| 鴻 朋友です。毎週木曜日、「食への目覚め」という題で、食に関するお話しをさせていただきたいと思います。 食に関しては知っているようで知らないこと、知っていれば別の楽しみ方もあるのに、ということが多々あります。 そうしたことを少しずつ整理して皆様にお届けします。どうぞご期待下さい。 |
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**11月18日(水)掲載**
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| 第52回 最終回 茶の歴史は古く新しい | ||||||||||
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<b>茶の歴史は古く新しい。</b>
固形茶から茶葉へ。宋から元の初頭にかけて、中国民間の喫茶が、末茶からより簡便な葉茶に切り替わりつつあった。葉茶は二次加工を要さずに、しかも湯を直接注いだり、又は煎じたりして飲用できるから元代の半ばから天下の大勢になっていった。唐末の仏教寺院から生まれて、五百年も続いた「点茶」の作法は、中国でその寿命を終えようとしていた。幸い、日本の「茶道」ではその伝統を依然として守っている。 <b>点茶から葉茶へ</b> 明の人達は「末茶」の面倒な点て方を敬遠し、湯を注いだらすぐに飲める「淹茶」の方を歓迎した。粉末にされる前の「茶葉」を使えば、茶の葉と湯がきれいに分離できるから。泡がぶくぶくあふれ出る、お粥のようなどろっとした喫茶は、もはや明代では明らかに時代遅れになった。明風の喫茶は、茶の出汁を飲む事である。そして明代の初期から「葉茶」の製法も変化しつつあった。新しく流行を見せはじめた釜炒り製茶が、それに取って代わろうとしていた。蒸すより炒ったほうが、乾燥と揉捻と成型とが一体となっているので、製茶の工程と時間が短縮される。と同時に、炒り製茶独特の熟した栗のような芳しい香りを楽しむこともできるからである。 宋代から実施されたお茶の専売制度によって、政府がお茶の生産から販売にいたるまでのすべてを独占した。明では周辺の遊牧民族との茶葉貿易を復活させた。軍需物資としての軍馬は、主に絹と物々交換するか、国庫の銀貨で購入していた。その後、遊牧みんのお茶に対する需要が高まり、馬との交換に絹よりお茶を要求するようになっていった。ところが元代に入ると、「茶馬司」はいち早く廃止された。統治者の蒙古人は北京に都を置いたものの、根拠地はやはり広大な蒙古草原であるため、馬の調達は空気を吸っているように自然で、意のままに行えるからである。逆に、お茶は貴重品であった。以前は馬で交換していたが、今度は茶産地のほとんどをおさえたので、取れるだけ取れる状態になった。それは富をもたらす宝の山であった。その後明代になると国家防衛に不可欠な軍馬を手に入れるため茶馬交易の再開に踏み切った。 遊牧民は、喫茶は壊血病を防ぎ、消化を助ける働きがあるため、野菜のない遊牧生活にはお茶はなくてはならない必需品なのである。アヘン戦争も中国茶の決済のためにおこされた戦争である。そしてアヘン戦争後の中国は、列強の掠奪と絶え間ない戦争などで、茶業を含むすべての産業が荒廃してしまい、「国飲」と自負されている誇り高き中国茶は、新中国が誕生するまで惨憺たる状況を呈していた。 <b>中国茶・第四の開花期</b> 窮地に追い込まれ手板中国茶が根本的に立ち直ったのは、やっと1950年台になってからである。政府は、相次いで茶産地の安徽・浙江・福建・広東・湖南・四川・雲南などの各省の農業大学に茶葉専攻の学部を設置して、お茶の研究者育成に力をいれる一方、旧来の零細茶園を大規模な「茶場」に改造し、製茶の機械化も進め、努力に努力を重ねた結果、伝統が途絶えた多くの銘茶が復活し、新しい銘柄のお茶の開発も盛んに行われている。現在、中国で生産されている各種の銘茶は史上最多の二百種近くにも達している。一方、茶樹の品種に対してもかつ数回にわたる調査研究を行い、全国で400余品種が確認された。そのなかから五十数品種を選別改良して、栽培と製茶を行っている。 <b>この一年間掲載させていただきありがとうございました。料理の道に入り、三七年余りたちますが、各国に行くたびに、食に関する奥深さを教えられるばかりで、どれだけの事が伝えられたかわかりませんが、また機会がありましたら、違う角度からご紹介できたらと思います。また商工会議所のスタッフの皆様にも感謝しております。ありがとうございました。</b> **3月28日(金)掲載**
