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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2013/02/15(金)
第138回:モノクローム(8)
 フィルム時代、ぼくはモノクロの撮影に出かける時はいつもコダックのモノクロ用75mm角ゼラチン・フィルター(正しくはラッテン・フィルター。ラッテンとは英国人のF. Wrattenに由来)をカメラバッグに10数枚忍ばせていました。かさばらず軽量ですので大変重宝したものです。それらは、ぼくにとってモノクロフィルムの感色性(「感色性」については第131回参照)を整えるための必須の道具立てでもありました。赤、緑、青、黄のそれぞれ濃度の異なったフィルターを取っ替え引っ替え使ったものです。今思い返すと、ぼくのように雑で面倒くさがり屋の男がよくもまぁそんなことを丹念に繰り返していたと不思議でなりません。

 しかし、ある時期を境にぼくはこの面倒で繁雑な作業から一気に解放されたのでした。それがデジタルとの出会いです。モノクロばかりでなく、さらに厄介なポジカラーフィルムのフィルター調整も同時に解除の運びとなり、玩具を与えられた子供のように目を輝かせ嬉々としながら、そのお手軽さに飛びつきました。やがて翻弄されるとはつゆ知らず、まさに欣喜雀躍。
 何事もメリットとデメリットは表裏一体ですから、そのデメリットをどのように克服し、呉越同舟とするかの方策を探るため、我ならぬ勤勉?!な日々を送っています。その状態が今日まで続いているというわけです。

 第131回で、「光の三原色であるR(赤)、G(緑)、B(青)とその補色関係にある色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(黄)の関係を理解しておく必要がある」と述べました。この事柄はモノクロフィルムのフィルターワークには欠かせない知識ですが、デジタル写真に於いてもこの関係を把握しておけば画像ソフトを使ってカラー原画を思い通りのモノクロに変換しやすくなります。被写体と同系色のフィルターをかければ明るくなり、反対に補色フィルターをかければ暗くなるという具合です。
 例えば青空はブルーとシアンで構成されていますから、その補色である黄色や赤のフィルターをかければ暗くなります。フィルターの濃度を濃くしていけばいくほど空はどんどん暗くなり、夜空のようになります。
 新緑の頃には緑のフィルターをかければ、葉の明度が上がり新緑の清々しく爽やかな感じが表現できるということです。
 以前、ある場所でこの説明をした時に、デジカメのレンズにこれらのフィルターをかけると勘違いされた方がいました。そうではなく、あくまで画像ソフトを使用し(フィルター機能のついたもので、フィルター濃度も連続可変に調整できる)、モノクロ変換時に疑似フィルターをかけるという意味ですので、どうか誤解なきように。

 さて、今回はフィルター効果についての作例をあげておきます。本来はカラーチャートなどを用いてその効果をお見せすれば分かりやすいのですが、実際の被写体はそんな単純なものではなく、例えば一口に樹木や草の緑といっても無限に近い色が複雑に混じり合いながら成り立っています。それに目の錯覚が加わりますから、必ずしも理論通りにいくとは限りません。
 そのような理由からカラーチャートではなく、できるだけ様々な色の混在する実際の風景写真を作例として選びました。

 作例はデジカメ(初代EOS-1Ds)で2004年9月に、ロシア連邦カレリア共和国で撮ったものです。被写体は1650年に建てられたロシア正教会のチャペルです。このあたり一帯はロシアの木造建築群として1990年に世界遺産に登録されていますが、この教会も内部はフレスコ画に彩られ、現役の教会として今日まで使われています。
 Rawデータを現像しPhotoshopに受け渡し補整しました。彩度はイメージを損なわぬぎりぎりまで落としています。撮影時はカラー写真をイメージしており、今回初めてモノクロ化を試みましたが、どうもね、痛し痒しというところです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/138.html

★「01カラー原画」。僅かに露出アンダー気味に仕上げました。色鮮やかな紅葉が表現目的ではありませんので、木々の彩度を落としてあります。
★「02デフォルト」は「01カラー原画」を、フランスDxO社のFilmPackというフィルムシミュレーション・ソフトを使ってデフォルト(初期設定)で仕上げたものです。これはぼくの常用ソフトで、画質劣化を最少に抑えることのできる優れものです。
★「03緑フィルター」は、上記ソフトで疑似緑フィルターをかけたもの。
★「04青フィルター」も同様に青フィルターをかけたもの。
★「05黄フィルター」も同様に黄フィルターをかけたもの。
★「06赤フィルター」も同様に赤フィルターをかけたもの。

 各種フィルターでこれ程までに異なる表情が覗えるということがお分かりだと思います。

★「07仕上げ」は、より印象的なものにするために「05黄フィルター」と「06赤フィルター」をレイヤーで重ね、それぞれの美味しい部分だけをいただき、画像を統合。そのうえでメリハリをつけるために部分的なコントラストと明度を調整した後、全体的なコントラストと明度を調整したものです。この作業はPhotoshopの「トーンカーブ」ツールだけで行いました。

 「02デフォルト」、「03緑フィルター」、「04青フィルター」は、どこか立体感に乏しく、また左端の赤く染まった紅葉の葉を1枚1枚補整することはできません。フィルター操作を適切に(自分のイメージに従ってという意)行えばそれぞれの色合いが表現可能となります。
(文:亀山哲郎)

2013/02/08(金)
第137回:モノクローム(7)
“例の”悪友がぼくを嘲弄するかの如く、「かめやまさんのことだから、この“モノクローム連載”は、とどのつまりパイロ現像液だとかアンスコ処方だとか、ガラス乾板の作り方などに行き着くに違いない。そうなるともう“ワンポイントアドバイス”どころではなく、オタク以外には誰も見向きもしない話となり、そういうことをよく認識しなくちゃいけない。いい歳をして暴走しちゃだめだよ」と余計なチャチャを入れてきました。これ実話です。いくらぼくが“我が道を行く”輩であっても、そのくらいは十分にわきまえております。

 ぼくがパイロ現像にはまったのは今からもう40年も昔のことで、アメリカの写真家E. ウェストン(Edward Weston 1886〜1958)の滑らかなグラデーションに魅せられ、「オレも一丁やってみるべぇ」となったからでした。海外の写真雑誌で、ウェストンはパイロ現像液を使っているとの記述があったのです。当時、日本ではその現像主薬となるピロガロールなど市販されておらず(日本は未だ現像やその器具については恐ろしいほどの後進国です)、若かったぼくは全国の化学薬品製造会社に片っ端から電話をかけまくり、担当者から「そんなものを一体何に使うのか?」と怪訝な口調で問われ・・・。こんなことを書き始めると、ヤツの術中にまんまとはまってしまうので、止めておきます。嗚呼、危ないところだった。
 で、この現像液を使うとですね、指の第一関節が真っ黒に変色してなかなか落ちずに・・・。未練がましいなッ、男のくせに。もう止めておけってば!

