後で世間に “撒かれて” いる。「小さい、安い、軽い」の3拍子揃ったこのレンズから、フィルム時代には考えられなかったあれこれが見えてきた。
 枕ばかりがやたらと長く、主題にやっととっかかったところで、字数が尽きた。なんでオレはこ〜なってしまうのか。この続きは次回に。

https://www.amatias.com/bbs/30/607.html  
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
汚れ、色褪せ、傷だらけになったポスターが風に舞い降りてきた。それを複写の要領で撮影し、自身のイメージを掛け合わせた。
絞りf8.0、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
郵便箱もしくはレターボックスというものに、ぼくは何故かカメラを向けてしまう癖がある。
絞りf9.0、1/60秒、ISO 250、露出補正-0.33。
 


(文:亀山 哲郎)

2022/08/05(金)
第606回:悩ましい夏
 この殺人的な猛暑のなか、ぼくはかたつむりのようにエアコンの効いた殻に閉じこもり、首をすぼめ、我が家の自室から一歩も出ずに様々な用事を済まそうと無い知恵を絞り、それに従うべく苦心惨憺しているのだが、やはり「まだ現役」を確約するかのように、あれやこれや、撮影以外の用件を、ありがたくも依頼されたり、また強要されたりもしている。
 そんな時ぼくは、前回触れた「好きじゃない宮澤賢治の『雨ニモマケズ』」を横目に、いつもにこにこし、良い子でいることを、親の教えとして、深々と頭(こうべ)を垂れながら踏襲している。

 この歳になりながらも様々なことを依頼されることは、改めて振り返るとある意味で精神の浄化 !? に良いことかも知れないが、シニカルに解釈すれば、「まだ残り火があるうちに仕事をしてもらおう」との意図が透けて見える。だが、世の中を斜めから見るようなことは著しく品位に欠けており、また極めつけの性悪でもあるとぼくは考えているので、「人生、頼まれるうちが華。精進を重ねろということだ」と至って殊勝な面持ちでいる。
 そう心がけていればひょっとして何か良いことが転がり込んでくるかも知れないし、あるいはそのようなことはないのかも知れないが、いずれにしてもぼくは心地が良く、精神が安定する。何事も得心がゆけば、それだけストレスも軽減されるものだ。

 得心のゆかないこの熱暑のなか、勇んで写真を撮りに出かけようなどという一見健気さを装った向こう見ずな人を、ぼくは「無頼の徒」と呼ぶことにしているが、あまり賢くないぼくはこの「無頼の徒」を先日真似てみた。
 よしゃ〜いいものを、せっかちなぼくはつい最近入手したレンズのテスト(ぼくにとっては三度の飯より重要事項)のため、神の怒りを買わぬよう夕刻での撮影を試みた。

 先ず遠景撮影のテストをしてみたかったので、幾何学模様のある高層ビルの建ち並ぶさいたま新都心に向かった。車から降り立ったぼくは、熱気が地面から湯気のように立ちのぼり、その熱波にゆらゆらと揺れ動くかのような新都心の高層ビルを仰ぎ見ながら、手首に巻いたカメラをおもむろに構えた。テスト撮影としては例外的に三脚を使用せず、すべて手持ちでの撮影である。故に、厳格さを欠くが、この際そんなことをいってはいられない。この狂気の熱波のなか、ぼくは熱中症とか日干しガエルのようにならず無事に撮影を終えるために、 “すべてを手早く” という重責を自分に課さなければならなかった。

 車で新都心のなかを走り回り、「降りては撮り、撮っては乗り」を繰り返した。取り敢えず絞り値の違いによる描写の変化を知っておかなければならないので、約40分で300枚を撮り(同じシーンを絞りを変え、連続して撮るだけ)、噴き出る汗を拭いながら、神のお許しを得て無事帰路につくことができた。これで、このレンズの性格の片鱗を窺い知ることができようというものだ。
 安心を得るためのひとつの儀式を終え、後はエアコンの効いたパソコンの前で、青ざめるか、嬉々とするかという、非常にスリルに満ちた生き甲斐のある瞬間を味わうことになる。
 そして、どのRaw現像ソフトがこのレンズを最も好ましい描写に導いてくれるのか(様々な収差やノイズの補整。逆光特性。色合いなどなど)にも興味津々である。限定的なテストではあるが、絞りの違いによる描写能力を知っておかないと、取り返しのつかぬ過ちを冒すことになる。泳ぐことができぬ人間が、水深の知れぬ沼にいきなり飛び込むようなものだ。ぼくは命知らずの暴挙を冒したくない一心で、熱中症の恐怖もなんのその、熱波に立ち向かったのである。

 このレンズを通して、現代の、しかも最新レンズの方向性のようなものを一面的にではあるが感じ取ったので、それを近々のうちに述べてみたいと思っている。ぼくの新調した固有のレンズについてのテストレポートではなく、あくまで最新の、しかも低価格レンズのありようとその使い方についてである。
 まだ400枚程度しか撮っていないので、個人の考えを述べるにしても、もう少し異なる条件下での撮影が必要と考えている。かつて、自他共に認めていたテスト魔のぼくも、最近はかなりいい加減さを増しているのだが、微に入り細に穿って物事を突き詰めると、見失うものがあることにやっと気づいてきたというのが本当のところだ。神経質であることと大らかさは、必ず何処かで相容れるものだとぼくは思っているのだが、その境地と実践の帳合いが取れるようになるには、あとどの位の勉強が必要なのだろうかと思うと、暗澹たる気分に襲われる。

 今、外で写真を撮ることはまったく気が進まず、それどころか年寄りにとっては命取りとなるので、エアコンの効いた施設で思いっきり溜飲を下げたいと目論んでいる。撮影してもお咎めのないところは何処かと考えていたら、大宮に鉄道博物館があった。かねてより、元撮り鉄のぼくは一度訪問したいと思っていたのだが、何故か機会を逃し、いつも一方的な片想いに終わっていた。ぼくの人生と瓜二つで、なんとも癪だ。
 だがよ〜く考えてみると今は夏休みで、そこは大の苦手である子供の嬌声に溢れているのではないか? ぼくにとって、あれほど “癇に障る”ものは、この世に存在しない。とても撮影どころではなくなってしまう。けれど、今訪問を見送ってしまうと、かつての撮り鉄の沽券に関わるし、ぼくは今ひどく頭が痛い。暑さ、嬌声、沽券の三重苦に、まったくもって忌々しくも悩ましい今夏である。

 来週はお盆休みのため、休載となります。 

https://www.amatias.com/bbs/30/606.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県幸手市。

★「01幸手市」
美容室と写真スタジオを兼ねた建物らしいが、特異なデザイン感覚に、後先を考えず思わずシャッターを押してしまった。控え目な月をよそに、実際はもっと派手で、賑々(にぎにぎ)しい。
絞りf5.0、1/400秒、ISO 200、露出補正-0.33。

