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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2014/09/05(金)
第214回:プリントへのこだわり
 グループ展を終え、この1ヶ月間、ぼくはA3ノビを含めて300枚近くのプリント作業に追われた。自由な時間のほとんどをそれに費やさなければならなかったので、なかなか本腰を入れて撮影に取り組めなかった。時間も労力も半端なものではなく、疲労困憊。しかもそれは自発的なものではなかったので、なおさらの感がある。おかげで昼間の無慈悲な熱暑を味わうこともなく、エアコンの効いた部屋に閉じ籠もっていた。

 プリントの約3/4が、拙「よもやま話」でご紹介した福島県の「立ち入り禁止区域」のもので、未だに撮影時のイメージが印画紙上に思い通り描けず難儀している。福島から帰京以来、同じ写真を一体何度プリントし直したことになるだろうか。
 プリントをするだけなら事は容易だが、どれもこれも画像データからして納得がいかないので、今回も1枚ごとに手直しをしなければならず、根気の要る重労働となってしまった。画像補整はなかなか終着点に辿り着けない作業だから、得心に至るまでにはまだまだ時間を要するのかも知れない。
 イメージばかりが頭の中で行きつ戻りつ、妄念に取り憑かれたように揺らぎ固定できないでいる。即ち、すでに仕上げた画像データ(プリント結果)と撮影時のイメージが、どこかで行き違い、そこに齟齬と違和感が生じているということに他ならない。
 「こんなつもりで撮ったんじゃないよなぁ」とか「あの時感じたことはこうじゃない」という思いばかりが募っていく。まぁ、裏を返せば撮影時のイメージが曖昧で貧困だったということになるのかも知れないが、それを素直に認めてしまうと自身の人格の全否定となり、写真屋として生きる道を失ってしまうから、取り敢えずは認めないことにしておく。この手の自己保身は誰に迷惑をかけるわけでもなく、生きる方便として、また衆生の救済としてあって然るべきことだとも思っている。

 概ね、一旦仕上げた画像データをあれこれ暗室作業でこねくり回しても決して良い結果を生むものでないことは長年の経験により知っているので(すべてが徒労に帰すという痛い目を幾度となく味わっているので)、気持ちを更にしてRaw現像から地道に取り組むのが一番の方策だとぼくは信じている。気を入れて撮った写真のその時の感受は、時を経ても鮮明に記憶しているので、補整をしながら時に目をつむり、瞼の下で情景を描くことにしている。そうすると「なぜぼくはそれを撮ったのか?」の解答が得られるのだ。
 それは時として、暗室技術での新たな発見という付加価値をもたらすことがあるので、後戻りを恐れず心機一転、最初から出直すのがいい。そんなこんなで、したがって、拙連載で掲載した福島写真は今見るとすべてに手直しが必要で、今さらながらちょっとした悔いを残しているが、あれもあの時点ではぼくの真実だったのだから、物づくり屋の踏ん切りとして、改めて写真を差し替えることはしない。

 アナログ(銀塩。Gelatin Silver)は原則としてフィルム現像を完了すればフィルムとしてのやり直しが利かないので、プリント作業での変更(再現)に工夫を凝らしながら、何枚かの印画紙を無駄にすることになる。同じプリントは二度と再現できないのがアナログの特徴だが、デジタルはその逆で、Raw現像をし、Photoshopに渡して画像補整したデータを、再度作ることはできない。いわゆる銀塩派の人々の一部はこの事実には触れずに、銀塩のほうにその価値の重きを置く。価値観の問題ではなく、論旨として彼らの言説は間違っている。
 デジタルは科学だから、補整の数値や選択範囲のすべてを事細かく正確に記録し、その通り実践すれば“論理的には”同じデータの再現は可能となるが、それはあまりにも非現実的だ。そして、一旦作り上げた画像データからは、同プリンタ、同コンディションという条件下であれば、デジタルは同じものを何枚も作れるところが、アナログとは異なる。

 かつて銀塩の世界では、作者が撮影直後にプリントしたものをヴィンテージプリントといい(“ヴィンテージプリント”の定義は今もって定かではない)、価値の高いものとして、もてはやされる傾向にあった。ぼくは当時からその考え方には非常に懐疑的だった。撮影直後、もしくはそれに近い時期にプリントされたものが撮影者の意図を最も明確に示しているという考えに反対なのだ。

 例えば、暗室作業に最もこだわった写真家の一人ユージン・スミスの著名な作品『楽園への歩み』などのヴィンテージプリントは、私たちが今日知るそれとはまったくの別物といっていい。芸術性を論じることは誰にとっても非常に難しい事柄であると思うが、強いて芸術的観点から見れば(希少価値や資料としての価値を除けば)スミスに限らず後年にプリントされたもののほうがより深味と真実性が増し、芸術性が高いとぼくは感じている。被写体について、あるいは写真のテーマについての勉学が進めば、知識や思想が円熟味を増すのは当然の帰結なのであって、それは写真作品への昇華に多大な影響を与えるといっていいだろう。
 そうであるからして、ぼくは撮影時や暗室作業による「写真のための写真」を目的としたものの正当化を認めがたいのだ。

 何十年か先、ぼくの生きている間には不可能であろうが、頭で描いたものがそのまま写真として写るカメラが出現したらどうなるだろうか? なんてことを考えていると今夜も寝付きが悪くなりそうだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/214.html

★「01」:31年前、娘誕生の記録として。コダックTri-Xフィルムをスキャニング。補整はほとんどナシ。京都大学付属病院で。

★「02」:31年後の写真。娘が愛犬を連れてやってきた。我が家の前の路地で。

★「03」:この夏。娘と喫茶店で珈琲を飲む。

(文:亀山哲郎)

2014/08/29(金)
第213回:映画鑑賞のお勧め
 映画マニアというほど映画に精通しているわけではなく、友人同士で映画に話題が及ぶとぼくは対等な知識と記憶がまったく覚束ないので、もっぱら聞き役に回る。映画に関しては、知識と記憶の喪失が常人より顕著に表れる。
 映画は観て面白かったり感動したり、何かに照合すればそれでいいのだが、ほとんどの映画はぼくにとって一過性のものなのでそれを他人に伝えるとなると、まず題名や監督、ストーリーを述べなくてはならないので、いつだって記憶を呼び戻せず言い淀んでしまう。日常生活に於いても人名や固有名詞などには殊更弱いほうだから、なおさらである。疎さが祟って自分自身がイライラしてしまうので、意識的に呆けたほうがなにかと都合がいい。だから黙っている。

 動画(ムービー)と静止画(写真)による「過去・現在・未来」の感覚的差異をぼくなりに述べようとすると、それはやたら理屈っぽく、また辻褄の合わない哲学的論調を振り回しそうで、だからやっぱり黙っていなければならない。
 ただ、動画であれ静止画であれ、それを鑑賞する行為は過去を覗き込むということに変わりはない。みなさんも、ぼくも、写真という表現手法を用いて、より具象的な過去を眺めている。その視覚が過去の五感と知覚を呼び覚まし、現在と未来へ洞察を与える。
 時空が等間隔、連続的に記録されたものが動画であり、それはあたかも時の流れを連続可変にそのまま記録し、同軸に配しているような錯覚を与えるが、すべてが過去の想い出であり、そこには現在も未来もない。過去の一瞬を連続的に捉えるのが動画である。
 しかし、写真や動画は過去を記録することによって、現在と未来を予知・予見しているといえる。

 シャッターを切った瞬間から「現在」は光速とともに飛び散り、「別れ際」さえ認識できずに過去のものとなる。人間の感覚では捕らえきれない「現在」とはつまり無きに等しく、「未来」はすべてが未確定なものだ。しかし、写真には過去のすべてが正確に配列されているので、喩えそれがフィクションであろうとも、時を確認する手立てとして人は写真の記録性を重んじる。
 映画のお勧めでした。もう黙ります。

