![]() ■著者プロフィール■ 1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。 現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。 2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。 【著者より】 もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com |
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2013/01/25(金) |
第135回:モノクローム(5) |
友人から「かめやまさん、あなたがモノクロについて書き出すと本当に20回の連載で収まるの? どう考えてもぼくは無理だと思うがなぁ。無理だ、無理だよ」とのメールが舞い込みました。言外に「おまえは、主張すべきところはしないと気が収まらない質だっていうことをオレはよく知っているからな。ちゃんとお見通しなんだぞ」という脅迫じみたニュアンスが行間にたっぷり含まれているように思えました。彼はカメラマンで、もう40年近くも親しいつき合いなのですが、ここ数年は会う機会がなく、メールのやり取りくらいでご無沙汰しています。今ぼくは彼の挑発に乗るべきかどうかを思案中です。
続けて彼は、「話は変わるけれど、前回男性の作例を掲載したのだから、“女性の掲載はいろいろ問題がある”などと逃げずに、次回は女性の作例を示して欲しいものだ。そうでないとイマイチ説得力に欠けるんじゃない?」と、どこまでもぼくを執拗に煽ってきます。性格の良くない友人を持つと閉口します。 読者の方からもメールをいただき、「かめやまさんのお話しは、もはや“ワンポイントアドバイス”という性質のものではなく、とてもハイレベルで、私のような素人にはとても実践に適用できるものではありませんが、知らないことや気のつかなかったことがたくさんあり、またプロの世界を垣間見ることができ、興味深く読んでいます」と、慇懃に遠慮深く述べられていました。 前者は「やれるものならやってみろ」と挑発的であり、後者は行間などに頓着せずぼくに都合のよい「励まし」と解釈するようにいたしました。「“ワンポイントアドバイス”など気にしなくてもいいよ」と言われているようであり、意を強くしたぼくは、ありがたいお言葉として素直に受け止め、どこまでも前向きに捉えることにいたしました。読者とはありがたいもので、まさに「遠くの親戚より近くの他人」であります。 しかし、悪友の挑発にひざまずき屈服したわけではないのですが、あくまで読者諸賢へのお役に立てればなにより、という健気な信条に基づいて女性の作例を掲載することに決意いたしました。ホントです。 掲載の写真選びにはちょっと苦慮しました。掲載写真の人物が日本人であれば許可を得なくてはならず、では外国人ならよかろうと。それも正面写真ではちょっと気まずさもあり、では横顔にしようと。そして、読者のみなさんの学習意欲を削ぐような顔立ちではないこと。それはもちろん美人でなければならず、同じ美人でも「マイタウンさいたま」の格調を重んじ、知的美人でなくてはならないこと。そして、撮影時にモノクロをイメージして撮ったもの。しかもフィルムでなくデジカメで撮ったもの。という厄介な条件を当てはめていくと徐々に的が絞れて、写真選びも意外とスムーズにいきました。 余談となりますが、雑誌や写真の教則本などで完全に学習意欲を喪失してしまうような妖怪めいた作例モデルの方々に出会うことがよくあります。ぼくなど、思わずパタッと本を閉じてしまいます。そのまま古本屋に直行することさえあります。「この筆者は一体何を考えているのだろう」とぼくはひどく訝ってしまうのです。そうなると書かれていることにも信憑性が持てず不信感ばかりが募ることになります。それが常人としての人情というものです。それは犯罪に近いものがあります。作例としては、それほどの器量良しでなくとも目的は達成できますが、それでもやはり面妖ならぬ妖面(造語ですいません)はないでしょう。ぼくの勝手な思い込みなのでしょうかねぇ。 さて、作例の写真ですが、場所はロシアの古都ロストフ・ヴェリーキー(偉大なロストフという意)というとても美しい田舎町です。モスクワより北東225kmに位置します。田舎といってもここには湖畔に由緒ある立派なクレムリン(城砦という意)が佇んでいます(「01クレムリン」)。掲載写真の女性との馴れ初め?は拙エッセイ集(NHK出版2009年)に詳述してありますので、ご興味のある方はそちらをお読みください。なお、一言申し添えておくと、ロシアで美人を捜すにはまったく事欠きません。あっちこっち美人だらけのお国です。おまけに人懐っこいし。この国に妖怪などいないといってもいいくらい。 小さな帆船に同舟し、彼女の背景は湖面です。彼女がカメラを意識しない時に撮っています。メタデータによると2004年9月30日午後4時04分となっています。9月の光とはいえここは北緯57度(日本の最北端稚内は45度)の地であり、その光はどこかおぼろ気で柔らかく頼りない。彼女の服装からも察しがつくようにその光は熱源としての役目を放棄し、物の輪郭を美しく描き出すことに一役買っています。物静かな知的美人を印象的に描くには単色のモノクロでこそその雰囲気が醸せます。撮影前にモノトーンでの十分なイメージトレーニングをして、光の方向と表情を見計らって、たった1枚だけシャッターを切っています。パチパチ・バシャバシャとシャッターを切って、その場の空気をかき乱しては何もなりません。こちらも静かな佇まいを装って、ひっそりといただいた1枚です(「03モノクロ」)。モノクロは粒状性をかけるのがぼくの流儀ですので、絵柄に合わせて軽くかけています。 デジタル(EOS-1DsをISO100で使用)ですから、原画はカラーです(「02カラー」)。Rawで撮影・現像し、Photoshopで各部位のコントラスト、色調バランス、質感を整え、破綻のないカラー画像に仕上げています。カラーが最終目標ではありませんので、この程度で十分です。その後はモノクロ画像に変換し、イメージに従って慎重かつ入念に暗室作業を施しました。 しかし、読者のお言葉に甘えて、まったく“ワンポイントアドバイス”になっていませんね。嗚呼、ロシアに行きたくなっちゃったなぁ。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/135.html |
(文:亀山哲郎) |
2013/01/18(金) |
第134回:モノクローム(4) |
通常、私たちが生まれた時より最も多く見慣れ、馴染んできたもののひとつに人間の肌があります。そのなかでも特に長い時間見つめてきた部分が顔です。言うまでもないことですが、特定の人を認識する一番確かな部分が顔だからです。足の指を見て人物を特定できる人はよほどのマニアであろうと思われます。かなり偏執的で風変わりな嗜好を持ち合わせていないと、そのような芸当はまずできるものではありません。