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| 第51回 日本茶の源流 | ||
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凍頂烏龍茶があるテレビ番組で花粉症に効くと紹介された。(ちなみに8gの茶葉に300ccの熱湯を入れ3分くらい蒸してから飲むか、ふりかけにして食べる)症状が格段に改善される事が証明されていたが、お茶にはまだまだ沢山の成分があり、組み合わせにより更なる効果が期待されている。
<b>日本茶の源流</b> 型で固めず、茶の状態を保ったままの「散茶」は日本にも伝わった。主に入宋した留学僧の手によるものである。お茶は平安時代に唐風の「餅茶」とその飲法がすでに伝来していたが、朝廷を中心にした貴族と、その周りを囲んでいる一部のエリートたちの唐文化に対する憧憬の念の表れか、自分たちの優雅な生活を飾る風流事の一つにすぎず、日本社会全体に根ざしたものでなかった。しかし宋国から帰国した際に、留学僧たちが宋の「散茶」とともにその製法も招来した。なかでも特筆すべき人物は、栄西禅師である。 当時では高年の部類に入る51歳の栄西は1191年、宋国での4年間の留学を終えて帰国する際、茶種を持ち帰った。上陸した筑前の背振山(せぶりさん)にその第一号を植えたところ、見事に芽が吹き出し、日本茶樹の元祖になったのである。その後、これらの茶種が京都の栂尾山(とがのおさん)に植栽され、近畿地方を中心にいち早く寺院茶園が形成された。消費用のお茶を自力で生産できるようになったので、昔のように危険な海を渡って、中国まで買い付けにいかなくても済むのである。また栄西が学んだのが、空海や最澄ら平安僧の理論的な宗派でなく、実践を重んじる禅宗であった事も、茶園の開設を可能にした要因の一つに上げられる。諸々の仏教宗派のなかで唯一労働と生産を排斥していないのが、禅宗だからである。 禅宗の僧たちが、どんな製法の「散茶」を日本に招来したのか。栄西が世に遺した、『喫茶養生記』をひも解けば明らかになる。『喫茶養生記』は全部で6章からなっている。 1 茶の名称を明らかにする 2 茶樹や茶の花・葉の形状を明らかにする。 3 茶の効能を明らかにする。 4 茶を採る時期や季節を明らかにする。 5 茶の採り方を明らかにする。 6 茶の製法を明らかにする。 これを見ると、栄西は喫茶全般についての知識を持っている事がわかる。特に第5章と第6章は、本から得た知識だけでなく、栄西が宋国で実際に自分の目で確かめた情報である。第6章には次のように記されている。 宋国で製茶の状況を見ました。朝、茶の芽を摘んだら、すぐそれを蒸して、焙りあげます。怠け者にできる仕事ではない。焙炉に紙を敷いた後、紙が焦げない程度で、火を入れ丁寧に焙ります。急がず緩めず、終夜不眠で、一夜のうちに焙り上げなければならない。こうしてできたお茶を良質の瓶に入れて、外から竹の葉を覆わせて密封すれば、年月を経ても変質しない。 これは、当時の中国における蒸し製散茶の製法であった。さらに飲用法によっては葉のままで煎じて飲むのを「茗茶(めいちゃ)」と言い、粉末にして点てて飲むのを「末茶」と言うが、後者の「末茶」がこの時期の日本に伝わり、茶道成立の基盤を作ったのである。栄西らを取り囲む当時の中国仏教界では、主として「散茶」を飲用していた。この「散茶」の製法と飲用法が、今日にいたるまでの日本茶の性質を決定したのである。 **3月24日(月)掲載**
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| 第50回 陸羽の不滅の功績 | ||
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後世の喫茶、特に日本茶道の成立に決定的な影響を持っている。茶の湯で使用されている茶具は元をたどれば、そのほとんどが陸羽の『茶経』に帰結する事ができる。
