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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2025/11/07(金)
第763回 : 三井寺の石仏
 本稿(第757回)でぼくは「高尾山冬季無酸素単独登頂」を果たすと明言したので、そろそろ尻を叩かなければとの切羽詰まった思いに囚われている。登ってからいえばいいのに、先に宣言してしまうところがぼくのぼくたる “あかんたれ” の所以だ。
 “あかんたれ” とは関西言葉で、性格や能力を表現する便利な言葉であり、標準語の「だめな人」、「役立たず」、「情けない人間」にあたる。 “あかんたれ” はより語感が柔らかく、使い方によって微妙にニュアンスが変化するので、標準語に置き換えることは難しい。いつもいうことだが、標準語は無味乾燥で、素っ気なく、味わいがないので、文章力に乏しいぼくは、どうしても方言に逃げたがる。

 「さてそろそろ高尾山」と思いきや、考えてみればこれから紅葉シーズンを迎え、今月中旬から12月初旬までは大変混雑するとのこと。人混みが大の苦手であるぼくは、現在戸惑いを隠しきれずにいる。山登りの途上、あちらでもこちらでもスマホをかざしながら、ぼくの苦手な「映え写真」を撮ろうとする人でごった返すに違いない。それを思うだに、ぼくは怖気(おぞけ)を震う。
 記録写真として(作品として撮る人もいるかも)、人々はこぞって紅葉にスマホを向けるのだろう。それにぼくは何の異論もない。楽しみのうちのひとつであろうから、他人がとやかくいう筋合いのものでないことは十分に承知している。

 ただ、その先にあるものに、「半ば化石写真人」のぼくは悲観を隠しきれない。今やSNSは生活の一部となり、それも時流というものだろう。時代とともに様々なものが変化を遂げていくことを容認することもまた現代に生きる者の、一種の逃れざる流儀ともいえる。従わざるを得ないのだろうと思う。だが、ぼくは今のところSNSを利用することとは距離を置いている。

 何故SNSから距離を置いているかといえば、自身の恥をこれ以上晒したくないとの一心からだ。自分の写真をSNSで世間一般に晒し、「いいね!」をたくさんもらえばもらうほど、その写真は「ダメ写真」を証明しているようなものだと確信している。ぼくは露わな臍曲がりなので、自分の写真が褒められようが貶されようがまったく意に介さない。それは驕りではなく、自分の写真に足りないものを承知しているからである。足りぬところをどう補い、克服していくかに七転八倒しているまさに発展途上人である。謙遜などではなく、まだまだ中途半端であることを実感している。もっともっと洗練と深味が必要だ。

 紅葉は眼で愛(め)でることにぼくは何の異論もない。それどころか、自然の美しさと魔力に魅了される。畏敬の念さえ抱いている。ぼくも20代の頃に、尾瀬や上高地で紅葉相手にリバーサルフィルム(カラーポジフィルム)をライカに装填し、夢中で撮ったものだ。ぼくにもそんな時期があった。
 見事な紅葉をフィルムに収めた時の歓びは未だ忘れ難いが、だがその類の写真はいつしか心の中で色褪せていった。どの写真もきれいなのだが、自分独自のものが発見できず、写し取ることができなかった。因って何かが心のなかに欠落していると感じたものだ。そして、一見きれいな風景写真をぼくが撮る必然性を感じない。ぼくの写真人生には不要なものであることを、「ただきれいなだけの写真」から学んだ。

 また、紅葉ばかりでなく、モノクロで新緑を如何に美しく表現できるか(アンセル・アダムスの提唱するモノクロフィルムとフィルターワークの実験に勤しんだのは30歳手前だった。この話は1話を優に要するので今回は触れない)の探究のため、大型カメラを担いで、東北の山々を駆け回ったこともある。
 フィルム時代のことだが、それは現在のデジタルを駆使するうえで大変役立っている。デジタルデータからの、モノクロ変換のノウハウと露出補正は、フィルムもデジタルも同じ考え方に基づいている。

 紅葉や新緑について少しばかり文字数をオーバーしてしまった。今回掲載の石仏写真について、いつもより多く記すつもりでいたのだが、字数が間に合うか心許ない。

 三井寺の「衆宝観音」と「童地蔵」。広い境内を歩き回り、その終盤にさしかかり、いささかくたびれ果てていたところ、「衆宝観音」と「童地蔵」の前にさしかかり、ぼくはその見事さに釘付けとなった。古いものではないが、ぼくはこれほどに美しくも優しく、品位に満ちた石仏は久しくお目にかかったことはない。ぼくの心にしっくりはまり、「何としてでも、意図した通り写真に収める」との意を固めた。

 ファインダーを覗くことなく、肉眼で光りと造形を心で感知しようと、微に入り細を穿って石仏を観察。幸いなことに、曇天下の面光源のため柔らかい光が射していた。出会った当初より「これはモノクロ写真」と決めた。
 イメージが描けたところで、合掌をし「不束者ですが、1枚だけ撮らせていただきます」とぼくは健気に呟き、ここで初めてファインダーを覗いた。肉眼とのズレ(アングル)をファインダー内で微調整。当初より焦点距離は70mm、絞りはf4.0と決めていた。シャッタースピードとISOはカメラ任せ。

 もう何十年も前のことになるが、仕事で国宝や重要文化財の仏像を、ライティング機材を用い、たくさん撮ったことがある。この時の目的は、ポスターや関連書物(図録)ならびに学術関連の目的を含んでいたので、今回の自然光下の石仏とは撮影の考え方や技法はまったく異なるが、あの経験あってこそのものだとしみじみ感じ取った。
 仏像撮影の体験がなければ、出来不出来は別としても、今回のような写真にはならなかったと思う。過去の真剣勝負が思わぬところで役立ったと、ぼくは改めて今回の石仏に感謝の手を合わせた。

※帰京してから三井寺に電話をし、仏師の名を伺った。石彫家・大仏師の長岡和慶氏と教えていただいた。

https://www.amatias.com/bbs/30/763.html   

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
滋賀県大津市。

★「01三井寺」
「衆宝観音」。看板にはこう記されている。「三十三観音のひとつ。衆宝とは衆生が求めてやまない財宝のことで、右手を岩の上に置き左手を立て膝の上に置く特異な観音様です。以下略」
絞りf4.0、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.33。

★「02三井寺」
「衆宝観音」の隣に置かれた「童地蔵」。
絞りf4.0、1/50秒、ISO 100、露出補正-0.33。
 

(文:亀山哲郎)

2025/10/31(金)
第762回 : 本懐は寝て待つ?
 原稿を担当氏に送った後の2,3日間、「次回はこのテーマを取り上げよう。うん、それがいい、それにしよう」との思いに至るのだが、実際に執筆当日になるとそれらの良案 !? がきれいさっぱり記憶から消え失せている。なんたること。
 懸命に思い返そうとするのだが、どう足掻いても出て来ない。つい先日まで頭にあったものが、人格零落の元凶であるパソコンを前にすると、糞詰まり状態(びろうな表現ですいません)となり、ぼくは一気にめげる。気の弱りに襲われてしまうのだ。便秘の苦しみを幸いなことにぼくは未だ知らないのだが、それを肉体的苦痛だとすれば、記憶の消失は精神的苦痛となる。

 人は、「思いついた時にメモしておけばいいじゃないか」とすまし顔でおっしゃる。なるほどとは思うが、ところがどっこい、ぼくはそんなマメな性格ではないので、十分に予測できる事態に対応しようとしない。「おれに限って、忘れることなどあり得ない。第一、メモを取るような面倒なことなど」と自信過剰が招く災いなのだが、そうとは知りつつも、近頃頓(とみ)に思い出せて当然のことがなかなかできずにいる。未だ若い頃の記憶力に頼ろうとしている自分の愚かさに気づいていない。  
 世間ではそれを「愚図」とか「あまのじゃく」とか「ものぐさ」というらしいのだが、とどのつまり生来の「ぐうたら」というわけだ。だが、人前をつくろうことが元々嫌いなのだから仕方ない。

