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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/07/07(金)
第650回:滋賀県大津
 三ノ宮駅から1時間ほどで、鉄道ファンもどきを演じてくれた同行者の仰せの通り、快適なJR神戸新快速は大津駅に滑り込んだ。途中の京都駅で大半の人が降車してしまったので、車窓からの眺めは見通しが良くなり、より多くのものが目に入るようになった。
 車窓マニアと勝手に自称しているぼくは、そわそわし始めた。速度に関係なく、列車や電車のそれは、通り慣れた場所であっても、必ず何かしらの発見があり、それが楽しく、やっぱりぼくは、人一倍車窓を楽しむ “車窓マニア” といって差し支えない。ここが、車の車窓とは一線を画すところだ。
 ハンドルを握りながら、流れる風景のなかに点在するものを、捜し物でもするように視線を置いていたら、危険極まりない。だからどうしても、車からの車窓観察は、気が置けず安穏としていられない。鉄道は他人まかせなので、気が楽というものだ。

 京都駅を出発し、山科(京都市東部)通過時には車窓に目を凝らした。というのは、ここにぼくを可愛がってくれた叔父、叔母とその家族が一時期住んでいたことがあり、学生だったぼくはよくここをねぐらとし、あちこちに出かけたものだ。叔父、叔母は、60代に病で亡くなってしまったが、多感だった青年期をここで過ごした日々は、今も深く脳裏に刻まれている。そんな経緯もあって、山科には一種特別な感情を抱いている。
 当時は新幹線から、「ああ、あの辺りだな」と、ありし日のねぐらに当たりを付けることができたが、今回はさっぱりだった。叔父、叔母を思いながら、ぼくは車窓を眺め、ちょっと感傷的な気分に襲われた。

 京都駅から大津駅は約10分の道のりだ。感傷に浸る間もなく、大津駅に到着。ぼくは貴重な感傷を奪われた。
 大津駅は、今まで何十回も通過したことがあるが、下車したのは今回が初めてだ。当地に不案内のぼくは、ホテルとは反対側の南口に出てしまった。よく見ると間近に山が迫っており、初っ端から重大なミスを犯してしまったことに気づいた。
 「わしとしたことが、何たるドジや」と、意図せぬ京都言葉と抑揚でつぶやいた。これが博多駅だったら、「わしっちしたばいこつの、何たるドジか」と、やったのだろう。いつもどこか無節操なぼく。やはり根無し草なのだろう。

 ドジを踏んだぼくは、あたかも現代風に、得意気になってスマホをポケットから取り出し、ホテルの位置確認をしようとしたところに、折好く3人の高校生がやって来た。
 スマホを気取るより、アナログ的に、人に訊ねたほうが手っ取り早い。これぞ賢人の作法と、無節操なぼくは直ちに判断した。この変わり身の早さ、ジジィにあるまじき、である。
 ぼくが訊ねると、彼らはすぐにスマホを取り出し、手さばきも鮮やかに、「おじさん、ここ、ここや」と、画面をかざして見せてくれた。実は1ヶ月程前に、近くのスーパーで子供に生涯初めて「おじいちゃん」と声をかけられて、愕然としたのである。それが「おじさん」(京都で自然に使われる「おっちゃん」でもよし)ときたものだから、ぼくに得体の知れぬ何かが込み上げてきた。
 そうだ、おれは「おじいちゃん」などと他人にいわれる筋合いは現在のところまったくなく、「おじさん」と呼ばれるのが断固正しい。

 ぼくは地下道を通り、反対側の北口に出た。「滋賀県の県庁所在地って確か大津市だよなぁ」と確認しなければならないほど、県庁所在地の駅前にしては、えらく大人しく、また質素だった。
 埼玉県の県庁所在地は浦和(現さいたま市)だが、ぼくはいつも浦和を指し、「全国の県庁所在地で最も賑わいのない貧相な街。おまけに歴史的遺構もほとんどない味気のない街」と半ば自虐的な見方をしてきた。「住めば都」というが、どうもそうはいかないようだ。  
 人生の大半をここで過ごしているにも関わらず、ぼくに郷土愛が芽生えないのは上記したことも起因しているのだろう。愛するものがないというのは、寂しいことだ。
 浦和駅の名は、東西南北を冠した4駅と中浦和駅、武蔵浦和駅があり、ご大層に7駅も存在しているのだが、浦和駅は特急も急行も縁がない実に不思議な県庁所在地なのだ。日本の七不思議といってもいい。

 さて、高校生の親切に感謝し、ホテル向かって歩き出したぼくだが、空身ならいざ知らず、リュックを背負っての行軍は思いのほか、ホテルまで遠く感じられ、もうぐったりしてしまった。チェックインを済ませ、心地の良いビジネスホテルの一室でぼくはベッドに身を横たえ、19時に目覚ましをかけ、夕方の短い昼寝を決め込んだ。少しでも体力を回復し、そして温存をしておこうとの計らいからだった。

 明日が雨なら、京都の梅小路(京都鉄道博物館)で動態保存されている蒸気機関車を撮影しようと夢見ていたのだが、ぼくの念願は「梅雨時の予期せぬピーカン」に見事に打ち砕かれてしまった。晴れなら、40年ほど前に訪れ、良い印象を残してくれた近江八幡に行こうと当初より決めていた。
 40年前、近江八幡の一角で出会った家々の佇まいや、その通路沿いに流れる幅1mにも満たない水路の情感溢れる佇まいを今も忘れることができない。その風情に、長い歴史がどっしりと腰を据えていた。ぼくは非常な感動を覚え、それをフィルムに定着させるにはどうしたら良いか、身悶えするような思いで、4 x 5インチの大型カメラをそこに据えた。そんな思いをもう一度近江八幡でできるだろうか?

https://www.amatias.com/bbs/30/650.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
縦長のモニターの下から順繰りに映像が走る。素早い動きだが、1/160秒なら流れを止められるだろう。画像の流れが速いので、一瞬、連写機能(メカシャッターで秒間12コマ)を使おうかとの思いが頭をよぎったが、「恰好悪ぅ。無様なことをしないで、一発で仕留めろよ」との声が聞こえてきた。「これしきのことで、連写なんか、このおれがするわけないだろう!」とうそぶく。
絞りf4.0、1/160秒、ISO 1000、露出補正-1.67。
★「02神戸市三ノ宮」
鏡とガラスの写り込みと色合いが面白かった。単レンズゆえ、何の迷いもなく構図が決まる。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 800、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/06/30(金)
第649回:三ノ宮から大津へ
 式典での仕事を無事に終え、審査員何人かと三ノ宮駅へと向かった。右も左も分からぬ新参者のぼくにとって、彼らは見知らぬ土地の案内人であり、また同時に救世主のようにも思えた。老体には似合わぬ重いリュックを背負って、うろうろする必要がないので、その心理的負担の軽減は大なるものがあった。「涙が出るほどありがたい」とは、まさにこういうことをいうのだろう。
 加え、ぼくは彼らの人としての品格や審美眼をとても尊重しており、なおのこと心地よさを感じていた。

 今回の関係者のうち、よ〜く考えてみたら、なんとぼくが最年長者であることに気づいた。昨今は、ほとんどの集まりで、ぼくは知らぬうちにもうそんな立場に追いやられている。だが、この無自覚さは非常に尊いものだとも思っている。「知らぬが仏」というではないか。知らないでいることを美徳のひとつとするこの教えは極めて貴重である。
 式典後の懇親会で、「おれ、よ〜く考えてみたら、最年長者なんだよねぇ」と嘆いてみせたら、「その最年長者が、一番のやんちゃ!」と、誰かが言い切った。

