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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2023/09/01(金)
第657回:飛騨金山町(3)
 物にはどうやら順序というものがあるらしい。いくら世事に疎いぼくでも薄々それは感じている。順序通り物事に対処しないとぼくに辛く当たる者はあくまでも、事象を柔軟に捉えることのできない四角四面の、世間の常識という窮屈の極みのような宗教を信じて疑わぬ、融通や柔軟さとはまったく縁遠い人たちを指す。ぼく自身はそんな友人たちに与しているわけでないが、しかしどう贔屓目に見ても、ぼくが世事に長けているとは到底思えない。
 順序通り、しかも要領良く、との作法に著しい欠陥があることは素直に認める。筋道を追って考えることが苦手なので、ぼくはもしかしたら頭が悪いのだろう。そうしておけば、「無事是名馬」(ぶじこれめいば)なりだ。

 だが世間様が勝手に決めたそのような堅苦しくも、面白味のない決まりごとについて、ぼくが実直に従わなければならないという法はない。それどころか、そうしてしまえば自分がダメになってしまうと堅く信じているので、身を守る本能に従い、そんな些末なことはどこ吹く風である。自由気ままだからこそ、例えば13年間もの長きにわたって拙連載(駄文の極み)が続けられるのだ。この一例を取っても、ぼくは正しい。
 ぼくはぼくの法に従い、つまりそれを世間では “勝手気まま” とか “放埒” というらしいのだが、生き易さという観点から物事を図るべしというのが、もっぱらの、ぼくの生き易さの法である。

 ということで、旅の時系列を無視して書き連ねてきたけれど、今ここで改めて時間軸を戻し、近江八幡から飛騨金山町に到る行程を少し述べてみたい。旅情溢れるとまではいかないが、個人のささやかな心情を知ってもらえば、掲載写真も違った方向から見てもらえるかも知れない。
 加えていうなら、旅情を味わうのであれば、車は鉄道に追いつかぬと知りつつ、撮影は体力だけが勝負なので、どうしてもハンドルを握ることに頼ってしまう。また、現地での便利さと体力的な負担を考慮すれば、やはり車に軍配が上がる。このことは、今回の旅でことさら身に染みた。

 近江八幡から飛騨金山までは、岐阜から特急ひだ号を利用すれば、2時間半ほどで行ける。JR東海道本線の米原を過ぎるとやがて左手に大きな伊吹山(いぶきやま。標高1,377m。滋賀県の最高峰で、琵琶湖国定公園に指定)が間近に現れ、ぼくは感無量の面持ちだった。そして、それを窓越しに何枚も情に駆られながら、記念写真にと撮った。
 というのは、もう65年以上前、小学時夏休みに京都で過ごしていたぼくは、第650回「滋賀県大津」で登場願った叔父が、高校の同級生と伊吹山登山に出かけ、帰ってきた時の、日焼けしたその肌色の凄まじさに仰天してしまった。伊吹山は常に叔父の日焼けに連動している。

 海で日焼けすることは知っていたが、山でもこれほど黒くなるものなのだと、初めて知った出来事でもあった。ランニングシャツ1枚と半パンで登ったのだろう。銭湯に一緒に行った時は、叔父の墨で乱雑に塗りたくったような肌色文様があまりに汚らしくて、ぼくは恥ずかしく、決まりの悪い思いをしたことを今でもはっきり憶えている。伊吹山と聞くと、おかしな文様だらけの、どこぞやの原住民の姿を思い浮かべてしまう。そのくらい叔父の日焼けは、子供を萎縮させるほど不気味で恰好の悪いものだったのだ。
 因みに、伊吹山は日本百名山なのだそうだ。確かに、車窓から見るそれは威風辺りを払うものがあるが、叔父貴はそこに登ったがために、みっともない姿を銭湯にて振りまいていたのだった。

 岐阜から高山線JR特急ひだ号は飛騨川沿いに走る。飛騨川沿いには、国道41号が併走するのだが、その道を、これも思い出話になってしまうのだが、半世紀ほど前、女房の母を助手席に乗せて、下呂温泉まで行ったことがあった。その後最晩年の彼女を京都から埼玉に引き取った経緯もあり、彼女には特別の思いがあった。その母も4年前病院の不手際で亡くなり、車窓の隣を走る国道41号線を見ながら、我が家で過ごした母との楽しくも懐かしい思い出にふけっていた。

 飛騨金山町にたったひとり降り立ったぼくは、タクシーで宿に行く算段をしていた。たったひとりの駅員さん(7 : 40分 ~ 15 : 00分まで営業)が、「この町にタクシーは1台だけあるのですが、今日は日曜日なので、あいにく営業はしていませんよ」と、素っ気なくおっしゃる。たったひとりの旅人を気遣う気配などまったくなし。駅前には大きなアーチが設えてあり “WELCOME” と正しいスペルで、しかも大文字でデカデカと記してあるのがあまりにもチグハグな感じで、ぼくはその英語がひどく癇に障った。

 「腹ごしらえの時間だが、はてどうしたものか?」と思案していると、食堂らしきものが一軒。取り敢えず、そこに飛び込むしか手がなさそうだった。ぼくは、駅前広場に面したそこに割烹着仕立ての、救いの神がいると信じた。吸い込まれるように、「何か食わせて」という仕草をしたら、案の定、割烹着の神が躍り出て、「何になさいましょう?」と、にこやかにメニューを見せてくれた。ぼくは「特製」と銘打った「かつ丼」を迷うことなく注文し、割烹着の女将に、「Aという宿はどう行けばいいの? 歩いてどのくらい? タクシーは客がいるのに休業なんだってね。ぼくを歓迎してくれるのは、どうやらこの食堂の貴方だけのようだね」。ぼくの目論見が功を奏し、割烹着おばさんは「あたしが車で宿まで送ってあげるよ。心配しなさんな」と、ぼくの心中を見事見透かして、特製かつ丼の見返りにと、ぼくは半世紀後に、この地で助手席に乗ることになった。

https://www.amatias.com/bbs/30/657.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24−105mm L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
宿の廊下を歩いていたら、こんな光景に出会った。「ソクーロフに取り憑かれたかも」と思い、嬉々としてシャッターを押す。前号同様、「超広角の歪曲収差なんて気にするな。捨て置け」とソクーロフの心強い声が廊下にこだました。この写真の詳細は次号で。
絞りf5.0、1/15秒、ISO 640、露出補正-0.337。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道。「これは僅かに暖色系のモノクロで」との声が、どこからか聞こえてきた。カラーより断然ここの空気に合っている。
絞りf8.0、1/200秒、ISO 100、露出補正-0.67。
(文:亀山哲郎)

2023/08/25(金)
第656回:飛騨金山町(2)
 今ぼくは、前号末尾に「27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである」と不用意に記してしまったことにちょっと後悔している。その気持に何ら変わりはないのだが、それを書き記そうとすれば、相当な文字数を覚悟しなければならない。今回、思うところのすべてを書き切れないもどかしさはあるが、要点だけに絞ることはできそうだ。

 それより、本来は、旅の行程について順序立てて記すべきであった。つまり、近江八幡から飛騨金山町の宿に辿り着くあらましを先に述べるべきであった。何でも無計画にことを済ませてしまおうといういい加減なぼくの性癖が災いしてしまったというわけだ。
 「順を追って」という人生の掟を生殺しにしてきた報いなのだろう。だがぼくは、「出たとこ勝負」とか「ぶっつけ本番」の危うさに生の実感を得、それが好きなのかも知れない。多分にMの傾向があるのかも知れない。だが、そのうちきっと自爆するだろう。極楽とんぼの行く末はしれている。

 友人から「『脳裏に焼き付いている映画監督の映像』と述べているが、それって誰の何という映画か? 含みを持たせたような言い方などしないでさっさといいなさい」とドスの利いた脅迫を受けた。まったく癪に障る。そんなことはぼく自身がとっくに承知していることだ。