 来年1月の運転免許更新のため、過日運転免許認知機能検査に出向いたのだが、検査の全工程を待たずして「合格」のサインが出、ぼくは自信を取り戻した。同輩たちの顔が次々に浮かび、ぼくはどこか誇らしげだった。「どうよ、おれはまだ捨てたもんじゃない」というわけだ。
 「特に固有名詞が出てこない」と同輩たちは異口同音にいう。今やそれが挨拶代わりの言葉のようになり、悲嘆に暮れる他なし。それはぼくとてまったく同様で、故に代名詞のオンパレードとなる。しかし、ジジババは年の功で、それで会話が成り立ってしまうという恐ろしくも壮絶な世界が繰り広げられる。

 最近は固有名詞ばかりでなく、普通名詞も出てこないことがしばしばあり、思い出そうと要らぬ労力を費やす。この現象による苛立ちは、特に原稿執筆時に好んで出現するから、本当に始末に負えない。
 この嘆きは、若い人には理解してもらえないだろうが、同輩たちも「刹那的記憶障害」は同じであろうと推察すると多少は気が休まる。おそらく、「同病相憐れむ」といったところであろう。こんなことで同情し合うのはやはり惨めだ。

 さて、それは自身の写真に対しても当てはまるのであろうかと、ぼくはしきりにぐうたらな頭脳をかき回すのだが、耄碌の自覚がない分、結論は常に楽観的であり、また「牽強付会」(けんきょうふかい。自分に都合の良いように強引に理屈をこじつけること)を伝家の宝刀のように振り回す。心の片隅には「ものには限界というものがあるのかも知れない。もう進歩や新たな発見が見出せないのではないか」との不安を打ち消すことができずにいる。
 だが「写真は、他とは別物だ」が、現在唯一の心の支えであり、拠り所ともなっている。

 最近は被写体を前に、「どう撮ればいいのか?」と、額に油汗を浮かべ、心臓の鼓動は速まり、ドギマギしている自分がいることに気づく。以前は、程度の差こそあれ、このような心的軋轢を生むことはなかった。
 「被写体をじっくり観察すること。何が主人公で、そして脇役なのか。光りをよく見定めてアングルを決める。光りの照射角は自分が動けば変化させることができるんだよ」と、同志にはそれらしいことをいって退(の)けるのに、本人はそれがままならない。このもどかしさはどこから到来するのだろうかと思い詰めるのだが、「精進が足りぬから」とするのが、最も手っ取り早く、安易だ。心の一角には、どうしても「歳のせい」にしたくないとの魂胆が丸見えである。

 抗うことのできぬ「年齢の壁」に達するには、ぼくはまだまだ若すぎる。創作に於ける創造力は、死ぬ間際が絶頂期とぼくは思い込んでいる。
 数日前、1時間ほど車を運転し他県の街に出かけたまではいいのだが、そこで10数カット撮ったところ、脈は乱れ、息切れを起こしてしまった。加え、持病の腰痛も影響を与えているのか、身体もどこか気怠い。ぼくは、最近さぼりがちだったウォーキングとスクワットに責任をなすりつけた。
 あるいは、車から降り、休む間もなく撮影に臨んだせいかも知れないと、盛んに気休めにもならぬ原因を追求し始めたのだが、これといったものが見つけられずにいた。そうこうしていると、見知らぬおばさんから突然の声がけがあり、会話をしているうちに徐々に気がほぐれ、ぼくの重苦しい気分は一気に消失した。撮影時の過度な緊張感がきっと不具合を生じさせたのだと結論づけをして一段落。

 1時間半ほどの滞在で、約100カット撮ったが、それは通常のぼくのペースだった。通りを歩きながら、魚屋のおじさん、民家のおばさん、洋品店の女店員さんなど、この街の良い人情に触れ、これも撮影をする上での大切な一面であることを改めて感じた。それらの何かが写し取れていれば良いのだがと願った。いつか掲載できればと思っている。相も変わらず「映え」のしないものがほとんどなのだが。

 昔のぼくであれば、彼らと話をしながらかすめ撮ったであろうが、ぼくの写真は公開を前提としているので、どうしても億劫さが先に立ってしまう。厄介な肖像権というものがぼくの邪魔をしている。だが、これからは少しずつ自身の本意である人物スナップに立ち返りたいと思っている。「昔取った杵柄」なのだから、原点回帰も上達の一方策だ。「本懐本望ば感じ取るっまで、耄碌すっわけにゃいかんばい」と、早逝した父の言葉が聞こえてくる。

https://www.amatias.com/bbs/30/762.html 

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
石川県金沢市。滋賀県彦根市。

★「01金沢市」
国立工芸館。レトロな館に後光が射す。ここに至る珍道中も筆硯に値するのだが、それは身のために止めておく。案内人(友人)の意図的な意地悪により、エラい目に遭ったんですわ。 
絞りf8.0、1/160秒、ISO 125、露出補正-0.67。

★「02彦根市」
時系列がバラバラとなるが、これは彦根城から駅へ向かう途中で、周囲の佇まいとはまったく異なる昭和の空気に出会った。タクシーの運転手さんに、「止めて。ここで降ります」といい、お目当ての家屋に駆け寄る。カラーでの仕上げも面白いのだが、取り敢えずモノクロのほうを。
絞りf6.3、1/250秒、ISO 200、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2025/10/24(金)
第761回 : スマホカメラの罠
 スマホカメラについての長所短所については、あまりにも述べたい事柄が多く、それを満遍なく綴ろうとすれば、途方もない字数を要するので、今回は一部に止めることをあらかじめお断りしておこうと思う。

 写真は今や一億総スマホカメラとなった。写真人口が多くなったということは、裾野が広がったことと道義だが、その分標高も低くなったということ。スマホカメラについての所見を伺いたいとの意見を読者諸兄や身近の写真好きから時折いただく。また、グループ展の案内状がしばしば舞い込み、その際にもやはり同じような質問を受けることがある。

 展示作品を前に、作者から「これ、スマホで撮ったんですよ」と、誇らしくも気焔万丈にいわれることがある。「はぁ、そうですか」と素っ気なくも返す以外にない。ぼくは心うち「何故、スマホなのですか?」という言葉がどうしても出て来ず、自分でもやきもきする。様々な情感や思いが頭のなかに飛び交い、ぼくは複雑な心境に襲われ、何かが喉の奥に引っかかって出て来ないのである。それはあたかも、高潔なるくしゃみが出かかっているのに、意図せず収まってしまう時に感じるあの何ともいえぬ未消化の気持ち悪さに似ている。爽快な「ハックション!」が、勇猛に出て来ないあの症状である。

 正直にいうと、ぼく自身はスマホカメラを使用することはほとんどないので、最新のものであっても、どの様な機能(AI機能も含めて)を有しているのかを知らないが故、的外れなことを述べてしまう恐れがあり、口を濁してしまうというのが実際のところだ。
 いくら写真を商売にしている身であるとはいえ、知らないことについて、一見それらしい言葉を並べ立て、断定的に事を述べるのは軽薄の誹りを免れないであろうし、また罪であろうとも思っている。プロであることに思い上がっては、自身を汚(けが)すことになる。

 ぼくも極たまにではあるが、あくまで記録や記念としてちゃっかりスマホを取り出すことはあるが、「写っていればいいや」という程度のものである。つまり、スマホカメラにどの様な機能が付加されようが、今のところ、それを使いこなそうという気はさらさらないということだ。記録に徹しているので、スマホのモニターに被写体が収まっていれば、何の迷いもなくシャッターボタンを押す。こんな風に潔く常用のカメラやレンズを操ってみたいと願うのだが、それは無理難題。ぼくのスマホカメラの使用目的は、ただ「写ればいい」、それだけのことだ。

 そのような見地からして、スマホは便利で気楽そのものだが、ぼくはこれを自己表現のための「文明の利器」とは見なしていない。便利さのすべてが、文化・文明に寄与するものでないと考えているからだ。便利さは危うい面を多分に包含しており、手放しに歓迎すべきではないとの警戒心をぼくは常に抱いている。工夫をなおざりにすることは、思考停止や熟慮・観察の疎外につながりやすく、ぼくはそれを極度に警戒している。便利さのすべてが自身の写真のクオリティに寄与するとは言い難く、まったく異なるものと認識している。

