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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/11/18(金)
第77回:ブレを防ぐには?
 ブレ補正機能(C社では“補正機構”と書いてありますが)について前回簡単に述べましたが、言い忘れたこともありますので補足として少しだけお話ししておきます。
 まず初めに、この機能はブレをなくすためのものではなく、あくまでも軽減させるためのものであること、どうぞ勘違いなさらぬように。つまり絶対的なものではありません。
 仕様書などに、「ブレ補正効果はシャッター速度約4段分」などという記載がされていますが、例えば200mm望遠レンズであれば理論上では1/12.5秒までは手持ちで「ブレない“はず”」という意味です。あくまで“はず”なのです。200mm望遠が1/12.5秒で三脚なしに使えるというのはかなり驚異的なことです。まったく素晴らしい!
 しかし、前回にお話ししたようにブレには個人差もあり、また体調などによる差異もありますから(つまり日替わりというわけです)、それは一応の目安と考えた方が得策です。過信は禁物です。安全圏を見越して2倍速の1/25秒と考え、取り扱うのが賢明でしょう。それでもまったく素晴らしいことに変わりはありません。絞りで言えば3絞りも余計に絞れるのですから。

 そこでぼくには疑問が沸々と湧いてくるのです。ブレ補正機能というのは確かにありがたい機能には違いないのですが、その機能は概ね望遠ズームや望遠系単レンズに付けられています(レンズ内蔵のもの)。レンズというものは望遠であればあるほどブレやすく、また目立ちますから一理はあります。しかし、望遠レンズを多用する人ってスポーツや野鳥といった動態を写すことが多いのではないでしょうか? だとすると手ブレは起こさずに済むけれど、被写体ブレは防ぎようがありません。1/25秒では動態はほとんどがブレます。手ブレも困るし、被写体ブレも困るといった時に、ではブレ補正機能ってどんな御利益があるのだろうかと、思わず考え込んでしまうのです。もちろん山岳撮影などの静態には重宝するであろうことは想像に難くありませんが、あくまで動態撮影の場合です。
 曇天下のお子さんの運動会や室内光の学芸会などに必携と思われる望遠レンズにブレ補正機能って本当に役に立つの?というのがぼくの素朴な疑問なのです。ぼくはそのような撮影経験がまったくないので分からないのです。あくまで想像で言っているのですが、経験がなくとも理論的にはぼくの想像は正しいことになります。デジタルであればその場に応じてISO 感度を変えられますから、ISO 感度を上げれば速いシャッター速度が得られ被写体ブレを防ぐことができます。コンデジには自動的にISO 感度を上げブレ補正をしているものもあるようです。感度を上げれば上げるほど画質は劣化していきますが、何を犠牲にするかは撮影者の意図次第です。
 いささかシニカルな見方かも知れませんが、動態撮影に於いてブレ補正機能は、レンズ内蔵であろうとカメラ内蔵であろうと、無くて済むとも言えますし、ぼくにとっては無用の長物とも言えます。また、友人であるスポーツ専門のベテランカメラマンに(オリンピックの公式カメラマンでもありますが)この原稿を書くにあたって訊ねてみたところ、「う〜ん、ブレ補正機能って使ったことないなぁ。スローシャッターとは縁がない世界だしね。それより高感度特性の良いことの方がずっと大事」という返答を得ました。
 ブレ補正機能とは手ブレを軽減させるには効果のあるものですが、被写体ブレを防ぐものではありません。意外にもここを勘違いされている人が多いようです。

 そして、ブレ補正機能は三脚使用時にはOFFにしておくことです。シャッターを押して光が受光素子に届くわずかな時間に、カメラ内部では様々な機械的な動作が生じます。シャッター幕や絞りが動いたり、ミラーが跳ね上がったり、ブレ補正機能をONにしておくとブレ補正のための振動ジャイロのモーターが唸ったり(つまり微振動している)、それらが加算されカメラ内部ではかなりの振動が生じています。この振動は極めて短時間のうちに発生しますから、ブレ補正機能が反応しきれないのです。「三脚を使用したのに、なにか甘い」と感じた時はありませんか?
 三脚使用時にはブレ補正機能をOFFにし、ミラーアップのできるカメラはアップし(もちろんレリーズを使用して。レリーズの持ち合わせがなければセルフタイマーを)使えばブレによる悪作用はかなり軽減できます。

 そして三脚を過信しないことです。カメラやレンズに贅沢をしろとは言いませんが、三脚こそ贅沢をしてください。ぼくは海外ロケ用にカーボン製の(軽量のため)、それもかなりしっかりしたものを使っていますが、ライブビューで拡大した画面を見ていると空恐ろしくなります。カメラ操作をし終わってから手を離しても何秒間かはブルブルと細かく揺れているのです。みなさんもご経験があるかも知れません。ぼくは今まで10本近い三脚を使ってきましたが、どのような三脚でもブレるものです。しかし、高価な三脚ほどブレの収まる時間が短いのです。残念ながら、安くて良いものはありません。

 ブレ補正機能にしろ、三脚にしろ、ブレは写真の一番の大敵です。基本は手持ちで如何にブレを防ぐかということに尽きます。繰り返しになりますが、詳しくは第7回「シャープな写真を撮る」と第8回「ブレを防ぐための基本動作」をご参照ください。この基本をマスターできれば、上記した“はず”は確かなものとなり1/12.5秒でいける“はず”です。
(文:亀山 哲郎)

2011/11/14(月)
第76回:ブレ防止って?
 写真が撮りたくて、父にねだってカメラを買ってもらったのが小学4年生の時でしたから、もうかれこれ54年も写真に関わってきたことになります。途中中断したこともありますが、よくもまぁ、半世紀以上にわたって飽きもせず続けてこられたものだと、自分の執着心にも呆れています。

 病高じて結局この道で飯を食うことになったようですが(まるで他人事のよう)、歳を取るにつれますます写真というものが面白くもあり、愉快でもあり、また難しくもあり、辛苦でもあり、取り組めば取り組むほど分からないことが増えてきます。ぼくのような凡人には半世紀ではとても埒の明く問題ではないようですが、残りの人生を考えるほどの余裕もなく、ただ一途であればそれでいいと言い聞かせています。
 ぼくは多分200才くらいまでは生きられるだろうから、その頃にはなんとか格好のつく写真が撮れるのではあるまいかと願を掛けています。これこそ大器晩成の典型で、熟成には長い時間をかけた方が味わいもあるというものです。

