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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/09/16(金)
第68回:フィクションとノンフィクション(3)
 話が紆余曲折し、しかも錯綜していますので読者諸兄には申し訳ないと思いつつも、ぼく自身が物事を筋道立てて論じたり、思考したりすることには極めて不向きなタイプですので(左脳に著しい欠損があるもよう)、それについてはどうかお目こぼしを願いたいと思います。

 野に咲くひまわりでも、生け花でも、それをキャンバスや印画紙に再現する際に、写実性という意味では、作者自身にとってはどこかに真実があったとしても、それを鑑賞する側は果たして作者が表現しようとしている真実を感じ取れるものでしょうか? そうとは必ずしも言い切れないように思います。たとえそれが図鑑的と称されるような絵や写真であったとしても、そこには前号で述べたように人間やそこに介在するもの(紙やインクやモニター、多種多様な光源などなど)という幾通りものフィルターを通して初めて我々はデフォルメされたひまわりを認識することになります。

 そしてまた、ひまわりの実物を同条件でAさんとBさんが眺めても、同じように感じているかどうか(感情や思想的にではなく、視覚上)という保証などどこにもありません。科学的にも実証できない事柄でしょう。余談ですが(余談が多いんだってば)ぼくは乱視が強く裸眼では横の線ははっきり見えるのですが、縦の線がぼやけてしまいます。それを眼鏡というガラスを通すことにより光学的な補正がなされ、初めて物の輪郭などがはっきり識別できるわけですが、あまりしっかり補正しようとすると(少年時代の視力1.2〜1.5くらいに)乱視の補正というものは、今度は逆に物が歪んだり傾いたりして見えてしまうのです。洗顔の際に洗面台が傾いて見え、慌てて眼鏡店に駆け込んだことがあります。
 職業柄、水平・垂直を正確に見極めなければならない時があり、それは撮影上大きな障害となってしまいます。できる限りそのような現象を避けるために、ある程度のところで妥協して眼鏡の度数を調整してもらっていますが、おまけに近視と老眼が仲良く同居していますので、幼児用語で言うならば“ガチャ目”なのです。近年は眼精疲労による“かすみ目”も加わり時折ソフトフォーカスとなり、ついでに両眼の視力が異なっていますので、ここまでくると“ガチャ目”を通り越して、真に悪辣でグロテスクな眼球と言えます。

 ぼくのようなガチャ目や、世の中には色の判別に不自由な方もおられますので、本当に物の見え方は百人百様なのだと思います。
 眼球(水晶体やガラス体)の形状や大きさも同一ではなく、脳につながる視神経の性能(?)も異なりましょう。人の網膜には大型カメラのように被写体の天地左右が逆になって写されており、人間の目(脳)というものはその逆像が一分の狂いもなく正像に見えるようにちゃんと取り計らってくれています。まさか物が逆さまに見える人はいないでしょうが。

 レンズの焦点距離により(広角レンズ〜望遠レンズに至るまで)遠近感や視野角が異なり、色もフィルムや受光素子の違いにより異なって表現されますから(感色性)、人間も個人個人により差異のある眼球を持ち、それぞれに異なった受け取り方をする(ここでは精神的作用ではなくあくまで視覚的な見地で)に違いないと医学の素人であるぼくなどは考えてしまいます。しかし、人の目の性能は、写真レンズという非常に冷徹かつ冷厳な振りをしたとんでもなく出来損ないの代物からすれば、比較にならぬほど高品質・高性能の優れものです。
 はるかに高品質な人間の目が認識すると同じように写真が再現できないのは当たり前のことと思われがちですが、にも関わらず不思議なことに、本当に不思議なことに写真は目で認識した物を実際より美しく、ドラマチックに表現してしまうことがままあるということなのです。
 写真とは、実物よりも綺麗に、そして美しく。時には幻想的に。時には抽象的に。そしてまた、現実世界よりもリアリティを持って。あなたの生きた歴史の刹那を輪切りのように抽出し、表出させることでもあるのです。
 ここに怪しく妖艶な写真の魅力があります。写真の好きな人々は、この虚構の美に魅了され、虜となってしまうのでしょう。フィクションの世界に漂うことに酔いしれるのだと思います。

 商業写真(雑誌やカタログやパンフ、ポスターなど)はこのような性質を持つ写真作用を最大限に活かし、消費者を獲得し、消費者は冊子であれWebであれ、居ながらにして欲しい商品を選ぶ目安とするのです。
 また、美術展などの図録は、美術史家の研究用資料を対象としたものでない限り、撮影者の主観に委ねられ(ある程度ですが)実物より美しく表現されていないと価値がありません。売り物にならないというわけです。第67回の冒頭で触れたように、ゴッホの描いた実物を見てちょっとがっかりしたと言う友人に対して「写真に従事している者であればその文言が不思議なことでも、不可解なことでもなく」と書いたのは上記のような理由によるものなのです。彼の審美眼はやはり確かなものだったのです。常に実物の絵より写真の方が見応えがあるという意味ではありませんので、その伝曲解なさらぬように。

 写真作用の活用は私的な写真でも同様です。商業写真と大きく異なるところは主観的要素の大きいことで、表現の制約がなく作者の自由度があることです。ただこの自由度という言い方が曲者で、何をどう表現しても良いということではありません。そこには普遍的な美が宿っていなくてはならず、そのようなルールに厳粛に従ったものでなければならないでしょう。そうでないものはただ唯我独尊に他ならず、奇をてらったものや、あざといものや、一時的な思いつきや、すぐに飽きのきてしまうものや、それらすべては品性を欠いたものだよと、虚構の世界とはいつだって品位を求められるものなのだよと、ぼくはいつも自分に言い聞かせているのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/09(金)
第67回:フィクションとノンフィクション(2)
 ゴッホ好きのぼくの友人が、「アムステルダムで見た実物より日本で見ていた写真(印刷物)の方がずっといい! 憧れの絵の実物を見てちょっとがっかりしてしまった。写真って罪作りだなぁ」と言ったことについて、写真に従事している者であればその文言が不思議なことでも、不可解なことでもなく、 むしろ“むべなるかな”なのですが、みなさんはどのようにお考えでしょう?

