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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2010/10/22(金)
第23回:風景を撮る(11)
 「風景を撮る」というテーマにも関わらず、そのことにあまり触れていないじゃないか、とお考えの諸兄もおられるであろうことと思います。ある意味、ごもっともなことなのですが、ここまで述べてきたことは風景にとどまらず、どの分野にも共通することであり、風景写真に特化したものでないことは確かです。

 知識や技術だけで写真は撮れませんが、写真に限らず、何事も道理に適った知識と基礎・基本あってのこと、というのがぼくの考え方です。やみくもにたくさん撮ることが必ずしも無駄であるとも思いませんが、しかし、しなくてもいい無駄とすべき無駄があることをぼくの経験則に照らし合わせて、お話ししているつもりです。しなくてよい無駄を重ねていると上達もままならず、悩みばかりが多くなったり、また「写真ってこんなものか」と言いながら遠のいてしまうことだってあるでしょう。やはり趣味は上達あっての愉しみだと思いますから、まず基本を身につけることが「急がば回れ」なのです。

 紅葉の季節がやってきましたが、紅葉と言っても遠景あり近景ありで撮影の考え方も一様でなく、さまざまなシチュエーションで変わってきます。ぼくはもう20年以上も紅葉目的の写真を撮っていないことを白状しなければなりませんが、今、季節柄いろいろな写真雑誌などで取り上げられていますから、併せて参考にしていただけたらと思います。

 十人十色と言いますから、10人の撮影者がいれば、10通りのイメージがあるわけです。紅葉写真に限定しても、あくまで最大公約数的なことを申し上げるに終始せざるを得ません。撮った写真を前にして、作者の話を聞きながら、「では、こう撮ればもっとあなたのイメージに近づけたね。次回はそれを心がけて」という会話や指導は成り立つのですが、撮影以前にあれこれ指摘できるようなものは、実はないのです。でも、指導者という立場であればなかなかそうもいかず、そこがつらいところです。「あいつはもったいぶって、何も教えてくれない」なんてね。そうじゃないんだってば。

 ですから、本来「このような写真はこう撮るべき」というのはまったくのナンセンスであり、「写真に“べき”はあり得ない」との思いが、良い写真に触れれば触れるほど強くなっていきます。ぼくは訊かれれば、「露出を変えたり、構図を変えたりしながら、光の方向を見定めて、自由に、とにかくたくさん撮りなさい」と一見無責任調(実は無責任ではない)にまくし立てます。いろいろと変化をつけながら撮影して、その結果(どのように写ったか)を頭に叩き込むことこそが最も大切だとの信念を持っています。その結果を忘れちゃだめですよ。ですが、熱心さと向上心があれば、忘れっぽい人(ぼくはその典型)でも大丈夫。たとえ忘れても、繰り返し繰り返ししていれば、次第にいやでも身についていくものです。「同じ事の繰り返しこそが秘訣」と考えています。頭のなかに“経験と体験”の「引き出し」をたくさん作ることだけが、さまざまな状況に対応できる唯一の手段なのです。「あの時はああ撮ってああだったから、今回のこのような状況では、この“引き出し”を使えばイメージ通り撮れるだろう」ということなのです。同じ状況には生涯二度と出会うことがありませんから、「引き出し」はあなたの宝なのです。

 余談となりますが、おそらく世界中でプロ・アマを問わず、露出計(カメラ内蔵の露出計をも含む)を使わずに、露出ドンピシャリの写真を撮れる人はいないだろうと思います。音楽には「絶対音感」というものがありますが、「絶対光感」を人類が持ち合わせることはないのだそうです。ですから、どんなベテランでも露出計に頼らざるを得ません。聴覚にくらべ視覚は著しくあてにならぬのが人類の特質なのだそうです。
 肉眼で見た被写体が、印画紙上にどのように再現されるのかをイメージすることは訓練で成し得ますが、実際の光の強さや光質については撮ってみなければわからないというのが正直なところです。

 遠景の紅葉が最も色鮮やかに映えるのは、まず晴天であること。そして、順光(太陽を背にした時の光)です。太陽に雲がかかり始めると色の鮮やかさが急速に失われていきます。これは肉眼でも容易に確認できます。同時に雲の位置を確かめておく必要があります。特に高地では天候が目まぐるしく変化することがありますから、カメラの扱いに不慣れではタイミングを逃しかねません。天候は自分でコントロールできませんが、光の方向は待つことにより、自在に選択できます。

 晴天の斜光(朝夕)も順光の次に色が映え、順光よりも立体感の表現やドラマティックな表現に向いています。葉の色づきの塩梅とアングルが良しとなれば、そこで何時間も待機して期を窺うくらいの粘りと根性が必要とされます。ぼくは“ 決して待たない(”待てない“ではない)タイプ ”のカメラマンですから、そのようなことはしませんが、そういうぼくを見て、人は「根性なし」とか言います。人の事情も知らず、まったくいい気なものです。

 ここでひとつ心がけていただきたいことは、段階露光(露出を何段階かに変化させて撮影すること)で何枚か撮っておくということです。露出はノーマルで一枚撮っておいて、後で画像ソフトを使い調整すればいい、なんてとんでもないこと!
 面倒臭がり屋さんは、ほとんどのカメラに内蔵されているAEB ( Auto Exposure Bracketing 自動的に露出を変えてくれる便利な機能で、どのくらいの露出幅を持たせるかは、自分で設定する必要あり) を使えばいいでしょう。
 露出を変えると明るさが変化しますが、同時に色の彩度(鮮やかさ)やコントラストも変化しますから、あなたのイメージに沿ったものを後で選択すればいいのです。
 また、順光であればPLフィルタ( Polarized Light 偏光フィルタ) の効果に最も与ることができるので、青空の濃度を調整(暗く)しながら、紅葉をいっそう引き立たせることができます。また、葉っぱの反射も除去されますから、鮮やかさが増すという効果も得られます。フィルタを回転させながら連続可変に調整できますから、風景写真には必須のアイテムです。ただ、露出値も同時に変化しますから(下がる)、単体露出計を使用するより、カメラに内蔵されているもの(TTL 露出計)を使えば間違いのないところです。

 紅葉の近景も基本的には同じですが、遠景と異なるところは、葉を逆光に透かして撮るという方法があります。透けた紅葉はきれいですから、バックとなる背景に気を配ってください。

 PLフィルタを使用すると青空がどう変化するのか、昨日、一昨日と天候が悪く撮れませんでしたので、次号で添付いたしましょう。また、言い訳してる。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/15(金)
第22回:風景を撮る(10)
 前回、レンズの焦点距離による「画角の違い=パース(遠近感)の違い」を、ズームレンズを使う際には特に留意しましょうというお話をしました。留意というより、意識と言う方が正しいのかも知れません。