 今まで、ぼくの憧れた写真家や映画監督の映像から、多くのものを得たことは間違いないのだが、ただ単にそれをそっくり真似ても無意味であることを知っている。真似るだけで自身の写真のクオリティが上がるわけでもない。真似だけでは、どう足掻いても真似で終わってしまう。自身のオリジナリティがなければ創造も無意味だ。
 憧れを抱いた映像作家たちは自身の描くイメージを表現するために独自のもの(トーンやアイデア)を編み出したのであって、ぼくの描くイメージが彼らと同じであるはずはなく、そっくり真似ても意味がない。前述したように、それはただの真似事であり、二番煎じでもあり、独自のものを開拓・開発しなければ、創造とはいえない。

 例えばA. アダムスの風景写真に多くの人が憧れ(ぼくもそのうちのひとり)、彼の編み出した「ゾーンシステム」の理論を修得した人々(多くは欧米の人たち。ぼくは彼らを写真家とは呼ばない)の作品を観ると、「ゾーンシステムのためのゾーンシステム写真」に終始していて、そこに優れたものをぼくは見出すことはなかった。

 アダムスの教本による撮影や暗室技術の理論は大変参考になり、ぼくとて真剣に取り組んだが、当然のことながら、それだけで写真として恰好がつくものではない。
 写真のクオリティは、技術や理論は必要だが、それ以前に被写体の発見とどの様なイメージを描くか(撮影者の人生観や美意識、加え知性によるところのもの)がさらに重要で、そのうえでクオリティが決定する。それがぼくの確たる考えだ。描くイメージが貧困であれば、どれほど「ゾーンシステム」を修得し、重用しようが、良い写真は成り立たない。

 27年前、NHKで放映されたアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・ソクーロフ(ロシア。1951年生まれ)監督による短編ドキュメント映画(43分)『オリエンタル・エレジー』を観て、ぼくは腰が抜けた。ドキュメントの分野に入っているが、一片の、内省的な映像詩といったほうがしっくりくる。

 霧に包まれた幽玄かつ哲学的な映像は日本が舞台で、ぼくはこの映像の底知れぬ詩的な表現に参ってしまった。何という美しさか! その映像は、生涯忘れ得ぬ衝撃だった。
 ぼくは写真屋なので、動画ではなく、これを静止画(つまり写真)で表現しようとしたら、果たして写真として成り立つだろうかとの疑念が常に頭の中で渦巻いていた。技法的、そして心理的な面でそれを解決するには、動画と静止画の視覚に於ける人間工学的な面での相違について理解する必要があるだろう。そんな結論に至ったが、ではどのようにすれば良いのか、未だに分からない。試行錯誤を繰り返し、のた打ち回るしかないだろう。

 まだぼくの写真は憧れの域を出られずにいるが、20年ほど前に買い求めた『オリエンタル・エレジー』のDVDを久しぶりに観て、レンズの解像度や諸収差について、あれこれいきり立って語ることの虚しさを覚えた。「そんなことはどうでもいいよ。映像美にとってはひどく些末な問題だ」と、昨今の “写りすぎる” デジタルカメラやレンズに反目したい気持を支えてくれた。この映画は、ぼくのそんな懸念と疑問をなぎ払ってくれたように感じている。

 霧に咽(むせ)ぶような『オリエンタル・エレジー』についての映画観は述べずにおくが、飛騨金山町の「筋骨巡り」で出会った家々の佇まいを仰ぎ見た時に、ぼくは巷でいわれる『ハウルの動く城』などではなく、「これぞソクーロフ」と思わず呟いたほどだった。映画の家屋とは古さも建築様式も異なるが、どこか共振するものがあった。
 憧れの映像をどの様にぼく流に調理すればいいのか、飛騨の地にあってやはり途方に暮れるぼくだった。

https://www.amatias.com/bbs/30/656.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
飛騨街道のくぼみにあった昭和の銭湯。1988年(昭和63年)まで営業。現在は立ち入り自由。「銭湯の中を見られた方は表の扉を閉めて行ってください」と但し書きの看板がぶら下がっていた。昔懐かしい脱衣所と脱衣入れ。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 800、露出補正-0.67。
★「02飛騨金山町」
銭湯の番台。鬱陶しい写真、だからぼくは好かれない。牛乳瓶には「下呂牛乳」(音読してはいけない)と赤い文字で書かれてあった。もう1cmほど瓶を右に寄せたかったが、一切手を触れてはいけないと思い、そのままの状態で。超広角の歪曲収差は、ソクーロフに倣って補正せず。
絞りf5.6、1/20秒、ISO 200、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/08/18(金)
第655回:飛騨金山町(1)
 見知らぬ土地の情報を得るに、今は便利な時代となった。ベッドに寝転びながらスマホ片手にネットを探れば多くのことが、情報の当否は別としても、得ることができる。こんな横着をして情報を手に入れることにぼくは多少の後ろめたさを感じている。長年のアナログによる情報収集に身をやつしてきたぼくにとって、安易さはどこかに必ず落とし穴が潜んでいるものだとの感を拭えない。

 だがやはり、 “お手軽” という誘惑には何としても勝ち難く、無意識にキーボードを叩いている物臭な自分がいる。けれど、何事にも表裏があるものだ。ぼくはこのことに素早く気づく優れた性質を有しているのだが、いつも意志薄弱が邪魔をして、楽して実(じつ)を取ろうとするから、質(たち)がよろしくない。よしんばそれが怪しげな実であっても、自分にとってどの様なものであるかの正しい判断ができると過信しているところが、輪を掛けて、おめでたくも素晴らしい。

 昨今の、あまりの情報の多さに、人は惑わされる。取捨選択の苦手な人の多くは、疑うことを知らぬとの仏心を得ているので、それ如きのことで右往左往などしない。彼らは、ネット情報やテレビでの見聞きを鵜呑みにできるという特異な技を持っている。
 似て非なるものを瞬時に嗅ぎ分ける能力など必要ないといわんばかりにあっけらかんとしており、疑心暗鬼に凝り固まったぼくなどにとっては、何とも羨ましい限りだ。

 それはそれでよいのだが、一方、情報過多は自分の立ち位置を見失わせるとの危険性につきまとわれることになる。善と悪、正と誤は常に隣り合わせという具合になっているから余計に始末が悪い。それらは、いつも似たもの同士というわけだ。幸いないことに、ぼくはそのことに少しは気を寄せている。
 しかし、この道理に神経を尖らせないほうが、かえって生きやすいのかも知れないと、ぼくはこの歳になってそう思う時がしばしばある。

 父は、「ケチは好ましくはないが、欲張りはいかん」といっていた。母方の祖父は、「ケチはいいが、シブチンは絶対にいかん」が口癖だった。ならぼくは、「ケチもダメ、欲張りもダメ」でいいじゃないかとしている。
 祖父は、決して知的な人間ではなかったが、道理に沿った好ましい人間であろうと努めたことをぼくは認めているし、評価もしている。

 ネットなどない時代は、俗悪ではあるが、今よりは多少ましであったテレビや新聞(現在は、双方とも “オールドメディア” と揶揄されているが)に、世の人々は “お手軽” を頼っていた。
 現在のように、ネットによる正確な情報(情報の信憑性は受け手次第であり、知識力と判断力による)を容易に得ることができず、それなりの労力と幾ばくかの金銭を必要としたものだ。それがために、自分にとって必要な情報を選別し、身の振り方を熟考する必要があった。撮影に限っていえば、国内での撮影はもちろんのこと、海外でのそれは必須条件だったし、今でもそれに変わりはない。

 ネット情報が、如何なる心理的効果をもたらすかは千差万別だが、今度の旅で、かつて体験したことのある場所は、近江八幡だけだった。神戸の三ノ宮は撮影目的ではなかったので、下調べは何もしなかったが、今回取り上げた飛騨金町に行こうとのきっかけは、暇さえあれば旅にばかり出ている坊主(息子)の言葉だった。彼はまだその地を体験していなかったのだが、多くの旅情報を親父に内緒で抱え込んでいた。

