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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2019/08/09(金)
第458回:久しぶりに写真もどきの話(2)
 写真に限らず、物づくりの第一歩は「まず自分の使用する道具の賢い使い方を身につけ、その性質を知る」ことにある。手足の如く道具を操ることの感覚と知恵を身につければ、そのこと自体が創作上大いに役立ってくれることは改めていうまでもない。また、バリエーションの展開にも利がある。
 それはある程度の修練を必要とするが、そこは神頼みよろしく「好きこそものの上手なれ」とか「急がば回れ」を素直に信じ、地味な作業(例えば前号に述べたようなレンズテストなど)を根気よく励行するに限る。「神頼み」といっても、お百度を踏んだり、日々呪文を唱えただけでは残念ながら成就できない。「信ずる者は救われる」という具合には絶対いかない。

 そしてまた修練を積めば、やがてさまざまな余禄を生み、また与ることができるようになること請け合いだ。同時に他の道具に対する応用力も身につけることができるのだから一挙両得以上のものがあり、十分に引き合う。
 しかしながら、ぼくの知り得る限り、写真愛好家、もしくは好事家と自認する人たちの間でさえも、この地味な作業を試行し、身につけた方々は一割程度に過ぎない(いや、きっとそれ以下だろう)のではないかとの確信を抱いている。この現象は、ぼくが分不相応にも20代の頃から出入りしていたライカ特約店にたむろする人々でさえそうだったのだから、他はいうに及ばずだ。

 修練によるこの分かりきった論理と道理をその時の都合に合わせよく忘れて(あるいは無視して)しまうので、みなさんにはその轍を踏まぬよう殊更強くお伝えしておきたいのだ。ぼくは「xxのひとつ覚え」のように、そればかりに固執してしまう性癖があり、それも悪くはないのだが、時折血が固まってしまい血行不良となり、道を誤ることがある。ぼくは自分のそれを「偏愛的一極集中型」と名づけているが、ものは言いようである。
 ひとつのレンズを知り、使いこなすためには、以前にも述べたことがあるけれど、毎日使っても一年はかかるというのがぼくの見立てだ。時に「虚仮の一心」(こけのいっしん。愚かな人でも一心に物事をすれば立派に成し遂げられるという意)にすがることは、このうえなく尊いことだと思っている。

 繰り返しになるが(そのくらい重要なことなので)、道具の使いこなしと理解は、物づくりの上で避けて通ることのできぬとても大切な事柄であり、課題でもある。この関門を無事くぐるのとそうでないのとでは、後々大きな差となって表れる。ちょっと大袈裟にいうのなら「雲泥の差」となって表れる。
 道具の性質を知らずして、「ただ闇雲に」とか「やたら滅法に」突き進むと無駄な労力ばかりを消費して、見当違いの方向に歩を進め、遅々として前に進むことができない。道具への理解も覚束ないので、描くイメージの発展やら展開を妨げてしまうことも多々あるのではなかろうかと思う。

 我が家の家訓である(嘘です)「無駄は必要だが、一度で良い」とはぼくの念誦(ねんじゅ。仏に祈り、経文を唱えること)のようなものなのだが、そう言い聞かせながらも、無駄という螺旋階段からなかなか這い出ることができない。同じところをぐるぐると回っている。そんな体験を、憚りながらぼくは山ほどしてきた。そして今もしている。
 それを重々承知していながらも、気に入った道具(今回の場合はレンズ)を手にすると、それ一辺倒となる。この2年間の連載写真のほとんどは11~24mmレンズで撮影されたものだが、この異様な画角とパースのレンズを手にしてちょうど今月で2年経つ。しかし、なかなか正体が見えてこないので、この難物を手なづけようと未だ苦心惨憺している。散々テストをしているものの、実戦ではテストと同じとはいかず、図らずもテストと本番の境目を見失うこともしばしばだ。
 あまりにも多くの要因が複雑に絡み合っているので、その因果関係とか相関関係が把握できずにいる。ぼくにとって、こんな「悪女の深情け」的レンズは初めてのことだが、その分魅力に溢れている。
 
 レンズに合わせて被写体を選ぶという本末転倒をしでかして知らん顔をしている自分がいるのだが、「もしかしたら、それもありなのかも知れない」と、魔が差すこともある。つまりぼくは善悪の区別もつかなくなり、自棄になって、「あばたもえくぼ」的な心境に追いやられつつあるということのようだ。

 前号にて記した京都で合流した友人は、ぼくの宿題をアッパレにもこなし、f値による描写の違いにびっくりしたのだそうである。f値を変えれば被写界深度も異なってくるが、それより解像度の変化に意表を突かれたと目を丸くしていた。利発な友人は、「f値の違いが同じレンズを別のものに変えてしまう。目から鱗が落ちた。知らないってホントに恐い!」と、広い妙心寺境内を走り回っていた。

 レンズによる描写の違いはf値の選択に起因することと知ってもらえば今回のぼくの役目は半分済んだことになる。後の半分は、画面内で水平線や垂直線がおかしな重なりをしていないかにだけに注力し、それをレクチュアすることに終始した。要するに、線の重なり具合により、立体感や臨場感が異なってくることを知らせたかった。加え、画面を整理することにもつながる。
 フィルムと異なりデジタルは撮影したものがすぐにモニターで確認できるので、その場で解説することができ、理解が早い。おかげでぼくは200回近く友人のモニターを覗き込み欠陥を指摘した。さすがにくたびれたけれど、熱心さに打たれて何とかその日1日を持ち堪えることができた。ビールの美味かったこと!
 我が倶楽部での撮影会で、ぼくは彼らのモニターを覗き込んだ記憶は未だかつてないような気がする。

http://www.amatias.com/bbs/30/458.html

来週はお盆休みのため休載となります。

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市右京区妙心寺。中京区。

★「01妙心寺三門」
創建慶長4年(1599年。重文)。境内唯一の朱塗り建造物。今にも降り出しそうな厚い雲に覆われ、非常に柔らかい光に包まれる。絶好の写真日和だ。
絞りf10.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02京都市中京区」
妙心寺を出てブラブラ歩いていたら、空が徐々に晴れ上がった。こんな長屋がたくさんある。友人はその度に歓声を上げる。ぼくもつられて撮る。
絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/08/02(金)
第457回:久しぶりに写真もどきの話(1)
 この半年近く、ぼくは得体の知れないストレスのようなものを抱え消化不良を起こし難渋ばかりしている。しなければならないことがあれこれ降って湧き、何から手を付けて良いか分からず、無手勝流の行き当たりばったりだ。しかし不義理だけは極力避けようと、一時的に気を紛らわしたりしながら、摘まみ食いのようなことばかりしでかすものだから、結果どれもが中途半端に終わってしまう。食い散らかしのだらしなさを露呈している。
 結果的に不義理をし、迷惑を省みず、身を縮め許しを請うことになる。八方美人を粧おっては碌なことにならないことは目に見えているのに、ぼくはどうしても賢くなれない。

 こんなことの繰り返しはえらく精神を痛み付けるもので、衛生的に極めて好ましくない。今のところ、外観上痩せ衰えてはいないが、やがて憔悴しながら生命の炎が細っていくその一過程であるのかも知れないと一抹の不安を残している。
 何故そのドツボに嵌まってしまうかの原因は先刻承知のはずなのだが、これが上手くいかない。 “上手くいかない” のではなく “思い通りにいかない” といったほうが正しいのかも。
 物事には優先順位というものがあるのだから、それに従い、手際良く粛々と努めればいいことくらいはぼくにだって分かる。賢い人は淀みなくそれができるらしいのだが、ぼくは「分かっていながらできない」ので、ストレスが溜まることになる。そこに生来の「愚図」が輪を掛けているのだから、なおさら始末が悪い。

 雑務の輻輳(ふくそう。方々からいろいろな物が一か所に集まり、混み合うこと)は、身も心も冒していく。しかも、一銭にもならぬことばかりだから、これは一種の消耗戦のようなもので、救いも励みもなく、まったく敵わない。
 だがぼくは賢くない分、山あり谷ありで人生の退屈さを十分に凌いできた。それは習慣となり、流儀にも発展し、これはこれで大した御利益だと負け惜しみを知りつつも公言している。
 スリリングな展開が高じて危機一髪なんてこともある。やはりこちらのほうがリスクが大きい分、やり過ごした時の爽快感や充実感、そして面白味は、賢く立ち回った時(事なかれ主義とでもいうのかな)の比ではない。「火事場の莫迦力」と「苦しい時の神頼み」の合体で立ち向かうのだから、まさに恐いもの知らずで、大概のことはこれで事足りるという寸法だ。
 「メリットとデメリット」、「プラスとマイナス」、「功罪相半ば」などの道理至極は常に表裏一体であることは誰でもが知っていることだと思いがちだが、この世にはどっこいそれを知らずして、ぼくを悪者扱いする無調法な者のなんと多いことか! 

