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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2024/11/29(金)
第717回:京都人気質?(3)
 京都からこちらに越してきた当時、言語の著しい違いに、コミュニケーションを取るのがひどく億劫になったことを鮮明に憶えている。「三つ子の魂百まで」というが、そんな諺も小学生中頃にはすっかり消滅し、ぼくはどこへ出ても、他人との会話に怯むことはなくなった。
 しかしながら、いわゆる標準語というものに慣れや親しみを覚え始めた少年期でも、自分の意志を的確に伝える言語は、やはり京都言葉と九州言葉であったことは否めない。

 標準語というものは、ニュアンスに著しく欠け、素っ気ないものとの認識はこんにちまで変わらない。自身の気持ちや意志を伝える道具として、標準語は役不足であるとの苛立ちは、現在もぼくの心理に強い影響を与えている。
 そのためか、自身を表現する他の手立てとして、音楽や写真にのめり込んだと考えるのが、もっともらしい言い訳である。そして、それを補う他の手段として、良質な文学への傾注は必然のことであったように思う。ただ、読書は、音楽や写真と異なり、趣味ではない。「趣味は読書」と、臆面もなく答える人がいるが、文学的良書は、とても趣味の分野になく、読破に苦渋を覚えるものだ。言葉の芸術を噛み砕き、そこに内在する思考を理解するのは、抽象芸術とは異なる面がある。

 言葉への苛立ちは、少年期と青年期に顕著となり、結果それが吃音となったのであろうと思う。だが、ぼくの吃音は他人に悟られることはほとんどなかった。特に、「な」と「よ」が出にくく、ぼくは瞬時に言葉を入れ替えるという特異な技を使うことに長けるようになった。ただし、弱ったのは固有名詞だ。固有名詞は、言葉や発音の差し替えが出来ぬため、黙りこくるか、一呼吸置き、気を落ち着かせ、そろりそろりと息を吐き、声帯を震わす他なかった。苦い思い出ばかりが頭をよぎる。「なんで?」や「よろしく」がいえないのだから、その度にぼくは意気消沈し、グレるのだった。

 言葉の入れ替え作業は、余計な労力を伴い、少しずつ精神を蝕む。そのお陰で、ぼくは天の邪鬼(あまのじゃく)となり、友人には「臍曲がり」といわれるようになってしまったのである。家族はぼくを指して、最近は「偏屈じいさん」と呼ぶ。小癪な家族に囲まれているので、打たれ強くなるのは必定である。

 さて、前回1行だけ記した京都人的気質の典型例として世間でよくいわれる、いわゆる「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」であるが、京都の親類(複数の従兄弟たちやその子供たち)や友人たちに、確認のため訊ねてみた。ご丁寧にもである。
 ぼく自身がその言葉に出会ったことがないので、それは実態に乏しい抽象的な出来事を指しているのではないかと感じたからである。果たしてそれが、抽象的な事柄かどうかの疑問は残るが、取り敢えず、ぼくは実態調査に乗り出したというわけである。
 都合7人の、京都人の証言によると、「実際にその科白を聞いたことはないし、使ったこともない」とのことだった。それみたことかと、ぼくは今、鼻をひくひくさせている。因みに、生まれも育ちも京都の嬶(かかあ)にも訊ねてみたが、「そんな言葉、聞いたことも、使こうたことも、一度もあらへんえ」と、さらりといってのけた。

 確かに京言葉は、特に女性の言葉は、他府県の人が聞くと、柔らかさや優しさを感じるらしい。ぼくは女性の京言葉に慣れているし、嬶は純粋な京女なので、朝から晩まで京言葉を浴びせられている。彼女は、人生の3分の2をこちらで過ごしているにも関わらず、決して標準語を喋ろうとはせず、どこでも京言葉で通しよる。それは、京都人の特質のようなものだ。学生時代に京都出身の2人の女性がいたが、彼女たちも標準語を喋ろうとはしなかった。ここが同じ関西でも、大阪人と異なる点である。

 女性の京言葉については、古今亭志ん朝の十八番(おはこ)である『愛宕山』の枕で次のように語られている。「東京の人間から見ますと、大阪弁とは異なり、京都のご婦人の言葉はやけに当たりが柔らかく、『そうどすえ』なんていわれると、お足がいくらあっても足りない」のだそうである。ぼくは、嬶の京言葉にそのような感覚をまったく抱いたことなどなく、いつも怯えている。
 「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」という世間にすっかり流布された京都人への当て付けや風評は、いってみれば、「狂言回し」のようなものだとぼくは思っている。
 
 また、京都人は遠回しに皮肉をいったり、いいにくいことをやんわり他の言葉にすり替えるのだそうだが、それも誤った伝言ゲームのようなものだ。他府県の人たちにはそう聞こえるというだけの話であって、一種の風説のようなものに過ぎぬというのがぼくの結論である。これも、「狂言回し」の一種であるように感じている。

 言葉の違いにより、こちらに越してきた当時、浦和市在住の同窓生から受けた嘲笑にぼくはまったく動じなかった。彼らのからかいに対して、「漬物といえば、タクアンしか知らぬ者の言葉」とぼくは心うち彼らに反駁していた。ぼくの近所は昔ながらの茅葺きの長屋や馬小屋、脱穀機が並んでいた地域だったせいか、彼らから「土人部落」などと揶揄されたものだ。だが、すり減った下駄か、良くてズック靴(木綿地で作られた靴)しか履いたことのない連中にいわれる筋合いなどなく、ぼくは革製の編上靴を履いていたのだった。けれど、ぼくはそんな言葉を彼らに投げつけたことは一度もなかった。たまたま、京都に生まれただけであって、偉くも何ともないことを知っていた。子供ながらに、それをしっかり悟っていたのだ。

 話の落とし所をどのようにするか、今困却しているのだが、生まれ故郷(選択不可)に対する愛着や矜恃は誰しもが持つものだ。また、「住めば都」(選択可)に従い、「郷に入っては郷に従う」のが、一番の生き方であろうと信じている。そこに人情というものが派生するのはやむを得ないことなのだが、他所、他者を見下すような仕草が身についてしまっては、写真もそれしきのものである。京都人のぼくがいうのだから、間違いない ! ?

https://www.amatias.com/bbs/30/717.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市大宮。

★「01さいたま市」
店先に、等身大くらいのソフトクリーム。見た瞬間に「これは暖色系のモノクロ」と決めつけた。何がおかしいのかよく分からないが、ヒクヒク笑いながらの1枚。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 1600、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
オムライスというと、数年前の思い出が蘇る。夕食にそれを渇望する写真仲間を袖にし、全員でイタリア料理店に駆け込んだ。あれ以来、オムライスを見ると、「即却下」という言葉が激しい稲妻のように頭を駆け回る。
絞りf5.0、1/100秒、ISO 2500、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/11/22(金)
第716回 : 京都人気質?(2)
 本稿を書くにあたって、前号を読み返してみたら、あれあれ、毎度のこととはいえ、写真について何も述べていないことに気づいた。後の祭りであるが、かろうじて写真は掲載しているので、それでお茶を濁しながら、何とか自身を取り繕おうと、少しばかり気詰まりな思いをしている。齢76にして、しかしながら、ぼくにはまだ良心が残っているとみえる。

 写真の話はさて置き(そんなことでいいのかなぁ)、取り急ぎ、題名に従うことにしよう。今、担当氏の顔がチラリと脳裏をかすめたのだが、気にせず前に進んでしまおう。
 前号で記したように、ぼくは生まれて5年半を京都で過ごした後、こちら(当時、埼玉県北足立郡与野町大戸。現さいたま市中央区)に連行されてきた。誰しも生まれる地は選べないが、5歳半でもやはり住む地を選ぶ権利は与えられずにいた。幸いなことに親はぼくを見捨てずにいたのだった。連行された先は、父の故郷である佐賀市ではなく、さいたま市だった。以来、ぼくはずっと埼玉県人である。