 写真への衝動は、小学3年の時に病気の母を見舞うために毎週千葉県は勝浦の病院へ通っていた時でした。千葉から勝浦への車窓を眺め、流れゆく風景を写真に撮ったらどんなに面白かろうと本能的に感じたものです。その思いは募るばかりでしたが、勝浦に通うこともなくなりそれは適わぬ風景となりました。
 父は写真好きでしたからカメラを欲しがるぼくの気持ちを汲んでくれ、ある日唐突に「哲郎、カメラを買ってやろうか」と言い出したのです。父の申し出に従い、小学4年になったぼくは自転車の荷台に乗せられ浦和にあったカメラ屋(今はなくなってしまいましたが)へ連れて行かれました。「と〜ちゃん、もっとしっかり速くこげ」と呟いていたことを覚えています。
 カメラ屋でカメラに触れた喜びはなぜか思い出せないのですが、店内の鼻をつくような甘酸っぱい匂い(現像停止液の酢酸とカメラ屋の夕食時の匂いが混ざっていたのでしょう)の記憶だけが今もはっきり脳裏に焼き付いています。買ってもらったカメラは富士フィルムから発売されたばかりのブローニー判カメラのフジペットで、今調べてみると当時1950円だったようです。半世紀前の1950円って今ならいくら位なのでしょうね? ラーメン一杯が30円の頃だったと記憶しています。

 フジペット以来多くのカメラ遍歴を経て今に至るも、その割にぼくはメカに詳しくないのです。カメラは幾多の変遷を経て内蔵露出計が付いたり、一眼レフの登場とともに自動露出となったりしましたが、科学や機能の進歩による御利益(世の中ではこれを称して“便利”と言うようですが)に与り感動した試しがほとんどありません。きっとへそ曲がりなのでしょう。感動はしないけれど、あるから使ってみようかという無機的冷血漢でもあります。「無ければ無いでいい。写真はカメラと露出計だけあればすべて事足りる」と、メカに冷め切ったぼくは今でもそう考えています。

 昨今のカメラは便利な機能がたくさん搭載されていますが、画期的なものはオートフォーカスと手ブレ防止機能でしょう。ぼくの仕事用カメラはレンズにブレ防止が付くタイプのものですが、所有しているレンズではブレ防止機能の付いたものは2本だけです。それは最近購入したものですから付いているのですが、ほとんどのレンズは以前から愛用し続けているものなので付いていません。
 手ブレ防止機能のレンズをテストしてみると確かにその効用は認められます。便利なものだとも思いますが、油断をすると防止機能のないものとさほど変わりはないというのが実感です。第一、仕事では手ブレを恐れるような際どいスローシャッターを使うわけにはいきませんので、ブレ防止付きであろうとそうでなかろうと、冷血なぼくにはあまり関係がないのです。

 また、手ブレを起こすかどうかはその日の体調にも大きく左右されるもので、ファインダーを覗いた時に、「今日は調子が良さそうだから、標準レンズの50mm(フルサイズの場合)なら1/15 秒まで安全圏だ」という目安を立てるようにしています。一応はプロですから。その目安に従って実際に撮ってみてカメラのモニターを拡大して確認するようにしています。
 「今日はブレるぞ」という感の働く時は、やはり予感通りブレやすく1/30秒でもブレてしまうことがあります。焦点距離分の1秒という理論通り、1/50秒より速いシャッター速度を心がけています。
 シャッター速度の限界は個人差や修練の度合いにもよりますが、一定したものではなく、その日の体調によるところ大だとみなさんにもお伝えしておきましょう。

 ブレには“カメラブレ”と“被写体ブレ”の二種類があることはすでにご存じの通りです。被写体が静止しているものであればブレ防止機能はありがたさが増し、重宝なものです。反対に被写体が動いているものだと、スローシャッターとブレ防止が災いして被写体ブレが生じますから、ブレ防止機能を使いこなすにはそのあたりのさじ加減が必要となってきます。

 私的写真用に購入した何台かのカメラには、なぜかブレ防止機能がなく、「新しい製品なのに何でオレの買うカメラには付いていないのだ」と、鬼の目ならぬ冷血漢の目にも涙ということがしばしあるようです(とまるで他人事のように・・・)。
(文:亀山 哲郎)

2011/11/04(金)
第75回:単焦点レンズとズームレンズ(4)
 前回でズームの歪曲収差について述べました。どのようなズームでも、あるいは単レンズであっても程度の差こそあれこの収差からは逃れることができません。物が歪んで写ってしまうこの現象はレンズの大敵でもあるのですが、レンズの設計上、ズームより単レンズの方がこの収差を取り除きやすいのです。

 歪曲収差の実例を4点添付しておきます。
 カメラはキヤノンのデジタル一眼レフ、フルサイズのEOS-1DsIII。ズームは同社EF24~105mm F4L IS USMで、1例だけあげた単レンズは同社EF85mm F 1.2L USMです。なお、これは厳密なレンズテストではなく、あくまで歪曲収差とは何であるかを分かりやすくするための作例であり、レンズの優劣を検討するものでないことをあらかじめお断りしておきます。

※参考写真 → http://www.amatias.com/bbs/30/75.html

★写真:「01 / 24mmズーム」は最も広角側の焦点距離24mmで、絞りはf 5.6 です(以下f値はすべて同条件)。ご覧のように樽型に歪んでいることがお分かりでしょう。そして、ごく僅かながら樽型歪みに加え陣笠型歪みも見られます。
 このレンズは絞り開放値がf 4 ですので、1絞り絞っただけのf 5.6では周辺光量(四隅)落ちが緩和されません。絞るにしたがってこの周辺光量落ちは改善されていきます。この現象はどのようなズームでも望遠側よりは広角側で顕著に現れます。ただ一般的なAPS-Cサイズの受光素子を持ったカメラでは実画面が狭まりますのでフルサイズほど目立たないことになります。

★写真:「02 / 32mmズーム」は焦点距離32mmで撮ったものです。前回「最も歪みの少ない焦点距離を把握しておくことはズームを使う上で重要事項でもあります」と述べましたが、このレンズの場合は32mm近辺がそれに相当します。32mmを境に望遠側になるにつれ糸巻き型となっていきます。
  最広角の24mmからちょっと望遠側に移動しただけで歪曲収差も周辺光量落ちも目立たなくなりました。

★写真:「03 / 105mmズーム」は最も望遠側の焦点距離105mmでのもので、糸巻き型に歪んでいます。ですが、「01 / 24mmズーム」で見られたような周辺光量落ちは望遠側ではほとんど目立たなくなっています。

