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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2012/06/29(金)
第107回:ISO感度について(1)
 根が怠け者で、加え自己弁護と言いますか、すぐに言い訳や言い逃れにすがりつくぼくのような人間が、こうして週一度定期的に生真面目に原稿を書き、まるで几帳面な人間を装っている、あるいはすでにそう演じつつあるということはまさに奇跡的なことだと自画自賛せざるを得ません。しかし、誰もそれを称えてくれない。“予定・計画”という窮屈な語彙に束縛されることなく気の趣くままに生きることを理想としているぼくは、自他共に認める“先送り人間”なのです。要するにだらしがない。それを自堕落とも言います。

 世界人口が70億を突破したそうです。70億という数字がどれほどのものかさっぱり見当がつきませんが、それはつまり70億の個性があるということになります。70億の人間がいて、ぼくは一体何番目に怠惰な人間なのであろうかなんてことをよく考えます。
 そして70億に、同じ顔の人が一人もいないという事実もまさに驚嘆すべき事です。ましてや人類(いわゆる“ホモ・サピエンス”)がこの地球に現れてからの、のべ人数となると専門家でないぼくでも、都合何兆人にのぼるのではないかと想像します。何兆種類の顔と頭脳が存在したわけです。
 人間の顔を形作る部分の大きさも、その位置関係もそれぞれにそれほど大差があるわけではありません。「あの人の目は大きい」とか「口が大きい」と言っても、幅、高さに於いて2cmも変わらない。両目の間隔が10cmも離れているなんてこともあり得ないことで、それぞれの部位の大きさや配置がたったのミリ単位異なるだけで、「あっ、誰々さんだ」と何兆もの組み合わせを一瞬に識別し認識できる人間の能力にもやはり驚嘆すべきものがあります。
 一方で、いつかも述べたことがありますが、「視覚ほどあてにならないものもない」のです。ごまかされやすい。人間の光に対する識別能力など無に等しいとぼくは思っています。物を素早く見たり、観察することが商売のカメラマンでさえ、光を読み取る能力は(コントラストや輝度域)あっても、視認能力は通常の人たちとさして変わりがなかろうと思います。もしかしたら集中力の違いだけかも知れない。それは訓練で養えるものですが、だとしてもそれが即ち良い写真につながるというわけではありません。

 どんなに優れたコンピューターが開発されたとしても人間を凌駕する写真など決して撮れないだろうと思います。将来のことは分かりませんが、そう思いたいですね。チェスや将棋といったものは数学や物理の解析機能が大きく作用する面があるのでコンピューターが勝利を収めることも可能になっていますが、無機物で作られたコンピューターが感情や思想から形成される写真というものを作れるわけがないとぼくは思っています。有機物からなる人間の脳に、無機物のコンピューターが敵うことはないでしょう。映画『2001年宇宙の旅』の人工知能HAL (ハル)の様なものが出現してしまったら、人類の精神的終焉であろうとも思います。でも、いつか人類は分別なくそのようなものを作ってしまうのでしょう。核という誤った発明をし、それを持て余し困窮している現状と酷似したものになってしまうのでしょう。もはや「マグネシウム閃光粉」を懐かしんでいる場合ではなくなりますね。

 で、このような戯言を書き続けているといつまで経っても写真の話が出てきません。結論としては、心理学や生態学で個人を70億の民として十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に扱っていただきたくないということを主張したかったのですが、そこに至る話を端折って、写真の話をどこかにねじ込まなければならないところが、「よもやま話」の苦しくも辛いところなのです。

 今のカメラは(いきなり来ました)撮影者の英知を無視したところで成り立つ一種の不完全なコンピューターです。不完全な部分を撮影者の知恵で補わなければならない部分がまだまだ残されているのが救いでもあります。知恵の見せどころがあるからです。例えばISO感度の選択もそのひとつ。

 フィルムは1本使い切るまで同じ感度で撮らなければなりませんが、デジタルカメラ最大の見どころは1枚ごとに必要に応じてISO感度を任意に変えられることにあります。初めてデジカメを使ったときのこのコーフンは未だによく覚えています。なんてありがたい機能だろうと感心ばかりしていました。感心はしましたが、直感的に「フィルムと同じように感度を上げれば、その性質はデジでも二律背反であるに違いない」ということでした。便利さと引き替えに画質が悪くなるということです。

 フィルムは感度を上げて現像するとコントラストが高くなり、粒子も粗くなりますが、それを逆手に取り一種の表現手法として用いることが可能でした。グラーデーションも滑らかではなくなりますが、粗粒子表現としてうまく使えばそれはそれで味のあるものでした。ぼくもしばしばモノクロフィルムをそのように使ったものです。

 デジの感度テストを繰り返しましたが案の定、感度を上げれば上げるほど画像のざらつき、つまりノイズが目立ってきます。デジはフィルムと異なり、味のあるものではありません。このノイズを偽色とも言いますが、撮像素子(CCD)が光を受け取り電気信号に変換する過程で生じるものです。本来ないはずの赤や緑などの粒々や縞が発生するのです。とても醜く、汚くて気味の悪いものです。在るものが省略されて消失するのは許せても、無に汚いものが付着するのは到底許し難い。70億人すべてがそう感じるかどうかは分かりませんけれど。
(文:亀山哲郎)

2012/06/22(金)
第106回:ちょっと追補
 ストロボについてはちょっと(どころか大いに)物足りないのですが、取り敢えず2回で終了いたします。前回触れたバウンス撮影などについて書きたいのは山々なのですが、ぼくのバウンスについてのデータは光量や光質を精密にコントロールできるスタジオ用大型ストロボのものであり、また一口にバウンスと言っても様々な条件によりあまりにも多岐に亘ってしまうため、かえって混乱を招いてしまう恐れがあります。

 カメラに内蔵されているストロボ以外に、発光面を回転させたり、上下に振ることのできるクリップオンタイプのストロボはバウンス撮影ができとても有用なものですから、持っていて無駄になるということはありません。いざという時の保険と考えればいいでしょう。
 ストロボに同梱されている取扱説明書にはバウンス撮影について書かれてありますが、ひとつ留意していただきたいことはストロボ光を反射させる面が白であることです。もちろん世の中には純粋な白は存在しませんが、できるだけ白に近い面に反射させることが最も光の効率が良く、結果として色調もすっきりしたものになります。反射面の色がつまりは疑似発光体となりますから、反射面に色がついていると、道理としてその色が被写体に被ってきます。あまり極端な色被りでなければ、Rawで撮影し、現像時に色温度や色相を調整しながらそれを取り除くのが一番手っ取り早い方法です。デジタルという文明の利器をぜひ使いこなしてください。

