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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2021/10/22(金)
第567回:「落穂拾い」ならぬ「落葉拾い」
 昔から「秋の日はつるべ落とし」(秋は日が、井戸のなかにつるべを落とすように、一気に沈むこと)といわれるが、ぼくは今年ほどそれを痛感している年はない。秋は老若男女に関わらず、ことさら、どこからともなくじわじわと寂しさの忍び寄る季節でもある。
 そして、さらに身につまされることの喩えに、「秋の入り日と年寄りは、だんだん落ち目が早くなる」(笑いながら感心している場合じゃない。意味は、 “秋が深まるにつれ日没が早くなり、老人も歳を取ると衰えが加速度的に早くなる” )のだそうだ。
 しかし悔しいけれど、その通りだ。江戸時代にはすでにこの比喩は使われていたという。当時の平均寿命は30歳代〜せいぜい40 歳までらしいが(正確な統計はない)、しかし長生きをする人は現代と変わらなかったという説が強い。だが世界的に「平均寿命」というものにはあまり関心が持たれなかったらしく、科学的探訪を標榜するヨーロッパでさえ、18世紀以降に広まった概念である。

  この “年寄り云々” の喩えは、なんとも嫌な言い草だが、まさに言い得て妙だとぼくは変に感心している。本当はそれどころではないのだが、還暦(60歳)を迎えた時には、「計算によると、ぼくは日本男児の平均寿命まであと20年ほどらしいが、今の状況(体調)を鑑みればそんなに早く世を去ることなど考えられぬこと。ぼくだけはきっと200歳くらいまで生き延びて、少しはましな写真を撮れるようになるに違いない」と思い込んでいた。つまり、老化の一片たりとも感じ取ることはなかったし、無縁のものだとも思っていた。

 親鸞聖人(1173-1263年。90歳で没。浄土真宗の宗祖で、主な著作に『教行信証』などがある)の口伝である『歎異抄』(たんにしょう)を捩(もじ)って、「いわんやぼくを於いてをや」と、中学時代の同窓生との還暦旅行でぼくはこっそりそううそぶいていた。「おれだけは超絶長寿を果たし、みんなの墓参りをしてやるわ」と、かなり本気で思い込んでいた。まことにおめでたいのだが、還暦など死を意識するような歳ではないということだ。
 また、「もしかするとぼくは人類史上初めて死を知ることのない人間かも知れない」とさえ思っていた。

 普段から「ぼくは科学信奉者」を自負しており、その一方で「森羅万象やそのありようについて、現在の科学では計れないことばかり。日進月歩の科学ではあるが、まったく頼りないこと夥しい。1世紀後に現在を振り返れば、「当時の科学は今から見るとなんと未墾の大地であったことか」と思うに違いない。現在の科学は現代人にとってみれば進化そのもののように思われがちだが、未解決なものがほとんどであり、それを疑う余地はない。否定する人は科学妄信者か誤信者であり、また御幣を担ぐ者であろう。
  “こんなに科学が進歩した” と思い込んでいるのは、いつの時代もその時代に生きる人間だけで、そのような思い上がりは奇特で滑稽な存在でもあるのだが、きっと人類の歴史から見れば、いつの時代だって、人間はそのように自惚れてきたのだろう。

 森羅万象や造化について人類の叡智によって知り得ることなど些細なものだ。人は、先行き不透明で不確かな未来に不安を抱きつつも、科学でなんとか立証できるものは信じようとする。それは頼り処のない人類の意地らしさと悲哀であり、またそれが真実というものだ。
 ぼくら人類が科学によって知り得ることなど、いつも微々たるものだということを、実は信じたくないというのが本当のところなのであろうが、科学を含め分からぬことばかりなので、かえってそれが生きる糧ともなるのだろう。それがぼくの本音でもある。
 写真も科学によって発達してきたが、今ぼくらはフィルムからデジタルへの科学的大転換期に立ち会うことができた。とはいえ、科学の発達により、良い写真が撮れるようになった保証などどこにもない。写真を撮るのは、いつも述べるようにカメラやレンズではなく、人間であるからだ。

 で、何の話だっけな? そうそう「秋の日はつるべ落とし」だった。特にこの1週間、急に気温が下がったが、まだ真夏の、あの気怠い暑さの余韻が身体に残っているので、にわかにこの冷気が信じられないでいる。これは多分、ぼくだけの感覚ではないだろう。ぼくの脳内の時間的な感覚も鈍化の兆しを見せ、日没時間を計算外にしたまま平然としているこのアホさ加減。
 日が短くなったにも関わらず、ぼくの徘徊時間はまだ夏と同じなので、どうしても出遅れとなる。何故こんな分かりきったことがお前はできないのか。日没を計算して、早く出ればいいものを、それがぼくにはできない。何事に於いても周回遅れの愚図ったれなのだ。

 ゴキブリ100匹より1匹の蚊が嫌いというぼくだが、蚊もそろそろ影を潜め、野外の花撮影は快適なはずなのに、周囲は首振りコスモスばかりで、まるで「憎まれっ子世に憚る」だ。100mmマクロレンズで、揺れに揺れ動くコスモスと勝負しながら、ぼくはこれほどまでに難しい撮影に辟易(たじ)ろぎ、うんざりしたことはかつて1度もない。
 マクロレンズは今までいやというほど仕事で使用してきたが、何百何千という被写体は、コスモスのように無駄に首を振らない。コスモスの毒気に打たれたぼくはすっかり不貞腐れ、「落穂拾い」ならぬ「落葉拾い」に化けてしまった。

 拾った落葉を家に持ち帰り、最近ご執心のレンズを使い、まさに静物をじっくり写生するような気分で、コスモスを見返している。因みに「見返す」を広辞苑で繰ると、「あなどられなどした仕返しに、立派になって相手に見せつける」とある。しかし、自分の不調法を棚に上げて悪態をつくと、「物言えば唇寒し秋の風」(芭蕉)となりそうだ。「秋」はなにかと忙しい。

https://www.amatias.com/bbs/30/567.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
柿の葉。美人の枯れ葉を選んで拾った訳ではなく、「たまたまそこに落ちていたから」といったいい加減さ。ぼくの好物である柿の葉寿司(奈良県)を思い出す。2枚とも室内灯とトレーシングペーパーを使用したのみ。
絞りf25.0、1秒、ISO600、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
「01」写真の下に敷いたもう1枚の柿の葉。
絞りf16.0、1秒、ISO250、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2021/10/15(金)
第566回:雨降りは「水も滴るいい...」
 秋は聞くところによると、梅雨時よりむしろ雨の多い季節らしく、となると撮影条件としては良し悪し、好き嫌いの差があり、雨の中撮影に出かけるかどうかは撮影者の「気分次第」といった面が平常時より多い。
 ぼく個人は、撮影結果だけを考えれば雨のほうが断然好ましいと考えている。元々雨降りの好きなぼくだが、やはり撮影となると億劫さ(機材などの保護も含めて)が先に立ち、どうしても足が重くなる。本来の出不精に追い打ちをかけられ、言い訳がましくもなってしまう。

 雨降り時(もしくは朝露に濡れた)の水滴の付いた花や葉は、いつも見るそれとは別の趣や美しさを見せてくれ(他愛のない風情というなかれ)、写真好きは胸を躍らせるものだが、傘を差しての撮影はやはり骨が折れる。また、レンズに付いてしまった水滴による模様の修正は厄介この上なく、Photoshopなどの画像ソフトを用いても、なかなか上手くいかない。
 それ故、レンズに付着する水滴には非常な神経を使うが、花弁に付いた丸い水滴は、時にキラキラ輝いたり、格別の光沢感を演出したりと、いつもとは異なる豊かな自然を間近に見せてくれる。雨は、良いシャッターチャンスを与えてくれるものだ。いつもの花が、まさに「水も滴るいい女」に変貌を遂げるのだ。