 戦争が終結し(ここでいう戦争とは、大東亜戦争のことであり、応仁の乱ではない)、父は軍隊で可愛がってくれた京都市出身の上官の誘いで、借りの住み処を京都に定めたということだった。上官の仕事を補佐するに足りる知識と技術を身に付けていたことが幸いしたのだろう。
 父は、佐賀工業高校の出身であったため、数学や物理に長けており、また手先が極めて器用だったことも、身を助けたようだ。まさに、「芸は身を助く」である。大学は東大文学部インド哲学科卒業だったので、上官の助けにはならなかったろうが、ぼくに高僧の教えを分かりやすく噛み砕き、根気よく解説してくれたのだから、ぼくには運が向いていたともいえる。父は英国に数年滞在し、その間ケンブリッジ大学でインド哲学を講義し、本業以外で身銭を得ていたのだから、こちらは「知識は身を助く」だったようだ。
 また話が、例によって横道に逸れつつあるので、閑話休題。

 京都住まいを始めた父は、やがて生まれも育ちも京都である女性と結婚し、昭和23年(1948年)1月にぼくが生まれたというわけである。母は、ぼくが生まれて約1年後、年子出産の際、医師の不手際で命を絶った。戦後間もない頃の医師の水準で、今なら考えられぬことだそうだ。
 本来なら、1歳違いの妹がいたことになる。そんな事情もあって、ぼくに母の記憶はない。以後、母の姉がぼくを育ててくれた。

 5年半京都の空気を吸っただけだが、母を失ったぼくを、祖父母、叔父叔母は、不憫さもあってか、こよなく可愛がってくれた。さいたま市に越した後も、小・中・高・大学生の休みのたびに、ぼくは京都と軽井沢(夏の間、父はここを仕事場としていた)を、カメラ片手に行き来していたものだ。その間に、親戚ばかりでなく、何人かの京都人と親しくお付き合いをしてきた。大学時代の、京都出身の友人とは今も親交がある。

 こちらに越してきた当初、ぼくはとてつもない環境の変化に、戸惑いを通り越し、精神に異常をきたしかけた。俗にいうところのカルチャーショックである。当時は今と異なり、関西言葉がまだまだ一般に流通しておらず、ぼくは近所の人たちの言葉がよく理解できず、相手もぼくの言葉を実に「けったい」なものとして白眼視していた。からかいの材料にはもってこいだった。
 「こちらの “原住民” の言葉は、とても爺むさくて、かなわんわ」と、外来種であるぼくは始終嘆いていたそうだ。

 「けったい」を辞書で繰ると、(関西方言。風変わりなさま。奇妙なさま。不思議なさま。広辞苑)とあるが、そのニュアンスを的確に表せるような標準語は見当たらない。同様にして、「かなん」(京都言葉で、いやだ。困る)や「どんつき」(道の突き当たり)や「しんどい」などなど、あげれば切りがない。
 そのような言葉の連発に、ぼくはからかわれたり、おちょくられたり、挙げ句、いじめられたりもしたものだ。だが、ぼくはまったく屈することがなかった。その理由は後述するが、一言だけ先に述べておくと、それが京都人の京都人たる所以なのである。

 父は地言葉の佐賀弁 + 博多弁でぼくに向かってくるのだから、これはもうたまらん。だが、父と母の異なる言葉の挟み撃ちに遭いながらも、生まれながらに耳にしていた京言葉と九州言葉の区別はしっかりできており、それを器用に使い分ける実に「けったい」な子供だった。それは今以て変わらない。
 京言葉、九州言葉に標準語と、ぼくはこれでもトライリンガルなのだ。ただ、九州言葉はネイティブではないので(その土地の空気を吸って育ってはいないので)、佐賀弁と博多弁の区別はできず、使い分けはできない。

 京都人気質についていうならば、全国的にそしりを受ける一番手のような気がしている。よく知られるところでは、「ぶぶ漬け(お茶漬け)どうどすか?」が筆頭格としてあげられる。正しい解釈とただの請負の両方が存在するが、ぼくの知るところ、感じるところを、自身の解釈に従いお話ししてみようと思っている。あれっ、今回も写真の話は出ず終いだった。どうかご容赦のほどを。 次号に続く。

https://www.amatias.com/bbs/30/716.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市大宮。

★「01さいたま市」
大栄橋。階段のてっぺんにいる青年は撮り鉄で、列車の到来をスマホで調べている。中段の女子高生は、カメラを覗き、試運転か? 後ろでカラスが見守っている。下段の青年は、そんな撮り鉄たちを我関せずと、ポケットに手を入れて登っていく。3者の対比をどの様な構図(瞬間)で捉えるかに神経を集中して、シャッターを切る。
絞りf7.1、1/200秒、ISO 640、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
大栄橋の下に家が建ち並ぶ。家の屋根は橋の道路の傾斜に隠れて見えないが、天井はどうなっているのだろう? 電線を支える碍子(がいし)がたくさん点在し、風変わりな風情を醸していた。
絞りf8.0、1/80秒、ISO 1600、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/11/15(金)
第715回 : 京都人気質?(1)
 いわゆる「県人会」というものがある。そのほとんどが民間の任意団体とのことだが、生憎ぼくはこの「県人会」というものには一切の関心がなく、立ち入ろうとも思わない。その一番の要因は、ぼく自身が同郷の士と「群れを成す」ことにまったく興味がなく、それどころか心の片隅で、そのようなものを毛嫌する性向があるからだ。
 そしてまた、誤解を恐れずにいえば、その言葉に「烏合の衆」を感じ取ることがあるからだろう。純粋な親睦の会を逸れているという気配を耳にすることもある。親睦に利害関係や社会的身分を持ち込んでは身も蓋もない。これは「県人会」に限らず、ぼくの身近でいえば、残念ながら写真の団体・組織もまったく同様であると感じている。

 毛色の異なるよそ者が入り込もうとすると、それを嫌ったり、除け者扱いをするその排他性がぼくの気質に合わないのだ。そのような集団や団体にはやはり怖気を震って近寄り難い。そこに属して、自分の何かが磨かれるとは到底思えないのである。
 個より集団的な性質、もしくは組織的な権威を振りかざすようなちゃちで粗悪な集団には、近付きたくないものだ。そのようなものに身を守られたいとか歓心を買おうとはまったく思わないし、殊更にそれをお宝のように重んじる環にぼくは与したくない。

 「同郷の士」という意味でいえば、確かに、その土地固有の歴史や環境により培われた共通の風土、風習、人柄ともいうべきものがある。方言などもその一環である。それらをぼくはとても尊重しているし、特別な敬意を払っている。そこで育まれた人間性というものが隠しきれないものとして存在することを大いに認めている。だからといって、もし徒党を組むことのいやらしさを感じ取れば、ぼくは直ちに撤退することに決めている。

 集団というものは、様々な環境で生きてきた人々、考えや嗜好の異なる人たちの集まりであることにより、はじめて存在の意義があるとぼくは常々思っている。ぼくが、「来る者は拒まず、去る者は追わず」を徹底できるのはそのような考えからだ。他を知ることにより(自分と異なることを知る)、自分が成長する糧となるとの意識が強い。

 人間が生きていく上で、誰しも仲間意識というものを持っている。一人では生きられないとの危機意識があるからだろう。それは本能に近いものだ。この複雑多様な社会にあって、一人で生きていくことは不可能であり、どうしても似たもの同士とか志を同じくする者、あるいは同じ利得を有する磁場に引かれるのは当然のことだ。ここで偉そうなことを吠えているぼくも、仕事仲間や友人たちに支えられている。彼らあっての自分である。