 よほど古い建物でない限り、最近は事務所など禁煙ルームが大半ですから、パーチクルボードの白天井がタバコなどの汚れで黄ばんでいることはほとんどないようです。そのような条件では安心してバウンスすることができますが、和室や古い日本家屋となるとバウンスしても良い結果は得られません。天井に大きな発泡スチロールや白の背景紙を貼ったりするのですが、商売人でもない限りそんなことはあまり現実的なことではありませんね。
 また、体育館やホールなどあまりに天井が高い場合には、かなりGNの大きな(50〜60くらいの)ストロボでもほとんど効果は望めません。そのような場合には一度試写をしてみて、カメラのモニターでストロボの有り無しを比べてみれば、ストロボが効いているのかそうでないかがその場で判明します。これもデジタルにしかできぬ技です。

 「私はデジタルでなくフィルム使用なのだけれど、どうすればいい?」とお考えの方もきっとおられるに違いありません。フィルムについての保証は、入射光方式の単体露出計を使うしかありません。定常光とストロボ光の両方を計れる機能の付いたものをです。ストロボの自動調光が効く範囲であればいいのですが(調光OKのサインが出ます)、そうでない場合は、ストロボをフル発光させ、定常光に対してストロボ光が1絞り半マイナスが限度と考えてください。ストロボ光の割合がそれ以下ですとストロボの効用はほとんど認められません。安全を見計らって1絞りマイナス(定常光の半分)までとした方がいいでしょう。
 ストロボのフル発光量は決まっているわけですから、救済の方法としてはシャッター速度を遅くし定常光の割合を増やしてやるしかありません。
 モノクロフィルムやポジカラーフィルムであれば、ISO感度を上げて(増感)撮影し(増感の詳しい定義は省きます)、現像を依頼する際に「このフィルムをISOxxxで撮りました」と伝えればそのように現像してもらえます。ただ現在はプロラボに持ち込まないとできないのかな? いずれにしても感度と画質は二律背反の関係にあり、増感現像の程度にもよりますが、粒状性が悪くなったり、カラーバランスが崩れたりしてしまいます。
 
 ストロボの効果が得られなければ、フィルムでもデジタルでも動くものについてはISO感度を上げるしか方法がありません。画質を犠牲にして記録を優先するかどうかという悩ましい選択を迫られますが、どこかで妥協点を図らなければ撮影が進みませんから、デジタルであれば自分のカメラの性能をしっかり把握しておくことが必要です。“備えあれば憂いなし”というところでしょうか。

 昨今のデジタルカメラはかなりの高感度撮影ができるようになりました。フィルム時代に常用していたカラーポジフィルム(ぼくはネガカラーというものをほとんど使ったことがないのです)は大半がISO25〜64のものでしたから、今思うと隔世の感ありというところです。いろいろなことが便利で簡便になっていくのは世の習いなのでしょうけれど、ぼくは負け惜しみではなく「なぜ写真は写るのか」、「どうすれば写せるのか」のメカニズムを知る必要があった時代を経てきてよかったのだと思っています。不便なことを味わっているから、便利なことをありがたく思えるのでしょうね。そして、今の若い人たちが歳を取ってさらに世の中が便利になり、やはりぼくと同じような感慨を抱くのでしょう。多分、いつの時代も「昔は不便だった」のです。
 ぼくが屋内で初めて親父にシャッターを押させてもらったのは、小学2年生の時で、なんと「マグネシウム閃光粉」でした。金属の板に撒いたマグネシウム粉がバフッと音を立てて閃光を放ち、その煙が天井をモウモウと這っていたものです。やっぱり昔は何をするにも不便だったけれど、風流というか味わいというものがありましたね。
(文:亀山哲郎)

2012/06/15(金)
第105回:ストロボについて(2)
 普段仕事で使用するデジタル一眼レフには内蔵ストロボが付属していませんので、内蔵ストロボの付いた私的写真用のカメラを使って作例を作ってみました。本当に初めて使ってみました。

 ストロボの光量(光の強さ)は通常“ガイドナンバー(GN)”という数値で表されます。GNとはISO感度100の時に、ストロボから1mの被写体が適正露出になるf値を指します。絞りがf 10であればGNは10と表示されます。
 今回使用したコンパクトカメラの取扱説明書にはGNが記されていませんが、「フラッシュの調光範囲(光の届く範囲)」という項目をめくると、ISO感度、絞り値、調光範囲の一覧表が記されています。例えばISO 400、絞り値f 2 で0.5〜4.5mとなっています。GNを求める計算式は割愛しますが、この内蔵ストロボのGNは約4.5だということが分かります。0.5mという表示は、それより距離の短い被写体には自動調光が効かないか、ケラレが生じてメーカーは推奨しない、もしくは保証しないという意味です。
 各社の一眼レフ内蔵ストロボを調べてみるとGNは12前後というところでしょうか。いずれにしても人工光としてはささやかなものですが、記録を重用したり、夜景を背景にした人物撮影(スローシンクロ)を多く撮る人には有用なものであるに違いありません。内蔵型ストロボは直射式ですので、背景の状況により醜い陰が生じる場合が多々あり、それを避けたい人はGNの大きい外付けタイプかクリップオンタイプ(発光面を回転させたり、上下に振れるものに限り)を使用して光をバウンス(白い天井や壁に反射させること)させ、柔らかい間接光として用いればよいのです。そのためにはGN40以上は欲しいところです。

 読者諸兄の90%近くはカメラ内蔵のストロボをお使いだと思いますので、それを念頭に置いて簡単な一例を示します。

 作例モデルは陶器で、逆光の窓辺に置いてみました。ぼくが30数年前に作ったものです。亡父は陶芸が好きで、家には重油窯やろくろがあり、見よう見まねで作ったものです。できるだけ人肌の明度に近いものを選びました。本来ならば人間の顔を使いたいのですが、Webということもありこの不細工な陶器でご勘弁ください。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/105.html

★「01.N」は、カメラの指示通り露出ノーマル、f 4 で撮っています。Raw現像はデフォルトで、ホワイトバランスも撮影時設定のままです。カメラの露出計が外部の明るさに反応して陶器は露出不足となりディテールはほとんど失われています。シルエットに近く、トーンカーブを使用し最大限に明るくしても、外が明るくなるばかりで陶器の質感や模様は救いようがありません。

★「02.N+1」は、露出補正を+1にしてみました。これでも明らかに露出不足で、陶器の模様がうっすらと表現されるに留まっています。

★「03.N+2」は、さらに露出をオーバーにしました。補正+2です。模様が現れてきましたが、もしこれが顔だとしたらやはり露出不足です。外は6月にも関わらずもはや雪景色のようになっています。