★写真:「04 / 85mm単レンズ」。F1.2 という非常に明るい大口径レンズです。単レンズとしては極めて高価なものですが、それでも完全に歪曲収差を取り除くまでには至っていません。作例では樽型歪みを示しています。ただズームに比べコントラストが高く、このような白いタイルでは分かりにくいのですが、通常の被写体では色乗りが良く感じられ、抜けの良いものとなります。リサイズ画像ですので分かりにくいのですが、周辺解像度も優れ、他の諸収差もズームと比べよく取り除かれています。

 歪曲収差を取り除くための様々なソフトが発売されています。ぼくはそのすべてを使ったわけではありませんので断定的なことは言えませんが、四角形を完全な四角形にワンクリックで補整できるものは今のところ見当たりません。視覚上、気持ちの悪くない程度に補整できるというところでしょうか。
 Adobe Photoshopは歪曲収差を補整する優れた機能を有したソフトのひとつですが、完璧に“近い”補整を試みるためには労力とかなりのスキルを要します。レンズの右と左では収差の率が異なるものが多く、とても完璧に補整できるものではありません。また完璧な補整を求められるような場面に出会うことはほとんどと言っていいくらいありません。「レンズとはそういうものだ」という一般的な認識が根づいているからでしょう。

 フィルム時代は補整のしようもなかったのですが、デジタルでは完璧にとはいかずともほとんど視覚上は目立たぬようにできますから、これもデジタルの大きなメリットだと言えます。ただ、その作業は強制的に画像のピクセル補間が行われるため歪曲収差の強く表れる画面周辺では若干の解像度が犠牲となることを忘れてはなりません。

 また一般的に人間の心情として、ズームを使うとどうしてもその両端(つまり広角側と望遠側の)を多用しがちです。その結果、撮影者の意図が薄れてしまうことにも十分留意する必要があります。加えて、一般論ですがズーム両端の描写性能は、画面周辺部に行くにしたがってズームの中間焦点距離より劣性であることを知っておいてください。

 もうひとつズームの一般的な特性として開放F値の移動があげられます。例えば「1 : 3.5〜5.6」というような表示です。これは広角側では開放値がf 3.5 で望遠側ではf 5.6という意味で、約1絞り1/3 開放F値が移動することを示しています。今回作例として使用したズームはf 4 に固定されていますが、F値の移動するズームは使ったことがないので、どういうものなのかぼくにはうかがい知ることができませんが、開放値がF 5.6 というのはいくらなんでも暗すぎて使いにくいだろうなということしか浮かんでこないのです

 「単焦点レンズとズームレンズ」は今回で打ち止めにいたしますが、上昇志向のある方は是非一度馴れたズームから離れ、騙された?と思って単レンズを使用してみてください。今までと異なった世界が見えてくると思います。
(文:亀山 哲郎)

2011/10/28(金)
第74回:単焦点レンズとズームレンズ(3)
 一般的に単レンズはズームに比べると、安価で軽く、またレンズが明るいという長所があります。もちろん、単レンズでも非常に高価で重量のあるものもありますが、それはほとんどの場合レンズの明るさ(F値)に起因しています。同じメーカーでも、同焦点のレンズに明るさの異なるレンズが何種か用意されていますが、明るいレンズ=口径が大きい、ということになりレンズの設計上諸収差を取り除くために贅沢なものにならざるを得ないようです。
 そのような理由から、1絞り明るくなっただけで2倍から3倍以上に値段がはね上がったりします。たった1絞りの差だけなのにね。

 しかし、1絞りというのは2倍の明るさを得られるということですから、暗所での撮影は有利となり、一眼レフであればファインダーを覗いた際により見やすく、マニュアルフォーカスを使う場合などは殊更ありがたいものです。また、より速いシャッター速度が使え、ISO 感度も半分で賄えますから画質の劣化(デジタルはISO 感度を上げれば上げるほどノイズが増えるなど画質劣化を招く要因となる。フィルムであれば画像を形成する粒子が粗くなる)を防ぐという大きなメリットもあるわけです。1絞りの差にどのくらいの価値を見いだし、そこに投資するかは個人の価値基準に従うべきもので、どちらがいいかという問題ではありません。
 また画質については一概に値段の高い明るいレンズであれば必ずしも常に良い結果を導き出すというものでもありません。撮影の条件次第でどちらにも転ぶというのが正直なところです。同一条件で撮り比べてみて、値段通りのものもあればそうでないものもあるという意味です。ぼくの言う“良い”とは、解像度を犠牲にせず諸収差がどれくらい注意深く取り除かれているかという意味であり、いわゆる ”レンズの味“ について述べたものではありません。

 さて、ズームについての話に移りましょう。

 今ぼくは仕事で伝統工芸の撮影をしています。何十人もの職人さんの作業過程や作品のイメージ写真を3、4ヶ月かけて撮っています。イメージ写真は当然単レンズで撮りますが、作業過程を追う撮影で大活躍しているのがズームレンズです。
 職人さんの手元をマクロ的に撮ったり、少し引いて撮ったりしなければならないのですが、職人さんの手さばきというものは前後に、左右にと驚くほどの速さで動きます。素人目には一見無造作に見えるのですが、修練を積んだ職人さんの動きにはまったく無駄がありませんから、こちらもそれに追随しなければなりません。作業現場は狭いところが多いのでこちらの身動きもままならず、いちいち立ち位置を変えながらレンズ交換をしている暇などありませんから、このような条件下はまさにズームの独壇場。仕事でズームでなければというような撮影条件はほとんどないと言っても差し支えありませんが、今回ばかりは大変お世話になっています。

 職人さんの作業リズムを保ってもらいたいので、ぼくは「そこで止めて!」という指示を出したくないのです。ぼくもまた職人さんのリズムに同期しながらシャッターを切った方が写真の統一感が損なわれずに済みますから、ズーミングをしながらどんどん撮る。こんな時ほどズームのありがたさが身に染みることはありません。

 しかし、ズームのメリットってこれだけかなぁ(とたんに歯切れが悪くなる)。撮影者が動けない場合に、パースは無視せざるを得ませんが、極めて厳密な画角を確保できるというこの一点に尽きるように思います。
 かつて尾瀬に10回ほど通ったことがあります。ご存じのように木道が敷かれており、そこ以外に足を踏み出すことができませんが、ズームが必要だと感じたことは一度もありませんでした。
 強いて言えば1本のレンズで何本分かの単レンズを賄えるというところかなぁ。カメラバッグの体積を奪われずに済み、重量も軽減できるので旅行などには(特に海外)便利でしょうね。
 被写体を大きくしたり小さくしたりできるのも確かに便利でしょうが、自分が動かずに済むということが写真上のメリットになり得るかと言えばぼくにはそうとは思えないのです。

