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食への目覚め
鴻 朋友です。毎週木曜日、「食への目覚め」という題で、食に関するお話しをさせていただきたいと思います。 食に関しては知っているようで知らないこと、知っていれば別の楽しみ方もあるのに、ということが多々あります。 そうしたことを少しずつ整理して皆様にお届けします。どうぞご期待下さい。

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仏跳墻(フウテヤオチアン) 仏が飛び跳ねる壺?・・・何のこっちゃ!
 「仏跳墻」は、福建で最初に作られた料理である。言い伝えによると、清の道光年間、布政、司周蓮は、官前月の金貸しの旦那の宴会によばれた。ここの女将は宴席に酒がめで煮た料理をだし、周蓮は、これが非常に気に入った。彼は役所に戻ってから、役所の厨司、鄭春発に何回もその料理を作らせてみたが、何れも口に合わない、そこで鄭春発を金貸しのところへ連れていき、料理の作り方を学ばせ、鄭春発はついにその作り方を覚えたのである。

 その後、鄭春発は役所の仕事を辞め、福州に「聚春園」という料理屋を開業し、彼が数年間研究してきた酒がめで煮込む料理を売り出し、大好評を博した。 あるとき数人の書生がその名を慕って料理を食べにやって来た。給仕が1つのかめを持ってきた。最初のうち書生達は、こんなものを運んできてどうするのだろうと思ったが、いざ蓋をとってみると、何とも言えないすばらしい香気が鼻をつくではないか。書生達はこの香りに酔い、われ先に料理を食べ、そしててをたたいて快哉を叫んだという。またお釈迦様がこの香りをかいだら、堀を乗り越え、戒律を破ってこの料理を食べに来るだろうと言う者さえいた。「仏跳墻」はこの故事にもとずいて名づけられたと言う。

 この料理は名声どおりのものである。材料は高貴なものばかり。干し鮑、乾燥のナマコ、フカヒレ、魚の浮き袋(戻すのに難しい技術と時間がいる)、鶏肉、鴨肉、豚のすね肉の筋、チョウザメの唇、干し貝柱、家鴨の砂肝、たけのこの先の部分、中国ハム、豚の胃、鶉の卵、椎茸など動物、植物、家禽,海底のものが揃っている。

 これほどの物を集めた料理は、めったに見られないであろう。調理の面でも、浸す、さっと火を通す、揚げる、湯煎、煮る(少しずつ手法はちがう煮かた)などいろいろの調理法が用いられ、加工の過程も複雑である。材料をそれぞれ下ごしらえして、かめか壺に入れて仕上がったものは、山海の珍味ばかりで高い香りが有り、珍しい高貴な料理で滋味にとんでいる。


**6月13日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

ツバメの巣・・・・なんだそれは?
 ツバメの巣(燕窩 イェンウオ )と聞いて直ぐわかる人は最高にグルメ通ですゾ・・・きっと!
日本では、見たことも聞いた事も、さわった事も、食べた事も、考えた事も、ましてツバメのねぐらであったり子育ての巣を食べちゃうなんて、とてもできないし想像もできない事だ。

 現在海ツバメの巣を料理材料として用いるのは中国だけであるが、燕窩は、中国ではほとんど取れず、タイ、マレーシア、インドネシア、アフリカの東海岸のマダガスカルなどが、主産地である。

 燕窩の取れるツバメは一種類だけでなく、中国で「金糸燕」と総称されるアマツバメ科のアナツバメ類に属する4種類のツバメの巣である。これらのツバメが、海藻や小魚などを自らの唾液と混合して、険しい岩窟や断崖絶壁上や洞穴の中に不整形の盃状に作った巣であり、採取するのは、並たいていではない。現物は、硬いにかわ状で、白色、灰黒色、紅色の物があり、繊維が長い物、太い物、細い物,砕けた物、これらの組み合わせにより50以上ものランクがあります(ちなみに2002年2月現在香港では、1g450円〜砕けの90円まであり)。
 燕窩は、ツバメの種類、採取時期、これは産卵時期まで時間のある巣の作り方をしていれば、ゆっくりと唾液でこなした良品になる。もちろん巣を作る場所にも左右されるなど品質の差が非常に大きい。
 