 写真と絵を同じ土俵で論じ、比較すること自体が見当はずれも甚だしきことなのですが、ぼくの友人にも「写真は絵に敵わない」(主に写真を撮る人)とか「絵は写真に敵わない」(主に絵を描く人)とか言う人が時折います。ぼくにとっては議論の対象にはなり得ないので「何故?」と返したことはありませんが、このような意見は翻ってみれば他の分野の作品に宿る美を認め、ある意味での羨望でもあり、自分の従事している分野のものが一番だと(そういう人ってかなりいます)言って憚らない人たちよりはずっと健全で建設的な姿であろうと思います。斯く言うぼくも、他分野の作品にはかなりの妬心を抱くことがあります。「詩を書ける人っていいなぁ〜」とか「ヴァイオリンを弾ける人って羨ましいなぁ〜」とかね。詩や音楽は写真とはかなり異なった表現形態ですから、その違いを述べることはあっても、直接その長短の比較をしようとする人はまずいないのですが、絵は共通点のようなものがいくらかはあるので、容易に比較を試みようとする人もいます。英語では一般的に絵も写真も ”Picture” ですしね。

 しかし、写真も絵もフィクションの世界に変わりはなく、言ってみれば創作とは虚構の世界に遊ぶことです。一般的概念では、写真の方が絵より写実性に勝っていると感じ、よりノンフィクションに近いと思われがちですが、ぼくはまったくそうは思っていないのです。絵も写真も同じ。
 写真の最たるフィクションはモノクローム(白黒写真)の世界で、これは論を待たずですね。現実世界の有彩色を無彩色に変換して表現するわけですから、色彩の甚だしきデフォルメであると言うことができます。ぼくも私的写真はほとんどがモノクローム表現です。

 カラーフィルムが普及し一般化したのは日本では1970年前後からですから、ぼくの親の世代などは写真と言えばモノクロームが当たり前の時代でした。でも、それが虚構の世界だとの意識はあまりなかったのではないかと思います。きわめて写実性に富んだ、現実を写し撮るための表現形態であると信じて疑わなかった人も多々いたのではないかとぼくは思っています。つまり写真こそノンフィクションの世界であると思い込んでいた節があります。カラー写真というものが一般化されて初めて人々はモノクロームというものが無彩色にデフォルメされたフィクションだと気がついたのではないでしょうか。

 中国では古来からモノトーンですべてを表現する水墨画があり、日本でも禅宗の興隆とともに鎌倉時代から墨絵が盛んになりましたから、他民族に比べモノトーンの表現に馴染みが深かったということがあるかも知れません。ぼくは色彩学や民俗学を研究しているわけではありませんが、日本人はモノクロームの世界を他民族に比べ受け入れやすく、それほどの違和感を持たなかったのだろうと邪推しています。
 写真先進国のヨーロッパでは科学の発達も手伝ってか、カラー写真への憧れは強く、1800年代には開発が始まり、20世紀初頭にはすでにロシアのS. M. プロクジーン=ゴルスキーやフランスのリュミエール兄弟によりカラー写真が撮られています。著作権フリーとなっていますので、ロシアのHPからプロクジーン=ゴルスキーのカラー写真を2点借用します。

 ※参考写真 → http://www.amatias.com/bbs/30/67.html


 さて、ゴッホの名作「ひまわり」ですが、ゴッホは何点かのひまわりを描いています。ひまわりを細かく観察しながらキャンバスに油彩で描いているわけですが、すでにこの時点で色も形もかなりデフォルメされています。実物通りできる限り色も形もデフォルメせず、忠実に描こうなんてゴッホは考えていないはずです。彼が頭に描いたひまわりのイメージに忠実に描こうとしているのでしょう。もうすでに完全な虚構の世界です。
 「ひまわり」に限らずどんな絵画も虚構の世界ですね。三次元のものを二次元に置き換えた時点で虚構世界のものとなります。現実をありのままに描こうとしたG. クールベを初めとする写実主義の画家たちも、実際には写実であり得るはずがなく(美術史的分類で述べているのではありません)、虚構の世界に遊んでいる。遊んでいるというのが言い過ぎなら身を委ねているのだと思います。

 実物(ひまわり)→画家という人間のフィルター→絵→複写(カメラマンというフィルター)→印刷(紙やインクによる表現の差異)→印刷物を見るそれぞれに異なる光源→私たちの目、というデフォルメだらけの変遷をたどって私たちは1800年代の南仏に咲いたひまわりを初めて目の当たりにできるのです。それが絵であれ写真であれ、多くの主観的な手順(フィルター)を経ることになんら変わりはなく、では一体何が真実なのかという前人未踏の難しい問題に突き当たってしまうのです。
 書いている本人にもよく分かりませんので、次回はもう少し分かりやすい事柄を例題に取り上げてみましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/02(金)
第66回:フィクションとノンフィクション(1)
 先週、久しぶりに油絵の複写を70点ほどしました。ある画家さんの画集のための撮影です。
 ぼくの修業時代の師匠が美術工芸品の撮影では知られた人で、ぼくは彼のアシスタントとして立体物や複写のライティングをみっちり仕込まれたものです。美術工芸品の撮影技術は、そのフォルムや色、質感などに関して特別に事細かく指摘される分野ですので、その後の商品撮影(いわゆる物撮りーーブツドリ)や料理撮影にも大いに役立ちました。また、日本を始め世界の著名な絵や美術作品をたくさん撮影する機会に恵まれたことは何ものにも代え難い財産となっています。

 「写真は複写に始まり複写に終わる」とこの世界で言われるようですが、それは多分「釣りはヘラブナに始まりヘラブナに終わる」をもじったものではなかろうかと思います。
 複写とは平面体(二次元)を写し撮る行為で、文字通り複写なのですが、この作業は非常にむずかしいものです。プロでもかなりの熟練を要します。一見すると二次元のものを写真という二次元に置き換えるだけのものと安易に考えがちですが、ところがドッコイそう易々とできるものではありません。
 水平、垂直をしっかり保つということがどれほど困難なことなのかは、みなさんが例えば方眼紙や新聞紙を撮影してみれば一目瞭然だと思います。つまり、被写体の面と受光面が完全に平行でなければなりませんし、それに加えてレンズの光軸が被写体の中心に正確に位置しなければならないからです。小さな鏡を被写体のど真ん中に貼り付け、その鏡にレンズが映ればアオリ装置のない(蛇腹のない)小型・中型カメラでは理論上はOKとなりますが、実際には絵に鏡を貼り付けるわけにはいきませんから、あくまでもそれは練習の方法に過ぎません。小型カメラでもシフトレンズと称して多少のアオリができるものもありますが、大型カメラのアオリに比べればその範囲は限られたものです。

 カメラがしっかりと設定できれば次はライティングです。「よもやま話」ではライティングの講釈まではいたしませんが、肝心なことは人工光を使い被写体面に太陽光源下で得られるような均一な光を与えることです。そしてまた、レンズには周辺光量が落ちるという避けがたい性質がありますから、どのくらい絞り込めば(レンズのf値を大きくしていく)周辺光量が落ちないのかということを頭に入れておかなければなりません。レンズによりこのf値は異なりますから、自分の使用レンズの性質を把握しておく必要があります。
 複写は原理的には被写界深度を必要としませんが、それでもある程度絞り込まなければならない理由は、周辺光量落ちの解消と解像度、コントラストの問題に依拠しています。