 今のところ、自身の心情を描くには、スマホはどうあっても役不足の感を否めないというのが本音である。仕事を引退したとはいえ、今もその考えに変わりはない。スマホ片手に、撮影に出かけられればどれほど気楽であろうか! それは贅沢の極みであるが、今のところ失うもののほうが多い。
 今までぼくは、何度か本稿で「作品のクオリティは機材に依拠しない」と繰り返し述べてきた。大切なことは何度述べてもよいとの見地から、スマホであってもそれは変わらないのだが、問題は他のところにある。

 スマホカメラ使用で、唯一危惧することは、撮影時に於ける「安易さ」である。人は、ぼくも含めて、どうしても「安易」なものに流されがちだ。警戒すべきは撮影時に於ける「安易さ」に人は誰でも陥りやすく、そこから免れるには「知恵」と「技術」の駆使という壁を乗り越えなければならない。この壁が、高いか低いかは本人次第だ。「安易」なものから得られるものは、常にそれなりのものでしかなく、それがものの道理であり、また真理でもある。それを認知している者のみが上達の権利を有す。

 最新のスマホカメラがどの様な機能を有しているかを知らないことは前述した通りなのだが(因みにぼくのスマホは何代か前のiPhone 11)、撮影時に細心の注意を払うべきもの、例えば被写界深度や焦点距離、シャッタースピードや絞り、ISO感度、露出補正などは、どの程度融通が利くのか? 
 そして何より、画質の点で、ぼくにはどうしても合点の行くものが見出せずにいる。音楽でいえば、アンサンブルの乱れたオーケストラのようなものだ。
 加え、何故当初からシャープネスがかかっているのか? これはぼくにとって我慢のならぬ点だ。それが及ぼす画質の劣化は最たるもので、暗室作業を前提とするぼくのような人間にとって、危険極まりない。

 実際にプリントされたものを見るにつけ、ぼくは到底我慢のならぬものを感じる。一言でいえば、あまりにも「のっぺり」した印象を拭えない。細かいグラデーションを欠いた粗い貼り絵のように感じてしまう。
 写真の描く繊細な色彩や柔らかでありながらもきめの細かい解像感、滑らかなグラデーション(輝きから陰影まで)、視覚ではなかなか認知しにくい主被写体前後の描写(ボケや質感の調和)などの素晴らしい虚構の世界が、スマホでは得られにくいと感じるのはぼくだけだろうか。

 スマホはどう使いこなしても、今のところ自ずと限界があると感じている。ただ日進月歩のデジタル、画質の良い素材が得られる日がやがて来るであろうとは思う。その日まで、ぼくが生き長らえるかどうか、いささか怪しくもあり、そこが悔やまれるのだが…

https://www.amatias.com/bbs/30/761.html  

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
石川県金沢市。

★「01金沢市」
武家屋敷近くのベーカリーで見つけたガラスケース。そこに入れられた “箱入りおばさん”。何故か心をくすぐられ、そっと1枚だけいただいた。
絞りf6.3、1/50秒、ISO 800、露出補正-1.00。

★「02金沢市」
武家屋敷を改築したレストランで昼食。ガラステーブルに写ったシャンデリアと棚に並べられた洋酒ボトル。反射したシャンデリアの彩りが面白く、料理が置かれる前に、そっとシャッターを切る。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 2500、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2025/10/17(金)
第760回 : 仕事の引退写真
 本連載を今夏初めて知ったという友人K君が、半ば呆れた様子でメールをくれた。彼とは小学校から仲の良い間柄で、いわば腐れ縁のようなものなのだが、その彼曰く「よくもまぁ、700回以上も続けたもんだね。一体何年になるの? 君がこんなことをしているとは知らなかった。文章や写真はともあれ、毎週続けるその活力はいつまで続くのかね〜」だと。
 昔から何をいっても憎まれない彼は、相当に徳のある人物だ。

 ぼくは親しい間柄であっても、本連載について自ら他人に知らせたことはほとんどない。自分が現在していることや考えについて、逐一、誰彼に報告するような野暮なことなんぞするものか。秘密にこそしないが、偏った見方をすれば、それはぼくのささやかな美学から派生している。そして放埒な物言いを書き連ねるには、それ相応の、不届きな胆力が必要であることに彼は気づいていない。ぼくの周りはそんな輩で溢れている。ぼくは身の不幸を託(かこ)つ。

 メールにある「文章や写真はともあれ」はともかくも(しかし、こちらが肝要なのだが)、「活力はいつまで続くのかね〜」などと、ぼくの苦労を知らずして見当違いも甚だしく、そしてこれこそ大きなお世話というものだ。
 「そげんこつば放っといちゃり」(そんなことは放っておいてくれ)だ。ぼくは自我を何かの手段で放出しないと気の済まない質だということさえ、彼は長年の付き合いで気づいていない。

 文章は頭脳労働、写真(撮影)は肉体労働であるとの真実を彼は計ることができずにいる。「身の不幸を託つ」のはぼくばかりでなく、彼もそうあらねばならない。
 ぼくはどちらの労働もなかなか成果を上げられないが、写真は一応商売人なので、それなりのやり繰りをしなければ、立つ瀬がない。彼は、人情世態の機微というものに理解が及ばないのではないかと愁(うれ)える。

 続けて、「君の旅行記は、エッセイ集や写真集で面白おかしくすんなり読めたが、『写真よもやま話』は、君にしてはかなり真面目で、いつものおふざけが影を潜め、意外と生一本なんだね」だと。ぼくは上記した九州言葉をまたもや繰り出さなければならなかった。「ほんなこつ心(しん)が疲(つか)る〜」(本当に心が疲れる)と、この手のわからんちん相手に、ホンに地言葉はありがたい。標準語というものは、ぼくにとってどこか無味乾燥で、よそよそしく、しかももどかしくて敵わない。標準語は、ぼくにとって借り物なのだろう。

 さて、ここから写真の話になるのだが、今回掲載の写真は、ぼくが現役を退こうと意を決した「首都圏外郭放水路」の現場である。ぼくにとって、ここは野外ロケ(フィールドワーク)の集大成ともいうべき撮影条件だった。
 現役引退のきっかけとなったのは、他人から見ればたわいのないことのように思われるだろうが、実のところ、重たい機材を担ぎながら116段の階段を何度か上り下りする際、その体たらくを見兼ねた担当者たちが手助けしてくれたことにある。

 あと5歳若ければ、ぼくは悲鳴を上げながらも自力で何とかできたであろう。だが齢77、ぼくはとうとう音を上げたのだった。足は上がらず、息も絶え絶え、階段途中の狭い踊り場で這いつくばってしまった。「大丈夫だよ」と見せかけるには無理があり、それはあまりにも見苦しく、醜態を晒すほかなし。ぼくは往生際良く、観念した。「もう引退しろ」というわけだ。
 これからは、自分の世界で遊べということなのだろうが、とはいえ、癪なことに写真はどう転んでも遊びにはならない。こんな宿痾を背負ってでも、やはり写真は続けて行きたい。

 仕事で撮影したもの(「首都圏外郭放水路」以外)は本稿に掲載したことはないが、先述した「野外ロケの集大成」とは、ここの「地下神殿」と呼ばれる所で、今秋11月に行われるライティングイベントの予備テストの撮影だった。4時間で1,100枚を撮った。今回の掲載写真は、そのうちの2枚。

 暗闇の地下神殿に投射される色とりどりのスポットライトやレーザー光線によって絶え間なく描かれる線や模様を一瞬のうちに切り取らなければならなかった。素早く動き回る光りを捉えなければならないので、程良いシャッタースピードを推察し、しかも写真の再現域を超えた高コントラストなので、厳格な露出補正をも要求される。
 シャドウとハイライトのどちらかを犠牲にしなければならず、その瀬戸際とのせめぎ合いだった。もちろん、スポットライトやレーザー光の明度優先である。そうしなければ、白飛びを起こし色を失ってしまう。演劇やミュージカルなどの舞台撮影の難しさに輪を掛けたような厄介さだ。40年間のフィールドワークで培った技術的ノウハウを結集させなければならなかった。最終の舞台を飾るには、相応しい撮影だったように感じている。