 曰く「飛騨金山町は、細い路地が張り巡らされており、そこには昭和の佇まいが多く見られるらしい。ぼくもそのうちに行こうと思っている」。
 いつも坊主に先を越されるぼくは、ここだけの話、内心忸怩(じくじ)たるものがあった。今回こそ、やつを出し抜いてやろうとの野心に燃えた。
 ぼくはネット情報とYouTubeをかき回した。負けず嫌いのぼくは用意周到に、空き容量の少なくなった脳味噌に精一杯の知識を詰め込んで出かけた。それでも「手落ち」や「意外性」は避けることができないのだが、そこが旅の面白さでもある。現場での実体験こそ、「世界広しといえども、私だけのもの」なので、そこで自身が何を感じ、それをどう写真に反映させるかに、ぼくは非常な楽しみと関心を寄せた。

 飛騨街道の宿場である飛騨金山町には、前号で述べた「筋骨」の他にも見所があるらしいのだが、ぼくはいわゆる「筋骨巡り」に重点を置くことにした。あれもこれもでは、集中力を欠いてしまいかねないからだ。今回は「ひとつだけ」と心に決めた。
 ネット情報によると、そこは『ハウルの動く城』だとか「ジブリ」との形容が数多く記されていたり、また述べられてもいるが、残念なことにぼくは双方に大した興味を持っていない。
 何故かといえば、それらはぼくの指標とする写真表現とは遙かに遠い距離にあり、日本のアニメを評価しつつも、映像に関しては、ロシアのアニメ作家であるユーリー・ノルシュテイン(1941年生まれ。代表作『霧につつまれたハリネズミ』や30年以上も制作をし続け、未だ完成を見ない『外套』など)に、より高品質なものを感じているからだ。同じ土俵で比べるべきでないことを承知の上で述べれば、ノルシュテインはずっと「大人な」表現なのである。

 そして、「筋骨」の路地に降り立ち、そこで見上げた家々は、ぼくにとって、巷でいわれている、先述したところの『ハウルの動く城』などではなく、27年間もぼくの脳裏に焼き付いている映画監督の映像、まさにそれだったのである。

https://www.amatias.com/bbs/30/655.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
強い日射しが、一天にわかにかき曇り、いきなりの驟雨(しゅうう)。画面左下が細い路地。水路を跨いで家が建つ。
絞りf11、1/6秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
★「02飛騨金山町」
飛騨街道から、「筋骨」の路地を下る。紫陽花が窮屈そうに咲いていた。左側が水路。
絞りf9.0、1/50秒、ISO 100、露出補正ノーマル。

(文:亀山哲郎)

2023/08/04(金)
第654回:近江八幡から飛騨金山町へ
 ステーキや牛肉には子供のころからこんにちまで目のないぼくだが、今回の旅で、神戸では神戸牛、大津では近江牛の、嵐のような激しくも際どい誘惑に打ち勝ち、倹(つま)しくも雄々しい写真屋のあるべき姿を示すことができたと悦に入っていた。単純な男だ。だが、関東ではなかなか味わえぬほど美味い牛たちである。ぼくは彼らの迫り来る肉の誘惑に見事勝利した。勇猛果敢に、牛たちを闘牛士のように打ち負かしたのだった。

 これはこれで一種の、とかく野菜嫌いの人間にとって、極めて高貴で勇気溢れる振る舞いではなかったかとぼくは自身への讃辞を惜しまなかった。「やればできる」との貴重な教えを得たのだった。食欲などという浅ましき欲に打ち勝ち、倹しくあることは人として誠に尊ぶべきことだ。このことは、貴賤の分かれ目とも思える。
 「おまえがそれをいうか!」との的外れな声が関西方面から聞こえてくるのは重々承知しているが、それは食欲旺盛だった若かりしころの話だ。誰でもそのような時期があっただろうに。だから、そんなことはもう忘れてもらいたい。

 ぼくがいいたいのは、この歳になって、食や酒について、あれやこれやの、意味のないことに蘊蓄(うんちく)を傾ける所作は、誠にはしたないということなのだ。だが、それに気のつかぬ、行儀の悪い人々がたくさんいる。
 「このことは、食に限らず写真でも同様である」と、ぼくは「写真よもやま話」に相応しく?あろうと、 これに託けて声を大にしていいたい。年相応の写真こそ尊いと思っているし、そのような写真をぼくは高く評価している。「年相応の写真を撮りましょう」というのが、ぼくの常套句でもある。
 第一、還暦を過ぎれば肩の力も抜け、食や酒に関する蘊蓄に踊らされることもなかろうにと、ぼくは自省を込めて思うのだ。

 また時に、年配の方々がもっともらしく、「若い人の写真を見て、その感性から学ぶべきことが多々ある」とわけ知り顔でうそぶく。そのような光景に時折出会(くわ)すのはぼくばかりではないだろう。よくある話である。
 だが、自分のことはさて置き、「あなただってその時代があったのでしょう? その時に学ばなかったの? 若い人の作品から学ぶべきことがないなどとは決して思わないが、今、あなたは若い人にない多くの人生経験を持ち、そこで得た人生観は唯一無二のあなただけのものなのだから、それを宝物とし、作品に反映させることを第一義とすべきではないのか」と、ぼくは相手の顔を覗き込みながら伺いを立てる。若い人には若さに相応しい作品を。年配者はその人生に嘘を吐かぬ作品をとの思いが、ぼくには強固なまでにある。

 あれれ、これ以上説教がましくなってはいかんので(もう十分になっている)、話を元に戻そう。
 倹しくあることは素晴らしきこととの自身の考えを今回の旅で実践できたことに、いうにいわれぬ高揚感と満足感を覚えた。「おれもまだまだ捨てたものじゃない。この地で、小銭をばらまくという大失態を演じてしまったが、しかし、老いぼれちゃいないのだ」との意を強くした。
 このような肉欲 !? に打ち勝つことは並大抵の人間ではできぬことだと、ぼくは現地にて、これ以上にないほど自慢気に鼻を膨らませた。何とも仕合わせな男である。

 八幡堀や新町通りの撮影に悩みながらも5時間を費やし、「近江八幡の撮影は本日をもって終了。雪の季節なら、また別の趣があっていいだろうな」と思いつつ、歩いてホテルに引き上げることにした。
 疲れ切っていたが、「ホテルまでの道中、もしや良い被写体に巡り会うかも知れない。ならば、歩くほかなし。バスを利用すれば、往路での小銭ばらまき事件を知っている人に、もしかすると出会ってしまうかも知れない。あるいは同じ運転手さんという可能性も大だ。心に突き刺さるような視線を投じられるのは敵わない。世の中、何があるか分かったものではないからな。見くびってはいかん」とぶつぶついい、ふらつく足を引きずりながらも、ホテルまで約2kmの道のりを歩いた。

 やっとの思いでホテルのベッドに倒れ込み、夕食までの時間をうつらうつらし、体力の回復に努めた。やがて空腹を覚え、手軽で美味しい店を教えてもらおうと、フロントに出向いた。ところがここでぼくは卑怯な闇討ちに遭ってしまったのだ。
 フロントマンは得意気に、「お客さん、せっかく近江に来やはったんやし、それやったらやはり近江牛でっせ。それしかおまへん。ええ店を何軒か紹介しまっさ」と、この旅で得たぼくの掛け替えのないささやかな矜恃を、彼は妄(みだ)りに打ち砕こうとしたのだった。肉欲に打ち勝ってきたぼくを差し置いて、何たる戯言(たわごと)。ぼくは、寝小便を咎められた小僧のように、べたべたの関西言葉に対抗の手を失い、打ちひしがれるしかなかった。ぼくはフロントマンの意向にやむなく従い、いそいそと近江牛を喰らいに、店の敷居をまたいでしまった。

 今回は、飛騨金山(かなやま)(岐阜県。2004年に益田郡の他4町村が合併し下呂市となった。正しくは、下呂市金山町。駅名は、飛騨金山)に辿り着く予定だったが、いつもの如く余計なことばかり書き連ね、辿りそびれてしまった。掲載写真だけが、そこに辿り着き、それでお茶を濁すことに。な〜にやってんだか!