モノクロはカラーを無彩色に置き換えたものですが、ポートレートや人物スナップなどをモノクロ化する時に最も注意を払う事柄は、顔をどのくらいの明度とコントラストに仕上げるかということです。肌(顔の)をどう表現するかという重要な課題は、カラーでもモノクロでも同様なのですが、モノクロは無彩色(単色)なだけに却ってごまかしの効かない部分があります。繰り返しになりますが、モノクロは明度とコントラストですべてを表現しなければならないからです。 カラーはホワイトバランスと露出さえ合っていれば、取り敢えずはモデルとなった人物の肌色(肌合いも含めて)やその佇まいを表現することができます。なんとか許容範囲に収まってくれるというわけです。カラーが易しいという意味ではなく、カラーにはカラーの難しさがあるのですが、モノクロにはさらに厄介な問題が潜んでいるという意味です。 一様に人間の肌といっても、人種、年齢、職業、男女の違いや光との兼ね合いなどによってその表現は様々です。この数学的な順列組み合わせは目まいを起こしそうです。欧米の書物などではA.アダムスが理論体系化したゾーン・システム(Zone System)によるところの方法論が紹介されています。日本ではゾーン・システムは欧米ほど一般化されていませんが、撮影からプリントに至るまでの彼のメソードは写真を愛好する人たちにとって大変有意義なものです。 そのメソードによると、白人の肌に対する露出は反射光式露出計(カメラ内蔵の露出計も反射光式)で顔の明度(輝度)を計り、その露出値より1絞りオーバーに撮ることが一応の指針として示されています。ゾーンV(5)が露出計の示す値(18%中間グレー)ですから、それより露出補正+1絞りのゾーンVI(6)で撮影しなさいという意味です。これが白人の肌の“一応の”基準です。黄色人種である日本人の顔であれば、おおよそ+1/3〜+1/2絞りというとこでしょうか。しかし、これは一応の目安であり、上記した様々な条件に合わせて適宜変更を加えるべきでしょう。ぼくの個人的な見解では、日本人女性の肌色は白人に準じてもいいと思っています。一時流行った「ガングロ」は別として。 ※「18%中間グレー」に関しては、第19回:風景を撮る(7)の添付ファイルをご覧ください。 複雑なゾーン・システムを持ち出さずとも、一般論として女性の顔は明るめに表現した方がいろいろな面で災難が降りかかることが少ないと、長年の経験は教えてくれます。なにかと無難なのであります。コントラストを強くして肌の質感を強調するのも禁物です。画面全体のコントラストを強めたい場合、顔だけは選択範囲を作って避けるか、マスクをかけて影響が及ばぬように。 そして、もうひとつのポイントは、女性は多くの場合口紅を塗っていますから唇の明度にも気を配ってください。唇(赤系)の明度が濃くなる(濃灰色)につれ厳しい表情になります。画像ソフトやフィルター(青系)などで赤系を濃くしようとすると、顔の赤み(血色)までもが濃く表現されることになり、どんどん恐い顔になっていきます。そんな過ちを犯すとそれこそ恐い顔でどやされることになります。ご用心あれ! 男性はこの限りではなく、むしろ暗めに(18%グレー前後)表現した方が重みを増すようです。特に大地で仕事をしている年配者、例えばお百姓さんや漁師、林業などに携わっている男衆は、風雪に打たれた力強さがありますから、コントラストを上げてシワを強調するのもひとつの表現方法です。 非常に大雑把な解説ですが、このようにモノクロは無彩色の濃淡で表情を描き出す、謂わば非現実の世界です。カラーより色濃いフィクションであるからこそ、人はそこにリアリティを感じ、時には愁いや懐旧の念にかられ、感情を大きく揺さぶられるという面を持っています。文学も映画もしかりです。フィクションの世界に遊ぶ愉しみと妙味妙趣をどうぞ味わってください。 作例をいくつか添付しようと思ったのですが、今回の議題が顔であるために肖像権の問題をも含めて、恐い顔に変貌した女性をネット配信するには忍びなく、差し障りがないであろうと思われるものを1点だけご紹介するにとどめます。悪しからずご了承ください。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/134.html 「カラー原画」のデータ。フィルム:コダック社のコダクローム200。感度ISO200。カメラ:ライカM4。レンズ:ライカ・ズミクロン90mm F2.0。撮影場所・日時:アゼルバイジャン共和国バクー。1990年。フィルムスキャナーでデジタル化。 「モノクロ化」。Photoshop 「色相・彩度」ツールの「マスター」で一旦全色無彩色化し、その後各色の「明度」を調整。それだけではメリハリがないので、部分的に「トーンカーブ」ツールで微調整。 |
(文:亀山哲郎) |
2013/01/11(金) |
第133回:モノクローム(3) |
より良いモノクロ写真を撮るためには、撮影時にモノクロをイメージして撮らないとなかなか思うに任せないと前回述べましたが、考えて見ればカラーを不自然な無彩色に(色抜きをして)デフォルメしたものがモノクロですから、道理と言えば道理であるような気がします。自然界のものはすべて人間の視覚認識ではカラーですから、それを純黒から純白までの無段階の無彩色で表現すること自体がすでに虚構の世界であるとも言えます。
モノクロに対する人間の心理学的分析はぼくにはできませんが、カラー写真が定常化した現在でもモノクロは廃れることなく、一部の愛好家にはなくてはならぬ表現手法となっています。モノクロは人間の目が捉えたカラーの世界とは異なる情趣を描くことができ、より強い印象を与える作用があるからでしょう。また、心情的にはより高い芸術性をそこはかとなく感じさせる面があることも確かです。かく言うぼくも、現在に至るまでモノクロなしに自身の作品の成り立ちはあり得ませんでした。非現実であるが故に、美の際立ちをことさらに強く感じ取っているからです。 デジタル全盛となった今、モノクロはさらに饒舌で精緻な表現形態となったようにぼくは感じています。アナログの暗室作業には様々な制約と限界があったように思いますが、デジタルではそのような障壁が取り払われ、スキルを身につければ「出来ないことは何もない」とさえ思えるくらい広範囲にわたっての表現が可能です。描いたイメージをより深く、細かく執拗に追求できるので、ぼくのようなタイプの人間にはデジタルはうってつけなのかも知れません。ただ、「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、その警戒心を怠ってはならないと常に言い聞かせています。 何でもできてしまうので、ほどほどのところに留めておく勇気を持たないと禁断の地に足を踏み入れてしまい、作品の品位を落としてしまうことになりかねません。最小限の補正で最大限の効果を得るのが最も良質なデータを得る秘訣です。 デジタルのカラー原画を良質なモノクロにするためのポイントをいくつか挙げておきます。 モノクロといえども、カラーの段階でできる限り良質なデータに仕上げることが肝心。