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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2022/02/18(金)
第583回:撮影会
 前々回、約2年ぶりに栃木市を訪れたとお話しした。過去、栃木市へ何度くらい通ったのか正確なところは分からないが(根性を入れて調べれば分かるだろうが、あまり意味がないのでしない)、初めて訪れたのは今から19年前の2003年11月のことだった。
 北海道で約10日間の長期ロケを終え、息つく暇もなく我が倶楽部の面々に、  
“撮影会” と称して、半ば強制的に連れて行かれたのが栃木市だった。メンバーのひとりが、事あるごとに「かめさんは栃木市を気に入るに違いない」と耳元でささやき、しきりにぼくを暗示にかけようと目論んでいた。一応指導者もどきだったぼくは、致し方なく、しおらしくも彼らの要望に応じた。嫌だったわけではないのだが、それはぼくの、以下に記す人間的な質(たち)に起因している。いわゆる “撮影会” と称する団体行動、もしくは集団行為に気後れしてのことだった。

 初めての栃木市は、小雨模様の、まさに “しとしと降る” とても良い雰囲気を醸していた。何事にも「相性」というものが存在するが、ぼくはどことなくこの街との相性の良さを直感した。「蔵の街」としてではなく、街の佇まいそのものとの「相性の良さ」が、写真的な発見を助長する役目を果たしてくれそうな気がした。昭和生まれの昭和育ちに、しっくりする何かがあったのだろう。
 また、「蔵の街」とはいうものの、観光客に媚びていないところにぼくはさらなる好感を抱いた。川越市より栃木市のほうに気を惹かれる最大の理由はここにある。

 アマチュア写真愛好家の間では、 “撮影会” という奇妙で摩訶不思議なものがまかり通っていることは知っていた。写真好きが集まって、ぞろぞろ練り歩き、指導者と覚しき人物がなにやら写真的な指導をするらしいのだが、それ自体がどうもぼくの性分には向いていないのだ。公の場所で特定の人たち相手に一端の講釈をぶつ行為は、まともな神経の持ち主であれば、なかなかできることではない。気恥ずかしいやら、照れ臭いやら、身の置き所に窮し、したがって、ぼくのように現地到着とともに行方知れずとなるのが、正しい人間のありようだと確信している。子供たち相手の野外教室であれば、そこそこの可愛げもあろうが、得体の知れない老若男女がカメラをぶら下げ、同じ方角を見据え、シャッターをバシャバシャ切るさまは、誰がどう見ても美しさとはほど遠く、鬼気迫るような光景ではないか。ぼくは能転気に、そんな渦中に身を投じたくはないのだ。

 「すぐに姿をくらまし、いなくなってしまうかめやま」と揶揄されるが、誰もそれを非難してはいけない。非難するくらいであれば、現地到着からぼくにへばり付いていればいいだけのこと。質問されれば、ぼくはいつだって必要と思われることを吟味しながら、まるで指導者にように丁寧に、極めて好意的にお伝えするにやぶさかではない。
  “撮影会” について、ついでに言及しておくと、世の中には “モデル撮影会” というまったく理解不能で、身の毛もよだつようなものが存在する。仕事上、モデルクラブとお付き合いのあったぼくだが、「まったくもって、何をか言わんや」という話をたくさん聞いている。 “モデル撮影会” に於ける人間的心理が及ぼす行為の実体について、ちょっかいを出しながら面白おかしく述べると、数回を超えても書き切れず、ましてや写真の話ではなくなってしまうので、今回ここに留めるだけとするが、ぼくの写真話などより、そちらのほうが面白いかも知れない。

  “撮影会” に於いて特質すべきことは、今まで一緒に撮影をしていて、一度たりとも質問らしい質問を受けたことがないとの事実に、この原稿を認(したた)めながら思い当たった。彼らの言い分は分かっている。「だって、あんたはあっという間に行方不明になってしまうから、それでは取りつく島がない」ということになるのだろう。いくら女性上位の我が倶楽部とはいえ、一歩でも譲ったり、気弱な姿勢を見せたりすると嵩に掛かって畳みかけられるので、ぼくは相身互いを装いながら、慎重を期し、これについては水掛け論に終始すると思わせるのが妙薬との結論に至っている。強靱な彼女たちに勝利しようなどと思ってはいけない。

 巴波川(うずまがわ)と蔵の街大通り(日光例幣使街道)に挟まれて、ミツワ通りと名づけられた、決して活気があるとは言い難いぼくの好きな商店街がある。2年ぶりに訪れたのだが、その間に昭和の面影を残している何軒かがすでに取り壊されていた。寂しくもあるがそれは時の流れなので致し方ない。この通りの一角に、「玉川の湯」(金魚湯)という100年以上の歴史を持つ銭湯があって、ぼくは毎回必ずここで何カットかいただく(中ではなく、暖簾をくぐった上がりがまちまで)。
 今回も下足箱を撮ろうとしていたら、常連と覚しきおじさん、おばさんに声をかけられた。「中を撮りなさいよ。今、番台のおばちゃんに掛け合ってあげるから」と、地方特有の暖かい立ち居振る舞いにぼくは甘えた。直ぐに許可が下り、「袖振り合うも多生の縁」に力を得たぼくは、躊躇することなく初めて中に立ち入り、脱衣所に飛び込んだ。残念ながら、ぼくは男湯のほうへ。同伴のふたりのご婦人たちは女湯に通され、彼女たちの力感溢れる嬌声が、風呂場特有の長い残響を伴いながら、湯気に掻き消されまいと、天井を伝い男湯にまで侵入してきた。どこまでも力強い女性軍。
 堪能した我々は、一呼吸置こうとコーヒーブレークを取った。彼女たちは、ぼくの握りこぶし2個分は優にあろうかという巨大なシフォンケーキをそれぞれに注文し、欠食児童のようにパクつきながら、「『譲る』という単語は、あたしたちの辞書にはな〜い!」とナポレオンのように威風堂々と言い放ち、薄情にもぼくには一切れもくれなかった。「袖振り合うも縁なき衆生」でありました。

https://www.amatias.com/bbs/30/583.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ガラスに移ったビル。こういう写真はへそ曲がりの証。
絞りf5.6、1/100秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「02栃木市」
ショーウィンドウに置かれた造花。ぼくの写真はどんどん鬱陶しくなる。
絞りf5.6、1/80秒、ISO125、露出補正-1.00。

(文:亀山 哲郎)

2022/02/14(月)
第582回:相剋の限り
 先週は久しぶりに都内へ出かけた。疫病のためできるだけ控えていたのだが、知人(以下Aさん)から個展のご案内をいただいたので、これ幸いと都心にあるギャラリーに向かった。作品はとても質が高く、仕上げにも凝った手順を踏んだものだったが、今回は作品から受けた印象には触れず、ぼく自身のありようについて考えさせられたので(これは誰にも当てはまること)、それについて少しだけ述べてみようと思う。

 作品づくりは常に恒久的な模索の繰り返しだが、ぼくは以下に述べるような体験を常々している。昔から友人たち(プロの写真仲間)に、「かめさんは、 “暗室フェチ(フェティシズム)” だからなぁ」 と異口同音にいわれるくらい熱心さと執着心を持っていた。デジタルになってもこの性向は変わらない。 “フェチ” といっても、 “性的倒錯” ではないので、念のため。ぼくは幸か不幸か、まだその奥義には至っていない。

 撮影時に抱いた被写体のイメージを再現するために、暗室作業をしながら「違う、違う。こうじゃない」を連発し、喘ぎながら悲嘆に暮れる。描いたイメージとの隔たり、もしくは不一致を如何に埋め合わせ、補うかに汲々としながら、ぼくの一生は終わるのかも知れないが、一度くらいは神の恵みがあって良さそうなものだ。「信ずる者は救われる」のだからと、ここに至って無信心のぼくはご都合主義よろしく神頼みをする。適うなら、願掛けや御百度参り、五体投地さえも厭わない。
  
