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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2024/07/05(金)
第697回:小旅行(4)
 三ノ宮駅から新幹線(敦賀駅ー福井駅間)を使わずに、在来線を乗り継ぎ、福井駅に至る車内での発見や車窓風景を眺めながらの回想を綴るのが順序なのだが、それを述べようとすると、子供時分と写真屋になってからの思い出話(特に琵琶湖周辺での出来事)をあれこれ書かなければならなくなる。
 それについては写真に関する事柄に触れる機会が極めて少なくなってしまい(いつだってその傾向はあるのだが)、ぼくは毎回担当氏の顔色を窺わなければならず、それは大変気の滅入ることだ。そのような思いはできる限り避けたく、今回は後ろ髪を引かれるような思いで割愛することに。

 ぼくをよく知る昔からの友人は、「君はいいたいことを胸に留めて置くことは “絶対に” できない質だからね」というが、悔しいかな事実である。 “絶対に” という副詞は絶対的な意味を持つ。そこまで他人に断定的にいわれてしまうのは、誠に慚愧に堪えないのだが、ここで僅かながらの釈明をしておくと、ぼくだって、一端の大人として、口外して良いこととそうでないことは、しっかり守り通してきたつもりだ。でなければ、40年間もフリーランスとして生きてはこられない。ただ、自我が人一倍強いことは素直に認める。
 と言い訳をしつつ、写真屋になってからの、琵琶湖周辺での感動的な撮影について、その話を1段落限定で掠(かす)めておく。

 写真屋になって7,8年ほど経った頃だったと記憶するが、博物館用の資料として(文化庁と新聞社協賛)、琵琶湖周辺に数多く点在する素晴らしい「十一面観音」(国宝や重文)を大型カメラで、カラーとモノクロで撮影したことがある。もちろんフィルム時代のことだ。
 撮影条件やライティングの制約もあったが、助手君2人を随(したが)えつつ、関係者の臨機応変、融通無碍な協力もあり、困難な撮影ではあったが、撮影後の充実感は格別なものがあった。この体験は、元々仏像好きのぼくに拍車を掛ける良い機会となった。被写体(十一面観音)を眺めながら、その美しさに感動を覚える素晴らしい体験と自己発見のロケだった。
 若かりし頃の、そんな思いにふけりながら、ぼくは京都ー敦賀間の在来線、JR特急サンダーバードに揺られていた。

 福井駅に到着したのは午後8時頃。ホテルで小休止した後、空腹を満たすため思い出深い街に出てみたが、駅前には恐竜が歯をむき出して闊歩し、かつての、どこか物悲しい風情はすっかり影を潜め、ぼくの懐古の情も無慈悲に奪われてしまった。40数年も経っているのだから、それは当然のことだろう。

 飲食街も明かりが消えていたが、ぼくは北陸の美味を目がけ、まだ開店中の一軒の寿司屋に入った。けっこうな寿司を堪能しながら、ぼくはそこの店主であろう寿司職人に、「美味しい越前蕎麦の店を教えて欲しい」と注文した。 
 これは、翌朝金沢から襲来する妙齢のご婦人2人の脅しに沿うためであった。このご婦人たちは、写真にもえらくご執心で、新しいミラーレス一眼を抱えながら、撮影に意気込んでいらっしゃる。ここだけの話、彼女たちは常日頃、とても良い写真を撮っていることに一言触れておかなければならない。
 だが、プロの端くれであるぼくから、北陸の地で撮影の何某かを教えてもらおうなどという殊勝な心がけなど、ひとかけらも持ち合わせていない。ただ、写真以外の何かを、戦利品としてぼくから奪い取ろうとの心胆が随所に見え隠れしていることは確かだ。

 合流するや否や、「お腹減ったわ。で、かめさん、蕎麦の美味しいお店、しっかり調べておいたわよね。『腹が減っては戦はできぬ』というから、まず、お蕎麦からね」と、ひとりがビー玉のような目をグリグリさせながら吠えた。「どんな戦なんだよ」とぼくは心のなかで呻いた。この劣勢を盛り返すためには、どのようにすれば良いかに、ぼくの脳内ニュートロンも彼女の目に呼応するように活発にグリグリ動いた。
 寿司屋の店主に教えてもらった越前蕎麦は、ぼくが昔に味わったそれを彷彿とさせた。とにかく旨い。蕎麦が、鼻息荒い彼女たちの気を和らげ、年寄りへの労りに目覚めてくれればと願うばかりだった。

 ぼくは福井駅前でレンタカーを借り、彼女たちはカメラバッグを膝に乗せ、行き先を、何故か穏やかに命じた。腹を満たした彼女たちからは獰猛さがひととき失せた。まさに肉食獣のような人たち。所要時間約40分で目的とする越前市の大瀧・岡太(おおたき・おかもと)神社(重文)に辿り着いた。
 階段を登り、神門をくぐるとすぐ目の前に本殿兼拝殿の複合社殿が現れた。なるほど今までに見たことのないような風変わりな容貌で、幾重にも屋根が寄せる波のように重なり合い、至る所に彫刻が施されていた。ネットで多くの映像を見たが、この異形な建築物を「ぼくの視点でどう捉えるか?」、「お前ならどう撮る?」に頭を痛めてしまった。
 一種風変わりなものの肝を炙り出し、それに自分流の調味料を加え、上質な一品料理に仕上げることの難しさに、ぼくはほとほと参り、その場にうずくまってしまった。そんなことは重々知ってのことだが、この社殿は殊更のように思われた。

 ここは里宮(さとみや。山上の奥宮に対し、山麓の村里にある社殿)であり、今年1月にロケハン(下見)を命じたビー玉女史の話によると、奥宮には時たま猪や熊が出るので行かないほうが良いと地元の人に教えられたとのことだ。ビー玉は、猪と熊にプラスして “虎” も出没するとぼくに報告した。なかなかの洒落だと感心したが、抜け目なく、油断のならない彼女たちに、 “虎” まで加わってしまったのだ。ぼくの敵中行軍は先が思い遣られることとなった。

https://www.amatias.com/bbs/30/697.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM 。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
福井県越前市。

★「01大瀧神社・岡太神社」(おおたきじんじゃ。おかもとじんじゃ)
社殿を超広角レンズで、パースをつける。ここ里宮では虎が出没しないので、安心して撮ることができた。   
絞りf8.0、1/30秒、ISO 400、露出補正-2.33。

★「02大瀧神社・岡太神社」
彫刻で彩られた社殿側面。ふたつの写真は、モノクロイメージでも良かったかなと考えている。撮影時に迷いのあった証。
絞りf9.0、1/200秒、ISO 1000、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2024/06/28(金)
第696回:小旅行(3)
 神戸での仕事を無事終え、ぼくは一息つき、急ぎ三ノ宮駅に向かった。重責を果たし、そこから解放された後なので、駅までの長いダラダラ坂も苦にならず、鼻歌でも唱いたいくらいだった。
 駅に辿り着き、ここで一緒に仕事をした審査員仲間と別れを告げた。別れ際、「かめやまさんは、これからどちらに?」と問われ、「友人に会うため、最終的には金沢へ行くんだけれど、途中下車をして福井に寄るつもり。どこで何が起こるか分からないので、取り敢えずの予定ね」と返した。

 三ノ宮駅から福井駅まで新幹線を使わずに向かおうと決めていたので、「鉄ちゃん」ではないぼくだが、しかし、わくわくしながら行き当たりばったりの行程をどのように楽しむかにだけ心を割いていた。福井にはすでにホテルを予約してあったので、なおさら気が楽だった。
 ましてや、「ここは日本だ。日本語が通じる」との思いは、いっそうぼくの気を弾ませた。かつて海外ロケで、日本語はもちろんのこと、英語も通じない多くの国々を、カメラを振り回しながら徘徊してきたので、それを思えば今回の気楽さは桁が違う。日本の鉄道の正確さ、安全性、治安の良さ、清潔感、サービスと、余りにも行き届いた利便性は、息苦しいほど完璧といってよい。こんな国はぼくの知る限り日本しかない。

