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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2011/04/01(金)
第45回:街中でスナップを撮る(6)
 スナップ写真の名手、フランス人のアンリ・カルチエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson 1908-2004)はスナップ写真についての定義をこのように述べています。
 「私にとって写真とは、ある出来事がもつ意義と、その出来事に的確な表現を与える種々の形態の正確な構成の双方を同時に、しかも一瞬のうちに認識することだ」(世界写真全集。集英社)。

 また、「ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになるからだ。だから心遣いを欠いては、粗野なものになりかねない」とも述べています(M. キメルマン『語る芸術家たち』より。淡交社)。

 ぼくは第40回で「マナーを守ることは自明の理です。笑顔と感謝・敬意を示すこと。これ以外にありません」と述べました。ぼくの心がけていることが、粗野なものを防ぐ手立となるのかどうかは分かりませんが、肖像権に比較的敏感と思われる西洋社会で数多くの撮影をしてきて、もめ事を起こしたり睨まれたりしたことはありませんので、ある程度当を得ているのだろうとも思っています。また、撮影者が外国人であるということも手伝ってか、概して彼らは寛容であるという印象をぼくは持っています。
 もちろん例外もあります。これも第40回で述べたことですが、当地の宗教上の約束事とか習慣を知っておかないと、思わぬお目玉を食らうことになりかねません。
 
 国内外を問わず、では具体的にどうするのか? ぼくのマナー、というか定式を記してみたいと思います。                     
 撮影後、相手が気づいた場合は、時として撮られた方は「撮ったな!」という表情を見せることがあります。あるいはそのような視線を投げかけてきます。目と目が合った時はまず笑顔で軽く会釈をすることです。「いただきました。ありがとうございます」という意思表示をしなければなりません。この作法を持ってして、70%以上の確率で暗黙の了解が得られます。つまり難を逃れられます。
 それでも相手が不快感を解消できずにいると感じた時は、すかさずこちらから話しかけて、気勢を制することが大切。このタイミングが肝心で、必ず先手を打つことです。悶着?をつけられぬうちに、先回りをしなければなりません。   
 例えばこちらから相手に近寄り、「いい写真が撮れました。ありがとうございます。写真が出来たらお送りしたいのですが、よろしければ住所をお教えください」と。これがけっこう特効薬なんですね。これでクレームをつけてくる人はまずいません。
 ぼくが通常心がけていることは、ここまでです。これ以上に対策を練らねばならないような場面には遭遇したことがないからです。

 ちょっと話は横道に逸れますが、若い頃浅草で入れ墨をしたその筋のおにいちゃんがいて、ぼくはどうしても彼を撮りたかったのです。その頃はまだ“瞬時に撮る”という技術を習得していませんでしたので、散々迷った挙げ句、おにいちゃんに「その入れ墨、かっこいいね〜、綺麗だね〜、撮らしてくんない」と恐る恐る訊いたことがあります。おにいちゃんはぼくの言葉に気を良くし、表であるにも関わらずふんどし一丁になり、全身を見せて「さぁ、あんちゃん、撮んな!」と威勢よく応えてくれたものです。後日、その写真を届けようと何々組と称するお屋敷に出向いたことがありました。もちろん何事もなかったのですが、いかにもそれらしい座敷に鎮座させられたぼくは内心「大した写真が撮れたわけでもないのに場違いなところに来てしまった」と、ちょっと後悔したことがありました。
 相手を褒めることを撮影前にしてしまったので、ぼくの思ったようなありのままの姿を撮ることができませんでした。もし“瞬時に撮る”ことができても、この筋の方の撮影にはそれ相応の覚悟が必要かも知れません。

 閑話休題。
 そして外国で被撮影者に睨まれることの回避策として功を奏することがもう一つあります。それは必ず現地語で「ありがとう」と「あなたの住所」を暗記することです。タイならタイ語で、ポーランドならポーランド語でたどたどしく話す(たとえ流ちょうに話せたとしても、たどたどしく)ことがキモです。住所を書いてくれる人は撮影者に好意に近いものを抱いていると解釈してもいいと思います。彼らの書く文字が(ローマ字であっても)現地人、つまりネイティブにしか判らないようなミミズの這い回ったような象形文字だったりする場合が往々にしてありますから、ぼくは日本に帰ってからそれをコピーし封筒に貼り付けるのです。自分で書き直そうなんて思ってもさっぱり、ということがあるので、コピー貼り付け作戦が最も確実な方法なのです。ぼくは帰国後、これを励行しています。

 英語は英語圏以外では、空港やホテルを除いてほとんど通じない(例外的な国もないわけではありませんが)と思っていた方がいいと思います。英語の分からない相手に一生懸命英語で話しかけている日本人をよく見かけますが、分からないのだから日本語で話せばいいのにって思うことさえあります。それって滑稽以外のなにものでもないと感じるのはぼくだけでしょうか?
(文:亀山 哲郎)

2011/03/25(金)
第44回:街中でスナップを撮る(5)
 「よいスナップ写真を撮るにはどのようなことに気をつければいいのですか?」とか、あるいは「心がければいいのか?」と訊ねられることがあります。正直に申し上げると、実はぼくにもよく分からないのです。解答が見つからないのです。もし、それに関する秘訣めいたものがあるとするのなら、ぼくが教えて欲しいくらいです。でもそれでは身も蓋もありませんし、また立場上そうもいかず、取り敢えず何年もの間ぼくの信心してきたことをお話ししているのです。

 今日でこのテーマは5回目となりますが、お話ししてきたことは秘訣ではなく、ぼくが自分自身にも言い聞かせ、確信しながら実行してきた事柄に他なりません。ただ写真というものはまったく正直ですから、写真を見せていただければ、占い師のように「あなたの心理状態はこうだったのでは?」ということは大方当たるようです。占いの「当たるも八卦当たらぬも八卦」より、写真の方がずっと饒舌で、しかも正直で、当たる確率は桁違いに高いと言えます。