 デジタルの暗室作業は、パソコン上で画像ソフトによって行われるが、ほとんどのソフトにプリセットが用意され、細かく調整できるものが多い。調整したいくつかのプリセットを重ね合わせ、欲しい部分だけ抽出することのできるものもある。これは大変有用なもので、ぼくもその恩恵にたっぷり与っている。だが、それをしているうちに、わけが分からなくなることもあり、そんな時は一呼吸置くに限る。再びモニターを見て「おまえ、阿呆か」というのは、日常茶飯。

 プリセットによって表示された画像は、「何でもできるPhotoshop」を使用し、技量さえあればそこに至ることは可能だろうが、それにはかなり繁雑で難しい作業を強いられる。プリセットはそれが一発でできてしまうのだから、時間と労力の削減に与ること多し、というところだ。これは以前にもお話しした通り。

 さて、ここからが本題なのだが、プリセットによってもたらされた画像を見て一瞬、「撮影時のイメージとは多少異なるが、これもいいなぁ。否、断然いいかも」と浮気心を起こすことがしばしばある。ほとんどの場合、かなりエキセントリック(奇矯なさま)な表現なのだが、思わず手は震え、心はひどく揺らぎ、ぐらぐらと目眩を覚える。時には、「おれの新しいトーンはこれでいいのではないか」と自己暗示に努めることさえある。
 一方で、「おれの本道は、 “オーソドックス” にあるのではないか? “迷った時は古典に帰れ” を旨としていたのではないか? それにより、取り敢えず今の自分の住み処に辿り着いたのではないか? 奇妙奇天烈を最も嫌い、蔑んできたのは、他ならぬこのぼくではないか」との葛藤に苦しむ。

 普段、指導者もどきを演じているので、生徒たちがあらぬ方向に舵を切り始めたり、独り合点なことをするのを諫めなければならぬ立場であり、その意識が自然とぼくにブレーキをかけさせることにもなっているのだろう。
 「抑制」という言葉に縁遠くありたいと願うぼくだが、巣立ちのように思い切って飛んでみればよいのに、それがなかなか思うに任せない。一度くらいは生徒たちに怨色を見せてやろうかという気になる。

 プリセットにより出現した、いささか極端な表現手法を用いる勇気がなく、理屈をこねながらそれに少しずつ手を加えていくと、今まで通りの表現に戻っているという体験は、どことなく虚しいものを感じる。これを「元の木阿弥」というらしい。勇気のないしみったれた自分に苛まれるとの悪循環を今まで一体何度繰り返してきただろうか。
 自虐的になりつつも、では「何のために試行錯誤をしているのだ」と、逃げ道を塞がれたぼくは仕方なく自身を治めることにしている。安住の地を “不幸にも” 得てしまえば、創作はそれで終止符を打つことになるので、もがきは創造の原点と捉えるのがより建設的であろう。うまいことを思いつくものだと、自画自賛などしている場合ではない。

 冒頭にて記したAさんは、ぼくにない勇気を十分に備えており、とても羨ましかった。特有の技法を駆使しているのだが、Aさんの「写真の眼」はその技法に適した被写体や光りを巧みに読み切っているので、そこに違和感が生じていない。大したものだと感じ入ることしきり。
 普段、女性から心ないいじめに遭っているぼくは、最近の拙稿で何度かその憂さを晴らしたつもりだが、女性であるAさんは、なるほど男のような女々しさや未練がましさがなく、自身の信ずるところを支柱とし果敢に作品づくりに挑んでいる。そんな姿を目の当たりにし、ぼくは爪の垢を少しだけ分けていただいたような気がしている。

https://www.amatias.com/bbs/30/582.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。
いずれの写真も「ガラス越し」。

★「01栃木市」
ガラス反射の写り込みを塩梅しながら。
絞りf6.3、1/125秒、ISO400、露出補正-1.33。

★「02栃木市」
汚れたガラス越しに女子高生。鬱陶しい写真やなぁ。
絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-1.00。


(文:亀山哲郎)

2022/02/04(金)
第581回:おめおめ信ずることなかれ
 武漢コロナの呪縛から少しだけ解放され、約2年ぶりに、以前何度も通っていた栃木市に、写真好きのご婦人2人を引き連れて撮影に出かけた。当日は、薄曇りの、ほとんど無風状態の、絶好の写真日和だった。彼女たちにいわせると「私たちの普段の心がけが良いから」なんだそうである。出かける前から、彼女たちは自分たちの身勝手さと自儘を、ハンドルを握らざるを得ないぼくに、何の遠慮もなく披露してくれた。どうあっても「私たち」にぼくは含まれてないのだと、強固に主張なさる。
 「ああいえばこういう、こういえばああいう」との手合いだから、残念ながらぼくに勝ち目はなく、寛容で賢明なぼくは素直に「仰せの通り」と従順さを装った。文字通り「君子危うきに近寄らず」である。ことあるごとに、手練手管の限りを尽くす女史たちには、ぼくの如何なる純真さをもってしても、到底敵わぬことをぼくは知り尽くしている。
 撮影前には余分な労力と心労を取り除いておくのが、ぼくの撮影時に於ける揺るぎない心得である。そのような不埒な放言に対して、「譲る」のではなく「無視」を決め込むのがぼくの流儀であることに女史たちは気づいていないので、やはりぼくのほうが上手(うわて)である。

 ぼくとしても、たまには実践的なレクチュアを真面目にしなければいけないとの思いがあった。普段、「撮影はひとりに限る」がぼくの口癖であるだけに、この日はそれ相応の覚悟と観念の臍(ほぞ)を固める必要があった。
 女史のひとりは、写真歴約20年のベテランであり、ぼくに「スカタン、トンチキ!」といわれることを常としていた。もうひとりは、写真を始めたばかりで、まだぼくの心ある罵声を浴びた経験がない。コントラストを成すご両人への実地指導はどうなることかと、ぼくは少し心許なかった。

 ベテランの彼女は、事始めの人に「かめさんはね、現地に着くと、あっという間に姿をくらますから、用心深く見張ってないとダメよ。安曇野に行った時などみんなに『道祖神を撮るから探せ』と命じておいて、私たちがやっと見つけたと思ったら、道祖神には目もくれず、消えてしまうんだから」と、8年も前の仕業に目を三角にして、執念を燃やしながら恨み辛みをぶつけてくる。
 女房殿の「あん時あ〜たはこういったわよね」と、異常とも思える記憶力を悪用しながら、ねちっこく責め立ててくるあの非情さに酷似している。ぼくはすでに記憶茫々なのだが、「そんなことをいった覚えはない」とは反駁せず、条件反射のように「すいません」と発してしまう。無駄な抵抗はしないことにしている。抵抗をすれば、彼女は芋づる式に過去のあれこれを持ち出してくることがぼくには分かっているので、塚原卜伝(戦国時代の剣豪。1489〜1571年)の「戦わずして勝つ、これが無手勝流」に準ずることにしている。

 ぼくの頭の中には多種多様なものが詰まっているので、そのなかから女房殿の攻撃材料となる自分の言質を取り出すことなど不可能に近い。女房殿に限らず、ぼくの身辺をうろつく女性たちはみな申し合わせたようにこの手を使ってくる。「ほかに考えること、ないのかよぉ〜。大事なことはすぐ忘れるくせに!」とぼくは彼女たちには聞こえぬところで憂さを晴らすことにしている。
 20年のベテランでも事始めの人でも、大事なことはすぐに忘れるらしく、したがって、レクチュアは同じ内容でよいことになる。

