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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/11/17(金)
第667回:秩父市三峯神社(2)
 雨天が望めないのであれば、せめて色温度の高い明け方の曇天時に行けば(実は、太陽光の色温度が最も高いのは正午近くだが)神社に漂う霊感を味わう好条件であることは知っている。そして光量の少ないこの時間帯は、ぼくの知る神社撮影にとって最も望ましいのだが、寝坊助のぼくは得意のご都合主義により、異常な早起きは、我が家に特化した家訓に従えば許されるものではない。第一、そんな早起きをしては体内時計が狂い、撮影どころではなくなってしまう。

 というわけで、片道3時間の道のりを陽の高い時刻からのそのそと出かけた。写真屋にしては見上げた心構えと心胆だと、ぼくは少し得意気だった。「辺りを睥睨(へいげい)する」というのはこういうことなのだと言い聞かせながらの遅い出立だった。現地まで3時間もかかるのだから、到着時は日暮れ時に近い頃であろうという言い訳もした。そして、明け方も日暮れ時も、薄暗いことに変わりはないと自身を庇った。まさに「我田引水」の境地である。

 神社は夕暮れ時より陽の上がる前のほうが、前述したように適切だと長年の経験則から割り出しているが、仕事でない限り、鶏のような早起きは自尊心が許さない。誠にへんてこりんな自尊心である。
 しかし、鶏のような、この世にあるまじき可愛げのない面構えで(爬虫類のほうがまだ良い)自身が撮影に臨むことは、なおさら許されることではない。鶏と同じではますます気が滅入り、撮影どころではなくなってしまう。

 ひよこは可愛いのに、成長過程のどこで入れ知恵をされたのかは知る由もないが、鶏の面構えは成長とともに醜くなっていくようだ。鶏冠(とさか)の形状や質感、色ともども、ぼくは京都での幼児体験に基づき恐怖さえ覚えるのだ。その幼児体験とは、幼児の時に鶏に突かれ、痛い思いをし、泣き叫んだことだ。それ以来、鶏には恨み骨髄なのである。
 
 老人の特質とされていることのひとつは、周りの迷惑も省みず、用もないのに夜の明けやらぬうちに鶏の雄叫びとともにむっくり起き上がることだそうだ。それが健康に良いと称する説が世に憚っている。そのことに多大な反駁心を抱いている。ぼくはよんどころなく夜明けまであれこれ用事に追われ、これでもけっこう忙しいのである。まだ老人の域には達していないし、そうありたくもない。強がりだけは健在である。

 早朝のラジオ体操に勇んで出かける同輩の謎のような料簡を知りたいくらいだ。ここだけの話だが、ぼくは、心密かにその手合いを蔑んでいる。醜い鶏と何ら変わりはないじゃないか。鶏にくらべれば、一歩足を踏み出す度に首を前につきだす滑稽な鳩のほうがまだいくらかましというものだ。異常な早起き老人は、鳩にさえ追いつかない。

 また意味不明な悪態をついていると思われるだろうが、ともあれ、ぼくにとって早起きはそれほどの苦難の行である。
 余計なことはさて置き(長すぎるじゃないか)、三峯神社は関東有数のパワースポットとのことだ。ぼくには「パワースポット」という言葉がいまいち理解できないのだが、要するに「大地のエネルギーが溢れていて、そこから癒やしや活力が得られる場所」であり、「神社仏閣などの神々が宿るところを訪れることにより御利益が期待できる神聖な場所」なのだそうである。つまり「霊験(れいげん)あらたか」な場所との意味合いにとれる。

 へそ曲がりのぼくなど、神仏の御利益より、「悩み多き人生を歩みつつも、自身の心のありようと立ち居振る舞いが先だろう」といってみたくもなる。また霊感については、「ある程度は存在するのだろうが、それよりやはり心のありようが先立つのではないか」との考えを譲る気はない。
 したがって、世にいわれる「パワースポットなるものには、まったく関心もなければ、無信心のぼくには無関係のもの」と割り切っている。

 ただ、霊感を「ひらめき」や「示唆」と捉えるのであれば、創造に無関係とはいえない。特に、芸術や科学の面で、自身の力だけでは補えられぬものや成し得ない目に見えぬ「教え」が、多分に含まれていると考えている。平たくいえば、美に対する「感応」や「憧憬」が、作品をさらなる高みに誘導・鼓吹することは往々にしてあることだ。
 本物の美を宿す作品や優れた文学は、写真にも大きな影響を与え、ぼくの些細な人生も、それらに励まされ、また学ばせてもらっている。その「学び」が結実するように、ファインダーを覗きながら「このように写ってくれ」と願を掛け、お百度を踏み、五体投地までし、シャッターを押している。聞くも涙語るも涙の物語だが、どうやら邪念と卑しさがあるようで、なかなか思うに任せない。不信心者のぼくは、利生(りしょう。仏神が人々を救済し、悟りに導くこと)を受けられずにいる。

 三峯神社の写真の多くをネットなどで拝見するが、ぼくの目にはあまりにもあっけらかんとしており、神社特有の霊気や荘厳さのようなものが感じられずにいる。ぼくの感覚が偏屈であり過ぎるのか、あるいは自己主張が強すぎるのか分からないが、良し悪し、好き嫌いは別としても、ぼくの写真は、少なくとも万人受けのする写真ではないと自覚している。長年、コマーシャル写真を撮ってきたその反動のようなものかも知れないが、私的な写真は、「ぼくがぼくであるための写真」なのだから仕方がない。
 故郷の京都で、神社仏閣を不断の遊びの場としてきた抹香臭い子供の成れの果てである。

https://www.amatias.com/bbs/30/667.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」随神門
明治時代の神仏分離令により、仁王像が撤去され、随神門となった。
絞りf9.0、1/40秒、ISO 500、露出補正-2.67。
★「02三峯神社」随神門をくぐり、拝殿にむかう参道。
絞りf6.3、1/40秒、ISO 800、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2023/11/10(金)
第666回:秩父市三峯神社(1)
 先週の11月3日金曜日は、文化の日なのだそうでお休みをいただいた。休載の合間を縫って、ぼくは雨中の撮影(とくに神社仏閣)に期待を寄せ、出かけるつもりでいた。雨を待ち望んでいたのだが、夜中にたった一度、雨の心地良い音が開け放った窓からこれ見よがしに聞こえただけで、明け方には既ににっくき晴天となり、ぼくの楽しみは失せてしまった。
 その後、連日天気予報と睨めっこをしていたのだが、関東特有の味も素っ気もないあっけらかんとした空模様に、すっかり気が沈んだ。一点の雲りもなく、晴れ上がった無表情の空というのは、写真屋にとってひどく気が滅入る。

 雨中での神社仏閣のモノクロイメージがすっかり構築されていただけに、この2週間の “屈託のない” 空模様には落胆の日々を過ごさざるを得なかった。罪深く、のっぺりとした可愛げのない関東の空にはうんざりといったところだ。 “屈託のない” という形容詞的な言葉は、ぼくのように “屈託のある” 人間にとって、ホンに忌々しい限りだ。

 石川県は金沢在住の我が倶楽部のご婦人は、目まぐるしく変化する彼の地の天候を、ここを先途と、嫌がらせの気迫を持って事細かく知らせてくる。大きなお世話というものだ。雪ダルマのような彼女曰く「今日は朝から、雨、あられ、曇り、晴、ひょうと満艦飾のようであり、天気が左様に目まぐるしく変わるのよね。近々雪だわ。美味しい蟹もそろそろ出番だしぃ」。
 「やっかましいわ!」というぼくの怨嗟の声を嬉々として聞いてやろうとの魂胆が見え見えなのである。
 ぼくに何か恨みごとでもあるかのように、斯様に雪ダルマは底意地が悪い。「見てやがれ」と、心中穏やかでないぼくは、いつどのような形で仇を討ってやろうかと、開けっぴろげの、野放図な空の下、思案の日々を送らなければならなかった。機を見て、心胆寒からしめてやるわ。

