![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2012/11/09(金) |
第125回:津波の地を訪れる(5) |
「うらやす」に同行した人たちが、写真を撮るために深閑とした構内で何を感じ、どう考えていたかをぼくは知らないが、誰もがいつになく寡黙で、ふさぎ込んでいるように見えた。廊下ですれ違ったMさんにぼくは「ソロフキみたいだ」とつぶやき、Mさんも「あなたがそう感じ取っていることは、私にも伝わってくる」と神妙な眼差しを向けながら、間髪をおかずに返してくれた。
ソロフキとは、ソロヴェツキー諸島(1992年世界遺産登録)の略名で、スターリン時代、北極圏直下に存在した絶滅収容所第1号のあったところ。あらゆる拷問と虐殺方法がここで考案・組織化され、ソビエト全土にガン細胞のように繁衍(はんえん)し、全土で約2,000万人の命が不条理に奪われた。ソビエト連邦の悪名高き「強制収容所」は、1923年、ここ「ソロフキ」から始まった。 長年、国家の隠蔽工作により外国人はおろかロシア人でさえも立ち入ることができなかったこの地へ、長年の念願が適ってぼくは2004年に訪れることができた。ソロフキの存在を超大作『収容所群島』(1973年)で世界に知らしめたロシアのノーベル賞作家A. ソルジェニーツィンは同年国外追放となる。 類似点に於いて著しく異なる「うらやす」と「ソロフキ」がどこかで重なって見えたことが不思議と言えばそうも言えるが、ぼくの撮ったソロフキの写真を多く知るMさんが直感的にぼくの言葉に頷いたのは、悲しさや無念さといった数少ない類似点の発見に強い共感を覚えたからかも知れない。そして、概念としての「一刻の生、一刻の死」を65歳のMさんは改めて体感し、また日本人であれば誰にでも無意識のうちにある仏教的な諦観を了知し、大きく揺さぶられたのだろうとぼくは思う。 「うらやす」にはたった20分間滞在したに過ぎないが(デジタルはこのような記録が正確に残されるのでありがたい)、修羅場の空気を体験することは、想像力が刺激され脳内が持続的に活性化するもので、ぼくは同行した人たちの写真がこれからどう変わっていくかを愉しみにしている。 閖上地区を後にしたぼくは給油と称してスタンドを探した。運転を代わってもらう算段だった。ハンドルを握りながら「撮った写真はもう取り返しがつかないから(変えようがない)、イメージをできる限り忠実に再現するにはどのように仕上げるのがベストなのか。もう一度イメージを再構築する必要がある」と、頭の中はそのことで一杯。信号確認もうわの空なのだから危険極まりない。だが同乗者は気の毒にもそのことに気づいていないようだった。癇癪の後は暗室作業専心没入で気もそぞろ。交通法規もなんのそのだから、やっぱりぼくは迷惑千万、自己中の権化のようでまことに始末が悪い。仲閧フ身を案じ、ここで運転を交代することにした。 スタンドで給油をしていると、暇を持て余している青年従業員に目が惹きつけられた。この青年は何か大きな悲しみを背負っているように思えたからだった。ぼくの直感が「間違いない」と言っている。イメージ再構築のためにこの青年から何かしらの手がかりを得られそうだった。ぼくは自分の直感を信じることにした。旅という非日常に置かれると人の感覚は普段より何倍も鋭くなり、冴えるものだ。人見知りの激しいぼくは彼に歩み寄り、こう切り出した。 「ここまで水が来たの?」。「いえ、ちょっと手前で止まりました」。「じゃあ、あなたは津波の被害には遭わなかったんだね?」。「たまたまあの日は出かけてぼくは家にはいませんでしたから」と彼は急に顔を曇らせた。何かを必死で堪えている。ぼくは話を続けた。「“たまたま“ということはご家族と一緒じゃなかったということ?」。「そうなんです」。「ご家族は無事だったの?」と、ぼくは自分の問い掛けに呻吟しながらも、 ”知る人に縄を掛ける“ ことを厭わなかった。言葉のアクセントや発音がお互いに多少異なるので、却って会話が進むということはよくあるものだ。 ちょっと間を置きながらも彼は気丈に「家族はみんな呑まれ、今はぼく独りです」とつぶやいた。ぼくは平静を装って「そう、それは大変なことだったね、気の毒に。言いにくいことを聞いてしまってごめんね。貴重な話をありがとう。ところで、あなたはお幾つ?」。「17歳です。学校へ行けなくなって、ここで働いているんです。ここも地割れはしましたが、波は来なかったんです」とその口調は意外に屈託がない。感情の揺れは1年半を経過してもとても収まるどころではなく、これから長年にわたって余震のように彼を揺さぶり続けるであろうと思うと、ぼくも人の親、やりきれなさが尾を引く。 短い会話だったが、ぼくはなにがしかのリアリティを彼に与えられた。それによりイメージの道筋のようなものが明確さを増したように思える。会話の内容は同乗者に余すところなく伝えた。運転はTさんに任せることに。彼は建築業よろず専門家で腕っ節も太く、暗算の達人なので(ぼくとはまったく真逆)安心して任せたのだが、後日言うところ「ぼくの写真はどれもブレブレでひどいものでした」と自白してきた。なんたる見かけ倒しめッ! 今回の津波被災地訪問は、再訪に備えたいわば自身への小手調べのようなもので、敢えて情報らしきものを持たずの撮影だった。被写体にどのように正対すれば、自分の真実とそのリアリティの調和が写真表現として活かせるのか、そしてどこにその整合性が見出せるのかという一種の探りのようなものだった。震災直後の生々しさだけが本物のリアリティではないという持論をどこかで証明しなければならない。 友人がボランティアで気仙沼に1年半も行きっぱなしになっているので、彼を頼って本格的に取り組もうかと思っているのだが、彼は車の免許を持っていないというので、ぼくは撮影よりもそのことで今頭を悩ませている。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/11/02(金) |
第124回:津波の地を訪れる(4) |
閖上地区に同行した古くからの友人は(仮にMさんとしておきます)ぼくの癇癪寸前状態(第123回記述)を鋭敏に嗅ぎ取ったと言います。Mさんの言によると、ぼくは普段から非常に分かりやすい人間なのだそうです(つまり単純ということらしい)。