 しかし、現像液やフィルムの特性、印画紙などなどの使いこなしに明け暮れた(“呆けた”と言った方が正しいかも)お陰で、デジタル時代になってからも自分のモノクロ写真のあり方にはそれほど戸惑わずに済んだような気がします。すでに何度か述べましたが、デジタルはアナログ以上に精緻な暗室コントロールができ、粒状性なども含めて自在さに富んでいます。表現しようとする範囲がぐっと広がりました。少なくとも個人的には、「これぞ文明の利器。利用せずにおくものか」という意志を強固にしたのです。

 今回、もうひとつだけ作例を掲載しておきましょう。

 作例は1988年にフィルム(コダクローム64)で撮ったものですが、未公開写真です。何かが物足りないと感じていたので発表の機会を逸し、今日までしまい込んでいました。ですから作品のクオリティ云々はしないでください。
 場所は世界遺産に登録される以前の中央アジアはウズベキスタンのサマルカンドです。夕方とはいえ強い日差しと高コントラストです。自分の少年時代を彷彿とさせられ撮ったもので、懐かしさが先に立ちイメージが十分に描き切れなかったのかも知れないと思っています。撮られた少年はまったく気づいていません。
 歩道を歩いていると10mほど先に少年が見えました。木に白く塗られた防虫剤がやっかいでしたので(白飛びしてしまうかも知れないという恐れ。元々ポジカラーはネガカラーに比べコントラストが高い)、あらかじめ安全圏をみて露出補正をとっさに-1/2絞りくらいに。フォーカスは固定とし3mくらいにセットした記憶があります。ピント合わせをしていたら気づかれ、目と目が合った写真では少年特有の物憂い佇まいが逃げてしまいます。

 「01カラー原画」はポジフィルムをスキャニングし、少年に目が注がれるようにPhotoshopで草木の彩度を落としています。この写真は当初からカラーをイメージしたもので、モノクロが目的であればその必要はありません。その他、ほとんど操作はしていません。

 このカラー原画をPhotoshopの「白黒」ツールを使いモノクロ化しました。「白黒」ツールで示されるRGB、CMYの数値が「02白黒ツール」です。この数値はカラー写真の各色をどのくらいの明度にするかを示したものです。

 その結果が「03モノクロ変換」です。この画像の不満点は、もちろんぼくの主観ですが、
1. 少年の肌とパンツの質感描写が平坦なため相殺してしまっていること。
2. 樹木に塗られた防虫剤が少年の存在感を薄めている。
3. 道路の光と影のコントラストが弱いため、夏の日差しと写真全体の力が削がれている。この地の乾燥した空気感も不足。
4. 少年の頭と背景をもう少し分離させること。
5. 左上の樹木の描写(トーン)が中途半端で気に入らない。
6. 画面の周辺をわずかに焼き込んで視点を少年に。
7. 顔の明度をわずかに上げる。
 
 以上の不満点を解消しようと試みたのが「04完成」です。補整最後の段階で粒子を加えてあります。

 みなさんのモニターではどのように見えるか分かりませんが、第135回目の作例では柔らかい光を、今回のモノクロはかなり強いコントラストのものを扱っています。それだけにモノクロ化は難しい面があります。

 この少年は今、30過ぎのオヤジになっていることでしょう。元気にしているのかな? この写真を撮った当時、ぼくは40歳でしたが、今は白髪のジジイになりつつあります。あの頃は、写真ってもっと簡単なものだと思っていました。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/137.html


(文:亀山哲郎)

2013/02/01(金)
第136回:モノクローム(6)
 友人の挑発に乗って前回女性のモノクローム作例を掲載しましたが、どうにも腑に落ちない。彼の口車にまんまと乗ってしまったわけではなく、一片でも読者諸賢のお役に立てればというのが本音なのですが、性格のねじれた友人にしてみれば「あいつ、やっぱりおれの指示に従ったな」と含み笑いをしながら言い放つに違いなく、それが癪の種となり、余憤未ださめやらぬということころです。大人げないぼくには、そこが割り切れないというか釈然としません。「道理そこのけ無理が通る」ようで、至って居心地が悪い。
 こう書くとぼくはよほど負けず嫌いなのだろうと誤解されそうですが、事実はまったくそうではないのです。「人は人、自分は自分」を金科玉条のように言い聞かせ、それを一種のささやかで慎ましい美学として捉え、片意地を張って生きてきました。ですから、そんな思いを抱えながら1週間を過ごさなければならなかったことは、なおさらのこと、忌々しいこと限りなしです。

 また、読者からのメール(前号掲載)の行間を“深読み”すれば、「たまにはあんた、手抜きをせずに“ワンポイントアドバイス”も書きなさいよ」と指摘されているようでもあり、含みあるそのお言葉に腹の辺りがチクチクと痛みます。「お言葉に甘えて」というのは、元来、それに従ってしまうと事の多少に関わらず、いくらかでも後味の悪さを必ずや引きずりますよ、という意味なのでしょう。

 後味の悪さを残さないために、前号掲載のカラー原画からモノクロ変換後の補整ポイントとなる点について触れておきましょう。
 掲載写真はかなりリサイズされた画像ですから分かりにくいかも知れませんが、原寸の画像では、カラー原画に比べモノクロの肌の質感がより滑らかになっています。リサイズ画像でも、よく見るとそれがお分かりかと思います。滑らかになってはいますが、解像感は失われていません。
 カラーでもモノクロでも、女性の肌と髪は女性の命とも言うべきものらしく、解像感を失わない程度に滑らかに描写した方が喜ばれます。よく撮影前に「シワもシミも取ってくださいね」と冗談まじりに言われることがあります。過日も世界的に著名なピアニストの方にそう言われたばかりです。一応ここでは「冗談まじりに」と書いておきますが、彼女ばかりでなく女性はすべからく冗談まじりではなく、「本気で」、それも「大真面目に」そう訴えかけておられるように思えます。照れ隠しのために、「本気で言っているわけじゃないのよ」というポーズを必ず同時に取られます。そこに男には察しがたい底知れぬ女心の複雑さを見る思いです。気持ちはお察ししますが、シワもシミも恥ずべきものでなく、それをも含めたすべてがあなた自身でもあり、また人格というか人生の履歴でもあるので、ぼくも頷きながら「できるだけご希望にお応えしましょう」というポーズを取って見せるのです。ここだけの話ですが、それはあくまでポーズであり、ぼくにその気はほとんどないのです。ですが、ぼくは所謂“営業写真館”のカメラマンではないので、できる限り最小限の補整にとどめます。ぼくにだって多少の優しさというものはあるのですが、撮影に求められるものは外見的な美しさではなく、内面を写さなければクライアントがOKしてくれないからです。
 写真の話より、このようなことについて書いた方がずっと楽しいのですが、そうもいきませんので写真に話を戻します。

