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子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義!
大関直隆 1957年生まれ。妻は高校1年生の時の担任で16歳年上。専業主夫(だった。今は陶芸教室をやっている会社の社長兼主夫)。 子どもは義理の娘・弘子(1968年生まれ)と息子・努(1969年生まれ)、その下に真(1977年生まれ)、麻耶(1979年生まれ)、翔(1987年生まれ)の5人。 5番目の子どもの出産ビデオを公開したことでマスコミに。その後、年の差夫婦、教師と教え子の結婚、専業主夫などたびたびTV・新聞・雑誌に登場。社会現象を起こす。 妻・大関洋子(上級教育カウンセラー)とともに、育児、子育て、性教育、PTA問題等の講演会や教員研修などで全国を回る。

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2002/10/01(火)
第30回 「安全な遊び」
 9月24日午後、金沢市の公園で上田竜也君(6)が、うんていの上から鉄棒と鉄棒のすき間に落ち、背負っていたランドセルと首が鉄棒に引っかかって窒息死するという事故が起こりました。お子さんを亡くした親御さんや周囲の方々の悲しみは、幾ばくかと思います。

 どう挟まったんだろうと不思議に思っていると、翌々日のワイドショーでこの事件を取り上げていて、図を使って詳しく説明をしていました。ここで言葉を使って説明するのはちょっと難しいですが、簡単に言えば、ランドセルの下側と竜也君の首が二本の鉄棒にひっかかってしまい、宙づりになってしまったということのようでした。

 普通では考えにくい状況で、まったく運が悪いとしか言いようのない事故でした。この事故はいくつかの原因が考えられます。

第1に、うんていそのものの構造(足がつかない高さであるとか鉄棒と鉄棒の間に人が落ちるだけの空間があるとか)。

第2に、簡単にうんていの上に登れる構造になっていたこと。

第3に、竜也君がうんていの上に登ってしまったこと。

第4に、竜也君がランドセルを背負っていたこと。

 主にこんなところだと思いますが、ワイドショーの中でインタビューに答えていた竜也君のお父さんとおじいさんは、遊具の危険性について非常に声高に訴えていました。お子さん、お孫さんを亡くしたものとして当然のことです。もし私がそういう立場に置かれたら、おそらくまったく同じように訴えただろうと思います。

 当然のことながら事故の場合、テレビ局はまず被害者に同情をする立場から報道をします。そこでワイドショーは何を第一に取り上げたか・・・。なんとランドセルの構造でした。鉄棒に引っかかったランドセルに問題はなかったのか・・・。ランドセルのメーカーにインタビューをしていました。いくらなんでもこれには無理があります。

 続いて周囲の状況を含むうんていの状況。実際に事故が起こっているのだから、問題がないわけはありません。うんていの高さがもっと低かったら・・・。うんていの上に上がりにくい構造になっていたら・・・。鉄棒と鉄棒のすき間がもっと狭かったら・・・。それはまったくその通りで、どれか一つでも状況が違っていればこの事故は起こらなくてすんだはずです。

 金沢市は25日、同種の遊具のある41カ所の公園を調査するとともに、うんていに立ち入り禁止テープを張って使用禁止にしました。けれども、これはちょっと変?私が生きてきた45年の記憶をいくら辿っても、うんていで窒息した事故の記憶はありません。事故のない安全な遊具を作ることも大事ですが、子どもに危険を察知する能力をつけさせることも大事なのでは?私はこういう逆説的な考え方(危険に触れさせて危険を教えるというような)はあまり好きではないのだけれど、ほとんど大きな事故も起きないような遊具が、たった一回の事故で使用禁止になってしまうことには、やはり抵抗があります。

 真(まこと)がまだ3歳だったころ、見沼代用水に落ちたことがありました。運悪くちょうど水かさが多いときで、土手の草の上をずるずると滑って川に落ちた真は、あっという間に水の中に消え、まったく見えなくなってしまいました。まだ1歳にもなっていない麻耶(まや)をおぶっていた私は、隣にいた5歳の女の子に麻耶を預け、川に飛び込もうと思ったまさにその瞬間、川の底を蹴って水面近くまで上がってきた真が見えたのです。やっとの思いで手を伸ばし、引き上げたのでした。今ではそこは護岸工事が終了し、フェンスが張り巡らされています。子どもたちは安全を手に入れたのですが、そこで失ったものは量りしれません。