 仕事仲間は、どれほど意気投合しなごやかであっても、やはりシビアさ(要求・条件が過酷であるさま。また、批評・言動などが容赦なく、手厳しいさま。大辞林)があってのことだ。同郷の士だからといってミスを認めてくれるものではない。これは生きるための非常な良薬である。もし、同郷であることで、 “なぁなぁ” で済むような関係であれば、「百害あって一利なし」。傷のなめ合いは、自身の質の低下や凋落を招くので、遠ざかったほうが良い。

 さて、余分なことばかり辛辣に述べている自分がいることに気づいているのだが、ぼくは京都市出身である。京都人といっても、生後5年半のみの未熟者だ。それ以降、さいたま市に70年余寄生している。
 埼玉県に京都人会があるのかどうか知らないが、多分存在しないだろうと思われる。長年過ごしてきたさいたま市だが、以前にも述べたことがあるが、ぼくにはどうも郷土愛というものが芽生えない。元々、そのような質なのかも知れない。だがこのことは、何故かぼくの心を突き、気詰まりさえ覚えることがある。酸いも甘いも体験させてくれたこの地に、申し訳ない気持でいる。我が拙稿を、14年以上も辛抱強く掲載させていただいているのも「さいたま商工会議所」のお陰である。恩返しか、面汚しかは分からないけれど、とんだ執筆者である。

 ぼくは、つまり今の地に何となく住んでいる。結論をいえば、どこに住んでもいいと思っている。生を受ける地は選べないが、死に場所を選ぶ権利くらいはあっていい。ここが終(つい)の棲家となるかどうかは分からないが、心を許せる得難い友人が何人かいるので、人的居心地という点に関していえば、「ここでいいか」とも思っている。

 多感な時期を、浦和市立(現さいたま市立)の小・中学校で過ごせたことにより、目眩めくような思春期と青春期を形作り、そして、いつまでも大切にしておきたい宝物をたくさん得た。
 これらの基石となるものは、冷静に振り返ると、やはり京都を外しては考えにくい。自身に京都的(世間でいわれるが如くの)なるものが、内在しているかどうかはよく分からないが、こちらに越してきた頃の、大変なカルチャーショックは、曰く言い難し。言葉が通じないのだから、さいたま市はまるで外国であった。それは、通奏低音のように今もぼくの心のなかで、無意識のうちに響いている。 次号に続く。

https://www.amatias.com/bbs/30/715.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市大宮。

★「01さいたま市」
店のなかから、半開きになったガラス窓越しに。うら寂しくはあるがどこか猥雑な世界が垣間見えた。店名の色が飛ばぬよう慎重に露出補正。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 3200、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
靴屋の店先を、二重のガラス越しに。どこか一世代昔の面影を見る。革靴、スニーカー、サンダル、スリッパの混在が面白い。店の奥に何故か三角コーンが置かれていた。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 10,000、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/11/08(金)
第714回 : 浦和 vs.大宮(2)
 紅葉の季節なのだそうである。写真愛好家、特に風景写真を好む向きにとって、心ざわつく頃合いらしい。と、まるで他人事(ひとごと)のようだが、ぼくにとっては本当に他人事である。とはいえ、ぼくだって目の覚めるような鮮やかで美しい紅葉を前にし、盛んにシャッターを切った時期があった。
 20代前半の頃、紅葉美しき尾瀬や京都、軽井沢などで夢中になってカメラを振り回したものだ。もちろん、フィルム時代のことである。カラースライドフィルム(カラーリバーサルフィルム、もしくはポジフィルムとも)をライカやニコンFに装填し、使用フィルムはエクタクロームやコダクローム(ともにコダック社製)だった。高価なフィルムだったため、ぼくはせっせとアルバイトに精を出したものだ。半世紀以上も前の、懐かしい思い出である。

 デジタルとは異なり、フィルムは1枚撮るごとに、タクシーの料金メーターが上がる時のように「カチッ」という音が(昔のタクシーはそうだった)頭のなかで容赦なく響いたものだ。だが今思うと、これは精神衛生上とても害悪をもたらすものなのだが、当時はそれが当たり前の時代でもあったので、致し方のないこととの諦観めいたものがあった。「それが嫌なら写真などにかまけるな」というわけである。「写真を無造作に撮るな。一発で決めろ」との仰せに、意を決して撮ったものだ。

 今ぼくらはデジタルの恩恵に浴し、何枚撮っても料金メーターの音に怯えることなく、シャッターを心ゆくまで切ることができる。何と良い時代になったことか。だが、このことは必ずしも良い写真を保証するものではないことは、言わずもがなである。とはいえ、枚数を稼ぐことができれば、確率も上がる。これはデジタルの最大の恩恵であろう。そのありがたさに神経が麻痺し、時に乱雑さや不用心という悪魔が顔を出す。安易さは技を滅ぼす元凶である。

 美しい紅葉を実際この目で見ることは、ぼくだって人の子、心を揺さぶられたり、感動を呼び覚まされたりする。だが、20代半ばを過ぎて、それを写真に収めようという気にはどうしてもなれなかった。何故かといえば、乱暴な言い方だが、ぼくが撮る必然性を感じないからであり、写真として面白くも何ともないからだろう。つまり、ぼくにとって紅葉写真は、自己のアイデンティティを示すものとは遠い距離にある。
 絵はがき然としたものをぼくが撮る必要など感じていないからだろう。「誰が撮っても、似たり寄ったり」だと思っている。ぼく自身の、 “たわいない日々の発見” に於ける真実を大切にしたいし、それを自己表現として写真に表すことのほうに、より恐れと魅力を感じる。極論すれば、ぼくにとっての風景写真は、A. アダムス(アンセル。米国。1902~1984年)が最初にして最後である。

 “たわいのない日々の発見” とは、大上段に振りかぶっていえば、親鸞聖人の著『教行信証』(きょうぎょうしんしょう。浄土真宗の根本聖典)にある「聞きがたくして すでに聞くことを得たり」ということになるのだろうか。その意味を、亡父が30分ほどかけて解説してくれた。その記憶をたぐり寄せると、「日常生活に於いて、人は多くのものに出会い、見聞しているが、そのなかから心の拠りどころとなる真実を見出すことは、なかなか困難であり、それを阻んでいるのは自らの邪険であることを悟った」ということになる。
 自身にとっての真実を写し取ることに、写真の醍醐味があるとぼくは思っている。

 こんなことをさらに論じると、標題の「浦和 vs.大宮」が吹っ飛んでしまう。紅葉ついでにいうと、浦和でも大宮でも、残念ながら、ぼくがかつて他所で目にした見事な紅葉は見られない。せいぜい、黄色と化した銀杏が関の山だが、これは浦和や大宮に責任があるわけではなく、気候条件がそれにそぐわないからであり、ないものねだりをする自分が愚かなだけだ。
 紅葉の欠如は、だが、季節を感じさせる風情に乏しいという言い方はできる。どうあってもぼくは浦和や大宮を貶めたいというわけではないのだが、情趣に乏しいというのは事実なのではないかと感じている。
 この言い分が、京都人の性根に基づくものなのかどうかは判然としないが、だがどこか心の奥底に、京都人の “澱” (おり)のようなものが、ドロドロとへばり付いているとの自覚はある。機があれば、それについても論じてみたい。

 先日、撮影のために大宮の繁華街を何十年ぶりかで徘徊し、かつて大宮在住の友人と足しげく通ったことのある大衆居酒屋が未だ健在であることに、胸を撫で下ろした。ここの名代(なだい。評判の高いこと)は、もつ煮込みで、何と170円。良き昭和を彷彿とさせるその店で、ぼくらは大宮競輪で外れ券を引き、ヤケ酒を飲む気の毒なおっさんたちとよく杯(さかずき)を交わしたものだ。ここの雰囲気や佇まいや、そこに集う捻り鉢巻きのおっさんたちが焼酎を煽りながらヤケを晴らす光景は、なかなかに文学的である。
 作家の石川淳と吉田健一がことさら好きな友人は、ぼくとも文学的嗜好が合致し、取り留めのない文学論に興じていた。この大衆居酒屋はそんな風景がお似合いだった。今ぼくは、文学について(写真についても)誰かと論じ合おうとは思わないが、当時はやはり競輪のおっさんたちと同様に血気というものがあったのだろう。
 彼は50代にして病に倒れてしまったが、その店は彼との良き交わりの場でもあり、懐かしさが込み上げてきた。ぼくと仲の良い友人たちは、何故か皆、急ぎたがるのである。同輩の死は、本当に堪える。