 なにしろ稚拙な文章なので、実際の写真を使いその違いをご説明した方が賢明と考え、写真も稚拙でありますが、貼り付かせていただきます。

 モデルはロシアのマトリョーシュカ(ロシアの伝統的な入れ子人形)で、この中に同じ形をした人形が8人も入っています。身長は約15cmです。この人形との出会いは、今から23年も前のモスクワででした。ぼくは特別に人形の収集癖があるわけではありませんが、この人形作家のロシア女性が特別に魅力的な人であったために、高価であったにも関わらず、思わずデレッとし、知らず知らずのうちに気がついたら買っていたというものです。観光土産で売られているマトリョーシュカとはひと味もふた味も異なる、やはり特別品と言えます。
 何年か後に再びモスクワを訪れ、彼女との再会を果たそうと・・・、って今そんな話をしている場合ではなく、ご興味のある方は拙書『やってくれるね、ロシア人!』(NHK出版2009年)をご参照のほど(この場を借りてちゃっかり宣伝)。

 添付写真は01(焦点距離20mm)、02(焦点距離35mm)、03(焦点距離50mm)、
04(焦点距離100mm)、05(焦点距離200mm)です。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/21.html

 マトリョーシュカの大きさをほぼ同じに撮っても、焦点距離の異なるレンズでは背景やパースにこれだけの差が出るという実例です。
 マトリョーシュカは不動とし、カメラの位置はモデルの大きさや方向を一定にするため、01〜05は同一線上に移動しています。絞り値はすべてf 8で、同一条件です。パースの違いだけでなく、背景のボケ方も異なっているのがお分かりでしょう。望遠レンズ(作例では04と05)を使うことによりバックが大きくボケ、被写体が浮き上がってきますね。また写る範囲も狭まりますから、余計なものが画面に写り込まないという特徴が表れています。このことは、ポートレートや花の撮影の項目もいずれ設けますので、その時にご説明しますが、記憶の片隅に置いておいて下さればと思います。
 広角レンズから望遠になるにしたがって、マトリョーシュカが不動であるにも関わらず正面を向いてくることにもお気づきでしょう。
 焦点距離の異なるレンズを使い分けるということは、つまり主人公の背景にどんな役割を演じさせるかということなのです。音楽で言えば主旋律を奏でる楽器があり、他の楽器はどのような和音や旋律を歌い、より主旋律を引き立たせるかということと同じなのです。

 なお、ここで使われている焦点距離50mmという数字はあくまでもフルサイズ(36mm x 24mm、従来のフィルムの標準的サイズ)の受光素子を持ったカメラでの焦点距離を示します。デジタルではフルサイズの受光素子を持ったカメラは稀で、一般的にはこのサイズより小さい受光素子を持ったものが大半です。作例のカメラはフルサイズ受光素子を持つキヤノンEOS-1DsMarkIIIです。
  
 一眼レフカメラではAPS-Cサイズ(各社により若干の違いがありますが、23.4mm x16.7mmの受光素子)とかマイクロフォーサーズ(フォーサーズとは英語の4/3という意味で、17.3mm x 13mmのサイズの受光素子)が多用され、コンデジ(いわゆるコンパクト・デジタルカメラ)はさらに小さく(例えば1/1.7インチ7.6mm x 5.7mm)、解像度も限界があり、より細密な風景描写を求める人には不向きと言えます。
 フルサイズで焦点距離50mmのレンズと言った場合には、APS-Cサイズの受光素子を持ったカメラはより望遠となり、実画像は50mm x 1.5倍ないし1.6倍となり、75mm〜80mm相当の焦点距離を持つレンズだとお考えください。カタログなどには「35mm換算でxxmm」という表示がしてあるのはそのためです。同じ50mmと言っても、受光素子の大きさの違いにより、焦点距離の考え方が異なってくるのです。

 添付写真にはうっかり他人の車のナンバーが写ってしまいましたので、その部分だけぼかしました。通常、このようなこと(写真の一部をぼかして分からなくしてしまう)は決してしないのですが、Webの性格上そういたしましたこと、ご了承ください。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/08(金)
第21回:風景を撮る(9)
 前回に「総合点でズームが圧勝してしまった」と述べましたが、誤解を招くといけませんので、補足しておきます。
 
 ぼくのテストした単レンズAとBズームレンズ、Cズームレンズ、そして単レンズDとEズームの比較に於いての結果です。ですから、いつの場合でもズームレンズの方が勝っているということではありません。ぼくのテストしたズームレンズは、某カメラメーカーのフラグシップモデル(メーカーの最高級モデル)でしたので、そのような結果を導いたのかも知れませんし、普及型のズームレンズですと結果は異なったかも知れません。“ある限られたレンズでのテストに於いては”という条件付きの結果として受け止めてもらえればと思います。

 ぼくの主宰する写真集団『フォト・トルトゥーガ』の何人かがこんなことを言っていました。「ズームレンズを使わずに単レンズにしてみたら、その方がずっと気楽に写真が撮れるし、実際に画角が決まりやすいですね」と言うのです。
 ぼくは現在、私的な写真ではズームレンズを使うことはまずありませんから(仕事では使います)、彼らは指導者まがいのぼくを手本にと試みたのかも知れません。ただ、この指導者は極めて偏屈な人間ですから、現在焦点距離28mm(かなりの広角レンズ)のレンズにご執心で、どこへ行くにもこの2年間はそればっかりという片意地ぶりです。
 ある時期は35mm、またある時期は50mm(標準レンズ)ばかりという時期を繰り返し繰り返し過ごしてきたものです。特に若い時代には、心酔したフランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson、1908-2004年。「決定的瞬間」という言葉を発明した写真家)は50mmしか使わないと知って、明けても暮れても50mmという時期があったくらいです。

 ぼくは『フォト・トルトゥーガ』の人たちに「何ミリのレンズを使いなさい」などと言ったことは一度もありませんが、ズームレンズを使うことの功罪は述べてきたつもりです。
 ズームレンズの功の部分は、「焦点距離が連続可変に使える」というこの一点のみだとぼくは断言して憚りません。レンズの焦点距離の違いによる差異は“画角”にありますが、それは言い換えれば“遠近感(パースペクティブ。以下パース)”の違いとも言えます。画角の違い=パースの違い、に気がついていないと、ただ画角が異なるだけ(見える範囲が異なるだけ)と勘違いを起こしてしまうのです。パースも同時に変化していることに気がつかなければいけないのですが、それを感知している方は意外に少ないのです。画角とパースは常に同居しているものですから、自分が動かずにズームを使って、被写体を近づけたり、遠ざけたりして構図を整えようとすることを、「横着」と言います。

 パースとは、広角になればなるほど、手前にある物体と遠方にある物体との大きさの比率が異なって表現されることです。近くのものはより大きく、遠くのものはより小さく写ります。反対に望遠はその差が縮まるのです。遠近感が少なくなりますから、距離感が圧縮されたように写ります。
 言葉による説明だけでは実感しにくいと思いますので、次回にその差を実際の写真にてご覧いただければと思います。今回は引っ越しという私的事情によりサンプルを作る時間が取れず、申し訳ありません。