 本当に危険なものを放置することは、大人の無責任、でも、子どもが大人になるために必要な機会を奪ってしまうことも、やはり大人の無責任。ちょうどワイドショーがこの事件が取り上げた日、新聞ではロープでできた「安全なブランコ」の記事が出ていました。座る部分が板でできた昔のブランコは事故が多かったということだったのでしょう。でも今度は、もしロープで窒息死する子が出てきたら、何でブランコを作るのでしょうか・・・。
(文:大関直隆)

2002/09/24(火)
第29回 「若い先生がいなくなった!」
 先週に引き続き運動会でのこと。ある小学校の運動会に行きました。久しぶりに見る小学生はとてもかわいらしくて、一年生や二年生が広い校庭を元気に走っているのを見ると思わず微笑んでしまいます。「同じ運動会でもやっぱり小学校の運動会は温かいなあ!」そんなことを考えながら見ていると、「整列!! 気をつけ!!」と、先生の声がおっきい!もちろん、マイクを通してるんですよ。そんなにおっきい必要があるのかな???

 学校規模がとても小さな学校で、学年によっては30名余りしかいないので、ちょっと違和感を感じます。学年のリレーなんかは全員が出てるのに、30数名を4つに分けて、それをさらに半分に分ける(ひとりが半周ずつ回るので)ので、私の目の前に並んでいるのは、1チームたったの4人。そんな感じですからその場にふさわしくなく、突然マイクを通した大きな声が流れたときは、なんだか勧善懲悪主義の子ども向けテレビドラマ(仮面ライダーのような。ん? ちょっと古い?)の主人公が、「ライダーキック!」とかおっきな声で叫んでいるシーンを思い出しちゃいました。(その声で子どもたちが吹き飛ばされそうな・・・)
少人数の小さな子どもたちの笑顔には、怒鳴るような号令はふさわしくないですよね。翔(かける)の卒業した小学校では、男の先生が、「皆さん、整列しましょう」なんてソフトに号令(?)をかけていて、「ちょっと気合いが入んないんじゃないの」なんて思って見てましたけれど、実際に怒鳴るような号令を聞いてみると、やっぱり小学生には”優しい、ソフトな号令”が合っているんだな、そんな感じを受けました。

 その運動会でもう一つ感じたことがあります。それは”若い先生がいない”っていうこと。これも、すごく違和感がありました。「運動会のイメージ」って若い先生が、明るい色(ピンクとか明るい空色とか)のジャージ姿で走り回っているものって決まっていた(私が勝手に決めたんですけどね)のに、お尻のおっきい中年(私と同じくらいの年ですよ)のおじさん・おばさんがドタバタとかけずり回って(かけずり回るというより、はいずり回るっていう感じ)、叫んでいる運動会に変貌してしまっていました。(と、ここまで書いたところで、ちょっと一息入れて朝刊(9/24付 朝日新聞・埼玉版)を開いたら、昨年度、公立小・中の教員の平均年齢が過去最高になったっていう記事が載っていたのでビックリ!)「ターッ! やっぱり感じてた通りだったんだ!」小学校44.2歳、中学校42.9歳。私立を含めるともっと上がって、小学校45.7歳、中学校44.3歳。

 これって、やっぱり学校と子どもの距離を遠くしてるんじゃないのかな?年齢が高いことがすべて悪いとはいわないけれど、学校にはいろいろな年齢の先生がいてほしいですよね。最近、孫が歩くようになったら、孫についていくのが大変になっちゃったもんね。自分の子どもを育ててるときには、そんなこと感じたこともなかったけど、やっぱり年ですよね。いろんな角度から、子どもと接してくれる先生がいて、それで初めて楽しい学校生活が送れるんじゃないのかな? 県としても対策を考えているみたいですけど、早く若い先生が校庭を走り回るような運動会にしてほしいですね。
(文:大関直隆)

2002/09/17(火)
第28回 「やっぱりビリ!」
 ”ドーン、ドドーン、ドドドドドドーン”

 昨日の朝、6時、そんな音が響き渡りました。久しぶりに聞く、花火の音です。どこかで運動会が行われるようです。そう言えば、私の子どもの頃って、運動会の日は必ず6時に花火が上がったものでしたけど、最近はあんまり花火の音、聞きませんねえ。私の住んでいる地域だけかなあ??? 今住んでいるところは、けっこう駅に近くて家は密集してるし、地域は狭い(ウチの子どもの通った小学校は学区の中に信号がない)のにそれでいて大きな団地があるために小学校2校、中学校1校、自治会が3つあるから、もし花火を上げるってなると、この時期の日曜日(今年から学校の運動会は土曜日になりましたけど)は毎週必ず花火が上がることになっちゃうので、それで止めたんですかねえ???

