![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2025/03/21(金) |
第732回 : 晴れて写真 |
こんにちまで(厳密には今年2月末まで)コマーシャルの写真屋として40年間を過ごしてきたことは拙稿ですでに述べたが、それは長いようでいて、あっという間のことだった。人生何年かは知らぬが、40年などあっという間のことだった。
だがその間、ありがたいことに、写真のお陰で滅多にできぬ体験を数多くできたり、多方向に考えを巡らすことができたりと、充実した40年を送ることができた。このことは、心身ともに辛さと重圧で満たされたが故の充実である。 充実というのは、身を削らなければ得られぬものだ。「砂を噛み、血反吐を吐いて、気を逆立てろ。それができぬ人間は、ものづくりなどすべきではない」とは、亡父の忘れがたくも、ありがたい言葉だ。だがここでぼくは父の口まねで返しておく。「ばってん、ぼくはちかっぱじゃなかの、そげんこつばしきらんちゃ(だがぼくは、とてもじゃないが、そんなことはできないよ)」。 40年間、国内はもとより、海外の、まったくの異文化に触れ、多くの異人種と屈託なく接することができたことは精神的に大きな財産となったような気がしている。ぼくの人格に影響を与えたかどうかは定かでないが、物事への理解と、多少は識見の範疇が広がったようには感じている。 ぼくのような人間でさえ、幾ばくかの利得に与ったと考えたほうが、多くの事柄やそこで交遊した人たちに失礼がない。ならば、「ぼくはそこで精神の支柱を得たような気がしている」と置き換えるのもアリかも。 家族には申し訳ないと思うことがあるが、ぼくの仕事はそういったものだと、がんまち(京言葉。がむしゃらで我の強いこと。コトバンクでは、無遠慮で利己心が強いさま。自分勝手、とある)を通してきた。だが、本心をいえばそれとは裏腹に、「身を縮めてばかり」だ。 嬶(かかあ)も子供たちも、ぼくにはまったく無遠慮に、鋭くも突き刺さるような毒矢を、遠慮なく吹いてくるのだ。しかも、予期せぬところから矢が飛んでくるのだから、気の休まる暇がない。 今から20年ほど前、京生まれ京育ちの、未接触部族の女酋長のような嬶は歳を取るに従い少しずつ軟化を始め、恐ろしい子供たちも何とか独立し、その時ぼくはやっとのことでコマーシャルの写真屋から足を洗うことができると思ったのだが、以降20年もその椅子に座り続けてしまった。どうにも辞めることができずにいたその時間はもう戻ってこないが、そうであればそれを肥やしにするのが、人間の知恵というものだ。これからのぼくは、知恵が試されるのだと思うと、少し気が重たい。「やれやれ」と毎日吐息と嘆息を漏らしているのだが、「虫の息」にならぬようにと気を配るばかり。 だが今は、離職による生活意識の変化に対応できておらず、晴れ晴れどころか鬱へ向かう自分を感じている。これは手強く、始末に負えぬものだ。良策は、写真の出来不出来に頓着せず、撮ることに意識を向けることなのかなぁと、薄々感じている。「薄々」というところが、何とも頼りなくも情けない。 ただ救いは、写真の出来映えについて、ぼくは他人の目をまるきり意識しないことだ。ぼくにとって、私的な写真は慈善事業ではないのだから、ただひたすら自分がイメージしたものを印画紙上に描けばそれで事済む。他人の目や気を窺いながら写真を撮っている限り、何も写らないし、また時としてあざとさが宿るだけだ。であれば、所謂 “インスタ映え” を意識した写真のほうが表面的で屈託がなく、あっけらかんとして、深味がない分嫌味もない。他人の目を意識すればするほど、作品というものは浅薄さを増すものだ。 ぼくがこの20年間ぐずついていた他の理由としては、本来の優柔不断は否めないが、それより、写真屋としては異例に遅い出発だっただけに、多くの人々からいっそうの手助けを受けたことにある。現在、そのほとんどの方が撮影現場からは離れ、あるいはすでに現役を退かれているが、何れにせよその恩義にはいつか報いなければならない。ぼくは、そんな強迫観念のようなものに怯えている。 どうにかこんにちまで写真屋として生き延びてこられたのだから、育ててもらった恩を無下にすることはできないとの思いが常に頭をもたげている。そんなこともあってか、お陰様で仕事が途絶えることはなかったのだが、時と場合によって、それが仇をなすことがあるのだから、生きるというのは誠に容易ならざることだ。歳を重ねて、難題を抱えることが多くなったような気がするのは、ぼくだけだろうか? 同僚たちを眺めていると、1日でも長く健康でいようと、そればかりに注力しているように思える。「毎朝ラジオ体操に行っている」とか「スクワットをしている」とか、よくもまぁ、そんな小っ恥ずかしいことを臆面もなく年賀状に書き連ねてくるものだと、感心しきりである。たとえそうであっても、「おくびにも出さず」という美学はないのかよと、ぼくも毒矢の1本くらいは吹いてやりたい気持になる。 気を取り直して、今やっとぼくは仕事から解き放たれ、何にも拘束されず、自身の思うがままの写真を撮って良いのだと思い始めた。伸び伸び写真を撮ることを享受しても良いのではないかと考えているのだが、これは今までのような頼まれ写真ではないので、未だ勝手が掴めない。写真がさらに難しくなるのだろう。 本連載に掲載させていただいている写真は、今までもまったくの私的写真であることに変わりはないのだが、生活意識の変化により、写真も良い方向に変化していけばと願う。読者のみなさんから、「ちょっとだけ写真が変わってきたかも」といわれれば本望である。 https://www.amatias.com/bbs/30/732.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 埼玉県川越市。栃木県栃木市。 ★「01川越市」 ショーウィンドウに一見木づくりの鳩(?)を見つけた。鳩の嫌いなぼくが、可愛いと思ったのだから、鳩ではないね。鳩はこんなにくちばしが長くないか。滅多に絞り開放など使わないぼくが、仕事写真を脱し、何の躊躇もせず使う。ゲンキンなものだ。とても良い気分。ちょっと悟りの境地? 絞りf2.8、1/250秒、ISO 100、露出補正-1.00。 ★「02栃木市」 栃木市を訪問するたびに、今まで何十枚も撮ったが、1枚も撮れたためしがない。今回やっとそれらしく撮れたような気が。しかし、満点ではなく、「辛うじての及第点」。専門家である友人によると、この建物はかなりの上物で、大工の真似事ではなく、ちゃんとデザインされたものだとのこと。廃業で寂しい限り。取り壊されなければいいのだけれど。撮るなら今のうち。 絞りf8.0、1/25秒、ISO 100、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/03/14(金) |
第731回 : 寄せられた苦情 |
写真好きの友人から、拙稿についての苦情めいたものが遠方は九州より届いた。ぼくより50も歳の異なる女性(年上ではない)からのものなので、より慎重に、丁寧に、分かりやすく返答しなければとの義務感、いや責任感に駆られた。ぼくの知る彼女の写真は、繊細で隅々まで気の配られた上品なもので、今まで何度も感心させられたことがある。