 「焦点距離が連続可変に使える」とは、例えば焦点距離23mmだとか46.5mmが使えてしまうということなのです。ぼくの知る限り単レンズでそのような焦点距離を持ったものは世の中にはありません。ズームレンズは、レンズ交換という煩わしい作業をせずに自由な焦点距離を可能とする、こんな素晴らしい機能を備えているのです。それがズームレンズの持つ唯一の長所です。

 功罪のうち、一番の罪は前述したように、自分が動かずに被写体を近づけたり、遠ざけたりしてしまうことです。便利さに負けて、不動のお地蔵さんになってしまうことです。この癖が身に染みてしまうと、焦点距離の違いによるパースの変化になかなか気がつかないということになります。主被写体の大きさはそのままにして、背景をどう演じさせるかという写真についての重要な操作が身につかないのです。

 世の中には、18-200mmとか28-300mmなんてとんでもない倍率のズームレンズがあるんですね。今、ネットで調べて初めて知りましたが、こんな横着レンズを使いこなすには、相当レンズや写真というものに精通していなければ、とてもとても無理。便利ちゃ〜便利だろうけれど、これで一体何撮るの? っていう感が拭いきれませんね。

 余計なお世話と知りつつも、未だズームレンズしか使ったことのない向きに、ぼくはぜひ単レンズを一本(どのメーカーでも標準レンズの50mmが最も安価なので)お薦めしておきたいと思います。安い、軽い、明るい(言い換えれば、速いシャッタースピードが得られるということです)の三拍子に加え、構図を整えるには自分が動かなければなりませんし(よって健康にも良い)、焦点距離によるパースの違いにも気がつくはずですから、良いことずくめです。百利あって一害なし! をお約束いたします。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/04(月)
第20回:風景を撮る(8)
 ズームレンズ全盛の時代となりました。誰も彼もズームレンズ。かく言うぼくももちろん何本かのズームレンズを所有しています。実に重宝なものだと認めるにやぶさかではありませんが、一方でどうしても愛情が持てないというのも事実です。可愛げがないんだもん。本題からはずれてしまいそうなので、その理由を詳しく述べることはいたしませんが(いつだって本題からはずれているじゃないか)、ズームはお手軽時代の寵児ともいうべきものですね。そして、これだけズームがもてはやされる理由は、その性能が飛躍的に向上したことと、カメラが市民権を得て、写真を撮るという行為が一般化したからでしょう。またその便利さにもあるでしょう。一家に一台どころか、携帯電話を含めれば、一昔前とは比較にならぬほどの超様変わりです。

 ぼくは未だにズームレンズというものに対して、偏見ではなくトラウマを抱えています。時期的に言うと二時代前くらいのズームの性能は、どうみても褒められたものではなかったからです。ひどい目に遭ったとの印象が未だに拭い去れないのです。自分の技術の未熟さを棚に上げて、レンズのせいにしていますが、いや、それにしても、ズームはひどかった。解像度は悪いし、コントラストはヘナヘナだし、収差は出まくりだし、やはり腕だけの問題じゃないね。ズームに対し、恨み骨髄に徹し、「もってけ、どろぼ〜」とばかり、二週間使ったきりで友人に「これ便利だからあげるよ」って、タダでくれちゃいました。その友人は未だにぼくを恨んでいます。それを“逆恨み”とか“盗人猛々しい”とか言いますね、日本語では。ぼくは「便利」だとは言いましたが、「良いレンズ」だとは言っていませんし、まして売ったわけでもないので、恨まれる筋合いのものではありません。

 20歳代から分不相応に、ライカやC. ツァイスのレンズ(ハッセルブラド)道楽に明け暮れていました。親元で暮らしていましたし、父の「知るなら一流のものを知れ。持つなら一流のものを持て」という主義にも助けられ、給料のすべてを注ぎ込めたおかげなのでしょう。自分なりに「良いレンズ」の味を占めていましたから、なおさらズームのヤクザぶりに我慢がならなかったのです。

 第2回で、「写真はカメラやレンズが撮るのではなく、人間が撮る」のだから、どのようなものを使ってもいいのだとぼくは述べました。ぼくの言わんとする趣旨に、上記と矛盾があるとご指摘の諸兄もおられるかも知れませんが、ぼくがそのような結論に達したのは、ライカやツァイスに散々道楽をした結果なのかも知れませんし、また人間的に成長?! したからかも知れませんし、あるいは写真というものの本質に近づけた?! からなのかも知れません。その何れなのかはぼくにはわかりませんが、秀でたものを手にすることにより、多くのことを学べた事は確かなことですし、亡父には言葉にできぬくらいの感謝をしています。

 さて、現在のズームレンズの出来映えに、ぼくは決して大げさな言い方ではなく瞠目さえしています。「ズームレンズは決して単焦点レンズ(以下“単レンズ)にかなわない」とおっしゃる単レンズ信奉者が未だに多く見られます。ベテランほどそのような意見を持たれているようです。どの部分を比較してのことなのかがほとんどの場合示されていませんので、ぼくも図りようがないのですが、推測するにそれは多分解像度や収差にあると思われます。確かに、収差(レンズによって像ができるときに発生する色づきや、像にボケやゆがみを生じることである。このボケやゆがみは、物体の点が点像にならないことを指す。これらの収差が複合された像ができる。※出展、ウィキペディア)はレンズの設計上、特にズームでは難しい問題があるでしょうし、さまざまな種類の収差を解決しようとすると、“あちらを立てれば、こちらが立たず”のいたちの追いかけっこに似た部分があるのだと、メーカーの技術者から伺ったことがあります。

 ぼくはかなりのテスト変質者であり、自分でも身の置き場に困るくらい神経質にテストをしなければ気の済まない質でした(過去形)。でないと恐くて新調したレンズを使えないという損な性分なのです。

 あるメーカーの名レンズといわれる単レンズと最新のズームを比較して(もちろん三脚使用の同条件で、近接、中距離、無限大の距離でそれぞれ。天候も晴れ、曇り、スタジオ用ストロボなどなど、できる限りの公平性を保ちながら、かなり膨大な枚数を撮ることになります)、我が目を疑いました。総合点でズームが圧勝してしまったのです! 狼狽いたしました。「そんなわけねぇだろ〜!」という具合です。

 レンズには個体差というものがありますから、メーカーから同じ単レンズを2個お借りして、再度試したところやはり結果は同じでした。
 その瞬間から、ぼくのズームに対する不信感は完全に払拭された、と言うほど、やはり単純な問題ではありませんが、必ずしも単レンズがいつも優れた結果を導き出すわけではないということです。ぼくの不信感はむしろ、単レンズ絶対勝利を疑わぬ人たちに向けられたのです。

