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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/02/14(月)
第38回:頼りない映像の記憶
 前号で登場願ったガイド君が果たしてKGB (ソ連国家保安委員会。現在KGBはなくFSB=ロシア連邦連邦保安局となっている ) のエージェントであったのかどうかはわかりませんが、当時この地を撮影旅行すると不可解で面白いことにずいぶんお目にかかれたものです。

 「ここを撮りたい」、「いやダメです」の押し問答を繰り返すうちに、ぼくの監視役と思われるガイド君、もしくはガイド嬢が「かめやまさん、私ちょっとそこで買い物をしてきますから」とか「化粧を直してきます」とか言いながらその場から素早く立ち去るのです。それはつまり、「私がいない間に撮りなさい」と言うことで、用事から戻った彼らはぼくに軽く目配せをし「うまくやったか?」という合図を送ることもしばしばでした。この国は法律より個人の心情が優先する面白い国なのです。法律違反でも現場の者がいいと言えばいいのです。また、その逆の場合も当然あります。
 ぼくのような雑魚に、本格的な?KGB要員がへばりつくことはないでしょうが、しかし体制の異なる国の職業カメラマンを放置しておくようなことはなかったようです。彼らの名誉のために申し添えておかなければなりませんが、この国での延べ400日間における撮影で、彼らに不快な目に遭わされたことは一度たりともありませんでした。
 冷戦時代の西側のKGBに対するイメージは決して良いものではありませんでしたし、今だって良いイメージはありませんが、ソビエト国民にとっては粛清時代の恐怖の対象でもあり、またスパイから国を守るエリート集団であったことも確かです。KGBに比べ、さらに悪辣でお間抜けな組織がCIAでしょう。

 “映像の記憶”という話からとんでもないところへ脱線してしまいましたが、人間のこの記憶ほど当てにならぬものはありません。曖昧で、いい加減で、ずさんなものなのです。                          
 H. カルチエ・ブレッソンの「サン=ラザール駅裏」という有名な写真があります。この写真を久しぶりに見る機会があり、ぼくは愕然としたものです。かつて穴の空くほど鑑賞していた写真です。その写真をぼくはてっきり横写真だとばかり、なんの疑いもなく信じていたのです。実際には縦写真であったことが、自分の、ひいては人間の視覚的な記憶の頼りなさをまさに露呈せしめたのです。これはちょっとしたショックでした。
 自分の頭の中で、既知のものを都合の良いように仕立て上げてしまったのです。人間にはこのような能力が備わっているようです。暗示だとか、思い込みや先入観が、実際の姿を勝手に変形させたり、歪ませたり、変容させたりしているのです。それに気がつかず、信じ込み、場合によってはそれを他人にも強いることがあるという現象におののいています。
 
自分の写真にさえそのような錯覚を抱くことがままあります。久しぶりに取り出した写真を見て、首をかしげながら「あれ〜、そうだったっけ?」という具合にです。いかに、思い入れというものがやっかいなものであるかということです。頭の中のイメージが事実に先行してしまうのです。             
 静止画あるいは絵画でさえそうなのですから、動画はさらに曖昧模糊とした記憶となるはずであろうと思います。また、犯罪の目撃情報なるものがいかにあやふやで頼りにならぬものなのか、推して知るべしというところです。

 ぼくは今、個展の準備のために、古くは二十数年前の写真を引っ張り出して、現在のイメージに合致したプリントを仕上げようと四苦八苦しています。新しいものでも6年以上経っていますから、撮影時に抱いたイメージもほころびかけています。撮影時のイメージが必ずしも二十数年を経た今、当時のものと一致するとは限りません。新しい発見もあり、中には撮影当時ボツにして顧みなかったものが、今見ると「いいじゃない!」という嬉しくもあり、生き返ることもありますから、撮ったものはすぐには捨てずに保存しておくのも、後に三文の得があるようです。

 上記しました個展の情報を、この場をお借りして読者諸兄にお知らせしておきます。ご興味のある方はぜひご来場ください。

 場所:コニカミノルタプラザ ギャラリーC 新宿区新宿3-2-11 新宿高野ビル4F
 日時:2月22日(火)〜3月3日(木)10:30~19:00 (最終日15時まで)
 テーマ:「ポエヂヤーーロシア詩情1987-2004」亀山哲郎写真展。カラー、モノクロ53点

 詳しくは以下をご覧ください:
 http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2011february/gallery_c_110222.html
(文:亀山 哲郎)

2011/02/04(金)
第37回:KGB理論
 一週間という周期はなにかとても書きにくいものだと感じています。この周期はぼくにとって、前回書いたものを完全に忘却の彼方へと追いやるに十分な時間のようです。5日目くらいまでは憶えているのですが、6日目、7日目となるともういけない。この2日間がどうやら鬼門のようで、ぼくの頭脳は混濁をきたし、ここできれいさっぱり、なにがなんだか憶えていないということになるようです。
 今まで月刊誌は何度となく経験をしてきたのですが、月刊ですと不思議なことに一月経ってもそう簡単には忘れないものなのですね。文章の量が多いということと紙媒体ということもあってか、部分的には忘れることがあっても、「前回、一体何書いたっけ?」ということはまずありませんでした。すらすらと続きが書けるのですが、週刊というのは書けそうで書けないものだという発見をしています。
 前回書いたことをもう一度読み直し「へぇ〜、そんなこと書いたんだ」ってことを毎回繰り返しています。これは無責任なのではなく、健忘症という一種の病みたいなものですから仕方がありません。

 ここ3回ばかりちょっとお堅い内容だったので、今回は趣旨を変え少しくだけたことをお話しようと思います。先ほど「紙媒体」と書きましたが、ぼくのような年齢の人間にとっては紙媒体の方がどうやら記憶に残るようです。かつて編集者として長年従事していたことも手伝い、したがって写真に関しても印画紙での表現に強いこだわりを持っているのだと思います。画像のモニター上でのそれと印画紙でのそれを比較した場合、どちらが人々の記憶に残るのだろうという結論は未解明のままですが、好き嫌いで言えばどうしても印画紙に軍配を上げざるを得ません。

