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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2013/04/19(金)
第147回:構図(2)
 前回、構図の作例として写真を5点ばかり掲載しましたが、ちょっと“気がかりなこと”に思い当たりました。というのは、3月にグループ展を催した際に、拙稿第123回、124回を読まれた方が来場され、「『よもやま話』に掲載された閖上(ゆりあげ。宮城県)の写真を拝見しましたが、実際のプリントとはずいぶん印象が異なりますね。やはり写真はオリジナルプリントを見ないと分からないものですね」といわれました。彼の言葉には二つの問題があります。以前にお話ししたことの復習となりますが、もう一度おさらいをしておきましょう。

 「失礼ですがモニターのキャリブレーションはされていますか?」とぼくは訊ねました。彼は「いいえ」と。これが一つ。
 二つ目は、「たとえモニターがキャリブレーションされていても、モニターは光の三原色であるRGBで表現され、プリントは色の三原色CMY+Kで表現されますから、厳密にいえばモニターとプリントが完全な一致を見ることはありません。加えて、環境光にも左右されます。しかし、しっかりキャリブレーションされたモニターを使用し、正しいカラマネージメントの手順を守れば、プリントと画像は酷似したものとなり、ほとんど違和感を生じないものとなります」と説明しました。
 彼のモニターはキャリブレーションされていなかったために、オリジナルプリントを見た時に違和感が生じてしまったようです。

 “気がかりなこと”とは十分に予見できることだったのですが、不覚ながら普段のぼくの意識からはほど遠く、気がついてみると脇の下がじんわりと汗ばむのを感じました。かなりの写真愛好家でも、キャリブレーションできるモニターとキャリブレーターを備えていないという現実は、確率的には非常に高いことをぼくは知っていますから、自分の写真をインターネット上に公開することはとても恐ろしいことに感じます。つまり、ぼくのモニターで見る画像とはかなり異なったものが読者諸兄のモニターでは再現されているのだと思います。
 そして、もししっかりキャリブレーションされたモニターを使用しても、Windowsでは各種ブラウザやアプリケーションによってまちまちに表現されてしまう可能性が高いらしいということです。ぼくはWindowsを使用していませんので、“らしい”というのはMacintoshとWindowsの双方を使っている重箱の隅を突くような性格を有した複数の人たちからの報告によるものです。いや、これは重箱の隅を突くような些細な問題ではなく、看過しがたい大問題です。Windowsで正確な画像を見るためにはカラーマネージメントのできる、例えばAdobe Photoshopのようなソフトを使うしか手がないのでしょうか? であれば正確な画像再現はずっと確率が低くなり、その恐ろしさはさらに加速されて、ぼくは生きた心地がしないのです。
 まぁ、前回は画像再現に重きを置いたものでなく、あくまで「構図」の考え方を示したものですから、という慰めをもって由としておかなければなりません。ちなみにMacintoshではぼくの知る限り純正のソフトでなくてもPhotoshopと同様の再現が得られます。

 写真を始めて2年になるという読者の方から、「どうしても被写体を真ん中に置いてしまう癖がついてしまい何か変化に乏しく面白味のない写真ばかりと感じていたところ、三分割法の具体例を示していただいたことは目から鱗のようでした。参照写真は、説明のために撮られたものではなく、それが実写であることに説得力というか、興味深く拝見できました。もし可能でありましたらもう何例か示していただければありがたいのですが・・・」(原文ママ)と、わざわざ遠方の広島から(メールですので関係ないか)丁寧なメールをいただきましたので、意を強くしてバリエーションも含めて8点ばかり掲載させていただきます。余計な能書きより、背景さえ整えることができれば、主被写体の位置に神経質にこだわることもないんじゃないかとの意味合いを込めています。前号でお話しした「正否のない感覚的な問題なのだから、あなたがいいと思えば構図なんてそれでいいんだよ。物が美しく見えさえすればそれでいい」というアバウトな性格を作例写真から読み取っていただければと思います。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/147.html

 写真はすべて35mmフルサイズですので、焦点距離の35mm換算は省きます。写真に黒枠を付けているのはフィルム時代の名残で、トリミングはしていないという意思表示のためデジタルでもぼくはそうしています。

★「写真:01」。焦点距離35mm。典型的な「日の丸写真」? 二分割の交点に被写体の最重要な部分を置いています。前回、掲載した「三分割法:01」の構図を適用したら絵になりません。三分割法は、いうまでもなく万能というわけではないという例です。だから写真は難しい。
★「写真:02」。焦点距離90mm。被写体を正面に配し、重要な部分を下1/3に。いわば二分割法と三分割法の折衷案といったところ。スターリンの恐怖時代を生き抜いてきたおばあちゃん。どんな重荷と悲しみを背負ってきたのでしょう。
★「写真:03」。焦点距離20mm。超広角レンズで大接近。カメラを構えるぼくの影が右下に写っています。夕陽に照らされた部分と影になった建物を中央で二分割し、下1/3に人物を配しています。これも考え方は「写真:02」と同じで、バリエーションといえるでしょう。
★「写真:04」。焦点距離28mm。女性を三分割した線よりかなり極端に端に寄せています。空、両脇の建物、壁のハイライトと鉤の手形のシャドウといったグラフィカルな要素を取り入れて、なおかつ視点が女性に注がれるように。「対角線構図」の一種です。
★「写真:05」。焦点距離50mm。脇の路地から突然飛び出した得体の知れぬ重装備の東洋人と鉢合わせし、唖然として立ち尽くす少女。これもかなり極端な構図です。十分な空間を取り、三分割した中央に少女を配しています。
★「写真:06」。焦点距離135mm。画面を整理するために望遠レンズを取り付け、雑多な周囲を遮蔽するために開け放たれた車のドアを利用。三分割したほぼ中央に二人を配しました。変な構図ですね。
★「写真:07」。焦点距離35mm。木戸から出てきたおじさんに気づかれないうちにいただいた1枚。全身を入れる必要はないと思い、左腕を思い切ってファインダーから外しています。これも三分割の線上ではなく、ほぼ中央に配しています。
★「写真:08」。焦点距離35mm。村のボス犬。これも三分割の外側に。手はちょん切れているし、やっぱり変な構図? ぼくの癖なのかな? 根性がひねているか、いつも後ろめたい胸裏を託けているからなのかな?
(文:亀山哲郎)

2013/04/12(金)
第146回:構図(1)
 写真好きの方々が拙稿を読まれて、「少しは役に立つこともある」とたまには感じてもらいたいと思うことがあります。ということはつまり、ぼくの書くことは直ちに実践には役立たないと自ら認めているようなもので、撮影についてのノウハウや考え方を、どのようなかたちにせよ他人に伝えるには隔靴掻痒(かっかそうよう。靴の外部から足のかゆいところをかくように、はがゆく、もどかしいことをいう。広辞苑)の感ありといったところなのです。痒いところに手が届かないので、いつも読者諸兄から「痛処に針錐を下す」(弱点や痛いところを鋭く指摘して戒めることの喩え)といった審判を受けているように感じることもあります。“針のむしろ”状態、というのはちょっと大袈裟ですが、当たらずとも遠からずといったところでしょうか。ここで言葉遊びなどしている場合ではないので、本題に移ります。