 ぼくの主宰する写真集団も時折撮影会なるものを催しますが、ぼくはこの撮影会というものがそもそも苦手なのです。何が苦手なのかと言うと「写真は集団で撮るものではない」からです。見知らぬ土地に行くこと自体は非日常の世界ですから撮影意欲が増すこともありましょう。また行ったことのあるところでも、地元でなければやはり非日常であるわけですから、見慣れた場所よりは気分も一新されて観察能力も増すように思われます。

 一昔以上になりますか、彩の国芸術劇場のこけら落としに個展と講演を行ったことがあります。講演のテーマは確か「旅と写真」というものだったと記憶しています。その時に述べた考えは未だ変わっておらず、いや、ますます確固たるものになっています。                        
 旅は非日常。2人で行けば発見するものは、一人旅に比べ1/2 。4人で行けば1/4 。10人で行けば1/10 になるのだとぼくは心の底からそう信じています。一人旅は国内であれ外国であれ、そこで起こることについて自分自身ですべてを対処しなければならず、その緊張感は日常と非日常では大きな隔たりがあるものです。一人旅は感覚が研ぎ澄まされピリピリしたものです。本来の旅の醍醐味はそこにあります。じっくり事象を観察したり、普段気のつかぬ些細なものを発見したり、そしてそこの空気や臭いや音や、歴史や文化や習慣などなどを鋭敏に感じ取り、思いを馳せ、想像し、イメージを作り上げていくには、ぼくは一人旅でなくてはやはり成すことができないと考えるのです。観察し、発見したことに対し、それが自分とどのような関わりを持ってくるのかということを、足を地に着け、肌で感じ取ることがなければ、写真は写りません。

 冒頭に記した質問の答えの大切な条件(心がけ)として、ぼくはこの流儀をお薦めしているのです。言葉にしてしまうと上記のようにちょっと小難しい言い方になってしまいますが、要は「写真は一人で撮りに行きなさい」と。
 ですから、ぼくの写真集団の撮影会は現地に着いたら集合場所と時間を決めすぐに解散し、それぞれが気の赴くままというところです。実技指導も、訊ねられれば丁寧にいたしますが、基本的にはしないことにしています。そこで撮った写真を後日持ち寄り、技術指導を交えた写真評をすることで皆が刺激されたり、無念に思ったり、思いを残したり、奮起したりするようで、今のところこの方法論が成功していると感じ取っています。よくある“モデル撮影会”なるものにはその意義が見い出せないので、したことがありません。素敵なモデルはあなたのまわりに山ほどいるではありませんか。そのモデルを見つけるのが、“街中の人物スナップ”の重要なファクターでもあるのです。

 過日、ある写真グループに呼ばれ展示作品を見ていると、ぼくと同じくらいの年配の方に話しかけられました。「私はスナップ写真が好きで長年撮っているのですが、思ったように撮れたためしがない」とおっしゃるのです。「いや、ぼくだってそうですよ」と正直にお答えしました。話を伺っているうちに、というよりも写真を見せていただいているうちに感じたことは前述したことに著しく違反?しているということでした。皆でワーッと出かけ、ワーッと街に繰り出し、ワーッと撮っていますと写真が語っているのです。時にはズームでできるだけ引き寄せどこか浮き腰で、時には許可を得てそのモデル(市井の方)を皆で囲み(この時点ですべての緊張感が失われ)、やはりワーッと撮っているんですね。見ず知らずの方でしたし、グループの指針や個人の流儀もあるでしょうから、ぼくは彼の写真や撮影方法について多くを語りませんでしたが、スナップ写真(というよりも英語でいうところのCandid photo)と称するには非常な違和感を覚えたものでした(スナップ写真とCandid photoは厳密に言うと定義が多少異なるのですが、ここでは同列に述べています)。

 また30代と思われる方が「写真とは何か?」という哲学的議題をさかんに問われており、ぼくにも投げかけてきたので、「考えることはとても大切なことですが、この難しい問題は評論家にでも任せておきましょう。まずは撮影者であるあなたが問うべきことは“写真とは何か”ではなく“己とは何者なのか”ではないですか?」と論旨のすり替えを謀り、難を逃れたのでした。
 本心は“論旨のすり替え”とは思っておらず、旅の本来の目的とは「自分発見」にあり、写真も同様なのではないでしょうか。
(文:亀山 哲郎)

2011/03/18(金)
第43回:街中でスナップを撮る(4)
 大変な災害がやってきました。この震災やそれに付随する物心ともどもの被害に遭われた方々に心よりの同情とお見舞いを申し上げます。

 “人物スナップ”についてのぼく流の撮り方の一端を述べてきましたが、ここ2,3年、デジタルカメラの性能や機能も飛躍的に向上したため、ますます“人物スナップ”を好む人には好都合な面が多くなりました。今日はテーマに関わるぼくのつぶやきのようなものを。

 この2年半ほど、ぼくはこの類の撮影に重量級の一眼レフを使うことなく、もっぱら小型軽量のカメラに単レンズ(35mm換算で、28mm )をつけ、街を歩いています。シャッター音も非常に小さく、また相手に威圧感を与えることもないので、より自然な人物スナップが得られるようになったと感じています。ただぼくのこのAPS-Cサイズの愛機は10秒に1枚しか撮れず、 実用感度もISO200が限度で、今時珍しいほど前時代的なものですが、その描写性能には思わず目を細めてしまいます。そのくらい良い描写をするものだから手放せないでいるのです。        
 10秒に1枚しか撮れぬということはシャッターチャンスによりシビアに反応せざるを得ず、ISO200までしか実用にならないということは暗所ではブレを生じやすく、でもそのような緊張感がとても大切で貴重なものに感じられ(負け惜しみではありません)、思わずフィルムで撮っているような錯覚に陥ることさえあります。
 ついでながら書き加えておくと、このカメラはオートフォーカス機能がついているにも関わらず、近接や室内ではまず機能しないという代物です。オートフォーカスを使用しないぼくは不自由しませんが、いくら描写性能が良くても公の場で他人に勧めるわけにはいかないのです。バッテリーも保たないし、モニターも暗く、真っ昼間ではほとんど役に立たないし・・・。けれども、機械というものはやはり使いこなしが一番なのだと、自分の片意地さを弁明しておきましょう。