 かつて旧ソビエト時代、ぼくは仕事で何度もこの地を訪れました。当時はまだ全体主義国家でしたから、撮影も制限が多く、それだけに職業カメラマンにとっては仕事のしにくい国でした。あれを撮ってはだめ、これを撮ってもだめという時代でした。その時のお話です。

 バイカル湖近くのブリヤート共和国を訪れた時のことです。首都はウラン・ウデといい大草原の広がるただ中にある街です。ここは当時外国人の立ち入りが禁じられていた所謂「閉鎖都市」でした。ソビエト連邦というのは、規則でがんじがらめの国ではなく、けっこう融通の利くところがありました。ここらがどこかの国のお役人とは大きく異なるところです。ぼくの知る限り、ロシア人というのは最もおおらかな気質を持った国民ではないかと思っています。そのおおらかさを頼りに、「閉鎖都市」と銘打っていても、ぼくは常に個人旅行者ですから、交渉次第では入れてくれたりもして、「閉鎖都市」をいくつも訪れることができたのです。

 ウラン・ウデに到着するとすぐに頼みもしないガイド役がぼくにへばりつきました。このようなことはそれ以前に何度か経験していたので、ぼくも気に止めることなく仕事に励んでいたのですが、ある時郊外にあるチベット仏教の本山に行こうということになりました。右も左もわからぬ外国人にとって、当然ガイドがいなければ行くことができません。社寺に行く途中車の窓から、大草原の風景を撮ろうとするとガイド君が慌てふためき、「だめです、撮らないでください!」と大声を上げるのです。遠くの方になにやら小さな鉄塔が見えました。聞くところによると、その鉄塔が画面の中に入ってしまうので撮ってはいけないのだと。軍の重要な通信施設らしいのです。撮影を阻まれて残念というほどの景観ではなかったために、ぼくは「あっ、そう」と簡単に引き下がったのですが、そのガイド君の口上が面白い。
 彼は遠来の客にその理由をきちっと説明しておかないと申し訳ないとでも思ったのでしょう。また、自己弁明をもついでに果たしておきたかったのでしょう。
    
 「ムービーであれば撮ってもかまわないのですが(と、一応の譲歩と弁明を示しつつ)、静止画(つまり写真)はだめです(と、断固たる態度をも示しておきたかったに違いない)」と言うのです。ぼくは「なぜ?」と問い返したのです。彼はちょっと得意げな表情を見せながら、まるで心理学者のようにこう解説を始めたのです。
 「ムービーの画像というものはすぐに人の記憶から遠ざってしまうものなのです。だからですね、ムービーであれば多少のことはかまいません。それに引き替え静止画はいつまでも人の記憶に止まり、忘れがたいものとなるのです。人の頭にいつまでも残像として住み着くのです。おまけに静止画はムービーよりはるかに解像度が高いということもあり、それも非常にマズイことなのです。専門家が見ればそれが何か、すぐに分かってしまいますから」と、いっぱしの心理学者および人間工学者を演じて見せたのです。

 彼は上司(おそらくKGBの)からそのような心理分析の結果を教え込まれていたに違いないのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/01/28(金)
第36回:プリントの楽しみ
 前回、パソコンについて触れましたので、今回はパソコンと切っても切れない縁であるプリントについてお話しましょう。今までお話ししてきたことと重複する部分もあるかと思いますが、大切なことは何度お話ししてもよいと思っています。人間とは忘れる動物ですから、何かを身につけたり、習得するには老若男女に関わらず、繰り返しこそが最も有効な手段であるとも思っています。

 今、あるメーカーさんからの依頼でぼくは自分のオリジナルプリントを700枚近くプリントする作業をしています。一口に700枚と言っても、その作業は大変骨の折れるものです。すべてが極厚手の印画紙なので、プリンタには一枚ずつ手差し作業をしなければならず、かなりの重労働です。ましてや売り物ですので、手袋をしてプリント状態を一枚一枚細かく点検しなければなりません。このように大量に、一気にプリントをするのは初めてのことなので、何か今までに気のつかなかった教訓を得られるのではないかとも思っています。

 同じ状態のプリントを何枚も仕上げることができるというのはデジタルの最たる利点でもあります。フィルムですと、暗室にこもり同じプリントを2枚仕上げるということは不可能なことなのです。暗室作業の基本的である焼き込みや覆い焼きといった手順をすべて手作業で行いますから、各々に微妙な差異が生じ、同じものを2枚と作れないのです。それが“値打ち”と言えば言えるのかも知れませんが、いわゆる製品ムラは避けがたく、歩留まりの悪いことは明白です。
 デジタルでは注意深く行えば製品の均一化が可能となります。“注意深く行えば”です。部屋の温度、湿度を一定に保ち、プリンタの慣らし運転を行い、インクの残量および目詰まりなどのメンテナンスやプリント後の乾燥などにも細かく気を配れば、ほぼ同一のプリントが何枚も作れるということです。

 デジタル写真は、“自宅で簡単にプリントができる” という大きな楽しみ方があります。プリンタには様々なタイプがありますが、インクジェット式が最も普及しており、一般的でもあります。最近のインクジェット・プリンタは “写真画質” という言葉が使われているように、従来の銀塩プリントと較べて遜色のない品質を得ることができるようになりました。家庭で使うのならA4(21×29.7cm)サイズを中心にA3(A4の2倍の大きさ)くらいまでのものが一般的で、しかも種類が多く、また使い勝手もいいと思います。印画紙もたくさんの種類が各社から用意されていますから、好みや写真に合わせて使い分けるのも楽しみのひとつでしょう。

 写真を見るのはモニターだけでなく、やはりプリントをして鑑賞するのが本筋でもあり、また醍醐味でもあり、最終的な目標だと言えます。自分のイメージを印画紙に定着させるという作業は、写真を撮る行為と同じくらい大切なことだとぼくは考えています。美しいプリントを得るためには、美しい写真を撮ることが前提ですが、プリンタを使いこなさなければなりません。こなせばこなすほど、撮影の技術もそれに比例して向上していくものです。苦労する分、メリットも大きいというわけです。苦労といってもこれは楽しい苦労ですから、それを存分に享受してください。