Rawで撮影を行い、Raw現像時に可能な限りホワイトバランス、色かぶり補正、露光量、コントラスト、彩度などの調整を追い込み、破綻のないカラー画像に仕上げることが第一。その際、カラー画像は8bitではなく16bitで。 話が前後しますが、撮影時には白飛び、黒つぶれのないように露出補正を慎重に行う必要があります。撮影データをカメラのヒストグラムで確認すれば判明します。被写体の輝度域が広過ぎてどちらかを犠牲にしなければならない場合は、イメージにもよりますが、基本的には白飛びを防ぐこと。つまりハイライト基準の露出です。 16bitで生成されたカラー画像(代表的な画像形式はTIFFなどで、使用頻度の高いJPEGは8bitです。JPEGでのモノクロ変換はお薦めできません)をモノクロ変換するわけですが、変換時にどうしても画像の劣化をきたしてしまいます。トーンジャンプを含めた画像劣化を最小限に止めるためには16bitで作業するのがベストです。ただ、強引な補正をしてしまってはいくら16bitであっても、元も子もなくなります。 ここまでが、ざっとですがモノクロ変換に必要な手続きです。 ※ここでいう8bitとは2の8乗=256で、RGBがそれぞれ256色で成り立っていることを表す。同様に16bitは2の16乗=65,536色。TIFF形式は可逆圧縮法と呼ばれ、保存を繰り返しても基本的に画質劣化を招かない。JPEGは非可逆圧縮法で、保存を繰り返すほど画質が劣化する。 アナログのモノクロは単一の色調ではなく、現像液や印画紙を使い分けることにより、例えば純黒調、温黒調、冷黒調などいくつかの色調を選ぶことができますが、デジタルでもそれを再現して楽しむことができます。セピア調などはその最たるものでしょう。セピアの語源は「イカ墨」という意味らしく、褐色もしくは茶色を指すのだそうです。昔は写真用のインクにも用いられたのだそうですが、現在では古く色褪せたモノクロ写真の色調を表していると考えるのが一般的です。なぜ古い写真がセピア色になるかという理由は省きますが、経年変化による退色・変色を避けるための処方(アーカイバル処理)を施したものは、40年の時を経ても(ぼくが24歳の時に施したものなど)何の変化もなく、未だ瑞々しさを保っています。 個人的にはセピア調は嫌いではありませんが、作品にそれを用いることはありません。 今日はちょっと遊び心というか悪戯心を出して、「おじいちゃんの遺品のなかからこんな古い写真が出てきた」というノスタルジックな演出をしてみました。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/133.html 「原画01」の写真データ。フィルム:コダック社のコダクローム64。感度ISO64。カメラ:ライカM4、レンズ:ライカ・ズミルックス35mm F1.4。撮影場所・日時:エストニア共和国タリン。1989年。このポジフィルムをフィルムスキャナーでデジタル化。 「退色セピア02」。Photoshopでモノクロ化し、セピア色のフィルターをかけ、周辺部を明るくし、最後に粒状をかけてあります。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/12/28(金) |
第132回:モノクローム(2) |
ぼくがデジタルを始めたのは1996年のことで、カメラマンとしては比較的早かったのですが、とはいえデジカメを持っていたわけではありません。市場にはまだプロの使用に耐え、フィルムに対抗できるような製品がありませんでした。印刷用途にはまだまだ役不足だったのです。仕事仲間のデザイナー諸氏はすでにほとんどがMacを使用し、業界はデジタル化が進みつつあったのですが、デジタル化に最も遅れてやってきたのがカメラマンでありました。写真のデジタル化は心身両面で多くの負担を伴い、他の分野ほどスムーズには移行できませんでした。特に年輩のカメラマンほど、長年にわたって培ったアナログのノウハウを捨てて、新しいものに移行するには大きな心理的抵抗と生理的な嫌悪があったようです。ぼくは40も半ばを過ぎていましたが、なにしろ新しいもの好きでしたから、好奇心の方が強かったのです。
1996年にMacとプリンター、フィルムスキャナー、画像ソフトのAdobe Photoshopを購入し、当時70万円以上の出資だったと記憶しています。ぼくにとっての初めてのデジカメは2002年末に発売されたEOS-1Dsでした。これがなんと100万円! このカメラならフィルムと同等かそれ以上の結果が間違いなく保証できるだろうとの直感を得、まったく躊躇することなく見ず転で飛びついてしまいました。写真一筋に悪いこともせず堅気に働き、今思うとどこにそんな大枚があったのか不思議でなりません。 1996年から2002年まではデジカメを持っていませんでしたから、もっぱら今まで撮った写真をフィルムスキャナーでデジタル化し、Macの操作とPhotoshop(当時はv.4.0。現在のCS6はv.13にあたる)の習得に時間を費やしました。いずれ世の中は(業界は)デジタル一色になることを見込んで、デジカメを買った暁にはデジタルが造作無く操れるようにと、「備えあれば憂いなし」の諺に倣い、心がけとしては捨てたものではなかったのです。 おそらく、ぼくがプロでなくアマチュアであったとしてもまったく同様のことをしていたでしょう。 デジタル技術の習得に血道を上げていた頃(未だにそうですが)、どうしても解決できない問題に突き当たってしまったのです。それがモノクロプリントでした。どう工夫しても色の捻れや色被りが起きてしまい、アナログのモノクロプリントのような具合にはいかない。これに関連したことは過去に何度か触れました(第5, 6, 25回をご参照のほど)が、当時のコンシューマー用のプリンターでは解決不能であること悟り、デジタルでのモノクロプリントを放棄しかけていました。モノクロプリントといえども前回お話ししたように原則的には色の三原色C, M, YとK(ブラック)インクを掛け合わせてプリントするわけですから、なかなか完全な無彩色を再現できないのです。“完全な無彩色”というより“無彩色に限りなく近い”と言い換えるべきでしょうか。 その“無彩色に限りなく近い”状態が自室で再現できるようになったのは、2004年に顔料グレーインク(グレーとライトグレー)を搭載した半ば業務用とも思われる図体のでかいプリンターを購入してからでした。デジタルでのモノクロプリントを諦めかけていたぼくは喜色満面で、再びモノクロに心血を注ぐようになったのです。 過不足のないモノクロプリントを楽しもうとする人たちに、ぼくが躊躇なくいつも申し上げることは、「グレーインクの搭載されたプリンターをお使いなさい」と。現在ではコンシューマー・ユーズでもグレーインクの搭載された優れたプリンターが発売されています。グレーインクはモノクロばかりでなく、カラープリントにも非常に大きな効用がありますから、“趣味として写真を楽しみたい”という人のためにぜひお勧めしておきます。 そして、カラーをモノクロ変換する際にぼくはいつも不思議な現象にぶつかります。