 撮影に関して、大切な3大警戒要素は「ブレ・ボケ・露出」。これらは、写真創生期から現在に至るまで、愛好家たちを悩ませ続けた3大要素でもある。今敢えて過去形で「悩ませ続けた」と書いたが、ぼくの本心は「悩ませ続けている」と現在形で書くべきことと考えている。
 多くの人は、過去形を取りたいと思うかも知れないが、それはとんでもない思い違いであり、いくらテクノロジーが進化(Auto化)しても、これらの厄介な問題から、知恵や技術なくして逃れる術はない。ここのところ、どうか肝に銘じていただきたい。
 三脚を使用すればブレを防げる? 嘘です。オートフォーカスなので、ピントが合う? これも嘘です。カメラに内蔵されている露出計は正しい露出値を示してくれる? これも嘘です。今回は、ぼく自身も悩まされているブレとボケについて記す。露出については、あまりにも多くの事柄が複雑に絡み合うので、筆硯を新たにしたいと考えている。

 大型カメラ(4 x 5、8 x 10インチカメラ)用に作られた堅牢極まりない鉄アレイのような重両級の三脚を使い、撮影時にパソコンでピントを確認するのだが、接続されたパソコンモニターに拡大された被写体がわずかな間ブルブルと震えている。パソコンに接続したことのない人は、三脚を信用しシャッターを切ってしまう。三脚を使っているのだから(シャッタースピードにもよるが)安心と思いきや、そうは問屋が卸してくれない。上記のような堅牢そのものの三脚でさえそうなのだから、一般的(平均的)な三脚は言うに及ばず。
 また、ブレ防止機能がカメラやレンズに装備されているが、これは、ブレを防ぐための技術や知識を身に付けた人にこそ有用であって、そこに至らぬ人はこの機能を信用すると痛い目に遭うこと疑いなし。
 また、一般に流布されている「レンズの焦点距離分の1秒以上」は決して安全を謳ったものではない。倍の速度でも容易にブレること、非常にしばしば。なお、今回は「被写体ブレ」については述べていない。

 良い被写体を見つけ、歓び勇んでシャッターを切っても、ピントが合っていなければ折角の写真も水泡に帰する。オートフォーカス機能も時代とともに大きな進化を遂げ、精度が高くなっていることは認めるが、これも油断大敵。「鋏と奴(やっこ)は使いがら」(鋏は使い方次第でよく切れたり、切れなかったりするとの意)なのである。
 確実なピントを得たければ、三脚のところで述べたように、カメラとパソコンを繋ぎ、モニターで拡大し、マニュアルフォーカスを使用するのが最も安心感が得られるが、一般的でないのが悩みの種。オートフォーカスばかりに頼ってはいけない。「時にはマニュアルフォーカスの訓練をお勧め」と、化石写真屋はお伝えしたい。

 二人の同伴者に最も伝えたかったことは、ブレを防ぎ、確実なピントを得られるように努めることが、写真の第一歩ということだった。このことは、後々彼女たちの得意とする「あん時、あ〜たはこういった」を防ぐには好都合な事柄である。でも、女性たちは技術に於いて肝要なことはすぐに忘れるらしいんだよねぇ。

https://www.amatias.com/bbs/30/581.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
ショーウィンドウのガラスにボーッと霞む彫刻。
絞りf6.3、1/60秒、ISO200、露出補正-0.33。

★「02栃木市」
歌麿のビニール幕の前に、懐かしいSINGERミシンが放り出してあった。
絞りf8.0、1/125秒、ISO320、露出補正-0.67。


(文:亀山哲郎)

2022/01/28(金)
第580回:女性ポートレート
 小学生と中学生の頃、ぼくを殊のほか可愛がってくれた母方の祖父(以下じいちゃん)の写真をよく撮った。じいちゃんも写真を撮られるのが好きで、ぼくの求めに、いつも程よいポーズを気取ってくれた。写真を撮られることへの、一切の恥じらいも照れも持っていなかった。
 「てつろうが撮ってくれる写真は、ほかの誰が撮るよりもええんや。何年か後には、わしの葬式写真を頼むわな」と京都弁でいっていたものだ。
 じいちゃんは、自分が「写真写りがいい」ということを、十分に認識していたのだろうと思う。実際、写真に見るじいちゃんは確かにそうだった。普段、被ったこともないベレー帽姿を撮っても、まったく違和感がなく、様になっていたのだから、じいちゃんにはそれなりの徳があったのだろう。
 世の中には少数ながら(これは「写真写りがいい」と感じている人の自己申告によるもの)、そのような恵まれた人がいる。

 また、時々ぼくをお忍びで祇園や先斗町に連れて行ってくれた。じいちゃんは、「てつろう、このことは内緒やで。ゆ〜らたあかんぞ、ええな」と、孫であるぼくに秘密であることを強要した。もちろん、口外したことはない。口を滑らすようなヘマをしなかったのは、ぼくのけちな自慢でもある。
 叔父貴たちの誘導尋問に引っかかったこともなく、無事やり過ごすことができた。誘導尋問ということは、叔父貴たちは気がついていたとも受け取れるのだが、見て見ぬ振りをしていたのだと思う。

 「じいちゃんとの約束は絶対守る」と心に決めていたのは、ぼくにとってじいちゃんはこの世にいないほどの大事なパトロンであったことを、子供心ながらに察知していたからだ。じいちゃんに、「てつろうは隅に置けぬやつ」と思われてしまえば、それはぼくの人生にも大きく関わる問題と捉えていた。
 祇園や先斗町の芸妓さんたちは皆じいちゃんを医者だと思い込んでいた。実際には、印刷所のワンマン社長だったのだが、「医者だ」といえば、誰もが疑うことのないような風姿でもあった。じいちゃんは、「わしは肛門科だ」といって、芸妓さんたちの医学に対する質問を封じ込めていた。ぼくは、横で笑いを抑えるのに必死だったことを、昨日のことのように思い出している。じいさまは、手練手管の芸妓さん相手に大した役者でもあったのだ。
 
 じいちゃんは、夏にはへばりつくような湿気に包まれた、生死を分かつような酷暑の京都を避け、さいたま市(「京都の暑さに比べればここは過ごしやすい」といっていたくらいだった)の我が家に長逗留をしたり、軽井沢で過ごすことを命題としていた。雇い人である職人さんたちには、「ちょっと埼玉と軽井沢に避暑に行ってくる」というのが、社長としての沽券であると思っていたらしい。実に可愛げのあるじじいだった。
 そして、じいちゃんにとって人生を如何に生きるかということのひとつは、初孫であるてつろうを猫可愛がりすることにあると叔父・叔母たちはいつもいっていたが、彼らも、じいちゃん同様にぼくにひとかたならぬ愛情を注いでくれた。それは、早くして母を病気で失ったぼくへの自然な心緒だったのかも知れない。

 「写真写りがいい」と思う人は、前述したが如く、ぼくの見立てでは少数であるように思われる。不幸にして、ぼくは写真を撮られるのが好きではなく、撮られた自分の顔を見るとげんなりを通り越して気持ちが悪くなる。これは、初めて自分の声をテープレコーダーで聞いた、あのいたたまれぬような気持ちの悪さと、瓜二つである。
 逆に考えれば、「自分の顔はこんな風ではなく、俄然もっといい男だ」と思い込んでいる節がある。多くの人は、不幸にしてホントの自分を知らない。

 この傾向が女性となると、さらに著しい。今、恨み辛みを存分に込めていうが、仕事の写真を除き、女友だちから「私をこんな風に撮ってもらって嬉しいわ」などという声を、長い写真生活の中で未だかつて一度も聞いたことがない。女性というのは、よほどご自分の顔や容姿に自尊の念が強いか、ぼくが下手くそかのどちらかであろう。
 ぼくは、自分が “やや” 下手くそであることは認めるが、世の中には “お世辞” とか “心遣い” とか “労い” とか “方便” という言葉があるだろうに! この点に関して、女性はこれらの言葉を一切無視してくる。臨機応変に使い分けることを頑強に拒むから始末に負えない。ぼくが、よく撮れたと思う写真を彼女たちは凝視し、首を曲げたり、唇を歪めたりしながら、沈黙を貫き通すのだ。この、地獄のような沈黙のため、ぼくは心身ともに蝕まれ、自信をどんどん喪失していく。女性らしい肌理(きめ)の細かい優しさを大外刈りよろしくかなぐり捨てて、「もっとましな写真を撮れ」と、目に炎を燃やしながら迫ってくる。
 あれこれ思い起こすと、彼女たちは、「わぁ、いいわねぇ、嬉しいわぁ」などといってしまうと、何かとてつもない損をしたり、膨大な借りを作ってしまうと錯覚するらしい。過剰反応もいいところだ。普段、誠実でお淑やかそのものの女性でも、自身のポートレートを見せると、化け物のように変貌していくから恐ろしい。目は天涯、虚空を掴んで歯を食い縛り、その形相のもの凄さ。いい女だけになおさら恐い。