 長年、写真というものに従事してきてつくづく感じさせられることは、フィルムであれデジタルであれ、プリントをおろそかにしたり、神経を配らない人は写真の質もその程度に止まるのだということです。プリントの上達とともに撮影の技術も比例して高まっていくものです。良いプリントを心がけると自ずといろいろな発見ができ、ひいてはそれがあなたの写真に直接寄与することになるのです。
 技術の高い写真と良い写真とは意味合いが異なってきますが、良い写真に磨きをかけるという意味でプリント技術は欠かせないものだとぼくは思っています。ただ、高いプリント技術や撮影技術を有する人が、すなわち良い写真を撮れるのかというとそうでないのも事実。ここらあたりがちょっと難しいところです。

 撮影もプリントも、大切なことは“あなたの思い描くイメージ”にかかっています。被写体を見て「自分はこんな風に撮りたい」という強い思いがないと写真を撮るという行為が成り立たないのではないでしょうか。イメージが貧困であれば、どんなにプリント技術を駆使しても、誤魔化しようがなく、作品の質が上がるわけではありません。

 写真を始めたばかりの人に、「そうは言っても・・・」ということもありましょうから、まずプリントの楽しみを満喫していただければと思います。それを楽しんでいるうちに、いろいろなことが分かってくるのだと思います。

(文:亀山 哲郎)

2011/01/21(金)
第35回:パソコンは必要?
 デジタル写真にはパソコンが必要なのでしょうか?

 ”デジタル写真を扱うからには、パソコンは絶対に必要なものだ” とは一概に言えません。ダイレクトプリンターと呼ばれる家庭用のインクジェット・プリンタを使えば、パソコンなしでもメモリーカードをプリンタに差し込むだけで、写真を楽しむことができます。多くの製品が手頃な価格で入手できますから、どうしてもパソコンは苦手だという方には、とても便利なものです。それも厄介だという向きは、メモリーカードを持って写真屋さんに駆け込めばいいのです。その場ですぐにプリントしてもらえます。
 と、ここまでは写真を単なる記録として楽しむ方々へのお答えです。もう一歩進んで、「この被写体をこのように表現したい」とか「自分の描いたイメージを思い通りプリントしたい」と考えている方々、趣味としてデジタル写真を楽しみたいという人たちには、やはりパソコンは必須のアイテムと考えていいでしょう。

 写真をデジタルから始めた方は、写真画像の明るさや色調、コントラストなど、パソコンを利用して調整できるのはデジタル特有の事象とお考えかも知れませんが、フィルム時代から好事家たちはこの作業を黙々とこなしていたのです。現像やプリントを他に委ねることを由とせず(既製品では飽きたらず)、暗室に潜り込み、人によっては家族の顰蹙を買いながらも、自分のイメージを追求したものです。
 デジタル時代となり、専門家でなくともこの作業は飛躍的に容易となり、また身近にもなり、フィルム時代より高い精度で自身のイメージを追求でき、成し遂げられるようにもなりました。つまり、良いことずくめなのです。

 パソコンがあればどんなことができるのでしょう?

 パソコンを操作することで、データ保存の他に、たくさんの事が可能になります。その中でも最も大きな楽しみは、いつでも手軽にモニターに映して鑑賞ができることでしょう。写真を自由に拡大して見ることができるということは、やはり大きな喜びや驚きであるとともに、細部にわたって鑑賞、反省?できるわけですから、次回の撮影に際してのヒントも得られやすいと思います。ただ大手を振っての好ましいことばかりではなく、ここには頭の痛い問題も生じてきます。
 話が横道に逸れてしまいますが、大切なことですので敢えてお話しておきます。様々の方と接して知り得たことのなかで、「モニターで見たものとプリントとのあまりの違い」にお悩みの方が非常に多いということなのです。いつもその質問にぶつかると言っても過言ではありません。
 モニターは光の三原色(RGB。赤、緑、青)で成り立ち、プリントは色の三原色(CMY+K。シアン、マゼンタ、イエロー + ブラック)で色再現を行いますから、この2つが物理的に同一に表現されることはありません。しかし科学的な約束事をしっかり踏まえれば、ほぼ同一に表現できるのです。デジタルは科学であり、フィルムは化学なのです。この科学的な約束事をみなさんは無視して、「色が合わない。明るさやコントラストが合わない」とお嘆きなのです。
 また、同じプリントが光源によって変わって見えるというやっかいな現象を演色性(メタメリズム。厳密には等色条件と翻訳)と言いますが、これにも悩まされます。この現象はプリントに限らず、あらゆるものに見られます。生ものをタングステン光下で見たものと蛍光灯下で見たものとでは、同じものとは思えないほど色が異なって見える、あの現象です。
 このような悩み事から解放されるには、別項目を設けなくてはならず、今日ここでは触れないことにいたしますが、どうしても今すぐ、という方は個別にご質問をいただければと思います。

 デジタルは画像ソフトなどを利用して、自分の好みに色調補整をしたり、加工や修正、合成もすることができますから(写真の加工、合成にぼくは消極的な意見です)、明るく清潔な暗室を得たのと同じくらい価値のあるものです。また、年賀状や挨拶状なども、自分のオリジナルが作れますし、ホームページやメールにも簡単に写真が添付でき友人や知人に公開できるのも、パソコンがあればこそということになります。

 ぼくは職業上、パソコンはMacintoshを使用しており、時折知人宅でWindowsを触るくらいですので、難しい?Windowsに関してはほとんど知識がありません。おそらく読者の大半の方がWindowsをご使用のことと思いますが、パソコンは厳密な印刷結果(美術出版や写真集など)を望むのでない限り、Macintoshである必要はないと思います。必要なことはMacであれWinであれ、身近に教えてくれる人がいるということではないでしょうか。
(文:亀山 哲郎)

2011/01/14(金)
第34回:データの保存
 撮った画像はどのようなものに保存すればいいの?