 旅につきもののハプニング(これが旅の面白さでもあり醍醐味でもあるのだが、ぼくは今まで外国で性懲りもなく無謀ともいえる体験をしてきた。これは一人旅の、最大の特権である。旅は一人に限る)には恵まれにくいという難点はあっても、国内旅行は老いた身にはひたすらありがたい。
 第一、もう冒険心を前面に出し、傍若無人に振る舞う歳でもあるまいし。じっくり腰を据えて、撮影に専心すべきだ。ただ、その気構えが、写真の良し悪しに影響を及ぼすとの確信が持てず、やはり “出たとこ勝負” のスリルからはどうしても逃れられない。保証がないから、やはり写真は面白い。

 話を元に戻して、日本人の親切さという点に於いても(どこの国にも親切な人はたくさんいる)、やはり民度の高さからか、困った時に親身になってくれる人が多いと感じる。
 右も左も分からぬ外国で立ち往生した時、ぼくはいつも『世界最悪の旅』(A. チェリー = ガラード著。1886-1959年)の南極行を引き合いに出し、無理矢理勇気を捻り出していたものだ。
 南極行きとは大仰な言い方だが、艱難辛苦した時、どこの国にも「お助けマン」が何処からともなく、申し合わせたように忽然と姿を現すから不思議である。ぼくは、彼らに間一髪のところで、随分助けられたものだ。だが、ぼくの場合は不幸にも「艱難辛苦 汝を玉にする」(困難を糧として、立派な人間に育っていくとの意)とはいかなかったようだ。「可愛い子に旅をさせたら、憎々しい大人になって帰ってきた」というようなものだ。

 今回、福井行きを決めたのは、坊主(息子)の薦めによるものだった。彼は日本全国の神社仏閣や歴史にやたら詳しく、「とーちゃん、福井の越前市には大瀧神社というのがあって、その社殿建築(重文)は異形で面白そうだよ」と教えてくれた。「行って見てこい。良ければオレも行く」との策謀が見え隠れしていた。親を下見にいかせようというのだから、見上げたものである。

 早速、ネットで検索してみると、その造形美はなるほどと思わせるものがあった。ぼくもこのような建築様式は見たことがない。そこに掲載されている社殿の写真はどれもこれも変わり映えのするものではなく(観光写真的なものとして写っているのは止むを得ない)、「では、お前ならどう撮る?」との難題を投げかけていた。「これはきっと難儀しよるで」とぼくは関西言葉で独りごちた。

 福井を初めとする石川、富山の北陸三県は、半世紀ほど昔の編集時代に取材で冬と夏に何度も訪れた経験がある。写真屋になってからも、ロケで度々仕事をしてきたので、とても馴染み深い所だ。とはいっても、いわゆる名所旧跡はほとんど行ったことがなく(仕事が終わればとんぼ返りのため)、悲しいかな取材現場しか知らない。だが、北陸の海の味覚や越前蕎麦は格別との思いだけが脳裏に強く焼き付いている。

 30数年前、福井市某所で撮影を終え、デザイナーやディレクター諸氏と居酒屋で労をねぎらい、仕上げに越前蕎麦屋の暖簾をくぐったことがある。初めての越前蕎麦だったが、その旨さは今も忘れることができない。ぼくが蕎麦に目覚めた貴重な瞬間でもあった。
 今回の福井行きは、あの蕎麦をもう一度味わうことと、40数年前に体験した北陸の冬の湿気を帯びた、粘り着くようなべちょべちょ雪のなかを、侘しくも、しかし風情ある路面電車の、あの佇まいを見てみたかったからである。今の季節、重苦しい雪と鉛色の空はないが、そこは想像力で補えるだろう。

 あの時、湿り気をたっぷり吸い込んだ雪が斜めに吹きすさぶ寒風のなか、暗く、重たい空気のなかを、ガッタンゴットンと鈍い歩み振りで、忍び泣くように往来する路面電車は、当時の自分の姿をそっくり反映しているようで、やり切れぬ思いだった。
 あれから長い年月が過ぎ、福井市の佇まいもすっかり変貌し、ぼくはぼくで老いてしまったが、今回はここで妙齢のご婦人をふたり迎え撃つこととなった。さて、どう相成りますことやら。

https://www.amatias.com/bbs/30/696.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
福井県越前市。

★「01大瀧神社・岡太神社」(おおたきじんじゃ。おかもとじんじゃ)
この本殿兼拝殿の複合社殿は、両神社の共有となっているため、二つの神社名が併記されている。全国でも珍しい和紙の神様である紙祖神(しそじん)が祀られている。1843年(天保14年)再建。重要文化財。
絞りf11.0、1/100秒、ISO 320、露出補正-1.00。

★「02大瀧神社・岡太神社」
本殿兼拝殿の正面を神門越しに。様々な彫刻に彩られていることも特徴で、それは次号で。
絞りf11.0、1/80秒、ISO 500、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2024/06/21(金)
第695回 : 小旅行(2)
 式典の前日に神戸市三ノ宮入りをしたぼくは、指定されたホテルで荷を解き、審査員のひとりが午後6時に夕食会の予約してくれた神戸牛専門店へ向かうまでの2時間を、ベッドでまったりと過ごしていた。気が置けぬ審査員たちとの、多愛のない交わりが愉しみだったことと、去年のように見ず知らずの街に、夕食を取りに出かける煩わしさがなかったことも気を楽にさせた。

 今年も昨年同様に、決して軽くないリュックを背負って約600km移動をしたわけだが、疲労感はほとんどなく、新幹線の揺れやレール音の心地よさを、ベッドから、天井に設えられた大きな羽根の付いた扇風機のゆったりした回転を仰ぎ見ながら反芻していた。普段はまるで縁のない分不相応な豪奢なホテルの、申し分のない居心地を満喫しながら、ぼくはまだ新幹線に揺られているような気分だった。「普段は、ビジネスホテルしか縁がなかけんね」。

 遠い昔に体験した省線電車(首都圏や大阪都市圏で運用されていた近距離電車。 “省線電車” とは1949年までの呼称だが、父は国電となってからの10年間ほどは、どのような思い入れがあったのかは分からないが、頑なにそう呼んで憚ることがなかった)の唸るような特有のモーター音やレールの継ぎ目音は新幹線のそれとは比較にならないのだが、ぼくには古式豊かな “省線電車” と現代科学の粋を集めた世界に誇るべく “新幹線” が同じように感じられたから面白い。「同じような心地良さ」と揚言したら、異論が噴出するだろうが、ぼくの精神は、この時ばかりはいつになく豊潤だったのだろう。

 ただ、両者の決定的な違いは、 “省線電車” の床に塗られた、鼻を刺すような、あの独特な油の匂いだっだ。「耳鳴り」(医学的な意味ではなく、聴覚による記憶を呼び覚ます音の意)という言葉があるが、この時ぼくは、「鼻鳴り」というものもあるのだと感づいた。人の記憶や追憶は、聴覚や視覚より、嗅覚に頼るところが多いというのが、ぼくの持論であり、そしてまた経験側でもある。

 また、 “省線電車” への肩入れは、懐古の情からではなく、ぼくは根っから乗り物が好きなのだろうと思う。けれど世間でいわれる「鉄ちゃん」ではないと言い張るところが、ぼくのぼくたる滑稽な所以でもある。「鉄ちゃん」という名称にぼくはただならぬ抵抗感を持っている。いつも、「自分は特別」との思いが強すぎるため、彼らと「同じ種族」に見られたくないとの思いがぼくにはしっかり巣くっている。