 北陸の、冬の鉛空を何度も体験しているので、ぼくは衷心より冬の北陸を羨む。彼女に、「荒波の、鉛色の、あのフォトジェニックな風景を、上手く写真に収めなさいよ。寒いなどと四の五のいっている場合じゃないぞ。写真は身を粉(こ)にしてナンボだぞ」というのが、今のぼくにできる精一杯の悪態なのである。

 だが、心優しいぼくは愛弟子である彼女に、福井県越前市にある「大瀧神社」(正式名、紙祖神 岡太神社・大瀧神社。本殿と拝殿は国の重要文化財)に、ロケハンに行ってこいと命じるつもりでいる。
 ぼくはまだ行ったことがないのだが、金沢からであれば1時間余で行ける。ぼくも来春、雪の消え去った頃、美味なる越前蕎麦を流し込みながら行こうと思っている。この神社は、やはりモノクロ仕立てで、曇天もしくは雨降りが理想であり、ぼくの妄想によれば直射光だけは御免蒙りたい被写体である。時間をかければ、良い写真が撮れそうなひしとした予感ありといったところだ。

 目鼻のないのっぺらぼうな天気に業を煮やし、ぼくは半ば自棄クソで、秩父市にある三峯神社に行ってみることにした。最近、友人や息子が出かけ、その話を聞いていたこともあってか、ならばおいらも行ってみるべぇという気になったのである。撮影に飢えていたことも大きな要因だったように思う。
 実は、30数年前に、仕事(雑誌とポスター)で二度訪れたことがあるのだが、三峯神社の残像はほとんどが風化し、水洗の不十分な印画紙のように画像はすっかりかき消えていた。仕事写真なので、神社のあれこれに感じ入っている間がなかったということもあろうが、残像の消失は、さほど感銘を受けたということでもなかったからだろうと思う。

 我が家からは、関越自動車道を通り、約3時間で三峯神社に到着した。紅葉の季節でありながらも、ウィークデイだったため駐車場は空いており、人出も思いのほかまばらだった。小さなカメラバッグをたすき掛けにし、今や健脚とはいえない頼りない歩調で階段を登った。それだけで息が上がった。標高1,100mというのは、確かに空気が薄いような気がした。

 全国的にも珍しい三ツ鳥居(「01」写真)の修繕工事が終了したばかりで、先ずそれを収めることにした。あにはからんや、立ち位置とレンズの焦点距離の塩梅、アングルの決定に、早撮りのぼくは、ない頭をフル回転させずにはいられなかった。どうすれば、より立体的に、曇天下の三ツ鳥居を浮かび上がらせることができるかに注力。たかが鳥居ではないかと自身を一喝しつつ、俳句の季語の如く、色鮮やかな紅葉の配置にも心を割いた。木々や狛犬ならぬ狼の彫像の位置(重なり具合)も、難しい。あちらを立てればこちらが立たず、という具合である。

 三峯神社は、色取り取りの彫刻がなされていて、日光東照宮同様、本来ぼくの好みではなく、彩色の施されていない神楽殿に目が向いたのだが、この神社では決して好待遇を受けているとはいい難く、だがぼくはこちらのほうに目を奪われた。
 けれど、三峯神社でのモノクロ写真は諦めざるを得ず、次回からその彩色ぶりのカラー写真を少しばかり掲載させていただくことになりそうだが、ぼくは色具合のほどを思案すると、今から頭が痛い。

 先程、折しも北陸雪ダルマからの緊急連絡が入り、「愛用レンズのオートフォーカスが壊れてしまった。どうしよう」と泣きが入った。「マニュアルフォーカスで撮ったらええやろ。それ見たことか」とぼくは何とか溜飲を下げたのだった。彼女は悪態の報いを受け、ぼくは関東の空のように、今晴れ晴れとした心境である。

https://www.amatias.com/bbs/30/666.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
埼玉県秩父市三峯神社。

★「01三峯神社」三ツ鳥居
絞りf9.0、1/50秒、ISO 2500、露出補正-1.67。
★「02三峯神社」神楽殿
絞りf5.6、1/60秒、ISO 400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2023/10/27(金)
第665回:写真に手を加える(2)最終回
 この題目について自ら思うところを余すことなく、そして心置きなく記そうとすれば、おそらく最後まで目を通す読者などいないことは明らかであり、ぼくとてどの程度まで自身の言い分を理性的に抑制するか、その “ほど” を考えると、まことに頭の痛いところだ。言いたいことを加減し、年相応に我慢することほど、ぼくにとって苦いことはない。
 
 この題目は、「勝手気まま」とか「放埒」であることに何の呵責も覚えないぼくのような質の人間にとっては、忍従と頭脳の明晰さを求められるものだ。そして、生のままに振る舞おうとすれば、明晰さに欠けるぼくなど、「多岐亡羊の嘆」(たきぼうようのたん)となることは目に見えている。述べたいことが多すぎて、どこから手を付け、どのように収拾を図り、決着をつけるかを見失い、とどのつまり路頭に迷うことは明らかである。
 「写真に手を加える」というのは、だがしかし、写真の好事家にとって極めて重要な課題でもあるので、無理を承知で述べてみたい。

 何故、1枚の写真を何時間も、時には何日もかけて、お気に入りの写真に仕上げようとするのか? 「写真好きを自認する人たち」の何%くらいが、お仕着せの画像ソフト(無料のものやカメラ内蔵プリセットやそれに類するものなど)ではなく、暗室道具として優れた機能を有したものを使用しているのか、ぼくには皆目見当がつかないのだが、おそらく1割にも満たないのではないだろうかと推察する。欲目というか大目に見積もっても1割強といったところか? どなたか、統計的な数字をご存じであれば教えていただきたい。
 世界的に名を知られる画像ソフト、たとえばAdobe社の Photoshop (ぼくの主要ソフトのひとつ)なども、やはり使用者は限られているのだろう。

 何故暗室作業を必要とするかは過去、婉曲的に、もしくは直接的に、何度か触れた。大切なことなのでもう一度大雑把に記しておこう。

 被写体を発見し、それを写真に収めようとする時、撮影者には感動する何かが生じたからであろう。それが、撮影の動機となる。その感動が、撮ったままの写真と合致しているのであれば、つまりそこに齟齬がなければ、面倒もなく、煩うこともなく、仕合わせ一杯なのだが、記念・記録写真でない限り、なかなかそうはいかない。
 撮ったままの写真が、描いたイメージそのものであれば、暗室作業を必要とせず、そんな良いことはない。だがそれは奇跡に近い。少なくとも、ぼくは、65年の写真生活のうち、小学校時代を除いて、一度たりとも撮りっぱなしの写真で満足のいくものはなかった。懇意にしていた写真屋の大将に、いつも無理難題の注文を押しつけたものだ。この大将は、優れた暗室技術を誇っていた。もちろん当時はモノクロだったが、彼の焼く印画はどこか艶っぽかった。

 だが、ぼくばかりでなく、写真に一途な愛好家は、年齢に関わらず写真の奥深さを知るにつれ、描くイメージと洞察が豊かになり、撮ったままの写真は、心に描いた幻影や心象にくらべ訴求力が弱いことに気づき始める。物足りなさを感じるのである。
 繰り返すが、被写体に向き合った時、心に描いた情景・心象・印象・情感、延いては人生観や死生観などを表現しようとした時、素の写真は、映像としての再現力がどうしても弱いことに気づく。そして、撮った写真の質を暗室作業で上げることはできないという事実をも、同時に知ることになる。
 暗室作業にどれほど長けても、写真の質そのものを上げることはできないということだ。いくら料理の腕が良くても、食材の質を上げられるわけではない。写真の質は、シャッターを押した瞬間に決定される。この冷厳たる事実に、真面目で気の弱いぼくのような愛好家は打ちのめされてしまうのだ。

