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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2010/11/26(金)
第28回:がんばれ、男衆!
 前回「デジタルの恩恵に泣く」の一部を述べましたので、今回はその2として、“デジタルとはなんぞや”ということに触れてみたいと思います。それは相当な範囲に話を広げかねませんので、小分けしながら(小出しではない)述べていきたいと考えています。
 ただし、その前にお断りしておきたいことは、ぼくは、一カメラマンであって、学者や学究の徒ではなく、したがって、デジタルの科学的な解析や、あるいは学術的な解説には疎いのだということをご理解ください。手早く言うと、「その方面にはあまり鋭く突っ込まないで」と懇願しているわけです。

 大型量販店のカメラ売り場などでよく見かける光景は、ご年配の方がなにか人生の重大な悩み事を隠すように、ちょっと眉間にシワを寄せながら、後ろ手に組み、じっと佇んでいるとういう姿です。察するに、「どのカメラを購入しようか?」という以前の問題が、かなりの重大事として横臥しているように思えてなりません。それは「私にはデジタルは無縁なのだが」とご自分に言い聞かせながらも、反面、長年写真に親しんできて、新しいものに抵抗感がないわけではないが、どうも気になって仕方がないので、カメラ売り場を徘徊せずにはいられないという喜歌劇というか悲歌というか哀歌を奏でているようにもお見受けできるのです。眩惑し逡巡しながら、多岐亡羊の感ありというところでしょうか。

 彼らは決して保守派の論客ではないのですから、誰かがポンと背中を押してあげさえすればいいのです。それで意外とすんなりデジタルに移行できることがままあるように思います。確固たる保守派(取りあえずフィルム派としておきましょう)は、今迷いのない人生を送っておられ、眉間にシワなど寄せずに、背筋をピンと伸ばし、かくしゃくたる姿でフィルムカメラ売り場に直行。顔貌も姿勢も異なり、それは一目瞭然で、何事も順風満帆と言ったところでしょうか。

 迷い派は、「デジタル=パソコン=むずかしい=手に負えない」という手順をまず勝手に踏んでしまうようです。「デジタルだと、パソコンを覚えないとならんでしょう」というのがお決まりの科白で、自己暗示をかけようと盛んにぐずっているのです。ぼくの周りの年配職業カメラマンでさえ、「デジタルになってカメラマンを辞めました」という気の毒というか潔いというか、そのような人たちが何人もいますし、またそういった類の話には事欠きません。世の中、猫も杓子も(失礼!)デジタルなのに、そのような話を聞くと、「なぜ、ご同輩!」という気持ちに駆られてしまうのです。

 翻って、ぼくのような“新しいもの好きのおっちょこちょい”でさえも、総じて女衆の方がずっと我々男衆からみると、柔軟かつ進歩的で、新しいものには対応力があるようです。辛抱強く、また大胆不敵で活殺自在、なんていうと叱られるちゃうかな? なかなか手強いですね。

 「女性はメカに弱い」なんて言いますが、若い頃のぼくは、「そうじゃないよ、ただ依頼心が強いだけだ」なんてことを言って憚らなかった。きっと強がっていたんでしょうね。ですが、昨今女性写真愛好家を間近に眺めていると、その考えを修正せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。
 男は物事を理論的に考えようとする傾向があり、また女は感覚的に捉えようとする傾向があることは否めませんが、しかし、こと写真に関する限り女性であることの方が、利点が多いのではないかと考え始めています。男は確かに肉体的に有利であるがために、重いカメラバックや三脚を担いだりすることはできますが、だからと言って、それが良い写真に直結するわけではありません。そこのところが、実はここだけの話、悔しくて夜もおちおち眠れないのです。男とは妙な性を抱えているものです。

 で、話は戻りますが、女性は依頼心が強い(ま〜だこだわっている)が故に、素直にぼくの言葉に従ってくれます。この件に関してだけは、ぼくを信用しているようで、したがって上達が早いのです。これは決してぼくがエライのではなく、彼女たちがエライのです。これが真相であるだけに、なおさら悔しいわけです。
 女衆は、「今はデジタルの時代なんだから、デジタルで撮るしかないでしょう! カメラもデジタルカメラに決まってます!」とまぁ、男らしく、そういう啖呵を切ってくるんですね。

 それに比べると男はどこか女々しいですね。ぼくも含めてなんですが、過去のことを掘り返し、引きずり、「昔はよかったね」なんて慰め合っているんだから、行く先が案じられる。意味のない“こだわり”や“美意識”にしがみつき、ついては素直になれず、なかなか上達もままならない。悔しさ紛れにカメラやレンズにウンチクを傾けようと躍起になっちゃう。挙げ句、「女はメカ音痴だからなぁ」なんて捨て科白を残しながら・・・。

 どこからどうやってご年配男衆の背中をポンと押そうかと、思案しながら書いていたら、余計なことばかり書いてしまって、こんな字数になってしまいました。

 次回は押します!
(文:亀山 哲郎)

2010/11/19(金)
第27回:デジタルの恩恵に泣く
 先日、撮影と遊びを兼ねてぼくの主催する写真集団とともに一泊二日で軽井沢へ行ってきました。言ってみれば、軽井沢強化合宿というところです。紅葉はちょうど1週間ほど前に盛りを終えていましたが、まだまだその残滓も多く、また道には落ち葉が敷かれ、カラ松の香りに包まれて、その風情を堪能してきました。
 紅葉目的の撮影ではありませんでしたが、盛りを過ぎてもやはり紅葉というものは撮影意欲をそそるものらしいですね。“らしい”と言うのは、ぼくはいわゆる風光明媚なものに敢えてレンズを向けようとするタイプの写真屋ではないからです。「ああ、きれいだなぁ」と感嘆しつつも、肉眼で鑑賞するだけで美に対する欲求が満たされるのでしょう。そういう言い訳をしながら素通りしてしまうのが常です。「誰か撮っておいて!」なんてね。非常に横着と言えば横着なのでしょう。

 もともと、ゴミや薄汚れた看板、そこに漂う人間のたたずまい、そして人物スナップを通して、いかに自分の思想や姿をそこに投影させ、美しく表現するか、ということに固執し、血道を上げるタイプの写真屋ですから、コマーシャル・カメラマンでありながらも自分のエゴに気を奪われてしまうのです。無論、仕事の撮影ではそうはいきませんけれど、いつの間にかその反動みたいなものが身についてしまったのかも知れません。