 前回の作例に限定してお話しすると、カラー原画をモノクロ変換し−−−どのようなトーンに変換するかは主観の問題ですので決まった法則があるわけではなく、一概には言えません−−−、それをPhotoshopのAdobe Bridgeで開き、「明瞭度」というツールを用い、明瞭度を下げれば滑らかな質感が得られます。それをいったんtif形式などで別名保存してから、その画像をPhotoshopでオリジナルの画像と重ね、レイヤーとし、部分的な修正が必要であればレイヤーマスクを作成して不要な部分をブラシで削り取っていくという作業です。

 Adobe Bridgeの「明瞭度」とまったく同じ機能がAdobe Lightroomにもありますし、他のソフトでも同様の機能を有するものがあります。アルゴリズムが異なりますから、当然同じ性質の滑らかさを得られるわけではありませんが、絵柄やイメージに沿ってぼくは何種類かの画像ソフトを適宜使い分けています。作例では肌と湖面の波立ちを同じ滑らかさにするわけにはいかず、滑らかさの異なった画像を作り、重ね合わせてレイヤーマスクで調整してあります。

 そして、さらに大切なこととして扱った部分は、見る人の視点が彼女の顔一点にキュッと注がれるような視覚効果を作り出すことです。そのためには周辺部の明度を落とせば、自然と視点が中心に向くという古来からの人間の心理的・視覚的効果を利用すればいいのです。
 加えて、光の方向性や光質を明確にするために彼女の顔のハイライトを強調し、輪郭をより明瞭にしました。画像全体が柔らかいので、この部分で画像にアクセントをつけ、リズム感を得、引き締めています。それにより顔の立体感も同時に描くことができました。カラーとモノクロの双方を見比べていただければ、その違いは一目瞭然で、ぼくの意図するところをご理解いただけるのではないでしょうか。

 これはほんの一例に過ぎず、写真とは無限と言っていいほど多種多様なシチュエーションがありますから、その都度撮影に際しては明確なイメージを描き、それに応じた表現(暗室作業)を適宜応用しなくてはなりません。そういうぼくも、いつも迷路に入り込み七転八倒しています。「言うは易く行うは難し」ですね。
 嗚呼、今回もやっぱりロシアに行きたくなっちゃったなぁ。
(文:亀山哲郎)

2013/01/25(金)
第135回:モノクローム(5)
 友人から「かめやまさん、あなたがモノクロについて書き出すと本当に20回の連載で収まるの? どう考えてもぼくは無理だと思うがなぁ。無理だ、無理だよ」とのメールが舞い込みました。言外に「おまえは、主張すべきところはしないと気が収まらない質だっていうことをオレはよく知っているからな。ちゃんとお見通しなんだぞ」という脅迫じみたニュアンスが行間にたっぷり含まれているように思えました。彼はカメラマンで、もう40年近くも親しいつき合いなのですが、ここ数年は会う機会がなく、メールのやり取りくらいでご無沙汰しています。今ぼくは彼の挑発に乗るべきかどうかを思案中です。
 続けて彼は、「話は変わるけれど、前回男性の作例を掲載したのだから、“女性の掲載はいろいろ問題がある”などと逃げずに、次回は女性の作例を示して欲しいものだ。そうでないとイマイチ説得力に欠けるんじゃない?」と、どこまでもぼくを執拗に煽ってきます。性格の良くない友人を持つと閉口します。

 読者の方からもメールをいただき、「かめやまさんのお話しは、もはや“ワンポイントアドバイス”という性質のものではなく、とてもハイレベルで、私のような素人にはとても実践に適用できるものではありませんが、知らないことや気のつかなかったことがたくさんあり、またプロの世界を垣間見ることができ、興味深く読んでいます」と、慇懃に遠慮深く述べられていました。
 前者は「やれるものならやってみろ」と挑発的であり、後者は行間などに頓着せずぼくに都合のよい「励まし」と解釈するようにいたしました。「“ワンポイントアドバイス”など気にしなくてもいいよ」と言われているようであり、意を強くしたぼくは、ありがたいお言葉として素直に受け止め、どこまでも前向きに捉えることにいたしました。読者とはありがたいもので、まさに「遠くの親戚より近くの他人」であります。

 しかし、悪友の挑発にひざまずき屈服したわけではないのですが、あくまで読者諸賢へのお役に立てればなにより、という健気な信条に基づいて女性の作例を掲載することに決意いたしました。ホントです。

 掲載の写真選びにはちょっと苦慮しました。掲載写真の人物が日本人であれば許可を得なくてはならず、では外国人ならよかろうと。それも正面写真ではちょっと気まずさもあり、では横顔にしようと。そして、読者のみなさんの学習意欲を削ぐような顔立ちではないこと。それはもちろん美人でなければならず、同じ美人でも「マイタウンさいたま」の格調を重んじ、知的美人でなくてはならないこと。そして、撮影時にモノクロをイメージして撮ったもの。しかもフィルムでなくデジカメで撮ったもの。という厄介な条件を当てはめていくと徐々に的が絞れて、写真選びも意外とスムーズにいきました。
 余談となりますが、雑誌や写真の教則本などで完全に学習意欲を喪失してしまうような妖怪めいた作例モデルの方々に出会うことがよくあります。ぼくなど、思わずパタッと本を閉じてしまいます。そのまま古本屋に直行することさえあります。「この筆者は一体何を考えているのだろう」とぼくはひどく訝ってしまうのです。そうなると書かれていることにも信憑性が持てず不信感ばかりが募ることになります。それが常人としての人情というものです。それは犯罪に近いものがあります。作例としては、それほどの器量良しでなくとも目的は達成できますが、それでもやはり面妖ならぬ妖面(造語ですいません)はないでしょう。ぼくの勝手な思い込みなのでしょうかねぇ。

 さて、作例の写真ですが、場所はロシアの古都ロストフ・ヴェリーキー(偉大なロストフという意)というとても美しい田舎町です。モスクワより北東225kmに位置します。田舎といってもここには湖畔に由緒ある立派なクレムリン(城砦という意)が佇んでいます(「01クレムリン」)。掲載写真の女性との馴れ初め?は拙エッセイ集(NHK出版2009年)に詳述してありますので、ご興味のある方はそちらをお読みください。なお、一言申し添えておくと、ロシアで美人を捜すにはまったく事欠きません。あっちこっち美人だらけのお国です。おまけに人懐っこいし。この国に妖怪などいないといってもいいくらい。