ぼくは喜怒哀楽が激しく(つまり単細胞)、短気で(つまり瞬間沸騰型)、しかも楽天家(つまり思慮不足で脳天気)だと自覚しているので、できるだけ人前では自重し、感情を抑制しなければとの意識が強く働きます(つまりまともな社会人になりすます)。お付き合いの浅い人はぼくを称して「穏やかで、物腰が柔らかく、親切で、物分かりの良い紳士」だなんて見当違いの人物評をしてくれます。実態は“然(さ)にあらず ”なのですが、できるだけ貼られたレッテルに従った方が世を渡りやすいことも知っています。 しかし、カメラを手にするともういけない。とたんに少ない理性を失い、レッテルなどかなぐり捨てて、世の中は自分しかおらず、はたまた銀河系の中心はオレだ、と思い込んでしまうのです。 写真屋というのは、以前に述べたことがあるように思いますが、どうもカメラを持つと人格が豹変してしまう人が多いようです。「・・・・に刃物」で、刀を持たすととたんに辻斬りに走る狼藉者のようでもあります。肉眼で見る現実がレンズを通してしまうと非現実のものとなり、その区別がつかなくなってしまうからです。ぼくなどイメージが勝ちすぎて、ファンイダー越しの世界はあくまで虚構であることに気がつかない振りをしてしまいます。錯覚と思い込みが激しい。 イギリスのコラムニストで歴史家・小説家でもあるA.N.ウィルソン(Andrew Norman Wilson)はその著書『The Victorians』(「ビクトリア王朝時代1837〜1901」、とでも訳せばいいのかな)のなかで、「白人が帝国主義をエジプトやアジアに押し進めていたまさにその時代(※今だってそうだ。その帝国主義的本質は何も変わっていない。亀山)にあって、それがどんなに不合理で歪(ゆが)んだものであっても、東洋のインテリジェンスに屈服したヨーロッパ人は立派な破壊分子と見なされた」という文言を思い出しました。当時の帝国主義を正当化する手立てはどこにもないということです。 ぼくとともに何度か撮影に同行したことのあるMさんに向かって、「オレの前には絶対に出るな」と命令口調で言ってしまう横柄さと然したる違いはなさそうです。そのMさんはレンズの歪曲収差をPhotoshopで補整しようとすると、決まって目まいを起こし、船酔いのように気分が悪くなってしまうのだそうです。目まいの原因を、基本を口やかましく指示するぼくのせいにするのですから、不合理で歪んだ理論を押しつけるのは件(くだん)の白人ばかりでなく、それは人間の業のようなものであるのかも知れません。 閑話休題。 人っ子一人いない「特別養護老人ホームうらやす」(以下、「うらやす」)の玄関に辿り着いた我々誰もが、「うらやす」は外見上さほど大きな災害に見舞われたとは感じられなかったのだろうと思います。夏の残照のなかに浮き出た「うらやす」は姿かたちを変えずに不気味なほどの静けさに包まれていました。周辺の木造家屋が壊滅状態となり消失していたのでなおさらの感がありました。 28mm (35mm換算)のコンバージョンレンズを付けたまま、その玄関や内部を撮ったものを掲載しておきます。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/124.html 「五感を研ぎ澄ませ!」と自分に言い聞かせながら玄関から首を突っ込むような姿でなかに入るとすぐに大広間があり、そこには一艘の救命ボート(と思われる)が床の上に投げ捨てられたような形で横たわっていました。 このボートはその役割をどのくらい果たしたのだろうか? これで救われた人がいたのだろうか? だとすれば何人くらいが? どのような基準に基づいて乗せる人を選んだのだろうか? なぜここにあるのだろうか? という疑問が次から次へと頭のなかを目まぐるしく駆け巡りました。押し問答を繰り返しながら、ぼくの答えはすべて否定的なものでした。つまり、このボートはまったく役に立たなかったのではないか?ということです。あの津波を想像すれば地獄絵図しか描けないのです。今のこの静けさは、かえってそれを如実に物語っているように思えたのでした。 空調ボックスが斜めにつんのめるような姿勢で傾き、汚水に晒され薄茶色に染まったレースのカーテンが何事もなかったかのように海風に吹かれゆらゆらとたなびいていました。そこで余生を送りつつあった人々の安らぎを、今も奏でているように思えてなりません。ぼくはそのカーテンを手に取り舐めてみました。まだ塩の味がかすかに残っていました。 廊下を歩みながらシャッターを切り続け、壁面の至る所に水位を示す筋がここでの様々な出来事を示す一種の証のように思えました。モノクロ化する際にはどのような表現をするのが自分にとっての真実なのか、またここでの出来事をイメージに従って写し撮ることができるのか。「感じたままに、素直に受け入れる」と心のなかで言い聞かせるようにつぶやいていました。撮影はもとより、その暗室作業を乏しい頭で盛んにこねくり回していると、この天災をどこかで人災に置き換えようとしている自分に気がつきました。なぜその様な思いに至ったのか未だに釈然としない思いばかりが募ってきます。 ぼくはここではMさんに「オレの前に出るな」とは言いませんでした。我ながらも厳粛な空気を感じ取っていたのでしょうか? Mさんの目まいが治ればいいのだけれど・・・。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/10/26(金) |
第123回:津波の地を訪れる(3) |
前回、「高さ6mほどの盛り土のような小山(日和山富士主姫神社)」と記しましたが、同行した友人から神社の名称は「富主姫(とみぬしひめ)神社」が正しいのではなかろうかとの指摘がありました。ぼくの撮った写真を見ると、頂に立てられた木製の碑には確かに「富主姫神社」と記されています。読売新聞や地元と思われる方のHPにも「富主姫神社」となっています。Google やZenrin の地図では「富士主姫神社」です。私見では「富主姫神社」が正しいように思いますが、何かの謂われがあって双方が異なった呼び方をされることがあるのかも知れません。固有名詞ですから呼称は正しく記さなければいけないのですが、今のところ調べがついていません。
なお、日和山は海抜6.3m、閖上漁港の津波浸水高は9.09m(東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ速報2011年4月7日号)とあり、「名取市を襲った津波は最大で概ね10m前後だったと類推される」(名取市震災記録室)とのことですから、閖上地区は仙台平野のため近くに非難すべく高台もなく、また堅牢な3階建て以上の避難所も限られていたので多くの犠牲者が出たのでしょう。 できる限り誤った記載は避けるように心がけてはいますが、誤った記載をしているようでしたら、出典を明記した上でご指摘いただければありがたく思います。仙台にも読者がいらっしゃるようですから、正否を含めて情報などありましたらご提供ください。 この1週間、どこか居心地が悪く、小骨が喉に引っかかったような思いをずっと抱き続けてきました。原因のひとつは、能書きばかりで現地の写真をみなさんにお見せしないでいることです。これでは説得力がない。「百聞は一見にしかず」とも言いますしね。掲載しなかった理由は様々にあるのですが、ぼくは本来「ケチ」でも「小出しにする」性分でもありませんので、今回意を決し発表することにいたしました。掲載しないのもプロの道義であり、掲載するのもプロの義務という狭間に揺れていたのです。掲載写真については後述いたします。 もうひとつは、レポートや自分の考えを述べる場合に、ぼくは紙媒体では今まで「よもやま話」のように「です・ます調」ではなく、「である調」や「だ・止め」で書いてきました。ぼくの拙文は「よもやま話」以外すべてが紙媒体でしたから、感覚的にも「である調」や「だ・止め」の方がしっくりきたのです。