 ギリシャ映画の『旅芸人の記録』(ギリシャの名監督テオ・アンゲロプロスの作品。1974〜75年)を久しぶりに観た。初めて観たのが1980年代で、ぼくは4度この映画を観たことになる。上映231分、約4時間の長丁場だがまったく飽きることがない。解説文にはアンゲロプロスのインタビューが記されているので、引用してみる。

 「『旅芸人の記録』で私たちは過去を参照にしているが、それは実は現在の物語である。ギリシャ悲劇に基づいているが、そのアプローチは神話的なものでなく、弁証法的なのだ。つまり、二つの歴史的瞬間が、しばしば一つのショットの中で並べられ、関係づけられる。それは複数の出来事を平坦にしてしまうのではなく、過去と現在の違いという観念を取り払いながら、その間の繋がりについて現在を生きる私たちに考えさせるのだ」(ママ)と、ちょっとややこしい訳文が付いている。
 訳文の解釈はさておき、ぼくがアンゲロプロスの作品を観て常に感じ入るのは、圧倒的ともいえる映像美と人物配置の妙。特異な映像技法は彼のどの作品にも見られ、この映画のほとんどがワンシーン・ワンカットで構成されているので、まるで写真鑑賞をしているような錯覚に陥る。息詰まるような長回しは、緊張の持続を受け持ち、視聴者をどんどん引き込んでいく。
 おそらくライティングも必要最低限であり、シャドウ部を起こすことも意図して行われていないので、「映像ってこれでいいんだよね」とぼくは頷きながら、意を強くする。このような大胆さに触れると、“シャドウからハイライトまでまんべんなく” というぼくの写真主張がとたんに“小賢しくもはしたなく”思えてくる。この映像美に魅了されるからには、それに(ぼくの写真主張に)取って代わるものが必ずあるはずだ。それが何であるのか今のところ混沌としているが、理解できることのひとつは、融通無碍(ゆうずうむげ。一定の考え方にとらわれることなく、どんな事態にもとどこおりなく対応できること。広辞苑)の確保であろうと思う。それは精神を解放して臨機応変に事を処理するということだから、生半可なことでは到底成し得ない。

 毎度のことながら、映画を観つつ何度も映像を停止させ、何かを発見しようとぼくは写真となった画面を食い入るように見つめた。したがって、ぼくの映画鑑賞は倍近くの時間を要することになる。人と一緒に観るなんて考えにくいことだ。映像ばかりに気を取られるので、一度観ただけでは他人にそのストーリーを語ることなどできない。いや、二度観てもダメだ。

 映画は写真を撮る上でさまざまな示唆やヒントを与えてくれる。だからぼくは自分の映画音痴を差し置いて、写真愛好家の誰彼なく「良い映画をたくさん観ましょう」といってきた。世界にはぼくの知らない優れた映画(特に映像美という点で)がたくさんあると思うが、ぼくのお勧めを列記すると、前述したアンゲロプロス、スペインのヴィクトル・エリセ、イランのアッバス・キアロスタミ、イタリアのフェデリコ・フェリーニ、ロシアのアンドレイ・タルコフスキーあたりが筆頭格。日本では溝口健二『雨月物語』のモノクロ表現の美しさが傑出している。実に日本的なしなやかな美で、我々のDNAを甚(いた)く刺激してくれる。

 当初、『旅芸人の記録』ではなく、同監督の比較的平易な作品『ユリシーズの瞳』を取り上げる予定だった。ぼくにとってこの映画は、劇中主人公の辿ったコースにぼくの体験を重ね合わせることができるので、非常にシンパシーが強い。ユーゴスラビア崩壊時、現クロアチアからレンタカーを駆りモンテネグロを通り、鎖国のアルバニア侵入を試みて、検問所に3時間も拘束された経験がある。もちろん、入国させてもらえなかったが、床も壁も、天井以外はすべて白タイルという異様な雰囲気の部屋に閉じ込められ、言葉はまったく通じず、どうやって首都のベオグラードに舞い戻るか(交通機関が遮断されていた)、四苦八苦の愉快な旅だった。このくだりを述べると途方もない長文になってしまうので、やっぱり黙っていよっと。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/213.html

焼け付くような夏、三題。いずれもFuji 100X。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。

★「01」。子供から大人まで、全国津々浦々どこもかしこも携帯とにらめっこ。ちなみにぼくは人前では絶対にしない!

★「02」。熱暑にも関わらず仲良く手なんかつないじゃってさ。

★「03」。金属の塀に直射光が反射し、自転車の金属は熱くて触れぬほどに。

(文:亀山哲郎)

2014/08/22(金)
第212回:ミラーレスカメラで遊ぶ
 盆暮れと年2回の定められた休載を失念。といっても原稿を書くための事前準備をするわけでもなく、ぼくの日常生活には何の差し障りもないのだが、前号にて「来週はお盆のためサボります」というお断りの一言を書かずにいたことだけが心残り。失礼いたしました。

 盆暮れの日本的しきたりにほとんど無縁のぼくは、大渋滞や乗車率200%超の民族大移動について他人事を装っているが、ものぐさで出不精なぼくでさえ、心中少なからず羨ましさを感じることがある。生まれ育った故郷に帰ることを帰省とか里帰りと呼ぶそうだが、ぼくにはその実感がない。
 ぼくの出生は京都市上京区で、賀茂川や下鴨神社、御所が遊び場所だったが、あてどない幼少時の懐かしい記憶がひょっこりと顔を出し、ほとんどセピア化したおぼろ気な原風景が、胎内に包まれているかのように物憂げで悲しく浮遊している。
 ふるさとへの郷愁は人さまざまだろうが、忍従に満ちた民族大移動は、祖先の霊を敬う仏教が土着信仰と相まって、一種の想い出回帰への磁場として強力に人々を惹きつけている。人々は何かに取り憑かれたように人口過密の帰省ラッシュをものともせず、故郷に呑み込まれるように集結する。そんな心情を行動に託せる人々を、帰るべきふるさとのないぼくは心底羨ましいと思う。
 ふるさとが心の聖域であるのならば、ぼくには支柱がなく生涯浮遊しっぱなしを定めとし、したがって、ぼくの原風景はいつも霞んでいるという具合だ。原風景の再現能力に難が生じるので、妄想や空想に頼らざるを得なくなる。幼少時の原風景が、今となっては現実のものであったのか、あるいはそれとも、ぼくの創作であるかの区別がもはやつかないでいる。その判別のつかぬうちに死を迎えるのはちょっと心許ない。

 世の中の人々が帰省ラッシュや行楽にたぎるような情熱を傾けている時、ぼくはその熱風になんとか抗おうと、余所ながらの振りをして、息子が新調したミラーレスカメラを持ち出し、遊んでみた。

 まず、ミラーレスカメラの何たるかを知るために友人のプロ・カメラマン2人に、「ねぇ、ちょっと教えて欲しいんだけれど、ミラーレスカメラの定義って何?」と訊ねてみた。2人とも一線で活躍する優秀なカメラマンである。彼らの言葉を要約すると、「ミラーレスというんだから、ミラーがついてないってことだよね。仕事で使っているわけじゃないから、それ以上のことはよく分からないよ。その手のことはアマチュアの人のほうが詳しいんじゃない」と、まったく手助けにならない。怖めず臆せず述べるから、少し腹が立つ。恥じ入る様子さえない。ぼくなら「実をいうと・・・」を付言して、知識不足の我が身の至らなさを正直に伝える。そこには侘びの気持ちが交じっているから、救いがある。それがヒューマニズムというものだ。
 ぼくは彼らのカメラを扱う手さばきをよく知っている。プロなのだから当たり前のことなのだが、実に見事なものだ。その彼らをして「アマチュアのほうがよく知っている」という。写真屋というのは得てしてそんなものだと思う。自分の使用する機器は暗闇のなかでも難なく操作するが、少しでも自分の尺に合わないものにはお手上げとなる。学習能力は早いが、初めてのカメラはやはり戸惑いばかりが先に立つ。