★「04.N+3」。このカメラの露出補正は+2までしかありませんので(ほとんどのカメラが上下2段です)、マニュアルを使い約+3にしてみました。陶器の明度だけ見れば、その平均値はほぼ露出適正値の18%グレー濃度になっていますが、陶器の輪郭のハイエストライトは白飛びぎりぎりで、所々にわずかな色収差が発生しています。窓の左側は完全に白く飛んでしまいました。過剰な光量がカメラ内で乱反射して、全体のコントラストが低くなっています。この現象はどのような優秀なカメラやレンズでも起こります。

★「05.ストロボ」。カメラ内蔵のストロボを使ってみました。露出ノーマル、ストロボの光量を−2/3にしてみました。陶器も外の明度もほぼ適正な露出となっています。備前焼に釉薬をかけて、絵をナイフで引っ掻いて描いたものだとこの写真で初めて分かりますが、ストロボ光がほぼ正面から当たっているので、陶器の真ん中にいやなハイライトが入ってしまいました。後ろの磨りガラスにもストロボの光が写り込みテカっています。磨りガラスではなく普通のガラスであればストロボの角度によりさらにはっきり写り込むでしょう。そして、実物はこのような色ではありません。撮影時設定では色温度や色相が合っていないのです。

 ストロボ光はほとんどの場合、色温度計で測定してみると太陽光の標準とされる5500°K(ケルビン)より高いのです。このカメラの色温度を測ってみたら約6250°Kで、したがって青味が強くなっています。今はデジタル全盛ですからRawで撮影し、現像時にホワイトバランスを上手に取ればいいのですが、とは言ってもタングステン光下などでストロボを使うと2種のかなり色温度の異なる混合光となり、これは難儀です。これを解消するには色温度変換用のゼラチンフィルター(アンバー系)を発光面に貼るしか手がありません。

★「06.完成」は、「05.ストロボ」のRawデータを現像時にホワイトバランスと色相を調整し、肉眼で見たものに近くなるように調整したものです。

 内蔵ストロボの効果についての一面をお分かりいただければと思います。初めて使ったくせに、案外役に立つかも・・・。
(文:亀山哲郎)

2012/06/08(金)
第104回:ストロボについて(1)
 ある合唱団のメンバーでもあり、そのお手伝いをしている友人の建築家が先週こんな事を訊ねてきました。「教室や体育館での練習風景を撮らなければならないのだが、窓から差し込む光が逆光となり、“そのまま”撮ると顔が暗くなってしまうのだけれど、そういう場合はどうすればいいのか?」と。“そのまま”とはきっとカメラの示す露出通りに、という意味なのでしょう。

 彼の趣味は写真とボランティアで、北浦和公園を“うちの庭”と称して憚らぬちょっと変わった人なのですが、彼の写真は職業柄か建築物が多く、「オレならこの建物はこう作る」という意気込みのようなものが写真からひしひしと伝わってきて、ぼくなどいつも感心させられてしまうのです。ぼくの物差しに従えば、彼の写真の質は、技術的な欠陥はあれどとても良い。月に一度、彼の写真を見せてもらうのですが、ぼくは適宜無断で彼からその良さをこっそり盗んでおります。彼の物作り屋としてのエゴが写真の隅々まで十分にはびこっており、時にははびこり過ぎて、それ故に特有な視点によるところの独自の雰囲気とか空気感を漂わせているのです。コマーシャルの建築写真とはひと味もふた味も異なり、しばしおどろおどろしく、かつエキセントリックなものもあるのですが、彼はぼくの間尺に合うように心中立てをし、寸止めの写真を抜かりなく持ってくるのです。往々にして感覚の鋭敏な人を野放しにしておくと暴走の嫌いがありますから、月一度の定期点検がどうしても欠かせません。

 そんな彼が合唱団の練習風景を撮るのだそうで、彼の質問にぼくは「記録写真として撮るのか、あるいは芸術的付加価値をつけて撮るのかによって撮影方法は異なる」と、正直な所見を述べました。
 簡略化して言うと、記録写真としてしっかり撮ろうとする場合はストロボを使えば無難だし、その場の空気感を捉えたいのであればストロボを使わず部屋の光量に合わせた露出をマニュアル露光に固定し(部屋から見える窓の外は真っ白に飛んでしまう恐れがありますが)、撮るのが一番。画面に明るい窓などが入っても、露出が固定されているので変化はなく、顔が真っ黒に(シルエット)なったりせずに済みます。ただ、室内光というのは概して光量が低く、手ブレに留意しなければなりません。ISO感度をやたらに上げてしまうと、画質の劣化を否応なく招きますから、手ブレを防ぐシャッタースピードとISO感度の兼ね合いを程よいところで取る必要があります。そのためにはカメラの性能や機能を熟知していなければならず、このカメラはタングステン光下ではISO感度をどのくらいまで上げると、ノイズや偽色が発生して汚らしく見えてしまうかといったようなことをです。ノイズや偽色などばかりでなく、ISO感度をやたらに上げると発色やコントラスト(ダイナミックレンジ。再現域)も変化していきます。どのくらいなら許容できるかは、撮影者本人の問題です。楽をしようとすれば失うものも大きいというわけです。写真の世界もすべからく斯くの如しであります。

 デジタルになってからぼくはスタジオ撮影や物撮り以外に、ストロボを使うことはほとんどなくなってしまいました。フィルム時代はストロボ使用時には定常光(自然光)とストロボ光の色温度やバランスを合わすことに苦労しましたが(シンクロ撮影)、デジタルにはホワイトバランスを調整できる機能がありますので、面倒で複雑なフィルターワークを必要とせず、フィルムよりはずっと簡便になりました。

 さて、上記した「記録写真」と「芸術的付加」の双方、もしくは中間を求めるという欲の深い人も世の中にはいます。「日中シンクロ」とか「スローシンクロ」の使用ですが、最小限のことがらについては、次回にお話しいたしましょう。

 まずストロボ撮影のメリット、デメリットを簡単に整理しておくと、ストロボの閃光時間は機種により一概に言えませんが、カメラに付属しているものやカメラのホットシューに接続して使用する外付けタイプ(ここではスタジオ用の大型ストロボについては述べません)などは何千分の1秒という短い時間ですから、手ブレの心配がありません。速い動きのあるものでもしっかり止めて写すことができます。これは大変なメリットです。そしてどんなに暗い場所でも、被写体がストロボ光の届く範囲であれば写すことができます。これも大変ありがたい機能ですが、メリットはそれだけです。ぼくはストロボについてはかなり冷ややかな態度を取る写真屋だと自覚しています。