ぼくは文章の専門家ではありませんが、「です・ます調」と「である調」の混用は文体のリズムを崩しやすく、意図的なものを除いて原則的には避けるべきものと考えています。混用はどこかに違和感が生じます。拙「よもやま話」をいきなり「である調」にしてしまうと、読者の方々にもぼくにも、さらなる違和感が生じてしまうでしょう。「津波の地を訪れる」はレポートのようなものですから、ぼくにとっては「である調」が好ましく、書きやすいのです。そんなわけでこの1週間ちょっと悶え苦しんでおりました。では、レポートを続けます。 墓地で正気に戻りつつあったぼくは、約400m先に倒壊していない平屋建ての建造物がぽつんと佇んでいるのを発見。なにしろ見渡す限り家の土台しか残されていないこの地は、至って見通しが良く、それは容易な発見だった。平屋であるにも関わらず姿かたちを留めているということは、そこになにかしらの息づかいや気配が強く感じられるに違いないと直感したぼくは、はやる気持ちを抑えきれず同行者たちに「あそこに行くぞ」と声高に促した。恐いもの見たさと強い好奇心に惹かれたのだ。好奇心と興味を抱くことがぼくの撮影の原点でもある。 まだ道路が完全には復旧されてはおらず、行き止まりとなった道を二度もUターンさせられ、手の届かぬもどかしさにイライラと感情を高ぶらせていた。ハンドルを乱暴に切り返しながら、「うん、この癇癪寸前状態でオレはやっと正気に戻った。これで撮れる」と妙な自足に囚われ、どうやら体中の汗腺が開き始めたようだった。汗腺が活発に活動を始めたということは、きっと脳内物質もそれにつれてじわじわと分泌を始めたに違いなく、やっと自分の物語を印画紙に描ける、と思い始めたのだった。 と、「である調」で書いてみました。なんとなくこの方が本心を伝えやすいように思います(ここで再び「です・ます調」に戻った)。今こんなことはどうでもいいのですが・・・。 その平屋建て建造物は「特別養護老人ホームうらやす」とありました。「うららか」と「やすらぎ」を合わせて「うらやす」。その「うらやす」が真っ黒に染まったとてつもなく巨大な水塊に一瞬にして呑み込まれたのです。163名の入居者のうち47名が亡くなったとNHK仙台放送局は伝えています。 添付写真は原画(楽譜)と暗室作業による最終仕上げ(演奏)の両方を掲載しました。プリントではありませんので「演奏」をお聴かせできませんが。被写体を選んだ時に最終仕上げをイメージしながらシャッターを切ります。過去にお話ししたA.アダムス言うところのビジュアリゼーション(Visualization。視覚化。印画紙上に被写体をどう再現するかあらかじめイメージすること)に従っています。やはり「写真は真を写しません」ね。現場の真実より、自分にとっての真実を描くのがぼくの写真流儀です。だから面白くて止められないのです。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/123.html 01:「日和山原画」。Rawデータをデフォルトで現像。 02:「日和山イメージ」。現像したカラー画像をイメージに従ってモノクロ化。黒枠を付けてあるのはフィルム時代の名残で、トリミングしていませんということです。掲載写真はかなりリサイズされているので、粒状性が見られないかも知れません。やはり来年、オリジナルプリントを見に来てください。 03:「うらやす原画」。Rawデータをデフォルトで現像。 04:「うらやす原画のイメージ」。窓の外に見える3階建の建物が生死の分かれ目になりました。その建造物は主人公ではありませんが、暗室作業でどのように表現するかにこだわりました。アルミサッシがくの字型に曲がっています。割れたガラスから津波が一気に流れ込んだのでしょう。イメージ写真では光を水になぞらえました。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/10/19(金) |
第122回:津波の地を訪れる(2) |
名取市の閖上(ゆりあげ)地区に赴き、その光景を目の当たりにした我々誰しもに突いて出た言葉が「聞きしに勝るもの凄さ」でした。他に言葉が見つからず、ただ無言で目と目を合わせるしかありません。
瓦礫や半壊した家屋はもうすでに取り除かれ、時折事も無げに遮蔽物を失ったたおやかな海風が潮の香りとともに吹き付けていました。コンクリートの土台だけが見渡す限り広がり、かつてそこにあった人々の営みの名残を留め、夏の終わりを告げる雑草に取り囲まれていました。 津波襲来時の生々しさは時とともに消失しかけていましたが、茫漠とした寂寥たる佇まいは、かえって悲しみを助長し、“夢中で夢を占う”が如く、ぼくの心の中で陽炎のように揺れ動きながら増幅していったのです。失われたリアリティは人間の想像と洞察でいつでも復元でき、呼び起こせるものです。 震災直後であっても、1年半を経た現在でも、現地に立てばぼくの被写体に対する姿勢や思いには、感情をも含めておそらく何ら変化がないだろうという確信めいたものを得ました。それは海外で何度か数多なる悲惨な死をリアルタイムで体験したり、また国家により隠蔽され続け、歴史の闇に葬り去られようとしている半世紀以上もの時を経た虐殺の現場に立ち、割り出したものだったのです。天災と人災の違いはあっても、死の悲しみは同等で、区別できるものではありません。時とともに悲しみは癒せるかも知れませんが、辛苦の記憶は忘れ難いものとして永遠に心の中に留まるのです。 そんなことを思いつつぼくは高さ6mほどの盛り土のような小山(日和山富士主姫神社。海岸より630m)の近くに車を寄せ、呆然としながらその小さな山を見上げていました。唯一、そこが神社であったことを示す鳥居が階段の中程に所在なく孤立しており(津波直後は流出)、小山のふもとには枯れかかったひまわりが首をうなだれ、周囲を取り囲むように植えられていました。 まるで何かを象徴しているように思え、ぼくは車からカメラを取りだし無意識のうちに偏光フィルタ(PLフィルタ)をレンズにはめ、その光景をうつろな気持ちで電子ファインダーから光学ファインダーに切り替え、まず第1カット。光学ファインダーは僅かながらもパララックス(ファインダーで見た構図と実際に撮影された構図とに差が生じること)が認められ、あえてそれを使用したのは厳密な構図に囚われていてはかえって集中力を欠き、写真の直感的なダイナミズムが失われないようにと配慮したからでした。“写真は理屈で撮るものじゃない”という持説に従いました。構図はこの場合アバウトな方がいい。「木を見て森を見ず」とか「毛を謹みて貌(かたち)を失う」ことを警戒したのです。ぼくは何かに呆けながらもけっこうしっかりしていたようです。 そして、ぼくもひまわりのようにうなだれ、ヨロヨロとした足取りで鳥居をくぐり、頂上に立ってみました。眼下には広漠とした荒野にゴーストタウンと化した見知らぬ国かと見紛うような景観と、白く波立つ太平洋の遠望。頂上には神社のやしろは跡形もなく流出し、今は犠牲殉難の霊が花束とともに祀られているだけでした。