★「02幸手市」
沈み行く陽を背景に、レトロな化粧品店をローキーに。
絞りf5.6、1/125秒、ISO 250、露出補正-1.00。
 


(文:亀山 哲郎)

2022/07/29(金)
第605回:高感度ISO
 一昨夜半、もう日が変わろうかという時間、ぼくは半ズボンに履き替え、バンダナを巻き、カメラ片手(今頃になってやっと昨年新調したカメラの高感度ISOのテストをボチボチしてみようかという気になった)に、たいした目的もなく近くの大きな公園(別所沼公園)に出向いた。
 「目的もなく」と書いたが、嫌々ながら日課としている忌々しきウォーキング(ぼく自身がこの行為をひどく蔑んでいるので、理非の線引きができる心ある知人友人には決してこのことはいわない。これを励行している唯一無二の目的は写真を撮る体力維持のため)をしながら、身に纏わり付くあれこれのつまらぬ雑事に恨みごとをいい、ついでに世を妬み、精一杯の悪態をついて憂さを晴らすつもりでいた。
 真夜中の散歩も、多少のストレス発散になると思いきや、様々なことを思い起こすだに腹立ちが増し、かえって逆効果であることを知った。こんなに腹ばかり立てていては、どんどん寿命を縮めていくことになりかねないが、それは天命のようなもので仕方がない。ぼくはそのような性分に生まれついているらしい。

 しかし、こんな時間に、ましてや蒸し暑さの極致のような熱帯夜にも関わらず、息づかいも荒くジョギングやウォーキングに精を出すいかがわしくも怪しい人が殊のほか多いことにたまげる。ぼくは彼らの、何かに取り憑かれたような様を不気味に感じ、しかもどこか嘲(あざけ)りながら、汗まみれになった是非も知らずの人々の背中を目で追っていた。何が楽しくてこんなことに勤しんでいるのか? 
 1周約1kmの緩衝材の敷かれたトリムコースで、ぼくは奇異なるすべての人々にいつも追い抜かれるのだが、この時ばかりは負けず嫌いのぼくでさえ、その悔しさをまったく感じないから不思議だ。それはきっと、「おれは同じ人種では断じてない」との勝手な自意識から派生したものだと思う。

 「そうだ、明日は原稿を書かなければならない日だ。何について書こうか歩きながら考えてみよう」と、この夜は「夏ノ暑サニモマケズ」の意気で身支度を整えたつもりだった。余談だが、ぼくは宮澤賢治の『雨ニモマケズ』は好きじゃない。ムズ痒くていたたまれないのだ。この詩に出会うたびにぼくは字面を目で追い、頭(かぶり)を振ってばかりいる。
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば・・・中略、とかくにこの世は住みにくい。」と綴った漱石の『草枕』の冒頭部分のほうがずっと気が利いており、しかもどこか洒脱で、平易に生きることの奥義と真髄を言い当てている。詩と散文の違いはあろうが、詩に疎いぼくはそこに乗じる術を持たないからなおさらだ。

 昨夜の散歩途上には残念ながら山路はなく、考えも他にかまけて及ばなかった。「ぼくはとどのつまり、パソコンの前に座って、担当者の顔を思い浮かべながら切羽詰まらないと文章を捻り出せないのだ」と開き直ってしまった。あの蒸し暑さのなか、汗を滴らせながら歩いている自分に立腹し、山路とはほど遠い風情のないアスファルトの上り坂を息も絶え絶えになり、ぼくはすっかりグレてしまい、厭世的な考えについ寄りかかってしまったのだ。
 疎ましさによる思慮分別に欠けた短見であったが故に、実験してみようと思った高感度ISO のテストもなおざりとなり、詳細についてのご報告が、近いうちに毒を吐きながらもできればいいと思っている。

 ざっとパソコンで眺めた( “しっかり見た” とか “検証した” ではない)限りに於いて、高感度ISOや長時間露光によるノイズについて人様に論じるのは生易しいことではないことに気づいた。様々な要因によって生じるノイズの発生は、カメラ側からだけでなく、現像ソフトによってもその良否や性格は大きく変わる。つまり、カメラと現像ソフトとの相性で変わってくるともいえ、単独で扱うべき事柄かどうか、今のところ判断に苦しむ。
 それに加え、発生するノイズをどの程度許容するかは個人の感覚的な問題であり、客観的な判断ができるか否かとの疑問も生じる。

 今ここで具体的なISOの数値を記すことはできないが、最新のミラーレス一眼を1年余使用した感覚からすれば、余程の暗所撮影でない限り、ISOの数値に神経を配る必要はないというのが実感である。
 照明のできないかなりの暗所で雑誌の撮影をしたが(人物撮影)、冷や冷やながらも良好な結果を得ることができた。ぼくが以前主に使用していた一眼レフでは、後処理にかなりの難儀を強いられたであろうことは容易に想像できるが、新調したカメラは、ぼくの撮る条件下であればISO感度にほとんど頓着しなくても良いとの確信を得ている。
 ぼくは花の撮影の際、陽が沈んでからも意気揚々と、偉っそうな顔をしながら「どうよ!」というような面構えでシャッターを押している。現金なものだ。そこには、苦虫を噛みつぶしたような、そして厭世的な表情はすでに消え去り、邪気のない “良き写真屋” として振る舞っている。ISO感度に神経質にならなくても良いというのは、百万の味方を得たような気分で、もう少し涼しくなったら、普段は撮らない夜景写真もいいかなんて思っている。やはり、ぼくは現金なものだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/605.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県加須市、幸手市。

★「01加須市」
どのような意図、経緯でこのようなデザインになったのか興味津々というところだが、知る由もなし。
絞りf7.1、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02幸手市」
何の目的もなく、普段縁のない幸手市にふらっと立ち寄ってみた。これはデザインではなく、一時凌ぎに張り付けたのではないかと推察。建物は相当な年季が入っている。
絞りf8.0、1/100秒、ISO 200、露出補正-0.33。


(文:亀山 哲郎)

2022/07/22(金)
第604回:お茶を濁してばかり
 不料簡でその場凌ぎの名人であるぼくが、ここのところかなり堅気を気取りながら写真の話ばかり書いているような気がする。曖昧な言い方を避けるのなら「 “写真” よもやま話」なのだから、本稿は斯くあって然りなのだが、そうはいえ最近は何かがどうも窮屈でいけないと感じていた。その遠因なるものに見当がついたようにも思える。
 たとえば、「ホワイトバランス(前回と前々回)の効能書きをあれこれ並べているぼくは、はて、このようなことを書いていていいのだろうか?」と自問したりもしている。内心では、「この種のことは誠に性に合わぬことだし、ぼくの仕事じゃないんだよね」と盛んに煙幕を張り、気まずさを紛らわせている。