 戻して食べられるようにした燕窩は、糸寒天のように白く半透明なものであり、料理にすると口当たりがさわやかで、サッパリしている。漢方医学では天然の滋養剤として取り扱っている。中国式の宴席上、もしツバメの巣が供されなければ、最上の宴席とは言えない。
 
 ツバメの巣の調理法はたくさんあるが、一般にはまず、ツバメの巣を水に浸して戻し、それから、鶏、北京鴨、豚もも肉、牛肉、干し貝柱、中国ハムなどで煮詰めた上等のスープを加えると、ただちに「清湯燕菜」・・・ツバメのスープが出来上がります。
甘いシロップに浮かべたデザートは氷砂糖を煮溶かしたサッパリとした口あたりに仕上げます。燕窩自身には特に味がないので脇役に気を使います。

 満漢での料理はこの清湯燕菜をベースにして、いっそう美しく、美味しくするために、北京鴨の舌のしんを組み合わせ星の形に作りスープに浮かべたものである。

 舌のしんは、北京鴨の舌のなかの精髄(つまり舌の支えになる軟骨のような物)で、やわらかく、軽いので、スープの表面に浮かべることが出来る。しかし北京鴨の舌からしんを取り出すことは、非常に細かな仕事で、器用に、しかも軽く操作しないと、砕けてしまう。これらを鴨肉のすり身に星型(ヒトデのような形)にまとめ蒸しあげたこれらにこれでもかと言う位のツバメの巣を盛り付け出来上がり。舌先にプチプチと残るような爽やかな食べごこちである。

 なお燕窩は明代に南方から中国に伝来したと伝えられているが、元代の書である「飲食須知」にみられる。実際に中国の料理書に出るのは、1700年代に発行された「醒園録」「随園食単」である。


**6月6日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

熊の掌だー!
 初めて食べるチャンスに恵まれた熊の掌。噂では聞いた事のある食材だが、当時聞いていたのは左の前足しか食べないとか、蜂蜜を左手で取って舐めるから右手よりうまいとか、後ろ足は食べないとか、いろいろ言われて来ました。右利きの熊はどうするとか、後ろ足の方がよく使うので、うまいのではないかとか、いろいろ疑問だらけの食材でした。尾ひれむなびれのついた話が多く、それ程に日本には馴染みの薄い超高級食材なのです。

 熊の掌の煮込み。なんと言う言葉の響きでしょうか。今までに熊を食べる習慣が無く、動物園でしか見たことの無い未知の食べ物。

 「熊の掌」は古代からの珍味であり、「八珍」のなかに含められているものだ。中国のクマはツキノワグマ「黒熊―ヘイション」、ヒグマの「ツォンション」、オオツキノワグマ「馬熊―マーション」の3種類であるが、料理に使われているのは、「黒熊」が普通である。

 熊の掌料理のその歴史はおよそ三千年前までさかのぼり、いろいろな文献に記載されている。時の権力者は、この世にいる強い物を口に入れ、それらの霊や力に、あやかりたいという思いで食しました。

 たとえば殷商末期(紀元前1100年頃)の暴君紂王は「玉杯飲酒 象箸食熊掌」(玉の杯で酒を飲み、象牙の箸で熊の掌を食べる)と語られ、また戦国時代(紀元前480〜222年)の『孟子』には、「魚 我所欲也 熊掌 亦我所欲也」(我は魚を欲するが、熊掌も亦欲する)とあり、さらに昔、春秋時代(紀元前770〜481年)の文学的名著である左丘明の『春秋左氏伝』には次のような故事がある。楚成王の息子が父の王位を奪いとろうとして、大群を率いて父の宮廷を包囲し、兵量攻めの作戦をとった。飢えた楚の成王は最後に今生の別れとして、熊の掌を食べたいと申しでた。それは熊の掌がなかなか煮えないのを利用して時間を稼ぎ、援軍の到来を待つ魂胆であった。しかし息子に簡単に見破られ、楚成王を死に追いやったと言う。この故事からも熊の掌料理がどれほど時間をかけて煮ることが必要であるか推察できる。