 「構図」だなんて大上段に振りかぶって曖昧模糊とした議題を選んでしまったがために、何から書き始めればいいか困窮しています。かなりの後悔。
 「正否のない感覚的な問題なのだから、あなたがいいと思えば構図なんてそれでいいんだよ。物が美しく見えさえすればそれでいい」というのがぼくの正直な気持ちであり、ぼく自身、写真を撮るときに構図を逐一深く考えたり、計算しながらシャッターを切るなんてことはありません。主被写体と脇役を決められたフレームのなかでどう配置し、位置づけるかはまったく瞬間的な感覚に頼る以外にはありませんから、定まったことなど言えないというところなのです。それをいってしまうと話の進めようがないので、ちょっと真面目に考えてみたいと思います。考えたこともないことを書こうというのですから、無責任に加え、あまりにも無防備ではありませんか。

 「構図」とは、大雑把にいえば決められた縦横比のフレームのなかにどのように、そしてどのくらいの大きさに被写体を配置し、収め、組み合わせ、視覚上の効果を演出するかということであり、そこに決められた法則なり規則があるわけではありません。良い構図とは、被写体が最も効果的に、求心力を伴って、印象的に、そして美しく見える配置構造だとぼくは考えています。
 美術的・学問的な見地からいえば、構図には多くの考え方がありますが、例えば主だったものに二分割法、三分割法、黄金比分割法などの“考え方”(“法則”というほど厳密に捉える必要はありません)が、古くからあります。そのくらいのことはぼくだって知っています。特に黄金比は、ぼくの頭では到底理解できない複雑怪奇な数式から導き出されたもので、ものの本にはギリシャの彫刻、建築、ピラミッド、L. ダ・ヴィンチの作品をはじめとして、多くの芸術家がそれを採用(意識)して創作したと述べられていますが、ぼくにはどうも眉唾物のように思えてなりません。“眉唾物”が言い過ぎであれば“後付け“的なものであるように感じます。彼らの普遍的な美の最大公約数がたまたま黄金比に合致していたと解釈するのが健康的な解釈であろうとぼくは思っています。
 少なくとも写真に於いては、瞬間的な判断(フレーミング)を要求される場合が多いので、小数点以下が天文学的な桁に達する黄金比(1:1.618・・・)を意識できるはずもなく、ですから「写真の構図は瞬間的な感覚」により決定されるものだとぼくはいっています。故に構図を意識して撮ったことがありません。

 しかし、構図は「感覚的なもの」だけでは済まされないこともよく認識しています。月1度の例会で10人近い人たちの写真評をする際に、重要な事柄のひとつとして常に構図に触れないわけにはいかないからです。写真を見せてもらい、ぼくは常套句のように「あなたは何を撮りたかったの?」と訊ねます。撮影者の意図が伝わってこない要因はいろいろなものがあるでしょうが、構図やアングル(これも構図を成すもののひとつ)の詰めの甘さを主だって指摘することが多々あります。
 奥ゆかしい人は静々と「日の丸写真なんですが〜」という前置きを忘れずにつけ加えることがあります。「日の丸写真」、または「日の丸構図」とは写真界の俗語です。日の丸のように被写体をど真ん中に置いた正々堂々たる写真で、単調さを免れぬ嫌いはありますが、撮影者が卑下すべきものではありません。「日の丸写真」を稚拙で良からぬものと決めつける由々しき風潮を時折見かけますが、トンデモナイことです。「日の丸写真」を二分割法構図として解釈するのであれば、それは最も安定した構図であり、人間の視覚は中心に向かう性質がありますから、求心力を削がれません。思わず目と目が合い、見つめ合ってしまうのは大きな長所です。短所としては立体感や動感、バランスの妙味に欠け、どこか変化の乏しいものに感じられることが多いのです。

 そこで、「日の丸写真」の単調さを避けるための方法(“法則”ではない)として馴染み深いものが三分割法です。フレームを縦横等間隔に三分割し、その交点、もしくは線上に被写体の重要な部分を配置する方法です。作例として写真を5点添付しましたのでご参照のほどを。写真は勿論すべてノートリーミングです。「日の丸写真」が悪いわけではありませんが、添付したこれらの写真がもし「日の丸写真」であれば、面白味のない凡庸なものになってしまったと感じる方が大半なのではないでしょうか。想像してみてください。
 作例は「第134回」でお伝えしたように、人物であるので国内のものでなく海外のものにいたしました。牛に肖像権があるかどうかは知りませんが・・・。
 
 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/146.html

★「三分割法01」。焦点距離50mm(35mm換算)。この写真のみ三分割のすべての線を引きました。画面が9等分されています。背景が立体物でない場合、三分割法は特に効果があります。
★「三分割法02」。焦点距離35mm(35mm換算)の広角レンズです。かなりの接近戦ですが、おじいちゃんが物思いにふける隙を捉えて目線をはずしています。
★「三分割法03」。焦点距離28mm(35mm換算)。女の子が身構えないうちに、振り向きざまひっそりシャッターを押しました。
★「三分割法04」。焦点距離90mm(35mm換算)。ドストエフスキーを読みふける女子大生。緊張感が削がれないように、分割線よりわずか外側に配しました。
★「三分割法05」。焦点距離50mm(35mm換算)。車のブレーキを踏み、運転席から牛君に気づかれないようにしながら、やはり目線をはずす。
(文:亀山哲郎)

2013/04/05(金)
第145回:補正と加工(2)
 本来ならMacのオペレーターにお任せするような「加工」をクライアントから無理強いされて、Photoshopでの暗室作業がさして苦にならぬぼくもさすがに怯んでしまいました。合成の技術的なことはさておいても、光学的な齟齬が生じないように如何にもそれらしく見せることに、一写真屋としてどこか後ろめたさを感じたのです。すっかり気が滅入ってしまいました。なんだか大根役者がうさん臭いドラマを大仰に演じているような錯覚に陥ってしまいました。テレビなど滅多に見ないぼくが、テレビドラマなどで現実にはありそうもない場面や非常に意図的で白々しい台詞のやり取りを見て「そんなアホな! ああ、小っ恥ずかしい」とせせら笑っている、それと似たり寄ったりのことをしている自分に気がついたのです。このようなことは、「虚構の世界に遊ぶ」なんてとてもそんな高尚でお洒落なことではありません。そこにはロマンやウィットのひとかけらもなく、あるのは商業主義にまみれた偽物のリアリティと薄っぺらな見せかけの世界だけ。