 「地下神殿」の地上から、そしてまた最上部からと、ぼくは体育会のしごきに遭ったコマネズミのように走らざるを得なかった。まさに「老人虐待」そのものであった。
 ぼくは悲劇の主人公を演じるが如く、被害妄想に明け暮れ、サルトル(ジャン=ポール。仏の哲学者、小説家。1905 〜 1980年)唱えるところのメランコリー(憂鬱)一色に染まっていった。というのは嘘っぱちで、そんな気分に浸る余裕すらなかったのである。「写真は肉体労働」と書いたが、まさに当を得ている。

 この撮影の困難さを大いに手助けしてくれ、どうにか有終の美を飾れたのは、最新のカメラであったことに偽りはない。高感度ISOの性能にも手堅く支えられ、今回の撮影が思い通り行ったことに大きく貢献してくれた。ぼくは今さらながらに、文明の利器に助けられことを感謝している。そして、優れたRaw現像ソフトによるノイズリダクションに助けられたことも付記しておかなければならない。

※ 掲載写真は、来月「首都圏外郭放水路」で企画されている「地下神殿で幻想空間体験! 流水治水ライトアップ」の実際とは異なったものです。掲載写真はあくまで事前のテストでのものであり、実際のプログラムでないことをご承知おき下さいますよう。

https://www.amatias.com/bbs/30/760.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
埼玉県春日部市。「首都圏外郭放水路」。

★「01外郭放水路」
地下神殿の床から仰ぎ見る。柱を垂直に立たせず、敢えて僅かにカメラを傾斜させ、全体の光りの流れを生かすような構図を意識。
絞りf4.0、1/20秒、ISO 2500、露出補正-2.67。

★「02外郭放水路」
地下神殿を見渡す最上部から。神殿の中心線より1歩右に寄り、深部の入口のライトを見せる。
絞りf3.5、1/20秒、ISO 6400、露出補正-1.67。

(文:亀山哲郎)

2025/10/10(金)
第759回 : 憧れこそ原動力
 6月10日にぼくは精根尽き果てて、小旅行からの帰路についた。いろいろな意味で、自信を喪失した旅であったが、とはいえ、写真に対する自身への愉しみと期待はこれからが本番との気概は失っていなかった。「まだ、オレも捨てたもんじゃない」というのが本心でもある。負け惜しみではなく、結果はどうあれ、何事もひとつずつ地道に積み上げるのが最良の方策。まさに「急がば回れ」の如く、それに従う余力はまだ十分にある。「遅すぎる」などとの言い草は、何とかの遠吠えに過ぎない。

 これから少しずつではあろうが、自分の納得できる方向へ舵を切ろうとの覚悟を今回の旅で得た。自身の人生の型取りはこれからであり、齢77の残滓だとは思っていない。年甲斐もなく「余りあるエネルギー」だとさえ思っている。写真への憧憬は無限といって良いほどのものがあり、精進すれば、「少しでいいから、いつかはきっと叶う」と信じている。憧れはすべての原動力となる。
 また、自分の写真が他人にどう映るかをまるきり気にしない極めておおらかなぼくは、それだけでも大きな得をしている。

 帰京後、訃報を含めあれやこれやの雑務、約束に追われ、なかなか写真に対峙する時間が持てなかった。そうこうしているうちに、とんでもない猛暑の襲来となり、こればかりは嘆きの遠吠えも効果がない。
 撮影に出れば熱中症の危険性もあり、今ここでくたばるわけにはいかない。次なるステップを窺うために、空調の効いた美術館や博物館で、美しいものに接し、新たな発見と霊感を得るのもひとつの手立てと考えた。家では、古今東西の優れた写真や絵画を改めてパソコン上で瞳を凝らし、ベッドに潜り込んでからは、かつて熟読した優れた文学の再読に努め、どのくらい新たな発見がきるかを見定めることも必須と考え、励行していた。老いの悪あがきと笑うことなかれ。

 少なからず、様々なインスピレーション(ひらめきや思いつき。広辞苑によると、「創作・思索などの過程において、ひらめいた新しい考えで、自分の考えだという感じを伴わないもの」)を得たように感じてはいるが、それが直ちに印画紙上に再現できないところが味噌である。けれど、それがもっともな道理だと心得ている。それは一種の筋道であり、道程でもあるので、地道に継続すればそれでいいのではないかと考えている。せっかちなぼくにしては、意外にも上出来だ。せっかくの味噌を腐らせては、元も子もない。これをして、「急いては事をし損じる」と世間ではいうらしい。

 酷暑ばかりを理由にしてはいけないと思い、8月中旬の曇り日の夕方、東北自動車道を走る用事がてら、通い慣れた「加須市」に立ち寄ってみた。
 加須市を初めて訪れたのは今から20数年前のことで、ある雑誌の撮影のためだった。当時はまだ手描きの鯉のぼり店が多くあり(産業構造の機械化が進み、それにつれ職人の数が減少。現在では2店のみが「鯉のぼりの町加須」を支えていると聞く)、その制作過程を撮影した。
 まだフィルム時代のことで、ぼくは大型のスタジオ用ストロボを何灯も使い、職人さんたちの描く鯉のぼりの制作過程を撮影した。昼食には名物である「加須うどん」をいただき、忘れがたい思い出となっている。

 それから10数年が経ち、懐かしさ余って再び加須市を訪れてみたが、歳月の空白は街の様相を変え、お世話になった鯉のぼり店を見つけることはできなかった。ぼくは得体の知れぬ暗澹たる思いに駆られた。青春の(初訪問時、ぼくは中年のおっさんだったが)1ページが無残にも剥ぎ取られたような寂しさと痛みを感じた。
 ただ、どこかに未だ昭和の香りがはらはらとかかるこの街に、ぼくは新たな親しみを覚え、「しばらく通ってみようか」との気持になった。廃れ行く昭和の風景を切り取っておきたかった。以来ぼくは、10数回加須市を、私的写真のために通うことになる。我が家から1時間の道のりなので、便が良く、好都合だった。

 以前、街に残る唯一の銭湯で、10年前に物置場と化した脱衣所と浴室、当時の銭湯特有の山湖のペンキ絵を主人の説明を受けながら撮影したことがある。真夏の暑い日だった。上半身裸の年老いた主人は、「取り壊そうにもここには重機が入れず、また費用もかかるので、このまま放置しておく外に手がない」と悲壮感を漂わせ、日焼けした裸の上半身を汗で光らせながらしみじみと語ってくれた。この時の写真は本連載に掲載させていただいた覚えがある。

 そして前述した今年8月の訪問時、この銭湯を訪ねてみたのだが、「人気(ひとけ)絶えて久しくなりぬれど」といった佇まいで、ぼくは失った宝物を探すように、銭湯に連結した住居の周囲を窺うように行ったり来たりしたが、裸の老人の姿はその気配すらなく、痛惜の念に堪えない思いだった。
 雨が降り始め、陽も沈みかけ、電灯が灯り、帰路につこうと車に乗り込んだ。  車窓からぼくの心情を物語るような光景が眼前に現れた(写真「01」)。車を降り、この日の自身の思いと重ね合わせ、『方丈記』(鴨長明。1155~1216年の歌人、随筆家)の冒頭の名句「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」を気取りながら、丁寧に、思い入れたっぷりにシャッターを押した。

https://www.amatias.com/bbs/30/759.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
埼玉県加須市。

★「01加須市」
文中に説明。重く垂れ込める雨雲を飛ばさぬよう、ヒストグラムを睨みながら露出補正を決める。
絞りf9.0、1/50秒、ISO 200、露出補正-1.33。

★「02加須市」
「01」を撮った後、振り返ると雨に濡れた車庫が目に付いた。「うん、これはポラロイド写真風に。焦点距離は35mm」と即決し、隙のない構図に注力。
絞りf8.0、1/50秒、ISO 400、露出補正ノーマル

(文:亀山哲郎)

2025/10/03(金)
第758回:彦根から金沢へ
 彦根城は戦に一度も使用されることのなかった平和の象徴という価値を有し、「平和の象徴」を憲章として掲げるユネスコへの世界遺産登録の大きなアピール材料となっている。いずれ彦根城の木造技法も評価され、ユネスコに認められるのではとぼくは思う。
 そうなったらなったで、またもや観光客が今以上に押し寄せ、手放しで喜ぶわけにもいかず、日本人としては “痛し痒し” というところ。現在でも、天守閣に登るために、観光シーズン時はかなりの待ち時間を要すと城の関係者から伺った。