 メモリーカードに記録された情報は、消したり記録したりを繰り返すことができますが、大切な写真はどこかに保存しておかなくてはなりません。この作業を ”バックアップを取る” と言います。失ったデータを取り戻すのは、状況にもよりますが、まず不可能に近かったり、余計な出費を強いられることになりますから、バックアップはしっかり取っておきたいものです。失ったデータは二度と手元には戻ってこないというくらいの思いでちょうどいいでのではないでしょうか。

 一般的な方法は、いったんデータをパソコンに取り込んで、それをCDやDVD、あるいは外付けハードディスクといった記録メディアに移すことです。デジタル情報をCDやDVDに記録するためには、パソコン内蔵のレコーダーを使用するか、もしくは別個のレコーダーが必要になります。今は高倍速のものが手頃な価格で入手できますから、揃えておくとよいでしょう。パソコンに保存しただけではだめなのかという声を聞きますが、パソコンのハードディスクの寿命は2年から3年と言われていますし、いつ壊れるかわからないというのがパソコンの宿命みたいなものですから、やはりここは安心料としてぜひ購入されることをお勧めします。記録メディアの中ではCDが一般的で安価です。容量が640MB-700MBありますから、256MBのメモリーカードなら2枚以上は記録できることになります。

 では、CDやDVDに保存しておけば絶対に大丈夫なのかというとそれも大いに疑問符のつくところです。どのくらいの期間保存できるのかは、CDやDVDの置かれている条件もそれぞれですから、一概に何年とは言えないのが現状です。永久不滅という物はこの世にはありませんから。温度、湿度、直射日光、扱い方などで耐用年数も大きく異なってくるはずです。

 ぼくは自分でも呆れるくらいガサツかつ酔狂な人間なのですが、データの保存だけは人一倍の神経を使うようです。“ようです”とは、他人様が果たしてどのようにしているのかをうかがい知ることはなかなか困難ですから、ただ自分でそう思い込んでいるだけなのかも知れません。
 CDやDVDにバックアップしたデータは、5年に1度焼き直すということを励行しています。焼き込んだ日を忘れずに記録しておくことも大切です。ぼくはCDやDVDだけでは飽きたらず、大容量の外付けハードディスクにも二重の保険をかけるようにしています。ですが、ガサツに加え多少のボケも混じり始めていますから、何がどこに保存されているのかが時々分からなくなっちゃうのです。かなり膨大な量ですから、検索をかけまくってどこに潜んでいるかを突き止めなければなりません。この作業に手間取るとストレスが倍加し、ぼくのように人一倍白髪化が進みます。
 保存というのはそこまできちんとして、「人一倍の神経を使う」と言えるのでしょうね。やっぱりぼくはガサツで酔狂なだけのようです。

 あっ、肝心なことを忘れていました。
 メモリーカードからどうやってパソコンに移すかの作法についてです。カメラの取り扱い説明書などに、カメラとパソコンをつないだ図がありますが、ぼくはこの方法を用いたことが一度もないのです。なんで? と聞かれると答えに窮するのですが、「なんとなく気味が悪いから」という極めて非科学的で無責任な答えとなってしまいます。「気味が悪い」というのは感覚的な問題でもあるのですが、ぼくは自分の感覚をこよなく愛し、信じ、またそのような勘に頼ることにしているのです。そうやって無事?60年以上もやり過ごしてきたのです。「無事これ駄馬」と言うのもアリです。

 カメラとパソコンを直接つなぐのではなく、カメラからカードを取り出し、カードリーダーに差し込みパソコンに移すという作法が一種の儀式のようにも思えて好きなのかも知れません。手を洗い、静電気を落として、という慎重さを要する作業ですから、一手間も二手間も余計なのですが、なぜかこの方が安心感が得られるのです。重量級のデータを一気に何百枚もパソコンに移すのですから、もしかして(まるで他人事のような口調)こちらの方がスピードがありパソコンへの取り込みが速いとでも感じているのかも知れませんが、これも感覚的なことで確かなことは分かりません。どなたか教えてください!

 もう何千回もこの作業を繰り返してきて、ここでミスを犯した(データを飛ばしてしまった)ということはまだ一度もありませんから、ぼくはこの方法を何の根拠もなく、だれかれかまわずにお勧めしています。
 それより重要なことは、メモリーカードの安物買いは禁じ手と考えた方がずっと賢明です。「安物買いのデータ失い」となってしまうからです。信頼性のあるメモリーカードを買うようにしましょう。苦労して撮った写真を失うのは、惜敗どころではなく、痛恨の至りですから。

(文:亀山 哲郎)

2011/01/07(金)
第33回:デジタルカメラ購入のポイント
 第2回で「どんなカメラがいいですか?」というテーマについて少し抽象的なお話をしましたが、今回はデジタルカメラに特化して、具体的な面から探ってみたいと思います。

 まず購入のポイントは、使用目的をしっかり見定めることです。
 どのカメラがあなたに適しているかは、それぞれ個性や好みがありますし、使用目的も異なりますから、正直なところ的確な答えを導き出すことは誰にもできませんが、カメラの基本性能を理解しておけば、選択のよいヒントとなります。思いつくままに(これがいけない)述べてみましょう。

 カメラを選択する上で最もその指標となるべき数値に画素数というものがあります。コマーシャルやカタログなどで謳い上げている「何万画素」という数値です。昨今はメーカー同士の、あるいは同価格帯機種の「画素数争い」も以前と比べやや沈静化の兆しが窺えますが、カメラを購入する際のひとつの目安であることに変わりはありません。
 画素数とは、光を受け取る撮像素子が何万個並んでいるかという数値です。大雑把に言えばフィルムの粒子のようなものだと考えてください。デジタル写真をパソコンなどで拡大していくと写真がいくつもの四角い点で構成されていることがわかるでしょう。
 点(撮像素子)が多ければ多いほど、光の情報をたくさん、そしてまた細かく得ることができるというわけです。つまり画像情報の密度が高いということになり、きめの細かい、滑らかな写真画質を得ることができます。これを解像度という言葉に置き換えてもいいでしょう。デジタル時代になりこの「解像度」という言葉が「解像感」という曖昧な言葉に置き換えられることもあるようですが、いずれにせよ画素数は写真の画質に直接結びつく最も大きな要素であると言えます。