 昨年、創業115周年を迎えた軽井沢の老舗ホテルで、ぼくは10年近く仕事をさせてもらいました。料理や施設をはじめとする紹介パンフレットやクリスマスなどのイベントのための撮影ですが、今風のコンクリート+蛍光灯のホテルではないために、そのライティングには特に気を遣ったものです。
 黒光りをした木造建築にタングステン光が使われていますから、その温かく重厚な雰囲気をフィルムに定着させないといけない。当時まだデジタルはなく、フィルムですからそのまま撮ってしまうと、喩えタングステン用フィルム(3200ケルビンを基準としたフィルム。ケルビンとは色温度の単位)を使ってもなかなか色温度が合わず、思うような発色を得られませんでした。とても一筋縄ではいかないわけです。もちろん、フィルムは印刷用途ですから、ポジフィルム(スライドフィルム)です。色温度に非常に敏感に反応します。ぼくはコマーシャル・カメラマンですから、仕事の99%がポジフィルムでした。

 大型カメラの4 x 5インチか8 x 10インチフィルムで撮るわけですから、どうしても自然光では弱すぎて(露出時間がかかり過ぎる)、スタジオ用の強力なストロボが必要になってきます。
 ストロボ光は太陽光に近い色温度(5500ケルビンが基準ですが実際には6000ケルビン前後)で、しかも室内の自然光はタングステンですから(つまりミックス光)、どのようにフィルター調整をして、しかもストロボ光とタングステン光の割合をどうするか、そしてストロボにはどんなゼラチンフィルタをかけるか、その複雑極まる計算などぼくの粗末な脳みそではとても消化できるものではありませんでした。色温度計は一応の目安にはなりますが、それを信じてしまうと後で泣くことになります。「信ずる者は救われない」のです。

 大型カメラですから、絞り値がf 45 とかf 64を使うことになり、当然露光時間も何十秒〜何分という単位でかかります。フィルムというものは相反則不軌というやっかいな問題を抱えており、露出通り(計算通り)にフィルムが反応(感光)してくれません。そういう問題を抱えての撮影でした。

 回を重ねていくうちに、あがったポジフィルムをクライアントに見せながら、心うち、「今度はどうやって、クライアントを洗脳(はっきり“誤魔化す”と言いなさい!)するか?」という知恵を身につけていきました。
 「いいねぇ〜、うまくいったねぇ〜、最高じゃ〜ん!」なんて、心にもない言葉が次から次へと出てくるようになってしまったのです。つまりぼくは堕落し、落ちぶれていったのです。ぼくはそんな人間じゃなかったはずなんだがと、後ろめたさだけが心にこびりついたものです。

 老舗ホテルの雰囲気満点のダイニングルームで夕食を終えた我々は、お客の引けた後、実技指導夜の部としてこの場をお借りすることにしました。もちろん自然光はタングステン光源です。この場の雰囲気を逃さずにどう撮影するか、という技術的な指導です。

 まず三脚にカメラを据え、レリーズをつける。全員がデジタルカメラです。ぼくは、「ん? あれっ! フィルタって要らないんだよね」ってことに気づいたのです。厳密に言えばデジタルでもフィルタが必要な場合もありますが、デジタルのメリットを十分に活かそうと試みる方がずっと賢明というものです。

 ほとんど指導することもないのですが、基本的なことだけを指示しました。「ISO 100。f 8〜11。ピントはここに合わせる。露出はまずノーマルで。ヒストグラムを見ればOK! それでやってごらん」。あまりのあっけなさに、ぼくは自分の存在意義を失って、しばし狼狽しながら、言葉が出ませんでした。

 レンズはAPS-C用の10〜22mmズーム故、ピントの合わせ場所さえ間違えなければf 8〜11まで絞り込まずに済むのですが、周辺の解像度が甘くなったり、流れたり、その他の収差をできるだけ防ぐための絞り値です。それはぼくの所有するレンズではありませんので、実際のところどのくらいまで絞れば収差が防げるのかは使用している人にしか分かりようがありませんが、多分、所有者も把握していないだろうと思われます。

 モニタで撮影した写真をのぞき込んでいた写真学校生の可愛い娘が言うに、シャンデリアが白く飛んでしまっているのが気に入らないというので、「では−2絞り補正で撮ってごらん」というと、食欲を満たされた彼女は非常に素直にぼくの言うことを聞きました。ノーマルで撮った部屋と−2補正で撮った照明を後でPhotoshopを使い、合わせるのだそうです。ぼくもそのような操作をすることはありますがしかし、なんてデジタルってやつは、安易なことか(この場合良い意味で)。文明の利器って言うんですかね。

 ぼくはフィルム時代の修行僧のような難行苦行を、このお嬢さんには語らないことにしたのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/11/12(金)
第26回:ある日の出来事
 先日、友人2人がやってきました。旧来からの友人で、アマチュアではありますがかなりの写真好き。一人は48歳で写真歴13年、もう一人は55歳で写真歴16年になるそうです。
 曰く「かめやまさん、やっぱりデジは銀塩に敵わないね。同じ場所でほとんど同条件で撮り比べてみたんだけれど、そのプリント持って行くのでちょっと見てくれる?」と言うので、ぼくも大いに興味をそそられました。

 ぼくの部屋の照明を9灯の色評価用蛍光灯に切り替え(ぼくは蛍光灯の光が嫌いなので普段の照明はタングステン光です)、早速見せてもらいました。フィルムの方はポジフィルム(スライドフィルム)で撮り、プロラボでいろいろ注文をつけてのダイレクトプリント。デジは2200万画素クラスの一眼レフでインクジェットプリンタによる出力です。フィルム、デジとも共通する部分はレンズのみという条件です。もちろん三脚使用とのこと。

 「これなんだけれどさぁ」と得意気にプリントを机の上に広げて見せてくれて、刹那ぼくは苦笑せざるを得ませんでした。ぼくも得意気に、「あのさぁ、これって比較以前の問題だよ。まず言えることは、確かにこれを見る限り、解像感以外では圧倒的にフィルムで撮った方が勝っているかのように見える。そして、デジのインクジェットプリントは、圧倒的に画像処理ーーつまり画像ソフトAdobe Photoshopによる暗室処理ーーの未熟さとプリント技術の不全さが見られ、したがって、まったく公平さを欠いた非科学的な比較だと言わざるを得ない。なんの参考にもならないよ!」と断言しました。

 ぼくは9歳の時に初めてカメラを買ってもらいましたから、フィルム歴は約45年、デジタルカメラ歴はたった10年程です。心情的には、ですからフィルムに肩入れしたいのですが、この連載のはじめの頃に申し上げましたように、「どちらでもいいよ」というのがぼくの基本的なスタンスなのです。大切なことはどちらが優れているかなどということではなく、良い写真を撮ることに頓着し、血道を上げることだと信じています。また、フィルムかデジか感覚的に向き不向きということもありましょうし、被写体によってはどちらがより向いているかということは、あるかも知れません。これは個人の考えに委ねてもいい問題だと思います。