 で、ぼくは何を述べたいのかと言いますと、ぼくの主宰する写真集団での撮影旅行で、広々とした風景を前に35mm一眼レフ使用の生徒の一人に訊ねられたのです。「こういう場合、絞り(f値)はどのくらいが適切なのですか?」と。普段、撮影会で技術指導はあまりしない(威張っているわけではありません)ことにしています。もちろん理由あってのことです。よく撮影会などで講師が「ここはこの絞り値で」というほとんど無意味(撮影者のイメージを斟酌していないと思われるので)と思われる言葉を耳にすることがありますが、この時ぼくは初めて、「f 8〜11」という実践的な指摘をしました。

 このような広々とした風景を前にして、そして狭い展望台なので撮影位置を選びづらいという条件も重なり、質問者がどのようなイメージを描いているのかが窺えたからです。そして、使用しているレンズはズームでした。風景写真を撮る人のほとんどは、葉の一枚一枚が出来る限りしっかり解像して欲しいと願うものではないでしょうか。そのような観点からf値を指定したのです。

 レンズというものは単レンズ、ズームに関わらず中心部からはずれるに従って解像度が悪くなります。それは収差に起因するものなのですが、収差の軽減を絞り値で変えることができる、その類の収差もあるのです。それを考慮しての「f 8〜11」なのです。

 特に風景写真では、自分の使用するレンズの一番美味しい絞り値を知っておくことが重要で、行き当たりばったりの絞り値では、写真のあがりもシャキっとしたものにはならないということなのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/24(金)
第19回:風景を撮る(7)
第19回:風景を撮る(7)

 きれいな写真を撮る条件の一つとして、被写体に合った、もしくは表現意図に合った露出を適用しなければなかなか思い通りにはいかないということを以前述べました。
 さて、ここで言う“きれいな”とはどういうことなのかを定義するのはとても難しいことだと思います。十人十色と言いますけれど、それで片付けてしまうにはあまりにも短絡的ですし、またそれを認めてしまうと作品が独りよがりなものになる可能性があります。写真ばかりでなく、どの分野でも普遍性あってこその“美”なのだとぼくは捉えています。

 写真を始めて間もない人と何十年も写真に取り組んできた人(プロアマを問わず)の“きれい”だとか“美しい”という意味の捉え方は自ずと異なって然るべきですが、光を確実に受光素子に移さなければならない点では、初心者もベテランも同じであるはずです。
 何度も繰り返しますが、「基本技術あっての自己表現」です。現今のカメラはシャッターを押せば取り敢えずなにかが写りますから、それで事足れりなのですが、それでは応用が効きません。いざという時にあたふたしてせっかくのチャンスを逃してしまうということにもなりかねません。

 絵ハガキのような写真をきれいだとする人もいるでしょうし(前者)、絵ハガキのような状況説明写真を撮って、なんの面白味があるの?と指摘する人(後者)もいます。人も様々、写真のありようも様々です。本来はそこに線引きなどないはずなのですが、一般的には絵ハガキ的写真に近いものがより受け入れられ易く、より多くの支持が得られるのは事実でもあり、また今の写真界の暗澹たる現状でもあります。
 だとしても、やはり初めは記録としての写真から始めるのが順序でしょう。趣味として写真に取り組むのであれば、どうしてもぼくは後者に肩入れせざるを得ませんが、Webというのは紙媒体と異なり、なかなか読者諸兄の顔が見えにくいもので、したがってあまり断定的なことも言えず(?)どこに焦点を合わせてお話すればいいのかが未だに把握できていません。で、ぐずぐずと書き連ねてしまうのです。
 趣味を通じて自己の意志や感情を表現するという行為が創作と言えるのだろうと思いますし、“創作”なんて堅苦しく大仰な言葉を使わずとも、それが写真の妙味でもあり醍醐味でもあるのです。

 さて、ここからが本題です。風景写真に限らず、まず露出の仕組みを知って下さい。
 今はどんなカメラにでも「内蔵露出計」が搭載されており、それを頼りにみなさんは写真を撮っておられるんですね。シャッタースピードや絞り値など、カメラが自動的に露出値を算定し、「これで撮りなさい」と教えてくれる。「これで撮ってもそうヤバイことにはなりませんぞ」とカメラは仰るのですが、そんな台詞をどうか鵜呑みにしないでください。ヤバイことが往々に起こってしまいます。露出計ってかなりヤバイやつなのです。
 最近は単体露出計を持ち歩き写真を撮っている人をほとんど見かけなくなりました。ぼくも私的な写真にはカメラ内蔵の露出計の値を基本にしながら調整していますが、やはり仕事となると単体露出計のお世話になることが多いようです。

 露出計の測光方式には二通りあり、カメラ内蔵のものは「反射光式露出計」と呼ばれるもので、光源下の被写体自体の明るさを計測します。それに対して、単体露出計は「入射光式露出計」として使われ、被写体ではなく、光源自体の明るさを計るものです。「入射光」と「反射光」とでは、測光の方式がかなり異なります。「反射光式」の利点は速射性に優れているということです。また、ここでは触れませんが、風景写真家の第一人者であるA. アダムスの開発した「ゾーンシステム」は「反射光方式」の露出計によって計算されます。

 今回はカメラ内蔵の「反射光式露出計」の仕組みをお伝えしましょう。カメラには測光方式と呼ばれるものがあり、例えば取扱説明書などに「中央部重点測光」とか「平均測光」とか「スポット測光」とかいろいろ書かれていますが、原理は同じで、どの部分を重点的に測光するのかという違いだけです。
 “原理”と書きましたが、カメラに示される露出値とは、光源下の被写体の濃度が無彩色の「18%中間グレー」になるような値(シャッタースピードや絞り値)を示します。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/30-19.html

18%とは光の吸収率です。ですから例えば無地の純黒や純白をカメラの値通りに撮っても、純黒や純白には表現されず、「18%中間グレー」になってしまうということなのです。黒い物は黒く、白い物は白く写ってくれないと困ります。そこで、露出補正というものを活用するのです。
 ただ、この世には純黒や純白の物質は存在しませんので、黒板や白板を撮っても、厳密な「18%中間グレー」にはならず、「18%中間グレー」近辺と考えるのが現実的です。

 まったく無地のものを撮るという機会はほとんどありません。どんな被写体でも立体物であれば、そこには様々な明度が存在します。その平均値を露出計が算出し、表示してくれるのです。

 スポット測光などで、例えば黒人、黄色人、白人などを同じ光源下で測定し、カメラの指示通り撮ると、人種の肌色に関係なく「18%中間グレー」の顔をした新人種が理論的には出現してしまいます。また、雪なども白ではなく、グレーの雪になってしまいます。
 黒人なら露出補正をマイナス補正(露出アンダー)、黄色人はそのまま(ノーマル)、白人はプラス補正(露出オーバー)するようにしています。この考えはスポット測光での考え方ですが、ファインダーやモニターで見る実際の被写体にはさまざまな輝度のものがありますから、そこが悩みの種。
 「入射光方式」の単体露出計では、肌の反射濃度を測るのではなく、光源の明るさを測るわけですから、基本的のこのような不都合が生じにくいのです。それぞれ、一長一短です。