 大宮駅東口ロータリーから南に入ると、 “南銀” と称する怪しげな佇まいが広がっている。幸か不幸か、浦和にはこのような気配を感じるところはない。
 大宮のこの辺りは、今は知らないが、昔は通りを1本隔てたところに、旧中山道が通っており、夜になると如何にもそれらしい黒塗りの車が列を成していた。したがって “南銀” に行ったことはなかったのだが、先日はまだ日暮れ前だったので、好奇の目を持って、被写体を渉猟した。今回はその界隈での2カットである。親鸞聖人とはほど遠いわ。

https://www.amatias.com/bbs/30/714.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市大宮。

★「01さいたま市」
目にマスクをした外国人従業員。7,8m手前で彼らを見つけ、カメラの撮影モードをFVにし、シャッタースピードと絞り、焦点距離を固定し、ISOはカメラにお任せ。歩を止めることなく、切り取った。何年ぶりかの街中人物スナップ。
絞りf7.1、1/200秒、ISO 8000、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
これも反射的にいただく。どんなシチュエーションだったか、ほとんど思い出せず。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 500、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2024/11/01(金)
第713回:浦和 vs.大宮(1)
 本稿掲載のための写真が尽きてしまったので、これはいかんと、さいたま市大宮(2001年、政令指定都市となる以前は大宮市)へ用事がてらカメラをぶら下げて出かけた。大宮駅は、我が家の最寄り駅である北浦和駅から京浜東北線の3駅目で、直線距離にして僅か4 kmほどである。
 しかし、大宮はぼくにとって常に通過地であり、改めてこの地の繁華街を歩いたのは何年ぶりのことだろうか。近くにありながら、ぼくは大宮という地に共感を覚えたことは、残念ながら子供時分から一度もない。どちらかというと、気に染まぬ地であり、苦手意識のほうが強い。

 では何故、わざわざ大宮で撮影を試みようという気になったのかというと、浦和より猥雑さと商業的多面性を有していたからだった。そのほうが、写真を撮る身としては感覚を煽られるものがある。つまり、フォトジェニックなものに出会える可能性があると感じたからだった。浦和については後述するが、写真ネタとしては、大宮のほうにずっと興味をそそられたからだろう。
 県庁所在地の浦和と比べれば、大宮はいくら新幹線や多くの在来線、そして私鉄までもが乗り入れ、東京以北最大のターミナル駅とはいえ、ぼくにしてみればやはり「僻地」の感を拭えない。大宮とはぼくにとってそんな所だ。どうみても浦和より「ダサイ」のだ。「ダさいたま」とは、まさに大宮に象徴されるような気がしている。

 元々、さいたま出身でないよそ者のぼくがいうのだから、よく話題に出る「浦和vs.大宮」の論争については、ある程度の客観性があると思っている。
 大宮の人間は浦和に対して、対抗心や敵対意識を持っているように感じるが、浦和の人間は、大宮に対して、大宮の人間ほどそのような気持や感情を抱いていないように思える。つまり、浦和の人間は大宮にそれほどのライバル心を持っていないとぼくは見ている。それについては、浦和や大宮の友人知人と接しても感じるところだ。

 このことはどうやら、大阪と京都の人間が、首都である東京に対してどのように感じているかに似通っている。大阪の人間は、東京に対して大きなライバル心を持っているが、京都の人間はこれっぽっちも感じていないということだ。ついでにいうと、京都人間は、内心未だに日本の中心は東京ではなく京都であり、戦後といえば、大東亜戦争ではなく、応仁の乱だとする滑稽な心情を疑いもなく抱いている。冗談とも本気とも取れるようないい方を真顔でする。母方の祖父(京都生まれの京育ち)は、いつもぼくに本気でそう語っていたものだ。どうやらぼくは、祖父の邪気のない言葉にまんまと言い包(くる)まれたようだ。
 それはさて置き、京都人間は質(たち)が悪いとよく評されたり、おちょくられたりもしているが、それについては1話を要するので、機を見て筆硯を新たにしたい。

 浦和人間の心の拠り所は、ぼくの見るところ、おそらく県庁所在地であることだろう。だが、県庁所在地とはいえ、ぼくは沖縄を除くすべての都道府県を、私用、もしくは仕事で訪問している。そこでつくづく感じることは、浦和ほど貧相な県庁所在地を知らないということだ。公平を期すという意味で、思うところを率直に述べたが、しかし浦和も大宮も、どう転んでも「ちょぼちょぼ」(二者ともに変わり映えせず、大したことのないさま、という意)ではないかというのが正直な感想である。

 我が家からは、距離的にも浦和のほうがずっと近く、したがって身近にも感じ、出向く機会は大宮より多い。大宮のような「際どさ」がない点、上品だともいえるが、写真屋にとって浦和は面白味に欠ける。あくびが出ること多々あり、しかし大宮は油断ならないところがあるので、面白いのだ。
 ぼくの好奇心をくすぐる神社仏閣に関しては、大宮には「大宮氷川神社」があり、その周辺環境も好感の持てる佇まいである。以前ほど参道の趣がなくなってしまったのは残念だが、それは何処も同様だろう。また、初詣の参拝者数では、全国10位以内に数えられるとのことだ。氷川神社には大宮公園が隣接しており、この界隈だけは「際どさ」が見受けられず、神のお陰か、品位を保っている。

 その伝でいえば、浦和の神社仏閣は規模も風格も見劣りがする。強いインスピレーションを喚起させてはくれず、レンズを向けようという気になかなかさせてくれない。ファインダーを覗いても、気落ちするのが関の山。
 しかし、趣というものをどう捉えるかは個々人さまざまであり、誰もが自分の出身地には何某かの思い入れを持つことは至極当然のことである。その地の成り立ちは、自然や歴史、周辺の影響などによるところが大きく、そこで生まれ育った人には、よそ者のぼくより、より良いイメージを描き、良い写真をものにすることができるかも知れない。

 浦和はよく全国有数の文教都市だといわれるが、ぼくはそれを肌で感じたことはない。残念ながら、ネットでの謳い文句などを読んでみると、ぼくは半信半疑である。ただ、ぼくの小・中学校時を振り返ってみると、浦和市立の小・中学に通った(当時の与野市からの越境入学)ことは、ぼくに大きな利をもたらし、未だに当時の同窓生たちと密な交遊関係を保っていられるのは、とてもありがたいことだ。
 故事成語を引用すれば、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」(好機は地理的有利さに及ばず、地理的な有利さは人心のまとまりには敵わない)というところか。

 おかしなまとめ方をしてしまったが、この話、次号に続く。

https://www.amatias.com/bbs/30/713.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市大宮。