 来週は、お盆休みのため休載です。

https://www.amatias.com/bbs/30/654.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。RF16mm F2.8 STM。
岐阜県下呂市金山町。

★「01飛騨金山町」
金山町は「筋骨」(きんこつ)と呼ばれる名物がある。「筋骨」とは、飛騨地方の呼び名で、細い路地が迷路のように絡み合っている公道を指し、その様が人間の筋や骨のようであることから、名付けられた。町なかの飛騨街道から、人がやっとすれ違うことのできる階段を降りるところから始まる。この写真はその一例。
絞りf9.0、1/80秒、ISO 400、露出補正-1.00。
★「02飛騨金山町」
「01」写真に見える小さな橋から、見上げた風景。下に水路が通っている。この写真のイメージの成り立ちは次回にて詳しく記すことに。
絞りf5.6、1/800秒、ISO 100、露出補正ノーマル。
(文:亀山哲郎)

2023/07/28(金)
第653回:滋賀県近江八幡(3)
 このところの、今まで体験したことのないような凄まじい熱暑に、世のお勤めの方々はさぞや命懸けの日々を送っておられるだろうと、同情しきりである。ぼくはまだ隠居の域に届いているとは思っていないが、さすがにこのあるまじき炎天下での撮影は、熱中症を通り越して、若ければまだしも、この歳になると生命の危険に晒されるように感じるほどだ。車に轢かれたヒキガエルのようにカラカラに干からびてしまうと思えるほどの、尋常でない今夏の暑さである。

 生来、寒い分にはまったく意に介さず、人一倍元気なのだが(極寒のシベリアを2度ばかり堪能している)、暑いとなるともういけない。それに湿気が加わると、厭世的な気分にどっぷり浸り、何もかもが怨敵に思えてくる。ぼくは捨て鉢となり、恨み骨髄ながらも天を仰いで唾するわけにもいかず、しかも、日本の暑さは底意地悪く、我慢のならない湿気によるベタベタ感が加わるので、大変な不快指数だ。息も絶え絶えとなり、それを大義名分に、課せられた務めを何とか回避しようとやっきになっても罪にならぬとぼくは決め込んでいる。
 今、日本の味わいのある夏の風物詩は、この何年間か忌むべき武漢コロナに煽られ、そして今夏は酷暑という危機に晒されている。であるからして、風月を友とするわけにもなかなかいかず、写真屋も、うかうかしていられない。

 「撮影で命尽きるのであれば本望だ。悔いはない」なんて、どこかで聞いたことのあるような、気張った、しかも胡散臭い科白は、どことなく生っぽく、いかがわしくもお間抜けで、洒落にもならぬ。
 この歳になって、そんなことを仰々しくも、そして白々しくいう気もないし、それどころか「死んで花実が咲くものか」と、反逆精神がもりもりむくれ上がるのである。そんなに息むことはないじゃないかといいたくなるくらいだ。
 
 もし、この炎天下でファインダーを覗きながら倒れたら、同情は疎か、気にもかけてもらえず、「身の程知らずだねぇ。阿呆だねぇ、だから年寄りは困るのさ」と嘲罵されるのが落ちというものだ。
 しゃがみ込んで花などを撮り、立ち上がった瞬間に軽い目眩を覚えたのは、つい最近になってからのことだった。「えっ、どうしてなの?」と、初めての体験に少々うろたえたのは、つい2年ほど前の夏日のことだった。それが老化によるものか、気温によるものかは定かでないが、「どうやら、両方らしい」との覚えは、とても不気味なものだった。だがいずれにせよ、ふてぶてしくも、味噌も糞も一緒くたである。
 だからぼくは、切りの良い後期高齢者となった今年から、酷暑の夏を親の仇とし、何日間もじっと自室に籠もり、不快な夏をやり過ごそうと決めている。

 だが世の中、思うように事は運ばない。
 つい数日前に、よんどころなく、心ない人々に懐柔され、あろうことか、ミュージカルの撮影を命じられてしまった。普段なら、「人でなし!」とか「人非人!」とか「老人ハラスメント!」と毒突いてやるのだが、依頼主は人生のすべてを丸呑みにしたような力感溢れるこわ〜い、コワ〜イ、人を人とも思わぬ百戦錬磨のおばさま軍団なので、ぼくに抵抗の術はなく、蛇に睨まれた蛙のように、その凄味の前に身動きが取れなくなってしまった。金縛りというやつだ。名画『恐怖の報酬』(仏1953年、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)のイヴ・モンタンのような心境だった。

 会場での次第を書き連ねると、5000字を優に超えてしまうので、断念するが、ぼくはこの撮影後の3日間は寝たきり老人を余儀なくされた。全身の筋肉がバリバリと音を立て、その痛さに悲鳴を上げ、ベッドから這うようにしてトイレに到るその様は、人生終焉のベルが鳴り響いているように感じられた。撮影を手伝ってくれた同年の士も、やはりぼくと同様に悲惨な夢物語にうなされたのだそうだ。
 しかしぼくは誰をも恨むことなく、体力の限界を素直に受け入れることにした。この原稿を認めている今も、ぼくはまだあの後遺症に悩まされている。そして、焦りながらも、とんと、近江八幡まで辿り着けないでいるのだ。

 前号で、「現在の近江八幡は『上手く化粧を施した女(ひと)』」と書いたが、困ったことに、どこにレンズを向けても、被写体となるものが上手に整いすぎており、隙が見当たらないのだ。「破綻のない」とはこのようなことをいうのだろう。
 写真に限らず、絵画でも、文学でも、ある対象物(素材)の破れを見つけ、それを自身の流儀に従って、上手に味付けをし、作者でしか成し得ない味わいというか一種の妙味を表出・表現するのが創造の醍醐味だとすれば、近江八幡はぼくにとって誠に手強い相手だったといえる。ましてや、半世紀ほど昔の残像(幻影)に取り憑かれた身として、それを振り払い、現在の整備された佇まいに放り込まれての発見は、不器用なぼくにとって、容易なことではなかった。

 初めに目にした街案内版に大きな文字で、「すんでよかったまち 訪れてよかったまち もう一度訪ねてみたいまち」との標語が掲げてあったが、その語句に偽りはない。
 ぼくは八幡堀や街並での5時間の滞在で、確たる被写体を見出すことができなかったが、不思議と無念さが湧かなかった。なんだかんだいいながらも、この街に好意を寄せたのは、やはり遠い昔の恋心が消えずにいたからだろうか。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。RF24-105mm F4.0 L IS USM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
「かわらミュージアム」の敷地に置かれてあった大きな鬼瓦。日本の伝統工芸の一つとして、かつて鬼瓦制作の工程を、埼玉県小川町で撮影したことがあった。奈良時代以降は厄除けとして鬼面が多く用いられるようになり、鬼瓦と呼ばれるようになった。
絞りf5.6、1/320秒、ISO 100、露出補正-1.00。
★「02近江八幡市」
新町通りを歩きながら。空は雲ひとつなく晴れ上がり、疲れと暑さでげんなりしながらも、意気揚々とシャッターを押す。
絞りf6.3、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2023/07/21(金)
第652回:滋賀県近江八幡(2)
 バスのなかで小銭(100円玉1枚、50円玉1枚、10円玉7枚の計220円)を盛大にばらまくという大失態を犯したぼくは、すっかり身の置きどころをなくし、我を失ってしまった。乗客すべての、いいようのない視線が、気弱なぼくに注がれたように感じられた。この手の注視は最悪といえる。ぼくはこの時、まさに、忌むべき “死神の降臨” に遭ってしまったのだ。