帰宅して調べたところ、頂より2.1mも高いところに水位を示す痕跡が認められたとのことです。なんとも凄まじい水塊が襲ったのだと後になって知りました。 普段、街中スナップでは滅多に使用しない偏光フィルタをここで無意識に取り付けたのは、初秋の透明感のある空と雲(秋の季語でもある“いわし雲”が出ていましたから)のコントラストを強め、空気感を醸したかったからです。当初からカラー写真は念頭になく、イメージはすべてモノクロ写真ですから空のブルーはできるだけ偏光フィルタで明度を落とし、明瞭度を上げ、コントラストを強調するためでした。空ばかりコントラストを強めても他とのバランスやリズムを欠いてしまうので(空は主人公ではなくあくまで脇役です)、暗室作業をどのように進めていくかも同時にイメージしながらの撮影でした。 写真をお見せせずの能書きばかりで、今ぼくは少し後ろめたく、心を痛めています(ホントです)が、閖上地区の写真は来年3月の埼玉県立近代美術館でのグループ展で発表する予定です。期が近づきましたら、この場をお借りしてご案内したいと思っていますので、ご興味のある方はどうぞいらしてください(これでちょっと溜飲を下げる)。 国土地理院の「浸水範囲概況図」によると閖上地区は海岸より4〜5kmの地点まで水が押し寄せ、名取川沿いでは約10kmも津波が遡上したことが示されています。閖上地区では一時的に最高水位が8.5mに達した箇所があるという報告もあながち偽りではないように思えます。著作権法上その図をこのHPに貼ることはできませんので、ご興味のある方は以下のURLをご参照ください。 http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tripodworks-ceo/20110328/20110328031137_original.jpg 神社を離れ夏の残照のなかを一人で歩いていると、墓地の一角にさしかかりました。ほとんどの墓石が流れ消え去り、砂地に覆われた中からいくつかの墓石が頭を覗かせたり、傾いたりしながら最後の力を振り絞るようにご先祖さまの霊を守ろうと必死に踏ん張っているように思えました。 ぼくのカメラはレンズ固定式(35mm広角)でしたので、すぐに車に取って返し、28mmのコンバージョンレンズを取り付けました。やっとぼくは写真屋らしい正気を取り戻したのでした。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/10/12(金) |
第121回:津波の地を訪れる(1) |
先月末に、ぼくの写真グループが催しているグループ展を視察するためにメンバー数名とともに仙台に繰り出しました。視察といってもそれは口実に過ぎず、実は仙台名物の牛タンや海鮮物、地酒を目当てに大挙して押しかけたというのが正直なところです。
仙台市の中心に位置するキヤノンギャラリー仙台は、銀座と比較して展示壁面がやや小ぶりで、銀座のようにすべての作品が横一列という具合にはいかず、搬入時には誰も立ち会っていませんので、どのように作品が配置されているのだろうかとの興味にそそられての北上でもありました。 ギャラリーでは、さすが手慣れたプロの仕事ぶりに感心し、それを見届ければあとは気もそぞろで「天高く馬肥ゆ」とか「天高くして気清し」に従う他ありません。要するに「食欲の秋」であります。同時に「芸術の秋」という言葉もあるそうですが、ぼくの同士たちはそれには縁遠く、どうあがいても「食欲の秋」に打ち勝ち難く、徒手空拳となり、前もって調べ上げた牛タン屋に牛のようによだれを垂らしながらなだれ込んで行きました。 食に手を付ける前に、卓上の料理を記録するように命じました。タングステン光下の料理を如何に美味しそうに表現するか? 適切なホワイトバランスをどう取るか? 皿に盛り付けられた料理の正面はどこか? 最適なアングルは? 光源に対して料理をどの位置に持ってくればテカリやシズル感などが描けるのか? などなどの学習を、舌鼓を打つ前にしてもらいたかったからでした。 しかし、あがった写真を見て、ぼくの親心は無残に打ち砕かれたことを悟り、やはり「芸術の秋」とは無縁なる食い気一辺倒の衆生であったと、北の地にて思い知るのでした。Raw現像や写真術の習得など、美食を前にした彼らにとってはどこ吹く風でありました。 秋の味覚を堪能した翌朝、スナップ撮影をしようとそれぞれが気の趣くまま市内に散ったのですが、ぼくは20分間に45枚を撮っただけで、そそくさと喫茶店に潜り込んでしまいました。この不熱心さに「ぼくはもしかしたらあまり写真が好きではないのかも?」と以前からの懐疑がふつふつと湧き出し、コーヒーをすすりながら「なぜ自分は写真を撮るのか?」の自問自答を繰り返していました。 子供の頃から頭のなかでイメージを描くこと自体が好きでした。病的なくらい夢想の世界で遊ぶことがお気に入りで、それだけで生活に充足感を得ていました。夢と現実の狭間に揺られていることが心地よく、また楽しかったのです。虚構の世界を何か他のものに置き換えて表現してみようなどという気持ちは、当時も今も明確に持っているわけではありません。 写真はぼくにとってその素材・素描でしかないのだろうかとか、であれば写真である必要はなく、才能のあるなしは別として、文章でも絵でも何でもいいわけで、では一体なぜぼくは写真なのだろうかと思いを巡らせていました。結論など導けるはずもないのですが、短絡的に言ってしまえばやはり写真は自分の性分に合っており、ビジュアルとして自己の原風景に合致させやすい表現方法だったからだと思い込むのが自他共への方便であり、取り敢えずの弁明でもあります。 「今、喫茶店にいるから直ちにここに全員集合すること」と他人の都合を斟酌することなく呼び寄せ(まったく勝手なんだから)、すでに決めておいた次なる訪問地を告げることにしました。そこは昨年3月11日の東日本大震災の津波で最も甚大な被害を被った、仙台市の南隣の名取市です。震災当日、ヘリコプターから映し出されたあの光景の場を一度、撮影ではなく目にしておきたかったからでした。名取川を中心に、津波がビニールハウスを次々になぎ倒し、飲み込みながら遡上していくあの恐るべき姿は、読者諸兄の記憶にも新しいと思います。水産加工を中心とした家屋の密集する閖上(ゆりあげ)地区は水位8.5mに及び、1,000人以上の命が奪われたといいます。 震災直後、「かめやまさんは当地に撮影に行かないのですか?」としばしば聞かれました。ぼくは常にきっぱりと「行きません!」と理由を述べることなくお答えしてきました。ぼくは報道カメラマンではありませんが、写真屋として未曾有の大災害を記録しておくことの重要性は十分に認めていますし、そのような使命感も持っていますが、それを押し止めるような大きな理由がいくつもありました。その理由を今開示することはしませんが、撮影に際しこの大災害と同胞の死を自分はどう見て、受け止めるのか、そして何ができるか(何もできやしない)という初歩的内的課題と矛盾を自分なりの“生き方メソード”に従って解決しなければならないという難題を抱えていました。それを解決したり、あるいは光明を見出したりしない限り、現地に赴いてもお定まりでありきたりの写真しか撮れないという思いがありましたから、足を運ぶことに躊躇していたのです。被災地のいつの断片を切り取ってもいい(真実はいつも一定している)という考えから、焦ることもありませんでした。押っ取り刀で駆けつけて軽々な写真を撮ることより、自分と災害地に納得のいくかたちで対峙できた時に、ぼくは行けばいいと考えていたのです。 3.11から1年半を経た閖上地区は夏の残り火に炙られながらも深閑と佇んでいました。1時間10分の短い滞在でしたが、もっと長い時間いたような気がします。気がつくと難題を抱え未消化のうちに、呆然としながら夏以来のシャッターを押している自分にハッと気がついたのです。「芸術の秋」ならぬ「写真の秋」を意図せぬところで迎えることになったのでした。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/10/05(金) |