★「01さいたま市」
レトロ感溢れるビール会社のポスター。その当時のものかどうか判別不能だが、如何にも、という感じが面白かった。
絞りf8.0、1/100秒、ISO 2500、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
大栄橋を潜る夕暮れ時の薄暗い通路。そこに描かれた表現しづらい絵と通行人。絵だけでは撮影意欲が湧かず、絵になりやすい人を絡めたいと思ったところへ、運良くそれらしきご老人が横切ってくれた。ぼくの普段の心得が良いからだろう。優れたRaw現像ソフト(DxO社のもの)のお陰で、高感度ノイズも見られず、鮮鋭度も損なわれていない。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 10,000、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/10/25(金)
第712回:高校時代の思い出の地再訪
 義務教育を何とか人並みにやり過ごし、やがてぼくは高校、大学へと進学した。小・中・高・大のうち、最も無為に過ごしたのは高校時代だった。「無為」を言い換えれば、「つまらなかった」とか「環境にまったく馴染めなかった」ということになる。ついで、勉学の意欲も萎えていた。
 都内の高校に通ったことにより、凄まじくも非人道的な通勤通学のラッシュを味わうこととなった。あのうんざりするような惨状をあらかじめ知っていれば、都内の高校に入学することはなかったであろうと思う。登校時の「うんざり感」をそのまま教室に持ち込んでしまったようだった。しかし、この高校を選んだのは自分自身だったので、恨み節などいうべきでない。お門違いというものだ。

 放埒に輪をかけ気随気儘といっても過言ではない中学時代(特に3年生時)ではあったが、この3年間は、ぼくに内在する様々な気質が一番色濃く、そして顕著に表れ、目まぐるしく変化した時期であったように思う。勤勉、羞恥、怠惰、反抗期がかなり明確に色分けされた3年間でもあった。クラス替えに伴って、一年ごとに心持ちや性格が不安定に変化する、いわゆる思春期真っ只中でもあったのだろう。白髪ジジィにもそんな時代があったのだ。

 だが、「三つ子の魂百まで」というが、その諺はまったくその通りだと思っている。ほぼ間違いのないところだ。ただ、大人になるにつれ、多少の知識と知恵がつき、純一な正しさを失っていくのだが、性格や性質はほとんどの人が、大人となっても何も変わりゃしない。もし変わるとすれば、悪質な大人になる他なしとぼくはみる。例外はあるだろうが、概ね良い人間は子供の時から良い子なのである。

 年寄りになれば、誰もが姿かたちは当然の如く変化するが、本質的な性格まで変わるわけではない。同窓会などで、性格まで変貌し、かつての面影をほとんど感じさせない人をごくたまに見かける。紆余曲折があったのだろうが、ぼくはそのような人に対して、警戒心を露わにする。そんな時、ぼく自身がひねくれてしまったのだろうかと、そっと、謙虚に鑑みるのだが、どうしても自分を庇いたくなる。「おれは1,000人以上の顔と目を、穴の開くほど射るように熟視しながら、ポートレートを撮ってきたのだから、間違いなし」と自己を誘導する。その誘導は、時に自信過多となり、また自己欺瞞ともなる。

 振り返れば、ぼくの未成年期では、中学時代が最も写真に囚われていた時期だった。目の前に展開される光景や風景に憧れや夢を抱き、それを自分なりにアレンジしたのだが、どうやってもそれを写真上に再現できないもどかしさを覚えていた。頭に描いたものが、さっぱり印画紙上に表せない。それ以降、こんにちまでその儚き思いはじくじくと継続している。だから写真はやめられない。

 中学の卒業アルバムに載せられた人物評( 『みどり』という卒業時に配られた記念誌。今ぼくの手許には見つからず、拙稿のため同窓生にぼくについて書かれた部分をスマホ写真で送ってもらった)には、「クラスの横綱級の暴れん坊」とか「職員室の経験もたくさんある(悪さをして、始終叱られ職員室に立たされていたという意)」や、いささか気恥ずかしいが、「ものを忘れることもスゴイ。だけど、クラス一の人気者」とも書かれてある。ぼくはそれがいたって健全な男子中学3年生の姿であるとの確信を抱いているし、こんにちに至っても、その思いに変わりはなし。

 当時から、「今しかそのように振る舞えない」と感じていたし、「ものの分別をわきまえているかのような言辞を弄し、人物を評価しようとする、つまらぬ大人たちの世界」をしっかり予見していたガキだったのかも知れない。だがぼくは世にいう「不良」ではなかった。ぼくは「不良」を嫌悪していた。少し間の抜けた、しかも粗暴で我が強く、自分だけの世界を他人に譲ろうとは、頑なにしなかっただけのことだ。有り体にいえば、我が儘なお坊ちゃんというところか。

 さて、陰鬱な高校時代だったが、唯一の救いは理解し合える実直な友、Y君と出会えたことだった。ぼくは吹奏楽部で、彼も同じだった。楽器も同じくクラリネット。いつも優秀な成績を収める倶楽部だったが、ぼくらはいつも横道に逸れるやさぐれクラリネット吹きであった。しかしぼくらは、音楽はもちろんのこと、文学や美術にも非常な関心を寄せていた。教師の目を盗んでは、屋上で煙草を吹かしながら、音楽、文学、美術の話に花を咲かせていた。
 倶楽部の練習をさぼっては、上野の美術館や博物館での、お気に入りの催し物目がけて足しげく通っていたものだ。博覧の後、近くにある寛永寺や谷中霊園を、一端の物知り顔で、幸田露伴の『五重塔』(1644年創建。1957年、昭和32年、心中による放火で焼失。現在は基石だけが残されている)跡を歩き回ったものだ。

 霊園で特に印象深い光景だったものは、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ。第15代将軍。1837~1913年)公墓で、崩れた石壁に囲まれたここは、戦後のまま手つかずの状態で、荒廃していた。大きな石灯籠は倒れ(1960年晩秋当時)、まるで時代劇のワンシーンを思わせるような佇まいだった。あの、得も言われぬ叙情的な光景は、セピアがかり、今以て、ぼくの脳裏に深く刻まれている。
 いってみれば、まるで、黒澤 明監督の『用心棒』に描かれる、からっ風にほこり舞うようなシーンがよく似合うような光景である。この墓場を見た二人のやさぐれクラリネット吹きは、ただ無言で崩れた石塀に腰をかけ、30分近く得体の知れぬ感慨にふけり、あまつさえ感動すらしていた。あれから60年以上を経た今、その面影はなく、すっかり整理されており、ならず者の感動を呼び起こすことはなくなってしまった。

 ただ、倒れた石灯籠の宝珠(頂上にのる玉ネギ状の部分)とその下部である傘が、寛永寺の片隅に無造作に積まれていた。60年ぶりの逢瀬となったが、40歳を過ぎたばかりのころ早逝してしまったY君がそれを見たら、どのような感慨を抱くのだろうか。そんな思いを抱きながらの、晩夏の訪問だった。

https://www.amatias.com/bbs/30/712.html  

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
東京都台東区。

★「01谷中霊園」
文中、最後に触れた石灯籠の傘部分。葵のご紋。
絞りf11.0、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.67。

★「02谷中霊園」
すっかり整備された徳川慶喜公墓所。昔のイメージとはまるきり異なるので、撮影しようかどうか、迷いながら。Y君の霊も、ともに弔う。
絞りf8.0、1/80秒、ISO 100、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2024/10/18(金)
第711回:撮影の恐怖(2)
 自分を差し置いて、他人のしくじりをあたかも対岸の火事のように書いてしまったが、ぼくは決して彼らをせせら笑っているわけではない。それどころか、身につまされ、切実さも相まって、今も息が詰まるような思いだ。ぼくも、駆け出しの頃、彼らと同じように、すんでの所まで行ったのだから、とても他人事(ひとごと)で済ますようなことではない。それほど、金銭をいただいての撮影は、決して大袈裟ではなく命がかかっているということなのである。

 幸いにして、ぼくは家族を路頭に迷わすわけにはいかないとの、男の沽券に付きまとわれつつ、なけなしの根性を振り絞って、危うくもどうにか踏み止まっただけのことである。だが、親子3代にわたる、憧れの、義理人情だけには厚い無頼漢にはなり損ねてしまった。そこがちょっと悔しい。そしてまた、恐怖に打ち勝ちながら成し得た職業カメラマン、などという武勇に似た話ではまったくないのである。