いつもなら、たとえば我が倶楽部の面々からの質問であれば、冗談8分、本気2分の、半ば乱心状態でぼくは「しっかり読み取れ!」と返すのだが、今回ばかりは事がレンズと写真についてであり、返答をする前に、何をどう説明すれば混乱を招かず、十分な理解が得られるかを、本気で考えなければならなかった。ぼくにしてみれば、殊勝にも身構えた、というわけである。申し添えておかねばならぬことは、彼女が若い女性であるから、では断じてない。 50歳年下の彼女は、出会った当初から極めて明晰な頭脳の持ち主であることをぼくはよく知っている。それを考慮しながら、ぼくの説明はどのようなものであればいいのかとの考えが一瞬頭をよぎったのだが、それは不埒な考えであることに気づいた。相手がどうであれ、肝心なことは、ぼくが誰に対しても理解と納得のいく説明ができるかということにある。 ただし、同じ説明をしても、それを消化できる人とそうでない人がいる。それは世の常であり、致し方のないことなのだが、ここでもぼくは殊勝であることを心がけようとしていた。ぼくは、もうすっかり気弱な老人となっている。 多少上記の論点とは異なるが、対峙する人によって己の態度を変えることは、最も下卑た仕草であり、それを侮蔑というのだとぼくは決めつけている。長年生きてきて、ぼくはそのような手合いとたびたび出会っている。実に悲しくも、忌むべき人々である。 ぼくの頭脳は歳とともに最近富みに糜爛(びらん。ただれること)気味であるけれど、このようなことを憚りなくいうエネルギーを保っているということは、そう捨てたものでもない。気弱だといったり、まだ捨てたものではないといったり、ぼくはけっこう忙しい。 幸いにも我が倶楽部には、現在19歳になる大学1年生が在籍している。このことは既に、「第690回:ルーキー現る」に述べたが、彼のお陰で、ぼくは一応の指導者もどきを、危ういながらも、何とかこなしている。特段、58年の年齢差を考えたり、表立って意識したことはないが、今のところ「歳の差など大した問題ではない」という考えに至っている。それはきっと「写真」という同じ土俵に両者が立っているということが大きな要素となっているからだろう。この「土俵」では常に誰もが対等であり、それは互いの敬意と尊重で成り立っている。おそらく、ぼくばかりでなく他の面々も同じような感覚と意識を有しているに違いない。 さて、肝心の苦情めいた事柄の内容なのだが、要約すると、「かめやまさんの新調したレンズに私は興味津々なのだが、それには一切触れられていない。レンズの性能や買い換えた理由が知りたいのに、 “意地悪ばして、知らんぷりなんね” (ダブルクォーテイション部は本文のまま)」なのだそうだ。 ぼくが、拙稿で述べたことは、「性能を見越して、このレンズを選択したわけではない」ということだ。では、何故なのかを知りたいのだろう。 もう何年も前に記載したと記憶するが、ぼくのズームレンズの基本的な使い方は、被写体をファインダーで覗きながら、ズーミングで遠ざけたり、近づけたりは決してしない。始めから焦点距離を固定し、ファインダーを覗き、被写体のアングルなどに狂いが生じていれば、もっぱら自分が動いて調整する。つまり、自分は動かずに、ズームレンズをジコジコと動かしたりはしない。ズーミングをする時は、あくまで微調整であったり、立ち位置を変えられない時に限る。もしかしたら、これは単焦点レンズで育ってきた人間のありがたい特質なのかも知れない。 焦点距離によって、遠近感、解像度、歪曲収差などの諸収差、背景の描写などが変化するので、あらかじめ焦点距離による描写の違いを把握し、固定しておきなさいということだ。 とはいえ、昨今はズーム全盛で、ぼくが若い頃に試したズームレンズとは、性能的に隔世の感がある。昔話を今ここですることはしないが、性能面だけを取り上げるのであれば、現在は単焦点レンズに勝るとも劣らずといったものが多々ある。今回の1本もそのうちのひとつであろう。今まで使用してきた、24~105mmも優れたレンズであり、特別の不満があったわけではなく、仕事での使用も非常に重宝したものだ。 さて、ここからが本題なのだが、ぼくが24〜70mmに乗り換えた理由は、「ズーム範囲が短い」というのが唯一の理由だ。これだけで身軽になったように感じるから、何と不思議。レンズの解放f値もf 4.0からf 2.8と1絞り明るくなったが、ぼくには関係なし。ボケの違いも、やはり関係なし。と、ぼくの答は、味も素っ気もなし。 “なしづくし” でつまらないね。 2本のレンズを同条件でテストすることも、テスト魔の名が廃るくらい、何もしていない。新調のレンズは、さすがに仕事では使用していないが、私的な写真はぶっつけ本番だった。性能には頓着していないと拙話で述べたが、それは偽りのないところだ。 ズーム域が狭くなったので(105mmから70mm)、その分気分が軽やかになったと前述したが、しかし、ぼくは200gの差を甘く見積もり過ぎていた。ずっしりと身にこたえるではないか。たかが200gである。身体が衰えたのではなく、根性が足りないのだ、とぼくは遠方からのあらぬ苦情やいじめと闘いながら、200gとともに、老後に立ち向かおうと覚悟を決めている。「努力」より上位に位置するものは、「覚悟」であるとの持論に従おうと思っている。 https://www.amatias.com/bbs/30/731.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 埼玉県川越市。 ★「01川越市」 工事現場で休息していた人の良いセネガル人に、「そのカメラは高いの?」と訊ねられ、久しぶりに英会話を愉しむ。 絞りf5.6、1/160秒、ISO 800、露出補正-0.67。 ★「02川越市」 ロータス・ケーターハム?(間違いでしたら、すいません)。店内に展示されていたのを、ガラス越しに。今から半世紀ほど昔に、同系列のモーガンを試乗したことがあり、懐かしさも相まって。2枚ともモノクロ。 絞りf4.0、1/100秒、ISO 400、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/03/07(金) |
第730回 : 千里の道も一歩から |
年一度の国際的な催し物の時期(6月)がもうすぐやって来る。ぼくは分不相応ながらもその審査員を毎年仰せ付かっており、来月には作品(写真や絵画)のコピーやデータがどっと送られてくる。「ほんにえらいこっちゃ」と思いつつ、それに携わる時間をしっかり確保しなければならず、多少の精神的圧力を感じている。かなりの重労働なのだが、5年も続けていれば他の審査員の方々とも気心が知れ、また彼らのお人柄がぼくは好きなので、勇んでこの仕事に従事させていただいている。
ぼくの道義に従い、その展示会の固有名詞はここに記せないが、今年も授賞式のため、神戸に赴くことになっている。ぼくにとっては、年に数少ない新幹線利用なので、今からあの異次元とも思える車窓風景を想像し、浮き浮きしている。 もし、あの感覚に馴れ、感動が薄れるようであれば、写真など辞めちまえと思っている。ちょっと格好を付けていうならば、「童心にかえる」ことができる瞬間だ。それほどぼくは、自走より遙かに速い鉄道や他の乗り物に様々な思い入れがある。それらは、ぼくを「夢見心地」にさせてくれる。 ぼくの鉄道好きの “ほど” は、拙稿2022/09/11 「晴れて鉄道博物館」(1)から2023/02/10 までの20回にわたり、連載させていただいた。 この催し物の審査を任命されて今年で5年目となるが、写真や絵画に限らず、結果が点数(数字)で表せないものの優劣を取り沙汰することに、ぼくは昔から大きな疑念を抱いてきた。だが世の常として、それを容認し、けじめを付けないと事が上手く運ばないという、謂わばどうにも不可解で不条理なことが進行してしまう。そしてまた、人は優劣を競うことに血道を上げる愚を好むので、なおさらである。真・善・美などの普遍的な絶対的価値に順位など存在するのだろうかとの疑問にも襲われる。ぼくが、疎いだけなのだろうか? この仕事をお引き受けしている一番大きな理由は、他の審査員の考えや物の見方といった貴重なものを、こっそり、時には大っぴらにいただけることにある。 ぼくは何故か最年長者(残念ながら)だが、彼らに学ぶところ極めて多く、有意義な時間を過ごすことができるのも理由のひとつである。他人が背負ってきたものを尊重しようとの心があちらこちらに垣間見え、大切なこととはどのようなものなのかを教えてくれる。そのような人たちとともに仕事をする意義と価値は、新幹線に劣らぬものがある。彼らはぼくにとって希有な人たちともいえるのだ。 