 今回のように大体的に嘘八百(職業上、“嘘も方便”と取り繕っておきます)を並べ立てたのは長い写真屋生活で初めてのことですが、多かれ少なかれ、デジタルになって以来、クライアントもデザイナーも、写真についてはプロアマを問わず、ややもするとどこか安易な気持ちに支配されがちなのではないかとの懸念を抱いています。
 前回、「加工」は「撮影者の良心や見識に依拠するしかない問題」だと述べましたが、コンテストなどの応募要項に時たま「加工を施したものは受け付けない」との旨が明示されているのを見かけます。ぼくはアマチュア時代からコンテストなるものは自分にとっての意義を見出せないので応募したことは一度もありませんが、このような但し書きが述べられるようになったのは、デジタル時代になってからのことではないでしょうか。安易な気持ちが“掟破り”を生んだのでしょう。ぼくは撮影者が「程度問題」を心得、その良心や見識を信じているので「鷹揚に構えている」と書きました。「加工」についてはどこからどこまでを正否として捉え、論じられるかの線引きなどありませんから、とどのつまりは撮影者のインテリジェンスにかかっているといえましょう。

 さて、「加工」と「補正」は意味がまったく異なるものだと捉えています。ぼく自身の考え方を正確に述べるのであれば、「補正」ではなく「補整」としたいところです。感覚的には「補って正しくする」のではなく、撮影時のイメージを「補って整える」のがぼくの暗室作業の目的でもあり、ですから「補整」と記す方がより自分の気持ちに素直であるように思えます。普段仲間同士のメールのやりとりでは「補整」を使っています。ちなみに英語版Photoshopは“Adjustment”とされており、日本語版ではそれを“補正”と訳していますから「補正」が一般的なのかもしれません。

 私的写真に「加工」はしませんが、「補整」はなくてはならぬ作品制作の手順です。「補整」なくして自分の写真は成り立たないと断言してもいいくらいです。しかし、このことはぼくばかりでなく写真愛好家やここまで拙文を読み進んでこられた読者諸賢も同じであろうと思いますので、その必要性についての詳しい理由には触れません。
 オリジナルの画像はあくまで素材(食材)であり、「補整」は料理方法に喩えればいいでしょう。以前にもしばしばA. アダムス(フィルム時代の人)の言葉を引き合いに出しましたが、「ネガは楽譜であり、プリントは演奏」なのです。これ以上「補整」の意味する的確な表現はないと思っています。
 いくら優れた食材であっても料理人が料理作法に疎くては美味しい料理は適うものではないでしょうし、また反対に食材が悪ければどんなに料理人の腕が良くても、その味を喜んでもらえるものではありません。
 大切なことは撮影者が撮影をする際に、すでに料理のレシピが頭に描けているかどうかです。

 過日、うちのメンバーの1人がフォト・トルトゥーガ展に出展するための写真データを送ってきました。メールに添え書きがしてあり、「バリバリの亀山調プリントになってしまっても文句はいわない」(原文ママ)と半ば開き直っているようにも思えました。彼は自分の為すべき事を放棄し、他人に丸投げするような狼藉者では決してないのですが、あまりの多忙のためプリントする時間さえないとわがままをいってきたのです。栃木県の人里離れた山奥から毎月の例会に浦和まで、自転車、バス、電車を乗り継いで通ってくるほどの生真面目さと熱意・向上心をぼくはよく知っていますから、余程のことに違いないと思いました。写真を愛しながら、迷い子となった小熊を育て上げ、それしか楽しみのない人でもあります。「ゆくゆくは是非白熊を飼ってみたい」という変わり者でもあります。
 彼の「バリバリの亀山調」、「文句はいわない」の言葉に意を強くしたぼくは、「よ〜し、見てろよ」とまずデータの「補整」から始めることにしたのですが、四半世紀も写真にのめり込んできた人ですから、おおよその所はでき上がっていました。しかし、何カ所かが不全に思えそれを手直ししてから、彼いうところのバリバリの亀山調にしてみようと悪戯気分を存分に発揮し、マウス片手に試みたのですが、どうやってもぼくの調子にはなりませんでした。原因を探ってみると直ちに2つのことに気がついたのです。ひとつはぼくがイメージして撮影したものでないこと。もうひとつはすでに料理済みであったことです。彼のレシピに根本的な変更を加えることができず、調味料を付け加えた程度ですからぼくの味付けにはなるはずがありません。

 ジーンズは普段ジーンズを着こなしている人が似合うのであり、そんな分かりきったことを改めて感じ取った山奥からの便りでした。
(文:亀山哲郎)

2013/03/29(金)
第144回:補正と加工(1)
 今、ぼくはちょうど2週間前に撮影した広告写真の「補正」と「加工」をしています。某メーカーの最新モデルの“スマホ”写真です。“スマホ”だなんて、カタカナ(特に外来語)の短縮形に身の毛がよだつほどの嫌悪感を抱いているぼくがそういわざるを得ない現実を非常に悲しく思っています。市民権を得たカタカナ短縮形を「俗人」は使わなければいけないような仕組みに世の中はなっているようですが、ぼくのなかではやっと「パソコン」がせいぜいのところで、本稿では「デジカメ」と短縮形を使用していますが、まだ少なからず抵抗感が残っています。
 「俗人」とはどのような意味かを調べてみると「世間一般の人」の他に、「風流を解しない人」、「名利にこだわり学問や芸術に関心のない人(以上広辞苑)」。「高尚な趣味のない人」、「名誉や利益のことしか頭にないつまらない人(以上大辞林)」なのだそうです。「俗人」を「世俗的な」、もしくは「通俗的な」に置き換えても「世間一般の人」以外にあまり良い意味はなさそうです。

 カタカナの短縮形を、時代に乗り遅れまいと意識して使う人々、もしくは得々として使う人々などに、決して良い写真など撮れるわけがないとぼくは常々言い切っています。なんてうるさいおっさんなのでしょう! それを「独断と偏見」と見る向きも世の中には大勢いることをぼくはよく知っています。なぜそう思うのかというと、実に単純明快で「語感がひたすら汚らしい」からです。なぜ「汚らしい」かというと、ぼくの感受性がそう訴えるからです。ぼくの感覚には到底相容れ難いものがあります。そこに分析可能な理論はありません。旨いものは美味く、不味いものは不味いのであって、誰しもが五感を総動員してそう結論づけるわけですから、理由はあっても論理立てて説明できる事柄ではありません。
 また、限られた世界でしか使用されない俗語を(一般的に“業界用語”というらしい)、その世界に属していない人たちに対して得意気に使う人々。その人柄はともかくも、ぼくはその美意識を疑ってしまいます。例えば、「モツレク」ってなんだか分かりますか? モーツアルトのレクイエムなのだそうです。「チャイコ」はチャイコフスキー、「ショスタコ(ショスタコーヴィッチ)」だって!
「ベトシチ(ベートーヴェン第7交響曲)」だとか、音楽という美に従事している“はず”の人たちが門外漢のぼくに向かって平然とそう言い放つのです。優れた演奏家は決してそんな言い方はしません。「フォトショ(Adobe Photoshop)」とか「イラレ(Adobe Illustrator)」と豪語する、こういう人々にも写真は無理です。絶対に無理、不向き、無縁。この論理の飛躍にも説明がつけられませんが、下手な理由をこじつければ、「一事を以て万端を知る」というところでしょうか。
 そのような言葉の飛び交う空間には、どうしても馴染むことができず、またいたたまれないのでぼくは極力近づかないようにしています。ぼくのようにボーッとしているのが好きな人間にさえも、どことなく怪しげで危ういものを感じ取ってしまうからです。ロシアの文豪L.トルストイは「言葉を大切にしない人は所詮その程度だ」ということを確か『人生論』のなかで述べていたように記憶しています。
 短縮形ではありませんが最近の「リスペクト」とか「マスト」だとか、ありゃ一体なんなのでしょうか? ぼくはへそ曲がりですから、このような人々は多分、物事を断定的に述べることを避け、「解釈はあなたにお任せします(ですから私は自分の言葉に責任を持ちませんよ)」との意味合いを強く感じてしまうのです。「とか」の連発もしかり。「・・・じゃないですかぁ〜」って、なんでいちいち相手に同意を求めながら話さなければいけないの? そんなに自分の意見を開陳することが恐いのでしょうか。初対面で「私って、コーヒー嫌いじゃないですかぁ〜」っていわれてもねぇ。