 職業カメラマンを志すには異例に遅い事始めだったことは前回に述べたが、師匠はある程度のヤケクソに似た覚悟を持って、周回遅れ甚だしきぼくをアシスタント(門弟)として迎え入れたに違いない。
 予定した2年の修行期間を終え、ぼくはフリーランスとして出立する旨を伝えると、「当時、その歳から独り立ちするのはとても無理だと思い、おれのところでカメラマンとして働いてもらうつもりでいたのだが、おまえがそういうなら仕方ないな」と送り出してくれた。
 「一人前になるまではご無沙汰いたしますが、何とか恰好がついたら、挨拶に参ります」といい、ぼくはスタジオを飛び出た。無謀なぼくをアシスタントとして雇い入れ、やがては食うに困らぬよう子飼いのカメラマンとして、自分のところに囲ってやろうとの目算だったようだ。ぼくは、そんな親心を無にしたような気がし、また恩義に報いることができなかったので、それを思うとひどくへこんだ。

 へこんでばかりいられないぼくに恐怖心が襲ってきたのは、スタジオを去った直後からだった。どのような不安や恐怖心かを簡略に示すと、以下のようになる。

 クライアントの依頼に対して、彼らの希望する映像を提供できるかどうかは、当然の不安として先ず立ちはだかる事柄だが、その前段階として、貸しスタジオでの撮影で、スタジオ専属のアシスタントたち(いわゆる “スタジオさん” たち)に、ライティングを始めとする撮影次第についての的確な指示を出すことができるだろうか?
 
 明確な指示を彼らに発しなければ、撮影は失敗する。彼らは撮影結果についての責任を一切負っていない。撮影現場では、立ち会い人が何人いようが、主導権は常にカメラマンにあり、たとえ、駆け出しのカメラマンであっても、スタジオさんを始めとする関係者たちから主導者としての信頼を勝ち得なければならない。特にスタジオさんは非常に多くのカメラマンと接しているので、その力量や人力を見極める能力に長けているものだ。

 どぎまぎした態度を晒せないので、それをどう覆い隠すかに腐心しなければならず、もしかしたら役者的な才能 !? が必要かも。ぼくは、「地のまま」を貫いていたので、そのほうが良策と思えた。それは、ぼくが会社人間として組織のなかで14年間働いて得た知恵だったのだと思う。人前での背伸びはバレるものだ。また、バレないような人と仕事をしても得るものはないというのが、ぼくの持論でもある。それは今も変わらない。

 野外や屋内でのロケ現場でデザイナーや編集者などとの意思疎通を図りながら、適切な技術を駆使し、自身の描く映像を明示し、それがクライアントに受け入れられるかどうか? 
 クライアントの光学的・物理的に無理無体な注文(これはよくあること)に対して、それは理論的に敵わぬことであることを、科学的論拠に基づき、説得できるかどうか? 当時はフィルム撮影なので、特にこの点は重要事項であった。「何故、あなたの注文通りに撮影できないか」を、科学的に説明し、納得させ、そしてそれに代わる明確な良案を示さなければならない。
 現在のデジタル世界では、この光学的難点はかなり緩和されているといって良いだろう。デジタルの利点は最大限利用すべきだが、しかし、デジタルであっても、「後から何とかなる」との考えは禁物である。フィルム撮影での基本的な考え方と緊張感は、デジタルでも必要不可欠なものだ。デジタル時代にあって、フィルム育ちの人間にも「三文の徳」があるように思う。

 現場での立ち会い人に不安を抱かすような言動をどの様にして避け、それを払拭することができるか? 金銭を支払う人たちは撮影者の一挙手一投足(徒弟制度に於いて、これは特に厳しく教育され、仕込まれる。これは特筆すべきことだ)に注視しているので、ここでつまずくと、今後の仕事がもらえないことになりかねない。

 現在のぼくは、スタジオを使用した大掛かりな撮影をすることがなくなったが(興味を持てなくなったので)、比較的身軽で、単身行うことのできる撮影だけを引き受けるようになった。
 だが、現在も報酬の多少に関わらず、撮影の前日になると、恐怖心までは行かずとも、ひどく憂鬱な気分に襲われる。計算機を取り出して、この40年間にどのくらいの場数を踏んだかを算出してみたところ6,000~7,000回となった。その度にぼくは怯え続けてきたことになる。こればかりは、「慣れる」ということがない。報酬をいただくというのは、そういうことなのだろう。こんなはずではなかったのに、嗚呼、出るはため息ばかりなり。

https://www.amatias.com/bbs/30/711.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
雨のなか、夕暮れ間近の見沼田んぼを歩いてみた。詩的味わいとまでは行かないが、一条の光が射し、当初からモノクロをイメージ。
絞りf10.0、1/40秒、ISO 1000、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」

「01」から10分後、堤の下から雲が湧き上がるように現れた。
絞りf9.0、1/40秒、ISO 1250、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2024/10/11(金)
第710回:撮影の恐怖(1)
 ぼくの修業時代は2年間だったが、カメラマンを志すには異例に遅い始動だった。長年出版社で編集者を勤めた後のことであり、この世界では誰が見ても遅すぎる事始めだった。
 編集者として多くのプロ・カメラマンと仕事をしてきたので、20数年間アマチュアとして熱心に写真に取り組んできたとはいえ、プロとアマの違いは十分過ぎる程理解していた。まるで異なる世界であることをとっくに承知していた。

 知人友人を始めとするまわりの人々の「無謀」との指摘に、ぼくは、「人生、半分まで来たのだから、残りの半分は、なり振り構わず好きなことに挑戦してみよう。ダメ元なんだから」と、当時美術工芸品の撮影でよく知られた方の門を叩いた。それは、「無謀」イコール「我が儘」の仕業であった。
 ここまでの経緯を記そうとすると、何話も書き殴れるのだが、途方もないことになってしまうので、意を決して割愛。

 一番の相談相手だった父は、無謀な試みの数年前に他界しており、自身の決意に背中を押してくれる人はいなかった。既に意を決していたのだから、相談も何もあったものではないのだが、父なら反対しないとの思いがあった。そもそも、ここでいう相談とは、実は相談などという代物ではなく、自己の意志を再確認するための行為に他ならない。敢えていうならば、自分の我が儘を隅に隠し置き、「味方」や「理解者」を得たいという甘ったれた気分に過ぎないのだ。

 ぼくには、小学生低学年の坊主とまだ幼い娘がいたので、薄給の修行期間は当初より2年と決めていた。「2年以上の日延べ猶予は相成らぬ」というわけである。その期間で、写真の発注主の如何なる注文にもしっかり応えられるようなプロの技術や感覚、心構えや作法などが身に付けられなければ、長年連れ添った写真を捨て、家族のためにどのような仕事も厭わぬとの覚悟を持っていた。いくら札付きの横着者であり遊惰の徒でもあるぼくでさえも、子供の寝顔を見ると、正気に返らざるを得なかった。ぼくも何とか一人前の、人の親を演じて見せたのだった。

 どうにか2年の修行期間を終え、フリーランスの身分として、世に飛び出た。「人生は取り敢えず」との父の金言だけが頼りだった。
 ぼくを心配してくれた先輩たちが、何かと手を差し伸べてくれたことは終生忘れ得ぬ恩義となった。ただ、ぼくがかつて在籍し、お世話になった出版社への挨拶は欠かさなかったが、仕事の依頼はしていない。一丁前に、気が引けたからだろう。それが一通りの仁義であろうとも考えた。
 そうこうしながら、ぼくは、危うい足取りながらも、巣穴からおずおずと這い出たのだった。その時の不安と恐怖心は今以て忘れることができない。一人で狩りをし、食っていかなければならぬ未知の分野に身を投げ出したからだった。