 ぼくはどうやら写真に託けて、日々の出来事や発見を、自身をおちょくり(関西方言。 “からかう” の意)ながら、面白おかしく、しかもばかばかしく綴ることのほうが性に合っていると、600話も回を重ねておきながらやっと気のつく始末。何たることか!
 真面目な面持ちで「ホワイトバランス」などの講釈を垂れる立ち位置にないことを今になって知ったというのだから我ながら呆れてしまう。ネットなどを参照すれば、たとえば「ホワイトバランス」に関して多くの方が多くを、しかもぼくよりずっと詳しく述べておられるので、ぼくが同じことをなぞっても意味はなく、独自の解釈や実践を示さなければ拙稿の意味をなさない。
 無意識のうちにぼくはそうあるように心がけてきたようにも思うが、時々読み返す必要性に迫られ、過去のものを繰ってみると、あれもこれも書き足りなかったり、補足をするべきだったということに気がつき、顔色を失う。

 なので、今回は敢えて読者諸兄にとって撮影にまったく役立たないことを書いて、いや「もしかして何かのヒントにはなるかも知れない」と自分だけにいい聞かせ、不遜ながらもお茶を濁そうと思っている。

 今回掲載させていただいた写真は2枚とも数ヶ月前に埼玉県加須市街で撮ったものだ。ここでの写真は過去何度か掲載させていただいているが、加須市を初めて訪れたのは十数年前のことで、仕事での撮影だった。ここは全国有数の鯉のぼりの産地であり、その製作過程を単行本と広告のために撮る仕事だった。3日間ほど通った記憶があるが、加須はその撮影現場(社屋と工場)しか知らず、名物のうどんさえ口にする隙を与えられなかった。
 全国各地を仕事で歩いているが、撮影現場しか知らないというのが実直で正しい写真屋のありようなのだ。すぐにお茶を濁したがるぼくではあるが、実のところ正しい写真屋として、その例に漏れない。

 東北自動車道浦和インターから30分ほどで加須市街に辿り着けるが、そこはぼくにとって、かつて仕事で行ったという以外特別に思い入れがあるという場所ではなかった。では何故時々足を向けるかというと、比較的及第点に近い写真が撮れるからだ。
 撮影場所というのは、相性というものがあるようで、名所旧跡だからといって写真の質を保証してくれるものでないことは、写真の愛好家であればある程度ご理解いただけるだろう。風光明媚なところも、目で見たいという欲求こそあれ、それを写真に収めようとぼくは思わない質なので、どうあっても可愛げがない。

 写真は、自己表現のため、延いては自分自身のためにだけ撮るのであって、意図して他人を喜ばせるためのものではない。したがって、ぼくの写真的趣向は、明媚なる風景写真でもなければ、絵葉書でもないので、 “綺麗に写し取る” 必要性などまったくない。これはかなり強固な志向である。人目を窺うような写真は賤しさそのものだ。

 掲載した「01加須市」の金だらいは以前(今回撮影の約1年前)同じ場所で撮っているのだが、光を上手く捉えきれずボツにしてしまった。
 今回も同じ金物店の店先に夕日を浴びて並べられていたのをガラス越しに発見し、ぼくは「今度は何とかなる」との確信を抱いた。夕日がすべてを上手に演出してくれていた。窓ガラスのガラス色(ソーダ石灰ガラスなので、緑色)を意識し、トタン製の質感(光沢感)を適宜抑えながら、柔らかく表現してみようとイメージを描いた。ガラスにかすかに写り込んだ夾雑物はこの際黒く潰し、本来はもう少し荒いトタンの光沢を艶っぽく、ソフトに、イメージ通りに描いてみた。構図も右上から左下に向かうようあっさり決定。この写真は何一つお茶を濁してはいない。

 「02加須市」。古い民家の正面に位置する家の窓ガラスにカーテンが掛かり、夕日も相まって面白い文様を描いていた。カーテン以外はすべてガラスの映り込み。24mmの広角レンズで、街路灯が画面ぎりぎりになるまで、カーテンに近づく。
 ぼくにとって、今回のような写真のほうが、花より精神的・肉体的な負担が少なく、老骨に鞭打つには向いていると体感している。ただ辛いことは、若いころの勢いと力んだ正義感が甚だしく減少しているので、お茶を濁すことの罪悪感は増す一方だ。

https://www.amatias.com/bbs/30/604.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県加須市。

★「01加須市」
絞りf9.0、1/250秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02加須市」
絞りf10.0、1/80秒、ISO 200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2022/07/15(金)
第603回:正しい色って何?
 前回、フィルム(カラースライドフィルム)の正しい発色(色被りや色転びのない)を得るためにはフィルター調整(操作)をしなければならず、その作業をデジタルに置き換えれば、「ホワイトバランス」の調整にあたるということを、前夜の悪夢にうなされついでにお話しした。

 ひとつ加えるのであれば、フィルムの発色の正しさとは、デジタルにくらべかなり主観的な要素が多い。その点、デジタルは論理的に容赦がなく、極めて科学的かつ客観性が強いのだが、最終的な色がどうあって欲しいかとの問題は、人間の主観に頼るところが多いのだとぼくは思慮分別の多少足りない頭を抱えながらも、敢えていっておかなければならないと思っている。客観性が大手を振り過ぎていると思われる可愛げのないデジタルに、ぼくは一抹の不服を唱えたくなるのだ。
 色被りや色転びのない「正しい発色」とつい書いてしまったが、では実際に「正しい発色」ってあるの? あるとすればそれはどの様な色を指すのか? という素朴な疑問が自然と湧いてくる。だが、この話をし始めると際限のないものになってしまうし、ぼくも科学的に間違いのない話を、十分な説得力を持ってみなさんにできるとの自信もない。

 これについては、科学的にも、感覚的にも、複雑な要素が絡み過ぎ、最終的には「個人の問題に帰結する」と揚言しかねない。実際それが正直な気持なので、そこのところどうか目をつぶっていただきたい。
 人間の感じる美について、科学と感覚をどこかで融合させようとすると、その折り合いをつけることが極めて困難な場合が多い。このふたつは時として、というよりもいつも「水と油」のような仲なので、その事象を語る際にはすべからく私情に囚われることなかれなのだが、話のとっかかり上、もうこの際非難を覚悟で「みなさん、ホワイトバランなんて、眦(まなじり)を決して調整しなくてもいいんですよ」との持論を展開しておく。
 科学(知)と感覚(情)は、人間社会に於いてお互いに寄り添いながら何かを試したり、遂行したり、やってのけようとするので、どちらかに重きを置かなければならないという場合には本当に厄介で扱いにくい代物となる。「知情意」のうち、「意」がホワイトバランスの決定には関わってこないから、事がもつれるというのがぼくの考えだ。