 子どもの頃は、運動会の当日はその花火が上がるのをじっと待っていたものです。その時の緊張感って、なんとも言えないものがあって、ドキドキするっていうのとも違うんですけど、ちょっと気持ちが”ピリッ”とするんですよね。ただこれは、私がたまたま足が速かったからで、ウチの子どもたち(誰ひとり足の速い子はいなくて、いつもビリ争いをしている)に言わせると、”雨が降らないかなあ”ということになるらしいんですけどね。そう言えば、私はプールがあまり好きじゃなかったので、プールの日になると”雨が降らないかなあ”なんて思ってましたもんね。運動会の緊張と興奮を”だれしもが好きだ”なんて考えちゃいけないんですよね。

 今年の運動会(もうウチの子どもは中学生なので体育祭でしたけど)も、やっぱりウチの子どもはビリでした。前回書いた叔父が、まさに前回のその原稿を打っている瞬間に息を引き取ってしまったので、先週の土曜日は、子どもの運動会と告別式が重なってしまいました。私はPTA会長をしているため運動会を外すことができないので、私が運動会、妻が告別式ということになりました。

 さて、どういう風に決めたのか、足の遅い翔(かける)が200m走に出ることになったのですが、翔が言うには”6人中、僕だけが遅くて、あとの5人は学年で早い方から5人選んだような子たちだよ”ということでした。200m走最後のレース。スタートライに立った子どもたちの顔ぶれを見てビックリ!言われていたとはいえ、確かに私の記憶では特別に早い子ばかりを集めたような(運動会最後の呼び物、リレーのときはウチの子を除いた全員がアンカーをやっていました)集団です。

 スタートするなり、5人が団子になって前へ、そしてウチの子だけがひとり後ろに取り残されるという状況です。中学でも最上級学年ですから、その迫力にはすごいものがあります。もちろんその差はどんどん広がってゴールへ。”あ〜あ”というより、”カハハッ!”と笑っちゃうような結果でした。

 すぐに妻にメールで、”6人で走って翔はだんとつビリだったよ” と送ったら、”ちょっと可愛そうだね。たぶんいつも一番の人にはわからないだろうけど。でも翔にはそれも栄養にできる力を、あなたがつけておいてくれてあるよ。” と返ってきました。突然、翔の組の応援団が翔の方を向いて、”大関に敬礼!” と大きな声で三回叫びながら、敬礼をしました。”この5人と一緒に走った大関は、よくやった” そんな雰囲気がグラウンド全体に漂いました。

 ”まあ、こういう経験もいいかな”一番もいれば、ビリもいる。そしてそのビリを一生懸命励ましてくれる子どもたちがいる。そんな暖かさの中で育っている翔をとても幸せに思った瞬間でした。家に帰ってきた翔は、「けっこうがんばったでしょ? 思ったより差が開かなかったよね」と興奮気味に話しました。おいおい! 充分差は開いていたんだよ、翔。
(文:大関直隆)

2002/09/10(火)
第27回 「叔父」
 あまり明るい話題ではないが、叔父(父の弟)が間もなく息を引き取ろうとしている。叔父は、10人兄弟(男6人、女4人)の8番目で、7番目の叔父と双子だった。3番目か4番目(何度か話を聞いたが私の生まれる前のことなので詳しいことはわからない)の叔母は、10歳くらいの時に赤痢(?)で亡くなったらしい。7番目の叔父は、36歳の時、夜寝ていて突然に亡くなった。そして、8番目の叔父は今こうしているときにも息を引き取るかもしれない。癌である。3時間ほど前、叔父を見舞い帰ってきた。

 私の父は長男で、実家にとっては私が初孫。しばらくの間、叔父、叔母とも同じ家に暮らしていた。8番目の叔父は、妻と同じ年(昭和16年)の生まれで、私とは16違い。とてもよく遊んでもらった。叔父の友人たちにもかわいがってもらった。いまだに、叔父の友人のあだ名を覚えている。

 叔父は秋葉原デパートに勤めていた。叔父のところで生まれて初めてスーツを作ってもらった。チゲ鍋と回鍋肉(もう20年以上も前のことで、そのころはまだ豚肉とキャベツのミソ炒めとメニューには書いてあったのだが)も生まれて初めて食べさせてもらった。すごくおいしかった。そして、秋葉原の電気街も案内してもらった。

 一度目に病院を見舞ったとき、叔父は目に涙をいっぱいためて「元気になったら箱根と鬼怒川にみんなで旅行しよう」と言った。叔父も、周りにいた叔父の家族も、そして私も妻も、二度と旅行に行けないことを知っていた。二度目に見舞ったときは、食堂まで歩いてきてそこで話をした。しばらくして一度退院したが、再び救急車で入院した。三度目は、翔(かける)も連れて行った。今度は、鼻から管を通し、ずっと眠っていた。