 あれやこれやのストレスを晴らそうと、ぼくはここのところ拙文で、「紫陽花」、「美術館通いをする人々」、「医者たち」を俎上に載せ、痛罵を連発し、悪態をついてきた。挙げ句、恰好ばかりの「自己の強欲についての自己批判」をして見せたりと、慌ただしそうに屁理屈を並び立てた。
 掲載写真も新たな補整が間に合わず、今頃になって今年3月に訪れた京都(遊郭以外)にやっと取りかかっている始末。今回は3月に訪問した妙心寺(妙心寺については第414回を参照)を2枚掲載する。というのも実は妙心寺では、友人をマン・ツー・マンで教えるために自分の写真を撮る余裕がなく、数枚しか撮っていなかった。ぼくは熱意ある、しかも厳しく良い指導者を4時間も妙心寺で演じたわけである。

 友人は新たに購入したC社の10-22mmズームレンズ(APS-Cサイズ専用で、35mmなら16-35mmに相当。我が倶楽部でも2人が使用しており、ぼくはAPS-Cサイズのカメラを持っていないが、彼らの写真を見る限り優れたレンズである)を如何に上手く使いこなすか、そのためのレクチュアをしてくれとのことだった。
 京都で合流する前にぼくは宿題を出しておいた。焦点距離10mm、16mm、22mmの3つを選び、絞り開放f値〜絞り切ったf値で、できれば1/3絞りずつ三脚とレリーズを使用してRawで撮ること。被写体との距離は取り敢えず数メートル、テクスチュアのある平面な壁を選ぶこと(サンプルが多ければ多いほどレンズの正体が正確に分かる)。ズームレンズゆえ、完璧を期すのであれば、テスト枚数はかなりのものになる。焦点距離・f値・被写体との距離などの組み合わせは膨大なものになるが、その数は熱意に比例する。
 撮影した画像のセンターと四隅をPhotoshopなどの画像ソフトを使用し、拡大率100~200%の範囲で確認する。センターと四隅の解像度ができるだけ均一なf値を探り出し、それを常用f値の基準(あくまで基準)と考えると、被写体の条件や撮影意図により、柔軟に使いこなせるようになる。
 前述したようにサンプルの数が多いほど的確に使いこなせるようになるだろう。ただし、結果を程よく記憶しておかなければならない。ぼくの経験則に照らし合わせると、これは記憶力云々より、撮影意欲の強固さと場数こそがものをいうのだとの確信がある。漫然と撮っていてはいつまで経ってもレンズを上手に使いこなせるものではない。

 写真はレンズの使い方だけではなく、その他諸々、手取り足取りの妙心寺レクチュアは厳粛に執り行われた。この続きは次号で。

http://www.amatias.com/bbs/30/457.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市右京区妙心寺。

★「01妙心寺仏殿」
東京ドーム約7〜8倍の広さを誇る妙心寺。境内には48の塔頭がある。そのうちのひとつ仏殿。奥が「雲龍図」のある法堂。焦点距離11mmの最短を使用して超広角の異次元パースを楽しむ。
絞りf13.0、1/40秒、ISO100、露出補正-1.67。

★「02妙心寺仏殿」
仏殿を正面より。
絞りf10.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。焦点距離24mmの最長を使用。

(文:亀山哲郎)

2019/07/26(金)
第456回: カメラの重さが・・・
 昨今、ぼくの身の周りでは老若男女に関わらず、体調に異変を来し通院や入院を余儀なくされたり、あるいは不幸にも病に打ち勝てず不帰の客となってしまった人たちが後を絶たない。
 人の死はいつも悲しく痛ましいが、それを癒し克服する方法がなかなか見つからないので、残された人々はその時に負った傷により生じた瘡蓋(かさぶた)が剥がれぬようびくびくしながらも、故人の思い出に浸りながら日常をまっとうしようと努める。ぼくもそうしてきたし、みなさんもきっと同じだろうと思う。

 実際のところ、人を失う悲しみや痛みは個人の差こそあれ、時とともに和らぎ、癒されていくものだが、寂しさだけは永遠に拭うことはできない。
 しかし妙なもので、瘡蓋の多い人、少ない人、範囲の広い人、狭い人などなど、人類はいつも不平等そのものであり、その因果関係はぼく如きに計り知ることはできず、確かなことはそれぞれに異相を呈するものだということだ。
 妙なものとはいうものの、それは当然のことながら故人との親和や愛情などに負うところが多いということくらいはぼくにでも分かる。寂しさがあまりに高じると「生は暗く、死もまた暗い」(G.マーラーの交響曲『大地の歌』にある歌詞)ということになりかねない。これまた永遠の涙である。
 これ以上のことは宗教的な分野に首を突っ込まなければならないので、不信心者のぼくには不適であるので触れない。

 体調の異変について、斯くいうぼくも医者通い( “美術館通い” ではない)がひとまず落着したばかりだ。医者の二股掛け(いわゆるセカンド・オピニオン)をし、双方から異口同音に確信を持って「異常なし!」と宣言されたてしまった。そんなことがあろうはずはない。
 この判定は明らかに医者に落ち度があるように思えてならない。ぼくの身体のなかで生じている何某かの損傷を彼らは見逃しているに違いないのだ。異常があるからこそ、今まで体験したことのないような飲酒時に於ける胸の圧迫感による苦しさや、時によっては歩行困難を来すことが起こり得るのではないか。もちろん呑み過ぎるわけではなく、定量の三分の一くらいでこの症状に悩まされる。酔いの症状とは明らかに異なる。第一、ぼくはもう何年も酔うまで呑むことはしない。

 面倒な検査を厭わず、異常を発見してもらい、然るべき手当がなされ、ぼくは今まで通り安心して酒を楽しみたい。そのために医者の梯子をし、心臓冠動脈CTも含めてさまざま込み入った診察とテストを受けたのだった。
 酒は別称「天の美禄(天からの素晴らしい授かりものという意)」というくらいだから、ぼくの執念も宜(むべ)なるかなである。
 ぼくの心臓が受ける難儀は飲酒時に限ってであって、それ以外は如何なる場合にも起こらない。原因を突き止められない複数の医者たちは「お酒を止めればいいですね」なんて、患者を虐待するような無慈悲で無責任なことをいとも平然と宣う。「いざという時のために、ニトロ錠剤を5錠出しておきましょう」と、医者は自らの職務を完全に放棄しているといっても良い。「落着した」と述べたがそれは誤りで、「一件落着」などまったくしていないのである。