 小さな帆船に同舟し、彼女の背景は湖面です。彼女がカメラを意識しない時に撮っています。メタデータによると2004年9月30日午後4時04分となっています。9月の光とはいえここは北緯57度(日本の最北端稚内は45度)の地であり、その光はどこかおぼろ気で柔らかく頼りない。彼女の服装からも察しがつくようにその光は熱源としての役目を放棄し、物の輪郭を美しく描き出すことに一役買っています。物静かな知的美人を印象的に描くには単色のモノクロでこそその雰囲気が醸せます。撮影前にモノトーンでの十分なイメージトレーニングをして、光の方向と表情を見計らって、たった1枚だけシャッターを切っています。パチパチ・バシャバシャとシャッターを切って、その場の空気をかき乱しては何もなりません。こちらも静かな佇まいを装って、ひっそりといただいた1枚です(「03モノクロ」)。モノクロは粒状性をかけるのがぼくの流儀ですので、絵柄に合わせて軽くかけています。

 デジタル(EOS-1DsをISO100で使用)ですから、原画はカラーです(「02カラー」)。Rawで撮影・現像し、Photoshopで各部位のコントラスト、色調バランス、質感を整え、破綻のないカラー画像に仕上げています。カラーが最終目標ではありませんので、この程度で十分です。その後はモノクロ画像に変換し、イメージに従って慎重かつ入念に暗室作業を施しました。
 しかし、読者のお言葉に甘えて、まったく“ワンポイントアドバイス”になっていませんね。嗚呼、ロシアに行きたくなっちゃったなぁ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/135.html

(文:亀山哲郎)

2013/01/18(金)
第134回:モノクローム(4)
 通常、私たちが生まれた時より最も多く見慣れ、馴染んできたもののひとつに人間の肌があります。そのなかでも特に長い時間見つめてきた部分が顔です。言うまでもないことですが、特定の人を認識する一番確かな部分が顔だからです。足の指を見て人物を特定できる人はよほどのマニアであろうと思われます。かなり偏執的で風変わりな嗜好を持ち合わせていないと、そのような芸当はまずできるものではありません。

 モノクロはカラーを無彩色に置き換えたものですが、ポートレートや人物スナップなどをモノクロ化する時に最も注意を払う事柄は、顔をどのくらいの明度とコントラストに仕上げるかということです。肌(顔の)をどう表現するかという重要な課題は、カラーでもモノクロでも同様なのですが、モノクロは無彩色(単色)なだけに却ってごまかしの効かない部分があります。繰り返しになりますが、モノクロは明度とコントラストですべてを表現しなければならないからです。
 カラーはホワイトバランスと露出さえ合っていれば、取り敢えずはモデルとなった人物の肌色(肌合いも含めて)やその佇まいを表現することができます。なんとか許容範囲に収まってくれるというわけです。カラーが易しいという意味ではなく、カラーにはカラーの難しさがあるのですが、モノクロにはさらに厄介な問題が潜んでいるという意味です。

 一様に人間の肌といっても、人種、年齢、職業、男女の違いや光との兼ね合いなどによってその表現は様々です。この数学的な順列組み合わせは目まいを起こしそうです。欧米の書物などではA.アダムスが理論体系化したゾーン・システム(Zone System)によるところの方法論が紹介されています。日本ではゾーン・システムは欧米ほど一般化されていませんが、撮影からプリントに至るまでの彼のメソードは写真を愛好する人たちにとって大変有意義なものです。
 そのメソードによると、白人の肌に対する露出は反射光式露出計(カメラ内蔵の露出計も反射光式)で顔の明度(輝度)を計り、その露出値より1絞りオーバーに撮ることが一応の指針として示されています。ゾーンV(5)が露出計の示す値(18%中間グレー)ですから、それより露出補正+1絞りのゾーンVI(6)で撮影しなさいという意味です。これが白人の肌の“一応の”基準です。黄色人種である日本人の顔であれば、おおよそ+1/3〜+1/2絞りというとこでしょうか。しかし、これは一応の目安であり、上記した様々な条件に合わせて適宜変更を加えるべきでしょう。ぼくの個人的な見解では、日本人女性の肌色は白人に準じてもいいと思っています。一時流行った「ガングロ」は別として。

※「18%中間グレー」に関しては、第19回:風景を撮る(7)の添付ファイルをご覧ください。

 複雑なゾーン・システムを持ち出さずとも、一般論として女性の顔は明るめに表現した方がいろいろな面で災難が降りかかることが少ないと、長年の経験は教えてくれます。なにかと無難なのであります。コントラストを強くして肌の質感を強調するのも禁物です。画面全体のコントラストを強めたい場合、顔だけは選択範囲を作って避けるか、マスクをかけて影響が及ばぬように。
 そして、もうひとつのポイントは、女性は多くの場合口紅を塗っていますから唇の明度にも気を配ってください。唇(赤系)の明度が濃くなる(濃灰色)につれ厳しい表情になります。画像ソフトやフィルター(青系)などで赤系を濃くしようとすると、顔の赤み(血色)までもが濃く表現されることになり、どんどん恐い顔になっていきます。そんな過ちを犯すとそれこそ恐い顔でどやされることになります。ご用心あれ!
 男性はこの限りではなく、むしろ暗めに(18%グレー前後)表現した方が重みを増すようです。特に大地で仕事をしている年配者、例えばお百姓さんや漁師、林業などに携わっている男衆は、風雪に打たれた力強さがありますから、コントラストを上げてシワを強調するのもひとつの表現方法です。

 非常に大雑把な解説ですが、このようにモノクロは無彩色の濃淡で表情を描き出す、謂わば非現実の世界です。カラーより色濃いフィクションであるからこそ、人はそこにリアリティを感じ、時には愁いや懐旧の念にかられ、感情を大きく揺さぶられるという面を持っています。文学も映画もしかりです。フィクションの世界に遊ぶ愉しみと妙味妙趣をどうぞ味わってください。

 作例をいくつか添付しようと思ったのですが、今回の議題が顔であるために肖像権の問題をも含めて、恐い顔に変貌した女性をネット配信するには忍びなく、差し障りがないであろうと思われるものを1点だけご紹介するにとどめます。悪しからずご了承ください。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/134.html

「カラー原画」のデータ。フィルム:コダック社のコダクローム200。感度ISO200。カメラ:ライカM4。レンズ:ライカ・ズミクロン90mm F2.0。撮影場所・日時:アゼルバイジャン共和国バクー。1990年。フィルムスキャナーでデジタル化。
「モノクロ化」。Photoshop 「色相・彩度」ツールの「マスター」で一旦全色無彩色化し、その後各色の「明度」を調整。それだけではメリハリがないので、部分的に「トーンカーブ」ツールで微調整。
(文:亀山哲郎)