 いわゆるコンパクトデジカメ(以下“コンデジ”)も時々使用しますが(もちろん私用で)、いくら性能が良くなったとは言え、やはりその描写能力はコンデジはコンデジでしかなく、大きく引き伸ばしをしたいと思ったときなどには不都合なことも生じますし、残念ながら印刷を前提とした仕事ではとても使えません(ホントは仕事でも使いたいのですが)。

 もともとぼくは、今はほとんど使いませんが大型カメラ(4 x 5、8 x 10インチ)の世界が好きなタイプだったのです。克明で細密な描写を好み、キリキリのピントがきてないと承伏できないというタイプでした。今でもその気(け)を引きずっています。もちろん大型カメラ一辺倒というわけではなく、同時に小型カメラのライカや中判カメラのハッセルブラドも使用していましたが、フィルムを使う限りどのような現像液を使えど、また物理的にも大型カメラの描写に敵うものではありませんでした。しかし、歳とともに写真に求めるものや必然性が変化していき、10秒に1枚しか撮れぬデジカメを愛用するに至っていますが、カメラのプロトタイプ(原型)ともいえる大型カメラからは非常に多くのことを学ぶことができました。

 ぼくが今このお手軽カメラを私用で使っているのは様々な理由というか原因があったからです。その前は一眼レフだったのですが、ある時ふと気のついたことは「どうも一眼レフだと構図が決まりすぎて面白くないなぁ」ということでした。誰に言われたわけでもないのですが、自分でそう強く感じ始めていたのです。一眼レフは画面の隅々まで無意識のうちに観察できてしまうので、であればそれがしにくいタイプのものを使ってみようと思いついたのがその事始めでした。

 過日、ぼくの個展で展示した50点の作品はすべて一眼レフで撮影したものでした。来場された著名な写真家さんが「かめやまさんのスナップはまるで計ったように人物が配置され、揺るぎない構図とともにすべてがピンポイントで切り取られている」とポジティブな意味でおっしゃったのですが、反対に撮った本人にはそれがどうも面白くないわけです。“思わしくない”と言い換えてもいいでしょう。そのような表現手法から脱却したかったということもあります。「一度作ったものを壊し、そして再び作り上げていくことが創造にとって最も大切なこと」とぼくは信じているからです。同じ所にとどまっていてはいけないということです。ぼくのような人間は、それでは枯渇を招きやすいのだということを自覚しているからでしょう。

 ぼくはカメラモニターを見ながら撮影するあの姿がとても嫌いでーー長年写真に携わってきた人間ほどあの姿は非常に格好悪く、醜悪であるとさえ思え、また自分の美意識にも著しく反するーー、他人様はいざ知らず、自分はあの姿を人前に晒すことには耐えられそうもないから、パララックス(光学ファインダーで見る画角と実際に写る画角がずれること)を重々承知で、オプションの光学ファインダーをつけ、それを覗きながら撮影すれば、構図のどこかに破れが生じ、面白く撮れるのではないかと安易に考えたのでした。その安易さが、何の反省もなく今日まで続いております。

 おっ、また地面がゆらゆらと揺れている。みなさま、どうぞお気をつけください。ご無事を祈ります。
(文:亀山 哲郎)

2011/03/11(金)
第42回:街中でスナップを撮る(3)
 前回「被写界深度」というものについてお話ししました。テーマの“街中でスナップを撮る”ということとは直接の結びつきはないように思えるかも知れませんが、実は多少なりともあるのです。このテーマに限らず、どの分野の写真にでも常に「被写界深度」という問題につきまとわれます。無視できない事柄ですので、画像添付をしておきますのでご参照のほど。
 f 2 〜 f16まで順に並べてあります。

 ※参照画像 → http://www.amatias.com/bbs/30/42.html

 ピントは中央赤丸に合わせてあります。添付画像は原寸ではなくWeb用にリサイズしてありますのでちょっと分かりにくいかも知れませんが、絞りを絞るほど、つまりf の数字を大きくしていくほどピントの合う範囲は広がっていきます。一番奥にある画用紙の表紙模様がはっきり見えてくると思います。
 f 2 ではぼやけて見え、f 5.6で大体のあらましが伺え、f 16で模様がはっきり見えてきます。この現象をあなたの作画に利用するのです。
 この画像はフルサイズカメラを三脚に据え、標準の50mm(35 mm換算)レンズを付けて約45℃の角度から撮っています。それほど厳格なテストとは言えませんが、絞りによるピントの範囲の違いが分かればと思います。
 また、絞りを1絞り増やす毎にシャッター速度が等倍に増えていくことにも注目してください。

 主被写体の前後をぼかして、被写体を浮き上がらせたい場合にはf値を小さくすればよいし、手前から奥までシャープなピント(これを“パンフォーカス”と言います)が欲しければf値を大きくすればよいことになります。そして、被写体との距離が近いほど(ピントを合わす位置が近いほど)この効果は大きくなることも覚えておいてください。つまりボケの効果が大きくなるということです。マクロレンズ(接写レンズ)やクローズアップフィルタを付けて花などを撮る場合には、どの絞り値を使うかがとても重要なポイントになってきます。