 このような偏執(へんしゅう)的傾向は、幸か不幸か、写真についても指摘されることが多々ある。ぼくは、このことがとても嬉しい。「自分の写真は常に少数派好みでなくてはならない」と思っているからである。大衆受けするようなものは、高が知れているとぼくは大言壮語して憚らないので、忌諱(きき)に触れるのだろう。自分にとって必然性のあるものにだけシャッターを切ればよい。それが正直者というものだ。

 神戸牛を堪能した後、胃が常人の半分しかない(胃ガンで、意図せず半分を奪われた)ぼくは、牛肉の栄養分が吸収されるのを待って、昨年のように三ノ宮のブランド店が軒を連ねるお洒落な路を、24-105mmという横着ズームレンズを1本だけ装着し、歩いてみようと思った。
 「画角やパースが身に付かないうちに、ズームなんか使うもんじゃない。10年早いよ。だから立ち位置が定まらず右往左往するのだ」と人様に一瞥を投げるのだが、ぼくは使ってよろしい。「後期高齢者になれば、それでいいのだ。資格があるのだ」と、ぼくはここでも、自身の依怙地を見せつける。「おれはいいが、君はダメだ」は、得意の科白だ。この科白を発する時、ぼくは何故かいつも上機嫌なのだ。

 約1時間半徘徊して、撮った枚数は50枚ほどだった。昨年とくらべ枚数がずっと少ないのは、「今回もまた同じものばかり撮ってしまう」との嫌気からだった。「昨年とは何か違うものを発見しなければ、神戸牛に申し訳が立たない」と言い聞かせながらの渉猟だった。
 「また似たようなものを撮ってしまった」というのは、写真愛好家なら致し方のないことであり、それは一種の、宿痾のようなもので、決して無価値なものではないのだが、たまには自分の首を絞めることも必要なのではないかとの気持が先立った。ぼくだって、一頭の牛の首を絞め、それを喰らっていたのだから。

 時間も23時を少し回っており、人通りもなく深閑としていたが、ありがたいことに、今使用しているカメラは高感度ISO機能が格段に優れており、そして愛用のRaw現像ソフトのノイズリダクション機能が大変な優れものなので、危うい思いをせずに済む。加え、被写体がショーウィンドウのなかなので、ある程度の輝度があり、さらに好都合。

 フィルム時代には考えられぬような高感度で撮影できる昨今のデジタルカメラは、果たして写真の上達を助けてくれるのだろうかとの疑問が同時にムクムクと持ち上がってきた。「こんな高感度で写真を撮っていいものだろうか。安易になりはしないだろうか。物事はすべて表裏一体」と、ぼくは真剣に悩む振りをしてみた。ここでも「おれはいいが、君はダメだ」と、やはり言い放つのだろうか?

https://www.amatias.com/bbs/30/695.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
このディスプレイをみた瞬間、「う〜ん、ピカソ!」とぼくは大きな獲物を見つけたように興奮。そのイメージを大切にしながら、暗室作業に勤しんだ。   
絞りf6.3、1/80秒、ISO 200、露出補正-1.33。

★「02神戸市三ノ宮」
何ともおかしく、素早く動く被写体を見つけた。シャッタースピードを重視し、駐禁マークを写り込ませたら、ファインダーにはISO 6400と表示された。「うん、いけるわ。やってみるか」と、ぼくは鼻の穴を牛のように大きく膨らませ、勇躍シャッターを切った。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 6400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2024/06/14(金)
第694回 : 小旅行(1)
 昨年同様、今年も神戸市にあるアメリカの大手会社が主催する作品展の式典に参加すべく、待望の新幹線に乗ることができた。去年もこの行事出席のため、新幹線に乗ることの、無上の喜びを約400文字で記した。今、それを読み返してみて(第648回。2023/06/23)、「鉄ちゃん」ではないぼくだが、「哲ちゃん」は、よほど嬉しかったとみえる。ここでアホーな洒落なんかいってる場合じゃない。

 掲載後すぐに、変に大人ぶった友人から、「お前はまるで子供のようだな」とすまし顔でいわれ、その記憶がしぶとくもぼくの脳裏のどこかに未だしっかりへばり付いている
 ぼくはその言葉で傷つくほどヤワではなく、また健気でしおらしくもないが、彼のように子供心を忘れ去った大人は思いの外多く、判で押したように彼らは世をすね、斜に構えているとの自覚がないが故に、どうあっても恰好がつかず、見映えがしない。それに気づき、バツの悪い素振りでも見せれば、多少は恰好を取り戻すことができ、また救いもあるのだが、それをまるで分かっていない。可愛げがなく、始末の悪い人たちなのである。
 「♪ 畑も飛ぶ飛ぶ、家も飛ぶ ♪」と、嬉しそうに童謡唱歌を歌っていた自分の存在を真っ向から否定し、過去のものとして葬り去り、擦(す)れた大人を憚らぬから、余計に哀れを誘うのだ。

 今回の旅は仕事の撮影が目的ではないので、ぼくにとっては精神的な負担がなく、どちらかといえばちょっとした旅行気分だった。ぼくの果たすべく義務は、僅かな時間、会場の演壇から身なりを整えた紳士淑女に向けて、身なりを構わないジーンズ姿のぼくが、作品の審査について思うところをあれこれ、壇上から物申す非礼を詫びつつ、忌憚のない話をすればよく、やはり気楽な小旅行といったところだった。

 見知らぬ土地での私的な撮影は胸躍るものがあり、年甲斐もなく興奮し、高揚もし、愉しさと嬉しさが込み上げてくる。これからの撮影を思い浮かべると、会場のぼくは気もそぞろといったところだった。
 私的な写真の出来不出来はすべて自身が負うべきことを重々承知ながらも、仕事の写真のように束縛されるものがないので、やはりドキドキしながらも、その解放感は喩えようがない。寿命が延びるような気がするから不思議だ。

 去年は神戸からの帰路、滋賀県の近江八幡市や岐阜県の飛騨金山町に立ち寄り、そこでプライベートな撮影をし、それらを掲載させていただいた。今年もそれに倣い、神戸三ノ宮を始め、編集者時代に取材で何度も通った思い出深い福井県福井市と越前市、そして友人のいる石川県は金沢市に立ち寄ることにした。
 まだ全線開通とまではいかぬとしても、できたてホヤホヤ(敦賀駅まで)の北陸新幹線に乗ることもできる。

 ただ一つの懸念材料は、4泊5日の旅に体力が保つかどうかだけだった。気楽な小旅行とはいえ、休む間もなくカメラを構え、歩き回るのだから、やはり単なる「お気楽」な旅とはいかない。ぼくにとって撮影は、正真正銘の仕事である。去年は、心身の疲弊が祟り、予定を1日繰り上げ、帰京する羽目となった。
 その旨を現地より嬶(かかあ)に伝えると、「あら〜、まだ帰らんでもええのに。しばらく、のんびりと楽しんでき〜な」と、やんわり、そして苛烈を極めた京女(きょうおんな)特有の言い回しでいわれた。これを標準語に正しく翻訳すると、「もう永遠に帰って来なくてよろしい。あんたのような厄介者がいなければ、私は心の平穏が保てるんだからね」ということになる。京都弁の凄味をご存じない読者の方々への、ぼくの親心である。