2013/01/11(金)
第133回:モノクローム(3)
 より良いモノクロ写真を撮るためには、撮影時にモノクロをイメージして撮らないとなかなか思うに任せないと前回述べましたが、考えて見ればカラーを不自然な無彩色に(色抜きをして)デフォルメしたものがモノクロですから、道理と言えば道理であるような気がします。自然界のものはすべて人間の視覚認識ではカラーですから、それを純黒から純白までの無段階の無彩色で表現すること自体がすでに虚構の世界であるとも言えます。
 モノクロに対する人間の心理学的分析はぼくにはできませんが、カラー写真が定常化した現在でもモノクロは廃れることなく、一部の愛好家にはなくてはならぬ表現手法となっています。モノクロは人間の目が捉えたカラーの世界とは異なる情趣を描くことができ、より強い印象を与える作用があるからでしょう。また、心情的にはより高い芸術性をそこはかとなく感じさせる面があることも確かです。かく言うぼくも、現在に至るまでモノクロなしに自身の作品の成り立ちはあり得ませんでした。非現実であるが故に、美の際立ちをことさらに強く感じ取っているからです。

 デジタル全盛となった今、モノクロはさらに饒舌で精緻な表現形態となったようにぼくは感じています。アナログの暗室作業には様々な制約と限界があったように思いますが、デジタルではそのような障壁が取り払われ、スキルを身につければ「出来ないことは何もない」とさえ思えるくらい広範囲にわたっての表現が可能です。描いたイメージをより深く、細かく執拗に追求できるので、ぼくのようなタイプの人間にはデジタルはうってつけなのかも知れません。ただ、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、その警戒心を怠ってはならないと常に言い聞かせています。
 何でもできてしまうので、ほどほどのところに留めておく勇気を持たないと禁断の地に足を踏み入れてしまい、作品の品位を落としてしまうことになりかねません。最小限の補正で最大限の効果を得るのが最も良質なデータを得る秘訣です。

 デジタルのカラー原画を良質なモノクロにするためのポイントをいくつか挙げておきます。
 モノクロといえども、カラーの段階でできる限り良質なデータに仕上げることが肝心。Rawで撮影を行い、Raw現像時に可能な限りホワイトバランス、色かぶり補正、露光量、コントラスト、彩度などの調整を追い込み、破綻のないカラー画像に仕上げることが第一。その際、カラー画像は8bitではなく16bitで。
 話が前後しますが、撮影時には白飛び、黒つぶれのないように露出補正を慎重に行う必要があります。撮影データをカメラのヒストグラムで確認すれば判明します。被写体の輝度域が広過ぎてどちらかを犠牲にしなければならない場合は、イメージにもよりますが、基本的には白飛びを防ぐこと。つまりハイライト基準の露出です。
 16bitで生成されたカラー画像(代表的な画像形式はTIFFなどで、使用頻度の高いJPEGは8bitです。JPEGでのモノクロ変換はお薦めできません)をモノクロ変換するわけですが、変換時にどうしても画像の劣化をきたしてしまいます。トーンジャンプを含めた画像劣化を最小限に止めるためには16bitで作業するのがベストです。ただ、強引な補正をしてしまってはいくら16bitであっても、元も子もなくなります。
 ここまでが、ざっとですがモノクロ変換に必要な手続きです。


※ここでいう8bitとは2の8乗=256で、RGBがそれぞれ256色で成り立っていることを表す。同様に16bitは2の16乗=65,536色。TIFF形式は可逆圧縮法と呼ばれ、保存を繰り返しても基本的に画質劣化を招かない。JPEGは非可逆圧縮法で、保存を繰り返すほど画質が劣化する。


 アナログのモノクロは単一の色調ではなく、現像液や印画紙を使い分けることにより、例えば純黒調、温黒調、冷黒調などいくつかの色調を選ぶことができますが、デジタルでもそれを再現して楽しむことができます。セピア調などはその最たるものでしょう。セピアの語源は「イカ墨」という意味らしく、褐色もしくは茶色を指すのだそうです。昔は写真用のインクにも用いられたのだそうですが、現在では古く色褪せたモノクロ写真の色調を表していると考えるのが一般的です。なぜ古い写真がセピア色になるかという理由は省きますが、経年変化による退色・変色を避けるための処方(アーカイバル処理)を施したものは、40年の時を経ても(ぼくが24歳の時に施したものなど)何の変化もなく、未だ瑞々しさを保っています。
 個人的にはセピア調は嫌いではありませんが、作品にそれを用いることはありません。
 今日はちょっと遊び心というか悪戯心を出して、「おじいちゃんの遺品のなかからこんな古い写真が出てきた」というノスタルジックな演出をしてみました。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/133.html

「原画01」の写真データ。フィルム:コダック社のコダクローム64。感度ISO64。カメラ:ライカM4、レンズ:ライカ・ズミルックス35mm F1.4。撮影場所・日時:エストニア共和国タリン。1989年。このポジフィルムをフィルムスキャナーでデジタル化。

「退色セピア02」。Photoshopでモノクロ化し、セピア色のフィルターをかけ、周辺部を明るくし、最後に粒状をかけてあります。
(文:亀山哲郎)

2012/12/28(金)
第132回:モノクローム(2)
 ぼくがデジタルを始めたのは1996年のことで、カメラマンとしては比較的早かったのですが、とはいえデジカメを持っていたわけではありません。市場にはまだプロの使用に耐え、フィルムに対抗できるような製品がありませんでした。印刷用途にはまだまだ役不足だったのです。仕事仲間のデザイナー諸氏はすでにほとんどがMacを使用し、業界はデジタル化が進みつつあったのですが、デジタル化に最も遅れてやってきたのがカメラマンでありました。写真のデジタル化は心身両面で多くの負担を伴い、他の分野ほどスムーズには移行できませんでした。特に年輩のカメラマンほど、長年にわたって培ったアナログのノウハウを捨てて、新しいものに移行するには大きな心理的抵抗と生理的な嫌悪があったようです。ぼくは40も半ばを過ぎていましたが、なにしろ新しいもの好きでしたから、好奇心の方が強かったのです。
 1996年にMacとプリンター、フィルムスキャナー、画像ソフトのAdobe Photoshopを購入し、当時70万円以上の出資だったと記憶しています。ぼくにとっての初めてのデジカメは2002年末に発売されたEOS-1Dsでした。これがなんと100万円! このカメラならフィルムと同等かそれ以上の結果が間違いなく保証できるだろうとの直感を得、まったく躊躇することなく見ず転で飛びついてしまいました。写真一筋に悪いこともせず堅気に働き、今思うとどこにそんな大枚があったのか不思議でなりません。
 1996年から2002年まではデジカメを持っていませんでしたから、もっぱら今まで撮った写真をフィルムスキャナーでデジタル化し、Macの操作とPhotoshop(当時はv.4.0。現在のCS6はv.13にあたる)の習得に時間を費やしました。いずれ世の中は(業界は)デジタル一色になることを見込んで、デジカメを買った暁にはデジタルが造作無く操れるようにと、「備えあれば憂いなし」の諺に倣い、心がけとしては捨てたものではなかったのです。
 おそらく、ぼくがプロでなくアマチュアであったとしてもまったく同様のことをしていたでしょう。