 CCD (Charge Coupled Device の略。撮像素子)イメージセンサーのサイズの小さいものと大きいものとでは、同じ画素数でも、写真の画質は変わってきます。もちろん大きい方が有利で、写真の表現能力に優れています。これは、光を受け取る素子が大きいほど、微細な光に反応できるからです。
 同じ画素数であれば、例えばコンパクトデジカメなどに多用される1/1.8インチ(CCDの対角線の長さ)より、一眼レフに多く使われているAPS-C サイズ(厳密な規格ではなく、メーカーにより多少の差異があるが、縦横の寸法が23.4mm x 16.7mm前後)の方が有利なわけです。フィルムでも、35mmフィルムよりブローニーフィルムの方が、微細で滑らかな表現が可能なのと理屈は同じです。

 画素数の多いことの長所と短所

 画素数が多いということは、それだけ細密な描写が可能となり、グラデーションも豊かなものになります。画素数が少なくなると、反対に情報量が少なくなり、写真画質という点では不利になります。
 また、画素数が多いことイコール情報量が多いということにつながりますから、一枚のメモリーカードで撮れる写真の枚数も減ることにもなります。容量が大きくなりますから、パソコンで表示するのに時間がかかったりすることにもなります。写真データの容量が多くなればなるほど、パソコンにも負担がかかり、それを処理するパワーが必要となってきます。
 大は小を兼ねるというのは事実ですが、そのためにより多くの出費をさせられるのも確かなことです。

 使用目的に応じて画素数を選ぶ

 実際の使用に際して、パソコンの負担を除いても、画素数が多ければ多いほど、すべてにおいて万々歳かというと決してそうではありません。例えば、写真をパソコンのモニターやテレビでしか見ないという人。あるいは、葉書くらいの大きさにプリントをして楽しむのがほとんどだという人であれば200万画素以上の画素数はあまり現実的ではありません。A4くらいの大きさでプリントを楽しみたいという方は、一般的なインクジェットプリンタでプリントする場合、目安として最低限300万画素あれば、それほど不満のないプリントが得られると思います。もちろん、400万、500万画素の方がより細密な描写が可能ですが、カメラの選択にあたっては、むやみに画素数の多いものを選ぶのではなく、どのくらいの大きさにまでプリントしたいかを選択の指標にするのも、合理的な考えだと言えます。一般的なインクジェットプリンタの解像度を200dpiとして換算してみると、プリントサイズの目安として130万画素―約16x12cm, 200万画素―約20x15cm, 300万画素―約26x19cm,400万画素―約28x21cm, 500万画素―約32x24cmとなります。

 カメラ選び

 生まれて初めてのカメラが300万画素のコンパクトデジカメで、一年後には一眼レフを購入した人や、初めから一眼レフを選択した人たちを実際に見ていますから、初心者向け、中級者向け、上級者向けというのはあってないようなもので、ぼくはそれにあまりこだわる必要はないという考えを持っています。
 デザインが気に入ったとか、山歩きに持って行きたいからとか、芸術写真を目指し大きくプリントしたいなど、それこそ目的は百人百様です。そのカメラの何が気に入ったかが、選ぶ根拠としては最も正当性があるような気がします。
 メーカーはしのぎを削って製品を世に問うているのですから、これからデジカメを始めようとする人たちにとって、同価格帯の中でそれほど目くじらを立てるような性能の差はないと考えていいでしょう。

 私見ですが、カメラ選びはあなたの腕前に依拠するではなく、初心者、上級者に関わりなく、懐の許す範囲で最高のものを手にするのが上達の早道だとぼくは信じて疑いません。
(文:亀山 哲郎)

2010/12/24(金)
第32回:デジタルのメリット(4)
 プリントの楽しさをお話する前に、順序が前後しないように、デジカメのワンランクアップの活用法について先にお伝えしておきましょう。

5.予想以上に電気を消費するのがデジカメ

 前回お話したように、電気がなければ ”ただの箱” というのがデジカメ。撮りたいものを目の前にして“電池切れ”では、あまりに悲しく惨めです。この悲劇から逃れるためには、ただひたすら事前の準備あるのみ。単三電池使用であれば、充電のできるニッケル水素電池の使用がお薦め。ただニッケル水素電池はメモリー効果というものがあって、十分な放電を行っておかないと、完全な再充電ができないことに注意してください。また、電池というものは使わずしても自然放電をしますから、撮影前日の充電がベストです。最近はメモリー効果が少なく、自然放電の少ないリチウムイオン電池が主流になりつつあります。     
 そして、専用のバッテリーをもう一つ予備として購入しておけば安心です。電池残量を気にしながらの撮影は、精神衛生にも良くありません。                            
 ここで注意すべきことは、電池をカメラにセットする時は必ず電源をオフにしておくという習慣を身につけてください。そのためにカメラが壊れるということはありませんが、自分の意識しないところで、カメラが突然動作を始めてしまうので、事故を起こしかねないからです。

6.メモリーカードをさらに用意しておきましょう

 デジタル写真は撮影した電気的な情報を記録保管しておく、メモリーカードを使います。メモリーカードは様々なタイプがありますが、カメラの機種により使うものが決められていますので、購入の際には自分のカメラにはどのタイプが適するのかを知っておかなければなりません。              
 メモリーカードもバッテリー同様に買い足しておいた方が安心でしょう。メモリーカードは、撮影後パソコンなどに情報を移してしまえば、消去して何度でも繰り返して使うことができるのが、フィルムにない利点です。