 普段でも滅多にない、いや、生涯でも初めてのことを、あろうことか、決してあってはならない場面で、やらかしてしまった。
 「歳を取っても爺むさくあるまい」という家訓 !? に背いてしまったからには、ご先祖様に合わせる顔がない。何故かこの時、親父と、会ったことのない親父の父(つまり祖父。ぼくが生まれた時にはすでにこの世の人ではなくなっていた)の顔が、突如出現した。ぼくをこよなく可愛がってくれた母方の祖父でなかったところが面白い。だが、この時は面白がっている余裕などなかった。それどころではなかったのだ。

 常日頃、「おれはおれだから」と人目などまったく頓着せず、勝手気ままに振る舞うぼくだが、我が道を行きすぎた報いを受けたのだろう。とうとう焼きが回ってしまったのだ。
 この時ばかりは、涙より先に前身から汗が噴き出るような感覚を覚えた。貴重な体験といえばそれまでだが、恥のあまり、忍者のように煙遁の術を使いたいと思ったくらいだった。こんな恥かきは金輪際御免だと、ぼくはよほど身にこたえたのだろう。

 ぼくの隣に、観光目的の老夫婦が腰掛けており、「どちらまで行かれるのですか? 八幡堀(はちまんぼり)や街並観光なら降りるところも私たちと同じですね」と、ぼくの気まずい心情を察してか、にこやかな顔で優しく語りかけてくれた。「捨てる神あれば拾う神あり」である。このありがたさにぼくは安堵し、死神の降臨に遭いながらも、まだ徳が残っていると感じ、気を取りなすことができた。
 老夫婦の言葉に死神はすごすごと立ち去り、ぼくはそれに意を強くし、石を投げつけてやろうかと、罰当たりなことを本気で思い立ったくらいだ。

 この貴重な体験は、「ひとり旅」であるからこその大きな収穫であり、味わいでもあることを、声を大にしていっておきたい。ツアーや友人を伴った旅では、決して体験することができないものだ。
 「旅の味わいは、絶対ひとりに限る。どんな人でもひとり旅に出ると、感覚が鋭敏となり、そして情感が増し、同時に発見するものも多くなり、にわか詩人に変身する」がぼくの確たる持論である。
 こんな出来事に国内で遭遇するとは、まったく想像さえしていなかった。しかしぼくは、自説の正しいことを確認し、今、バスでの粗相に鼻を膨らませている。

 精神的窮地に陥った観光客でないぼくの気持ちを和らげてくれた老夫婦に、降車後「どうぞ良い旅を」と別れを告げた。
 小さなカメラバッグに、16mm F2.8単レンズと24-105mm F4.0 Lズームの横着レンズを忍ばせ、その2本で、今日の近江八幡を賄うことにした。ぼくが、仕事の写真以外に200mm以上の望遠レンズを使わないのは、立体感を重視する自身の作画に合わないと感じているからだ。これは、もちろん良し悪しの問題ではなく、撮影者の意図する、あるいは望む表現に依拠する事柄でもある。
 また、写真でしか表現出来ない広角レンズ特有の遠近感が好きということもあろうと思う。

 バスを降り、八幡堀(安土・桃山時代に造られ、城下町として繁栄する一因となった物資運搬のための水路。昭和初期まで町の人々の行き交いに貢献したが、戦後は陸上交通の発展により廃れた。堀に沿って土蔵や白壁の旧家が建ち並び、往事を偲ぶことができる。現在は、観光客用に屋形船が頻繁に往来し、観光名所のひとつとなっている)に行き当たったぼくは辺りを眺めつつ、約半世紀前の古い記憶に塗り染められた場所を求めるには、無理難題であろうとの予感に襲われた。
 そこは、あまりにも月日が経ちすぎて、今やきれいに整備された風物に取って代わっていた。おそらくぼくの見たかつての佇まいは、すでに幻と消えたといっても過言ではなかろうという気がした。

 とはいえ、近江八幡は、名所旧跡をこれ見よがしに商売道具に変えてしまう行儀の悪いどこかの町とは大きな違いを見出すことができる。品格があるのだ。
 それはきっと、近江商人の商人哲学である「三方よし」(商売に於いて、売り手と買い手が満足し、それにとどまらず、社会に貢献できてこそよい商売といえるとの考え方)や「陰徳善事」(自己顕示をせず、そして見返りも期待せず、人のために尽くすこと)が現在もしっかり息づいているからだろうとぼくは推察する。近江商人は、営利至上主義を諫める教えを持ち続けていることが、ある種の心地よさを醸しているのだと思う。
 女性に喩えれば、現在の近江八幡は「上手く化粧を施した女(ひと)」といえ、ぼくは半世紀前にスッピンの美人に出会ったのだと思っている。幻影は未だ風化せず、といったところだ。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF16mm F2.8 STM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
八幡堀際に建ち並ぶ旧家。晴れたり曇ったりの天候だったが、日傘をさす2人の女性が運良く通りかかってくれた。
絞りf5.6、1/640秒、ISO 100、露出補正-0.67。
★「02近江八幡市」
八幡堀にある「かわらミュージアム」へ通じる道。瓦が敷き詰められている道を、隙間より超広角のパースを生かして撮る。
絞りf6.3、1/160秒、ISO 100、露出補正-1.00。
(文:亀山哲郎)

2023/07/14(金)
第651回:滋賀県近江八幡
 前回に引き続き、下手をすると今回も写真の話はほとんど出番がなく、先頃の旅についてのささやかな話に終始するかも知れないことをあらかじめご了承いただきたい。紀行文というほどえらそうなものではないが、取り敢えず先回りをして、その伏線を敷き、自己保身をはかっておくことに。
 まったく困ったものだと自認するが、ぼくとて人の子、多少の良心は持ち合わせているのだが、しかしながら、担当者の顔がどうしても目の前にちらちらするのが癪の種だ。「人の疝気を頭痛に病む」(自分に直接関係のない余計なことに気を揉むことのたとえ)のは弱りものだ。
 しかし、他人を困らせたり、困惑させたりするのも、人生の楽しみと思えば気が楽になる。立ち回りの上手い人間は、得てして面白味に欠けるというのがぼくの持論。第一、そのような人物は可愛げがなく、信頼も置けない。

 大津のホテルで目覚めたぼくは、真っ先にカーテンを開け、空を眺めた。ピーカンの予想とは少々異なり、どうやら雲のまにまに、薄日がもれていた。雨の降る気配が感じられなかったので、後ろ髪を引かれるような思いで梅小路(京都鉄道博物館)を諦め、40数年前に感動を与えてくれた近江八幡に行くことにした。このことが嬉しいのかそうでないのか、今度はぼくが困る番だった。自分の困惑は楽しくないし、気楽でもない。担当者をして、「他人の不幸は蜜の味」というわけだ。
 ホテルから大津駅までリュックを背負って歩くのは大変な勇気を必要としたので、ぼくは気迷うことなくタクシーを呼んだ。タクシーという文明を利器は、まさに蜜の味である。

 大津から近江八幡までは30分ほどの行程である。近江八幡駅に隣接した観光案内所に飛び込み、取り敢えず荷を降ろすためのホテルを調達してもらってから、40数年前にぼくに感動を与えてくれた場所がどの辺りかを質問してみた。
 今そのイメージは、もちろんモノクロ仕立てのもので、しかも画像の周辺がすでにセピア色となり、色褪せて薄くなっており、ぼくは頼りない質問をした。
 「古式な木造家屋で、その横に細い水路のあった、とても風情豊かな所」という、簡略を極めた説明を試みた。その1シーンしか記憶に留めていないのだから、ぼくとて、それ以上に詳細なことを伝えることはできなかった。脳裏に焼き付いているとはいえ、40数年前の曖昧な記憶による佇まいについて、「それはどこか?」と問うことに、ぼくはいいようのない恥じらいを覚え、ひどくきまりが悪かった。