性懲りもなくいつも同じ問題に悩まされるのです。 昨年、某カメラメーカーのギャラリーで個展を催し、50点の作品を展示しました。モノクロプリントは常に納得のいくものが製作可能であったにも関わらず、モノクロは50点のうち3点に過ぎなかったのです。大半のものがカラーポジフィルムで撮影されたもので、それらをなんとか撮影時のイメージを崩さずにモノクロに変換をしようと目論んでいましたが、結果は上手くいきませんでした。その原因を薄々感じ取ってはいたものの、ぼくは人間であるが故に助平でもあるので、心の片隅に取り敢えずはしまっておいたスケベ心(モノクロ心)がうずき出し、なんとか撮影時のイメージを違えず、力ずくでモノクロに仕上げようとしてしまったのです。こんな芸当、無理だわ。 薄々感じ取っていたこととは、撮影時にカラーをイメージして撮ったものをモノクロ変換しようとすると、どうしても無理が生じるということです。そんなことをすると必ず仇となって返ってきます。フィルム時代は撮影時にはカラーとモノクロを2台のカメラに振り分けて使っていましたから、カラーイメージはカラーで、モノクロイメージはモノクロでという節度と覚悟?ができていた。つまり、撮影時に色つきか色なしのイメージをしっかり描き、どちらかのカメラを迷わず選んでいました。 この仇討ちとも言えるしっぺ返しは万人に当てはまるものかどうかは分かりませんが、デジカメは両刀遣いですから、そこがとてもいやらしい。デジカメ使用でモノクロ愛好家の方々、撮影時のイメージ作りはやはりモノクロで行うことが正道ですね。ぼくのように“あわよくば”ってのは、きっと何かに祟られますよ。 年始の連載は1/11日(金)からとなります。 佳き年でありますように。この場をお借りして、みなさまの福寿無量をお祈りいたします。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/12/21(金) |
第131回:モノクローム(1) |
「モノクローム」(以下モノクロ)と銘打って思うところを綴ってみようと思ったのですが、よくよく考えてみるとこれはとんでもない長文になってしまうぞと感じています。ましてやぼくのことですから、長文というより“うだうだと”冗長なものになってしまうこと疑いなしといういやな予感に襲われています。モノクロについてはことさらに思い入れの激しい分、20回の連載くらいでは収まりきれないような気がします。文才のある人は物事を簡潔に要領よくまとめ上げることができるのですが、気分屋のぼくにはそんな芸当は到底できそうもない。読み手を悪戯に混乱させるだけで、やっぱりこのテーマは止そうかと考えあぐねているところです。
編集者をも含めて世の中の大半の方々は、文章の上手下手は別としても、まず長文を書ける人は文才らしきものがあると決めつける傾向があるようです。それはまったくの勘違いです。原稿依頼をされるとき、ぼくが「そんな字数では書けないよ」というと「では、もう少し字数を減らしましょう」と、見当違いの気遣いを示してくれます。もう何度もそのようなお言葉を経験しています。ぼくの言い草は決まって「違うんだってば!」。そんな少ない字数では言いたいことも書けないということなのです。 拙「よもやま話」はWeb原稿ですからそのような字数制限がなく、手綱を絞められることがないのでいい気になって余計なことばかり書き連ねてしまいます。自分の写真に対する感情が文意から滲み出る(はみ出す)場合があることについての言い訳はしませんが、自分の凡庸な写真を差し置いて、写真文化の凋落ぶりが看過し難く、もどかしさと苛立ちを隠しきれないというのが正直なところです。だから余計なことを無為に書き連ねている。このテーマについてはなんとか2回くらいで収めようと努力はいたしますが・・・。さて、どうなることやら。 モノクロについてお話ししようとすれば、ぼくのようにフィルムで育った人間はどうしてもその部分を避けて通ることができません。フィルムの歴史的な変遷はさておき(割愛)、写真創生期から約100年間は形態こそ異なれフィルムとはすべてモノクロであり、その間写真愛好家たちはより視覚に近いカラーでの再現を熱望し、研究者やメーカーもそれに応えようと試行錯誤を繰り返してきました。これは写真ばかりでなく、映画もテレビも同様です。 モノクロに代わりカラーが主役として一般に脚光を浴び始めたのは写真人口の増加にともなう1970年代(昭和45年)に入ってからのことです。現在では主役の座を占めるのは、数字的なことは知りませんが、カラーですね。にも関わらず好事家と目される人たちの間では、依然としてモノクロにこだわりを持ち、そして愛され続けているようです。それは懐古趣味などという次元を越えて、モノクロは写真表現の奥深さを窺い知ることのできる要素をふんだんに内包しているからだというのがぼくの所見です。かく言うぼくも私的写真のほとんどはモノクロです。カラーを嫌っているわけではなく、イメージとする対象がそれに合致しているからです。写真表現に於けるモノクロの利点や特徴については述べる資格がありませんので、これも割愛させていただきますが、ぼくの過ごしてきたフィルム全盛時代は、カラーよりモノクロの方がはるかに暗室作業などの点で取り扱いが容易(液温管理がアナログであったため。カラーは液温管理が極めて厳格)だったということもあるのでしょう。当時はモノクロに親しみを感じやすい環境でもあったのです。 昨今はデジタルですから、したがって原画はカラーです。カラーで撮ったものを画像ソフトなどでモノクロに変換する作業をしなければなりません。最近はデジカメにもモノクロモードのついたものが出回っていますから、その役割をカメラが担ってくれ、デジカメでも手軽にモノクロを愉しむことができます。取り敢えずはこれでモノクロ写真の一端を体験できます。 モノクロフィルムもデジカメのモノクロモードも「感色性」というものが存在します。「感色性」とは大雑把にいえば、様々な光の波長にどのくらいの割合で感光材が感応するかということです。黒から白までの無彩色に光の成分が各々どのくらいの濃度で表現できるかということです。フィルムの種類、デジタルカメラによってもそれぞれに特徴があり、「感色性」が異なるのです。その「感色性」を変化させるのがフィルムならフィルターであり、デジタルなら画像ソフトによる変換です。 そのためには、光の三原色であるR(赤)、G(緑)、B(青)とその補色関係にある色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(黄)の関係を理解しておく必要があります。 デジタルカメラで撮られたカラー原画を画像ソフトでモノクロ化する最も手っ取り早い方法は、すべての色の「彩度」を無にしてしまう方法です。これなら光の三原色と補色関係の知識がなくても、デジカメのモノクロモードとさして変わらぬ結果が得られます。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/131.html 作例写真:カラー原画(01)とPhotoshop CS6の「色相・彩度」で「彩度-100」にした状態(02)とその結果(03)。 (04)は長年愛用したKodak社のモノクロフィルムTri-Xを、某社画像ソフトで疑似Tri-Xに変換したものです。 (05)は、メリハリをつけてより印象的に仕上げたものです。 同じモノクロでも様々に表情が異なることがお分かりいただければと思います。嗚呼、2回連載じゃとても無理だ! |