 その他の利点として、雨天時は特に光が柔らかいので美しい作画を得やすい。ここでいう “美しい” とは、柔らかな光源下に於けるグラデーションの豊富さと、同様にして低コントラストによる色彩の滑らかさ(ハイライトからシャドウまでの輝度全域が再現可能となる。被写体の輝度域が狭いので、白飛びをしたり、黒潰れをしたりしないが、空は輝度が大きく異なる場合が多いので、白飛びには要注意)が得られる。

 水滴と光の具合がうまくマッチすれば、それだけで良い雰囲気の写真が撮れる。この条件下では、写真の美的要素の30%くらいは露出補正さえ間違えなければすでに達成できたと考えてよく、まさに「恵みの雨」といってもいいだろう。
 水滴の付いたガラス越しに見る女性は(いきなり花から女性に話は移るが、双方とも撮影の心得としては同じようなものだ)、普段より何倍も美しく、あだっぽく、いい女に見えるものだ。やっぱりここでも「水も滴るいい女」なのである。まぁ、それは女(ひと)にもよるのだろうが、一般論としては確実にそういえる。
 ぼくの説が信じ難いというのなら、雨の日に運転席や助手席に座るあなたのよく知る相方以外の女性を水滴の付いたガラス越しに見てみるがよろしい。思わずレンズを向けたくなるものである。そうでなければ、男衆は写真をやめたほうがいい。ぼくはかつて、仕事の写真に何度かこの手を用いたことがある。

 上記した「気分次第」(気分屋)は、別の言葉で「お天気屋」ともいう。また「女心と秋の空」ともいう? ちょっと違うかなぁと思いながらも、昔の人はうまいことをいったものだと感心する。ぼくなど「お天気屋」と「気紛れ屋」の二股をかけ、それに「愚図ったれ」が加わってしまい、自分で自分を持て余すことがよくある。秋に於ける撮影はその最たるものだと、季節のせいにしている。 
 30分も早く撮影に出かけていればもう少し時間的に余裕ができ、しかも陽のあるうちに撮りやすい条件(主にシャッタースピードやISOなど)で撮れたものを、その30分を愚図り、惜しんだがために良い被写体をみすみす逃し、すごすごと引き返すなんてことばかりしている。この学習能力のなさに、我ながら辟易とする。

 撮り損ねた花を横目に、「よしっ、明日再びここに撮りに来よう」と健気にいうものの(いつも必ずそう決心する)、行ったためしなど一度もないのだから、さらに呆れる。それでいて、他人には「日が暮れて撮れなかったものは、近くであれば場所をよく覚えておき、億劫がらず明日撮りに行けばいい。通うことこそ写真の極意」なんちゃって、まるで他人事のよう。よくもまぁ、こんなことをしゃあしゃあといえたものだ。これをして、「蛙の面に小便」(京都のいろはがるた)という。ちょっと違うか。しかし、「写真の極意」とは、ぼくも大きく出たものだ。こんな大風呂敷を広げてしまうと、さらに大きな墓穴を掘るに等しく、ミイラ取りがミイラになってしまいそうだ。

 秋になり、今ぼくは困っている。何がというと、ぼくの徘徊する近所ではあっちもこっちもコスモスばかりが目に付き、それはかまわないのだが、コスモスという花は、風にはまったく堪え性がなく、すぐにふらふらし、頼り甲斐のない気弱な振りをするから、扱いの難しいマクロレンズ1本で勝負しようとすると、ぼくのそんな弱味を盾に取り、たちまち意地悪をする。「撮れるもんなら、撮ってみんしゃい。ピントの合わんけんやろ」と啖呵を切り、首を左右に揺さぶりながら、日の暮れるまでぼくを見くびり、挑発してくる。「桜になれないからって『秋桜』なんて小洒落た名前つけるなよ。君は雨が降っても『水も滴るいい女』にはどうやってもなれないんだからね」と、ぼくは精一杯の悪態をつく。「明日、また来るよ」と、嘘までついてみせる。
 意気地のないぼくは小石を蹴りながら、虫喰いだらけの桜や柿の枯れ葉を拾って、それを後生大事に持ち帰る。コスモスに勝る美を発見し、次回にでも掲載させてもらおうと考えている。見るからにみすぼらしい枯れ葉を、上手く撮れるかね?

https://www.amatias.com/bbs/30/566.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
かなりの強風下、まったくじっとしていられないコスモスに、白髪を風になびかせて、食らいつく。このレンズの秀逸さにはいずれ触れることにしよう。
絞りf2.8、1/400秒、ISO640、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
エキナセア。左右相似形ではないところが気に入った。ぼく同様、性格がねじ曲がっているのか、偏屈なのか。花だって、十人十色、百人百様。
絞りf4.0、1/60秒、ISO250、露出補正-1.00。

(文:ツバメ)

2021/10/08(金)
第565回:写真愛好の士は、変態であるべし
 賢明なる読者諸兄を前に、改めて補足する必要もなかろうとも思うのだが、前号にて述べた箇所について誤解の種を蒔いてしまったかも知れないとの懸念から、一応念のために記しておきたいと思う。

 前号で、「自分のためだけの写真ほど大切にすべきものであり」と述べた。これは「普遍性を有する」ことと「凡庸さを廃除する」ことの、ふたつの確かな条件あってこそのもの、との意味で用いた句である。これについては、以下抽象的な説明にならざるを得ないのだが、ご寛恕を請いたい。

 「普遍性」とは、ちょっとややこしい哲学的用語であるが、平たくいえば、ここでの意味は、「すべてのものに当てはまる(共通する)美的概念、美的範疇、美的調和」の総体とでもいえばいいのかな。はみ出した(普遍性を逸脱した突拍子もないもの)が故に、本来の美を置き去りにし、醜くなってしまったものは、世の中に掃いて捨てるほどあるが、自身の作品はそうならないように、篤(とく)と戒めましょうとぼくは繰り返しお伝えしたい。これはもちろん自戒の念を込めてのものでもある。ぼくも、あなたも、カメラを振り回す人間は、誰でもがそのような性向を有しているものだ。

 「普遍性」を保つことは、冒険心や向上心に溢れた者ほど、実践は極めて難しく、この作業は強いていえば綱の上をバランスを取りながら歩くようなものなのだが、そこはアマチュアの特権を生かした者勝ちであるとぼくは思っている。
 綱から落ちても、家族が路頭に迷うわけではなく、恐れるものがないのだから、もう一度綱の上によじ登ればいい。何度も飽きずに試みた者が、欲しいものを早く確実に手に入れることができるという寸法である。これが真理。
 自分の作品を形づくることの醍醐味は、きっと傷だらけになった者ほど味わえるのだとも思う。これは極論ではなく、客観的な見地からして、仏教でいうところの「当位即妙」(何事もありのままで、妙なる働きを生ずること)でもあろう。
 「凡庸さ」とは、一言でいってしまえば「必然性の感じられないもの」のことである。つまり、「あなたの意志が垣間見えず、また作品の表現がどこかちぐはぐで、何故それを撮ったのかが伝わって来ない作品」を指す。
 いつもぼくが例に挙げる「紅葉の美しい上高地の、絵葉書のような、あるいはガイドブックかポスターのような写真をいくらきれいに撮っても、そのような正しくも退屈極まりない写真はまったく評価に値しない」とぼくは断じるけれど(でも、そういうものが世間では受けが良いという可笑しな事実)、それは「あなたがあなたであることの証や人生観が作品から窺えないから」であり、そのようなものは畢竟あなたが撮る必然性のないことと同義だといえる。
 独自の視点や感受を見出して、初めて「あなたの写真」であり、それが作品の価値というものではないだろうか。
 たとえ技術的に行き届かないところがあっても、ぼくは「上高地」よりも、こちらを高く評価したい。