 ズームの光学的な特徴は歪曲収差(ディストーションと呼ばれるもので、四角形が四角の像を結ばずに湾曲してしまうこと)が単レンズに比べ一般的に顕著なことです。広角側では樽型となり、望遠側では糸巻き型に歪みますが、その歪み率はズームの焦点距離によって異なります。最も歪みの少ない焦点距離を把握しておくことはズームを使う上で重要事項でもあります。
 樽型歪みとは中心部が膨らんだようになり、糸巻き型歪みはその反対に中心部がすぼまったようになることです。当然、この現象は中心部から逸れるにしたがって顕著に表れます。また、この複合として陣笠形に歪むものもあります。あるいは直線が波形に歪むものもあるのです。いずれの歪み方でも被写体の直線が曲がって写ってしまうというのはあまり気持ちの良いものではありませんね。尚ついでながら、歪曲収差はいくらf 値を絞り込んでも改善されません。

 前回も述べましたが、上記の理由により、単レンズ、ズームを問わずくれぐれも広角レンズで女性のポートレートなどお撮りにならぬようにご用心!
(文:亀山 哲郎)

2011/10/21(金)
第73回:単焦点レンズとズームレンズ(2)
 決まった焦点距離の単レンズを使用することによって「あなたの意志に従ってレンズが被写体を指し示すようになります」と前回述べました。ちょっと抽象的な表現ですので、では具体的にどのようなことなのかをお話しいたしましょう。

 若い頃は広角から望遠まで何本もの単レンズをカメラバッグに押し込み、都度レンズ交換をしながら撮っていたものです。今思い返すと、体力があったということも確かなのですが、それより自分の撮るべきものが定まっていなかったということの方が大きいように思います。重いカメラバッグを担ぎながら、接写から風景まで、あれもこれも撮りたいとレンズを取っ替え引っ替えしながら、様々なものを撮っていました。試行錯誤と言えば聞こえはいいのですが、ハゼのように何にでも食らいついていました。おかげでレンズの焦点距離による表現の違いは十分に把握できるようになりました。この時期が少し長すぎたかなという思いは残りますが、7,8年ほど前からやっと私的写真に傾注できる余裕が生まれ、撮るべき写真の方向も自ずと定まり、今誰も好んでレンズを向けないようなものを撮っています。ぼくの被写体そのものは特別目を惹くようなものでなく、身の周りにあるごくありきたりのものばかりなのですが、なぜか心を奪われるようになりました。そのようなものに的確なイメージが描ける確率が高いからなのでしょう。自分の体質に合致した、然るべく表現形態をかろうじて見つけ出したと言えるのかも知れません。
 ある焦点距離の単レンズを徹底的に使用することにより、イメージの明確化と固着化につながったのだと思います。そのレンズに適した被写体にしか目が向かなくなったことも、写真の方向を決定づけた大きな要因のようです。

 例えば標準の50mm (35mm判換算。以下同) レンズしか付けていなければ、野鳥を撮ろうとは思わないように。撮りたくても撮りようがないので諦めるでしょ? この諦めがぼくのようなハゼ人間(こんな日本語はないのでしょうけれど)には肝要でした。昔から「何事も諦めが肝心」って言うじゃありませんか。的を絞るには諦めが肝心です。「このレンズにはこの被写体は不向き! だから撮ってもダメ」と何度言い聞かせたことか。未練を残しながらシャッターを切っても、結果として写真の訴求力が弱まったり、曖昧になることはどうしても否めません。ぼくは私的写真の撮影(街中スナップが中心)ではもう3年以上もレンズ交換のできないカメラを使用していますから(28mmと35mm。35mm判換算 )、本当に諦めのよい男になっちゃいました。

 野鳥を撮ろうと思えばやはり300mm以上の望遠レンズが相応しくもあり、必要でもありましょう。しかしそんな長いレンズを振り回しながら街中スナップは撮れません(それはあたかも盗み撮りのようで、今時そんなことをすると警察に訴えられます)。接写レンズを付けていればどうしても花などの撮影が自然と多くなるものです。
 あるいは中望遠の85mm〜135mmレンズに、ぞっこん惚れ込んだ製品があれば(このクラスには名レンズと呼ばれるものが多く、光学設計にも無理がないので実際に優れた製品が多い)ポートレートに入れ込むのも自然の成り行きというものです。広角レンズで女性ポートレートをアップで撮ったら絶対にぶっとばされちゃいます。

 被写体によりあなたにとっての最適なレンズが決まるのが事実であるのなら、使用レンズによって被写体が決まってくるというのも「逆も真なり」で、あり得べきことですね。ぼくはこれを本末転倒だとは思っていません。
 自分がどのような被写体を主に撮りたいのか? そしてまた、自身の感覚に寄り添うレンズの焦点距離というものが必ずありますから、それを見いだすことも上達の大きな手立てとなるに違いありません。単レンズは意志のあるレンズで、ズームは意志のないレンズとぼくは決め込んでいます。ズームについては次回で触れることにいたしましょう。

 「第45回:街中でスナップを撮る(6)」で、スナップ写真の名手と呼ばれたカルチエ=ブレッソンを紹介しましたが、世評では彼は標準レンズである50mmしか使わなかったのだそうです。ぼくの青年時代はブレッソンを倣い50mmしか使わないというアマチュアカメラマンが多くいたようです。ブレッソンは今ではすでに伝説的な写真家となっていますが、初期の作品にはどうみても100mm前後のレンズで撮ったとしか思えないものもあります。伝説とはそういったものなのでしょうけれど、ブレッソンに心酔した当時から街中スナップが好きだったぼくには50mmというレンズはどうしても望遠レンズのように感じて馴染めないものでした。感覚的に長すぎるのです。ですから、もっぱら35mmの広角レンズを使用していました。広角レンズですから被写体に肉迫しないと構図が間の抜けたものになってしまいます。常に被写体との接近戦を強いられると同時に緊迫感が生じますから、性格的に間の抜けたぼくにはちょうどよかったのだと思います。釣り合いが取れ、相性がいいのでしょう。
 歳を取りさらに呆けてきたぼくはボケ防止のために28mmというさらなる広角レンズを愛用するに至っています。50mmのような穏やかな表現は望むべくもありませんけれど、勘所を押さえれば写真はどんどん尖鋭化していくようです。年甲斐もなく・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/10/14(金)
第72回:単焦点レンズとズームレンズ (1)
 以前に単焦点レンズ(以下単レンズ)とズームレンズ(以下ズーム)についてちょっとだけ触れたことがありますが、この複雑多岐にわたるテーマについてすべてを語ろうとすると、多分10回の連載ではとても書き切れないだろうと思います。要領の悪いぼくのことですから20回くらいにはなってしまうだろうという恐怖が頭をもたげます。今回掲げたテーマにしても「単焦点レンズ vs. ズームレンズ」とすると意味合いがかなり異なってきますので、焦点が絞りにくくなってしまいます。
 “vs.” などとスポーツのような対決ではあるまいし、それではいささか大仰なので「単焦点レンズとズームレンズ」とし、今日はそれぞれの利点について順を追って ”簡潔に“ 述べてみたいと思います。