第120回:ミイラ取りがミイラに |
HPの紹介文にもあるようにぼくは出版社で編集者として従事していました。大学を卒業してから14年間もの長きにわたって、これでも一応は組織の一員として働いていた経験があるのです。14年という歳月が短いか長いかは人によりけりでしょうが、ぼくには「よくもまぁ、14年も我慢できたものだ」と思えるほどの時間であったことに違いはありません。
学生時代から本作りに憧れつつも、ぼくにとって組織の歯車としての作業は、性格的に無理があったようです。人を管理したり、されたりというのが根っからダメな性分なのです。編集者という謂わば一種のやくざ稼業(真面目な編集者諸氏、すいません。ですが本音です)にありながらも、自分の意志や感情をある程度押し殺して過ごさなければならず、真面目なぼくには次第に耐えられなくなっていきました。ここで言うぼくの“真面目な”とは、自分の意志や感情に素直に従うという意味です。世間ではこういう輩を“わがまま”とか“子供”とか“世間知らず”というのでしょうが、ぼく流に解釈すれば“純粋”で“正義感が強い”ということになります。 なんでも自分に都合良く解釈するのがぼくの良いところでもあります。 なぜ、2社目に嫁いだ出版社で11年間も暮らすことができたのかは、そこで生涯の師と仰ぐべき人との邂逅があったからでした。25歳になったばかりの頃でした。彼との邂逅がなければ、ぼくはもっと早く会社を辞めていたでしょう。彼のさまざまな分野に於ける傑出した審美眼と美意識に驚嘆し、そして仕事に対するひたむきな情熱と不器用極まりない彼の生き方にも心を打たれたぼくは、編集部の誰からも恐れられ、畏怖の念を抱かれていたこの人に食らいついて、少しでも多くを学び取り、自分の血肉としようと決意したのです。また、彼の文体も品位と流麗を極めたものでした。誰かのそれとは大違いです。 ぼくは当時も現在も愛煙家ですが、彼は極端な嫌煙家でした。なぜか嗜好品の最たるもののひとつである煙草だけには興味がなかったようです。今この原稿を書きながらもぼくはコーヒーをがぶ飲みしながらパイプ煙草をプカプカと煙突のように吹かしています。そんな彼が「かめさん、かめさんはぼくの目の前で喫煙することを許した唯一の人間だよ」と愉快そうに言われたものです。 原稿取りに伺うと夜が明けるまで語り明かし、結局原稿取りの役目を果たせず、編集長からは「ミイラ取りがミイラになって帰ってくる」とよく揶揄されたものです。彼と語り合うことは原稿取りという仕事を忘れさせ、放棄させてしまうほど、ぼくには魅力的で価値のあるものだったと言えるのでしょう。原稿取りに行ってスコッチウィスキーのシングル・モルトの素晴らしさを教えられたりね、やっぱりやくざな編集者でした。彼との思い出は語り尽くせぬほどあるのですが、さて、本題としての写真話をどこで持ち出すか困り果てているところです。「よもやま話」のテーマって確か写真のことでしたよね。 彼の本業は物書きではなくエディトリアル・デザイナーでしたが、無類の写真好きでもありました。写真はアマチュアでしたが、写真家の木村伊兵衛氏の愛弟子でもあり、趣味の域を通り越して、センスは言うまでもなく、カメラ(特にライカとハッセルブラド)のメカニズムや歴史、そしてその扱いにも精通していました。ぼくは当時も今も、日本の写真家で最も敬愛する人は木村伊兵衛氏を置いて他なく、ですから写真やライカの話に及ぶとことさらに熱中し過ぎて、「ミイラ取りがミイラになる」のは畢竟、神の摂理に従ったものだったのです。 「ライカM4を操作する時にはね、ここに手のひらをあてがい、この指とこの指の力を抜く。そしてこの指を横から押すようにして、フィルムを巻き上げるんだよ。右手親指はここに置き、そうするとシャッターを押す人差し指は垂直にストンと落ちるでしょう。この持ち方がライカの重量を一番感じずに、しかも安定しカメラブレしない。フォーカスはね、こうやって・・・やってごらん」と、彼に言われる通りにしてみると、なるほどすべての操作が今までに比べはるかにスムーズに行えたり、という体験をたくさんしたものです。 彼は自分で現像をすることなく、モノクロ撮影はフィルム現像からプリントまでぼくがその責を負っていました。 彼は46歳の若さで夭折されましたから、ぼくはすっかり本作りの意欲を失うとともに、出版社にいる必然性もなくなり、組織の一員であることに決別したのです。まだ小さな子供が二人いましたから、何もしないというわけにもいかず、でなんとなく写真屋になってしまいました。 編集者は企画から始まり、取材、原稿取り、校正と煩雑な作業をこなし、出版の暁には売れ行きの心配をしなければならず、仕事離れが非常に悪い職種です。編集者はカメラマンと一緒に仕事をする機会が多く、彼らの“一か八かで雌雄を決する”その潔い!? 仕事ぶりを横目で見つつ、いつも羨ましい気持ちに駆られていました。編集者やデザイナーの望む通りの映像を提供できる彼らの感覚や技術力に舌を巻き、「オレにはとてもあんな芸当はできない。いくら写真好きで人一倍熱心に打ち込んできても、プロのカメラマンになんてとてもなれるものじゃない」と思い込んでいました。それがいつしか・・・、人生どこでつまずき、転んでしまうか分かりませんね。 もう一人、ぼくの生涯の師は父でした。彼も天寿をまっとうせず、ぼくが31歳の時に、ハッセルブラドを置き土産に急死しましたが、よく「人生は取り敢えずだよ」と言っていました。これは含蓄のある素晴らしい言葉だと信じています。ぼくが写真屋を目指した時にはすでに他界していましたが、今、おそらく「あいつ、ホントに取り敢えずミイラになりやがったな」と言っているように思えてなりません。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/10/01(月) |
第119回:器も味のうち |