 ぼくは今、自称アマチュアなのだが、商売人という長年の垢がこびり付いており、今までとは異なる、いわば破天荒な写真を撮ることの勇気を持てずにいる。なんとかしようと、目下足掻(あが)いている最中。シャッターを切る度に、「おまえ、失敗してもいいんだよ」と、秋風に揺れるコスモスを前にし、あっちこっち蚊に食われた足をボリボリとかきながら、優しく言い聞かせている。なんとも涙ぐましい。
 先日など亡父の口まねをして、わざわざ九州言葉で、「まともよりも変態んほうの、人間味のあっけん写真の撮れるたい。恐れるこつなんざなかとね」と、自分の変態志向にどこか後ろめたさを感じているのか、敢えて遠い郷の言葉でいってみたりもしている。

 「自分のためだけの写真」を意識しすぎると、その表現はややもすると、「唯我独尊」とか「独りよがり」とか「独善」に傾きやすくなる。それは、ぼくがいつもいうところの「見せかけの個性」や、あるいは「意図的に作り出した他とは異なる醜いもの」へつながりやすく、またそれはあざといものでしかない。そのようなものは、悲しいかな、たちまち馬脚を現すものだ。作者だけがそれに気づいていないという悲運に見舞われる。ぼくは長い写真人生で、助手君たちを含めてそのような手合いをたくさん見てきた。「同じ手合いの品になるな」と自他ともに怠りないつもりなのだが。
 それは、創作を志す上で最も警戒しなければならない事柄のひとつだとぼくは感じている。警戒ばかりだと前へ進めないし、反対に警戒を緩めると暴走して前のランナーを追い越し、監督に大目玉を食らい二軍行きを命じられることにもなりかねない。

 ここでもう一度、「誤解の種を蒔いてみたい」衝動に駆られるのだが、意を決していってしまうと、「暴走しがちな人間(これを “変態” という)のほうが味のある作品を生み出す」と、ぼくは幾多の経験則に照らし合わせて、誰彼なく確信をもってそういうことにしている。前を走るランナーを何の躊躇もなく平然と追い越してしまうような変態人間は組織には相応しくないかも知れないが、写真などというけったいなものに取り憑かれた人種にはお似合いなのである。

 物づくりの世界に於いて、他人とはより異なったものを創りたいとの欲求は誰しもが強く抱く願望なので、それ自体は進歩の一過程としてぼくは大いに推奨したい。だが変態は、やはり毎度いうところの「過ぎたるは猶及ばざるが如し」なのかなぁ?

https://www.amatias.com/bbs/30/565.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。RF35mm F1.8 Macro STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
去年の晩秋、実のすっかりなくなった柿を拾い、持ち帰る。10ヶ月ぶりに取り出し、新調した100mmマクロレンズで撮ってみる。室内の蛍光灯とレフ板のみ。
絞りf22.0、1.0秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
陽が地平線に沈みかけた頃、35mmレンズをつけて近所を巡回中に見つけた後ろ姿の良いひまわり。花弁の黄色を極力抑える。
絞りf11.0、1/100秒、ISO160、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2021/10/01(金)
第564回:「不見転」(みずてん)三昧
 仕事用ではなく、純粋に写真を楽しむための機材(カメラとレンズ)選びをおよそ40年ぶりにし、ぼくはこの半年ばかりひとり悦に入っている。激しい目眩や腰痛に襲われながらも、やはり愉しくも嬉々として、晩年の写真生活に思ってもみなかった花などを集中的に撮り、文字通り花を添えようとしている(駄洒落ではない)。

 当初、武漢コロナのために行くところがなくやむを得ず撮っていた花だが、「ならばぼくの、自己を表現するための、必然性のある概念」を見出し、それをカメラに収めようとの努力は、今だからこそ尊いものなのではないかと思っている。「自分のためだけの写真ほど大切にすべきものであり、それが創作の真髄なのではないか」と自らに言い聞かせている。
 他人の目を意識しなければならないのは仕事用の写真だけで十分。そのようなものは、「もう御免蒙りたい」といってもいい歳だと思っている。今、時折仕事の写真を撮るのは、「緊張と責任を感じる貴重な瞬間であり、それを無下に放棄してはならない」と思っているからである。だから、たまに仕事をする。

 この40年近く、いわゆるカメラ雑誌の類を購入しなくなった理由はいくつかあるが(もう10年以上、店頭で手に取ってページを繰ることさえしなくなった。写真集は稀ではあるが時折ある)、そのうちのひとつは、自身の手で実際にテストをしないと納得することができないという損な性格にある。億劫がりのぼくには、まさにあるまじき行為である。先週述べたテスト方法をするには、「順列組み合わせ」を考えれば膨大な枚数を撮ることになる。その結果を見て初めてぼくはある程度機材の正体を把握し、納得するのだ。それで不安なく仕事に使用できる。
 雑誌のテストレポートを信用しないわけではないが、観点が異なることが多く、ぼくには必要のないものになっていった。

 今は、前号で触れた「不見転」(みずてん)に身を任せ、それを堪能し、あれこれ余分なことに頓着しなくなった。そのおかげで、写真(撮影)に集中できるような気がしている。あるいは、長年写真に携わってきて、そこで得た勘がどの程度正しいか、そして理に適っているかを問い質し、自身の「不見転」を意味あるものとし確認するのは、ある種スリリングな作業でもある。
 いくら歳を取っても、スリル(英語の “thrill” は、恐怖だけでなく、喜び、興奮などでわくわくするとの意も含まれる)のない生活はどこか「腑抜け」のようなもので、それでは進歩は遠ざかる一方だ。刺激のない生活はすべてをマンネリ化させ、感受を鈍らせる。

 ぼくに「不見転」の勇気を持たせた多方面での事柄についても述べておきたい。それは光学的に重要なことなので、敢えて記しておこうと思う。
 かつてはレンズの欠点として看過できなかった諸収差についてであるが、昨今は画像ソフトに優れたものが輩出し、完全とまではいわずとも、かなりのところまで修正・補正が可能となったことだ。このことはフィルム時代には考えられなかったことだ。デジタル時代となり、レンズもカメラの設計技術も進歩したのであろうが、画像ソフトが嫌な収差を取り除いてくれたり、気にならないところまで修正してくれる。
 今ぼくらはデジタルの多大なる恩恵を受けていることを正直に認めようではないか。

 良い画像ソフトを使用すれば、誰もが気になる「歪曲収差」や「倍率色収差」、あるいは「周辺光量落ち」(特に開放絞りではどんな優秀なレンズでも顕著。ぼくは敢えてこの修正をしない時が多いが)は、もはや頓着しなくても良いと思わせるほどに過不足なく修正・補正してくれる。それは、画像ソフト(特にRaw現像ソフトの優秀性に負うとことが大きい)の進化にあり、メーカーやレンズ設計者は、ソフトで修正・補正可能な収差はそのままに、修正しづらい収差を取り除くことに注力できるという利点をもたらしている。そのためより良いデジタル用のレンズ設計が可能となる。ぼくが「不見転」(もちろん、あるレベルに達していると推察するもの)に大きな不安を抱かない理由のひとつでもある。