「18%中間グレー」とはどのくらいの明るさなのかを知っていただくために、貼り付けましたが、ここがWebのいい加減なところで、AさんとBさんのモニタでは、精密な分光測光器でキャリブレーションをしていない限り、同じグレー濃度には見えないという難点がありますが、おおよそのところがわかっていただければと思います。

 なお、今回のお話はカラー、モノクロに関係なく、同じ原理とお考えください。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/17(金)
第18回:風景を撮る(6)
 多くのフリーカメラマンを抱える編集プロダクションの編集者に、「カメラマンさんって、みなさんとても汗っかきですね。そういうものなのですか?」と、聞かれたことがあります。きっとカメラマンを不可思議な人種だと思っていたのでしょう。なかには唐草模様の鉢巻きを得意げに巻いている、変な嗜好のカメラマンもいるそうです。実はぼくなんですが・・・。
 ぼくは、「ぼくらの作業を見ていて、あなたは気がつかないの?」と聞き返しました。カメラマンが汗っかき人種なのではなく、撮影という作業はかなりの肉体労働ですし、加えてプロの機材はカメラやレンズ(故障などを考えて必ず2台以上は持参)、その他にライティング機材やそれに付随する様々な道具が必要なのです。そのどれもがとても重量のあるもので、なかには一人で持ち運びできないようなものもあります。プロ用機材というのは、メーカーは機能やデザインより、まず故障しない頑丈な製品を作ろうとしますから、どうしても重量が増してしまうのです。「重量のある物=頑丈=安心感」という定言的三段論法が成り立つのです。三脚などはそのいい例ですね。ですから、真冬でも、それらを移動したり、セッティングするだけで、もう汗が滲み始めます。ここまでは純粋な肉体労働による汗です。

 次に、冷や汗と脂汗が加わります。撮影現場でイメージが湧いてこなかったり、適切な画角やアングルを発見できなかったりすることを恐れての汗。カメラやライティングを撮影目的に合致した設定にしているかどうか、そこに誤りがないか、その入念な確認作業による緊張の汗。現場に於いて最も重責を担うのはカメラマンですから、その精神的重圧はかなりなものです。クライアントの厳しい目を背に感じつつ、時間的制約のあるなか、一つ一つの作業を的確に、確実に行わなければ、明日から家族が路頭に迷うという思いに囚われることもしばしば。汗、汗、汗の日々、というわけです。カメラマンに太目の人が極めて少ないのは、このような理由によるものだとぼくは勝手に決めつけています。この新説はおそらく正しいものだと思います。
        
 撮影とは往々にして予期せぬトラブルに見舞われますから、そういう時こそ沈着冷静に対処しなければなりません。そこで問われることは、自分の使用している機材の機能や性能をどのくらい正しく理解し、しっかり把握しているか(使いこなし)ということと、基本的な技術をどこまで確実に身につけているか、どんな状況下でも適切に対応できる技術を習得しているか、ということです。これはプロもアマも程度の差こそあれ、パニックを避けるための考え方としては同じです。

 ぼくは他人にくらべ冷や汗と脂汗の量が際立って多いようで、それはもう何十年、何千回の場数を踏んでいても、撮影時にはやはり上気しているため(俗に言う“あがって”いる)汗の量が減ることがないのでしょう。けれど、慣れることがないので、いつまでも写真に熱中していられるのだと、最近気がつきました。そして、慣れほど恐いものはないということにも気がついたんです。
 撮影時の熱っぽさと冷静さがほどよくバランスしていないと写真はままならないということを、ついでながらお伝えしたいと思います。
 
 で、ぼくは前回の続きとして「バンダナ」の効用をお話しようと思っていたのですが、話が曲がってしまいもう元には戻れなくなってしまいました。冷静じゃないんですねぇ。

 マレーシアに行った当時はまだフィルム時代でしたから、フィルムの保管には異常なほど気を遣いました。日本から持参した数百本のフィルムを、ホテルの冷蔵庫に保管しておくのは至当なことですが、その日の撮影に合わせた本数を暑いなかに持ち出すのですから、やはり結露には気を配りました。結露の防ぎ方はすでにお話しましたので繰り返しませんが、不自由だったことは、その日の撮影のために持ち出した50本くらいのフィルムをすべてカメラバッグに入れて、取材現場をあちらこちらと回らなければならなかったことです。現場移動はほとんど車ですから、必要であるフィルム本数だけカメラバッグに入れ現場に行き、残りは車中に置いておくことができなかったことです。このことはマレーシアに限らず日本の夏でも事情は同じです。フィルムは高温や湿気にとても弱く、そのような状況下に置かれると、初期性能が失われ、発色や感度などが保証できなくなってしまう恐れがあるのです。

 今はデジタル全盛ですが、駐車中の車内は異常なほどの高温になりますから、カメラやレンズを置きっぱなしにするのは御法度です。盗難の恐れは別問題として、カメラやレンズは精密機器だということをどうか忘れないでください。    
 世の中には、子供さえ車中に置きっぱなしという人が時折いるのですから、カメラを置きっぱなしにする人は、た〜くさん、た〜くさんいると考えても不思議ではありません。
 また、陽の当たるところに置きっぱなしということも避けてください。特に黒いカメラは熱の吸収率が高いので、カメラ内の温度は相当に上がってしまうと容易に想像できます。ついでながら申し上げておきますと、机などにカメラを置く際に、カメラストラップを机から垂らしておかないこと。ストラップを丸めてカメラと一緒に机の上に置いてください。垂らしておくと何かの拍子で、不注意にも引っかけてしまう可能性があります。そのために、カメラを床に落とし壊してしまったベテランのアマチュアをぼくは二人知っています。壊れたカメラは修理でなんとかなりますが、精神的なショックから、しばらくは撮影意欲を失ってしまったとのことでした。

 前回と今回は「風景を撮る」の議題から外れてしまいましたので、次回から真面目に(いつも真面目なつもりなのですが)このテーマに戻りたいと思います。どうぞ、悪しからず。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/10(金)
第17回:風景を撮る(5)
第17回:風景を撮る(5)

 ここ何回か、露出についてのちょっと理論的(理屈っぽい?)話が続いていますので、息抜きとして海外ロケに行った時の話を挟み、その後再び議題の「風景を撮る」に戻りましょう。

 今から17,8年前のことです。マレーシア政府の招聘により、当時、国家元首だったマハティール首相夫人の主催する「麻薬撲滅キャンペーン」に参加することになりました。マレーシアは「黄金の三角地帯」(タイ、ビルマ、ラオスの山岳地にまたがる三角地帯のこと)で、世界最大の麻薬密造地帯と言われていました。“ビルマ”は正式には“ミャンマー”ですが、“ミャンマー”を使わず“ビルマ”と呼ぶのは、この軍事政権をぼくは国家として認め難いという、非常に個人的な理由からです。