 この3,4年私的な写真を撮りに行く時、体力が衰えるに従ってぼくの撮影機材は何故か重量がかさむようになった。重量が体力を押し潰すのは普段の不摂生が祟ってのことなのか、撮影が終盤に近づく頃は息も絶え絶えとなり、足を引きずり、「おれはここで野垂れ死にをするのか」とつぶやくことさえある。決してオーバーな表現ではなく、ぼくは人知れず、ところ構わずへたり込んでしまうことしばしば。
 これではいかんと自ら対策を練った結果が、みっともない「ウォーキング」と軟弱な「禁煙」だってんだから、最悪である。まことに無様・愚策の極みである。相当焼きが回って(焼きが回る。年を取るなどして体力や能力などが衰えること)しまったということだ。ぼくが最も蔑んでいる手段を執らざるを得ないことになってしまったのである。我ながら本当に情けなくも悲しい。
 無慈悲な医者たちに向かってぼくは、「毎日1時間前後のウォーキングと禁煙を始めて約10ヶ月経ちましたが、良いことなど微塵もありません。何ひとつありゃしない!」と恨み骨髄に徹しながらそううそぶく。今のところ彼らへの仇討ちはこれしか手段がない。
 しかしここだけの話、この3ヶ月、酒量は以前の半分以下に抑えているが、胸の圧迫感がなくなったのである。このことは口が裂けても原因を探れなかった無能な医者たちにはいわない。あくまで偉いのは医者ではなく、ぼく自身であるからだ。

 1週間ほど前にちょっと魔が差し、「重い一眼レフを止めてコンパクトで良いカメラを購入してみようか。最低でもAPS-Cサイズでなければ困るが、単焦点レンズ付きの軽く良いカメラが巷には散見できそうだし」と、ネットで調べてみた。魅力のあるカメラがいくつか見つかったが、ぼくはハッと我に返りネットを閉じた。
 サブカメラとして使用するのであれば話は別だが、商売人がAPS-Cサイズを主機種とし、フルサイズのカメラを遠ざけるようでは自らの生命を放棄するような気がした。そしてまた、それは写真の止め時であろうとも考えた。
 体力が衰えつつあるのは自然の理だが、精神的にはまだまだ意気軒昂そのものだ。まだまだ伸び代があると信じている。重いカメラやレンズを振り回せなくなったらぼくは写真屋から身を引き、気軽なカメラを携えて、昔歩いた道、つまりアマチュアの世界に戻ろうかと思案したりもしている。

http://www.amatias.com/bbs/30/456.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市上京区。

★「01京都市上京区」
上七軒でニシンうどんを食べ、腹ごしらえをして、東の方向にふらふら。京都特有の路地長屋があちらこちらに点在していた。子供の頃に遊んだ思い出が沸々と湧いてきた。
絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02京都市上京区」
その一角を行き来して見つけた趣のある家。まさに京都的だ。
絞りf11.0、1/60秒、ISO100、露出補正-3.00。
(文:亀山哲郎)

2019/07/19(金)
第455回:2年前の恩返し
 おおよそ2ヶ月ぶりに私的写真を撮る時間と心の余裕らしきものが持てた。写真が撮れることの嬉しさとともに、一方では毎日雨ばかりで気温も上がらず、今年はさすがに能天気なぼくも、農作業に従事する人々の生活や、野菜などの物価上昇について柄にもなく気になっていた。
 ぼくが世間並みにこんなことを気取りながら不用意に口外してしまうと、「へぇ〜、あ〜たがそんなことを考えるの? 嘘でしょ〜」という輩がボウフラのように何人も湧いて出てくることをよく知っている。
 確かに、キュウリ1本、キャベツ1個の相場さえ知らないような人間が、身の程知らずのことを我とは無しにいってしまうと、屁理屈ばかりいうボウフラの恰好の餌食ともなりかねず、そして返す言葉も見つからず、取り返しのつかないことになる。だからぼくはこのような、どちらかといえば主婦的な話題は、良き理解者にしか話さないことにしている。身を守るには然るべき作法というものがある。

 ちょうど2年前、茨城県の真壁町(桜川市)に撮影に行った時のこと。由緒ある旧家(国選定重要伝統的建造物)の住人であるおばあちゃんと娘さんをその軒下でかすめ撮ったことがあった。至近距離で一眼レフの大袈裟なシャッター音を響かせたのだから、彼女たちが気づかぬはずはない。ぼくは自らの作法に従い、笑顔をこしらえ、丁寧に挨拶を交わした後、彼女たちとしばらく世間話に興じた。人見知りの激しかった若い頃の自分には考えられぬ所作だ。
 その時に撮ったスナップ写真は結果的にぼくのイメージに添って程良く撮れており、いずれプリントをさしあげなければと思っていたのだが、よくよく考えてみたら住所も名前も分からないという不運に見舞われた。何が不運なものか! それをいうなら「テイタラク」とか「迂闊」というんじゃないのか! しかしプリント渡しの方策を失った今となっては、再度彼の地へ赴き、それらしき旧家を探し当て、彼女たちに直接手渡すしかない。

 何処であっただろうかとの記憶も、時とともに徐々に薄まりつつあり(特に最近はその気配が濃厚)、残影を呼び戻せるうちに足を運ばないとぼくの記憶は永遠に失われてしまう(ちょっとオーバーかな)のではとの危機感に襲われていた。
 「行けば分かるさ。何とかなる。何しろオレの記憶力と勘は並外れているのだから」などと高を括ってはいけないことを、ぼくはこの2,3年薄々感じ取るようになっていた。残念ながら、年に相応しく、用心深く振る舞おうとする賢い大人になりつつあった。それは写真屋にあるまじき愚かしきこと。なんという浅ましさだ。これこそ「テイタラク」とか「落ちぶれる」とか「落魄の身」といっていいのではないか。
 記憶を蘇らそうと、ぼくはグーグルのストリートビューという小癪なる文明の利器を使用し、パソコンのモニター上で同じ所を何度も巡り、そして行ったり来たりしながら、やっとその御利益に与った。確信はなかったが「おばあちゃんの家はどうやらここらしい」との当りをつけた。
 2年前、夕陽を浴びつつあるあの時のおばあちゃんの横顔がふわ〜っと蘇り、ねんごろにもてなしてくれた彼らに急に会いたくなってきた。同時に、ぼくは自分が果報者だとも思った。

 モニター上を駆け回っている間、外は激しい雨音がしていた。ぼくは咄嗟に、善は急げとばかり、「よし、明日おばあちゃんに会いに行くぞ。ついでに雨の真壁を撮ろう」と決意し、カー用品店にエンジンオイルを交換しに行こうと思った。急いでカー用品店の閉店時間を調べた。時刻は午後7時を少し回っていたが、閉店時間は8時だった。ワイパーを激しく振りながらぼくは近くのカー用品店に駆け込んだ。
 真壁町まで距離にして我が家から片道100km弱なのだから、ガソリンと異なり、オイル交換はその日でなくてはならない理由など何もないにも関わらず、何故かぼくは気が急いていた。おばあちゃんに会うに当たって不備があってはならないと考えてのことかも知れなかった。
 交換作業を待つ間中、ぼくは「何故、明日おばあちゃんに会いに行くのに、オイル交換をしなくてはならない気持になっているのだろうか?」をしきりと考えていた。考えあぐね、答えを見つけられずにいたところ、友人からメールが入っていた。
 「突然なんだけれど、明日上野の東京文化会館で催されるコンサートに行くつもりだったのだが、都合が悪くなってしまった。チケットもったいないので、ついては、かめさん行かないか?」とあった。
 ぼくはこのメールにひどく混乱を来し、「帰宅したらメールするから、ちょっと待っていて欲しい」と取り急ぎ返信した。「取り敢えず自分がチケットを確保しておかないと、他の人に持って行かれてしまう恐れがある。今まさに観賞の権利はオレにあるのだ」との、せこくて邪な考えが頭をかすめた。その場ですぐに返事ができるのに、ぼくは近来になく戸惑い、狼狽えてしまったのである。心の中で、無意味で壮絶な何かが争っていたように思う。強欲と嫉妬は人をダメにするね。
 「おばあちゃん + プリント渡し + 雨の中の真壁撮影 + オイル交換」 vs. 「友人の好意 + 久しぶりのフル・オーケストラによる演奏会」という血みどろの対決にぼくは悩まされた。この骨肉を争うような難題をどうさばくかにぼくは汲々としていた。真壁行きを1日ずらせば、難なく両方手にすることができるという簡単なことにぼくは理解が届かずに狼狽えていたのだった。両方一緒に体験したかったのだ。不可能を可能にする技を探していたともいえる。取り敢えずどちらかを我慢しなければならないことに我慢がならなかったのだ。