 話は例の如く前後するが、カメラ雑誌の類にぼくが魅力を失った理由は上記した以外にもある。広告費用で成り立つ雑誌そのものにすべての責任を負わせることはできないが、内容に魅力を感じなくなったことは、購買意欲を削ぐ大きな要因だろう。つまり、金銭を払ってでも、読みたい・見たいと思わせるようなものがなかなか見当たらないことだ。また、そこにはネット時代に於ける紙媒体としての限界もあるのだろう。加え、個人的には、編集者として長年評論の世界に身を置いてきた挙げ句の果てであろうと思われる事象にも出会す。
 出版社は、近年の出版不況の嵐に見舞われ、そのような社会的現象の波に足元をすくわれているとの事情もあるのだろうが、インターネットに勝る部分に目をつむり、利益ばかりを追求して来たことも一因ではないかと思う。
 ぼくのように紙媒体に一生の大半を費やし、またその製作に従事してきた者として、出版事業の衰退は身につまされるし、歴史ある写真誌の廃刊が続くのは寂しい限りだ。

 「不見転」のマクロレンズを、ちゃんとしたテストもせずに、三脚も使わず、風速6m/s のもと、その横着ぶりに自己陶酔しながら、「♪マクロレンズに風は大敵 止むまで待とうほととぎす♪」と鼻歌交じりに百合と対峙。めったに見ないカメラモニターを見て、「このレンズ、凄い!」と、思わず身震いしながら雄叫びをあげる。 “嬉ション” しそうになるが、何とか堪える。 

http://www.amatias.com/bbs/30/564.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。2枚とも絞り開放。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
百株ほどの百合を見つける。主人公と脇役のバランスや構図を考えると、撮れそうで撮れないのが実情。何とか構図を取り、1枚撮り。
絞りf2.8、1/250秒、ISO250、露出補正-0.67。

★「02さいたま市」
定石通り雄しべにピントを合わす。風が収まらず、ぼくは自棄になり10数枚撮る。「撮る価値あったのかなぁ?」と、盛んに自問する。だがともかく、このレンズ、EFマウント版同様に、得もいわれぬ品がある。
絞りf2.8、1/500秒、ISO800、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/09/24(金)
第563回:テスト魔の独り言
 ぼくは病的といってもいいくらいのテスト魔(実際、カメラマン仲間の何人かにそういわれたことがある)だと過去何度か述べた。
 この5ヶ月間でぼくは主軸となるカメラとレンズを、自身の使用目的と体力を再思三考しながら少しずつ入れ替えたのだが、テストらしいテストをほとんど、というよりまったくせずに、いきなり花撮りの実戦に投入している。

 余談だが、ぼくをよく知る人たちは、ぼくが花を集中的に撮っているのがどうにも解せず、「かめさんが花など撮るのは似合わないから止めろ」などと要らぬちょっかいを出してくる。大きなお世話だっての! 
 忌むべき武漢コロナのお陰で、改めて花の美しさを発見し、そして感受しながら、自分の世界を見直したり、構築したりしている。今その最中にあるのだから黙っていてもらいたい。だが、この流行り病が沈静化したら、他人の指図を受けるまでもなく、従来撮っていた被写体に再びレンズを向けたいと考えている。ぼくを揶揄する輩にはいわず、こっそり撮ることにしている。
 閑話休題。
 機材を納得するまでテストし、また吟味する機会に恵まれてはいるが、今回ぼくはそれを利用せず、選んだカメラやレンズのほとんどが「不見転」(みずてん。出たとこ勝負。見通しもなく行動すること)である。それは仕事用に購入したものではなく、写真を楽しむためのもので、いつか述べたぼく流の「アマチュア回帰」への一環でもある。

 正体知れずのカメラとレンズを、ぼくは意気揚々と何の不安もなく持ち出し、このコロナ禍、出歩くことも憚られるので近隣の狭い範囲を、花を中心に据え、歩き回っている。
 「ぶっつけ本番」などという大胆で横着極まりない、こんなありさまは、ぼくの写真人生にあって前代未聞である。そしてまた、付き合ってみなければ得体が知れないという、ある種こんなに気楽で、スリリングであるが故の愉しさも30代を最後に、味わったことがない。
 幸いながら、今のところ「ギャーッ!」といった失敗はないが、「ゲッ!」と叫んだことは何度かある。それはカメラやレンズ自体に責任があるのではなく、ぼくが使用法を誤ったからに過ぎない。横着の報いを受けるのは当然のことと甘受している。

 しかし、横着とはいえ、枕元にカメラを置き、如何にして手に馴染ませようかと(ボタンやダイアルが、年寄りには意地悪とさえ思えるほど、あたかも思春期のニキビのようにたくさん付着しているのである)、この約5ヶ月間毎晩訓練に怠りない。目をつむったまま操作できなければ、写真屋の沽券にでも関わるとでも思っているのだろう。我ながら見上げた心得である。

 ぼくの不見転の、そんな放胆ぶりは、本(もと)を正せば、使用目的が仕事ではなくなったからだろうと思う。そしてまた、齢70を過ぎて、テストに費やす労力と時間が惜しくなったからでもあろう。精や根がなくなったのではなく、その必然性が減じたからである。「ぼくは写真に対していい加減になった」のではなく、「他にもっと重要視する事柄があるのではないかということに、遅まきながら気がついた」と、ここで一応優等生的な発言をして、それらしく体裁を整えておきたい。
 かつて、テスト魔に至るいくつかの理由を述べた。それらは嘘ではないが、元来自分の購入したものの正体を知らずして使用することを極力恐れていたというのが、本当のところであり、さらに深く自身の心をほじくり返すと、根が「テストが好き」で「物の正体を探る好奇心に満ち溢れている」という性格上でのことだと思う。

 カメラやレンズの長所・短所を知ることに快感を覚えてしまった(この麻薬的作用を “道楽” という)ことにより、ぼくは若い頃、身上を潰しかけたことはすでに述べた。だが、写真屋になってからは道楽ではなく、快感の伴わぬ義務となった。仕事で使うには、さすがのぼくも不見転、もしくはぶっつけ本番というわけにはいかない。最低でも半月はテストに明け暮れ、おおよその正体を見極めないと恐くて使うことができない。写真屋にとってそれは商売道具なのだから、当たり前のことだろう。
 テストをし、さらに1ヶ月(30日)は様々な条件下で実践してみないと、レンズの本来の力量や性質は推し測ることができない。そのくらい手のかかるものだとぼくは思っている。したがって、ネット上でよく耳にする、「今日初めてこのレンズを手にし、近所をスナップしてきました。早速このレンズの特徴などをレポートいたしましょう」との器用さを、ぼくはとてもじゃないが持ち合わせていないので、ただひたすら、その慧眼ぶりに感心するばかり。

 テストとは、しっかりした三脚を使い、普段からよく理解しているレンズとともに、被写体の距離を変え(室内と野外)、開放絞りから最小絞りまでを使い(最低でも1絞りずつ。できれば億劫がらずに1/3絞りずつが理想)、レンズチャートやカラーチャート、新聞紙などの平面体と立体物を撮る。室内なら、光の一定したストロボや蛍光灯を使用。野外であれば、被写体との距離を何通りか設定し、安定した光源下で撮る。明度やコントラストが変化しては、厳密なテストができないからだ。また、ホワイトバランスも手動で一定させておく。撮った写真を1枚1枚PCのモニターで拡大表示して、唸ったり、喜んだり、鳥肌が立ったり、悲喜こもごも。