 暗室作業は、良い素材を、如何に美味しい料理に仕上げるかに似ている。写真は、素材と料理の腕前、その両輪あってこその創造物であり、自己表現でもある。
 このことは、前号で述べた「画像ソフトを駆使しても、元(原画)が駄目なものは、いくら補整をしても格好がつかない」と同義である。

 名人でも達人でもないぼくは、写真に託した夢を得る(描く)ために、フィルムであれ、デジタルであれ、暗室作業やむなしということになる。
 前号で、「ぼくは、補整はするが、加工は良しとしない」旨述べた。ぼくにとって「補整」とは、基本的に、明度(シャドウやハイライトの調整を含む)、コントラスト、色相・彩度、明瞭度の調整であり、画像に、本来そこにない何かを付け足したり、削除したりすることはしない。ぼくはそれを「加工」と呼ぶことにしている。他人が加工を施すことに対して拒否はしないが、それは分野が異なる(他のアート)のではないかと、写真旧人のぼくは捉えている

 個人の創作のあり方について、事細かに茶々を入れるようなことは慎むべきだが、結果オーライは、創作の世界にあるはずのないことだ。偶然に良い写真が撮れるなどということは決してないと常に断言している。
 そして、「加工」を施さなくてはならない時点で、既にそれはぼくにとって失敗作だと、自身への戒めを込め、そのように考えることにしている。ぼくは、歩みはのろくとも地道な信念を大切にしたい。「うさぎよりかめのほうが早い」とは、昔からの習わしである。

https://www.amatias.com/bbs/30/665.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F1.8 Macro IS STM 。RF50mm F1.8 STM。
茨城県結城市。

★「01結城市」
店先の土間に置かれた自転車をガラス越しに。観葉植物の見え方と自転車の色に気を配って。
絞りf10.0、1/25秒、ISO 400、露出補正-1.00。
★「02結城市」
布地の大きな鯉のぼりが、窓ガラスに貼り付けてあった。
絞りf8.0、1/50秒、ISO 400、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2023/10/20(金)
第664回:写真に手を加える(1)
 雨の似合いそうな神社を静岡県内に見つけ、撮影は、機を見て敏なりと勇んでいたのだが、生憎その機に恵まれず、なかなか遂げることができないでいる。その神社を、雨の降りしきるなか、モノクロ写真のイメージを描き、忠実(まめ)やかながらに、ぼくの頭のなかですっかりでき上がっているのだが、ホンに人生と天気はままならない。

 描いたイメージを一丁前の写真に仕上げるには、相当な技術と感覚が必要なことは重々知るところだが、しっかり撮ることができれば(原画を)、一筋の光明を見出せるのではないかとの期待を寄せていた。よしんばそれが叶わなくても、良い勉強になることは疑う余地がない。
 今は、悪天候を望むばかりだ。「天高く馬肥ゆる秋」(ここでは、この言葉の由来である秋を恐れる意味ではなく、現在の秋の素晴らしさを指す意味で)など嬉しくない。近年、無念ながら「秋の長雨」も縁遠くなったように感じている。

 余談だが、上記の「ホンに」をぼくは抵抗感なく普段から使っているのだが、聞くところによるとそれは京言葉なのだそうだ。意味は、「本当に。まことに。なるほど」であり、ぼくの心情にすっぽりはまっている。
 大辞泉によると、この言葉は、鳥取弁でも、下北弁(青森県下北半島)でもあるらしいのだが、京言葉での解釈は「口ほどに本当でない表現」と、日本語としてかなり厄介な言い回しで表記されている。「辞書がこれでは困るだろう」と、思わず口を衝いて出る。
 九州生まれの父は普段から、「わしゃ、ホンにのさんとよ」が口癖だったが、これは京言葉と九州南部言葉と佐賀弁の混合物なのだろう。ぼくにはこのニュアンスは良く飲み込めるのだが、標準語に訳せといわれれば、なかなか敵うものではない。豊かなニュアンスを持つ方言を、標準語に訳すのは不可能に近いとぼくは感じている。嗚呼、本題からどんどん外れていく。

 前号と前々号に登場してもらった「大谷資料館」に於けるご婦人のひとりは、我が倶楽部創設以来の大古参メンバーで(つまり写真歴20年)、それ以前はカメラなど持ったこともなく、故に写真もほとんど撮ったことのない人だった。つまり、写真というものにまるきり関心がなかったのである。
 彼女は気が多く、かつて書道をはじめ、絵画、料理、生け花、英会話教室にも通う、どちらかというと節操に欠けるきらいがあった。しかし、書道以外はどれも長続きせず、写真も斯くやあらんとぼくは思っていた。彼女が20年間、熱心な振りをしながらも、写真を捨て切れずにいたのは、きっと指導者もどきに徳があったからに違いない。そして、月例会後に欠かさず催される飲み会のためだと思われる。「花より団子」を地で行くような人だ。

 倶楽部に参入するまでの彼女は、写真は撮ったままで、手を加えてはいけないと思い込んでいた。古今東西の名作といわれるものは、すべて撮ったままのものと信じていたのだそうだ。素のものが、畢竟写真であると、知らずのうちに洗脳されていたのである。そのように思う人も世の中に多いのではないかと思う。
 ぼくは彼女に、「カメラで記録され、手を加えられていないものだけが即ち写真であるとするのであれば、モノクロ写真をどう解釈する? 世のありとあらゆるものすべてに色がついているのに、それを白と黒で表現するモノクロ写真とは何かということになるよね。
 目で見たものと写真の原画だって著しく異なるでしょ。写真は、見た目通りには写らないものだ。そして、カメラやレンズが異なれば、それぞれに違ったものが撮影者に提供される。写真は、素のままであれ、手を加えたものであれ、あくまで虚構の世界なんだよ。『写真は、真を写さない』のがぼくの持論でもあるしね」と述べた。

 彼女は、ぼくの「ではモノクロ写真は」云々に、「あの説明で、すっかり腑に落ちた」と、20年前を懐かしむように今でも語っている。彼女は写真に手を加えるようになってから、「撮ったままの写真で納得できるものなど、今まで1枚もない」と喝破し、非常な成長を誇らしげにしている。今はぼくの正しい洗脳が功を奏したようだ。結構なこととぼくはほくそ笑んでいる。
 そのことにより、写真表現の幅が広がり、それが被写体の発見や観察眼にも大きく寄与し、彼女の写真は良い意味で個性を発揮するようになってきた。そしてこの数年、「画像ソフトを駆使しても、元(原画)が駄目なものは、いくら補整をしても格好がつかない」という段階にまで漕ぎ着けたようだ。ぼくは、ほくそ笑むのを通り越して、「しめしめ」というところだ。先ず、如何に質の良い写真を撮るかに目覚めたことは、大変な収穫である。

 悪役に甘んじている前号に述べた写真歴の長いTさんも(彼は高校時代から天体写真に凝っていた)、倶楽部に来るまでは、「写真はいじってはいけないものと思い込んでいました」と悪びれる様子などさらさらなく、語っていた。ぼくが、「いじっていいんだよ」と伝えた瞬間から、どこかからPhotoshopをちゃっかりかすめ取ってきて(当時バージョン7まで、Photoshopのディスクをコピーし、そこに記載されたシリアルナンバーをパソコンに打ち込めば使用できた)、これ幸いと自分の写真を嬉々としていじり始めた。いじり過ぎと乱暴な仕業(建築家のくせに)により、写真展前のデータ点検で、大変な苦労をしたことを、ぼくもこれ幸いと、ここで公にしておかなければ気が済まない。
 だが彼は、Photoshopを使用して以来、写真を補整することとは切っても切れない間柄になっている。昨今は、オリジナリティに富む作品を生み出している。