「器も味のうち」という言葉がありますが、ぼくは若い頃、この言葉はてっきり北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん。1883-1959)の言い残したものだとばかり思っていました。本当のところは今以て知らないのですが、食、書、漆芸、陶芸などなど多岐にわたる肩書きとそれぞれの分野で頂点を極めた人だったので、勝手にそう思い込んでしまったのでしょう。魯山人の陶器にまつわるぼくの想い出はいくつかあるのですが、それはさておき、今回は「器も味のうち」を写真に当てはめてお話ししたいと思います。といっても、それほど大上段に振りかぶった内容ではなく、手短に言ってしまえば、展示会などでの額装についてです。前回の「写真展示について」の続編のようなものだとお考えいただければと思います。
額縁にどのようなものを用いるかはまったく個人の嗜好に委ねられるものですから、敢えてぼくが“こうあらねばならない”、なんて無粋なことを言うつもりはまったくありません。余計なお世話だと言われれば「そうですね」としか言いようがありませんしね。 ただ、額縁を「器も味のうち」と考えるか、それとも額縁は写真自体のクオリティに直接関与する事柄ではないので、そのようなことには頓着しないとするか、そこには大きな差があるように思います。良い料理人が手塩にかけた料理を、プラスティック皿に盛り付けたものと、上質な陶器に盛り付けたものと、料理自体は物理的に同じですから、それを同じものと感じるか異なるものに感じるかは、自ずとその人の生き方のセンスや美意識に直結しているものだと思います。そうだからこそ、「器も味のうち」という表現がなされるのでしょう。 30年以上も前の話ですが、ある敬愛する写真家とお話しをする機会があり、その時に彼は「自分の写真を展示する際に、どのような額縁とマットを選ぶか、それで写真の見え方が大きく異なってくるので、私は私の写真のありようと佇まいを最大限に表すことのできるものを慎重に選びます。そこに神経を遣わない人は写真もその程度のものだと言っていい」と言われたことがあります。 当時、ぼくも「器も味のうち」という感覚を持っていましたから、大いに賛同の意を表したものです。ぼくの写真など大したものではありませんが(謙遜ではありません。でも時々、“テンサイかも”と思うこともあります)、それでも写真は自分の分身ですから、できる限りのことをしてやりたいとの親心に突き動かされるのです。まぁ、親ばかというか、「馬子にも衣装髪かたち」といったところでしょうか。他のことについては至って無頓着なぼくも、ここにはこだわりがあります。 ぼくの車はチョーポンコツで、雨漏りがし、先日の豪雨の時など助手席に座った友人は左半身ずぶ濡れになってしまいました。服装も一年中同じジーパンにTシャツ。今、万年筆も使い捨てを愛用しています。カメラは仕事以外であれば、ちゃんと写れば何でもいいという心境です。写真を本職とする男が首から小さなデジカメぶら下げて、あたかも命賭けてるような振りをして、それらしく撮っている。そんなあれこれは恥ずかしいことではなく、また恰好悪いともまったく思っていません。ぼくにとって、カッコ悪いことは、野暮でベタな写真を撮ってしまうことだけだと、ちょっと恰好をつけて公言したりしていますが、実は金がないだけです。そういうのを“悔し紛れ”っていうんですかね。 そんなぼくでさえ、やはり写真を展示する際にはできるだけ恰好をつけたがるのです。必ずしも常にお気に入りの額を使うというわけではなくTPOをわきまえ、臨機応変に、例えば水彩用画用紙にプリントした際には、20枚以上の画用紙を虫ピンで壁に貼り付けたこともありました。ただし、どんな虫ピンを選ぶかに頭を悩ませましたが、虫ピンくらいいくら贅沢をしたくても贅沢のしようがありませんし、何十種類とあるわけではありませんから、頭を悩ませたというほど大層なことではありませんが、「虫ピンも器のうち」だと思います。 また、額縁使用の際には、どんなマット(白かクリームか黒か、それしかぼくの選択肢はないのですが)を選ぶかとか、額の大きさに対して写真面積をどれくらいにするかとか、写真の佇まいに相応しい額装や展示の仕方に配慮しているつもりです。でもねぇ、「この額縁、いいなぁ」と思ったものは、世の中それほど甘いものではなく、それ相応に値段も張るものですが、無理をして20年ほど前に購入したものは未だに個展やグループ展で飽きることなく使い、酷使に耐えていますから、良いものを買っておけば結局は安上がりなのでしょう。「安物買いの銭失い」という戒めは当を得ています。 以前にも少しだけ触れたことがありますが、展示会ではあまり光沢度の高い印画紙は考えものです。反射率が高いため真正面から鑑賞すると自分の姿や、角度によっては照明が写真に写り込んでしまいます。光沢紙では、どうしても避け難い現象ですが、お客様に鑑賞していただくわけですから、できるだけ反射率の低い光沢紙を使う配慮が欠かせません。昨今はそれに適した印画紙が多く見受けられますので、展示用印画紙を選ぶ愉しみを是非味わっていただきたいと思っています。と同時に、絵柄に合わせての印画紙選択も欠くことのできない要素でしょう。キヤノンギャラリーでのグループ展で最も多かった質問は「この印画紙は一体何ですか? 写真とのマッチングが素晴らしい!」というものでしたから、やはり「印画紙も器のうち」なんですね。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/09/21(金) |
第118回:写真展示について |
1週間にわたるキヤノンギャラリー銀座でのグループ展が昨日(水)無事終了し、歳のせいもあってか、心身ともにぐったりしてしまいました。まだ仙台と福岡の巡回展が控えていますが、仙台は牛タンを食べに行くのが目的で一泊だけして帰りますが、福岡は遠いので福岡在住のメンバーに任せてしまおうと思っています。
以前、ぼくはキヤノンギャラリー銀座を皮切りに全国巡回展を催していただいたことがあるのですが、やはり個展とグループ展では同じ写真展でも様相が異なり、展示が始まってしまえばグループ展の方が一極集中を逃れ、多少は気が楽のように思えます。ただ、個展は準備段階に於いては個人の裁量で何事も進めることができ、他人(グループのメンバー)への人的配慮などもせずに済みますから、個展の方が気楽だという面もあります。いずれにしても催し物ですから、程度の差こそあれ心身の消耗は免れ得ません。ジジィにはちょっとだけ堪えます。 今回のグループ展を通じて「よもやま話」の読者諸兄からも会場でお声がけをしていただいたり、またぼくが常時在廊できたわけではありませんので、失礼をしてしまった方々もおられると思います。この場をお借りし、謹んでお礼とお詫びを述べさせていただきます。 今回はまだ記憶が鮮明なうちに、写真展示について思うところの一部をお話いたしましょう。撮影についての “お役立ち”に直結しているわけではありませんが、撮影行為の最終目的はやはり自己満足を通り越して、縁もゆかりもない方々に観ていただき、様々なことを分かち合い、共感したり、感想や意見を伺い、批評を仰いだりして今後の励みとする、そのような自己発表の場であると考えています。