 ぼくの、乱暴で、茫漠とした、心許ない質問に、案内所のおねえさんはしきりと首を傾げ、「どうしましょう。分からないわ」とうろたえるばかり。彼女は、直ちに年配の男性に助けを求めた。ぼくのような半世紀近い昔の思い出に凝り固まった手合いの扱いに慣れているかどうかは分からないが、年配のおじさんは、案内所のベテランとして、「お訊ねの場所かどうかはっきりお答えできませんが、八幡堀か旧家が建ち並ぶ、いわゆる近江八幡の名所に、まずいらしてみたらいかがでしょうか」と、彼としては至極まっとうで誠実な答を返してくれた。情報不足のぼくは、「では、そこを訪ねてみます」と、素直に答えるしかなかった。

 ぼくに満足な返答ができなかったおねえさんは、「そこに行くには、駅前の6番のバスに乗って、小幡町資料館で降りてください」と、申し訳なさそうに、懐古の情に駆られた、分別を失いかけた初老のぼくに、精一杯のいたわりを示してくれた。
 バスは出発したばかりで、次のバスは45分ほど待たねばならなかったが、その合間にホテルで荷を降ろした。頃合いを見計らい、6番乗車場に赴いた。

 バスに乗り込んだぼくは予期せぬ不安に襲われた。バスという文明の利器を最後に利用したのは十数年前のことだった。その時、支払いにオタオタし、運転手や降車を待つ人たちに迷惑をかけた記憶がある。そのことがやおら蘇ってきた。降車時の段取りなど、もうとっくに忘れていた。
 十数年ぶりにバスに乗ったぼくは、様々なことに思いを巡らせた。目指す停留所までの値段はいくらなのか、どうやって支払うのか、小銭が足りなかったらどうすればいいのか、お釣りはくれるのだろうか、降車時に他の客に迷惑をかけ、「ジジィはこれだから」と嘲笑されるのではないか、教えられた「小幡町資料館」停留所を見過ごしてしまうのではないか、などなどの不安がひとまとめとなり、胸が痛くなり、息苦しくもなり、いいようのない情けなさに襲われたのだった。

 見ず知らずの、言葉の通じない海外でも、このような鬼気迫る緊張を味わったことなど一度もなかった。何処へでも、カメラを首に掛け、平気の平左で潜り込んでいたのに、「言葉の通じる慣れ親しんだ母国にあって、おれとしたことが、何たるうろたえようか!」と、ぼくはすっかり我を失っていた。降車の作法(手順)も不安だったが、それ以上に、その不安に戦く自分に「これしきのことで」と猛烈に腹が立ったのだ。
 運転席の左上にある案内版がくるくると点灯するのを見つけ、料金が220円であることを知った。ぼくは不安を拭い去ろうと、小銭の貯まったポケットを弄(まさぐ)った。不安のあまり汗ばんだ手で、子供のように小銭を手のひらに乗せ、勘定をしながら220円をしっかり握りしめた。
 このような時に限って、不運が束になって襲い掛かってくるものだ。ぼくは、あろうことか、手にした小銭を車内にばらまいてしまったのだ。もう、何をかいわんやである。

 乗客の人たちが席を立って、ばらまいた小銭を親切にも拾い集めてくれた。ぼくは、耄碌ジジィそのものだった。思わず、自分の不甲斐なさに天を仰いだ。歳を取っても、 “爺むさく” (じじむさい。年寄りくさく、むさくるしいこと)あることは、厳に避けたいと常に念じていたが、この一件で、おじゃんとなってしまった。
 40数年後、あの風情豊かな地で、気がついたらぼくはすっかり爺むさい耄碌ジジィに変身していた。
 
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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF24-105mm F4.0 L IS USM。
滋賀県近江八幡市。

★「01近江八幡市」
約半世紀前に出会った近江八幡の風情ある場所はどこかさっぱり分からなかった。しかし、ここの名所風情は何処を見ても絵葉書そのもので、そのような写真を好む人には良いかも知れないが、ぼくのような “えぐみ” (あくが強く、舌やのどがひりひりするような味や感覚)ある写真を好む者には、昔の思いがあるだけに、何処にレンズを向ければ良いのかと、戸惑いばかりが先に立つ。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.33。
★「02近江八幡市」
このような佇まいが数百m続く新町通り。あと1絞り絞れば(f10)良かったかな。雲の間から一瞬陽が射す。
絞りf7.1、1/160秒、ISO 100、露出補正-0.33。
(文:亀山哲郎)

2023/07/07(金)
第650回:滋賀県大津
 三ノ宮駅から1時間ほどで、鉄道ファンもどきを演じてくれた同行者の仰せの通り、快適なJR神戸新快速は大津駅に滑り込んだ。途中の京都駅で大半の人が降車してしまったので、車窓からの眺めは見通しが良くなり、より多くのものが目に入るようになった。
 車窓マニアと勝手に自称しているぼくは、そわそわし始めた。速度に関係なく、列車や電車のそれは、通り慣れた場所であっても、必ず何かしらの発見があり、それが楽しく、やっぱりぼくは、人一倍車窓を楽しむ “車窓マニア” といって差し支えない。ここが、車の車窓とは一線を画すところだ。
 ハンドルを握りながら、流れる風景のなかに点在するものを、捜し物でもするように視線を置いていたら、危険極まりない。だからどうしても、車からの車窓観察は、気が置けず安穏としていられない。鉄道は他人まかせなので、気が楽というものだ。

 京都駅を出発し、山科(京都市東部)通過時には車窓に目を凝らした。というのは、ここにぼくを可愛がってくれた叔父、叔母とその家族が一時期住んでいたことがあり、学生だったぼくはよくここをねぐらとし、あちこちに出かけたものだ。叔父、叔母は、60代に病で亡くなってしまったが、多感だった青年期をここで過ごした日々は、今も深く脳裏に刻まれている。そんな経緯もあって、山科には一種特別な感情を抱いている。
 当時は新幹線から、「ああ、あの辺りだな」と、ありし日のねぐらに当たりを付けることができたが、今回はさっぱりだった。叔父、叔母を思いながら、ぼくは車窓を眺め、ちょっと感傷的な気分に襲われた。

 京都駅から大津駅は約10分の道のりだ。感傷に浸る間もなく、大津駅に到着。ぼくは貴重な感傷を奪われた。
 大津駅は、今まで何十回も通過したことがあるが、下車したのは今回が初めてだ。当地に不案内のぼくは、ホテルとは反対側の南口に出てしまった。よく見ると間近に山が迫っており、初っ端から重大なミスを犯してしまったことに気づいた。
 「わしとしたことが、何たるドジや」と、意図せぬ京都言葉と抑揚でつぶやいた。これが博多駅だったら、「わしっちしたばいこつの、何たるドジか」と、やったのだろう。いつもどこか無節操なぼく。やはり根無し草なのだろう。

 ドジを踏んだぼくは、あたかも現代風に、得意気になってスマホをポケットから取り出し、ホテルの位置確認をしようとしたところに、折好く3人の高校生がやって来た。
 スマホを気取るより、アナログ的に、人に訊ねたほうが手っ取り早い。これぞ賢人の作法と、無節操なぼくは直ちに判断した。この変わり身の早さ、ジジィにあるまじき、である。
 ぼくが訊ねると、彼らはすぐにスマホを取り出し、手さばきも鮮やかに、「おじさん、ここ、ここや」と、画面をかざして見せてくれた。実は1ヶ月程前に、近くのスーパーで子供に生涯初めて「おじいちゃん」と声をかけられて、愕然としたのである。それが「おじさん」(京都で自然に使われる「おっちゃん」でもよし)ときたものだから、ぼくに得体の知れぬ何かが込み上げてきた。
 そうだ、おれは「おじいちゃん」などと他人にいわれる筋合いは現在のところまったくなく、「おじさん」と呼ばれるのが断固正しい。