 「やんちゃ」という多様な意味を含むこの難しい語彙について、ぼくは自分なりにそれを解釈してみた。何でも自分のことは都合良く解釈するおめでたい性癖のぼくは、その言葉を「緊張の場にあって、『みなさん、お気楽に』と、二言目には緊張緩和のための冗談をいい、機知に富んだ人物のこと」と定義づけた。
 だからぼくは、同窓生などに「おまえは良い性格をしてるなぁ〜」と憫笑(びんしょう。憐れみのこもった笑い)されてしまうのだ。まぁ、害虫とか、老害(嫌な言葉だね)などといわれるよりはずっとましだ。

 最近やたらと耳にする “老害” とは、広辞苑によると「硬直した考え方の高齢者が指導的立場を占め、組織の活力が失われること」らしいが、広辞苑の第5版にはまだこの言葉は登場していない。 “老害” の意味が実際そうだとしても、こんな言葉を不用意に、しかも平然と口にする輩は、やはり己を知らない人品卑しき人々である。それが人間の格というものだ。「子供叱るな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ」である。

 三ノ宮駅から在来線に乗ったぼくは、リュックを床に降ろし、車窓に抜かりなく目をやりながら、同行した彼らと、今回の審査会や式典の愉快なあれこれについて話し合った。そうこうしているうちに、ぼくは車窓の眺めが非常に速いことに気づき、「在来線でも、こんな速度で走るんですね。感動的だなぁ。新幹線みたいだ!」と感嘆の声をあげた。
 大阪に詳しいひとりが、「そうなんです。なにしろ120km/h以上のスピードを出してくれるので、この線をいつも利用する私は大助かりなんですよ。JR神戸新快速なら大津まで1時間ほどで着きますよ」と、鉄道ファンのような口上で得意気にいわれた。

 何故大津かというと、本来であれば、親戚や友人の多い京都に立ち寄り、そこに宿泊すればいいのだが、撮影に注力したいとの思いから、京都泊をやめた。もし、明日雨なら、念願の梅小路(京都鉄道博物館)にて動態保存されている蒸気機関車を撮るつもりでいた。大津からは2駅、約10分で行ける。しかし、天気予報によると、待望の雨の気配はまったくなく、どうやらピーカンであるらしい。それじゃダメなのだ。

 というのは、数年前、我が倶楽部のTさんが梅小路に行き、そこで撮影した雨に煙る扇形車庫の全景写真にぼくはえらく感じ入ったので、一応指導者もどきのぼくは、それを凌駕する写真を撮らなければ立場が危ういと感じたからだった。「よし、おれも梅小路に行くぞ」というと、倶楽部の同輩は、「かめさんは、ホントに負けず嫌いなんだからぁ」と嘲笑う。
 「うちのおっさん(ぼくのこと)は、写真のことは何も教えてくれない」がTさんの口癖であるのだが、「写真なんて、他人に教えられるものか。そんなものがあったら反対に、おれが教えてもらいたいくらいだ」とぼくは返す。

 ぼくがTさんのその写真を褒め称えた時、彼は得意技である、鼻を一気に膨らませ、小指を釣り針のようにし、鼻の穴に引っかけ持ち上げるという変態的かつ奇妙奇天烈な所作を何時もしてみせる。同時に口も引きつれ、ひん曲がるのである。如何にも、ひねくれ者そのものの動作を無意識にするのだから、ぼくは褒めながら笑うというおかしな対応をせざるを得ない。
 ぼくばかりでなく、周囲の誰もがその変態的な仕草を周知しており、「また始めた」と、腹をひくひくさせながら精一杯笑いを堪えることに終始している。悲しいかな、その厳然たる変質的行為に彼はまったく気がついていないのだ。

 扇形車庫に動態保存されている機関車の裏手に回り、雨中の柔らかい光を逆光に、様々なアングルによるイメージがぼくの頭にしっかり格納され、それを試してみたかった。思い通り撮れれば、膨らんだ彼の鼻が一時的ではあろうが、収縮するはずだった。負けず嫌いのぼくは、それを密かなる楽しみにしていたのだが、ピーカンの予報が、ぼくのささやかな企みのすべてを奪い取った。
 「この梅雨時に、選りに選って青天とは何事ぞ」と、ぼくは大津のホテルの一室で意気消沈した。あの変態おやじは、再び鼻を膨らませ、嘲笑しているに違いない。

https://www.amatias.com/bbs/30/649.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
ショーウィンドウのなかの鏡に映し出された別嬪さん。ガラスに写り込む夾雑物を避けるため、ぼくはファインダーを覗きながら、蟹の横ばいで立ち位置を定める。デジタルなので、「後で消せばいい」なんていう不埒な料簡をぼくは持ち合わせていない。それでは、撮影の厳正なる精神に支障を来す。
絞りf2.8、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.33。
★「02神戸市三ノ宮」
人通りの途絶えた旧居留地に、一際美人がボーッと現れた。少し離れたところにテールランプと覚しき赤い点がふたつ。この位置を定めるために(構図上の塩梅を見るために)、ライブビューを利用し、少し高所から撮影。
絞りf3.2、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2023/06/23(金)
第648回:初めての神戸市三ノ宮
 久しぶりに新幹線に乗った。新幹線の写真を撮ることに興味はないが、乗ることは、いつだってぼくの気をわくわくさせる。車窓からの風景が信じ難い程の速度で飛び去る( “飛び散る” といったほうが正しいかな)その様は、到底信じ難いもので、ぼくにとってこの世のものとは思えない。この空間移動の感覚は飛行機では味わえないものだ。したがって、何度乗っても慣れるということがない。まったくの異次元世界にぼくは我を忘れ、子供のように夢中になってしまう。
 なかには、この異次元体験をものともせず、平然としている人たちがいるが、彼らは一体どんな神経をしているのだろうかと、理解に苦しむ。そして、この不感症の人たち(失礼!)を気の毒だとさえ感じてしまう。大きなお世話だね。

 今回は “待望の東北新幹線” ではなく、通い慣れた東海道新幹線プラス山陽新幹線(今回は東京ー新神戸間)なのだが、いつもは仕事柄、機材が重いので移動はどうしても車利用になりがちだ。北は北海道から南は九州まで、ぼくは日本全国を車で走り回っていた(数年前から、すでに過去形となっているのだが)。
 今回の仕事は、神戸市三ノ宮にあるアメリカの大手会社の日本支社に呼ばれてのものである。撮影ではなく、ある催しの式典に参加しなければならず、Tシャツにジーンズというラフな出で立ちながら、僅かばかりの時間、演壇に立ってお喋りをしなければならなかった。

 通常、ぼくは写真以外の仕事でどこかに出向く時は、見ず知らずの土地であってもカメラを持参しないことにしている。写真を撮ることに気を取られるに違いなく、それは仕事を依頼してくれた方に礼を逸するとの考えで、ぼくなりの仁義を通したいとの思いがあるからだ。思いのほか、ぼくはこれでも律儀というか物堅いほうなのだ。
 だが今回は、「あと何年写真が撮れるだろうか?」との不安に打ち勝つことができず、葛藤しながらも掟破りを敢行することにした。ボディ1台にレンズ3本という、写真屋にしては極めて軽装であったが、使い古した大きめのリュックに旅装を詰め込むと、やはりそれなりの重さとなった。