 余談となりますが、ご年配の方ほどデジタルを敬遠される傾向があるように思いますが、いずれ「デジタル、恐るに足らず」という講義を設けるつもりでおります。

 閑話休題。
 ただ、公平さを欠いた非科学的な論調や比較ーーこの類の流布をぼくは「都市伝説」と称しましたーーには我慢ならないらしく、目をつり上げながらも、それを相手に悟られぬよう慎重に言葉を選び、冷静さを装いつつ、淑やかに自分の意見を押し通すという性癖もあるらしいのです。

 旧来からの友人ですから、ぼくもそのような斟酌には及ばず、「自分たちのデジタル処理の未熟さと甘さを棚に上げて、まったくいい気なもんだ。それを悪い意味で“天上天下唯我独尊”とかさ、“無知蒙昧”とか“知らぬが仏”って言うんだよ」と、ぼくは鼻の穴をふくらませながら言いたい放題。

 「この写真のRawデータをぼくなりにPhotoshopを使って、まずきちっとしたバランスに整えるから。その後、『ここはこのようにして欲しい』と注文してよ」と、当人と一緒にモニタを睨みながら30分程を費やしデータを作成しました。
 そしてプリント作業の開始。印画紙は前回ご紹介したキャンソン社の光沢印画紙“バライタ・フォトグラフィック”です。サイズはフィルムで撮った印画紙とほぼ同様にするためA3ノビ(ああ、もったいない!)。プリンタのICCプロファイルは自作したものです。
 プリンタがジコジコと音を立てながら作業を開始し、友人たちは興味津々。やがて少しずつ印画紙がその姿を現し、半分程が見え始めたところで、2人は、「ん?」という言葉を呟いたきり。そして完全に印画紙がトレイに出てくるまでほとんど失語症に襲われたかのように沈黙があたりを支配し、やがてため息に変わりました。

 二人は異口同音に「デジの出力の方がずっといいし、自分の求めるイメージにより近い」と感心しきり。何を以てして“いい”と言うのかが不明ですが・・・。

 ぼくは、「でもこれが公平な比較かと言えば、決してそうだとは言えないと思うよ。もともと土俵が違うんだよ。横綱とボクサーの世界チャンピオンとどちらが強いかという喩えはちょっと乱暴に過ぎるけれど、それを比べるようなものじゃないかな。いくらプロラボで注文つけても、やはり自分でPhotoshopを駆使し、その精密な操作は、アナログで言うところの“覆い焼き”や“焼き込み”、コントラスト、色調の調整などなど、できないもんね。そのような精密な調整はデジの独壇場だから、それがまぁ、デジのメリットでもあるのだけれど。結果としての優劣ではなくて、どちらが好みに合っているかという風に考えた方が健全だと思うよ。どちらも長所を十分に活かし切ってこそ、どちらが好きだとか、そうでないとか言えるんじゃない」と、一見すると非常にまっとうな答えだと思うんですが。でも、本心ですよ。誰にでもそう言っていますから。

 でもやはり、ぼくは自分の意見を押し通しているんでしょうかねぇ?
(文:亀山 哲郎)

2010/11/05(金)
第25回:補足としての印画紙とプリンタについて
 第5回と6回で述べたことについて、何人かの方々からご質問を受けましたのでそれについて補足しておきましょう。

 ご質問の要点は以下の部分です。
 『「デジタル印画紙は銀塩印画紙の黒の濃度に及ばない」とお嘆きの方々、どうぞご安心あれとぼくは申し上げます。無論、このような再現性を得るためには、然るべき印画紙と然るべきプリンタ、そして科学的な約束事をしっかり守ってこそ、という条件付きです。あらゆる点で銀塩印画紙を凌ぐ素晴らしい再現性を約束できるでしょう!』
 という部分について、具体的な印画紙名、プリンタの機種を知りたいとのことでした。そう思っている方は質問者の他にもおられるに違いないと思いますので、ぼくの義務としてこの場をお借りしてお伝えしておきましょう。

 ぼくが敢えてメーカー名を伏せたのは、それはほとんどの方が使われていないもの、言い換えれば普及品ではないというところに引っかかりを覚えたからでした。時によっては、「それらを使わなければ銀塩プリントのような黒の締まり(濃度)を得られないのか。そしてまた、優れたプリントは望めないのか」と短絡的に考えてしまう人もいらっしゃるかも知れないと感じたからです。機械やソフトは使いこなしが一番で、その限界を感じたら上を目指して次の段階に移るというのが一般的なひとつの方法論です。

 ぼくが具体的な製品名をあげなかったもうひとつの理由は、デジタルとアナログのプリントに於ける差異についての考え方をお伝えすることがまず第一番のことと考えたからでもあります。

 本音を言えば(いつも本音で言っているつもりですが)、本当に良いものを紹介することは、この世界で飯を食わせていただいている者にとって、義務だと考えています。口幅ったい言い方ですが、プロとして得たものを社会にちゃんと還元してこそ、プロのプロたる所以ではなかろうかとも思っています。

 第5回で述べた「フランスC社」とは450年の歴史を誇るフランスの製紙会社で、Canson(キャンソン)という名称です。キャンソン社が新たに開発したInfinityシリーズの印画紙は、ぼくのテストした世界各国の印画紙で、光沢・無光沢に関わらず最良の結果を得ることができました。キャンソン印画紙の日本総代理店はマルマン株式会社です。
詳しくは以下をご参照下さい。
http://www.canson-infinity.com/jp/index.asp

 最良の結果とは、客観的に言えばその物理特性ですしーーマキシマム・ブラックからマキシマム・ホワイトまでを21段階に刻んだグレーパッチをプリントし、その数値を精密な分光測光器で計ったもの。同時に色の捻れもわかりますーー、主観的な部分では印画紙の面質や手触り感、風合いや全体から受ける品位と言ったところでしょうか。
 そして、さらに素晴らしいことはその保存性にあります。しばらく印画紙を空気に晒しておくと黄ばんでしまったという経験は誰しもがおありだと思います。

 2ヶ月間、今夏の猛暑のなか、冷房を入れてない部屋で、空気に晒したままにしておいたキャンソンの光沢印画紙Baryta Photographique (通称バライタ・フォトグラフィック)とPlatine Fibre Rag (通称プラチナ)の2種を実験して、黄ばみがまったく見られないということに瞠目しました。Canson Infinity シリーズは、美術館などが要求する紙の長期保存の国際基準ISO9706を満たしていると、同社の解説に書かれていますが、その伝でも常識的な保存方法であれば安心できるものではないでしょうか。この安心感は何ものにも代え難い魅力だとぼくは感じています。

 キャンソン本社からダウンロードできるICCプロファイルは(純正プロファイル)、自家製のICCプロファイルと比べてなんら遜色のないもので、安心して使えるよくできたプロファイルです。