7.三脚はおっくうがらずに使いましょう

 デジタル写真が手ぶれを起こしやすいのかどうか、その物理的な根拠を私は知りませんが、フィルムに比べて手ぶれを発見しやすいのは確かです。その大きな理由は、フィルムはせいぜい4x-8xのルーペでピントを確認していたものが、デジタルではカメラやパソコンのモニターで画面を拡大して見ることができますから、その拡大率はルーペの比ではありません。その拡大率による差が、手ぶれの発見を促しているのではなかろうかと思っています。ぼくは、フィルム時代に比べて、手ぶれに神経をより尖らせるようになったことは確かです。
 せっかく軽くて身軽に持ち運べるカメラを買ったのだから、三脚なんていやだという向きには無理強いできませんが、写真をよりシャープにきれいに撮りたい、あるいは夜の雰囲気を壊さずにスローシャッターを切りたいと考えている方には三脚の使用をぜひお薦めします。三脚は重さと強度と価格がほぼ比例するという原則めいたものがありますが、体力に合ったものでいいと思います。レリーズをもっていなければ、あるいは使用できなければ、セルフタイマーを使って撮ってみてください。今までとは違う写真の出来ばえに出会えるかも知れません。
 今は「手ぶれ防止機能」なるものが一般化しつつありますが、はっきり申し上げておきたいのですが、「あれは横着さをカバーするものでは決してない」ということなのです。撮影の基本のできた人は大いにその御利益に与れるのですが、「手ぶれ防止機能」に頼る人?にはほとんど効果がないということです。「ほんの気休め程度」のものだと捉えた方が、慎重さを欠かさずに、結果的には良いのではないかと思います。
 私見ですが、物事すべからく便利になればなる程、文化の質というものが凋落の憂き目に遭うように思えてなりません。

8.デジカメの利点を最大限に使おう

 デジカメの大きな特徴は撮ってすぐに画像を確認できることです。そして、思うように撮れなかったら、気に入るまで何枚でも挑戦できること。それを積極的に活用しない手はありません。                     
 イメージ通りの写真に近づけるための二大機能として、「ホワイトバランス」と「露出補正」があります。フルオートはあくまでもカメラまかせで、必ずしも自分の撮影意図を反映してくれるものではありません。フルオートで撮ってみて、全体の色調や明るさが好みのものでなかったら、ホワイトバランスや露出補正をいろいろと変えてみるのも有効な手段です。  
 例えば、白熱電灯下ではホワイトバランスを ”電球” マークに合わせて撮ってみたら、がらっと感じが変わります。お肌の色合いも変わります。ホワイトバランスを光源に合わせて使うのは、肉眼で見た通りの色調に最も近づける方法でもあります。一方、露出補正は、画面を明るく撮ったり暗く撮ったりという機能です。どのくらいの明るさが適切かというのは、これこそ個人的なものですから、あなた好みで決めるのが一番です。理論的には「適正露出」というものがあるのですが、それは個人の適正とは合致しないものです。

 とうとう今年中に「プリントの楽しみ」に到達できずすいません。今年最後の締めもやっぱりお詫びと反省で終わってしまいました。来年はもう少しうまくやろう?と思います。
 
 では、どうぞ佳いお年を。
(文:亀山 哲郎)

2010/12/17(金)
第31回:デジタルのメリット(3)
 いつでもぼくの話は順序が前後しますが、デジタルのメリットを書き続ける前に、銀塩フィルムとデジタルの画像の出来上がる仕組みについて簡単に述べておきましょう。

 従来のフィルムカメラは、レンズを通った光が、光を感じる化学的な物質(乳剤)を塗布されたフィルムに化学変化を起こさせ、光を記録します。ここまでが、撮影という行為の段階です。
 この段階では、実際にフィルムを見ても人間の目には画像として認識することはできません。暗黒な場所にフィルムを移し、薬品による「現像」という化学反応を加え、初めて人間の目で認識できるようなネガフィルムやポジフィルムが出来上がります。
 この作業を自分ですべて行う人もいますが、一般的には現像所や写真屋さんが行います。これは、モノクロ(白黒)フィルムでもカラーフィルムでも、同様の手続きを経ます。ポジフィルムはスライド写真ですから、フィルムの現像が済めばそのまま見て楽しむことができますが、ネガフィルムは色が反転されているので、そのままでは画像として鑑賞することが出来ません。ネガフィルムはプリントというもう一段階の化学処理を印画紙に加えて初めて画像として見ることができるのです。

 デジタル写真は、当然、今説明をしたフィルムが使われていません。フィルムのかわりに、撮像素子というものが使われています。その光をフィルムのような化学反応ではなく、撮像素子という半導体で電気信号に置き換えるのです。そして、この電気的な信号を増幅処理しメモリーカード(記録メディアとも言います)に書き込みます。得られた電気信号を画像情報にする「画像処理回路」などを働かせるためには当然電力を必要としますから、フィルムカメラよりデジタルカメラは多くの電力を消費するため、バッテリーにより多くの負担を強いることになります。バッテリー電力がなくなれば、デジタルはただの箱に過ぎませんから、バッテリー残量には常に気を配っておかないと、いざという時に役立ってくれません。
 デジタルでもRawデータ(ここでは現像していない撮影済みフィルムと捉えていいでしょう)で撮影するとそのままでは使うことができませんから、それを通常のJPEG や TIF などの画像データに変換する作業を「現像」と言っています。Raw は未現像フィルムと異なり、何度でもやり直しができることは第29回でお話した通りです。
 Rawデータで撮らずJPEG で撮影して、メモリーカードを現像所や写真屋さんに持ち込めば、あっと言う間に(なのでしょ? ぼくは経験がなく聞きかじりなのですが)プリントしてくれるのだそうです。

 では先週の続きを。

4.現像作業の快適さ
 
 銀塩時代の暗室作業は暗く(当然ですが)、また様々な薬品の臭気でうんざりさせられたものです。いくら換気をしても数日間の立てこもりとなってしまうと定着液などから発するガスに頭痛を訴えたり、透明の黄色い結晶状の目ヤニで起床時に目が開かないということもしばしばでした。また、液温の管理などもかなり手のかかる問題で、暗室に飛び込むにはそれ相応の覚悟が必要でした。