 デジタル技術の習得に血道を上げていた頃(未だにそうですが)、どうしても解決できない問題に突き当たってしまったのです。それがモノクロプリントでした。どう工夫しても色の捻れや色被りが起きてしまい、アナログのモノクロプリントのような具合にはいかない。これに関連したことは過去に何度か触れました(第5, 6, 25回をご参照のほど)が、当時のコンシューマー用のプリンターでは解決不能であること悟り、デジタルでのモノクロプリントを放棄しかけていました。モノクロプリントといえども前回お話ししたように原則的には色の三原色C, M, YとK(ブラック)インクを掛け合わせてプリントするわけですから、なかなか完全な無彩色を再現できないのです。“完全な無彩色”というより“無彩色に限りなく近い”と言い換えるべきでしょうか。

 その“無彩色に限りなく近い”状態が自室で再現できるようになったのは、2004年に顔料グレーインク(グレーとライトグレー)を搭載した半ば業務用とも思われる図体のでかいプリンターを購入してからでした。デジタルでのモノクロプリントを諦めかけていたぼくは喜色満面で、再びモノクロに心血を注ぐようになったのです。
 過不足のないモノクロプリントを楽しもうとする人たちに、ぼくが躊躇なくいつも申し上げることは、「グレーインクの搭載されたプリンターをお使いなさい」と。現在ではコンシューマー・ユーズでもグレーインクの搭載された優れたプリンターが発売されています。グレーインクはモノクロばかりでなく、カラープリントにも非常に大きな効用がありますから、“趣味として写真を楽しみたい”という人のためにぜひお勧めしておきます。

 そして、カラーをモノクロ変換する際にぼくはいつも不思議な現象にぶつかります。性懲りもなくいつも同じ問題に悩まされるのです。
 昨年、某カメラメーカーのギャラリーで個展を催し、50点の作品を展示しました。モノクロプリントは常に納得のいくものが製作可能であったにも関わらず、モノクロは50点のうち3点に過ぎなかったのです。大半のものがカラーポジフィルムで撮影されたもので、それらをなんとか撮影時のイメージを崩さずにモノクロに変換をしようと目論んでいましたが、結果は上手くいきませんでした。その原因を薄々感じ取ってはいたものの、ぼくは人間であるが故に助平でもあるので、心の片隅に取り敢えずはしまっておいたスケベ心(モノクロ心)がうずき出し、なんとか撮影時のイメージを違えず、力ずくでモノクロに仕上げようとしてしまったのです。こんな芸当、無理だわ。
 薄々感じ取っていたこととは、撮影時にカラーをイメージして撮ったものをモノクロ変換しようとすると、どうしても無理が生じるということです。そんなことをすると必ず仇となって返ってきます。フィルム時代は撮影時にはカラーとモノクロを2台のカメラに振り分けて使っていましたから、カラーイメージはカラーで、モノクロイメージはモノクロでという節度と覚悟?ができていた。つまり、撮影時に色つきか色なしのイメージをしっかり描き、どちらかのカメラを迷わず選んでいました。
 この仇討ちとも言えるしっぺ返しは万人に当てはまるものかどうかは分かりませんが、デジカメは両刀遣いですから、そこがとてもいやらしい。デジカメ使用でモノクロ愛好家の方々、撮影時のイメージ作りはやはりモノクロで行うことが正道ですね。ぼくのように“あわよくば”ってのは、きっと何かに祟られますよ。

 年始の連載は1/11日(金)からとなります。
 佳き年でありますように。この場をお借りして、みなさまの福寿無量をお祈りいたします。
(文:亀山哲郎)

2012/12/21(金)
第131回:モノクローム(1)
「モノクローム」(以下モノクロ)と銘打って思うところを綴ってみようと思ったのですが、よくよく考えてみるとこれはとんでもない長文になってしまうぞと感じています。ましてやぼくのことですから、長文というより“うだうだと”冗長なものになってしまうこと疑いなしといういやな予感に襲われています。モノクロについてはことさらに思い入れの激しい分、20回の連載くらいでは収まりきれないような気がします。文才のある人は物事を簡潔に要領よくまとめ上げることができるのですが、気分屋のぼくにはそんな芸当は到底できそうもない。読み手を悪戯に混乱させるだけで、やっぱりこのテーマは止そうかと考えあぐねているところです。
 編集者をも含めて世の中の大半の方々は、文章の上手下手は別としても、まず長文を書ける人は文才らしきものがあると決めつける傾向があるようです。それはまったくの勘違いです。原稿依頼をされるとき、ぼくが「そんな字数では書けないよ」というと「では、もう少し字数を減らしましょう」と、見当違いの気遣いを示してくれます。もう何度もそのようなお言葉を経験しています。ぼくの言い草は決まって「違うんだってば!」。そんな少ない字数では言いたいことも書けないということなのです。
 拙「よもやま話」はWeb原稿ですからそのような字数制限がなく、手綱を絞められることがないのでいい気になって余計なことばかり書き連ねてしまいます。自分の写真に対する感情が文意から滲み出る(はみ出す)場合があることについての言い訳はしませんが、自分の凡庸な写真を差し置いて、写真文化の凋落ぶりが看過し難く、もどかしさと苛立ちを隠しきれないというのが正直なところです。だから余計なことを無為に書き連ねている。このテーマについてはなんとか2回くらいで収めようと努力はいたしますが・・・。さて、どうなることやら。

 モノクロについてお話ししようとすれば、ぼくのようにフィルムで育った人間はどうしてもその部分を避けて通ることができません。フィルムの歴史的な変遷はさておき(割愛)、写真創生期から約100年間は形態こそ異なれフィルムとはすべてモノクロであり、その間写真愛好家たちはより視覚に近いカラーでの再現を熱望し、研究者やメーカーもそれに応えようと試行錯誤を繰り返してきました。これは写真ばかりでなく、映画もテレビも同様です。