※参考写真 → http://www.amatias.com/bbs/30/66.html

 絵などの撮影時には絵の横にカラーパッチを貼り一緒に写し撮ることも正確な色再現を計る際に必要なこととなります。デジタルであれば同時に正確なホワイトバランスを得るための重要なツールともなります。
 複写とはいえ、油絵などは多少の凹凸がありますから、その凸凹を表現するためにどのような光質(柔らかさや硬さ)を選ぶかという課題も生じます。また、敢えて均一な光を与えずに絵の特徴を際立たせるためのライティングを用いることもあります。
 それら、これらを十全にこなして、初めて一枚の完全な複写が出来上がります。ですからけっこう大変なんですね。

 アシスタント時代、慣れぬうちは被写体と光軸のセンターを出すだけで何十分もかかってしまいます。当時は大型カメラ使用がほとんどでしたから、被写体の天地左右がすりガラス上に逆さまに写るのでなおさらです。もたもたしていると、師匠から「早くせい!」と怒声が飛んできます。「早くせい!」だけならまだしも、放送禁止用語もなんのその、セクハラだろうがパワーハラスメントだろうが一切おかまいなし。公開処刑的人格否定など日常茶飯事、どれほど残忍で理不尽な言葉がスタジオ中に響き渡るか。蹴りを入れられたり、パンチが飛んできたり、いろいろなものが飛び交うのです。これが良いかそうでないかは別次元の話ですが、このような世界をくぐり抜けると、写真を撮ってお金をいただくということは、はたまたプロフェッショナルとはどういうことなのかがはっきり自覚できるものです。ぼくの2年間の修業時代は終生忘れ得ぬ良い時期だったと痛感しています。

 で、表題に掲げた「フィクションとノンフィクション」について、前置きがずいぶん長くなってしまいました。
 ぼくの親しい友人に無類のゴッホ好きがいて、本物を見たいとわざわざアムステルダムに赴き、ゴッホ漬けのようになって帰ってきたのですが、開口一番「かめやまさん、実物より日本で見ていた写真(印刷物)の方がずっといい!」と彼は言ったのでした。ぼくは彼との長い付き合いで、彼がいかに素晴らしい審美眼の持ち主であるかを十分知っていましたが、一瞬「エッ!」と思いました。しかし、写真ばかりでなく他の分野に於ける「フィクションとノンフィクション」について思いを巡らせれば、すぐに彼の言うことに合点がいったのでした。この続き来週。すいません。
(文:亀山 哲郎)

2011/08/26(金)
第65回:初級者って誰?
 夏から秋口にかけては雲の表情がとても豊かです。積乱雲というのでしょうか、または入道雲。やはり“入道雲”という言葉の方がずっと味わい深いですね。擬音でいうなら“モクモク”としてカリフラワーのようでもあり、まるで生き物のように活動的で見ていて飽きることがありません。特に順光に照らし出された入道雲は、深い藍色の宇宙を背景に真綿の如く所在なさそうにフワフワと浮かびながら、しかし自己の存在を顕示しようと絶え間なく表情を変え天に向かってキノコのように成長していきます。一編の詩でも詠んでみようかなどと不遜な気持ちにも駆られます。

 以前、ぼくの助手君を勤めてくれた若者が、ロケ地へ向かう車を運転しながら、目の前に現れた入道雲を見てたいそう感激しているのです。その入道雲は、今ぼくの住むさいたま市で見られるそれと比べればかなりの小者なのですが、それでも彼は助手席のぼくに向かって、「かめやまさん、あの雲、いいですねぇ。積乱雲って言うんですか、いいなぁ〜」とひとしきり感動の面持ち一杯のようでした。
 「ありゃな、日本では ”入道雲“ っちも言うんばい」とぼくはこのスペインで生まれ育った純血日本人の若者に博多弁で伝えました。熱心に日本語を学ぼうとする彼は、常にカメラとともに日本語の辞書と四文字熟語辞典なるものを人知れずバッグに隠し持っておりました。特に四文字熟語には並外れた興味と異常とも思える執念を持って挑んでおりました。その習熟ぶりは日本育ちの若者より達者であると思わせる瞬間があるのは確かなのですが、覚えたものをすぐに使いたがる癖から逃れられず、とんでもない誤用をしでかしては皆を笑わせ、緊迫するロケ現場を和ませてくれるのに一役買っておりました。
 タワシのような髪の坊主頭をさすりながら、「またはキノコ雲とも言うんですよね?」とちょっと得意げでもありました。
 「それはね、あながち間違いではないけれど、“あながち”っていう日本語分かる? キノコ雲という言い方は、原爆雲や火山雲などを指し、日本人にとってはどうしても原爆を連想させるから悪玉扱いされるね。やはりこの場合は善玉である入道雲の方が適切で、日本語としても美しい使い方なんだよ」なんて言ったことを覚えています。
 「入道雲の ”入道“ ってどういう意味なんですか?」。「君のような坊主頭のこと。坊主頭がたくさん重なっているように見えるから ”入道雲”って言うの。頭を丸めて仏門に入るということでもあるんだよ」。「う〜ん、日本語って面白いですねぇ。スペインはですね、海岸地方を除いて、ぼくの育ったトレドなどには入道雲なんて出ないんですよ。ぼくはこのような雲を見たことがないもんだから、ちょっと感激してるんです。ところで ”頭を丸める“ってどういう意味ですか?」と勤勉なタワシ頭。
 スペインには入道雲というものがないのだそうです。

 余談をしているうちに、ぼくは何を書こうとしているのかが分からなくなってしまいました。「入道雲の撮り方」? いや違う。何だったけな。

 どのような分野にも「初級・中級・上級」というのがあるのだそうです。もちろん写真の世界もそのように区分けされることがあるようですね。だとすれば、ぼくがこの「よもやま話」でぐだぐだと述べていることの対象は、そのうちのどれなのであろうかと自問自答してみるのです。「初級・中級・上級」の区分けを思えば思うほど、考えれば考えるほど迷宮に這入り込んでいくように思えます。
 タワシ頭が日本語の初級者かというと、ぼくは必ずしもそうとは思いません。彼の日本語はその用法や語法に於いて間違いだらけではありますが、少なくともその間違いだらけの日本語を持ってして自分の意志や意見をしっかり相手に伝える術を心得ています。反対に語彙多くして、それらの語法をまんべんなく駆使しつつも、全体何を言いたいのかがさっぱり伝わってこない人もいます。
 詰まるところ、相手に自分の意志を伝えるのは語法の巧みさなどではなく、思想そのものの確かさなのでしょう。