 黄金の三角地帯が近くにあるために、そこから麻薬が容易に、しかも非常に安価にマレーシアに流入して来るという、国家として憂うべき問題を抱えていたのです。麻薬所持についての法律は非常に厳しく、ヘロインは15g所持、マリファナは150g所持(現在は200g)で、自国民(マレーシアは、マレー人、インド人、中国人の多民族国家)でも外国人でも即死刑。ただし、中毒患者は病人であるから、この法は適用されないのだとか。
 ぼくが滞在した時にイギリス人女性が麻薬所持で死刑の判決を受け、エリザベス女王がさかんに助命嘆願をしていましたが、当時の元首であるマハティール首相が「自国の法律を犯した者は、マレーシアの法に厳格に従ってもらう。助命嘆願を聞き入れることはできない」と現地の新聞に書かれてありました。死刑の是非はともかく、元宗主国のイギリス女王に対して毅然とした態度を表明したマハティールさん。なかなかやるなぁ、どこかの国と大違いだと感嘆したものです。

 毎年、政府は大々的に麻薬撲滅キャンペーンに力を入れてきたのですが、なかなか効果が表れなかったようです。イマイチ説得力に欠けるとの理由の一つが、街中に貼られている「Anti Dadah」(反麻薬)のポスターが、写真ではなくイラストだったからだと担当者は考えたそうです。毎年イラストなので、素朴な担当者は、今年は写真でいこうと思いついたらしいのです。そこで、誰かに写真を撮らせようということなったらしい。写真の持つリアリティや真実味を大いに評価して、それを利用して麻薬の恐ろしさを国民に啓蒙しようと考えたようです。
 回り回ってか? 報道カメラマンではないぼくにその話が持ち込まれました。ジャンキー(薬物依存症)をどうやって撮るのさ?

 ぼくは、「写真は真を写さない」が持論ですが(もちろん、加工などしないことは言うまでもありません)、まぁ一般的に言えばイラストより写真の方が現実感があると考えたり、もしくはそのような見方をする人の方が多いかも知れません。写真の方が“いかにも本当らしく”、“いかにもそれらしく”見えますから、素朴な担当者がそう考えたとしても罪はありません。

 日本を出発する前にマレーシア側から言われていたことは、「撮影したフィルムは国外持ち出し禁止」ということだけでした。海外に持ち出されて「マレーシアはこんなひどい国だと宣伝される恐れがないとは言えない」というのがその理由でした。ぼくは現地で担当者と会った際に、「麻薬問題はマレーシアだけの問題ではなく全世界的な問題なのだから、ぼくの撮ったフィルムはそのために多少の役に立つと思う」という意志を示したのですが、聞き入れてもらえませんでした。
 ということは、どんなに気に入った写真が撮れたとしてもそれを自分の手元に置いておけないことと、日本の友人知人に見てもらうにはマレーシアに来てもらうしかないということです。そのようなデメリットはありましたが、麻薬というものは人類史のなかでも様々な役割を担ってきたものであり、また病理学的中毒以外に、「麻薬的」という言葉もあるのだから、“なぜ悪いと分かっていて人はそれを止められないのか”、“なぜ人類はそのような宿痾を背負うのだろうか”、という未来永劫かつ摩訶不思議な大問題をも、撮影をしながら一気に“解決”しちゃおう(“探求”ではなく、“解決”というところが大胆過ぎる)と興味本位で引き受けてしまいました。かく言うぼくは、もう何十年もタバコを止められずにいます。今風に言えば「止める止める詐欺」ですかね。
 
 マレーシアの気候はちょうど今の日本のような状況で、暑いのなんのって。暑くてムシムシ。写真どころじゃない。レンズの汚れを取ろうと息を吹きかけると、しばらくはその曇りが消えないというエキゾチックの極みで、その発見はカンドーものでありました。また、冷房の効いた車内から外に飛び出すとカメラが結露(第11、12回参照)しちゃうのだから、シベリアと大差ないのです。

 麻薬捜査官にガードされながら、怪しき場所に立ち入っての撮影。ムシ暑いなかを歩き回るわけですから、全身汗ぐっしょり。白いTシャツ一枚のぼくは、乳首もヘソもくっきりと判るくらいシャツが肌にへばりついている。ところがぼくをガードしてくれている捜査官たちはまった汗をかいていないのです。あまりにも悔しいじゃありませんか。汗腺の数とか仕組みが違うらしいですよ、我々とは。

 日本は暑い暑いと言ったって(今夏は特別ですが)、やがて秋が来て、冬が来て、春が巡ってくるから救いがあるのでしょうが、しかし、マレーシアの人びとは生まれてから死ぬまで、この暑さのなかで過ごさなければいけない宿命に晒されているわけですから、やはり神は、人類を平等には扱ってはいないのです。
 なぜかクアラ・ルンプールのデパートでは毛皮のジャンパーなどが売られており(なにかのステータスらしいのですが、まるで冗談としか思えません)、ステータスなどではなく、ただのヤケクソと解釈した方が自然です。冷房の効かせ方もヤケクソですからね。

 閑話休題。汗が目に入ったり、ファインダーが曇ったりするので撮影もままならないことになってしまいます。知恵のないぼくは考えました。所謂バンダナ、これが最高!カメラマンにバンダナを巻く人が多いのはファッションではなく、必然から生まれたものなのです。

 ロケ話と写真話をかろうじて結びつけることができホッとしています。ロケ話だけですとスイスイ書けるのですが、どこかに写真的情報を入れないと諸兄に叱られそうで・・・。
 「バンダナがいいって言うけれど、じゃー、女性はどーすんのよー。“風景を撮る”のとどー関係があるのよー」と言われないうちに今日はここで打ち止めにしてしまおうと思います。

(文:亀山 哲郎)

2010/09/03(金)
第16回:風景を撮る(4)
 雲ひとつない空は別にして、空は二度と同じ表情を示してくれません。当たり前のことですが・・・。つまり、何十年生きていても、青空にぽっかり浮かぶ雲に、同じものはひとつとして出会えないということです。時空は取り戻せませんが、記録したり、記憶をリアルに呼び戻すことはできますね。それが写真の面白さでもあり、役割のひとつでもあります。

 風景写真は大まかに言えば、(“大まかに言えば”ですよ)、広い場所で撮ることが多いのではないでしょうか。ですから画面上、地平線を中心にして、空の占める割合は平均的には1/2〜1/3前後の場合が多いと考えていいかも知れません。そんなわけで、空の表現はあなどれないということになります。

 ぼくはいつも空を一種の発光体として捉えています。特に、曇天時や雨降りの空は、太陽の光を遮りながら(太陽は“点光源”だと前回お話しました)雲を照射し、その雲を通過する際に光を拡散して地上に届けていますから、まさに大きく、広い発光体なのです。面光源(発光体が点ではなく、広い面という意味です)下の物体はハイライトからシャドウまでの輝度域が晴天時にくらべずっと狭くなり、フィルムやデジタル受光素子の表現領域に収まりやすく、したがってその表情は柔らかくもあり、美しくもあり、といった長所を生み出します。この状態の空はいわゆる“面光源”ですので、地上でのコントラストは低くなり、撮影しやすくなります。が、ここにもやっかいな問題が生じるのです。