 ぼくはこんな目に何度も遭ってきた。だが、性懲りもなく、可愛げを装う女性に会うと、すぐに「写真、撮ってやろうか」と期待を込め持ち掛けてしまう自分が、情けなく、哀れでさえある。一切の学習能力が欠如しているのだ。
 「女性ポートレート」の撮り方について、建設的だと思うところを綴ろうとしたのだが、過去の痛みに耐えきれず、またじいさまの言葉に惑わされ、こんな様相を呈してしまった。だが、写真好きの男衆よ、とくと女性の真実を肝に銘じていただきたい。どうか、重大な覚悟を持って、臨むようにとの老婆心である。
 前号にてY君の、「君は何をいわれようと、いつも “屁の河童”」は偽りである。

 今回の掲載写真は、女性ポートレート。物言わぬ人形とマネキンを、これ幸いと、しかもガラス越しに恐る恐る撮ったもの。

https://www.amatias.com/bbs/30/580.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF24-105mm F4.0L IS USM。
栃木県栃木市。

★「01栃木市」
汚れたガラスの向こうは薄暗く、女性が色褪せた和服姿で朧気に佇んでいた。
絞りf6.3、1/60秒、ISO800、露出補正-0.33。

★「02栃木市」
ガラス越しのマネキン。カメラの角度をわずかに変えるだけで、ガラスの反射が変化してしまうので、アングルを慎重に選ぶ。もう少しだけ、正面に回りたかったのだが、これで精一杯。
絞りf5.0、1/125秒、ISO250、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2022/01/21(金)
第579回:写真の背骨
 写真音痴だが教養ある旧友Y君がぼくに、拙稿についてわざわざご託宣を並べ立ててきた。曰く「かめさんは自分の主義主張を憚りなく書き連ね、それに基づいた写真を毎週掲載している。オレにはそんな恐ろしいことはとてもできないが、それをちゃらっとしてしまう君は大胆というか、恐いもの知らずというか、世間知らずというべきか、はたまた神経が図太いというか。小学校時代から何をいわれようと、いつも “屁の河童” という顔をしていたよね」。

 ずいぶんないい方をされるものだと思いつつも、そうなのであろうと自覚めいたものがあるので、ぼくにはいい返す言葉が見つからない。気心の知れた彼の言葉の行間をひねくって解読すると以下のようになる。「偉っそうなことをいっているが、いっていることと掲載写真には齟齬が生じているにも関わらず、その気恥ずかしさをものともしない君の度胸には呆れてしまう」と読める。まったく仰せの通りだと思う。
 彼はそういいつつ、ぼくのオリジナルプリントをそれ相応の値で気前よく買ってくれる良き友人でもある。それはきっと半世紀以上の友情の謂れなのだろうとぼくは受け止めているのだが。

 「身の程知らずだからできることなんだよ。大きな会社で立派に出世した君とはそこが異なるんだ。社会的に大人になりきれない写真屋ってそういうものだと思うよ。自身の身分や力量を都度塩梅していたら、いくらぼくが図太くあろうが、やはり躊躇せざるを得ない。ぼくだって人並みの気の弱さや遠慮、加えて斟酌というものを持ち合わせているつもりだ。文章と掲載写真が食い違い、訴求力に乏しいことは重々知っている。ぼくの常套句である「それとこれとは別だ」を都合の良い合い言葉にしないと、衣鉢を継ぐ(禅宗の始祖達磨が弟子に道元の法語集『正法眼蔵』を伝授した時、その証として袈裟および施しを受けるための鉄鉢を授けたとの故事。ここでは、写真ばかりでなく、ぼくの生涯に貴重な教えや学びを与えてくれた人々の言葉との意)ことはできないと考えている。だから臆面もなくいって退けることができるのさ」と返した。

 先週、写真好きの女性(以下Aさん)が、「写真を見て欲しい」とわざわざ県をひとつ跨いで浦和までやってきた。このコロナ禍をものともせずの来訪だった。Aさんは11年前ぼくが新宿のコニカミノルタプラザで個展を開催した時の来場者で、当時大学生だった。あれ以来だから約10年ぶりとなる。
 どんな写真を撮っているのだろうとぼくも興味があったので、印刷された写真集(昨今は、昔には考えられぬほどの価格で作れることは知っているが、ぼくもそれに啓発されて、そのうち試してみようかという気になった)とオリジナルプリントを、老眼のぼくは時折眼鏡を外しながら双方を丁寧に拝見。
 ここにAさんの写真をお見せできないのは残念だ。それが故に、ぼくが述べた感想について読者諸兄には理解が及ばぬことと、説得力にも欠けることを承知で、その時の銘肝(深く心に留めて忘れがたいこと)を述べてみたい。

 写真のテーマは、街で見かけた様々な様相を呈す花や人物を主体に写し取ったものだった。ぼくも同じテーマで撮っているが、その表現のありようはぼくとは対極にある。 “対極” とは極めて抽象的で曖昧な表現だが、もちろん良し悪しのことではない。平たくいえば、良い意味で「ぼくには撮れない写真」ということになるのだろうか。ぼくにないものを、Aさんは内包している。
 一人の人間は、所詮は自身の定形から離れがたく、それに従って様々なバリエーションと変容を繰り返し、 “無意識” のうちに自身の生きてきた道にそぐわぬよう気を配り、警戒しながら繁雑な心理を作品に反映しようとするものだ。定形は間もなく少しずつ外からの刺激や影響により形成された人生観・死生観・宗教観などにその造形を遂げていく。それが、創作の糧ともなっている。 “無意識” とは “自然” という意味に置き換えてもいいだろう。

 白髪のジジィが30歳のAさんを前にどのような感想を述べ、質問を持ち掛ければいいのか。これは容易なことではない。ぼくは大きな展示会の審査委員を務めているが、ここでは俎上に載せられる作品の作者を知らないので、クオリティーに重点を置くだけで事足りる。だが、不思議なもので、その作者が男か女かは十中八九見分けがつくから面白い。
 
 もし、まだうら若きAさんが、ぼくの撮るようなコテコテで陰に籠もった暗々たる写真を撮ったなら、人はどう反応するだろうか? きっと耐え難い違和感を覚えるに違いない。ぼくは常々「年相応の写真を撮ることが大切」といってきた。その人が生きてきた体験や、そこで培ってきた人生の機微や襞などが作品に反映されて然るべきで、そこに齟齬や誤謬が生じると、何かがちぐはぐで、やはり違和感やあざとさが生じることになる。それを個性と勘違いする人の、なんと多いことか!