 しかし、概ね世間では前者(タワシ頭)を初級者と言い、後者を上級者と定めることが多いように思います。これは写真界にもある程度当てはまることだと感じます。加えて経験年数というあまり意義のないことも加算されるようです。多くのアマチュアの方々と接していつも感じることは、いわゆる“上級者”と自認している人ほど、写真の文法を誤認、誤用したりしていて、それを信じて疑わずこだわり続けていることです。言葉は誤用があっても思想を伝えることはできますが、写真は迂闊さがあってはやはりマズイのです。写真には科学に依存する部分があるからです。最も始末に負えないのが常に自分を上級者と、どこかで錯覚してしまった人たちなのです。錯覚とは技術と思想のはき違えです。ですからそのような人ほど上達が覚束かずに、伸び悩んだりするのでしょう。「一体どこの誰にそのようなことを吹き込まれたのですか?」と、言葉にすることもありますし、飲み込んでしまうこともあります。

 写真に於ける「初級・中級・上級」の区分けとは、ぼくは技術的な面で言えば、「技術の使い方が正しい順」として考え、知識や経験年数ではないという認識を持っています。写真に対する知識が少なくても良い写真を撮る人はたくさんいます。この事柄について、前回の「イメージすることの大切さ」をからめて述べようとすれば、さらに多くの字数が必要となりそうです。

 脈絡もなく、乱雑極まりないぼくの連載ですが、ぼくをも含め誰もが「初級・中級・上級」の複合体ではなかろうかとも思っています。
(文:亀山 哲郎)

2011/08/12(金)
第64回:イメージすることの大切さ
 震災からはや5ヶ月が経ったのですね。新盆を迎え未だに消息不明の方々がたくさんおられるという事実に、身近な日本人としてやり場のない悲痛を覚えます。
 ぼくは報道カメラマンでもなくルポ的なカメラマンでもないので、まだ現場に足を向けていませんが、未曾有の災害に即物的に反応しなくてもいいカメラマンでよかったと思っています。ぼくは報道系カメラマンのように義務で現地に赴く必要性を有しているわけではなく、いずれ出向くつもりですが、ある程度復旧が始まってからでも、そこで起こった悲惨な事実を自分のこととして写し撮るには遅いということはないと考えています。事実を直視しながら撮るという行為としては、その方が当を得ているとも思っています。写真には撮影する者の様々なフィルターがかかりますから、どのような心のフィルターを用意するのかという非常に重い課題と責務があるように思います。

 写真は、真を写すものではないと以前に述べた記憶があります。真を写さずとも他の分野から比べればやはり写真は極めて写実性の高いもので、またそのリアリティに於いても写実性から逃れられるものではありません。写真は対象物が美であれ醜であれ、撮影如何でその両極を如実に示す表現形態を有しています。「百聞は一見に如かず」と言われる所以が写真にも厳存しています。これはプロ・アマに関係のないことです。100万語を費やしても、1枚の写真の方が迫真的で多くを語る場合が多々ありますから、撮る側は常に何が真実なのかを自身に問い続けていなければなりませんね。

 みなさんが例えばカメラを持ってどこかへ旅行する時にはどうされるのでしょう? 見知らぬ地の情景や風景を心に描いたり(イメージする)、歴史や文化を調べたりして、その地に思いを馳せるのだと思います。まぁ、カメラを持ちながらも食い気一辺倒という人もいると思いますが、それも旅の大きな楽しみですし、食も文化の重要な担い手ですからそれもいいでしょう。土地が変われば食も言葉も人情も家の佇まいも異なりますから、五感を大いに働かせてシャッターを切る。それを撮影旅行と称するのだと思います。

 見知らぬ地に出向く時、ぼくは前日にその街の佇まいを頭の中にたくさん描きます。地図を見ながら「ここの角には板塀に囲まれた家があって、その隣は家内工業の電球の下、5人のおかみさんたちが働き、夕方になると西日が差し込んで、おかみさんたちの手の皺が強いコントラストで照らし出される」なんてことを勝手に想像(空想に近い)して、なかなか寝付かれないのです。
 さまざまなイメージを抱えて現地に到着するのですが、もちろんイメージ通りなんてことは一度もありませんでした。あれば気持ちが悪いですが、不思議なことに「この風景、どこかで見たような・・・」とか「当たらずとも遠からず」という経験は誰しもがあると思います。

 頭のなかで描いていたものと現実のギャップに襲われますが、ぼくの場合はそのギャップこそが現場での原動力をさらに掻き立ててくれるのです。一種のショック療法ということでしょうか。ショック療法を得るために前日のイメージ作りが必要なのです。
 そして、前もってイメージしていたものを現地で捨て去る作業が大切で、そこから精神的な活動が始まります。イメージにしがみついていては、盲目になってしまいますから、この手順を踏まないとぼくはなかなか始動できないのです。どうせ捨て去るイメージなのだから前もってそのような厄介な作業をしなくてもいいじゃないかと自分でも思うことがありますが、たとえ現地がイメージに沿ったものでないにせよ、イメージ作りをしておかないと現地に於ける発見に大きな差が生じるのです。写真を撮る行為とは発見そのものだからです。

 ぼくはかつて助手君たちに「まず完璧なイメージ作りに没頭し、そして次に現場でそれを木っ端微塵に壊す作業に専念すること。その繰り返しを多く体験し、鍛錬することにより、現場で新たなイメージと発見がより多く湧き出るようになるものだ」と言ってきました。イメージが脆弱だったり、発見が希薄では“不毛”同然ですから、そもそも撮影という行為が成り立たたないのです。そんなことを他人に言いながら、自分に言い聞かせてきました。
 それは仕事の写真でも私的な写真でも同じことですから、イメージは小説を書くように微に入り細にうがって描き上げた方が、「どうせ空想なのだから」と潔く捨てられるような気がします。
 自分の描いたイメージと違い過ぎて、どぎまぎして思うようになかなか撮れなかったというのであれば、それはイメージの描き方が粗雑であったからに違いありません。
 ですから、撮影前夜は思いっきり自分の世界に溺れない程度にふけってください。寝不足にならぬ程度にね。

 次回はお盆のため休載だそうですので、一週空きますがどうぞご了承ください。

(文:亀山 哲郎)

2011/08/05(金)
第63回:雨は名脇役
 台風の影響でしょうか、今日(4日)は豪雨に見舞われたり、晴れ上がった空に入道雲がもくもくと立ちのぼったり、目まぐるしい天候の変化というものは写真を撮る人間にとって歓迎すべきことであるように思います。ですから今日はぼくにとってなかなかの写真日和でした。