 料理の味付けは、濃厚さを控えた上品で淡白な味付けであり、清、香、鮮、嫩、脆(チン、シアン、シエン、ネン、ツオイ)つまり、淡白な味付け、さわやかな芳香、美味である、やわらかさ、さくさくした歯ざわりや、もちもちした口当たりを大切にする、といった非常に高度な調理技術を要求される、一品である。しかも料理の盛り付けは、掌の形を崩さずに盛り付ける、超豪華な料理である。今までに三回食べる機会がありましたが、香港での味付けは最高級に近いものでした。


**5月30日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

満漢全席食べるぞ
 会場は紅い色の雰囲気で、皇帝色と言われている金色した飾り付け、黄色のナプキンやスプーン、「景徳鎮」の落ち着いた、品のある上品な器の数々。今までに気の遠くなる位の料理の数が作られ、その中で、生き抜いて来た料理の数々。
 当時の料理は、あまり飾らず一品、一皿に盛り付けて出て来たそうです。前菜は6品。海の物、山の物、野の物、動物,植物、生の物、乾燥した物、それを戻したもの、これらがテーブルに並びました。中の種類だけでやく20種類くらいあり見てるだけで、お腹いっぱいになりそうです。

 これらからの宴席料理を作るのに、幾つものスープを作ったそうです。鶏から作る澄んだスープ、白く濁ったスープ、豚肉と中国ハム(金華ハム)のスープ、豚のスネ肉のスープ、豚骨スープ、羊のスープ等、料理に合わせ使い分けるとの説明が有りました。

 初めに大変な量の「ふかひれの蒸し煮」料理です。ふかひれの調理方法は、各地の料理方法を継承している特級厨師に伝えられ、それぞれの調理方法があり20種近く有ると言われています。(北京、上海、広東、四川などそれぞれ作り方が違う)その中で貴重な材料をとり合わせ、その材料にふさわしい美味しさを組み合わせ、調理技術も精巧です。

 材料は、選び抜いたふかひれ、母鶏(めんどり)、北京鴨(鴨子)、金華ハム(金華火腿)、干し貝柱(干貝)などで調理します。料理は黄金色をして、つやがあり、やわらかくて、しかも口の中ではじけるような歯ごたえ、そして、鶏1羽の旨みをすいこんだこくがあり、まさに極上の美味をきわめたおいしさです。
 
 この際のふかひれは黄肉翅(最高級のふかひれ、呂宋黄ともいう)を用いる。これはふかひれの肉が厚く、黄色みを帯び、翅針が太く長くなるほど、値段もけた違いに上がっていきます。そしてそのもどし方は生ぐさみが消えるまで、2〜3日間かけてひれの形がくずれないようにもどします。スープをとるのに、4〜5時間かけて濁りのない上等のスープをつくり、このスープをベースにふかひれを3〜5時間かけにこみしあげます。何人もの手にかかり、時間をかけた料理が、数分で、各自の胃袋におさめられてしまいました。もちろん無言です。


**5月23日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

いざ満漢全席へ
 35年前の香港ネイザンロードでは、きらびやかな原色のネオンや看板が眩しく、妖しく、しつこく看板が掛けられ、ほんの少し目を移すと次の看板が上から、下から横から斜めから、我が店、我が品物の名前を、これでもか、どうだ参ったかとばかりに目に身体に訴えてきて、否が応でも身体中をエキサイティングさせてきます。

