![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2015/11/27(金) |
第275回:京浜東北線(2) |
東西冷戦の終焉期(1990年前後)、ぼくは足しげく旧ソ連邦や東欧を訪れていた。今思うと、歴史的な動乱期と大転換期を現地の人とともに体感し得たことは、おぼろ気ではあるがその後の写真のありようや思想になにがしかの影響を与えたような気がする。明確でないところがぼくの、駄目の駄目たる所以だ。
そしてまた、瞬時に思考が追いつかず、時間が経った頃に事の次第を悟り、慌てふためくのである。事象とそれを飲み込むまでに時間差があり過ぎて、思うように嚥下できず、だからぼくはいつも知ったかぶりばかりしている。週刊誌や月刊誌の求めに応じて、ぼくは東欧見聞録なるものについていい加減なことばかりいっていた。もうとっくの時効じゃけん、よかでしょう。 旧レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)から寝台列車でエストニア共和国の首都タリンへ向かう車中、同室となったイギリスのご婦人から、「中国で今大変なことが起こっている」と聞かされた。駆け出しの新聞記者であった彼女は、知り得る情報を細かくぼくに伝えてくれた。それが天安門事件だった。1989年6月のことである。 彼女はイギリス諜報機関MI6の回し者に違いなく(と、勝手に決めつけている)、ぼくは彼女に「ところでMiss 007、あなたの上司はイアン・フレミングというんじゃない? 白状しなさいよ」といったら、「そうね、私はBBCのエージェントということにしておこうかしら」と屈託のない大笑いをしてみせた。やはり怪しい。 西洋の女たちは、大和撫子とは打って変わって、ところ憚らず大口笑いをし、手で口元を覆うなどという所作を心得ていない。大股、外股で闊歩することもまったく厭わない。西洋と日本では、色香とか艶姿(あですがた)というものの基本的概念が根本から異なるのだ。西洋女はいってみればすべてが異形であり(その異形もまたよし)、敢えていうなら「女っ振り」がいいということだろうか。ぼくは車窓に流れ行く針葉樹林帯を眺めながら、こんなところで日本女性のしとやかさを懐かしんでいた。 そして翌年、ぼくは再びバルト三国のひとつ、ラトビア共和国の首都リガにエストニアを経由して赴いた。ホテルのベッドに横たわりテレビのドキュメントを眺めていたぼくは、その映像の美しさに思わず身を起こし、「こんなに美しいビデオ映像は見たことがない」とひとりごちた。それは隣国リトアニアの独立運動を記録したドキュメント番組だったが、室内からガラス越しに撮影されたシーンの美しさは圧巻だった。言葉はまったく理解できなかったが、その映像美たるや、ぼくを虜にするに十分だった。 テレビにビデオ映像が用いられてからこんにちに至るまで、ぼくは美しいビデオ映像を見たことがない。ビデオ動画はフィルム動画の美しさには到底敵わないとの観念がぼくにはすっかり定着していたし、その考えは当時も今も変わっていない。 そのドキュメントは帰国後日本でも放映され、ぼくは再び感嘆した。それはぼくの見ることのできた唯一無二の美しいビデオ映像だったが、それでも「ビデオは美しくない」という観念を払拭するには至っていない。 つい1ヶ月ほど前、何気なく見ていたハンガリーのB級映画の数秒間にぼくはまいった。不覚、題名を忘れた。 夜、男と女がコーヒーを飲んでいる喫茶店のシーンが、外からガラス越しに写されていた。タングステン電球に照らされた、なんとも形容しがたいほどの、滑らかで柔らかいグラデーションにぼくはまいってしまったのである。ハリウッド映画では滅多に見られぬ美しさだ。 ガラスの微妙な乱反射が光の具合と相まって(おそらく偶然だろう)、得もいわれぬ色調を醸していたのだ。微妙な乱反射は、物の輪郭や色を微かに滲ませ、解像度を甘くし、コントラストを和らげ、適度に立体感を失わせ、それはカメラに取り付けるフィルターからは得られぬ何かだった。 ぼくは咄嗟に、古い建築に使用されていた昔のガラスを思い浮かべた。厚さに均一性がなく、向こうの風景がゆらゆらと揺れ、波打つあのアンティークなガラスである。 早速友人の建築家に「あのガラスは何というのだ。手に入れるにはどうすべきか。わたくしは、あのガラスを使って裸婦像を撮るのだ」とメールした。 自分の専門分野には過剰で居丈高な態度を示す彼がいうに、「あんたにはわからんじゃろが、あれは手延べガラスといいましてですな・・・あんたにはわからんじゃろが、すでに国内では生産されておりません。海外から取り寄せるしかありません。あのゆらゆらガラスをPhotoshopでそれらしく模したものを添付するので、あんたにはできんかも知れんが、それを見てよく研究しなさい」と、高飛車な鼻息にぼくは吹き飛ばされそうになった。この人、いみじくも、わたくしの教え子なんですよ! ちょっとましな写真を撮るようになったと思ったら、すぐこのありさまだ。 気に入った女性ポートレートを取り出し、ぼくは直ちに手延べガラスをPhotoshopでシミュレートしてみた。手延べガラスの雰囲気は見事に醸せるのだが、顔がクニャクニャ・ユラユラして、彼女の顔はまるで正月の福笑いのようになり、「ここで笑い転げてはいかんだろ。失礼だろ。男は忍従」と、ひくつく腹を必死に押さえた。手延べガラス作戦は、肖像画に関する限り見事に敗退せりだった。 どのような条件が揃えば、あの映画のような描写が可能なのだろうか? その因果関係を探るにはとにかく場数を踏むしかない。まず電車の窓からガラス越しにいろいろ試行してみようと思い立ち、京浜東北線での移動にカメラを持ち出したというわけである。 前振りの長い立川談志が生前こんなことをいっていた。「前振りの長い噺家は下手くそなんだ」と。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/275.html カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。 ★「01 車窓風景」。 京浜急行との交差地点。 絞りf5.6、 1/640秒、ISO400、露出補正-0.33。 ★「02 車窓風景」。 学生時代にこの近辺を訪れたことがある。当時は雑木林しかなかったが、今新しい街ができ、ぼくはそれだけ老いたということか。 絞りf5.6、 1/800秒、ISO400、露出補正-0.33。 ★「03 新杉田駅」。 席に座ったまま後ろ向きになり、ホームの情景を。意図的にブラして。 絞りf5.6、1/105秒、ISO800、露出補正-0.33。 ★「04 車窓風景」。 さまざまなソフトのプリセットから、都合11枚の画像を作り、貼り合わせた。複雑なことをし過ぎて、頭が混乱し、そのさなか仕上げたもの。 絞りf5.6、1/800秒、ISO400、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/11/20(金) |
第274回:京浜東北線(1) |
先月久しぶりに電車の遠乗り?をした。所要時間約1時間40分。埼玉県北浦和駅から神奈川県本郷台駅まで、京浜東北線に揺られての、のんびりとした移動だった。撮影が目的ではなく、友人の病気見舞いだったが、ぼくはある写真的試み(次号にて解説)のためにカメラを持ち出すことにした。
写真屋になって以来何十年も、移動はもっぱら車に頼っていたが、“改札の呪縛”から解き放たれた今、ぼくは一丁前の顔をし、勇んで電車を利用することにしている。“改札の呪縛”といってもいいほどに、ぼくは乗車に対する気後れと怯えによる拒否反応を示していた。 ずっと以前のこと、改札を通過する際に何かの手違いによりドアが問答無用とばかり権威主義的にバタンと閉じ、ぼくは太股に予期せぬ衝撃を受け、金縛りに遭い、そして立ち往生となってしてしまったことがある。後方からの声なき声、「どないしたんや、はよせんかい!」という、なぜか関西訛りの怒声的音波を敏感に汲み取ったのである。後頭部に受けた音波を未だ拭いきれないでいる。 いつの頃からか出現した自動改札による無機質かつ無慈悲な通過儀式のさまざまを知らなかったがために引き起こされたことどもは、一種の物言わぬ恫喝のようなものだった。その強迫観念はぼくに複雑で重篤な精神疾患をもたらしたのだ。 中年に差しかかった頃に、現代風ともてはやされる社会的仕組みに自ら身を置き、それに順応することのばかばかしさと浅薄さを知っていたはずだったが、還暦を過ぎてまでこのような不躾な仕打ちに順応しなくてはならないとは、まったく思いのほかだった。 切符自動販売機と自動改札というコンピューターによる威嚇装置がじくじくと疼きながらトラウマとなり、「君子危うきに近寄らず」とばかり、電車利用を極力避け続けてきたのである。