 昼下がりの豪雨に外に飛び出し(と言っても車で)、信号待ちをする間ワイパーを止め、フロントガラスにカメラを押しつけて、横断歩道を渡る人たち(傘をさしているので絵作りがしやすいのです)や光景を撮るのが面白く、ぼくは時々このような道路交通法上あまり好ましいとは言えない撮影をしてしまいます。ここだけの話ですが。
 コンデジ使用時、カメラモニターを見ながら撮影するあのスタイルがひどく嫌いですから、普段は光学ファインダーを覗きながら撮るのですが、運転席からフロントガラス越しの撮影時だけは、この醜いスタイルが便利この上なく、人目を忍びながらありがたく使い分けることにしています。

 フロントガラスは雨で濡れ、ワイパーを止めていれば周囲の光景は雨がひどいほど短時間に様々な表情を見せてくれます。雨のお陰でフロントガラスが一種のフィルターのような役割を果たし、この不規則な効果は二度とありません。電柱がグニャグニャと曲がったり、光が思わぬ拡散をするために、普段見慣れたものの様相ががらりと変わったりして飽きることがないのです。
 フロントガラスとカメラの距離を変えたり、f 値を変えることによりフィルター効果の変化は無限と言ってもよく、肉眼で見ているものとはまったくの別世界が受光素子に記録され、帰宅してそれをパソコンで見る楽しみは胸のわくわくするものです。もちろんフォーカスはマニュアルでなければなりません。オートフォーカスではカメラがまごついているうちに信号が青に変わってしまいますし、フロントガラスに合焦してはなんだか分からない写真になってしまいます。マニュアルフォーカスは、いわゆる「置きピン」で5m くらいに合わせておき、f 5.6〜8くらいにしておけばOKです。

 今日のような激しい降りだと、上り坂などではアスファルトに打ち付けられた雨しぶきが白く泡だっているようにも見え、視点が低くなればなるほど白さが増して、そこはまるで異次元空間のようでもあり、素晴らしい光景に出会うことができます。さすがに運転中は危険ですから、車を脇に寄せ、意を決し脱兎のごとく飛び出し、カメラ位置を適度に低くして稲妻?のような早業でシャッターを切り・・・。10秒もかかりませんが、今日はそれでもずぶ濡れになってしまいました。体はいくら濡れても命に支障はありませんが、カメラは命にかかわりますから、あらかじめ前述したような「置きピン」にセットしておき、カメラにハンカチを被せレンズだけ出し(もちろんフード付き)、ハンカチの上からシャッターボタンを押すのです。これでカメラの命は保証できます。

 今日のような土砂降りは特別ですが、ぼくは雨の写真が好きなのです。何よりもありがたことはコントラストが低いので、黒つぶれしたり、白飛びが起きにくいことにより、後処理つまり暗室作業がしやすいと言うことがあります。トーンが整えやすいのです。露出補正も晴天時に比べればそれほど神経質になる必要がないことなど、撮影に於ける技術的な面ではかなりお気楽というわけです。レンズに雨粒がつかぬようにすればいいだけです。気を遣うところはこの1点だけ。
 そしてまた、雨に光る路面も情趣を添えてくれます。人々は傘をさしているのでフォトジェニックでもあり、こちらも傘をさしながら片手で撮るのがぼくのスタイルです。傘のおかげであまり目立たずに済むという利点もあります。

 まだ若かりし頃、尾瀬ヶ原に何度も通い、よく雨中で撮影をしたものです。夏の尾瀬は1日に1度は雨にたたられますから、如何にカメラを濡らさずに撮影するかに工夫を凝らしました。レインコートに穴を開けたり、ビニールでカメラをくるみ、どのようにしてフィルムの詰め替えをするかとか、何もかもが手作りの時代でしたからいろいろ防水のための工作をしたものです。今は便利なものがあると聞いていますが、実際に使ったことはありません。
 雨で霞む遠景をバックに濡れた木道や花々についた雨粒など、雨が主役になることはあまりありませんが、なかなかの名脇役なのです。

 実は今日撮った雨中の写真などを添付し、読者諸兄に参考としてお見せしたいのは山々なのですが、仕事の性質上それらは印刷物を目的としたものであり、また未発表作品として発表しなければならないことなどもあり、著作権も含めてなかなか思うに任せずということでご承諾願えればありがたく思います。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/29(金)
第62回:やっぱり、ここだけの話
 フィルムやデジタルの特徴やメリット、デメリットについては以前に触れたことがありますが、もちろん感じたことをすべて網羅したわけではありません。

 最近、遅ればせながら気のついたことは若者にフィルム指向がかなり見られるということです。ぼくは写真学校の先生ではありませんので、どのくらいの割合で写真好きの若者がフィルムにトライしているのか、その数字をあげることはできませんが、ぼくの生徒たちの間でもそのような傾向が見られます。10代〜30代前半の生徒たちに両刀遣いが見られるのです。フィルム時代をかいくぐってきた40代〜60代のおじさん、おばさんたちは(フィルムの暗室作業を身を持って体験してきたという人はいませんが)一様にデジタル派という奇妙な現象が起こっています。我がクラブだけでしょうか?

 ぼくのあやふやな想像でしかないのですが、若い人たちがフィルムに憧れに似た気持ちを抱くのは、自分たちが写真というものを意識し始めた時がまさに「これからはデジタル」、あるいは「デジタル真っ盛り」という時代背景があったからではないかと推察しています。CDで育った人たちがアナログレコードの良さやその趣、あるいはそのメカニズムに興味を抱くに似ているような気がします。新しいもの=良いもの、という方程式は成り立ちませんから、それは一概に懐古趣味として簡単に片のつく問題ではないようにも思えます。
 アナログのレコードはもう製造されていませんが、フィルムやフィルムカメラはまだ手に入りますから、フィルムに挑戦しようという若者は「一丁、やってみるか。なんだか面白そうだ」という気概があるのかも知れません。

 ぼく自身は、写真はフィルムでもデジタルでもどちらでもよいという考えを持っていますので、若人がフィルムを(あるいは両方を)使うその理由さえ訊ねたことがありませんでした。斯様にぼくはそのくらいこのことに関しては無頓着なのです。ただ、デジカメをぶら下げながらも、未練がましくフィルム撮影の雰囲気やその時代をひどく懐かしんでいる自分がいることに気付くことしばしです。デジカメで撮りながらもその最大の利点の一つであるカメラモニターで撮影結果を確認しないのも、フィルム的撮影心理を再現しようとしているのだろうと思いますが、善意に解釈すれば、上手く撮れなかったら撮り直せばいいという安直な気持ちを戒めているのです。な〜んて格好つけていますが、それは嘘かも知れません。ホントはただ面倒なだけなのです。