 ただこの現象は、例えば携帯電話やコンパクトデジカメのような面積の少ない受光素子を使用しているカメラの場合には、あまりその効果(ボケ効果)が認められません。まったくないということではありませんが、その効果が得られにくいと言うことです。つまり受光素子(フォーマット)が大きければ大きいほどボケの効果は大きくなるのです。最低でもAPS-Cサイズの受光素子を持つ一眼レフタイプのカメラで、利用価値が得られる事柄でもあります。

 f値による被写界深度を知っておけば“街中の人物スナップ”に大いに役立ちます。おおよその位置に(目測に従いマニュアルフォーカスで合わす)ピントを合わせておき、その人物が画角の最適な位置に来た時に、慌てず騒がず、何気なく呼吸でもするようにシャッターを押す。これがぼくの“街中の人物スナップ”の撮影方法です。呼吸をするような自然な動作が大切ですね。前号でもお話ししましたが、ぼくは“ノーファインダー”による撮影はしませんから、スッとカメラを持ち上げて一瞬だけファインダーを覗き、覗いた瞬間にはシャッターを切っているという具合ですから、ほとんど気づかれることがないのです。ファインダーを覗きちょっとでも迷っていたらもうダメ。ギロッと睨まれますよ。
 自分の使っているレンズ(もっぱら単レンズ使用です。“街中の人物スナップ”にズームレンズは使いません)の画角はすでに把握していますから、ファインダーを覗いた瞬間にはシャッターを切っているということになります。
 人物スナップの達人たちに話を聞いたり、または本で読んだりしても、ズームレンズを人物スナップに使用する人はぼくの知る限りいないようです。

 このようなぼくの撮り方がみなさんのお役に立てるかどうかは自信がありませんが、技術的なことで言えばこの方法がぼくにとっては最適だと感じています。そしてもうひとつ、とても大切なことは“度胸”です。もしかしたら、前述した技術より“街中の人物スナップ”においては“度胸”が優先するかも知れません。度胸のなさは必ず写真に表れます。腰の引けた写真となるのですぐに分かってしまうのです。そのくらい写真とは正直なもの。        
 時々、度胸のつけ方を訊ねられることがありますが、う〜ん、傍若無人さではなくあくまで紳士的なという意味での度胸というのなら、場数を踏むことと技術の裏付けなんですかねぇ。

 人間の持つ本能に“好奇心”というものがありますが、この好奇心を抑える、もしくは制御するものは恐怖心だけです。見ず知らずの人にレンズを向けるという行為は、ぼくだっていくばくかの恐怖心があります。その恐怖心を払拭し、克服させてくれるものは好奇心と写真を撮りたいという熱意、言い換えれば欲望だけなのでしょう。一世一代の傑作をものに出来るかも知れないという、切々たる願いと希望があるからだと思います。
(文:亀山 哲郎)

2011/03/04(金)
第41回:街中でスナップを撮る(2)
 写真はどのような分野でも基本は同じだと、ぼくはちょっとくどいくらい申し上げてきました。もちろん、それぞれの分野に於いてそれぞれの異なったノウハウが当然あるのですが、“街中の人物スナップ”は他の分野とは少し異なるものがあるように感じています。                     
 それは自分が逃亡者のような心境になり、常に周りの気配を感じ取り、状況の変化に、より敏感に反応し動かなければならないということです。この“敏感さ”という意味は、身体の動きより“察知能力”と“カメラの取り扱い”に尽きます。

 別に悪いことをしているわけでなくとも、取り敢えず自分が疑似犯罪者になり、疑似逃亡者を演じるくらいの気概?を持って、大通りを闊歩し、また路地裏に身を潜めながら、獲物を渉猟する、と言っても大げさではないくらいです。アンテナを四方八方に張り巡らせ、情報を収集し、身の周りで何が起きているかを察知し、来るべき人(または人々)の動作を予測し待ち構えるということです。「このような動作で、こちらに歩いてきて!」という願掛けと霊波を送らなければならないのです。自分の予測・想像通り相手が動いてくれれば、それをありがたく頂戴するということになります。
                              
 ある情景に出会い、「ああ、いいな」と思ってからシャッターを切ってもまず間に合わない、というのがぼくの考えなのです。あるいはそのようなフォトジェニックな情景を見て、慌ててカメラを構えれば、たいてい相手に悟られてしまいます。つまり、手遅れとなってしまいます。悟られればカメラ目線になりがちですが、そうあって欲しくない場合には、やはりそれでは不都合ですね。獲物を捕り逃したということになります。
         
 カメラ目線というのはそれぞれの状況に合わせて、あっていい場合もありますし、ない方がふさわしいと感じる時もありますが、それは写真の目的や撮影者のイメージに沿って決定されるものでもありますから、一概にどちらでなければならないということではありません。カメラを睨む鋭い視線が欲しいという時も場合によってはあるでしょうから。

 ただ、前号で述べたように、相手がカメラを意識するとどうしても表情がこわばったり、動作もどこかぎこちなくなり、自然で柔らかな姿を失いがちです。人物描写が希薄になる場合があります。相手の目力は増すようですが・・・。子供などにピースサインを送られちゃったりしたら泣くに泣けない、でしょ?
                    
 撮影対象とする人のありのままの表情や姿を写し取るにはカメラの存在を察知されない方が思い通りのスナップが得られることが多いようです。「写真家は掏摸のようなものだ」と、ある大家が言っていますが、「う〜ん、確かにそうかも知れないな〜」とぼくも思います。街中の人物スナップはどうしても「盗み撮り」的な要素を、結果として免れない面がありますから、常々「写真は正々堂々と撮れ」と言っているぼくは、そのちょっとした矛盾に呻吟することもありますが、しかし、まず撮らなければ何も始まらないわけですから、その弁明として「最低限のマナーは決して忘れてはいけない」と言い聞かせているわけです。

 “敏感に反応する”ためには、まずカメラの使いこなしに長けていなければなりません。暗所でも、あるいは目をつむっていても自由自在に扱えることができなければ、来るべき瞬間に間に合いません。カメラ操作にもたもたしているうちに被写体が(予測した被写体の配置や構図など)スルリと逃げてしまいます。あらかじめ予想した主被写体の位置にフォーカスを合わせておき(オートフォーカスほどもどかしいものはありませんから、マニュアルで)、絞り値(f値)を決め、ある程度の被写界深度を確保しておけばいいのです。そのためには、あなたの使用するレンズのf値による被写界深度を把握しておく必要があります。技術的な事柄ではまずこれが第一段階です。言葉にするとちょっと難しく感じるかも知れませんが、この感覚の習得はそれほどの修行?は要らないのです。少しだけ真面目に取り組めば、「案外、私にもできるようになりました〜」って、嬉しそうにおっしゃる方がたくさんおられます。