改札を無事通過することに何度か失敗したため、小心者のぼくは利用の度にオドオドし、狼狽もし、異常な緊張を強いられた。 そして今、世間並みの“改札通過技能”を修得したことはまことに悦ばしい。このことはぼくにとって大仕事であり、決して他愛のないことなどではない。 妻はぼくにSuicaなるものを持たせ、一人前の正しい社会的人間に育ててやろうとの心意気を示したが、カードの利用金額が枯渇して以来、ぼくは妻の麗しき配慮を徒(あだ)にしている。そして皮肉なことに、そのカードは定期入れに入れたままで使用可能であることを知った矢先のことでもあった。ぼくはだから今、乗車の度に切符を購入し、改札に差し込み(出てこなかったらどうしようと怯えながらも)、律儀に“通過儀式”をこなしている。 人は一度トラウマを抱えると、その傷はなかなか癒しがたく、何かの拍子で条件反射のように生々しい記憶がひょっこりと顔を出す。通過技能を修得したといっても、その痛みに終生つきまとわれるのだ。 そして電車行脚の苦難はまだまだ続く。それはこの4,5年、プラットフォームや車内にわがもの顔で猛烈に増殖したスマホ虫である。この虫は害虫とまではいえず、ぼくに強迫観念を与えない分人畜無害ではあるが、ただひたすら虚しさばかりを覚える。この虫たちは感情も、意識も、思考もまさに完全停止状態にあり、それに気づいていないので“やはり”空恐ろしい。公共の場にあって、自分を取り囲む状況に無感覚でいられることは、触覚を失うに等しく、さらに恐ろしい。まさに無痛・無感の逞しき人々である。 このありさまを眺めていて、ぼくは老婆心を必要とはしないが、虫たちの脳細胞の壊死を直視しなければならず、それは“やはり”憂鬱である。この絶望的な風景は、悼むべき現代風社会的仕組みの断片なのだろう。 ぼくは自尊心が強いのか、スマホなるものに一顧だにしたことがない。 北浦和駅を出発した時間は正午だったので、比較的空席があった。ドアのすぐ右手に誰も坐っていない優先席があり、自分の姿を鏡に照らしながらそこに坐ってよいものだろうかとさんざん悩み抜いたのだ。団塊の世代は今、「優先席」という名称に悩ましいお年頃なのだ。 ぼくが何故優先席にこだわったのかの理由はふたつ。ひとつは、車窓風景だけでなく車内も撮りたかったので、優先席の向い側には席がなく(こういう仕様があるとは知らなかったなぁ)、人物との距離が取れ、なおかつ観察地点として好都合だったこと。つまり、そこはほどよい撮影空間に恵まれていることだった。 そしてもうひとつは、優先席に坐ればどのような心理状態に陥るのかという興味だった。この着座はちょっと勇気が要る。団塊世代の読者諸賢には、その複雑なる心境について改めて述べる必要もないだろう。自尊心によるやせ我慢を取るか、ご都合主義の成りすましのどちらを選ぶかということである。普段、優先席に坐ることのないぼくは、今回長旅と撮影を全面に押し出し、後者を選んだ。“優先席に相応しい”乗客がいれば、もちろん席を立つ。 新橋を過ぎたあたりで、インド人のビジネスマン2人が隣の空席に腰を下ろした。ターバンを巻いた年の頃40代と思しき壮健な人たちだった。ビジネスに余念がないらしく、もの静かに語り合っていたが、浜松町から“優先席に相応しい”老女が乗ってきて、ぼくらの前に立つや否や、くだんのインド人の1人が即座に老女に席を譲った。 ぼくのほうがおそらくインド人たちよりずっと年配であろうから、ぼくが敗北感を味わう必要もないのだが、ぼくにだって若く壮健な時代があったのだ。いきなり白髪ジジィになったわけではなく、未だ若き時代の気分を引きずっている。つまりぼくは、インド人たちより若いと一瞬錯覚し、そうでありたいとの願望を抱いたに違いない。 滑稽なことと一笑に付したいと思うのだが、そうはなかなかいかないところが団塊の複雑な、お年頃の悩ましさなのだ。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/274.html カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm(35mm換算)。 時系列に掲載。 ★「01 京浜東北線車内」。 優先席に座ったままの位置から。前に立った女性を観察しながら、カメラ設定をあらかじめ整える。車内は思いのほか暗いのでISOを上げておく。 絞りf5.6、 1/80秒、ISO800、露出補正-0.33。 ★「02 京浜東北線車内」。 個人(集団ではなく単体での)を特定するような国内写真は今まで掲載を控えたが(そうしなければならない理由はないが)、今回は正面顔でないこともあり、掲載することに。 優先席から身を乗り出し、アングルを下方からにするため両膝に肘をつき、女性の様子を窺いながら静かにシャッターを押す。 絞りf5.6、 1/450秒、ISO800、露出補正-0.33。 ★「03 磯子駅」。 席に座ったまま後ろ向きになり、ホームの情景を。ソフトフィルターを掛けたイメージで。 絞りf5.6、1/220秒、ISO100、露出補正-0.33。 ★「04 新杉田駅」。 窓ガラスの汚れと乱反射を暗室作業で強調し、この場の空気感を。 絞りf5.6、1/125秒、ISO800、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/11/13(金) |
第273回:写真評 |
他人の作ったものについてあれこれいうのはとてもたやすい。自分の言辞に責任を伴わぬ場合はますますたやすい。感じたままを、言いたい放題に、ぼくは良心に苛まれつつも、悪態さえつく。よせばいいのにである。
率直にもの申す姿勢はしかし、相手に対する誠意であると同時に、自身の佇まいや自分の作品のクオリティの一切を、一旦棚に上げるというさもしさに等しく、畢竟そこに猛烈なジレンマが生じる。だから写真評という行為は常にぼくを大変悩ましい状況に追い込むのだ。そして、そこに共存する評論的ボキャブラリーの不足が輪をかけ、ぼくはますます苛立ち、窮地に陥り、所在を失っていく。 本心をいえば、今このジレンマの正体についての詳細を述べたい気持に駆られている。それを強行すれば、自分の写真評についての論点とその拠り所となるものをいくらか整理・分析できるような気がするのだが、議題に取り上げた「写真評」から大きく外れ、しかも駄文長文となってしまうので、取り敢えず棚上げにしておく。 写真評というものに対してのジレンマの解消には、ある種の離れ業が必要だ。 それは自身の好みを排し、歴史的に良い写真として評価の定まっている様々な形態の写真に自分の物差しを宛てがい、相手のレベルを斟酌しながら、思うところを信念に従って真摯に伝えること。この趣意が理想とは思わないが、評論家でもないぼくが取るべき当面の指針だとすれば、なるほど、離れ業というか、相当な芸当でありましょう? 1ヶ月の間にぼくは100枚以上のプリントの写真評を課せられている。審査委員などしていないにも関わらず、一時に2000枚以上などということもあり、足腰が立たなくなってしまうこともある。また時には、見ず知らずの方々が、ぼく如きに「写真を見てもらえますか?」といってやってくる。わざわざ札幌や博多の遠方からも、一介の写真屋にすぎぬぼくのもとに足を運んでくれる奇特な方々もいる。「ぼくはそんな玉でないのに」と正直に思う。 しかし、人様のつくったものに批評・論評を加える資格が果たしてぼくにあるのだろうかとは考えない。それはぼくが決めることではなく、相手が決めることだから。そしてまた、いくらぼくが、居住まいが悪く不遜であろうとも、ぼくに写真を評する慧眼が備わっているとも思っていない。 写真を見せる人は、「自分の写真について何かの示唆を、このおっさんは与えてくれるかも知れない」との淡い期待と希望を抱いているのだろうと思うことにしている。ぼくの写真に少なからず好意を抱いているからこその、ぼくの悪罵に対しての容赦を認めているのだろう。 言葉を受け取る側(写真評を受ける側)にもさまざまなタイプがあるので、ことは厄介だ。それを使いこなす的確な技量をぼくは持ち合わせていないだけに、だから余計に気を遣ってしまうのである。作品の否定的な面はできるかぎりソフトに述べ、良い面は大いに褒めることにしているが、その匙加減がとても難しい。 欠点を指摘する時、「ではどうすればいいのか?」に必ず言及することを旨としているが、相手によっては(特に古兵とか剣客に対しては)「ダメ」の一言で済ます場合もある。 欠点を指摘することより、長所を伸ばすことがぼくの役目と心得ているが、そうは言いつつもいつも欠点に目をつむってばかりいるわけにもいかず、その相剋にぼくはのたうつのだ。 月一度の定例会の日に限って、様々なストレスにより、礼儀正しく結石の発作が計ったようにやって来て、ぼくはのたうち、強力な鎮痛剤をポケットに忍ばせている。