 プリンタはエプソンのA2サイズのプリントができるPX-6500 (現在はモデルチェンジし、PX-6550)です。普及タイプでは、A3ノビまでプリントできるPX-5500(現在はPX-5600 )でともに6500と同様の良い結果を得ています。
 どれも顔料インクですが、上記のプリンタを使用しての結果です。

 簡単に、使用したものについて列挙すれば、次の話に移れたのですが、ある程度詳細なご報告が必要と感じ、この話に終始してしまいましたこと、申し訳ありません。

 最後に一言。ぼくはメーカーの回し者ではありません。本当に優れたものを詳しく紹介したかったのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/29(金)
第24回:風景を撮る(12)
 夏の猛暑も嘘のようにかき消え、いきなり中秋を端折って、晩秋がやってきたような気温です。澄み渡る爽やかな秋晴れも少なく、最近は秋の長雨という感ありですね。
 昨日やっと晴天に恵まれ、偏光フィルタ(PLフィルタ)を使った作例を作ることができましたので、まずご覧下さい。また言い訳をせずに済んだことにほっとしています。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/24.html

 撮影の時間差は約20秒です。01は偏光フィルタなし。02は偏光フィルタを中くらいの強さにして、空のグラデーションが滑らかになるように操作しています。
 言うまでもなく、公平を期すために一切の補正をしていません。言わば撮りっぱなしの画像です。Rawデータを、DxO社(フランス)の現像ソフトで処理しています。
 偏光フィルタは、2枚のフィルタを重ねて作られており、1枚を回転させながらその効果を調整できるようになっています。レンズ径に合ったフィルタを装着し、ファインダー(もしくはカメラモニタ)を覗き、回転させながらその効果を確認し、お気に入りのところでシャッターを切ればいいのです。

 往々にしてその効果を最大限に発揮させ、利用したいとの思いは、心情的に余りあるくらい理解できますが、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですから、ここが偏光フィルタを使う勘所です。良識と見識の問われる?ところです。

 01と02は、顕著な違いが見られます。偏光フィルタを使用したものは、全体にコントラストが上がり(高くなる)、空と雲が立体的に描かれています。空と雲ばかりでなく遠くの樹木や他の部分も色やトーンの分離が良くなり、全体のイメージがずいぶんと異なっています。
 偏光フィルタにより空が暗く表現されるので、露出計はそれを感知し、露出値が上がっていますから、地面や樹木が01より明るくなるという相乗効果を生んでいることにも注目してください。

 偏光フィルタはこのような使い方だけではなく、水面のテカリを抑えたり(つまり、水中のものがはっきり見える)、ガラスの反射を抑える効果もあります。例えばショーウィンドウの中にあるものを撮ろうとした時など、光の方向性によっては絶大な効果を発揮します。まるでガラスがないかのようにくっきり撮ることができるのです。

 ぼくはフィルム時代の海外ロケで、一時、スナップ用に偏光フィルタをつけっぱなしということがありました。作例03は20年以上前のものですから、もちろんオリジナルはフィルムで、それをデジタル化しています。中世の屋根瓦のテカリがなくなるまで偏光フィルタを調整し、瓦の色彩を明瞭にしています。そして、空の明度を極端に落としたことにより、その印象を強めています。スポット露出計で中央の白壁を測り、その露出値より2絞りオーバーに(明るく)撮っています。しかし、白壁重点の露出ですので、空の表現は偏光フィルタを使用せずとも、アンダーに表現されますが、偏光フィルタを使用してさらに明度を落としました。偏光フィルタを使用しなければ、このようなイメージには撮れなかったでしょう。

 現在はデジタル全盛ですから、偏光フィルタを使わずに、ではPhotoshopのような画像ソフトを使ってこのような表現ができるかと言えば、できます。
 がしかし、このようにするには極端な補正をせざるを得ず、かなり画質の劣化を招いてしまいますから、厳に慎むべき事だというのがぼくの意見です。
第一、屋根瓦の一枚一枚を抽出してテカリを抑える(白に飛んでしまったものは補
正のしようがなく、他からコピーせざるを得ません)なんてことは、気の遠くなる作業で、それをする商売人でない限り、大伸ばしをすれば不自然さを免れず、ただ徒労に終わるだけです。
 それを思うだけでも、偏光フィルタの効用は絶大なものがあるのだと知ってください。デジタル写真に於けるフィルタで、最も代用の利きにくいフィルタが偏光フィルタなのです。

 ある時、ぼくの生徒さんに「偏光フィルタというのは経年変化をするものだから、永久的なものでなく、時間が経つにつれ効果が薄まるのだよ。フィルタの保存状態により一概に何年とは言えないけれどね」と言ったことがあります。その生徒さんはこう言いました。「では、何枚撮れば効かなくなるんですか?」と。ぼくは腹をひくつかせ、「あのね、何枚撮ったかフィルタに記録されるもんじゃないでしょ。1年に1枚だろうが1万枚だろうが、同じなの!
経年変化と使用回数っていう言葉の意味の違いをよ〜く考えなさい」って。こういう科学的でない思考回路の人が写真専門誌で、優秀賞なんかバンバン取っちゃってるんだから、写真って何なんですかね〜。おもしろいですね。でも、これは世間で言うところの才能ではありません。第3回で述べたように「才能とは努力する能力」のことだとぼくは解釈しています。それをこの生徒さんは励行しているに過ぎないのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/22(金)
第23回:風景を撮る(11)
 「風景を撮る」というテーマにも関わらず、そのことにあまり触れていないじゃないか、とお考えの諸兄もおられるであろうことと思います。ある意味、ごもっともなことなのですが、ここまで述べてきたことは風景にとどまらず、どの分野にも共通することであり、風景写真に特化したものでないことは確かです。

 知識や技術だけで写真は撮れませんが、写真に限らず、何事も道理に適った知識と基礎・基本あってのこと、というのがぼくの考え方です。やみくもにたくさん撮ることが必ずしも無駄であるとも思いませんが、しかし、しなくてもいい無駄とすべき無駄があることをぼくの経験則に照らし合わせて、お話ししているつもりです。しなくてよい無駄を重ねていると上達もままならず、悩みばかりが多くなったり、また「写真ってこんなものか」と言いながら遠のいてしまうことだってあるでしょう。やはり趣味は上達あっての愉しみだと思いますから、まず基本を身につけることが「急がば回れ」なのです。

 紅葉の季節がやってきましたが、紅葉と言っても遠景あり近景ありで撮影の考え方も一様でなく、さまざまなシチュエーションで変わってきます。ぼくはもう20年以上も紅葉目的の写真を撮っていないことを白状しなければなりませんが、今、季節柄いろいろな写真雑誌などで取り上げられていますから、併せて参考にしていただけたらと思います。