 あれ〜っ、どこで“スマホ”が転んで、こんな話の展開になってしまったのか。ボーッとしながらも、へそを曲げながらも、やっぱり“スマホ”はひどく居心地が悪いので“スマートフォン”といい直します。

 今、ぼくの取りかかっている最新モデルのスマートフォンの広告写真は、撮影した画像をそれぞれに切り抜き、Photoshopで4重にも5重にもレイヤーを重ね合わせて1枚の写真に仕上げなければならず、その複雑さと繁雑さに、思わず「こんなもの、写真じゃないよ。なんで写真屋のオレがしなくちゃいけないのさ」と担当者に毒づいています。いわゆる「加工」は写真屋の仕事ではなく、本来は印刷所などのMacオペレーターに任すべきことなのですが、写真の(レンズの)遠近感や光の方向、光質などを計算に入れなければできないような絵柄のため、ぼくがせざるを得ないような事態に遭遇させられています。なんの因果か、一種の厄難に遭っています。
 コマーシャル写真の世界にはよくあることですが、ぼくは私的な写真に「加工」を施すことはありません。「加工」の定義を、画像に在るものを削ったり、逆に付け足したりすることだとすればです。それをしなければならないのは、すでに撮影の段階で失敗しているとぼくは潔く認めています。ですから「加工」はしません。

 「加工」の是非が様々なところで論じられていますが、何事も程度問題だと思っています。これは撮影者の良心や見識に依拠するしかない問題で、猜疑心の養成に役立ててはいけません。電線を1本削ることで、小枝を1本落とすことで写真が見違えるほどに良くなると撮影者が感じればしてもいいとぼくは思います。「写真は真を写さない」のですから、特段目くじらを立てるほどのことではありません。デジタルの長所を見極めて使いこなせばいいのではないかとぼくは鷹揚に構えています。うるさいおっさんではないのです。
 「これさえなければ、いい写真なのに。残念!」と本人が感じれば、それは上達の一歩です。「失敗は成功の基」です。残念無念と地団駄踏んで悔しがることはとてもよいことで、次なる発見や技術におおいに役立つとぼくは信じています。ただ、ぼくはボーッとし過ぎていたせいか、学習能力に欠け、同じ過ちを性懲りもなく繰り返してしまうのです。これじゃ〜、ダメだ。
(文:亀山哲郎)

2013/03/22(金)
第143回:花より団子
 今年は寒かったので桜の開花が遅れるだろうと思い込んでいたのですが、あに図らんや虚を突くように咲き始めました。油断も隙もあったものじゃない。
 日本人にとって桜というのはどことなく古式ゆかしいものの象徴であり、また宗教的な雰囲気を感じ取るのはぼくだけでしょうか? 入学式や卒業式という人生の節目にも律儀につき合ってくれ、桜のある風景は日本人にとって華やかな原風景のひとつなのかも知れません。身の縮むような寒風から解き放たれ、啓蟄とともに春の到来を告げる年一度のめでたい祭典のようです。そのめでたさはまるで正月のようでもあり、誰もが桜によってのびやかで神聖な気分を体感しているようでもあります。

 仕事の写真に没頭していた頃は桜など見向きもしなかったものですが、しかしこの10年間、私的な写真に傾注し始めてから、ぼくは桜の季節になるとなぜか心穏やかならざるものがあります。常日頃、桜は眼で見て愉しみ、愛でるものであって、写真に撮ろうなどと不届きな心得ではいけないと他人に言いつつも、満開の桜を見て思わずレンズを向けてしまう自分がひどく忌々しくもあります。桜の持つ魔力に抗しきれず、無駄と知りつつ無意識のうちにレンズを向けようとしている自分に嫌気がさしてしまいます。桜には何の罪もないのですが、うんざりするような自分の醜態に、その全責任を桜に負わせようとしています。花びらのひとつひとつを見てみると、桜とは色艶のあるものではなく、あまりにも無邪気でおおらかなので、そこにエロティシズムを感じないのですが、なぜか幹と一体となった集合体は、光や周辺の佇まいによってとても妖艶な姿に変化を遂げる不思議な樹木です。しかし、どこかイメージとすれ違うのか、なかなか思ったように撮れない。ぼくにとって、桜とはそんな罪深い宿痾(しゅくあ)のようなものなのです。

 「写真よもやま話」と銘打っている以上、季節柄「桜の撮り方」なんぞに触れなければいけないのでしょうが、それがぼくにはまったく分からないのです。ぼく自身、桜の写真を今までに一体何枚ほど撮っただろうかと顧みるに、おそらくたったの数百枚に過ぎないだろうと思います。思わずレンズを向けてしまうと言いつつも、こんなに少ないのは忌々しい自分の姿に自制が働いている証なのでしょう。ナルシストというか未練がましいというか。
 そしてまた、残念ながら良い桜写真が撮れたためしがありません。やはり桜は春風に吹かれながら、眼で愛でるものなのでしょう。「花より団子」という諺もありますしね。ちょっと違うかな。
 世の中にはそれこそ天文学的な数の桜写真がありますが、「素晴らしい!」と膝を打ったものは今日まで2,3枚しかありません。恐ろしい確率の低さです。なぜなのでしょう? その原因を探ることができれば「桜の撮り方」について取りかかれるのですが、現時点では残念という他ありません。