 仕事でデジタルを採用し始めたころ(今から20年ほど前)、市販されているいくつかのグレ−カードを使用し、ホワイトバランスをできるだけ厳密に調整しようとあれこれ試したことがある。
 商品撮影時に、ライティングが決まった時点で、商品と一緒にグレーカードを写し込み、Raw現像時にホワイトバランス調整用のスポイトをグレーカード上に置きクリックすると、色温度や色相(マゼンタとグリーン)が自動的に調整される。これで、一応はホワイトバランスが取れた状態とされる。現在ではPC上ばかりでなく、カメラ側でも同様の操作ができるが、ぼくにはその経験がない。しかし、原理は同様であろう。撮影環境が変化する毎にグレーカードを置いて、ホワイトバランスを調整するという具合だ。

 ぼくが最初に突き当たった問題点は、同条件で使用したグレーカードで調整したホワイトバランスの数値が微妙に異なる(グレーカードによってはかなり異なる)こと。どれが正しいのか? 純粋なグレーカードが、技術的に印刷できるものなのか? 異なる印刷会社、異なる印刷機で、まったく同じ物(グレーカード。LabカラーならL50。RGBならそれぞれ119。CMYKならC61%、M52%、Y49%、K1%)を寸分違わず同じように印刷しなさいとは無理無体 ! ? な要求というものであろう。

 ハードキャリブレーションされた2台の同型モニターを使用し、同じRawデータを同じソフトでホワイトバランス調整しても、酷似しているがまったく同じ色調には見えぬこと。実際に大手印刷会社で、ぼくを含めて複数人が確認したことでもある。これは、自室でも体験している。モニターによって写真の見え方が変わることは誰もが知っている通りである。また、環境光の違いによっても異なって見える。

 同じ画像を異なるRaw現像ソフトでそれぞれにホワイトバランスを調整しても、同じ色合い(色調)にはならない。ソフトによりかなりの違いが生じる。因みに試みた現像ソフトは以下の通り。Adobe Lightroom Classic、ON1 Photo Raw、DxO PhotoLab、Capture One Pro、Canon DPPなどを主とし、その他大勢。結果がかなり異なるので、最終的には自分の目的に合った(カメラとの相性も考慮)ものや使いやすさ、微調整などの仕組みなどを勘案しながら使用している。いずれも一長一短あり、これといった決め手がないというのがぼくの実感だが、85%以上は慣れ親しんだDxO PhotoLabを使用し、満足している。

 上記の事柄に、さらにプリンターやICCプロファイル、印画紙などが絡んでくるので、数学の順列組み合わせに従うと膨大な様相を呈すことになる。終着駅が印画紙であれ、モニターであれ、色は途方もなく多岐で、複雑な関所を経て、あなたの手許に届くのである。
 結論をいうと、目的が「写真を愉しむこと」にあるのなら、厳密なホワイトバランスにこだわらず、撮影時に「こうあって欲しい」と願った色調(明度やコントラストなども含めて)を大切に扱うことを最も優先していいとぼくは信念を持ってお伝えしたい。これがぼくの思う「知情意」の「意」である。
 作者にとって心地の良い色や思い描いた色が、つまりあなたにとっての正しい色なのではあるまいかと、ぼくは写真年齢を重ねるにつれ、そう思うようになってきた。

https://www.amatias.com/bbs/30/603.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。レンズを一本だけ付け、近所をうろつく。

★「01さいたま市」
色々なものがガラスに写り込み、それを少し整理するためマニュアルフォーカスで敢えてピントを外し撮ってみた。
絞りf5.6、1/320秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

★「02さいたま市」
夕方の駐車場。陰と地面の交差する模様を、ほとんど無意識に撮る。
絞りf11.0、1/60秒、ISO 125、露出補正-0.67。


(文:亀山 哲郎)

2022/07/08(金)
第602回:たかが写真
 「ぼくは毎日必ず夢を見る」と以前自慢にもならぬことを述べたことがある。夢は毎晩のように上映され、いってみればぼくは夢見の大家なのだが、夢の分類をすれば、写真に関するものが圧倒的に多く、しかもそれは、何かに呪われたように、撮影時に困り果てて立ち往生となるものばかりなのだ。したがって、夢のなかで、何かが上手く行って快哉を叫ぶなんてことはかつて一度もなかったし、きっとこれからもないだろう。至極残念ながら、夢ばかりでなく、現実の世界に於いてもないに違いない。

 何の因果か、少なく見積もっても週に一度は写真にうなされる夢を見る。もしかしたら、この因果は前世に於ける悪業の果報(ここでは、前世の行いによって生じる報いの意)ともいうべきものなのかも知れない。一度くらいは、目覚めの良い夢を見たいものだが、覚醒とともに「嗚呼、夢で良かったぁ」と胸を撫で下ろし、安堵しながら寝汗を拭う自分がいる。
 しかし、このような安堵感を得ることにより、ぼくの寝起きはすこぶる爽快なものとなるから不思議だ。寝起きのぼくは機嫌が良い。ぼくにとって、悪夢は「禍福はあざなえる縄の如し」(善悪の業は表裏一体)なのだろう。

 悪夢の中身を覗き込むと、それは何故か面白いことに(ホントは面白くも何ともないが)、すべてフィルム時代の様々な困難さから派生したことばかりであり、不思議にもデジタルになってからの難儀は今のところ皆無なのだ。因ってデジタルは夢には登場して来ない。
 フィルム時代のぼくは、駆け出しのころを含めて、まだまだ場数が足りなかったので、その分不安と恐れに満たされていた。それに加え、カメラや機材が今のように至れり尽くせりではなく、すべてに於いて人力によるところの正確さと厳格さを要求され、融通の利く場面が極めて限定されていた。その一つひとつに確実に対応しなければ写真は写らなかったので、ぼくにとってその恐怖心たるや、写真を撮ることの歓びを加味しても、補填できるものではなかった。スタジオやロケ現場から、何度逃げ出したいと思ったことか。今思うと、何とかやり過ごせたことが本当に不思議なくらいである。
 杜撰で自堕落な生活のなかで、ぼくが唯一真剣勝負を迫られる瞬間でもあった。生きるか死ぬかというのは、いつも他人事と思いたいものだが、こればかりはやはり相当せっぱ詰まった事象となる。

 昨夜の夢は、若い頃に足しげく通ったカメラ店でのこと。曇天の夕方、ぼくはこれから屋外での撮影に行くところなのだが、カラースライドフィルム(色温度や露出に非常に敏感に反応するフィルム。別称カラーポジフィルム、カラーリバーサルフィルム)の色温度を合わせるためにどのフィルターを使用すればいいかを悩んでいた。カメラバッグには、コダックのマゼンタのフィルターが1枚しか入っておらず、そのフィルターではまったく用をなさないことは夢でも分かる。色温度計も家に忘れてきたので、ぼくは弱り果て、若い店主とその父親と覚しき年配の方に泣きっ面をして見せた。