 オイル交換の翌日、ぼくは久しぶりのフル・オーケストラを聴きに雨の上野に赴き、心地よい思いをし、そしてその翌日、雨の真壁ではなかったけれど、おばあちゃんと心温まる再開を果たすことができた。やっぱり、ぼくは果報者のようだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/455.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市下京区、上京区。

★「01京都市下京区」
雷鳴が轟き始め、「傘に落ちたら嫌だなぁ」などとのんきなことをいいながら、余所の軒下を借りやり過ごす。春の嵐だった。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02京都市上京区」
京都五大花街のひとつ、上七軒(かみひちけん)は祇園や先斗町のような華やかさこそないが、京都最古のお茶屋街である。晴れ間がのぞき始め、撮影意欲が一気に下がってしまった。
絞りf13.0、1/160秒、ISO100、露出補正-2.00。

(文:亀山哲郎)

2019/07/12(金)
第454回:美術館通い
 最近は特に、美術館、音楽会、博物館など、いわゆる文化的、もしくは芸術的香りのする催しに疎遠になりつつあるのだが、ぼくはそれでいいと思っているし、自然なことでもあるとしている。
 年老いたことにより感受が鈍化したとか、興味が醒めたということではない。かつて美術館などで体験したものや見聞きしたものよりさらに新鮮で良質なるものに接したいと望むのだから、当然ながら選択肢が狭まり、機会も少なくなるというのはもっともな道理ではないか。ただ正直にいえば、「ものぐさ」(出不精とも)に託けることもしばしばあるけれど。

 そして、人生は図らずも最終的には、ほどよくプラスマイナス・ゼロとなるよう神様は上手いこと仕組んでいると思っているので、ぼくは若く多感な頃に一生分とはいわないが、多くのものを与えられ、その分得をしたのだと言い包(くる)めている。青年期から壮年期晩年に至るまで、寸暇を惜しんで足しげく通ったものだ。だから今、余生を思い、焦って美術館通いをしようとも思わない。
 ただ神様は万人に対し、プラマイ・ゼロとはいえ、時には粗相をしたり、味噌を付けたりするので、平等に様々なものを分け与えようとはしないものだから、人によっていろいろな差が生じてくる。そこに多少の一利一害があるが、それは神様による差別などではなく、当人の資質であろうと思う。不信心の極みのようなぼくがいうのだから、この説は怪しいものだが。

 老いによる「ものぐさ」と決め込むのはぼくに限ったことなのかどうか分からないのだが、その最たる理由をもし他に探すのであれば、ますます出不精の傾向が強くなったことだ。
 もともとの出不精がさらにそうなってしまった原因はいくつもあるのだが、そのひとつを挙げれば、雑踏というものが老いに従ってますます苦手となっていったことだ。特に雑音を浴びせられればぼくはたちまち精神を病み、1分ほどで頓死する。それほど、雑音には弱い。生まれつき免疫がなく、どうやっても耐性が育たないのだ。好きな音楽も聴こうとの意志を持たなければ、ただの雑音に過ぎず、うるさくて敵わない。
 特に近年、人気のある美術展は「静かに観賞」の環境どころではなく、ぼくには苦痛そのものだ。自然と足も遠のいてしまう。
 こんなことを書いているとまたもや肝心の議題に移れないので、このあたりでもう止め、同輩への憎まれ口を叩いておこう。

 ぼくは団塊世代のピークにあり、未だ小・中学校時代の友人知人との交流がある。男女に関係なく頻繁に会う人もいれば、ごくたまに会う人もいる。なにしろ人数が多いので普段交流がなくとも、街中でバッタリということもある。油断ならないのだ。
 男たちは定年退職し、暇を持て余し、他にすべきことがたくさんあるだろうに、選りに選って「これから美術館に行く」とか「美術館に行ってきた」などとこれ見よがしに、恥じらいもなくそうほざく。ぼくが “ほざく” などとあまり上品でない言葉を使ってしまったのは、よほど彼らの行状や料簡が気に染まぬからなのだろう。
 前回、「言葉の限りを尽くして痛罵された紫陽花」(読者よりのメール)同様に、ぼくは一度だけ美術館通いをする彼らに悪態をついておきたいのだ。大きなお世話であることも重々承知である。

 美術館であろうが博物館であろうが、どこへ行こうが個人の自由であるけれど、彼らは、そのようなところに出入りすること自体に意義を見出し、失笑を買うような優越感を誇っているように思え、あるいはまた、高尚なものに触れているのだと誇示しているようにも思え、善人でないぼくは意地の悪い目つきで「美術館って、よく行くの? なんで〜?」と皮肉を込めて相手をじっと覗き込む。時には錯覚だらけの彼らに感想を求めたりもする。

 彼らは、どうしても善人になり切れないぼくのシニカル(冷笑的)な態度にまったく動ずることなく、型通り「若い頃は忙しくて、行きたくても行けなかったからねぇ」と返してくる。本気でそう信じているから救い難い。いつも判で押したようにそんな返事の繰り返しだ。
 ぼくは心うち「ほら来た。嘘をつけ。10のうち9.9が嘘で、残りの0.1だけが真実だ」とつぶやく。「若い頃にはその気も関心もなかったのだが、余生を考えて『形だけでも美術に親しんだことがあるとの実績をつくり、自分を慰めておきたいのだ』」と正直にいえば、可愛げがあっていい。
 そしてまた、美術館という空間に我が身を置いて、自分は目下文化的生活に勤しみ、もしくは精神生活を送っているのだという一種の不健全で誤った安堵感に浸っているに違いないのである。それを他人が腐す資格などあろうはずもないのだが、同輩たちよ、それではあまりにも安普請に過ぎやしないかと、悪人のぼくはいつも彼らに聞こえないようにこっそりつぶやいている。その衝動をどうにも抑えきれないのだから、ぼくも始末が悪い。「オレも良い死に方はしないな」とほざいてみようか。
 歳を取ってから、やっつけ仕事のように足しげく美術館に通い出すのはみっともないから止めろといいたい。行くならこそっと、黙して行け。それがせめてもの美学ではないか。

http://www.amatias.com/bbs/30/454.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM。
京都市上京区。

★「01京都市下京区」
小雨のなか、傘を差しながら四条大宮近辺をふらついてみた。いつも行く珈琲屋のおねえちゃんに「四条大宮のあたりにも京都が残ってますよ」と。その言葉が、ぼくの頭にも残っていた。
絞りf10.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.00。

★「02京都市下京区」
ぼくの知る懐かしい京都の街並みだった。
絞りf11.0、1/125秒、ISO100、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)

2019/07/05(金)
第453回:紫陽花とカビ
 ジメジメ・ムシムシした鬱陶しい日々の到来となった。今年はカラ梅雨でなく、かなり本格的な、正しい雨期のようだ。そして同時に紫陽花(あじさい)の季節でもあるのだが、ぼくの住む地域では今日現在すでにその盛りも過ぎ、本来あるべき紫陽花の、色とりどりの美しさはすでに失われつつある。その咲きっぷりは彩度がどんどん低くなり、出来損ないの、決して美しいとは言い難い色あせたモノトーンに変容している。自然界のものでも、このように無様(絵にならない)な彩度低下を招くものなのだろうか? これを写真で表現することはとても難しい。ありのままに表現しても色が濁りすぎて絵にならないだろう。絵にするには多少のイメージ構築能力を必要とする。

 中途半端な、どこかしわがれたモノトーンはとても貧相で悲しい。それはまさに、詩的にいえば「哀れに朽ちる」ともいえようが、直裁にいえば「腐れ落ちる」との表現がぴったりだ。あの色は腐臭を放っている。
 しかもそれが集団で戯れるが如く、そしてまったく悪びれることもなく、醜状も露わに強固なる自己主張を、あろうことか多勢に無勢とばかり押し寄せてくるのだから、ぼくは思わず目を背けてしまう。あんな目障りなものはない。正視に耐えないのである。幼児語でいえばとにかく「バッチィ」。