 今回記載したことは、あくまで「画像補整」(Photo retouching)についてであり、俗にいうところの「加工」(Photo processing)ではない。この違いは私見としてかなり以前に述べたことがある。
 ぼくは、補整はするが、加工は良しとしない。ファインダーを覗いてみると夾雑物(例えば、電線など削除したいものはあるが)が存在することがままあるが、それも写真の仲間として取り込んでしまおうと、ちょうど良いアングルを探し求めることに腐心する。心意気は見上げたものだが、そういっておきながら、これが難しいんだよねぇ。

※ 今回は同じ写真を、これだけ世界が異なることをお伝えしたいために、モノクロとカラーの双方を同時掲載した。

https://www.amatias.com/bbs/30/664.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF50mm F1.8 STM。
茨城県結城市。

★「01結城市」★「02結城市」
絞りf5.6、1/50秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2023/10/13(金)
第663回:大谷資料館(2)最終回
 「大谷資料館」の滞在時間は1時間15分ほどだった。ぼくにとって撮影時間は極めて短時間だったが、写真的な発見という意味で、「大谷資料館」はそれで十分だったと感じている。
 撮影枚数も約150枚と多めだったが、暗所に於ける外光の入射は写真の再現濃度を超えており(写真の再現出来る明暗比は1 : 200。人間の目は1 : 20,000と大きな開きがある)、できるだけハイライトを飛ばさぬような露出補正を心がけ、そのための調整が極めて難しく、何枚か露出を変えて撮る必要があった。ただし、後述するヒストグラム(ファインダーやモニタでヒストグラムの見えるカメラ)は、この厄介な現象を最小限にする有力な武器である。

 ハイライトの露出を優先すれば、シャドウが潰れるが、ここがデジタルの強みで、後の暗室作業で、潰れたと見えるシャドウが再現できる可能性が高い。フィルムはこの逆。ここがデジタルとフィルムの大きな違いだ。
 シャドウを完全に潰さず、ハイライトも飛ばさずという欲張った露出加減のために、段階露光を用いるのが最良の方法。それがカット数の増えた一因でもあった。加え、暗所のために、ファインダーの隅々が見えにくく、アングルを少しずつずらしながら何枚か撮っておく必要に迫られたことも一因だった。

 第一の目的は見学ではなく(興味はあるが)撮影なのだが、同時に、同伴したふたりの手強いご婦人方が撮影に難儀した時のお助けマン、つまり下僕を兼ねての撮影行だった。足元の不案内な暗所で、転びはしないかとぼくはふたりのご婦人方に気を配っていたが、彼女たちは、そんなぼくの心中などまったく意に介さず、「大きなお世話。あ〜たこそ気をつけなさいよ」といわんばかりだった。彼女たちは、我が庭を闊歩するように、大胆不敵に振る舞っていた。「親の心子知らず」である。ぼくの心配など、どこ吹く風といった様子だった。

 入館前に、写真を始めて2年目、新しいカメラ(EOS - R 7)を購入してからまだ間もないこわ〜いご婦人に、カメラの設定などを指示しただけで、彼女は館内では何不自由なく、 “怖い物知らず” を地で行くように、下僕に出る隙を一片も与えず、平然と撮影に挑んでおられた。「ここで借りを作ってしまっては、今後の上下関係に差し障りが出るので、意地でもあたしはあんたなんかにおせ〜てもらわないかんね」との意気込みが、全身から湯気のようにゆらゆらと、時にはめらめらと立ちのぼっていたのである。ぼくはこれ幸いと、自分の撮影に集中できそうなものだが、優男(やさおとこ)のぼくはあれこれと気を揉み、撮影に本腰を入れるとまでは、なかなかいかなかった。気配りのかめやまは、やはり前号に述べたが如く「ホンに心(しん)が疲れる」のだった。

 もう一方(ひとかた)のご婦人は、写真歴20年なのだが、長きにわたり写真に熱心に取り組んでいる振りをするのが実に巧妙で、人の良いぼくなどいつもこの手のだまし討ちに遭っている。なんとか一丁前の写真を撮れるようになってきたかなぁと思いきや、2ヶ月に一度は必ずぼくに「スカタン、ドジ、マヌケ、デベソ」と罵倒されるのだが、やはりこの方も、素知らぬ風を装い、超太っ腹のご婦人だ。彼女の常軌を逸する武勇伝は枚挙に暇(いとま)がないほど膨大なもので、いつかバラしてやろうと思っている。
 前号で登場願った建築家のTさんは、我が倶楽部で一番口が悪いのだが、その彼でさえ、「実際、彼女の腹回りは太いですよねぇ」と陰で囁きながらも、正面切っていう勇気はないらしい。やはり怖いのだ。ぼくと彼は、この伝、同病相憐れむといったところだ。

 ぼくの直感に違わず、ここでの撮影は苦渋・苦悶の連続だった。「自分らしい写真」を撮ることは大変むずかしく思えた。博物館の展示品を撮るに似ている。したがって、新たな発見も、イメージを描くことも、かなり難儀した。
 他の入館者は例外なく、スマホを掲げ、何のためらいもなく、どのような被写体にも雑念なく撮っている様子がありありと見て取れたが、なまじ自在に操れるカメラ持参をしたばかりに、かえって苦労するということもあるようだ。スマホ専門の人たちはどの様に撮るのだろうかと、ぼくは首を傾げっぱなしだった。翌日、首筋の感覚がおかしかったのはこのせいだったのだろう。

 スマホも一眼レフも、比較すると遜色ない出来映えだと公言しているプロのカメラマンもいるが、人の考え方や観点は様々なので、そう思える人は幸運に恵まれている。
 ぼくはとてもじゃないが、そのような考えは持てない。スマホの画質が、一眼レフ(ミラーレス一眼も含む)に太刀打ちできるのであれば、後期高齢者のぼくはとっくにスマホに切り替え、嬉々としているに違いない。だが、スマホの画質には我慢がならないのだ。
 そしてまた、写真に対峙する精神性(姿勢をも含めて)を最重要視するとの考えからも、ぼくは作品づくりにスマホを重視することはない。「写真は撮影機材に依拠しない」と、過去何度か述べたことがあるが、それは精神性あってのことと解釈してもらえばいいと考えている。また、被写界深度が調整できないことはぼくにとって致命的なことでもある。
 アンセル・アダムスの言葉を引用すれば、「ネガは楽譜であり、プリントは演奏である」は言い得て妙だが、音楽はこの双方あってこそ聴衆は感動するのである。

 太っ腹のご婦人は、EOS - R 7を手にしてから1年余りだが、このカメラの、至れり尽くせりの機能のほとんどを勇敢にも破棄(実は使いこなせていない)していると思えるほど、しばしばスカタンぶりを発揮しているのだが、ファインダーに表示することのできるヒストグラム(ぼくのR6 IIにも勿論付属している)を見ながら露出補正をしたと、上目遣いで言い張っておられる。多分、いつものように、その振りをしているのだろう。だが、「大谷資料館」の良い写真を見せてくれたので、多少はカメラの扱いにも慣れてきたように思うが、油断は禁物だ。

 ここでの撮影で気になるのは、暗所のためのISOだ。ぼくにとっては、あまりの高感度になってしまうのだが、最近のカメラと良い画像ソフトを使用すれば、目障りなノイズ(偽色)を大変上手に料理してくれる。特に最新のノイズリダクション(ノイズ軽減)の出来映えは、優れた能力を示してくれるので、高感度使用も抵抗感が薄れてきた。同時に、シャッタスピードも融通が利き、そのことはついでに、大敵であるブレを防ぐという御利益にも与れる。

 暗所撮影に於ける技術的な話は、まだまだ先があるのだが、ここで留めておこう。出し惜しみをするわけではないが、文字数が多くなり過ぎてしまう。そんなことをしたら、読者諸兄はげっぷをしても足らず、ガス溜まりの太っ腹になってしまうだろう。

https://www.amatias.com/bbs/30/663.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
栃木県宇都宮市。