 ぼくと同年の若い店主は日頃の愛顧に応えてくれ、「うちにあるフィルターとポラロイドを使ってここで試してみてはどうか?」と、温かい手を差し伸べてくれた。ハッセルブラドにポラロイド用バックホルダーを取り付け、店外に出てフィルターを取っ替え引っ替えしながらポラを引いた。実際には、それはあまり意味のあることではないのだが、そこが夢の夢たる所以であろう。
 あれこれフィルターでの結果を検討しているうちに、天候がどんどん変わり、撮影時間は迫り、ただただ気持は焦るばかりで、にっちもさっちも行ず、小便を漏らすような状態となり、そこでハッと目が覚めた。幸い、 “おねしょ” はしてなかった。運が向いたようだ。

 もしぼくがもっと年が若く、デジタルから写真を始めたらこのような夢を見るだろうかと、布団を撥ね除けながら考えてみた。ぼくの見た夢は、デジタルでいうところの「ホワイトバランス」(白を白く表現する)の調整にあたる。色温度(K。ケルビン)と色かぶり補整(Adobe Lightroom Classicでの呼称。英語ではTint = 色合い。マゼンタとグリーンの補整)の調整と言い換えることもできる。
 この調整は、フィルム(カラースライドフィルム)では大変厄介であり、一発勝負を余儀なくされるが、デジタルでは撮影時にカメラ側で、あるいは撮影後に画像ソフトで調整でき、フィルムにくらべ手間暇と精神的なゆとりに大きな隔たりがある。カメラや画像ソフトによるオートホワイトバランス(AWB)も、大失敗を招くほどではなく、かなり頼り甲斐のあるものになっている。
 したがって、ぼくがデジタル出身の写真屋なら、きっと悪夢にうなされる回数はずっと少なくなるに違いない。

 最近のぼくはプライベートな撮影が大半を占めているので、仕事写真のように厳密な色調(時には “がんじがらめ” )を求められることもなく、あくまで心に描いたイメージカラーに従えばよく、精神的にそれは至って大らかであり、自由奔放でもある。
 他人が見て、心地よさを感じる写真を撮る必然性もなく、自分に素直に対峙することが即ちぼくにとっての、写真の究極的なありようであり、またそれこそが表現することの醍醐味であると思っている。たまに夢のなかを彷徨うのも一興ではあるが、やはり行きつ戻りつも現世にあって痛い思いをしながら、自身を豊かに保つことのほうが写真への深い思い入れとなり、長く寄り添えるのだろうと思う。1枚の写真を撮るというのはそういうことなのであって、「たかが写真」(「されど写真」などという奢った言い方はぼくにはできない)と、夢のなかでうそぶいてみたい衝動に駆られる昨夜でありました。

https://www.amatias.com/bbs/30/602.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ぼけ(木瓜)の花。陽が沈んだ直後の柔らかい光源下で。
絞りf3.5、1/500秒、ISO 400、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
花名忘却。可愛い花なのだが、和服の柄を連想し、地味に仕上げる。
絞りf11.0、1/80秒、ISO 800、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2022/07/01(金)
第601回:寡黙の祟り
 常々本稿について思うことがある。「毎週のことなのだから、あまり欲張らずに、もう少し短く、読み易さを考慮したらどうなんだ」と良心を痛めながらつぶやいている。まさに「言うは易く行うは難し」というところなのだが、中身を伴わずともいいたいことばかりが頭の中を駆け巡り、おまけに自己主張をしないと気の済まない質が追い打ちを駆け、また “事ここに至って” 他人の迷惑など省みないときているからますます身を持て余す。
 「オレは損な性分だなぁ」と友人に訴えたら、「なんてめでたい奴。損どころかいい性格してるよ、お前さんは。いつもいいたいことを憚りなくいうくせに」と、憚りなく返された。

 昔、一緒に仕事をしていた何人かのデザイナーや編集者に、「カメラマンってどうしてそんなにお喋りなの? ホントにみんなよく喋るよね」といわれたことがあった。カメラマンは総じて饒舌なんだそうである。ぼくの周りの同業者を思い浮かべると、なるほど、揃いも揃ってみんなそうかも知れないと思ったものだ。
 「きっと誰もが写真下手くそなもんだから、そこで表現しきれない部分を言葉でカバーしようとするんだよ。きっとそうだ。ぼくもその手合いに違いない」と、確信めいて返したことがあった。
 デザイナーや編集者は、時折寡黙なカメラマンに出会うと、威厳らしきものを感じるらしいので、ぼくも悪戯にそれにあやかろうとするのだが、質問を投げかけられたりするとすぐに本性を現し、口角泡を飛ばして、要らんことばかりを、相手が辟易とするのを承知で口走ってしまう。 “事ここに至って” 威厳も何もあったものではない。もっとも、本当のところ、威厳を示そうなどと思ったことは一度もないが、しかし時と場合によっては、ないよりはあったほうがましということが世間にはあるらしいのだ。だが詮ずるところ、威厳なんてその程度のものだ。歳を取れば取るほど、そんなものには頓着しなくなるのが健全な精神の持ち主なのではあるまいか。

 還暦を迎えたころから、仕事の仲間や相手はぼくより歳の若い人が圧倒的に多くなった。世代交代による仕事の環境が徐々に変わっていったのでぼくは意を決し、「ともかくも、若い人より喋らない」とか「口数を少なくしよう」と心がけた。 “良い年寄り” でなければならぬとの思いは、果たして実行できているのやら、今のところどうにも疑わしい。
 だができるだけ、若い人の注文に素直に従いながら、年功で得たものを調味料のように使えばいいのだと心得るようになった。これは思いの外うまく実行できたように感じているのだが、生来のお節介者ということもあって、我慢や凌ぎはストレスを生じるものだ。その反動として、 “寡黙の祟り” に遭うことがある。ストレスは万病のもとである。ストレスを解消せんがために、本稿にあってぼくの文章はますます冗長なるものとなっていったのだろうと、ここで責任の転嫁をしておく。畢竟、仕事仲間である若人は果報を得(多分)、読者諸兄は気の毒にもそのとばっちりを受けている(間違いなく)。

 前々号で、ぼくは道具の正体を知るには長い時間を要すると述べたが、今回の掲載写真に使用しているマクロレンズはまだ10ヶ月ほどのお付き合いだ。お互いに正体を見極めている段階にあるが、かなり意思疎通ができるようになってきた。マクロレンズというのは味わいのあるものが多いが、いずれも(以前に使用していた旧モデルと現役のEFレンズも含む)素性がとても優れているので、使い甲斐がある。

 修業時代、師匠とレンズの話をした時に、「新しいレンズを使いこなすためには、やはり1年間毎日使用しないと、その性質を完全に把握できないものだ」といわれた。ぼくも同様の感覚を持っていたので、深く頷いた記憶がある。
 現在使用中の100mmマクロレンズはRFマウントの最新モデルで、昨年9月に新調したものだ。EFマウントの旧型から3台目となるが、そのどれもがクオリティが高く、満足感の得られるものだ。解像度一辺倒でないところが嬉しい。