 初めて三ノ宮駅に降り立ったぼくは、クライアントが予約してくれたホテルに、老体にとって厄介な重さに違いないリュックを背負いながら、右も左も分からぬ場所を探し回るのはあまりにも気が重く、駅で客待ちをしているタクシーに乗り込み、行き先を告げた。
 駅からほど近い神戸の旧居留地(安政五ヶ国条約により外国の治外法権が及んでいた外国人居留地)にあるOホテルに着くや否や、制服姿のホテルマン2人がタクシーに駆け寄って来、ぼくの薄汚れたリュックを、映画でよく見るあのピカピカに磨かれた真鍮枠の付いた荷運び車に移し、ヨレヨレのTシャツに半ズボン姿という場違いな風体のぼくを、うやうやしく、あれこれ行き届いたフロントに連行した。
 クライアントはぼくに似つかわしくない宿泊所を精一杯奢ったのだと悟った。

 部屋に通されたぼくは、旅装を解く間もなく、条件反射のようにリュックからカメラを引っ張り出し、16mmの超広角レンズを取り付け、豪奢な部屋の撮影に取りかかった。
 誰に見せるわけでもなく、ましてや一銭にもならぬ写真を、記念のため撮るなんて、我ながらどこか照れ臭く、また滑稽でもあり、ぼくは苦笑しながらも、ファインダーを覗きつつ、部屋のライトを調整し、ついつい仕事モードになり切っていた。コマーシャルカメラマンの悲しき性とでもいうべきか。

 ロケに出た時、ぼくは鼻を利かせながら当地の居酒屋に潜り込むことを常としていた。三ノ宮は不案内だが、ホテルまで乗車したタクシーの運転手さんによると、「ここに来やはったら、やはり神戸牛でっせ」と、関西弁丸出しで勧めてくれたが、大層な神戸牛専門店より、ぼくは気楽で庶民的な居酒屋のほうに魅力を感じていた。これはぼくの性分なので仕方ない。今回はステーキより、瀬戸内の海鮮料理に軍配を上げた。

 タクシーの車窓から、かつての居留地を眺めた。ぼくは運転手さんに「ここらへんはまるで東京の銀座のようですね」と話しかけた。彼は、「神戸いうたら、ここらが最も贅を尽くしたところですわ」と、自慢気に返した。
 旧居留地は現在、海外の著名なブランド店が居並び、ほとんどが時間的に閉店していたが、ショーウィンドウだけが煌々と輝いていた。
 三ノ宮駅界隈の繁華街に夕食を取りに行く時に、ここに居並ぶショーウィンドウを、前回の掲載写真同様に撮影しようと決めた。

 35mmレンズを1本だけ持ち出し、すっかり身軽になったぼくは、やっと元気を取り戻し、海鮮料理に食らい付く前に、意気揚々と、片っ端からショーウィンドウに食らい付いた。
 単レンズ故、身も心も軽く、構図も距離感も戸惑いがなく、良い写真が撮れたかどうかは別としても(ここが悲しい)、40分で120枚ほど撮った。20秒に1枚の計算だ。ズームレンズならおそらく1時間は費やしただろう。

 翌朝、ホテルで遅めの朝食を取り、会場に出向いた。顔見知りの担当者に、「あんな豪奢なホテルでなくとも、ぼくはありきたりのビジネスホテルでいいんだよ。これからはそうしてね」と、生まれて初めて、心にもない嘘をついた。

https://www.amatias.com/bbs/30/648.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
旧居留地のブランド店での1カット目。夜なので、ガラスに写り込みが少なく、自動車の流れるテールランプをどこかに入れようと思ったのだが、まったく通らず。
絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-1.00。
★「02神戸市三ノ宮」
Raw原画はもう少し色鮮やかなのだが、年相応に?彩度を落とす。
絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2023/06/16(金)
第647回:ちょっと前回の補足
 Bokehについては前回で打ち止めの予定だったのだが、ちょっとだけ補足をしておきたいことがあり、もう少しだけお付き合いを。
 Bokehについて、思うところを漏れなく書き連ねようとすると、あまりにも多くの字数を必要とし、ぼく自身がその冗長さにうんざりし、読者のみなさんも辟易されるに違いないので、ぼくの一番苦手な自制心とやらを働かせて、ひとつだけ遠慮がちに追記させていただこうと思う。
 しかし、隠忍自重(いんにんじちょう。ひたすら我慢して軽々しい振る舞いを慎むこと。大辞林)というのは、ぼくのような軽薄で自己顕示の強い人間にとって、えらくエネルギーを必要とするものだ。

 今からもう半世紀も昔のことだが、カメラの本家本元であるライカ(ドイツ。ライツ社製のカメラの呼称)の技術者と懇談する機会を得た。若造のぼくは、まったく分不相応であるライカに活力の大半をつぎ込むというような状態だった。ぼくもご多分に洩れず、いつの時代にもいる青臭くて、生っぽい若者だったのだ。
 そののめり込みのせいで、ライカと心中もやむなしという状況に危うく至りかけたのだが、アルバイトにも精を出し(会社員だったぼくだが、今となってはもう時効なので潔く白状しておく)、何とかうまく繰り合わせていた。道楽が過ぎて身上(しんしょう)を潰しかけていたが、唯一の救いは、友人・知人に借金をしなかったことぐらいだろう。また、当時のぼくは、将来写真を生業にしようとは露ほども思っていなかった。

 また、ライカばかりでなく、ぼくは何かと気が多く、節度や慎みといった大人の作法に反抗心を隠さずにいたこともあって、得手勝手な振る舞いをしたものだ。他のものにもつぎ込むことが多く、どこを向いても身動き取れぬような有り様で、自己を振り返る暇(いとま)がなかった。多趣味とか好奇心の発露といえば通りは良いが、しかしこれをして放蕩というのだろう。

 身持ちの収まらないぼくは、良い写真を撮ることより、カメラやレンズに心を奪われていたと、この歳になってやっと本末転倒の愚かさに気がついた。普段、写真の愛好家に、「カメラやレンズが写真を撮るのではない。あなたが撮るのだ」と、憚りなくいっておきながら、実態はこの体たらく。ほんにいい気なものだ。半世紀近く経った今になって、若かりし頃の妄動に気づかされるのだから、やはり長生きはするものだ。これも「三文の徳」なのだろうか?

 話がどんどん横道に逸れていくことを承知しながら、なかなか本題に入れないのは、ぼくの大きな欠点。半世紀前に話を戻そう。まだ、Bokehという言葉が国際化されていない頃のことだ。

 ドイツから出張でやって来たライカの技術者2人にぼくは興奮気味にこう切り出した。できるだけ、忠実に再現をしてみる。半世紀前とはいえ、鮮烈な思い出だったので、それ程の誤りはないだろう。 
 「90mmのズミクロン(ライカ製F 2.0の中望遠レンズ)を最近購入したのですが、このレンズに限らず御社の製品は描写の切れ味はもちろんのこと、そのボケ味の美しさに感心するばかり。レンズのボケ味について、どのようなお考えをお持ちでしょうか? そしてまた、何か特別な設計上の秘策があるのでしょうか? 差し障りがなければお教えください」と、青二才のぼく。