 そして今日。朝から呼吸が乱れ、血圧が下がっていたらしい。「お昼くらいまで」と言われたようだが、日付が変わって夜中の1時になったが、まだ何も連絡がない。

 つい先日、叔父の病状のことから、私の幼少の頃の話になった。そこで気付いたことが一つあった。私は、どの叔父にも、どの叔母にも一度も怒られたことがなかったのである。そういえば、お説教をされたこともないということになった。楽しく遊んでもらった記憶だけがあるのである。そのことが、私の子育てに大きく影響を与えているのは、紛れもない事実なのだ。
(文:大関直隆)

2002/09/03(火)
第26回 「夏休みのしゅ・く・だ・い」
 今年もあつい、あつ〜い夏休みが終わりました。地球温暖化の影響があるんですかねえ?私なんかが子どもの頃は「暑い」っていっても、だいたい30℃ちょっと。33℃あるとビックリなんていう感じだったんですけど、違ったかなあ? 最近は35℃は当たり前。38〜9℃なんていう日まで登場しちゃってとてもじゃないけど、外になんていられない時がありますよね。私の会社は南浦和の駅前なので、”土”なんてもちろんなくてアスファルトだらけ。そのうえ、タクシーはアイドリングしながら止まってるし、エアコンの室外機はたくさんあるし、天気予報の温度とはまた違った温度になってるんじゃないのかなあ? 暑いって感じる日は、だいたいサウナに入ってるのと同じくらいな感じがするから、体感温度は、50℃とか60℃とかそんな感じかな・・・。

 そういえば、ようやく文部科学省は公立の学校にエアコンを入れる方針にしたみたいですね。全校に普及するのはいつのことやらわからないけど、こんな状況になってるんだから、早くなんとかしてあげたいですね。

 最近、8月じゃなくて5月とか6月にけっこう暑い日があるでしょ? 私の持論では、「季節がだんだん前にずれてきている」って思ってるんですけど、違う? 桜の花も入学式じゃなくて、卒業式に咲いちゃうし、台風も7月に来ちゃったりして・・・。そのうち、「ウインタースポーツは8月」なーんてなっちゃったりしてね。テヘッ!

 アスファルトの上を歩ってるときって、アスファルトに近い方がずっと暑いから、子どもをベビーカーに乗せて、外へ出るときは気をつけてくださいね。子どもの乗ってるところの温度は大人が感じてるよりも、10数度は高いらしいですよ。

 さて、夏休みといえば、なんといっても「しゅ・く・だ・い」。

 最近の傾向として、昔に比べると量が減ってるとは思うんだけど、どんなに少なくなっても、やっぱり子どもたちにとっては「やらなきゃならない」っていうことでプレッシャーだよね。

 わが家の息子も例外じゃなくて、最後の最後まで宿題が残ってたわけ。とはいっても、出てた宿題って、原稿用紙5枚の読書感想文だけですよ。

 40日以上もあったのにいったいなんちゅうことだ!受験生だけど、塾にも行ってないから充分時間はあったはずなのに・・・。

 夏休み最後(というより本当は2学期最初の日が日曜日だったんだけどね)の日、中学三年生は、北辰テスト(埼玉県で育った人はわかるよね。偏差値をはかるためにやってた業者テスト。今は学校ではやらなくて、校外模試っていう形でやってる)がありました。息子は王子の会場まで行ったんだけど、お昼ちょっと過ぎに終わって、友達とどこかでなんか食べてきたらしくて、帰ってきたのが午後4時前くらい。私と妻は、北本の病院に入院してる叔父を見舞うことになってたんだけど、なにせ翔(かける)が北辰テストを受けたのは初めてなので、翔も北本まで連れて行って、車の中で感想を聞くことに・・・。4時頃出たのに、結局夕飯も食べて、帰ってきたのは10時頃。

さあ大変! それから、読書感想文なんて無理だよね。だいたい本が読んでない!