 ミラーレスカメラの定義らしきものは、“実をいうと”どうもはっきりしない。一眼レフからミラーボックスを取り外し、光学ファインダーのついていないものがそうであるなら、従来からあるコンデジも構造的には同じで、そこでぼくの頭は混乱を来す。強いて違いを探してみると、レンズ交換ができることと受光素子の大きさにより、一眼レフと同等の描写性能が得られるということくらいだろうか。もちろん、その構造上、デザインの自由度が増し(例えばフランジバックが短くなるので、レンズ設計がしやすいなど)、小型軽量化が可能となる。見た目も音も一眼レフのように大仰ではないので、使用目的によっては重宝する向きもあるだろう。
 お盆休みにミラーレスカメラの長所・短所を詳細に述べるほど使用したわけではないが、同じAPS-Cサイズの受光素子を持つぼくのFuji X100Sと比較しても、その描写力は遜色ないといっていい。同条件で比較したわけではないが、Rawで撮影し、DxO Optics Proで現像したものをPhotoshopで慎重に補整しての結論である。
 使い勝手に関しては慣れの要因が大きいので今良否を述べるべきではないと思う。ただ、長年の習性でファインダーがないってのがなぁ〜(オプションで
光学、電子ファインダーをつけられるものがある)、どうもいけない。服のサイズに身体を合わせるような苦痛とぎこちなさを感じるから、今後ミラーレスカメラを手にするのであれば、別途ファインダーも購入することになるだろう。今まで使用したことのあるコンデジは間に合わせのファインダーをホットシューにくっつけていた。それは驚くほどいい加減な画角を示すけれど、“予期せぬもの”が写ったりしていて、それはそれでけっこう愉しめたものだ。センターさえおおよそ合っていればそれで事足りる。構図に慎重を期すことから逃れられ、それもぼくにとって大きな利点だ。焦点距離28mmの画角に35mm用のファインダーをくっつけて撮っているのだから、愉快なことこの上なし。写真屋のいい加減さなんて、これも得てしてそんなものなんです。

 お盆休みに撮った写真を掲載しますが、敢えてカメラ名は記しません。メーカー名の明示は必要最低限に留めておきたいとの理由からです。どうしても知りたいという方がいらっしゃれば、お答えいたします。出し惜しみはしない質ですので。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/212.html

★「01」。レトロな喫茶店で。懐古調を醸すためパラジウムの色調を模して。

★「02」。ぼく自身、真空管マニアではないが、かつてお世話になった名球である845と300Bに思いを馳せて。演色用蛍光灯1灯で撮影。

★「03」。アメリカ製のハーレイはぼくの趣味ではないが、それでもメカは美しい。手入れの行き届いた機械は持ち主の愛情と人柄を示している。

★「04」。知り合いのバーで。自然光だが、グラスの裏側に名刺を半分に折ったものを45度の角度で立てかける。

★「05」。季節外れの獅子舞。伝統芸能展で。

(文:亀山哲郎)

2014/08/08(金)
第211回:ミラーレスカメラ
 1週間ほど前、35歳になる息子がぼくに向かってこんなことをいってきた。「おっちゃん(ぼくのこと)、ミラーレスカメラが欲しいんだけれど、何がいいかな? 教えてよ」と。
 相談相手が息子であろうと他人であろうとぼくの答えが変わるわけでもなし、だがそもそも、ぼくはミラーレスカメラの何たるかを知らない。知らないものについては答えようがない。その問いに対して、プロとしての威厳と沽券を息子に示そうという気もさらさらない。第一、そんなことに固執するほどぼくは意固地ではない。相手の立場がどうであれ、知らないことは謙虚に教えを乞うという姿勢あってこそ、お互いの信頼関係が築けるというものだ。今のところ、ぼくは息子や娘と、とてもいい関係にある。親子関係にあって“いい関係”とは、特段良くも悪くもなくという意味だ。

 ぼくの写真をよく知るデザイン事務所の社長である某氏に、「ぼくは自分を保守的な写真屋だと認めている」といったら、大笑いをしながら、時を得たとばかり「とんでもない! かめさんの写真はいつの場合にも強烈なカウンターカルチャーに基づいている。保守的どころか斬新だ」と言い切った。我が倶楽部のIさん曰く、「かめさんの写真はいつも怒っている」のだそうだ。ぼくの写真は眉間にしわが寄っているらしい。 
 自分の写真が斬新などと思ったことはかつて一度もないが(今後もないだろう)、彼のいう「カウンターカルチャー(既成社会の価値観や支配的文化に対し、敵対する文化)」という言葉をその時は明確に呑み込めずにいた。しかし、「カウンターカルチャー」を自分の生きてきた道に照らし合わせてみると、「確かにそういう面はあるのかなぁ」と薄々感じる。生きることに型通りの原理・原則を持ち込まず、自己の曖昧さを黙諾しつつも、いつも世の中に対して憤慨してきた節があるから、無意識のうちにそれが写真に出てしまうのかも知れない。
 『旧約聖書』の「伝道の書」にこういう言葉があったっけ。「知恵多ければ憤り多し」って。ぼくはそんな玉じゃないけれど。

 世の中の流行や傾向に敢えて背を向けることは大いにある。反抗心というより、自分の生活には何の関わりもなく、また影響のないものにそっぽを向きたがるのは、余計なことに煩わされたくないという思いが強く働くからだろう。ぼくの恣意的レジスタンスとは、ただそれだけのことだ。
 近年出現したフォーサーズやミラーレスカメラの存在意義を嫌うのではなく、ぼくの写真生活にとってそのようなものを意識する必要に迫られないという仕合わせが貴重なのだ。

 なぜ息子がミラーレスカメラを必要とするのかを訊ねてみた。彼の弁によると、山仲間である友人が山へ持って来るデジタル一眼レフと自分のコンデジとの描写を比べると、コンデジは比較にならぬほど見劣りし、かといって重い一眼レフを担いで山登りをするのは適わないとのことだった。ミラーレスカメラに目を付けたのは思案の末の決断だったようだ。
 特に遠くにかすむ山々の描写について、空との境目がはっきり写らずにのっぺりしてしまうのが我慢ならないらしい。「ほれっ、この通り」とぼくに10枚ほどの写真を見せてくれた。ぼくはここで初めてプロの沽券を取り戻すべく、彼に正論を開陳した。「この現象は、一眼レフとコンデジの差というより、露出補正の問題が大きく関わっているんだよ。もう2/3絞りほど露出不足に撮れば、遠くの山々と雲、空が立体的に浮かび上がってくる。カメラの差より使いこなしが出来ていないことが大きな要因」と、ぼくは毅然と答えた。
 「でもおっちゃん、樹木の葉っぱやマクロで撮った高山植物の葉脈などを克明に写そうとするとどうしても一眼レフには敵わないよね」と、カウンターカルチャーならぬカウンターパンチを繰り出してきた。どうやらぼくを写真の専門家として見ているようだ。
 「機械には自ずと物理的限界というものがあるから、その意味では君のいうことは正しい。限界に迫れるかどうかというのが知識であり、知恵であり、腕というものだ。それが備わっていなければ、どんなカメラを使っても結果は大同小異。写真はカメラが撮るのではなく、人間が撮るのだからね」と、ぼくは少々鼻を膨らませ、父親として、そして専門家の端くれとしてもっともらしい能書きを垂れた。
 そして、「物理的限界を極めろとはいわないが、多少の勉強をして希望通りの結果を得たいのであれば、APS-Cサイズに準じた受光素子を持つミラーレスカメラは、良い選択だと思う」と付け加えた。小型軽量化を可能にしたミラーレスカメラは山行きにはもってこいだ。翌日、彼はそれを手に入れ、上高地に飛んで行った。

 彼の新調したカメラをあれこれ操作して改めて感じたことは、誠に至れり尽くせりの余計なお世話であるということだった。保守的なぼくには不要なものばかりが付属している。今時それが悪いという理由はないし、それにあやかり、助けられている人が大多数であろうから、文明の利器を最大限に使いこなすことに異論はない。しかし、ぼくにとってカメラとは、絞りとシャッタースピードが正確に作動し、アバウトな露出計が内蔵されていればそれで十分。不便さを(不便とは感じていないけれど)克服するのもまた趣味の楽しみなのですよね。

 カメラの液晶モニターを触れたら突然シャッターが切れた! ぼくは腰を抜かした。悪魔の仕業か! なんだ、こりゃ!