 話は前後してしまうが(いつだってそうだ。今回に限ったことではあるまいに)、前夜に神戸入りをした審査員たちと、夕食会と称して神戸牛を喰らおうという話になり、ぼくはこの機会を逃せば生涯神戸牛にはありつけぬとの思いが稲妻のように脳内を駆け抜けた。ぼくは二つ返事で誘いに乗った。
 大変結構な料理だったが、それ以上にぼくは審査員たちのお人柄が好きだったこともあり、いっそう食が進んだ。食というものは、相手次第ということも同時にぼくは学んだ。このことは、後日金沢での友人たちとの会食の際にも際立っていた。

 ホテルに戻ったぼくは、飽腹の体でベッドに身を投げ出し、腹がこなれたら写真を撮りに出かけようと決心していた。午後10時を少し回ったところで、牛のように重くなった体を精神力で叩き起こし、そして写真用に立て直し、「因果応報ってこういうことか。初日から先が思いやられるわ」と嘆いてみせた。
 ホテルはかつての旧居留地のど真ん中に建てられた由緒あるもので、周辺には世界のブランド店が軒を連ねていた。去年、ぼくはこのショーウィンドウを標的にシャッターを切っていたが、「今年も “ガラス越しの世界” に挑んでみようか」と、人通りのほとんど無くなったお洒落な通りを彷徨い始めた。

https://www.amatias.com/bbs/30/694.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
大きな発光看板を見つけ、「誰かこの前を横切って」と願ったら、待つ間もなく恰好の女性が横切ってくれた。切なる願いは叶うものだ。思い通りの配置となり、神戸牛に礼を述べる。   
絞りf7.1、1/50秒、ISO 200、露出補正-0.67。

★「02神戸市三ノ宮」
かなり色合いの派手なディスプレーだったが、それが気に入らなかったので、自分好みの色調とトーンに調整。Rawデータとはまったく異なるものに。
絞りf6.3、1/80秒、ISO 160、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2024/06/07(金)
第693回 : 心霊写真
 「心霊写真」とはいうものの、結論からいえば、ぼくは写真を始めて以来、プリントやネガ・ポジフィルム、デジタルデータを、高倍率のルーペやモニター上で穴の開くほど見つめてきた。その数、恐らく何10万枚に及ぶだろうが、世にいうところの「心霊写真」には、まだ一度たりともお目にかかっていない。故に、「心霊写真」の存在を真っ向から否定している。
 写真は存在するものしか記録しないとの視点(化学・物理・光学・科学の面から)をもってすれば、ぼくの考えは至極まっとうで、合理的なものだと思っている。カメラは、人間の錯視や念力までは写してくれない。

 ついでながら、「念写」もまやかしに過ぎない。手品に騙されてはいけない。手品はあってよいものだが、手品を用いて念写といい張る行為は詐欺同然である。ただ、この手のものは、まさしく『信じようと信じまいと』(R. L. リプレー著 “ Believe It or Not” 。ぼくの小学時の愛読書だった)である。
 まやかしや怪しげなものを、生きるための一種の遊びや方便のようなものとして捉えるのは、人間の知恵なのであろう。

 前回取り上げた「三頭山口駅」の廃墟は、ネット情報によると、「心霊スポット」なのだそうだ。ぼくは、世間で面白おかしくいわれる「心霊スポット」なるものにはとんと興味がなく、またそれらしい現象に見舞われたことは一度もないのだが、老い先を考えれば、たっぷり皮肉を込めて、是非ともお目通り願いたいものだ。ぼくのように、極めて暗示にかかりにくい質の人間は、「心霊スポット」とは無縁である。

 「廃墟」イコール「心霊スポット」の図式がぼくにはないので、「心霊スポット」と銘打ったところに身を置いても、ぼくには霊感なるものがないのか、あるいは写真屋という職業柄、特にフィールドワークの際には、足元に神経を集中せざるを得ず、そのために霊的なものの一切を感じ取る隙がないのだと思う。平易にいえば、「そんなものに構ってはいられない」といったところだ。
 こんなぼくでも、伊達や酔狂で写真を撮っているのではなく、どうあっても終始一貫、被写体の持つ現実に真正面から対峙せざるを得ず、「心霊スポットなど、どこ吹く風」というのが実態である。
 今回の、撮影行のぼくの責務は、怪我をせず、写真をしっかり撮って、そのデータを家まで無事に持ち帰ることが最優先事項であり、因って霊的なものにかまけているどころではなかった。

 過去、何万人もの人々が惨殺された現場や、あるいはまた、数多の怨念が渦巻くようなところに赴き、そこで撮影をした(それらは写真屋としての使命感に駆られてのもの)経験からしても、ぼくにはやはり霊的な写真(そのようなものがあるとすればだが)とは縁遠い。
 悲惨な目に遭った人々や、そこでの出来事に思いを巡らせ、その有り様を想像逞しく脳裏に描くことはあっても、常にぼくは現実的で、霊的なものを感受することはなかった。
 自分のイメージや空想に分け入り、そこで物語を勝手に描くことはままあるが、霊的なものにはのっけから反応を示すことなく、その伝どうあっても、ぼくはロマンティストではない。どちらかというと、 “可愛げのない、かなり即物的なやつ” だ。

 そんなぼくは、実際に目にした体験や、信ずるに足る現象、科学での裏打ちが明らかにされているものなどについてしか、その存在を認めようとしない。それをして世間では、 “片意地” とか “偏屈” というのかも知れないが、これはぼくの性分なので仕方がない。
 ただ、見たことのないものでも、その存在を疑う余地のないものについては、科学的実証を待たずして認めている。地球外生命体などはその一例だが、人類がそれに遭遇するかといえば、「決してあり得ないこと」と断定している。だが、地球外生命体はどこかに必ず存在するとするのが理知的な考えだし、実際、ぼくもそう信じている。

 幼少時より、生家のすぐ近くにあった相国寺(しょうこくじ。京都市上京区。臨済宗相国寺派大本山。国宝や多くの重文を有す。金閣寺、銀閣寺、真如寺は、相国寺の山外塔頭)を始めとするお寺さんの境内や墓地を遊び場として走り回り、それを日常としていたので、霊的なものには不感症になっているのかも知れない。ぼくは「世間擦れ」をもじって、「墓場擦れ」なんていっている。
 実際のところ、幽霊とかお化け、物の怪(もののけ)の存在をまったく認めておらず、したがって、闇夜の墓場などに、何の恐れもなく入って行ける。「肝試し」など、屁の河童。相手もそれを気取り、脅し甲斐がないことを悟るので、ぼくのような特異体質には近寄ってこないのだろう。むしろ、ぼくは幽霊より人間のほうが恐い。

 幽霊や妖怪というものは愉快を与えてくれる。だが惜しむらくは、ぼくは彼らを夢のなかの遊具的な捉え方しかしていないので、極めて現実味に乏しく、そこが残念だ。ぼくは自分の考えに固執し過ぎており、それはあまり面白い生き方ではない。
 唐突ながら、狸や狐には化けて出て欲しいし、河童、天狗、鬼にも、ぜひとも会ってみたい。妖怪変化や魑魅魍魎(ちみもうりょう)と戯れてみたいものだが、「恐いもの見たさ」との気持はほとんどなく、もっと無邪気に愉しめれば、こよなく喜ばしい。

https://www.amatias.com/bbs/30/693.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。

★「01三頭山口駅」
機械室。わずかな隙間からカメラをねじ込み、モニターを見ながら、タッチパネルでシャッターを切る。   
絞りf5.0、1/8秒、ISO 3200、露出補正-1.67。

★「02三頭山口駅」
乗り場へ向かう下り階段に膝をついて仰ぎ見る。1962年の営業運転以来の時空を写し取る。外を白く飛ばさぬよう、露出補正を慎重に決める。
絞りf5.6、1/13秒、ISO 640、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2024/05/31(金)
第692回 : 廃墟マニア(2)
 今回は「写真よもやま話」にそぐうべく、写真の話を少しばかりしてみようと思う。