 そして未だによく巷で囁かれる「フィルムはよかった。デジタルはやはりフィルムにはかないませんねぇ」という暴論には、「どんな根拠で?」と平静を装いつつ、穏やかに問い返します。真顔でぼくに語りかけてくるので、ぼくも真顔で対応すべきですが、かつて一度たりとも納得のいく説明を聞いたことがありませんから、内心「またか!」と、どうしても気は荒れ気味となります。
 そのような人たちの98.5%以上は、デジタルという科学を持て余し、十全に使いこなせていないからだとぼくは決めつけているようです。そのような人はきっとフィルムも十全に使いこなせていなかったはずです。
 人は誰でも昔を懐かしみ、現在を嘆くその諺として「世は元偲び」とか言いますが、フィルムを懐かしむその心情もむべなるかな、というのとは根本的になにか異なるものを感じ取っています。現代の最新技術を受け止め、それを使いこなし、良いものを作り上げていくというのが現代に生きる人間のまっとうなあり方だと思います。ノスタルジーというものは多くのインスピレーションを生み出すことは確かですが、しかしそれだけで写真が撮れるというわけではありませんしね。
 フィルム時代、暗室テクニックに長じていた人たちはデジタルに移行しても、やはり見事にデジタルを使いこなしている様を見るにつけ、その思いは確固たるものになりつつあります。

 でもねぇ〜、ぼくはやっぱり粒子のないデジタル・モノクロ写真はどうにも気持ちが悪くて仕方がないのです。さらに言うと「我慢がならない」のです。もちろん他人の写真はいざ知らずです。ぼくの生徒たちの持参してくるモノクロ写真の無粒状性について言及したことは一度もありませんから、「我慢がならない」のはあくまでも「自分のモノクロ写真」についてです。

 デジタルデータ(カラー)をいくつかの専用ソフトを使い分けモノクロ化しながら、かつて愛用した何種類かのフィルムの感色性や粒状性に思いを馳せ、懸命にそれを再現しようとしている気の毒な自分の姿に気がついてしまうのです。感色性や粒状性に留まらず、「デジタルは写り過ぎる。なんで小型カメラの分際でゴキブリの足まで写ってしまうのか! ライカで撮ってライカのフォコマート(ライカ製引き伸ばし機の名称)でプリントしたって、こんなに鮮明に写し出すことはなかったぞ。う〜ん、フィルムの曖昧性がたまらん」って、未練タラタラなのです。

 昨夏、猛暑のあおりを受けたぼくは思い余って、デジタルの鮮明さに腹を立て、ヤケクソになり、フルサイズ2200万画素の一眼レフのボディキャップに穴を開け、ピンホールカメラに仕立ててしまったくらいです。ボワーッとした良い感じの写真が撮れましたが、今年は「ベス単レンズ」(1912年コダック製のヴェスト・ポケットカメラにつけられたレンズで、特有の味わいがある)の描写をなんとか再現するための工夫を凝らしてみようと思っています。

 デジタルを謳歌しつつ「世は元偲び」なんて書きましたが、ぼくもまったくもっていい気なものです。誰にも知られたくないので、今回もやっぱり、ここだけの話です。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/22(金)
第61回:やはり、ここだけの話
 大学を卒業し社会人への門出として、今は亡き親父が懇意にしていた仕立屋に頼んで、生まれて初めてのオーダーメイドのスーツをプレゼントしてくれました。できあがった服に袖を通したときの気持ちの良さは、40年を経た今でもはっきり記憶の片隅に定着されています。
 当時の学生は今のようにラフな恰好ではなく、ほとんどがブレザーを着て、半数近くがネクタイを締めていたものです。まぁ、わりとちゃんとした恰好をしておりましたし、「ネクタイ着用」を義務づけているような教授もおりました。
 当時、ぼくの着ていたものは街の洋服屋やデパートで売られている既製品でした。既製品が悪いということではもちろんありませんが、オーダーメイドというものは既製品に比べこんなに着心地の良いものだとは思いませんでしたから、その感動が未だに忘れられないのです。生地も色も自分の好きなものを選び、フィット感ばかりでなく満足感を伴うものでした。社会人の門出に相応しいプレゼントだったようです。

 前回、RawとJpegの違いをお話ししましたが、それはオーダーメイドと既製品のような差だとお考えください。RawがオーダーメイドでJpegが既製品というわけです。Rawは現像時に厳密なホワイトバランス(どのような光源下でも、白いものを白く表現するための機能)を取ることができます。また、色調、明度、コントラストなどなどを現像時にできる限り追い込んで調整し、然るべき画像補整ソフトに圧縮されたJpegではなく、圧縮されていない16bitのtif形式、もしくはpsd(フォトショップ)形式で受け渡すという方法が最も画質を劣化させずに済む手段なのです。Raw現像ソフトにはどのような画像形式に変換するのかという指定が必ずありますから、そこで圧縮画像でないtifなどを指定しておけばいいのです。
 16bitは少し重い(容量が多い)ので、Photoshopなどの画像ソフトでたくさんのレイヤーを重ねての作業は時間がかかるかも知れませんし、非力なパソコンでは今時の高画素の画像を扱うとフリーズしてしまう恐れもあります。そのような時は8bitのtif画像で作業を行えばいいでしょう。保存もtifかpsdを指定してください。せっかく苦労した補整画像を、容量が少ないからJpegで、なんてことをすると、その段階で画質劣化を伴いますから、ここはケチってはいけません。
 「Rawを扱えずして、なんの暗室作業か」なんてことをぼくはよく口にしますが(本心です)、イメージを追求していくにはやはりどうしても避けることのできない道程だと思っています。

 そういうぼくがなぜ前回で述べた小川町でJpegで撮っていたかと言うと二つの理由があったのです。
 一つはぼくの所有するカメラのJpeg生成のアルゴリズム(Algorithm。算出方法)が極めて優れていることにありました。
 もう一つは、目的がカラー写真ではなくモノクロ写真であったことです。画質に関して厳密に言えば、モノクロと言えどもやはりRawで撮影した方が劣化を防ぐには賢明な方法であることに変わりはありませんし、今までぼくはずっとそのやり方を踏襲してきました。