結石の痛みと不快感は尋常なものではなく、しかしだからといってぼくは退座したことなど一度もない。この健気さを誰も理解しようとはしない。「しぶといおっさんだ」とくらいにしか思わぬ薄情者にぼくは囲まれている。 褒められることにより精神が高揚し、今まで以上に意欲的に写真に臨もうとする人。これが一般的だが、もう一方では、ぼくの毒突きを、落ち込むどころか心地よく感じる変わった人たちがいる。このようなマゾっ気に富む人が身近に何人かいるのだから、気味が悪い。ぼくの悪罵を聞かないとすっきりしないとか、写真評をしてもらったという気がしないという変態さんがいる。 先日、若い友人が個展を催し、個展の閉期間際になって電話をしてきた。「来て下さい」と、何か思い余ったというか切羽詰まったような口調だった。「グサッと心臓に突き刺さるようなことを誰もいってくれないので、ここはかめやまさんの出番だ」というのである。こんな出番はあまり嬉しくない。 誤解を招かぬようにいっておかなければならないが、ぼくはこれでも作者に失礼にならぬように数少ない持ち言葉を丹念に選択し、相手を傷つけまいとの配慮くらいはしているつもりである。感じたことを適切な言葉で表現できない自身に苛立ち、そしてもどかしく、そんな時に仕方なく、どうしても手っ取り早い幼児言葉が意に反して口を突いて出てしまうのである。たとえば「ウンコ」とか。 結石の発作に見舞われながらも、何故写真評を止めないのかを謙虚に振り返ってみると、「ぼくの信念に従った写真のありよう」を伝えることによって、写真の持つ深度を、頑迷・偏狭に陥ることなく深めて欲しいという個人的願望であることに気づく。第270回で、「類似品」や「既製品」を遠ざけて欲しいという嵩高な言いようをしたが、それは自身への強い戒めでもある。 写真評が、写真の上達にどれ程の作用と影響を及ぼすのか、その因果関係を知る手立てをぼくは今のところ持たないが、助手君を含めた何十人の人たちを見てきて、そこにもし最大公約数的他律性のようなものがあるのだとすれば、それは「素直に受け取る」ことに尽きるような気がしている。「ウンコ」の効用はあなた次第なのだ。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/273.html 倶楽部の友人が家族旅行と称してロンドンに行ってきた。定例会でその写真を見せてもらい、ぼくは47年前(20歳)の郷愁に浸った。その時の写真を5点ばかり掲載させていただく。 カメラは中古で買ったNikon F。レンズはNikkorの35mmと50mm。フィルムは英イルフォード社のもの。アナログ印画紙をスキャニングしデータ化。デジタルの暗室補整は加えていない。 ★「ロンドン01〜05」はすべてロンドン市内。20年以上ロンドンに居を構え、勤めている友人によると、「この20年の間にかつての古き良きロンドンはどんどんなくなってしまった。イギリス紳士も淑女もどこかでひっそりなりを潜めている。寂しい限り」といっていた。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/11/06(金) |
第272回:1枚の写真のインスピレーション |
「北極圏直下の孤島へ」を連載していた1ヶ月ほど前のこと。ソロフキの存在を知らされた『収容所群島』をもう一度精読しようとページをめくっていた時、ぼくはある写真(掲載写真01)に目が釘付けとなった。過去何度も通り過ぎた作者不明の、80数年前に撮られたその写真にすっかり魅了されたのだった。
ネガティブな解釈をもってすれば、不完全だらけのその写真を、無頓着に通過してしまったのは明らかにぼくの落ち度なのだが、反対に我田引水・自画自賛をもってすれば、それは日々の成長の証と取ることもできる。取り敢えずぼくは後者を選択しておく。 以前見過ごしていたものを、時間の経過とともに、ぼくは自然の摂理に従い年老いつつあるけれど、余生を惜しむようにさらに成長著しく、新たなるものを発見できたことの歓びと刺激はやはりとても大きい。落ち度と成長の両方を素直に認めることにしよう。 何故今さらながらにその写真に心を奪われてしまったのか? それを見ながらぼくは、「写真ってこれでいいんだよね」と自分を諭すように何度もつぶやいた。その思いは、現代の病に冒されていることの自覚に他ならぬことだったのではないか。 以前に述べた記憶があるが、ぼくは自己の問題として、昨今のデジタルの「写りすぎ」にどうにも我慢がならないでいる。写真科学の一面を取り上げれば、解像度というものは人間の写真的欲求を満たす一手段であるがゆえに、「より微細に、より明確に描写する」ことを、写真が発明された当時から今日まで人々は願ってきた。技術者は一途にそれを追及し、愛好家は喜びながら従ってきた。現在に至るも双方がその手を緩めることを知らない。 このことは科学的進化の必然の成せる業として、それ自体をぼくは否定するものではなく、むしろそれどころか実際に甘受してきたといえるが、ユーザーは自身の節度を良識に従ってどこかに量定すべきではないだろうかと、ぼくは世の愛好家たちに投げかけてみたいのだ。 技術は磨きをかけながら進化し続け、その恩恵を授かる人間の精神的資質は同時進行とはいかず、常に後手に回るのは仕方のないことだが、もてあそばれることには警戒怠りなくということだ。ぼくは不覚ながらも、もてあそばれてきたという自覚が生じたので、「デジタルは写りすぎなんだってば!」と、ぐちぐち文句をいっている。 い草で編まれた馥郁(ふくいく。よい香りのただようさま。大辞林)たる畳を感じ取る感覚が最優先されるべきことで、編み目の勘定に精を出し、それをありがたがるのはお門違いだとぼくはいいたいのである。 技術開発者の言を待てば、おそらくぼくの考えに異論のあることは重々に理解できる。そしてまた、愛好の同志たちからも、「では、そんなものを使わなければいいじゃないか」と乱暴かつ安易に揶揄されることもあるだろう。 今はなき過去に完成された良きものと現代の技術を駆使した機器との、決して容易ならぬ併存を探し求めるのが、現代に生きる者の理想なのではあるまいか。ぼくはその信条に従いたいのである。「温故知新」とは微妙に意味合いが異なるのだが、現代のデジタル技術でなんとかそのような表現ができないものだろうかと、苦心惨憺してみようと思っている。 掲載写真「01白海運河」は、白海運河での冬季作業を撮った貴重な写真である。スターリンが発動した社会主義国家建設のための5カ年計画の一環は、1931-33年のたった20ヶ月間で、227kmの花崗岩大地を結果としてほとんど手作業だけで掘り進んだのである。作業は苛酷で残虐を極め、膨大な人命が失われた。 この写真に、どのようなカメラとレンズ、フィルムが使用されたかはまったく分からない。また、現像処理方法も分からない。この写真は書籍での印刷のもので、実際のプリント、もしくはネガフィルムをぼくが見たわけでもない。撮影機材や処理上の不備のすべてをこの印刷(印刷特有の網点もあるので)から読み解こうとする試みは極めて無謀ではあるが、しかし、自分の多くの写真が印刷になっているぼくの経験から推察すれば、この写真はかなり不完全な処理が施されているのだと思う。ネガも傷だらけである。 長年アナログの暗室処理に携わってきたぼくにとって、この写真のトーンや解像の曖昧さは確かに“身に覚えのある”ものだった。この“身に覚え”にぼくは強く引き込まれ、ちょっと打ちのめされてしまったのである。忘れかけていた美しいものに覚醒させられたのだ。 それは郷愁や懐古への憧れではなく、現在のデジタルが失ってしまったものであり、写真表現として必要にして十分なものが、あるいは写真としての幽玄の美が確かに存在していると思えたのだ。穿った言い方をするのであれば、それは「不完全なものの統一が成せる一種の整合美」のようなものだ。不備・不堪なものが堆積したその隙間から、忘れかけていた落とし物がひょっこり顔を出したに似ている。 デジタルの写りすぎを打ち消しながらも、写真古来の美しさを失うことなく、その様がここに見事に具現されているではないかと、ぼくは恐悦した。 デジタルでどのようなアルゴリズムを用いればこのような描写ができるのか、門外漢のぼくには皆目見当がつかないが、このイメージを心に刻んでおけばそれでいい。しばらくの間は、それを拠り所に暗室作業のあれこれを試してみようと思っている。 掲載写真「02ポカラの子供たち」は、カラーポジフィルムで撮影したものだが、この写真は撮影時からモノクロをイメージしたものだった。しかし、何度モノクロ変換を試みても、どうしても上手くいかずとっくに諦めていたのだが、白海の写真のトーンにインスピレーションを得て、何とか意図したものに近づくことができた。「怪我の功名」ではなく、何というんですかね? 「瓢箪から駒」? 潰すところは潰し、飛ばすところは飛ばして「何が悪い!」って開き直った結果である。年老いて、これからも強く、逞しく開き直ってまいります! ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/272.html ★「01 白海運河」。 ソルジェニーツィン著『収容所群島』第3巻第3章 「群島は癌腫を転移さす」より。 ★「02 ポカラの子供たち」。 撮影データ:カメラ:ライカM4、レンズ:ズミルックス35mm F1.4。フィルム:コダック・エクタクローム64。ISO 64。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/10/30(金) |