 ストロボを使うことによるデメリットは撮影場所の空気が一気に飛散してしまうことです。これは主観に委ねる部分もあるでしょうが、ぼくはその場の空気感や音、臭いなどといった佇まいを極力重視したいタイプの撮影者ですから、私的な作品作りにストロボを使うことは今のところ100%ありません。空気感や雰囲気が失われると感じているからです。
 カメラ付属のストロボはレンズの光軸とストロボ発光の位置が近く、発光面積も非常に小さいので光質が硬く、壁をバックにした撮影では汚い陰が生じます。また、光がほぼ正面から当たるために立体感や質感も損なわれ、ベッタリとした表現のなかに、赤目という妖怪まで出現してしまいます。カメラ専用のストロボは被写体に照射される光量を自動的に算出して発光しますから、被写体より前にあるものはより明るく、後ろにあるものは暗く写ります。これではどうしてもきれいな写真にはなり得ませんが、被写体より前に物体がなければ後ろのバックは距離があればあるほど暗くなりますから、それを敢えて利用する方法もあります。

 ストロボについて語ろうとすると1冊の本が書けるくらいですが、そうも言っておれず次回はより有用なストロボの使い方をお話ししましょう。カメラ付属のストロボって使ったことがないので、来週までに勉強いたします、はい。
(文:亀山哲郎)

2012/06/01(金)
第103回:出不精
 今、埼玉県立近代美術館で年一度の県展が催されています。県展に関してぼくはまったくの部外者なのですが、ここ3,4年足を運ぶようになりました。ぼくの写真倶楽部がここでグループ展をするようになってから、県展に関係する方々といろいろな縁ができ、写真や県展について意見交換をするようになったというのがその大きな理由でしょうか。元来、出不精であるぼくが(とにかく都内へ出るのが苦痛)、歳とともにますますその傾向が顕著になりつつあり、しかし美術館は家から歩いて10分足らずのところにありますので、それほど億劫がらずに済むのです。

 昨年の県展を見た感想を、「第54回“県展に行ってきました”」で述べました。それによると、“「第52回:シャープネスの功罪」、「第53回:画像補整の弊害に思うこと」でお話しした事柄に関してだけ申し上げれば、改めて目を覆わんばかりの負の現象が随所に見られたことはとても残念な気がしてなりません。彼らはきっとこの「よもやま話」の読者ではないのでしょうね。”なんてことを書いていますが、「よもやま話」も読者が増えた?せいか、あるいはより良いデジタル処理のノウハウがようやく正しい方向へと定着してきたのか、昨年述べたような弊害が今年はより少なくなり、プリントの質が向上したように思います。プリントに関して、比較的安心して見られるものが多くなったということはとても喜ばしいことです。

 前号でお話しした「光沢紙」での展示が多く、会場のライトが作品のあちこちに反射して自由な角度からの鑑賞が妨げられています。目の高さにある作品も自分の姿とバックが写り込み、展示目的の「光沢紙」の選択には細かい配慮が必要ですね。「超光沢紙」の使用など絶対に禁物です。

 県展の人物スナップ写真に関してのみ感想を述べさせてもらえば、「演出・脚色」の類が多く見られたのはスナップ派のぼくとしては残念です。かつて隆盛を誇った「リアリズム写真」は「絶対非演出の絶対スナップ」と金科玉条のように唱えていました。「演出・脚色」=「好ましからざるもの」という極端な図式をぼくは支持していませんが、しかし展示作品に見られる演出された写真は、写真としてのまとまりはあるものの、どこか緊迫感や緊張感に欠け、精気が乏しいように感じられます。被撮影者の視線や姿・佇まいが撮られることを意識しているので、どことなくそのような演出的臭いが漂ってくるのです。「目は口ほどにものを言い」の喩え通りであります。展示されている写真を見て、その写真が演出されたものであるかどうか100%の確証を得ることはできませんが、それらしい臭いはなんとなく嗅ぎ取れるものです。カメラ目線があろうとなかろうと、一瞬のうちに切り取るのがスナップ写真の粋(すい)だとぼくは思っていますから、多少の構図的な破れやブレが生じても良い写真はやはり良いのです。あまり写真を整えることに意識を集中させず、もっと伸び伸びと自然な様を心がければさらに生き生きとした描写ができるのにと、そんなことを強く感じておりました。

 唐突に話を横道に逸らせますが、上記した如く、ぼくがなぜこれほどまでに出不精になってしまったかというと、雑音と雑光(造語ですいません)と雑踏に耐え難い思いをさせられるからなのです。そういったものに極端に弱いのです。喫茶店や居酒屋などで雑音が多いと難聴ではないにも関わらず相手の話がほとんど聞き取れなくなってしまうのです。そういう場所は公私ともに会話を目的に行くところですから、ぼくは聾唖のようになってしまいます。何度も相手に聞き返すわけにもいかず、したがってとんちんかんな生返事をしてお茶を濁すこと多々あり、この生返事というものはひどく精神に負担をかけます。
 聴きたくもない時に聴く音楽もただの雑音に過ぎません。大いなる雑音です。それが喩えバッハであってでもです。音楽を聴きながら何かをするという芸当がぼくにはどうしてもできません。脳を2つに分けて何かをできる人をぼくは羨ましいと思うことがあります。「ながら族」にはどうしてもなり得ません。
 雑光は気が散っていけない。余分な光はただ眩しく目がチカチカし、ひどく集中力が散漫となり、やはりぐったりくたびれてしまいます。どうしても集中力を保つことができません。
 雑踏は、自分のペースで歩けないことと他人と体が接触することが避けられないので、虚弱体質のぼくは精神の破綻を招きそうになるのです。すでになっていますが。
 そんなこんなで、とにかく都会の雑踏が体質に合わず、その縮図のような電車は特に苦手です。ぼくは自然派ではありませんが、人っ子一人いない北極海の孤島で過ごしたこの上なく快適な時間が未だに忘れられないでいます。

 そんなぼくが仲のよい若いカメラマンを誘って、新国立美術館で催されている「大エルミタージュ美術館展」に、乗りたくない電車を何度か乗り継いで行ってきました。300万点の収蔵品の中から83点が日本にやって来たに過ぎませんが、出不精を押して出かけたのは、写真を撮るための何か良いヒントが得られるに違いないとの思いからです。ソビエト時代に本場のエルミタージュで何日かを過ごしたことがありますが、器は異なるとは言えやはり本物の絵画を間近で鑑賞することは良い刺激になります。ですがここは本場と異なり、やはり人混みですので、鑑賞と言うにはほど遠いものがあります。
 二人とも写真屋ですから、シャドウやハイライトの描き方、光の性質や方向、色調や彩度の扱い方、構図や遠近感などにどうしても目を奪われ、鑑賞後ビールを飲みながら、「あのパース(遠近感)、おかしいよな。思わず笑いそうになったけれど、あそこで二人して大笑いすることもできんしなぁ。あの光源であのシャドウの出方は変じゃないか」とか、名画を前にしても写真屋の性ってなんだか悲しいですが、出不精を押しただけの価値はあったようです。
(文:亀山哲郎)