 2人の熟練技術者は、「隠し事なしにお話ししますが、レンズの設計に秘策といえるようなものは特にありません。ですが、会社設立以来、長い間に積み重ねた経験が私たちにはあります。私たちは、レンズやカメラを設計する際にまず心がけることは、 “商品として、どこに妥協点を見出すか” ということではありません。このことについて議論したことは一度もありません。それは技術者の誇りです。
 レンズの諸収差や解像度、逆光時のハレーションやゴーストなどについて、これ以上にないほどの光学的・科学的な検討を重ね、そこには一切の妥協はありません。経験値に基づいた科学的知識とその応用は誤魔化しの余地が生まれないものです。故に、価格の上昇を止められませんが、私たちは経営者ではなく、技術者ですから(笑)。あなたのいわれるボケ味に関して、私たちは特別意識したことはなく、あくまで光学的な欠点を可能な限り取り除いたその結果に過ぎません。もう一度いいますが、ボケを考慮してレンズを設計したことはないのです」と、如何にもドイツ人らしい厳格さと技術者としての良心を以て、誠実に答えてくれた。

 彼らは、ボケを意識してレンズを設計しているわけでないという予想外の事実に、ぼくは驚いた。レンズには付きものの諸収差を妥協することなく注意深く取り除いていったその結果として、美しいボケが得られるということであり、彼らは普段レンズのボケについて考えたことはなかったと、正直に語ってくれた。日本人の若造は反対に彼らにボケというある種の異国情致とそこで生れた特有な概念を与えたのだった。そしてこの時、ボケに特別のこだわりを見せるのは、日本人の特質であることを知った。

 若い頃に思う存分本物を堪能できたことは、ぼくの人生に計り知れないほどの恩恵をもたらした。現在でもライカは素晴らしい製品を提供し続けていることを認めるにやぶさかでないが、しかし昨今、ライカをやたらと神格化する一派がいる。半世紀前ならいざ知らず、ぼくは今、 “はて” と首を傾げている。

https://www.amatias.com/bbs/30/647.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
東京都中央区銀座。

★「01東京都中央区」
馴染みの店を出たら、表はざんざん降り。パーキングメーターに止めた車に急ぎながら、長年のテーマとしてきた「ガラス越しの世界」に見合った光景に出会い、1枚だけかすめるようにいただく。
絞りf5.6、1/125秒、ISO 1250、露出補正-1.33。
★「02東京都中央区」
上記に続き、雨でぐしょぐしょに濡れたスニーカーを気にし、頬を伝う雫を拭いながら、かすめ撮る。
絞りf6.3、1/160秒、ISO 3200、露出補正-0.33。



(文:亀山哲郎)

2023/06/09(金)
第646回:ボケ味(Bokeh)は今や国際語(2)
 まだアマチュアだった30代前半に、アメリカのワークショップのいくつかに参加し、そこで発行する冊子を定期購読していた。まだ、ネットのない時代だったので、手紙でやり取りをしながら、欲しい物があれば発注し、それらを航空便や船便で送ってもらったりしていた。当時、1ドルは確か200~220円前後だったと記憶する。懐も痛んだが、胸も痛んだのである。写真好きだった父は、「君は、度胸んある買い物ばしよるとね」と、一言だけいって笑っていた。
 嵩のはる重い物は、航空便というわけにはいかず、当然船便だったので、何ヶ月か待たなければならなかったが、大型フィルム用引き伸ばし機やアクリル製の大きな印画紙水洗装置などは、待つに十分値するものだった。

 欧米にくらべ、暗室道具後進国(知識も機材も)の日本にあって、冊子に記された様々で有用な暗室道具(日本では手に入らぬ物ばかりだった)や、撮影機材についての評価など、参考にすべきものも多く、大変興味深かった。
 特に、日本では手に入らぬ蛍光灯による散光式引き伸ばし機(アンセル・アダムスの撮影及び暗室理論である「ゾーンシステム」を実践するには、日本にはない散光式引き伸ばし機を必要とした)を初めとする便利な用具を個人輸入したものだ。
 アメリカから送られてくる荷物は、通関後自宅に配送され、その都度仕事で不在だったぼくに変わって母が関税(輸入税)を否応なく肩代わりしてくれた。会社から帰宅したぼくに、「この木箱に何が入っているのか知らんけど、不意のことやで、家中の現金をかき集め、払っておいたで!」と小言を並べつつも熱意溢れたぼくの向学心ある道楽に大いなる理解を示し、後押ししてくれた。

 母のことは、今になってこよなく嬉しくもありがたく思う。母の愛情を感じつつも、若いころのぼくは一方的な確執を抱いていたことを今頃になって恥じ、存命中に和解を果たしておくべきだったと衷心より悔やんでいる。この原稿を書きながら、当時のことを懐古するだに、傷が疼くような思いをしている。嗚呼、なんてこった!

 母に借りをつくることを由としなかったぼくは、ある時から、欧米からの輸入品を、千葉県市川市原木(ばらき)にあった海外からの荷物集積所留めにし、税金を懐に入れ、車を走らせたものだ。まだ、京葉道路ができたばかりのころで、千葉まで開通していなかったと記憶する。
 ドイツ製の印画紙(独Agfa社のもの)だけは、宅配依頼をし、送られて来た印画紙輸入税は、相変わらず母が肩代わりをし、支払ってくれていた。ぼくは、母の支払った金額に、幾ばくかの煙草銭を上乗せし、うやうやしく上納していたものだ。煙草銭とはいえ、今となっては、このことだけが救いである。

 何カ所かのワークショップから送られてくる冊子には、レンズのレポートも含まれていたが、日本の雑誌に述べられているような、いわゆる「レンズのボケ味」に関するものは一切記載されておらず、徹頭徹尾解像度や収差についての事柄一辺倒だった。レンズの性能を推し測るには、それらの項目で十分だと、合理的な欧米人は考えていたようだ。彼らにとって、「ボケ味」などは、レンズ評価の対象外だったのである。それは1980年ごろのことで、 “Bokeh” という単語が出現するようになったのは、それからずっと後のことで、Wikipediaによると1997年のことだそうである。
 「レンズのボケ味」について、「もともと欧米人は日本人にくらべ、良い意味でも悪い意味でも、どちらかというと大らかな感覚を持った人が多く、あまり頓着しない」ことを、ぼくは彼らとの交流で実感していたので、それを考慮しながら、レポートを読んでいた。

 日本語がそのまま英語(あるいは外国での外来語)となった例でよく知られるのは、たとえば津波(Tsunami)などがあるが、Bokehもそのひとつで、その概略をWikipedia(以下、Wiki)から借用し、それにぼくの解釈をつけ加えてみる。
 Wikiでは、「写真による(ぼけ、英bokeh)とは、レンズの焦点(被写界深度)の範囲外に生みだされるボヤけた領域の美しさ、およびそれを意図的に利用する表現手法である。基本的に主たる被写体にはピントが合っていることが前提であり、ソフトフォーカスレンズの効果とはまったく異なる概念である。この概念や手法は日本国外でもbokehと呼ばれている」と記されている。
 過不足のない、何とも味気ない文章だが、平たくいえば、「主被写体にピントを合わせ、それ以外をボカして作画する技法。撮りたいものを際立たせる方法として用いられ、パンフォーカスとは逆の撮影方法。絞りf値を空ける(数値を小さく)か、被写体との距離を縮めることにより、被写界深度は浅くなり、ボケ加減は大きくなる。そのボケ方が、きれいかどうかが、レンズ評価のひとつの要素となる」。

 ぼくの掲載写真が、比較的パンフォーカス気味の写真が多いとお感じの読者もおられるだろうと思うが、本稿では人物を特定できるような写真は掲載できず、そのことも要因のひとつである。つまり、ポートレートは、人物の前景、後景をボカすことが多いので、結果としてそのようになってしまうのだ。
 とはいえ、武漢コロナの間はひたすら近くの農園で花ばかり撮っており、その多くを紹介した。花の撮影や接写について、かなりボケ加減に注力し撮影している。ぼくは欧米人ほどパンフォーカス人間ではなく、そこのところ、どうか誤解なきよう。

http://www.amatias.com/bbs/30/646.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
東京都荒川区。茨城県結城市。