 ファインダーやモニターで広い面積を占める空は面光源の発光体ですから、地上の物体に露出を合わせると空が白く飛んでしまうのです。“飛んでしまう”とは、情報がないのでいくら画像ソフトなどでその部分を暗くしようとしても変化してくれません。ここがデジタルの辛いところとも言え、また難しいところでもあるのです。フィルムは暗室作業やプリント方法の原理が異なりますから、デジタルにくらべて、まだ救済の余地があるのですが、ですから本当はデジタルの方が露出に関してはずっと神経質にならざるを得ません。
 ほとんどの方がデジタルだと推察しますので、デジタルを中心にお話を進めていきます。

 ここまでのお話は、前回にお話したことと重複する部分が多々あり、また少々執拗であることも重々承知しています。この執拗さをぼくの質と捉えるか、熱心と捉えるか、文章の構成が下手くそだと捉えるかは、諸兄におまかせするにしても、経験上、露出というものについて言い過ぎるということはないと常々考えています。そのくらい露出には気を配っていただきたいという思いと、空の扱い方によって写真全体の印象が大きく変わってしまうことを常に体験し、また失敗による後悔も度々しているからです。

 無地に近い灰色一色の空が画面の半分くらいを占めてしまう場合、露出の測光方式にもよりますが(スポット測光を除く)、地上のものに露出を合わせると、間違いなく空は“白飛び”を起こします。帰宅して、パソコン上で補正しようにもどうにもなりません。これは、平易に言えば非常に「やばい」状態です。

 露出というものが何を基準に、そしてどんな約束事により定められているのか、その原理を知らない限りは、前回にも申し上げましたように、“段階露光”(露出を変えて何枚か撮っておく)をするのが最上の方法でもあり、勉強にもなるのです。“段階露光”は一種の保険と考えてもいいと思います。毎日、何百枚と写真を撮るプロだって、たった一枚で適正な露出で写真を撮れることはそうそうあることではないのです。特に、ぼくのような“へたっぴー”な写真屋は殊更です。

 よく“適正露出”という言葉が使われますが、これは物理的な原理に基づいての露出(明部を飛ばさず、暗部をつぶさず)という意味で使用される言葉ではありません。それは、作者のイメージに沿った露出という意味に解釈して下さい。ハイライトを真っ白に飛ばしてしまいたいとかシャドウ部を真っ黒につぶしてしまいたいという場合だって往々にしてあり得ることなのですから、そのような作者のイメージに適った露出設定(露出値)を“適正露出”という言葉で言い表します。ですから、“適正露出”とは、同じ物を撮るという条件下でも、個人によって異なる場合があるということです。ある人は、明るめに表現したいとか、またある人は暗めにということは、撮影会などでいつも経験していることです。“適正露出”とはあなたの作画イメージを、受光素子により正確に記録するための用語と考えてください。
 とは言え、やはり物理的な露出原理を知っていなければ、露出操作はままなりませんから、まず露出の基本をしっかりと身につけ、応用できるようになることが、きれいな写真を撮る第一の秘訣だと考えていいでしょう。

(文:亀山 哲郎)

2010/08/27(金)
第15回:風景を撮る(3)
 雲ひとつない晴天下はコントラストが強く撮影には困難が伴うと前回書きました。なぜ晴天はコントラストが強いのかという理由を簡単に述べておきましょう。

 光は、光を発する光源が小さければ小さいほどコントラストが強くなるという性質を持っています。晴天というのは太陽を遮る雲がないために、太陽自体は物理的には非常に大きいものですが、朝夕を除けば地上から見る太陽の大きさは点光源と考えてもいいくらい小さなものです。点光源とはつまりとても小さな光源を意味します。
 舞台で歌手や登場人物を照らすスポットライトも点光源の一種ですから、光の当たった部分はかなりの輝度(明るさ)がありますが、同時に影もかなり濃いものとなります。舞台写真をきれいに撮るのが難しい理由のひとつはここにあります。

 太陽を遮る雲の面積が広かったり、厚さがあればあるほど光質は柔らかい(コントラストが和らぐ)ものとなって、フィルムやデジタル受光素子の再現可能域に近くなります。雲によって光が拡散され光源が広くなるのでコントラストが低くなるのです。ぼくの体験を総体的に語れば、薄曇りの状態がカラーもモノクロも都合がいいと言えるでしょう。
 晴天下と言っても、まるで雲がないという状況はそうそうあるものではありません。ぼくはその統計など取ったことはありませんが、どこかに雲はあるものです。薄い雲もあれば濃い雲もありましょう。撮影会などで、「あの雲が間もなく太陽を遮ると思うから、雲の濃淡を計りながら、それまで待ちなさい!」なんて命令口調で言いますが、ぼくは非常に堪え性のない男ですから待てないのです。しかし他人には、指導者という立場上、「待つくらいの意欲がないと良い風景写真は望めないよ」なんてね、言っちゃうんです。どんな顔して言っているんだか?
 ぼくが“待たない”というのは立派な(と本人だけが思っている)理由があるのですが、テーマとは離れてしまいますので、割愛。

 晴天下における自動車の下などは(影になっている部分)肉眼でもなかなか地面の質感がわかりにくいものですが(ですから、運転者は犬や猫の存在に気をつけてください)、曇天や雨の日のそれは晴天下にくらべてはるかにわかり易いはずですね。影の濃度が薄いからです。
 この現象は他にも、例えば窓から差し込む直射日光に照らされた物のコントラストが、レースのカーテンや障子を通過することにより(光源が広くなる)明暗比が狭まり、柔らかく感じるのと同じ事なのです。

 風景写真には不似合いのストロボ使用ですが、話のついでに述べておきましょう。通常ストロボの発光面積は小さいですから、室内撮影時などストロボ光を直射したりすると被写体の後ろにかなりキツイ影が出てしまいます。これはとても見苦しいものです。それを避けるために、ストロボの首を上下左右に振れるものなどでは“バウンス”(間接照明法)という手段を用います。ストロボ光を天井などに当てるわけです。それは天井に当たったストロボ光=光源の広さとなるわけですから、小さなストロボの発光面が広い天井に照射され、天井自体が発光面となり、柔らかい光となります。そのために影が出なかったり、出ても見苦しさを避けられる程度のものとなります。取り扱い説明書などで“天井バウンス”と呼ばれるものです。白い天井などではとても効果のある方法です。天井が白とは限りませんが、色の付いたものにバウンスさせると色かぶりというやっかいな問題が生じます。デジタルはフィルムよりはるかに色補正が容易ですから、デジタルありがたや、本当にありがたや、というところです。フィルムでは絶望的に不可であります。