 今日このテーマを取り上げたのは、期せずしてぼくの写真クラブの人からのメールによるものでした。このようなことが書かれてあったのです。
 「ズームに馴れきってしまった身には、単レンズの使用は当初不便さと戸惑いを覚えましたが、構図を整えたりする時に自分の立ち位置なども含めて、技術的なことにも考えを巡らさなければならないということに気づきました。おかげで写真の面白さがいっそう増したように感じています」とのことでした。まだ親しんでいない単レンズで撮った写真を何枚か添付してきて、写真評をして欲しいというものでした。

 昨今はズーム全盛ですし、その性能も一時代前のなまくらさに比べると目を見張るものがあります。単レンズと比較しても決してひけを取らないというものがちらほらと出始めました。ごく一部の製品に限ってですが、ぼくは単レンズ絶対優位という神話が崩れつつあることを身をもって体験してしまったのです。
 ぼくの写真クラブの人たちも初めの頃は誰もがズーム一点張りという状況でしたが、2,3年前から彼らに「騙されたと思って、何mmでもいいから一度単レンズを使ってごらん。無償レンタルするから」と事あるごとにささやき始めたのです。殊勝にもそれに呼応して何人かの人たちが単レンズを使い始めました。あるいは伸び悩んでいる特定の人に対して、少し強い口調で「ズーム禁止令」、「モノクロ禁止令」、「標準レンズ以外禁止令」を発したりと、ぼくは処方箋男になりつつありました。禁止令男でもありました。あれをしてはダメ、これをしてはダメと、これでもけっこう大変なのです。
 ここだけの話ですが、ぼくはズームばかり使っている人が単レンズを使うとどうなるか? つまり、単レンズを使うことにより写真表現が変化したり、あるいは上達が望めるという自身の信念めいたものを基盤に、その興味と実証のために嬉々として人体実験に取りかかったのでした。生徒たちをモルモットにしてみようと。ある意味で確信犯なのですが、これは愉快な犯罪?であって、ナチスのJ.メンゲレとは質が異なりますので、どうぞ誤解なきよう。

 モルモットたちの、もとい、素直な生徒たちの結果はどうであったでしょう。最も多い意見は、「気が楽になりました」というものでした。「気が楽にってどういう意味で?」と問うと、「ズームだとあれこれ迷ってしまうけれど、単レンズだと自分が動けばいいだけということに気がついたのです。あまり迷わずに撮影に集中できるという意味の気楽です」という答えが判で押したように返ってきたのです。ズームを“横着レンズ”と半ば揶揄していたぼくの気持ちを少しは理解してくれたようです。単レンズは“お気楽レンズ”とも言えましょう。
 次なる報告は「画角やパース(遠近感)が少しずつ身についてきました。50mm(標準)レンズだとだいたいこの範囲が写って、こんな遠近感になるということも分かってきました。被写体との距離が取りやすくなりますね。35mm(広角)を使うと主被写体の大きさが同じでも、背景の感じがずいぶん違うということにも改めて気づかされました」と。ぼくは我が意を得たりと内心博多弁で(ぼくは九州男児と京女のハーフという雑種)「そ〜やろ。わしのゆうっちおりやろ。ズームでは、なしてもここの分かりにくかとですけん。(でしょう。ぼくの言うとおりでしょ。ズームではどうしてもここが分かりにくいんだよね)」と人体実験の成功を心密かに喜んだものです。

 彼らの撮ってくる写真を月に一度見せてもらうのですが、単レンズ使用の副産物として主被写体の画面に占める面積比が多くなってきたことに気づかされます。ぼくが執拗に「もっと被写体に寄って!」と言い続けてきたことが、徐々に達成でき始めたのかなとも感じています。ズームを使うことにより構図にばかり配られていた神経が、単レンズを使用することにより被写体をよりよく観察し、それに多くの時間と神経を費やすことに取って代わったからだとぼくはほくそ笑んでいるのです。

 ここまでが単レンズを使いこなすための基礎なのです。単レンズのおおよその画角やパースが身についたら(完全であるにこしたことはありませんが、ある程度でかまいません)、実はここから先が単レンズ使用の本領発揮となるのです。それはあなたの使用する単レンズが被写体を選ぶようになるということなのです。ぼくはこれが単レンズ使用の最大の利点として捉えています。言い換えれば、あなたの意志に従ってレンズが被写体を指し示すようになります。具体的には次回にご説明しますが、ぼくは今、誰をモルモットにしようかと虎視眈々とその機をうかがっています。ここだけん話なんやけど(再び博多弁で)・・・。
(文:亀山 哲郎)

2011/10/07(金)
第71回:オートフォーカス
 前回、“全自動の功罪”というテーマで露出を決定する絞りとシャッタースピードの関係、それに伴うISOについて述べましたが、今回は”功罪“とまでは言い切れないオートフォーカス(以下AF)について思うところをお話ししたいと思います。

 AFの機能や方式、歴史などについては触れませんが、ご興味のある方はWebなどを参照してください。Webの苦手なぼくは(今Web用原稿を書いてるくせに)、ネットでいろいろなことを調べるという行為が未だに馴染めずにいます。それは、「ひとつの物事を知るには、最低でも20冊くらいの書物を読まなければその概要は把握しがたく、お手軽に手に入れられる知識は所詮その程度のものでしかない」という考えを持っているからです。まぁ、古風と言えばそれまでですが、「全自動」同様にお手軽さは失うものや気がつかずに通り過ぎてしまうものがあまりにも多く、物作り屋のぼくはそれが恐いのでしょう。Webは常に受動ですから思考不全に陥りやすいとも言えます。
 ですから自分の実体験に基づくことに加え科学的な裏付けと検証のないものは信じないという片意地を張っています。