★「01東京都」
年季の入った波板トタンの向こうに真っ白な現代的な建物が顔を覗かせていた。
絞りf6.3、1/500秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02結城市」
「土蔵の側面にトタン板など張らないで」と願いつつ、不幸にもぼくはそれが好きなので、思わず撮ってしまった。
絞りf7.1、1/125秒、ISO 100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/06/02(金)
第645回:ボケ味(Bokeh)は今や国際語(1)
 日本人は器用な人種だとよくいわれる。誰が、いつ頃から、何を根拠にそういい始めたのか、ぼくはまったく知らないし、第一ほとんど興味がない。といいながら、少しばかりこの話をするのだけれど。
 もし本当にそうであるかどうかを考察するのであれば(そのようなことに意義があるのだとすれば)、他国や他民族との比較を、それこそ数え切れないくらいの例を上げて、徹底検証・考証しなければならないだろう。その項目は、素人のぼくが想像しても天文学的な数にのぼるに違いない。

 もちろん、衣食住にまつわる文化的な背景を含めた人間工学的、医学的、生理学的、遺伝子学的などの、あらゆる分野の学問に於いて公平な比較検討をしなければ意味がない。つまり、全人文科学的な、考え得る限りの事象について、精緻かつ細密な調査を必要とする。そんなことが可能だろうかと思うのだが、可能な方向に舵を切るのが、学問というものなのだろう。
 だがそのなかで、科学では解き明かせないことも多く存在する。科学は、あることの一面を証明する方法論の一端に過ぎないなどというと、その方面の人たちのみならず、科学信奉者から非科学的な人間との反駁を加えられるだろうが、そんなことはぼくにとって屁の河童である。
 そのような学問的試みが現在実際にどの程度進んでいるのか、あるいはそれがどのくらい人類の発展に寄与するのか甚だ疑問だと思うことしばしば。
 そして、もし科学的論理を可能な限り遂行すれば、結論らしきものを導けるのかというと、ぼくは、 “はて” と首を傾げる。

 一応ぼくは常に写真の生成に心血を注いでいるつもりなので、これでも科学信奉者もどきの一面を有しているのだが、科学では解き明かせないものが身近にたくさんあるという現実を素直に受け入れているし(ただし、UFOや宇宙人、心霊現象の類はまったく信じておらず、頭から否定している)、またほとんどの写真愛好家もそうであろうと思いたいが、どうであろうか?
 だが、科学者や学問の探究者がいなければ、世は俗にいう進展・進歩(何を以て “進展・進歩” とするのかは、また別の問題だが)は望めないのだが、だからといって科学や学問一辺倒では、人間の頭脳は硬化し、むしろ退化してしまうと考えるべきだ。これは常に表裏一体を成している。この表裏一体を由とせず、片一方にだけ肩入れしたがる学者が多数いることも事実だろう。その結果、人類に直接的・間接的に不幸をもたらす科学もたくさんあるのだから。

 そして、個人的なことだが、文系と理系は常に敵対関係にあり、融和的な精神が愉快なことにぼくには存在しない。また、敵対関係を解消しようなどという無謀なことにも関わりたくないと思っている。お互い、心理的に理解の範疇に留まってなどいないことをぼくは悟っている。そのくらい思考回路が異なっており、知れば知るほど相互理解には絶望的なものを感じている。
 何事にも融通無碍(ゆうずうむげ。何ものにもとらわれることなく自由であること。大辞林)の精神をぼくは尊びたく、何が何でも数字や公式が正しく、常識や因習に従わなければ罪のように振る舞う人たちとは住む世界が異なり、無縁でいたいとさえ思っている。「縁なき衆生は度し難し」というわけだ。ぼくが頑固なのではなく、相手が頑固なのだと、ぼくは決めつけている。
 
 日本人が器用かどうかの、ぼくの個人的な見解を述べるのであれば、人種や国民性の違いは、世界の色々な国をひとりで放浪したところによると、ある程度存在することは認めるが、それより個人差の方がずっと大きいと考えている。
 その国に生まれ育てば、人間は曲がり形(なり)にも、その国の環境や習慣に順応し、思考回路もそのようになるというのは一理あるのだが、個人の資質によるところのほうがやはりずっと重いような気がしてならない。

 若い頃、ヨーロッパの国々の写真愛好家と色々な話に花を咲かせた。もちろん、デジタルではなくフィルム時代のことだ。彼らと酒を酌み交わしながら写真話をして、面白いことに気がついた
 日本では、ぼくもご多分に洩れず、雑誌などの影響により、レンズのボケ味(英語の “Bokeh” は、もはやこんにち国際語となっている)についてのこだわりがあり、その蘊蓄を傾けようと思ったのだが、彼らヨーロッパ人の写真愛好家の誰ひとりとして「レンズのボケ味」に頓着しておらず、歯牙にも掛けていないように思われた。「何故、レンズのボケ味などにこだわるのか?」と、彼らは首を傾げたものだ。
 写真もたくさん見せてもらったが(写真展なども含めて)、主被写体以外をぼかすような手法をあまり用いず、隅から隅までパキパキにピントがくるような写真が多く見られた。

 写真好きの父も長い間ロンドンに住んでおり、写真愛好家との交流を多く持っていたが、やはりぼくと同じような意見を述べていた。「レンズの評価について述べる時、彼らからいわゆるボケ味についての話を聞いたことなどついぞなかった」と、父は述懐していたものだ。
 当時は、写真についての様々な事柄は、ヨーロッパのほうが日本より進んでいたはずだが、この例ひとつ取っても、日本人の繊細さというか神経質な様子が窺えようというものだ。これが、日本人の一種の器用さに通じるものだとぼくは感じている。(次号に続く)

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
例幣使街道沿いにある嘉右衛門町伝統的建造物保存地区内のヤマサ味噌工場跡地に立つ煙突。現在、工場はすでに廃業だが、建物などを有効活用しながら嘉右衛門町の情報発信や交流施設として整備中。工事用柵の間から、レンズを無理矢理突っ込み撮る。レンズの焦点距離は50mmだが、80〜100mmで撮りたかった。
絞りf8.0、1/500秒、ISO 100、露出補正-1.00。
★「02栃木市」
何度か撮ったことのある建物。日は地平線に傾き始め、月が出る。思わず、アンセル・アダムスの『月とハーフドーム』を頭に描く。4年前も、時計は2時40分を指していた。因みにこの時は、今年5月2日午後5時5分。
絞りf8.0、1/800秒、ISO 100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/05/26(金)
第644回:栃木のおばあちゃん
 今から6年前になろうか、相性の良い栃木市へ撮影に出向いた時のこと。その件(くだり)は、拙稿の第365回:「改まってポートレート」(2017年9月22日)に記したが、その一部をもう一度ここに書き移しておこう。今回掲載させていただく写真についての説明を、ついでにしてしまおうとの、ちょっと姑息な魂胆も実は交ざっている。