 Aさんの作品にはそれが見当たらない。これは評価に値することだ。写真を嬉々として撮っている様子が目の当たりに窺え、まさに「年相応」の作品であることが爽やかでもあり、女性らしいしなやかさを湛えた作品をとても好ましいと感じ入った。写真の質も申し分ない。
 ひねたジジィは目を皿のようにしながら、率直で衒(てら)いのないAさんの作品に感服したといっても過言ではない。と同時に、ぼくは改めて自身の作品のありようを振り返り、良い示唆を与えられたようにも感じている。ぼくは徳を得たような気持だ。
 彼女もやがて年を経て、作品に背骨のようなものが表れてくるであろうことを願うばかりだ。 “背骨” という表現も抽象的だが、主人公や脇役のコントラスト(役割や性格描写の骨格)が、作品に力と求心力を与えてくれる。それは、主張の強さや明確さをさらに助長してくれるだろう。スポーツでいえば、アスリートが体幹を鍛えることの大切さを訴えるのと同じ理屈である。これは同時にぼくへの訓示でもある。そうなれば、強かなY君に足を取られずに済むのだが・・・。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
久しぶりに浦和の街を、35mmレンズ1本だけという気楽なスタイルでぶらついた。西日の当たる高架線壁の織り成す陰影に魅せられて思わずシャッターを切る。
絞りf5.6、1/1600秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
廃業した理髪店。色あせ、シワになったペンキと丸い看板。
絞りf6.3、1/160秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2022/01/14(金)
第578回:またぞろデジタルとフィルム
 今ここで敢えてフィルムとデジタルについて記す必然性があるかどうか、少なくともぼくのなかではすでに両者のあれこれについて決着がついているので、それは愚問というべきかも知れない。
 今まで拙稿でこの件については何度か触れているし、今回改めてこのテーマについて振り返るだけの余力というか気力というか頼りない腕っ節というか、それを保持しているかを自問してみると、まだ多少の残り滓があるようだ。このテーマを再度取り上げても、現在フィルムに興味を持って熱心に取り組んでおられる読者の方々がどのくらいかはまったく分からない。おそらくかなりの少数だと思われる。
 「今はもうフィルムは使っておりません。デジタル一辺倒です」とのメールはいただくが、フィルムについての言及や質問は、この11年間で数えるほどしかない。デジタル撮影が前提での質問が大半なので、おそらくフィルム派は希有な存在なのだろう。ぼくの身の周りを見渡しても、たったの1人という寂しさだが、けれど今のぼくにはフィルムに対する未練はない。

 この2,3年の間にフィルムにこだわった何人かの作品を見せてもらう機会があり、それはとても有意義なものだった。「フィルムとデジタルの両刀遣いを身をもって体験してきた人間として、たいしたことではないのだが、ちょいと記しておこうか」という気になってしまった。残り火というものは、しぶとく執念深いものだ。未練がないといいつつも、しかしいつまでもくすぶり続けている。未練というよりは、かつてフィルムに熱心に取り組み、そこで得た恩恵をデジタルに生かしたいとの願望が勝っているのだと思う。
 そしてまた、「デジタルから写真を始めたが、フィルムが聞くほどに良いものであればぜひ試してみたい。如何なものであろうか?」と複数の人たちから問いかけられた。この点に関しての私見を正直に記す。
 過去に述べたこととの重複は避けられないが、それにはお目こぼしいただき、ぼく自身新たな発見もあったので、それについて触れてみたい。
 
 結論を先にいうと、 “デジタルから写真を始めた人” は、新たにフィルムに取りかかる必要はない。メリットを感じ取れないのではないかと思う。
 その理由はいくつかあるのだが、デジタルの一番のメリットは、暗室作業によるイメージの追求がフィルムにくらべ柔軟かつ広範囲に及ぶ点にある。あなたの描いたイメージ、あるいは被写体を見つけた時に生じる心理、思考、発案などを、デジタルは自在に、しかも精緻に画像に反映でき、モニター上に、あるいは印画紙上に転化できる。もちろん、それなりの補整技術(画像ソフトによる暗室作業)は必要だが、その自在さは大変な魅力だ。それについては、ぼくが今さらいうまでもないことだろう。
 補整をしているうちに、撮影時には気のつかなかったことに着眼できたりして、自身のスタイルを確立する機会が与えられることも多々あり。ただ、「独りよがり」の墓穴を掘らなければの話だが。

 フィルムは、どう贔屓目に見てもデジタルに及ばぬところが多すぎる。それがまったくできないということではないが、そこに至る過程は、相当な技術力と知識を必要とする。そして、光学・化学の制約に縛られながらの作業となる。それを都度駆使しなければならぬ労力たるや、到底デジタルの比ではない。ましてや、カラー写真となると、その自在性に於いて、デジタルは独壇場(どくせんじょう)といっていい。
 さらにつけ加えるのであれば、デジタルは、カメラ、レンズ、ソフトなど日進月歩だが、フィルムやそれに付随するものはすでに歩みを止めている。この点も見逃せない。フィルムの種類も化学薬剤も、そして周辺機器も今や製品が限定されているなかでの作業は、フィルムに余程の肩入れをしないとやっていけないだろう。デジタルの自由闊達さを手に入れた人は、不自由なフィルムの操作や処理に手を焼くことになる。しかし、写真は趣味の世界なので、一方的な否定は理に合わないどころか、狭量で滑稽でもある。ぼくとて、そこは心得ているつもりだ。
 これらのことを総合的に判断すると、写真の上達には融通の利くデジタルのほうに利があるというのがぼくの考えだ。

 昨今のフィルム事情にぼくは疎いが、ごく一部の好事家がいるにしても(ぼく自身が血道を上げてきた道なので、それなりの理由があることは重々承知している)、かつての隆盛からは、くらべるべくもないことは容易に想像できる。
 デジタル創生期には様々な難点があったが、テクノロジーの発展と情報の得られやすさにより、今や表現の多彩さはフィルムを遙かに凌駕している。文明の利器に振り回されることなく、上手に利すれば、老いを横目に精神の高揚を図ることさえできる。今のぼくにとっては、これが一番の妙薬なのかも知れない。

 公平を期すために、フィルムならではの利点を挙げると、撮影時の丁寧さや慎重さを得られることだ。デジタルになって、ぼくをも含めてフィルムを体験した人は多かれ少なかれ、同じことを感じているのではないだろうか。フィルムは、むやみやたらと、デジタルのようにシャッターを切れないのだ。
 1枚撮るごとに「チャリン」という金属音が何処ともなく響いてくるのは、精神的にまことによろしくないが、これが一種の精神的レジスタンスとなって次第に心地良く感じるようになるものだ。これは、ぼくなどの、貧乏人の特権なのである。デジタルでは、この快感が享受できない。「貧乏は三文の徳」というじゃありませんか(そんな諺あったっけな?)。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF24-105mm F4.0L IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
昨年4月、浦和美術館で開催されたミュシャ展のポスター。日焼けし、汚れたかのようなポスターを模し(ホントはきれい)、仕上げる。新調したRF35mmの試写を兼ねて。
絞りf6.3、1/13秒、ISO200、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
見沼グリーンセンターに置かれてあったりんごの造形物。高さは数10cmほど。レンズテストのため半逆光と光沢の被写体を選ぶ。
絞りf7.1、1/320秒、ISO100、露出補正-2.00。

(文:亀山哲郎)

2022/01/07(金)
第577回:新年早々の無駄話
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。みなさまの福寿無量をお祈りして。

 本連載を担当させていただいたのが、2010年の5月。今年で早12年目を迎えようとしている。「長く続けりゃ良いってもんじゃないよ」の典型的な代物に化しているのかも知れないなぁと思うと、ぼくとて多少の気詰まりを感じる。  
 “ぼくとて” といいつつ元来気弱なぼくが、長年継続できた主たる原動力は、読者諸兄からいただくメールは無論のこと、ぼくの我の強さと頑迷さが得体の知れない気詰まりに勝っているからだろう。このことは、それほど威張れるようなものではないのだが、自分自身を「諭すように、敢えて言い聞かせる」には良い方法だと思っている。ここで公言したことは守らなければならないし、誰が見ているか分からないというのが世の中。油断や隙を見せてはいけないのだ。本稿は個人の気ままなSNSの類ではないので、それなりの責任を負っている。
 それに加え、ここまで続けられたのは、担当者の忍耐強さや寛容さあってこそのものだ。そして決して淡泊ではないぼくに対して、諦めによる悟りの境地、つまり達観しておられるからではないかとも思っている。
 ともあれ、ぼくはみなさんの迷惑をも省みず、しかしながらいいたいことがたくさんあり過ぎて収まりがつかないというのが本音であり、まとめでもある。