<一之源> 茶樹の形態や茶名の考案・茶樹成長の自然条件・栽培方法・茶葉品質 の優劣・茶の効用など。 <二之具> 茶葉の採集道具と製茶用具。 <三之造> 製茶方法と製品の品質鑑定。 <四之器> お茶を煮るときの道具と茶碗。 <五之煮> 煎茶用水の等級やその選定方法・お茶の煮方・入れ方。 <六之飲> お茶のさまざまな飲み方と飲用するときの心構え。 <七之事> 喫茶の歴史と歴代の喫茶事情に関する文献。 <八之出> お茶の産地と各産地の品質。 <九之略> 時宜と場所による製茶用具と茶道具の省略について。 <十之図> 以上の各章の内容を図解したもの。 陸羽がこの『茶経』で、述べたのは「蒸青(じょうせい)」の方法で製茶された「餅茶(ピンチャ)」による煎茶の飲用法である。これは唐代喫茶の主流であり、宮廷の御用茶にもなっていたお茶である。「蒸青」とは、採集した新鮮な茶の葉を蒸して、その酵素を殺し、酸化を止める緑茶の製茶法で、さらにそれを型に入れて餅の形にした固形茶が「餅茶」である。 『茶経』巻末の<略式の飲み方>では、外遊先での飲茶が述べられている。この章で、陸羽は山野や林間では形式にこだわらず、自然のままの茶時を奨めている。その一方、都会の王侯公卿の喫茶に対しては、『茶経』に列挙した二四の茶器の使用を要求している。その意味で『茶経』は、貴族や官僚などの上流階層のために書かれた物である事が明白である。陸羽は生涯仕官せず、気ままな隠棲生活を送っていたが、仏教に通じ、儒教的な教養を身につけた真の文人でもある。それゆえに『茶経』に展開されている茶事は、下層民間人の喫茶と一線を画している。 このように『茶経』は、寺院喫茶をベースに、陸羽自身の幾多の相違工夫を加味して斬新で閑雅な喫茶様式を確立した。それがひとたび世に出されると、時の多くの文人を魅了し、陸羽流の喫茶が、あっというまに世間を風靡していったのである。 『茶経』をひもといてみると、そこに登場してくるお茶は、いささか体裁ぶった感じではあるが、陸羽は時代に先駆けて、茶書の伝統を創り、喫茶のルールを決め、また茶人のモラルである「精行倹徳」を提起するなど、不滅の功績を遺したと言える。 **3月14日(金)掲載**
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| 第49回 陸羽の『茶経』の登場 | ||
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茶樹が生長する土地は、日の当たる山野の崖で、しかも日光の直射を遮る陰にある風化しつの土壌でなければ、最高のお茶が育たないという。中国の寺院茶園は、その多くが山間部にあり、風化質の土壌であること、互生する林のなかにあって直射光が当たらないこと、山の上では霧が生じやすく、湿度が高いこと、日夜の温度差が大きいことなどの条件が揃っているからこそ、絶品の銘茶を産出したのであろう。
唐代も半ばになると中国の喫茶文化は、名実ともに成熟期を迎えた。それ以前は、茶の湯に生姜・密柑の皮・葱・紫蘇・やぐみなどを混ぜて、漢方薬かもしくはスープのように飲んでいた。このような飲み方ではお茶の真の味を損なうとしたのが、陸羽や時の多くの文人である。特に陸羽は、史上初めての茶の専門書『茶経』を著し、お茶に関するさまざまな知識を紹介する一方、正しいお茶の煮方や飲み方を推奨した。彼のたゆまぬ提唱により、唐代の文人と官僚の間で喫茶の形式化が進み、飲茶が情操の薫陶と品格の向上に結び付けられるようになった。「茶道」も陸羽のお茶を指す言葉として、この時代に生まれた物である。 「茶経」これは、陸羽が長い時間をかけて中国南方の茶産地を歩きまわり、茶樹の状況や製茶の種類などを調査して著した史上初の茶の専門書である。『茶経』が歴代茶書のはじまりとなり、この時代から茶の歴史が系統的に語り継がれることになる。 陸羽は『茶経』のなかで、茶の飲用による精神面と道徳面の効果を宣揚する一方、茶具を選定し、煎じ方から飲み方にいたるまでの喫茶作法を規範化した。これらは全て、彼が幼少の頃から馴染んでいた禅寺の喫茶を根幹に独自に考案された物である。この斬新な陸羽流のお茶は多くの人々を惹きつけ、大流行となり、好事家の文人たちの加勢もあって、唐の開元年から「茶道は大いに盛んになった」という様相を呈するようになった。 『茶経』は全部で10章に分かれ、<一之源><二之具><三之造><四之器><五之煮><六之飲><七之時><八之出><九之略><十之図>となっている。 **3月7日(金)掲載**
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| 第48回 禅宗の喫茶作法 その二 | ||
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前回の続き「行茶」の威儀は