 広大な面積(彦根城は甲子園球場の約13倍)に点在する見所のすべてを観賞し、撮影する心身の余裕をぼくは既に失いかけていた。撮影を必要とする時間を併せて考えれば、たっぷり時間を必要とし、撮影に夢中になってしまえば、金沢で午後6時開始の酒宴を待ち構える油断のならぬ5人の友人たち(特に3人の女衆)から、「遅刻!」との白い目を向けられることは火を見るよりも明らかだった。遅刻の理由をあれこれほじくり返してくるし、言い訳も辛い。

 ここでホントの実話 !? を明かせば、彦根城でR7(キヤノン製ミラーレスカメラ)を手にした写真好きの妙齢の別嬪さんから声をかけられ、ぼくはあろうことか少々現(うつつ)を抜かしてしまった。
 同類(写真同好の士)の白髪ジジィには、年齢の距離感も手伝ってか、そこはかとない安心感を抱くらしい。男として、それは如何なものかとも思うのだが、ただならぬ警戒心を抱かせぬ歳であるということは事実なのだろう。
 空腹を満たすために、彦根城近くの評判のうなぎ屋にぼくらは潜り込み、ぼくは撮影の不出来をうなぎで補った。彼女を米原駅で見送る際、「ズボンの屁だね」といったら、「それって、どげな意味?」と博多女は返した。「 “右と左に泣き別れ” ちゅう意味ばい」と、ぼくは青春の気分で、別れの手を振った。

 常日頃、何事にも「まったく以て分かりやすい奴」と、親しい友人たちに揶揄されるお人好しぼくは、約束の時間に遅刻なんぞすれば、その理由について、素直に「実はね…」とニヤケ顔で口を割るに違いない。したがって、何はどうあれ午後6時開始の酒宴に遅刻は許されないのだ。
 金沢で待ち受ける3人の女衆は、材木を鋭い鑿(のみ)でほじくるように、人をおちょくることに全身全霊を打ち込んでくる。ことごとく手弱女(たおやめ。やさしい女。しとやかな女という意)を装う彼女たちに、柔(やわ)なぼくは、とても太刀打ちなどできるわけがない。これを捩って、世間では「悪女の深情け」というらしい。

 「6時に金沢の近江町のAに予約を入れたので、デッタイ遅刻しないように!」とぼくは厳しく命じられていた。普段から「遅刻は厳禁」を心の糧としてきたが、今回も言わずもがなの冷徹なる上意下達だった。
 天守閣てっぺんの板の間にしゃがみ込み、たどたどしくスマホを操りながら、彦根から金沢まで、乗り継ぎを含め、要する時間を調べあげ、約2時間かかることを知った。まめまめしくも涙ぐましいばかりの所行である。それほど、遅刻を恐れいていたのだった。特に、3人のご婦人方は “お仕置き” と “折檻” を享楽と心得ているので、ぼくは情けなくも服属そのものに成り下がっている。今回の金沢は、彦根の「平和の象徴」とはほど遠かった。

 話は変わり(「写真よもやま話」の “写真” はどこへいった)、編集者時代に、金沢は冬と夏に取材で3度ずつ訪れたことがある。あれから半世紀が経とうとしているが、当時の思い出は朧気(おぼろげ)であり、記憶の片隅にどうにか鎮座しているのは、通い詰めた炉端焼き屋での舌もとろけるような美味三昧と犀川大橋のたもとにあった「寺喜屋」(てらきや。味わい深い木造3階建てで、魚料理は絶品だった。現在は閉店)、そしてぐしょぐしょの雪。夏の、わらじのように大きな岩牡蠣も終生忘れがたい。
 加え、最も好きな作家のひとりである吉田健一の名著『金沢』にも揺さぶられていた。

 冬・夏に都合6度訪れたが、カメラは持参していなかった(当時のぼくはライカのM3を愛用していた)。何故カメラを持参しなかったかというと、ぼくは編集者として取材に行ったのであり、会社の賄いで写真にかまけることは、どうしても不料簡であり、不見識も甚だしいと感じていたからだった。
 したがって、金沢の名所旧跡探訪はまったくせず、去年が初めてといっていい。

 去年に続き、神戸での仕事を終えた帰路、今年も金沢に立ち寄り、同じメンバーと酒宴に興じたが、鮮魚と酒の旨さは相変わらず格別だった。美味に酔いつつ、ぼくの脳裏をかすめたのは、やたらフィルムカメラ(フィルム表現)に思いが至ったことだった。懐かしさではなく、言葉にできぬフィルム特有の何かに突き動かされるような気がしていた。

 元々、ぼくはいわゆる「懐古趣味」を嫌う傾向にあるのだが、生まれ故郷が恋しくなることとは異なる得体の知れぬ衝動に突き動かされていたのだった。昨今の、デジタルをバリバリ使いこなすのも結構だが、何か大切なものを失っているのではないかという疑問が頭をもたげた。それがフィルム回帰につながるのかは、現時点ではあやふやである。ぼくの頭が整理し切れていない。
 とはいえぼく自身は、「再びフィルムを」との気持はないのだが、あの得もいわれぬ味わいはデジタルでも復元できるのではないかと考えると、居ても立っても居られない。そんな感情・感覚を満足させるような表現が果たして可能であろうか? 
 妙齢の別嬪に、現(うつつ)を抜かしている場合じゃないだろうに。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
石川県金沢市。

★「01武家屋敷」
もしぼくが訪れた半世紀前なら、武家屋敷はきっと現在のように観光地化しておらず、もう少し寂れ、しかし濃い空気感を醸していただろうと思う。モノクロフィルムで撮っておけばと、時すでに遅しといったところ。デジタルでしかできぬ精緻な暗室作業を施して。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 125、露出補正-0.67。

★「02金沢駅」
このアングルは去年から試してみようと思っていたのだが、なかなか立ち位置と構図が定まらず見送っていた。今年はやっとイメージが構築できた(といっても、この程度か)ので、奇をてらわず正直に。モノクロに寒色系のフィルターをかけて。
絞りf4.0、1/80秒、ISO 100、露出補正+0.33。

(文:亀山哲郎)

2025/09/26(金)
第757回 : 滋賀県彦根城
 神戸入りしてから、仕事を兼ねた小旅行も彦根城(天守閣は昭和27年、1952年に国宝。全面積は甲子園球場の約13倍。創建1600年代初頭)訪問で4日目を迎えた。ぼくの経験からして、国内外を問わず、旅の疲れの第一波に襲われるのがちょうどこの頃だ。ここを無事やり過ごせば自身の体力・精神力ともにある程度の手加減を加えることができ、撮影もスケジュール通り進むことになっている。今回もそのはずだった。

 今まで何百回もそのような体験を繰り返しながら、時に1ヶ月以上の長丁場のロケを無事やり過ごし、特段のしくじりをすることなく仕事をこなしてきた。ロケ中、へばりつつもカメラを振り回してきたことを思い浮かべるものの、国内でさえも、近年頓(とみ)に、過去の経験則が思い通りに行かなくなってきたことを痛感している。「歳なのだから仕方がない。それに甘んじるしかない」との諦めが先に立つが、ぼくは、このような現実を素直に認める性格ではないので、どうにももどかしくて仕方ない。内心忸怩たる思いだ。

 だが、この商売を始めてからの40年間、写真を撮ることだけがぼくの生きる証であり、それを一種の宿命・命運とし、「これで野垂れ死ぬのであれば本望」などと、空意地を張っている。物事は因果応報というが、自身の業によってそれに相当する果報や厄災を招くのだから、「学問して、因果のことわりをも知り」(徒然草。吉田兼好著)とはまことよくいったものだと思う。
 ぼくの、写真という一極集中が物に成らぬ理由は、未だあれもこれもと邪心を捨てきれないでいるからだと兼好法師はいっているのだろう。

 彦根駅に降り立ったぼくは、駅の通路で見つけたロッカーにリュックを放り込み、小さなカメラバッグだけを肩に掛けた。通路からガラス越しに、姫路城と同様、彦根城が視野に入った。「また、登山か」とぼくはちょっとげんなりしてしまった。彦根城は、実際には海抜136mなので、たいしたことはないのだが、前日の、山の中腹にへばり付く石山寺、三井寺に続いてのことだったので、「ブルータス、お前もか」との心境に襲われたとしても不思議はない。「また階段や坂を登るの?」との嫌気が先に立った。