(文:亀山哲郎) |
2012/12/14(金) |
第130回:趣味としての写真(2) |
個人の趣味について他人であるぼくがあれこれと口やかましく述べることは、あまり好ましいことではないと思っています。好ましからざることと重々承知の上で、「趣味としての写真」なんて大見得を切って述べているのは、この世界にどっぷり浸っている者の業のようなものなのでしょうか? まぁ、我の発露といいますか・・・。
老子の詞(ことば)に「知る者は博からず」というものがあります。本当に物事を深く知っている人の学識は決して広くはなく、逆に博学と思える人の学識は浅いというものです。 また、「知る者は言わず、言う者は知らず」とも言っています。物事に深く通じている人は軽々しくあれやこれやを話さない。よくしゃべる人は本当のところ実はよく物事を知らないのだ、という意味です。 ぼくは少し頭のぼけた一介の写真屋に過ぎませんが、確かに物事を知れば知るほど分からないことが増え、思わず口をつぐんでしまうことはよくあることです。老子の詞はそれとなく真理をついているように思え、なんともむず痒い詞です。老子は紀元前の人ですから、それがすべて現代にも当てはまるかどうかは議論の分かれるところでしょうが、日進月歩の科学とは異なり、どんな時代にあっても人間の根源的な精神、あるいは心理的佇まいや作法はほとんど変わりようがないというのがぼくの意見です。いつの時代にあっても人は日々の現実的な営みから外れて、なんらかの愉しみを見出しながら、それを生活の潤いとして、あるいは生きるための糧としてきました。愉しみの多くの部分を占めるのが趣味や習い事なのでしょう。同好の志との交わりも酔余の一興。趣味というものは非生産的なものだと思いきや、案外そうとも言えぬ面もあるのです。酒や博打も趣味のうちに入れてしまおうとする狼藉者もおりますが、それは趣味とは言いません。欲は満たされますが精神生活にはほとんど役には立たず、ほど遠いものだからです。 ぼくが仕事以外で最も多くの時間を費やすのは読書なのですが、残念ながらぼくにとって読書は趣味だとは言いかねます。なぜなら、それは苦痛を伴うことが非常にしばしばあるからです。苦行だと思えることさえあります。自分に鞭打ちながら?!読んでいる。「自虐趣味も趣味のうちではないか!」と言われれば返す言葉がありませんけれど。そんな思いをしてまでなぜ本を読まなければならないのかは、別の議題となりますから述べませんが、「趣味は読書です」と大らかに表明できる人を心底羨ましいと感じます。これはもちろん、皮肉ではありません。嗜みというものは人それぞれで、尊重すべきものだということくらいはわきまえています。 さて、趣味としての写真は近代のものですが、なんともはや金のかかる趣味ですね。どんな趣味でも凝ればそれ相応の対価を求められますが、デジタル以降ますます負担が大きくなってしまいました。デジタルによって写真は誰にでも写せ、より身近になったにも関わらずです。フィルムに比べてどうかという議論もありますが、少なくとも作品づくりを目指して本気で取りかかろうとするのなら、デジタルの方がやはり金食い虫のように思えます。デジタルのメリットについては今まで多く述べてきましたので改めて繰り返すことはしませんが、プリントに至るまでの機材を一通り揃えてしまえば、多少気の休まる点があることは確かです。 趣味としての写真を語ろうにも、昨今はあまりにも多岐にわたりすぎて一括りにしようとすると複雑骨折を招いてしまいそうです。拙連載の初めの頃は写真を撮るために必要な基本的な事柄やデジタルについての云々でしたが、座標軸を少しずつ推移させ、徐々に抽象論が多くなっているような気がします。言い換えれば「記録としての写真」から「自己表現のための写真」への移行とお考えください。それは意図した出来事ではなかったのですが、携帯電話で撮る写真も含めれば世の大半は「記録としての写真」であるように思えます。数字的な確証はありませんが、95%以上がそれに該当するのではないでしょうか。しかし、ぼくの規範に従えばそれを趣味とは言いません。 写真をしっかり撮る事に始まり(記録としての写真)、次第に自分のイメージするものを写真で捉えたくなる(自己表現のための写真)のが自然な流れだとぼくは思っています。つまり、ここからがぼくの言う趣味の世界なのです。 ぼくの写真倶楽部の人たちに「みなさんは写真を趣味としているのだから、記録写真より、あなた自身を写しなさい」とよく言います。基本的には、家族写真、絵葉書やガイドブック的な写真は、よほどフォトジェニックなものでない限り認めないと伝えています。家族写真や友人・仲闢凾フ写真は、撮影者と被撮影者の双方に緊張感を欠きます。これは「作品」にはなり得ません。また、例えば上高地などのお定まりの写真をどんなにきれいに撮って来てもぼくはそれを「良い写真」とは認めない。「世の中にゴマンとあるような写真の何が面白いの? 山の姿は見えるけれど、あなた自身の姿がどこにも写ってないからダメ。上高地まで行かなくても、あなたの周りにはもっと美しいものがたくさんあるのだから、それを発見する目を養えば、写真は俄然愉快で、深いものになる。物の表層だけをさらうのでなく、深層を探ること。そのためには被写体を知り、理解し、よく観察することによって初めてあなた自身のイメージが作れる。イメージすることなしに写真は撮れないよ。そうすることにより自分の世界が広がっていくもんだ。それでこそ趣味の写真なんだよ。」と、みんなに優しく、かつ躍起になって諭すのです。ついでにぼく自身にも。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/12/07(金) |
第129回:趣味としての写真(1) |
多くの人々がそれぞれに何かを求めて趣味に傾注したり、精力を尽くしたりしています。斯くいうぼくもかつてはそうでした。今、趣味といえるようなものはまったくなく、長い間絶縁状態が続いています。写真以外のものすべてを、残念ながら放棄せざるを得なかったからです。