 第365回は、話の枕に「学問に王道なし」を述べ、そして、掲載日の前々日に出会ったおばあちゃんのポートレート撮影について言及している。
 撮影のきっかけとなった状況を改めてここに引用すると、「裏通りを行くと廃業して長い年月が経とうとしている木造家屋が目に入った。表に掲げられた看板はペンキが剥げ、錆だらけで色あせ、辛うじて文字が読めるほどのものだった。その家屋を正面から1カットいただき、遠目に電気の灯っていない薄暗い中を窺うと年老いたおばあちゃんが土間に置かれたソファに座っていた」とある。
 今ぼくはその時の情景をまざまざと思い起こす。撮影後、おばあちゃん(当時御年90歳だったが、とてもしっかりされていた。今ご存命なら96歳になられたはずである)に写真公開の許可をいただいていたので、第365回におばあちゃんのポートレート写真を2点掲載させていただいた。

 今月初旬にぼくは少しずつ変わりゆく栃木市を、少々気落ちしながらも訪れた。よそ者のぼくは、相性の良い栃木市に、武漢コロナで訪問を中止していた間に街の様相が変わって欲しくないと勝手なことを願っていた。そして、ここを訪れる度におばあちゃんの安否を気にしていた。初めてお会いしてからぼくはこの地を何度か訪れているのだが、おばあちゃんに会うことはなかった。お歳がお歳だけに、訪ねることにぼくは怖じ気づいていたのだろう。お元気でおられることを願うばかりであった。

 「新しもの好き」のぼくだが、家の佇まいなどはどうしても昭和人間故、懐古趣味といわれようとあの時代の郷愁を求め、磁力に引かれるように足を向け、ついでにレンズも向けてしまうのだ。栃木市は、確かに観光都市でもあるのだが、観光目玉より、上記した昭和の香り漂う家屋やショーウィンドウの醸す気配のほうがずっと好きで、そんな空気感を撮りたくて、飽きもせずに足しげく通っていた。

 ぼくも人並みに、日本全国にある有名な名所旧跡に興味はあるものの、写真の対象となると、ぼくは偏屈なのか、人並みでなく、さっぱり興味が湧かない。だが、ぼくのダメなところは、そのように思いつつも、「もしかしたら」という意地の汚い色気、言い換えるならスケベ心が心の片隅に巣くっているようで、自分を罵りながらも何食わぬ顔で撮ってしまうのだから情けない。食べ物を前に、「待て!」がどうしてもできない犬のようだから、やはり我ながら情けない。

 そんな写真をおそらくもう何十万枚も撮ってきたのだろうが、許せる写真は、歩留まりでいえば、おそらく0.1%にも満たないだろう。これも情けない。
 許せる写真とは、自分の世界が描けたと感じるもの。つまり自身のアイデンティティが示せた写真という意味である。名所旧跡に於ける写真のように誰が撮っても一様なものは、ぼくのなかで写真の範疇には入らない。それを「写真」とはいわない。そのような写真が欲しければ、観光写真を買えばいいのであって、ぼくが(あなたが)撮る必然性などどこにもないのである。
 この歳になって、そんな観光写真紛いを悦に入って撮ったり、他人に自慢気に見せたりすれば、それこそ人格を疑われてしまうし、写真愛好家として本当に情けない限りだ。

 話を今月の栃木行きに戻す。
 意を決して、6年ぶりにおばあちゃんを訪ねてみることにした。きっとぼくを憶えてはいないだろうが、ぼくはよく憶えている。会話をすれば思い出してくれるかも知れない。
 市内のメインストリートから400mほど離れた位置にあるおばあちゃんの家に辿り着いたぼくは、屋号の書かれた錆びた看板がすでに取り払われていることに気づいた。店の扉はカーテンで閉じられ(掲載写真「02栃木市」)、なかを窺うも人の気配がまったく感じられなかった。家の周りをぐるぐると歩きながら、人の居住している痕跡を探ったのだが、誰もいないことを知った。

 おばあちゃんへの思いが胸に去来し、消息のあれこれを思い浮かべ、悲痛な気持に襲われた。同時に、後悔の念にも襲われ、何か取り返しのつかないようなことをぼくは仕出かしたようにも感じられた。あの時撮ったポートレート写真をまだ手渡していないことにひどい後ろめたさを感じていた。ぼくは礼を逸していた。
 「おばあちゃんがご存命であれば96歳だし、こんな時は全体どうしたものか?」と、ぼくは途方を失い、6年間の無沙汰を恥じた。そして、自分を庇い立てるための辻褄合わせを盛んにしていた。もうひとりのぼくが、「みっともないから、そんなことはやめろ」とぼくを難じた。
 おばあちゃんの「彼岸の入り9月20日に」と題した書き物をぼくは6年前に写真に撮った。その一部に、「支えあっての人生だ…魂は心が現れる…」とあった。6年前にそれを読んでくれたおばあちゃん。90年の年季がずっしりと入った言葉だった。

https://www.amatias.com/bbs/30/644.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ジーンズ店の窓に鯉のぼりが泳ぐ。
絞りf10.0、1/80秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02栃木市」
なんだか、変に宗教的(抹香臭い)?な写真になってしまったような。このカーテンの向こうにある土間でおばあちゃんを撮影。ガラスに描かれた文字はひび割れし、カーテンにその陰が投影されていた。人の気配はまったくなかった。おばあちゃんは、お元気だろうか?
絞りf8.0、1/800秒、ISO 100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/05/19(金)
第643回:下町人情に触れる
 昨日、30℃を越える暑気にもめげず、仕事帰りの道すがら、かつて何度か通ったことのある三河島(東京都荒川区)に、8年ぶりに立ち寄ってみた。ここは、かつて本稿にて、ぼくの甘い甘い基準からして、100点満点のところなんとか60点以上と思える写真(すべてモノクロ)を掲載させていただいたことがある。

 三河島事故(1962年。昭和37年。ぼくが中学3年時に起こった三河島駅構内で発生した大事故で、死者160人、負傷者296名を出した戦後五大事故のひとつ)の現場の気配を窺えるものかどうかと、8年前に初めて訪れた。また、事故当時を知る人に出会えれば、直接当時の模様などを伺うつもりでいた。
 その訪問は、事故からすでに約半世紀も経った2015年のことなので、今回は8年ぶりということになる。頭のなかでは、4、5年前のような感覚だったが、時の経つのはなんと早いことか。

 この原稿を書くにあたり、過去の掲載写真30点弱をとくと見直してみたのだが、「なんと下手くそな写真ばかり撮っていたことか。けれど、まぁ数点は許せるものがある」と思いつつ、脇の下からジトッと汗が滲むのを覚えた。
 ぼくには、「自らを省みる」との良心が未だ多少は残っていると知ったことは、不幸中の幸いといえよう。自身の写真を、一途に下手くそだと感じる能力と心があるということは、即ち向上の可能性を依然秘めていると解釈していい。このように楽天的であることは、飛躍には欠かせぬ大切な要素である。

 8年前は、事故後すでに半世紀近く経っていたので、悲惨さを感じさせる具体的なものはもうすでに存在せず、事故を知る地元の人々の、痛々しい思いだけが重苦しく沈殿しているように思え、どこか息苦しさを感じたものだが、それは、ぼくの穿ち過ぎだったのだろうか。事故当時の生々しさを語る人が、見当たらなかったので、すべてがぼくの頭のなかで想像逞しく処理された。
 今回、そのような重苦しい空気を感じることはほとんどなかった。初訪問から8年後の昨日は、何故以前のような感覚を持たずに済んだのか、その理由らしきものが判明したようにも思えた。