 「被写界深度」とは、ピントの合う範囲のことです。厳密にはピントの合っている箇所はひとつなのですが、許容範囲というものがあり、f値を絞れば(数字を多くすれば)その範囲がどんどん広がっていきます。被写体の前後の範囲でピントの合う幅が広がるのです。ただカメラのメカニズム(つまり光学)は、絞れば絞るほど受光素子に当たる光が減少しますから、シャッタースピードが遅くなり、カメラぶれ、被写体ぶれを起こすことにもなります。このシーソーのような現象をも同時に考慮しなければなりません。
 ここらあたりから、ちょっと複雑になって参りますが、な〜に、ぼくだってできるのですから大丈夫。次回はそのコツと考え方をお伝えしましょう。
(文:亀山 哲郎)

2011/02/25(金)
第40回:街中でスナップ写真を撮る(1)
 かつて某紙で月一度連載をしていた時に読者から次のような質問が多く寄せられました。その部分をそのままここに転載して、すこし解説を加えたいと思います。

 「Q:(かめやまの)スナップ写真には目線のないものが多いが、ポーズを取らせるのか?」

 「A:それは一切ありません。相手がカメラを意識すると、往々にして人物描写が希薄になるおそれがあります。その人の生き様や息づかいが定着されず逃げてしまいます。そのような理由から、気づかれないうちに撮るのが私の基本です。撮影後、相手が気づいた場合、マナーを守ることは自明の理です。笑顔と感謝・敬意を示すこと。これ以外にありません。」

というお答えをいたしました。

 また、他所でこのようなことも書いたことがあります。
 「初めて見た修道士に向けて、ぼくは反射的にシャッターを切った。たった1カットである。その時は写真屋の使命感からなどではなく、ただ物珍しさからだった。
 それを目ざとく見つけた修道士にこっぴどく叱られた苦い経験がある。ぼくには申し訳のないことをしたという気持ちがない分、その叱責は不可解さと不条理さという後味の悪さを残した。ぼくはいやがる人を撮ったり、追い回して撮る類のカメラマンではないが、撮影を拒否する正当な理由が知りたかった。
 “ただいやだ”というのも正当な理由だと受け止めている。そのような感情に説明を求めたりするほど、ぼくは不遜ではないと思っている。肖像権も認めよう。しかし、頭ごなしに高圧的な態度に出られると、誰だって反抗心を持ち、敵愾心さえ抱くものだ。・・・それ以来、修道士と出会うこともなかったが、・・・久方ぶりに再会を果たすこととなったのである。」

 ぼくはいわゆる“隠し撮り”だとか“ノーファインダー”(相手に悟られぬようファインダーを覗かずに、見当でシャッターを切ること)をひどく忌み嫌うタイプの写真屋なのです。「写真は正々堂々と撮れ」と言って憚りません。ですから、「これ、ノーファインダー”で撮ったんですよ」と自慢気に言う人には不快な態度を露骨に表すこともあります。撮影に際して最も大切な要素である想像力や洞察力をないがしろにして良い写真が撮れるわけがないからです。それをよしとするその心情やその姿勢をぼくは嫌悪するのです。

 昨今、個人情報というものが盛んに言われるようになり、写真愛好家はちょっとした窮屈さを余儀なくされています。肖像権にしても嫌煙権にしても、この国は異常なほど神経質で、また不必要なくらいの潔癖症、そのようなことに病的なほどの状態に陥っています。その神経過敏さによって、国自体が病弱をきたし、精神を冒されているようにも思えます。自分で自分の首を絞めているのだとの意識が希薄なのかも知れません。“嫌う権利”ばかりを主張し、“守るべき義務”にはまるで無頓着、という人のなんと多いことか。まぁ、それを悪用するようなマナーの低下も拍車をかけているのでしょうけれど。
 自分のありかたに対して、他人に迷惑をかけてもよいなどと言っているのではありません。そこは短絡的に捉えないでください。お互いの思いやりがあってこその寛容さだとぼくは言いたいのです。

 写真の分野には様々なものがあり、風景写真の好きな方もおられようし、花だったり、山岳風景だったり、いろいろですね。報道写真やコマーシャル写真はプロの分野ですからここでは触れませんが、ぼくが最も写真の醍醐味を感じる分野は“街中のスナップ”や“人物スナップ”です。今、新宿のコニカミノルタプラザで催しているぼくの個展の70%は街中の人物スナップです。

※個展の内容はこちら
 → http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2011february/gallery_c_110222.html

 日本でも外国でも、見ず知らずの人にレンズを向けシャッターを切って、そこでもめ事を起こしたことは一度足りともありません。修道士以外は。今までその数たるや何千枚、いや万を超しているかも知れません。
 他人にレンズを向けるという行為は、やはり勇気のいるものですが、しかしその勇気を克服しない限りスナップ写真というものは成り立ちません。

 次回からはぼくの行ってきた人物スナップの撮り方をお話ししてみたいと思います。ただ、ぼくの作法がみなさんのお役に立つかどうか、また応用が利くかどうかは自信がありませんが、何かのご参考になればと思います。
(文:亀山 哲郎)

2011/02/18(金)
第39回:ラーメンと写真
 かつて都内にある某ラーメン屋が気に入って何度か通ったことがあります。そのためにだけ出かけていくという程ぼくは通人ではありませんが、近くを通った際には、けっこう胸を躍らせながらそのラーメンを愉しんだものです。大変人気のあるラーメン屋だったのですが、さまざまな事情で店じまいを余儀なくされ、そのお弟子さんたちが、のれん分けというのでしょうか、免許皆伝というのでしょうか、同店名を名乗ってあちらこちらに出店したようです。