 十人十色と言いますから、10人の撮影者がいれば、10通りのイメージがあるわけです。紅葉写真に限定しても、あくまで最大公約数的なことを申し上げるに終始せざるを得ません。撮った写真を前にして、作者の話を聞きながら、「では、こう撮ればもっとあなたのイメージに近づけたね。次回はそれを心がけて」という会話や指導は成り立つのですが、撮影以前にあれこれ指摘できるようなものは、実はないのです。でも、指導者という立場であればなかなかそうもいかず、そこがつらいところです。「あいつはもったいぶって、何も教えてくれない」なんてね。そうじゃないんだってば。

 ですから、本来「このような写真はこう撮るべき」というのはまったくのナンセンスであり、「写真に“べき”はあり得ない」との思いが、良い写真に触れれば触れるほど強くなっていきます。ぼくは訊かれれば、「露出を変えたり、構図を変えたりしながら、光の方向を見定めて、自由に、とにかくたくさん撮りなさい」と一見無責任調(実は無責任ではない)にまくし立てます。いろいろと変化をつけながら撮影して、その結果(どのように写ったか)を頭に叩き込むことこそが最も大切だとの信念を持っています。その結果を忘れちゃだめですよ。ですが、熱心さと向上心があれば、忘れっぽい人(ぼくはその典型)でも大丈夫。たとえ忘れても、繰り返し繰り返ししていれば、次第にいやでも身についていくものです。「同じ事の繰り返しこそが秘訣」と考えています。頭のなかに“経験と体験”の「引き出し」をたくさん作ることだけが、さまざまな状況に対応できる唯一の手段なのです。「あの時はああ撮ってああだったから、今回のこのような状況では、この“引き出し”を使えばイメージ通り撮れるだろう」ということなのです。同じ状況には生涯二度と出会うことがありませんから、「引き出し」はあなたの宝なのです。

 余談となりますが、おそらく世界中でプロ・アマを問わず、露出計(カメラ内蔵の露出計をも含む)を使わずに、露出ドンピシャリの写真を撮れる人はいないだろうと思います。音楽には「絶対音感」というものがありますが、「絶対光感」を人類が持ち合わせることはないのだそうです。ですから、どんなベテランでも露出計に頼らざるを得ません。聴覚にくらべ視覚は著しくあてにならぬのが人類の特質なのだそうです。
 肉眼で見た被写体が、印画紙上にどのように再現されるのかをイメージすることは訓練で成し得ますが、実際の光の強さや光質については撮ってみなければわからないというのが正直なところです。

 遠景の紅葉が最も色鮮やかに映えるのは、まず晴天であること。そして、順光(太陽を背にした時の光)です。太陽に雲がかかり始めると色の鮮やかさが急速に失われていきます。これは肉眼でも容易に確認できます。同時に雲の位置を確かめておく必要があります。特に高地では天候が目まぐるしく変化することがありますから、カメラの扱いに不慣れではタイミングを逃しかねません。天候は自分でコントロールできませんが、光の方向は待つことにより、自在に選択できます。

 晴天の斜光(朝夕)も順光の次に色が映え、順光よりも立体感の表現やドラマティックな表現に向いています。葉の色づきの塩梅とアングルが良しとなれば、そこで何時間も待機して期を窺うくらいの粘りと根性が必要とされます。ぼくは“ 決して待たない(”待てない“ではない)タイプ ”のカメラマンですから、そのようなことはしませんが、そういうぼくを見て、人は「根性なし」とか言います。人の事情も知らず、まったくいい気なものです。

 ここでひとつ心がけていただきたいことは、段階露光(露出を何段階かに変化させて撮影すること)で何枚か撮っておくということです。露出はノーマルで一枚撮っておいて、後で画像ソフトを使い調整すればいい、なんてとんでもないこと!
 面倒臭がり屋さんは、ほとんどのカメラに内蔵されているAEB ( Auto Exposure Bracketing 自動的に露出を変えてくれる便利な機能で、どのくらいの露出幅を持たせるかは、自分で設定する必要あり) を使えばいいでしょう。
 露出を変えると明るさが変化しますが、同時に色の彩度(鮮やかさ)やコントラストも変化しますから、あなたのイメージに沿ったものを後で選択すればいいのです。
 また、順光であればPLフィルタ( Polarized Light 偏光フィルタ) の効果に最も与ることができるので、青空の濃度を調整(暗く)しながら、紅葉をいっそう引き立たせることができます。また、葉っぱの反射も除去されますから、鮮やかさが増すという効果も得られます。フィルタを回転させながら連続可変に調整できますから、風景写真には必須のアイテムです。ただ、露出値も同時に変化しますから(下がる)、単体露出計を使用するより、カメラに内蔵されているもの(TTL 露出計)を使えば間違いのないところです。

 紅葉の近景も基本的には同じですが、遠景と異なるところは、葉を逆光に透かして撮るという方法があります。透けた紅葉はきれいですから、バックとなる背景に気を配ってください。

 PLフィルタを使用すると青空がどう変化するのか、昨日、一昨日と天候が悪く撮れませんでしたので、次号で添付いたしましょう。また、言い訳してる。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/15(金)
第22回:風景を撮る(10)
 前回、レンズの焦点距離による「画角の違い=パース(遠近感)の違い」を、ズームレンズを使う際には特に留意しましょうというお話をしました。留意というより、意識と言う方が正しいのかも知れません。

 なにしろ稚拙な文章なので、実際の写真を使いその違いをご説明した方が賢明と考え、写真も稚拙でありますが、貼り付かせていただきます。

 モデルはロシアのマトリョーシュカ(ロシアの伝統的な入れ子人形)で、この中に同じ形をした人形が8人も入っています。身長は約15cmです。この人形との出会いは、今から23年も前のモスクワででした。ぼくは特別に人形の収集癖があるわけではありませんが、この人形作家のロシア女性が特別に魅力的な人であったために、高価であったにも関わらず、思わずデレッとし、知らず知らずのうちに気がついたら買っていたというものです。観光土産で売られているマトリョーシュカとはひと味もふた味も異なる、やはり特別品と言えます。
 何年か後に再びモスクワを訪れ、彼女との再会を果たそうと・・・、って今そんな話をしている場合ではなく、ご興味のある方は拙書『やってくれるね、ロシア人!』(NHK出版2009年)をご参照のほど(この場を借りてちゃっかり宣伝)。

 添付写真は01(焦点距離20mm)、02(焦点距離35mm)、03(焦点距離50mm)、
04(焦点距離100mm)、05(焦点距離200mm)です。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/21.html