 ぼくは、三頭山口駅廃墟撮影で文明の利器の多大なる恩恵に浴した。その恩恵とは、暗所撮影時に於ける実用的なISO機能(高感度でもノイズが大幅に軽減されている)の素晴らしさである。この発見は、一昨年の「鉄道博物館」(EOS - R6使用)での使用に際して、そして昨年の「大谷資料館」(EOS - R6 MarkII)でも体感したことだが、今回の廃墟ではことさらその威力に助けられた。

 写真の良し悪しは別として、撮影に支障を来すことがひとつでも減れば、士気も上がり、どれほどありがたいことか。最新カメラの利点のひとつを痛切に感じさせられた。足元が怪しくなりつつある後期高齢者のぼくにとって、この新兵器はとても頼り甲斐のあるものだった。涙がちょちょ切れ(関西の俗語)そうになった。

 つけ加えるなら、優秀な高感度ISO性能に、優れた画像ソフトのノイズリダクション機能を併用することによって、その成果は倍加する。往々にして、高感度ISO使用時に発生するノイズ(画質を損ねる要因)を、画像ソフトで極力軽減しようとすると、得てして解像感やシャープネス、延いては画質が損われる傾向にあるが、その弊害を避けるべく優秀な画像ソフトを利用すれば(もちろん、そのスキルや感覚が必要だが)難を逃れることができる。やはり、何事に於いても、「禍福は糾(あざな)える繩の如し」である。
 ノイズリダクション機能を上手に使いこなせば、特にRawデータに対しての効果は大きく、後処理の際にも有利に働く。

 ノイズの発生しにくい低感度ISOを使用したいというのは人情だが、暗所に於いて良い画質を得たければ、どうしても露光時間が長くなり(ノイズが発生する長時間露光は極めて稀で、特殊な撮影下であろう)、三脚の使用を余儀なくされる。今回の廃墟のように足元が心許ない状況下での三脚使用は、時間的にも、体力的にも難儀を極める。そして、構図にも制約を及ぼしかねない。これらは、撮影者にとって見逃すことのできない由々しき問題となる。

 ミラーレス一眼を新調する以前に愛用していたプロ仕様のEOS -1Ds III (2007年発売。ISO感度は100~1600だったが、ぼくは使用を400までとしていた)は大変優れた画質を提供してくれ、堅牢性をも含め、プロの道具として信頼に足るものだった。
 だが、今回の廃墟撮影などの暗所では、ノイズの発生を勘案すれば、三脚を使用せざるを得なかっただろう。手持ち撮影では、如何にブレを防止するかに腐心しなければならず、心身ともに、か弱いジジィはさらに命を縮めたであろう。
 三脚の使用が認められない「鉄道博物館」や「大谷資料館」でプライベートな写真を撮るには、工夫と気合いが必要とされるが、だがそれだけでは、写真は写ってくれないので、やはり弱りものだ。

 今更なのだが、露出を決定する要素は、絞り、シャッタースピード、ISO感度、露出補正の4要素であり、これらが絡み合って決定される。そのどれもがシーソーのような関係で成り立っており、被写体から受けるイメージに対し、それらをどの様に組み合わせ、そして工面するかという問題に突き当たる。ぼくは、1枚撮る度にこの労力を強いられ、そして頭を悩まされてきたものだ。
 これらの4要素は常に「あちらを立てればこちらが立たず」という関係で成り立っているので(上記した「シーソーのような関係」)、多少の数学的な頭脳回路を必要とする。とはいえ、ぼくのように数字にまったく弱い人間が何とかやってこられたのだから、大多数の人たちにとっては、容易く意のままに操ることができると思いたい。

 だが、ある新聞社や出版社の写真部長から、「写真学校を卒業した新入社員が、この理屈を理解できず、右往左往する」という信じ難い話を異口同音に聞かされた。嘘のような本当の話である。ぼくは自分の耳を疑った。度肝を抜くような話である。「世にも不思議な物語」は実際にあるのだ。ぼくは今、「笑っている場合じゃないよ」と、これ幸いに、我が倶楽部の面々に向かって話しかけてもいる。

 露出を決定する要素をどの様に操作するかは、撮影者次第であり、この物理的原理は、撮影者の意図を直接映像に反映するための基本中の基本である。あやふやな方は是非とも修得してもらいたい技術(知識)のひとつである。
 画像の明暗は元より、被写界深度、レンズの周辺光量、色収差、コマ収差、画像全体の解像度などなどを考慮し、4要素を決定できるようになれば、こと撮影に関しては一人前だ。この理論的知識を生かすためには、どうしても場数を踏まなければならない。自身の描く画像に対して、咄嗟の判断ができるようになれば、さらに一人前だ。

 題名とした「廃墟マニア」だが、今回は「暗所撮影で考えたこと」としたほうが相応しかったかも知れない。前号の冒頭で、ぼくは廃墟マニアではなく、それを語る資格もないと記したが、廃墟内部は電灯もなく暗いことが通例なので、足元や周囲に、十分に気を配る必要がある。くれぐれもご用心あれ。

 写真のメリットや面白さは、被写体を見た目より暗く、または明るく表現することができるということだ。ここに正解はない。つまり「適正露出」なるものは、常に存在せず、撮影者の目的により千差万別。上記した露出の4要素をいかに捌(さば)くかは、写真愛好家の永遠の課題だろう。

https://www.amatias.com/bbs/30/692.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。

★「01三頭山口駅」
機械室。入口や壊れた窓から外光が射すが、機械の部分はほとんど真っ暗で目視するのが困難なくらいだった。デジタルは暗部が完全に潰れなければ、このように再現可能だ。ストロボを使うと空気感や雰囲気が失われるので、私的写真ではストロボを使うことは決してない。
絞りf5.0、1/8秒、ISO 4000、露出補正-1.00。

★「02三頭山口駅」
機械室の上部へ這うように登ったところにある装置。この巨大なコンクリートは、ケーブルを固定するためのもの。
絞りf5.6、1/8秒、ISO 8000、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/05/24(金)
第691回:廃墟マニア(1)
 「廃墟マニア」と題したものの、ぼく自身は生憎「廃墟マニア」ではなく、またそれを語る資格もない。「廃墟マニア」を認める写真好きの方々、すいません。
 とはいうものの、たまたま廃墟や廃屋らしきものを見かけると思わず足を止め、観察したくなる。廃墟には、強いていうならば、そこはかとなく漂う魔性のようなものがある。その魅力とは、あくまで「フォトジェニックな」とか「廃墟の美」などの観点からである。それは、写真屋にとって見逃すことのできない出会いでもある。撮影意欲が反射的に湧き起こり、全身がカッと熱くなる。ぼくは、病膏肓(やまいこうこう)に入るのである。

 廃墟に魅せられる大きな素因は、かつてそこに人々が住み、その様子を頭のなかに巡らせながら、往事を忍びつつ、さまざまな想像や幻想を掻き立てられるからだろう。それはぼくにとって、やはり魔性なのだ。また、そこに漂う郷愁や哀愁は、かなり直感的な心理作用を呼び起こす。ぼくでさえ、情緒的な心情に囚われる。
 廃墟に出会った時、何か魅力的で「フォトジェニック」なものが、発見できるかも知れないと、多少の期待を抱き、胸がザワつく。それは写真愛好家だけでなく、多くの人が感じるところではないだろうか。

 朽ちたものの魅力は、ある時は宗教的、あるいは心霊的な誘(いざな)いを含んでおり、我々を惑わす。ぼく自身は、世にいわれるところの、いわゆる「心霊スポット」とか「超常現象」などのまやかしにまったく無関心であり、そのようにどこか如何わしいものは、信ずるに足りないものと決めつけている。
 被写体から受けるイメージを最優先に考える質の写真屋であるのに、その面に於いては至ってリアリストである。そして、科学信奉者でもあるのだが、科学で解明できないことはこの世にいくらでも存在していることはもちろん認めている。もし、ぼくに知的 !? 好奇心なるものがあれば、「不思議」とか「謎」の解明は、科学を頼りにするほか手がない。