第271回:荒川区三河島(3) |
はじめに「写真よもやま話」に相応しく、レンズの焦点距離についてもう一度お復習いをしておこう。大切なことは何度繰り返しても、過ぎるということはないと、ぼくはうちの倶楽部の人たちから学び取った。そして常々彼らの「馬の耳に念仏」を痛感させられている。言葉を変えれば、「糠に釘」とか「のれんに腕押し」とか「馬耳東風」ともいいますなぁ。ともあれ、ぼくはあの手合いを憂い、お嘆きなのだ。
念のために「糠に釘」を辞書で引いてみると、「手ごたえなく効目のないことのたとえ。意見しても効果のないことなどにいう」(広辞苑)。「馬耳東風」とは、「(春風が吹くと人は喜ぶが馬は何の感動も示さない)人の意見や批評などを、心に留めずに聞き流すこと」(同)とある。なるほど、李白はうまいことをいったものだ。 前回のレポートでお伝えしたように、三河島再訪時、ぼくは焦点距離16〜35mmの広角ズームをカメラに取り付け、すべての写真をそれ1本で賄った。撮影の多くを16mm固定で使用していたので、被写体を前に迷うことなく立ち位置が定まり、「写真はザックリ撮ればいいのさ」を念頭に2時間を心地よく過ごすことができた。撮影枚数は160枚。多くもなく、少なくもなくといったところか。 ファインダーを覗いて画角にズレが生じた場合には、ズームをジコジコさせて調整するのではなく、自分の立ち位置を変えるのが(単レンズと同様の使い方)ぼくの流儀。ぼくは気弱な質なので、自分の流儀を他人に押しつけることはほとんどしないのだが、自分はボーッと突っ立ったままズームで押したり引いたりしながら、なんとかしようとの料簡だけは気に染まない。足を使えってば! そんなことをしている限り、大切な写真のフットワークは育たない。写真ばかりでなく、何事にもそれに相応しいフットワークというか順応した足さばきや身のこなしってもんがあるでしょう! 茶道の立ち居振る舞いという日本古来の素晴らしい美の様式があるではないか! と、わたくしは並み居る馬の耳に向けて叫ぶのであります。 焦点距離が連続可変であるズームレンズの使い方は個人によってそれぞれに異なるのだろうが、ぼくは被写体を発見した時、「これは16mm(20mm 、24mm、 28mm、35mm)」と決め、あらかじめ焦点距離を固定する。ぼくにとって大切なことは画角も然ることながら、遠近感を優先するので、決してズーミング(ジコジコ)で調整する方法を採らない。その理由は、より素早くシャッターを切りたいからだ。ファインダーを覗いて瞬時にシャッターを切るのが理想だが、いつもそのようにいくわけではない。あれこれ考えているうちに、感動やイメージのすべてが薄まり、やがて逃げ去ってしまうという恐怖がぼくにはある。もたもたしていると、静物撮影に於いても「出遅れ」を感じ取ることが多い。そんな時の写真は大方出来がよろしくない。 「鉄は熱いうちに打て」に倣えば、「写真は熱いうちに撮れ」ということだ。 誤解を招かぬように補足するなら、それは「被写体をよく観察したのち」という条件付きである。その経過をたどっていない写真があまりにも多いのではないかとぼくは感じている。写真評をする時に、「被写体を見る前に、あなたはシャッターを切ってしまったね」とぼくはよくいう。自戒を込めて。 広角レンズ(焦点距離が、標準とされる50mmより短いもの)は、焦点距離が短くなればなるほど、手前のものをより大きく、遠方のものはより小さく描写する性質を持っている。短くなればなるほど、遠近感(パース)が強くなるのがレンズ光学に従った理屈である。ここが肉眼とは決定的に異なる現象なので、レンズの持つ遠近感を身につけることが大切。 では焦点距離が異なると写真にどのような違いを生じるかは、「第21回:風景を撮る(10)」の掲載写真をご参照いただければと思う。 文中、「焦点距離の異なるレンズを使い分けるということは、つまり主人公の背景にどんな役割を演じさせるかということなのです。音楽で言えば主旋律を奏でる楽器があり、他の楽器はどのような和音や旋律を歌い、より主旋律を引き立たせるかということと同じなのです」と、ぼくにしては簡便に述べている。 三河島を歩きながら気づいたことのひとつは、我が家の周辺ではすっかり姿を消してしまった銭湯が意外に多く存続していることだった。2時間、同じ所を行ったり来たりしながら、4軒もの銭湯を発見し、すべてが営業中だったことに驚いた。ぼくは拍手こそしなかったが、惜しみなくその健闘を称えた。 このことはつまり、地域のコミュニティが健全に、かつ濃密に営まれていることの証なのではあるまいか。隣近所の人たちが心身ともに裸のつき合いをしているその象徴としての公衆浴場の存在は、現代社会から失われつつある人間関係のぬくもりの残照といっても大袈裟ではないだろう。都内にあって、ここは素敵な下町情緒を醸していた。お隣さんと、昔の長屋のように醤油や味噌の貸し借りをするのか聞いておけばよかったと思っている。 子供の頃に通った銭湯での情景が、ディフューズフィルタをかけたように拡散し、まさに湯けむりのなかから湧き上がってきた。銭湯の情景は日本人の心に染みついた原風景のひとつだ。 今回は果たせなかったが、次回機を見て、撮影後の銭湯侵入作戦など試みようと思っている。温泉も結構だが、銭湯の乙なぬくもりにはやはり敵わないであろう。そしてまたここは古くからのコリアンタウンでもあり、焼肉屋や中華店も多く、安くて美味そうなものにありつけるかも知れない。ビール片手に、それも一興であろう。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/271.html ★「01 銭湯」。 銭湯の裏手に回り、引きの取れぬ路地にかがみ込んで。 撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/125秒。露出補正-0.33。ISO100。 ★「02 木造家屋」。このような様式の木造家屋が何軒かあった。なかはどのような造りになっているのだろうか? 前号掲載の05写真も同じような造りだ。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。 ★「03 捨てられた旅行カバン」。なぜか路地の真ん中に旅行カバンが。住民に聞くと、「ここは車も通れないし、ゴミとして捨ててあるんでしょう」と、一切気にしないという口振りだった。窓ガラスに反射した夕陽がスポットライトのようにカバンを照らし出す。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/200秒。露出補正-2.33。ISO200。 ★「04 広場」。路地から顔を出すと小さな広場に出た。とっさにピンホールカメラを思い出し、それをイメージ。こんなに鮮明には写らないのだが、あくまでそのイメージで暗室作業を。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/60秒。露出補正-1.33。ISO200。 ★「05 赤い中華料理店」。真っ赤なペンキで塗られた共産主義的な料理店。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/80秒。露出補正-0.33。ISO250。 ★「06 女子中学生」。踏切で遊ぶ女子中学生。この年代の少女は何をしても愉しく、面白いのでしょうかね? 見習わなくてはいけませんね。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/60秒。露出補正-1。ISO200。 ★「07 駅」。帰路、三河島駅のエスカレーターで。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf4.0、1/20秒。露出補正-1。ISO200。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/10/23(金) |
第270回:荒川区三河島(2) |