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/211.html

★「01」。必要最低限の機能しかない旧タイプのコンデジ。とっぷりと日の暮れた鬼怒川の河川敷で、わだちの模様に魅せられて。スローシャッター故、ブレを防ぐために頭の上にカメラを乗せ、呼吸を止め、フレーミングは見当で。

★「02」。7年前に製造されたコンデジ。縦横比が3:4の画角に保守的なぼくはどうしても馴染めず、ほんの一時期使用しただけが、なぜか愛着があって手放せないでいる。桜吹雪のなか、懊悩たる思いの中年サラリーマン。「もうダメだ」という声が聞こえて来そうだった。

★「03」。どこの駅か記憶にないが、1/10秒にセットしブレ写真を。APS-Cサイズだが見事な解像度を示している。添付のリサイズ画像では分からないのが残念!

(文:亀山哲郎)

2014/08/01(金)
第210回:暗室道具???(7)
 前回の原稿を担当者にお送りした際、ぼくは少々気が咎めて「今回はちょっと専門的になり過ぎたかなという気もしています(ママ)」と、反省を込めてメールに書き添えた。「ぼくだって気がついているのですよ」と先回りをして担当者にお伝えしておく必要があったともいえる。「そんな専門的な話は必要ない」という方々のために、「転ばぬ先の杖」というか「先手必勝」というか、ぼくはそのような懸念を心の片隅で感じ取っていたからでもあった。
 暗室道具とその使い方について、読者の方々がどこまで関心を抱き、そして実感を持って読まれるか、あまり専門的な分野に突き進むべきではないのかも知れないとの自覚もあった。
 一方で、裾野が広がるほど人口密度が高くなり、この場でいえば読者層が広がることも、ものの道理として知っている。山が高く、険しくなるにつれ登る人も少なくなる。山登りでいえば、剱岳を目指す人より、高尾山を愉しむ人のほうが圧倒的多数だ。

 以前にも述べたことがあるが、Webは紙媒体と異なり読者層が見えない。どんな方々に読まれているかがさっぱり分からない。紙媒体であればある読者層を対象に書けばいいのだが、Webにはそれがなく、「ワンポイントアドバイス」という縛りはあるものの(裏切ってばかりだが)、あくまでも書き手本位の世界である。
 ぼくの目に見えぬ所、つまり全国津々浦々からメールをいただくが、それでもやはりWebは姿が見えない。紙媒体は姿が見えるのだ。良し悪しでなく、このことはとても面白い現象だ。
 Webは基本的に無料配布だし、内容が初歩的であれ、専門的であれ、読む読まないは読者の自由なので、よくよく考えてみるとクレームなど来ようはずがない。関心のある方は読むだろうし、そうでない人は読まないということだけは確かな現象として受け止めている。ただ、写真の専門家といってもすべてを熟知しているわけではないので、写真の事柄について誤ったことを述べることは可能な限り避けなければならないと慎重を期している。そう思えば思うほど話の内容は微に入り細に穿って、どんどん専門色が濃くなっていく(深入りしてしまう)から始末が悪い。ぼくの旺盛なサービス精神が徒となってしまうのだ。

 こんなことを書き出したのは、この1週間に3人の愛好家から立て続けに「前回の『よもやま話』は、今の私のレベルでは難し過ぎて」という声を直に聞いてしまったからである。予期していたことを直接指摘されると、人は動揺を通り越して、気を立たせながら「うん、そうかもね」と一応平静を装い、ものの分かった風なことをいう。お互いに、では今後どうするかという建設的な意見は決して出てこないものだ。話はそこでちょん切れる。

 ぼくは今、暗室道具についてさらに突き進んだ話をしようかどうしようか、とても悩んでいる。落としどころが見つからず狼狽えている。
 暗室道具を用いることの重要性に言及したいとの思いと、使用すればするほど必然的にもたらされる画質の劣化(非常に多岐にわたる)やその影響についてお伝えする使命も感じている。大いに逡巡しているところだが、そんな自分を言い含めるように、先週担当者に「そのうち、もう一度(「よもやま話」を)洗い直して初歩の講座を試みたいと思っている(ママ)」旨、お伝えした。
 ただし、「そのうち」が何時なのか明示していないし、「洗い直して」も、ぼくは自分の書いたものを再読する人間ではないので何時のことになるのやら。「試みたい」とは「どんな結果になるか分からないが、その気持ちはある」という意味で、要するにこの語句は実体も属性もないまったく空虚なものだということに気づく。

 前述した3人のうちの1人に(50代半ばの男性)、「かめやまさんはあの『よもやま話』をどのくらいの時間をかけて書くのですか?」と、ついで事のように訊かれた。
 「本文だけなら30〜40分ですが、最初の1行が出て来るまでに時間がかかるのです」と、まるで物書き風情のような言い草。「はじめの1行が出て来れば後はドミノ倒しのようなものですから、4本指でキーを叩きまくるのですが、自分でも何が出て来るか分からないから困る。気がついてみると写真について1行も触れていないということも頻繁に起こります。慌ててどこかにこじつけるわけです(笑)。読まされるほうはたまったものではないですね。そして推敲に30分というところです。ところが自分の書いた文章の校正というのは非常な難物なので、原稿を送り風呂から出てもう一度読み返す。そして、担当者に『訂正して!』とお願いすることは日常茶飯。推敲なんて暗室作業となんら変わりなく、いつまでやっても切りがない。すればするほど近視眼的(“木を見て森を見ず”のよう)になって、その落とし穴にすっぽりはまることもある。したがって、文章も暗室作業も必ず一呼吸置いてから見直すことが肝要。いつもいうように、画像補整をした直後にプリントなどしてはいけないというのはそこなんですよ」と、ぼくはこの件について小1時間も熱弁を振るった。
 今日はなぜかドミノ倒しのように筆が進まず、ここまで1時間もかかっている。

 尻切れトンボのような、ダッチロールのような、暗室道具についての話になってしまったこと、平身低頭して陳謝。

 暗室作業に於いて、最後の段階がシャープネスをかけることとお伝えしたが、その際にシャープネスをいつでも外せるようにしておくことが肝要。Photoshopであれば、レイヤーの「背景」をスマートオブジェクトに変換し、フィルターからシャープネスをかけること。こうして保存しておけばいつでも呼び出すことが可能であり、印画紙の質や拡大倍率によって数値を何度でも変更できる。もちろん、サードパーティの、例えば前回紹介したDxOを使用しての粒状なども、スマートオブジェクトのプラグインとして使用できるので、これもシャープネスと同じ考え方。シャープネスと粒状はいつでも外せるように!