<table border="0" cellpadding="2" width="95%"><tr><td width="5%" valign="top">12.</td><td width="95%" valign="top">右手で茶受けを取り、皆にお辞儀してから食す。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top">13.</td><td width="95%" valign="top">茶菓子は、投げて口に入れたり、音をたてて噛んだりしてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top">14.</td><td width="95%" valign="top">茶会が終わると、静かに椅子から降り、皆に挨拶してから会場を出る。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top">15.</td><td width="95%" valign="top">特為の人は前に進み、主人に謝茶の礼を申す。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top">16.</td><td width="95%" valign="top">落ち着いた足取りで退場する。大股に急ぎ足で歩いたり、くちを引きずったりしてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top">17.</td> <td width="95%" valign="top">堂頭の特為茶会を無断で欠席した者は、誰かれを問わず。その位を落とし、院門から追い出す。</td></tr></table> これを見ると、禅院の茶会は、その一挙手一投足が形式化された儀礼作法に終始しており、喫茶がたんなる「飲む」という行為から脱皮して、宗教儀礼の具現という精神的次元にまで昇華されていた事がわかる。そこに見られた喫茶の作法は、まさしく日常的な喫茶と儀礼的な喫茶の分かれ道となっている。後に唐代の陸羽が成立させた茶道も、現代の日本茶道も、その根底を支えているのは、他でもなく禅院の茶礼である。 また、禅院では個人によるお茶の所有を厳しく禁止しているため、喫茶は個人嗜好の範疇を超え、僧団全体の行為となっている。高度に儀礼化された独特の茶事によって僧団の秩序が維持され、寺院運営も円滑に行われていたと思われる。 寺院茶園のはじまり 寺院におけるこっさの需要に対応して、寺院独自の茶園も出現した。最初は晋代の僧侶が廬山(ろざん)に自生した野生茶を利用したのが始まり。その後、意識的に茶樹の栽培を始めたという。寺院におけるお茶の需要が増えたため、安定した供給源を確保する必要が生じたのと同時に、品種改良によって良質のお茶を得る目的もあったのであろう。この寺院茶園の登場によって、晋代以降、数々の寺院名茶が生み出される事になる。 陸羽の『茶経』には、唐代の有名な寺院茶園として、浙江地方だけでも、飛雲寺・曲水寺・天竺寺・霊院寺などが挙げられている。特に飛雲寺と曲水寺の二寺の茶園からは、当時の最高級のお茶が産出されていると記されている。他にも、宋代には、江蘇省洞庭山にある水月院、福建の能仁院、覚林院の茶園から生産される寺院銘茶があり、明代の頃からは、山寺の製茶で一躍有名になった「松羅(しょうら)茶」などがある。 **2月28日(金)掲載**
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| 第47回 禅宗の喫茶作法 | ||
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唐代に入ると、宗派を問わず寺院における喫茶は一般化された。そのなかでも、中国開宗の禅宗寺院が、ほかの宗派よりもお茶と深く結びついていた。禅宗は、「悟りは言説をもって伝えるのではなく、実践を通して伝えるものだ」を標榜し、実践を重要視する仏教であるため、衣、食、住、行という現実のなかで、禅宗の修行を重ねていく。それゆえ、禅宗における喫茶は、従来の座禅に備える(睡魔退治)ための実用的な飲用と違って、宗教生活の全般に行き渡っている。そして、その飲み方も宗教儀礼のなかに織り込まれ、禅寺独特の茶礼を完成させている。そしてこのような作法化された喫茶は、後の茶道の成立に大きく寄与した。