 有史以来、人類の「神頼み」は絶えることがなく、ぼくも本能的に(人並みに)持ち合わせているが、「良い写真が撮れますように」と願を懸けたことは一度もなく、したがって信仰もなく、故に自身を不信心者と公言している。そんな有り様なので、良い写真が撮れないのかなぁと、最近になってやっと気づき始めた。
 もちろん、神社仏閣に立ち入るときは、ぼくだって頭を下げ、賽銭箱に向かって憚りながらも分相応な10円玉を1枚だけ投げ入れたりする。そして一丁前に神妙な面持ちで手を合わせたりもする。願掛けは、写真のことではなく、名誉のためでもなく、ましてや金銭でもなく、ただ一途に家族や友人の安寧に対してである。たかだか10円で叶うと思い込んでいるところがすごい。自分でも、厚かましくも気味の悪いやつだと思っている。

 今回の掲載写真は、ぼくが高校1年時、実際に利用したことのある奥多摩湖ロープウェイ(東京都西多摩郡奥多摩町)である。今から約60年も昔のことなので細かい記憶は定かではないが、カメラをぶら下げ、当時世界最大の貯水量を誇る人造湖(奥多摩湖。小河内貯水池ともいわれる)を見たくて行ったのだった。だが、その感慨も今となっては幻となっている。ただ、その時に乗ったロープウェイだけが、朧気ながらも脳裏に残滓のように、危うくもへばり付いている。
 この時に乗ったロープウェイは、昭和35年(1960年)に開業し、昭和41年(1966年)に一旦運行を停止したが、見通しの立たぬまま昭和50年(1975年)に廃止された。

 ぼくは発作的に、「ここに行ってみるか。掲載写真のこともあるし」と呟いた。何故か本稿担当氏の薄笑いが、やはり幻のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。心底生真面目なぼくは、彼の薄笑いに怯えつつ、再びカメラを持って、60年ぶりに彼の地へ赴こうと決意した。
 薄笑いは、ぼくに発作を起こさせるに十分な仕草だった。フリーランスというものは、いつも担当者の下部(しもべ)とならざるを得ないとの気の毒な宿命を負っている。「物の哀れ」(ここでは無常観的な哀愁)、ここに見つけたり、といったところか。

 出立は例によって遅く、午後1時半。到着時間を早めたいので、関越自動車道、圏央道を利用し、所要時間2時間強といったところだった。
 前日ネットで下調べをして分かったことは、ロープウェイの三頭山口駅(みとうさんぐちえき)に至る道が見つけにくく、しかも駅までの登りにかなり難儀するらしい。つまり、獣道のような道なき道を登坂しなければならないということだった。しかも急勾配とのことだ。
 かつては、足腰に自信があったが、この2,3年徐々に衰えが増し、それを自覚すべく転倒を何度かしていたので、ぼくは身構えた。

 30年ほど前、写真好きの中学時代の先生が、撮影の際に足元を見失って、転落死された。そのことが一瞬脳裏をかすめたが、「おれは、これでもプロフェッショナルだ。今まで散々修羅場をくぐり抜けてきたではないか」との励ましの声が頭のなかで響いた。声の主は、薄笑いではなく、真顔だった。
 撮影の前に、近くに神社でもあれば、そこで願掛けをし、賽銭箱には「格上げをして20円とするか」と決め、ぼくは、ポケットを弄(まさぐ)っていた。(次号に続く)

https://www.amatias.com/bbs/30/691.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
東京都西多摩郡奥多摩町。ロープウェイ。

★「01三頭山口駅」
画面左下のほうから、息も絶え絶えとなり登り詰めたところに、かつてぼくが利用したことのある駅が、鬱蒼とした木立のなかに忽然と姿を現した。雲行き怪しく、遠くに雷鳴が響いていた。
絞りf5.6、1/25秒、ISO 800、露出補正-1.00。

★「02三頭山口駅」
改札をくぐり、乗降場所へ。60年近く放置されたままのゴンドラだが、たまに訪れる人のために、「みなさんのご協力により、きれいになっています。来た時よりキレイにお願いします。みとうさんぐち後援会」と記した紙が置かれてあった。このゴンドラの色は、いつかは分からぬが、往事の物と同じように塗り替えられたものだ。
絞りf5.6、1/13秒、ISO 320、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2024/05/17(金)
第690回:ルーキー現る
 ぼくの主宰する写真倶楽部は今年で21年目を迎えた。「おれのような指導者に不向きな者が、何故21年も?」と我ながら摩訶不思議な心境でいる。当時は、写真を趣味として楽しもうとする人たち、将来はプロを志す人たち、親睦を深めようとの目論見だけを抱いていた人たち、暇を持て余し、することに事欠いている寂しい人たちなどの混在で、それぞれにてんでんバラバラだった。男女の構成比も半々で、もうぐちゃぐちゃ。まさに、入り乱れていた。

 加え、年齢も職業もまちまちで、写真歴も事始めの人からかなりのベテランまでごった煮のような有り様。指導者もどきのぼくはいつも「ちゃんぎり舞い」(亡父の常套句で、 “きりきり舞い” の意。ぼくも父の佐賀弁をよく真似ていた)を余儀なくされた。お陰で、ぼくはこの奇っ怪な人々がもたらすところの心労が祟り、ご丁寧にもその間に2度の癌宣告まで受けてしまった。

 メンバーは、地元埼玉県ばかりでなく、都内、神奈川県、栃木県と広範囲にわたり、色々な面でバラエティに富んだ、面白くもおかしな倶楽部だった。
 未成年の学生さんを始め、ぼくより年配の人もおり、教室は本当に色取り取り、選り取り見取りといった模様だった。そんな景観が何年も雑然と広がっていた。
 月日が経つにつれ、若い人は壮年期を迎え、仕事により力を注がざるを得ず、したがって倶楽部での活動が困難となり、やがてその年代層が減っていった。また、「親の介護」や「子育て」、「もう体力が保たない」という方も増え、種々雑多な面を持つ実にややこしい部隊だったが、現在は、自然淘汰というか、進化の過程で起こる収斂に似て、ぼくは癌の再発には至らず、今倶楽部の椅子はとても座り心地が良い。おそらく今のメンバーも同様であろう。

 他のほとんどの倶楽部は、ぼくの知る限り、定年退職をした人たちが大勢を占め、若く見積もっても50歳代の人たちが点在するといったところだ。日本の実活動の人口構成からして、これを自然現象と捉えるのであれば、至極もっともなことだと思う。
 我が倶楽部も現在は他の倶楽部と年齢構成は似たり寄ったりだが、良い意味での「大人」(ものの道理をしっかりわきまえることのできる人たち)として振る舞える人の集団となり、メンバーの誰もが居心地の良さを堪能している。ぼく自身も、この21年間で指導者もどきとして、最も過ごしやすい環境を得ている。おまけに、人が少なくなればなるほど、指導の的が絞れるのだから、古典落語の『三方一両損』ならぬ『両方一両得』である。

 そんななか、今月より18歳の男子(大学1年生。以下K君)が、老化による脳細胞の衰え著しく、しかも糜爛(びらん)気味のメンバーのなかに、臆せず躍り込んできた。今まで、19歳が最若年だったので、K君は記録をも更新してくれた。K君の勇気と写真に対する熱意に敬意を表したい。この事実は、本当にたいしたものだと感服さえしている。
 おばさま、おじさま、ジジ、ババのなかへの突入である。乱気流に飛び込む飛行機のようなものだ。ぼくには持てなかった気概をK君が示してくれたことをとても嬉しく思っている。と同時に、K君が学校を卒業するまでに最低でも4年。ぼくもこれからの4年間はしっかり写真を撮らなければいけないと意を新たにさせられた。何と、健気で殊勝な心得であることか。