三河島第1回目の訪問で見事返り討ちに遭ったぼくは、その原因追及に余念がなかった。生まれてこのかた、“競争”というものをまったく意に介さず生きてきたぼくではあるけれど、自分の写真に関してだけはえらく勝ち気な面がある。それは“負けず嫌い”なのではなく、つまり“利かん気”というものなのだ。
双方とも自己の発展や啓発に、心がけ次第では建設的な役割を果たすことができるが、“利かん気”はより内向的な性格を帯びているとぼくは捉えている。外に向けて“返り討ち”の悔しさを発散することなく、至らず事の応報は自己のなかにどんどん沈んでいく。“負けず嫌い”ではないので、いわゆる嫉妬や羨望には縁遠いが、ぼくの“利かん気”は自己が如何に自己らしくあるのかを厳しく問うてくるから厄介だ。心がけが芳しくないだけに、難題である。 ぼくが常に主張する良い写真の条件のひとつは、「あなたらしい写真」なのであって、そのことはつまり、「作者の顔や佇まいがうかがえる写真」ということでもある。ぼくはそのような作品を、たとえ技術上の不備が見られたとしても、貴ぶべきものとして高く評価している。そんな写真を撮る人は、概ね“利かん気”の持ち主である。しかし、なかには稀に「煮ても焼いても食えない」と思わせるような人がいるから摩訶不思議だ。ぼくの考えも揺らいでくる。 文脈の流れに従っていうのであれば、あなたにしか撮れない写真が必ずあるのだから、その発見に勤しんで欲しいということである。「誰にでも撮れる写真」や「どこにでも見かけるような写真」を、「類似品」や「既製品」と見なし、飽き飽きしながら、遠ざける意識を持って欲しいと、拙稿の読者諸賢には切に訴えたい。そのような作品は鑑賞に値しないのだから。 ただ、上記したことを志そうと意識するあまり、「唯我独尊」とか「独りよがり」なものになってしまっては元も子もなくなる、と自戒を込めながらいっておこう。 このような蘊蓄(うんちく)を垂れてしまうと、写真を掲載する手前、どうにも決まりが悪いのだが、言ってしまった以上は体裁を整えようなどと、はしたなくも考えてはいけない。好きな写真で飯を食おうなんてことは、面の皮がよほど厚いのだから、写真屋はそれ相応の覚悟を持っているはずだ。 9月30日、2度目の三河島で驚いたことは、初訪問時に比べ住民が賑わっていたことである。これは大きな変化だった。路地裏で、軒先で、玄関先で、あるいは往来のど真ん中で、世間話に専心没入、誰憚ることなく我が世の春を謳歌する誠なるおばちゃんたちの姿が群れとなってぼくを襲い、そして精神的な視界を奪い去ったのだった。勝ち気なおばちゃんたちは立ち話に生き甲斐を得、霊験あらたかと生き生きしている。 いつの時代も、何処でも、おばちゃんたちというのは、一挙手一投足に神経が行き届き、また一方で力まかせでもあり、とにかく力が全身にみなぎっている。健気に生きることの基本的な資質を彼女たちは終生保ち続けていくのだろう。男にはない見事な業という他ない。 ここは老若男女がほどよく入り混じった濃厚な地域社会が存続しており、下町三河島の面目躍如といったところである。よき昭和にタイムスリップしたような、活き活きとした不思議な風情があった。 1度目の訪問(前回)は残暑厳しい9月2日だったので、犬も猫も人も完全にうだっており、すべてにやる気が失せていたのだろう。パワフルな、さすがのおばちゃんたちもすっかりなりを潜め冬眠中だったのである。 そんな場所で、カメラを手にした白髪ジジィ1人だけが、バンダナを巻いてやけに力み返っていたのだ。従って、路地裏を徘徊しながら最も敏感に感じ取ったものは、実はほのかに漂うネズミと猫の小便臭だった。含蓄に富むこの懐かしい香りが、ぼくをしてノスタルジックな世界に迷い込ませたのではなかったか? 今これを書きながら、ぼくの失敗はここに起因するのではなかろうかと気づき始めた。レンズの焦点距離も然るものながら、情緒的な面に引きずられたのがいけなかったのだとぼくは悟り始めた。小便臭が情趣豊かなものであるかはさておき、あのリアリズム漂うおばちゃんたちの所作に、ぼくはあの地で覚醒させられたような気がする。 今回掲載する写真は、焦点距離が16-35mmの広角ズームを使用したものだが、Rawデータのメタデータを見るとすべて16mm固定で使用している。ファインダーを覗きながらズームレンズをジコジコ動かすのは禁じ手としているので、ぼくは自分のその流儀を踏襲している。それはズーム使用の掟のようなものだ。 口を酸っぱくして、「ズームを使用しての、多少の微調整は許可するが、立ち位置も定まらぬうちから、ズームでジコジコするんじゃな〜い!」と、うちの倶楽部の人たちに申し伝えている。それに頼っているうちは、パースも画角も身につかず、レンズの使いこなしなどとても覚束ないからだ。 しかし、うちの人たちは指導者もどきのぼくの言うことを聞かない。ホントに聞き分けのない、“聞かん気”の人たちである。それでいて「かめさんのいう『まずイメージすることから始める』が、どうしてもよく理解できない」と、嘆いてみせる。 自由剥奪の憂き目に遭って、人は初めて自由のありがたさを知るというから、近々ズームレンズを刀狩りのごとく召し捕って、質屋に放り込んでやろうと思っている。ここが勝ち気の見せどころでもあるのだ。 16mmとはちょっとエキセントリックな焦点距離(超広角)とも思えるが、前回使用した35mmレンズの倍以上の画角は、視野がやたらだだっ広いので、いろいろなものが写り込んでくる。何をどう省略するかに神経を費やさねばならず、そのことはつまり被写体をよく観察することにつながる。立ち位置やカメラの高さなどにも慎重を期さねばならない。 とはいえ、ここはリアリズム溢れるおばちゃんたちの作法にあやかって、ぼくは今回無意識のうちに「写真はザックリ撮ればいいのさ」とうそぶきながら、どこか古式なこの街を歩き始めた。 気温も湿度も下がったせいなのか、ネズミと猫のあの香りも利かん気のぼくの鼻先から召し捕られたように思われた。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/270.html ★「01 常磐線高架下」。 他愛のない光景だが、ぼくは自転車のある風景が好き。どこかに人間の姿が見えるからだろう。 撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf6.3、1/125秒。露出補正-0.67。ISO400。 ★「02 回覧を持って走るおばさん」。今回は前回と異なり人物の往来があったので、人物スナップが多くなったが、個人を特定しづらい写真のみ掲載。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/100秒。露出補正ノーマル。ISO200。 ★「03 和服のおばさま」。祭りでもないのに、なぜか和服を着たおばさまに多く出会った。和服を脱げば、リアリズムの世界に帰るのだろう。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf5.6、1/160秒。露出補正-0.33。ISO200。 ★「04 路地」。階段のある路地がいくつかあり、昔ながらの風情を醸している。角に建つこの木造家屋は築何年くらいだろうか? 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf6.3、1/60秒。露出補正-0.33。ISO200。 ★「05 空き地」。住宅密集地に突如出現した空き地。 撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/10/16(金) |
第269回:荒川区三河島(1) |
重い腰を上げ、やっとのことで三河島(東京都荒川区)に行った。ぼくが三河島のイメージをどのように描いていたかは拙稿「第240回:妄想のはざまで」ですでに述べたが、我が家から電車に乗って40分で行ける三河島は、1万km彼方にあるソロフキより心理的な障壁が高かった。