もちろん、無言の言葉(変な日本語!? “声なき声”とでもいうんですかね)に耳を傾けることも必要ですね。会場にいると反応が直に伝わってくるものです。 ですから余程の大家でもない限り(ここでいう大家とは、“どこからも揺るぎのない評価を得ることができる人”という意味であり“著名であることとはまったく無関係”です)、会場に作品を展示するだけではほとんど意味がなく、現場で来場者の生きた声を耳にして初めて作品展示の価値と意義があるのだとぼくは考えています。 個人であれグループであれ、来場者の声を多く聞き取るには如何に長い時間在廊できるかということにかかっています。長い時間在廊することは非常にくたびれるものですが、その御利益として多くの情報を得ることができるという貴重な特典が得られます。そういうぼくは、とにかく朝が弱いので(夜更かしが唯一の原因)午前中の在廊はちょっとね、なかなかに厳しいものがあります。 ぼくが今回のグループ展にキヤノンギャラリーを選んだのは(といっても申し込めば自由にできるわけではなく、難関である選考をくぐり抜けなければなりません。まぁ、関所破りのようなものです)、無数にあるギャラリーのなかでも最も厳しい目に晒される会場のひとつだからでした。また主催者から発信せずとも、プロ・アマを問わず多くの写真愛好家が来場してくれるという利点もあります。 一期一会にも恵まれ、素晴らしい出会いも得られます。かつての経験から言えば、出版社にとって最も敬遠される書籍である写真集を複数の出版社から申し込まれたり、連載を打診されたりしたのは、やはり名の通ったギャラリーでの個展のおかげだったからなのです。ぼくは自分の作品などをポートフォリオにして出版社などに持ち込むタイプではありませんので(ただ怠惰なだけ)、一期一会の幸運に恵まれたというべきなのでしょう。 個展であれば、テーマの確立が必須条件となります。ただ漫然と写真を撮っていてはいつまで経っても適うものではありませんから、個展のためにテーマを定めて撮影するという良い作用が得られます。物の見方が定まれば撮影もそれに沿ったものになりますから、技術も感覚も一点に収斂され、良い写真の撮れる確率も高くなります。自分は何を撮り、どう表現するのかという要目も絞れるようになり、良いことずくめです。 「どのようなテーマがいいのか?」と問われることがありますが、こればかりは明確なお答えができません。各人各様の人生があり、原風景があり、想いがあり、写真的な傾向や志向も異なりますから、それを他人が指し示すことはなかなかできません。個人が何かに突き動かされ、その必然性に従って写真を撮るのですから、指図し難い面があるのです。指導者としては「あなたはこういう面があり、このような写真が得意だから、こちらの方向に・・・」という暗示めいたものが精一杯というところでしょうか。 個展となれば点数に制限はありませんし何点でもいいと思いますが、一般的に言えばスペースとの関係を考慮し、クオリティを揃えて30点くらいあれば見応えがあると感じられるでしょう。ぼくの印象として述べさせてもらえば、多くの個展で見受けられる「3,4点見れば、あとはもういいよ。同じじゃない」という点には留意しなければなりません。つまり飽きてしまうのです。同一テーマのなかにバリエーションと変化を持たせ、来場者を最後まで飽きさせずに観せる写真のありようが大切だとぼくは思っています。これは「言うは易く行うは難し」の喩え通りなのですが。 嗚呼、ぼくは人のことをとやかく言ってる場合じゃない! |
(文:亀山哲郎) |
2012/09/14(金) |
第117回:肖像権 vs.表現の自由 |
2週続けて多忙のため定期の金曜日に掲載できず、申し訳ありませんでした。
前々回テーマとした”ポートレート“も、本来ならば6回くらいの連載が必要と考え、もう少し突っ込んだお話をしたかったのですが、そのためには作例をWeb上に載せなければなりません。テーマがポートレートですから作例となるとどうしても誰かの顔をネット上に登場させなければならず、それに同意してくれるような奇特な人が見つけられないために(不覚のいたすところ)、それ以上話が進められずに忸怩たる思いで4回にて打ち切りました。尻切れトンボのような形となってしまいすいません。今回はお詫びばかりです。 例えば、海外で撮影した見知らぬ人々を無断で登場させても、紙媒体であればほとんどが国内流通に限定されますから問題は生じにくく、それほど肖像権の侵害に神経を尖らせる必要もないのですが、拙「よもやま話」はインターネットという恐るべき世界同時配信ですからそうも言っておれず、そこが辛いところです。ポートレートのテーマについては、もし奇特な方が現れたら作例を示しながら続きを書こうと思っています。 ぼくが上梓した写真集やエッセイ集に掲載されている異邦人の写真などは、彼らの許可を得ているわけではありません。どこの誰とも分からないので許可の得ようがなく、また、それでは仕事になりません。 そして、ネット上ではありますがiPhoneやiPadで発売されているぼくの写真集も同様です。ぼくはiPhoneもiPadも持っていないのに、なぜかこういうことになっています。価格は知っていますが、どうすればアップルから購入できるのかも知りません。ま〜ったく無責任なんだから。 ぼくは決して肖像権を考慮しないわけではないのですが、しかし、このことに縛られてしまうと街中スナップなどという分野が成り立たなくなってしまいます。ぼくのフレームのなかに定着している見知らぬ人々は、主人公であったり脇役であったり、自分の写真表現として非常に重要な役割を担っています。彼らに正対することによって自己を転写し、また自分の原風景に回帰し、そこに写真として成立するための要素が盛り込まれています。対象が人間であれ、野菜であれ、静物であれ、撮るという行為は事象の本質を突き詰め、写真の終着駅としての印画紙上に描き出すことによってダイナミズムを得られると思っていますから、肖像権に思いを馳せる余裕がないというのが本心です。 また、肖像権を写真撮影の障壁として扱っている以上は、写真屋としての生命が脅かされ、誤解を恐れずに言えば、ぼくは肖像権なるものをまったく無視しています。 許可を得て撮ることをよしとしませんので−−−第一、スナップにそんな暇も余裕もありません。双方了解のもとに撮る写真はどこか緊張感が失われ、自然で生き生きとした眼差しやその場の空気感がスルリと逃げてしまうように思えてならないのです。紋切り型の定番写真しか得られないように感じます。意外性や面白味に欠けるのです。ぼくが下手なだけなのかな−−−、理想を言えば“呼吸をするように撮ってしまう”技術の習得が不可欠です。 肖像権の法的なことについてぼくは詳しくありませんが、それに対抗して、民主主義の根幹に係わる“表現の自由”というものがあります。多くの民主主義国家では肖像権より表現の自由が優先されるようです。日本の憲法では表現の自由が明記されており、少なくとも法的には肖像権に関して明文化されたものはありません。街中など公の場所で不特定多数の人々を撮影しても、基本的には肖像権の侵害とは見なされません。 