 紫陽花は、枯れ行く美学や深遠なる無常観のようなものを示そうとしていない。そのような意志がどこにも窺えないのだ。ぼくはその都度「おまえたち、花ともあろうものが、何たることだ!」と、毒突いて見せる。
 花はいつ何時でも、神秘的で、エロスを感じさせなければいけないものなのだ。それが人間にとっての、第一の存在意義ではないか、と自儘を知りながらもいいたくなる。そのくらい、ぼくにとって「腐れ落ちる紫陽花」は堪え難いほど見すぼらしく醜悪な存在なのだ。

 あまりにも侘しく、堪え性がなく、無愛想で、悲痛を通り越して胸焼けさえ生じさせる。儚く去りゆくという美しさがないため、そこには宗教的・哲学的風情が欠如している。その代用として、文学的要素を多少なりとも主張しているようにも感じさせるので、ぼくには迷いが生じ、曰く言い難しというかなり中途半端な感情を抱かせることになる。ここのところが、ますます癪の種である。こんな植物はぼくの知る限り紫陽花しかない。「こんなところで、紫陽花を痛罵してどうする!」とぼくは今、一人ごちているのだが。

 ついでながら、もともとぼくは紫陽花の咲く環境そのものがどうにもいただけないのだ。花自体ではなく、彼らが生を営むその環境と雰囲気がぼくの性にはまったく合わない。どこかジメジメして妙に薄暗く、気味が悪い。湿気を好む苔のような「一念」(本来は「虚仮の一心」、もしくは「虚仮の一念」とも。こけのいっしん。愚かな者がただそのことだけに心を傾けて、やり遂げようとすること)というあっぱれな様子も感じられない。紫陽花は曖昧に咲く場所を何となく探し当てただけで、計画性というものがなく、ご都合主義的であり、しかも乱雑である。

 そしてまた、もしあのなかに手を突っ込んだりしようものなら、得体の知れない何かに手をかじられ、傷つけられるような気がするのはぼくだけだろうか? 凶暴で指を噛み切ってしまう紫陽花にしか棲息しない巨大化したカタツムリのようなものが潜んでいるに違いなく、遠慮なく攻撃してくる。あるいはムカデとか体長50cm以上もある毒トカゲのような警戒すべき紫陽花専用の有毒新生物が、機を伺いながら這いずり回っているに違いないのだ。
 湿気に蒸されたあの疑似熱帯雨林のなかは、窺い知ることのできない異様な世界が存在しており、ぼくはいつもあの不気味な光景を見ると言葉を失い、恐怖によりすっかり塞ぎ込んでしまう。生きた心地がしないのは、そのような気味の悪さとともに、すっかり精気を失った紫陽花と自分の姿をダブらせているからだろうかとも思うことがある。もちろん、必死で否定するのだが。

 紫陽花についてぼくが何時の頃から上記したようなイメージを描くようになったかはよく自覚している。王子さくら新道(2012年1月早朝、終戦直後にできた長屋風木造居酒屋が火事で焼失した。東京都北区JR王子駅近辺)向前、陽のほとんど当たらぬ薄暗い飛鳥山斜面にたくさんの紫陽花が咲いていた。ぼくは昭和の名残のようなさくら新道によく撮影に出かけたものだが、そこに盛大に咲く紫陽花は陰気というか陰惨というか、ジメジメの代表格のような印象をぼくに植え付けた。それ以来、ぼくは紫陽花とは良い仲にはなれず、いつもいがみ合ようになってしまった。きっとお互いに補い合うようなものが発見できなかったからだと思う。
 
 今まで、自己の既成概念を打ち破ろうと何度か度胸試しに腕を突っ込んでみようと思い立ったのだが、こんにちまでどうしてもその勇気が持てないでいる。一度でいいから誰かぼくの目の前でそんな蛮勇を振るってみてはくれないものだろうか。
 こうなるともう如何にひまわりが、健康優良児であり、ぼくにとって好ましい植物(花)であるかが判然としてくる。ひまわりは、はたまた陽性で屈託がなく、コップに注がれた水の表面張力のような堪え性 !? を感じさせ、カラカラに干からびたその姿さえも、有名な「釈迦苦行像(断食するシッダールタ。2~3世紀。ラホール博物館蔵。パキスタン)」を連想させるものがある。つまりぼくには、ひまわりは永遠の生命を感じさせる何かがあるように思えてならない。

 ところが生憎なことに、何故かひまわりより紫陽花に思わずレンズを向けてしまう自分がいるから嫌になる(最新の紫陽花写真は、第421回に掲載。100点満点でいえばどうにか62点)。かつてひまわりばかり撮っていた時期もあるが(40年ほど前)、忌々しくもひょっとして、今までに最も多く撮影した花は紫陽花かも知れない。文句をいいながらも、何か惹かれるものがあるのだろうと思う。しかし、まだその正体がぼく如きには見通せないでいる。

 紫陽花の季節になるとぼくは毎年我が倶楽部の面々に「レンズにカビを繁殖させないように気をつけること」と通達するのだが、今年はもうしない。ここに、義理立てするかのように写真についての体裁を整えておこう。「この季節、カビにお気を付けください」と。
 今回こそ、同輩たちの如何わしい美術館通いに悪態をつこうと思ったのだが、また話がずれてしまった。紫陽花のことを「計画性がない」なんていってられないわ。

http://www.amatias.com/bbs/30/453.html

カメラ:Fuji FinePix X100。固定単焦点レンズ35mm(35mm換算)。
埼玉県さいたま市。

★「01さいたま市」
重いカメラを持ち歩かず、ウォーキングの途中で。
絞りf8.0、1/1900秒、ISO400、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
ファインダーを覗き込むこともなく、歩きながらシャッターを切る。たまにはお気楽写真もよし。
絞りf8.0、1/950秒、ISO400、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/28(金)
第452回:ぐじぐじ、うだうだ
 「この連載は、商工会議所さんのホームページではどのような位置づけになっているの? コラム? ブログじゃないしね」という話を担当氏と交わした。交わしたというより、ぼくが一方的に電話で質問した。
 連載を始めたのが2010年5月なので、もう丸々9年も経っている。9年間毎週のことながら約450回以上もぼくはこの連載の位置づけを確認することもなく、また知ろうともせず延々と続けてきた。なんといい加減な人間であることか!
 9年前、担当氏から如何なる打ち合わせもなく、「亀山哲郎の写真よもやま話」というこそばゆい命名の執筆依頼を受けた。ぼくにしてみればそれは等身大以上のものであったけれど、片腹痛い思いをしながらも分際などまったく意に介すことなく書き綴ってきた。この連載は、ぼくの面の皮を厚くし、身の程知らずの何たるかを露呈し、自らを見上げた胆力 !? の持ち主に変身させた。この9年間にぼくは、身繕いを正すことなく、知らぬ間に、都合良くちゃっかり模様替えをしていたのだった。恥を曝せる者は上等な人間の部類に入るのだとの信念をぼくはここでも貫いている。

 何故このような事態に陥ってしまったか、当初こそ拝命に従い「写真」的な内容を極力盛り込もうと努力したつもり(と一応いっておかなければならない)だったが、いつの間にか、ぼくは一人歩きをしながら、随分と変容を遂げていったように思う。この部分、まるで他人事のような言い草である。
 写真の何かを伝えようとの思いと同等に、あるいはそれ以上に、ぼくは自己顕示欲の権化と化しながら、これ幸いとばかり普段からの鬱憤晴らしをここでしているようにも感じている。「こんなことでワタクシはいいのであろうか?」との疑問がふつふつと湧き上がり、無軌道な自分に不安も相まって担当氏に恐る恐る問い合わせたという次第。これでも少しは良心の呵責を感じていたのだ。

 ことのついでにぼくはこんなことも彼にいってのけた。「通常、人が読みやすい、もしくは読む意欲を失わない文字数は1200前後と聞く」と。ぼくは、そんな人間工学的な知識をすでにしっかりと心得ているのだとのポーズを取って見せ、しかしながら敢えてそれをしないのだと訴えたかったようだ。
 それを知りながらも、1200文字で拙文を収めようなどというかしこまった気持はさらさらなく、まずは主張したいことを粘っこくも執拗に記すとの気持が先に立っている。「だから私は嫌われる」といいつつ、それができないのは、1200文字で書きたいことを書けるほど、ぼくは文章を捌(さば)くことに長けてはいないということだ。

 拙連載がホームページに於いてどのような位置づけであるのかの質問に、担当氏は間髪を入れず「 “連載エッセイ” という扱いです」と即答された。ぼくはその返答に少しばかり胸を撫で下ろした。隠さずにいえば、我が意を得たりという面もあった。
 拙文を「エッセイ」などと気取る気持は毛頭ないのだが(第一、ぼくは物書きではないし)、実のところ半分くらいは電話をして良かったと思った。何故かというと、「写真にこだわった “窮屈な話はさておき” 」という大義名分を得られたような気がしたからだった。

 写真の技術やそれに関連する事柄についての詳述は、その量にも限りというものがあるし、多くの書物やネットで見聞きできる性質のものだ。ぼくがここで改めて、技術や理論を開示しなければならないという問題でもなさそうだ。それより、写真についての考え方や意見に関しての自己主張には際限がない。作品は、時代とともに変化していくものだし、そうあるべきだというぼくの考えにも、そのほうが都合が良い。ぼくも、写真も、常に生き物なのだ。
 物づくりについての信念らしきものを読者諸兄にお伝えするという大技を義務づけられているとするのであれば、写真ばかりでなく、美についての考察に改めて、あるいは際限なく目を向ける必要があるのだと考えている。もしぼくに何かの資格もどきのようなものがあるとすれば、それは「身もすくむような現場でたたき上げた場数の多さ」だけなのだが、それが拙文を著す唯一の拠り所ともなっている。

 担当氏との会話は、ここから一歩進めて残りの半分について確認する必要があったのだが、ぼくは途端に気弱になり「エッセイはいいんだけれど、それはあくまで “写真” に関しての、という意味?」との確認をやり過ごしてしまった。その勇気がどうしても持てなかった。
 しっかり聞くべきところをうやむやにしたまま、ぼくは墓穴を掘ってしまうであろうことを鋭く察知し、保身に走った。担当氏から「もう少し写真を撮るに際しての、具体的なお役立ち情報を記してください」との指摘を恐れたので、ぼくは気勢を制するつもりで、「枕ばかりで終わってしまうこともあるけれど、写真を掲載するのだから、それも大いにありということだよね」と豪気にも言い放ち、若い担当氏をひとまず押し切ることに成功した。

 余談だが、「座右の銘は何?」との質問にぼくはいつも「モンテーニュ(ミッシェル・ド。フランスの哲学者、モラリスト。1533-1592年)の『随想録』(もしくは仏語で 『エセー』とも)」と答えてきた。『随想録』は、ぼくが青年期から現在に至るまでどっぷり浸ることのできる書物の最右翼である。心酔してきたといっても過言ではない。なので「エッセイ」などといわれると、ぼくはハッとし、思わず身を糺してしまうのだ。

 今回は、我が同輩たちの奇妙で如何わしい美術館通いについて、悪たれ口を精一杯叩くつもりでいたのに、どこでこんな話になってしまったのだろうか?

http://www.amatias.com/bbs/30/452.html

カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM 。
茨城県結城市。

★「01結城市」
ガラスに映った自分の姿をどこに配すかばかりを考えていたもんだから、一体この店は何だったのかがさっぱり分からない。
絞りf6.3、1/25秒、ISO100、露出補正-1.33。

★「02結城市」
夕刻、雨の降り出しそうな模様だった。この日最後のカット。イマイチ、イメージが固定できないままシャッターを切ってしまった。帰心矢の如し。
絞りf9.0、1/80秒、ISO100、露出補正-1.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/21(金)
第451回:データ保存の悩ましさ(補足)
 前回に引き続き、データ保存について書き残したことを未練がましくも補足(「続」ではない)としてお伝えしておこうと思う。とはいえ、このことは大上段に振りかぶって論じようとすれば、かなり専門的な知識が必要であることは明白なのだが、みなさんにしろぼくにしろ、まずは大半が写真の愛好家であり、記録メディアの専門家ではないであろうと思う。したがって、それぞれの編み出したメソードに添って、「保存」という悩ましくも厄介な課題を適宜扱っておられるのだろうと推察している。

 どの様な分野であれ、専門家と名の付く人は何故か「・・・でなければならぬ」とか「・・・であるべきだ」との断定的かつ窮屈な言辞を、素人に対してこれ見よがしに、鼻を膨らませながら弄したがる傾向にある。あなたの身の周りにもそのような人がたくさんいるのでは?
 では、プロの写真屋は果たして写真の専門家なのかというと、ぼくにはどうも判然としないものがある。第一、写真屋には当然のことながら国家試験もなく、資格審査のようなものもない。あるのは、理不尽極まりない徒弟制度に耐え忍んできたという無形文化財のような実績と矜恃だけである。
 「プロフェッショナル」という英単語を分厚い英英辞典で引いても、正しい定義がぼくにはよく分からないでいる。感覚的には「熟練者」とか「生業としている」との意味合いが強く感じられるので、ぼくはそのような解釈が妥当なのではないかと考えている。「専門家」は、「スペシャリスト」とか「エクスパート」との語彙がぼくにはしっくりくる。

 写真をはじめ、文学や絵画などなどは、厳格な数理・数式で成り立っているものではないし(成り立ちや約束事としての方程式はあるように思う)、スポーツのように点数で評価されたり、争われるものでもなく、人々の審美眼や慧眼に依拠したもので、それはあたかも浮き草の如し、とぼくは思っている。プロの写真屋とは、なんと儚くも心細いことか!
 専門家についてはさておき、世の中の多くの事柄が彼らによって形づくられていることに異論を挟む余地はないのだが、専門家というものはどうもその思考や流儀を門外漢にも押し付けがましく振る舞いたがる悪癖を有す。加え寛容さが不足している。「えっ、そんなことも知らないの?」という無神経で不届きな科白を平然と吐くあの蛮勇と不粋。そして、「親切」が「ありがた迷惑」に取って代わるということにも気がつかないでいる。得々とやるのだから、こちらはたまったものではない。これを称してぼくは「変態性エゴ」というのだが、興味のないことを強いられることほど鬱陶しいものはない。ことほど左様に、「融通」とか「切り盛りをする」という言葉に縁遠い人たちがたくさん現出することになる。
 その四角四面さをもって快刀乱麻を断つことができると大いなる勘違いしているのだから、敵わない。きっとそのような作法に辟易とした経験が誰しもあるでしょう?
 しかし、それが専門家たるものの自然の理であることを認めるにぼくはやぶさかではないのだが、ぼくらはまずそのような窮屈さから逃れて、一般的な約束事や、それにまつわる最大公約数的な原理原則を守ればそれで良いのではないかと考えている。それが至当というものだとも思う。

 毎度のことながら本題に入れず枕ばかり書き連ねているが、貴重な写真データをどのように管理・保存するかについて、多くの愛好家と接しても、喧々囂々(けんけんごうごう。大勢がやかましく騒ぎ立てること)となった経験がぼくにはあまりない。むしろ銀塩時代(フィルム時代)の好事家のほうが、フィルムや印画紙の保存に、より強い関心を示したように思えてならない。ぼくもその一派だった。昨今、デジタルのほうがデータを失いやすいにも関わらず、無頓着な人が多いように感じている。
 我が倶楽部に於いても、この話題に関して談論風発(談話や議論が活発に行われること)となったためしがない。とても大切な事柄であるのにほとんど話題にならない。データを飛ばしてしまい泣いた人、大枚を叩いて専門家に復元依頼をした人もいるが、それでもやはりどこか他人事(ひとごと)であるようだ。「明日は我が身」とか「人の振り見て我が振り直せ」との格言を軽んじているように思えてならない。
 データの損失は「自己責任」(好きな言葉ではないが)の範疇を出ることがなく、けれど専門家の手を経て復元できれば儲けものだ。常に復元可能とは限らないのだから、慎重の上にも慎重を期す “べき” であろう。「あとの祭り」ほど苦く、虚しいものはない。

 常識的な保存状態下では、10年に1度ほどデータをCD、DVD、BD(ブルーレイ・ディスク)などの記録メディアに焼き直すことをお勧めする。その時に、焼き直した日時を記しておけば、いろいろな意味で安心感を得られる。化学変化が恐いので、油性マジックペンでディスクに直接書き込むことはせず、ケースの外側に記しておけばなお安心。
 それに加え、メーカーは由緒ある国産品をお勧めする。ぼくは国粋主義者などではないけれど、この方面での「メイド・イン・ジャパン」は未だ健全であり、他の追随を許さぬものがある。
 そしてデータの記録面には、如何なるものも触れることは厳禁である。もし、誤って指紋などを付けてしまった場合は、できるだけ速やかに専用クリーナーで拭き取っておくこと。指の脂や汗が後々悪さをすることは想像に難くない。汚れたからといって、水やウォッカでごしごしやってはいけない。
 また、ディスクプレーヤーやレコーダーも使用頻度により一概には言い難いが、読み込みエラーを避けるためにレンズクリーニングを時折することもお忘れなく。
 以上思いつくままに、記録メディアの専門家でないぼくが常識的なことを再確認のためにお伝えしたけれど(第215回にも「データの保存」について述べているのでそちらも併せてお読みいただければと思う)、梅雨の今、レンズのカビ防止は要領を得ているが、さて上記の記録メディアに於けるカビの発生には幸か不幸か気づかずにいる。ここが専門家でない悲しさだ。

http://www.amatias.com/bbs/30/451.html

カメラ:カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF35mm F1.4L USM。Fuji FinePix X100。
さいたま市桜区。
同じ場所を2年の歳月を経て、定点観測的に撮ったもの。現在は立派な道路になってしまった。

★「01さいたま市」
2009年2月撮影。夕暮れ、満月に近い月とともに。 
絞りf8.0、1/80秒、ISO200、露出補正-0.33。

★「02さいたま市」
2011年6月撮影。工事中の道路。Fujiの固定焦点(35mm。35mm換算)カメラで。
絞りf8.0、1/480秒、ISO200、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2019/06/14(金)
第450回:データ保存の悩ましさ
 拙稿を毎週律儀に読んでくれていると覚しき世話好きの友人が、久しぶりに電話をくれた。近況を報告し合いながら、ぼくをからかうようにこんなことをいう。
 「なぁ、かめさん。前号の題目に “最終回” とわざわざ書いてあったね。それがなんだかとても可笑しかった。笑ったよ。その次はきっと言い訳をしながら “最終回その2” なんてことをするんだろう? そしてその次は “最終回その3” とくる。そういうことをかめさんはしばしばする。なにしろお前さんはその手の前科持ちだしねぇ。いつだったか、 “これがホントの最終回” なんてのもあったな。あれは確か昨年の京都シリーズだ」と愉快そうに電話口で笑っていた。よくもまぁ、そんなつまらぬことを覚えているものだ。ホントに大きなお世話だよ。
 ぼくの未練がましさに託(かこつ)けて、わざわざ秋田県から長距離電話をしてくるのは何か事情があってのことに違いないのだが、あの口調や気配からして、せいぜい夫婦喧嘩くらいのことだろうと思っている。世話焼きも時にはいい迷惑だ。
 ぼくだって、世を忍び、人目を気にしながらこのような見苦しいしいことを人知れずこっそり(?)しているわけで、こう見えてもかなり気恥ずかしい思いをしているのだ。 “決まりが悪い” というのはこういう時に使う語句なのだろう。ぼくとて、人並みに “恥らい” というものを知っているつもりだ。

 「実をいうとね、前号は本文を書く前に、意識的にというか、用意周到というか、抜け目なく “最終回” と記しておいたんだよ。『今回で最終』としっかり自分に言い聞かせ、あらかじめ逃げ場を封じておかないとずるずるいつまでも書き続けてしまうことは、本人が一番よく知っているからね」と、ぼくは一応同意する振りを彼にして見せた。精米業を営む彼には美味い米を定期的にもらうための深謀遠慮なる事情があったからだ。
 だが白状すれば、未練を断ち切るために敢えて「最終回」と書いたというのは、真っ赤な嘘だ。ただ単に、事実は写真(五条楽園)の現像・補整が今週中には手を付けられず、間に合わないというだけのこと。正直に告白しているのだから、ぼくを指して嘘つき呼ばわりしてはいけない。正直さは人格を何倍にも向上させ、そして何ものにも勝る宝だとぼくは信じている。

 それにしても、帰郷以来、あまりにいろいろなことが降って湧いたように起こったものだから、本業を脇に置き、雑事にかまけざるを得ない状況に置かれ、目下なかなか補整のための時間が取れないでいる。自由に身動きができないのだ。
 とはいえ、月に2〜3度は日帰りで私的写真を撮りに近県を巡り、写真屋の所業として気が咎めぬ程度に励行し、取り繕ってはいるものの、当然のことながら、そちらにも手を入れる時間がない。原稿はなんぼでも(いくらでも)書けるが、写真の補整は時間がかかるのでとても同じペースというわけにはいかず、そこがとても悩ましい。
 理想をいえば、拙稿は可能な限り本文と写真の同時進行と心得るのが好ましいのだが、人生思うようにはいかないものだ。
 
 「困ったなぁ」と思いながら、この1週間近くぼくはある目的のため(友人の脅迫に屈して)、保存してある自分の撮った写真を分野毎に選び出すという面倒な作業を余儀なくされていた。
 写真データの保存や管理は誰もが頭を痛める難しくも厄介な問題なのだが、このことはそれぞれが工夫を凝らさなければならない大切な事柄でもある。どのような方法がベストなのかは個々人によって異なるであろうから、一概にはいえないが、「データの消失を未然に防ぐこと」が重要との考えに異存はないと思う。
 ぼくの方法は、撮影日と場所を記したフォルダを作り、そこにその日撮ったRawデータ(ぼくはRawデータでしか撮らない)と補整し終わったPSD(Photoshop形式)用のフォルダを作り、レイヤーを付けたまま保存しておく。レイヤーをつけておけば、いつでもやり直しが利くからだ。ただし容量は重くなるが、利点が大きいので、ぼくはデータの保存には好んで可逆圧縮のPSDやTIFを採用している。容量が問題となる人は、最も圧縮比を低くしたJpeg(非可逆圧縮)の採用がよいだろう。ただJpegは保存を繰り返す毎に画像が劣化していくので留意すること。
 
 フォルダがいくつかまとまれば、それをブルーレイディスクに保存する。数年前まではDVDに保存していたが、現在はブルーレイディスクを採用している。利点は容量が大きい(25GB、50GB)ことと、耐久性に優れている(といわれている)ので、この数年はもっぱらブルーレイディスクだ。
 それと併せて、外付けハードディスクを2つ用意し、そちらにも保存している。つまりぼくは3重の保険を掛けているということになる。2重にも3重にも保険を掛けるのは、撮影と同様である。
 しかしこれとて、ディスクに書き込まれたデータがいつまで生き長らえるか誰にも分からず、経年変化(データ自体ではなく、光学ディスクの物理的劣化という意味)による消失は免れようのないものだ。いつかは消えてしまう運命にある。ディスクの保存状態の良し悪しにもよるだろうが、今2000年に焼いたCDを再生してみたが、何の問題もなくPhotoshopで見ることができた。
 ディスクの寿命は10~100年(なんと曖昧な!)といわれるが、この件に関してぼくは「知らない」と答えるのが正直であり、正しくもあると考えている。もしかすると1〜90年かも知れない。けれど心配性な方、未練がましい方は、10年に1度くらいは書き換えたほうが無難だろうと思う。もちろん常識的な保存状態下でのことだ。直射日光が当たっていたり、高温多湿下は論外。
 さて、この話題に関しては書き足りないことがまだまだある。次回は「続」ではなく、「補足」程度にお話ししたいと思っている。

http://www.amatias.com/bbs/30/450.html

カメラ:RICOH GR DIGITAL 2。固定単焦点レンズ。焦点距離5.9mm(35mm換算で28mm)。
千葉県勝浦市。
9歳の時、余命1年足らずと宣告された母は勝浦の病院に1年間ほど入院していた。ぼくは毎週父に連れられて見舞いに行っていた。勝浦の思い出は以前拙稿にて少しだけ述べたことがあるが、今回の掲載写真は、8年ほど前にコンデジを携えてふらっと訪れた時のもの。

