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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2013/09/20(金)
第167回:多数派と少数派
 実は、今さらなのですが、この連載を始めるまで、ぼくは世の中の写真愛好家の動向についてはほとんど関心がありませんでした。“ほとんど”というより“まったく”といったほうが正直なところです。拙「よもやま話」もすでに3年余の月日が経ちましたが、その間少し焦りながらも世間一般の写真の風向きや趨勢を伺い知ろうと努めてきたつもりです。愛好家の平均的な写真意識を、ネット音痴のぼくがネットをかき回しながら探り当てようとするのですから、それはいろいろな面で苦痛を伴う作業でもありました。
 それまでまったく無関心だった、いわゆる「クチコミ」だとか量販店のHPにある「〜の撮り方」などを眺めながら、「はぁ〜、世の中はそういうものか。しかしぼくには関係がないなぁ」という結論にいつもたどり着いたものです。そのようなものにはきっと何か役立つことが書かれていたり、示されているのかも知れませんが、それについてぼくが同じようなことをここで改めて書く必要があるのだろうかという大きな疑問に囚われてきました。
 「ぼくには関係がない」と感じることを、ここでみなさんに押し売りの如く書き連ねるのは気が引けるとともに、少し写真を知っていれば誰にでも書けるようなことを、写真の基本的なメカニズムを除いて、ぼくが書くのも必然性のあることとは思えません。異論反論はあって然るべきですが、ぼくが商売人として得たものを(まったく大したものではありませんが)、信念を持って自由に書いたほうが読者諸兄のお役に立つのではないか、あるいは興味を持ってもらえるのではないかという勝手な思い込みで今日まで書いてきました。

 覗いたことのなかった県展や市展にも足を運ぶようになりました。写真の良し悪しではなく、そこで垣間見えたものはぼくの写真に対する考え方や所懐とはかなりの隔たりがあるということでした。ということは取りも直さず、ぼくの思惟や方向性といったものは、少数派なのかも知れないということです。もちろんこのことは個人の生き方の問題であり、是非を論じる事柄ではありませんが、ぼくは常に少数派でいたいと願っています。多数受けではなく、少数の人々に深く分け入っていくことに写真の意義を見出しています。

 ぼくはコマーシャル写真で糊口の資を得ている人間ですが、それとは別に写真という手段を用いて自分の考えや感じたことを表現したり、写真屋であるが故に一般には知られがたい世界を覗く機会も得られやすく、そこで撮影したものを知ってもらったり、あるいは訴えかけることも写真屋の大切な仕事のひとつだと考えています。むしろ本業の分野より、自己表現の幅の広いこちらのほうがずっと自分にとっては甲斐のあることだと思っています。

 第161回で、「震災直後、おっとり刀で現地に駆けつけた有象無象(うぞうむぞう)の人々(救命・救助・報道・学術調査・復旧の専門家を除く)を尻目に、ぼくは地震・津波災害の地を積極的に訪れようとはしなかった」と、東日本大震災について一見冷ややかとも受け取れる書き方をしました。
 現代詩作家の荒川洋治氏が震災後に垂れ流された多数派の震災詩を指して、「『そうか詩ってこの程度のものだったのか』と人々を失望させた恐れがある」と痛烈な懸念を表明しています。確か、当時の現象を「詩の被災」だとも。その言葉を借りれば(写真には報道という意味合いもあり、実際に現地に赴かなければならず、単純に詩歌との比較は乱暴ですが)、震災写真には心打たれるもののほんの一握りを除いて、やはり「写真の被災」であったと思います。
 ぼくは社会派の写真屋ではありませんが、文学と異なり写真というものは映し出されたものの主語や述語を鑑賞者に委ねる場合が多々あり、ましてや震災や原発事故から一定の時を経ていますから、詩と同様に質の高いものに臨もうとするのであれば、相当に高度な技術を要すると考えています。

 また、荒川氏は「世の中の一般的な論調には同化せず、たとえ時事性が失われようとも鑑賞に堪えうる震災詩を書くためには準備に長い時間を必要とする」とも述べています。「時事性が失われようとも」という文言に異論の生じる隙間はたくさんあると思いますが、そもそも創作の原点はそういう浮き世離れしたところから発生するものではないだろうかとぼくは思います。ぼくは荒川氏の「時事性が失われようとも」に共感を覚えます。極論すれば、「世におもねて、本当に良いものが作れるのだろうか。決してそうではない」というのがぼくの信条でもあります。
 ぼくのような凡庸な写真屋は、写真屋でしか見えないことや感じ取ることのできない発見に苦悶し、躍起にならざるを得ません。その緩和的処方として、予備知識を蓄え、その中から抽出すべき重心を捉えないと、ブレが生じてしまうことを知っています。被写体との心的距離を一定に保ち、機が熟すのを待ってから、撮影の地に赴くのが鑑賞者への誠意ではないかとぼくは思っています。写真屋は国内外での社会現象や問題に無頓着でいられようはずはなく、今回なら震災や原発事故にどう向き合うかが世に問われているのだと思います。新聞やテレビを見ないぼくでさえそう思っています。写真を撮る行為は産業ではありませんから。
(文:亀山哲郎)

2013/09/13(金)
第166回:ちょっと無駄話
 前回でやっと「立ち入り禁止区域を訪ねる」を終えました。実は少しばかり消化不良気味で、テーマがテーマだけに、あれも書けばよかった、これも書いておくべきだったという思いに囚われています。ただ、そこで我を張り自分の欲望を満たそうとすると写真の話からはどんどん逸脱してしまい、「写真よもやま話」と銘打っている以上、やはり限度だったのかなと自らを慰めています。再訪の機会を得て、またご報告ができればと思っています。掲載写真についても、1枚ごとにもっと詳しく書けばよかったのですが、1回の分量が長大になり過ぎ、尻込みをしてしまいました。

 新聞は見出ししか読まず、テレビもまったく見ないぼくですが、それでも「福島」という固有名詞は連日目に飛び込んできます。読者諸兄からのお便りもかなりいただきました。なかには、放射線被曝の影響についての質問や、また「禁止区域に立ち入って、体のほうは大丈夫ですか?」とのご心配もいただきました。これについては、専門家ではありませんので正しいことをお答えできませんが(専門家の間でも多種多様な見解があり、かなり意見の相違がみられます)、「“積算放射線量Xマイクロシーベルトまで”、という自己の合意を取り付けて留まる他なし」というのが、ぼくの精一杯のお答えです。昨今、世間を騒がせている汚染水や汚水タンクも、「汚水タンクって、あれがそうなんですね。写真を見直してぞっとしています。よくあの距離で撮られましたね(第154回掲載写真)」というご意見もいただきました。みなさんへのご返事のほうが興味あることを書けたような気がして、ほんの少しだけ別のところで溜飲を下げています。

 さて、今回から何を書こうかと今思案中です。
 うちの写真倶楽部の人たちがしでかすトンデモ題材を引っ張ってくれば、写真ネタには事欠かないのですが、闇討ちに遭いそうなので躊躇せざるを得ません。プリンターがウンともスンとも動かなくなってしまった、壊れた、どうしよう、どうしよう。「はい、インクが切れていました」。新調したカメラのコマンドダイアルが使いにくくてどうしようもない、どうしよう、どうしよう。ファインダーのブライトフレームを使うとパララックス(視差)が生じてしまい、どうしよう、どうしよう。モニターのキャリブレーションが・・・。ソフトのインストールが・・・。画像保存したらどこかへ消えちゃった、どこへ行ったのか・・・。Photoshopの画像統合をすると調整レイヤーが半分しか反映されない・・・。ライカMを買ったのだけれど、合コンへ持って行ってもいいか? 挙げ句、新築したいのだが、良い業者を紹介しろ。半月の間でさえ、こんなことで右往左往させられているのだから、「ヘッドロックして、4の字固めして、首締めてやる!」というぼくの気持ちがお分かりいただけるでしょう。書きたくもなりますよ。ぼくは写真を撮るどころではないのです。