 某アートディレクターから人物スナップのプリントを100枚依頼された。あれこれ引っかき回していたら数年前に行った青森県下北の恐山の写真が出てきたので(人物写真ではないので)、今回はそれを掲載させていただくことに。数年ぶりに見る写真は、やっぱり手直しが必要だった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/210.html

共通データ。カメラ:EOS1DsIII、レンズ:EF16-35mm F2.8L USM(01、02,03)。EF85mm F1.2L USM(04)

(文:亀山哲郎)

2014/07/25(金)
第209回:暗室道具(6)
 この1年を振り返ってみると、ぼくはほとんど私的写真を撮っていない。仕事としての写真は、写真を撮るという行為から本来の愉しさを差っ引いたものと考えているので、撮影の範疇には入れていない。ぼくのいう「撮影」とは、如何なるものにも束縛を受けず、気ままな精神を振りまきながらの自己表現であり、また自己発見でもあり、そこに甲斐性を見出すことにある。
 したがって、この1年はまったく不甲斐なく、犒労(こうろう)もなく、じっと殻に引きこもりっぱなしだった。写真を撮らずして写真屋を名乗ることに良心の呵責さえを覚えている。今その弁明をあれこれ練っているところだ。強いてそこに慰藉らしきものを求めるのであれば、二度にわたる福島行きと愛犬の死によって、すっかり消耗・消沈した結果、軒昂を失ってしまったのだろうと、さかんに無意味な言い訳を捻り出している。それはぼくの精神の脆弱さを端的に示しているような気がする。
 歳を取れば取るほど、時の経過が加速度的に速まり、取り戻すことのできない時間を嘆きつつ、とても物悲しかったこの1年。しかし、自分の歎息が聞こえるうちは至って健全そのもので、「充実」を公言するほどぼくは愚昧ではないとも思っている。そんな公言は自己逃避や後ろ向きな姿を正当化するための小田原外郎(おだわらういろう。小田原名物とされた、痰、咳の妙薬。奇薬)のようなもので、それにすがるほどぼくは耄碌したと思いたくはない、というのは暴言だろうか?
 で、暗室道具はどうなった?

 写真愛好家の何%がフィルム派であり、あるいはデジタル派であり、またはその両刀遣いであるのかぼくは知らないが、現在は大半がデジタル嗜好であろうと推察する。まずその前提に立ってお話しすると、デジタルには粒子がないというのが、ぼくにはどうしても合点がいかない。ひどく気味が悪いのだ。それは科学を無視したぼくの勝手な言い分なのだが、粒子のないノッペリとしたデジタル画像に我慢がならない。許し難さを感じてしまうというのも、やはり思い入れ過剰のなせる暴言だろうか?
 フィルム時代の長かったぼくのような古参組のなかには、そのように感じる向きも多いのではないだろうかと思う。もう少し突っ込んでいえば、フィルム派でもとりわけ暗室作業に熱を入れていた人ほど、そのような傾向にあるのではないかということである。
 現像の終えたフィルムを倍率の高いルーペでドキドキ・ワクワクしながら覗き込む作法、それは一種の儀式に似ており、眼下?には満天の夜空に広がる星のように大小さまざまな粒子がひしめき合いながらきらめいていた。モノクロであれば、文字通りネガティブであり、白黒の反転した世界はますますその神秘度を深めた。
 現像の仕方によって、粒子の大きさや密度が異なり、それを自在に操ることも現像の奥義だった。写真の明るさ、コントラスト、解像度、グラデーションなどの重要な要素をすべて粒子に委ね、それをコントロールするのがフィルム現像の世界。それほど、粒子とは神秘そのものだった。
 今、ぼくが過去形で書いているのは、アナログという善なる魂を、デジタルという悪魔にそそのかされ、そしてその誘惑に負け、売り渡してしまったからだ。

 デジタルから写真の道に入った人たちは、あのノッペリ表現を素直に受け入れることができることに不思議はない。むしろ、それは当然の帰結だろう。したがって、ぼくは他人にノイズや疑似フィルム粒子をデジタル画像に乗せることをお勧めしたことは一度もない。
 カラーであれモノクロであれ、ぼくは必ず粒子をかけるのだが、その理由はいくつかあって、ひとつは前回に述べたトーンジャンプの縞模様を軽減できること。そして、多少の大技(荒技)を使用した時に生じる画像の劣化を視覚上ごまかせる点にある。例えば、シャドウ部を持ち上げた時に生じる汚れを覆い隠す、いわば除染作用のような役目を果たしてくれる。

 これらはどちらかといえばネガティブ思考な使用法だが、もっとポジティブな意味で、もしくは建設的な利用目的として眺めてみると、粒子は画像を引き締めることに貢献していることに気づく。時として、より立体的な視覚を与えてくれることもある。ぼくに生理学的な説明はできないが、視覚とは、明暗覚、色覚、形態覚、運動覚などからなり、それらが粒子により何らかの刺激を受け、その神経興奮が脳に伝達されるのではないか、というのがぼくの珍説である。

 ピントの確認をする時、ぼくも含めて多くの人たちは、人物が主題であれば「顔」を拡大して確認作業をする。心情的にもそれは間違いではないが、顔での確認は極めて曖昧なものだ。顔には鋭角的な部分やコントラストの強い部分がないので(せいぜいまつ毛くらい)、確認が取りにくい。「まぁ、ピンは来ているだろう」で済ますことが多い。正面顔であれば、まつ毛にピントが来ていても、皮膚との距離があれば理論的にはピントが合っていないことになる。そんな時、粒子をかけてしまえば曖昧さによる心理的不安を取り除き、情緒不安を避けられる。つまり、粒子は一種の暗示療法としての効用が大きい。疑心暗鬼が「杞憂に過ぎない」とか「取り越し苦労」に取って代わるのだから、精神衛生上、粒子のもたらす効用を、徒や疎かにしてはならない。

 前回の文末にPhotoshopの「ノイズ」について少しだけ言及した。「特別な意図」での使用は別として、このツールはフィルムの粒状とは似て非なるものなので、疑似フィルム粒状として代用すべきではない。同ソフトの「フィルターギャラリー」にある「粒状フィルム」も別物として捉えるべきだ。
 その理由は、ノイズのかかり方がフィルムでは起こり得ない態様を示し、その結果、画像のトーン全体が著しく変化し、とても不自然な結果を招くことになる。
 ぼくの愛用するDxO社のFilmPackは、世界の主立ったフィルムの粒状性を熟知しており、精密なアルゴリズムを用いて見事に再現してくれる。
 6年も前に、ある写真専門雑誌に「フォトグラファーによるデジタルカメラ講座」と題して、このDxOの素晴らしさについてぼくは詳しく述べている。使い始めてかれこれ8年の月日が経ってしまった。「えっ、もうそんな昔のことなの?」と、ぼくは今、自分の歎息がかすれながらも聞こえてくる。

Photoshop「ノイズ」とDxO社FilmPackの比較。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/209.html

★「01オリジナル画像」。前号掲載と同じ。

★「01のヒストグラム」。かなりのトーンジャンプが見られる。

★「02ノイズ4%」。Photoshopでノイズ(ガウス)を4%かける。

★「02のヒストグラム」。トーンジャンプはなくなったが、「01のヒストグラム」と比べると、かなり全体のトーンが異なっている。

★「03DxO社Tri-X」。仏DxO社のFilmPackを使用し、長年愛用したコダックのTri-Xフィルムの粒状をかけたもの。

★「03のヒストグラム」。オリジナル画像のトーンが崩れていない。しかもハイライトの冴も十分に保たれており、「ノイズ」に比べ、ダイナミックレンジ(濃度域)がわずかに拡張されている。

(文:亀山哲郎)

2014/07/18(金)
第208回:暗室道具(5)
 お陰様でグループ展も無事終了することができました。新聞やTVで取り上げていただいたこともあってか、連日の猛暑にもかかわらず最多の来場者数を記録することができました。また、有益なご意見を数多くいただき、この場をお借りして篤くお礼申し上げます。