 今、カメラもレンズも新顔なので、ぼくは “おたおた” というより、 “しどろもどろ” といった感覚で使用している。あらゆる場面を想定し、「こうすればどう写る?」の連続だが、都度発見することがあり、立ちくらみを覚えながらも実験に余念がない。だがしかし、まさか自分が私的写真のためにマクロレンズを常に持ち歩くとは夢にも思わなかった。武漢コロナは思わぬところで、ぼくの常用機材を変更させた。
 かつてマクロレンズは仕事に行く時、安心感を得るためにカメラバッグに忍ばせておくくらいのものだった。また、何をいい出すか分からぬ気紛れなクライアントのためのものといってもよかった。謂わば精神安定剤のような位置づけだった。

 今回のタンポポ写真は、レンズに新たに附属された「SAコントロール」(球面収差を変化させ、ボケ具合を調整する機能。ぼくにとっては今のところその必要性を感じていない。こんなものは不要だから、その分安くしてくれというのが人情というものだ)を使わずに、画像ソフトでわずかにグロー(glow。写真用語としてどう訳せばいいのか?)をかけただけ。
 メーカーに「値切れ!」といいたいがために、ぼくはここまで2000字以上も費やしてしまった。やれやれ世話の焼けるこった。

https://www.amatias.com/bbs/30/601.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
雨上がりのタンポポ。リサイズ画像ながら、水滴が線香花火のように描けた。
絞りf2.8、1/100秒、ISO 200、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
額紫陽花。淡いブルーにピンクが入り混じり、その美しさに思わず息を詰めてシャッターを押す。画像補整なし。
絞りf3.2、1/200秒、ISO 200、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2022/06/24(金)
第600回:だから何なの?
「とうとう」というか「否応なく」といおうか、本連載も「あれよあれよ」という間に600回を迎えてしまった。12年間毎週継続してきたとの自覚はあまりないが、厚かましくも、文章と写真の二本立てなので(担当諸氏から要請されたわけではなく、ぼくが横暴にも自ら進んで志向したこと。ほとんど自爆行為)、その企てについて「毎週さぞや大変でしょう」と心優しき読者諸兄やあまり優しくない友人から異口同音にいわれるが、一度世に出たものはネットであれ活字であれ、なかなか取り消すことができないので、ぼくのような人間でも常に緊張感をもって執筆している。したがって、回を重ねても慣れるということはない。

 文章はともかくも(ぼくは物書きではないとの逃げ道がしっかり用意されている)、写真は専門職なので逃げ場がなく、言い訳もできず、精神的負担と責任感はこちらのほうがずっと重い。両者を比較すべきではないのだが、写真はぼくの生業であるが故、人品を計る物差しにされること、宜(むべ)なるかなというところだ。もちろん、それを覚悟のうえで写真屋稼業をしている。ぼくにしては、これでも勇猛果敢な様に思えるのだが・・・。
 毎週2枚の写真掲載は、ことある毎にえらっそうなことを書いている手前、苦渋に満ちた思いに襲われたり、辛苦辛労を凌ぎながら、這々の体というのが実際である。やはり、「勇猛果敢」じゃないね。余談だが、その伝メジャーリーガーの大谷翔平選手は掛け値なしに凄いし、素晴らしい。

 「撮って書く」との二刀流に心身が持ち堪えられなくなったら、どこで「決別」の潔さを示すかとの問題に直面するのだろうが、これはぼくには分からない。確かなことは、写真屋としての熱を大切にするのが、ぼくの生きる術であることに間違いなさそうだ。
 幼少時より父の背中を凝視しながら育ったので、言葉と文章についての難しさを嫌というほど知らされた。それを思うと日本語をさばくことなどぼくには到底不可能である。また、長年の編集者経験でもそれを実感している。

 心に描いたことを間違いなく文字に転写して表現するなんてことは、ぼくにとって「もってのほか」であるとしつつ、ぞんざいながらも周囲を睥睨し、躊躇せずに書き連ねている。このことは同時に、「ならば、写真ではどうなのか?」につながるのだが、評価はさておき(ここでの議題ではないので)、写真は勝負が早く、しかも表現が文章や言葉にくらべ、より抽象的な部分が多いと感じているので、ぼくとしてはその分かろうじて勇猛果敢になれるのだろう。
 ただ、「撮っても撮っても、思うように写ってくれない」といつも歎息交じりだが、この事実だけが、この歳になるまで、そしてこれから先もうしばらくはまだ飽くことなくシャッターを押す原動力となってくれるのだと思う。つまり、「撮れないから、撮る」を延々と繰り返すということなのだろう。これは一見、「運鈍根」から派生する生業の意地のようなものなのかも知れないが、生業でなくとも、好事家であれば変わりないのではないかとも思う。

 えらっそうに毎週要らんことばかりをそれらしくコテコテに書いているので、多少良心の咎める時がある。そんな時、ぼくは一服の清涼剤として、自分の言葉に対して、「だから何なの?」を投げかけることにしている。この一言で、気を取り直したり、安らぎを得たり、落ち着きを取り戻したりするのだから面白い。自己に対する疑問視が一種の精神安定剤のような効能を果たすとの発見はなかなかのものだと自己陶酔している。10年に1度の発見であると、例によって自画自賛。ぼくは最近、自分の言葉に対して「だから何なんだ!」を連発し、白髪を逆立てながらもちょっと得意顔になっている。
 確信を持って述べていることも、裏を返せば疑心暗鬼を生ずということなのだろう。この辺の相関関係というか因果関係の成り立ちというものは、一考に値することと思うのだが、ただあまり写真的な生産には役立ちそうもなく、ほどほどにしておかなければ心身消耗を来すので、これ以上は追求しないことにする。黙って得意顔をしていればいい。どこかで自己完結するだろう。

 文末になってしまったが、前号で「文明の利器には抗しがたい」とか「AF性能の正確さと速さには舌を巻かざるを得ない。その性能たるや、一昔前にはおおよそ人知の及ぶところではなかった」と書いた。それをまざまざと実感したので、得意顔をしながら記しておこうと思う。

 わが娘が愛犬を連れて嫁ぎ先の都内からやって来た。かかりつけの獣医師に定期診断をしてもらうことと、愛犬の写真を撮って欲しいとのことだった。犬種はチワワなので、ぼくは腹ばいの、いわば匍匐前進(ほふくぜんしん)のような撮影スタイルを取らざるを得なかった。せわしく走り回る標的に、ぼくはカメラの設定を「追尾優先AF + 動物 + 瞳検出」にし、滅多に使用しない連写機能を時折用い、シャッターチャンスをものにした。ピントの歩留まりはおよそ95%以上だろう。これは、大谷選手のように凄い!