 月初めの勉強会に持参したK君の10数枚の写真を観て、ぼくが18歳の時に撮っていた写真を思い返しながら、「こんな写真は、ぼくには撮れなかったよ」との本音が、思わず口を衝いて出た。ぼくは社交辞令の一種であるお追従(ついしょう)を決していわない。それは相手に対して失礼だからだ。
 K君の写真からは、どのような被写体を選び、それをどう表現したいのかが明確に伝わり、メンバーの誰もが青天の霹靂といったところだった。
 こまごまとした指摘はもちろんあるものの、ぼくは「当分の間、このまま自由に、いろいろなものをたくさん撮りなさい」というのが、今は最適最良な指導だと直感した。しかしながら、「撮影時に、何を優先すれば良いのか」だけは伝えようと思っている。
 「言い聞かせるより、先に尊重あり」がぼくの信条でもあるので、K君も同様に受け取ってもらえれば、前途洋々、ぼくも万々歳である。

 今や写真人口は(いわゆる「インスタ映え」や「ナチュ盛り」を含めれば)、以前とはくらべものにならぬほど多いと、あるカメラメーカーの人から伺った。然もありなんとぼくも思う。
 だが実際に、写真の基礎をしっかり学び、自己表現の手段として写真に臨む人は、写真人口の何パーセントくらいなのだろうかを勘案するに、これはぼくの勝手な推測だが、写真人口が多くなったのとは反比例し、減少しているのではないかという気がしている。
 昨今の全般的な文化凋落の折、そのような人は希少価値とぼくは見ている。そしてまた、様々な機能が便利さや安易さの度を越えると、正当派写真愛好家は絶滅危惧種ともなりかねない。心配性 !? のぼくの一喜一憂は、そのような事象を「世の常なり」で片付けてもいいのだろうかと思っている。

 「自己表現の手段」をどの様に定義し解釈するかは、多様な意見、見解があろうが、少なくとも鑑賞者を第一義に見立て、「いいね!」をたくさんもらうことを目的とした写真は、良し悪しの問題ではなく、ぼくとはほど遠い距離にある。もちろん、優れた写真のなかには、多くの人から好評を得るものがある。  
 ぼくが、ここでいいたいのは、その結果ではなく、感応した被写体に対峙し、止むに止まれずシャッターを押さざるを得ないその時の動機付け次第で、あなたの写真は変化するという事実なのである。心の持ちようで、結果が変化するのは写真も同様であり、自明の理であると思うのだが、それを混同すると、作品もかつての我が倶楽部のように、多種多様を越えて、ややこしさ一辺倒となってしまう。

 とまれ、ぼくが若人と対峙するに、写真ばかりでなく皮相浅薄であってはならず、身を糺すべきと心する、希有なルーキーの出現だった。来月はもう1人新人がやって来るとのことだ。まさにぼくは、「牛に引かれて善光寺詣り」といったところだ。

https://www.amatias.com/bbs/30/690.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ :RF100mm F2.8L MACRO IS USM 。
埼玉県秩父市。三峯神社。

★「01三峯神社」
昨年11月の訪問時に撮影したもの。薄暗いなか、慎重にシャッターを切った。
絞りf8.0、1/25秒、ISO 8000、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2024/05/10(金)
第689回:たっぷり皮肉屋
 ぼくにはまったく縁遠いゴールデンウィークも去り、世間も一心地ついたところだが、その間の混雑や渋滞を考えると撮影に出る気にもならず、相変わらずの怠け者を通してしまった。ぐうたらな生活ぶりだった。
 かろうじて、上野の国立博物館で催されている「法然と極楽浄土」を、胸を躍らせながら観に行ったのが精一杯の働きであり、久しぶりに多少の知的好奇心を満たした。素晴らしい特別展だった。
 定年をとっくに過ぎた同輩たちがよく口にする「どこそこの美術館、博物館に行ってきた」との科白にぼくはいつもうんざりするのだが、ぼくのそれは違うのだぞ、と声を大にして言い放ちたい気分にいつも襲われる。

 彼らのそんな常套句を耳にするたびに、「そういうものは若い時にしてこそ、初めて血となり肉になるものだ。この歳になって、以前には持ち合わせていなかったものに目覚めたかのような錯覚を起こし、美に対する審美眼を養おうと足掻いても、もう遅い。幼少時からの、少なくとも若い頃からの継続的な積み重ねがないとなかなか難しいものだ。本当は、暇ですることがないので、美術館や博物館に行って有り余った時間をつぶしつつ、自分はこれでも良き精神生活を送っていると言い聞かせたいだけなんじゃないか。それを “思い込み” という」とぼくは、とても控え目にいう。

 彼らは定形文のように、「若い頃は忙しくてねぇ、行けなかったんだ」と返してくる。「嘘つけ」とぼくは内心いつもそう呟く。本当のところ、抑えることのできぬ興味や知的好奇心が自身に内包していれば、どれほど忙しくても、そのような言い訳はせず、人は時間をなんとかやり繰りし、捻出するものだ。
 人混みが大の苦手なぼくが、ゴールデンウィーク中に、博物館に出向いたのは、まさに快挙であり、誠にあっぱれな仕業といえる(フツーここまで自画自賛をするかねぇ)。体調の優れないなかにあっての挙は、押し止めることのできない渇望による衝動のようなものだった。「その日暮らし」とは、このようなことをいうのだろう。

 少し横道に逸れるが、雑誌やムック本(特に男性向き)に特集された数ページを読み、部下などに「カルチエ = ブレッソン(フランスの写真家)はね」とか「サルバドール・ダリ(スペインの画家)というのはね」と、自身が昔から彼らの作品に親しんできたかのような口調で、社内や酒席などで配下の者に「君は知らないだろうが」という前置きを示し、得意気に語る手合いが必ずいる。ぼくは実際に何度かそのような光景を目の当たりにしてきた。「その知見たるや、たいしたものだ」とぼくは皮肉をたっぷり込めて眺めていた。まさにぼくは、皮肉屋たっぷりである。

 皮肉ついでに、ぼくはある催し物で、自身のこれからの写真のありようについて、こんな一文を書いた。

 「 『効能書きだけは十人前』 を標榜してから、もう何年もの月日が経ってしまった。だが、ぼくの良いところは自身の効能書きに陶酔するところだ。この事実は多分に冷笑的ではあるが、ひょっとすると、それはぼくが写真を撮ることの原動力となっているのかも知れない。否、きっとそうであるに違いない。
 冷笑を示すことへの渇望は、世に対して、そして自身の、また巷に氾濫する写真に対してのそれである。つまり、あらゆることに我慢がならないのだ。

 命を削るこの心的作用は、創造の原点であると信じているからこそ、とても心地が良い。横道に逸れっぱなしのぼくは、本来の意味である『天上天下唯我独尊』を地で行っているとの振りをし、夢見つつの憧憬を示そうとしているような気もする。76年も安穏と生きてきたのだから、ここらで正面から生死に対峙しようと、残り少ない時間を、自身のささやかなる写真に向け、幾ばくかの重石をかけなければと思っている。

 釈迦の『唯我独尊』の本来の意味『唯だ、我、独りとして尊し』であり、その説法に倣い、環境や能力に依存することなく、尊い『私』を見出すため、テーマに束縛されず、感応の赴くままに『ごった煮の写真』に向けてシャッターを切り続けようと思っている」。
 と、眉間に皺を寄せながら、今思うところを正直に記した。