 ぼくはこの初冬に自身の体力を計ろうと、海抜599mの「高尾山冬季無酸素単独登頂」を優先事項に掲げているので、本来であればたかが136mの彦根城なんぞ朝飯前なのだが、すでに身体は油切れを起こしかけていた。撮影の集中力もそれに従い、途切れ途切れのまだら模様だった。だが逃げ出すわけにも行かず、気を奮い立たせることが先決だった。先が思いやられる彦根城だ。

 ぼくが彦根城を初めて訪れたのは、今を去ること64年前のことだった。当時ぼくは中学2年生で、京都の祖父と叔父に連れられてのことだったが、彦根城の記憶はほとんど残っていない。ただ、キヤノンから発売されたばかりのキヤノネット(1961年発売のレンジファインダーカメラ。開放値F1.9の明るい35mmレンズを搭載したレンズシャッター付きカメラ)を父に買ってもらったばかりだったので、意気揚々。
 その時、記憶にあるものといえば、駅から彦根城に至る道が、現在と異なりジグザグだったことだ。これはとても印象深い。物知りの叔父が、敵が攻めてきた時に城まで行き着くことを困難にするため、敢えて道をジグザクに仕組んだのだと教えてくれた。

 敵襲の恐れのない現在は、駅から一直線の道が延び、城まで徒歩で約12分かかるとのことだが、当時は戦国時代の名残がそこかしこにあったと思われる。だが、「ひこにゃん」はまだ生まれていなかった。
 駅前広場でぼくは気を取り直し、今回も昔と同じくキヤノン製のカメラを手に、彦根城まで歩くことにした。入口までやってきたぼくは、もう既にひと仕事終えたような気分になっていたのがおかしくも滑稽だった。いざ、これから撮影に臨むとの気概をどのように盛り立てるのかが分からず、多少の狼狽というあるまじき様態。

 券売場のおねえさんに、「天守閣まで、ジジィの足でも容易に行けますでしょうか?」と、やんわりお窺いを立ててみた。ぼくは残念ながら「ひこにゃんファンクラブ」には入会していないので、入場無料ではなかったが、「大丈夫ですよ。無料の貸し杖も用意してありますし」と、強い関西弁の抑揚で可愛いおねえさんは不安がるぼくをなだめるようにいってくれた。「杖の世話になど、このおれ様がなるわけがないじゃないか」と内心哮(たけ)り立ったが、おねえさんが可愛かったのと関西弁の抑揚にぼくはすっかり腰砕けとなった。呆けている場合じゃないのに、まったく情けない。

 国宝天守閣に至る坂道は、石段の間隔が不規則で極めて登りにくい。道も曲がり曲がって一苦労だ。途中、転(こ)けた中年のおっさんが2人もいたことから、この仕掛けも敵から天守を守るための工夫だったのだろう。
 幸いにしてこの日は観光客も少なく、自分のペースで歩けたこともあり、ぼくはネット界隈でいわれているような身体的疲労感はほとんどなかった。天守閣にある階段の傾斜角度が62度とは驚きだが、ぼくは苦もなく最上階(3階建て)まで登った。

 ただ、この階段、女性はスカートで登らぬほうが良い。女性は良いとしても、後に続く男は良からぬ妄想に取り憑かれ、間違いなく段を踏み外し、転げ落ちるだろう。そんな愉しいことを想像逞しくしながら、ぼくは急階段をものともせず登りきったのだから、まだまだ捨てたものではない。
 アホなことばかりが頭に立ち込めていたものだから、写真は宜(むべ)なるかな、さっぱりだった。天罰を食らってしまったことは、長い撮影歴で初めてのことだ。罰当たりの撮影として、彦根城はぼくの脳裏に永遠に刻まれるだろう。おまけに肝心の天守閣も撮り忘れ、何たること。これも因果応報か?

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 USM。
滋賀県彦根市。彦根城。

★「01彦根城」
天秤櫓(でんびんやぐら。重要文化財)。戦時には、この廊下橋が落とされ、高い石垣を登らないと本丸へ侵入することができないように仕組まれている。写真の石垣は築城当時の打ち込みハギ積み。人物が雲をバックとしたシルエットになるように、その瞬間を狙った。
絞りf6.3、1/100秒、ISO 100、露出補正-0.33。

★「02彦根城」
天守閣内部。窓から射し込む光と年月を経た重厚な佇まいをどうバランス良く焦点距離16mmの超広角に収めるかに迷いながら。観光客が多い時はごった返し、この様には撮れなかったに違いない。ぼくはここで果報を得た。
絞りf5.6、1/40秒、ISO 3200、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2025/09/19(金)
第756回 : 滋賀県三井寺
 つい最近、友人から「仕事とプライベートの写真は、どちらが楽? 愉しい? 難しい? どっちが好き?」と、矢継ぎ早にとても乱暴な問い掛けをされた。同じような質問は過去何度かあるが、ぼくはいつも答えに窮してしまう。いうまでもないのだが、仕事写真と私的写真は方向性や意図がまったく別物なので、様相の異なる両者を同じ土俵で語ることは、そもそも道理に合わず、筋も通らない。同じ写真でも、似て非なるものなのだ。

 無論、自分なりの明快な答はあるのだが、それを説明するにはかなりの時間と労力を必要とする。理解を得るには、多岐にわたる事柄について順を追って説明しなければならず、大変骨が折れる。
 しかし、写真に興味ある彼らの質問を無下にするわけにもいかず、懇切丁寧を信条とするぼくは、いつも双方の写真に対する受け止め方について、小学校低学年の児童を諭すように、丁寧に説明する。ホントです。

 質問者のすべてが、「 “私的写真のほうが楽で愉しい” であろう」との見方をしたがる。ぼくは心情的に彼らの言い分とその道理に理解を示すが、現実は決してそのようなことはなく、良い結果を得ようとすれば、どちらも一筋縄では行かない。ただ確かなことは、生真面目なコマーシャル・カメラマンには申し訳ないが、ぼく流の考えを以てすれば、どちらも道楽の域を出ないということだ。
 道楽気分で写真を撮っているわけではないが(それどころか、眉間にしわを寄せながら死活問題として)、結果としては命懸けの道楽商売、もしくはやくざ稼業と捉えている。

 石山寺から下界に降りてきたぼくは、近くに「手打ち蕎麦」の看板を見つけ、飛び込んだ。好物のにしん蕎麦をいただき、ややバテ気味ではあったが、京阪電車に乗り三井寺(正式名、長等山 園城寺、ながらさん おんじょうじ。天台寺門宗の総本山。創建7世紀)へ向かった。ここも山の中腹にへばりついた広大な敷地を有す。甲子園球場の約10倍とのことだ。石山寺、三井寺のふたつを1日で挑むには、気を入れ直さないと、とても撮影どころではない。「二兎を追う者は一兎をも得ず」というが、ぼくはそれをしようというのだから、欲どしい。
 欲が徒(あだ)とならなければよいのだがと、ぼくは少々不安だった。「年寄りの冷や水」にならぬことを祈るばかりだった。年寄りにとって、このふたつの諺は心に染み入る。

 三井寺も石山寺同様に、文化財の質・量は日本屈指といわれ(国宝10件、重要文化財42件。ユネスコの「世界の記憶」にも登録されている)、そのうち撮影が許されているものが、どれ程であるかが唯一の気がかりだった。
 ぼくにとって名所旧跡の探訪は、実際に目で観てどれ程の感動を呼び起こすかはいうまでもないことだが、写真屋は撮影できてこそナンボのものである。美しいものを見てただただ感心ばかりもしていられない。自分がどう感じたか、どう表現したいのかとの手段を奪われることがどれ程の心痛を与えるか、誰も知らない。知らなくていいんだけれど。