「おい! なんなら書けるんだよ!」
「???」
「とにかく知ってるやつ! えぇーとっ? 『夕鶴』! ほらっ、鶴の恩返し。 ちょっとまずいかな? じゃあ、宮沢賢治だ! 『セロ弾きゴーシュ』とか『注文の多い料理店とか』・・・。『注文の多い料理店』で決まり決まり!」
と大騒ぎ。いざ書こうとすると、けっこうストーリーがぼけちゃってる。

「ダメだよ、やっぱり本がないと」

インターネットで調べたり、家中の本ていう本をぜーんぶ出して探したり・・・。それでもあるはずの本がない。私の会社まで行って本棚を探すことに。結局見つからなくて、それから本屋へ行きました。タハハッ、深夜0時のことだよ。やっとの思いで『注文の多い料理店』を見つけて、帰ってきたけど息子なんて寝ちゃうんだからね。本を読んだの『わ・た・し』。昨日、宿題の感想文を提出してきた息子は、

「あれさあ、学校から市、市から県とか行っちゃってさあ、賞金でももらっちゃったらどうする? 詐欺罪かなあ?」

(この前「行列のできる・・・」でお父さんの手伝った絵が賞金を取っちゃって、ハワイに行っちゃったら詐欺罪が成立するってやってたんですよね)まあ、適当に手を抜いておいたから、賞を取るようなことは無いけどね。ハハハッ!

(文:大関直隆)

2002/08/27(火)
第25回 「きらり川口ジュニア議会」
 先週は「きらり川口ジュニア議会」あり、「日本PTA全国研究大会」ありで、なんだかとっても慌ただしい一週間でした。

 「きらり川口ジュニア議会」は、現在の市長になって、毎年行われています。これは、一日だけ子どもが市議会議員になって、市に対し質問や要望をするという模擬議会で、8月22日に行われました。今年で4回目になるそうですが、川口市議会の本会議場に市の幹部(市長を始め、教育長、その他市議会に出席している部長など全員)がずらりと並び、まさに市議会そのものといった感じで進められます。子どもたちは市立中学校と高校の代表で、各校2名、概ね生徒会の会長・副会長が代表として参加しているようです。議長は高校生が務めます。

 今年、翔(かける)が生徒会長をやらせてもらっている関係で、参加させてもらいました。

 保護者は傍聴できるのみ。これがまさに本物の市議会さながらで、市の幹部全員が動員されているわけですから当たり前のことですが、議会事務局まで動員されているので、傍聴席の最前列にはこっちを睨んでいる職員がいます(もちろんあんまり怖そうじゃなかったですけど)。傍聴席で見学している保護者は私語ダメ、拍手ダメ。本物の市議会なんて滅多に傍聴する機会がないので、ついつい市議会議員に扮した子どもたちが拍手をするとつられて拍手をしてしまいます。

 傍聴席に着席して、はじめの議員が質問をし、子どもたちが拍手をした途端、妻と私が拍手をしてしまい、いきなり(ちょっとだけ優しく?)睨まれてしまいました。

 妻曰く、「議会事務局の人もなんの変化もなくて、ただ傍聴席の方を監視しているだけじゃあ飽きてるんだから、たまには睨ませてあげていいんだよ」

 議会が進むにつれて、眠そうにしている議会事務局の人を見ると、なおさらその感が強くなって、「その通りだね」なんて、妙に納得がいってしまいました。(一生懸命、子どもたちのために傍聴席を監視してくれていた職員の方、ごめんなさい。でも実は、私も妻もちょっとだけ居眠りしてたんですよ)

 子どもたちの質問や要望に、市長を始め担当部長さんたちも丁寧に答えてくださっていました。もちろん質問の通告は事前に行われているのですが、質問をする子どもの中には非常に綿密な調査をしている子もいて、質問に答えようとする大人たちも顔を見合わせるほど、びっくりすることもありました。いつものことながら、子どもたちの感性や能力には驚かされます。

 午後1時から4時の3時間という時間はかなり長いものでしたが、子どもたちは初めての市議会に緊張感を持って臨んでいました。翔にとっては、とてもすばらしい体験をさせてもらったなあと思っています。

 ただ一つだけ、文句を言わせてもらうと、「市長さんの答弁、いつも子どもたちに対するお説教になっていましたよ」タハハッ!

 この市長さん、自分の子育てを通じて学校教育には腹を立てていて、つい自分で子どもたちに何かを伝えたくなっちゃうそうなんです。政治的な考えでは私と若干立場の違うところはあるけれど、父親としては手を結べるところがあるのかなあ???