 今日行ったロケ先のすぐ近くに、のれん分けされたその店を偶然見つけ、ちょうど昼飯時でもあったので空腹を満たそうと勇んで飛び込みました。出されたラーメンを一口すすると、なるほど、かつて愛でたラーメンとは「似て非なるもの」にがっかりさせられました。
 さいたま市にものれん分けされたと思しき同店名のお店があるのですが、やはり「似て非なるもの」で失望したものです。

 ぼくは料理に関してはまったくの素人ですから、何年も厨房にいて学んでいたはずのお弟子さんたちが、なぜ親方と同じものが作れないのだろうと訝しく思ったとしても無理のないところです。素人考えとはそういうものです。「なぜだろう? 不思議だなぁ」って。

 この現象を写真に置き換えて考えてみると、逆に、同じものが作れる道理がないではないかという思いに突き当たるのです。同じ場所で、同じ時間に、同じカメラ、同じレンズを使ってAさんとBさんが撮る。二人が仕上げたプリントが同じものであることは決してないという真実に突き当たるのです。

 今日食べたラーメンに話を戻しますが、ラーメンに浮かんでいる鳴門、チャーシュー、メンマ、のりなども親方仕込みのものとはどこかが違う。わずかに違うのです。もちろんスープも麺もしかり。「違う」というよりは、なにか「思い」が足りないと感じるのです。ほんのちょっとした「手の入れよう」に、親方のようなセンスと気配りが欠けているのでしょう。そのわずかな違いの積み重ねが、結果として「似て非なるもの」を生み出しているのだと思います。  
 弟子というものは親方と同じことをしていては、親方を超えることは決して出来ないわけですから、そのことを知ってか知らずか、お弟子さんたちは親方から離れ自分自身のオリジナリティだとかアイデンティティをなんとかして捻り出そうと工夫を凝らしているに違いないのですが、これがなかなかうまくいかないわけです。うまくいかないことをぼくはうまく説明することはできませんが、ただ大きな分岐点のようなものがあるとすれば、それはラーメンを作ってお金儲けをしたいのか、美味しいラーメンを作りたいのかというところにあるのだと思います。
 もの作り屋が、お金儲けを目論んだとたんに作品のクオリティが落ちてしまう、というのがぼくの持論でもあり、主義主張なのです。金儲けともの作りはまったく対極的な精神作用だからです。

 親方のもとに学び、親方を超えるくらいのセンスと技術を身につけてから、独立しお店を持てば、このラーメン屋はぼくに失望感を与えることはなかっただろうと勝手なことを考えてしまうのです。

 よくテレビなどのお店取材がありますけれど、決まって「ここからはテレビカメラはだめ」なんてね、よくあるでしょ、そういうの。秘伝なのだとか。
 人にレシピや材料などを公開して、その通り他人が作れてしまうようなものは秘伝でもなんでもない、ってぼくはよくテレビに向かってそう叫びます。他人に自分の手の内を余すことなく公開し、披瀝して、それでも「あなたのようなものはとても作れません」と言わしめるのが、本物の職人であり料理人であるはず。そこには長年培ってきた包丁さばきだとか計量できないような塩の一振りだとか、到底数え切れないほどのノウハウが潜んでいるものです。素人がどう逆立ちしても敵うものではないのです。レシピを公開したって同じものなんか絶対に作れないよ、というのが職人の職人たる所以であり、また矜恃でもあるのです。ですから、そのような職人や料理人ほど公明正大であり、どこか風格のようなものを漂わせていたり、また品位を感じさせたりするものです。
 出し惜しみをしているうちはまだまだ小者なのです。そのようなものを感心しながらありがたがって見る価値などどこにもありません。

 翻って写真もまったく同様なのではないでしょうか。かつて欧米のファインプリント作家やそのオーソリティが自分の現像処方などを公開していて、彼らの本には、事細かくその使用方法が述べられていました。ぼくも若い頃さかんにその処方箋に従い、わくわくしながら挑戦したものです。だからと言って、彼らと同様のトーンを印画紙上に再現できるわけではありません。それ以降、いろいろなことを、身をもって知るにつれ(ぼくの得たものなどまったく大したものではないのですが。卑下して言っているわけではありません)、プロとして得たものは惜しみなく写真の好きな人たちにお伝えしていこうと思っています。小者ですが。
(文:亀山 哲郎)

2011/02/14(月)
第38回:頼りない映像の記憶
 前号で登場願ったガイド君が果たしてKGB (ソ連国家保安委員会。現在KGBはなくFSB=ロシア連邦連邦保安局となっている ) のエージェントであったのかどうかはわかりませんが、当時この地を撮影旅行すると不可解で面白いことにずいぶんお目にかかれたものです。

 「ここを撮りたい」、「いやダメです」の押し問答を繰り返すうちに、ぼくの監視役と思われるガイド君、もしくはガイド嬢が「かめやまさん、私ちょっとそこで買い物をしてきますから」とか「化粧を直してきます」とか言いながらその場から素早く立ち去るのです。それはつまり、「私がいない間に撮りなさい」と言うことで、用事から戻った彼らはぼくに軽く目配せをし「うまくやったか?」という合図を送ることもしばしばでした。この国は法律より個人の心情が優先する面白い国なのです。法律違反でも現場の者がいいと言えばいいのです。また、その逆の場合も当然あります。
 ぼくのような雑魚に、本格的な?KGB要員がへばりつくことはないでしょうが、しかし体制の異なる国の職業カメラマンを放置しておくようなことはなかったようです。彼らの名誉のために申し添えておかなければなりませんが、この国での延べ400日間における撮影で、彼らに不快な目に遭わされたことは一度たりともありませんでした。
 冷戦時代の西側のKGBに対するイメージは決して良いものではありませんでしたし、今だって良いイメージはありませんが、ソビエト国民にとっては粛清時代の恐怖の対象でもあり、またスパイから国を守るエリート集団であったことも確かです。KGBに比べ、さらに悪辣でお間抜けな組織がCIAでしょう。