 モノクロに代わりカラーが主役として一般に脚光を浴び始めたのは写真人口の増加にともなう1970年代(昭和45年)に入ってからのことです。現在では主役の座を占めるのは、数字的なことは知りませんが、カラーですね。にも関わらず好事家と目される人たちの間では、依然としてモノクロにこだわりを持ち、そして愛され続けているようです。それは懐古趣味などという次元を越えて、モノクロは写真表現の奥深さを窺い知ることのできる要素をふんだんに内包しているからだというのがぼくの所見です。かく言うぼくも私的写真のほとんどはモノクロです。カラーを嫌っているわけではなく、イメージとする対象がそれに合致しているからです。写真表現に於けるモノクロの利点や特徴については述べる資格がありませんので、これも割愛させていただきますが、ぼくの過ごしてきたフィルム全盛時代は、カラーよりモノクロの方がはるかに暗室作業などの点で取り扱いが容易(液温管理がアナログであったため。カラーは液温管理が極めて厳格)だったということもあるのでしょう。当時はモノクロに親しみを感じやすい環境でもあったのです。

 昨今はデジタルですから、したがって原画はカラーです。カラーで撮ったものを画像ソフトなどでモノクロに変換する作業をしなければなりません。最近はデジカメにもモノクロモードのついたものが出回っていますから、その役割をカメラが担ってくれ、デジカメでも手軽にモノクロを愉しむことができます。取り敢えずはこれでモノクロ写真の一端を体験できます。

 モノクロフィルムもデジカメのモノクロモードも「感色性」というものが存在します。「感色性」とは大雑把にいえば、様々な光の波長にどのくらいの割合で感光材が感応するかということです。黒から白までの無彩色に光の成分が各々どのくらいの濃度で表現できるかということです。フィルムの種類、デジタルカメラによってもそれぞれに特徴があり、「感色性」が異なるのです。その「感色性」を変化させるのがフィルムならフィルターであり、デジタルなら画像ソフトによる変換です。
 そのためには、光の三原色であるR(赤)、G(緑)、B(青)とその補色関係にある色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(黄)の関係を理解しておく必要があります。

 デジタルカメラで撮られたカラー原画を画像ソフトでモノクロ化する最も手っ取り早い方法は、すべての色の「彩度」を無にしてしまう方法です。これなら光の三原色と補色関係の知識がなくても、デジカメのモノクロモードとさして変わらぬ結果が得られます。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/131.html

 作例写真:カラー原画(01)とPhotoshop CS6の「色相・彩度」で「彩度-100」にした状態(02)とその結果(03)。
(04)は長年愛用したKodak社のモノクロフィルムTri-Xを、某社画像ソフトで疑似Tri-Xに変換したものです。
(05)は、メリハリをつけてより印象的に仕上げたものです。

 同じモノクロでも様々に表情が異なることがお分かりいただければと思います。嗚呼、2回連載じゃとても無理だ!
(文:亀山哲郎)

2012/12/14(金)
第130回:趣味としての写真(2)
 個人の趣味について他人であるぼくがあれこれと口やかましく述べることは、あまり好ましいことではないと思っています。好ましからざることと重々承知の上で、「趣味としての写真」なんて大見得を切って述べているのは、この世界にどっぷり浸っている者の業のようなものなのでしょうか? まぁ、我の発露といいますか・・・。
 老子の詞(ことば)に「知る者は博からず」というものがあります。本当に物事を深く知っている人の学識は決して広くはなく、逆に博学と思える人の学識は浅いというものです。
 また、「知る者は言わず、言う者は知らず」とも言っています。物事に深く通じている人は軽々しくあれやこれやを話さない。よくしゃべる人は本当のところ実はよく物事を知らないのだ、という意味です。
 ぼくは少し頭のぼけた一介の写真屋に過ぎませんが、確かに物事を知れば知るほど分からないことが増え、思わず口をつぐんでしまうことはよくあることです。老子の詞はそれとなく真理をついているように思え、なんともむず痒い詞です。老子は紀元前の人ですから、それがすべて現代にも当てはまるかどうかは議論の分かれるところでしょうが、日進月歩の科学とは異なり、どんな時代にあっても人間の根源的な精神、あるいは心理的佇まいや作法はほとんど変わりようがないというのがぼくの意見です。いつの時代にあっても人は日々の現実的な営みから外れて、なんらかの愉しみを見出しながら、それを生活の潤いとして、あるいは生きるための糧としてきました。愉しみの多くの部分を占めるのが趣味や習い事なのでしょう。同好の志との交わりも酔余の一興。趣味というものは非生産的なものだと思いきや、案外そうとも言えぬ面もあるのです。酒や博打も趣味のうちに入れてしまおうとする狼藉者もおりますが、それは趣味とは言いません。欲は満たされますが精神生活にはほとんど役には立たず、ほど遠いものだからです。

 ぼくが仕事以外で最も多くの時間を費やすのは読書なのですが、残念ながらぼくにとって読書は趣味だとは言いかねます。なぜなら、それは苦痛を伴うことが非常にしばしばあるからです。苦行だと思えることさえあります。自分に鞭打ちながら?!読んでいる。「自虐趣味も趣味のうちではないか!」と言われれば返す言葉がありませんけれど。そんな思いをしてまでなぜ本を読まなければならないのかは、別の議題となりますから述べませんが、「趣味は読書です」と大らかに表明できる人を心底羨ましいと感じます。これはもちろん、皮肉ではありません。嗜みというものは人それぞれで、尊重すべきものだということくらいはわきまえています。

 さて、趣味としての写真は近代のものですが、なんともはや金のかかる趣味ですね。どんな趣味でも凝ればそれ相応の対価を求められますが、デジタル以降ますます負担が大きくなってしまいました。デジタルによって写真は誰にでも写せ、より身近になったにも関わらずです。フィルムに比べてどうかという議論もありますが、少なくとも作品づくりを目指して本気で取りかかろうとするのなら、デジタルの方がやはり金食い虫のように思えます。デジタルのメリットについては今まで多く述べてきましたので改めて繰り返すことはしませんが、プリントに至るまでの機材を一通り揃えてしまえば、多少気の休まる点があることは確かです。

 趣味としての写真を語ろうにも、昨今はあまりにも多岐にわたりすぎて一括りにしようとすると複雑骨折を招いてしまいそうです。拙連載の初めの頃は写真を撮るために必要な基本的な事柄やデジタルについての云々でしたが、座標軸を少しずつ推移させ、徐々に抽象論が多くなっているような気がします。言い換えれば「記録としての写真」から「自己表現のための写真」への移行とお考えください。それは意図した出来事ではなかったのですが、携帯電話で撮る写真も含めれば世の大半は「記録としての写真」であるように思えます。数字的な確証はありませんが、95%以上がそれに該当するのではないでしょうか。しかし、ぼくの規範に従えばそれを趣味とは言いません。
 写真をしっかり撮る事に始まり(記録としての写真)、次第に自分のイメージするものを写真で捉えたくなる(自己表現のための写真)のが自然な流れだとぼくは思っています。つまり、ここからがぼくの言う趣味の世界なのです。