★「01大谷資料館」
3箇所ほど外光の射す場所があるのだが、それは採掘作業者が自分の位置を知るために開けたものだとのこと。光線が内部湿度のため揺らぎ、湯気のように見えた。
絞りf9.0、1/6秒、ISO 640、露出補正-1.33。
★「02大谷資料館」
よくある、ありきたりの表現だ。手ブレの実験。1/2秒でも気合いを入れればブレないことの証明。
絞りf5.0、1/2秒、ISO 400、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/10/06(金)
第662回:大谷資料館(1)
 「暑さ寒さも彼岸まで」とは古人(いにしえびと)からの言い習わしだが、確かにうまいことをいったものだと感心している。振り返れば、ぼくの人生の大半はまったくその通りだった。
 だがここ10年近く、特に今年の、気の狂いそうな尋常でない暑さは、このありがたい慣用句に相反していた。「そうはいくか」とお天道様は嬉しそうに、しかし意地悪く異常気象をもたらし、ぼくらに大きな試練を与えようとした。 “試練” という言葉が適切かどうかは分からないが、この異常な暑さは、生あるものすべてを苦しめたに違いない。武漢コロナが少しばかり平穏をもたらした矢先のことだったので(異論はあるだろうが)、世間の耳目はもっぱらこの異常気象に引っ張られた。

 だが、彼岸から約10日遅れで、日本人古来の四季に対する繊細で鋭敏な感覚によるこの慣用句が、どうにか約束を反故にせず、取り付けてくれた。特に暑さに弱いぼくには嬉しい限りだ。この4,5日はエアコンなしに過ごせる心地良さを味わっている。
 過ごしやすくなったことにより、謳い文句である「撮影に出かけたいけれど、この猛暑では心身共に障害を来してしまいそうなので、今しばらく野外での撮影は控える」との大義名分を失ってしまった。ぼくは、身の置きどころのないところに追いやられるような感覚を持ち始めた。
 愚図で一文不知、しかもなまくらなぼくには、どうにも都合の悪い季節到来である。皮肉を込めていうのだが、ありがたいことに、良心のお咎めを受ける日々が来年の夏まで続きそうである。これを “ありがた迷惑” と、日本語ではいうらしい。反面、 “おためごかし” ともいうらしい。

 5月の頃だったか、我が倶楽部の勉強会で、「久しぶりに撮影会でも催そうか」との話が出、ぼくは、「以前から『大谷資料館』(栃木県宇都宮市)に行ってみたいと思っているんだが。調べてみたら現在館内温度は8℃とのことだ。みんなで行ってみるか」と具申した。具申というより、 “そそのかし” といったほうがいいかも知れない。
 言葉だけはいつも一丁前の面々は、「それもいいね」といったきり、時間だけが無情に過ぎていった。いつものことだ。他の倶楽部は知らないが、誰かが重い尻を「やっこらさ」と持ち上げてやらないと、決して自ら動こうとしないのが、この倶楽部の実情である。ぼくは、ホンに心(しん)が疲れる。

 だがしかし、倶楽部のひとりがちゃっかり抜け駆けをして、9月の勉強会に鼻を膨らませながら、「大谷資料館」で撮った写真をすまし顔で持って来たのである。あまり質(たち)の良くない彼によると、猛暑の8月に車を飛ばして行ってきたとのことだった。「館内は12℃だったけれど、動いているので寒さは感じなかった。ただ、暗いのでオートフォーカスが使いにくく、ぼくはマニュアルに切り替えたくらいだ」と、ちゃらっといってのけた。
 ぼくは彼の写真を見て、「やっぱり彼もこれ以上は撮れなかったのだ」と実感した。というのも、「大谷資料館」の情報をあれこれネットで調べていくうちに、この場で「自身のアイデンティティを示すような写真」は、非常に撮りにくいに違いないとの思いを描いていたからだった。

 「独自の写真を撮る」という好ましい写真のありようの、その入口にさしかかっている彼にして「大谷資料館」は、やはり非常に自身を表現しにくい被写体であったと見える。「大谷資料館」に関するいろいろな写真を見る限り、ぼくが撮っても大同小異がいいところだろうと感じていた。ましてや彼は建築のエキスパートであるだけに、なおさらの感があった。
 そんな感想を抱きながらの、手強い「大谷資料館」行きだった。

 「撮影会」というお題目は今回掲げずに、日程の合う人だけで決行してしまおうということになった。9月26日(火)、暑さの和らぎ始めた日に、ふたりのご婦人(ひとりは写真歴20年、もうひとりは2年の事始めの人)を伴っての大谷行となった。「撮影は独りでするもの」との持論は今回度外視して、暗闇のなかでどの様にして撮るかを試行してもらうのも良い勉強になると、ぼくは考えを切り替えた。

 この日は夏休みも終わっており、ウィークデイということもあって、入館者も少ないであろうし、ぼくの天敵で大の苦手である子供のわめき声も聞こえてこないだろうと推察した。あの気のぼせを催す子供たちたちの甲高い集団わめき声は、ぼくの神経を逆撫でし、とてもこの世のものとは思えない。かといって野獣のように咆哮するあの連中を張り飛ばすわけにもいかず、あれは拷問にひたすら耐え抜くに等しい。打ち首にしてやりたい衝動に駆られるくらいだ。
 柔和なぼくが、この世で石を投げつけたくなるほど嫌なものは、前述の子供のわめき声と猿くらいのものだ。

 館内は抜け駆けをした建築家T氏が体験した12℃と変わらず、大変心地良かった。外気との温度差も猛暑時とは異なり、退館も億劫ではなさそうに思えた。
 地下採掘場跡そのものは興味深いものだったが、はて写真となると誰が撮っても似たり寄ったりのものであろうとのぼくの直感は当たっていた。イメージする能力に劣るとの思いはあるものの、それを棚に上げても、ここで独自の映像を撮るには、T氏同様にかなり困難であることは否めない。

 同行したご婦人のひとりが、歌を詠むが如く淀みなく「Tさんはオートフォーカスが効かないなんていっていたけれど、そんなことはデンデンないわよねぇ。あたしたちのカメラ(EOS - R7)はさぁ。もしかしたら彼のカメラは、元々オートファーカスなど付いていない前時代的なものなのかもねぇ」と、抜け駆けへの腹いせもあってか、そう喝破し、互いに頷きあっていた。実(げ)に恐ろしきご婦人方であった。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
栃木県宇都宮市。

★「01大谷資料館」
館内に外光が差し込み、光線が束となり、注ぎ込んでいた。技術的な話は次号に。
絞りf9.0、1/6秒、ISO 640、露出補正-1.33。
★「02大谷資料館」
採石時に刻まれた跡。自身の描いたイメージに添って補整。
絞りf7.1、1/13秒、ISO 2500、露出補正-1.00

(文:亀山哲郎)

2023/09/29(金)
第661回:飛騨金山町(7)最終回
 3泊4日の短い旅の話は今回を含めて14話で打ち切ろうと思っている。まだ書き足りないことがたくさんあり、未練たっぷりなのだが、写真ネタ(鉄砲の弾)には限りがあるので、やむを得ずといったところだ。
 文章については、旅を回想しながら、頭の中に渦巻いていることを記述する余力(題材)はまだあるのだが、写真は過ぎた時間を取り戻すことはできず、再訪し撮影するしか手がない。つまり、写真は現場主義の最たるもので、そちらを本職にしてしまった辛さを味わっているが、ぼくは書くことより、写真を撮っているほうが自分の質(たち)に合っている。しかし、悔しいながらも、 “どっちつかず” ってこういう時に用いる言葉なのかなぁとも思っている。

 そして、書くことはどう足掻いても、基礎・基本がなっていないので、すぐに行き詰まってしまうことも明白だ。本職でない分、気楽といえば気楽なのだが、かといってちゃらんぽらんというわけにもいかず、いずれにせよ、拙稿は自身のブログやSNSの類ではないので、責任を担うことの辛さに変わりはない。これでも精一杯真面目に書いているつもりなのだが。