 満漢全席の会場はネイザンロードの大通りの中心にある大きなビルに有りました。

 「金冠大酒楼」という大きな店で、エレベーターで入り口に着くとお香の煙と香りがフロアーにたちこめ、厳粛な雰囲気のなか、神に近づいているような気持ちになって来ました。会場の入り口には、祭壇までの道に緋毛氈がひいてあり、その奥には、祭壇があり、目の覚めるような緋毛氈がおかれて、手前にはお香、赤いねじったような太目のローソクに火がともされていました。

 中段には、これから口にしていくだろう食材が並べられていました。熊の手、鶴、かも、駱駝や羊のアキレス腱や骨髄、フカヒレ、ツバメの巣などなど。珍しいものでは1本の姫竹のようなふしにある薄い甘皮が籠に入っていました。それは一人前の量を作る為には気の遠くなるような面積の竹林と、採取する人の手間を考えると、そこにある皮一枚一枚に情景が浮かんで来るようでした。そして皇帝魚(淡水河に棲んでいる幻の魚)。その他見た事の無いような食材が並び、その周りには、ドライフルーツやフレッシュな果物、手作りの点心類(いろいろな動物や金魚などを本物のようにつくってある)は何かホッとさせる雰囲気がありました。当時各地方から、取り寄せたであろう食材。これらの食材を手に入れるまでの、大変なドラマが、ここにある食材から伝わってきます。野菜などはこの場所には飾られずに一つも有りませんでした(たぶん何時でも手に入り素材の中では一番下のランクになっていた)しかし、乾燥したり、漬けた物は珍重された。

 料理の宴席に入る前に、この席に着けることを神に感謝をし食材達に感謝をし、これらを揃えてくれた沢山の人に感謝をします。そして皆と今日の素材をおたがいに確認しあい、タブーである物を確認し合い、これらの物が如何に貴重で、作り上げるまでに如何に時間がかかり、健康身体によく、何処の料理人(又は何処に所属してるか)が作るのかなど、現代版の料理の鉄人よりも、はるかに高度な知識、こだわりに思いを寄せ宴席に入っていくのです。


**5月17日(金)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

満漢全席について
 中国料理は、北宋、南宋(960〜1270年頃)の頃からまとまりかけ、明(1368〜1644年)漢人の王朝が北京を支配し、その後二百七十七年続いた王朝のもとで近代の中国料理の形が徐々に形成されていった。そして、清(1644〜1911年)の時代に、満族(支配者)と漢族の融合のために、それぞれの料理を持ち寄り文化的なことも含め親交を深めていった。今日中国料理の名物といわれるもののほとんどがこの時代に生まれ、六代・乾隆帝(1735〜96)の頃から満漢全席も最高潮を迎えた。満漢全席とは当初、地方に赴任した満族の官吏と地元の漢族とが交流するための方法で、ひとつの宴の中に満と漢の料理を同数ずつ出すものであった。

 しかし忘れてならないのは、時の皇帝に仕えた多くの人々の存在である。食に関心があり、その材料を手に入れる人脈、その食べ方のレシピを作る人材、そしてその料理が皇帝に気に入られるかチェックする人々。そのチェックする人も食について知識があり、美食家であり、皇帝の食べ具合を見れる人である。つまり皇帝の側近である宦官たちの手による料理とも言えるのである。皇太后や子供達などを含めると1つの料理人のグループに7人の料理人×7グループ、そして下働きの者、運ぶ者などを含めるといちばん多い時で1万人もの人々が従事していた。

 普通常識で考えても、北に行くほど物は採れなくなる。南の方が野菜や果物、魚,肉などあらゆる物で、その種類は増える。時の皇帝は北の満民族であり、南の料理を見たり、口にした時は腰が抜ける程の開きがあった。だからこそ皇帝は南の料理人を大事にし、そして満族の人達に気にいられるよう北の料理手法や、素材を取り入れながら現代に見られる料理体系になっていったのである。 宦官は皇帝たちの行動や身体の具合、接待するお客の好み、習慣などを厨房に伝え材料等調達したり、レシピどうりに作るなどのネットワーク作りはそれはそれは大変だったと思われる。