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 来場された方々から多岐にわたるご質問を受けた。何人くらいの方々からであったのか、ぼくの記憶はすでに飛んでしまっているのだが、20人前後だろうか。分かることはできるだけ丁寧にご説明したつもりではいるが、言葉に窮する場面に出くわしたのも確か。やはり、未だにカメラやレンズ、暗室道具が写真の質に関わる最優先事項だと捉えている人がいらっしゃる。道具の良し悪しが写真の質を決める上で“最も大きな役割”を担っていると信じて疑わないのだ。きっと、拙「よもやま話」の読者ではないね。道具は使いこなしてナンボだから。
 趣味を始めるにあたって、道具から入るという人もいるが、そのあり方をぼくは否定しない。いやそれどころか、それも趣味のひとつの楽しみであり、良いことだとさえ思っている。そしてまた、道具にこだわり、凝ることは精神に高揚感をもたらすので、至って大切なことでもあると思う。
 道具が写真を育てるという面だって捨てきれない。しかし、道具はあくまで道具であって、お気に召した道具を使い、それが良い写真に結びついて行かなければ意味がない。そこを理解しておかないと、いつまでたっても尻の座らない不安定なさまを続けることになる。道楽三昧をしてきたぼくがいうのだから、どうか信じていただきたい。

 ぼくが日頃から最も大切なことと心がけている事柄は、身近にあるもののなかからの美の発見。それは、日常のすべてのものに対してであり、言い換えれば知的好奇心というフィルターを通して森羅万象に目を向けるということだ。
 カメラやレンズ、暗室道具の選択は、撮影時のイメージを形あるものに表現したり昇華させたりするためのものに過ぎないということをぼくは訴えたい。
 文学も、絵画も、写真も、「物や事象をよく見て、洞察を広げていくこと」からすべてが始まる。「見る」とは、「物の成り立ちを観察すること」と「そこに客観性を持たせること」(“客観視”とでもいうのかな)だ。それを怠ると、真実や本質を見失ったり、乖離したりしての結果、視野狭窄となり俯瞰ができなくなる。そうなると専横が優位に立ち、普遍的な美からどんどん遠ざかっていくので、独りよがりな作品は極力警戒すべきこととぼくは捉えている。それを個性だと錯覚している人があまりに多くはないだろうか? 作者自身にブレが生じ、悪循環と空転の間を右往左往しながらさまようことになるので、作品としての訴求力が希薄になっていく。

 今回は画質劣化を視覚的にごまかす姑息なテクニックをご紹介しなければならなかった。それをすっかり失念し、いつもながらの独善的な言辞を弄してしまった。
 まずは最も目立ちやすい「トーンジャンプ」のお話しから始める。「トーンジャンプ」とは、直訳すれば「階調飛び」と呼ばれるもので、補整時になだらかなグラデーションに出現する縞模様のこと。青空などの無地に特に目立ちやすい。
 添付作例は実画の青空から色成分を抜き出し、Photoshop上で作画したもの。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/208.html

★「01原画」。

★「01原画」のヒストグラム。

★「02明度・コントラスト調整」。原画は夕暮れの青空ゆえ、眠たいのでメリハリを。その結果、中間トーンに縞模様が発生している。

★「02のヒストグラム」。メリハリをつけたおかげでヒストグラムが櫛のように。

★「03ノイズ」。「02」の画像に「ノイズ」をPhotoshopで3%かける。視覚的にトーンジャンプした縞模様が目立たなくなった。

★「03ヒストグラム」。ノイズをかけたおかげで、ヒストグラムの櫛が埋まった。

★「03彩度を下げたヒストグラム」。ヒストグラムの櫛はノイズをかけるだけでなく、彩度を上下することによってもかなり緩和できる。

★「04モノクロ化」は、「02明度・コントラスト調整」の画像をPhotoshopの「白黒」ツールでモノクロ化。トーンの中間部にかなりの縞模様が見られる。

★「04のヒストグラム」。モノクロ化によって、ギザギザになったヒストグラム。

★「05ノイズ」。これもPhotoshopで8%のノイズをかける。「04モノクロ化」で出現した縞模様が視覚的にかなり緩和。

★「05 ヒストグラム」。「05ノイズ」のヒストグラムで、非常になめらかになっている。

 ※Photoshopの「ノイズ」は、フィルムの粒状感とはまったく性質が異なるので、ぼくは通常使用しない。フィルムの粒状は中間部に最も多く出現し、Photoshopはほぼ均一にかかるところが最も異なるところ。

(文:亀山哲郎)

2014/07/11(金)
第207回:暗室道具(4)
 画像ソフトは、素のままの写真(素材)を、撮影時に描いたイメージ(料理)により近づけるための道具だと以前に述べたことがある。
 とはいえ、素材の悪いものはいかに料理方法(画像ソフトの技法)を工夫し、駆使したとしても、写真自体のクオリティを上げることはできない。残念ながら、ダメなものは徹頭徹尾、最後までダメ写真なのだ。そこが辛いところだが、暗室作業はダメ写真を良いものに変えるものでは決してないことを知って欲しい。反対に良い写真は画像ソフトのお世話にならずとも、その存在自体の輝きやクオリティが失われるものではない。
 
 それを重々承知しながら、未練がましくも己のダメ写真をなんとかして別嬪さんに仕立て上げ、世を欺こうと、儚くも無駄な労力を費やしてきた。そんないじいじとした卑しい自分の姿をいやというほど見てきた。
 今、「それはあたかも過去のこと」であるかのような書き方をしてしまったが、あにはからんや、現在に於いてもその醜態を晒し続けている。モニターを前にし、腕組みをしながら「あの時撮った写真はこんなはずじゃない。なんとかならんもんかいな」と思わずつぶやく。その女々しさったらありゃしない。「我が子に限って」という例の科白、子煩悩を通り越しての親バカを演じている。まさに「独楽(こま)の舞い倒れ」である。
 蛇足だが、ダメ写真を撮ってしまう最も大きな要因は、撮影時のイメージの貧困さにあると、今日現在のぼくは考えている。

 今月13日(日)まで埼玉県立近代美術館で我がグループ展を催しているが、ご来場いただいた複数の方々から異口同音に、次のような質問を受けた。
 「これ、写真ですよね? 写真じゃないみたい。何かするんですか? どうすればこのような感じに仕上げることができるのですか?」と。
 今回は、ぼくの写真を指してのことではなかったが、自分の個展では暗室作業やプリント、印画紙などの質問を頻繁に受ける。

 来場されたご年配の質問者に、何から順序立てて説明すればいいのかちょっと戸惑いながら、「暗室作業を入念に施して、撮影時のイメージを印画紙上に再現した結果なのでしょう」とまことにぎこちなくお答えした。
 彼は、「私は撮りっぱなしなんですが、写真を趣味とする人はそのような作業をしなければいけないのですか?」と、とても朴訥(ぼくとつ)で本質的な質問にぼくは好感を持った。
 「いや、“いけない”ということはまったくありません。写真を楽しむのであればそれでいいと思います。記録としての楽しみ方がごく日常的に行われていることですしね。ただ、写真愛好家とはおかしな人種で、“楽しみ”を通り越してしまうからいけない。自我の発露といえば聞こえはいいのですが、要するにエゴに凝り固まっているわけです。
 誰であれ、シャッターを押すという行為に至るのは、そこに自分の撮りたいものがあるからであって、撮影者にとってある意味での必然性があったのでしょう。それは被写体の持つ美しさに魅了されたり、共感であったりするのですが、そこに留まっているうちはまだ健康体なのですね。被写体を介して自分の感じ取ったものとか、無意識のうちに人生観や思想を他人に示したくなったり、共感を得ようとすると、それが人生のつまずきのもととなってしまうようです(と、まるで他人事のように)。つまり不健康体(変な造語)となり、空想を通り越して妄想にくぐもってしまう。
 写真を媒体にしての自己表現・主張は、いわゆる創作という虚構の世界ですから、自分の感じたものをより強く訴えたいがために、暗室作業の必要性に迫られてしまうのです」と、ぼくにしては簡潔にお答えしたつもりだった。
 質問をされた年配者はさらに簡潔に、「はぁ〜っ、なるほどそういうものなのですねぇ。はぁ〜っ、納得しました。はぁ〜っ、画像ソフトね、面白そうですねぇ〜。私もぜひ挑戦したいですねぇ、はぁ〜っ」と、ほとんど喘ぎながらも興味津々。