 “映像の記憶”という話からとんでもないところへ脱線してしまいましたが、人間のこの記憶ほど当てにならぬものはありません。曖昧で、いい加減で、ずさんなものなのです。                          
 H. カルチエ・ブレッソンの「サン=ラザール駅裏」という有名な写真があります。この写真を久しぶりに見る機会があり、ぼくは愕然としたものです。かつて穴の空くほど鑑賞していた写真です。その写真をぼくはてっきり横写真だとばかり、なんの疑いもなく信じていたのです。実際には縦写真であったことが、自分の、ひいては人間の視覚的な記憶の頼りなさをまさに露呈せしめたのです。これはちょっとしたショックでした。
 自分の頭の中で、既知のものを都合の良いように仕立て上げてしまったのです。人間にはこのような能力が備わっているようです。暗示だとか、思い込みや先入観が、実際の姿を勝手に変形させたり、歪ませたり、変容させたりしているのです。それに気がつかず、信じ込み、場合によってはそれを他人にも強いることがあるという現象におののいています。
 
自分の写真にさえそのような錯覚を抱くことがままあります。久しぶりに取り出した写真を見て、首をかしげながら「あれ〜、そうだったっけ?」という具合にです。いかに、思い入れというものがやっかいなものであるかということです。頭の中のイメージが事実に先行してしまうのです。             
 静止画あるいは絵画でさえそうなのですから、動画はさらに曖昧模糊とした記憶となるはずであろうと思います。また、犯罪の目撃情報なるものがいかにあやふやで頼りにならぬものなのか、推して知るべしというところです。

 ぼくは今、個展の準備のために、古くは二十数年前の写真を引っ張り出して、現在のイメージに合致したプリントを仕上げようと四苦八苦しています。新しいものでも6年以上経っていますから、撮影時に抱いたイメージもほころびかけています。撮影時のイメージが必ずしも二十数年を経た今、当時のものと一致するとは限りません。新しい発見もあり、中には撮影当時ボツにして顧みなかったものが、今見ると「いいじゃない!」という嬉しくもあり、生き返ることもありますから、撮ったものはすぐには捨てずに保存しておくのも、後に三文の得があるようです。

 上記しました個展の情報を、この場をお借りして読者諸兄にお知らせしておきます。ご興味のある方はぜひご来場ください。

 場所:コニカミノルタプラザ ギャラリーC 新宿区新宿3-2-11 新宿高野ビル4F
 日時:2月22日(火)〜3月3日(木)10:30~19:00 (最終日15時まで)
 テーマ:「ポエヂヤーーロシア詩情1987-2004」亀山哲郎写真展。カラー、モノクロ53点

 詳しくは以下をご覧ください:
 http://www.konicaminolta.jp/plaza/schedule/2011february/gallery_c_110222.html
(文:亀山 哲郎)

2011/02/04(金)
第37回:KGB理論
 一週間という周期はなにかとても書きにくいものだと感じています。この周期はぼくにとって、前回書いたものを完全に忘却の彼方へと追いやるに十分な時間のようです。5日目くらいまでは憶えているのですが、6日目、7日目となるともういけない。この2日間がどうやら鬼門のようで、ぼくの頭脳は混濁をきたし、ここできれいさっぱり、なにがなんだか憶えていないということになるようです。
 今まで月刊誌は何度となく経験をしてきたのですが、月刊ですと不思議なことに一月経ってもそう簡単には忘れないものなのですね。文章の量が多いということと紙媒体ということもあってか、部分的には忘れることがあっても、「前回、一体何書いたっけ?」ということはまずありませんでした。すらすらと続きが書けるのですが、週刊というのは書けそうで書けないものだという発見をしています。
 前回書いたことをもう一度読み直し「へぇ〜、そんなこと書いたんだ」ってことを毎回繰り返しています。これは無責任なのではなく、健忘症という一種の病みたいなものですから仕方がありません。

 ここ3回ばかりちょっとお堅い内容だったので、今回は趣旨を変え少しくだけたことをお話しようと思います。先ほど「紙媒体」と書きましたが、ぼくのような年齢の人間にとっては紙媒体の方がどうやら記憶に残るようです。かつて編集者として長年従事していたことも手伝い、したがって写真に関しても印画紙での表現に強いこだわりを持っているのだと思います。画像のモニター上でのそれと印画紙でのそれを比較した場合、どちらが人々の記憶に残るのだろうという結論は未解明のままですが、好き嫌いで言えばどうしても印画紙に軍配を上げざるを得ません。

 かつて旧ソビエト時代、ぼくは仕事で何度もこの地を訪れました。当時はまだ全体主義国家でしたから、撮影も制限が多く、それだけに職業カメラマンにとっては仕事のしにくい国でした。あれを撮ってはだめ、これを撮ってもだめという時代でした。その時のお話です。

 バイカル湖近くのブリヤート共和国を訪れた時のことです。首都はウラン・ウデといい大草原の広がるただ中にある街です。ここは当時外国人の立ち入りが禁じられていた所謂「閉鎖都市」でした。ソビエト連邦というのは、規則でがんじがらめの国ではなく、けっこう融通の利くところがありました。ここらがどこかの国のお役人とは大きく異なるところです。ぼくの知る限り、ロシア人というのは最もおおらかな気質を持った国民ではないかと思っています。そのおおらかさを頼りに、「閉鎖都市」と銘打っていても、ぼくは常に個人旅行者ですから、交渉次第では入れてくれたりもして、「閉鎖都市」をいくつも訪れることができたのです。

 ウラン・ウデに到着するとすぐに頼みもしないガイド役がぼくにへばりつきました。このようなことはそれ以前に何度か経験していたので、ぼくも気に止めることなく仕事に励んでいたのですが、ある時郊外にあるチベット仏教の本山に行こうということになりました。右も左もわからぬ外国人にとって、当然ガイドがいなければ行くことができません。社寺に行く途中車の窓から、大草原の風景を撮ろうとするとガイド君が慌てふためき、「だめです、撮らないでください!」と大声を上げるのです。遠くの方になにやら小さな鉄塔が見えました。聞くところによると、その鉄塔が画面の中に入ってしまうので撮ってはいけないのだと。軍の重要な通信施設らしいのです。撮影を阻まれて残念というほどの景観ではなかったために、ぼくは「あっ、そう」と簡単に引き下がったのですが、そのガイド君の口上が面白い。
 彼は遠来の客にその理由をきちっと説明しておかないと申し訳ないとでも思ったのでしょう。また、自己弁明をもついでに果たしておきたかったのでしょう。
    