 それに比べデジタルの暗室作業はなんと快適なこと! と言っても、フィルム同様に現像作業の手順を踏むことに変わりはありませんが、気楽に取りかかれるという点で、やはりフィルムの比ではありません。
 また、快適な部屋でパソコンを使い画像を補整したり、好みの色調にプリントするという楽しみがあります。画像ソフトを使っての暗室作業は、その精密さや精緻さ、多様さという点において、アナログの比ではありません。
 またデジタルはフィルム代や現像料がかからないので、フィルムより費用が少なくて済むという切実な長所を持っています。ですが、お気に入りの一枚を納得できるまで上質に仕上げようとなると、印画紙代やインク代もばかにならないという面もありますが、それでも、それが達成できた時の喜びはお金には変えられぬ醍醐味と楽しさが味わえます。

 写真というものは、最終段階がプリントだという考えにぼくは固執しています。そこには様々な理由があるのですが、プリントでなくWebですと、ぼくの、もしくはあなたの写真を見る人が100人いるとすれば、100通りのものが現出することになります。つまり、一つの写真がモニターにより見え方がまったく異なるということです。自分の写真を他人のモニターで見て、「これはオレの写真じゃない」という経験を何度もしています。前回添付した写真にしても、ぼくが色調補整したものがあなたのモニターでは伝わらないという可能性だって捨てきれません。
 このような行き違い?はWebでは避けようがなく(避けるためには精密な測光機器を使った厳密なモニターキャリブレーションが必要ですし、色管理のしっかりした画像ソフトも必要です)、したがってプリントが唯一、作者の意思や感情を伝えるものだとぼくは捉えています。

 次回はデジタルプリントの楽しさについてお話しいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2010/12/10(金)
第30回:デジタルのメリット(2)
 平均的な日本人なら、「未だかつて、シャッターを押したことがない」という片意地な人はまずいないでしょう。それほど、写真を撮るという行為は日常化しています。

 科学の進歩とともに、写真の世界も急激な変化を遂げつつあります。フィルムの時代が長く続き(いわゆるアナログ写真)、昨今ではこのフィルムに取って代わり、デジタルが主流を占めることに戸惑いを覚え、困惑されておられるご年配の方々も多数いらっしゃるのではないでしょうか。携帯電話にさえデジタルカメラが付き、誰もがどこでも、いつでも簡単に写真を撮り、それをコミュニケーションの手段として活用している様を横目で見ながら、引け目を感じておられるご年配の方々、「なに、デジタル恐るに足りず!」です。基本的には従来のカメラと同じと考えてよいのです。ただ、写真はデジタルに限らず、アナログであっても、どうしてもそこに科学が介在しますから、その部分をしっかりと押さえておけばいいのです。

 「その科学の部分がわからないのですよ」とおっしゃる気持ちはよくわかりますが、科学と言ってもぼくたちは技術者ではないのですから、科学という言葉を他に置き換えて、それを小学生の教科書程度の簡単な約束事と捉えてください。そのためにはまず、デジタルやパソコンといったカタカナ言葉に必要以上の生理的なアレルギーを抱かぬ事です。そして、多少の前向きな姿勢があれば誰にでも操作できるものなのです。操作を間違えたくらいでは、カメラは壊れませんから、安心してデジタルの世界を遊んでください。実際にカメラを手にしてみれば、「なーんだ。そんなことだったのか」とおっしゃるに違いありません。そして、デジタル写真の持つ大きな可能性と創造性を存分に楽しんでもらえたらと思います。


1.デジタルカメラでしかできないことはこんな事

 デジタルカメラには、画像を確認する液晶モニターというものがついています。体からカメラを離し、そのモニターを見ながらシャッターを切ることができるのです。モニターは二次元の世界ですから、ファインダーを覗き込んで見る従来の方式より、構図や遠近感などが捉えやすいのです。ここには実は大きな落とし穴もあるのですが、慣れがそれを解消してくれるでしょう。そして、この液晶モニターの持つもう一つの大きな役割は、撮ったばかりの写真をすぐその場で確認できることです。思い通りの写真が撮れなかったら、何度でも撮り直しができることも、デジタルカメラの大きな利点です。ただ、写真屋さんにできあがったフィルムとプリントを取りに行くあのドキドキ感は失われますが・・・。

 ここで注意していただきたいことは、撮った写真をカメラのモニターで見て、それがお気に召さなかった時に、その画像データをカメラから消去してしまう人のなんと多いことか。一枚のメモリーカードには当然枚数制限がありますから、気に入らないものは捨てて、無駄を省きたいとの衝動に人は駆られるようです。ここにとんでもない危険が潜んでいるとも知らずにです。ですから、途中で捨てるようなことはせずにそのまま撮影を続けてください。


2.明るさに応じて一枚一枚の感度を変えることができる

 また、自然界の光は明るかったり暗かったりと、必ずしも写真を撮るに適した明るさばかりだとは限りません。フィルムにはISO感度の異なるものが何種類か使用目的に応じて売られていますが、フィルムをカメラに詰めてしまえば、そのフィルムの枚数は指定された感度で撮らざるを得ません。
 しかし、デジタルカメラは、一枚一枚自由な感度を選ぶことができるのです。暗くて手ぶれを起こしそうであれば、感度設定を変えてその場の光の明るさに合わすといったような使い方ができるのは、とても便利でありがたい機能です。これはデジカメの特筆すべき利点です。

 また、撮影モードも多彩で、花などを画面一杯にアップで写したい時はマクロモード、女性を撮るのならポートレートモードといったふうに、夜景やスポーツ撮影にもそれぞれのシーン別撮影モードが装備されていますから、お手軽にきれいな写真を撮ることができます。また、ビデオカメラのように動画を撮るための動画モードもほとんどのカメラに搭載されています。


3.色かぶりを起こさない

 デジタルがまったく色かぶりを起こさないかというと決してそんなことはないのですが、フィルムに比べればその調整の煩雑さは比ではありません。このことは、第27回「デジタルの恩恵に泣く」で少しばかり触れました。