ただ、何事にも礼節と見識というものがありますから、それを重んじることは自明の理で、表現の自由を楯に取って相手に不快な思いを抱かせることは厳に慎むべき事と肝に銘じています。 近年、雑誌などのコンテスト応募などに、“肖像権に関してトラブルが発生した場合は応募者本人の責任で解決せよ”というようなことが応募規定として記されているのを見かけます。このようなことが公に語られるようになったのは、一体いつ頃からのことなのでしょう? ぼくはコンテストなるものにはかつて一度も応募した経験がないのではっきりとは知らないのですが、この文言は何かがおかしいと漠然と感じるのです。もしぼくが熱心なアマチュアで、コンテストマニアだったらどうするだろうかと考え込むのです。 メディアは一方で文化の担い手であるようなポーズを取りながら、もう片一方で写真愛好家を萎縮させるようなことをしているその矛盾に対して、もう少し理解ある鷹揚な対応ができぬものかとぼくはいつも訝るのです。如何にして自分たちの責任を回避するかに汲々としているかのようにしか思えないのです。 個人情報云々と、かまびすしい昨今ですが、それでいてまったく無批判かつ無節操にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などにかまけ、うつつを抜かしているのだから、お互いに首の絞め合いをしているのだと。やはりどっちもどっちなのかな? |
(文:亀山哲郎) |
2012/09/10(月) |
第116回:この場をお借りして |
写真に限らず、何か物を作り(いわゆる“創造”とか“創作”)それを他人に提示したりお目にかけたりして、自分の感情や意志、人生観や思想を表すことの困難さを最近つとに感じています。ぼくのような人間が、こんなことを生業にしようなどという魂胆がそもそも初めから不埒かつ不料簡なことであることは重々承知なのですが、人間には多かれ少なかれ、どうもそのような自己表現の欲望が根深く潜んでいるように思えます。その欲求が強くなればなるほど(いわゆる“エゴの肥大化”)、プロ志向が強まり、「これで何とか飯が食えぬものか」という不心得者が出現してしまうようです。
一昔前であれば、そのような創作物を公に紙媒体などで発表できるのはごく限られた一部の人間の特権でしたが(それだけに、それ相応の責任と誠実さを担っている“はず” なんですが)、時が進み今ではネット上で誰でもが自分の主義主張や創作物を全世界に瞬時に発信できるようになりました。事の是非はともかくも、便利で簡便な世の中になったものだと、ぼくのような古いタイプ(実は古くない!)の人間は瞠目さえしています。目まぐるしい世の中の移り変わりに、目を剥いている。 デジタルの出現により、誰でもが写真を大らかでお気楽に愉しめるようになったことは「とても好ましいことだ」とひとまずは公言しておきながら、実はここだけの話なんですが、一方では非常に苦々しく感じていることを白状しなければなりません。この苦々しさには、ちょっとしたやっかみ根性が潜んでおり、心の奥深くに宿り住み、始末の悪いことに凝着さえしているのです。 しかし、それを他人には絶対に悟られたくないので、木隠れの術?!を適宜使い分けているという苦しい胸の内を“この場をお借りして”披瀝しておかなければなりません。こんなぼくの本心は、決してインターネットなどという軽佻浮薄なる空恐ろしい手段で世に流せるものではありません(流しているじゃないか!)。 さらに本心を深くえぐり出せば、「携帯電話で写真を撮って、それをネットで流す」などという行為はまったく許し難く、それを偏屈だとか偏狭だとか時代遅れだとか、何と言われようが、ぼくは忌み嫌っています。 ここでぼくを忌み嫌わず、まぁ最後までお読みください。 写真はかつて、写真の写るメカニズムや科学的な道理を理解していなければ手の出せない分野でした。そのような時代背景に育ったぼくが今のお手軽さにやはり一種の危機感を抱くことは自然のことだと思います。その心情がやや歪んで“やっかみ根性”となっているようです。 創造物が一般的であったり、あるいは一般受けのするものに近づけば近づくほど、それを否定するわけではもちろんありませんが、アベレージとして作品の質的低下を招きます。延いては文化の凋落に結びつきます。そのような意味での危機感なのです。昨今の文化的危機状況は写真に限らず、身の周りを見渡せば枚挙にいとまがありません。 ぼく如きがその憂いに対抗できるわけではありませんが、生活者が求めている優しさに基づく親和性を的確に読み取り、身近な日々の発見のなかに未来を見据え、洞察する確かな目を養うことが、世俗的なものに陥る危険から身を守るひとつの方策であるようにも思えます。 物を作り上げていくには、事象をじっくり観察し、イメージし、考え抜き、自己に湧き上がる一瞬の閃きを取り押さえ、根を詰めてシャッターを切る。それが作品づくりの基本的な精神的メカニズムです。そのような精神的作用が携帯カメラではもたらされないとは言いませんが、メカに精通していない向きには得にくいものです。イメージの定着が得難い。だから忌々しいのです。写真をもっぱら記録として楽しむのであればこの限りではありません。 と、ここまでが写真を生業としてきた人間が、写真を愛好するアマチュアの方々にお伝えすべき事柄の核であろうと思っています。プロのような技術をアマチュアの方々に強要しているわけでは決してありませんが、写真の成り立っていく過程に於ける機械的メカニズムと精神的メカニズムを、ある程度は理解しておかないと、すぐに行き詰まってしまいます。いつまで経っても上達せず、同じ場所に止まらざるを得ない状況に追い込まれ、堂々巡りとなります。そう言うぼくだって、「ま〜た同じような写真ばかり撮ってしまった。何とかならんもんかいな」と呟くことしきりです。やっぱり、ここだけの話ですが。 世の中には流行歌もあればジャズやクラシックもあります。どの分野の音楽に親しもうとそれはまったく個人の自由です。演奏場所もカラオケからコンサートホールまで種々様々。それぞれの場所で楽しめばよいのですし、場所の上下はありませんが、どこで演奏できるかは自由な選択がままならないのが世の常です。ジャズやクラシックは楽譜を読めないと如何ともし難いですね。写真もそれとまったく同じなのです。 さて、話はまったく変わりますが、“この場をお借りして”、厚かましくもぼくの主宰する写真グループ展のお知らせをさせていただきます。メンバーは13人で、年齢は20〜65歳まで。写真を始めて1年余という初心者もいればぼくのように半世紀以上という狸までおります。男女の構成比率も半々です。ご興味のある方は是非お越しください。 場所はキヤノンギャラリー銀座、仙台、福岡です。銀座は9/13(木)〜9/19(水)で、日曜、祝日は休館です。 詳しくは http://cweb.canon.jp/gallery/archive/fototortuga2012/index.html をご覧ください。よろしくお願いいたします。 |
(文:亀山哲郎) |