 ぼくの新しいカメラのJpeg出力結果を見て、何に感心したのかと言うと、画面周辺でコントラストの強い境界線に必ず現出するあの汚らしい色収差がほとんど見られないことだったのです。このカメラはレンズ交換のできないカメラですので、その固定レンズに合致した受光素子の最適化が可能であったのだろうと思います。レンズ交換のできぬデメリットと引き替えに、画質の良さを提供してくれているのです。
 色収差というものは高画素・高解像度のカメラほど際立ちます。みなさんも画面周辺に位置する小枝や建築物と空の境界線に生じるシアンやグリーン系の隈取り、その反対側にはマゼンタやレッド系の、現実にはない色がまとわりついていることにお気づきでしょう。

 この色収差は様々なRaw現像ソフトである程度は取り除くことができますが、完全にとはなかなかいきません。あるいはシアン系やマゼンタ系の色をただ無彩色化するだけのものもあり、それはあくまで視覚上のごまかしであり、色収差によるいやらしい色が減少されたからと言って、解像度の劣化を免れるものでもありません。

 カメラ自慢などする気は毛頭もありませんが、この難題をこのカメラのJpegアルゴリズムは見事に解消してくれたのでした。このカメラで撮ったRawデータを現像してもこうはいかないのです。Jpegで撮った際にのみこの現象から逃れられることを知り、ぼくは狂喜してしまいました。それに加え、RawとJpegの解像度がまったく同一であることを何百枚のテストを繰り返して知り得、まさに慶福の至り。
 「このカメラはRawでなくては役に立たない」というものをいくつか経験してきましたし、仲間であるプロの友人たちもRawとJpegの解像度の違いについてぼくと同じようなことを常に述べていました。

 しかし不思議なことに、ネット上のいわゆる“クチコミ”なるものに、「このカメラのJpeg生成は、ほぼ完全に色収差が取り除かれているすぐれもの」という評価がまったく見られないのはどうしたことなのでしょう? 話題となったカメラですから非常に多くのクチコミが寄せられているのにです。

 まぁ、そんな理由で、“このカメラに限り”、嬉々としてぼくはにわかJpeg愛好者に変身を遂げてしまったわけです。ここだけの話なんですが。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/15(金)
第60回:ここだけの話、JPEGで撮ってみました
 炎暑のなか、はやる気持ちを抑えきれずお昼頃から県内中央部に位置する和紙で有名な小川町に私的写真を撮りに行ってきました。ぼくの住むさいたま市中央区から車で関越自動車道を使い1時間ちょっと。遠出と言ってもしれたものですが、普段、名所旧跡や明媚な風景写真に興味のないぼくは、自宅からふらふらと歩きながら浦和の街を撮ることが多いのです。また自宅近辺から別所沼に至る遊歩道はぼくの撮影テリトリーと言ってもよく、短い道程ですが、何十回歩いても常に新たなる発見に出会え、その界隈を嬉々として撮影しています。撮影場所がマンネリ化するなどということはないものです。
 そのようなタイプの写真屋ですから撮影場所はどこでもいいのですが、ちょっと遠出をしたのは、見知らぬ町に対する憧憬とかロマン的ななにかを感じ、また、たまには気分を変えてみようと思ったからです。新調したカメラもまだ十分に使いこなせているわけではなく、その訓練とカメラやレンズの癖を見つけようとの目的も含めてのことでした。

 小川町は仕事で過去2回ばかり通過したことのある程度で、どのような町なのかは見当がつかなかったのですが、“八高線”という名になにか惹かれるものがあったのでしょう。初めて歩いた小川町はいわゆる“シャッター街”というほどさびれてはおらず、かと言って当然のことながら浦和近辺ほど人口密度が多いわけではないので、小川町の閑散とした雰囲気はよそ者であるぼくに新鮮さとともに心地の良さを提供してくれました。
 このような町で最も人々の往来のあるところは駅ですから、まずそこに陣取り、首から小さなカメラをぶらさげ風体の定まらぬ怪しげないでたちで乗降する人々に溶け込みながら狙いを定め、改札を出入りする人々や駅前ロータリーに散っていく姿を何枚かいただきました。

 実は今回の撮影は今までとガラリと趣旨を変え、デジカメを使い始めて、今まで撮ったことのないJpegで撮ってみました。これまではRawでしか撮ったことがありませんし、仕事ではすべてに厳密さを要求されますから、公私とも撮影と言えば即ちRawと決めてかかっていました。もちろんその考えは今も変わりませんし、ぼくの生徒たちには「Jpegで撮ったものなど受け付けない」と申し伝えてきました。そう言ってきた手前、生徒たちがこの文を読まないことを心より願っています。万が一、誰かが読んで、「かめやまさんがJpegで撮っているのだから、ぼくも、私も」と言ってきたら、その返し文句はすでに準備をし、抜かりなく布石を打ってあるのです。
 「え〜いッ。者ども、10年早いわ! 控えおろう!」。ぼくはこのエラッそうな科白を生徒たちに一度使ってみたかったのです。

 ぼくはよく「なぜRawで撮影しないのですか?」とJpeg専門家に問うことがあります。判で押したように返ってくる言葉は以下の如し。「Rawだと容量が大きいから、一枚のメモリーカードで撮れる枚数が減ってしまうでしょ」とか「後処理が面倒だから」と言う聞き捨てならぬことを仰る方が大変多いということです。前者が“ケチ”で後者が“怠け者”とぼくは言っていますが、「ケチ & 怠惰」の二重奏では上達のしようもありませんから、この部分にもぜひ熱意を注いでくださればと思います。

 今ぼくのカメラで8 GBのカードを入れて調べたら、Rawで413枚、Jpeg(最も圧縮率の少ない高画質で)で1603枚撮れると表示されました。Rawに比べJpegでは約4倍近く撮れるという計算になります。
 小川町では3時間で約250枚撮りましたから、どちらで撮っても8GBのカード1枚で十分だと言うことです。また、カメラのモニターで撮影後の画像を確認することもしませんから、バッテリーも保つのです。ちなみにぼくは「ケチ & 怠惰」なので、私的な撮影は1日に3時間以上はしないことにしています。

 もしあなたが“料理が好きだ”と自認されるのなら、やはり素材や調味料を仕入れることから始めるのではないでしょうか? 使う包丁や様々な用具まで、やはり気に入った物を使うでしょ? たまには外食でお仕着せのカツ丼もいいでしょうけれど、いつもいつも既製品ばかりでは(これが撮影時に於けるJpegで、カメラがこちらの意志など頓着せず勝手に料理したもの)、料理が好きだとは言えませんよね。
 写真もこれと同じで、家族旅行や記念写真だけで、とにかく記録できれば事足れりとする携帯電話的使用であればJpeg専門でいいでしょうけれど、“写真が好きです”というのであれば、既製品では物足りなくなってしまうのが道理というもの。ありきたりの物はすぐに飽きてしまうものです。