 ぼくの徘徊した飛騨街道の宿場町である金山町の「筋骨」とその周辺は、飛騨川と馬瀬川(まぜがわ)が合流した辺りで、駅から歩いて10分ほどのところだった。周りを飛騨山地に囲まれており、そのためか、ぼくの訪れた日は、晴、雨、曇りが目まぐるしく変化していた。故に、頭の切り替えも忙しく、疲労の蓄積は道理というものだ。
 関東平野の平和で穏やかなところ(どこかずんべらぼうな気候)に居を構えているぼくにとって、このような気候変化は写真人にとってはかえって嬉しく、またありがたくも感じた。同じ被写体が、様々な表情を垣間見せてくれるからだ。

 今から19年前の2004年9月に訪れた北極圏直下のソロフキ(ロシア連邦。ソロヴェツキー諸島の別称。世界文化遺産『ソロヴェツキー諸島の文化的・歴史的遺産群』。そこに1921〜1939年まで開設された世界初の強制収容所を写し取った拙写真集『北極圏のアウシュヴィッツ』、2005年ブッキング刊に詳述)を思い起こした。
 ここは極地のためか、一日のうちに、晴、雨、曇り、雹、雷が、まるで交響曲が楽章ごとに激しく調子を変えるように、雪以外の天候が間断なく襲ってくるとてもエキゾチックなツンドラ地帯だった。冬にはすべてが凍りつき、空一面にオーロラが舞うそうだが、残念ながらぼくが滞在を許可されたのは9月の8日間だけだったので見ることはできなかった。
 余談だが、当時、外国人の訪問は、世界文化遺産にも関わらず、禁じられており、ビザ取得は困難を極めた。ましてや、カメラマンなど推して知るべしである。現在、ビザの取得は旅行会社に依頼すればできるとのことだ。
 ここでの出来事は、本稿2015年の第243〜268回、「北極圏直下の孤島へ」と題して26話にわたって扱っている。

 金山町の気候変化はソロフキ以来の味わいだった。すっかり白髪頭に変化してしまったぼくではあるが、19年ぶりの 「一天にわかにかき曇る」とのロマンティックな気候現象に、何故かこそばゆくも懐かしさがこみ上げてきた。撮影中に、懐古の情に駆られることなどほとんどないぼくにして、これはあるまじきことだった。

 飛騨金山町の気候変化は、ソロフキのように気をドギマギさせるような霊気を帯びた厳しさこそないが、さいたま市の気候に慣れ親しんだぼくにとって、飛騨の山間(やまあい)にへばり付いたここの、色合いに富んだいきなりのどしゃ降りなどは、「フォトジェニック」という観点からすると撮影者にはありがたいことだった。
 そのことにより、同じところを3往復もするというのっぴきならぬ羽目に陥ってしまったのではあるけれど。これも、普段のぼくにはあるまじきことだった。なまくらなぼくには、精々2往復がいいところだ。

 一時、遊郭撮影に執心だったぼくだが(本稿にも、「京都の遊郭跡を訪ねる」と題して、2019年第439〜449回の11回にわたって扱っている)、ここ金山町にもかつては遊郭と覚しき建造物が散見された。
 今も遊郭に興味はあるが、どちらかといえば今回の旅は一点集中型を志したく、敢えて目を逸らすことにした。ただでさえ、何事に於いてもぼくは気が多く散漫な傾向があり、加え八方美人を気取る嫌な癖があることも知っている。そして一方で、岡目八目(おかめはちもく。当事者でない人が見ると、かえって物事や情勢の良し悪しが客観的に判断できるということ)ということもあるとの理屈を自身にかましておかなければと思った。かなりずる賢い奴なのだ。

 24kgの荷を背負って、ソロフキを初め、北ロシアに点在する古都を1ヶ月にわたり撮影したが、今回の3泊4日の国内旅行は、たかが数kgの荷にぼくはあごを出し、へこたれてしまった。19年間の隔たりは、人間の体力をこうも劣化させてしまうのか。ソロフキから19年経った今、写真の腕前も劣化したのだろうかと、ぼくはそんな恐怖に怯えている。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
「ひょっとして、これは遊郭?」と思っていたら、いきなり横殴りの、大粒な雨が。
絞りf11.0、1/20秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02飛騨金山町」
今回の旅のラストカット。空はすっかり晴れ上がり、一泊の予定を切り上げて駅までの商店街を歩く。カラーアスファルトとともに記念として自画像(陰)を入れる。この独善的な表現は、ぼくにしてはかなりの勇気を必要とした。
絞りf8.0、1/500秒、ISO 250、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2023/09/22(金)
第660回:飛騨金山町(6)
 今回から、旅の話はお仕舞いにして、たまには写真についてのあれこれを書くつもりでいたのだが、粘り腰に長けたぼくはまだ諦めることができず、執拗に今回も掲載させていただこうと思っている。本当は、あと2枚暗室作業が間に合わずに残っているので、次回こそを、このシリーズの最終回とすることにした。

 友人は、ぼくの文章には、多分にけんか腰の気配が窺われるという。しかし、それはとんだ誤解というもので、争いごとの嫌いなぼくがそんな挙に出るはずがない。
 いつも「百歩譲って、三歩だけ主張する」のが、ぼくの生活態度の基本である。三歩の主張がいたずらに繁衍して、毒素や腐臭を漂わせることはあるだろが、それはぼくのいいたいことを正面からではなく、斜めからしか見ようとしないからだ。したがって、ぼくの責任ではない。ただ、 “婉曲に言い表す” なんて、国家間の外交文書のような書き方はしたくないし、第一そんな芸当は持ち合わせていない。これでも、ネットという事情を顧み、かなり遠慮がちに述べているつもりだ。そこが読者対象がある程度限定できる活字文章とは異なる。

 前回の、新幹線隣席のご婦人の喰らう弁当についての記述は、友人にいわせると「かなりのもの」だったらしく、「昔から君は、辛辣なことをオブラートに包み、さらっといってのける」のだそうだ。ただそのオブラートが時に破れ、それとない苦(にが)みを知らずのうちに放っていることはあるだろう。
 ぼくに、皮肉っぽくものをいう気持はまったくないのだが、もしそうであれば、それはぼくのひねくれた性分に起因しているのだろうと思う。そしてまた、ぼくは琴線に触れた出来事やその感覚に激しく反応し、それを訴えたい気持が人様より強く増幅してしまう傾向があるからだ。

 友人の言を借りれば、「君の『ただきれいなだけの写真』」という表現も、極めてシニカル(冷笑的であるさま)かつ複雑なもの」なのだそうで、また「忌み嫌うというニュアンスがそこにはふんだんに盛り込まれている。 “きれいな” をどう定義するかにもよるだろうが、君は常々『 “きれい” と “美しい” の意味はまったく異なるものだ』といっているしね」と、彼は取調室の刑事よろしく、言及の手を緩めなかった。ぼくは素直に、「汲み取ってもらえれば、それで仕合わせ」とだけ返しておいた。

 文章をどう解釈するかは写真とよく似ており、自身の作品について自ら述べる必要性などまったくないし、それは相手方にとって大きなお世話というものだ。それを自ら進んですることは、むしろ野暮天の極みだ。ぼくは自身の写真について、巷よく見かける「題名」など、そんな不粋かつダサイものを付けたくはない。小っ恥ずかしく思うだけだ。
 「問われれば丁寧に、真摯に思うところをお答えする」姿勢があればいいわけで、礼を逸することにはならない。ただ、文章は写真より具体性があり、写真はより抽象的であるところが異なるのだが、何でも直裁に記せばいいというものでもない。