 プロの撮影現場などでスタンドに傘が取り付けられている場面がTVコマーシャルなどで散見できますが、あれはスタジオが雨漏りするわけではなく、ストロボを傘に反射させて、広い面積の光源を確保するための物なのです。

 では、晴天下の午後は不都合なことばかりなのかというと、いいこともあります。逆光(太陽が正面)でない限り、色の彩度が上がりより鮮やかな発色が得られます。また、被写体全体が明るいためシャッタースピードや絞り( f 値)の選択の幅が広がります。当然、低いISO感度が使えますから、画質にも有利です。
 雲のない真っ青な空は確かに表情に乏しいのですが、それでも濃淡はありますから(太陽の真向かいに位置する方角の空が最も暗い。真南に太陽があれば真北の空が最も暗い)、その濃淡のグラデーションを利用したり、フィルターをかけたりして、非常に印象的な作画を試みることもできます。その代表的なフィルターが「偏光フィルター」( PLフィルター、 polarizing filter もしくはpolarizer)と呼ばれるものです。風景写真のお好きな方はぜひ偏光フィルターを常備されるといいでしょう。でないと、“もぐり”と見なされても仕方がありません。「偏光フィルター」については機を改めて述べます。

 天候は人間が操作することはできませんから、晴天下撮影の注意点はまず露出補正にあるということです。これは、一枚限りで終わりにするのではなく、何枚か露出を変えて(1/2〜1絞り刻みでいいでしょう)撮っておくということです。露出を変えることで明度は当然変化しますが、色やコントラストの変化、輝度の表現域も自然と学ぶことができます。デジタルはフィルムのように費用がかさみませんから、その効用を大いに生かしてください。

 「風景を撮る」という命題はしばらく続きますが、少しずつ(出し惜しみではありません!)進めていきましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/08/24(火)
第14回:風景を撮る(2)
 お盆休みをいただきましたのでちょっと間が空きました。今回は風景の「空の表現」についてお伝えしたいと思います。

3.風景写真に限らず野外での写真はほとんどと言っていいくらい空が入ります。ぼくは「空の表現」にことさら意識を集中、というか気にかけるタイプのカメラマンなのです。風景写真は、画面の1/2〜1/4くらいの面積を空が占めるので疎かにはできないという考えに基づいているからです。また、空は背景の一部ともなり得ますので、主被写体と同じくらいの重きをおいています。空の表現の違いで写真の印象が非常に大きく変わってしまうことは、みなさんもすでに体験されていることでしょう。
 晴天、例えば雲一つない天気。それは世間では「良い天気」とされますが、写真を撮る者にはとってあまり喜ばしいものではなく、歓迎すべき状況とは言い難いのです。いわゆる「ピーカン」と呼ばれるものです。これは撮影者にとって一種の責め苦と言ってもいい気候条件です。理由は、コントラストが強すぎることと、雲がないために空がのっぺらぼう(つまり表情に乏しい)になってしまうからです。
          
 では、なぜコントラストが強すぎると困った事態が発生するのか、以前に申し上げたかどうか記憶が定かではないのですが(この猛暑のためにぼくの脳味噌はふやけて記憶喪失を患っています)、人間の目が見分けることの出来る明暗比は約1 : 20,000と言われています。それにくらべてフィルムやデジタル受光素子の明暗表現域はせいぜい1 : 200くらいです。絞り値に換算するとだいたい7絞り〜8絞りくらいのものなのです。

 肉眼では陽の当たったまぶしい部分も影の部分も認識することができますが、カメラの表現域はこれほど広くはないので、陽の当たった部分(ハイライト)が真っ白に飛んでしまったり、暗部(シャドウ)が真っ黒につぶれてしまったりして、とても始末の悪いことになります。そのような写真は一般的に決して美しいとは言えず、どちらかと言えば“ばっちい”です。

 自然界の光の濃度域を印画紙の濃度域にぴったりと合わせるメソード(風景写真家A.アダムスの提唱した”ゾーンシステム“)や、また、デジタルではPhotoshopを活用したり、HDR( ハイ・ダイナミック・レンジ) と呼ばれる機能やソフトを利用する方法もありますが、今回のテーマとは外れますのでここでは触れません。

 このような「ピーカン」はプロと言えどもお手上げなのです。空はカメラの指し示す露出値でブルーに表現できますが、空以外の部分をハイライトからシャドウまで質感を損なうことなくくまなく写真に収めるにはまことに不都合な条件なのです。絵柄や表現意図により一概には言えませんが、そのような条件下、無難な方法としてはシャドウ部を犠牲にしてハイライト基準の露出補正をするのが一般的です。コンパクトデジカメにも“スポット測光”(被写体の部分的な露出を計る仕組み)のできるものが最近は出回っていますから、それが役立ってくれます。

 その際に、表現したいハイライト部をスポットで計り、カメラの指示してくれた露出値より約1絞り〜2絞り露出補正をプラス側に(露出オーバーに)設定するようにします。
 例えば、スポット測光でハイライトの測定値が絞りf 8, シャッタースピード1/250 秒とカメラが指示すれば、シャッタースピードはそのままに、絞りをf 5.6 ( “ファインダー内で“+1” と表示されます) 〜f 4(同じく”+2” )くらいに露出補正機能を使って変えてやればいいのです。
 あるいはf値を変えたくないという場合もあると思います。その場合はシャッタースピードを変えてやればいいのです。f 8, 1/250 秒を基準とするなら、絞りはf 8のままで, シャッタースピードを1/125秒〜1/60秒に変えてやります。その補正(調整)をいわゆる“露出補正”と言い、露出補正を使いこなすことが、きれいな写真を撮るための大きなファクターだと言えます。
 少し、話がややこしい(これは関西弁ですかね? “込み入って複雑”という意味です)くお感じになったかも知れませんね。文章が不手際で申し訳ありません。実際にやってみれば簡単なことなのですが・・・。

 なぜ、ハイライト部を大切にするか(ハイライト部重点測光)という理由は、デジタルでは真っ白に飛んでしまった部分は情報が ”0” (つまり情報がまったくない)なので、画像補正ソフトを使って飛んでしまった部分をいくら暗くしようとしても、コントロール不可能だからです。
 ハイライトにくらべシャドウのつぶれは(完全につぶれたものは致し方ありませんが)、ハイライトより粘り強く情報を保持してくれますから、情報があれば画像ソフトを使ってシャドウ部を持ち上げることが可能です。ただ、そのようなシャドウ部にはノイズ(実際には存在しない色、これを偽色といいますが)のザラつき感は否めませんが、真っ黒につぶれた状態よりはよいでしょう。特に高感度で撮影したものはノイズが顕著に現れます。
 ぼくのようにほとんどがモノクローム表現という場合にはあまり気になりませんが、カラー写真を主体とした方はISO感度は許す限り低い感度での使用をお薦めします。感度を低くするほどノイズが低減されるからです。

 「空の表現」についてはまだまだ多くを述べなければなりませんので、次回に続けることにいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)