2012/05/25(金)
第102回:印画紙について思うこと(4)
 印画紙選びについていくつか補足しておきましょう。
 もし展示を目的とされるのであれば「超光沢紙」や「光沢紙」は展示場のライトの位置によっては反射を受けやすいことを念頭に置いておく必要があります。ライトが写り込む可能性があるからです。これではせっかくの展示が台無しになってしまいます。ライトばかりでなく外光が入るような展示場でもそうですね。最も無難な方法は、黒の締まりやメリハリを重視するタイプの作品には良質な半光沢紙の選択をお勧めします。半光沢紙であればこのような懸念からほとんど解放されます。もちろん、無光沢紙は影響を受けません。

 展示で厄介な事柄はもうひとつあり、それはメタメリズム(条件等色。照明の違いによりプリントの色が異なって見える現象)と呼ばれるもので、自室でプリントしてよしとしたものが、自室とは異なる光源を使用した会場では、異なる色に見えてしまうという難儀な現象です。これ自体は直接印画紙に起因する事柄ではありませんが、この現象は展示に限らず、例えば自分のプリントを友人などと異なる場所で共有する時に往々にして発生します。このような経験をされた方は案外多いのではないでしょうか。これはプリンターに使用するインクが染料か顔料かでも異なってきます。一般的に言えば染料インクの方が影響を受けやすいというのが、ぼくの実感です。
 メタメリズムについての科学的なお話しはぼくにはできませんので割愛しますが、ぼくは個展などを催す際には必ず自分のプリントを前もって現場に持って行き、実際の会場照明光の下で確認するようにしています。特にモノクロ写真には気を遣います。現在使用しているプリンターは比較的安心できますが、一昔前のものはまったく油断がなりませんでした。

 以前、ぼくの友人であるカメラマンが自分のモノクロ写真をショーウィンドウに飾ろうと一晩かけて入念にプリントし、それを実際に太陽光に晒された現場に置いたところ、モノクロ写真全体がグリーンのフィルターを被せたような発色をし、慌ててぼくに電話をかけてきたことがありました。ぼくと同じプリンターを使用していた彼は、「かめやまさん、外で見たら猛烈なグリーン被りをしてとんでもない色に見えるのだけれど、そういう経験ある? あるとしたらどうしたらいい?」と鬼気迫った声で訴えてきたことがありました。今から10年以上前のことです。
 それは当時、高い評価を得ていたプリンターで、今でも愛好者が多いようですが、昨今のプリンターと比較してみれば決して褒められたものではありません。これもぼくの言う都市伝説のひとつに過ぎません。日進月歩のデジタル機器にあって、プリンターは良いものを購入しておけばかなり長い期間、時代遅れの感を免れるものだとぼくは思っていますが、それでもやはり10年より前のものはちょうどその端境期にあたり、その限りではないようです。

 ぼくは幸い太陽光下で展示するような機会がありませんでしたが、そのプリンターでプリントしたモノクロ写真が太陽光の入る喫茶店などでグリーン被りをしているように見えることはすでに体験していましたから、「グリーンの補色であるマゼンタをデータに被せてプリントしてみたらどうか?」と提案したことがあります。彼にそう言った手前、ぼくも様々な濃度のマゼンタフィルターをPhotoshopで作り実験したことがあります。ある程度はうまくいきましたが、太陽光とは元来気まぐれなものですから、ちょっとした変化でグリーンに見えたり、マゼンタに転んだりして、結局モノクロプリントは諦めざるを得ませんでした。

 ついでながらお話しすると、モノクロプリントはプリンターにブラックインクの他にグレーインクを使用したものでないと、どこか色被りを起こし、上手くいきません。モノクロと言えどもプリント時にはブラックインクやグレーインクばかりでなく、CMYのカラーインクを同時に使用しますから、厳密に言えば必ず色が被ったり、捻れを起こすものなのです。これはプリンターばかりでなく、印画紙によっても異なり、どのように色転びを起こすかは実際にプリントしてみないとなんとも分かりません。この現象が少ない印画紙を良い印画紙の一要素として考えてもいいでしょう。

 話が前後して申し訳ありませんが、「風合い」という観点から和紙の類も看過できぬものがあり、ぼくはデジタルコーティングされた和紙をずいぶん試みたものです。分類としては無光沢紙に属しますが、一般の写真用無光沢紙とはかなり性格が異なります。最も大きな差異は、黒の濃度D-Maxが得られないということと地色が純白というわけではないので(純白の印画紙などありませんが)、結果として濃度域の極めて狭いものとなります。しかし、広い濃度域を必要としない写真もありますから、そのような写真には和紙の淡い色調の何とも言えぬ情感と味わいを堪能できます。和紙で作品作りをしている写真家が世界中にいることは興味深いことです。

 日本は和紙という世界に誇るべく優れた紙を産み出した国ですから、もう少しD-Maxを得られるような製品が開発されればぼくも是非使いたいと思っています。気に入った印画紙を見つけるとその印画紙に適応すべく自分の作風が変わっていくのは、本末転倒との意見もあるかも知れませんが、ぼくはそれを本末転倒ではなく、新たな表現への試みと捉えるようにしています。
(文:亀山哲郎)

2012/05/18(金)
第101回:印画紙について思うこと(3)
 印画紙の選択基準をどのように考えればいいの? という質問を時折されることがあります。質問者が初対面であったりした場合、あるいは実際の写真が目の前にない時は相談を受けても(このこと自体が無理難題なのですが)、前回述べた印画紙についての大まかな特質をお話しするに止まります。つまり、簡潔に光沢紙と無光沢紙の物理的な特徴を述べ、どちらを選択するかは撮影者に委ねる他ないからです。