この催し物では、面識のない人々の作品評価をすることにあり、感情移入がないとはいえ、しかしそれに順位を付けるというのは、とてつもない狼藉である。実に、はしたなくも横暴な仕業であると自覚している。良心の呵責を感じる時でもある。 いうまでもなく、「我、それに関せず」を貫きたいのは明々白々なのだが、それを押し止めるものがあるとするなら、前述したことの他に、「ぼくはこの世界で長年食わせてもらってきた。したがって、どこかで体験上得たものを少しでも還元すべきではないか。プロのささやかな晩年はそうあっても良いのではないか」と、あれこれの義務感らしきものに動かされているのだろう。たまには、どこかで殊勝な振りをすることも必要だ。なにしろ、家族全員からぼくは「頑固ジジィの困り者」と扱き下ろされているのは事実であり、他人は面と向かって、ぼくには言えぬだけかも知れない。ここのところ、よ〜く考えてみなければならない。 面識のある人たち、たとえば月一度集う我が倶楽部の面々の写真評についてはさらに難しい面がある。倶楽部の事始めが自ら進んでのことではなかったので、いろいろ心の準備ができぬまま、ずるずると済し崩しに変容し、その状態がこんにちまで続いているのは、全体どういうことなんだろうと考え込んでしまう。 だが、このようなことを20年以上も続けているうちに気のついたことは、「千里の道も一歩から」とか「努力に勝る天才なし」というが、それを示すようなメンバーの姿を目の当たりにできたことであり、それは我ながらまさに青天の霹靂といっていい。 ひとつの物事を成すに、20年かかるかどうかは人それぞれであり、ぼくには判断しかねるが、確かなことは、「趣味を極めるにあたって、 “遅すぎる” ということは決してない」ということだ。何とか恰好がつくまで(自身の作風を作り上げるまで。つまり個性の確立という意味であり、他人の評価ではない)、人の命は尽きぬものと思わせるのが、創造の危うさであり、凄さでもあり、またそれは救いの主にもなり得る。 ぼくは以前から、自身を「無信心者」といって憚らなかったし、今もそう思っているが、「創造神」とか「造化の神」というのは、いつも心のなかに宿り、ぼくの一挙手一投足(ぼくの場合は、写真がその典型を成すが)を、母親のように見守っているような気がしている。写真が、心の移ろいを表しているのだと言い聞かせているようにも思える。 https://www.amatias.com/bbs/30/730.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 埼玉県川越市。 ★「01川越市」 川越名物の人力車。ほとんどRawデータのままの無補整。 絞りf8.0、1/160秒、ISO 800、露出補正-0.67。 ★「02川越市」 ショーウィンドウに吊された洋服。 絞りf3.2、1/125秒、ISO 125、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/02/28(金) |
第729回 : 老兵は死なず・・・ |
昭和を知らない若い人から、「昭和は良い時代だったと聞くことがありますが、実際にはどうだったんですか?」と真顔で訊ねられることがたまにある。率直かつ丁寧に答えようとすればするほど、ぼくは窮する。誠に頼りないジジィを露呈してしまう。
昭和といっても、戦前(昭和20年以前)と戦後に大別され、ぼくは戦後生まれなので、それ以前の空気を知らない。戦前を過ごした人々の言葉の端々や書物から想像するより手がないのだが、戦争という悲惨な時期を過ごした先輩方が多くを語ろうとしないのは、きっと人間の本能がそうさせるのであろうとぼくは感じている。戦争が幸福であるはずがないからだ。 昭和は64年もの間、日本の元号で最も長く続いたとのことだ。ぼくは昭和23年の生まれなので、41年間を過ごしたことになる。ただ、幼少期はまだ戦争の灰汁(あく)のようなものが随所に漂っており、特に京都では見かけなかったものが、埼玉に来てからは防空壕や鉄砲の弾、闇米を運ぶ人々、傷痍(しょうい)軍人などをよく見かけたものだ。戦後十年ほどは、まだ硝煙の匂いが所々に漂っており、それを肌で感じた時代でもあった。 また、父に連れられて皇居周辺をよく歩いたが(父の勤務先があった)、芝生には多くの米兵が寝そべり、横を通ると笑顔でチューインガム(Wikiによると、「外地へ出征したアメリカ軍将兵が現地での物々交換やプレゼントに使った」とある)をくれたものだ。ぼくの戦争の記憶(といってもその残滓だが)は、高々そのくらいのものでしかない。 若い人は、ぼくの風体からして、「この年老いたおっさんは、人生の大半を昭和で過ごしてきたに違いない」と見立てるのだろう。昭和といっても先述したように、戦前と戦後に大別されるので、一概には語れない。 戦後生まれのぼくにとっては、「どちらかといえば、良い時代だったように感じる」とか「今にくらべれば、明らかに昭和は肩の凝らない良い時代であり、明日への希望に満ちていた」というのが正直な感想である。 善悪相まみえるのは世の常だが、良い意味でいい加減であり、また何事に於いても寛容だったことは、ぼく自身が体感していることでもある。 倫理的善悪観がどのように実践的に関わっていたかについては、ここで問うものではない。 ここでの “良い” をどのように解釈するかを書き出すと、始末に負えぬこととなるのは自明なので、直接には触れずにおくが、ぼくが出版社に就職した当時は、高度経済成長の真っ只中であり、「昨日より今日、今日より明日はさらに良くなる」との気運に満ちていたことは確かだ。故に、人心もそれに伴って、穏やかで豊かだったように思う。 そんな時代を経てきた者には、昨今の、あまりにもヒステリックで、病的とも思える、所謂「コンプライアンス」とか「○○ハラスメント」などの話を聞くにつれ、ぼくは寒々とした思いに囚われる。自分たちで自分たちの首を絞めている厳然たる事実に、ぼくはただ茫然とするばかりだ。心の病が多発するのは、必然的社会現象であろう。「良心に従って」という言葉はもはや死語なのだろうか? 拙稿が「写真よもやま話」であることは重々承知なのだが、要らんことばかり書き連ねるのはいつものことで、どうぞご容赦のほどを。 さて、30数年ぶりに訪れた銀座の奥野ビルは、昭和7年(1932年)に竣工され、2年後に新館とされるビルが付設された。つまり奥野ビル(当時の呼称「銀座アパートメント」)は、ふたつの建物がピタリと連結しており、当時としてはまだ珍しかった鉄筋づくりで、エレベーター(手動開閉式。ヨーロッパでいうところの “リフト” か)を備え付けた銀座ならではの高級アパートだった。現在は、規模の小さなギャラリーや個人の事務所などが主なテナントであり、如何にも昭和レトロな雰囲気に満たされている。 さすがに階段や廊下は薄暗いが、新調のレンズが暗所でどのような立ち居振る舞いを示してくれるのかを知るためには、結果として良い実験場だった。読者のみなさんが掲載写真でそれを窺うにはあまりにも無謀であり、ぼくのほうも、怖めず臆せずといったところだ。 というのは、実画像は長辺が6,000pix だが、掲載写真は僅か800pixなので、レンズの性能や性格の測りようがない。したがって、このレンズについての所感を述べることはしないし、未だ1,000枚近くの写真で、何をか言わんやである。ぼくは、YouTuber諸氏のような慧眼や深い洞察力の持ち主ではないので、このレンズについて軽々に論じるべきではないと思っている。 前回でも述べたが、性能を見越してこのレンズを選択したわけではないので、なおさらである。ただ、「やっぱり老体には重いなぁ」が、一番の感想である。手ブレ補正機能なんぞ付けてくれなくても良い。その分軽量化してくれればありがたいのに、との思いはいつまで続くのだろう。慣れという御利益に与ることがあればいいのにと願う。いや、願うばかりでは打ち勝てず、重さに耐えながらも順応しようと努力するのが尊い写真屋のあるべき姿だ。あっ、ぼくは一昨日の撮影を最後に、すでに商売人としての写真屋を辞めたのだった。 