 「こんなことをしなければ写真は撮れないのか?」と問われれば、「ここまでしなくても良いけれど、道具の性質はなるべく理解しましょう。その理解が撮影を助けてくれることは請け合います」と、テスト魔のぼくは上目遣いで、遠慮がちにいうことにしている。

http://www.amatias.com/bbs/30/563.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro STM。RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ゆり。異様に長い雌しべが1本。雄しべにフォーカスを合わせる。風が強く、膝をついたままぼくも花に合わせて身体を前後左右に振る。
絞りf8.0、1/400秒、ISO1000、露出補正-1.00。
★「02さいたま市」
ピンクの大きな芙蓉。へそ曲がりのぼくは、きれいな色より花弁の質感に惹かれ、それをモノクロで。
絞りf7.1、1/80秒、ISO500、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/09/17(金)
第562回:写真YouTuber
 前回第561回目では写真にまつわることにはまったく触れず、読者の迷惑をも顧みず、自身のプライベートなことにばかり集中してしまった。そのような狼藉も1 / 561回、パーセントにすれば0.002%にも満たず(したがって、取るに足りないことなのだから1回くらいはいいじゃない、との心胆)、本欄の担当諸氏から何のお目玉も頂戴することなくほっと一息ついている。

 ぼくの出版社での編集経験に照らせば、このような身勝手で頓珍漢な執筆者は最も困りものなのだが、編集者は揉み手をしながら遠慮がちに書き直しをお願いすることになる。執筆者というのは、本来、我の塊のような種族なので、書き直しを命ずることはかなりの勇気を必要とする。編集者は執筆者と編集長の双方の顔色を窺いながら、あの手この手で、執筆者の機嫌を損ねることなく、自分の望むような文章に書き直しをさせるのが、編集者の身上(しんしょう。この場合は “本来の値打ち” 、 “本領” )というものだ。
 編集者にとって “我の塊” のような人種は、執筆者ばかりでなく、カメラマンもデザイナーも似たり寄ったりといったところだ。ぼくはもう何十年も写真屋と執筆者の両刀遣いなのだから、その “がんまち” (京言葉で、我の強いこと。自分勝手なこと)ぶりは、自慢ではないが、推して知るべしである。

 執筆者に対しての文章手直し要求を、年に1度くらいはしたと記憶するが、第561話のぼくの “がんまち” は、11年に1度(本稿については未だかつて、書き直しの要求はない)なのだから、取るに足りないことであり、当然看過されるべきだなどと調子の良い解釈をしている。
 本連載は、編集者と執筆者の立場が逆なので、それをいいことに、「お小言さえ食らわなければ、この際素知らぬ顔をして、鷹揚に受け流してもらうことにしよう」と目論んでいた。再びこのようなことをしでかすかも知れないので(するに違いない)、取り急ぎここで予防線を張っておこう。今日も怪しく、なんだか危ない。

 写真のことなどどこ吹く風と、前号にて触れた「オールドメディア」について、同年配の友人2人から異口同音に、「まったくもって君のいう通り。例えば、これからの総裁選に我々一般国民には投票権がないが、しかしテレビや新聞を見ていると、オールドメディアは如何に世論やネットとかけ離れた論を展開し、時には意図的な不平等さが見て取れ、そこには捻れた悪意さえ感じる。君の主張はとても正しい」と、わざわざご注進してくれ、ぼくは強い味方を得たような気分になった。
 2人の同意を得ただけでも、常日頃からオールドメディアを「マスゴミ」といって憚らぬぼくには、写真を放り出して書いた甲斐があるというものだ。おそらく見ず知らずの読者の方々のなかにも、ぼくの論調に賛同してくださる人たちがおられるに違いない。
 オールドメディア一辺倒の情報弱者は、インターネットの発達により、少しずつ減少しつつあるのではないかと感じる。どのような思想信条を持とうが、自由民主主義国家では、それぞれが尊重されるべきことだが、ジャーナリズムが嘘八百を並び立てては、もはや民主主義国家とはいえない。ぼくの批判は、イデオロギーなどには関係のないことだ。

 さて、今良心がズキズキと疼き始めたので写真の話を持ち出さざるを得ない。このコロナ禍で在宅時間が多くなり、曖昧な知識しか持ち合わせていないレンズの諸収差についてもう少し理解を深めようと、ネットをかき回していたところ、今まで見たこともなかった「写真YouTuber」という奇異な人種を知った。
 ぼくが説明するまでもなく、読者諸兄は彼らの動画をとっくにご承知であろうと推察するが、ぼくが感心するのはそこで話されている内容ではなく、あまり好ましい言い方ではないのだが、その様実に「口八丁手八丁」であることだ。ぼくはこのありように、ただただ感心して動画を見ている。ぼくにはとても真似のできぬ芸当であるからだ。

 写真YouTuber には、プロもアマも混在模様であるが、特にプロと称する人たちは、写真かYouTubeか、そのどちらを生活の糧としているのだろうかとぼくは訝っている。あるいはその両方なのであろうか? 職業選択の自由をぼくは尊重しているが、ぼくにしてみれば、実に不思議な生き方をされているとしか思えない。器用といえば器用だし、おそらく多才で潰しの効く能力をお持ちなのだろう。

 カメラやレンズ、その周辺機器の紹介や評価で、動画のほとんどが満たされているが、閲覧者にとって有益なものもあるだろうし、そうでないものもあろう。ユーザーにとっては、製品選びの取捨選択の余地が生まれることもあるだろうし(そこでの評価や指摘が正しいかどうかは別問題だが)、購入の目処が立つということもあろう。
 しかし、YouTuberのなかには、これも良い表現ではないが、敢えて申せば、「メーカーの腰巾着」のような存在と思える人を見かける。実のところは分からないが、動画を見ているとそう思わざるを得ない場面に出会すことがしばしばある。それもひとつの器用な生き方として認めるが、そのような人の言辞を鵜呑みにしてはいけない。何事に於いても、胡散臭さは最大の敵である。
 ぼくは、長年の編集者生活で、評論や評論家の世界を垣間見ているので、そう勘ぐりたくもなるのである。肝心なことは、あなたがひとつの物事について多面的な見方をし、世間の評判ではなく、あなた自身の使用目的を正しく認識し、それに沿っているかをよく吟味することに尽きると思う。

https://www.amatias.com/bbs/30/562.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4L IS USM。RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
キク科のエキナセア。別名ムラサキバレンギク。薬草の一種。ちょうど花火のように見えたので、それを強くイメージしながら、願掛けをする。
絞りf13.0、1/80秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
カンナ。日没直後の撮影。原画にON1社の “Diffuse Glow”(ディフューズ・グロウ)プリセットを使用。原画に比べると暗部が落ち、光拡散フィルターをかけたように。
絞りf11.0、1/25秒、ISO500、露出補正-1.33。
(文:亀山哲郎)

2021/09/10(金)
第561回:予期せぬ人々の襲来
 SNSにほとんど関わりを持たない(自己発信にはあまり興味がなく、したがって、その必然性を感じておらず、むしろ “今そのようなものと関わりを持ちたくない” との気持が強い。SNSに関しては、ぼくの自己顕示欲は発揮されず、眠っている。それほどSNSに対しては素っ気ない)ぼくではあるが、しかし、拙『よもやま話』のおかげで、何十年も音沙汰のなかった昔の知人・友人から、メールをもらうことが最近は頓(とみ)に多い。突然の来訪者は、何処からここを見つけ出すのか? 「もう我々は、何が起こっても不思議でないお年頃」との思いがそうさせるのだろうか。

 巷では、「ジジ・ババといった高齢者はオールドメディア(主にテレビ、ラジオ、新聞、雑誌など)一辺倒であり、そこで見聞きした偏った情報を信じて疑わない。あるいは意図的な捏造報道しか見ていないから、すぐに騙されてしまう。テレビや新聞を唯一の情報源(特に政治や世界状況など)としている恐ろしい人もいる」といわれるようだが、ぼくは「昨今、身の回りを見渡してみると、あながちそうともいえない」と感じている。ただ、オールドメディアに対する評価はもっともなもので、非常に正しい。新聞もテレビも、あの体たらくでは衰退の一途を辿りつつあることは当然至極だ。
 また、例によって話が他にぶっ飛んでしまう。「もとい!」。
 