 日本でも沖縄から北海道までの材料を決められた日時に揃える事は難しい。まして冷蔵庫も無い時代を考えると不可能・・・ということになってしまう。そういう意味でこの満漢全席は約1000年の中国全土の集大成になるのである。相当の料理が作られ、そこには、料理人のドラマが展開され、そしてそれらの料理が一般の料理屋に流れていき、今まで生き残ってきたメニューの数々。それらを支えてきた大衆や、生産者。現在も同じ素材が揃い、同じような料理が再現できるすごさ。もし日本でも平安、鎌倉、室町江戸のレシピがあったとして現代までに生き残っている料理を同じように、再現する事は難しいのではないか・・・と思われる。


**5月10日(金)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

海外での食材の売られ方
 肉の種類では部位とは別に、肥えた豚肉、痩せた豚肉,脂身の多いもの、赤身の多い物、皮の付いているもの等料理の内容によって使い分ける、内臓関係も、つまり豚肉なら一頭分が仕分けされて売られている感じです。そして血までも売っているのです。鶏の種類も、銘柄鶏の他に、烏骨鶏(毛は白いが肉から骨まで黒い栄養価の高い鶏)も原種から掛け合わせの物や、大きさの違う物、去勢した(大監鶏)鶏など、しかも生きている鶏を自分で選びつぶして貰う・・・・。新鮮なのは理解出来ても自分の意思で選び殺して貰う事に、非常にショックをうけました。

 そして、ばらして売っている肉は、身よりも内臓肉の方が値段が高いのです。身は何人かで食べられるが、砂肝でも、足でも、一人前の量にする為には5〜6羽分必要という、価値観なのです。

 しかし何年か後になんとこの烏骨鶏の有性卵を何回か買ってきて、200羽まで茨城県で増やし育ててしまいました。きっかけは、この珍しい、中国では漢方の一つになっていて、しかも美味しいのに、日本では天然記念物になっており、見るだけの鶏だった事。台湾では沢山いて、食用として手に入るのに、日本では見た事も、食べた事も、聞いた事も無い人達に、是非紹介したい。そんな思いで、日高の養鶏試験場のお世話になりながら、勉強かたがた知人の紹介で、農家の方々にも協力頂き育ててみました。餌にも工夫し、育て方もストレスが無いように考え、潰す時期は何時がいいか、万が一病気になったら全滅なので、四農家に分散して飼ってもらうなど、また卵を孵す孵卵機、ひよこを育てる育雛機、喧嘩をしないように仕切るゲージ等を揃えたり、畑とは違い本当に気を使い大変でした。結局お客さんは、肉の黒さに手も足も出ず食べて貰えず失敗してしまいました。

 魚の種類も非常に多く、見たことの無い魚が店頭の台の上で、どういう訳かまだピンピン跳ねて生きているのです。約30年前の日本ではまだ水槽が少なくて、魚が泳いでいる事じたいが、珍しい時代。しかい台湾のレストランでは、当たり前のように水槽が置いてあり、ここも自分の意志で、それらを選び料理して貰う、つまり自分が、今まで生きていた動物の殺生権を行使する事が何か怖く、震えるような感覚になってしまいました。


**5月2日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

中国の食材
 ふつう中国料理といえば、四大料理(北京、広東,上海、四川)のうちのどれかを、売り物にしていますが、他の地名を、売り物にしている店が沢山有りました。同じような料理でも読み方や、味付け、材料等も違います。当たり前ですが、日本でも関西料理と、関東料理に二つに分類して説明したら他の地方の料理はどこに入るのですか? と言うことになってしまいます。まして日本の何十倍と大きい国、沢山の民族がいて、言葉も違い、いくつもの国が有るような所を三国志的に分類する方がおかしいと、おもうようになりました。