「老兵は死なず、消え去るのみ」(イギリス陸軍のゴスペル歌の一節。ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)の退任演説で有名となった)の、ぼくなりの正しい解釈は、「仕事をやり遂げたので引退するが、老いてもまだまだ写真は撮る」といったところか。 https://www.amatias.com/bbs/30/729.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 東京都中央区銀座。奥野ビル、旧名「銀座アパートメント」。 ★「01銀座」 個展会場を間違え、階段を上ったり下りたり。ついでに、レンズをあっちこっちに向けてテスト。本館から新館を覗き見る。おおよそ “インスタ映え” しない写真を撮る自分を褒める。 絞りf5.6、1/25秒、ISO 2,000、露出補正-1.33。 ★「02銀座」 シャドウを補整上潰してもいいから(原画は潰れていない)、ハイライトを優先し、建築の構成と光りを頼りに、より立体感を。 絞りf5.6、1/25秒、ISO 2,000、露出補正-0.33。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/02/21(金) |
第728回 : 40年の仕事を終える |
この10日間近く、優柔不断のぼくは、あることに悩まされていた。今日この原稿を認める頃には決着をつけているのだろうが、物事にはすべて “潮時”というものがある。
“潮時” とはどのような意味で、どのような時に使用するのかを、何冊かの辞書を繰りながら調べてみたのだが、そこに新たな発見はなく、従来から誰もが心得ていること以外のものは見つからなかった。 この言葉の意味や使い方にぼくが悩まされているのではなく、写真業からの、自身の “身の引き方” について、先日来、頭を痛めていたのである。戦争と同じく、始めるのは容易いことだが、止める(撤退)のは、非常な困難を伴うのと似ている。何もここで、喩えとして戦争を持ち出さなくてもよいのだが、引き際というのは、自身の都合だけで決められるものではなく、斯様に難しいものだ。 “潮時” といったが、世間で案外誤解されていると思えるのは、「物事の終わり」や「やめ時」だけを示唆する時に使われる言葉であるように見なされていることだ。往々にして、そのような時だけに使用されると思われている節があるが、それに限定するのは間違いであることくらいはぼくだって知っている。けれど、ぼくをも含めて、そのような、ちょっとした勘違いに人々は案外気づかぬことがある。 ぼくより何倍も多く読書を嗜んでいる身近な人間が、「おかしい、おかしい」とさかんに首を傾げていた。「どうしたの?」と訊いたら、「『原因』という言葉がこの辞書には載ってないんだ」と狼狽えていた。彼は、「原因」の発音を20年近く「げんいん」ではなく、「げいいん」と思い込んでいたのだった。何を隠そう、その読書家はぼくの息子なのだが、ぼくはその現象にたまげはしたが、笑うに笑えなかった。人は誰でもそのような、たわいない間違えをするものだからだ。ぼくだって、始終している。 「潮時」とは、「物事をするのにちょうどよい時」(大辞林)、「あることをするための、ちょうどよい時期。好機。時期」(広辞苑)とある。あるいは、「物事を始めたり終えたりするのに、適当な時期」(大辞泉)ともある。作例として、「そろそろ引退の潮時だ」(明鏡国語辞典)、「今が潮時と辞任する」(三省堂国語辞典)といったものも示されている。要約すれば、「やめる」(止める。辞める)時に使用するのは間違いではないが、 “潮時” はそれに限定される訳でないということだ。 ちょっとくどくどと言い過ぎたが、ぼくはここ10日間ほど、自身の、写真屋からの撤退伺いを、今は亡き、心より師事してきた人たちに立ててみたのである。この歳になってさえも、ぼくにはかつて人生の師と仰いだ故人たちが身の回りをうろちょろと徘徊しているのだった。とはいえ、人生相談とはいいつつも、それは自分の気持ちや心の確認作業を経るためのエクスキューズに過ぎないのだが、それでも心の拠り所というものを求めたくなることもあるようだ。 しかし、残念ながらぼくには天からの声を察知したり、聞き取ることはできなかった。ただ、亡父の声だけがかすかに頭のなかで低く反響していた。「そげなことは他人に頼らず、自分で決めれ。いつまで経ってん、おまえはいかんの」っち佐賀弁で言いよる。 ぼくはこれ幸いと父の声に全責任をおっかぶせようと、「来週早々ん撮影ばケツ(最後)に、40年ん写真業に終止符ば打つ!」と、ぼくも佐賀弁で啖呵を切った。見得を切った以上、もう後戻りできないような状況に追い込むのが賢明というものだ。 ただ、仕事を引退すると何から何まで生活意識が変化するのだろうと思う。それをどの様にして愉快なものに導くかがきっとぼくの才覚なのだろう。もちろん、この才覚とは、金銭や名誉などといったまったくの俗物なものとは無縁でなくてはならないし、そうあるべきことはいうまでもない。こんなものにかまけていたら、下手な写真がさらにダメになってしまう。これが、ものの道理であり、かつまた真理というものだ。 今この原稿を記しながら、ぼくは言葉では言い表せないような不思議な感慨に浸っている。実に複雑奇っ怪な感覚なのだが、一番強く感知していることは、写真屋から足を洗えば、「これからはもう、あんな恐い思いをせずに済む」ということだ。 写真屋としてこの40年間に何千もの場数を踏み、そこには撮影の楽しさと恐怖がいつも同居していたものだが、経験を積めば積むほど写真を撮ることの恐さが身近に迫り、楽しみを打ち負かしつつあった。最近は特にその兆候が著しくなってきたように思う。昔から、ロケ現場が近づけば近づくほど、Uターンをして帰宅したくなったものだが、最近は特にその傾向が著しい。 創作というものは、知恵と技術の使い処を知れば知るほど恐さが増していくものらしい。この矛盾は趣のある哲学的思考であるように思え、実に面白いものだ。 ぼくは、本来はその逆であると思っていたのだが、予想外のどんでん返しに、目をパチクリとし、慌てふためく自分がいることに気づき始めている。 ぼくの現役引退の目論見をとっくに見透かしたように、拙稿の担当者から、来年度の契約書が有無をいわせぬ絶妙のタイミングで我が家の郵便ポストに入れられていた。何のお伺いもなしに、書類に判を押し、送り返せとのことだ。ぼくはまた連載記録を1年間延長するようだ。「してやられた」って、こういう時に使うらしい。相手が上手(うわて)だったという事実だけが残った。 娘に、「てつろうくん、ボケ防止にいいよ」と、ちゃらっといわれたが、「うん、確かに」と返すのが精一杯だった。 嬶(かかあ)には、「もう写真屋を辞める」とは、どうしても言いづらく、まだ白状していない。ぼくが今悶々とし、気の晴れぬ思いをしている唯一の原因(げんいん)がここにある。 https://www.amatias.com/bbs/30/728.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-70mm F2.8L IS USM。 東京都中央区銀座。奥野ビル、旧名「銀座アパートメント」(次号で触れる)。 ★「01銀座」 銀座にある築93年(昭和7年建築)の奥野ビルの一室で開催されている知人の個展会場を訪れた時に撮ったもの。ビルのエントランスに入った途端に、30数年前、このビルでロケをしたことを、突然思い出した。 絞りf5.6、1/25秒、ISO 2,000、露出補正-1.33。 ★「02銀座」 昔のロケ現場を懐かしみながら階段の上り下りを愉しんだ。新レンズは上手いこと描写してくれるか、なんてどうでもいい。 絞りf4.0、1/25秒、ISO 1,000、露出補正-1.00。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/02/14(金) |
第727回:200gの重量差にへこむ |