好事家と呼ばれる人のなかには、趣味が高じて身を滅ぼしたり、あわよくばそれを生業にしてしまおうなどという不逞の輩も時折おります。ぼくなど、趣味と生業の区別もつかぬ不料簡者でしたから、人生設計などとてもままならず、お陰さまで多くの犠牲を強いられながらも、今日までどうにか生きながらえてきました。それも身から出た錆びだと観念しています。 しかし反面、人生の設計図を描きそれに従おうと勤めることは、なんて窮屈で退屈な作業なんだろうと思うこともしばしです。自己の描いた路線に沿って生きていくのは、精神の自由や闊達さを失ってしまうのではないかとの恐れが先に立ってしまうのです。ぼくにはそのような生き方が不向きだったのです。それに気づいたのが30も半ばを迎えた頃でしたから、お人好しというか頑是(がんぜ)無いというか、我ながらちょっと嘆かわしくもあります。 ぼくにとって、親父の残してくれた素晴らしくも玄妙な教訓である「人生は取り敢えず」に救いを見出し、我が意を得たりと無意識のうちにそれに従っていたようです。道楽者だけが味わうことのできる大きな歓びを、言ってみれば淫することによってのみ得られる玩味の小さなひとかけらを亡父から授かったように思います。世の中ではこれを称して“蛙の子は蛙”とか“DNA”というのでしょう。また、親父は同時に「運・鈍・根」だとも言っていました。 長い間写真屋稼業に身をやつしてきて、助手君をも含めて多くの人たちに自分の得た浅薄ながらの知識や技、考え方を伝えてきたつもりです。助手君たちに関しては、将来写真を飯の種にしようとするのですから、写真愛好の有志たちとは多少こちらの心得と対峙の仕方も異なり、それは当為ならざるを得ないところですが、不思議なもので助手君たちとは2日もつき合えば“こいつは良い写真を撮るようになる”だとか、“ちょぼちょぼ”だろうとか、“だめだな”とか、そのようなことがなんとなく分かるものです。80%くらいの確率で当たる。と言いつつも、自分の助手時代を振り返ってみると冷や汗しか出てこないのですが(汗)。彼らは年齢的に20代と若いので、混じり気のない分、なおさら分かりやすいとも言えます。若いが故に自分のしていることに気がついていないという面もあるでしょう。残りの20%は、何かのきっかけで変貌する人もいます。変貌の仕方も人それぞれです。 将来、プロを目指す彼らに手取り足取り教えることはまずありません。助手とは、文字通り撮影の手助けをしてもらえばそれで用が足り、写真の何かを教える義務感を持たずに済みます。撮れるようになりたければ勝手に盗めばいいという世界です。学ぼうが学ぶまいが、上手になろうがなるまいが、突き放して考えることができるのでこちらは至って気楽な部分があります。写真で飯が食えるようになるかどうかはぼくの問題ではなく、彼らの心がけ次第ですから、物事を非常に割り切って考えることができます。 また、クリエイティブな世界では、どのような分野でも同じなのでしょうが、良い作品とその対価は必ずしも比例しないので、写真の上達だけがプロになる必須条件だとは言えない部分もあります。 ところが写真を良き趣味として愉しみたいという方々に対しては、責任の一端を感じてしまうせいか、どうしても及び腰になってしまうのです。割り切った考え方ができずに、さまざまな相剋を抱え込むことになります。「プロになるわけではないのだから、そんなことに目くじらを立ててはいけない」と自分を諭す一方で、「厳しくとも何かをしっかり伝えなければ上達は覚束ない」との板挟みに遭うのです。出かかった言葉を呑み込むこともしばしばです。短気なぼくもずいぶんと気長な人間に成長しつつあります。これは歳のせいでは断じてありません。 趣味とは、愉しむこと=上達する(良い写真を撮れるようになりたい)のが大前提としてあるのだとぼくは主張しています。ただ愉しみたいのであれば、ぼくのところに来る必然性などないのですから、「自由にお愉しみください」の一言で片のつく事柄です。趣味とは上達あってこそ愉しく、また長続きするものだとぼくは捉えていますから、ここが教える方としては厄介でもあり、とても難しいのです。 めきめき上達する人。あるいは緩やかではあるけれど確実に上達する人々を見ていると、いくつかの共通点を見出すことができます。熱意と意欲、向上心を前提として、箇条書きにしてみると以下のようになります。 ★自分自身に素直であることと同時に相手を尊重し、常に誠実な対応ができる人。 ★写真以外の美に感応できる人。写真しか関心のない人はダメ。 ★好奇心とささやかな冒険心によるところの行動力が備わった人。 ★分相応の投資を惜しまぬ人。 ★想像と空想とにふけることができる人。リアリスト(現実主義者)はダメ。 ★ぼくの言うことに素直に耳を傾ける人。 以上であります。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/11/30(金) |
第128回:ピンホールカメラ |
一昨年の猛暑は、みなさんの記憶にまだ新しいところだと思います。猛暑という一言では足りず、「炎暑、極暑、酷暑」と3つ並べてもまだ足りないくらいの記録的な暑さでした。7月中旬、気象学的にはいざ知らず、ぼくの皮膚と頭脳感覚では生涯味わったことのないような暑く、苦しい夏でした。エアコンを効かせた家に閉じこもって居られればよかったのですが、間の悪いことに家の全面リフォームにぶつかってしまい、引っ越しを余儀なくされたからです。引っ越し業務は専門業者が請け負ってくれるのでまだしも、長年にわたり積もり積もったあらゆるガラクタを振り分け、約1,500冊の本を紐で縛り廃棄処分にしたり、段ボールに整理しながらまとめ上げなければならず、グータラなぼくは朝から晩まで約2週間も嫁に奴隷のようにこき使われ、叱責され、それだけでもう心身消耗の極に達してしまったのです。汗と埃にまみれ、そのために暑さがさらに倍加されたのでしょう。「夏に引っ越しなんかするものじゃないぞ」とぼくは誰憚ることなく触れ回ったものです。
もうこりごり、金輪際夏に引っ越しなんかするものかという思いが、やがて恨み辛みに取って代わり、憎しみさえ抱きながら悲劇の主人公を演じてみたり、誰かに責任を転嫁してやろうと居もしない敵をひたむきに作り出そうとしたりして、もはやぼくの精神破綻も時間の問題かと思えたものです。 自分の不機嫌さや正体のない怨恨に対する憂さ晴らしのために、罪のないものに刃や銃口を向ける、「ここに民族浄化の大罪は端を発するのか」(ちょっと、ちょっと、それは極端なんじゃない? そうかなぁ?)と理知的なぼくは(どこがよっ!)ロダンの『考える人』のような、まったく不自然な格好で考え込んでしまいました。余談ですが、普通考え込むときに人はあんな不自然なポーズは取りませんね。右肘を左膝に置くなんて芸当、体が捻れて息苦しく、とても「考える」ことなどできません。 暑い、暑いと言いつつも、2ヶ月間の仮住まいは快適そのものでした。環境が変わったので、猛暑にも関わらずすべてが清新で、刺激的で、いつにも増して撮影意欲が湧き上がったのです。感覚も鋭敏さを増したように思えました。ぼくがよく口にする「非日常」ですから、旅をしているのと同じような感覚を味わい、猛暑をものともせず、連日意欲的にカメラをぶら下げながら近隣を徘徊したものです。 晩夏の9月下旬には、命尽きた蝉やトンボが路上に干からび、去りゆく夏を惜しみながらも命の儚さと憐れみを感じると同時に、それはどこか陰鬱でもの悲しく、また妙に感傷的なものであったように思います。バス通りの縁石の僅かな隙間から顔を覗かせた小さな花に毎日水をやりに出かけたり、柄にもなく小さな命たちの供養にせっせと墓を作ったりしました。民族浄化変じて、ぼくは一体どうしてしまったのでしょう? 子供時分に奪った多くの小さな命たち(子供は残酷です)への罪の意識が、還暦を過ぎた野蛮人にも急に芽生え始めたのだろうと思っています。