 実際の写真を目の当たりにしてもぼくが決定するわけではなく、最終的には撮影者の意図によるところ大なのですが、撮影者自身がよく分からずに迷っていることは多々あるようです。そのような時には「この絵柄にはこのような印画紙が引き立つと思うよ」と何の根拠もなく口から出任せに軽く背中をポンと押し、時によっては具体的な銘柄などを示すと、「そうですね、それ以外にありませんね、絶対に」という具合に、意気揚々と自信に満ち、そして何かに取り憑かれたようにこぶしを握りしめ、“印画紙決定”の強い意志を示されるのです。
 これを日本語で「鵜呑み」と言いますが、ぼくはそのような時、きっと怪しげな教祖のように振る舞っているのではないだろうかと自問しています。いや、自省することさえあります。ちょっとだけ罪の意識に襲われるのです。とは言え、何かの救いや助言を求めてやってくるのですから、やっぱりこれでいいのです。「信ずる者は救われる」って言うし。

 ぼくの怪しげな教祖ぶり同様に、友人のなかにも「光沢紙一辺倒」、「無光沢紙一辺倒」という一辺倒人間がいるのも困りものです。それが“多少は”理知的であると窺える人であればある程、なおさら始末が悪いのです。逆説的に言えば、「一辺倒」そのものが理知的であるとは言えず、しかし当人は自分を十分に理知的であると信じているので、まったく厄介なのです。「信ずる者は救われない」のです。
 あなたのこの写真は“絶対に”光沢紙が良い、適切だとぼくが指摘しているのに、自分を疑うことなく「無光沢紙!」と決めてかかっている人もいます。一辺倒とはそうしたものなのでしょうが、無光沢紙=リベラルというおかしな概念に無意識のうちに取り憑かれている人が往々にしています。無光沢紙とリベラルがどこでどう結びついてくるのかは不明ですが、しかし、「光沢紙一辺倒」よりは“多少”リベラルであるかのようにも思われます。というぼくの考えにも確たる論拠が示せないのですが、とどのつまりは、「臨機応変に使い分けることができる」のが真に理知的な姿であり、リベラルな考え(感覚)の持ち主だと言えそうです。

 どのような写真がどのような印画紙に適合するかは、まことに大雑把な仕分けしかできませんが、黒の締まりや色域の広い(彩度の高い)表現が必要だと思えるものは光沢紙が適合しやすい傾向にあります。反対に中間色が多く、コントラストが中庸なものは無光沢紙にプリントするとしっとりした良い感じに仕上がることが多いように感じます。これは一応の目安に過ぎませんが、最も客観的な捉え方であるとも言えるでしょう。
 最終的にはどのような印画紙を選択するかは、撮影者の感覚に頼ることになりますが、その感覚が磨かれたものでないと作品との間にやはりどこかちぐはぐさが残ってしまいます。そしてまた、無難なもの(万能と思えるようなもの)からは個性が生まれにくく、面白味にも欠けますから、そこがなかなか難しいところでもあるのです。

 そして、印画紙には物理特性の他に「面質」や「風合い」という主観的な要素も加味されてきますので、好みのものを探し出し、使いこなすにはかなりの試行錯誤を重ねなければなりません。時間と労力を費やすこと=熱意と向上心、と置き換えることもできます。ここにプロ・アマの区別はありません。

 ぼくは「面質」や「風合い」と言ったことに強いこだわりを持っており、かつてそれが高じてしまい、「面質」と「風合い」の気に入った水彩用画用紙を20数種類ほど買い求め(国産・海外製を問わず)、なんとかそれを写真用インクジェットプリント用紙として使用できぬものかと2年近く格闘したことがあります。
 もちろん、顔料インク使用が条件ですが(染料インクではどうしても上手くいかない)、格闘の甲斐あって1種類だけ十分にモノクロプリントに使用できる(鑑賞に耐え得る)ものを見つけ出すことができました。専用のICCプロファイルを自作し、しばらくは「画用紙一辺倒」という時期がありました。おかげで、インクジェットプリントの様々なノウハウをたくさん勉強することができました。20数点の作品をその画用紙にプリントして展示発表をしたこともあります。今でもその画用紙はぼくの重要な選択肢のうちのひとつを占めています。ここまでくると、リベラルどころか単なる物好き、もしくは偏執狂なのかも知れません。

 偉そうなことを言いつつ、ぼくもどうやら「一辺倒」人間であるようです。

(文:亀山哲郎)

2012/05/11(金)
第100回:印画紙について思うこと(2)
 この「よもやま話」もいつの間にか今日で100回を数えることとなってしまいました。書かせておくといつまでも冗長で終わりがないというのがぼくの悪い癖でもあるようです。それは大変よく自覚しております。そしてまた、もの覚えが悪いくせに、ぼくは自分の書いたものを読み返すという作業を、必要に迫られない限り決してしないという質ですので、重複する部分も多々あろうかと思いますが、そのへんどうぞご海容のほどを。

 自分の声をテレコ(今は“デジタルレコーダー”と言うんですかね?)で聞いたり、写真に写った自分の顔を見たりするとぞっとしたり気持ちが悪くなってしまうのと同様、自分の書いたものを読み返すと脂汗や冷や汗にまみれ、とたんに所在を失い狼狽えるのが関の山。だから読み返さないのです。写真集や単行本にしても、出版された直後に誤植があるかどうかを調べるために一度目を通しただけで、それ以来ページをめくることはありませんし、おそらく生涯読むことはないだろうと思います。
 ぼくはナルシストではありませんので、というより気が小さく過去のことに責任を負うのが嫌なのです。「過去の自分は確かにそうでありましたが、それは過去の話で現在は違います」と、その過去がたとえ昨日のことであっても何の気後れもせず言い放つことをほとんど厭いません。常に一貫性がなく、ふにゃふにゃくにゃくにゃしているのです。善意に解釈すれば、常に考えているのです。
 唯一の例外は自分の撮った写真に対してだけでしょうか。職業上ということもありますが、特に私的な写真は注文主が自分ですから、意図がより純粋かつ明解なものなので、過去のものをひっくり返しながら気に入った写真は何度でも執拗に暗室作業を試みることがあります。やっぱりふにゃふにゃくにゃくにゃしているからなんでしょうかねぇ。自分の写真に対面しても、“我が子可愛さ”に、気恥ずかしさがどこにもないのは確かなんですけれど。

 こんなことを書いているといつまで経っても本題に入れませんので、打ち切って印画紙について“今日時点で思いつくこと”をお話ししたいと思います。

 前回「もうそろそろピカピカ光沢紙一辺倒の世界から脱してみてはどうか」ということを述べました。ピカピカ印画紙が悪いと言っているのではありません。デジタルプリントはアナログプリントに比べ他に選択肢がたくさんあるのだから、自分のイメージに添ったものや絵柄に合ったものを見つけ出す工夫や試行錯誤を繰り返すことは無意味なことでなく、それどころか大変有意義なことだと言いたかったのです。自分の写真が印画紙を変えることにより、今までとは異なった印象を得たり、与えることが時折あるからです。
 ではどのようなことを選択の基準に据えればいいのでしょう?