 記憶では、AFカメラが市場に現れたのは今から30数年前のことで、ぼくがまだ編集者だった頃です。それは「ジャスピンコニカ」という名称で、編集部でもちょっとした話題になりました。ぼくは実際に使ったことはなく、それがどの程度の精度を保っていたのかはよく知りませんが、当時は「そんなものがなぜ必要なのか?」という疑問の方が強かったため手にする機会がなかったのだと思います。ぼくが当時主に使用していたカメラは35 mm判ではライカM3、M4と一眼レフはライカSLIIとニコンFを併用していましたから、もちろんマニュアルフォーカスですし、AFの必要性など考えたこともなかったのです。プロになってからはキヤノンのNewF1を常用していましたから、やはりAFには縁がありませんでした。

 ぼくがマニュアルフォーカスの限界を感じたのは、某テレビ局でドラマの撮影を2年ほどしていた時でした。スタジオ撮りはタングステン光源(白熱灯)で、局から支給されるフィルムはコダックのタングステン用リバーサルフィルムEPT。感度はISO 160でした。スタジオの光量はビデオ撮りには対応できても、静止画にとってこの感度はとても辛いものがありました(三脚は使用禁止)。暗いスタジオのライティングではシャッター速度が遅くなるため、手ぶれや被写体ブレが生じてしまうのです。特に夜のシーンなどでは悲鳴どころか仲間のカメラマン同士で肩を叩き合って泣いたものです。しかし、この経験が後々非常に役立ったことは言うまでもありません。
 役者の動きを止めるためにはとにかく明るいレンズが必要と思い、ぼくはキヤノンのFD85mm F 1.2 というとてつもない大口径レンズを奮発しました。さすがに絞り開放のf 1.2 で使う勇気はなく(レンズ開放ではどんなレンズでも解像度やコントラストが甘く、周辺光量もかなり落ちるため)、f 1.4 〜 2くらいの間で使用するのですが、それでもこの絞り値による被写界深度の浅さに、暗所ではなかなかピンが来ず、役者のアップなどは本当にまいりました。

 2台のNewF1は海外ロケでも大活躍してくれ本当に丈夫なカメラでしたが、プロの過酷な使用にあちこち凸凹となり塗装も剥げちょろけ。いよいよガタが来はじめて、ボディとともにレンズの総入れ替えを決意しました。そこで新調したのが初代EOS-1で1989年のことです。ぼくは初めてAF機を手にしたのでした。
 後にEOSマウント用のEF85mm F 1.2 を購入したのですが、開放で使用するとその被写界深度はまるでカミソリの刃ように薄く、マニュアルフォーカスでは思ったところにピントを合わすのは困難でした。まつ毛にピントを合わせても眼球には届かないというくらい被写界深度が浅いのです。ところがAFを使うとしっかりピントをつかんでくれることに気がつき、その時初めてAFのありがたさをまざまざと感じたものです。

 近年、AFの精度も格段によくなりましたが、しかしAFで合焦したものがいわゆる「ジャスピン」だと勘違いしている人がほとんどではないでしょうか?「ジャスピン」の確率はカメラやレンズにより一概に何%ということはできませんが、いつでも「ジャスピン」ということはまずあり得ません。レンズ毎にAFの微調整ができるプロ仕様のカメラもありますが、ぼくはその微調整機能すら信じていませんし、使用したこともありません。現在の仕事用カメラはEOS-1DsIIIで、AF精度はきわめて優秀ですが、厳密なテストをしてみると極々微細なピントのズレが認められることがあります。絞り開放で使うことはありませんので、そのわずかなズレは被写界深度が補ってくれますが、プロ仕様のカメラですらピンズレが生じますから、コンシューマー用のカメラは言を俟つまでもありません。
 私的写真ではAFは煩わしいだけなので使うことは滅多にありませんが、道具というものは使用目的に合わせて使うことにより、初めて利用価値があるのですね。そうだ! 今は「手ぶれ防止機能」なんてのもあるんでしたね?
(文:亀山 哲郎)

2011/09/30(金)
第70回:全自動の功罪
 写真と言えばデジタルが一般的になりましたが、ぼくも長年多くの仕事を請け負ってきて、昨今はさすがに「フィルムでお願いします」という依頼はすっかりなくなりました。写真と言えばデジタルが当たり前という世の趨勢に、フィルムは一握りの好事家だけのものになりつつあるような気がします。“好事家とは”という分析はしたことがありませんが、ぼくの身の周りでは写真好きの若人とご年配の方々に限られます。
 今までこの「よもやま話」で何度か申し上げたように、ぼくは「写真はフィルムでもデジタルでも、どちらでもいい。その選択には頓着しない」という立場に変わりはありませんが、デジタル周辺機器の目覚ましい科学的進歩に、そろそろフィルムでなければならないという必然性を失いつつあることに気づきます。ぼくは特に暗室作業を重視するタイプですから、アナログではなかなかできなかった精緻かつ精密な暗室作業はデジタルの独壇場と言えるかも知れません。

 双方の長所短所を今日ここで述べるつもりはありませんが、アナログ時代に制作した自分の作品を眺めていると、少なくとも科学的な見地からはデジタル優位は揺るぎのないものと受け止めざるを得ません。デジタルのモノクロ化にしても、ヨーロッパ製の良くできたいくつかのソフトを併用すれば、その多様な表現力と変幻自在さに於いて、もうフィルムの出番は失われてしまったと言っても過言ではありません。もちろんカラー写真に於いてもしかりです。
 ただ印画紙の保存性に関しては、欧米のごく一握りのデジタル印画紙を除いて、まだまだアナログの印画紙には敵いそうにありません(あくまでも適切な処理が施されたもの)。残念ながら国産のデジタル印画紙の保存性も大いに改良の余地が残されているように思います。

 よく「デジから始めた人に写真を教えるのは大変でしょう」と言われることがあります。ぼくはその意味するところにどうも理解が及ばないのですが、確かにデジから始めた人=最近写真を始めた人と捉えればある程度その文言は理屈が通ります。最近のカメラは全自動ですから、写真の原理や理論を知らない人でも、シャッターを押せば取り敢えずはなんとか写ってしまう。しかし、それは最近のカメラがそうなのであって、デジタルだからではないでしょう。
 露出もフォーカスもISO 感度までもが、カメラが勝手にお決めになってしまうので、原理など知らなくてもそれで済ますことができてしまいます。基本を学ぶ隙をカメラが与えてくれない。したがって、写真を撮る上で最も大切な事柄のひとつであるシャッタースピードと絞り(f 値)の関係、それにISO がからんでくるとすっかりお手上げ状態となってしまうらしいのです。