 Rawで撮ることの利点は様々にありますが、まずRawデータを扱うことにより、色温度や色のかぶり、いわゆるホワイトバランスや露出、コントラスト、彩度、色相などなど、デジタル写真の基本的な知識と操作が自然に身についていくのです。デジタルのメカニズムを理解したり、美しい写真を得るための大きなコツの一つでもあるのです。また、Rawデータを処理することは、写真を撮る際に「こういう風に撮りたい」とか「こんなイメージで」との願いに一歩でも二歩でも近づく手順であるとも言えます。調味料の微妙なさじ加減を覚えることができるのです。

 ではなぜ、ぼくはJpegで撮ったのか?について述べようと思ったのですが、字数がなくなってしまいましたので、その理由については次回にお話しいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/07/08(金)
第59回:単焦点レンズの気楽さ
 いよいよ本格的な夏の到来と思わせるような暑さが続いていますが、この4, 5年、うだるような暑さの中で一人黙々と写真を撮っている自分がいることに気がつきました。夏の嫌いなぼくがなぜこの季節になると撮影意欲が増すのかを、暇にあかせて一昼夜考えてみたのですが、どうやらひとつだけおぼろ気に浮かび上がってきました。夏の撮影で何がいやかと言うと、汗でべたつく手でレンズ交換をするのが我慢ならないようなのです。手に伝わる感触も気持ちの良いものではありませんし、レンズの胴鏡だって変な汚れ方をするような気がして、それがどうにも耐え難いのです。

 そのような気色の悪さを避ける方法をやっと数年前に発見し、「夏元気」になったと気がついたのです。一眼レフ使用時には、昔から単レンズを(ズームレンズを仕事以外で使うことはまずありません)何本かカメラバッグに入れて持ち歩き、レンズ交換を頻繁にしながら撮っていました。
 「レンズ交換をするのが面倒くさいからついズームレンズを使ってしまう」と言う方が時折おられますが、それはレンズ交換が億劫なのではなく、交換の手順に慣れていないことと焦点距離の画角やパース(遠近感)を身につけていないだけのことだとぼくは思います。慣れていないというのはレンズ交換の経験的回数の問題ではなく、身体能力(運動能力)の差なのでしょう。レンズ交換の身体能力は、意識と訓練で身につくものです。茶道に於ける所作や身のこなしにどこか通ずるものがあると思います。つまり手順にまったく無駄がなく、動きが滑らかなのです。ちなみにぼくは茶道とは今のところ縁がありませんが。

 そしてもうひとつ思い当たったことは、この数年間に自分の撮る写真の指向が多少変化したことにあります。自分では心密かに「これは年相応の成長である。絶対そうに違いない」と思い込むようにしています。自分の写真傾向に合った焦点距離のレンズしか使わなくなったことです。「レンズに合わない被写体は撮らない!」と決めてつけているのです。潔くなったのは成長の証だと。具体的に言えば、望遠レンズを使わなくなりました。望遠レンズと言ってもフルサイズで85mm〜135mm(ASP-Cサイズであれば50mm〜85mmあたり)がせいぜいのところなのですが。
 ぼくはもともと街中スナップ派ですから、望遠レンズとは本来縁が薄く、仕事上仕方なく保有しているのが実情です。

 仕事の写真に追われ自分の写真を撮る余裕を失っていたのですが、2004年の私的な海外ロケを契機に、自分の写真に比重を置き、それに邁進しようと決意を新たにしたのでした。しかし、コマーシャル写真の分野で得た技術的なノウハウの質量はとても言葉では言い尽くせないくらい多大なるものがありました。街中スナップを撮るのにどれほどの恩恵を与えられたか知る由もありません。
 帰国後、本気で街中スナップに取りかかり、気がつけば、歳を重ねるごとにレンズ焦点距離も余命とともにどんどん短くなっていくようです。ぼくの標準レンズは28mm(35mm換算)という極めて広角のレンズなのです。被写体にぐいぐい寄らないと使えません。前号でお話しした新調カメラは35mm (35mm換算)ですから、ぼくにとっては望遠レンズなのです。
 ここ数年は、一眼レフでも単レンズ一本しか使いませんし、また一方ではレンズ交換のできない固定焦点レンズのカメラを常用していますので、猛暑の手のひら発汗に於けるレンズ交換の気持ち悪さから一気に解放されたのでした。そんなこんなで夏の撮影が苦にならなくなったのも要因のひとつだと思われます。
 まぁ、歳のありがたさなのか、念力のせいなのか分かりませんが、手のひらが汗でべたつくことはもう何年もありませんが。

 10数年前に「ぼくは生涯、東南アジアと夏の伊豆では撮影をいたしません!」とクライアントに向かって啖呵を切っていたのですから、それほど気持ちが悪く、いやだったのです。東南アジアはいつかスコールをテーマに撮りたいという気持ちを持ち続けていますので、今の健在ぶりからすればその意欲はありますが、やはり伊豆はあの湿気と風致がどうしても体質に合わぬようで、いくら機材を新調し気分が高揚しても、またレンズ交換をしなくて済むとしても行く気にはなれそうもありません。伊豆の人たちを忌避しているのではありませんので、その伝誤解なさらないでください。

 話が横道に逸れっぱなしですが、ぼくの生徒の何人かが「単焦点レンズを使うことの気楽さ、気持ち良さ」を口にするようになりました。本心なのか、悔しさ紛れなのかは分かりませんが、試みとしてはとても良いことですし、また写真やレンズのメカニズムを知るには手っ取り早い方法です。単焦点レンズの大きな利点はフレーミングをする際に、ズームに比べ迷いがずっと少なくて済むことです。撮影の主体性も得られます。ズームが受け身的要素の強いものであるとすれば、単レンズは能動的なのです。
 ズーム全盛の時代にあってぼくのような単焦点レンズ派は少数派なのかも知れませんし、単焦点でも一本しか使わないと言うのはほとんど偏執狂に近いのだそうです。ですが、ぼくがそうだからと言って生徒たちにそれを押しつけているわけではありません。肝心なことは、ズームの便利さをうまく利用するか、その便利さに負けて横着になるか、そのどちらかでしょう。

 いずれのレンズにしても、その機能を十全に理解し使いこなせば、「機能的になればなるほど、精神性や文化の質を低下させる」というぼくの勝手な不文律から逃れられるのではないか、というのが“理論としては”尤もなものだと思います。こと写真に関しては、科学を無視したところにどんな正当性も見いだせないのです。汗でべたつくからレンズ交換をするのは気持ちが悪いというのも、科学に基づくものなのです、って本当かなぁ?
(文:亀山 哲郎)