 マトリョーシュカの大きさをほぼ同じに撮っても、焦点距離の異なるレンズでは背景やパースにこれだけの差が出るという実例です。
 マトリョーシュカは不動とし、カメラの位置はモデルの大きさや方向を一定にするため、01〜05は同一線上に移動しています。絞り値はすべてf 8で、同一条件です。パースの違いだけでなく、背景のボケ方も異なっているのがお分かりでしょう。望遠レンズ(作例では04と05)を使うことによりバックが大きくボケ、被写体が浮き上がってきますね。また写る範囲も狭まりますから、余計なものが画面に写り込まないという特徴が表れています。このことは、ポートレートや花の撮影の項目もいずれ設けますので、その時にご説明しますが、記憶の片隅に置いておいて下さればと思います。
 広角レンズから望遠になるにしたがって、マトリョーシュカが不動であるにも関わらず正面を向いてくることにもお気づきでしょう。
 焦点距離の異なるレンズを使い分けるということは、つまり主人公の背景にどんな役割を演じさせるかということなのです。音楽で言えば主旋律を奏でる楽器があり、他の楽器はどのような和音や旋律を歌い、より主旋律を引き立たせるかということと同じなのです。

 なお、ここで使われている焦点距離50mmという数字はあくまでもフルサイズ(36mm x 24mm、従来のフィルムの標準的サイズ)の受光素子を持ったカメラでの焦点距離を示します。デジタルではフルサイズの受光素子を持ったカメラは稀で、一般的にはこのサイズより小さい受光素子を持ったものが大半です。作例のカメラはフルサイズ受光素子を持つキヤノンEOS-1DsMarkIIIです。
  
 一眼レフカメラではAPS-Cサイズ(各社により若干の違いがありますが、23.4mm x16.7mmの受光素子)とかマイクロフォーサーズ(フォーサーズとは英語の4/3という意味で、17.3mm x 13mmのサイズの受光素子)が多用され、コンデジ(いわゆるコンパクト・デジタルカメラ)はさらに小さく(例えば1/1.7インチ7.6mm x 5.7mm)、解像度も限界があり、より細密な風景描写を求める人には不向きと言えます。
 フルサイズで焦点距離50mmのレンズと言った場合には、APS-Cサイズの受光素子を持ったカメラはより望遠となり、実画像は50mm x 1.5倍ないし1.6倍となり、75mm〜80mm相当の焦点距離を持つレンズだとお考えください。カタログなどには「35mm換算でxxmm」という表示がしてあるのはそのためです。同じ50mmと言っても、受光素子の大きさの違いにより、焦点距離の考え方が異なってくるのです。

 添付写真にはうっかり他人の車のナンバーが写ってしまいましたので、その部分だけぼかしました。通常、このようなこと(写真の一部をぼかして分からなくしてしまう)は決してしないのですが、Webの性格上そういたしましたこと、ご了承ください。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/08(金)
第21回:風景を撮る(9)
 前回に「総合点でズームが圧勝してしまった」と述べましたが、誤解を招くといけませんので、補足しておきます。
 
 ぼくのテストした単レンズAとBズームレンズ、Cズームレンズ、そして単レンズDとEズームの比較に於いての結果です。ですから、いつの場合でもズームレンズの方が勝っているということではありません。ぼくのテストしたズームレンズは、某カメラメーカーのフラグシップモデル(メーカーの最高級モデル)でしたので、そのような結果を導いたのかも知れませんし、普及型のズームレンズですと結果は異なったかも知れません。“ある限られたレンズでのテストに於いては”という条件付きの結果として受け止めてもらえればと思います。

 ぼくの主宰する写真集団『フォト・トルトゥーガ』の何人かがこんなことを言っていました。「ズームレンズを使わずに単レンズにしてみたら、その方がずっと気楽に写真が撮れるし、実際に画角が決まりやすいですね」と言うのです。
 ぼくは現在、私的な写真ではズームレンズを使うことはまずありませんから(仕事では使います)、彼らは指導者まがいのぼくを手本にと試みたのかも知れません。ただ、この指導者は極めて偏屈な人間ですから、現在焦点距離28mm(かなりの広角レンズ)のレンズにご執心で、どこへ行くにもこの2年間はそればっかりという片意地ぶりです。
 ある時期は35mm、またある時期は50mm(標準レンズ)ばかりという時期を繰り返し繰り返し過ごしてきたものです。特に若い時代には、心酔したフランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson、1908-2004年。「決定的瞬間」という言葉を発明した写真家)は50mmしか使わないと知って、明けても暮れても50mmという時期があったくらいです。

 ぼくは『フォト・トルトゥーガ』の人たちに「何ミリのレンズを使いなさい」などと言ったことは一度もありませんが、ズームレンズを使うことの功罪は述べてきたつもりです。
 ズームレンズの功の部分は、「焦点距離が連続可変に使える」というこの一点のみだとぼくは断言して憚りません。レンズの焦点距離の違いによる差異は“画角”にありますが、それは言い換えれば“遠近感(パースペクティブ。以下パース)”の違いとも言えます。画角の違い=パースの違い、に気がついていないと、ただ画角が異なるだけ(見える範囲が異なるだけ)と勘違いを起こしてしまうのです。パースも同時に変化していることに気がつかなければいけないのですが、それを感知している方は意外に少ないのです。画角とパースは常に同居しているものですから、自分が動かずにズームを使って、被写体を近づけたり、遠ざけたりして構図を整えようとすることを、「横着」と言います。

 パースとは、広角になればなるほど、手前にある物体と遠方にある物体との大きさの比率が異なって表現されることです。近くのものはより大きく、遠くのものはより小さく写ります。反対に望遠はその差が縮まるのです。遠近感が少なくなりますから、距離感が圧縮されたように写ります。
 言葉による説明だけでは実感しにくいと思いますので、次回にその差を実際の写真にてご覧いただければと思います。今回は引っ越しという私的事情によりサンプルを作る時間が取れず、申し訳ありません。

 「焦点距離が連続可変に使える」とは、例えば焦点距離23mmだとか46.5mmが使えてしまうということなのです。ぼくの知る限り単レンズでそのような焦点距離を持ったものは世の中にはありません。ズームレンズは、レンズ交換という煩わしい作業をせずに自由な焦点距離を可能とする、こんな素晴らしい機能を備えているのです。それがズームレンズの持つ唯一の長所です。

 功罪のうち、一番の罪は前述したように、自分が動かずに被写体を近づけたり、遠ざけたりしてしまうことです。便利さに負けて、不動のお地蔵さんになってしまうことです。この癖が身に染みてしまうと、焦点距離の違いによるパースの変化になかなか気がつかないということになります。主被写体の大きさはそのままにして、背景をどう演じさせるかという写真についての重要な操作が身につかないのです。