第240回に、 「撮影に赴く前に、まずイメージの構築をする。描いたイメージを、今度は現地で取り崩していく。この作業が上手くできれば、写る」と書いた。 ぼくの経験では、イメージと現実の双方を現場で沈着に見つめ直し、その分離作業がほどよくできれば上手くいく場合が多いということだ。そのことはすなわち、情に引きずられることなく、現実を素直に受け入れることに通じる。 イメージに即したものを現場で発見しようと躍起になる必要もない。 遠方のソロフキはぼくの生まれ育った文化や環境とはまったく異質のものなので、たとえ描いたイメージと現実とに甚だしき齟齬が生じても逃げ道がいくらでも見つかる。異文化に於けるその隔たりは、容易に受容できる要素と下地が誰にでもあるものだ。然るに、イメージと異なっても存分に言い訳が立つので、腐る必要はない。あたふたすることなく済むので、外国はかえって気が楽だ。 それに比べ三河島は自己の幼児体験や原風景と重なる部分が多く、つまり同質の文化圏でもあるので、そこでイメージと現実の狭間に揺られながら齟齬を来してしまうと精神のコントロールが危ういものになってしまうのではないかとの恐れがあった。遠くの山崩れ(ソロフキ)は対岸の火事として、非情ながらも他人事(ひとごと)で済むが、隣の山崩れは身に降りかかり、災いとなる。ぼくはその災いが恐かったのだ。 残暑きびしい9月2日、バンダナを巻き(ぼくの撮影必需品。ファッションではなく、実用としての汗しのぎ。バンダナなどという小洒落たものでなく、粋な日本手ぬぐいがあればぼくにはそれが相応しいのだが)、常磐線三河島駅に降り立った。「取り敢えずの下見」と言い訳をして、気軽に持ち出せるカメラを選んだ。 愛用のFuji X100Sはすでに現行製品ではないが、広角35mm(35mm換算)の固定焦点(単レンズ)であり、APS-Cサイズながらも軽量で、描写も秀でている。どことなく大仰で、鉄アレイのように重たい一眼レフを人前に晒すのは気が引けるというもので、その点このカメラは小型で取り回しが効き、レンジファインダーにつきスナップには打ってつけだ。 まず現場の空気に心身と、広角35mmの画角ともども馴染ませることから始めよう。ストラップを右手首に巻き付けてぼくは久しぶりに揚々とした気分だった。暑さもなんのそのである。 改札を出たところが尾竹橋道りであり、ガード下の風景を撮ろうと思いきやぼくは早速つまずいた。カメラを構えるまでもなく、ぼくはその情景を稲妻より速く諦めた。広角35mmでは焦点距離が長すぎるのだ。画角ばかりでなく、パース(遠近感)も広角とはいえ35mmでは穏やかすぎて物足りず、そして光の明暗比も大きすぎて、魅力的な光景には違いないが、何から何までぼくのイメージ構築の手助けとなるような条件が不足していた。イメージを描くには、さらなる広角ともう少し穏やかな光が欲しい。 名手なら何とかするのかも知れないが、焦点距離に合った被写体の渉猟がぼくの流儀だから、ここであれこれ粘っても埒が明かないことは目に見えている。ぼくは潔くガード下のシーンを放棄した。撮影は時空という光速を追うのだから、いつの場合でも「即断即決」が肝要。 時刻は午後3時30分ちょうどで、刺すような斜光がまぶしかった。 太陽を背にして尾竹橋道りの向こう側を覗き込むと、100mほど先の常磐線の白い高架壁に一条の斜光が照り返していた。「うん、よかよか」とぼくは気色ばみ、手首に巻いたストラップがブルッと震えた。 30年以上も前に見た絵画が、ぼくの黄ばんだ記憶帳のなかから、パラパラとページを繰りながら突然飛び出して来た。誰の絵だったか記憶にないが、それは鋭い光の束が壁に写った家屋の陰を引き裂くように描かれており、印象深い絵だった。おぼろげながらも、その色彩の鮮やかさと強いコントラストだけがぼくのまぶたに残存している。ぼくのイメージはその絵画に侵されようとしていた。 立ち位置を決め、ファインダーを覗いて一撃を試みようとするのだが、何かが違う。何かが間違っているからしっくりこないのである。ファインダーを覗いた途端に、すでにインベーダーとしての絵画は姿を消し、ぼくは正気を取り戻していたにも関わらず、ベタ写真(01写真)を撮ってしまった。その原因と言い訳を今さかんに探しているところだ。何かが足りないだらけの写真。それを敢えて掲載するのもおかしなことだが、「こんな写真を撮ってもしかたないですよ」という見本として。悔しまぎれのやけっぱちというんですかね。 レンズの焦点距離が合わないのか? 構図に難点があるのか? イメージが貧困なのか? 被写体を面白いと錯覚しただけなのか? すべてが上手くいったとしても、あの絵のように写真はいかない。再訪を期して、わずか1時間の撮影でぼくは早々に引き上げてしまった。 狭い路地の多いこの一画では、35mmはとても窮屈だった。良い写真が撮れなかったのはそのためだったということにしちゃおう。ぼくのような不器用な人間は、ちょっとでも焦点距離の合わないレンズを使うとからっきしダメな写真屋になってしまうようだ。しかし、下見の甲斐あって、2度目の三河島は超広角レンズと重い一眼レフを手に臨んだ。次回はもう言い訳が立たない。逃げ道が見つからない。でも、「取り敢えず2回目の下見」という手もあるか。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/269.html ★「01 何かの間違え」。 写真ってのは思い通りに写らないものです。 カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/250秒、 ISO200、 露出補正-0.67。 ★「02 アパートの階段」。 古い木造アパートの階段は腐食が進み、3年以内に必ず崩れ落ちると思われる。 カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf5.6、 1/450秒、 ISO200、 露出補正-0.67。 ★「03 路地裏」。 多くの路地でつながるこの一画は、ノスタルジーと密集した家屋で特有の味わいがあり、まるで異次元の世界が垣間見られる。 カメラ:初代Fuji X100S、レンズ35mm F2.0。絞りf8.0、 1/70秒、 ISO200、 露出補正-0.67。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/10/09(金) |
第268回:北極圏直下の孤島へ(26) |
ソロフキ島にやって来て、ぼくは自分の過去56年間の歩みや、それを取り囲んできた世界がどのようなものだったのかを、静かに、そして丹念に顧みようとした。地の果てのようなここソロフキにあって、ぼくは分不相応にも、そのような心事高大な気分に冒されてしまった。まったくぼくらしくない。
しかし、そんな気を保てたのは訪島1日目だけで、ここの空気を体に染み込ませた2日目からは、ぼくに不似合いな殊勝さをあっさりと放棄してしまった。理由はともかくも、そんなことをしている場合ではないと、不幸にも、賢くもぼくは悟ったのだった。 そしてまた、気力・体力の温存を図ればすべてを失ってしまうことにも気がついた。「倒れるまで、骨身惜しまず、とにかく行けるところまで行く」というのが、ソロフキでの正しい原初的作法だと思えたからだ。 “後先を考えずに今を為す”のが我が家の家訓でもあり(ウソです)、ぼくの流儀でもあり(ホントです)、執心でもあるので、ひとかどの理屈は立つ。 ここでの重要課題は、自分の過去を振り返ることではなく、親父の言葉を引くのなら、「創造は、地に這いつくばって、砂を噛み、血を吐け」ということであり、それは「今を一心不乱に為せ」ということなのだろう。実際に親父は常にそのような後ろ姿をぼくに見せていたので、十分な説得力があった。しかし、このような時に限って、なぜか忌々しくも亡父が立ち現れるのだ。 「過去を振り返れば悔悟と痛惜の数々」に突き当たり、因って取り戻せるものは取り戻したいともがくのもまた人情だ。けれどたとえ情理を尽くしたとて、失われた時間は永遠に手許には帰ってこないのだから、ソロフキでの流儀作法は、亡父の言葉をもってして究竟(くきょう。極めて都合のよいこと。極めて優れていること。極めて道理にかなっていること)のこととすればいい。 起床午前6時、就寝午後11時を瀟洒な宿で励行したぼくは、自分でも信じ難いその礼儀!? 正しさによって、写真を撮ることの原初的な意義を初めて感じ取ることができた。「早起きは三文の徳」というが、「三文」どころではない。 「原初的な意義」をぼく流に換言すれば、「誰にもおもねることなく自分の写真を撮ることの気位」という意味である。この気位は精神を広く解放してくれる。 気位とは、偏狭な自己愛からではなく、自身に汎愛の情を示すことによる一種の矜恃のようなものだとぼくは解釈している。 そんなわけで、ソロフキでの8日間は、まったく意を迎えることなく写真に打ち込めた。思うに任せてシャッターを切ることの歓びと解放感は格別のものだった。算用のない気持ちの良さは、創造への真摯な対峙の顕れであり、一度味わうと離れがたく、現実的な貧乏と引き換えに維持可能なことである。誰それの意を迎えることを退け、だからぼくは今貧乏ではあるけれど、「写真をやっていく」気力を保ち続けることができるのだ。 このことについての実体験を得たことがソロフキでの一番の裨益(ひえき)だったと捉えている。「早寝早起きは百両の徳」をもたらしたのである。 事はこんな辺境な地でなくとも、多かれ少なかれ旅というものは、個人の情思や存念によって、その期待に応え、それに添ったものを与えてくれるものだ。旅はあなたにさまざまを分け与え、あなたを一端の詩人に仕立て上げてくれる。旅情とはありがたいもので、ぼくもそのような情趣にたくさん与ってきた。