 酷暑の夏もやっと終焉を迎えつつ、朝夕は秋の気配が少しずつ漂い始めてきました。お天道様の位置も低くなり、夕刻などには一瞬ですがハッとするような美しい光に包まれた情景に出会うことができるようになりました。この3ヶ月間は仕事以外の写真をまったく撮っていませんでしたので、久しぶりにカメラを持ち出してみようかという気分に誘われています。

 音と同様に光にも残響というものがあるとぼくは感じています。晴天時の夏の光は逞しくも残響効果に乏しく、再現濃度域を一杯に使うぼくのようなタイプには扱いにくさもあるのですが、それはそれで有用価値があります。そしてまた、無響室に入れられたように、情緒に欠ける嫌いがあります。肉眼で見る夏の夕陽は粒子が粗くザラザラしているので、ぼくは昔から苦手です。秋は空気の透明感と爽やかさが増し、光には残響というか余韻がたっぷりと含まれているので、それだけでも人は感傷的な気分に浸れるのでしょう。
 余談ですが、日本にはない白夜というものを初めて体験したときに、思い描いていたものとはまったく異なり、がっかりしたことがあります。夜中の11時にコンサートが終わり(これもエキゾチックな時間ですが)、美しい旧レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)の街をぶらつき、遅い夕食を取ろうと表に出たら、まだお天道様は仕事の真っ最中で、ギンギラギンの張り切りよう。とても感傷的な気分になどなれません。頭の中はすっかり夜景でしたから、燦々と降り注ぐ直射光は「感傷的な白夜」という一方的な思い入れを軽く吹き飛ばし、ぼくは一瞬なにがなんだか分からず面食らったものです。「なにがロマンチックな白夜なもんか!」と捨て台詞を吐いたことがありました。
 翌日、三脚を持ち出し、太陽を定点観測し撮影したことがあります。太陽は地平線に沈みかけると見せかけ、身を翻しながらそこから非常識にも、あろうことか上昇していくのです。太陽は地平線に沈むものという感覚と概念を植え付けられていた日本人であるぼくは、白夜に悪態をつきつつも、けっこう感動しておりました。
 沈み行く太陽を追いかけて、その先には何があるのだろうと考えた子供のロマンティシズムは、ロシア人にはきっとないのでしょう。それにしては、なぜロシアはこれほどのきら星の如く輝く数多の詩人を輩出したのだろうかと理解に苦しんだものです。ロシア人はリアリストなのかロマンチストなのか、未だ解明できず、本当に不思議な人々です。
 白夜のボーッとしたロマンチックな雰囲気を味わいたい方は、白夜真っ盛りの季節(6月20前後)を外し、お天道様がよろけて腰砕けとなる5月か7月がよろしいようで。余談で終わらせてしまうぼくは、ロシア人同様に大らかなようです。
(文:亀山哲郎)

2013/09/06(金)
第165回:立ち入り禁止区域を訪ねる(12)
 非日常である旅は、人の精神を高揚させ、その感覚はことさら研ぎ澄まされるものだ。だからこそ旅での発見は、心に染み入り、貴重な体験をもたらしてくれる。それは、いわば人生の活性剤のような役割を担っており、旅人はにわか詩人に早変わりする。
 今回の短い旅でも、慣れ親しんだ音楽がいつも以上に悲しい響きを伴って聞こえてきたり、日頃受け流していた詩や句に突然胸を詰まらせたり、どうしてもぼくは感傷的な気分に引きずられてしまう。喜びの記憶より、悲しみの感情のほうが、ずっと深く心に刻み込まれるからだろう。そんな時ぼくは、しばし現実から遊離し、死生観や家族概念の心性までもが揺らぎ始め、狼狽えて収拾困難に陥る。いい歳をしての立ち往生。ぼくの旅は、今回にあらず、いつもそうだった。それはおそらく、ぼくの育ってきた里程の不具合が大きな影響を与えているのだと思う。

 1人の人間が65年間に得られる知識や能力など本当にささやかなものに違いない。特にぼくのように怠惰・不勉強を絵に描いたような者にとって、それは御しがたいほどの暗愚となる。焦りながらもうつつを抜かし、学んでも夢うつつ。言い訳ばかりを考える。
 「生は短く術は長し」とは、ギリシャの高名な医者ヒポクラテス(B.C.460年頃〜375年頃)の言葉で、「医術を習得するには長い年月を必要とするが、それにしては人生は短すぎる」という意味なのだろう。後に古代ローマの思想家セネカ(ルキウス・アンナエウス。B.C.4年頃〜A.D.65年)が『人生の短さについて』のなかでこの言葉を引用しているが、ギリシャ語の「技術」が英語の“art”と訳されてしまい、近代は「芸術は長く、人生は短し」にすり替えられてしまった。古代の解釈と近代の解釈との齟齬に、「誤訳だ」と目くじらを立てるほどのことはないとぼくは思う。それもひとつの真実だと思うから。ぼくが200歳まで生きられれば、きっと素晴らしい写真を撮れるようになること疑いなし。きっと、あなただってご自身について、そう思っているんじゃありませんか?

 この旅も今回で最終回となったが(12回と予定を遙かにオーバーしてしまい、すいません)、ぼくは最後の撮影地に相馬市の「相馬原釜地方卸売市場」を選んだ。その理由はYouTubeで見た津波到来の動画が印象的だったので、撮影というよりその地をこの目で見ておきたかった。写真は二の次という気持ちが強かった。ここの放射線量は、0.15〜0.23マイクロシーベルト/時だが、復旧作業が行われていた。平均0.2マイクロシーベルト/時だとすると、作業員が1年間で被曝する量は1752マイクロシーベルトとなり、“ぼく自身が定めた自身への合意”年間2000マイクロシーベルト(自然放射能を除く)、つまり2ミリシーベルト以下なので、1年間はここに居候してもいいことになる。ちなみに前日1日で浴びた放射線量を計算してみると約220マイクロシーベルトとなり、1年間の居候は自身の合意を破ることになるので、できないことになる。

 卸売市場は瓦礫が片付けられていた程度で、まだ津波襲来時の名残をとどめていた。動画を見たからかどうか、よく分からないのだが、撮影意欲がさっぱり湧いてこなかった。この分析をし始めると今回で最終回とはならなくなってしまうので省略するが、確実なことは「無理をして撮っても写らない」ということだ。新たな発見が得られないのは、ぼくの能力なのかも知れないし、あるいは、病に冒され余命いくばくもない愛犬を残しての旅立ちだったので、罪の意識にさいなまれ、「我に返り」、ぼくの旅は最終地で非日常から日常に引き戻され、もうすでに終わっていたのかも知れない。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/165.html

★「相馬市松川浦01」。崩れ、ひび割れた卸売市場の岸壁を歩き、後ろを振り返ると異様な雲が出現。とっさに、かつて愛用していたコダックTri-Xフィルムを増感し、アナログの暗室作業を施したイメージが膨れあがった。津波はこの2階を呑み込んだのだ。
 データ:2013年6月7日午前9時42分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/125秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「相馬市松川浦02」。頑丈な屋根が、津波で吹き飛ばされた卸売市場。かつての賑わいは戻るのだろうか?
 データ:2013年6月7日午前9時47分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/500秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「相馬市松川浦03」。「01」写真の建物1階。作業員の姿は見当たらなかったが、冬場にはここに座って暖を取ったのだろうか? この旅の最終カット。
 データ:2013年6月7日午前10時01分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 9.0。1/500秒。露出補正-0.67。ISO 320。

★「双葉町04」。写真掲載が前後してしまったが、無人の町の商店。この写真だけはカラー原画とは似て非なるものに仕上げた。カラー原画を見た俗界に住む我が写真倶楽部の面々は「かめやまの嘘つき!」とぼくに毒づくが、旅はやはり「非日常」で、写真は「虚構の世界」なのだ。
 データ:2013年6月6日午後5時57分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 5.6。1/50秒。露出補正-0.33。ISO 200。
(文:亀山哲郎)