 ぼくは地下道を通り、反対側の北口に出た。「滋賀県の県庁所在地って確か大津市だよなぁ」と確認しなければならないほど、県庁所在地の駅前にしては、えらく大人しく、また質素だった。
 埼玉県の県庁所在地は浦和(現さいたま市)だが、ぼくはいつも浦和を指し、「全国の県庁所在地で最も賑わいのない貧相な街。おまけに歴史的遺構もほとんどない味気のない街」と半ば自虐的な見方をしてきた。「住めば都」というが、どうもそうはいかないようだ。  
 人生の大半をここで過ごしているにも関わらず、ぼくに郷土愛が芽生えないのは上記したことも起因しているのだろう。愛するものがないというのは、寂しいことだ。
 浦和駅の名は、東西南北を冠した4駅と中浦和駅、武蔵浦和駅があり、ご大層に7駅も存在しているのだが、浦和駅は特急も急行も縁がない実に不思議な県庁所在地なのだ。日本の七不思議といってもいい。

 さて、高校生の親切に感謝し、ホテル向かって歩き出したぼくだが、空身ならいざ知らず、リュックを背負っての行軍は思いのほか、ホテルまで遠く感じられ、もうぐったりしてしまった。チェックインを済ませ、心地の良いビジネスホテルの一室でぼくはベッドに身を横たえ、19時に目覚ましをかけ、夕方の短い昼寝を決め込んだ。少しでも体力を回復し、そして温存をしておこうとの計らいからだった。

 明日が雨なら、京都の梅小路(京都鉄道博物館)で動態保存されている蒸気機関車を撮影しようと夢見ていたのだが、ぼくの念願は「梅雨時の予期せぬピーカン」に見事に打ち砕かれてしまった。晴れなら、40年ほど前に訪れ、良い印象を残してくれた近江八幡に行こうと当初より決めていた。
 40年前、近江八幡の一角で出会った家々の佇まいや、その通路沿いに流れる幅1mにも満たない水路の情感溢れる佇まいを今も忘れることができない。その風情に、長い歴史がどっしりと腰を据えていた。ぼくは非常な感動を覚え、それをフィルムに定着させるにはどうしたら良いか、身悶えするような思いで、4 x 5インチの大型カメラをそこに据えた。そんな思いをもう一度近江八幡でできるだろうか?

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
縦長のモニターの下から順繰りに映像が走る。素早い動きだが、1/160秒なら流れを止められるだろう。画像の流れが速いので、一瞬、連写機能(メカシャッターで秒間12コマ)を使おうかとの思いが頭をよぎったが、「恰好悪ぅ。無様なことをしないで、一発で仕留めろよ」との声が聞こえてきた。「これしきのことで、連写なんか、このおれがするわけないだろう!」とうそぶく。
絞りf4.0、1/160秒、ISO 1000、露出補正-1.67。
★「02神戸市三ノ宮」
鏡とガラスの写り込みと色合いが面白かった。単レンズゆえ、何の迷いもなく構図が決まる。
絞りf5.6、1/100秒、ISO 800、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2023/06/30(金)
第649回:三ノ宮から大津へ
 式典での仕事を無事に終え、審査員何人かと三ノ宮駅へと向かった。右も左も分からぬ新参者のぼくにとって、彼らは見知らぬ土地の案内人であり、また同時に救世主のようにも思えた。老体には似合わぬ重いリュックを背負って、うろうろする必要がないので、その心理的負担の軽減は大なるものがあった。「涙が出るほどありがたい」とは、まさにこういうことをいうのだろう。
 加え、ぼくは彼らの人としての品格や審美眼をとても尊重しており、なおのこと心地よさを感じていた。

 今回の関係者のうち、よ〜く考えてみたら、なんとぼくが最年長者であることに気づいた。昨今は、ほとんどの集まりで、ぼくは知らぬうちにもうそんな立場に追いやられている。だが、この無自覚さは非常に尊いものだとも思っている。「知らぬが仏」というではないか。知らないでいることを美徳のひとつとするこの教えは極めて貴重である。
 式典後の懇親会で、「おれ、よ〜く考えてみたら、最年長者なんだよねぇ」と嘆いてみせたら、「その最年長者が、一番のやんちゃ!」と、誰かが言い切った。

 「やんちゃ」という多様な意味を含むこの難しい語彙について、ぼくは自分なりにそれを解釈してみた。何でも自分のことは都合良く解釈するおめでたい性癖のぼくは、その言葉を「緊張の場にあって、『みなさん、お気楽に』と、二言目には緊張緩和のための冗談をいい、機知に富んだ人物のこと」と定義づけた。
 だからぼくは、同窓生などに「おまえは良い性格をしてるなぁ〜」と憫笑(びんしょう。憐れみのこもった笑い)されてしまうのだ。まぁ、害虫とか、老害(嫌な言葉だね)などといわれるよりはずっとましだ。

 最近やたらと耳にする “老害” とは、広辞苑によると「硬直した考え方の高齢者が指導的立場を占め、組織の活力が失われること」らしいが、広辞苑の第5版にはまだこの言葉は登場していない。 “老害” の意味が実際そうだとしても、こんな言葉を不用意に、しかも平然と口にする輩は、やはり己を知らない人品卑しき人々である。それが人間の格というものだ。「子供叱るな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ」である。

 三ノ宮駅から在来線に乗ったぼくは、リュックを床に降ろし、車窓に抜かりなく目をやりながら、同行した彼らと、今回の審査会や式典の愉快なあれこれについて話し合った。そうこうしているうちに、ぼくは車窓の眺めが非常に速いことに気づき、「在来線でも、こんな速度で走るんですね。感動的だなぁ。新幹線みたいだ!」と感嘆の声をあげた。
 大阪に詳しいひとりが、「そうなんです。なにしろ120km/h以上のスピードを出してくれるので、この線をいつも利用する私は大助かりなんですよ。JR神戸新快速なら大津まで1時間ほどで着きますよ」と、鉄道ファンのような口上で得意気にいわれた。

 何故大津かというと、本来であれば、親戚や友人の多い京都に立ち寄り、そこに宿泊すればいいのだが、撮影に注力したいとの思いから、京都泊をやめた。もし、明日雨なら、念願の梅小路(京都鉄道博物館)にて動態保存されている蒸気機関車を撮るつもりでいた。大津からは2駅、約10分で行ける。しかし、天気予報によると、待望の雨の気配はまったくなく、どうやらピーカンであるらしい。それじゃダメなのだ。

 というのは、数年前、我が倶楽部のTさんが梅小路に行き、そこで撮影した雨に煙る扇形車庫の全景写真にぼくはえらく感じ入ったので、一応指導者もどきのぼくは、それを凌駕する写真を撮らなければ立場が危ういと感じたからだった。「よし、おれも梅小路に行くぞ」というと、倶楽部の同輩は、「かめさんは、ホントに負けず嫌いなんだからぁ」と嘲笑う。
 「うちのおっさん(ぼくのこと)は、写真のことは何も教えてくれない」がTさんの口癖であるのだが、「写真なんて、他人に教えられるものか。そんなものがあったら反対に、おれが教えてもらいたいくらいだ」とぼくは返す。

 ぼくがTさんのその写真を褒め称えた時、彼は得意技である、鼻を一気に膨らませ、小指を釣り針のようにし、鼻の穴に引っかけ持ち上げるという変態的かつ奇妙奇天烈な所作を何時もしてみせる。同時に口も引きつれ、ひん曲がるのである。如何にも、ひねくれ者そのものの動作を無意識にするのだから、ぼくは褒めながら笑うというおかしな対応をせざるを得ない。
 ぼくばかりでなく、周囲の誰もがその変態的な仕草を周知しており、「また始めた」と、腹をひくひくさせながら精一杯笑いを堪えることに終始している。悲しいかな、その厳然たる変質的行為に彼はまったく気がついていないのだ。