5話にわたり記してきた「首都圏外郭放水路」については、今回で一旦打ち切り、従来通りの “咄嗟の、思いつき” による無駄話(与太話)に戻ろうと思う。といいつつも、実は「首都圏外郭放水路」そのものについては多くを語っておらず、相も変わらず自分のことばかりなのだが、掲載写真は現場のものなので、それでお茶を濁すというのが、ぼくのもっぱらの逃げ口上だ。
手刀を切りながら、少しは反省もし、心を入れ替えなければと思いつつ、ぼくは未だどこからもお小言を頂戴しないのをいいことに、もう15年もそんなことを続けてきた。まったく、たいした度胸だ。ぼくには、肝というものがあるのだろうか。 その後、「首都圏外郭放水路」での別企画(8色のスポットライトやレーザーライトを用いたライティングデモ)のため、過日予備撮影を行ったのだが、まだその催しの本番を迎えていないので、その後改めて許可を得てから、可能であれば現場写真とともに本稿に掲載させていただこうと思っている。 「地下神殿」で、色とりどりの光りが飛び交う光景は、それはそれで見ごたえのあるものだった。コンクリート打ちっぱなしの「地下神殿」は、写真屋であるぼくにとって殊更趣を感じるのだが、色彩を添えられたそこもまた風趣の異なるものだった。 ただぼくの場合は静止画なので(飛び交う光りを止める)、それがどのくらい訴求力を得られるかは不明である。「動画と静止画は、自ずと役割と目的が異なるものだ」と考えているが、現場写真を掲載するまでは、取り急ぎそのような予防線を張っておこう。 ここからいつもの与太話に戻るのだが、先週から今週にかけて、あろうことか、ぼくは省線電車(鉄道省、運輸通信省、運輸省。1920〜49年)でなくて国電(日本国有鉄道。1949〜1987年)でもなく、そうだ今時はJRというらしいが、10日間に5度も乗ってしまった。それは近年にないことだった。写真屋は機材があるので、常に車移動。今週末には、銀座に行かなくてはならず、ぼくはこれでも一端の、にわか社会人を気取っている。 スマホに入れたSuicaの残高がみるみる減っていくその様は、心地良い(まだこのジジィは何かの役に立つとの認定書)ものなのか、そうでないのか(すでに用済みの退役軍人)、ぼくは未だ結論を出せずにいる。だが、いずれにせよ「老体に鞭打つ」との状態に変わりはなく、元々人混みと電車の苦手なぼくはすでに疲労困憊といったところだ。 新調したレンズは、仕事目的に購入したものではないと割り切っているので、これは思いの外、ありがたくもストレスを解放してくれる。テスト撮影もせず、身近なものを無造作に楽しく撮っている。極言すれば、心情的にはスマホ写真の如しといったところだ。 レンズの描写や性能を意識していないので(描写にさほどの破綻がなく、普通に写ってくれればいいよ、との面持ち)、なかなか正体が見えてこないのだが、もはや気に止めていない。また、ぼくの普段からの性癖上、購入時にネットやらYouTubeでの情報はまったく当てにしていないので、気楽な選択だった。 ただ、現在特に私的写真で重宝しているオールラウンドレンズのRF24-105mm F4 L IS USMにくらべ、新調したRF24-70mm F2.8 L IS USMはちょうど200g重い。ぼくはこの差について高を括っていた。ボディに装着して初めて、「なんじゃ、この重さは!」と唸ってしまったのだ。この重量差が、今後疫病神にならなければいいのだが。 アマチュア時代から商売人に至るこんにちまで、レンズの描写というものは、いつもぼくの心に重くのしかかり、頭を痛めてきた。また好みと良し悪しについても多くの事柄に身を割いてきた。重く厄介な漬物石が、歳を重ね血の気がなくなるのと同調しながら取り払われ、肩が凝らなくなったように感じている。きっとこれはかつてのレンズ道楽という病がもたらしたものに違いない。道楽あってこその、今の快適さである。多分、この病がぶり返すことはないだろう。 このレンズで撮った作例をまだ拙稿にて掲載できていないが、ぼくは出し惜しみなどするような性分ではなく、ぼくにとって高価だったので、何処ともなく気が揉めているだけだ。このレンズは、2019年発売なので、殊更新しいレンズというわけではない。 また、このレンズは、巷でいわれるあまり品の良い表現とは思えない所謂「大三元レンズ」というものなのだそうである。ぼくはこのいい方に非常な抵抗感を持っているので、今回が最初で最後の使用だ。ついでながら、時々見聞きする「小三元レンズ」、「レンズ沼」、「撒き餌レンズ」、「Jpeg撮って出し」、「ワイ端、テレ端」その他その他の語彙も同様にして、ぼくの世界にはない。写真が下手くそな分、言葉くらいはまっとうなものを使い、それで埋め合わせをしたいものだ。 話が前後するが、先述した解放感がテストに殊更執心してきたぼくにどのような変化をもたらしたのかは、自身でも明確でないのだが、多分、「もう仕事の写真は撮らない」との意志から派生しているのだと思う。そしてまた、もうひとつは、レンズやカメラの性能に惑わされ(煩わされ)ながら、写真を撮るのは「もういいよ」との心境なのだろう。ぼくは、後者のほうに重きを置いているように思える。 とはいえ、新レンズについての自身の評価に、多少は悩むことがあるだろう。つまり、「思った通り写ってくれない」とか「ここが物足りない」ということは、いずれにせよ起こり得ることだ。反面、「だからそれが何だっていうのだ!」との強い意志があるようにも感じている。それをして「意地」というのだそうだが、見得を切った以上、笑殺もやむなしといったところか。 https://www.amatias.com/bbs/30/727.html カメラ:EOS-R6&R6 MarkII。レンズ : RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF50mm F1.8 STM。 埼玉県さいたま市。川越市。 ★「01さいたま市」 数年前、35mm単レンズを購入。レンズテストがてらに近くの公園で。このレンズはお気に入りの1本。 絞りf5.6、1/160秒、ISO 400、露出補正-0.67。 ★「02川越市」 川越市内にある旧山崎家別邸。川越市指定文化財、国登録記念名勝地。アールヌーボー風のステンドグラスはぼくの好みではないのだが、夕日の極一瞬に垣間見せてくれた色彩の乱舞に思わずレンズを向けた。 絞りf8.0、1/10秒、ISO 2,000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/02/07(金) |
第726回:首都圏外郭放水路(5) |
読者の方から、「前号の掲載写真は、カラーとモノクロで異なる立坑をそれぞれ表現されていますが、どちらが亀山さんの意図に合致しているのでしょうか? 再来月、見学に行く予定なので、とても興味があるのです」との、かなり身に迫った(?)実直なご質問をいただいた。ぼくは自分の意図するところを正確にお伝えするべく、語彙を選びながらメールにて返信を差し上げた。