2013/08/30(金)
第164回:立ち入り禁止区域を訪ねる(11)
 2日目、朝6時半にJ君とIさんに別れを告げ、ぼくはこの地を襲った津波の爪痕をたどることにした。できるだけ早く撮影を切り上げて帰りたいという事情もあり、「帰心矢の如し」だった。それに加え、前日「立ち入り禁止区域」である浪江町、大熊町、双葉町の現状を一部ではあるが目の当たりにし、放射能汚染に晒され不条理にもすべてを奪われた住民の声なき慟哭に、ぼく自身が行き場を失い、その撞着と衝撃の余波に揺さぶられ続けていた。
 生活の物質的豊かさ=電力という方程式は正しい。「ぼくら日本人は必要以上に物質的豊かさを追い求め過ぎたのではないか。それはもはや前時代的というべき感覚で、精神的・社会的な成熟を置き去りにして、ぼくらはその独走を許してしまった」と、前の晩ベッドに横になりながら自省の念を起こしつつ、J君と語り合った。婉曲な言い回しではなく、とどのつまり「彼らはぼくらの犠牲者でもある」のだ。

 撮影旅行は日ごとに気持ちを入れ替えて、新たな気持ちで臨むというのがぼくのしきたりなのだが、この日はなかなか思うように事が運ばないということに気づいていた。ぼくの知れた方法論に従えば、そのような場合には「再訪を期す」ことと心に言いくるめればいい。未消化な思に囚われれば、「再訪」を促すことで気持ちだけはなんとか乗り切れる。刑事ではないが「何度も現場を踏む」ことで、今まで見えてこなかったものが見えてくるということは事実なのだから。それは、テーマを持って撮影に臨む際の原則であるとも思える。

 今回、ぼくは正味2日間のうち撮影に費やした延べ時間は、約11時間40分。デジタルカメラにはメタデータが記録されているので、撮影時のかなり詳しい情報を知ることができる。計算機を手にしてみると、ぼくは55秒に1枚撮っていたことになる。撮影対象にもよるが、概ね海外でも国内でも私的写真は1日10本(36枚撮りフィルム)を目安としていたので、ぼくにしては多くもなく少なくもなく、いつもの撮影ペースとさして変わりがなかった。デジタルだからといって、特別枚数が増えるわけではないので、なにか損をしたような気になってしまうのは貧乏人の悲しき性なのだろうか。いや、貧乏は悲しいことでも恥ずべきものでもないので、「悲しき性」というには能(あた)わずというところか。

 メタデータにより撮影データを知ることができるので、このシリーズの掲載写真にはすべて正確なデータを記すようにした。今回、意地を通すが如く(まったく無用な意地です)撮影した写真の95%以上は焦点距離16〜35mm(フルサイズ・カメラなので数字通りの焦点距離)の広角ズームを使用しており(私的写真でズームを使うことはめったにないのに)、それもほとんどが16mm寄りの超広角。それにしては撮影f値が絞り過ぎなのではないかと思われる方がいらっしゃるかも知れない。
 ぼくのオリジナルプリント(A3ノビ)を見た友人たちから、「今回のかめさんはすべてパンフォーカス(手前から遠方までフォーカスを合わせる方法)ですね」とか「周辺までとてもシャープだ」との意見が寄せられた。また、読者の方からも「ずいぶん絞り込むのですね」とも。
 確かに広角レンズにしては使用f値が大きいとの指摘は当を得ている。いくらパンフォーカスでもここまで絞る必要はないのではないかと。一般論としていえば、レンズの中心解像度が最も高くなるのは、開放値より2絞り絞ったあたりで、今回使用した広角ズームは開放値がf2.8なので、f5.6まで絞れば高解像度が得られるという理屈は通っているが、それは「あくまで中心部では」という但し書きが付く。
 どのような焦点距離のレンズでも、中心部に比べ周辺にいくに従って解像度は甘くなっていくという性質を持っている。特に超広角レンズでは、ましてやズームでは、特にその傾向が顕著に現れるので、周辺部まで均一な解像度を得ようとすれば、どうしてもある程度絞り込まざるを得ない。その分、シャッター速度が遅くなるので、ブレを警戒しなければならないという二律背反に陥る。その兼ね合いを図りながらの撮影なので、シャッター速度には神経を尖らせてしまう。では絞れば絞るほど良い結果が得られるかというと、今度は回折現象で解像度が極端に低下してしまうという厄介な問題に突き当たる。「あちらを立てればこちらが立たず。智に働けば写真は写らない」で、どちら様の面目をも潰し兼ねず「とかくに写真は撮りにくい」となる。『草枕』(漱石)を真似てどうするんだって!

 どのf値を使えば周辺までシャープに描写できるのか? 自分のシャッター速度の許容値はいくつまでか? 回折現象はどのf値から生じるか? レンズ毎にこの3条件を把握しておけば、破綻のないシャープなパンフォーカス写真が得られる。パンフォーカスは被写界深度ともただならぬ関係にあり、被写体との距離によって変化することを会得してしまえば、もう「鬼に金棒」。やっとそれらしく写真の話ができて、安堵。

 なんとかこの回を最後に、このシリーズを終了させようと努力したのだが、やっぱりダメだ! もう一度だけお付き合いください。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/164.html

★「スクリーニング」。原発周辺と大熊町から帰り、南相馬市にある指定スクリーニング(放射線量検査)場へ。服、機材などを検査。無事終了し、「思ったほど出ないもんですね」と訊ねたら、「水たまりなどでは、針が一気にはね上がることがあるんですよ」と、係のおじさん。
 データ:2013年6月6日午後3時52分。Fuji X100S。絞りf 4.0。1/250秒。露出補正ノーマル。ISO 320。

★「相馬市小高川河口01」。小高川河口。砕けた防波堤が散在している。撮影立ち位置は、元は林だったように思われる。地形が変わりここまで波が寄せている。
 データ:2013年6月7日午前8時29分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 10。1/320秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「相馬市小高川河口02」。小高川河口。海水浴場として栄えたところらしいが、この建造物は津波で押し倒され、砂に深く埋もれている。
 データ:2013年6月7日午前8時31分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/250秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「相馬市小高川河口03」。小高川河口。林の跡地。流木が震災当時のままに残されている。ここより20mほど上流にあるコンクリート製の橋は、橋げただけを残しすっかり失われていた。
 データ:2013年6月7日午前8時33分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 10。1/200秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「南相馬市村上防潮樋門01」。1965年に作られた防潮樋門(ひもん)。小高川河口の近く。写真では樋門の歪みが分からないが、カメラバッグから水準器を取り出しあてがってみるとその歪みが分かる。
 データ:2013年6月7日午前8時43分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/125秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「南相馬市村上防潮樋門02」。同上の施設。なんとも凄まじい津波の威力。
 データ:2013年6月7日午前8時45分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/125秒。露出補正-0.33。ISO 100。
(文:亀山哲郎)

2013/08/23(金)
第163回:立ち入り禁止区域を訪ねる(10)
 撮影初日の6月6日、大熊町の熊川区民会館(第162回で掲載した「熊川区民会館」を参照のほど)を撮影していて、ぼくは北の地にもやや遅れがちな新緑の季節が到来していることに初めて気がついた。もう1週間か10日早ければ、さらに鮮やかな新緑を愛でることができたであろうが、まだ十分にその名残があった。この地に現存する樹木たちは、当初地震と津波に襲われ、その直後に原発事故が起こり、以来2年余、膨大な量の放射線を浴びてきたにも関わらず、何事もなかったかのように粛々と生を営んでいる。凜として佇むその姿は感動的であり、どこか哲学的ですらあった。