 何事も「初心忘るべからず」なので、12年前の第1回目に何を書いたのだろうと読み返してみたら、「この連載がいつまで続くか本人にはわかりません。内容が少し気ままに過ぎることもありましょうが」とあった。これは現在まで見事に踏襲している。12年前の予感は当たっていた。
 さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を7年間毎月撮影させていただき、それがご縁で「写真撮影のワンポイントアドバイスのようなものを書きませんか?」と突然問われ、ぼくも深く考えることなく気楽に承諾し、ここまで来てしまったら今はもうお互いに意地の張り合いというか、抜き差しならぬ羽目に陥っており、「縁は異なもの味なもの」と認め合いながら、双方達観の他なしなのだろう。

 今年も、一貫性がなく、前後の脈絡がない話が続くに違いないが、ぼくの年老いた白髪に免じてどうぞご海容くださいますように。
 「年老いた白髪」を、何故免罪符にしようとしているのか? 書いている本人にもその脈略と因果関係が不可解なのだが、少なくともぼくは無条件に「年配者を敬え」との我田引水的な考えには極めて懐疑的だし(今誰も唐突にそんなことはいっていないのだが)、それはものの道理に適っていない。
 それ以前に、年齢に関係なく公平に敬うこと、即ち、まずは誰もがお互いに尊重ありきだとの信念を持っている。これが聡明なる人間の基本なのだが、そう容易いことではなく、ぼくなど時折右往左往を余儀なくされる。

 「年寄りは頑固で、人の意見を聞かない」との声も存在する。これをして「縁なき衆生は度し難し」(仏の広大な慈悲をもっても仏縁のない人は救えないのと同様に、人の言葉を聞き入れない者は救いようがない、という意)ともいう。時に、耳が痛いような気もするが(と、遠回しにいっておく)、その一因として、おそらく長い間の、経験の積み重ねと自負心が否応なくそうさせるのだろう。それが他説の邪魔をしたがるのかも知れない。
 本人だけが過度に思い込んでいる “自負心” とは大変厄介なものだと感じるが、賢明で、論理的で、誠実な人ほど、取り敢えずはそんな “自負心” を隅に置き、他人の意見に耳を傾けることができるものだとぼくは思っている。けれど、これが意外に難しく感じるのは、残念ながら、ひとえにぼくは人間的にそう優れたものではないからだろう。と同時に、主義主張をはっきり伝えたがる性癖を持ち、ぼくは板挟みとなり、身動きがままならずとの常態に復す。

 そういえば、「特技は人の話をよく聞くこと」と大言壮語したどこかの国の元首がいる。人の話をよく聞くことが特技に値することなのか甚だ疑問だが、だとしても優柔不断で何も決められないのでは、信念の喪失と同義だとぼくは決めつけている。経験値も本物の自負心もないので、何も決められないのだろう。これは国益と国民の安全保障を毀損する国家(我々)の一大事である。

 第1回目に「生まれて初めて必死に写真の勉強をしました。ぼくの生涯に “必死” は後にも先にもこれっきりです」と書いているが、これは自負心ではない。当たり前のことを懸命にしたからといって、それが自負心につながるわけでないことは自明の理。これは工程であり、結果ではないのだから、自負心でもなんでもない。こんなこと、書かなきゃよかった。

 修業時代、師匠に「プライドなどというくだらねぇものは今すぐに棄ててしまえ!」と何度かいわれた。まったく仰せの通りである。異論のない、これこそ正論だとぼくは現在もそう信じている。くだらぬプライドほど、自分の姿を見誤るものだ。それを棄てることができれば、他人の話を素直に傾聴できると思っている。「言うは易く行うは難し」なのだが、師匠の言葉を胸のどこかに刻み、肩の力を抜いて構えてみるのも興趣なのではないかと思う。

 新年早々、写真に触れないけったいな原稿になってしまった。今年も先が思いやられるが、スタジオでもスタッフと無駄話をしてから撮影に取りかかるのがぼくのスタイルなので、次号からそれらしき写真話ができればいいなぁと。正月ですっかりネジが緩んでしまったようで、松の内から衷心よりの陳謝。

https://www.amatias.com/bbs/30/577.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
枯れて丸まった里芋の葉。茶と緑が混在し、大きなサナギを連想させた。
絞りf8.0、1/30秒、ISO400、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
母はいつも和服だったが、その柄を思い起こさせた。Rawデータを、色温度を二通りに変え現像したものを、Photoshopで合わせただけ。手の込んだことは何もしていない。
絞りf2.8、1/200秒、ISO125、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/12/24(金)
第576回:撮り鉄(続)
 このテーマについてはたくさん述べたいことがあるのだが、それを心置きなく記そうとするとかなりの分量となってしまう。2回や 3回の連載ではとても収まりきれず、駄文長文のぼくとしては、どう端折っても5回を優に越えてしまうに違いない。
 「撮り鉄」からは完全に足を抜いてしまっている分際で、それは出過ぎたことと思われ、未練を残しながらも、慎み深く今回で止めにしておくのが賢明というものだ。

 あれからすでに60年近い歳月が経過しており、鉄道に関しての知識なども、現状認識が著しく不足しているであろうことは容易に想像できる。したがって、今のぼくは鉄道に関する情報が足りず、原稿を書こうにも足元が覚束ない。
 ぼくにとって「鉄道写真」は過去のものとなったが、どこか潜在意識のなかにかつての鉄道ファン気質が確実に息づいていることは隠しようがない。だが、潜在意識を覗き込むには、今の鉄道に対峙し比較することが必要で、それを思うと、今のぼくにはとても気遣わしく、頼り甲斐もない。
 とはいえ、今も昔もおそらく鉄道好きの人たちに共通していることも多々あろうと思われる。そんな事柄を拾いながら、技術的なことをも含めて、思いつくままに「撮り鉄」の点描を試みてみたい。

 「撮り鉄」から足を抜いた理由は、「電化が進み鉄道車両のデザインがぼくの意に沿わなくなったから」と前号で述べたが、人里離れた地方に行った時などに見かける線路(廃線ならなおさら)や無人駅は別物で、様々なロマンを感じ、夢中となることしばしば。この現象はおそらくぼくだけではなく、普段鉄道にあまり関心のない人も同様なのではないかと思う。

 線路は哀愁や郷愁を感じさせ、そのシチュエーションによっては、自身の歩んできた道を思い起こさせることもある。それは「喜怒哀楽を敏感にさせる作用」があるようにも感じられる。感情が高ぶり、ある時は感慨深く、ジーンとしてしまうことさえある。線路を人生に見立てるとまではいわないが、それに近いものがある。そんな時、写真好きに限らず、撮影意欲に駆られ、スマホ動員となるのではないかと思う。ひとまずぼくのなかでは、感情に照らせば、「鉄道写真」と「線路」はまったくの別の世界のものとして分類される。

 ぼくのような写真化石人間(いわれる前に先手を打ちつつ、あながち化石はそう捨てたものでもないのだと、ここで声を大にして開き直っておく)が、鉄道に限らず、動くものを撮る際には、非常な熟練度をかつては必要としたものだ。オートフォーカスやAIサーボ(動く被写体にフォーカスする機能)などという洒落か堕落かは知らないが、そんな便利なものが存在しなかった頃の話をすると、老人(ぼくは自分を“老人” とは思っていない)の繰り言のように思う人がいるかも知れないが、そのような人はこの拙稿は読まなくともよろしい。化石(職人技)あってこその、現代のテクノロジーなのだから。

 カメラから見て横方向に走るものは、シャッター速度に注意を払えばよいが、縦方向は骨が折れる。カメラに向かってくるもの、去って行くものは、フォーカスリングを回しながらピントを合わせることになり、これは相当な訓練をしなければ成し得ない。ましてや望遠レンズ使用となるときりきり舞いをしてしまう。シャッター速度はいうに及ばず、シャープで切れのある写真をものにするには、訓練を積むしか方法がなく、ない知恵を絞らなければならなかった。