 「ただね、“無分別な”とか、“手当たり次第”とか、“無軌道に”とか、“放縦に”とか、何かに取り憑かれたように強気一点張りで、荒技ばかり好むという人がいるでしょ。そういう人にはお勧めしません。うちにもそういう病を得た人がいますからね。ぼくはそのような人たちから早く病晴れしたいんです。手加減を知らぬ人ほど恐いものはありませんから」と、内実を打ち明けた。

 極度の画質劣化を招く原因を説明し、そのご年配の方は節度ある使用を心うちで誓っていたようだが、ぼくは彼の写真生活の発展と豊かさを願って、敢えて「まずは劣化など恐れず果敢にさまざまなツールを使ってみることです。そうしないと、劣化とは何かを知ることができませんから。大技を使用しなければならない場に必ず直面するものですよ」と申し添えた。

 前回、「暗室作業をするうえで生じる画質の劣化は防ぎようがないので、ではそれをどのようにごまかすかという姑息なテクニックも同時に習得する必要がある」と述べました。次回はその代表的なものを取り上げてみます。
 「姑息な」などという表現は、ちょっと抵抗感があったのでぼくの使い方がひょっとして間違っているのではないかと淡い期待を抱いて辞書を引いたところ、「根本的に解決するのではなく、一時の間に合わせする・こと(さま)。現代では誤って[卑怯である]という意味に使われることが多い」(大辞林)とある。うん、したがって「姑息」でいいわけだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/207.html

 すべてRawで撮影。

★「01さいたま市」。なんとなく情緒的な交差点に突っ立っていたら後ろから自転車の来る気配。人物配置を描き、シャッターラグを計算し1カットだけ撮る。
撮影データ:Sigma DP1s。レンズ焦点距離28mm(35mm換算)。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.67。ISO200。

★「02さいたま市」。枯れひまわりを部屋に持ち込み、ストロボとレフ板を使用して。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF85mm F1.2L USM。絞りf11、1/160秒。露出補正ノーマル。ISO100。

★「03館林市」。曇天に薄日が射し、面白い光と空間だとカメラを向けたら、良いタイミングで黒猫がぼくに加勢してくれた。ちなみに、この店への侵入を試みていたわけではない。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF20mm F2.8 USM。絞り7.1、1/200秒。露出補正ノーマル。ISO160。

(文:亀山哲郎)

2014/07/04(金)
第206回:暗室道具(3)
 画像データの画質は、たとえどんな僅かな調整(補整)を施したとしても劣化を避けられない。明るさ・コントラストを少し変えただけでも、画質は目に見えぬところで確実に悪化していく。この現象は現在のデジタル工学では解決できず、持って生まれた宿痾(しゅくあ)のようなものだ。
 悪化とは、具体的にいうとさまざまな種類のノイズが添加され、もとの画像にはないものがデータ上に出現するため、どうしてもトーンの滑らかさや解像度が失われてしまうことだ。平易にいえば、汚れてしまうこと。
 前回、「効用に酔い、過剰投与が仇となってしまう」と述べたが、酔えば酔うほどに画質はどんどん劣化していく。二日酔い程度で済めばいいが、アルコール中毒になっては元も子もない。
 ぼくの友人たちのなかにもPhotoshopの効用に酔いすぎて、やたら力業というか荒技を駆使したがる人たちが何人もいる。ぼくはその気持ちは十分すぎるほど理解できるのだが、歯止めが利かずの過剰摂取となっているから、常に酔いどれとなり惨憺たる状況を呈している。それはまことに痛ましくも見るからに無残であり、お転婆を通り越しての謀反なる凶徒といえる。
 ぼくが遠慮がちに恐る恐るそれを糺そうとすると、「千万人と雖(いえど)も吾往かん」の姿勢を崩さず、おまけに「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか「一人荒野を行く」なんてあの手この手でデタラメな難癖をつけてくる。意味が違うだろ! 
 自分たちの知性の問題だってことに気づいていないから、始末に負えない。こういう人たちとは早く縁切りをしたいのだが、狼藉者ほどぼくと相性がいいようで、腐れ縁も致し方なしと諦めている。
 
 空には縞馬のような縞(トーンジャンプ)が鮮やかに浮かび上がり、電線やコントラストの強い境目には霜が凍りついたように白くなり(シャープネスや明瞭度のかけすぎ)、蚊やゲジゲジ、ミミズ、ノミ、シラミの類(さまざまなノイズ)が所狭しと飛び交っている。まるでお化け屋敷か捕虜収容所だ。笑うことなかれ、Photoshopの習得を試みた人たちは誰もがみな同様の経験していることだろう。
 しかし、ものの分かった風なことを敢えていうなら、Photoshopを習得する過程で、このようなことはあってもいいとぼくは思っている。一時的にあって然るべきだとも思う。ただ「ず〜っと“一時的”」を通し続けてはいけないということだ。いるんだな、こういう人。お化け屋敷に住みたがる変哲な人がね。

 暗室作業をするうえで生じる画質の劣化は防ぎようがないので、ではそれをどのようにごまかすかという姑息なテクニックも同時に習得する必要がある。 
 その前に、「できる限り画質の劣化を抑える」手順と項目を先にお伝えするのが順序だと思う。個人の流儀によって、合致しない項目は読み飛ばしていただいていい。Raw現像ソフトはPhotoshopのCamera Rawを例にして。

1) 撮影はRawで行う。
よく使われるあまり品の良くない言葉「Jpeg撮って出し」はその時点でかなり画質劣化を来しているので、少なくとも展示会などで上質なA3ノビ以上のプリントには不向きと捉えたほうがいい。
2) Raw現像の際に最初に行うことはホワイトバランスの調整であって、明るさではない。この順序をお間違えなく。ホワイトバランスを整えることはとても重要な事柄なのだが、これについて言及するとなると、かなりの文字数を必要とするので、取り敢えず視覚的に満足できる、もしくは違和感の生じない程度と考えていい。
但し書きとして、“視覚的に”とはいうものの、それはモニターのキャリブレーションが正確にできているという条件つきなのだが、そうでない場合は“あなたの慣れ親しんだモニターで違和感のないように”というしか言葉が見当たらない。
3) ホワイトバランスを調整してから、明るさ、コントラスト、彩度、明瞭度など必要と思える各調整を。特に彩度と明瞭度は「控え目」に。この時に決してシャープネスをかけてはいけない。シャープネスは画質を痛める元凶であることを知って欲しい。劇薬である。
4) Raw現像で、できるだけ調整を追い込み、シャープネスをかけずにPhotoshopへ渡す。その際、非力なパソコンでない限り、8bitではなく16bitで。データ容量が倍になるが、情報が多い分、Photoshopでの作業時に生じる劣化が低減される。

ここまでがRaw現像の最も基本的な作業。

 ※以前からお断りしておこうと思ったことをずっと言いそびれていたので、忘れぬうちに申し上げておきます。ぼくの参照写真は原画を長辺800ピクセルに縮小リサイズしたもので、Photoshopで変換の際に、「シャープ縮小」と「滑らかなグラデーション」の選択ができるのですが、「滑らかなグラデーション」だとどうしても画像のメリハリが失われる傾向にあるので、「シャープ縮小」を選択しています。場合によっては、上記したシャープネス過剰によって白の隈取りがところにより出現していますが、原画にはありません。