 印画紙には大きく分けて光沢紙と無光沢紙があることは前号で述べました。光沢紙は光の反射がある程度均一ですから、光学的・物理的に濃度域が広く、色再現範囲が広いというのが一般的な見地です。無光沢紙は表面が凹凸なため光が拡散し、結果として濃度域も狭く、また色再現範囲も狭まります。光沢紙と無光沢紙の黒の最大濃度(D-Max.と呼ばれるもので、Maximum Densityの略)を同じ写真で比べてみれば一目瞭然、光沢紙に軍配が上がります。一般に言われる「黒の締まり」とか「メリハリ」などは、このD-Maxによるところ大なのです。こう書いてしまうと無光沢紙には利点がないように思われるかも知れません。ところが写真プリントというものはご承知のように、濃度域や色再現域だけでその美しさを判断したり、善し悪しを語れるわけではありませんから、事は複雑なる様相を呈してくるのです。

 先月のフォト・トルトゥーガ展でぼくの展示作品7点はすべてモノクロ写真で、視覚的にはかなりコントラストの強いものですが、選択した印画紙はキャンソン製の無光沢紙でした。モノクロ写真の大切な要素として「黒の締まり」がよく云々されますし、ぼくもそれを否定するものではありませんが、無光沢紙に比べD-Maxの高い光沢紙が必ずしも常に最良の結果を引き出すというわけではありません。ここで言う“最良”とは、撮影時のイメージに添ったという意味でもあり、また写真をご覧になる方へのインパクトや求心力などを指しています。これが成功したかどうかはよく分かりませんが、ぼくは職業写真屋ですから、写真の性格も強く(灰汁?)10人のうち1人か2人が興味深く鑑賞されればそれでいいのです。

 ついでながら今回の写真展では純粋な意味での光沢紙使用はなく、半光沢紙と無光沢紙だけで構成されました。それもあってか、「落ち着いた」とか「しっとりしている」という評価をたくさんいただきました。また、ぼくの写真倶楽部には派手な色や彩度の高い写真、絵はがき的写真や観光写真を愛好する人がいないということもその一因だと思います。

 一般に半光沢紙と言われるものは、光沢紙と無光沢紙の中間というわけではなく、むしろ質的(濃度特性曲線)には光沢紙に近いものが多いようです。今回使用したキャンソン製半光沢紙は、半光沢であるにも関わらずぼくのテストした40数種類の印画紙のなかで最高濃度が最も高く、特性曲線もリニアに近い(つまり階調分離が優れている)ものでした。プリンタとの相性もあるでしょうし、また適切なプリンタICCプロファイルを使用することが必須の条件です。
 次回は選択の大まかな基準について、“今日時点で思いつくこと”をお話しいたしましょう。
(文:亀山哲郎)

2012/04/27(金)
第99回:印画紙について思うこと(1)
 一週間にわたって埼玉県立近代美術館で開催した年一度のフォト・トルトゥーガ展にご来場いただいた「よもやま話」の読者諸兄に、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。お陰様で各方面の方々から過分な評価をいただき、主宰者であるぼくは今、その重労働から解放されたこともあってほっとしているところです。
 内輪話で恐縮ですが、今回は13人のメンバーの持ち味を生かすために、例年より出展数を約2倍の120点に増やしたことと、同時期に大きな企画展が催されていたこともあってか、来場者は1,200人を超える盛況となりました。

 来場者の質問や疑問で最も多かったもののひとつは(ぼくに対しては)、プリントや印画紙に関してのものでした。ぼくの写真倶楽部では、従来から写真の内容にできるだけ合致するような印画紙の選択もひとつの重要なポイントとして捉え、一人の出展作品群のバランスを崩さぬように配慮しながら1点1点の作品についてどのような印画紙を使用するかを慎重に決めていったからだと思います。写真の最終形はプリントですから、絵柄に合った印画紙の選択は、写真を組成するものの重要な要素のひとつとして扱っています。
 その甲斐あってか(?)、来場者の方々からは「この印画紙は何ですか? いい感じですねぇ!」というご意見を多くいただきました。印画紙だけは超一流という豪華な写真展となりましたが、使用印画紙は以前にもご紹介したことのあるフランスのキャンソン(Canson)社製の数種類を使い分けています。敢えて社名を掲載した理由は、本物を一人でも多くの読者諸兄に知ってもらいたいとの思いからです。ぼくはキャンソンの関係者でも社員でもありません。

 印画紙やプリントに無関心な人は押し並べて写真のクオリティも低いか、もしくは上達もなかなか思うにまかせないであろうというのがぼくの考えであり、したがって、そこにも細やかな神経を配って欲しいというのがぼくの指導方針でもあるのです。

 ぼくのように気に入った印画紙を精密な測光機で計り、科学的な実証が得られないと納得しない(科学的なデータと視覚はほぼ一致します)という印画紙おたく?のありようを他の人に押しつけることはしませんが、何が良い印画紙なのかを実感してもらうためには、同じ写真を汎用写真用紙と最上質の印画紙に同時プリントし、見比べてもらう必要があります。あるいは自分の気に入った写真を最高品質の印画紙にプリントしてみるのもひとつの方法です。「百聞は一見に如かず」というわけです。ぼくの写真倶楽部には20歳代の人が4人、写真を始めてまだ10ヶ月という人もいますが、早いうちから最高級の印画紙に触れてもらいたいとの思いがあるのです。それは上達を助ける一方法というぼくの考えに基づいています。

 初めに良い写真ありきは自明の理ですが、良い写真を最大限に活かすにはそれに見合った印画紙の選択をすべきで、それが延(ひ)いては自分の作品を大切にするということにも通じます。写真さえ良ければプリントや印画紙は二の次という考えにぼくは賛成できません。ただ、写真のクオリティがある水準に達していなければ、どんなに素晴らしい印画紙を使用しても見映えの変わるものではありません。暗室作業の技術や印画紙は写真自体の質を上げるものではないからです。

 アナログプリントと異なり、デジタルプリントはプリンターを通すことが可能なものであれば、どのような素材にも簡単にプリントできるという大きな利点があります。近年では目移りしそうなほど様々な素材にデジタルプリント用のコーティングを施したものが発売されています。かつては選択肢が限られていた、というよりほとんどなかった時代を過ごしてきたぼくのような年輩の者にとって、多種多様な印画紙の出現は自身の写真のありようそのものを変えてしまうほどの新鮮な驚きと刺激を与えられています。これを利用しない手はないと思うくらいです。