 過日、うちの倶楽部の人が「もうすぐ桜が咲き始めるので撮りたいのだけれど、桜を撮ってもうちのおっさんは(ぼくのこと)“いい写真だ”とはいってくれないだろうからなぁ」と嘆いていたそうです。これはちょっと穿(うが)ち過ぎです。確かに、ぼくは誰が撮っても代わり映えしない写真が氾濫するなかで、そういった類のものを如何にきれいに撮っても「良い写真だとは認めがたい」といつもいってきましたから、彼はそう早合点したに違いありません。第130回「趣味としての写真(2)」で、「上高地などのお定まりの写真をどんなにきれいに撮って来てもぼくはそれを良い写真とは認めない」と言い張りました。その考えは今も変わることがありませんが、絵葉書や観光写真の類から脱し、もう一歩写真的精神年齢を高めて、そこに撮影者独自の世界観や視点が加わればそれでいいのです。誰もが美しいと感じるものに対して、人はアイデンティティを得にくいものです。決して頭ごなしに桜や紅葉の写真を否定しているわけではありません。

 桜は日本人のDNAにあまりにも深く刻み込まれているせいか、無意識のなかでの意識覚醒が極めて難しいのかも知れないと考えたり、あるいはイメージを多く抱きすぎるために、知らず識らずのうちに混乱を来しているのかも知れないとする見方もできますが、いずれにしても明確な答えが得にくい被写体であることに変わりありません。
 逆に、誰もが極めて明確なイメージを携えているが故に、百人百様ですから、個人のイメージに合致した写真になかなかお目にかかれないということなのかも知れません。う〜ん、どうもよく分かりませんね。

 ぼくが5年前に撮った桜写真を掲載しておきます。この時以来、桜は1枚も撮っていないのです。なぜかといいますと、この写真を撮ってしまったがために、自分でいうのもおかしなことですが、桜と出会う度にこれ以上の写真は今撮れないという確証めいたものがあります。「やっと自分のイメージする妖艶な桜を捉えることができた」と思ったものです。次なる桜の発見はいつになるやら。「花より団子」ならぬ花見酒でもやりながら考えることにしましょう。

 埼玉県川島町の入間川堤を車で走っていたら、眼下に桜に囲まれた神社を発見。運転席の窓を開け横着にも外に出ることなく、運転席からたった1枚だけ撮ったものです。

※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/143.html

 撮影データ:EOS1DsMarkIII、レンズEF35mm F1.4L USM、絞りf 7.1、1/60秒、ISO 100、露出補正-1絞り。Rawで撮影。2008年3月29日午後5時5分。
(文:亀山哲郎)

2013/03/15(金)
第142回:好きこそものの上手なれ?
 グループ展も無事終了いたしました。ご来場いただいた方々にこの場をお借りし、謹んでお礼申し上げます。
 当初、出展数の多さに心持ち懸念材料はあったものの、終わってみれば、好意的なご意見や感想が多く寄せられ、主催者としては反省ともども、取り敢えずは「めでたさも中くらいなりおらが春」といったところでしょうか。

 余談となりますが、グループ展会期中に複数の読者諸賢から拙「よもやま話」は時々分からない言葉や漢字が使用されているので辞書が手放せないとのご指摘をいただきました。猛省しております。すいません。
 文章の専門家でもないぼくがいうのは見当外れなのですが、日本語はひらがな、漢字、カタカナと、他言語にはない複雑で厄介な使われ方をしています。日本文字は世界にも数少ない表意文字ですから、ひらがなでなくわざわざ漢字を使用するのは文字の持つニュアンスを重んじ、またその方が自分の気持ちを表すうえで適切と感じる場合に限っています。逆に、第一人称をぼくは「ぼく」とひらがなで記し、決して「僕」と漢字では書きません。それぞれに自分なりの理由と法則のようなものがあり、それに従っているのですが、どちらでもいいような場合はできるだけひらがな表記を臨機応変に使い分けるように心がけているつもりです。また、あまり一般的でないと思われる漢字使用につきましては発音を記すようにいたしますので、ご承知おきいただければありがたく存じます。

 習い事をするうえで「好きこそものの上手なれ」とよくいわれますが、ぼくはこの諺にいつも半信半疑です。身の周りの写真好きの多くを観察していると、「好きであることのありよう次第」で、この諺は真実味を帯びたり、あるいはそうでなかったりするようです。好きなことのためには寝食を忘れ、やせ細るほどの労苦も厭わないのは上達することの確かな手続きであることに異論はありませんが、一方で人は好きなこととなると熱中のあまり視野が狭まり、勢いばかりが増し、却って上達の妨げになるのも事実であるように思います。もちろん、このことはぼく自身をも含めての事象です。好きなことに熱中しながら、自分の心身をどう捌(さば)き、コントロールするかが一番の課題なのでしょう。

 ぼくはといえば、毎日写真を撮っていなければ気が収まらないという質ではどうやらなさそうです。まるで他人事のような言い草ですが、ぼくは多作向きではなく、気まぐれ短期集中型です。撮りたいという気持ちに逸(はや)る一方で、雑事に追われ(言い訳に過ぎませんが)、なかなか写真を撮らない。撮りたい時に撮ればそれが一番良いと達観(ウソです)しているというか、淡々とし過ぎているのも困りものだと思っています。それでいて、他人には「撮らなければ何も始まらないのだから、とにかくたくさん撮りなさい。たくさん撮っているうちにある日突然何かが見えてくるものだよ(ホントです)」と言い続けているのですから、説得力なんてまるでありゃしません。

 いくら写真が好きだといっても、ただ闇雲にたくさん撮り、カット数を自慢気に話している人を時折見かけますが、それで良い写真が撮れるかは甚だ疑問です。そんな意味のない競争をしても仕方がありません。写真は時として何日も撮らない方がいいという場合だってあります。そんな時は、良い本を読んだり、美術館や図書館に通ったりしながら、機の熟すのを待つのもひとつの良い方法だとぼくは思います。撮らない勇気も必要なことがあるのです。ですからぼくは、とても勇気ある写真屋といえるのですが、勇気ばかりが空回りしているきらいが無きにしも非ずといったところです。
 “闇雲に”とは文字通り“闇のなかで雲をつかむ”が如き行為ですから、撮影者にとって撮影することの必然性と目的が欠如していることを意味し、必然性がなければいくら撮ったところで、ただの記録に過ぎず、従って自己表現の域には達しないということになります。
 上述した「好きであることのありよう」とは、以前にも述べたことがあるように記憶しますが、「やむにやまれぬ必然性に導かれて」と言い換えてもいいでしょう。気力と集中力を欠いている間はいたずらに撮らないことをお薦めしたいくらいです。写真に偶然はありませんから(被写体との出会いは偶然性に満ちていますが)、闇雲に無駄撃ちをいくら重ねても上達するものではないというのが、今日までのぼくの経験で得た答えのようなものです。

 習い事の常として、誰もが願う共通項のひとつは「どうすれば早く上手になることができるのか?」ということです。時折そのような難題を持ちかけられることがありますが、ぼくとて、とてもそれにお答えするような域には達していませんから、特効薬があればぼくが教えて欲しいくらいです。特効薬などないのかも知れませんが、そういいながらもまったく否定しがたいのは、どこかで「好きであること=特効薬」だと信じたい部分があるからだろうと思います。いつまでも「下手の横好き」では困りますから、「下手は上手の基」を信じる他なさそうです。
(文:亀山哲郎)