ただし、あくまで「一人旅」という条件付きだ。 「一人旅」は自分発見のためのものであり、「二人以上」は単なる娯楽・遊興である。 再びソロフキの地を踏むことができるかどうか分からないし、同じような旅ができる体力的な自信もないのだが、再訪する機会が訪れるのであれば、まず親父の亡霊を追い払うことから始めようと思う。そして、応分の機材で今度はモノクロームに徹して「百両の徳」をいただきたいと願っている。 「取らぬ狸の皮算用」で、ぼくは先月から何度目かの『収容所群島』全6巻の精読を始めたところである。 ソロフキの締めくくりに、拙写真集『北極圏のアウシュヴィッツ』に寄稿してくださったロシア学の世界的権威であるマーシャル・ゴールドマン博士(Marshall I. Goldman。ハーバード大学特別研究教授。ウェルズリー大学名誉教授))の文の一部を抜粋しておきます。 「・・・ソロフキ諸島で一体何が行われたについて、文献を読むだけでは理解しがたい面があるが、百聞は一見にしかずで、写真ははるかに強烈な印象を与えている。 そして、ソロフキ島で起こったことについて誰かが記録に残すということは非常に重要な意味を持つ。ロシアには未だ、ソロフキをはじめとするソビエト全土に於ける強制収容所で行われていたことを決して認めようとしない人びとがいる。それ故に、記録を残しておくことはさらに重要な意味がある。 この写真集は、そこでの出来事を無視したり否定したりすることができないことを示している。 私たちにできることは、ただこのような残虐な行為が二度と繰り返されぬように願うことしかない。もし、このような過ちが再び犯されない未来が築かれるのであれば、亀山氏の本作品は、私たちの果たせないでいる責任の一端を果たしていると言えるだろう」。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/268.html ★「01 クレムリン中庭」。 クレムリンの中庭で到着した囚人たちの点呼が毎日行われた。右はプレオブラジェンスキー大聖堂。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/250秒、 ISO100、 露出補正ノーマル。 ★「02 歴代司祭の墓地」。 クレムリン内にある歴代司祭の墓地。石版に刻まれたどくろのマークは、アダムとイヴの骨を表している。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、 露出補正-0.33。 ★「03 礼拝堂入り口」。 修復がされ始めたプレオブラジェンスキー大聖堂の礼拝堂入り口。礼拝時間を確認する信者。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/40秒、 ISO100、露出補正ノーマル。 ★「04 囚人慰霊碑」。 村に建てられた囚人慰霊碑。民間が設けた慰霊碑はロシア全土に存在するが、国家が建てたものは2004年当時ひとつもない。なんと驚くべきことか! カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/80秒、 ISO100、露出補正ノーマル。 ★「05 別れ」。 別れの日。宿の女将カーチャが別れの投げキスを何度も繰り返す。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf3.5、 1/500秒、 ISO100、露出補正ノーマル。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/10/02(金) |
第267回:北極圏直下の孤島へ(25) |
ソビエト政権(1922-1991年)の主要国家事業のひとつは、西欧に立ち遅れていた工業化を推し進めるために、無賃の労働力(囚人)を使ってでも、社会主義の優位を西側世界に誇示することにあった。
ソビエト政権の人民に対する罪のなすりつけ(冤罪)や仮借のない弾圧による囚人強制労働という名の労働力確保は、人道上許されるものではないが、しかし当時は、やむを得ないこととして、あるいは時代の要求する必要悪として多くの人々に受容され、正当化されていった。 そのような人民のメンタリティの成り立ちは、いつの時代でも、いかなる国家に於いても、似たり寄ったりの典型的不具合として起こり得ることだ。いや、実際に世界のあちこちで起こっている。人類は過去の過ちから何かを学ぶと信じたいが、あにはからんや自己の不利益に対して悪を正当化する能力に長けているとは。目的のためには虚偽の正義を旗印に、手段を選ばずというわけだ。 強制労働の組織的な嚆矢(こうし)としての、その象徴的な場所がソロフキであり、強制収容所に於ける国家ぐるみの残虐非道で苛酷苛烈な現実がここにあった。この歴史的事実は、歴史学者や社会学者の研究課題を通り越して、現代に生きる私たちがどのようにしてそのメンタリティに導かれていくのかという重い問いを突きつけている。 ソロフキ修道院は、周囲約900m、厚さ4〜7mの城砦(クレムリン)によって外敵から守られている。7つの門と砲門を備えた8つの見張り塔を有し、その城壁は5mもある巨石によって緻密に構成され、頑丈な戦車が体当たりしても微動だにしないだろうと思わせるほどのものだ。 もっとも、ぼくは現代の戦車がどれほどの威力かを知らないが、16〜17世紀にはスウェーデンによる数度の攻撃を退け、クリミヤ戦争(1853〜56年)ではイギリス艦隊を退却にまで追い込んだほどの堅牢さを誇っている。 しかし、神に仕え、人の道を説く修道士や信者たちが、自らの宗教(信仰の自由)や命(家族の安寧や自由)を守るために武器を手にして闘うことが、いわゆる「リベラル」の根源的な思想であると、ぼくはソロフキ・クレムリンに立ち入って改めて感知したのだった。これは上記した“メンタリティ”とは対極にあるものだ。 クレムリンのなかでまず目に入るのは、最大の修道院であるプレオブラジェンスキー大聖堂(1556〜64年建立)で、とにかく巨大である。時の権力者が権威を示威する手段として宗教施設を大がかりなものにするのは、洋の東西を問わず何処も同じである。 ぼくは初めてその威容に接した時、「空を仰ぐほど巨大な聖堂の全景を捕らえることのできる焦点距離は何ミリのレンズなのだろうか? どのくらい接近して撮れるものか」と心配したほどだった。持参した20mmの超広角レンズが大活躍してくれて事なきを得たが、ほとんどのレンズの画角を把握しているはずのぼくも、一瞬不安に駆られるような“デカさ”だった。 収容所関連の書物を読み進んでいくうちに、常に「超過密」という言葉が決まり文句のように謳われていることに気づく。ソビエト全土に広がった収容所の過密状態は、いってみれば直接に手を汚さぬ他律的な拷問であり、結果恐ろしい人格破壊をもたらしたことは想像に難くない。加えて疫病と極度の栄養失調が蔓延し、人々は治療もなされずに次々に落命していった。 ソルジェニーツィン著『収容所群島』によると、この大聖堂には、1928年に「3760人以上」の囚人が詰め込まれたとある。その過密状態とはどのようなものなのかと、ぼくは大聖堂を見上げたり侵入したりして、想像の手助けとなるような手がかりを探ろうとしたが、考えれば考えるほど見当がつかなかった。つまり、マスとしての3760人がどれほどの面積と体積を占めるものかを理解できないでいたのだ。 団塊の世代であるぼくの中学時代には1学年650人余りだった。それだけでも大変な数だったという記憶があるが、その約6倍なのだから、いくら大聖堂であってもとても収容不可能だったに違いないと、ぼくは懸命に自分を納得させた。不可能を可能にするほど、ここには死の恐怖が支配していたということだ。 プレオブラジェンスキー大聖堂の礼拝堂は、少しずつ修復され、祈りの場としての体裁を整えつつあった。礼拝のさなか、足音を忍ばせながら立ち入ってみると、そこはまさに厳粛そのもので、信心に欠けるぼくにはとてもシャッターを切れるような雰囲気ではなかった。祭壇に立つ司祭はぼくを見るや警戒心を露わにし、ただちにお引き取り願いたいという仕草をした。その態度は高圧的ではなくむしろ慇懃だったが、そこには有無を言わせぬ迫力と説得力に満ち、ぼくはその威風堂々とした風儀に敬意を表し、素直にその場を退去した。刹那、“素直”の裏側に張り付いたぼくの反抗心がムクムクと入道雲のように湧き上がった。 回廊でつながっているウスペンスキー大聖堂(1552〜57年建立)はまだ修復の手がまったく入らず、施錠されていたドアのわずかな隙間から荒れ果てた礼拝堂が窺えた(前号01写真)。ぼくの反抗心は、虚偽の正義を旗印に、礼拝中で修道士の警備!? が手薄になっている間にここへ忍び入ることだった。ぼくのカメラバッグにはカーチャから借用したドライバーが忍ばせてあった。 