 今回はこの場をお借りしてのお知らせです。
 来る7月8日(火)〜13日(日)まで、埼玉県立近代美術館の第3、第4展示室の2部屋を使い、ぼくの主宰するフォト・トルトゥーガ写真展を催します。第3展示室は従来通りの自由なテーマで。第4展示室はこの連載でも取り上げた「福島県『立ち入り禁止区域』を撮る」のテーマで、7人85枚の写真を展示いたします。ご来場を心よりお待ち申し上げます。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/206.html

 すべてフィルム。使用フィルムはコダックのコダクローム64と200およびトライX。カメラはライカM4とキヤノンNew F1。

★「01ラトビア共和国」。工事現場を覗き込む女の子。

★「02アゼルバイジャン共和国」。後ろから走ってきた悪ガキがいきなりぼくの尻をひっぱたいて、「やったぜ!」と逃走。その後ろ姿を見事に捉えたぼくも「やったぜ!」。

★「03ウズベキスタン共和国」。少女と犬。石を拾うポーズをしながらカメラを向けたが、ワン公には気づかれてしまったようだ。

(文:亀山哲郎)

2014/06/27(金)
第205回:暗室道具(2)
 よんどころない事情で、10人分の撮影データを約150カットも、文章にたとえれば“添削”するはめに陥った。いや、“陥らされた” というほうが正確なところだ。作者それぞれの個性と美を失うことなく(文字通り十人十色だから)、主語、述語、助詞、助動詞の使い方など、文法の原則を違えたところを、画像ソフトを駆使しながら修正する作業だが、如何せんぼくにその力量が十分に備わっていないので、まさに狂乱地獄だった。発狂というか悩乱というか、その寸前まで辿り着いたことは間違いない。恨み骨髄である。本居宣長が30年余をかけて『古事記伝』(『古事記』を校訂し注釈を加えた)を著したその苦労が身に沁みる、ってちょっとオーバーか。
 ぼくの独断と偏見をできるだけ慎みながらの補整作業は恐ろしいストレスを生じさせた。「おれはMacのオペレーターじゃねぇんだぞ!」と毒づきながら、この甚だしき消耗戦のおかげでまた白髪が一段と増えてしまった。しかし、ぼくの暗室道具習得には多少なりとも寄与してくれたように思う。いやが上にもそう思わないと、「やってらんねぇ!」というところだ。

 日本人であれば母国語である日本語をごく自然に使いながら会話し、お互いの意思疎通を図ることができるが、しかし、ぼくも含めて母国語とはいえ間違いだらけの言語でおしゃべりをしている。口語体でさえそうなのだから、ましてや文語体となれば、「正しく美しく」はなおさら困難を極める。
 写真を趣味とする人、愛好家と自称する人は、写真的口語・文語の文法をできるかぎり正しく、美しく用いて欲しいとぼくは願っている。このことはもちろん、ぼく自身も心がけていることだ。
 他人の写真を補整する資格などぼくにはないが(謙遜ではない)、一応プロの端くれとしての義務は感じている。その義務に従い、10人の住む場所の整地、整頓をしたに過ぎない。
 補整をしてさしあげた人から2度のメールをもらい、こう書かれてあった。「普通の写真をプロの人が補整するとこんなにも変わるんですね。驚きです。プロはすごいですね(ママ。コピペ)」と。ぼくは、「プロがすごいんじゃなくて、ぼくがすごいんです。そこをお間違えなきように」と切り返した。謙遜したり、自惚れてみたり、ぼくはぼくでけっこう大変なのだが、話半分としてもそういってもらえれば素直に嬉しい。甲斐があるというものだ。

 画像ソフトの代表格であるAdobe Photoshopを使い、日夜挌闘を余儀なくされているが、ぼくはPhotoshop使いの達人とはほど遠い。これもまた、謙遜ではない。自分の使用目的に添った使い方しか知らないからである。このことは、ぼくにとっての必要最小限の使いこなししかできないと言い替えてもいい。Photoshopを使いこなせばどんなことでも(どんな補整でも)できると信ずるにやぶさかではないが、同じ結果を導くためには他の画像ソフトとの併用がはるかに効率も良く、労力の損失を防げる。
 Photoshopだけを使い、ぼくの望む到達点まで何百の手順を必要とするものが、他のソフトの手助けで確実に1/10以下に減少してしまう事実は、老い先を考えれば誰も非難できないはずだ(誰も非難などしてないが)。長年、本妻であるPhotoshopに純潔を守り通してきたので、あれこれ浮気をしている自分にどこか後ろめたさを感じているのだろう。

 現在の浮気相手は、もう浮気相手とはいえないほど重要な位置を占め、痒いところまで手を伸ばしてくれるのだから、孫の手のように重宝している。一夫多妻もやむなしといったところか。
 もちろんそれらは、Raw現像ソフト以外はPhotoshopのプラグインとして使用できるものに限られている。

 余談だが、ぼくの心酔するドイツの名指揮者フルトヴェングラー(1886-1954)は、「ベルリン・フィルハーモニーは本妻で、ウィーン・フィルハーモニーは恋人のようなものだ」と公言している。ぼくもそれにあやかって、「イギリスのスピーカー(オーディオの)がぼくの本妻であり、一方でアメリカのJBLは恋人のようなものだ」と、30歳の頃にオーディオ仲閧ノ吹聴していたものだ。当時ぼくは、日本に2組しか輸入されなかったBBC放送局の大型モニタースピーカーとJBL社の超弩級モニタースピーカーを、その時の気分によって使い分けていた。オーディオに限らず、優れた製品であればあるほど、使いこなすのはとても難しいことだと感じ始めていた。

 話を元に戻して、現在ぼくは、DxO、Nik、onOne Softwareを併用しているが、それらのソフトはRaw現像、フィルムシミュレーション、カラーとモノクロの極めて精緻で、自在な調整が可能である。至って優れものだ。Photoshopはある意味万能であり、汎用ともいえるが、しかしある目的に特化したものは、概して「悪女の深情け」、もしくは「麻薬的」な面を多々持っているので、虜にならぬようなセンスを必要とする。特効薬のような役目を果たすので、処方箋をしっかり把握しておかないと思わぬ副作用を引き起こしてしまう。効用に酔い、過剰投与が仇となってしまうのだ。
 面白がって乱用すると、人質となりとんでもない目に遭うので(逆襲される)、要警戒。使いどころのコツは、控え目な使用であり、プリセットを何通りか作って(効率化のために)、画像ごとに微調整をすることだ。習得するまではかなりの根気と忍従を強いられるが、会得してしまえば、手間暇が省け、しかも希望に近いものに仕上がってくるので、縁切りなどできなくなってしまう。ほどよく手加減をしてくれる悪女に仕立て上げれば、それはなんと素敵なことだろうか!

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/205.html

 すべてフィルム。使用フィルムはコダックのコダクローム64と200。カメラはライカM4とキヤノンNew F1。

★「01ロシア」。シベリアの真珠ともいうべき美しい街、イツクーツクで。丸々と太り、微動だにしないので置物かと勘違い。「やっぱりおまえはロシア産だ」。

★「02ラトビア共和国」。犬が唸り声をあげ挑発。逃げ惑う同業者? この犬は写真屋という人種が嫌いらしいが、撮影後ぼくがしゃがみ込み手を出したら尻尾をふってなついてきた。DxO FilmPackでモノクロ化。

★「03グルジア共和国」。カフカーズ山脈に抱かれたグルジア軍用道路にある小さな村で。カズベキ山(標高5047m)を望む絶景だった。グルジアはぼくの最も好きな国のひとつ。

(文:亀山哲郎)