 飛騨金山町について、旅行通の坊主(息子)が1年ほど前に、「飛騨金山町というところは、昭和の佇まいが色濃く残っているらしい」と説明してくれた。彼はまだそこを訪れてはいないのだが、彼いうところの「昭和」という言葉が、昭和人間のぼくに幻影を与え、淡い望みと期待を持たせてくれた。ただ、歴史の好きな坊主は常に旅行者として様々な地の歴史探訪をすればいいのだが、ぼくは写真屋だ。漁師はボウズ(魚が1匹も釣れないこと)で帰ることはできない。飛騨の山中にあって、こんな駄洒落をいっている場合ではなかった。

 ネットなどで情報をかき集めたが、それを見る限り飛騨金山町の売りである「筋骨」にはさほどの関心を持てないのではと直感した。大漁は期待できないのではないかと思えた。「筋骨」の特異な形式、そして珍しい佇まいではあるが、それを写真に収めるにはただならぬ困難さがあるように思えた。焦点がなかなか絞れないのではないかという恐怖にも駆られていた。残念ながら、ぼくの直感は当たっていた。

 実際この地に立って、「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」という気配が感じられなかった。タクシー会社は日曜なので休みだというし。妙に観光地ずれしていないことに好感を持ったが、「筋骨」が観光の目玉になるかどうかは意見の分かれるところだろう。
 珍しさはあっても、人目を惹くような “きれいな” 景観でないことはいいとしても、さりとてどこに焦点を当てれば自身のアイデンティティを示す写真を撮ることができるのだろうかと困惑した。ぼくはそんな不安に襲われっぱなしだった。

 「フォトジェニックに」という言葉が頭のなかでぐるぐると回転していた。もちろん、この「フォトジェニックに」という意味は、他人に見せるためのものではなく、また人目を惹くためのものでもなく、自身の姿を写真上に正直に表すことができるかという一片の意味を含んでいる。
 なまくらなぼくが、同じところを行ったり来たり3往復もするのは異例のことで、それは非常事態といっても良いが、見知らぬ土地はいつもそうだったことを思い出し、唯一の慰めとした。
 来た以上、タダで帰れないのは商売人の辛いところだが、ぼくはM(マゾっ気)の傾向があるらしく、べそを作りながらも、静かな雄志を抱き、右往左往していた。

 今回掲載した写真は、ダリアと百合で、金山町である必然はない。どこにでも咲いているものだが、困惑しながら歩くぼくに、その美しい姿を一服の安らぎとして与えてくれた。この地に於けるぼくの苦悩の烙印として、取り急ぎシャッターを押してみた。

https://www.amatias.com/bbs/30/660.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM 。RF50mm F1.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
雲の間から、一条の光りが、スポットライトのようにダリアに射した瞬間。
絞りf8.0、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.67。

★「02飛騨金山町」
どの百合を撮ろうかと迷ったが、背景を考えながら、三分割法の構図を取りやすいものを選んだ。
絞りf2.0、1/100秒、ISO 200、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/09/15(金)
第659回:飛騨金山町(5)
 今回の短い旅のなかで、ぼくは常に「自分が自分であることの証」としての写真のありようについて考え続けていた。
 長年(正確には27年間)ぼくの脳裏に深く刻まれているA. ソクーロフ監督のドキュメント映画『オリエンタル・エレジー』の美しい映像に、憧れの気持を抱いてきたことはすでに記述したが、真似事をしても意味がないことも同時に述べたので、これ以上繰り返さないが、ささやかではあるがやっと今回の旅で何かのきっかけを掴んだようにも感じている。
 この旅で撮影したもののなかで、 “手応え” とまではいかないが、良いヒントを得、前進する気力を得たような気がしている。齢75にしてのことだから、この事実は上出来であり、写真の楽しみが増したようにも感じている。憧れを抱き、維持できるというのは、まことにありがたいことだ。

 自身の写真を、ぼくは決して“きれいな” 写真だとは思っていないし、むしろそれを嫌い、どちらかといえば “ばっちいなぁ” とさえ感じている。もちろんそれでいい。自身の必然に基づいた正直な写真であることを第一義に考えているからだ。上手く撮れたかは別としても、との注釈付きであることは癪だが。
 しかし、ぼくにだって人並みにきれいな写真に憧れた時期(20代くらいまで)はあったのだ。それはきっと誰もが通る道なのではないかと思う。一見するときれいだが、その先が見えない写真のありように非常な抵抗感が芽生えたのは30歳の少し前だったように記憶している。きれいなだけの写真は深度に欠け、そのようなものにはすぐに飽きが来るし、それはつまり自分自身に飽きてしまうということと同義である。

 読者諸兄からいだだくメールには、「かめやまさんの写真は難しい」とか「難解だ」とかそれに類する表現が寄せられることがしばしばある。これらのご意見にぼく自身は説明できずにいるのだが、ただ、きれいな写真に囚われ、「見せよう、見せよう」との意識があるうちは(それは写真を見れば分かるものだ)、写真は凡庸の域を出られず、そしてまた、それは一過性のものに過ぎない。それで写真が写るはずもない、というのがぼくの考えである。
 自身の人生経験に照らし合わせ、うわべだけのきれいな写真は、30歳まででいいんじゃないかと思っている。

 「酸いも甘いも噛み分ける」好々爺風や修業を積んだ御坊のような心境には、まだ残念ながら至っていない。いや、そんな境地には絶対に至りたくない。至らずに苦悶するのが物づくり屋の本志だとの信念を持っている
 亡父は「砂を噛み、血反吐を吐け」とよくいっていたが、まさに父はそれを実践していた。その反動か、磊落(らいらく)でもあった。ぼくはそんな父の重石を背負った辛そうな背中をよく見ていた。職種は違えど、「やっぱり『蛙の子は蛙』だ」とよく冷やかされるが、父と異なるところは、ぼくは努力家でないことと、それ以上に知性が絶対的に不足していることだ。

 写真活動に限りのある年齢に差しかかって、ある程度の独善を自分に許してもいい年頃かも知れないと近頃思っている。
 ただ、今のぼくには独善に走る勇気がなく、アカンタレ(関西言葉で、駄目な人、意気地のない人間を罵っていう言葉)なのだ。この臆病風は、ぼくの常套句である「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に起因しているようにも思える。ぼくには、もっと大胆不敵さが必要なのだと感じているが、まだ、独善であることの匙加減が分からないでいる。それが、美に通じれば独善もまた然りというところだが、そこがなかなかに難しくも荷厄介だ。

 飛騨金山町の「筋骨」と飛騨街道を、土砂降りの雨に遭いながらも2往復し、努力家でないぼくは座敷童子の出る味わいのある宿に戻り、女将に宿泊せずに帰宅する旨を告げた。里心がついたわけでなく、疲労に負けてしまったからだった。お茶の一杯もいただいていないが、休憩料を払うと女将に申し出たら、「いえいえ、いいですよ。また来て下さいね」と、心温まるお言葉をいただいた。

 よろよろしながら、飛騨金山駅に辿り着いたぼくは、午前中に車に乗せてくれた食堂の割烹着おばさんのところに顔を出し、そのお礼を述べ、別れを告げた。食堂では、地元の団体さんが宴会中で、その盛況ぶりを目の当たりにし、何だか嬉しさが込み上げてきたから不思議である。そして、どうやらこの町の衆は、酒宴にはやる気を見せるらしいということが分かった。
 駅で30分ほど特急列車を待ち、名古屋から新幹線に乗り込んだ。ぼくは2人掛けの通路側だったが、同時に乗り込んだ窓際側のご婦人の形(なり)を見て、少しばかり驚いた。ふわふわした極端に大きな帽子と羽を広げた孔雀のようなフリルの付いた満艦飾の装いは、まるで『マイ・フェア・レディ』(1964年ミュージカル映画)のオードリー・ヘップバーンを思わせるようであった。