 今回は「すべてモノクロのイメージで撮る」と心していたので、津波で半壊した区民会館を目の前にして、かつて愛用していた赤外フィルムのイメージに似せて撮ることに迷いが生じなかった。デジタルなので、樹木、草の一部と空だけに赤外効果を使うという器用さは、アナログでは到底及ばない。デジタルのありがたさにブルブルと身を震わせ(大袈裟ではありません)、一人含み笑いをしながら、ぼくは歓喜にむせんだ。頭の中でイメージがすぐに結像し、印画紙上の黒の濃淡までもが絵を描くように明確なものになっていくのを感じた。
 今から30年以上も前、大型カメラにそれぞれ濃度の異なるY(黄)やG(緑)のラッテン・フィルターを取っ替え引っ替え噛ましながら、岩手県遠野の新緑を撮ろうと苦心したことを思い出した。大型カメラ + フィルターの組み合わせ故、シャッタースピードが長くなり、わずかでも風が吹けばお手上げである。天を恨みながら、なかなか思い通りにはいかなかった苦い経験ばかりが思い出される。時間、費用、根気、体力の要る作業だったことを思えば、ぼくが熊川区民会館で強い放射線に打たれながらも欣喜雀躍するのは、決して御大層な物言いでないことがご理解いただけるだろう。大熊町の公式ホームページによると、6月6日の熊川区民会館周辺の線量は、ぼくの予想通り約25マイクロシーベルト/毎時と、どう考えてもあまり嬉しくない数値だった。

 心を弾ませていると、遠方より赤いライトを点滅させながら1台のパトカーがそろりそろりとやってきた。速くもなく遅くもなく、かなり微妙な速度で接近してきた。何やら「疑心暗鬼」という雰囲気を車が発していた。赤いライトの点滅は、何もやましいところがなくとも条件反射的にビクッとするからいやになる。我ながら情けない。しかし、厳格な法規に倣えば、許可証を申請したのは浪江町町長宛であり、大熊町や双葉町ではないので、無断立ち入りというお咎めを受けても文句はいえないという後ろめたさがあった。ぼくにはそんな含みがあったので、正々堂々と戦えないという弱みがあった。
 2人の警察官は車をぼくの横につけ、歩み寄ってきた。その第一声。「よくここに入れましたね」。強制退去もやむなしかと覚悟を決めていると(もう撮っちゃったからいいや)、一人の警察官が「どうやって入ったんですか? 6号線はあっちですよね。おかしいなぁ」といい、ぼくはどうやら雲行きが少し晴れたような気がしてきた。「いや、6号線はあっちじゃなくて、こっちですよ。ほらっ、こっち。遠くあそこに見えるのが6号線ですよ」と彼に指し示し、ぼくにわずかながら強気が差し始め、“勝てるかも知れない”という予感がしてきた。弱気が強気に転じた瞬間でもあった。

 彼らの言葉を聞くと地元の訛りが感じられず、ぼくのよく馴染んだアクセントと発音でもあった。車のナンバーを見ると「多摩ナンバー」だった。ぼくはこの時、勝利を確信した。少なくとも「現在地」を自覚・自認するという生物の本能に勝っているのは、彼らではなくぼくのほうだった。2人の公僕は見知らぬ土地で方向感覚を失っていたのだった。ぼくはちょっとした後ろめたさを隠し、彼らの疑念をはぐらかそうと、話を続けた。「お巡りさんは東京からいらしたんですか?」。「警視庁から応援ということで派遣されたんですが、何しろ車にカーナビが付いていないもんで、どこにいるんだか分からなくなってしまって・・・」と。パトカーにはカーナビが付いていない(ものがあるらしい)というのはとても新鮮な驚きであり、発見でもあった。ぼくが第156回でカーナビについて述べたことは、ここ大熊町で実証された。愛すべきお巡りさんたちだった。許可証と身分証を提示し、彼らは照会を済ませ、ぼくは無罪放免となった。はなから、迷子のお巡りさんにぼくの無断立ち入り?を咎める資格はなかったのである。

 「立ち入り禁止区域」を貫く6号線は、その区間では通行許可証が必要で、検問所を通らなければ目的地へ行けないような仕組みになっている。住民の財産を保護するために、6号線から横道には侵入できないようにどこにでも柵が設けられていた。ぼくが区民会館にたどり着いたのは、無意識のうちに抜け道を探り当てたからに他ならない。土地勘のない彼らが不思議がるのは、もっともなことだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/163.html

★「浪江町01」。6号線沿線。海岸から約3kmの地点。画面右側が海。走行中か停車中だったかは定かではないが、津波によって押し流された車がこの一帯にはたくさん転がり、手つかずのまま放置されている。
 データ:2013年6月7日午前7時36分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/250秒。露出補正-0.67。ISO 100。

★「南相馬市02」。南相馬市の海岸を走っていたら小高い丘が見えた。草の生い茂るなかを登ると異次元空間と思われるような草地があり、村上城跡とあった。まるでA. タルコフスキー監督の名画『ストーカー』(ロシア語で“密猟者” という意)を思わせるような光景だった。余談だが、この映画を退屈だと感じる向きは、映画や映像美の何たるかをまったく理解できない人たちである。
 ここは海岸沿いであるにも関わらず海抜24mなので津波は免れたようだが、地震で石の鳥居は崩れ落ちていた。この一帯は無人地帯。
 データ:2013年6月7日午前8時01分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/1000秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「南相馬市03」。同、村上城跡にある貴布根神社。地震でぺしゃんこに。赤外フィルムをイメージして。
 データ:2013年6月7日午前7時58分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 9.0。1/100秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「南相馬市04」。南相馬市小高区は猛烈な津波に襲われた。かつての田んぼは未だに放置され、沼地と化す。正面の堤防は破壊され、防風林が2本だけが残されていた。
 データ:2013年6月7日午前8時09分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/200秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「南相馬市05」。同、小高区。無人地帯のため瓦礫が撤収されずそのままなのは、放射能汚染のため引き取り手がいないからなのだろうか? この一帯も復旧作業の気配がない。
 データ:2013年6月7日午前8時10分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/125秒。露出補正ノーマル。ISO 100。

★「南相馬市06」。海岸から約100m。墓石が津波で流出後、まとめられたのか? であれば、なぜ砂に埋もれた部分があるのだろうか? 写真の墓石の周りには散乱したり、倒れたりした墓石も多く見られた。周囲には破壊されたコンクリートの堤防の破片が多く散乱していたので、ぼくには推理不能。
 データ:2013年6月7日午前8時25分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/160秒。露出補正-0.33。ISO 100。
(文:亀山哲郎)

2013/08/09(金)
第162回:立ち入り禁止区域を訪ねる(9)
 福島第一原発の南に隣接する福島県栽培漁業協会関連施設に、弾けた津波が、次から次へと波打ちながら牙を剥いて襲いかかり、建造物の肉を削ぎ骨組みだけを残し、そして通り過ぎていった。引き裂かれたほとんどの内臓は引き波とともに海の藻屑と消え、見るも無残な姿に変わり果てていた。津波の轟音とともに活気にあふれた人々の声は一瞬にしてかき消され、今は深閑としたなかに、どこか物憂げで痛々しくはあるが、一方で咆哮のうねりのような残滓があちらこちらにこだまのように響き渡り、辺り一帯を覆っている。行き場所を失った大きな怪物がくさりに繋がれたまま、のた打ち、もがいているようにも感じられた。初夏の海風に吹かれながら、そんな気配だけが色濃く確実に取り残されていた。(第161回、写真参照)。
 震災から2年余、本来であれば復旧作業に従事する多くの人々の往来があってしかるべきところ、音もなく高濃度の放射性核種が膨大に降り注いだために、それもままならない。
 今回の旅は、もともと嘘で塗り固められた「安全神話」が、砂上の楼閣のようにもろくも崩れ落ちていく様を目の当たりに実感できる、そんな貴重な体験でもあった。

 栽培漁業協会の撮影にあたって、幸か不幸か、ぼくは線量計を持参していなかったので、気を強く持てという方が無理というものだ。科学的な裏付けがないので、科学信奉者のぼくとしては、とにかく気味が悪く、心細い。もともと気弱で臆病な質ながら、それでも気丈夫を装い、「助平心を慎み、よこしまな思いを抱くことなく、素早く確実に写し取ることを旨とし、一意記録に徹すること」と自分に言い含め撮影に臨むしかない。初心に返り、「写真は引き算。エッセンスだけを選び抜く」、「あれこれ説明しようと欲張らず、主被写体だけに焦点を絞ること」、「ディテールを克明に描写すること」を標語とし、それさえ履践すれば自ずと写真は何かを語ってくれるのだと、ぼくはしきりに自己暗示をかけ、その気になっていった。気楽なもんじゃないか、と。
 通常ではなかなか見られない場所に立ち入ることができたのだから、ここの姿を可能な限り余すところなく写真に記録し、人々に伝える義務と責任があるのだと、我にして健気ながらも殊勝な気持ちが芽生え始めたことも確かだった。