 世の中には、18-200mmとか28-300mmなんてとんでもない倍率のズームレンズがあるんですね。今、ネットで調べて初めて知りましたが、こんな横着レンズを使いこなすには、相当レンズや写真というものに精通していなければ、とてもとても無理。便利ちゃ〜便利だろうけれど、これで一体何撮るの? っていう感が拭いきれませんね。

 余計なお世話と知りつつも、未だズームレンズしか使ったことのない向きに、ぼくはぜひ単レンズを一本(どのメーカーでも標準レンズの50mmが最も安価なので)お薦めしておきたいと思います。安い、軽い、明るい(言い換えれば、速いシャッタースピードが得られるということです)の三拍子に加え、構図を整えるには自分が動かなければなりませんし(よって健康にも良い)、焦点距離によるパースの違いにも気がつくはずですから、良いことずくめです。百利あって一害なし! をお約束いたします。
(文:亀山 哲郎)

2010/10/04(月)
第20回:風景を撮る(8)
 ズームレンズ全盛の時代となりました。誰も彼もズームレンズ。かく言うぼくももちろん何本かのズームレンズを所有しています。実に重宝なものだと認めるにやぶさかではありませんが、一方でどうしても愛情が持てないというのも事実です。可愛げがないんだもん。本題からはずれてしまいそうなので、その理由を詳しく述べることはいたしませんが(いつだって本題からはずれているじゃないか)、ズームはお手軽時代の寵児ともいうべきものですね。そして、これだけズームがもてはやされる理由は、その性能が飛躍的に向上したことと、カメラが市民権を得て、写真を撮るという行為が一般化したからでしょう。またその便利さにもあるでしょう。一家に一台どころか、携帯電話を含めれば、一昔前とは比較にならぬほどの超様変わりです。

 ぼくは未だにズームレンズというものに対して、偏見ではなくトラウマを抱えています。時期的に言うと二時代前くらいのズームの性能は、どうみても褒められたものではなかったからです。ひどい目に遭ったとの印象が未だに拭い去れないのです。自分の技術の未熟さを棚に上げて、レンズのせいにしていますが、いや、それにしても、ズームはひどかった。解像度は悪いし、コントラストはヘナヘナだし、収差は出まくりだし、やはり腕だけの問題じゃないね。ズームに対し、恨み骨髄に徹し、「もってけ、どろぼ〜」とばかり、二週間使ったきりで友人に「これ便利だからあげるよ」って、タダでくれちゃいました。その友人は未だにぼくを恨んでいます。それを“逆恨み”とか“盗人猛々しい”とか言いますね、日本語では。ぼくは「便利」だとは言いましたが、「良いレンズ」だとは言っていませんし、まして売ったわけでもないので、恨まれる筋合いのものではありません。

 20歳代から分不相応に、ライカやC. ツァイスのレンズ(ハッセルブラド)道楽に明け暮れていました。親元で暮らしていましたし、父の「知るなら一流のものを知れ。持つなら一流のものを持て」という主義にも助けられ、給料のすべてを注ぎ込めたおかげなのでしょう。自分なりに「良いレンズ」の味を占めていましたから、なおさらズームのヤクザぶりに我慢がならなかったのです。

 第2回で、「写真はカメラやレンズが撮るのではなく、人間が撮る」のだから、どのようなものを使ってもいいのだとぼくは述べました。ぼくの言わんとする趣旨に、上記と矛盾があるとご指摘の諸兄もおられるかも知れませんが、ぼくがそのような結論に達したのは、ライカやツァイスに散々道楽をした結果なのかも知れませんし、また人間的に成長?! したからかも知れませんし、あるいは写真というものの本質に近づけた?! からなのかも知れません。その何れなのかはぼくにはわかりませんが、秀でたものを手にすることにより、多くのことを学べた事は確かなことですし、亡父には言葉にできぬくらいの感謝をしています。

 さて、現在のズームレンズの出来映えに、ぼくは決して大げさな言い方ではなく瞠目さえしています。「ズームレンズは決して単焦点レンズ(以下“単レンズ)にかなわない」とおっしゃる単レンズ信奉者が未だに多く見られます。ベテランほどそのような意見を持たれているようです。どの部分を比較してのことなのかがほとんどの場合示されていませんので、ぼくも図りようがないのですが、推測するにそれは多分解像度や収差にあると思われます。確かに、収差(レンズによって像ができるときに発生する色づきや、像にボケやゆがみを生じることである。このボケやゆがみは、物体の点が点像にならないことを指す。これらの収差が複合された像ができる。※出展、ウィキペディア)はレンズの設計上、特にズームでは難しい問題があるでしょうし、さまざまな種類の収差を解決しようとすると、“あちらを立てれば、こちらが立たず”のいたちの追いかけっこに似た部分があるのだと、メーカーの技術者から伺ったことがあります。

 ぼくはかなりのテスト変質者であり、自分でも身の置き場に困るくらい神経質にテストをしなければ気の済まない質でした(過去形)。でないと恐くて新調したレンズを使えないという損な性分なのです。

 あるメーカーの名レンズといわれる単レンズと最新のズームを比較して(もちろん三脚使用の同条件で、近接、中距離、無限大の距離でそれぞれ。天候も晴れ、曇り、スタジオ用ストロボなどなど、できる限りの公平性を保ちながら、かなり膨大な枚数を撮ることになります)、我が目を疑いました。総合点でズームが圧勝してしまったのです! 狼狽いたしました。「そんなわけねぇだろ〜!」という具合です。

 レンズには個体差というものがありますから、メーカーから同じ単レンズを2個お借りして、再度試したところやはり結果は同じでした。
 その瞬間から、ぼくのズームに対する不信感は完全に払拭された、と言うほど、やはり単純な問題ではありませんが、必ずしも単レンズがいつも優れた結果を導き出すわけではないということです。ぼくの不信感はむしろ、単レンズ絶対勝利を疑わぬ人たちに向けられたのです。

 で、ぼくは何を述べたいのかと言いますと、ぼくの主宰する写真集団での撮影旅行で、広々とした風景を前に35mm一眼レフ使用の生徒の一人に訊ねられたのです。「こういう場合、絞り(f値)はどのくらいが適切なのですか?」と。普段、撮影会で技術指導はあまりしない(威張っているわけではありません)ことにしています。もちろん理由あってのことです。よく撮影会などで講師が「ここはこの絞り値で」というほとんど無意味(撮影者のイメージを斟酌していないと思われるので)と思われる言葉を耳にすることがありますが、この時ぼくは初めて、「f 8〜11」という実践的な指摘をしました。

 このような広々とした風景を前にして、そして狭い展望台なので撮影位置を選びづらいという条件も重なり、質問者がどのようなイメージを描いているのかが窺えたからです。そして、使用しているレンズはズームでした。風景写真を撮る人のほとんどは、葉の一枚一枚が出来る限りしっかり解像して欲しいと願うものではないでしょうか。そのような観点からf値を指定したのです。