 三日にあげずカメラをぶら下げ、近隣徘徊をしていると、ぼくよりご年配と覚しき男女が、スマホをサクサク操作している姿をよく見かける。
 花の名前が分からない時なども、ぼくの傍らでスマホのアプリを操作しながら、「これっ、これだ!」と、画面を見せながら教えてくれる人もいる。お年寄りは、押し並べてみなさん親切なので(時には恐そうなおばさんがいることもあるが)、こちらもありがたく拝聴している。ただ悲しいかな、その記憶(花の名前)が、帰宅するまで持続するかどうかは甚だ疑問である。

 長年音沙汰のなかった知人・友人の予期せぬメールでの訪問は、まさに予告なしの、「ある日突然」といったところだが、そんな時ぼくは必ず「おや、おや」と決まったような台詞回しをする。なんだか照れ臭いような気持がそういわせるのだろう。誰も見ていないのにね。

 ネットでの公開というのは、こちらの意志や機嫌などにお構いなく、「何時、何処で、誰が」見ているか分からない。このことは、前回にも述べたが、ネット世界は、いろいろな面で功罪相半ばというところなのだろうが、こちらは相手を選択できないのだから、不気味である。ぼくのように半ば鳴りを潜め、庵を結び隠遁しようとしている者にとって、まことに油断ならない。

 だがしかし、もらったメールに電話番号が記されていたら、ぼくはパソコンのキーボードを叩くより先に、迷うことなく、少し胸を躍らせてスマホのプッシュボタンを押すことにしている。
 そして、照れ隠しに「おあいにくさま。どっこいオレはまだ生きているぞ。どうだ!」というようなことを電話口に向けて返す。なんだか仕返しをしたような気になって、ぼくは少々の得心をするのだが、この歳になると、話題は直ちに病気自慢に収斂されていき、それに輪を掛けて競い合ったりするものだから、まったく始末に負えない。辛い病気について話す時、どうして人はあれほど嬉々とするのだろうか。それは、「全治したぞ」とか「克服したぞ」との合図なのだろう。病気自慢は快癒あってのことだ。
 病気自慢についてのぼくの負けず嫌いはこの際眠らず、際限なく自己顕示に突っ走る。痛風、結石に2度の癌、最近はめまい、吐き気、耳鳴り、腰痛が同時進行するときているから、オレは病気の大看板なのだと嬉しそうに大見得を切っていたりする。ぼくも彼らと同じ穴の狢(むじな)じゃないか?
 
 彼らの無秩序な急襲に遭いながらも、声を聞いて相手の昔の姿形を瞬時に思い起こすことができるのだから、ぼくはまだボケにはほど遠いのだと、取り敢えずひと安心する。声の音色や調子などは、個人差もあるだろうが、総じて非常に生っぽく、年を経てもさほど変わりがないことに気づく。
 「どんなジジ・ババになっているのだろう」とその容姿を盛んに勘ぐるが、なかには50年ぶりという人もおり、しかしその姿の変容が窺えず、声を頼りに、彼もしくは彼女の実像を面白く想像していた。まるでタイムマシーンに乗って悠久の時を流れ落ちるような感覚にぼくは襲われた。突然の知らせというものは、程良い安心と刺激をもたらしてくれるボケの良薬なのかも知れない。

 特に、このコロナ禍にあって、みなさん不要不急(この行政的な言葉の使い方はおかしいんじゃない)の外出は避けろとのお達しもあってか、自宅に閉じ込められ、悶々としていたのだろう。そんな気運もあり、ぼくをからかいに来たのだろうと思っている。

 今回は、最近見たYouTube(写真関係)について触れようと思ったのだが、何十年ぶりかのジジ・ババたちの襲来に圧倒され、写真のことも、カメラのこともそっちのけで書いてしまった。1 / 561回というのは、たまたまの範疇に入るのではないだろうか。写真掲載があるのだから、どうかご寛恕を乞うといったところだ。
 担当諸氏からお叱りのメールか電話が舞い込むかも知れない。願わくば、電話でなく、メールで苦言を呈してもらえればと、勝手なことを考えている。
 電話だと、「あ〜たは、 “たまたま” じゃないでしょ〜!」という鬨(とき)の声が、耳鳴りとともに聞こえてきそうだ。 

http://www.amatias.com/bbs/30/561.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ダリア。原画はもう少し赤が鮮やか。Adobe Photoshopのチャンネルミキサーで補整したものをイメージに従って何通りかレイヤーで重ね、ブラシで削り取る。
絞りf4.0、1/100秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02さいたま市」
花名分からず。ほぼ原画通り。
絞りf6.3、1/50秒、ISO200、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/09/03(金)
第560回:Web展終了のお礼、並びにその考察
 拙稿でご案内させていただいた我が写真倶楽部の1ヶ月半にわたるWeb写真展が先月末日をもって無事終了いたしました。多くの方々にご覧いただき、また、貴重なご意見を賜り、まことにありがとうございました。この場をお借りして、みなさまに心よりお礼申し上げます。
 昨年に引き続きのWeb写真展は、私たちにとって新たな試みでありましたが、忌むべき疫病蔓延のため、それもやむなしというところでした。デジタル時代(インターネット時代)の流れに沿っての選択肢でありましたが、この方法についてぼくは功罪半ばすと考えております。ある意味、文明の利器がもたらす宿命のようなものだとも考えています。得るものがあれば、そこには必ず失うものがあるという定めなのでしょう。便利さの裏には、失うものがあるのだということを覚悟しなければなりません。

 功の部分は、遠方(国内、国外とも)に居住される方々やご年配の方々にわざわざ出向いていただかなくても済むことや、感染の恐れを避けることができることなどでしょう。
 私たちが、恒例の美術館での開催を取り止めた理由は、申すまでもなく疫病感染という大きなリスクを負うことにありました。そのリスクを冒してまで開催すべきかどうかとの判断は、とても難しいものがあり、倶楽部内でも意見の分かれるところでした。美術館での開催よりWeb展のほうが好ましいと考えているメンバーはひとりもいないというのが実際のところです。
 「にも関わらず」の決断は、目に見えぬ病原体の蔓延に荷担してしまう可能性があるとの気持からでした。まさに「後ろ髪を引かれる思い」と「断腸の思い」が重なり合って、Web展の遂行は苦渋の選択でした。

 罪とまではいえないまでも、負の部分は、やはりバーチャルでの世界は人間同士の、肉体的にも精神的にも、血の通った往来に著しい欠損を生じることにありましょう。モニター上での観賞は、意見の交換などがバーチャルであるので、やはりジジィにとっては違和感のあるもので、ぼくは自身の作品の「仮の姿」をみなさんに見ていただいているような気に襲われました。相手の顔が見えないというのは、なんとも不思議な感覚でした。
 しかし、「あちらを立てればこちらが立たず」というシーソーのような不文律というか、そこには変えることのできない原理原則が立ちはだかっていたのだと思います。
 作品をご覧いただきながらの会話や挨拶が、いってみれば “ face to face ” でないというのは、誰しも不安を呼び起こすものです。お互いの表情や仕草、口調から、感情のやり取りができないもどかしさは、やはり隔靴掻痒(かっかそうよう)の感ありというところです。