 ぼくはよく道路や鉄道の歩道橋の上から、こちらに向かって来る(あるいは去って行く)車や電車を相手に、ピントを合わす訓練をし、それに明け暮れた時期があった。フィルム時代のことなので、最も安価なモノクロフィルムの長尺を暗室でパトローネ(フィルムをカメラに装填する際に用いる円筒形の容器)に詰め、使用したものだ。しかし、フォーカスリングを回しながらのピント合わせは、いわゆる「歩留まり」が悪く、したがって不経済そのものだった。
 そこで、従来から使用されてきた「置きピン」(あるところにあらかじめピントを合わせておき、そこに車や電車、時には人が来た時にシャッターを切る方法)の古典的な知恵を借用し、一発撮りを試みたが、確実性を確保するのであれば、この方法が優れている。しかし、この方法は妙味がなく、あらかじめ構図も整えておく必要があった。このことは、したがって意外性のない写真となる可能性が大きかった。

 負けず嫌いのぼくは、あくまで由緒ある正当な作法を踏襲しようと自虐的にもなっていたので、フォーカスリングを回しながら、たとえ「歩留まり」が悪かろうと、正確なピントを得ることに固執し、それを気取ろうとしたものだ。
 また、もう一つの方法である「置きピン」をずらしながら、何枚か撮るという知恵も身についたが、これもどこか姑息な感を否めず、生みの親に申し訳ないような気がし、実際に使用したことはない。かなりの意地っ張りだ。

 老人の繰り言も昔話として片づけてよいが、さて現代はテクノロジーが進化し、そのような苦労は、今やどこ吹く風。初めて購入したデジカメである初代EOS-1Ds(2002年発売)にはAIサーボ機能があったが、「歩留まり」の観点からいうと、6〜7割ほどだったので、実際に使用したことは一度もなかった。
 ぼくが嬉々としてAIサーボを使用し始めたのは、なんと今年の4月に購入したEOS-R6からで、これは「瞳フォーカス」(人間と動物)なる化石人間には信じ難いほど正確な動体追従機能が附属しており、その精度は(「歩留まり」)、少なくともぼくの使用条件では十分に満足できるものだ。この凄まじい科学の進歩に諸手を挙げて感嘆する化石男がここにいる。
 だがしかし、ぼくの天敵、風で前後に揺れるコスモスにはあいにく「瞳」がないのである。「昔とった杵柄」も、老化のおかげか、この8ヶ月の間に廃れてしまったかのようだ。悲しくもあり、嬉しくもあり、といったところか。複雑な心境を抱いて、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」なのであろうか。

https://www.amatias.com/bbs/30/576.html
           
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
百合。右後ろからの半逆光。そのためか、色変化(いろへんげ)が面白い。背景にはまだつぼみの2輪。
絞りf3.2、1/250秒、ISO320、露出補正-2.00。

★「02さいたま市」
散々悩ませてくれたコスモス。この時も首をさかんに揺らせ「撮れるものなら撮ってみろ」と天敵はいう。「絞り開放で射止めてやるわ!」とぼくは強がる。
絞りf2.8、1/1000秒、ISO400、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/12/17(金)
第575回:撮り鉄
 ぼくはテレビや新聞をめったに見ない。その理由を大雑把にいえば、肝心と思われることがまったく報じられなかったり(「報じない自由」なんだそうである)、さらに嫌悪することは偏向や捏造、そして事実に基づかないことを(最近では “evidence” 「エビデンス」という言葉も一般化してよく用いられるようになった。大まかに訳せば、「科学的根拠」、「証拠」、「証言」など)あたかも事実であるかのように報じたり、また報道する側に不都合なことを隠蔽したり、専門的な知識のないコメンテーターとか称する怪しげな人々が跋扈(ばっこ)していたりするその現状にうんざりしているからだ。そのようなものからは身を遠ざけるのが賢明だと思っている。

 我が家は新聞を取っているが、それは、どれほど「嘘・インチキ」を報じているかを知るために、といっても過言ではない。それほどぼくは、新聞やテレビの報道(主に政治や世界情勢)を信用していない。「新聞で信用できるのは、日付けとスポーツのスコアぐらいのもの」がぼくの口癖。

 国内外の様々な情報は、ネット(海外のものを含めて)と現地に在住する友人たち(世界的な報道機関に勤める友人もいる)から積極的に得ることにしている。彼らの話を鵜呑みにするわけではないが、そこから寄せられる情報に基づき、ぼくなりに総合的な判断を下している。
 報道に関して、日本は残念ながら後進国だと認めざるを得ないとの判断に至っている。ある程度の偏りは仕方ないとも思っているが、あからさまで、意図的な偏向報道は、民主主義にはあるまじきことであり、健全で公正な報道とはとてもいい兼ねる。

 そんななか、日本のネットニュースに、いわゆる「撮り鉄」に関する記事があった。それに目を通してみたのだが、概ね当を得ているように思われる部分もある。
 文中には、「海外の場合は、線路内や鉄道施設への立ち入りについて日本ほど厳しくなく、まだ比較的寛容な国や地域も多い。中略。とりわけ先進国と呼ばれる国や地域は、年々こうした(線路内や鉄道施設への立ち入り。亀山注)規律に対して厳しくなっており、最近は日本と同じように簡単に施設内へ立ち入ることはできなくなりつつある」とある。
 
 文意に対する “突っ込み” は今しないが、かく言うぼくも中学時代はキヤノネットを振り回す「撮り鉄」(当時、この言葉はなかった)の一味であった。
 キヤノネットとは、1961年1月(昭和36年1月)キヤノンから発売されたレンズシャッター式の中級35mm版カメラで、当時18,800円。発売2年半後には100万台を突破した人気のカメラだった。
 これを首に掛けて、近隣の線路際を歩いたり(まだ線路を跨ぐ歩道橋はなく、すべてが踏切だった。柵のないところも多かった)、上野駅に停車する蒸気機関車や電気機関車などを夢中で撮っていた。上野駅から上尾駅まで電気機関車EF53の運転席に乗せてもらい、警笛の紐を引っ張らせてもらったりしたこともある。当時は何事に於いても大らかで良い時代だったと懐かしんでいる。

 また、修学旅行にもこのカメラを持参し、ほのかに憧れを抱いていた女子(実はぞっこんだったのだが、恥ずかしいのでそうはいわない)を盗み撮ろうと目論んだのだが、その画策はことごとく失敗に終わったことをつけ加えておかなければならない。当時、ぼくは早撮りにも技術的にも長けていなかった未熟者だったのだ。まぁ、今もあまり変わりはないのだが。
 しかし、何の因果か、半世紀以上経ったこんにち、彼女は我が倶楽部の一員としてどっかりと腰を据え、幅を効かせている。「事実は小説よりも奇なり」、ホントに「何の因果か」である。だから人生は愉快だ。

 高校に入学し、ぼくは「撮り鉄」からあっさり手を引いた。理由は簡単、電化が進み鉄道車両のデザインがぼくの意に沿わなくなったからだった。「味気ない」、「魅力なし」との二言でぼくは鉄道写真から足を洗い、他の被写体に衣替えをした。女子ではない。

 昨今、「撮り鉄」の評判が芳しくない。ぼくはその実情を目にしたことはないのだが、写真に限らず、創作活動に於ける様々なことが、世間が窮屈になるつれ、はみ出し者も多くなってきたと思われる。写真の同好の志として、極めて残念至極である。だがそれはごく一部の人間だと信じたい。しかし世の中では、その “ごく一部の人間” が素早く“すべての人間”に取って代わる仕組みとなっている。