 友人の大手出版社の写真部長がこんな興味深い話をしてくれました。入社試験で、例えば「カメラの露出がISO 100でf 5.6 、シャッタースピード1/250秒を示しました。もう少し被写界深度が欲しいのでf 11 にしたら、同露出を得るためのシャッタースピードはいくつになるでしょう? また、同露出で焦点距離200mmの望遠を使用したいのだがその場合安全なシャッタースピードを得るためにはISO感度をいくつ以上に設定すればいいでしょう?」という問題の正解者は、例年決まって5〜7%なのだそうです。写真部を受ける人たちですから、ほとんどが写真専門学校の生徒だそうです。
 ぼくはこの話を聞いてびっくりというより腰が抜けそうになりました。学校は何を教え、また何を学ぶのかは別問題としても、写真の基本中の基本がまったく理解できていないという現実に唖然としてしまったのです。きっと、初めて手にしたカメラがデジ、フィルムを問わず、全自動なのでしょう。

 念のために正解を記しておきます。絞り優先時の場合、f 5.6 をf 11 にすると絞りの面積比から受光素子の受ける光量は1/4 となり、シャッタースピードは4倍の光量を与えねばならず1/60秒となります(厳密には1/62.5 秒)。絞りを変えれば自動的にシャッタースピードがそれに応じて変化します。
 200mm の望遠レンズで1/60秒では手ぶれの危険性を免れません(あくまで手持ちの場合)。最低でも1/200秒以上のシャッタースピードが要求されます。
ISO 400なら1/250秒となり、正解は「ISO 400以上」です。
 この理屈が理解できずに写真学校を辞めてしまう生徒もいるとか。

 ぼくの教える写真クラブにも、露出補正-1/3(-0.3) を1絞りと勘違いしていた人がいました。8年間も在籍し、何度もこの講義をしているにも関わらずです。この事実は最近露見したことなのですが、怒りを通り越してぼくは言葉を失ってしまいました。茫然自失。どの様な矯正施設に送ればいいか、本気で考え込んでしまいました。露出制御は常時マニュアルにして(強力接着剤で固定して)、単体露出計を貸し与え、一から出直しを図ることしかぼくには考えが及びませんでした。
 それでも、全自動カメラは写ってしまいますから、なんてありがたく、おめでたいことなのでしょう。

 写真は技術で撮るものではありませんが、しかしある程度、理論的なことを理解し使うことができなければ表現の応用は利かず、すぐに限界が見えてしまいます。全自動の便利さを否定するわけではありませんが、良い写真を撮ろうとするのならメカニズムについての多少の理解はやはり欠かせぬことなのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/09/26(月)
第69回:フィクションとノンフィクション(4)
 今回で「フィクションとノンフィクション」は4回目となってしまいました。当初このテーマは2回で切り上げようと思っていたのですが、要領の悪さも手伝ってか言い残したことがたくさんあるように思え、こんなことになってしまいました。いい加減にして次のテーマに移ろうとパソコンを立ち上げたのですが、まだ未練たらたららしいのです。途中からなんとか切り替えたいと思っていますが、どうなることやら。

 読んで字の如く「写真は真を写す」ということを否定するためにお話ししているわけではなく、写真の持つある一面をお話ししたいとの思いで続けてしまったようです。虚構の世界に遊ぶという高尚な(?)趣味をお持ちの読者諸兄に、写真世界の魅力に惹かれ、どんどんその深みにはまっていただきたいとの一念がそうさせたのでしょう。そして、自己弁護のために。

 ぼくは時々こんな質問をされることがあります。「どうしてかめやまさんは虫食いのキャベツや腐りかけた野菜、しおれた花を撮るの?」って。
 「美味しそうな野菜や花ざかりより、そういうものに惹かれるから、ついつい夢中になって撮ってしまうんです。だってそれがぼくにとって美しいと感じるからね」と、それしか答えようがないのです。
 歳とともに被写体に対する感情が変化していくことは確かなことですが、ぼくは若い頃から比較的被写体の吟味についてはそれほど変化がないと思っています。

 何ごとにも表と裏があり、それらが各々に独立して物が成立することはありませんから、それがつまり表裏一体ということなのでしょう。事物や事象というものは陰と陽とか、美と醜、善と悪といった相対する物をすべて同時に含有しているのだと思います。そのどちらかに惹かれるのは、各人各様でしょうが、ぼくの場合は幼児体験に基づくものと、そして大げさに言えば自己の価値観であったり、イデオロギーに負うところが大きいような気がします。
 裏や陰、醜に惹かれるのは現実を直視することに直結していると感じ、また世の中のリアリティを肯定しそれを受け入れることで、真実が見えてくるような気もします。リアリティの直視を避けたところには憎悪と誤解、無知が生じやすいような気がしてならないのです。
 人は誰でも陽・表・美だけに目を向けたがるのは人情として自然なことだと思います。癒しを求めるのもこの混沌とした不安な世にあって、また未曾有の大災害にあっては特に自然の成り行きのようにも思えますが、ぼくは癒しより現実の直視とそれを素直に受け入れることにこそ救いがあるように思うのです。
美醜や表裏の優劣はありませんが、事物や事象にどう対峙しイメージするか、その段階で、つまり人格や知性の表出としての普遍的な美の存在がそこで決定されるのだと考えています。

 9.11(米国同時多発テロ)の写真を撮った写真家はたくさんいますが、ぼくはアメリカの報道カメラマンであるJ. ナクトウェイ(James Nachtwey)のものが傑出したものであるように思います。写真分野に関係なく今ぼくが最も高く評価している写真家でもあります。世界中の戦場や飢餓地帯、難民キャンプなどを撮影していますが、目を背けたくなるような写真に彼の全人格が投影され、また反映されています。人間性への犯罪、憎悪というものを真正面から受け入れ、その画像は報道写真の枠を飛び越え、写真として非常に美しいものです。表現手段というものは、人は自己を投影できるものを選択するものです。彼の作品に奥行きを与えているものは生半可な人間愛などではなく、正義感でもなく、想像や発見の大きさ、多さなのでしょう。そこで初めて醜の中の美、善に宿る悪が見えてくるのだと思います。
 これはフィクションでしょうか? それともノンフィクションなのでしょうか? ぼくがそれを論じるのは、それこそ野暮というもの。
 ご興味があればナクトウェイのHPをご覧ください。
 http://www.jamesnachtwey.com/

 写真には直接関係がありませんが、ナクトウェイ同様の視点で捉えた9.11に関する優れた書物を読んだばかりです。L. ライト ( Lawrence Wright) 著『倒壊する巨塔』( 原題 ” The Looming Tower ” 白水社刊)で、そこに写真論は書かれていませんが、写真を撮る者にとってプロ・アマに関係なく、含蓄にあふれた読み応えのある書物でした。