ドライバーで錠前の蝶番を外し、ぼくは生涯で初めての泥棒気分を味わった。しかし、ぼくのコソ泥的正義感は、まさに世界初のお披露目写真であるので正当化されて然るべきだ。荒れ果てた礼拝堂を1枚だけ厳粛な気分で失敬した。 今回でソロフキは最終とするつもりだったのだが、もう1回だけお付き合い願えればと思っている。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/267.html ★「01 プレオブラジェンスキー大聖堂」。 雨上がりの大聖堂をクレムリン正門のアーチより。囚人たちはまずこの大聖堂に収監された。この営みは延々16年間に及んだ。この石畳には何十万人の絶望が刻まれている。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/125秒、 ISO100、 露出補正-0.33。 ★「02 雷雨の前のプレオブラジェンスキー大聖堂」。 残念ながらこの大聖堂の高さはどの資料にも記されていない。収容所時代には教会のねぎ坊主は破壊され、三角の屋根がつけられていた。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf5.6、 1/125秒、 ISO100、 露出補正-0.33。 ★「03 フレスコ画」。 プレオブラジェンスキー大聖堂に残るフレスコ画。収容所時代に削られた痕が痛々しい。まだうっすらと絵が残っている。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/500秒、 ISO100、露出補正ノーマル。 ★「04 1916年撮影」。 ロシアの写真家セルゲイ・M・プロクジーン=ゴルスキー(1863-1944年)が1916に撮影したソロフキ・クレムリンのニコラス塔。3人の修道士が立っているが、如何に巨大な建造物であるかが分かる。 なおプロクジーン=ゴルスキーは、赤・緑・青(RGB)のフィルターを通して3枚のモノクロ写真を撮り、三色合成法によるカラー写真を開発した。素晴らしい写真の数々はWebでご覧ください。 |
(文:亀山哲郎) |
2015/09/25(金) |
第266回:北極圏直下の孤島へ(24) |
建築の実用的(機能的)な意義、芸術(意匠やデザイン)としての価値、土木技術(科学)の粋、周辺環境(自然)との調和、そして建築の辿るべき運命的な「廃墟」の意義(付加価値)などなどについて書物の助けを借りながら系統立てて、時には分解したりして考えることがしばしばある。
建築は、それぞれの専門職の、極めて特殊な知識やセンス、伝統や技術の集積と統合によって成り立っているので、素人のぼくにはなかなか分かりづらい部分が多い。だから、舎屋の完成形だけを見て、「これは美しい」とか、「そうでない」とか、「ここには不似合いだろう」などと勝手なことをいって、片をつけたがる。こと素人は手っ取り早さを好むのだ。 しかし、勝手なことをいったりしたりするのは、建築を鑑賞する側だけに与えられた特権ではない。作り手のほうだって、それぞれが程度の差こそあれクリエーターとしての気質を有しているのだから、建築上の美や作法について豪気一徹な人々が多いはずで、理想とする最終形に帰趨せずに頓挫することもあるだろう。譲り合いの精神は、物作り屋たちには無縁のものだからだ。 建築の大きな特徴のひとつは、「団体競技」の側面を多く持ち合わせている点にある。「団体競技」でないと成り立たない面があるということだ。実に多くの人々の手によってひとつの建物が、然るべき場所に建つ。 「団体競技」に関わる繁雑な手間暇を省いて、「個人競技」によりすべてを賄ってしまおうとするのが模型の世界である。素人の特権を持ち出して、遊びに転化してしまうのが「模型」で、誰に対しても気兼ねなく楽しむことのできる、個人的かつ高尚な遊びだとぼくは心得る。 ぼくの友人の建築家など、模型作りに没頭することで、団体競技の煩わしさの憂さを晴らしている。ただ、残念なことに模型の悲しさは、「廃墟」の味わいがないことだ。模型からは実物の残響のような「廃墟」の叙情詩は生まれない。 ここでいう「模型」とは、玩具としての模型であり、C. レヴィ=ストロース(仏の人類学者で構造主義を初めて唱えた。1908-2009年)が『野生の思考』のなかで、「宗教建築物が宇宙を象徴する限り、それは“縮減模型”である」と述べている、その「縮減模型」の意ではない。 建築物は実用(時の権力の誇示も含める)としてその役目を終え、保存・維持管理された途端に本来の美しさを失い、歴史的意義にすり替わる。保存・維持は文化的な事業であることと認めるにやぶさかではないが、本来の美的価値が隅に追いやれられるのは、ものの必然として致し方のないことなのだろう。辛うじて「過去の住人の佇まいや当時の文化を偲ぶ」ことのできる、いわば骨董的な価値に模様替えされる。 「廃墟」の美しさを奪われた建築物は、学問的な遺構・名所旧跡となった時に、すでに建築美の生命を畳んでいる。 様々な芸術の礎石として、ぼくは建築が占める統合的な美を認めている。時には、すべての芸術は建築にこそその源を求めていいと考えている。建築は俗世にあって、美術・宗教・哲学・民族文化・人類の智慧と造化の結晶であり、そのすべてを内包しているといっても過言ではない。 余談だが、オペラを「総合芸術」とする考えが流布されているが、ぼくはその考えに断固反対である。それは、あくまで音楽の一形態に過ぎない。 近年、廃墟ブームというのがあるらしい。詳しくは知らないが、廃墟に魅せられ、そこを探訪したり、写真を撮ったりするらしい。なるほど、廃墟に惹かれる心情は理解できるような気がする。 しかしぼくは、廃墟に魅せられてソロフキくんだりまで出かけたわけではまったくないのだが、ぼくの写真集を求めた読者から、「究極の廃墟を見つけましたね。やっと真っ当な廃墟写真家に出会えました。このような被写体を見つけたなんて羨ましい限りです」とのお手紙をいただいたこともある。いやはや、なんとも返信に困る内容であった。ぼくは廃墟写真家でも何でもないのだが。 足尾鉱毒事件の足尾(栃木県日光市)にも何度か通ったことがあるが、それは廃墟に興味があったからではなく、企業と国家を相手取り鉱毒事件と闘った田中正造氏の人間としての魅力に惹かれたからだった。 歴史的・人文学的な興味によって、ぼくはその痕跡としての廃墟に宿る美を手繰りながら史実を遡り、往事のリアリティを写し取りたいのであって、単なる廃墟にはフォトジェニックな面白さはあっても、存在そのものは、それ以上でもそれ以下でもないのだ。 ソロフキは、歴史のイデオロギーによって破壊された廃墟である。つまり人為的な廃墟であって、元の姿があまりにも美的に過ぎたので、修復・復元できる可能性は極めて少ない。失われたイコン(聖像画)や宝物、貴重な蔵書などはもう元に戻らない。失われた命が戻らないのと同様に、ここは死滅してしまったものがあまりにも多すぎる。もし何某かの希望を見出すのであれば、篤い信仰によるところの神の啓示は復活を果たすだろう。 ソロフキの宗教的な中枢は、ソロフキ・クレムリンと中心的な存在であるプレオブラジェンスキー大聖堂である。ロシアで多くの立派なクレムリンを見てきたが、最も質実剛健さを感じるものがソロフキ・クレムリンだった。次回はソロフキの最終回として、ここのクレムリンについて述べてみようと思う。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/266.html ★「01.囚人の詰め込まれた礼拝堂」 クレムリンにある聖堂。ここに囚人たちが詰め込まれた。囚人の板寝床は取り払われていたが凄まじい荒れようだ。修道士の目を盗んでドライバーで南京錠を外して侵入。かつては写真「02」のような佇まいだった。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.5、 1/13秒、 ISO200、 露出補正ノーマル。 ★「02.かつての礼拝堂」 荒れ果てた写真「01」のかつての姿。帝政ロシア時代はこんな立派な礼拝堂だった。1800年代の後半に撮影されたもの。 ★「03.巡礼者用ホテル」 クレムリン前の船着き場の前に建つ立派なホテル。ここも囚人用の監獄として利用された。船着き場にたむろする数匹の人懐っこい猫たちとぼくはよく遊んだ。 カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf9.0、 1/400秒、 ISO100、 露出補正ノーマル。 ★「04.巡礼者用ホテル」 写真右の建物が、写真「03」と同じ立派な巡礼者用ホテル。ちょうど後ろの船の辺りから「03」を撮っている。1800年代の後半にクレムリンの城壁から撮影されたもの。 |
(文:亀山哲郎) |