2013/03/08(金)
第141回:不遜ながら
 自分の写真倶楽部についてここであれこれ言及することは、読者諸賢に対して恐縮至極という思いもあるのですが、写真についての様々な題材を提供してくれるので、それは写真を志している方々にもなにがしかのヒントをご提供できるかも知れず、との思いからたびたび引き合いに出さしていただきます。

 個展やグループ展をしばしば経験していると来場者からいろいろな意見や感想、質問が寄せられます。少なくとも個展で、作者本人を目の前にしてネガティブな意見を述べる方は今までの経験上いませんが、しかしなかには示唆に富んだ貴重な意見を述べてくれる方はいます。共感を得られれば「人情としては嬉しい」ものですが、ぼく自身は不遜にも、「共感を得られようと得られまいと、ほとんど気にしていない」というのが本音です。

 展示依頼などをされた時(オリジナルプリントであれ印刷媒体であれ)、出展や掲載を躊躇しているような作品、つまり自己採点に照らし合わせて当確線上ギリギリにあるものなどが、「この作品は素晴らしいですね」とか「これが一番好きです」といわれると、そこに一種の戸惑いに近い感情が生じるというのが本来のありようなのでしょうが、実はそのようなことはほとんどありません。それどころか「然もありなん」とすべてが納得ずくです。
 少々シニカルな言い方になってしまいますが、ぼくが出展を躊躇する理由を一言であっけなく告白してしまうと、「この作品は、クオリティでは他のものに多少劣ることは重々承知だが、しかしながら一般受けする」というものです。
 民草は、一般に明るく、見映えのするものを好み、高い評価を与えます。ぼくも大衆の一人ですが、一般大衆の作品に対する評価の最大公約数はどの分野に於いても同じです。いくらS. バッハが偉大でも、流行歌や歌謡曲の方が慕われるのと同様です。そこまで極端な比較でなくとも、例えばアメリカの家庭に於いて壁面を飾っている絵は、A. ワイエスやJ.オキーフより、N.ロックウェルの方が圧倒的に多いのと同じことです。

 ぼくが当確線上の作品を迷いながら出展してしまうのは、良く言えば「サービス精神の表れ」であり、悪く言えば「媚びを売っている」からなのでしょう。
不特定多数の方々が押し並べて「これはいいね」という作品を意地悪くどこかに紛れ込ませておくことを、毎回ではありませんが、してしまうことがあります。これはかなり姑息な考え方です。「武士は食わねど高楊枝」の高邁な精神を意地でも貫き通したいのですが、商売人であるが故の悲しさ、致し方のないこともあります。嗚呼、反省、反省! また、数合わせのためにしぶしぶながら、ということもあります。ただしこれは、「このようなテーマのものを至急20点ばかり調達して」という依頼に限ってのもので、本格的な個展では躊躇するようなものは、いくら一般受けするという確信があっても出展することはありません。念のため。

 個展はクオリティに多少の幅があっても一定の作品数を統一したテーマに添って選び出さなければなりません。30点以上とか50点とか。全作品が自分の目指すクオリティに達するのは大変なことですし、それはもしかしたら不可能に近いことだと思うこともあります。自分に妥協を許さず、といってもどこかで妥協しなければ個展など催せるはずもありませんが、多くの作品のクオリティを揃えるにはある程度の撮影時間と回数を費やさないと、ぼくのような下手っぴな写真屋はなかなか成し難い。それでも何年かに一度は写真屋である以上していかなければなりませんから、怠け者のぼくには辛いものがあります。
 それに比べるとグループ展とは、一人あたりの作品点数も限られ1点−数点で済む場合がほとんどです。考えようによっては気が楽だと捉える向きもあるでしょうが、実はぼくはこちらの方がずっと恐いと感じます。
 他人の評価など気にしないとはいえ、否が応でも他者との比較が容易だからです。比較の結果が個性の違いで片付けられるものか、クオリティの差として見極められてしまうのか。これは来場者の好みや審美眼に頼るところとなります。確かな審美眼を有した人はごく稀ですから、地味で玄人好みのする写真はどうしても敬遠されがちです。

 ぼくの写真倶楽部は現在、指導者(というより牧童頭のようなもの)が2人と生徒(生徒という感覚ではなく同好の士。ぼくを「先生」と呼ぶ人はいませんから)が10人ですが、第139回で少しだけ述べた「写真的精神年齢」を高めることと「写真を見る目を養うことの大切さ」にも指導の重点を置いています。今、県立近代美術館で第7回フォト・トルトゥーガ展を開催中ですが、来場者の言によると異口同音に、「他の写真倶楽部とはずいぶん毛色が違う」のだそうです。
 今回は以前にもお話しした「津波の地を訪れる」(第121-125回)コーナーを特別に設け、同行者5人によるそれぞれの閖上(ゆりあげ)を展示したのですが、「同じ場所を撮っても、撮影者によってこれ程までに写真というものは異なるものか」とおっしゃる方がいる一方で、「作者名が記されていなければ同じ人が撮ったように見える」と、両極の感想が聞かれ、写真とは見る人によってまったくそれぞれなんだなぁとの感を深めました。
 写真展が終了したら改心し、「武士は食わねど高楊枝」に徹したいと決意を新たにしています。
(文:亀山哲郎)

2013/03/01(金)
第140回:写真は恐い
 言葉は、私たちが生まれついてから今日に至るまで、国籍や民族を問わず意志や感情を表す最も具体的な表現方法として無意識のうちに使用されています。
 しかし、言語には土地や地域の違いによって、海外はもとより国内でさえも通じない場合があります。言葉という具体的な表現方法がたちまち心許ないものになり、無意識にとはなかなかいきません。いや、それどころかかなり意識的なものになってしまいます。従って今のところ、言葉には残念ながら世界共通言語というものがありません。
 よく音楽などは「国境を越えた世界共通言語」といわれますが、音楽ばかりでなく写真もそのうちのひとつと考えてもいいでしょう。言葉ほどの具体性はありませんが、時として言葉以上に多くを語ることがあります。「百聞は一見にしかず」の諺通り、写真とは実に雄弁な語り手でもあり、言葉とはまた異なったリアリティを示してくれるものです。

 写真は真を写さないというのがぼくの持論なのですが、これは被写体や現象に対してであり、作者に対しては真を写すと公言しています。作品は作者の鏡であり、自分の姿形や佇まいを作品に投影しているものだと信じています。面白いくらいに作者の人柄や性格を表してしまうので、仇や疎かにできません。写真は、言葉に比べてずっと抽象的であるにも関わらずです。

 ぼくの長年の友人であるAさんは、常にプロの写真と接し、見定め、取り扱うデザイン関係の仕事に従事しているのですが、ぼくの写真倶楽部のグループ展に初めて訪れた時に、一人ずつの写真を見ながら「この方はこういう性格で・・・、職業はおそらく・・・、お歳は何歳くらいで・・・」と、見事に言い当てたものです。ぼくは、Aさんほど写真を見ることに練磨された人なら、作者についてのあれこれを当然のこととして受け止めたのですが、彼の隣で話を聞いていたメンバーの一人は、まるで狐につままれ、超能力者もしくは霊媒師でも見るかのような目で彼を見上げながら、「全部当たってる! 分かるんだ〜。写真って恐い! 恐い!」と呆気にとられつつ感心しきりでした。