 あなたの部屋をどのようなカメラでもかまいませんから広角レンズ(お持ちであれば)で撮ってみてください。その画像はあなたの普段見慣れた部屋と比べてどうでしょうか? ほとんどの場合、ほんのちょっと、あるいはかなりきれいに写っているのではありませんか? かく言うぼくの部屋など印画紙と意味のない書類や書物で埋め尽くされ、さながら新聞社や雑誌社の編集者の机のように様々なものが咲き乱れ、とてもきれいだなんて言えるものではありませんが、今16mmの超広角レンズで撮ってみると、なんだか様になっているのです。
 また、昨夜台風の新宿は荒木町の飲み屋で大手術をしたばかりの人の手術跡を撮りました。現実よりはるかに生々しく写っていました。
 片や現実よりきれいに、片や現実以上に現実的に。う〜ん、写真ってなんだか分からなくなってきました!!!
(文:亀山 哲郎)

2011/09/16(金)
第68回:フィクションとノンフィクション(3)
 話が紆余曲折し、しかも錯綜していますので読者諸兄には申し訳ないと思いつつも、ぼく自身が物事を筋道立てて論じたり、思考したりすることには極めて不向きなタイプですので(左脳に著しい欠損があるもよう)、それについてはどうかお目こぼしを願いたいと思います。

 野に咲くひまわりでも、生け花でも、それをキャンバスや印画紙に再現する際に、写実性という意味では、作者自身にとってはどこかに真実があったとしても、それを鑑賞する側は果たして作者が表現しようとしている真実を感じ取れるものでしょうか? そうとは必ずしも言い切れないように思います。たとえそれが図鑑的と称されるような絵や写真であったとしても、そこには前号で述べたように人間やそこに介在するもの(紙やインクやモニター、多種多様な光源などなど)という幾通りものフィルターを通して初めて我々はデフォルメされたひまわりを認識することになります。

 そしてまた、ひまわりの実物を同条件でAさんとBさんが眺めても、同じように感じているかどうか(感情や思想的にではなく、視覚上)という保証などどこにもありません。科学的にも実証できない事柄でしょう。余談ですが(余談が多いんだってば)ぼくは乱視が強く裸眼では横の線ははっきり見えるのですが、縦の線がぼやけてしまいます。それを眼鏡というガラスを通すことにより光学的な補正がなされ、初めて物の輪郭などがはっきり識別できるわけですが、あまりしっかり補正しようとすると(少年時代の視力1.2〜1.5くらいに)乱視の補正というものは、今度は逆に物が歪んだり傾いたりして見えてしまうのです。洗顔の際に洗面台が傾いて見え、慌てて眼鏡店に駆け込んだことがあります。
 職業柄、水平・垂直を正確に見極めなければならない時があり、それは撮影上大きな障害となってしまいます。できる限りそのような現象を避けるために、ある程度のところで妥協して眼鏡の度数を調整してもらっていますが、おまけに近視と老眼が仲良く同居していますので、幼児用語で言うならば“ガチャ目”なのです。近年は眼精疲労による“かすみ目”も加わり時折ソフトフォーカスとなり、ついでに両眼の視力が異なっていますので、ここまでくると“ガチャ目”を通り越して、真に悪辣でグロテスクな眼球と言えます。

 ぼくのようなガチャ目や、世の中には色の判別に不自由な方もおられますので、本当に物の見え方は百人百様なのだと思います。
 眼球(水晶体やガラス体)の形状や大きさも同一ではなく、脳につながる視神経の性能(?)も異なりましょう。人の網膜には大型カメラのように被写体の天地左右が逆になって写されており、人間の目(脳)というものはその逆像が一分の狂いもなく正像に見えるようにちゃんと取り計らってくれています。まさか物が逆さまに見える人はいないでしょうが。

 レンズの焦点距離により(広角レンズ〜望遠レンズに至るまで)遠近感や視野角が異なり、色もフィルムや受光素子の違いにより異なって表現されますから(感色性)、人間も個人個人により差異のある眼球を持ち、それぞれに異なった受け取り方をする(ここでは精神的作用ではなくあくまで視覚的な見地で)に違いないと医学の素人であるぼくなどは考えてしまいます。しかし、人の目の性能は、写真レンズという非常に冷徹かつ冷厳な振りをしたとんでもなく出来損ないの代物からすれば、比較にならぬほど高品質・高性能の優れものです。
 はるかに高品質な人間の目が認識すると同じように写真が再現できないのは当たり前のことと思われがちですが、にも関わらず不思議なことに、本当に不思議なことに写真は目で認識した物を実際より美しく、ドラマチックに表現してしまうことがままあるということなのです。
 写真とは、実物よりも綺麗に、そして美しく。時には幻想的に。時には抽象的に。そしてまた、現実世界よりもリアリティを持って。あなたの生きた歴史の刹那を輪切りのように抽出し、表出させることでもあるのです。
 ここに怪しく妖艶な写真の魅力があります。写真の好きな人々は、この虚構の美に魅了され、虜となってしまうのでしょう。フィクションの世界に漂うことに酔いしれるのだと思います。

 商業写真(雑誌やカタログやパンフ、ポスターなど)はこのような性質を持つ写真作用を最大限に活かし、消費者を獲得し、消費者は冊子であれWebであれ、居ながらにして欲しい商品を選ぶ目安とするのです。
 また、美術展などの図録は、美術史家の研究用資料を対象としたものでない限り、撮影者の主観に委ねられ(ある程度ですが)実物より美しく表現されていないと価値がありません。売り物にならないというわけです。第67回の冒頭で触れたように、ゴッホの描いた実物を見てちょっとがっかりしたと言う友人に対して「写真に従事している者であればその文言が不思議なことでも、不可解なことでもなく」と書いたのは上記のような理由によるものなのです。彼の審美眼はやはり確かなものだったのです。常に実物の絵より写真の方が見応えがあるという意味ではありませんので、その伝曲解なさらぬように。

 写真作用の活用は私的な写真でも同様です。商業写真と大きく異なるところは主観的要素の大きいことで、表現の制約がなく作者の自由度があることです。ただこの自由度という言い方が曲者で、何をどう表現しても良いということではありません。そこには普遍的な美が宿っていなくてはならず、そのようなルールに厳粛に従ったものでなければならないでしょう。そうでないものはただ唯我独尊に他ならず、奇をてらったものや、あざといものや、一時的な思いつきや、すぐに飽きのきてしまうものや、それらすべては品性を欠いたものだよと、虚構の世界とはいつだって品位を求められるものなのだよと、ぼくはいつも自分に言い聞かせているのです。
(文:亀山 哲郎)