 ただいえる事は、共通の食材である、肉、魚、野菜、穀物、等は分りますが(言葉では)、乾物、調味料等は、初めて見たり、聞いたり、香りも、味も、使い方も、戻し方も殆んど分りませんでした。

 その後台湾や香港に行く機会があり、中国料理や材料の説明書などの本を手に入れる事が出来ました。詳しく訳していくと食材は日本に無いものばかりで、特に野菜は殆んどの物がはじめて目にする物ばかりでした。勿論名前は同じでも、例えばナスやキュウリにしても日本の品物とは長さや色が違うのです。

 料理の本のレシピー通りに料理を作る為には、まず現地で料理を食べる。屋台などで仕込みの仕方や、切り方、材料の組み合わせ、鍋に入れる順番など、納得するまでみていました。そして日本で本に書いてあるとおりに料理を作ろうとすると、本物の野菜や調味料が無く、日本では専門業者や関係者に聞いても、手に入りませんでした(現在でも入手するのが難しい物が沢山有ります)。それなら、自分で手で野菜を作ってみようと思い、野菜の種や、球根類を買い求め、中国語で書かれた農業の本を買って、やり始めました。いつ蒔くのか、温度は、肥料は、土は、など等、農協の方にお願いして畑を用意して貰い、耕運機を買い、農機具一式を揃え本格的に始めました。

 日本の四季に合わせて作っていくといろいろな壁にぶち当たり、そのたびに、台湾の畑を見に行きました。それから25年位の間に約25種類位の野菜を作って勉強してきました。途中でこれらの野菜を埼玉県の名産にしたらどうかと思い、県の、農政課にこれらの野菜を作ってみようという人達がいたら紹介してほしい、とお願いに行きましたら、そんな物は作らなくても農家は困らない、売れるか分らない物は作らないといわれがっかりしていました。すると、ほどなく、千葉県のグループが作り始めました。


**4月25日(木)掲載**
(鴻 朋友)

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中国料理に挑戦!
 35年前日本での普通の食生活は、今から思うと非常に質素でした。テレビでも今ある素材をどう毎日飽きずに食べるかと言う内容で、料理の本等も、写真は殆んどなく文字で説明する類いの本が主流でした。私はあるきっかけで1年半位日本料理の見習を京都の仕出屋と東京のホテルと料理屋でしましたが、会といわれる組織に入らなくては見習いから上に上がって行くのは、難しい時代でした。

 そしてそんなしがらみが無い、上野の東天紅に勤め中国料理の世界に入って行くことになりました。当時3ヶ所の大きな厨房があり、そこのチーフと3番手位までが中国人でした。初めて接する中国料理は全くの別世界。見る物、聞くもの、材料、香り、出し方、お酒の種類など幅広く、しかもうたい文句が3000年の歴史とやらで、相当勉強しないとこの溝は埋まらない、頑張らなくては・・・。

 しかし何から勉強したら良いのやら、どんな本を読んだら良いのか、何も知識が無いので誰かに質問もできないし、勿論中国語など分らないので中国人の人と会話もできない。いわゆる参考になる物が何なのか気が付かないのです。

 まず初めは東天紅の料理の載ったパンフレットを覚え、毎月替わる宴会メニューをしっかり覚えていきました。そして東京にある大きな中華レストランや、ホテル、そして横浜の中華街に行き片っ端からパンフレットを貰ってきました。当時はまだ日本人に中国料理を紹介している時で、料理名や内容の説明があり、カラーで料理の写真も載っていて非常に勉強になる貴重な物でした。

 そして、給料が少なかったので、お店の人に勉強中と言う話をして、その店で1番安い物を頼み、厨房に近い所に座らせて貰い、出てくる料理を見せて貰い、メニューの名前を聞いたりして3時間位居させて貰いました。その時、中華と言っても東京と関西とは、味とか材料などもだいぶ違う、という話を聞いたので、日本料理でも違うのだから、当たり前か。