 扇形車庫に動態保存されている機関車の裏手に回り、雨中の柔らかい光を逆光に、様々なアングルによるイメージがぼくの頭にしっかり格納され、それを試してみたかった。思い通り撮れれば、膨らんだ彼の鼻が一時的ではあろうが、収縮するはずだった。負けず嫌いのぼくは、それを密かなる楽しみにしていたのだが、ピーカンの予報が、ぼくのささやかな企みのすべてを奪い取った。
 「この梅雨時に、選りに選って青天とは何事ぞ」と、ぼくは大津のホテルの一室で意気消沈した。あの変態おやじは、再び鼻を膨らませ、嘲笑しているに違いない。

https://www.amatias.com/bbs/30/649.html

カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
ショーウィンドウのなかの鏡に映し出された別嬪さん。ガラスに写り込む夾雑物を避けるため、ぼくはファインダーを覗きながら、蟹の横ばいで立ち位置を定める。デジタルなので、「後で消せばいい」なんていう不埒な料簡をぼくは持ち合わせていない。それでは、撮影の厳正なる精神に支障を来す。
絞りf2.8、1/160秒、ISO 160、露出補正-0.33。
★「02神戸市三ノ宮」
人通りの途絶えた旧居留地に、一際美人がボーッと現れた。少し離れたところにテールランプと覚しき赤い点がふたつ。この位置を定めるために(構図上の塩梅を見るために)、ライブビューを利用し、少し高所から撮影。
絞りf3.2、1/100秒、ISO 100、露出補正-1.67。
(文:亀山哲郎)

2023/06/23(金)
第648回:初めての神戸市三ノ宮
 久しぶりに新幹線に乗った。新幹線の写真を撮ることに興味はないが、乗ることは、いつだってぼくの気をわくわくさせる。車窓からの風景が信じ難い程の速度で飛び去る( “飛び散る” といったほうが正しいかな)その様は、到底信じ難いもので、ぼくにとってこの世のものとは思えない。この空間移動の感覚は飛行機では味わえないものだ。したがって、何度乗っても慣れるということがない。まったくの異次元世界にぼくは我を忘れ、子供のように夢中になってしまう。
 なかには、この異次元体験をものともせず、平然としている人たちがいるが、彼らは一体どんな神経をしているのだろうかと、理解に苦しむ。そして、この不感症の人たち(失礼!)を気の毒だとさえ感じてしまう。大きなお世話だね。

 今回は “待望の東北新幹線” ではなく、通い慣れた東海道新幹線プラス山陽新幹線(今回は東京ー新神戸間)なのだが、いつもは仕事柄、機材が重いので移動はどうしても車利用になりがちだ。北は北海道から南は九州まで、ぼくは日本全国を車で走り回っていた(数年前から、すでに過去形となっているのだが)。
 今回の仕事は、神戸市三ノ宮にあるアメリカの大手会社の日本支社に呼ばれてのものである。撮影ではなく、ある催しの式典に参加しなければならず、Tシャツにジーンズというラフな出で立ちながら、僅かばかりの時間、演壇に立ってお喋りをしなければならなかった。

 通常、ぼくは写真以外の仕事でどこかに出向く時は、見ず知らずの土地であってもカメラを持参しないことにしている。写真を撮ることに気を取られるに違いなく、それは仕事を依頼してくれた方に礼を逸するとの考えで、ぼくなりの仁義を通したいとの思いがあるからだ。思いのほか、ぼくはこれでも律儀というか物堅いほうなのだ。
 だが今回は、「あと何年写真が撮れるだろうか?」との不安に打ち勝つことができず、葛藤しながらも掟破りを敢行することにした。ボディ1台にレンズ3本という、写真屋にしては極めて軽装であったが、使い古した大きめのリュックに旅装を詰め込むと、やはりそれなりの重さとなった。

 初めて三ノ宮駅に降り立ったぼくは、クライアントが予約してくれたホテルに、老体にとって厄介な重さに違いないリュックを背負いながら、右も左も分からぬ場所を探し回るのはあまりにも気が重く、駅で客待ちをしているタクシーに乗り込み、行き先を告げた。
 駅からほど近い神戸の旧居留地(安政五ヶ国条約により外国の治外法権が及んでいた外国人居留地)にあるOホテルに着くや否や、制服姿のホテルマン2人がタクシーに駆け寄って来、ぼくの薄汚れたリュックを、映画でよく見るあのピカピカに磨かれた真鍮枠の付いた荷運び車に移し、ヨレヨレのTシャツに半ズボン姿という場違いな風体のぼくを、うやうやしく、あれこれ行き届いたフロントに連行した。
 クライアントはぼくに似つかわしくない宿泊所を精一杯奢ったのだと悟った。

 部屋に通されたぼくは、旅装を解く間もなく、条件反射のようにリュックからカメラを引っ張り出し、16mmの超広角レンズを取り付け、豪奢な部屋の撮影に取りかかった。
 誰に見せるわけでもなく、ましてや一銭にもならぬ写真を、記念のため撮るなんて、我ながらどこか照れ臭く、また滑稽でもあり、ぼくは苦笑しながらも、ファインダーを覗きつつ、部屋のライトを調整し、ついつい仕事モードになり切っていた。コマーシャルカメラマンの悲しき性とでもいうべきか。

 ロケに出た時、ぼくは鼻を利かせながら当地の居酒屋に潜り込むことを常としていた。三ノ宮は不案内だが、ホテルまで乗車したタクシーの運転手さんによると、「ここに来やはったら、やはり神戸牛でっせ」と、関西弁丸出しで勧めてくれたが、大層な神戸牛専門店より、ぼくは気楽で庶民的な居酒屋のほうに魅力を感じていた。これはぼくの性分なので仕方ない。今回はステーキより、瀬戸内の海鮮料理に軍配を上げた。

 タクシーの車窓から、かつての居留地を眺めた。ぼくは運転手さんに「ここらへんはまるで東京の銀座のようですね」と話しかけた。彼は、「神戸いうたら、ここらが最も贅を尽くしたところですわ」と、自慢気に返した。
 旧居留地は現在、海外の著名なブランド店が居並び、ほとんどが時間的に閉店していたが、ショーウィンドウだけが煌々と輝いていた。
 三ノ宮駅界隈の繁華街に夕食を取りに行く時に、ここに居並ぶショーウィンドウを、前回の掲載写真同様に撮影しようと決めた。

 35mmレンズを1本だけ持ち出し、すっかり身軽になったぼくは、やっと元気を取り戻し、海鮮料理に食らい付く前に、意気揚々と、片っ端からショーウィンドウに食らい付いた。
 単レンズ故、身も心も軽く、構図も距離感も戸惑いがなく、良い写真が撮れたかどうかは別としても(ここが悲しい)、40分で120枚ほど撮った。20秒に1枚の計算だ。ズームレンズならおそらく1時間は費やしただろう。

 翌朝、ホテルで遅めの朝食を取り、会場に出向いた。顔見知りの担当者に、「あんな豪奢なホテルでなくとも、ぼくはありきたりのビジネスホテルでいいんだよ。これからはそうしてね」と、生まれて初めて、心にもない嘘をついた。

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カメラ:EOS-R6 MarkII。レンズ : RF35mm F 1.8 Macro IS STM。
神戸市三ノ宮。

★「01神戸市三ノ宮」
旧居留地のブランド店での1カット目。夜なので、ガラスに写り込みが少なく、自動車の流れるテールランプをどこかに入れようと思ったのだが、まったく通らず。
絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-1.00。
★「02神戸市三ノ宮」
Raw原画はもう少し色鮮やかなのだが、年相応に?彩度を落とす。
絞りf4.0、1/40秒、ISO 100、露出補正-0.33。


(文:亀山哲郎)