仏教でいうところの懺悔(“ざんげ”でなく“さんげ”)でありましょうか? ところで、ピンホールカメラの話はどこへ行ってしまったのか? 活発な撮影意欲と妙な心変わりに押されて、ぼくはデジタル・ピンホールカメラを作ってみようと仮住まいのエアコンの効いた部屋でうたた寝をしながら思い立ったのです。ピンホールカメラに特別な愛着があるわけでもなく、大した知識もないのですが、とにかく簡単に作れるので一度は試みようと思っていました。 ピンホールカメラにはレンズがありませんので、第126回、第127回でお話ししたようなやっかいな収差がありません。レンズのように1点に光を集めるわけではないのでピンホールから入る光量は著しく貧弱で、従って露光時間がかなり長くなります。周辺光量は落ち、レンズのようなシャープな像は結びませんが、ピントを合わせる必要もなく、露出の決定はISO感度と露光時間のみです。 ピンホールは自分で開けたものでなく、すでに直径0.4mmのものがネット通販で売られておりそれを使用しました。海外製ですがメーカー名を失念し、今調べてみたのですが判明しません。本来はアルミ箔などに任意の大きさの穴を開けて用いるのが、ピンホールカメラの通人なのでしょうが、そこまでしてというのがぼくの気持ちです。簡単に作ることができるのがぼくにとって一番。 一眼レフ・フルサイズのボディキャップに大きめの穴を開け(直径4〜5mm)、そこに購入した約2cm四方のピンホール板をパーマセルのブラックテープでボディキャップの裏側に貼り付けただけです。おそらくf値は200〜300くらいだと思います。このような極端なf値なので、受光素子は入念にゴミ取りをしておかないと、Photoshopの「スポット修復ブラシ」ツールを何百回も押さなくてはならなくなります。 デジタルですから、撮影後はカメラのモニターでヒストグラムを見ながら適正露出を探ることが可能です。作例を掲載しておきます。どことなくボワーッとした、レンズでは得られない描写です。かなり面白そう。一昨年のぼくの脳味噌のようです。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/128.html 「01散歩」:データEOS-1DsIII。ISO 400。10秒。日が落ちた公園で犬の散歩をする人たち。三脚使用。 「02かかし」:データEOS-1DsIII。ISO1600。1/25秒。ピンホールカメラは三脚使用が通常だが、手持ちを試みる。感度を上げれば手持ちで使えそう。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/11/26(月) |
第127回:歪曲収差について(補足) |
レンズには様々な収差があり、光学ガラスを使用している限りどのようなレンズにも生じます。レンズにまつわる諸悪の根源はすべて収差にあります。それらすべてを取り除くことは現在のレンズ光学(ガラス素材なども含めて)ではほとんど不可能です。収差には基本的に「ザイデルの5収差」と呼ばれるものがあり(「ザイデル」とは19世紀ドイツの数学者・光学者の名前。P. Ludwig von Seidel )、歪曲収差もそのうちのひとつです。5収差とは「球面収差」「非点収差」「コマ収差」「像面湾曲」「歪曲収差」を指し、よく言われる「色収差」はここには含まれません。
様々な収差をできるだけ取り除こうとすると、光学設計上非常に複雑となり、またガラス素材にも高価な物が用いられることとなり、どうしても価格が高騰してしまいます。宜(むべ)なるかな、安価なレンズほど収差に悩まされるという悲哀を味合わなければならないようです。“ようです”とは曖昧な表現ですが、ぼくはすべてのレンズをテストしたわけではないので、「100%そうである」とは断言できないのですが、おそらく“当たらずとも遠からず”というところでしょうか。 各収差についての詳細は省きますが(ぼく自身がレンズ設計にも光学的な学識にも疎いので生半可な知識を振り回すべきでないことと、それを知ったところで写真の上達には関係がないので)、収差のなかには絞りを絞り込んでいくとある程度改善・改良できるものがあります。しかし、歪曲収差は残念ながら絞りでは解決できません。レンズの性格に従わざるを得ないところがまことに忌々しいのです。 ですが、前回述べた「デジタルというのはすごい!」との意味合いは、画像ソフトを使用することで改善の手立てが得られることです。フィルム時代はレンズの特性に従わざるを得ず(補正のしようがない)、僅かばかり神経質な人たちは否応なく我慢を強いられ、それに甘んじる他なかったのですが、デジタルはなんとかそれらしく歪曲補正ができてしまいます。簡単な技でできちゃうんですね。 しかし、これも諸手を挙げて喜んでばかりはいられません。何事にもメリットがあれば悪霊のようなデメリットもついて回るのですから、いわば薬のようなものだとお考えください。それもかなりの劇薬。この悪霊は、補正と引き換えに周辺部の解像度劣化を誘発してしまうのです。 ただ、ここにも救いの神がいます。もったいぶった言い方は止めて(もったいぶっているつもりはないのですが)、ぼくの歪曲補正の手順を手短にお伝えしておきましょう。 まず最良の治療結果を得るには、撮影はRawで撮り、Rawデータの現像時に歪曲補正ツール(“ディストーション”と明示されるものもある)の機能のある“最新の”Raw現像ソフトを使用することで、解像度の劣化は最小限に抑えることができます。最近はピクセル補間の解析方法が進化し、良い現像ソフトはほとんど悪霊の存在を気にしなくて済むようになりました。ぼくはもっぱらフランスのDxO社のRaw現像ソフトとAdobe PhotoshopのBridgeの双方を使用条件に合わせて使い分けています。他の収差補正にも極めて良好な結果を示してくれます。 現在、ぼくのMacには6種類のRaw現像ソフトがインストールされていますが、ぼくの環境下では上記の2種が使い勝手や(馴れの問題もあるでしょうが)多くのカメラとレンズに対応していることも含めて、総合点ではベストと言えます。しかし、他のソフトをアンインストールしないのは、写真の絵柄やレンズによっては捨てがたい利点が見出せる場合があるからです。この無定見さは、悪霊の怨念を執拗に排除しようと躍起になってのことで、その伝ではちょっと偏執狂じみていますが(フィルム時代にもてあそばれた後遺症?)、フィルムの怨念に祟られずデジタルから始められた方はご自分の使いやすいソフトを十全に使いこなすことを一番にお勧めします。 撮影はRawでなくJpegでしか撮らないという向きは、ぼくの知る限りAdobe Photoshopの「レンズ補正」ツールが良い結果をもたらしてくれます。Photoshopの簡易版であるPhotoshop Elementsにもこの機能が付いていますので、画像ソフトをお持ちでない方はPhotoshop Elementsを一番にお勧めしておきましょう。 前回126回で掲載した作例『03:「水平・垂直」』の作例は、パースがあの程度の絵柄では問題が生じにくいのですが、高層建築などですと目の錯覚によりおかしなことになってしまいます。