 車を有料パーキングに止め、カメラに1本だけレンズを付け、かつての記憶を頼りに、あたりを彷徨ってみたのだが、以前に見た木造家屋のほとんどが姿を消し、建て直され、今風の、明るいものになっていた。
 この景観の変化が、先述した「今回、そのような重苦しい空気を感じることはほとんどなかった」ことに通じているのだろう。時代とともにあるこのような変化は、三河島ばかりでなく、ぼくがよく往来をする近県の市町村でも、似たり寄ったりである。ついこの間まで、所在なく存在しつつも、しかしその存在感を否応なく露わにしていた建造物が、知らぬ間に消え去り、まず最初の犠牲者となるのだ。油断も隙もあったものではない。
 なくなってしまったものは二度と撮れないので、やはり気に入った場所には足しげく通うしか方法がない。

 真夏を思わせるような強い夕日を浴びながら、「8年前、ここで戦後間もないころを彷彿とさせるような木造家屋を背景に、走る少女の宙に浮く姿を撮ったが、これではもう絵にならない」と、ぼくはその現場に立ち、ファインダーを覗きながら肩を落とした。
 かつての、日に焼け、風雪に打たれた暗褐色の古色蒼然とした木造家屋はほとんど見かけることがなく、「このことは三河島ばかりではない。昭和人間のノスタルジアを思い起こすような佇まいがどんどん消失していくのは、時の流れの必然なのであろうが、そうはいえ、どこか寂しさを禁じ得ないなぁ」と、ぼくは意気消沈しながら駐車場に戻った。
 仕事で疲れていたこともあってか、長居をせず早々に引き上げることにした。40分ほどの滞在時間で、撮影枚数も33枚に過ぎなかった。

 何度か歩いた常磐線の南側に添う道をもう一度見届けようと、路地をそろりそろりと車を走らせたのだが、なんだか道行く人々の様子がおかしいことに気がついた。すれ違う人々がそれとなく「ここは一方通行ですよ」と、合図を送ってくれていたのである。その仕草があまりにも控え目で、しかも穏やかだったので、ぼくは確信犯になり切れず、「もしかしたらここは一方通行?」と思いながら、しばらく走り続けた。ぼくの知る限り、三河島駅近辺の細い道路には、一方通行や進入禁止のマークや立て看板が見当たらなかったのだ。

 慌てて方向転換をし、巡査にも見つからず、ことなきを得たが、ぼくの交通違反を目の当たりにした人々の反応は、違反者を咎めたり叱責するものでなく、下町特有の人情とでもいおうか、どこか温かみさえ感じたものだった。住居環境は変われど、江戸っ子の下町人情はまだ健在だったのである。これが今回の一番の収穫であり、また嬉しくもあった。
 長い運転歴で、ぼくはその禁を犯したことは一度もないのだが、年老いてからの運転は、ことのほか慎重になっていた。自分の反射神経や動体視力、判断力といったものは年相応に衰えているに違いなく、それを自覚した運転を心得るべしと常に言い聞かせるようにもなっていた。

 無謀な試みは、写真だけで十分と思えるようなことでは、やはり先が思いやられる。常識的な大人になってしまったら、それに準じたつまらない写真しか望めないのが、ことのほか、痛し痒しである。だがしかし、この論理の分からぬ人がこの世の大方であるから、ぼくは神経をすり潰さなければならないのだ。ホンに、シンが疲れるとね。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
S・ダリの名作『記憶の固執』に描かれている時計を模したものを、ショーウィンドウに発見。ダリの作品はかつて20点ほど撮影したことがあるが、『記憶の固執』は今のところない。
絞りf10.0、1/80秒、ISO 320、露出補正-0.67。
★「02栃木市」
5月人形の兜。これも、ショーウィンドウに鎮座していた。
絞りf8.0、1/60秒、ISO 400、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2023/05/12(金)
第642回:辛い禁断症状
 今年のゴールデンウィークは、神戸の義兄から譲り受けた車を試乗してみようと、近県(栃木、群馬、茨城)のあちらこちらを、ぼくはこの時期特有の風物詩ともいえる凄まじい渋滞をものともせず、小さなカメラバッグを後部座席に乗せて走り回った。多忙のため10日以上も撮影できずにいたので、禁断症状に襲われたのも一因だった。
 「撮っても、撮っても、写らない。神は未だ降臨せず。だがいつしか降臨するに違いない」ことをぼくは頑なに信じつつ、もはや65年もの歳月が経ってしまった。いつまで写真が撮れるか、そんな思いが去来しての、渋滞覚悟の痛々しい撮影行だった。
 連休中のそれは、「行きはよいよい帰りは恐い」(行きは寝坊のため午後出発なので、恐怖の渋滞を免れ、帰りは夕刻過ぎなのでどこも渋滞)だった。

 余談だが、ぼくの血には京都以東のものは一滴も入っておらず、出自は京都(母)、倉敷(本籍)、佐賀(父)であり、それが因であるのかどうか分からないが、現在住んでいるさいたま市から西の、特に太平洋側にはまったく興味がないに等しく、どうしても足が向かない。菩提寺のある鎌倉にも馴染みを持てずにいる。したがって、墓参りと仕事以外には縁がない。
 伊豆など、あの夏のベタベタ感は、ぼくにとって恐ろしいほどの鬼門といってよく、「何があっても、身の毛のよだつ伊豆には絶対に行かない」と友人たちに公言しているくらいだ。ぼくの憧れはもっぱら居住地である埼玉県を除く(「住めば都」というが、人生の大半を過ごしたこの地は至って魅力に乏しい)それ以北である。東北地方などは憧れの地といってもいいくらいだ。

 徒事(あだしごと)はさておき、車メーカーの重要なポストにあった義兄は、車の整備や扱いには、商売柄ことのほか丁寧だったため、譲り受けたそれは年式こそ少し古いが、それをまったく感じさせず快調そのものだった。排気量1500ccの車は、燃費もすこぶるよろしい。
 近年、仕事で大掛かりな撮影をしなくなったぼくにとって、プライベートな写真撮影にはこの手の車が最も使い勝手が良い。この車は義兄からもらった2台目のもので、ぼくの、普段からの心がけのお陰か、今回もありがたいプレゼントだった。

 かつては大型の四輪駆動車に撮影機材を満載し、クライアントの発注に応じて、北は北海道から、南は九州まで所狭しと走り回ったものだ。何の苦もなかった(仕事なので当たり前だが)この一例を挙げても、若い時代がぼくにもあったのだと痛感させられる。運転が商売でないにも関わらず、一介の写真屋が1年に7万km走破なんてこともしばしばあった。面白いもので、走行距離と年俸はほぼ比例したものだ。

 プライベートな撮影行では、「1枚ヒットすれば御の字」と自分に言い聞かせもし、他人にもそのように説くのだが、内心はというと、「1枚なんてしみったれた慰めをいうものじゃない。そんな気弱で女々しい魂胆でどうする! オレは商売人なのだから、私的写真であろうが、数枚ヒットさせて元を取るぞ!」と、貧乏人気質丸出しで嘯(うそぶ)く。
 心得としてはなかなか見上げたものなのだが、撮影が終了し、日が暮れ駐車してある車に戻り運転席に滑り込むと、ドッと疲労感に襲われ、大きなため息をつき、「写真なんかどうでもいいや」と捨て鉢になり、途方に暮れながら茫然としている自分に気づく。そして、やがて気を取り直し帰路につくのがいつものパターンだ。
 デジタルにも関わらず、撮影後に写真を見ないのは、長年のフィルム経験からであろう。撮影済みの写真を見るのは、データをMacに保存してからである。