 自身のことはさて置き(最後に述べるが)、実際に見聞きした「撮影の恐怖」に尻込みし、行方知らずとなった人たちについてお話しする。

 「もうそろそろA君(経験豊富なアシスタント)に、簡単な撮影をさせてみるか」と師匠がぼくに訊ねてきた。ぼくは答える身分にないので返答に窮したが、師匠も自身の意志決定を再確認するためなのだろうと解釈した。
 翌日、撮影を任されたA君はいつまで経っても待ち合わせ場所に現れず、時間ばかりが過ぎていく。今のように携帯電話がまだ一般的ではなかった頃で、彼の下宿先に電話をしても埒が明かず、以降彼は数日行方が分からなかった。撮影の恐怖に戦き、敵前逃亡を図ったのだ。その気持は痛いほど察知できる。だが、何のためにあの苦しくも辛い徒弟制度をくぐり抜けてきたのだろうかと、ぼくに同情心は湧かなかった。その後の彼がどうしているのか、誰も知らない。

 多忙だった師匠は、自身のスタジオにもう一人カメラマンを必要としていた。そこで、大手広告代理店の写真部に勤務する一人のカメラマンを誘い入れ、彼は我々の仲間に加わった。鳴り物入りでやってきた彼だが、見るからに線が細く、神経質な人柄に見えた。社カメ(会社の写真部などのカメラマン)ではなく、やがてフリーランスになりたいがために、師匠のもとでもう一度勉強したいとのことだった。

 師匠の訓練と定法を受け、その後クライアントの見守るなか、撮影が始まったのだが、ライティングを終え、いざシャッターを切る時に、レリーズを持つ手がぶるぶると震え、にっちもさっちも行かない状況となってしまった。社カメとして、ある程度の経験と場数を踏んできたはずなのに、彼は恐怖に囚われ、震えが止まらなくなったのだ。緊張の余り、自律神経のバランスを欠いてしまったのだろう。一種の神経発作なので、急遽アシスタントのぼくがすまし顔で、代わりにシャッターを切った。ぼくはこんな時、何故か面の皮が厚くなるようだ。何食わぬ顔をして見せる自分が癪の種だ。これをして、厚貌深情(こうぼうしんじょう。容貌を厚く飾って、心の動きを深く隠しているという意)というらしい。だが、この場をクライアントの前で取り繕うにはそうする他にどんな手があるというのだ。
 気の毒な彼はこれが一因となり師匠のもとを去り、その後の消息は分からない。
 
 1話でまとめるつもりでいたのだが、下手な文章のせいで、自身のことは次号に持ち越しとなってしまった。厚貌深情なんていっている場合じゃないわ。ったぁ〜く。

https://www.amatias.com/bbs/30/710.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF16mm F2.8 STM。
石川県金沢市。

★「01金沢市」
金沢市には、どういうわけか、平行・垂直を欠いた家が多く見受けられた。建物が古いからなのか、震災のせいなのか、はたまた、そのような立て付けが好まれるからなのだろうか?
絞りf8.0、1/60秒、ISO 125、露出補正-0.67。

★「02金沢市」
浅野川にかかる中の橋。異様な空模様が面白く、何となく撮ってしまった。
絞りf9.0、1/250秒、ISO 100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2024/10/04(金)
第709回:良寛さんの教え
 かつて出版社で14年間編集者として従事したことのあるぼくは、執筆者の原稿を校正したり、手直しをすることも仕事の重要な一部だった。滞りなくそれを遂行したと思い込んでいるが、自分の原稿となるとさっぱりその経験が活かせず、どうにもきまりが悪い。自分の原稿を客観視する能力が奪われてしまうからだろう。思い込みというものは、目を曇らせ、判断力を剥(へず)る。
 「この名詞は、この動詞で受けて良いのだろうか」とか「普段、何気なく使用しているこの言葉は誤用ではないのか」、はたまた「この漢字で正しいのか」などなど辞書を片手に右往左往といったところだ。時には、ネットのお世話になることもある。それでいて、この有り様だ。この鬱屈した気分を晴らすには、ただひたすら安易な自画自賛に走ることと覚えたり。

 「自分のつくったものに対しては、誰だってそんなものさ。仕方ないよ」と慰めてはみるものの、個人のブログの類であればそれで済まされるが、拙稿は公的機関からの依頼を受けてのものなので、そうはいっておれない。
 内容はともかくも(開き直る余地が残されている)、日本語の基本的な過ちはその限りでない。なまじっか、編集者であったがための因果ともいうべきものか。その災いが、拙稿の難を成しているように思えてならない。宜(うべ)なるかな、である。

 子供時分に、亡父にいわれたことをよく思い出す。「坊主、字は下手でも良いから、丁寧に書け。字は自分の気持ちを相手に伝えるものなのだから、大切に扱え。丁寧を繰り返しているうちに、ちゃんとした字が書けるようになるものさ」といっていた。「ちゃんとした字」とは如何なるものなのかをぼくは分からなかったし、今も感覚的にしか分からない。そして、「良い字」と「悪筆」は、紙一重なのではなかろうかと思う。そして、「字」も「写真」も「文章」も、人なり、である。これは、間違いのないところだ。
 父の仰せに従い、「文章」も丁寧に。下品な言葉遣いはなるべく控えようと心がけているのだが、地がこれなので、覆いようがない。

 「毛筆遣い」(こんな言葉があるかどうか分からないが、多分ないだろう)に長けていると思い込んでいる人の字を、ぼくは良い字と感じたことは一度もない。芳名帳などに記されたそれを見て、いつもつくづくそう感じる。ひとり悦に入り、得意気にほくそ笑んでいるように見受けられる。「字」がそう語っているように思えて仕方ない。それに反して、拙く、たどたどしくも、毛筆や筆ペンで丁寧に書かれた字に、好感を抱くことのほうが遙かに多い。

 身内についていうのはおかしなことだが、子供の目にも、父の字は、達筆の域を越え、見事なものだった。その思いは大人になってからも変わらない。だが、父にいわせると、「親父の(祖父は、ぼくが生まれた時には既に亡くなっていた)の字はまったく見事なものだった。わしゃ、とても敵わん」とよくいっていた。残念ながら、祖父の書は戦争ですべて焼失し、ぼくは目にしたことがない。その埋め合わせとして、差し当たりぼくは、「良寛さん」の書を至上のものとしている。あれほど美しく、見事な書を、生涯見ることはないだろう。
 因みに、40数年前、良寛さんの生地である新潟県の出雲崎町の民宿に3泊し、良寛和尚を詣でたことがある。

 拙稿を書くにあたり、「文章も字も同じこと」と言い聞かせ、いつも父の言葉を反芻しながら、心するようにしている。とはいえ、ぼくはこの道の専門家ではないので(と、すぐに逃げを打つ)、思うこと、感じていることの半分も書くことができず、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感甚だしく、やはりこれも癌発症の一因かも知れない。
 写真屋が、世情の鬱憤を晴らすために、文章などに色気を出してはいけないのでは、と最近考えるようになった。写真集やエッセイ集に駄文を連ねてきたけれど、この良き発見は、「よもやま話」のお陰かも知れない。しかし、寸足らずの文章を自ら肯定するのも考えものだ。

 ものの本(書名は忘却)によれば、良寛さんの書は、「精神の内部にわき起こる意気や心情を吐露するもの」であり、今までの書法では自身の実相を表現できないと悟ったとの覚えがある。良寛さんはまた、「上手に見せようとするのではなく、ひとつの “点” や “線” の僅かなずれが文字の生命を奪い取る」ことを鋭敏に感知し、研鑽を積み、独自の書法を編み出したと記されていた。
 この教えは非常に含蓄に富んだものだ。良寛さんいうところの “点” や “線” を、そっくりそのまま写真に転用してもいい。撮影や補整の、ほんの僅かな差を他人に知られる(感じさせる)必要などまったくなく、自分が感じ取れればそれで良いのである。要は、細やかな神経に支えられ、それを他者のためでなく、自身のために実践できる能力を得ることが肝要であろう。