 「ムービーであれば撮ってもかまわないのですが(と、一応の譲歩と弁明を示しつつ)、静止画(つまり写真)はだめです(と、断固たる態度をも示しておきたかったに違いない)」と言うのです。ぼくは「なぜ?」と問い返したのです。彼はちょっと得意げな表情を見せながら、まるで心理学者のようにこう解説を始めたのです。
 「ムービーの画像というものはすぐに人の記憶から遠ざってしまうものなのです。だからですね、ムービーであれば多少のことはかまいません。それに引き替え静止画はいつまでも人の記憶に止まり、忘れがたいものとなるのです。人の頭にいつまでも残像として住み着くのです。おまけに静止画はムービーよりはるかに解像度が高いということもあり、それも非常にマズイことなのです。専門家が見ればそれが何か、すぐに分かってしまいますから」と、いっぱしの心理学者および人間工学者を演じて見せたのです。

 彼は上司(おそらくKGBの)からそのような心理分析の結果を教え込まれていたに違いないのです。
(文:亀山 哲郎)

2011/01/28(金)
第36回:プリントの楽しみ
 前回、パソコンについて触れましたので、今回はパソコンと切っても切れない縁であるプリントについてお話しましょう。今までお話ししてきたことと重複する部分もあるかと思いますが、大切なことは何度お話ししてもよいと思っています。人間とは忘れる動物ですから、何かを身につけたり、習得するには老若男女に関わらず、繰り返しこそが最も有効な手段であるとも思っています。

 今、あるメーカーさんからの依頼でぼくは自分のオリジナルプリントを700枚近くプリントする作業をしています。一口に700枚と言っても、その作業は大変骨の折れるものです。すべてが極厚手の印画紙なので、プリンタには一枚ずつ手差し作業をしなければならず、かなりの重労働です。ましてや売り物ですので、手袋をしてプリント状態を一枚一枚細かく点検しなければなりません。このように大量に、一気にプリントをするのは初めてのことなので、何か今までに気のつかなかった教訓を得られるのではないかとも思っています。

 同じ状態のプリントを何枚も仕上げることができるというのはデジタルの最たる利点でもあります。フィルムですと、暗室にこもり同じプリントを2枚仕上げるということは不可能なことなのです。暗室作業の基本的である焼き込みや覆い焼きといった手順をすべて手作業で行いますから、各々に微妙な差異が生じ、同じものを2枚と作れないのです。それが“値打ち”と言えば言えるのかも知れませんが、いわゆる製品ムラは避けがたく、歩留まりの悪いことは明白です。
 デジタルでは注意深く行えば製品の均一化が可能となります。“注意深く行えば”です。部屋の温度、湿度を一定に保ち、プリンタの慣らし運転を行い、インクの残量および目詰まりなどのメンテナンスやプリント後の乾燥などにも細かく気を配れば、ほぼ同一のプリントが何枚も作れるということです。

 デジタル写真は、“自宅で簡単にプリントができる” という大きな楽しみ方があります。プリンタには様々なタイプがありますが、インクジェット式が最も普及しており、一般的でもあります。最近のインクジェット・プリンタは “写真画質” という言葉が使われているように、従来の銀塩プリントと較べて遜色のない品質を得ることができるようになりました。家庭で使うのならA4(21×29.7cm)サイズを中心にA3(A4の2倍の大きさ)くらいまでのものが一般的で、しかも種類が多く、また使い勝手もいいと思います。印画紙もたくさんの種類が各社から用意されていますから、好みや写真に合わせて使い分けるのも楽しみのひとつでしょう。

 写真を見るのはモニターだけでなく、やはりプリントをして鑑賞するのが本筋でもあり、また醍醐味でもあり、最終的な目標だと言えます。自分のイメージを印画紙に定着させるという作業は、写真を撮る行為と同じくらい大切なことだとぼくは考えています。美しいプリントを得るためには、美しい写真を撮ることが前提ですが、プリンタを使いこなさなければなりません。こなせばこなすほど、撮影の技術もそれに比例して向上していくものです。苦労する分、メリットも大きいというわけです。苦労といってもこれは楽しい苦労ですから、それを存分に享受してください。

 長年、写真というものに従事してきてつくづく感じさせられることは、フィルムであれデジタルであれ、プリントをおろそかにしたり、神経を配らない人は写真の質もその程度に止まるのだということです。プリントの上達とともに撮影の技術も比例して高まっていくものです。良いプリントを心がけると自ずといろいろな発見ができ、ひいてはそれがあなたの写真に直接寄与することになるのです。
 技術の高い写真と良い写真とは意味合いが異なってきますが、良い写真に磨きをかけるという意味でプリント技術は欠かせないものだとぼくは思っています。ただ、高いプリント技術や撮影技術を有する人が、すなわち良い写真を撮れるのかというとそうでないのも事実。ここらあたりがちょっと難しいところです。

 撮影もプリントも、大切なことは“あなたの思い描くイメージ”にかかっています。被写体を見て「自分はこんな風に撮りたい」という強い思いがないと写真を撮るという行為が成り立たないのではないでしょうか。イメージが貧困であれば、どんなにプリント技術を駆使しても、誤魔化しようがなく、作品の質が上がるわけではありません。

 写真を始めたばかりの人に、「そうは言っても・・・」ということもありましょうから、まずプリントの楽しみを満喫していただければと思います。それを楽しんでいるうちに、いろいろなことが分かってくるのだと思います。

(文:亀山 哲郎)