 デジタル写真が市民権を得るようになって久しいですが、やはり自分の写真はオリジナルプリントで見ていただきたいとの気持が、ぼくなど古い質の愛好家は、おそらく若い人たちより何倍も強いのではないかと思います。ぼくは特にフィルム育ちの人間ですから、なおさらなのでしょう。
 しかし、時代に逆らう気持は毛頭もなく、否むしろ新しいテクノロジーを積極的に取り入れ、それを使いこなすことに興味津々といったところなのですが、写真を見ていただくことに関しては、「やはりプリントでしょう!」との気持から脱することは難しいようです。そのくらい印画紙には強い思い入れのようなものがあります。

 その時に描いたイメージを苦心惨憺しながら暗室作業により作り上げ、それを直接鑑賞者に見ていただきたいとの思いはまっとうなものでありましょう。何百何千通りのモニター上で再現される自身の作品もぼくの作品には違いないのですが、そこには何千通りの亀山があらぬ姿で出現しており、どれがぼくの本当の姿であるのか、その解決や決着はどのように成されるのでしょう。
 ぼくが人様の写真を鑑賞することになった時、作者のモニターとぼくのそれがどのくらい異なるのか、その乖離の大小を窺い知ることはできません。考えてみれば、それは空恐ろしいことのように思われます。
 今年も大きな作品展の審査委員をしましたが、その審査はもちろんモニター上ではなく、実物を会場に並べて行いました。審査などは、特にそれが順正なことであろうと思います。

 他人のモニターでの再現は、極論すれば、あくまで自分の姿は他人任せであり、これほど居心地の悪いものはないとぼくは感じます。ぼくの姿は唯一無二のプリント表現で見て欲しいと願うことは、贅沢でも、我が儘でもないと思っています。

 先の見えぬこのコロナ禍で、ぼくらの生活様式が少しずつ変化せざるを得ない状況に追い込まれています。来年の4月にはすでに埼玉県立近代美術館での開催が決まっています。なんとか疫病が沈静化の兆しを見せ、Web展ではなく(同時開催もありかな?)、オリジナルプリントを展示し、みなさまにご覧いただけることができますよう願っています。
 今回はみなさまにWeb展のお礼の気持をしたためようとの思いから、気がつくと何時になく、「です・ます調」で書いておりました。

http://www.amatias.com/bbs/30/560.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF50mm F1.8 STM。

埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
どうやっても良い構図を得るための足場が確保できず(他の植物を踏んでしまう)、カメラを片手で持ち、バリアングルを頼りに撮る。
絞りf4.0、1/250秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02さいたま市」
クレオメ。ピンクの可愛い花だが、それはぼくの意に添わないので、冷黒調のモノクロをイメージしてシャッターを切る。
絞りf5.6、1/50秒、ISO250、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/08/27(金)
第559回:健全なる精神は写真に不向き
 いわゆる「義理立て」をしなくて済む年齢というものが果たしてあるのだろうか? もしあるのだとすれば、それは何歳の頃なのであろうか? そして、どのような理由であれば「義理立て」の放棄を世間様から容認されるのであろうか? と、寝返りを何度も打ちながら、ぼくにしてはかなり真面目に考えてみた。「不義理の許可」を考えるようになったのだから、やっぱりそれは歳を取ったということの、ひとつの証なのではあるまいかと思う。

 ぼくがこのようなことを真面目に顧みなければと思うようになったことの一因は、最近あちらこちらに不義理を重ねているからだ。これほど居心地が悪く、精神衛生に悪いことはない。不義理をしてはいけないことは重々承知なのだが、あれやこれやの雑務に追いかけられ、本来すべきこととの優先順位が逆転し、どうにも身動きが取れずにいる。いろいろなことが、先延ばしとなり、そしてそれが自分への言い訳の繰り返しともなり、精神がか細く、軟弱なぼくはこんなことできっと自律神経を冒され、寿命を縮めていくのではあるまいかと思念している。また、それはやむを得ないことと受容もしている。

 迫り来る期日に怯えながら約1万5千字の駄文(写真にまったく関係のない事柄についての頼まれ原稿)を丸4日もかけて書き殴り、書き終わるや小休止を取る間もなく、半ば本能に突き動かされるように、カメラをリストバンドに巻き付け、当てもなく彷徨った。しかし、うだるような暑さに、ぼくの生半可な本能はすっかり萎えてしまった。 
 中腰になりファインダーを覗いているだけで、汗が噴き出し、息も上がり、腰も痛く、とても撮影に挑むというような果敢なる精神を保てない。肉体もまた然りである。猛暑のなか、心身ともにすぐにあごを出してしまった。こんなことはかつてなかったのにと、ぼくは悄然とし、虚ろな目で彼方を見遣っていた。

 余談となるが、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とローマの詩人がいったとか。これは精神と身体の相互関係と解釈されているが、それは誤りで、現在は誤用がまかり通っている。
 今それはさておき、ぼくはそれを少し捩(もじ)り、写真は一般にいうところの健全なる精神の持ち主には至って不向きなものであると考えている。これは断言してもいい。多くの写真愛好家と称する人たちに接し、身をもって感じ取ったことである。そのような人はどうも写真より、他のことに精を出したほうがいいのではないかとさえぼくは思っている。
 いや、写真ばかりでなく、物づくりはすべからくそれが当てはまる。極論すれば、世間の一般常識に頼りすぎる人、いわゆる「堅物」(生真面目で、融通が利かず、冗談が通じない人)は、物づくりに向いているとは到底言い難い。
 「猿は人間に毛が三筋足らぬ」そうだから、それを捩れば、反対に髪の毛が猿より3本足らぬくらいが、物づくり屋にはちょうどよいのではないかと思う。常識的な作品ほど退屈なものはない。

 話を元に戻すと、お盆の明けた今、ぼくの周辺では花の種類も少なく、やたらひまわりばかりが目につく。揃いも揃って、何故かみんな東を仰いでいる。きっと「ひまわり組合」のようなものがあって、組長の「東向け、東!」との号令に従い、同じ方向に顔を向けている。聞くところによると、成長期にある若いひまわりは、夕方には太陽を追ってちゃんと首を捻り西に向くのだそうだが(ぼくは気づかなかった。というより、意識したことがなかった)、ホントかなぁ? ひまわりはご承知の通り、漢字で「向日葵」と書くので、やっぱり本当なんでしょうねぇ。
 種子を育まなければならぬひまわりは人間でいえば初老らしく、もう首が固くて回らないとのことだ。どこか人間と似ているね。ぼくは他の理由で首が回らないのだけれど。
 初老のひまわりは種子育成のため、全員一斉に東を向き、逆らうことも覚束ないのである。誰か1人くらい個性に溢れ、気骨稜々たる御仁はいないものかと子細に観察をするのだが、そのような成らず者は見つからない。ひまわりって、大きな顔をして咲くくせに、けっこう気の小さい烏合の衆のようだ。

 ひまわりは、ぼくが今まで一番多く撮った花に違いない。盛花でも、朽ちても、ぼくの感覚からすれば、絵にしやすい花の最右翼なのだと思う。
 うだるような暑さで、撮影を諦めたぼくは、それならと、決してきれいとはいえない朽ちかけた茶褐色の大きなひまわりと炭化したような子振りなものを農園のおばちゃんに譲ってもらい、家に持ち帰った。といっても、家に持ち込めば必ずや家人に嫌な顔をされることは確かなので、今車のトランクに入れてある。週末にでも、気が乗れば枯れたひまわりをこっそり自室に持ち込んで、自然光で撮ってみようと思っている。