 仏像や建築の美しさに絆(ほだ)されつつ、「撮影禁止」という縛りは大切な何かを犠牲にしなければならないということだ。その状況は悲痛を伴い、神経を削られ、挙げ句神経症一歩手前まで病んでしまいそうだ。神社仏閣に於ける美の探索は、そこが痛し痒しというところ。単なる観光では事済まない点が、誠に忌々しい。この心情が現地に於いてぼくの気持を常に掻き乱してくれる。
 「おまえ、感心している場合じゃないよ」と、意地の悪い何者かが必ず耳打ちしてくる。彼らはぼくに対して、何の遠慮会釈なく、もっともらしい顔をしながら、にじり寄ってくるのだ。
 今回の撮影は、そんな呻吟ばかりが渦巻いていた。

 仕事であれば、今回掲載の写真如きは認められない。ポスターやガイドブックの類が目的であれば、このような自我に没入した写真は使用目的を逸脱し、ダメ出しを食らうこと疑いなし。したがって、掲載写真のような表現はしない。
 すべてヒストグラムを睨みながらRawデータで撮影しており、それをRaw現像ソフトで可能な限り調整(色温度、色相、彩度、明度、コントラストなどなど)。これで、いわゆる「映え」のする写真の出来上がりとなるのだが、ぼくがそれをしてどうする。そのような写真を撮りたいがために、滋賀県くんだりまで来たわけではない。

 写真の最終形がどうであれ、Rawデータ現像時に可能な限り、視覚に忠実なものに仕上げるというのがぼくの流儀。ディープシャドウからハイエストライトまでを破綻なく仕上げるのが基本中の基本と考えている。
 そのうえで、撮影時に描いたイメージに添って、画像ソフトを適宜使い分けながら描いていく。これは自身そのものを表現する描写が最も望ましく、また好ましくもあり、「他人に見せようと励む」写真(世間に蔓延)とは一線を画したものでなくてはならない。他人のために写真を撮っているのではないのだから。

 与太ばかりしてきた77歳の、年老いた完全白髪のクソジジィなのだから、それに見合った写真でなければ、見苦しいばかりでなく、自己否定につながってしまう。ジジィはジジィ写真でなくてはならない。作品は、年輪に相応しくあれということだ。これがなかなか上手くいかない。
 余談だが、過日、国立博物館で運慶仏師(平安時代から鎌倉時代初期)に会った(特別展「運慶 祈りの空間」)。その運慶さんが不意に夢のなかに現れ、前回掲載させていただいた「仁王像」(第755回。「01石山寺」)の写真をご覧になり、「ジジィの身の程知らずが。しかし、わしの姿をよくぞ撮った」と、身に余るお褒めの言葉をいただいた。ぼくって、いい性格してるでしょ。

https://www.amatias.com/bbs/30/756.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
滋賀県大津市。三井寺。

★「01三井寺」
仁王門(重要文化財)を矯(た)めつ眇(すが)めつ仰ぎ見、立ち位置をじりじりと探りながら、やっとのことで構図を決める。門柱や印象的な垂木をモノクロでどう構成するかに決着をつけてから、初めてファインダーを覗く。
絞りf6.3、1/200秒、ISO 125、露出補正ノーマル。

★「02三井寺」
金堂(国宝)。右斜めからの眺めを試みたが、そうすると右の石灯籠の配置が上手くいかず、美しいプロポーションの屋根を真正面から撮ることに。ダブルトーンのモノクロで仕上げてみたものの、 “鬱陶しい写真” やなぁと呟やいた。
絞りf5.6、1/400秒、ISO 160、露出補正ノーマル。

★「03三井寺」
「弁慶鐘」(重要文化財。三井寺初代の梵鐘)、もしくは「弁慶の引き摺り鐘」ともいわれる。弁慶が三井寺から鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げた後、鐘を叩くと「イノー・イノー」(関西弁。「い(去)のう」、帰ろうの意)と響き、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒り、鐘を谷底に投げ捨ててしまったといわれている。その時のものと思われる傷痕や破れ目などが残っている。その他、様々な謂れがある。
絞りf5.6、1/50秒、ISO 1250、露出補正-1.0。

(文:亀山哲郎)

2025/09/12(金)
第755回 : 滋賀県石山寺
 滋賀県は神社仏閣に馴染んできたぼくにとって、京都、奈良と同様に大変興味深く、多感な思春期や青年期は無論のこと、そして写真屋になってからも、懐かしい想い出が幾重にも重なっている。仕事で重要文化財や国宝などを撮影する機会を与えてもらったことなど幸運の限りだった。写真屋としての役得にありついたという訳だ。
 仏像に対する感応と知識に甚だしき乖離はあったものの、ぼくは何故かその御利益に与ることができた。長い写真屋稼業にあって、それは貴重な何かをもたらした。

 神社仏閣に限らず、被写体について理解し、知識を得、そしてその歴史を知ることは、写真を撮るという行為に不可欠であることを知ったといっても過言ではない。それをさらに広義に捉えるのであれば、「被写体となるものを能く能く(よくよく。手落ちのないように、念には念を入れて、注意深く、という意)“観察する” 」ことに尽きる。「観察眼」を養わなければ、なかなか写ってくれないので、写真は厄介だ。そして、「何故それを撮るのか?」を直感することも必須条件に加わってくる。その直感をどう解釈し、感知するかということである。

 「言うは易く行なうは難し」なのだが、それを心がけ、意識をする時、自ずと写真の表情(表現)が異なってくるのではないかと思っている。ぼくがここで言えた義理ではないのだが、上記したことが写真の深度(深味)に大きく関わってくる。「 “観察” なくしては、写真は写らない」とぼくは肝に銘じている。
 これは神経戦を強いられるので、プロ・アマを問わず、撮影は心身ともに疲弊する。激しい感情や欲求は必要だが、冷静さに欠ける胆汁質の人は、写真に向いていない。

 石山寺の初訪問は高校1年の時で、小学校から仲の良かった同級生2人を伴い、10日間ほど亡母の実家に滞在させてもらった。ぼくら3人は思春期真っ只中であり、石山寺は甘酸っぱい想い出に満たされていた。たまたま琵琶湖に水泳に行った際、そこで知り合った3人の同学年の女子高生と知り合い、後日ぼくらは人生初となるデートというものを体験した。

 当時のぼくは、女性とは一体どのような生き物であるかについて、頭を満たされていた。学業などはそこそこに済ませ、すべての興味がそこに注がれていた。ぼくはこの歳になっても、「一人前の正しい男とはそうした過程を経るものだ」との確信を抱いている。「勉強にかまける男なんざぁ、碌なものではない。硬派を気取るんじゃないよ」と雄叫びを上げたいくらいだ。

 正直にいえば、その津々たる興味は、 “オレとしたことが” 今以て何ら変わらないということだ。しかし思春期に於けるそれは、もう常軌を逸したものであった。3人の女学生がまるで天女のように思えたのは、不思議でも何でもなかった。朝な夕な、ぼくはその憧れに突き動かされていた。まったくたいしたものだ。
 彼女たちと仲良くお喋りをしたり、食事をしたりできることは、別世界のことのように思われたが、女性というものも、我々男との共通点が少しではあるが存在するという発見は、我ながら成長の一過程のように思われた。とはいえ、未だに女性は永遠の謎である。
 味方になってくれた時は、これ以上に心温まるものはないが、敵に回せば鬼より恐いのが女性の特質だ。

 話を元に戻すと、ぼくらは6人で、滋賀県大津市にある石山寺(東寺真言宗大本山。創建747年、天平19年)と三井寺(正式名、長等山円城寺。天台寺門宗総本山。創建7世紀)に、京都から手を取り合って(嘘です)出かけた。何故、京都でなく大津だったのかは記憶にないが、彼女たちは京都の住人だったので、隣県である大津に足を伸ばしたのではないかと回想する。
 石山寺や三井寺の佇まいは、お寺さんには申し訳ないが、道中ぼくは気もそぞろであり、さっぱり記憶にない。おそらく友人2人も同様だったに違いない。何十年か後に、「あのこたちの顔は朧げながらに覚えているが、大津に行ったんだっけ?」とは、3人が異口同音に発した言葉だった。したがって、石山寺と三井寺は、今回が初めての訪問といってもいい。