ぼくが横着者で、少しばかりの悪知恵が働けば、きっとその返信メールの全文をコピペし、削除と加筆をしながら、今回の原稿にしてしまうのだろうが、生憎ぼくにそんな度胸はない。第一、それは姑息であり、読者の方に失礼である。この拙稿は、新たに記したものだ。 また、拙稿に触発された小学生時代の同輩からも、「見学に行きたいんだけれど、カラー写真とモノクロ写真のどっちがリアルなの? 君はカメラマンだから、やはりモノクロのほう? 『地下神殿』への階段の上り下りに、荷物はどうしたらいいかな?」と、かなり一方的かつ気弱な質問を投げかけてきた。なかなか真に迫った問いかけなのだが、彼は昔から根が愉快で、間の抜けたところが級友に面白がられていた。70年近く経った現在も、それを引きずっている愛すべき男なのだ。 そのため、応える側のぼくも言葉選びにあまり頓着せずに済む。ましてや電話なので、録音でもされない限り、ぼくもその場の思いつきで、無用心でいられるのはありがたい。けれど、写真に関してのことだけに、舌先三寸という訳にはやはりいかない。 一見すると、質問内容が読者の方とは似て非なるものと感じたのだが、回答の方向性は同じところにあるように思えた。同質のものが多く含まれているように感じたのである。 元々がカラー写真のものを、どのような理由でモノクロ化したのか(それについては、前号の写真解説のところに簡潔に述べている)? そして、双方のどちらが現場にいたぼくにとって、それらしく被写体を捉え得たのか、ということなのだろうとぼくは勝手に想像し、しかも自分に都合の良いように解釈することにした。このへんの “臨機応変” は、亀の甲より年の功である。 だが、「ああいえばこういう、こういえばああいう」との、利かん気に満ちた奸悪な人々に普段囲まれている身としては、 “臨機応変” より、「毀誉褒貶(きよほうへん)は人生の雲霧なり。この雲霧を一掃すれば、すなわち青天白日」(幕末の儒者、佐藤一斎の言葉。心に一点のやましいことのない境地に至ることが大事であり、正しい気持を持って事に接すれば、恐れることは何もないとの意)のほうが、勝機に恵まれ、何をするにも気持が良い。まぁ、勝ち負けの問題ではないのだが、朴訥(ぼくとつ)な人間が、巧言を弄する人間に引けを取るのはやはり我慢がならない。 また話が横にすっ飛んでしまった。元に戻して、元来自身の作品を、言語でつまびらかに説明することをぼくはひどく嫌がり(しかし、世の中にはそれを好む撮影者がたくさんいるようだ)、したがって、なかなか話が前に進まない。 仕事で撮った写真を拙稿の掲載写真に流用したことはないのだが、今回は多少の制約はあるものの、許可を得ることができた。一風変わった建築写真として、現場ではかなりの表現の自由を許していただいた。 しかし、同じ写真でも、ここに掲載したものと納品したものとは様相が少しばかり異なるのだが(特別な意図でない限り、モノクロで納品することはない)、多くの被写体はここでしか見られぬ特異な建造物であったため、どの様に表現するかに面白味があった。対象とする被写体がぼくにとって大変興味深く、またフォトジェニックだったということなのだと思う。それがために、「『首都圏外郭放水路』を訪問してみたい」との感想を多くいただいたのかも知れない。 簡潔ないい方をすれば、納品写真は客観性を重んじ、ここでの掲載写真はぼくの、まったくの主観によるものだ。自分の抑制的な気分を払い退けて、もっと思い切った表現をしても良いのではとの気持に駆られるのだが、現地を訪れた方々から、「写真で見る現場は、まったく違うではないか! 嘘つき!」との反応が間違いなく寄せられるだろう。気の弱いぼくは罪の意識に苛まれることになる。 ぼくはいつも、「 “写真は真を写さない” 」といっている。「写真は嘘をついても良いが、自分を偽ったら、もうそれは創造の、創造たる価値のないものに成り下がってしまう。人間は無機的な機械ではないのだから。創造は人間が人間であることの証」ともいう。 いや、 “写真は嘘をついても良い” というより、撮影者が人間である以上、あるいはカメラやレンズ、現像ソフトなどの創造主が有機的な人間である限り、どこに、どのようにして、客観的な一貫性を求め、またそれを示せというのだろうか。土台、無理な相談である。 ぼくはこんな話をよくする。同じ場所で、同じ時に、同じ機材を使って撮影しても、印画紙上に写し出された写真に、同じものはふたつとない。 写真は過去の思い出を程良く記録するが、時空を止める訳ではないともつけ加える。ぼくらが、そう錯覚しているだけだ。「過去に、確かにこの瞬間があった」ことの証にはなるかも知れないが、そこに写し出されたものが、時空を越えた真実だと、誰が証明できるだろうか。 メールをいただいた読者の方と友人の質問には直接ぼくの考えをお伝えした。ここでは直接的に触れず概略を示しただけだが、それは写真的見地からした正誤の問題ではないからである。そこのところ、どうぞご了解いただければと思う。 https://www.amatias.com/bbs/30/726.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4L IS USM。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 ★「01首都圏外郭放水路」 地下神殿の最奥部にある排水ポンプの巨大なインペラ(羽根車)。深さ50cmほどの水の中を、長靴を履きジャブジャブと進む。2灯の懐中電灯で照らしてもらう。 絞りf5.6、1/15秒、ISO 2,500、露出補正-0.67。 ★「02首都圏外郭放水路」 インペラのアップ。ここも懐中電灯で照らしてもらう。 絞りf5.6、1/15秒、ISO 2,000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/01/31(金) |
第725回 : 首都圏外郭放水路(4) |
今回の撮影「首都圏外郭放水路」は、ぼくの40年間に及ぶ最後の仕事と心密かに決めていた。この先、仕事を依頼されれば、義理と人情の板挟みになるだろうが、意を決して、潔く身を引き、自分の作品づくりに埋没したいとの気持が強い。ぼくは、仕事の写真と私的写真の両刀遣いができるほど器用でないことを自覚している。
願わくば、現役から “人知れず身を引く” のが理想であり、格好がつく。そのためには、「あいつはどこかで “野垂れ死に” したようだ」との噂をそれとなく流してもらえばありがたい。自然消滅が理想なのだが、家族を背負っている以上、現実にはなかなかに難題であろうと思われる。知人友人の半数以上が、仕事を通してのお付き合いなのだから、なおさら “人知れず” 身を隠すことは困難だ。 義理とは、筋や道理を通そうとする理性であり、人情を生まれ持った情趣や感情であるとするならば、なるほど、その板挟みというのは、矛盾を晒さなければならず、どこか痛みを伴うものであるに違いない。これは、かなり厄介な痛みだ。 胸の疼きというのは、やはり忍び難いものであろうから、「あちらを立てればこちらが立たず」などという道理に背いた我を通すべきでないのかも知れない。中途半端は身を痛め、傷つける。ぼくは今そのような大きな憂鬱を抱え、年老いて人生の岐路に立っているといってもいい。何だか、めでたくもそんな憂慮を抱えつつ右往左往している自分が滑稽に思えてくる。 どこかで踏ん切りをつけるために、熟慮の挙げ句、ぼくは久しぶりにレンズを新調することにした。実に唐突なる思いつきだった。そのレンズは何某かの性能向上のために選択したものではなく、また今まで使用していたレンズ群を遙かに凌ぐ優れた点が認められるという訳でもないのだが、勇んで踏ん切りをつけるための、一種の儀式のようなものだ。あまり神聖とはいえない儀式である。得体の知れないレンズに高額を支払うのはその決意の表れかというと、そうでもないところが、如何にもいい加減なぼくらしい振る舞いであった。 若い頃から、かなりエキセントリックなテスト魔であることは以前に述べたことがあるが、今回新調したレンズは、まったくの、衝動に近い「不見転」(みずてん。後先を考えずに事を行うこと。見通しもないのに行動すること)であり、使用したこともテストしたこともないものだ。話が横道に逸れそうなので、このレンズに関しては、実際の写真を掲載時にお話ししようと思っている。 「首都圏外郭放水路」を撮影するにあたって、ぼくの大きなカメラバッグはいつもと同様に太鼓腹のようにパンパンに膨れあがった。今回ほとんど使うことがないであろうと思われるレンズ(主に望遠系)や万が一のための予備のボディ、そしてその他諸々の付属品などを含めると相当な重さとなる。 レンズというのは、既にみなさんもご承知の通り、石や鉄と同じ重さと考えていいくらいのものだ。そのくらい重量がある。同じものが、何故か歳を取るとともに重力が増すから嫌になる。その理不尽さに癇癪を起こし、本気で怒るぼくは、やはり心(しん)から阿呆なのであろう。 