 20数年前に(フィルム時代)、当時流行の先端だったチワワの特集ムック本を1冊丸ごと請け負ったことがあった。50匹近いチワワを撮っただろうか。走り回る敵をマニュアル・フォーカスで追ったが、さすがに歩留まり95%以上とはいかなかった。いくはずがない。歩留まりは悪いが、しかし苦労の果てだから、達成感は今回より多く得られたように思う。
 そんなことを懐古しながら、カメラはどこまで進化し続けるのだろうか? その進化は果たして写真愛好家に本当の喜びや充足感をもたらすのだろうか? そんなことをつらつら考えるに、今最新のカメラを手に得意顔などしている場合ではないと思い始めたところ。科学の発展は人間にどのような幸をもたらすのか、ということなのかな。

https://www.amatias.com/bbs/30/600.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
赤と黄色の百合の花弁を裏側から。RawデータをPCで見た瞬間、カラーもどことなく妖艶なのだが、「やはりこれはモノクロで」と迷いなし。
絞りf8.0、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
額紫陽花。雨上がりの一輪。「もう1絞り絞ったほうが良かったかな」と感じるのだが、そうするとバックの小さなつぼみのボケ具合が思い通りでなくなる。難しいもんだ。
絞りf3.5、1/100秒、ISO 320、露出補正-1.00。


(文:亀山 哲郎)

2022/06/17(金)
第599回:今のカメラは「悪女の深情け」
 去年、長年使い慣れたデジタル一眼レフカメラ(キヤノンのプロ仕様機EOS -1D系。数機種を20年間使用)を放出し、初めてミラーレス一眼を購入した。あれから1年余りが経過したが、やっと最近ミラーレス一眼なるものの性格を掴み始めたところだ。
 「1年間も使用しないと分からないのか?」といわれそうだが、ぼくにとって道具というものは斯くの如しとの確信を抱いている。
 たった数日間の使用歴で「このカメラは」とか、あるいは「このレンズは」との解説に及んでいる方々がたくさんいるが、ぼくから見れば相当な慧眼の持ち主に違いなく、ただただ感服するばかり。
 
 父にねだり初めてカメラを買ってもらってから(10歳の時)早64年の歳月が流れたが、その間、ぼくは全体何台のカメラを手にしてきたのだろうかと今思い返すに、大型カメラを除き、コンデジやAPS-Cカメラを加えると約40台となる。レンズの数はもう数え切れないくらいだ。ぼくは自分がカメラやレンズマニアと思ったことは一度もないが、中古品、新品を交え、そしてそれに付随する機材などを含めれば、その出資は分不相応に膨大なものになる。ただ、ぼくの場合は残念ながら「好きこそ物の上手なれ」の諺通りにはいかなかった。ここが唯一の癪(しゃく)である。
 数をこなせば良いというものではないが、それほど自分の使う道具というものに執着心があったということだろう。そして、自分にとって写真機材の選択基準というものが徐々にできあがったのだと思う。

 拙稿の「第2回 どんなカメラがいいですか?」(2010年5月)に、愛好家からの質問に答えているが、それを今読み返してみた。初めてカメラを購入しようとしている人に対して嘘偽りのないところを述べているのだが、それを記した当時から12年の歳月が経過し、今同じ質問をされれば、当時の答は不全であるような気がしている。
 何故かといえば、当時にくらべ今は選択肢がさらに広がり、作品発表の場も多種多様で、目的に合ったカメラ選びがしやすくなったかと思いきや、実はそれに比例して迷いが生じるケースのほうが多くなったと感じている。あまりに多くのカメラやレンズが氾濫しているので、基本的にはぼくが12年前に記したことに間違いはないと感じているが、それだけでは機種選択の基準に甘さが生じているとの感が否めない。今、もし事始めの人に同じ質問をされたらぼくはどう答えたら良いのか途方に暮れるだろう。
 また、これから先、写真にどのように取り組むのかということも重要な要素となる。事と次第により(物欲でなければ)、いきなり高価なライカを買いなさいというのもあながち的外れとは、ぼくは思わない。第2回目で「写真が上手になりたければ投資しなさい」と述べている。投資は裏切らない、との考えは今も変わらない。

 現使用のミラーレス一眼を購入した経緯は拙稿で述べた記憶があるので繰り返さないが、「どのようにすれば写真が写るのか?」の仕組みやメカニズムを理解しなければ写真が撮れない時代を経てきたぼくにとって、購入した新しいカメラの “至れり尽くせり” とか “痒いところに手が届く” が如くの、悪女の深情け的な仕掛けに、「こんな機能は要らないから、その分安価なものにしてくれ」と、鬨(とき)の声ならぬ雄叫びを発したくなったものだ。今もそう感じているのだが、一方で「便利な機能も価格のうち。使わない手はない」との理解ある態度を嫌々ながらも認め、実行に及ぼうとしている。世間ではこれを称し、「節操」というらしい。

 “化石写真屋” を自認しながらも揚々とするぼくは、頑なに悪女の深情けを容認しがたいものとして、拒みしりぞけようと努める。だがしかし、文明の利器には抗しがたく、上記したように、悪魔の囁きにすぐ乗ろうとする。
 「オートフォーカスなんぞ使うもんじゃねぇや。姑息なことをするんじゃないよ! だから人間はどんどんダメになっていくんだ。カーナビに頼ってばかりいると地図も読めなくなってしまうのと同じだ」と盛んに息巻くぼくは、陰でこっそり「歩留まりをよくして、心身の消耗を防ごう。このほうが精神衛生にもいいし。『善は急げ』ともいうしな」などとしみったれた料簡に、つい心を奪われそうになる。ミラーレス一眼にしてから(昨今の通常の一眼レフも同様であろう)、ぼくは化石から生身の人間に変身しつつある。

 撮影時に抜かりなく様々な条件をクリアしても、仕上げであるピントを外してしまったら元も子もない。これは写真の持って生まれた宿命のようなものだ。ピント以外の操作で万が一ミスをしても(致命的なものでない限り)、許容範囲であれば昨今の優れた現像ソフトを上手く扱い、なんとか取り繕うことはできるが、ピンボケだけは救いようがない。如何ともし難いのだ。
 かつてマニュアルフォーカス(MF)で散々辛酸をなめた化石人間として、ぼくは今通常の撮影では遠慮会釈なくオートフォーカス(AF)のお世話になっていることを、声を潜めていっておかなければと思う。生身に変身したぼくは、時に喜色満面である。そのくらい昨年購入したカメラのAF性能の正確さと速さには舌を巻かざるを得ない。その性能たるや、一昔前にはおおよそ人知の及ぶところではなかった。
 けれど、かつて「動体撮影でもピントを外さない」訓練を、凡事徹底(四字熟語。何でもないような当たり前のことを、徹底的に行うこと。または、当たり前のことを、他の追随を許さぬほど極めること)というほどではないが、明けても暮れてもしていた頃が、やたらと懐かしく思える。それほど、今時のAF性能は、一写真屋の人格を変えてしまうくらいの威力に満ちている。これを、使わない手はないわ。