・・・百聞は一見にしかず
神戸の中華街に行きました。

 海沿いの店から山の手の店まで行き、東亜食堂と言う店でフンパツして鮑の煮込み、大海老の炒め、牛肉の煮込み等を食べましたが、ひとつひとつの、料理のメインの材料がしっかり主張し、しかも舌から味がスーっと抜けていき、次の料理の味が混じらない、見事な味付けでした。

 そして沢山の、資料を手に入れる事が出来ました。それらを調べる(中国料理名や材料)為、大漢和辞典や中日辞典、を買い込み調べ始めました。


**4月18日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

初めての海外にて その5
 チャオ・プラヤ川沿いにあるタイ料理レストランにて昼食です。四角いテーブルに4〜6人がけで座りますが、奥に行くほど川の中に突き出るような場所になりました。始めに飲み物の注文をして各自代金を払いますが、バーツで払うので高いのか安いのか分らず言いなりに払います。勿論店の人の会話はタイ語ですが、お金を払う時はしっかり日本語で応対です。食事は魚、鶏肉、スープ、炒飯、ビーフン、デザートなど6品です。

 料理は、日本人向きの為か辛い味付けは無く、中華に近い感じの作り方でさっぱりとした味付けでした。魚の料理がメインですが、日本での魚のイメージは、海でも、川でも澄んだ水の中の魚を捕って食ると思っていたので、目の前のどんよりと濁った川から捕って来たのかなと、思うとなんとなく不潔に感じてしまいました。しかし口にしてみるとサッパリとした、クセの無い白身魚の姿蒸しは、たっぷりのハーブ(初めて口にする物ばかりで名前も分らずじまい)と一緒に食べると何か別世界の雰囲気で、目からはハーブのいろいろな彩りが入り,鼻からは食欲を誘う香りのハーモニー,少し軟らかめの魚の身とスープの旨みとハーブ類を一緒に口に入れた時の舌ざわりと歯ごたえ、今まで日本で食べてきた醤油に、刺身や煮物焼き物等の世界とは全く違う料理法や味付け、盛り付け等に,食生活の違いを見せつけられました。

 鶏肉は香辛料を付けて塩味で焼いた物に、つくねの中にやはり香辛料のしっかり入った揚げ物など、何種類か盛り付けていましたが、何れもサッパリとした食べやすさでした。

 そして、いよいよ水上マーケットに出発します。小さな小船(ランチ)に乗りこみ見物します。途中大きな荷物を積んでいる船や、砂利か砂を積んでいる船、重いのか海面すれすれの船などとすれ違ったり、小型のエンジン音を響かせて走り抜ける船、人を運んでいるのかいろいろな身なりの人が乗っている船など、よく次から次といろいろの船が行き交います。そして川の周りの家の中は殆んど丸見えで、プライバシーなど何も無く,子供は無邪気に川に飛び込んだり泳いだりして遊んでいました。目が合った時に手を振ると子供達も手を振って笑顔で返してくれました。洗濯をしていたり食器を洗っていたり、川の中で頭を石鹸で洗っていたりで、まさに生活の全てが川と共にある、人の生活は水無しでは無理だと教えているようでした。とにかく、水さえキレイであったら・・・。

 またいろいろな、職業(仕事場)も一目でわかり、変わったところでは、葬儀屋、中国と同じような棺を職人が作っていました。日本では作っている所は見た事がないし。お米屋・・と言ってもいろいろな穀物を扱っている店。子供達が集まっている駄菓子屋さんみたいな店、でも子供達は船も無いのにどうしていっぱいいるのだろう? 鍛冶屋さん、材木やさん、など等。そうこうしてると何やら賑やかな所に近づいて来ました。


**4月11日(木)掲載**
(鴻 朋友)

元の文章を引用する

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