 作例01は軽井沢万平ホテルのダイニングルームです。光源はタングステンのみで、その温かさを残しながら色かぶりを抑え補正しています。フィルターは使用していません。

 参照画像 01 → http://www.amatias.com/bbs/30/30.html

 フィルムカメラでは、例えば蛍光灯下で撮影すると緑がかぶってきたり、電球下だと赤がかぶってきたりと、目で見たような色がなかなか再現できません。この現象は、太陽光下できれいに写るように設定されたフィルム(デーライト用)に、光源の色温度が合わないために起こります。デジタルカメラでは、カメラが自動的にこの色かぶり調整をしてくれます。フィルムではやっかいな蛍光灯下でも、デジタルではとても綺麗に写すことができるのです。これはホワイトバランス(白を色かぶりなく白く表現する)をカメラが大雑把とは言え自動的に取ってくれるからです。

 今回はここまでですが、次号からもまだまだ尽きぬデジタルの利点についてお話していきましょう。

(文:亀山 哲郎)

2010/12/03(金)
第29回:デジタルのメリット ( 1 )
 すでに何度か申し上げたことの繰り返しで恐縮なのですが、ぼく自身は写真に関して、デジタルでもアナログ(フィルム)でも、どちらでもいいと考えています。美の創造は使用機材・器具・道具などに支配されたり、左右されたりするものではないと信じているからです。要は使いこなしにあると第26回「ある日の出来事」で述べたばかりです。
 しかし、何事においてもメリットとデメリット(長所と短所)は常に表裏一体で共存しているものです。片方だけを取り上げてその長所を並び立てることはある意味で公平さを欠きますが、時代とともに新しい方式が開発され、便利さを増し、世の多くの人々に受け入れられるのも、科学の進歩という意味で、否定できぬものがあります。
 また、デジタルとかアナログに限らず、「作品というものは時代とともにあるものだ」というのもぼくの持論なのです。

 そのような観点に立ち、ここではアナログの長所はひとまず置いておいて、新参者であるデジタルの長所について思いつくままに(ここがぼくの駄目なところで、系統だった話し方ができないという短所には、お目こぼしを願います。短所があれば長所もあるのだとおおらかな気持ちで受け取ってください)述べてみたいと思います。

1.「ホワイトバランスをとる」
 第27回「デジタルの恩恵に泣く」でお話したように、フィルムに比べ自然光下〜〜たとえば太陽、タングステン、蛍光灯、ストロボなどの様々な光源などなど〜〜での撮影にデジタルは神経質にならずに済むということです。特に撮影時にRawデータ(Rawは英語の「生」という意味)で撮影しておけば、どのような光源下の被写体であっても、パソコン上で使用する現像ソフトなどで、その色温度を自在に操り、色かぶりを取り除き、自分のイメージに添った調整を連続可変のスライドバーを動かすことで一瞬にしてできてしまいます。
 この作業を、「ホワイトバランスをとる」と称します。つまり、白い物を白く表現するという意味です。Rawデータであれば、画質を劣化させることなく、この作業が何度でも、気に入るまで、繰り返し繰り返しできるのです。

 参照の画像は両方ともデジタルですが、光源はタングステンの写真電球です。電球の色温度は105v近辺を使い3200ケルビンに調整してあります。この条件下、疑似Daylight用フィルムで撮ったもの「(1)タングステン補正前」と、色温度を合わせたもの「(2)色温度調整後」を比べて見てください。
 厳密には両方ともフィルムで撮ったものではありませんが、ここではその違いを感じていただくことが主眼ですので、他の煩雑なことには触れません。
 ただ、ネガカラーフィルムで撮ったものも実際には色温度が合わず、また色かぶりをしているのですが、 DPE屋さんなどの現像機でコンピューターによる処理が施され、自動補正されたプリントを渡されるので、普通、気がつきにくいだけのことなのです。

 ※参照画像(1)と(2)→ http://www.amatias.com/bbs/30/29.html

 2. 「物の形を自在に変えられる」
 これにはいろいろな意味合いがあるのですが、ここでは広角レンズを使用した際に、特に強調されがちな歪みを修正しています。
 フィルムカメラでは、大型カメラを使い、蛇腹のアオリ操作を行うことで物の形を整え、垂直を出すことが可能ですし、35mmカメラでもシフトレンズというものがありますが、大型カメラほどにはいかず、限界があります。
 ましてやこの写真は焦点距離16mm(35mm換算)という超広角レンズを使用していますので、その歪みはかなり強調されています。これ以上後ろに下がれず建物の全貌を写し取るには、このような超広角レンズを使わざるを得なかったのです。
    
 レンズの特性上、広角になればなるほど、画面の両端に行くにしたがって垂直が保てなくなります。もちろん、広角レンズでもカメラの受光面を垂直に保てば、垂直な線を垂直に描写できますが(魚眼レンズを除く)、それでは空が入りませんから、カメラを上に振ることにより受光面が垂直を保てず、ご覧のような描写になります。

 ※参照画像(3)と(4)→ http://www.amatias.com/bbs/30/29.html#a

 何の補正も加えていないのが「(3)補正前」です。建物がゆがみ、遠近感も強調されています。それを補正したものが「(4)補正済み」で、できるだけ広角の歪みを押さえ、ついでに玄関などの暗部を描出し、ホテルの看板も肉眼で見えるのと同様なくらいに、浮き出るようにしてあります。これは「加工」ではなく「補正」です。

 このような広角レンズによる歪みを取ることの善し悪しはまた別問題ですが、極端な例をあげ、デジタルで簡単にできる補正を2例だけ示しました。建物の垂直が常に出ていないといけないという約束事などありませんし(コマーシャルの建築写真にはそれを要求されることがしばしばありますが)、レンズの特性を逆手に取り、肉眼で見るのとは異なる世界を表すことができるのも写真表現の面白さです。

 大型フィルムカメラを使えばこのような写真を撮るのに三脚を構えてから30分はかかるのに、デジタルではたった10秒で撮れてしまいます。何事にも「急ぎすぎる」現代にデジタルは則しているのかも知れません。

 今日は初回でしたので、デジタルのちょっと極端な使用結果をご覧いただきましたが、次回からは箇条書きで済むようなことも含めてお話しいたしましょう。
(文:亀山 哲郎)