 そして「武士の三忘」に倣い? 3つのことを課した。「武士の三忘」とは、武士が戦場に臨む際の3つの心得。命令を受けたら家を忘れ、戦場にあっては妻子を忘れ、戦いが始まったら我が身を忘れること。
 1.カメラバッグを地上に置かないこと。
 2.物に触れないこと。
 3.足下と頭上に気を配ること。
 「武士の三忘」とはちょっと異なるが、心がけはなかなか良かったのに・・・。

 ここだけの話、何十年ぶりかで、ぼくは蹴躓(けつまづ)き転んでしまった。膝小僧を地面のアスファルトにしたたかに打ちつけ、しばらく立ち上がれず体を横たえたまま苦痛の唸り声を上げた。あれからちょうど2ヶ月経った今もアザが消えずにほんのりと赤い痕跡を残している。地面との摩擦でタイベックス製の防護服が膝の部分だけ擦り傷のようにほころび、直径1cmほどの穴があいた。よりによって、こんな所で、しかも記憶にないほど遠い昔に転んで以来のドジである。なんとも間が悪すぎる。

 もし、再び「立ち入り禁止区域」の許可が得られれば、ぼくの所属する写真倶楽部の有志を募って10月にでも再訪しようと思っているが、ぼくは上記の3箇条を彼らに向かって声高に言い放つのだろう。知ったかぶりをしながら、こまごまと注意を促すに違いない。そのような号令を発するであろう男が、真っ先に掟を破ってしまったのだから、本当に一人でよかった。もし、衆目があれば、ぼくはどのような顔をして照れを隠し、プロの沽券を取り戻そうと画策するのだろうか。

 痛む足を引きずりながら、「誰もいなくてよかった。誰も見ていないだろうなッ」とぼくは顔を引きつらせながら大根役者のように辺りをキョロキョロと見回した。誰もいないことを知りながらも、ぼくは膝をさすりながら撮影を一時中断し、しきりと言い訳を考えていた。「ああ、カッコ悪い!」と顔が火照るのを感じた。膝を赤くしたり、赤面したりで、ぼくはけっこう忙しかった。
 もんどり打って地表に叩きつけられ、その衝撃の割にカメラ機材は無傷だったのだから、「カメラは無事、これ名馬なり」なんていっちゃうんだろうなぁ。

 栽培漁業協会の敷地から数m下の浜辺に立ってみようと思った。しかし、足場が悪く、崩れたアスファルトの隙間から下りようと思えば下りられるが、土壌がもろくなっており、機材を抱えたままでは泥にまみれる可能性があるので断念してしまった。
 そこから南に下り、「原発の海」を撮れる場所まで足を伸ばした。距離にして1.5kmほどだろうか。防波堤はあちこちが崩れ、なぎ倒され、道路のアスファルトはめくれ上がり、テトラポッド群は津波の猛威に湾曲状になり、浜辺の際まで打ち上げられていた。道路があるということは、おそらく人家もあったのだろうが、何も見当たらない。太平洋の荒波の音だけが、今は平時を装いながら響き渡っていた。

※来週はお盆休みで、休載となるそうです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/162.html

★「栽培漁業協会07」(前回からの通し番号)。ドーム状建物から道1本隔てたところにある瀟洒な建物で、何に使われていたのか正確には分かりかねるが、事務所であるような気がする。
 データ:2013年6月6日午後1時37分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/400秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「原発の海01」。原発から約2km南に下った海岸。ご覧の通り。
 データ:2013年6月6日午前10時29分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 10。1/250秒。露出補正-0.67。ISO 100。

★「原発の海02」。破壊された堤防の一部がテトラポッドの上に乗っている。このあたりの海は高濃度汚染水で激しく汚染されているのだろう。ここより約600m南には熊川海水浴場があるが、もう誰も泳げない。
 データ:2013年6月6日午前10時47分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf9.0。1/250秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「人家の跡」。「原発の海02」を背にして、約50m西にあった人家。瓦礫ととともに引き波ですべてがさらわれ土台だけが残ったと思われる。斜めになりながらも必死に耐えた樹木が1本。
 データ:2013年6月6日午前11時4分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/125秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「熊川区公民館」。海岸より約800mにある大熊町の区民館。海側に面した建物の半分が洗い流されている。後方にある諏訪神社は石の鳥居が破壊され、舎屋は喪失。小さな祠だけが区民館が防波堤となり取り残されていた
 データ:2013年6月6日午前11時28分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/320秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「只今撮影中」。栽培漁業協会で撮影中に人影がよぎった。「あれっ、何で人がいるの?」と一瞬感じたが、それは窓ではなく鏡であることが判明。自分の取材姿を得意気に書籍やネットで公開する人がいる。ぼくはそれが大嫌いだが、顔が分からないのと給食おばさんならぬおじさんのような防護服姿が滑稽なので、掲載することに。こんな恰好で撮っておりました。頑丈な鉄筋建造物が横倒しになっている。その洗面所だろう。
 データ:2013年6月6日午後14時3分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf6.3。1/400秒。露出補正ノーマル。ISO 100。
(文:亀山哲郎)

2013/08/02(金)
第161回:立ち入り禁止区域を訪ねる(8)
 2011年3月11日、東日本を襲った未曾有の災害についてぼくは今日こんにちまで強い関心を持ち続けてきた。震災直後、おっとり刀で現地に駆けつけた有象無象(うぞうむぞう)の人々(救命・救助・報道・学術調査・復旧の専門家を除く)を尻目に、ぼくは地震・津波災害の地を積極的に訪れようとはしなかった。それは、震災直後の生々しさだけが、写真に於けるリアリティではないという自分の規範と信念に従ったからであり、そして自身の姿・恰好を鏡に照らし合わせての判断だった。特別謙虚なわけでもなく、また怠慢からでもない。後からでも真実はどこにでも発見でき、また語りかけてくるものだ。そのような痕跡や余韻を見つけ出し、想像や洞察を働かせながら写し取る作業がぼくには向いている。大言を許していただけるのなら、真実や事実の探究は、地質学者や考古学者、歴史学者の専売特許ではなく、それも写真屋の大切な仕事のひとつなのではないだろうかと思う。

 しかし、原発事故の原因は今回の大震災とはまったく関係がないとぼくは言い切る。想定外の地震が起きたから、想定外の津波が襲ってきたからだと、そのような見立てをしたがる、もしくはしている人々が大勢いることは百も承知。想定外とはなんという便利な言葉なのだろう。想定外のことが十分に起こりうると内外から散々指摘されてきたにも関わらず(つまり想定内だということ)、見て見ぬ振りをしながらおとがいで人を使い、利いてきたのはどこの誰だろう? 開いた口が塞がらず、おとがいを解いたのはまさに私たち庶民である。原発再稼働を事故要因の確率論という数字のトリックで大衆を欺き、押し進めようとする非科学的な頭脳構造を有した役人や学者がたくさんいることも然り。単身、車のハンドルを握り、飯舘村をドライブしてご覧なさい。「沈黙の町」を独りで歩いてみればいい。そうすれば自分たちのしでかした“事の重大さ”に初めて気づく“かも知れない”。ぼくがそうしたから、という短絡的な意味合いを込めていっているわけじゃない。
 世界有数の地震大国である日本(世界のマグニチュード6以上の地震の20%以上が日本で起きている)は地震活動期に入ったというのに、これからこの国はどうなってしまうのだろう。
 地震・津波ですべてを奪われた被災者の悲しみや苦難は、他所に住む者にとって途方もない出来事に違いないとしか捉えることができない。そこに人災である放射能汚染という目に見えない恐怖が襲いかかれば、言葉を失う。「明日は我が身」と捉えるのがまともな思考回路の持ち主だろう。