 余談だが、ぼくのよく知るデザイナー諸氏は、図版や写真、文字の位置や大きさをミリ単位で動かしながら、何時間もパソコンと格闘していた。ぼくはそれを横目にしながら、「それ、ちゃう(違う)やろ」とか「そのトリミング(コマーシャル写真は、トリミングを前提に撮影する)、あかんやろ」と茶々を入れることに勤しんでいた。まったく、いい迷惑だ。だからぼくは煙たがられる。ぼくの来社を知ると、モニターの向きを変え、見られぬようにした気弱なデザイナーもいたくらいだ。

 それはさておき、回り道をしながらも、今回ぼくがお伝えしたかったことは
「きれいな字」と「良い字」は異なる次元にあるということ。同次元に捉える人が大半であろうとぼくは察しているが、これはぼくが以前から述べてきた「きれいな写真と良い写真はまったくの別物」との考えと同じである。この違いは、以前に何度か述べたことがあるので繰り返さないが、誰が見ても「いいね!」を嫌ったところから、良寛さんの書は始まり、誠の美を得たのだった。 
 俗人たるぼくが、鬱勃たる熱に付き従うよう仕向けるには、身を滅ぼしながら、病膏肓(やまいこうこう)に入るしかないのかな。

https://www.amatias.com/bbs/30/709.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
石川県金沢市。

★「01金沢市」
曇天下、何気ない光景を何気なく撮ってみたかった。曇天の空は白飛びしやすいので、ヒストグラムを眺めながら、露出補正を決めた。
絞りf11、1/200秒、ISO 125、露出補正-1.00。

★「02金沢市」
カラオケ・バー。真ん中にあるギターにドアの取っ手が見える。これはモノクロに調色を施したが、原画は鮮やかな色彩。
絞りf11、1/100秒、ISO 500、露出補正-0.33。
(文:亀山哲郎)

2024/09/27(金)
第708回:はみ出し者
 「700回も続けていると、もう書くことに苦労するんだよねぇ。何事にもネタには限りというものがあるんやから。毎週、頭を抱えてしまうんだ」と、先日電話をくれた友人に愚痴をこぼしたところ、「君はなんだかんだいいながら、毎週あの手この手を駆使して捻り出してくるから、平気だよ。毎回そんなことをいいながら、読者をしっかり煙に巻いているじゃないか。今回だってちゃんと何かが出てくるよ。クックック」と、無責任に言い放たれた。人の気も知らず、まったくいい気なものだ。役に立たぬ友人は持つべきでない。

 「『写真よもやま話』の “写真” という言葉を取り除いてくれれば、あまり苦労はせんのよ。しかし、他に専門分野を持たないぼくから “写真” を取り上げたら、取り柄のない執拗・頑固一点張りのジジィと化してしまうしなぁ。実は写真にも、大した取り柄なんぞないし」と、本音を吐きつつ、何としてでも愚痴ってみたいぼく。そんな自分が悲しくて、身悶えするくらいだ。今、ぬたくっている最中である。

 「最近、身近に起こったことについて触れたら、まだまだ出てくるもんだって。平気平気」と友人は、何事にもおめでたいぼくに、おめでたい手助けをするんだか、困窮に追い打ちをかけるんだか分からぬようなことを次々と並べ立ててくる。この手合いが世に憚ると碌なことはないというのが、通り相場だ。
 弱っているぼくを尻目に、「他人の不幸は密の味」を愉しんでいる。このような人間は、悪因悪果であり、必ずや怨霊の祟りを受けることになる。ぼくはそれを切に願う。
 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」(親鸞聖人の『歎異抄』。因みに、この書はぼくの座右の銘)では、この場合困るのである。

 「果報は寝て待て」というが、ぼくはこの言葉を安易に信じ、原稿前夜には「なるようになるものさ」と高を括りながら、何も考えることなく安眠し、翌日パソコンを前に、のたうつのがすっかり常態化してしまった。
 今回は悔しいかな、友人の仰せに従って、最近身近に体験したことを記そうと思う。

 この2週間に、4件ばかり知人の主宰するグループ写真展を訪れた。いずれもアマチュアの写真展だが、良い写真に巡り会えて、猛暑のなかを出かけた甲斐があった。いずれのグループも指導者の色がかなり反映されたものだったと回想しているが、どのグループにも必ず一人くらいは “はみ出し者” (ぼくが勝手にそう決めつけているだけなのだが)がいるという事実がとても愉快だった。
 ぼく自身も指導者モドキとして、強いられながら同じようなことをもう20年以上させられている(受動態であることに注視していただきたい)のだが、我が倶楽部は紛うことなく全員が “はみ出し者” である。勝手三昧の彼ら故に、ぼくは写真の何かを伝える隙がなく、ひたすらに羊飼いのような役目を担うばかり。

 余談はさておき、4件のグループ展を拝見し、ここでいえることは、 “はみ出し者” が、判で押したように、クオリティの面で他を凌駕しているという事実だった。写真も、良い意味で個性的だった。
 別のいい方をすれば、フォトジェニックな眼を持ち、かつ被写体に対してどの様なイメージを抱き、それを自身のものとして印画紙上に再現しようとの熱意を持っているかが窺えた。作品からその熱が確実に伝わってきた。
 そして、被写体との距離感、つまり自身の立ち位置(足の位置)を的確に定めることができている。それが、作品のクオリティに一役も二役も買っていた。

 もちろん、 “はみ出し者” たちが指導者の意向に添っていないということではなく、「今のままで自分は良いのだろうか? より上の段階に達するために、自分はどうあるべきか?」を真摯に考えているということが、作品から垣間見えた。 “はみ出し者” には “はみ出し者” たる所以があるのだろう。
 今までぼくは、その “はみ出し者” たちの誰一人として会話をしたことがなかったのだが(いつも指導者に話しかけられるのでその余地がない)、今回その一人(以下Aさん)と話をする機会を得た。

 “はみ出し者” だけあって、Aさんの作品はオリジナリティに溢れ、掛け値なしに素晴らしいものだった。上記した “はみ出し者” のポジティブな面を、Aさんは印画紙上に具現していた。撮影も仕上げ(補整)も、欠点らしきものが見られない。「この方は根っから写真が好きで、向上心に溢れている」ことが、しっかり見て取れた。謙虚で素直であることも、Aさんの語り口や内容から、直に伝わってきて、ぼくは然もありなんと感じた。ここにその作品群をお見せできないのが残念だ。

 誤解を招くといけないので申し上げておかなければならないのだが、 “はみ出し者” である人のすべてがそうであるということではない。グループの指導者として、困ることのほうが多いのは事実。わからんちんの人たちとぼくは20年以上も、仁義なき戦いを強いられてきた。ストレスのはけ口がなく、2度も癌の宣告をされたのは必然ともいえる。
 きっと、我が倶楽部のひねくれの面々は、「 “はみ出し者” ばかりだというのであれば、あたしたちは “はみ出し者” とはならないね」と、憎まれ口を叩くことくらい、ぼくはすでにお見通しなのだが、生真面目なぼくは、屁理屈に正論で挑もうとするから、疫病を患ってしまうのだ。それに今気がついたというお粗末。屁理屈には屁理屈で返す技を見出さなければならないと思うのだが、それに邁進すると、写真も歪んだものになってしまうような気がして、躊躇せざるを得ない。生きるって、写真って、ほんに難しいもんだ。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
石川県金沢市。

★「01金沢市」
怪しげな飲み屋街に、怪しい光彩を放つ店が忽然と現れた。昭和の香り紛々たる佇まいに、「撮っても、きっと後悔する」と分かりきっていながら、思わずシャッターを押してしまった。結果もそれなりのものだ。人様に写真について語る資格などないわ。
絞りf8.0、1/30秒、ISO 800、露出補正-1.33。

★「02金沢市」
今居る場所を記録するためだけに撮った写真。そろそろ金沢写真もネタ切れか。
絞りf7.1、1/60秒、ISO 640、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)