 マナーの欠如は、即ち倫理・道徳の欠如と同義であり、彼らのお陰で「撮り鉄」以外の良識ある人間がカメラをぶら下げて街を徘徊するのも憚られる有様。善良な写真愛好家にとって、このような風潮は、しかし「行き過ぎ」である。無礼、不躾は許されるものではないが、前述したニュースには「撮り鉄」が引き起こすトラブルの一因として、「インターネットの誕生とSNSの普及により、アマチュアによる作品発表の場が増えたことで、他人との差を付けるため過激な行動へと走る人が増えたことがいわれている」とある。
 この論理を「当たらずとも遠からず」に集約しては的外れである。それ以前に、この問題は撮影状況に関わらず、個人の良識や良心といった資質の問題なのだ。マナー違反をする人たちは写真に限ったことではなく、あらゆる分野に粘着テープのようにしつこくへばりつき、はびこっている。「憎まれっ子世に憚る」である。「雑草は早く伸びる」ともいうしね。

 良識や常識を持ち合わせた人たちが、十把一絡げに悪者扱いされ、怪しげな輩と同じような視線を浴びせられるのはとても辛いことだ。撮影に支障を来すような心境に追い込まれないようにするには、消極的だがぼくは、「君子危うきに近寄らず」が一番だと思っている。
 どっかりと腰を据えた女史は、「あーたから、 “君子” なんていう言葉が出るとはねぇ。『君子に写真は撮れない』っていつもいってるじゃない!」と冷ややかにおっしゃるに違いない。

https://www.amatias.com/bbs/30/575.html
            
カメラ:EOS-R6。レンズ:RF50mm F1.8 STM。RF100mm F2.8L Macro IS USM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
葉牡丹。当初、葉脈と葉の縁取りが鮮やかだったのでモノクロでイメージしたのだが、カラーでも表現できると補整途中から衣装替え。
絞りf8.0、1/60秒、ISO400、露出補正-1.67。

★「02さいたま市」
木の名前、記憶は茫々。去りゆく秋を惜しむように、まだ紅葉の残滓が。
絞りf3.5、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)

2021/12/10(金)
第574回:ちょっとピンぼけ
 のっけから写真の話ではなく、ぼくとしてはちょっと気詰まりなのだが(といいつつ、前号だって写真の話にはほとんど触れず、自身のことばかりに終始していたことは十分に自覚している)、今まで読者数人の方々から、「かめやまさんは、イデオロギー的にはどちらなのですか?」との趣旨のご質問をいただいたことがある。ぼく同様、読者諸兄の話も写真に関してではなかった。
 「どちらなのか?」という意味は、端的に解釈すれば「右か左か」という風に捉えてよいと思うのだが、だとすれば、ぼくはいつも返答に窮していた。何故窮するのかといえば、政治的イデオロギーなどというものより、自身が社会に於けるひとりの人間として、あるいは自身の信条や実体験に基づいて、何が正しくてそうでないかの是々非々を拠り所とし、それにぼくは従おうとしているからだ。
 ただ何を根拠に是々非々を定めるかで、人は短絡的にその人を「右だ、左だ」と決めつけたり、所謂「レッテル貼り」をしたりして自分を納得させたりすることを好む傾向がある。それこそが、危険分子というべきものだとぼくは考えている。
 政治的信条は誰でもが持っているものだと思うのだが、まったく無関心な人たちも少数ではあるがいるのだろう。もしかすると、少数ではないのかも知れない。

 かつてぼくは写真屋として、世界の主だった社会主義国、もしくは共産主義国家の多くを訪問し、そこで仕事をした。特に盟主であった旧ソビエト連邦と現ロシア連邦には14度通い、市井のあらゆる階層の人々と、そしてそこに居住する様々な人種と交流した。言葉など通じずとも、我々は人類という共通の生物なのだから、たとえ国家体制がどうであれ、解り合える部分はたくさんあった。
 「言葉が通じないから」というぎこちない言い訳をする人は、ただ好奇心が足りぬだけだろう。好奇心は撮影の発露であるので、旺盛な好奇心に欠ける人たちは、写真を嗜むには不向きだとぼくは思っている。
 ぼくの撮影は、自分の足と甲斐性だけが頼りの独り旅。旅は独りに限る。ここでは他人の助けのないことを “独り” と解釈し、 “独り” であることは頭に立てたアンテナの本数をより多く必要とする。自分のことはすべて自分で管理しなければならず、したがってすべての責任を自身が負うということでもある。
 好奇心による発見は、インスピレーションやイマジネーションを与えてくれる。それは写真を撮ることの最大の恵みであろう。ソ連邦とロシア連邦は、延べ400日滞在したことになるが、そこで得たものは大きい。

 まったく好ましい旅のあり様なのだとぼくは思い込んでいるが、ぼくの場合、惜しむらくは甲斐性だけが欠如しているので、ある時は無手勝流の狼藉を余儀なくされ(と、責任転嫁をしておく)、時折、旧KGB(旧ソ連の国家保安委員会)の視線を感じながら、撮影禁止場所(日本とは異なり、あちらこちらが「撮っちゃダメ」だらけ)を重いカメラバッグを唯一の伴侶とし走り回った。
 あっちこっちでぼくはとっ捕まったが、何故か今、こうしてこの拙稿を認(したた)めている。これが北朝鮮や中国なら、ぼくはどこかに消え、今「花の写真」などと悠長なことはいっていられないだろう。
 その点、結果的には、ロシアは「話せばわかる」を地で行く国であったことは幸いだったともいえる。この地に於けるドタバタ劇の一部は拙単行本『やってくれるね、ロシア人!』(NHK出版)で、開陳した通り。そして、この地でぼくは、「早撮り」の極意?にあやかることができた。思わぬ果報を得たというべきか。

 ソ連邦に通っていた頃、周囲の人たちは「かめやまは、親ソ派であり、左翼」と思っていたらしい。ぼくは反駁さえばかばかしいと思っていたので、まったく取り合わなかったが、旧ソ連の悪名高き強制労働収容所・矯正収容所の最初のがん細胞であるソロフキ(白海に浮かぶソロヴェツキー諸島の略称。強制収容所のあったところで、通説では1923-39年に稼働。そしてまた一方、ここは中世に於ける美しい修道施設の傑出した例として1992年世界遺産となったが、当時はロシア人さえ入島することができなかった)への入島が8日間だけ許可され、おどろおどろしくも、そこに佇む美しいクレムリン(城砦)と風景に圧倒され、修道士との追いかけっこ(修道士は撮影厳禁)をしながら撮影に勤しんだ。今から17年前の2004年のことだった。昨今、ソロフキはヨーロッパ人の間で、最も人気のある世界遺産となっているそうだ。
 しかし当時は、どうやら彼の地ではぼくを危険分子、修道士の敵として見なし、手配書が回っていると、ぼくを引き受けた宿の主人がロシア人特有のユーモアを交えて、面白おかしく語ってくれた。

 帰国後、ソロフキの写真は著名なギャラリーで写真展を催してくれ、また雑誌の巻頭グラビアでも扱ってくれた。やがて写真集(『北極圏のアウシュヴィッツ』復刊ドットコム)も出版され、ソ連の恥部を公開したことにより、ぼくを「親ソ派の左翼」と呼ぶ声はすっかり影を潜めた。
 文頭に述べた “危険分子” をここでなじるつもりなど毛頭ないが、未だに世界のどこかに存在する強制収容所で、何が行われているかが白日の下に晒されている現実を直視しなければ、災難がやがて自身や子孫の身に降りかかってくることを知って欲しいと願うばかりだ。ぼくの言い分は左翼でも右翼でもない。

 嗚呼、今回も写真の話からは、『ちょっとピンぼけ』(写真家R. キャパの著作)になってしまった。危険分子は、本題を無視し続けるぼくのほうかも知れない。

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カメラ:EOS-R6。レンズ:RF35mm F1.8 Macro IS STM。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
ダリア。花弁の裏側の微妙な色合いに魅了されて。色温度の高い(青味がかる)曇天下で。
絞りf8.0、1/60秒、ISO200、露出補正-1.00。

★「02さいたま市」
葵。斜光の夕陽に、花弁が輝き、透過したりして、その一瞬を狙うのに一苦労。
絞りf3.5、1/100秒、ISO100、露出補正-1.00。

(文:亀山哲郎)