 拙稿で何度か記した「現場百回」といえど、同じ場所への度重なる訪問は、新たに発見するものが少なくなるとの現象は誠であろうかと、ぼくはその真意を測りかねている。だが心情的には、否定的であるほうが、何かと心強く、また意気軒昂でいられることに間違いはなさそうだ。
 「いつも新鮮な気持ちを保ち、あらゆるものに目配り怠りなく、針に糸を通すが如く気を張っていなければならない」と老体に活を入れながらも、根っから楽天的なぼくは、「来れば来るほど、良いものに巡り会えるのだから、無駄なことは何ひとつないさ。そうでなければ、また来ればいい」と、今度は自分に言い放つのだ。

 禁断症状に見舞われるからといいつつも、写真を撮るのは楽しくない。ぼくは、ただの写真中毒なだけ。
 結果的に、趣味が高じて写真屋になったのだが、人様は「趣味を仕事にできてホントに仕合わせですね。羨ましい限りです」と判で押したように仰る。まぁ、そう見えるんでしょうね。だが、「そんなことはありません」と、ぼくは決していわない。趣味と仕事とでは、隔絶した世界があることに気の付かない人が多いことも確かだしね。

 写真屋になって後悔こそないが、商売というものは写真に限らず、身を削ってナンボであるから、その辛さや痛さは本人でなければわからないものだ。どんな職業でも同じであろうと思う。
 写真を1枚撮るたびに、身を削られるような思いというのは、決して大仰な言い草ではない。これがプロの悲哀であり宿命でもある。ただ、好んでこの道に入ったのだから、誰にも愚痴をこぼせない。弱音を吐いたり、愚痴をこぼすくらいなら、辞めればいいだけのことで、それはプロとしての資格がないということに通じる。
 「でもなぁ、満点の写真なんて撮れるものなのかなぁ?」と、思わず弱音を吐くぼくの連休明けでありました。

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カメラ:EOS-R6MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
バーの窓際に並べてあった空ビンと少々色褪せたハイネケンのポスター。
絞りf10.0、1/50秒、ISO 200、露出補正-0.67。
★「02栃木市」
巴波川(うずまがわ)の上にたくさんの鯉のぼりが泳ぐ。それには目もくれず、水面に揺らぐ鯉のぼりと土蔵群の瞬間を見計らって。
絞りf10.0、1/250秒、ISO 400、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2023/04/28(金)
第641回:写真の品位って?
 写真展より絵画展に出向くことのほうが多いと拙稿で述べたばかりだが、1ヶ月ほど前、友人の主宰する倶楽部の写真展に赴いた。都内の雑踏が大の苦手であるぼくは、あの人混みに精神の何かがキリキリえぐられ、破壊されるような気がして、とにかく憂鬱で怖く、億劫になってしまう。特に年寄りとなってからは、仕事でない限り都内に積極的に出かけるにはいろいろな覚悟がいる。そんな思いをしてまで、行きたくないと思いつつも、だが不義理をしてはいけないので、やはりトボトボと出かけることになる。
 長い間無定見に生きていると、いろいろなしがらみやら因縁やら悪縁に纏わり付かれ、身動きもままならず、これも浮き世の風と観念するしかない。

 気の重くなる主な理由のひとつは、柄にもなく、写真評もどき(これが苦手)を求められることがままあり、気楽に作品を味わったり、愉しんだりという具合にはなかなかいかないことにある。知り合いの展示会に顔を出すということはとても勇気の要ることだ。
 作品についての意見を求められるとなると、ぼくは至って気弱で、しかも遠慮が服を着て歩いているような人間であるため、他人の作品に対して、たとえ顔をしかめるような作品であっても、ネガティブなことはいい難く(ぼくの助手君でない限り)、少しでも良い点や美しいところを無理くり探し出し、にこやかに作り笑いなどしながら、事を穏便に済まそうと躍起にならざるを得ない。その疲労感たるや相当なもので、それはかなりのストレスを誘発し、やはり相当な覚悟を必要とする。とにかく、写真展ひとつでいろいろな覚悟をしなければならないというのは、あまり仕合わせなことではない。

 ちょうど2週間前にもある大きな展示会の作品選考をしたばかりで、今、様々な思いが行ったり来たりしている。冒頭に述べた写真倶楽部の指導者である友人と話題になったことのひとつは、「作品の品位というものについて、かめさんはどう考えている?」ということだった。あまりにも漠然とした問いかけだったが、正面切ってのものだったので、不真面目なぼくはたまには真面目に考えてみるのもいいかと思った。
 この題目について、ぼくはもちろん自分なりの考えを持ってはいるが、それを言葉で表現するとなると、とても難しく、途端に口籠もらざるを得ない状況に追い込まれる。
 ある作品を前にして、その作品の品位や品格がどうであるのかを問われれば、ぼくは即答できるとの確信はあるのだが。

 友人はぼくに追い打ちを掛けるように、「品位って、生まれついたものとの見方もできるけれど、それでは身も蓋もないので、指導をする際に、ではどうしたものかと、時々思い悩むことがあるんだよ」と、品位のある彼は、品位に欠けるぼくに訴えてきた。
 ぼくには難し過ぎる問いかけだったが、品位のある写真とそうでないものが、この世には確かに存在するので、ぼくは先ず自分のことは棚に上げてから(でないと言葉が口を衝いて出ないので)、機を逃さず思うところを率直に彼に伝えてみようと試みた。もちろん、ここで対象とするものは、自己表現のための写真についてであって、記念写真や記録写真の類は除外する。

 「それはつまり、人間的に品位に欠ける人は心がけ次第で、それが向上するかどうかということ? あるいは、撮影者の品位は作品に反映されるかということ? 生まれついたものを除外してのことであれば、ぼくは自分なりの答を伝えることができるように思うけれど」と、前のめりになりながら彼に畳み掛けた。
 プロのカメラマンである彼とは、もう50年来の付き合いなので、ぼくの思考回路を読み込んでの問い掛けなのであろうとぼくは感じ取った。

 「作品は人格の反映(鏡)」との信念をぼくは持っているので、彼に「もし、作品に品性のようなものが欠落していると感じさせるものがあるのならば、それは作者の人間性を問うしかないと思う」と答えた。
 加え、「作品の良し悪しの定義と品性がどう関わってくるかという問題に突き当たるわけだけれど、それは比例するものだ。もちろん、技術的なことではなく、品位は作品の良し悪しを左右する大きな要素という意味に於いてね。そして、俗にいう『大衆受け』するものや『一見するとハッとさせられるが、1分間の観賞に堪えられぬもの』も、とどのつまり作者のありように帰結するのだと思うよ」と。

 人品というものについて、ぼくが改めてどうのこうのと述べる資格などないので、そこは誰もが自身の良心や見識に基づいて推し測れば良いことだと思う。ただ、ぼくが人品の絶対的判断として言い切れることは、「お金にきれいでない人」とか「名誉欲の強い人」とか「自己犠牲を惜しむ人」とか「思いやりに欠ける人」とか、それらに類することに必然的に付き従う事柄などなどである。
 もうひとつつけ加えるのであれば、「いっぱしの口を利いて、恥じぬ人」なのだが、あっ、これはぼくのことだった!

https://www.amatias.com/bbs/30/641.html

カメラ:EOS-R6MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。
埼玉県川越市、加須市。

★「01川越市」
この場所は同じアングルで以前に掲載したことがあるが、時が変わり、今回は自転車も有り。強い夕日に照らされて。
絞りf8.0、1/60秒、ISO 100、露出補正-0.33。
★「02加須市」
空き家に張り付いていたルート66の看板(標識?)。以前、何度も行き来した場所なのだが、こんなものがあったとは気がつかなかった。
絞りf7.1、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)