 昔、ぼくが出版社で音楽とオーディオの編集をしていた頃、「読者訪問」と題して、オーディオ評論家とともに読者宅を訪問し様々なアドバイスをするという記事を担当していたことがあります。そのオーディオ評論家はぼくに大きな精神的財産を与えてくれ、また人生の師といってもいいほどの人でした。美の万事に通じ、大変な審美眼の持ち主でもありました。その彼がいうに「かめさん(ぼくのこと)、実際に読者宅で音を聴かせてもらわなくても、その方とお話しをすればどんな音がスピーカーから流れてくるかが分かるものだよ。音にはその人のお人柄がそっくりそのまま表れるものさ」と。
 まだ20代だったぼくは、オーディオについての知識は浅く、そんなものだろうかとの思いはあったものの、普段から父の語ることを見聞きしたり、その実際を目の当たりにしていたこともあり、創作とは人格が如実に反映されるものだという理屈らしきものは薄々知っていたつもりです。

 今ぼくは、来月5日(火)から埼玉県立近代美術館で催すフォト・トルトゥーガ展の準備で、メンバーから寄せられた出展作品約130点の写真データをつぶさに点検し、必要とあらば補正をしています。全員の人となりを知っていますから、ぼくのようにそれほど審美眼に長けていなくとも、上記したことがそっくりそのまま当てはまることを直に感じ取り、愉快な思いをしています。
 一見控え目な人、一見生真面目そうな人、一見破れかぶれな人、ややもすると人格が破綻していそうな人、几帳面な人、勝手し放題な人、世界は自分中心に回っていると信じ込んでいる人などなど、普段隠しているつもりでも、写真を見るとその裏側までもが到底隠しおおせるものでないことが分かります。写真がしっかりそれを物語っているのですから、やはり写真は恐ろしい。写真を見ながら「この人にはこういう面があるんだ。そういえば普段あまり気がつかないけれど、確かにそうだな。やはりね」という発見が次々にあり、ちょっと鬼の首を取ったような気分に浸っています。ただ、「へぇ、意外だったなぁ」ということはありません。確認というかダメ押しのようなものです。

 大袈裟な言い方をすれば、美に従事しようとする行為はエゴの発露の結果であり、そのなれの果てですから、否が応でも自身の姿を晒し出してしまうのでしょう。

 巨匠と謳われた映画監督の撮影をした時にこのように言われたことがあります。「よくカメラマンなどという恐ろしい仕事をしていますね。映画はごまかせる部分があるのだけれど、写真はごまかしようがないでしょう。最も端的に作者の姿を晒してしまう。写真というのは他の分野に比べ一番正直だからね」と。

 ぼくはよく「写真屋というのは恥晒し商売なんだよ。自分の作品が印刷物となって全国津々浦々まで行く。そこで“自分はこの程度の人間です”という宣言をしているようなものだから」といいます。恥を晒してでも写真を撮っていたいという人種が写真屋なのですね。
 世界は自分を中心に回っていると信じ込まないとやっていけそうにありません。
(文:亀山哲郎)

2013/02/22(金)
第139回:写真的精神年齢
 今年もCP+(総合的カメラ映像ショー)が開催されました。メーカーさんから招待状をいただいていたのですが、雑事に追われながらとうとう行くことができませんでした。それでなくとも、ぼくは世の中のカメラ事情には極めて疎く(うちの倶楽部の人の方がよく知っているくらいです)、ますます世捨て人のようになりつつあります。
 拙「よもやま話」で様々なことをみなさんにそれらしく述べつつも、ぼくは写真屋であってカメラ評論家ではありませんので、実は新しい機能だとか最新の技術的な事柄についてはあまりよく知らないし、関心も薄いのです。
 基本的には「新しい物好き」のくせに、流行の新機能については自分の写真生活になんら関わりのないことと割り切っています。我関せずと覚めた目で冷ややかに眺めています。従って、ぼくの常用カメラは旧態依然としており、オートフォーカスくらいはついていますが、それで必要にして十分。顔認識やブレ防止とか、涙の出そうなありがたい機能などとは今日までまったく縁がありません。悔しまぎれにいってしまえば、そんなものは普段写真を撮る上でまったく必要がないからです。新調しようとするカメラにそのような機能が嫌でもくっついているのであれば、ありがた迷惑といってもいいくらい。余計なお世話です。放っといてもらいたい。なんだかえらくヤケ気味ですね。

 普段、インターネットで何かを調べるということはあまりしないのですが、CP+の情報を伝え聞くに、「写真の腕前がなくても、予期せず“いい写真”が得られる機能」、「小学生でも一人で使えるカメラ」、「1枚の写真に複数のカットを組み合わせた”組写真“が簡単に作れる撮影モード」(以上、日経Trendy)などなど、ひとつひとつ突っ込みたくなるのですが、大人げないので「結構なことじゃないの」と他人事のようにひとまずはシニカルに受け止めておきましょう。
 テクノロジーの進化は認めるにやぶさかではありませんし、実際それにあやかって我々は生きているわけですから、安易なものがなにからなにまで良からぬものだと決めつけるほど頑迷ではないつもりですが、「写真的精神年齢」に及ぼす影響は多大であり、避けがたいものだと感じています。ややもすると看過できないものがあります。

 ぼくは、小さな写真クラブで一応指導者もどきを演じていますから、常にその相剋に悩まされています。勉強会後の飲み会では、できるだけ彼らとお喋りをする時間を設け、指導者の写真に対する考えを少しずつ伝えるようにしていますが、その真意がどのくらい浸透しているかは分かりません。写真の話はそっちのけで世間話の方が多いのですが、理解し合うことが目的ですからそれでいいと思っています。確実に上達していますから、多分それほど間違ってはいないのでしょう。
 時として、写真についての真面目な質問が酒とともに入り混じりギクリとさせられることも多々ありますが、若い人も多いので他愛のない話の中から写真のなにかを汲み取ってくれればと願っています。得てして指導者の色に染まることは自然の成り行きですが、欠点には目をつぶり(ぼくはつぶり過ぎる)、それぞれの利点を伸ばすことがぼくの役目だと言い聞かせています。
 従って、彼らが顔認識だとかブレ防止機能のついたカメラを持参しても、苦み走った、じゃなくてほろ苦い顔をしながらも極めて鷹揚な態度を取り続けています。使いこなせるようになればそれでいいのですから。それでもブレたり、ピントの合ってない写真を持ってきたら、指導者としてどう対処するかが大問題なのです。怒る? 怒らない(ホントは怒りたいこともある)。ブレてもピントが甘くても良い写真というものが世の中にはありますけれど、だからといって彼らに大声で「いいよ」と公言できない辛さがあります。怒る変わりに、なぜそうなったかを考えてもらうように仕向けているつもりなのですが、そうたやすく人を信じてはいけないということをぼくは学びました。
 優しく諭すように「ブレ防止とは」、「オートフォーカスとは」どういうものかに始まって、その便利な機能について「信ずる者は救われない」ということを説かなければなりません。
 ぼくはそんな時に、遁辞を弄するわけではありませんが、抽象論をあの手この手で引っ張り出し、抽象論というものは重ねれば重ねるほど具象論に近づいていくものだということも同時に学びました。また、「オレは写真を撮るのが専門で、教えるのは専門じゃないんだよね」と究極の逃げ口上を打つこともあります。