禅宗の喫茶作法は、『清規(しんぎ)』という教団生活の規則に決められている。これは仏教在来の戒律とは別に、中国の禅寺生活を規範化したものである。インド伝来の戒律で禁じられている生産活動を中国の事情に対応して、仏教僧団の完全な自給自足を図った物である。種田耕作、給食行茶などの日常生活の行為全般に宗教の修行を結び付けている。また、唐代から流行しはじめた喫茶を寺院行事のなかに組み込み「行茶」の威儀を通して仏法の荘厳を示すなど、禅寺独自の喫茶方法を作り出した。 <table border="0" cellpadding="2" width="95%" height="330"><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">1.</td><td width="95%" valign="top" height="22">禅院の「特為茶」は、礼儀が大変重要である。招待される人は軽々しく考えてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">2.</td><td width="95%" valign="top" height="22">茶鼓(ちゃつづみ)が鳴ると、早めに会場に行き、自分の名札を確かめる。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="62">3.</td><td width="95%" valign="top" height="62">堂頭(どうちゅう)寺院管理者の特為茶会では、侍者(貴人に付き添って、身の回りを世話する人)の挨拶の後に会場へ入る。首座にしたがって順番に立ち並び、住職の返礼の後に座席に着く。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">4.</td><td width="95%" valign="top" height="22">脱いだ靴はきれいに並べ、静かに椅子にかける。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">5.</td><td width="95%" valign="top" height="22">姿勢を正し、椅子にもたれてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="42">6.</td><td width="95%" valign="top" height="42">袈裟(けさ)膝を隠すようにし、手をこまねいて主人にお辞儀する。(敬礼のために、胸の前で合掌する)</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="42">7.</td><td width="95%" valign="top" height="42">片方の単衣で袖を覆う。手は、暑いときは袖の外に、寒いときは中にくむ。腕をあらわにしてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">8.</td><td width="95%" valign="top" height="22">落ち着いた手つきで茶碗を取り、胸の高さに持つ。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="1">9.</td><td width="95%" valign="top" height="1">主人がお辞儀した後、特為の人(招待される側)は、上位から下位へ順番に返礼する。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">10.</td><td width="95%" valign="top" height="22">飲茶のときは、お茶を吹いたり、音を出したり、茶碗をまわしたりしてはならない。</td></tr><tr><td width="5%" valign="top" align="right" height="22">11.</td><td width="95%" valign="top" height="22">茶碗は静かに置き、順序よく並べる。</td></tr></table> 今でこそ当たり前のように感じるが、儀式的なものにするまでの課程を想像してみてください。 **2月21日(金)掲載**