 しかし、何故朽ちた花や作物に多くの人は感情移入をしないのだろう? したがって、ぼくの撮るそれらはきっと不人気の極みなのだろうと、ぼくは本心よりシニカルな笑顔を浮かべ、そしてほくそ笑んでいる。
 今、写真展をWebで開催中だが、ぼくの撮る花を称して、それはぼくの「人生観」や「原風景」そのものなのであろうとのメールを何通かいただいた。ぼくをよく知る人たちの意見だが、そのような解釈はきっと少数派なのだろうと思っている。ぼくはコマーシャルの写真屋なので、特に女性が胸に手を当てて、「まぁ、きれい!」と叫んでくれるような花の写真を撮るのは造作もないことと、偉っそうにいいたいが、しかし「そんなものを撮って、お前は嬉しいか?」と自問するに決まっている。やっぱりぼくは非常識の出来損ないでいるほうが心地いい。

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は今月一杯です。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com

http://www.amatias.com/bbs/30/559.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
今まで撮ったひまわりは裏側のほうが圧倒的に多い。魅せられる部分が多いのだろう。黄色い花弁が鮮やかだが、これは当初からモノクロをイメージして。
絞りf9.0、1/50秒、ISO800、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
暮れなずむ空を背景に。「みんな、東向け、東!」というところ。
絞りf5.6、1/60秒、ISO250、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/08/13(金)
第558回:青春の血潮
 「ワクチン打った?」というのが仲間の合い言葉のようになって久しい。かくいうぼくも、2度目のワクチンを接種し、時間的にはすでに免疫ができており、主治医にいわせると「本来ならもうマスクをする必要はないが、このご時世、要らぬ難癖をつけられる恐れがあるので、君子はマスクをしたほうが良い」のだそうだ。ぼくはいつの間にか君子に大化けしているらしい。

 ぼくの生きて来たたかだか70年余の間に、これほど酷い疫病が世界中に蔓延し、多くの人々に苦しみを与え、そして膨大な犠牲者を出すとは夢にも思わなかった。人類史を振り返れば、医学の進歩した現代であっても、いずれ、恐ろしい伝染病が人類に襲いかかってくるであろうとの予感はあったが、まさか自分の人生の晩年になってとは考えもしなかった。
 武漢コロナは、倹(つま)しい一介の写真屋の活動を極端に制限し、また晩年の貴重な時間を無残にも奪い取っているのだ。

 2度のワクチンを済ませて、その効果はどれほどのものか当人には分らないが、この熱暑が和らぎ始めたら、少しずつ疫病以前の、自分の写真を撮るための行動様式に戻ろうとの意を固くしている。様子を見ながら、撮影の行動範囲を徐々に広げていきたい。
 感染しにくいということは、他人に移しにくいということでもあるので、ぼくは副反応のリスクよりこちらを優先した。人様に迷惑をかけることなく、医療体制の逼迫をも緩和し、少しでも晴れた気持で写真を撮りたいとの思いが先に立った。もしかして、医者さんのいうが如く、ぼくは君子に化けているのかも。いや、「化けて」いるのではなく、「気取って」いるのかも知れない。

 この1年半、我慢の甲斐もありせっかくいろいろな花とも馴染みができたので、今後も彼らと上手くお付き合いをしていきたいが、中断を余儀なくされている街の佇まいや人物スナップ撮影の勘を取り戻さなくてはと思っている。
 何年も撮り続けてきたのだから、その勘は案外早く戻ると思いたいが、今、その楽しみと不安が混在しており、気持だけは厚かましくも「熱き青春の血潮」 !? なのだが、おいそれと身体がその血潮に反応してくれそうもなく、どうしても悲観が勝つ。気持に身体がついていかないことを実感することほど悲しいことはない。誰もが体験してきたことを、ぼくは今自分のこととして、信じ難い思いを抱きながら悲嘆に暮れている。
 また、多くの人々は、ある年齢に達すると、社会や家族に対する義務や責任から解放され、肩の荷を降ろすことができるらしいが、どっこいフリーランスの物づくり屋というのは、息絶えるまで自身へのそれから逃れることはできないのだと思う。良いものを作る義務と責任を自ら背負い、そのような生き様を演じざるを得ない種族だとぼくは考えている。それは宿命のようなもので、やはり、君子など気取っている場合じゃないのだ。

 先日、暑い最中に、いつものように貸し農園の周辺を徘徊していたら、盛りを過ぎた鬼灯(ほおずき)の実がいくつか地面に落ちていた。鬼灯というのはどこか情趣があり、子供の頃は、実のなかを取り除き(よく揉んで柔らかくし、皮を破らぬように芯を慎重に取り除く)、それを口に含んで音を鳴らして遊んだものだ。
 積み重なった枯れ枝の上に落ちていた何個かの鬼灯に子供時分のそんな懐かしい思いを乗せて撮ってみた(掲載写真01)。演出はしたくないので、落ちていた何個かの散らばっている鬼灯のバランスを吟味し、ありのままの姿を中腰になりながら真俯瞰で撮った。
 ぼくの使用している何種類かの画像ソフトにあるグロウ(Glow。光彩とでも訳すのかな)やグランジ(Grunge。写真用語としては適切な日本語が見当たらない)を何種類か組合わせれば、浮いたように描ける。面倒な選択範囲などを作らずに済み、最小限の作業でイメージ通り描ける。物臭なぼくはそれを頼りに、腰をふらつかせながらシャッターを切った。

 焦点距離50mmの標準レンズを付けていたので、かなり腰を折る姿勢となった。足を開くと陰が鬼灯にかかってしまい、足を閉じ不安定な恰好で速いシャッターを用い、1枚だけ気合いを入れて撮った。
 他人には「何枚か絞りやシャッター速度、露出や構図を変えて撮りなさい」というくせに、相変わらずの横着を決め込んでいる。先日の蓮撮影の失敗もどこ吹く風、ぼくはいつだってまるで他人事のようだ。なので、イマイチ説得力というものがない。

 ファインダー越しに鬼灯を覗きながら、「色合いといい、艶といい、何だかプラスティックのような質感で面白いなぁ。鬼灯ってこんな感じだったかなぁ」とぼくはひとりごちた。3個の鬼灯は、1本の幹から落ちたものであるにも関わらず、それぞれが三者三様の佇まいを示しており、氏も育ちも違うような顔をしていた。自己主張の強い3人の鬼灯たちだった。

 この三者よりもう少し年配と思われる鬼灯がひとつ離れて落ちていた(掲載写真02)。実を覆う表皮が3分の1ほど失われ、繊維が露出していた。被写体としてはこちらのご年配のほうが魅力的であり、惹かれるものがあった。
 仏教でいうところの輪廻転生を思い起こさせ、宗教的でさえあった。この枯れた鬼灯にも、熱き青春の血潮の時代があったのだ。
 ぼくはこれを拾い上げ、持って帰ることにした。自分の部屋で、先輩と覚しきこの鬼灯にじっくり対峙し、流転について学びながら、写真を撮らせてもらうことにした。

 「かめやまからみなさまへのご案内」
 今年4月に埼玉県立近代美術館で開催を予定していたぼくの主宰する写真倶楽部「フォト・トルトゥーガ」の写真展が、武漢コロナのため中止となり、昨年同様Webでの公開をするに至りました。新規に立ち上げたWebは昨年より見やすくなりました。公開期間は8月31日までです。以下のURLよりご高覧に供すれば幸甚に存じます。
 https://www.fototortuga.com

http://www.amatias.com/bbs/30/558.html
          
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
三者三様の鬼灯。同じ親から生まれて、人間と同じだね。
絞りf4.0、1/300秒、ISO400、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
このまま置いておけば、いつかは全部繊維になるのだろうか? ならないよね。
絞りf20.0、1秒、ISO400、露出補正-1.33。部屋の自然光。三脚使用。


(文:亀山哲郎)