 石山寺は、京阪石山寺駅から歩いて10分ほどの距離にある。道すがら「62年前にこの道を3人の女の子たちと、夢現(ゆめうつつ)で歩いたんだなぁ。当時とは様相が異なるに違いないが、ぼく自身は何も変わっていない。きっと彼女たちもそうだろう。しかし今道ですれ違っても、お互いまったく分からないというのが、唯一確かなこと。どんな記憶も年月とともに薄れ、やがて消えていくもの」と、ぼくはほとんど記憶にない過去を手繰(たぐ)っていた。

https://www.amatias.com/bbs/30/755.html 

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
滋賀県大津市。石山寺。

★「01石山寺」
石山寺の入口である東大門(重要文化財)の両脇には、阿吽(あうん)の仁王像2体が祀られている。鎌倉時代の仏師運慶・湛慶作と伝えられる。これは向かって右の阿形(あぎょう)。ぼくは、儚くも消えてしまった3人の女子高生のかげろうにしきりと思いを馳せていたら、「うつつを抜かすでない! 喝!」
と仁王様に活を入れられ、その仰せに従い撮った石山寺での第1カット。
絞りf11.0、1/80秒、ISO 2000、露出補正-0.67。

★「02石山寺」
多宝塔(国宝。日本最古の多宝塔)を天然記念物の硅灰石(石山寺の名の由来となった岩。世界的にも珍しい岩石)越しに見る。多宝塔に至る途中に紫式部の供養塔がある。
絞りf13.0、1/60秒、ISO 400、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2025/09/05(金)
第754回 : 神戸市三ノ宮(2)
 「へぇ、あ〜たでも罪悪感なんてあんのね。ちっとも知らなかったわ」とは、我が倶楽部のこわ〜いご婦人方。前回、ぼくは最後の段落で、「歳を重ねるごとに生きやすくもなるが、と同時に罪悪感も増す」と現在の心情を正直に吐露したその反駁でもあるらしい。
 正直者が馬鹿を見るような世界は断固あってならないのだが、言葉尻を捉えて「隙あらば」と虎視眈々、標的を狙い撃ちしようとの女衆には、ほんに心(しん)が疲れる。ぼくはこれでも一応は指導者モドキをもう20数年間演じ続けているのだが、ご婦人方から “それなりの” 扱いを一度たりとも受けたためしがない。
 女衆は、写真を愉しく学ぶことより、余生を如何に “いじめ” と “おちょくり” に徹するかということに全身全霊をかけておられるようだ。本来なら、そんな仕打ちにぼくはへこたれることなく、打たれ強くなって然るべきなのだが、柔(やわ)な性格が災いしてか、一向に男気を見せられずにいる。

 続けて、「あのさぁ、どんな罪悪感なの。正直にいってごらんなさいよ。聞いてあげるから」と、「生き馬の目を抜く」(生きている馬の目を抜き取るほど素早く事を成すさま。ずるくて抜け目なく、油断のならないことを指す)ようにグイグイ迫ってくる。ぼくはしどろもどろとなり、いつも俯(うつむ)き加減で言い淀んでしまう。
 したがって、ここ2年ほどは定例の写真評に於ける言葉の選択・使い方に、必要以上の神経を使うようになってしまった。畢竟言葉にストレートさを欠き、がために婉曲な言い回しとなり、 “いじめ” に特化した彼女たちの頭脳ではぼくの遠回しな表現を消化しきれないでいるらしい。「それみたことか」とぼくは精一杯の反逆を試みる。しかし、そうするといつもおぞましい返り討ちに遭い、意気消沈。多勢に無勢では、どう転んでもぼくに勝ち目はない。

 前置きはこのへんにして、本題は三ノ宮だった。
 写真評を含め、審査会などで作品の順位をつけなければならない時ほど、落ち込むことはない。そのような体験をする度に、「創作物に出来不出来の順位をつけること」への疑問と自身の傲慢さに居場所のないような感覚を抱いている。手早くいえば、「オレにそんな資格があるのか?」ということだ。

 ものの良し悪しを瞬時に見極める程の慧眼や審美眼、それに見合う理知を持ち合わせているかといえば、まったく自信がない。
 だがそれを有している人たちはこの世に少なくはあるが確実にいる。ぼくは彼らのそのような現場に何度か立ち会い、その実際を目の当たりにしたことがあるが、ただただ舌を巻くばかりだった。そのような人たちは、今までにどれ程の厳しい修練と研鑽を積み、自己規制を強いてきたのだろうかと感慨に浸る。

 ぼくは写真評にあたって、いつの場合も「自分の好き嫌いを度外視して、作品のクオリティだけに注視する」ことを旨としてきた。それを骨子としてきたが、どうしても迷いの生ずる時がある。それは、自分の、ものを見る目が未熟であることを示している。写真評と撮ることは別次元の世界なので、この葛藤に悩まされている。自身の作品についていうならば、1年に片手で数えるくらいしか合格点を与えられないのだから、人様の作品に対してあれこれ注釈をつけるのは、身の程知らずもいいところだ。

 身内について記すのは気の進むものでないことを承知しながらも、ぼくの祖父(父方の)は、明治天皇の膨大な美術品を鑑定する勅任官だった。ぼくが生まれた時は既に故人となっていたが、父によると祖父は、「様々な分野の美しいものだけを身近にすることに徹しなければ、美術品鑑定などできるものではない。本物の美に触れることの積み重ねだけが、眼を養う。自分の好みを排斥し、作品に対峙できなければ、曇り眼だ」といっていたそうだ。また、「佐賀県の実家には国宝クラスの陶器がたくさん転がっていた」ともいっていた。父を育てた姉に確認したところそれは事実だった。
 父が、埼玉に移ってからも、御下賜品(ごかしひん。天皇や皇族が功績のあった国民や皇室のために尽力した人へ贈る品物)として明治天皇からいただいた刀剣二振があったが、父が恩人に差し上げたことはぼくもよく覚えている。
 下世話なぼくのこと、今それがあったなら、すぐに売り飛ばし、懐にしまい込むだろう。やはりぼくは俗人の域を出られない。

 神戸での仕事は、持ち寄られた多くの作品群から、各分野の上位5点を選び出し、その順位付けをしなければならない。作品は前もって送られて来たコピーとデジタル化された画像なのだが(それを見るためのiPadまで、準備怠りなくしっかり同梱されている)、この用意周到さは「何があっても〆切り期日までには所見を絶対提出せよ」との意志が強固に示されている。
 ここでも、何故か我が倶楽部の女衆の姿が相似形として出現するので、もうかなわない。これをして「被害妄想」というらしいのだが、度重なる仕打ちにより、ぼくはかなりの重篤である。

 何日も候補に挙げた作品と睨めっこをし、色の異なる付箋を貼っていく。それは自身との消耗戦のようなものだ。加え、選んだ5点の選考理由(全部で20点)を200〜300文字で理由を記さなければならず、それは作品をより深く読み解く訓練にもなるのだが、ぼくは焦りながらも、のらりくらりと1週間ほどをこの作業に費やす。

 その後、他の専門分野の異なる4人の選考者と意見を戦わせる。ぼくはここでの評価に対する公明正大なやり取りがいつも心に染み、6年も続けられた一番の要因となった。ここには、身近の展覧会などで散見される身贔屓による独善ともいうべき仲間内の、忌むべき “お手盛り” が一切ないので、彼らの豊かな知性と深い感受が心に沁みている。この残響は、いつまでも心に宿しておきたい、謂わばぼくの得難い財産となっている。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。
神戸市三ノ宮。今回は、以前にしていたように、3点を掲載。「神戸市三ノ宮」は今回で終わりに。

★「01神戸市三ノ宮」
「孤独のグルメ」ならぬ「孤独のラーメン」を味わうべく、店を探し歩いているうちに出会ったマリリン・モンロー。
絞りf4.0、1/60秒、ISO 160、露出補正-0.67。

★「02神戸市三ノ宮」
満腹になって空を見上げたら半月が輝いていた。赤信号になるのを待って(画面左下の赤は信号灯の庇に反射した赤)撮ったものだが、ぼくにしてはちょいとあざといかな。
絞りf10.0、1/125秒、ISO 2500、露出補正-1.33。

★「03神戸市三ノ宮」
ラーメンで膨れた腹をさすりながら歩いていたら、一見何でもない駐車場の看板が目に留まった。「あっ、きれい。でもなんだか孤独感ありありだな」と呟きながら、自然と何の力みもなく撮ってしまった。
絞りf5.0、1/25秒、ISO 200、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)