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| 第46回 眠気と戦う僧侶達 | ||
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南中国はともかくとして、北中国では漢民族の儒教に対抗するため、外来の宗教である仏教を積極的に導入する国が現れた。匈奴出身者が建てた後趙である。この後趙が仏教立国の道を選ぶと、多くのインド人や西域人、そして中国人の仏教僧侶が、集まってきた。禅道開もそのなかの1人である。『晋書・列伝』によると、禅道開は敦煌の出身で、その後、臨璋(リンショウ)の昭徳寺に住することになった。彼は寺に高閣を建て、さらにそのなかに茅の禅室を作って、毎日眠らずに座禅していた。飲食の代わりに自家製の薬丸を食べたり、茶葉に紫蘇を混ぜた「茶蘇」を飲んだりしていたと。禅道開はこのお茶を飲む事で、座禅中の眠気を駆逐していたと思われる。
禅の内観を完全なものにするには、心から一切の雑念を取り除かなければならず、特に修行中の眠気が大敵である。仏教が中国に伝わって、中国人出家僧が出現すると、まもなくお茶が持つ覚醒という薬効性が注目され、禅の実践に積極的に活用されるようになった。この仏教とお茶との結びつきは、中国仏教の特徴の一つを形成しており、中国仏教の伝道の波に乗って、お茶も産地以外のところまで運ばれるようになった。また、修行と寺院運営の双方の需要から、寺院自体がお茶の栽培と製茶に乗り出した。その結果、数々の寺院銘茶がうまれ、寺院の有名度も高められた。特に規模の小さい山寺にとっては、お茶は貴重な財源になったのである。 中国寺院における喫茶は、仏教の中国伝来以後に見られるようになった現象である。前述の山東霊厳寺の喫茶に示されたように、それは二つの目的をもっている。一つは非時食戒を守ること、もう一つは座禅時の眠りを排除する事である。 非時食とは、仏教戒律では、正しくない時の食事の事で、正午から翌日の未明までの食事を指している。出家僧は非時に食物を食べてはいけないことになっている。だが、この戒には薬と水が除外されているので、当然、喫茶は許されている。 インドでは出家僧は毎日二食を守っているが、菜食中心の中国寺院では、二食では持たないという理由で、間食の時間を設けている。非時食戒に抵触させないため、その時の食物を「薬石」と称したり、お茶を飲むときに食べるお菓子類を、「茶薬」と言ったりしている。薬なら戒に反さないという、一種の懐柔策である。降魔師の弟子達はお茶を飲用する時、「茶薬」も食べていたと思われる。 お茶のもう一つの目的は、座禅中の睡魔退治である。すなわち、茶葉に含まれているカフェインが持つ覚醒作用で、眠気を覚ますのであった。 **2月14日(金)掲載**
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| 第45回 お茶の北方への進出 | ||
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中国の北方に、お茶が本格的な普及を見せ始めたのは、唐代(618〜907)に入ってからである。はからずも仏教の力を借りていたことが意義深い。普及の状況を、唐の封演(フウエン)が『封氏聞見記』という見聞録の飲茶で次のように記している。
世の中では、早く採ったものを茶と言い、晩く採ったものを茗(みん)と言う。本草では、お茶は、渇きを癒し、眠気を覚ますと言っている。南の人は好んでそれを飲むが、北では、あまり飲まなかった開元年間(713〜741)に泰山の霊厳寺に降魔師と称される禅師がいて、禅の普及に精魂を注いでいた。禅の修業では、眠らない事を第一としている。夜食を取らない代わりに、師はお茶の飲用を許した。そこで禅を習った弟子たちは、自らお茶を携帯して、いたるところでそれを煮て飲んでいた。以後、周りの人々まで、飲むようになり、たちまち喫茶の風習が広がった。山東〜河北、そして河南へと広がり、遂に首都の西安にも及んだ。西安の街には多くの茶屋ができ、お茶を煮ては売っていた。在野出家を問わず、誰でも金さえ払えば飲むことができる。そのお茶は江蘇(コウソ)と浙江(セッコウ)あたりからのもので、船や車で続々と運ばれてくる。行く先々でいろいろな種類のお茶が山のように積まれていた。 封演のこの記録から、お茶の北方進出と普及について、次のことが読み取れるる。 