 ぼくの写真倶楽部の人たちに「みなさんは写真を趣味としているのだから、記録写真より、あなた自身を写しなさい」とよく言います。基本的には、家族写真、絵葉書やガイドブック的な写真は、よほどフォトジェニックなものでない限り認めないと伝えています。家族写真や友人・仲闢凾フ写真は、撮影者と被撮影者の双方に緊張感を欠きます。これは「作品」にはなり得ません。また、例えば上高地などのお定まりの写真をどんなにきれいに撮って来てもぼくはそれを「良い写真」とは認めない。「世の中にゴマンとあるような写真の何が面白いの? 山の姿は見えるけれど、あなた自身の姿がどこにも写ってないからダメ。上高地まで行かなくても、あなたの周りにはもっと美しいものがたくさんあるのだから、それを発見する目を養えば、写真は俄然愉快で、深いものになる。物の表層だけをさらうのでなく、深層を探ること。そのためには被写体を知り、理解し、よく観察することによって初めてあなた自身のイメージが作れる。イメージすることなしに写真は撮れないよ。そうすることにより自分の世界が広がっていくもんだ。それでこそ趣味の写真なんだよ。」と、みんなに優しく、かつ躍起になって諭すのです。ついでにぼく自身にも。
(文:亀山哲郎)

2012/12/07(金)
第129回:趣味としての写真(1)
 多くの人々がそれぞれに何かを求めて趣味に傾注したり、精力を尽くしたりしています。斯くいうぼくもかつてはそうでした。今、趣味といえるようなものはまったくなく、長い間絶縁状態が続いています。写真以外のものすべてを、残念ながら放棄せざるを得なかったからです。
 好事家と呼ばれる人のなかには、趣味が高じて身を滅ぼしたり、あわよくばそれを生業にしてしまおうなどという不逞の輩も時折おります。ぼくなど、趣味と生業の区別もつかぬ不料簡者でしたから、人生設計などとてもままならず、お陰さまで多くの犠牲を強いられながらも、今日までどうにか生きながらえてきました。それも身から出た錆びだと観念しています。
 しかし反面、人生の設計図を描きそれに従おうと勤めることは、なんて窮屈で退屈な作業なんだろうと思うこともしばしです。自己の描いた路線に沿って生きていくのは、精神の自由や闊達さを失ってしまうのではないかとの恐れが先に立ってしまうのです。ぼくにはそのような生き方が不向きだったのです。それに気づいたのが30も半ばを迎えた頃でしたから、お人好しというか頑是(がんぜ)無いというか、我ながらちょっと嘆かわしくもあります。
 ぼくにとって、親父の残してくれた素晴らしくも玄妙な教訓である「人生は取り敢えず」に救いを見出し、我が意を得たりと無意識のうちにそれに従っていたようです。道楽者だけが味わうことのできる大きな歓びを、言ってみれば淫することによってのみ得られる玩味の小さなひとかけらを亡父から授かったように思います。世の中ではこれを称して“蛙の子は蛙”とか“DNA”というのでしょう。また、親父は同時に「運・鈍・根」だとも言っていました。

 長い間写真屋稼業に身をやつしてきて、助手君をも含めて多くの人たちに自分の得た浅薄ながらの知識や技、考え方を伝えてきたつもりです。助手君たちに関しては、将来写真を飯の種にしようとするのですから、写真愛好の有志たちとは多少こちらの心得と対峙の仕方も異なり、それは当為ならざるを得ないところですが、不思議なもので助手君たちとは2日もつき合えば“こいつは良い写真を撮るようになる”だとか、“ちょぼちょぼ”だろうとか、“だめだな”とか、そのようなことがなんとなく分かるものです。80%くらいの確率で当たる。と言いつつも、自分の助手時代を振り返ってみると冷や汗しか出てこないのですが(汗)。彼らは年齢的に20代と若いので、混じり気のない分、なおさら分かりやすいとも言えます。若いが故に自分のしていることに気がついていないという面もあるでしょう。残りの20%は、何かのきっかけで変貌する人もいます。変貌の仕方も人それぞれです。
 将来、プロを目指す彼らに手取り足取り教えることはまずありません。助手とは、文字通り撮影の手助けをしてもらえばそれで用が足り、写真の何かを教える義務感を持たずに済みます。撮れるようになりたければ勝手に盗めばいいという世界です。学ぼうが学ぶまいが、上手になろうがなるまいが、突き放して考えることができるのでこちらは至って気楽な部分があります。写真で飯が食えるようになるかどうかはぼくの問題ではなく、彼らの心がけ次第ですから、物事を非常に割り切って考えることができます。
 また、クリエイティブな世界では、どのような分野でも同じなのでしょうが、良い作品とその対価は必ずしも比例しないので、写真の上達だけがプロになる必須条件だとは言えない部分もあります。

 ところが写真を良き趣味として愉しみたいという方々に対しては、責任の一端を感じてしまうせいか、どうしても及び腰になってしまうのです。割り切った考え方ができずに、さまざまな相剋を抱え込むことになります。「プロになるわけではないのだから、そんなことに目くじらを立ててはいけない」と自分を諭す一方で、「厳しくとも何かをしっかり伝えなければ上達は覚束ない」との板挟みに遭うのです。出かかった言葉を呑み込むこともしばしばです。短気なぼくもずいぶんと気長な人間に成長しつつあります。これは歳のせいでは断じてありません。
 趣味とは、愉しむこと=上達する(良い写真を撮れるようになりたい)のが大前提としてあるのだとぼくは主張しています。ただ愉しみたいのであれば、ぼくのところに来る必然性などないのですから、「自由にお愉しみください」の一言で片のつく事柄です。趣味とは上達あってこそ愉しく、また長続きするものだとぼくは捉えていますから、ここが教える方としては厄介でもあり、とても難しいのです。

 めきめき上達する人。あるいは緩やかではあるけれど確実に上達する人々を見ていると、いくつかの共通点を見出すことができます。熱意と意欲、向上心を前提として、箇条書きにしてみると以下のようになります。

★自分自身に素直であることと同時に相手を尊重し、常に誠実な対応ができる人。
★写真以外の美に感応できる人。写真しか関心のない人はダメ。
★好奇心とささやかな冒険心によるところの行動力が備わった人。
★分相応の投資を惜しまぬ人。
★想像と空想とにふけることができる人。リアリスト(現実主義者)はダメ。
★ぼくの言うことに素直に耳を傾ける人。

以上であります。
(文:亀山哲郎)