 「ブレない」、「しっかりピントを合わす」ということは露出とともに写真を撮る上で最も基本的な作業ですから、技術的なことについて普段うるさくいわないぼくもこの点についてだけは、神経質に目を配っています。
 昨今のカメラは、カメラが安直に余計なことをしてくれるので、この基本的な土台が崩壊しつつあります。基本的な知識や技術が疎かにされ、骨身惜しまず習得することを忘れさせているので、いざという時に応用が利かず、誰でもが撮る無個性で一様な写真の大洪水。油断すると「写真的精神年齢」、もしくは「写真的知能指数」の低下に導かれてしまいそうです。それが著しい様相を呈しているように思えてなりません。

 ぼくの言いたい本来の意味での「写真的精神年齢」とは別のところにあるのですが、それは機を改めてお話ししたいと思います。抽象論の羅列になってしまうかなぁ。
(文:亀山哲郎)

2013/02/15(金)
第138回:モノクローム(8)
 フィルム時代、ぼくはモノクロの撮影に出かける時はいつもコダックのモノクロ用75mm角ゼラチン・フィルター(正しくはラッテン・フィルター。ラッテンとは英国人のF. Wrattenに由来)をカメラバッグに10数枚忍ばせていました。かさばらず軽量ですので大変重宝したものです。それらは、ぼくにとってモノクロフィルムの感色性(「感色性」については第131回参照)を整えるための必須の道具立てでもありました。赤、緑、青、黄のそれぞれ濃度の異なったフィルターを取っ替え引っ替え使ったものです。今思い返すと、ぼくのように雑で面倒くさがり屋の男がよくもまぁそんなことを丹念に繰り返していたと不思議でなりません。

 しかし、ある時期を境にぼくはこの面倒で繁雑な作業から一気に解放されたのでした。それがデジタルとの出会いです。モノクロばかりでなく、さらに厄介なポジカラーフィルムのフィルター調整も同時に解除の運びとなり、玩具を与えられた子供のように目を輝かせ嬉々としながら、そのお手軽さに飛びつきました。やがて翻弄されるとはつゆ知らず、まさに欣喜雀躍。
 何事もメリットとデメリットは表裏一体ですから、そのデメリットをどのように克服し、呉越同舟とするかの方策を探るため、我ならぬ勤勉?!な日々を送っています。その状態が今日まで続いているというわけです。

 第131回で、「光の三原色であるR(赤)、G(緑)、B(青)とその補色関係にある色の三原色、C(シアン)、M(マゼンタ)、Y(黄)の関係を理解しておく必要がある」と述べました。この事柄はモノクロフィルムのフィルターワークには欠かせない知識ですが、デジタル写真に於いてもこの関係を把握しておけば画像ソフトを使ってカラー原画を思い通りのモノクロに変換しやすくなります。被写体と同系色のフィルターをかければ明るくなり、反対に補色フィルターをかければ暗くなるという具合です。
 例えば青空はブルーとシアンで構成されていますから、その補色である黄色や赤のフィルターをかければ暗くなります。フィルターの濃度を濃くしていけばいくほど空はどんどん暗くなり、夜空のようになります。
 新緑の頃には緑のフィルターをかければ、葉の明度が上がり新緑の清々しく爽やかな感じが表現できるということです。
 以前、ある場所でこの説明をした時に、デジカメのレンズにこれらのフィルターをかけると勘違いされた方がいました。そうではなく、あくまで画像ソフトを使用し(フィルター機能のついたもので、フィルター濃度も連続可変に調整できる)、モノクロ変換時に疑似フィルターをかけるという意味ですので、どうか誤解なきように。

 さて、今回はフィルター効果についての作例をあげておきます。本来はカラーチャートなどを用いてその効果をお見せすれば分かりやすいのですが、実際の被写体はそんな単純なものではなく、例えば一口に樹木や草の緑といっても無限に近い色が複雑に混じり合いながら成り立っています。それに目の錯覚が加わりますから、必ずしも理論通りにいくとは限りません。
 そのような理由からカラーチャートではなく、できるだけ様々な色の混在する実際の風景写真を作例として選びました。

 作例はデジカメ(初代EOS-1Ds)で2004年9月に、ロシア連邦カレリア共和国で撮ったものです。被写体は1650年に建てられたロシア正教会のチャペルです。このあたり一帯はロシアの木造建築群として1990年に世界遺産に登録されていますが、この教会も内部はフレスコ画に彩られ、現役の教会として今日まで使われています。
 Rawデータを現像しPhotoshopに受け渡し補整しました。彩度はイメージを損なわぬぎりぎりまで落としています。撮影時はカラー写真をイメージしており、今回初めてモノクロ化を試みましたが、どうもね、痛し痒しというところです。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/138.html

★「01カラー原画」。僅かに露出アンダー気味に仕上げました。色鮮やかな紅葉が表現目的ではありませんので、木々の彩度を落としてあります。
★「02デフォルト」は「01カラー原画」を、フランスDxO社のFilmPackというフィルムシミュレーション・ソフトを使ってデフォルト(初期設定)で仕上げたものです。これはぼくの常用ソフトで、画質劣化を最少に抑えることのできる優れものです。
★「03緑フィルター」は、上記ソフトで疑似緑フィルターをかけたもの。
★「04青フィルター」も同様に青フィルターをかけたもの。
★「05黄フィルター」も同様に黄フィルターをかけたもの。
★「06赤フィルター」も同様に赤フィルターをかけたもの。

 各種フィルターでこれ程までに異なる表情が覗えるということがお分かりだと思います。

★「07仕上げ」は、より印象的なものにするために「05黄フィルター」と「06赤フィルター」をレイヤーで重ね、それぞれの美味しい部分だけをいただき、画像を統合。そのうえでメリハリをつけるために部分的なコントラストと明度を調整した後、全体的なコントラストと明度を調整したものです。この作業はPhotoshopの「トーンカーブ」ツールだけで行いました。

 「02デフォルト」、「03緑フィルター」、「04青フィルター」は、どこか立体感に乏しく、また左端の赤く染まった紅葉の葉を1枚1枚補整することはできません。フィルター操作を適切に(自分のイメージに従ってという意)行えばそれぞれの色合いが表現可能となります。
(文:亀山哲郎)