このおかしな例は、時折コマーシャルの建築写真などに見られます。高層建築の下部から最上部に至るパースを平行にしてしまうと、騙し絵のように上部が広がったように見え、なんとも気持ちの悪いものです。かつては、建築写真といえば大型カメラで撮影するのが当たり前でしたので、アオリを使ってなんでもかんでも平行・垂直を保つのがよしとされ、暗黙の了解ごとでもありました。ぼくはその現象をクライアントに説明・説得し、僅かにパースをつけ自然に見えるようにしたものです。慣例に囚われたクライアントも悪霊のように見えたものです。 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/127.html 「01無補正」:高層マンションを常用の35mm広角(35mm換算)で撮影。歪曲補正なし。中央部が僅かに膨らみ、樽型となっている。元々のレンズの素性が良いので際立った歪曲収差ではない。周辺光量も落ちている。 「02歪曲補正」:Photoshop のBridgeでRawデータを自動補正。周辺光量も自動的に補正されている。 「03垂直」:マンションの垂直線を平行に。目の錯覚で上部が広がったように見える。こんな不自然な補正をしてはいけません。 |
(文:亀山哲郎) |
2012/11/16(金) |
第126回:歪曲収差について |
過日、半年ぶりに会った写真と珈琲好きの友人に「かめさん、最近の『よもやま話』は写真的エッセイのようになってきたね。でもね、かめさんの言わんとするところはよく分かるよ」と言われました。
ぼくは「君にも以前から言っているように、写真は技術なくしてなかなか思うように撮れるものではないというのも一方では事実なんだが、実はもっと大切なことがあると思っている。それは一言でいえばメンタリティというのかな、写真を撮るための精神的メカニズムというか、そういうことね。技術というのは学ぶ意志さえあれば、いつでも、誰でも写真を撮る上で必要にして十分なところまでは習得できるものだ。初級から上級まで、その類の本はたくさん出版されているし、従ってそれを読めば、プロになるのでない限り、それで事足りる。しかし、技術よりももっと大切なものがあるとぼくは常々感じているので、どうしてもああいう話にならざるを得ないんだよ。“はじめにイメージありき”だということを伝えたかった。だから、うちの人たち(倶楽部のメンバー)にも、技術的なことの指導は最小限に抑えて、あまり多くを敢えて教えずに、精神的技術論を説くようにしている。その方がずっと良い写真を撮れるようになると思うし、成長の証としての実績も残せたと思っている」と、ぼくの写真的信条の一端を改めて繰り返しました。 また、「指導者は、教えを受ける人たちが指導者の色に染まらないように心がけることが大切。自分の流儀を押しつけて、人は成長するものではないから。だからぼくは写真の好き嫌いで批評はしないし、クオリティだけを見るようにしているのは君も知っての通り。個というものは真似のできるものではないし、それは意味のないこと。学ぶ側は自己に取り入れるものを指導者から収拾選択しながら奪い取り、そして成長していくのがぼくの理想かな」とつけ加えました。 そのような意味合いを行間に含めての「震災の地を訪れる」5回シリーズであったわけで、個人的なエッセイもしくは体験記を綴ったわけではありません。行間をどう読むかは読者諸賢にお任せすればいい。 さて、久しぶりにレンズの話をしましょう。この話も実は友人Tさんが撮った写真を見て思い立ったのです。ズームレンズも近年ずいぶんと良いものになってきたと感じていた矢先に、甚だしき歪曲収差の弊害に出会い、改めて感心?というかショックを受けてしまいました。 レンズには様々な「収差」と呼ばれるものがありますが、歪曲収差もその一種で、画像が樽型(中央が膨らむ)になったり糸巻き型(中央が凹む)になったり、さらに複雑に陣笠型のようになるものもあります。つまり、直線が直線として表現されずに曲がってしまうのですから、まことに始末の悪い現象です。小型カメラを使用している限り、どんな優秀なレンズでもこの弊害から逃れることはできません。 極端な例を上げれば「魚眼レンズ」などはこの歪曲収差(樽型歪み)を逆手に取り、利用したものです。魚は本当に物があのように見えるのかどうか、ぼくは魚ではないので知る由もありませんが、もしそうだとすればトビウオなど水面から出た瞬間に「地球は丸い」と実感しているのでしょうね。ぼくは地球が丸いだなんて未だまったく信じておりません。ついでに言えば地動説も信じておらず、絶対天動説支持者です。こういう人間が科学・化学で成り立つ写真について一端(いっぱし)のことをそれらしくうそぶいているわけです。 歪曲収差は広角側で樽型に大きく歪みます。焦点距離で言えばおおよそのところ広角から望遠の85mmくらいまでが、樽型です。標準レンズとされる50mm (35mm換算)は洩れなく樽型歪みです。約100mmからそれ以上が逆に糸巻き型に歪むという性格を有しています。ぼくの使っているC社の100mmマクロレンズは、ほぼ正確に直線を表してくれ、他の物はどちらかに偏っています。ですから複写などはもっぱらこの100mmレンズを使用することになります。 しかしです。デジタルというのはすごい! この気持ちの悪い歪曲収差を完璧にとは言わずとも、ほぼ気にならない程度まで「自動的に」修正できてしまいます。「自動的に」とは、使用する画像修正ソフト(一般的なものとしてAdobe Photoshop など)が、使用レンズに対応していれば、チェックを入れるだけで85%くらいの満足度で補正してくれます。85%という数値は“心情的に”と解釈してください。あとの15%がどうしても気になるような場合は「手動」で補正を追い込んでいけば、ほぼ満足感が得られるでしょう。 幸か不幸かぼくはTさんの使ったような強い歪曲収差の出てしまうレンズを持っていませんので(Tさん、ごめんなさい)、作例には分かりやすいように強い収差の出る広角28mm(35mm換算)のコンバージョンレンズを使いました。樽型に歪んだ画像をPhotoshop CS6 の「レンズ補正」ツールを使い、「手動」で補正しています。「自動」を使いたいところですが、コンバージョンレンズにまで対応していませんのでやむなく「手動」を使いました。この便利なツールの使いこなしは馴れれば2分とかかりません。 作例は、完璧になるまで追い込んでいませんが、ほぼ85%の出来映え、かな? ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/126.html 「01オリジナル」:樽型に歪曲しているのがお分かりでしょう。手前の柵に顕著な現象が生じています。とともに、全体が凸に膨らんでいます。 「02補正」:歪曲を補正。広角レンズを下からアオって撮っていますから上部がすぼまって表現されます。これは正常です。 「03水平・垂直」:大型カメラでアオリを効かせて撮ったように、水平・垂直をできる限り補正。 |
(文:亀山哲郎) |