 さて、今回ご覧いただく写真は、福島第一原発の南に隣接する「福島県栽培漁業協会」である。実は栽培漁業とは何を意味するのかぼくは知らなかった。原発から排出される温排水の一部を適切な水温に調整し、ヒラメ、アユ、アワビなど魚介類の稚魚を育成する施設なのだそうだ。
 日本全国の原発から、原子炉冷却のために一基あたり毎秒70トンもの膨大な量の温排水が海に放たれている。その悪影響と生態破壊についてはあまり語られないが、主題から外れるので割愛させていただく。一酸化炭素より地球温暖化の大きな要因となっていると指摘する信頼すべき学識者たちもいる。嗚呼、また横道に逸れそうだ。

 原発周辺をうろついていたら、カマボコ状の大きな建物が朝もやに包まれひっそりと佇んでいるのが目に入った。目を凝らすと、それは津波と地震により大破した無残な姿だった。ここは放射線量が高いだろうから、復旧の手が入らずに地震と津波に襲われた当時のままの原形を留めているとぼくは推量した。「地震・津波・放射能」に襲われた象徴的な建造物として、ぼくはいつになく気合いを込めて撮ることに決めた。まぁ、気合いを込めてもそうでなくとも、ぼくの場合は大差ないんですが。後にこの周辺をうろついたJ君に「あのあたりの線量はいくつくらいだった?」と訊ねたら、彼はひょうひょうと事も無げに「35マイクロシーベルト/毎時前後でしたよ〜」と正しい日本語で教えてくれた。年間の積算線量は約300ミリシーベルトとなり、やはりここの従業員たちは戻って働くことはできない。ぼくは電話口で思わずJ君に、「そんなところで遊んでいるとママに叱られるぞ」と喉まで出かかったが、不謹慎のそしりを免れないあまり質の良くない冗談と知り、その言葉をグッと呑み込んでしまった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/161.html

★「栽培漁業協会01」。朝もやにかすむ栽培漁業協会。手前の橋は崩壊しており、迂回しないと現場に辿り着けない。漁業協会は海抜数mのやや高台にある。ここを呑み込んだ津波の高さは何mほどだったのだろうか?
 データ:2013年6月6日午前8時50分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/320秒。露出補正-1。ISO 100。

★「栽培漁業協会02」。霧が晴れるのを待つために一旦他所へ移動し、午後に再び舞い戻る。カマボコ状建物の内部。手前の円形跡は水槽があったところ。建物の約1/3が津波で破壊されている。
 データ:2013年6月6日午後1時39分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 9.0。1/250秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「栽培漁業協会03」。海側で、津波の直撃を受けている。写真の右はすぐ崖となり、海に面している。
 データ:2013年6月6日午後1時42分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 10。1/400秒。露出補正-0.67。ISO 100。

★「栽培漁業協会04」。水槽の並んでいたところだが、どのような建物だったかは分からない。水槽が屋根なしのところに置かれていたとは思えず、跡形もなく吹き飛ばされているので鉄筋ではなかったのだろう。東電の空撮写真によると、屋根らしきものがある。
 データ:2013年6月6日午後13時43分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 11。1/500秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「栽培漁業協会05」。原発から排出された温排水を適切な温度に調整するための施設ではないかと思われる。写真左が海側で、丈夫な鉄筋コンクリートが破壊されている。
 データ:2013年6月6日午後1時50分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 9.0。1/25秒。露出補正-0.67。ISO 320。

★「栽培漁業協会06」。建物の北側全景。左が海。
 データ:2013年6月6日午後14時11分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/320秒。露出補正-0.67。ISO 100。
(文:亀山哲郎)

2013/07/26(金)
第160回:立ち入り禁止区域を訪ねる(7)
 普段、まったく人付き合いの悪いぼくが、旧知の友人たちや先輩方と疎遠にならずにつながっていられるのは、この拙稿のおかげという側面が多々あって、時々意見や感想、質問をメールで伝えたりしてくれるからだ。特に今連載している「立ち入り禁止区域を訪ねる」は、よほど関心があるとみえて反応が強い。ありがたいことに、読者諸兄からも、いつにもましてメールをいただいている。
 先日も、出版社時代のぼくをよく知る先輩から、こんなメールが寄せられた。「一読すると、かめさんにしてはいつもの論調とは異なり、随分抑制を利かせて書いているように思えるけれど、行間から義憤が噴き出していますね。現場の空気を吸った者として、かめさんの性格からしても、もっと書きたいことがあるのではないのかと察しています。避難区域のああいうタッチの写真は初めて目にするし、文章で主張したいことを補って余りある表現をしていると痛感するけれど、本当はどうなの? また、故吉田所長にも触れているけれど、巷で言われているように彼を英雄視しているわけではないでしょう?」(メールのママ)となかなか鋭い質問を浴びせかけてきた。

 事実として、故吉田昌郎所長が震災前に、そして震災時に誤った判断を下したということは様々な書物に取り上げられている。人は誰でも過ちを冒す。自分の冒した過ちについて彼は東電幹部、政府と関連省庁役人のような保身のための責任転嫁、隠蔽、偽言をすることなく、その反省を踏まえて、だからこそ命を賭して闘い、結果として日本崩壊という当座の大惨事を防いだということをぼくはいっている。最低限の職業倫理、そして人間としての倫理感をあの極限状況のなかで守り抜いたことは、やはり尊ばれることだとぼくは述べたつもりだ。他の文脈との対比でそれを読み取っていただければと思う。

 また、読者の方から、第154回に添付した写真「福島第一原発」の汚水タンクは「なぜこんなにタンクが作られているのですか?」という素朴な質問もいただいた。これは大変重要な質問なので、各方面からの書物から知り得た情報を要約してお伝えしておこう。
 事故を起こした福島第一原発の核燃料は事故初日から溶融し始めた---いわゆるメルトダウン。政府、東電、保安院、マスコミは事故直後、炉心溶融が良心的でフェアな学者たちから指摘されていたにも関わらず(素人のぼくでさえそうなると推測していた)、“溶融”という語彙を意図的に使わず“損傷”と言い換え、もしくは「通常とは違う状況になっている可能性がある」(東電小森明夫常務)、「必ずしも溶けてなだれ落ちているという状況ではない」(松本純一原子力立地本部長代理)と言葉巧みに、あの手この手で現実を曖昧なものに見せかけてきた。国民をいつもの手で欺こうとしていた。そのために被曝せずにすんだ人までもが被曝した責任は重大な過失といえる。保安院がようやく“溶融”と認めたのは事故から2ヶ月以上経過した5月22日。事故翌日の3月12日に「炉心の燃料が溶け出しているとみていい」(共同通信)と発言した原子力保安員の中村幸一郎審議官は直ちに事実上更迭された---。正直で誠実な者がはずれくじを引かされるような醜い仕組みになっているのである。
 “溶融”で発生する熱を冷やし続けるために注入した水が高濃度の汚染水として(汚染地下水も含めて)毎日約400トンも溜まり続けている。そのようなものを海に流すわけにはいかないので、東電は現在敷地内の林を伐採し急ピッチで汚水タンクを増設し、タンクで埋め尽くそうとしている。炉心冷却のため、その高濃度汚染水は今後最低でも10年間は出続ける。一体どうするのだろう?原発は「トイレのないマンション」なのだそうである。「トイレのないマンション」とは、本来核廃棄物の処理方法が解決出来ずに増え続けるという意味である。
 ちなみに、1979年に米国スリーマイル原発事故で生じた汚染水は8,000トンで、当初隣接するサスケハナ川に流そうとしたが住民の抗議により、やむを得ず汚染水をできるだけクリーンにし、蒸発させ空中散布した。この事故で、空気中に放出された放射性物質はキセノンなどの希ガスと呼ばれるものが主で、放射性ヨウ素は微量。セシウム137は放出されず、人体への影響はなかったとされるが、過去に米国が行ってきた非人道的で嘘八百ばかり並び立ててきたことを知っている者にとって、誰が信用などするものか! 米国が設置したABCC(原爆障害調査委員会)が原爆投下後の日本で一体何をしてきたか、みなさん、どうか知ってください!