 子どものためなら誰とでも手を結べる、それが子育てをしているものの強さですよね。そのうち、市長さんともお話ししてみようかな・・・。
(文:大関直隆)

2002/08/20(火)
第24回 「遺言」
 日テレから出演の依頼がありました。朝のワイドショーらしいのですが、タレントの「アリとキリギリス」が天使になって家を訪れ、私を遺影として仏壇の中に押し込めて、家族に対し、私の「遺言書」を読むという設定なのだと言います。ご覧になったことがある方は、ここまでで「あーあ、あれね」とおわかりになる方もいると思うのですが、見たことのないものにとって、言葉で聞くテレビ番組の説明というのは、なかなかイメージの沸かないものです。もちろんFAXで企画書ももらって、電話で話を聞いたのですが、私にはまったくイメージが沸きませんでした。

 娘の麻耶(まや)に話したところ、「私、見たことあるよ」とのこと。どんな番組なのかとよく話を聞いてみましたが、いまいち感じがつかめません。出演依頼があったときは、一応番組の内容を吟味して選んでいるつもりの私としては、もう少し内容を理解してから引き受けたかったのですが、翔(かける)も「アリとキリギリス」に会ってみたいなんて言うので、「まっ、いいかっ!」っていうのりで、引き受けるという前提で話を進めることになりました。

 25日のVTR撮りの前に一度予備取材をしたいということなので、私と妻で制作会社のディレクターと会うことに。

 正式に出演を引き受けたわけではないので、引き受けるに当たりまず番組の内容の説明を改めて受けました。ディレクターは、2回分の ON AIR されたVTRを持ってきていて、まずそれを見ました。

 1本目のVTRは、父親が家族に父親名義の土地と家を遺産として残すという設定、2本目は会社を辞めて始めたコンビニの経営権を家族に譲るという設定です。それぞれそういう話の中で、それまで知らなかった父親の考えや気持ちが家族に明かされたり、あるいは突然娘の結婚の告白があったりと、なかなか感動の名場面といった作りになっています。

 ところがこれを見たとき、私の気持ちが引っかかってしまったのです。
 「私には譲るものがない!」

 「いいんですよ、物じゃなくても。子どもたちに伝えておきたいこと、後を託す手紙とか、そんなものでも」

 「それも含めて、何にもないんですよ」

 「??? 何かありません? 子どもたちにこんな風になってほしいとか、奥さんには子どもたちをこんな風に育ててほしいとか・・・。伝えておきたい気持ちでいいんです」

 「いや、やっぱり何にもない」

 こんなやりとりが20〜30分くらい続いたでしょうか。私も一生懸命考えたのですが、いくら考えても出てきません。話をしながら、それまでずっと違和感を持っていたのですが、しばらくして私は、「遺言」という形自体に強い抵抗があることがわかりました。

 「男が妻や子どもに何かを残す」ということ自体、自分の生き方とまったく相容れないものを感じていたのです。

 2本のVTRを見るとそこには、家族VS 父親(戦っているという意味ではなくて、家族の中からはみ出している父親という意味で)という構図が見て取れました。残される妻と子どもたちの距離は近いのに、父親と家族にはそれなりの距離がある。それが「父親の威厳」と考える人もいるかもしれませんが、私にはそれまで家族と関わってこなかった父親の寂しい姿しか見ることができませんでした。

 「残すものがある」ということがそもそも関わりが薄ということで、私が「遺言」ということに強い抵抗を感じたのは、”今私の財産になっているものは、すでに家族全員の財産になっているからなんじゃないか”と感じました。

 結局、ディレクターとの話は4時間におよび、ディレクターは「お父さん、おもしろい人ですね」という言葉を残し、帰っていきました。

 「アリとキリギリス」に会いたかった翔は、時々お茶を入れながら、4時間話をじっと聞いていましたが、「アリとキリギリス」会えなくなってしまったことに、一言の文句も言いませんでした。

 やっぱり私は、「残す」「残される」の関係じゃなくて、妻とも子どもたちとも「一緒に作る」関係でいたいな!
(文:大関直隆)

2002/08/13(火)
第23回 「大志」
 さて、話しを前々回に戻しましょう。

 前々回「競争の原理」と「共生の原理」のことを書きました(いつも思うんだけど、この「書く」っていう言葉にはちょっと抵抗があるんですよね。全然書いてないんだけど、「書きました」っていうのもねえ・・・。「打ちました」っていうのもなんとなく変だし、最初「述べました」にしたんだけど、それもかなり違和感があって、結局「書きました」。まあ一応そういうことで、統一しますのであしからず)。なんで「大関家」が「競争の原理」で「大沢家」が「共生の原理」なのかはちょっと端折っちゃったのでわかりにくいかもしれないけれど、もうこれを書き出したら延々と続いちゃうので、またそのうち本でも書くことがあったら、「その時にゆっくり」なんて思ってます。

 妻の妹は、妻によく助言(というより、私の生き方についてのコメントを出すといった方がいいかな???)をします。義妹は妻より13歳年下で、私とは3つ違い。私とほぼ同世代なので、同じような社会的規範の中で育ってきました。そういった意味では当然妻より私を理解しやすい位置にいるわけで、妻と私にちょっとしたいざこざがあると、一生懸命私の生き方について、妻にコメントしてくれるわけです。