また、その場の思いつきでものをいう不気味なクライアントのために(たまにいるんですね。光学的、物理的配慮に欠けたり、絶対に使用しないと分かりきったカットを「一応念のために」と写真屋に拝み倒すような、極端に気弱な人たち)、ともあれマクロレンズも携行しないといけない。油断ならない人々のために、あらゆる準備をしておかなければならないので、本当に大変なのだ。つまり写真屋というものは、まったくの肉体労働者である。 「写真は感性よね、やっぱり感性よ」(何故、ここで女言葉になるのか分からないが)などという素っ頓狂な分からんちんがいるが、「感性なんてものは、二の次、三の次なんだよ! “感性” などという言葉を容易に乱発する人間ほど、感受性に劣るんだよ! 喝!」と、何故ぼくはこんなことでムキになり、突如いきり立つのか? 社会の底辺に蠢(うごめ)くフリーランスの写真屋の悲哀であるが、歳とともにその悲哀をかなぐり捨てることが少しずつではあるがやっとできるようになったことは、誠に喜ばしきことである。「めでたさも 中くらいなり おらが春」(一茶)といったところか。 商売人は、伊達や酔狂で写真を撮っている訳ではないので、どのような撮影にも対処できる体制を常に整えておかなければならない。写真のあがりは、最低でも相手の注文通りか、それ以上のものを差し出さなければ次につながらない。 プロは、高級機材を身に纏った茶人(ちゃじん。一風変わったものずき)ではないのだから、「撮れませ〜ん」という屈辱的な言葉をどんなことがあっても吐くわけにはいかない。撮影に対して用意周到であろうとするために、まともな商売人ほど、機材への投資は膨れあがり、どうしても避けることができないものだ。それは商売人の背負う性のようなものだとぼくは思う。また、投資は裏切ることがないというのも、ぼくの変わることのない信条である。 仕事の写真は自己主張を優先するためのものにはなり得ず、その癖が長年の習わしにより身につき、もはや剥がし辛くなりつつあるような危機感を抱いている。客観視するのは良いのだが、私的な写真に必要だろうかとの疑念がムクムクと頭をもたげ、ぼくは息苦しくなってしまった。 新調のレンズは、実はぼくにもう少し大胆さと勇気を植え付けてくれるのではとの思いで、後先見ずに、ある日突然大枚を叩いて入手してしまった。来月もう一度「首都圏外郭放水路」の撮影があるのだが、それが済んだら、何もかも忘れて、このレンズを相手に一丁遊んでみようと思っている。 https://www.amatias.com/bbs/30/725.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 ★「01首都圏外郭放水路」 第1立坑を最上部のキャットウォーク(作業員用通路)より覗き込む。深さ70mは目も眩まんばかりの光景だ。画面左の四角い穴の向こうは、「調圧水槽」内こと「地下神殿」。人の姿が見えれば、その巨大さが分かるのだが。 絞りf8.0、1/10秒、ISO 3,200、露出補正-0.67。 ★「02首都圏外郭放水路」 立坑は全部で5本あり、高さは70m、内径30m。これは第2立坑。肉眼で見ると恐怖を覚えるが、不思議にもファインダー越しとなると、ぼくは恐怖から解放される。構造物をより立体的に表現したかったので、モノクロに。 絞りf8.0、1/10秒、ISO 2,000、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/01/24(金) |
第724回:首都圏外郭放水路(3) |
読者諸兄を含めた数人の方々から、「首都圏外郭放水路」に行ってみたいとのメールをいただいた。確かにここは一見の価値ありとぼくも感じており、人様にお薦めすることにためらいがない。「一般公開(2018年より)されているので、ぜひ見学されたらいいですよ。十分に愉しめますよ」との返事を差し上げた。ここは老若男女を問わず愉しめる。ぼくの苦手な雑踏にも縁遠い。「視覚的びっくり」の刺激は、ボケ防止にもかなりの効用があるのではないかと思う。
「過日、90歳のご婦人がこの地下神殿までの階段を上り下りされましたよ」と、ここの担当者が顎をしゃくり、何やら意味ありげに、息遣い荒く階段を上りへたり込みそうなぼくに向かって、実に際どいタイミングでいわれた。 しかし、せっかくの仰せであったが、感心などしている余裕はなかった。太腿の上がらなくなっていたぼくは、とてもそれどころではなかったのである。 また、写真好きの人たちには、殊の外お薦めである。「調圧水槽」は「地下神殿」と呼ぶに相応しく、圧巻の佇まいであるのだが、閉所恐怖症の方には向かないかも知れない。我が倶楽部にもその手の人が約1名おり、ぼくは、普段からのいじめと悪態に対しての報復に、いつの日にか、彼女を召し捕って、この神殿にしょっ引き、巨大なコンクリート柱に縛りつけてやるつもりだ。 そして、もうひとつの見所である立坑を上から覗き込むのも、愉快のひとつだ。世のなかには、高所恐怖症という種族がいる。何を隠そう、ぼくもその一員なのだが、ぼくはファインダーを覗けばまったくの他人事(ひとごと)となるので、途端に恐怖は嘘のように去り行く。カメラが、身を守る最大の武器となってくれる。 ここでいう高所恐怖症の愉快とは、恐怖に怯える人を見るのが愉快であるという意味だ。恐いもの見たさに、身を縮め鼻の下だけを伸ばしながら、恐る恐る高所より下方に向かって大きくポッカリと口を開ける大穴を覗き見る時の、あの恰好と形相はなかなかの見ものであろう。それを予想するだに愉快である。閉所・高所恐怖症の方々にとって、ほど良い肝試しの場でもあろう。 ぼくがここの撮影を初めてしたのは、まだ一般公開される以前のことだった。確かな年月日は定かでないのだが、はっきりいえることは、デジタル撮影を始める少し以前のことで(ぼくが本格的にデジタル撮影を始めたのは、2002年に発売された初代EOS-1Dsを使用し始めた時)、助手君を2人従え、4 x 5インチの大型カメラを担いでの撮影だった。レンズは独シュナイダー社製のスーパー・アンギュロン90mm(4 x 5 インチカメラでは、広角レンズ)で、愛用の1本だった。 ぼくもまだ50歳になったばかりの頃で、今回のように階段に怨色を示すようなことはなかったのである。何て小癪であることか! この時は、「地下神殿」のみの撮影だったが、大型カメラを使用したのは、建ち並ぶ異様に大きく高い柱の平行(水平・垂直)を保つためだった。フィルムで平行を保つためには、アオリ操作(蛇腹での)の効く大型カメラがどうしても必要だった。 建築写真に於けるこの水平・垂直のばかばかしい神話や通念に、ぼくは当時より大変な疑問を持っているが、長くなってしまうので今その話はさて置き、何より苦労したのは、現場に於けるフィルターワークだった。 ロケハンと称し、ぼくは本番の何日か前に、35mmの小型カメラ3台に異なるカラーポジフィルム(デイライト用とタングステン用)を入れ、色温度計と何十種類のゼラチンフィルターを用意し、試撮を行った。 色温度に敏感なカラーポジフィルムなので、光源に合わせた調整を確かなものにしておかないと、本番撮影など恐ろしくてできるものではない。基準とする色温度と色相を前もって把握しておくことが必須だった。 「地下神殿」の光源を色温度計で計り、フィルターを取っ替え引っ替えし、ノート片手の助手君に記録させながら、何十枚も撮って現像所に走るのだった。おおよその当たりを付けておき、後日4 x 5 インチの本番用フィルムとフィルターで、再度現場にて試撮といった塩梅だった。その試撮で上手くいけば良いのだが、念のため予備日を設けておいてもらったものだ。 今思えば、当時はこのような作業を強いられ、それに付随する知識と技術を持ち合わせていないと、写真屋として食っていくことはできなかった。 当時のフィルターワークの苦労も、現代科学の粋、デジタルなら屁の河童であり、まったく造作ないことだ。写真について何の理解もない子供や我が家の嬶(かかあ)だって、スマホ片手に、「へぇ〜い、一丁上がり!」