 映画より恰幅の良いヘップバーンは、席に着くなり間髪を容れず駅で買ったと覚しき弁当をやおら広げ、それにガツガツと音を立て、人目も憚らずむしゃぶりついたのである。その弁当は、カツの上に何やら得体の知れぬ、決して心地良い色合いとは思えぬ、どちらかというとババ(関西言葉。意味はご自身でお調べください)に近いペースト状のものが付属しており、それがビニール袋から放(ひ)り出され、カツの上に塗りたくられたのだった。なんて凄まじくも恐ろしい代物だ。ぼくは鳥肌が立った。

 着飾ったヘップバーンがババ付きカツに食らいつくその様は、到底この世のものと思えず、ぼくは身震いが止まらなかった。それは感動を飛び越えた戦慄に近いものだった。旅の最終楽章に、ぼくはとんでもない光景に出会ってしまったのである。その鬼気迫る光景を撮り損ねたぼくは、やはりまだまだ修業が足りない。 “ばっちい” 写真を自認するぼくは未熟者だ。くそっ!

https://www.amatias.com/bbs/30/659.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM 。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
筋骨巡りの路地に置かれてあった懐かしい風呂桶。昭和時代のもの。
絞りf5.6、1/60秒、ISO 100、露出補正-1.67。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道散策中、突然の集中豪雨に慌ててビニールのレインコートでカメラを覆う。ガラス戸に描かれたひまわりが何とも可愛い
絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)

2023/09/08(金)
第658回:飛騨金山町(4)
 食堂の親切な割烹着のおばちゃんと、特製かつ丼との取り持ちにより、見込み通りに事を運ぶことができたぼくは、おばちゃんの自家用車に乗せてもらい、宿まで徒歩約10分の道のりを歩かずに済んだ。旅に於けるこのような好意は終生忘れ難いものだ。
 当日は日曜日でタクシー会社も休業だと、たったひとりの駅員さんにすまし顔でチャラっといわれたぼくは、恨み辛みの感情を抱き、旅情豊かな駅の待合室で怨嗟の声をあげた。
 駅に掲げてあったタクシー会社の電話番号に僅かな期待を寄せダイアルしてみたが、呼び鈴だけが無情に鳴り続け、さっぱり音沙汰なしだった。やる気のない町である。

 金山町唯一のタクシー会社の、しかも存在するたった1台のタクシーに乗りそびれたぼくは、前号にて記したが、駅前の大きなアーチに設えられた「WELCOME」という大袈裟な文言に果てしないほどの憤懣を抱いた。
 「なにがWELCOMEなものか! やたら意味の分からぬ外国語を使えば来訪者の気持を幾分かはぐらかせると思ったら、それは大間違いだぞ。こんな見え透いた、見せかけだけのものを如何にもそれらしく掲げるな!」と、ぼくの気持は、旅の疲労と神経過敏により、当然のことながらすっかり荒み、捨て鉢になっていた。
 「旅の恥は掻き捨て」を厳に慎むことを鉄則とし、それを如何なる時にも守り通してきたぼくは、なおのこと反動が大きかったのだ。「WELCOME」に気持を逆撫でされたような気持だった。この拙文を金山町の誰かに、是非読んでもらいたい。

 宿に着き、恐る恐る玄関を開けたぼくはすっかり気を取り直し、「こんにちは〜」と声を張り上げて来訪を告げた。細い土間の左手に居間があり、大きなテレビが野球放送をがなり立てていた。テレビの前には年老いた爺ちゃんがぼくに尻を向け鎮座し、食い入るように野球を観戦中だった。ぼくの声などまるで届いていなかった。やはり、ここもやる気が感じられない。客など、何処吹く風である。だが、ぼくは悪い気はしなかった。

 齢80をとうに越えていると覚しき爺ちゃんは耳が遠いとみえ、大きな声は出したくなかったが、訪問を告げるにはそうするほかなかった。客人に気のついた爺ちゃんは、笑顔を見せ、家人を呼んだ。人の良さそうなおばちゃん(多分娘さんと思われる)が、間口は狭いが、やたら奥行きのある建屋の奥から押っ取り刀で、体を弾ませながら駆けつけてきた。この町の女性はどうやらやる気があるようだ。

 部屋に案内され、女将はエアコンのスイッチを入れることだけが自分の仕事と心得、無駄口を叩くこともなく、すぐに部屋を出て行った。お定まりの宿帳もお茶菓子も電気ポットもなく、60歳をちょっと過ぎたと覚しき女将は「自由にくつろげ」といわんばかりに豪放磊落(ごうほうらいらく)だった。ぼくが声がけをしない限り女将は金輪際やって来ないのだと察した。
 部屋に鍵はなく、廊下と部屋は模様入りのガラス障子1枚で仕切られており(前号「01」掲載写真のように)、今時まったく珍しくも、プライバシーのない造りであった。ぼくは男なのでそれでいい。
 昭和40年(1965年)、何事にも寛容であった時代に建てられた独特の空気感あるこの旅館の部屋がとても気に入ったので、スマホで2方向から記録しておいた。友人に「今時珍しいだろ。良い味わいだろ」と自慢気に見せたいとの思いがあった。ぼくがスマホを取り出して撮ることなど滅多にないことだ。残念ながら、それは記録写真なので、拙稿では掲載しない。

 さて、前号の掲載写真「01」についてだが、部屋を出ようと廊下に出たところ、向かいの部屋のガラス障子が半開きとなっており、誰もいないはずなのに、人がひとり座っている。ガラス越しのシルエットを見る限り、ぼくは「はて???」となった。客はぼくひとりと聞いていた。シルエットは間違いなく女将ではない。では、誰なのか? だが、障子の隙間から覗くことはしなかった。

 40数年ほど昔に、ぼくは岩手県の遠野に撮影と『遠野物語』を初めとする民話を詳しく知りたいために、足しげく通っていた時期があった。まだ、随所に「曲り家」が存在していた頃だった。当地では、古(いにしえ)から座敷童子やら河童やらキツネが頻繁に出没するらしいが、現地のとんでもなく廃れた神社などで、「何でこんなところに人がいるの !? 夢か幻か?」との経験が3度もあった。それも、よりによって3人とも美人揃いだった(もう時効だ)ため、未だに信じ難い思いでいる。「事実は小説より奇なり」を、地で行くような体験だった。したがって、ぼくの『遠野物語』は今以て3人の美女に集約されている。

 あれから半世紀近く経って、飛騨の人里離れたこの地で、「もしかしたら遠野の再来か?」と思わせる事象だったが、ぼくはもう美人に気を奪われるより(そうかなぁ?)、「このガラス越しの光景は、ソクーロフの『オリエンタル・エレジー』のようではないか!」と、芸術的な美に惹かれた。こんなことは、人生に於ける初体験だった。
 ぼくは直ちに部屋に取って返し、レンズを付け替え(16mmの超広角に)、サイレントシャッターに設定し、足音を立てずにファインダーを恐る恐る覗いた。そして、静かにシャッターを下ろした。

 撮影後、障子の隙間から部屋を伺おうと一瞬思ったが、自身の不粋を嫌悪する気持が好奇心を上回った。もし、同じことがもう一度あったなら、ぼくはやはり好奇心を捨て去るだろう。不粋なことをすれば、写真も不粋さを免れないものになるからだ。だが、エロスは美の本質だし、弱ったものだ。
 「七十にして矩を踰えず」(しちじゅうにしてのりをこえず。どんなに錬成した人物でも、自身の行動や考えをコントロールできるのは70歳になってからだとの意味)というらしいが、「そがんことなか!」。
 自分の撮った写真を見て、「おれの人生はまだこの程度のものか」と、やはり悲嘆に暮れる今日この頃であります。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
第654回で掲載した「02」写真のほぼ同じ位置から、モニターを確認しながら、突然の雨中の「筋骨」を。シャッタースピードを5段階に分けて撮る。
絞りf6.1、1/5秒、ISO 640、露出補正-1.00。

★「02飛騨金山町」
第656回で紹介した銭湯。湯船の底に貼られた明治時代の陶器質本業タイル。天窓からの光りが、作画に上手くバランスしてくれた。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67
(文:亀山哲郎)