 第154回の添付写真の下部に写っている黒い袋は、高濃度に汚染された土壌や廃棄物などを入れたフレキシブル・コンテナーだと思われる。捨てる場所がなく敷地内に放置されているのだろう。
 ぼくの撮った増設中の汚水タンク群は、現在のGoogle Mapではまだ映し出されていない。

 双葉町をはじめとする避難区域を称して「ゴーストタウン」とも呼ばれるが、我々の認識している「ゴーストタウン」とはそもそも成り立ちの要因がまったく異なるのでぼくには抵抗感がある。「死の町」と呼称し政争の具に使われた政治家もいたが、それは別としてもやはりひどく違和感がある。あの現場に立って、自分の感覚に最も近い形容を探し求めてみたが、なかなか見つからず、強いていえば、「沈黙の町」なのかなとも思う。一瞬にして造化が禁じられ、停止し、沈黙し、ささめきさえ断たれたのだ。住民は何一つ抵抗できず、誤った情報に翻弄され、1号機の水素爆発とともにすべてを奪われたのだった。押し黙る他なかったのだ。やり場のない怒りと無念さを思えば、あの光景は筆舌に尽くしがたい。ぼく自身も自家撞着のるつぼに呑み込まれている。

※前回の添付写真「双葉町11」の解説文にて「震度5強」と記しましたが、「震度6強」であったことが、福島県地方自治情報センターの書面にて判明いたしました。訂正させていただきます。尚、人口6,923人の双葉町の地震による死亡者は53名、行方不明者1名。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/160.html

★「原発01」。原発作業員と4号炉煙突。
 データ:2013年6月6日午後12時57分。EOS-1DsIII。EF50mm F1.8。絞りf 8.0。1/640秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「原発02」。何を思うか原発作業員とやがて汚水タンク増設のために伐採されるであろう林。
 データ:2013年6月6日午後1時05分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/100秒。露出補正-0.33。ISO 100。

★「避難01」。原発の南に隣接する民家。震災当日の夜に避難指示が出たまま放置されている。クローバーの花が咲き乱れていた。
 データ:2013年6月6日午前9時11分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 9.0。1/160秒。露出補正-1。ISO 100。

★「避難02」。ここも原発隣接地にある民家。できる限り私有地には立ち入らないように心がけたが、着の身着のまま避難せざるを得なかった人々の気配を求めて。
 データ:2013年6月6日午前9時01分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 5.6。1/20秒。露出補正-0.33。ISO 250。
(文:亀山哲郎)

2013/07/19(金)
第159回:立ち入り禁止区域を訪ねる(6)
 過酷事故を起こした福島第一原発は、東京から直線距離にして北北東230kmに位置し、福島県双葉町と大熊町をまたいで立地している。原子炉1〜4号機が大熊町、5〜6号機が双葉町に属する。関連施設を含めたその敷地は約350平方キロで、東京ドームの約75倍という広大な面積を占めている。

 拙稿にて現在ぼくが綴り、写真を掲載している双葉町について、原発事故発生時から住民の避難に至る経過を執筆者として大雑把にも記すべきかどうか図りかねたが、ぼくは直接の取材者ではなく、あくまでもそれらの情報は6,000ページ近い書物や資料からの引用に過ぎず、いわば一読者である。
 東電幹部とその取り巻き識者のように「事故が起こったのは(“起こした”ではない)、あたしたちのせいではぜ〜んぜ〜んなくて、すべて津波が悪いのよ〜」の大合唱のもと、臭い物には蓋をして頬被りする無責任・無反省・無謝罪・御身大切・データの隠蔽体質などなど(ご興味のある方は「東電事故調最終報告」をご参照のほど。しかし、東電しか知り得ない基礎的なデータ以外は読む価値もない。犯罪者が自分の都合の良い証拠だけを採用して、被害者を演じている裁判のように思えてならない)、はらわたが煮えくり返り、胸の悪くなるような言い逃れを、ぼくは真似たくない。「だって、あの本にはこう書いてあるんだもん。だからぼく知らないもんね」。

 彼らや、3.11震災発生直後に現場での重大任務をいの一番に放棄し、敵前逃亡を図り、60km以上離れた福島県庁に真っ先に、ちゃっかり逃げ込み果(おお)せた原子力安全・保安院の保安検査官たち。ぼくが何を書こうが彼らほどその重責を担うものではないが、書き手として、写真屋として、彼らとは異なった職業倫理とささやかな矜恃くらいは持ちたいものだ。

 しかし、書物など漁らずとも、事故発生当時からマスコミなどに頻繁に登場していたその手の人間たちの所行や思考が(もちろんフェアな人々もいたことは否定しないが)、如何にうさん臭く、直ちに信用しがたいものであるかは、専門家でなくとも、物事を少し理論的に筋道立てて考える人であれば十分に予見・洞察できる類のものであったはずである。多少の嗅覚があれば、そこには、過去の公害と同じ図式が透けて見えてくる。
 現場で闘った故吉田昌郎所長をはじめとする東電作業員と協力会社作業員、日本を窮地から救ったいわゆる「フクシマ50」(実際は70人)の献身的な作業は、彼らの名誉のために書き留めておかなければならない。関東首都圏をも覆う原発から半径250kmに住む3,000万人の避難という日本崩壊を、すんでのところで食い止め、救ったのは彼らなのだ。ぼくが今のうのうとコーヒーをすすりながら、さいたま市でこの原稿を書いていられるのも、彼らの知見と勇気、その行動力のおかげだ。
 けれど、現在まだまだ予断は許されず、危機的な状況から完全に逃れられたわけではないことも付記しておかなくてはいけない。

 毎度毎度、「写真よもやま話」と称しながら、写真の話には触れずこんなことばかり書き連ねていることに気が咎めるのか、ならば写真添付でお茶を濁し、やり過ごそうとしていることを弁明するために、「世の中には本業を顧みず、保身に明け暮れながら、自分の利益ばかりを追求して恥じない輩もいる。それに比べればぼくの使命放棄など取るに足らないものだ」ということを、まわりくどく読者諸兄に言い放っているように思えてならない。「左右を顧みて他を言う」の故事に倣い、従うことを止めそろそろ写真の話をしなければ・・・。

 チェルノブイリ事故当初、そこに映し出された映像や写真に、白い小さな斑点のようなものがパチパチと記録されているのを、読者は覚えておられるだろうか? 放射能(放射線)は肉眼では見えないとされているが、フィルムには写る。強い放射線なら、フィルムの感光材(おそらく銀粒子)に確実に反応して、記録される。デジタルは分からないが(多分、反応しないのだろう)、しかし、ぼくのまぶたにはチェルノブイリで記録されたパチパチ光る斑点のある映像が、しっかり定着液に浸され、こびり付いている。

 今回の短い旅でぼくは756枚の写真を撮ったが、シャッターを切った後思わず「よしッ!」と呟いたものがたった1枚だけある。降り積もった放射性物質が撮れたような気がしたからだった。それが第157回に掲載した“参考写真:「双葉町02」”である。Rawデータを現像し、モノクロ変換をした後、細部を調整し入念に仕上げたものだが、人っ子一人いない寂莫とした世界は表現できたものの、積もっているはずの放射性物質がどこにも写っていないのだ。撮影時とはやや異なったイメージになり、猛烈なストレスに襲われてしまった。その後、あの手この手を駆使して、あの時にイメージできた映像(確かに積もった放射能が見えた)を再現しようと、Photoshopという暗室でたった1枚の写真再現に5時間半も費やしてしまった。90%近く撮影時のイメージが再現できたので、もう一度掲載させていただこうと思う。暗室操作で虚構を作り出すのではなく、撮影時の虚構の世界こそが、ぼくのリアリズムなのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/159.html