というわけだ。自撮りまでしよるに違いないのだ。ホワイトバランスもクソもあったものではない。 ぼくは、それが悔しいがためにいうのではないのだが(実は、多少のやっかみも交じって、やはり少々忌々しい。「そんなことが、この世にあってたまるか!」というのが本音である)、科学の発達やら、俗にいうところの文明の利器に、無批判に従うのは、知らずのうちに人類が蓄えた知恵や文化というものを、容易に手放すことになるとの懸念を捨てきれずにいる。多少はそのようなことに、思いを馳せてもらいたい。 「ホワイトバランス」だってさ。「てやんでぇ!」とは、所詮は化石ジジィの遠吠えか? https://www.amatias.com/bbs/30/724.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 ★「01首都圏外郭放水路」 立坑を下より仰ぎ見る。釣り師が履くような腰まである長靴に足を通し、その冷やっこさによろよろしながら、シャッター音を響かせる。これがホントの「年寄りの冷や水」。嗚呼、つまらん洒落。 絞りf8.0、1/8秒、ISO 2,000、露出補正-1.00。 ★「02首都圏外郭放水路」 「01」写真に見えるトンネル。手前から一灯、奥に一灯の懐中電灯を照らしてもらう。 絞りf5.6、1/10秒、ISO 12,500、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2025/01/17(金) |
第723回 : 首都圏外郭放水路(2) |
拙連載を始めたばかりの「第2回 : どんなカメラがいいですか?」(2010年5月21日)で、「弘法筆を選ばず」について触れた。この諺は一般に流布されているので、その意味するところを改めて説明することはしないが、今拙稿を読み返すと、この諺についてぼくは「半分は真実で、もう半分はそうではない」と、無責任の極みのようなことを、ちゃらっと述べている。ぼくの連載は、当初よりこんな具合だったのだ。
当時、何故この諺に触れたのかというと、「カメラが写真を撮るわけではなく、またレンズが写真を撮るわけでもなく、写真を撮るのはあなた(人間)なのです」(ママ。当時は “です・ます調” )ということを述べたかったからだ。つまり、「写真自体のクオリティは、機材に依拠しない」ということを端的にいいたかったのである。 肝要なことは、道具の価格云々ではなく、あなたが所有する道具に対する理解と、それを使いこなす知恵や技術にあるということだ。 喩えていうのであれば、現在小型カメラの市場に於ける最も高価なものは、ライツ社のライカだが、これを首に掛けたからといって、当然ながら良い写真が撮れる訳ではなく、そんな保証を得られるわけでもないことは、誰でもが知るところであり、ライカで身上(しんしょう。財産や身代)を潰しかけたぼくがいうのだから、なおさら間違いのないところだ。 ただこの事実は、ぼくの人生に、言葉では言い尽くせぬほどの、大きなものをもたらしてくれた。ライカを通じて、カメラばかりでなくメカニズムやデザインの美しさに裏打ちされた製品価値を知ることができたが、だが無念至極、写真は上達しなかった。世情のあれこれに、いつだって例外はつきものだ。 どうしても忘れがたい思い出は、ライカの引き伸ばし機フォコマートを使用した時の、暗室のほの暗い電灯下で、現像液のなかから浮かび上がる印画紙の像を見た時の衝撃だった。ぼくの写真人生で最も印象に残る出来事だった。あれから半世紀近く経った今も、印画紙上に浮き上がるあの時の画像が、走馬灯のように蘇ってくる。粒子の一つひとつが、まるで砂を撒いたように表現されていた。 フォコマートにより、Tri - X (トライX、1954年誕生。コダック社製のモノクロフィルム。ISO400を、ぼくは200で使用)の粒状の美しさを初めて知ることができた。このフィルムは逸品であり、機会があれば述べてみたい。 高品質な機材(もしくは道具)を手にする最大のメリットは、「それを手にする高揚感」であり、それによる「意欲の向上」にある。そのような人々は、ぼくの見るところ、ほとんどの場合、腕の上達が期待できるものだ。「大枚をはたき良いものを手にする」ことは、あながち無駄なことではない( “見栄” や “評判に流される人たち” は論外である)ということもついでに述べておかなくてはならない。 一方で禅問答もどきを一言いっておくと、「安物買いの銭失い」は、言葉通り非常に厳しい現実を突きつけられる。幸か不幸か、おそらく世の半数近くの人々が、それを実感していないのではと思っている。「安いのだから仕方がない」との事実を知っていながら、その論理に打ち勝つことができずにいる。 つまり、概念的に「安かろう悪かろう」を知りつつも、「良いものを使ってみよう」との意欲より、懐具合を先に見てしまうのである。これは人情の最たるものであるけれど、ここを突き破ったことのない人は、永遠に知ることのできない世界があるということに理解が及ばない。これはこれで、もはや悲劇なのだが、金銭の価値基準は個人差が大きく、あってないようなものなので、解決や導きの手立てが見つからない。 現在ぼくは掲載写真のデータに記しているようにミラーレス一眼(プロの仕事に十分堪え得るEOS-R6 Markllだが、同社の最上機種ではない)を使用しているが、以前使用していたEOS-1Dsシリーズであれば、今回のような撮影には三脚使用を余儀なくされたことは疑う余地がない。今回も一応三脚を担いで階段の上り下りをしたが、現在使用中のカメラでは、まったくの用なしだった。すべて手持ちでOK。正味5時間の撮影で、730カット撮った。パノラマ写真以外は地下の暗所撮影だったが、不安を覚えることはまったくなかった。 特に、大いに助けられたことは、カメラの高感度特性が優れていることと(優れたRaw現像ソフトのノイズリダクション併用)、ブレ防止機能のお陰である。この2点を武器に、ぼくは羽を伸ばして撮影することができた。 「弘法も筆の誤り」という諺もあるが、ぼくは空海のような天才ではないので、この諺を引用するには気が引けるが、今回の暗所撮影では、文明の利器にすがり、筆を誤ることはなかった。 撮影の慎重さと緊張感は機材に左右されるものではないが、労力と時間の節約については大変な御利益に与ることができた。限られた時間内に撮影をきっちり終えるということも、職業カメラマンの重大義務のひとつだ。 今回掲載の写真は、「調圧水槽」、別名「地下神殿」だが、ここに達するために116段の急な階段を意気揚々と大股で降りたのだが、よ〜く考えてみると、次への撮影場所に移動するには、カメラバッグと三脚を担いでこの階段を上らなくてはいけない理屈に思い当たった。意気揚々なんていっている場合じゃないよ。「息も絶え絶え」が目に見えている。空身でさえ難儀しそうなので、機材を誰に持ってもらうかの算段を撮影中に抜かりなくしなければならず、ぼくは老体に鞭打つ他に、余計な心労を重ねなければならなかった。 https://www.amatias.com/bbs/30/723.html カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4L IS USM。 埼玉県春日部市。首都圏外郭放水路。 ★「01調圧水槽」 別称「地下神殿」。ここは今回で3度目の撮影だが、そのスケールと独特な雰囲気に圧倒される。なお、この画像は納品用の色調とは異なる。ぼくの心象に添ったものだ。 絞りf9.0、0.8秒、ISO 500、露出補正-0.33。 ★「02調圧水槽」 サイドから赤や青のライトを順次照らしてもらった。地下神殿の柱は59本あり、その幅は2m、奥行7m、高さ18m、重さ約500トン。神殿の奥行きは177m。この色調も心象写真だ。 絞りf10.0、0.8秒、ISO 640、露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |