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2001/08/07(火) |
じゃがいも | ||||||||
日本が中国産椎茸の輸入制限を行って物議を醸したのは記憶に新しいところですが、国産の椎茸であっても風味に欠ける場合があることは、昨日私がこの欄でつぶやいたとおりです。同じことは椎茸に限らず、野菜など様々な食品で起きています。ちょっと見た目は変わらないのに、いざ口にしてみると、まるで違う食べ物だったりして驚くことがあります。いつぞや私が買ってきたレタスは、レタスの色が付いているだけで、まるでプラスチックでもかじっているような気分になったものです。スーパーで買ったときは国産品であると表記されていたのですが、本当にそうだったのか疑問に思われてきます。最近は食品の表記に厳しくなっていますから、国産品に間違いないのでしょうけど。でも、そうならそうで、国産品がおいしいという図式は成立しないことを表していますね。
であれば、この際、いろいろなものを積極的に輸入してみるのも手だ、と私は考えています。私がまず食べたい、料理したいと思っているのは、ドイツのじゃがいもです。私は子供の頃、「ドイツは貧しいからじゃがいもみたいな貧弱な食い物しかないんだよ」と教えられたことがあるのですが、少なくとも1年間ドイツで暮らした私はいかにドイツのじゃがいもがおいしいかよく分かります。じゃがいもといっても、土地も水も違うのですから、同じじゃがいもであるわけはなく、主食としても立派に通用するほどしっかりとした食感があります。痛めてもゆでても、どのように料理してもおいしいです。帰国後、あの味を求めて同じように料理してみたこともあるのですが、とてもかないません。「あれはじゃがいもという名前の別の食べ物である」と思って私は諦めています。でももう一度食べてみたいなあ。 しかし、多分日本でドイツのじゃがいもを手に入れることはできないでしょうね。大量のおいしいじゃがいもがドイツから輸入されたら、またセーフガードがかかって、輸入制限が行われるであろうことは火を見るより明らかだからです。事実上別の食べ物なのに。食糧問題は難しいですね。
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(文:忍者の弟子) |
2001/08/06(月) |
おいしい椎茸はどこに? | ||||||||
このところ、おいしい椎茸が手に入らなくなってきました。我が家では椎茸を買ってきますと、網焼きにしていただきます。ちゃんとした椎茸でしたら、最初から香りが十分で、少し焼いただけで立派なつまみになります。私のような飲み助の場合、それだけでお酒を飲めます。が、困ったことに、香りが全くない椎茸に遭遇することが最近少なくありません。「きっと中国産の椎茸だから香りがないに違いない」と判断した私は、国産品を選んで買うようにしたのですが、それでもなお香りがありません(T.T)。
香りがない椎茸というのはとても悲しいです。おみおつけの中に入れればそれなりの食感があるのかもしれませんが、焼いた場合は最悪です。何を食べているのか自分でも分からないのです。味気ないとはこのことを言うのではないか、と私は思います。 食料品が国産であろうとなかろうと、おいしければ私は気にしません。イメージとしては国産品の方が日本人の好みに合っていると私は思っていたのですが、ついにそうでもなくなってきたのでしょうか? たかが椎茸です。でも、同じことが他の食品でもあり得そうですね。昔ながらの日本的な食感が失われてしまいそうです。最後に残る食品はやはりハンバーガーみたいなものかもしれませんね。
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(文:忍者の弟子) |
2001/08/03(金) |
ホタル その2 | ||||||||
8月1日の当欄で「全国的にきれいな水がないため、ホタルはいなくなってきた」という趣旨の文章を書いたのですが、周囲から「そんなことはありませんよ」と思わぬ反論に出くわしました。よくよく聞いてみると、昆虫のホタルではなく、ベランダに現れる「ホタル族」のことらしいです。そういえば自宅のベランダには、家族から追われるようにしてこっそりたばこを吸うお父さんの姿が見られるわけですね。なるほど。
ここ10年間ほどで喫煙者の立場はどんどん弱まっています。家庭内でも女房族の権限は強大化する一方で、たばこを吸う亭主族は肩身が狭くなり、勢い、「ホタル族」になってしまいます。皆さんの職場ではどうですか? 私の職場でも、「マイタウン浦和」担当は禁煙となっています。喫煙者はひとりで、しかもこの担当のトップでありながら、禁煙を部下どもに宣言されています。しかも、たばこを吸ってしまった場合は1本につき100円を徴収されるという極めて厳しい条件を突きつけられています。一番偉いのに、部下にいじめられ全く気の毒です。 が、ホタル族にはホタル族の楽しみがあるらしく、ホタル族が集まる一角には奇妙な仲間意識が生じているようです。虐げられる仲間であることが、親近感を生じさせ、業務上のコミュニケーションまでスムーズになっているようです。煙がモクモクと立ち上る中で談笑する彼らは、まるでサロンにでも集っているようにしか見えません。 私は20歳でたばこをやめた人間です。かつては煙をモクモクとくゆらしていたのですが、今やアンチ・たばこ派になってしまいました。でも、そういう私でも、ホタル族が集う怪しげなコミュニティー(?)を見るとつい微笑ましく感じます。いかがでしょうか?
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(文:忍者の弟子) |
2001/08/02(木) |
潤いのあるまちは作れるか? | ||||||||
私はほとんど四方を山に囲まれた福島盆地で育ったので、山があったり、丘があったりする風景を見ると安心します。福島盆地の中央には阿武隈川という大きな川が流れており、その支流もあちこちにあります。私は山や川がある風景が大好きなのですが、子供の頃に馴染んだ環境が大きな影響を与えているのでしょう。
浦和は坂が多く、平坦ではありませんが、これといった山もなく、そのためか緑も少ないですよね。大きな川がまち中に流れているわけでもありません。いかにも緑が似合いそうな土地柄なのですが、ちょっと寂しいです。水辺も少ないのでどうも潤いに欠けますねえ。でも、潤いを人工的にでも作ることはできます。 昔、熊谷に行ったとき、私はびっくりしたことがあります。まちを歩いていると小川にぶつかりました。幅が3〜5メートル程度の小川でしたから、もしかしたらかつての用水路だったのかもしれません。中を見ると、何と、無数の鯉が泳いでいるではないですか! 私はその川縁をずっと歩き続けましたが、結構長い距離がありました。ちょうどまちのど真ん中のあたりに無数の鯉が泳いでいるんです。これはすごいですよ。誰か鯉を持っていく人はいないのかと知人に聞いたところ、「熊谷にはそんな不心得者はいないよ」と一蹴されました。多分、市が管理しているのだと思いますが、あれだけで熊谷のイメージは随分とよくなっているのではないかと私は思います。きれいな水に、鯉。これなら潤いを感じますよね。猛暑でもまち中を流れる小川があれば少しは涼しくなるかも。浦和にもそんな場所ができないかなあ。
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(文:忍者の弟子) |
2001/08/01(水) |
ホタル |
昨日の「つぶやき」で、私が子供の頃、ホタル蛍を追っかけまわした話を書いたところ、知人に「そんなきれいな水が流れる小川の前に住んでいたのか。羨ましいなあ」言われました。私だって自分の昔が羨ましいですよ。皆さんもご存知だと思いますが、ホタルは水のきれいなところにしかいないんですね。最近では地方でも水がきれいどころか、小川自体がなくなっていて、どぶ川になっているか下水道に変身しています。私の田舎も例に漏れません。多分全国的に、ホタルが住めそうなすばらしい環境がなくなっています。
私は別に「ホタルが住めるきれいな川を取り戻そう!」とか非現実的なことを言うつもりはありません。人間が集まってくれば生活に使われた水が大量に排出されますから、ホタルの住みかは減ってくるのが当然です。だいいち、この世界にはホタル以外にも様々な昆虫や動物がいるのに、おしりが光るからと言ってホタルだけ特別に優遇するのも変です(^^ゞ。 でも、人間が住みやすい環境に増殖するのは、夜間にもゴミを荒らしまくるカラスとかゴキブリなどです。暖かくて、食料としてのゴミがあると人間にはあまりありがたくない生き物が増殖してしまうのです。ゴキブリなど、年々ふてぶてしくなり、最近はのっそりとテーブルの上にまで乗ってきます。全く腹立たしいのですが、都会的なゴキブリは運動能力が減退しているのか、簡単に成敗できるようです。 こんなことをつらつら考えてみると、やはりきれいな川をどこかに残し、ホタルが舞うのを見たいものです。人間がつき合うのがカラスやゴキブリでは何だか寂しいと思いませんか。 |
(文:忍者の弟子) |
2001/07/31(火) |
カブトムシ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
夏の想い出は人さまざまですが、私は子供の頃福島で育ったので、楽しい夏の想い出があります。家の前を流れる小川では、蛍が飛んでいましたから、夜になると弟と蛍を追っかけ回していました。朝になると、早起きしてカブトムシを採りにいったものです。今ではぐうたら亭主の私ですが、子供の頃、カブトムシを採りに行くときには4時から5時の間に起きて1キロくらい先の山の中に入ったものです。
カブトムシというと、木の幹にたかっているものを捕まえてくると都会の人は思っているかもしれませんが、そうではありません。まずクヌギの木を見つけるのです。太すぎず、細すぎないクヌギの木を見つけたらそれを足で思いっきり蹴飛ばすのです。そうすると、上の方からカブトムシがボロボロと落ちてくるのです。カブトムシも寝込みを襲われてはたまりませんよね。一本のクヌギの木から10匹も採集できるときもあります。カブトムシだけでなく、カナブンも採れます。最も嬉しいのはミヤマクワガタなどが落ちてきたときです。黒々ピカピカとしてかっこいいですねえ。 夏になると、カブトムシやクワガタムシが店頭で売られていますよね。子供の頃、「東京ではカブトムシがデパートで売られているらしい」と聞いて仰天した覚えがありますが、それは事実でした。事実であったことも私にとっては衝撃でした。 浦和ではどこに行けばカブトムシが採れるでしょうか? やはり見沼田圃まで行かないとだめでしょうね。あそこにはちゃんとクヌギの木があるのか私は知らないのですが、皆さん、浦和でカブトムシを採ったことはあるのでしょうか?
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(文:忍者の弟子) |
2001/07/30(月) |
お詫び | ||||||||||||||||||||||||
本日は諸般の事情のため、「忍者のつぶやき」を休載します。明日からまた連載いたしますのでよろしくお願い申しあげます。
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(文:忍者の弟子) |
2001/07/27(金) |
人間の視覚 | ||||||||
25日に浦和の花火大会が開催されました。私は南浦和の競馬場のすぐ側に住む悪友のところで花火を見ました。彼の家の広大なベランダから見る花火は巨大で、目の前にドーンと広がります。音も半端ではありません。心臓に悪いかもしれません。私の子供は怯えて、私に抱きついていました。しかし、花火を見る醍醐味はあのスケール感と音であるのは間違いないでしょう。私は「マイタウン浦和」の編集をしていますから、翌日には花火の模様をレポートしたいと思い、デジカメで花火の写真を撮り続けました。が...。
花火を写真に収めるのはむちゃくちゃ難しいですね。目の前ではとてつもない大きさになるのに、ほとんどまともに写りません。巨大な花火がデジカメだとタンポポが舞っているようにしか写らないであります。とても悲しかったです(T.T)。時々花火大会のポスターを見かけることがありますが、、あれはやはりプロの技術がないと撮れないもののようです。浅はかな私でした。 ところで、返す返すも、人間の目はすごいですね。カメラのモニターを通すと、こぢんまりとしてしまいますが、両目で見るとパノラマのようですし、きらびやかさや繊細さなどはっきり見て取れます。光線が微妙に移ろうところなどはとてもカメラに収めることなどできません。 もしかしたら、これは目がふたつあるから、ということもあるのでしょうか? もしそうならレンズがふたつあるカメラができそうなのですが? そんな馬鹿なことを考えるのは私だけでしょうか? だって、耳がふたつあるためにステレオのスピーカーはふたつあり、左右に配置されるんですよ。耳がふたつあり、2つのスピーカーがあるからステレオ効果が得られるんです。同じようにカメラのレンズがふたつあれば、もっとすごい写真が撮れるかもしれません(そういうカメラが存在しないのは、きっとダメな理由があるに違いありませんが)。
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(文:忍者の弟子) |
2001/07/26(木) |
ゴミ問題 その3 | ||||||||||||||||
しつこくゴミ問題について書きます。人が集まる場所にはゴミが発生します。公園などは明らかに不特定多数の人が集まりますから、当然ゴミ箱があってしかるべきと私は思っています。が、必ずしもそうではありませんね。私の近所にある公園でも、ゴミ箱がない場合があります。本当ですよ。もうすぐ2歳になる子供を連れて公園に行くと、私は時々一緒にゴミ拾いをするのですが、ゴミ箱がないので困るときがあります。
そもそもゴミは出さない、出してもその本人が持ち帰ればよいという考えからゴミ箱が設置されないのでしょうが、結果として公園が不潔になり、人が近づけなくなるのでは意味がないような気がします。そのような場所に限って立派な金属のモニュメントがあるのですが、それは一体いくらかけて作成したのだろうかと勘ぐってしまいます。モニュメントを作るお金があれば、ゴミ箱を設置し、そのゴミの回収をする費用に充てればよいのに、などとせこいことをつい考えてしまうのです。 道端にゴミが散乱しているのが日常的になり、公園でもゴミが何気なく捨てられているのが当たり前になると、誰もまちをきれいにしようとはしなくなるかもしれません。私の子供も、そのうちにこのゴミに慣れてしまい、きちんとゴミを処理しなくなるのではないかと恐れる今日この頃です。
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(文:忍者の弟子) |
2001/07/25(水) |
ゴミ問題 その2 | ||||||||||||||||
ゴミの出し方は人さまざまです。最近は半透明のビニール袋が義務づけられていますが、これはゴミの分別が要求されているからです。本来は、燃えるゴミ、燃えないゴミの区別があり、燃えるゴミでも粗大ゴミは出す日が別になっています。が、これもごちゃ混ぜになっているのをよく見かけます。漫画の本が大量に燃えるゴミの日に出ているのを見ると、「ああ、これは独身の男性だろうなあ」と見当がついてしまいます。市の職員も仕方ないのでそれを回収していきますが、何とも気の毒な気がします。何度も何度もゴミ出しのルールを徹底するよう市の当局は呼びかけ、少しでも効率よくゴミを処分したいのでしょうが、我関せず、の人が多いように思われます。それも最近悪化しつつありように思えて仕方ありません。
ゴミに関するモラルはどうなっているのでしょうか? 私のマンションがある前の通りは、ゴミのオンパレードになるときがあります。空き缶がいくつも積んであるときもあります。歩きながらジュースを飲み、飲み終わると空き缶をその場で捨てるんですね。驚くのは、道端にインスタント焼きそばの容器が捨てられていることです。誰かが道端でインスタント焼きそばを食べ、それを途中で残して捨てていくのですが、祭りの日でもないのに、道端でよく焼きそばを食べる気になるものだと思います。ジェネレーション・ギャップがこんなところにも現れるんですね。 自分の住むまちをきれいにしたい、きれいなまちを作りたい、きれいなまちで過ごしたいという気持を持つのは自然なことだと私は思っていたのですが、ゴミ出しのモラルを見ておりますと、自然ではないようです。「これは悪いことだ」と教えていかねばならない重要な問題だと強く認識させられます。
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(文:忍者の弟子) |