★「双葉町10」。第157回参考写真「双葉町02」を再補整し、より撮影時のイメージに近づけたもの。元データにソラリゼーションをかけたものをレイヤーに重ね、さらにRGBが0の真っ黒のデータを上乗せし、不透明度を調整しながら、マスク上でブラシを使い削り取って行くという非常に面倒な作業を何度か繰り返した。撮影データは同じ。

★「双葉町11」。震度5強の地震と度重なる余震により倒壊した医院。
 データ:2013年6月6日午後6時04分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 7.1。1/30秒。露出補正-0.67。ISO 200。

★「双葉町12」。ガソリンスタンド。後方の建物は双葉町体育館。
 データ:2013年6月6日午後6時26分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 5.6。1/125秒。露出補正-0.67。ISO 320。

★「双葉町13」。初發神社前の商店街に崩れ落ちた木造家屋。
 データ:2013年6月6日午後6時19分。Fuji X100S。焦点距離35mm。絞りf 5.6。1/105秒。露出補正-1。ISO 200。
(文:亀山哲郎)

2013/07/12(金)
第158回:立ち入り禁止区域を訪ねる(5)
 撮影初日、ぼくは午前5時半に起床した。なんと5時半である。いつもなら睡魔に襲われ本を閉じる時間だ。ぼくにとって、この尋常ならざる早起きは気持ちが張り詰めていたからではなく、「地震・津波・原発事故」をひとつのテーマとして捉え、扱おうという欲張った企みのため、撮影時間が正味2日間では足りないと予想してのことだった。そして一刻も早く切り上げて、帰京したいという事情も抱えていた。
 確か、F. カフカの小説に「早起きは人をダメにする。したがって人間は十分な睡眠を取らなければならない」という主人公の一節があったように思う。『変身』だったかも知れない。
 ぼくはとんでもない早起きをし、福島へ来る前日までの約1週間、睡眠時間が平均2〜3時間だったので、カフカの言によれば、人の体(てい)をまったく成していなかったことになる。
 それに第一、にわとりと同じような時間に起きるということがそもそも大いなる辱めだ。にわとりは面相も声も仕草も、最も美しくもなく可愛くもない鳥であるからして、ぼくはカラスの次に気に入らない。そんな屈辱を受けながら「早起きは三文の徳」などという戯れ言に惑わされ、それに従ういわれはぼくにはない。こんな諺を真に受けてはいけない。この諺の元々の意味は、「早起きなどしても三文の得にしかならない」であって、「だからそんな愚かしいことはするな」という戒めなのだ。ぼくは長年カフカの仰せに従ってきた。ここ福島県にはその昔、小原庄助さん(会津)という清濁併せ呑んだ(とぼくは勝手に決め込んでいる)生き方をした男がいるではないか。彼の郷国で5時半に起床せざるを得ないことはなんという皮肉でありましょう。カフカも小原庄助も人間臭紛々としていて、まことに正しい。

 前回、双葉町の写真を掲載したので、旅を時系列に語るとはいかないが、双葉町の話から始めることにする。

 当日、午前6時過ぎからぼくは福島第一原発周辺をうろつき、午後3時に一旦宿舎のある南相馬市に戻り、そこで3人顔を揃えた。Iさんは思ったような写真が撮れなかったのか、かなり神経が立っていたようだ。英国仕込み特有のレディであり(近年は“英国レディ”など希少価値だそうだが)、その対応ぶりは穏やかだが、どこかピリピリした空気を漂わせていた。撮影の手応えを気に病んでいたに相違ない。
 その伝、若年のJ君の方は逞しい。彼は撮影結果より、8x10インチフィルムの残数の方が気になるらしい。神経が細やかで実に利発な男だが、一方でどこか間が抜けていて、信じ難いドジをよく踏むなかなかの大物でもある。ぼく同様、彼も科学信奉者であるので、フィルムは化学反応による現像をしてからでないと分からないから、今、結果など気にしても仕方がないじゃないかと暗に語っている。それは大変まっとうな心得で、“手応え”という非科学的な“勘”などには頼らないぞという気概を示していた。この開き直りというか割り切り方が実に清々しい。
 ぼくは今回、アーティスティックな写真ではなく記録優先という意図を明確に持っていたので、撮影に際して自己の心情より倫理観に忠実に従うというやっかいな義務感を除けば、今回の撮影作法もやはり「お気楽トンボ」だった。もう一度初心に返り、「しっかり丁寧に写し取る」ことを最大の優先課題とした。我が写真倶楽部の人たちに80枚の写真を公開したら、「かめさん、そうはいってもやっぱりかめやま調だよ、どうみてもかめやま調!」」と断じられ二の句が継げなかった。自分の体臭は自分では分からないということなのだろうか。

 双葉町には町のイメージに合った光を考え、夕刻5時から出かけることにした。この季節なら、7時まで撮れる。ぼくの文章では、センチメンタルな描写は一切したくはないし、それに貧弱なものしか表し得ない。しかし、この静寂はかつて北極圏の孤島で経験したそれとどこか相通じるものがあった。双方の相似点はそこにかつて多くの人間の息づかいがあったということだ。その息づかいがある時期を境に突然、時空からかき消え、気配だけがどこかにひっそりと取り残されたことである。

 自分の呼吸と胸の鼓動しか聞こえないなか、たった1匹しか出会うことのなかった生き物、小鳥(にわとりではない)の羽音と甲高い鳴き声がこんなに鮮明に大きく聞こえたことは未だかつてないことだった。静と動のコントラストが際立っていたからだ。このような場での人間の感覚は、一桁も二桁も鋭敏になることをぼくはよく知っている。

 深閑とした空気に馴染んだ頃、遠くから赤いライトを車上に点滅させながら一台のパトカーが近づいてきた。なんだか現実のものとはどうしても思えない不思議な光景だった。人の気配はどこにもないが、パトカーだけはどこでも頻繁に顔を出す。原発周辺でも同様。ぼくはその都度、許可証と身分証を提示しなければならない。照会が済むと彼らはぼくに別れ際敬礼をし、ぼくは「ごくろうさまです」と笑顔を返す。
 照会を終えた警察官はぼくに、「ところで猪豚ってご存じですか? 豚とイノシシが自然交配してですね、あちこちに出没しているのですが、決して刺激しないでくださいね。危ないですから」と忠告してくれた。「猪突猛進というわけですね」とぼく。「そう、そうなんです。あいつら、体当たりしてきますからね。そういう時は物陰にサッと身を隠せば大丈夫ですから。実は私も何度か・・・」と、業務を忘れて身のよけ方まで指導してくれる。東北の人は親切だ。
 「捕獲しないんですか?」と聞くと、「猪豚は美味いというが、ここのは汚染されているから食うわけにはいかんのですよ。だから始末が悪いんです。なにもかも地元の物は食えなくなってしまいました」と、悲しげに目を伏せて呟く。パトカーが去ると、つかの間の人気が幻となり、再び深い閑寂の世界が舞い戻って来た。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/158.html

★「双葉町06」(前回からの通しナンバー)。双葉駅。真っ赤に錆び付いたレールと雑草が生い茂る。
 データ:2013年6月6日午後5時48分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 8.0。1/50秒。露出補正-0.67。ISO 100。

★「双葉町07」。二階建ての家の一階がぺっしゃんこに潰れ、道路に投げ出されたまま歳月が経っていく。
 データ:2013年6月6日午後6時15分。Fuji X100S。焦点距離35mm。絞りf 8.0。1/40秒。露出補正-1。ISO 200。

★「双葉町08」。三叉路に佇む美容室。ドアを覆った蔓が2年以上の歳月を物語る。
 データ:2013年6月6日午後6時22分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 5.6。1/80秒。露出補正-0.67。ISO 100。

★「双葉町09」。崩れ落ちた塀と曲がった屋根。遠くの寺が何かを語る。
 データ:2013年6月6日午後6時38分。EOS-1DsIII。EF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf 7.1。1/30秒。露出補正-1。ISO 400。
(文:亀山哲郎)