 それを、単に「新し物好き」と片付けることは簡単ですし、歴史ある銀塩の世界であればなおさら、ひとつの慣れ親しんだ手法を改善・改良という手続きを踏みながら継続していくことも否定はしませんが、日進月歩のデジタル界にあっては、一応ぼくは表現者のはしくれとして、頑迷で保守的な姿勢を警戒しながら、新しい表現形態には意欲的に取り組んでいかなければならないと考えています。
 選択肢が多ければ多いほど写真の表現形態も異なって然るべきで、そこから自分にとっての相性や適正な符号を探り出す愉しみ(試練?)が泉のように湧き出てくるのです。ホントに湧き出てくればいいのですが・・・。

 印画紙の選択には大きく分けて、光沢紙と無光沢紙とに分類することができます。アナログ時代にはこの2種類しか選択肢がなかったといっても過言ではありません。デジタルでは様々な素材と面質(テクスチュア)、数字では表すことのできない風合いというものがバリエーションとして加算され、まさに百花繚乱。日本のアマチュア写真界も、もうそろそろピカピカ光沢紙一辺倒の世界から脱してみてはどうかと思います。欧米に追随するわけではありませんが、この分野では日本はずいぶん遅れていると感じているのは、ぼくだけなのでしょうか?
(文:亀山哲郎)

2012/04/20(金)
第98回:恐いものなし?
 「カメラを持ってファインダーを覗けば恐怖はなくなる」ことを発見したのは中学の頃、と前号でお話ししましたが、人は誰でも“恐いもの見たさ”という不思議で矛盾に満ちた複雑な心理を持ち合わせているようです。恐いものほど、あるいは気味の悪いものほど好奇心を掻き立てられ、見たくて見たくてどうにもならないという厄介な状態に襲われます。好奇心を制御できるものは、恐怖心と取り敢えずの世間体だという考えをぼくは持っています。世間体などというものは元々言い訳めいたいい加減なものですから、どこかでテキトーに取り繕ってしまえば誤魔化しが利きますが、恐怖心や気味の悪さは取り繕いようがありません。

 中学時代、フィルムを装填していないキャノネット(Canonet 。キヤノン製レンジファインダーカメラ。焦点距離45mm F1.9の明るいレンズの付いた当時としては画期的な大衆カメラ。1961年発売)を手に、フィルムを素早く巻き上げ素早くシャッターを切る練習をしていました。10秒間に何度シャッターが押せるかの記録作りに励んでいたのです。あるいは如何に速くピント合わせができるかとか、当時からぼくは勉強もせずにこんなことばかりしていました。今も大して変わりがありません。そんなことばかりしているので、歳とともにどんどん頭もおかしくなってしまったのです。

 空撮りをしながらテレビのスイッチを入れしばらく経つと、ブラウン管から脳外科手術の映像が、暗室で現像液に浸された印画紙のようにボーッと現れてきました。当時のテレビは現在のように恥も外聞もなく、躊躇なく画像が現れるわけではなく、どこか控え目に、徐々に画像が鮮明に浮き出てくるような仕掛けになっていました。そこには待ち遠しい“間”というものがありました。その“間”に人々は写し出される画像へ期待めいたものを持つことが許されたのです。テレビはテレビで、もったいを付けていたのです。今とはありがた味が違いました。ブラウン管に写し出された映像が、人の脳だと気がつくまでにちょっとした間がありました。画像が鮮明になるにつれ、ぼくも控え目に、徐々に目を伏せていったのです。

 それは当時著名な脳外科医の執刀による実写記録ムービーでした。映像は目を伏せれば避けることができますが、目を伏せても声だけは憚りなく聞こえてきます。声は気持ちが悪いわけではありませんし、それどころか興味をそそるような文言が次から次へと聞こえてくるのです。「切り取った頭蓋骨の下に現れるこの部分を鉗子で開き、そうするとそこに腫瘍があり、そこにメスを入れて、なんちゃらかんちゃら」といった具合です。
 「見た〜い、あああ〜ッ、たまらん。もうだめだ。我慢できん!」と恐る恐る目を上げると、「うッ!」と唸り声をあげ、再び目を伏せるぼくでありました。「情けない、男のくせに、なんとかならんか、え〜ッ、君〜!」と自分を奮い立たせようと様々な言葉を用意しながら、何度も“平然たる目上げの術”を習得しようと試みるのですが、ことごとく失敗に終わってしまうのでした。ただ魅惑的な言葉だけが、ぼくの脳をぐるぐると情け容赦なく駆け回るばかりです。

 ひょんなことに、まったくの偶然なのですが、ぼくはその画像を神が仕向けた教えのようにカメラのファインダー越しに直視してみたのです。「アララ、恐くもなければ気持ち悪くもなんともない」と、この偉大な発見に酔いしれてしまったのです。まさに自己陶酔とはここに極まれり。自画自賛。ナルシズムの極致のようなものです。
 ぼくは勇気を得、気焔を上げながら、“独り無人の荒野を行くが如し”、どんどんテレビに接近戦を挑みました。ぼくはここで無我の境地に辿り着いたのです、ってちょっと大袈裟かな?

 それ以来、何かにつけてぼくはこの便利な方法を利用することになります。何でも恐れなく正視することができ、恐怖心からも気味の悪さからも刹那逃れることができてしまうのです。こんな素晴らしい方法はありません。ですから、前号で述べた「見上げたプロ根性」でもなんでもないのです。中学生時はプロではありませんでしたしね。
 この技を手に入れれば、ホラー映画もなんのそのです。

 ある時、看護婦さんの仕事を紹介する単行本の撮影で、手術室に入ったことがあります。撮影前の打ち合わせで、婦長さんが「手術室での撮影は大丈夫ですか? お腹を切開して胃を取り出したりするのですが、以前に撮影されたカメラマンは途中で気分が悪くなり撮影を続けられなくなったことがあります。医者や看護婦でない限り冷静に見ることはなかなかできないものですから」と心配げにぼくに質問してきました。ぼくはやさ男 !? ですから、婦長さんはぼくが手術室で貧血など起こしたら厄介なことになると案じたに違いありません。
 「まったく大丈夫です」とお答えすると、婦長さんは「何度か経験されたのですね。馴れてらっしゃるのね」とにこやかな顔で言われました。「いや、馴れてはいませんし、経験もありません。今回が初めてです。でも、カメラを持つとなんでも平気になっちゃうんです。血が飛び散ろうが、肉が裂かれようが、なんでもありませんから、どうぞご心配なく」と自信に満ちてお答えしました。
 年季の入った婦長さんは一抹の不安を抱えながらも、「あら〜ッ、見上げたプロ根性ね」と少し伏し目がちに仰ったのです。
(文:亀山哲郎)