 けれどもこれが私にいわせるとちょっと的はずれ。主夫をしていた私が会社を興して忙しくしていると、「ほら、本当は直隆さんも、主夫をしていたかったんじゃなくて、社長になって会社を大きくしたかったんだよ」
PTA会長を引き受けると、「ほおら、やっぱり議員になりたかったんだよ」
とくる。どうも私にとってはどれも的はずれで、ピンとこない。それどころか「何言ってんの?」っていう感じ。

 私にしてみたら、自分で会社を始めたのは、「サラリーマンよりは時間が自由になって子育てに都合がいいんじゃないか」、まあそんな程度の理由で会社を始めたわけだし、PTA会長を引き受けたことにしても「ウチの子どもがいじめられないように」なんていう、ごくごく主婦的な発想だったんだから、そんな妹のいうような「大志」があるわけじゃない。

 これが「大沢」なんだよね。

 カハハッ!

 私の生き方だと、どうも社会的に認められることもなく、結局一生何もできなくて死んでいくことになりですね。

 やっぱり「Boys,be ambitious!」ですよね。しっかり競争をする人には勝てないのかなあ???

 人生は「勝ち」「負け」じゃないと思うんだけど、人生でそれ以外の価値を見つけるのはとっても難しい。でもね、

<b>「Boys,be ambitious!
 Be ambitious not for money
 or for selfish aggrandizement, 
 not  for  that evanescent thing
 which men call fame.」</b>

って続くんだよね。

 私は「お金や名声のために生きてるんじゃなーい!」って正当化しちゃおうかな???

 「大関」はやりすぎるし、「大沢」はやる気がないってことかな???
どっちも問題だね。

 こんな親に育てられて、どの子もしっかり「大志」を持った大人になるといいけど・・・。
(文:大関直隆)

2002/08/06(火)
第22回 「怒!!」
 ちょっと予定を変更して・・・

 今回は、子育てにおける「競争」と「共生」について述べる予定だったんですけど、新潟の無認可保育所で1歳11ヶ月の女児が、ベッドの柵と木製の蓋の間に首を挟まれて亡くなった事件があったので、タイムリーにそのことを取り上げることにしました。<blockquote><b>無認可保育所で女児死亡 木製のふたに首挟む? 新潟市 /新潟</b>
 30日午後1時半ごろ、新潟市紫竹山1丁目の無認可保育所「小林乳児園」(小林セツ子園長)の2階寝室で、1歳11カ月の女児がベッドの柵(さく)と木製のふたの間に首を挟まれてぐったりしているのに保育士が気づき、病院に運んだが約2時間半後に死亡した。木製のふたは風呂ぶたのように柵の上にのせてあり、女児は自力でふたを押し上げ、柵の上から顔を出したところ、ふたの重みで首を挟まれたとみられる。新潟東署は安全管理に問題がなかったかどうか調べている。 (以上、7月31日付 朝日新聞朝刊 新潟版より抜粋)</blockquote>
 とっても腹が立っています。翌日の新聞には、この女児が以前にベッドから転落したことがあるので、転落防止用に木製の蓋がかぶせられていたこと、しかも保育士は全員が一階にいたことが報道されていました。

 これはいったいどういうことなのでしょう?(怒)

 新潟市児童福祉課長は、「就寝中でも目を離していいのはせいぜい10分。30分も見る人がいない状況はおかしい。明らかに違法といえる点はみられないが、目を離したことがすべての始まりではないか。保育士がいれば覆いはいらないはずだ」と会見で述べたそうですが、誰が考えても当たり前のことです。

 親が子どもから目を離すときは、ほんのちょっとでも危険がないよう配慮します。けれどもその配慮は、この連載のはじめのころにも何度か述べましたが、親の都合・大人の都合に支配されるべきではないのです。今回の事故は、まったく大人の都合を優先するやり方が事故を生んだと言えるのではないでしょうか。

 私はこういった保育所、幼稚園、学校が非常に多くあると考えています。というより、こういったほとんどの施設が、まさにこの通りのことをやっていると思います。たまたま命に関わるような事故につながっていないだけです。もし、この「小林乳児園」でこのような事故が起こらなかったら、それで良かったのか?