統一国家である唐帝国の隆盛は、南北の障壁を取り除き、物流の活発化を促した。それに伴って、北中国でもお茶が身近な存在となり、簡単に手に入るようになった。そして禅仏教の修行で、方便としてお茶の飲用を勧奨した結果、まず在家信者の間に流行していた喫茶風習が、まもなく北方全域に広がった。 このように唐代に入ってから、禅仏教の布教活動は一般社会における喫茶の定着を後押ししていた事が伺える。これは最初、中国で見られた現象であったが、その後、日本でも同様な現象が確認されている。 そもそも、お茶と仏教とのかかわりは、南北朝時代の後趙の禅僧、単道開(ぜんどうかい)の喫茶に遡ると言われている。三国時代の戦乱と分裂の局面を収拾して魏の後を継いだ晋は、やっとの事で統一を達成したものの、国の安泰を長く享受する事はなく、後期には権力争奪をめぐる内乱に陥り、その機に乗じて、北方の各地で抑えられていた遊牧民族が奮起して、相次いで政権を立てるようになった。当時の中国には、南北合わせて前後五つの異民族と漢民族によって作られた小国が林立していた。これらの国々のことを《五胡十六国》と称している。 **2月7日(金)掲載**
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| 第44回 お茶はどのように飲まれてきたか | ||
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中国には、昔から医食同源の思想があり、お茶を含むすべての食物が、甘・酸・苦・辛・塩辛の五味と、温・熱・涼・寒の四性に分けられている。病にかかりその症状が、熱性か寒性かに応じて投薬する。日常の飲食においても、感熱のバランスをとり、偏ったものにならないように気を使う。注目すべきは、グミやネギや生姜などをお茶に混ぜて飲んでいた。唐の陸羽の中でこの飲み方を酷評していたが、庶民の間ではずっと後代まで続いていた。これらは全部熱性の植物で、お茶に混ぜるのは、お茶が持つ寒性を中和させるためで、これこそが体に優しい合理的な飲み方であると、当時の中国人は思っていた。このような飲み方は、400年後の唐代の茶人の陸羽によって否定されることになった。彼に代表される文人や僧侶たちは、日常生活に深く浸透していた漢方的な飲み方を、徐々に新しい飲み方に変えていった。
400余年も続いた漢帝国が終焉を迎え三国時代(魏・蜀・呉)は国中に戦火が燃え広がり、国は分裂状態に陥っていた。こうした激動の時代に、茶の原産地である西南地方を除けば、人々はまだ喫茶などを顧みる余裕はなかった。中原では、お茶はまだ嗜好品でしかなかった。 これに対して、南方の国、呉の宮廷には喫茶に関するエピソードが伝えられている。王の宴席で酒の代わりに飲めない人のためにお茶を授けた(三国志・呉書)。 呉の国は建業(今の南京)に都を置き、その国土は長江の中下流にまたがる広大な領域を有していた。三国時代における喫茶の風習は、巴蜀が代表する西南地方から、既に南方全域にまで広がっていたと思われる。また、酒の代わりにできるようなお茶と言うことは、黄酒と同じく、赤みがかった黄色か、それより薄い黄色をしていることになる。いずれにせよ、戦乱で南北が分断された状態では、物的にも人的にも、交流が制限されていたことはいうまでもない。三国時代は、お茶が北方の人々に親しまれるのが、まだまだ困難な時代であった。 魏の後を継いだ晋が、280年、遂に蜀と呉を滅ぼして国を統一した。それによって、お茶も北方に運ばれるようになった。しかし当時の北方では、お茶は市販されておらず、主に南方にいる親戚か友人に送ってもらうことによって、その需要が賄われていた。喫茶の風習は、こうして少しずつ北上していった。 しかし、晋は100年あまりしか続かず、統一国家も束の間に終わってしまった。386年、北方で鮮卑(センピ)族が北魏を建国し、南方では、420年頃に宋が建てられ、時代は一気に南北朝に入る。南では、宋、斉、梁、陳という順に漢民族の国家が続き、北ではさらに幾多の小国が乱立し、北魏、東魏、北斉、西魏。北周などの政権が順次登場した。北地に建ったのは、漢民族による北斉を除いて、すべて鮮卑系、チベット系かトルコ系の遊牧民族を主体とする国であった。南北朝は、激動の混乱期であると同時に、民族大移動による文化融合の時代でもあった。 **1月31日(金)掲載**
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