★「01勝浦市」
釣り人2人。1人は釣れないのだろうか。椅子の下で不貞寝をしていた。
絞りf5.6、1/2010秒、ISO80、露出補正-0.33。

★「02勝浦市」
62年前にはここにコンクリートで囲ったプール、もしくは生け簀らしきものがあった。今はその名残さえすっかり消え失せ、代わりに若い男女が。
絞りf9.0、1/1700秒、ISO80、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2019/06/07(金)
第449回:京都の遊郭跡を訪ねる(11)最終回
 このテーマは10回までにしようと意を強めていたのだが、なんだか知らぬうちに、区切りの良い10回をオーバーしてしまった。随所に言い訳めいたものを散りばめながらも、今少しだけ気が咎めている。

 橋本遊郭と五条楽園に滞在した時間は、移動を除けばたかだか4時間強に過ぎない。第445回(7)にも記したことだが(連載ものなので重複は致し方ないものとお許し願いたい)、「恐れながら厚かましく、また太々しくもある・・・、この度胸と心胆に、我ながら開いた口が塞がらない」と精一杯の自嘲を示しながら、それでもやはりぼくは懲りないどころか、「継続は “力” なり」とか「塵も積もれば “山” となる」などとうそぶき、10回以下に止める気配をまったく見せなかった。野放し状態とでもいうべきだった。ぼくの心意気と心胆は、まるで野火のように方向性を失い、勝手気ままに、そして止めどなく広がっていった。こんな反省文など綴っているとどんどんやぶ蛇になるにも関わらずである。

 しかしよく考えてみると、ぼくに「力」も必要なければ、ましてやこんなことを「山」にしてどうする! との気持が強い。「力も山も」欲しくはなく一切不要なのだが、厚かましさによる開いた口はいつまで経っても抑止が効かない。これをして、 “減らず口を叩く” というようだ。でも悲しいかな、それは事実に違いない。ここにぼくの生まれながらにしての、やむを得ない複雑怪奇な事情による執拗一徹さと自己顕示欲が滲み出ている。
 口の悪い友人は、「滲み出ているのではなく、噴き出しているとかみなぎっているというほうが適切だ。それをかめさんは自覚しなければいけない」と茶々を入れてくる。大きなお世話だ。
 だが、このような性癖の主に、世間は「執着の人」とか「妄執の輩」との濡れ衣を、冤罪とも気づかずに着せるらしい。ついでに口やかましい人物だと決めつけてくる。「ついでに」決めるな!
 だが生憎、ぼくは『小言幸兵衛』(こごとこうべえ。世話好きだが口やかましい麻布古川の家主、田中幸兵衛を題材とした落語噺。転じて、口やかましい人を指す)タイプの人間ではない。
 
 そしてもうひとつは、精根尽き果てながら4時間強の自己的強制労働に赴いたその “宛てがい扶持” として、しっかり帳尻を合わせようとの姑息な考えに囚われているのかとも考えたのだが、否それはない。断固としてない。
 「純粋な創作活動というものは常に間尺が合わなくて当たり前。むしろそうあるべきだ」というのがぼくの昔からの変わらぬ信条でもある。私的写真撮影のための労働力を換金しようと企てることは、プロであるからこそ本末転倒であり、「天に唾す」ことにもなるとぼくは考えている。
 しかし、他人の純粋な好意や善意により「余儀なくお金になってしまう」場合が時折あり、それは別口だと、ぼくはちゃっかり澄ますことにしている。どこかに逃げ口上を見つけておかなくっちゃね。頑ななだけでは、無理が祟るから。
 何事も、自らの主義主張を一応の建て前にするのは、年相応のものがあるはずで、それはまた誰からも陰口の叩かれない優れた方便として取り上げてもいいのではないかと思う。この歳になって(ならなくてもだが)、後ろ指を指されるようなことは厳に警戒を要す。

 五条楽園については今も忘れられぬ思い出がまだある。ここの一角に仮住まいをしていた親戚に遊びに行った時のこと。叔母の学校の後輩で、家族ぐるみのつき合いをしていたSさん(当時20代の女性)に映画を観につれて行ってもらったことがあった。
 映画の題名は『フランケンシュタイン』(1931年アメリカ)で、街に貼られたカラーのポスター(映画はモノクロだった)を少年は矯めつ眇めつ(ためつすがめつ。あるものをいろいろな角度からよく見るようす)好奇心に満ちた目で眺めたものだ。そのイラストはおどろおどろしく、少年の感受をひどくくすぐるようなものだった。そこに描かれたフランケンシュタインの凄味ある顔に、好奇心と冒険心旺盛なぼくはぜひご対面を果たしたいと思ったものだ。
 Sさんが来宅し、ぼくを呼び寄せ「てっちゃんはどこに連れて欲しい?」と訊ねた。ぼくは即座に『フランケンシュタインが観たい』と甘えた。彼女は、ぼくのリクエストに快く応じてくれ、河原町四条にあった映画館に連れて行ってくれたのだ。
 ぼくがいつもねぐらにしていた場所は、祖父母や長兄夫婦の住む上京区の寺町今出川にあったが、親戚の家はそこから下る(京都では南へ行くことを “下る” という。表記は “下ル” )こと約4.5kmの所にあった。

 フランケンシュタインとの逢瀬に胸を膨らませ、ぼくは上映を待った。やがて映画が始まり、登場した人造人間であるフランケンシュタインの顔にぼくは飛び上がるほどの衝撃を受け、恐怖に戦いた。初めのうちは顔を手で覆い、指の隙間から覗き見をしていたが、次第に指の隙間では間に合わなくなり、ぼくはとうとう隣席のSさんの膝に顔を伏せてしまった。終演まで、ぼくは身じろぎもせず恐怖と闘いながら、Sさんにしがみついていた。迷惑なガキだ。
 その晩は恐くて眠れず、面倒見の良い優しい叔父が夜遅く寺町今出川までぼくをわざわざ送り届けてくれたものだ。叔父は親戚のなかでもお洒落で通っており、殊更靴にはご執心だった。翌日、叔父は何を思ったのか「てつろう、靴を買ってやろう」と、やはり河原町四条にあった靴屋に連れて行ってくれた。
 真っ白な革靴を買ってもらい、ぼくはご満悦で、昨夜の恐怖はもう忘れ去っていた。

 あれから約30年の月日が経ち、ぼくは『ミツバチのささやき』(ヴィクトル・エリセ監督。スペイン)をこんにちまでしばしば好んで観るようになった。この名画は、ぼくが京都で観たあの『フランケンシュタイン』が物語のベースとなっている。6歳の主人公、少女アナは町にやって来た移動映画の『フランケンシュタイン』を観るのだが、どこかの情けない10歳の男子よりずっと気丈だった。ぼくは30年後に顔を赤らめた。

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カメラ:EOS-1DsIII。レンズ: EF11-24mm F4L USM、EF24-105mm F4L USM 。
京都市下京区。五条楽園。

★「01五条楽園」
高瀬川沿いに建つ格式あるお茶屋の大店「三友楼」。立派な唐破風を備え、正面玄関の看板には「本家 三友」とある。夕陽を浴びながら、人気がなくひっそりと静まり返っていた。
絞りf11.0、1/30秒、ISO100、露出補正-2.33。

★「02五条楽園」
お茶屋が転業して旅館となっている。外国人に大層人気があるのだそう。夕闇迫るなか、この日最後のカット。
絞りf9.0、1/20秒、ISO200、露出補正-2.33。

(文:亀山哲郎)