 それはもちろん「否」です。ベッドの上に蓋をされて寝かされている子どもがどのような心の傷を負うか・・・。1歳11ヶ月だからいいということになるでしょうか? 私は自分の子どもの寝ているベッドに蓋をして、その場を離れるなどということは到底できません。真夏の車の中に子どもを放置して、パチンコに熱中する親と程度の差こそあれ、方向は何ら変わっていませんよね。

 最近、子どもにロープをつけて、まるで犬の散歩のように子どもを連れているお母さんを見かけますが、ちょっと違うんじゃないのかな? 手をつなげば済むことじゃないですか? 一見、ロープの方が子どもの自由を認めているようにも見えるけれど、そこには親子の心のつながりなど微塵もありません。支配・被支配の関係はあっても、「母親に守られている」という安心感は持てないですよね。

 大切なのは、ただ事故に遭わないことではなくて、事故から必死に守ってくれている大人が存在していることを、子どもがしっかりと感じるとることだと思います。それがまさにしつけと言えるんじゃないですか? そういう中で子どもは「安心」を獲得していくものですよね。
(文:大関直隆)

2002/07/30(火)
第21回 「競争の原理」と「共生の原理」
 さて、前回お話しした「大関家」と「大沢家」の話。

 妻の育ってきた「大関家」は教育一家。父は身体をこわしてしまったので、若いうちに教壇を去ることになりましたが、父も母も教員。特に母の兄弟は、母も含め女3人、男1人の兄弟皆、教員生活を送ったことがあって、母と一番下の叔父は定年退職するまで教員をしていました。もちろん祖父も教員。2人の叔母の連れ合いも教員です。そして私の妻も教員、妻の妹も教員。まだまだいるけどこれくらいにして・・・。

 かたや私が育った「大沢家」はというと、これがよくわかんない。父の兄弟は男6人、女4人の10人だけれど、妹1人は子どもの頃に亡くなり、県南水道に勤めていた弟も36歳(だったと思うけど)で亡くなって、今は8人。

 父は浦和市役所で、その下の叔父は国鉄、その下は自分で小さな工場をやっていて、その下は・・・。っていう感じだから、強いていえば公務員志向っていうことも言えなくはないけれど、戦後の時代背景を考えれば、公務員がいいって特別に考えていたわけではなくて、もともと地元の人間だし、ただ普通に生きていたら結果的に公務員(県南水道も含めて)のような仕事に就くことになったっていうことだと思います。

 「大関」の父は、男がつくべき職業を、医者・弁護士・公務員・教員くらいのところに限定していて、他の職業につくことをかなり嫌って(とはいえ、私のように何の職業についているんだかわけのわからない婿を認めているんだから、必ずしもそうとは言い切れないところはあるのですが)いて、そのことを公然と孫たちに話したりします。

 「大沢」の父は、「何をやっていても食っていければいいんだ。世の中は義理と人情。人に迷惑をかけるんじゃない」というのが口癖で、職業にはあまりこだわりがないようです。ただ、「人」っていうのが誰かっていうと、どうも私との関係では父自身のことらしく、私と妻の恋愛中は、「そういう人(父自信のこと)に迷惑のかかるようなことをするんじゃない」とよく言われました。

 そんなわけですから、当然大関の方は「学問」が子育ての重要な要素になっていましたし、大沢の方はというと元来農家であったこともあり、「義理と人情」(まるで任侠の世界のようですけど)を基本にした、よく言えば「助け合い」、悪く言えば「もたれ合い」が子育ての重要な要素でした。

 言い換えれば、大関の方は「競争の原理」が生活の中心であり、大沢の方は「共生の原理」が生活の中心になっていたと言ってもいいのではないかと思います。

 「競争の原理」は自己主張が強く常に攻撃的で、それがうまく回転をしているときは獲得するものも多く、社会的にも成功する可能性が高くなります。けれども、ちょっと歯車が狂い出すと傲慢さばかりが鼻につき、社会的にも孤立して、疎外されたりすることにもつながります。

 それに対し「共生の原理」は相手を許容する範囲が広く、人の輪は広がりますが、自己をアピールする力が弱いうえ、意欲のなさにもつながります。

 どちらがいいとも言い難いですが、どうも我が家の子どもたちは、その両方の面を持っているようで、時には突然攻撃的になり、時には突然意欲がなくなり、どちらに転んでも中途半端で、成功する人間は出そうにありません。まあ、もっとも人間にとって何が成功かというのは非常に難しい問題で、最後になって本人の納得のいく人生が送れたかどうかで決まるのだと思いますが、子育て真っ最中の親の気持ちからすれば、社会的に認められる人間になってほしいと考えるのは、自然の摂理なんでしょうか。

 「社会的に認められる」っていうことがどういうことかっていうのも、難しい問題ですけどね。

 さらに つづく・・・。
(文:大関直隆)