 レンズというものは単レンズ、ズームに関わらず中心部からはずれるに従って解像度が悪くなります。それは収差に起因するものなのですが、収差の軽減を絞り値で変えることができる、その類の収差もあるのです。それを考慮しての「f 8〜11」なのです。

 特に風景写真では、自分の使用するレンズの一番美味しい絞り値を知っておくことが重要で、行き当たりばったりの絞り値では、写真のあがりもシャキっとしたものにはならないということなのです。
(文:亀山 哲郎)

2010/09/24(金)
第19回:風景を撮る(7)
第19回:風景を撮る(7)

 きれいな写真を撮る条件の一つとして、被写体に合った、もしくは表現意図に合った露出を適用しなければなかなか思い通りにはいかないということを以前述べました。
 さて、ここで言う“きれいな”とはどういうことなのかを定義するのはとても難しいことだと思います。十人十色と言いますけれど、それで片付けてしまうにはあまりにも短絡的ですし、またそれを認めてしまうと作品が独りよがりなものになる可能性があります。写真ばかりでなく、どの分野でも普遍性あってこその“美”なのだとぼくは捉えています。

 写真を始めて間もない人と何十年も写真に取り組んできた人(プロアマを問わず)の“きれい”だとか“美しい”という意味の捉え方は自ずと異なって然るべきですが、光を確実に受光素子に移さなければならない点では、初心者もベテランも同じであるはずです。
 何度も繰り返しますが、「基本技術あっての自己表現」です。現今のカメラはシャッターを押せば取り敢えずなにかが写りますから、それで事足れりなのですが、それでは応用が効きません。いざという時にあたふたしてせっかくのチャンスを逃してしまうということにもなりかねません。

 絵ハガキのような写真をきれいだとする人もいるでしょうし(前者)、絵ハガキのような状況説明写真を撮って、なんの面白味があるの?と指摘する人(後者)もいます。人も様々、写真のありようも様々です。本来はそこに線引きなどないはずなのですが、一般的には絵ハガキ的写真に近いものがより受け入れられ易く、より多くの支持が得られるのは事実でもあり、また今の写真界の暗澹たる現状でもあります。
 だとしても、やはり初めは記録としての写真から始めるのが順序でしょう。趣味として写真に取り組むのであれば、どうしてもぼくは後者に肩入れせざるを得ませんが、Webというのは紙媒体と異なり、なかなか読者諸兄の顔が見えにくいもので、したがってあまり断定的なことも言えず(?)どこに焦点を合わせてお話すればいいのかが未だに把握できていません。で、ぐずぐずと書き連ねてしまうのです。
 趣味を通じて自己の意志や感情を表現するという行為が創作と言えるのだろうと思いますし、“創作”なんて堅苦しく大仰な言葉を使わずとも、それが写真の妙味でもあり醍醐味でもあるのです。

 さて、ここからが本題です。風景写真に限らず、まず露出の仕組みを知って下さい。
 今はどんなカメラにでも「内蔵露出計」が搭載されており、それを頼りにみなさんは写真を撮っておられるんですね。シャッタースピードや絞り値など、カメラが自動的に露出値を算定し、「これで撮りなさい」と教えてくれる。「これで撮ってもそうヤバイことにはなりませんぞ」とカメラは仰るのですが、そんな台詞をどうか鵜呑みにしないでください。ヤバイことが往々に起こってしまいます。露出計ってかなりヤバイやつなのです。
 最近は単体露出計を持ち歩き写真を撮っている人をほとんど見かけなくなりました。ぼくも私的な写真にはカメラ内蔵の露出計の値を基本にしながら調整していますが、やはり仕事となると単体露出計のお世話になることが多いようです。

 露出計の測光方式には二通りあり、カメラ内蔵のものは「反射光式露出計」と呼ばれるもので、光源下の被写体自体の明るさを計測します。それに対して、単体露出計は「入射光式露出計」として使われ、被写体ではなく、光源自体の明るさを計るものです。「入射光」と「反射光」とでは、測光の方式がかなり異なります。「反射光式」の利点は速射性に優れているということです。また、ここでは触れませんが、風景写真家の第一人者であるA. アダムスの開発した「ゾーンシステム」は「反射光方式」の露出計によって計算されます。

 今回はカメラ内蔵の「反射光式露出計」の仕組みをお伝えしましょう。カメラには測光方式と呼ばれるものがあり、例えば取扱説明書などに「中央部重点測光」とか「平均測光」とか「スポット測光」とかいろいろ書かれていますが、原理は同じで、どの部分を重点的に測光するのかという違いだけです。
 “原理”と書きましたが、カメラに示される露出値とは、光源下の被写体の濃度が無彩色の「18%中間グレー」になるような値(シャッタースピードや絞り値)を示します。

 ※こちらをご参照下さい → http://www.amatias.com/bbs/30/30-19.html

18%とは光の吸収率です。ですから例えば無地の純黒や純白をカメラの値通りに撮っても、純黒や純白には表現されず、「18%中間グレー」になってしまうということなのです。黒い物は黒く、白い物は白く写ってくれないと困ります。そこで、露出補正というものを活用するのです。
 ただ、この世には純黒や純白の物質は存在しませんので、黒板や白板を撮っても、厳密な「18%中間グレー」にはならず、「18%中間グレー」近辺と考えるのが現実的です。

 まったく無地のものを撮るという機会はほとんどありません。どんな被写体でも立体物であれば、そこには様々な明度が存在します。その平均値を露出計が算出し、表示してくれるのです。

 スポット測光などで、例えば黒人、黄色人、白人などを同じ光源下で測定し、カメラの指示通り撮ると、人種の肌色に関係なく「18%中間グレー」の顔をした新人種が理論的には出現してしまいます。また、雪なども白ではなく、グレーの雪になってしまいます。
 黒人なら露出補正をマイナス補正(露出アンダー)、黄色人はそのまま(ノーマル)、白人はプラス補正(露出オーバー)するようにしています。この考えはスポット測光での考え方ですが、ファインダーやモニターで見る実際の被写体にはさまざまな輝度のものがありますから、そこが悩みの種。
 「入射光方式」の単体露出計では、肌の反射濃度を測るのではなく、光源の明るさを測るわけですから、基本的のこのような不都合が生じにくいのです。それぞれ、一長一短です。

「18%中間グレー」とはどのくらいの明るさなのかを知っていただくために、貼り付けましたが、ここがWebのいい加減なところで、AさんとBさんのモニタでは、精密な分光測光器でキャリブレーションをしていない限り、同じグレー濃度には見えないという難点がありますが、おおよそのところがわかっていただければと思います。

 なお、今回のお話はカラー、モノクロに関係なく、同じ原理とお考えください。
(文:亀山 哲郎)