 掲載写真は、前号と同様に、未だ撮影に出かけられないでいるので、既にご紹介した撮影場所で撮ったものだが、ぼくの写真は年々暗く、陰鬱なものになって行く。音楽でいえば、完全な短調であり、口の悪い、誰かに似た皮肉屋の友人にいわせると、「ベートーヴェンやワーグナーの葬送曲、文学でいえばドストエフスキィ紛(まが)い」なのだそうだ。ぼくの好きな作家たちなので、たとえ紛いものであれ、「いつかはぼくも」と思うことにしている。それは大変な讃辞なのだと自身を鼓舞している。ぼくの写真は、一般受けしないことも重々承知しているので、なおさら光栄なことだとさえ思っている。
 自分の写真が、上記した冷笑とどこか結びついているのかどうかは今のところ判然としないのだが、暗いといわれようが、作品は作者の人生観なのだから仕方がない。

 目指すところは、質感描写を重んじ、空気感を醸し、そして重厚感があり、かつ文学的、美的であること。「三位一体」ならぬ「五位一体」の写真が1枚でも撮れれば、思い残すところなく終焉を迎えてもいいと思っている。

https://www.amatias.com/bbs/30/689.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ :RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF16mm F2.8 STM。
栃木県、静岡県。

★「01栃木」
栃木市。撮影はこの1年以内のもの。歌麿通りの店先にぶら下がっていた傘。夕暮れ時、ガラス越しに。各種プリセットにアイコン状の大きさでこの画像が並ぶと、まるでコウモリがぶら下がっているように見える。「こうもり傘」とは言い得て妙だと、初めて気づく。
絞りf9.0、1/60秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

★「02静岡」
二岡神社本殿(といっても、建造物はこれしか見当たらなかった)。参拝者もいなければ神職の気配もない。いつこのお宮が造られたのかも分からない。お供え物が、申し訳程度に置かれていた。11月の日暮れ直前。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 8000、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2024/04/26(金)
第688回:腹八分目
 この1ヶ月間、忙しさに輪を掛けて体調不良にも悩まされ、先般掲載させていただいた成田山を最後に、以降1枚も写真を撮ることができずにいる。
 特に体調不良は、普段から気弱なぼくにさらなる追い打ちをかけ、精神をも衰弱させてしまったような気がしている。これはいかんと思いつつも、目下のところ、「あと5年は、カメラを持って歩き回るのだ」という気概を殺がれそうな状勢にある。「病は気から」との諺に倣い、普段からの気の持ちようには、とくと留意しないといけない。

 精神を病みそうな厄介な人々に囲まれると、ぼくは昔から言語障害となり、それに加え胃腸を病むことが多々ある。因果関係は定かでないが、ぼくはご丁寧にも胃がん、大腸がんの双方を体験している。
 胃腸のほうは、古(いにしえ)からの賢人の健康術である「腹八分目」を踏襲すればいいのだが、今のぼくは悲しいかな、「腹八分目」の塩梅というか、「八分目」の境が分からなくなっているので、それはかなり絶望的な状況でもある。長寿の人は、どのような技を駆使して、「八分目」を感知するのだろうか。是非ご教示を賜りたいと思っているくらいだ。
 年老いてからは、特段に食い意地が張っているわけではないのだが、知らずのうちに、もうこれ以上は無理だというところまで食べてしまうので、ぼくの胃腸は堂々巡りを繰り返し、一向に良くなる気配がない。食後に初めて食い過ぎに気づくのだから、情けない。ぼくの写真も同じ道を辿っていると思うと、まったく悔しいったらありゃしない。

 修業時代、師匠のスタジオにはぼくを含めて3人のアシスタントがおり、2人はぼくよりずっと若く、20歳前後だった。食い盛りの若者たちで、撮影時の合間に出前を取ることが多かった。彼らはいつもかつ丼の大盛りを注文していたが、何度目かの時に、師匠はとうとう業を煮やし、「おまえら、いい加減にせいよ!」と大声で怒鳴った。そして、「おれだって大盛りを食いたいよ。だがな、そうすると血が頭に行かず、しかも緊張感がなくなるんだよ。そんなことで写真が撮れると思ったら大間違いだぞ! 腹八分目というのを知らんのか! 郷(くに)に帰れ!」と、厳つい顔をし、速射砲のようなテンポで痛罵した。

 幸いにも、ぼくはそれまで大盛りを注文したことはなかったので(ぼくも当時は大食らいのほうだったけれど)、お陰様、師匠の憤激を買うことはなかったが、彼らの大盛りを横目で見つつ、本心をいえば、心底羨ましく思っていたものだ。食べたいものや量を自制しなければならないことは、とても辛いことだ。ぼくだって当時はまだ30代で、食い意地から逃れられる歳ではなかった。

 若い彼らにくらべ、ぼくはある程度の社会人生活を経てきたので、仕事中に大盛りを注文し、それを平然と喰らうことにどこか抵抗感があったのだろうと思う。もしかしたら、これは欠かすことのできない作法だと考えていた節がある。亡父の、子に対する物言わぬ躾であったと、今更ながらに述懐している。亡父のお陰で、ぼくは師匠に、この件ではどやされずに済んだ。

 昨今は、このような師匠(あるいは上司)の言葉を捉えて、「パワハラ」だとか、訳の分からぬ、実にけったいな言葉が氾濫していると聞く。ハラスメントは確かに人間の尊厳を損ね、侵すことであり、それは断じて慎むべきことは誰もが承知しているはずだが、「叱る」ということは、「いじめる」、「いやがらせをする」、「差別する」などとは大きく異なり、それを区別できない人たちが、コンプライアンス(法令遵守)を盾に、むやみやたらヒステリックに叫き散らしている。自分で自分の首を絞めていることが分かっていないように、ぼくには思えてならない。これぞまさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。
 「○○ちゃん」と呼ぶのも、セクハラなんだそうで、だとすればぼくなどとっくに獄門の刑に処せられて然るべきであろう。なんてことだ! 嗚呼、治りかけの胃が、また痛くなってきた。

 話は変わって、実は前述したように成田山以降、撮影に行けずにいるので、掲載写真に、はたと困ってしまった。そこでぼくは一計を案じ、過去に撮った写真のなかでまだ未掲載のものを探し当て、充当すれば良いとの知恵?を編み出した。今回は、その知恵に添うことに。

 写真はソビエト時代末期、欧米や日本でも人気の高かったM. C. ゴルバチョフ(1931〜2022年。ソビエト連邦最後の最高指導者)の在任中、ウクライナ共和国の首都キエフ(現キーウ。現在は「ウクライナ共和国」ではなく、「ウクライナ」である)で撮影したもの。
 印象的なこの赤い壁は、国立キーウ大学(創設1834年。190年の歴史を有す)の一部で、帝政ロシアのニコライ2世(1868〜1918年。ロマノフ王朝最後の皇帝)が、徴兵制に抗議した学生たちに怒り、大学の建物を「血の色」に塗りつぶさせたとの由来がある。因みに現ウクライナ大統領であるゼレンスキーの出身校でもある。
 ぼくが訪問したのは、チェルノブイリ原発事故の1年後で、キエフの街(原発から約90km)には散水車が常時物々しく走り回っていた。ぼくも多分、被曝しただろう。
 
 この赤い壁を人物入りでと願ったぼくは、人の往来を見定めて切り取ったのがこの1枚。

https://www.amatias.com/bbs/30/688.html

カメラ:ライカM4。レンズ : ズミクロン35mm。
ウクライナ、キーウ市。

★「ウクライナ」
撮影データは、フィルムのため不明。フィルムはコダクローム64。ISO 64。
(文:亀山哲郎)