https://www.amatias.com/bbs/30/599.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
第594回でブルーのボリジを掲載したが、今回は白。超接写のためf5.6に絞っても被写界深度はこんなもの。
絞りf5.6、1/160秒、ISO 200、露出補正+0.33。
★「02さいたま市」
紫陽花が咲き始めた。昔は必ず気性の荒いカタツムリが何匹か棲息しており、ぼくは紫陽花のなかに手を入れることが恐かった。その思いは今も同じ。
絞りf4.0、1/125秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2022/06/10(金)
第598回:花撮りジジィ
 ぼくが、勧善懲悪を題材とした昔話である『花咲か爺』ならぬ「花ばかり撮るジジィ」に変身せざるを得なくなった理由は、今まで拙稿で何度か述べたが、それ以前は主に街中の人物スナップやガラス越しの写真を撮り甲斐としていた。数年前まで写真といえば、主として街中での人物スナップしか考えられなかったし、最も醍醐味のある主題だった。もちろん、花や風景も撮ったが、それらはあくまで刹那的な誘惑に過ぎなかった。
 ぼくが「花撮りジジィ」になってしまった主な原因は、武漢コロナのせいと、以下に記す窮屈極まりない悪習が世の中に蔓延し始めたためであり、いってみればそうせざるを得なくなってしまったというのが本当のところである。

 今週たまたまある事情で、国内外で撮影した人物スナップをポートレートの参考例として烏滸がましくも開示する必要があったので、保存してあるもののなかから50カットほどを選び出した。写真の出来映えを考慮し選んだわけではなく、パソコンに繋がれている外付けHDに保存されたものが手短だったので、そこから安直にホイホイとドラッグ&ドロップし、それを開示した。
 それらを眺めていると、ぼくにとって最も撮り甲斐のある被写体は花ではなく人物スナップだと改めて気づかされた。今さらながらに、というところだ。

 昨今は、肖像権がなんやらかんやらと悪戯に騒がれ始め(論ずるまでもなく、他人に不快な思いをさせたり、迷惑をかけることは論外として)、昔にくらべるとその手の写真が大幅に減ってしまったような気がする。
 写真愛好家が人物撮影を様々な理由により敬遠し始めたのか、あるいは公に発表しづらくなり、その結果、目に留まることがめっきり少なくなったように感じられる。確かな原因は定かでないのだが、推察するところ、写真に限らず世の中が無秩序に窮屈になったことが大きな要因であろう。

 義務と権利の見識あるバランス感覚に見境がなくなり、人は自身にとって都合の良いように “権利” という刃を振りかざし、容赦なく他人に向ける。そこには必ず “行き過ぎ” が横行し、 “寛容さ” という世の中の潤滑油がどんどん失われていく。ぼくはこの息苦しさにげんなりし、人間にレンズを向けることを憚るようになってしまった。ざっかけなくいうと、世の中では “性善説” より “性悪説” が勝ち、そしてまかり通っているその結果だとぼくは感じている。良心派の多くが、 “権利” をかざして立ち向かってくる輩に太刀打ちできずにいる。良心派は、無意味で不条理な攻撃を快しとしないので、憤懣やる方なしと思いつつも、徒手空拳であらざるを得ない。無垢で不器用な人ほど徒手空拳である。
 誤解のないように申し上げておかなければならないが、いわゆる「表現の自由」を掲げて、撮影者はどのようなことをしても良いのだということではない。良心と見識があってこその「表現の自由」なのだとぼくは訴えておきたい。

 ぼくの若い頃は、人物スナップの写真が大手を振って、雑誌などの媒体に載っていたものだ。ぼくが、人物スナップに傾倒した大きな理由は、ロバート・フランク(米の写真家。1924-2019年)やアンリ・カルティエ = ブレッソン(仏の写真家。1908-2004年)、日本では木村伊兵衛(1901−1974年)の写真に憧れを抱いていたからだった。彼らは、怪しげな市民団体の片棒を担ぐことなく、純粋に人間の生き様や深遠をつぶさに、しかもさりげなく、謙虚に写し取っていると感じていたので、そこに大きな共感を覚えたのだった。

 今、「花撮りジジィ」となっても、ぼくはそこに安住しているわけではない。ぼくにとって「花」は、やはり仮の住まいだとの思いは強いが、そうとはいえ撮影時は真剣勝負そのものなので、花の写真の難しさに、実は辟易としている。花の写真を1枚撮るたびに神経がすり減るといっても過言ではない。
 おまけに、花の多くはかなりの低位置で撮ることになるので(ぼくは切り花の写真は撮らない)、撮影後立ち上がると、時々立ちくらみを覚える。「もうこんな撮影はいやだ、いやだ!」と、何度叫んだことか。立ちくらみのたびに、肉体が蝕まれ、寿命が縮んでいくような気に襲われるのだから、もうやってられんわ。

 それに加え、さらに悩ましい問題は、被写界深度を調節するためのf 値の決定にある。ぼくはつまらぬ意地を張り、f 値を変えて何枚か撮るということをしない。本来なら安全を見越し、保険を掛け、何枚か撮っておけばよさそうなものだが、実にくだらぬ沽券(プロの沽券)を保つために、一発で決めようと自虐趣味丸出しで花に挑む。
 同じf 値であっても、被写体との距離で被写界深度は変化するが、「そんなものはとっくにお見通し」という態度を崩さないから、自分で自分の首を絞めることになる。長年培った経験値を過信しているので、写真のあがりをパソコンのモニターで見て、首を絞めるのではなく、うなだれること多々ありというところだ。アホな沽券に縛られているので、撮影後カメラモニターで撮ったものを確認することもしない。フィルム時代を生きてきたとのつまらぬ気概が邪魔をするのである。自己陶酔もいいところだ。
 「見栄など張らずに(誰も見ていないけれど)、もっと気楽に写真を愉しまなければ、良い写真は撮れないね」と、盛んに自己暗示をかけた今週でありました。意地や沽券、矜恃や自負といった灰汁は、いつになったら抜けるのやら。

https://www.amatias.com/bbs/30/598.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ: RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF 35mm F1.8 Macro IS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
泰山木。開花期間が短く、油断すると見頃を逃してしまう。高木故、多くが高いところに上向きに咲くので、かなり難儀。写真の花は直径25cmほど。モノクロ。
絞りf11.0、1/100秒、ISO 800、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
さざんか。花弁が丸まり、印象的だったので、それを描くためのアングルを凝視し、カメラ位置を決める。
絞りf4.0、1/400秒、ISO 100、露出補正-0.67。


(文:亀山 哲郎)