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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2014/02/28(金)
第188回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(13)
 長い間写真に従事し、月日が経つにつれて、そしてまたある時を期して自分の写真のありようが無意識のうちに変化していくのを認め始めている。それはおそらくぼくばかりでなく、また写真という分野に限らず、習い事に熱心に取り組んでおられる読者のみなさんであれば、似たり寄ったりの体験をされているのではないかと推察する。プロ・アマに関わらず、ここにはその違いが割り込む隙間は一切ない。プロだろうが、アマチュアであろうが、習い事の経緯と手順に差異はない。諦めや妥協は個人の資質に関する問題であり、本来ならこの領域にプロ・アマの違いによる作法や自覚を持ち込むべきではない。
 ぼくの福島での写真を始めとする私的写真は、いつだってアマチュアカメラマンと同軸上にあるものだ。

 ぼくの、特にこの10年は大きな変化があったように感じている。できれば、贔屓目に見て、良い変化というよりは、切羽詰まっての慌ただしい進化だと思いたい。それは結果としての善悪や正否、成功や失敗についてではなく、一枚の写真を撮ることも、それを印画紙上に表現するにも、さまざまなプロセスが体験によるところの心理的要因と技術的要因に促され、大波小波に洗われるように揺らぎながら、大きく変わりつつあるように感じているからだ。長い間に仕入れた些細な知識や養分が少しずつ形になって表れ始めたと思い込みたい。
 それは大抵の場合、無自覚のうちに起こる。知らず識らずのことだから、どこか心地がいい。心地がいいから、知らず識らずのうちに、イメージ作りに夢中になり、無造作にシャッターを押すことが愉しくなる。ぼくは夢遊病者のような妄想に憑かれ、徘徊老人のような状態で写真を撮っていることに気づく。そこには生理的な快感がある。

 したがって、読者諸兄のご質問になかなか思うところをお伝えできないでいる。特に今連載中の「立ち入り禁止区域」のシリーズでは、「このようなモノクロ写真をどのようにして仕上げるのか? その手順をご教示願いたい」という類のメールが増え、熱意に溢れた方は遠方より電車を乗り継いで浦和まで来られる。ぼくは出し惜しみをする質ではないし、まして小出しにするタイプでもなく、できることは素直に披陳しようと努めるのだが、行き着くところ問題は感覚と妄想の領域となるので、なかなか容易には説明しがたい。
 撮影時のイメージに合致させようとの暗室作業であるから、喩えその技術を詳細にお伝えしたところで、ほとんどの場合、他人様の写真には合致せず、どこかちぐはぐなものになってしまう。ぼくは、自分の体験上それをよく理解しているつもりだ。
 青年時代に、ある写真家の麻薬的なトーンに惹かれ、暗室に閉じ籠もり懸命に真似たことがある。2枚目をプリントしている時に、ぼくはハタと我に返った。写真が違うのだから、それは無駄で意味のないことだと悟ったのだ。悟りが早かった分ぼくには救いがあった。
 そのようなこと(大言すれば、“自分との対峙”)を何度も繰り返しながらの今なのであって、それは時とともに自分の流れ着いた場所でもあり、それぞれに人生体験は異なり、習い事を個人の体験の必然と捉えるのであれば、それに逆行しては意味のないということになる。禅問答のようになってしまうが、習い事を人生の無駄な遊びと潔く認めるほうが、見えてくるものが多い。生き甲斐を見出そうとしたり、意義を問うからつまずいてしまうのだ。

 話はいきなり南相馬に戻る。この日、欠食児童のような我々3人(Sさん、Jさん、ぼく)は、夕食時間を待ちきれなかった。ホテルの一室で「本日の出来事」を報告し合うも、気もそぞろで「5時になったらすぐにどこかの居酒屋に突入すべし」という暗黙の了解があった。こういう了解事は会話を必要とせず、「目は口ほどにものを言う」の格言通りで、我々は開店時間を思うほどに目は血走り、唾液の分泌が増していった。
 6月に来た時には、まだ街は閑散としていたので、それらしき店がないのではないかと思っていたが、我々の来る1ヶ月前に当地を訪れた友人から「けっこう店が出ていましたよ」という朗報を得ていた。

 ホテルの支配人に、「この界隈で美味しい魚介類が食べられて、美味しい酒が呑めるところ。お値段もリーズナブルで、店の雰囲気もいいこと。東北らしい心温まるようなサービスを受けられるところ」と、矢継ぎ早に条件を取り揃えた店を訊ねた。「できれば美人もいて・・・」と、ちょっと見当違いの要望をSさんが付け加えた。いや、東北には美人が多いのだからあながち見当違いとはいえない。ぼくだって旅の幸運を祈り、吉祥の鶴にお目通り願いたい。
 支配人はカウンターから一歩後退り、及び腰になりながらも、「Kという居酒屋なら、なんとかお客様のご要望に・・・・」と、ディミヌエンドしながら消え入りそうな声で答えてくれた。遠慮がちな支配人が積極的にこの店を勧めているのか、提示した条件が不揃いで消極的なのか、ぼくらはもうそんなことに頓着する余裕はなく、ホテルの玄関を飛び出し、すぐ近くのKに「鶴より団子」とイノブタのごとく突進した。門構えの新しいその店の前でSさんと顔を見合わせながら、やはり暗黙の了解で「なんか、ちょっと高そうやなぁ」と目で相づちを打った。しかし、もう勢い余って後戻りなどできない。それほど我々の意志は強靱ではない。ここに至って躊躇しては写真屋の沽券に関わるので、勢いよくのれんを払い退け、引き戸を引いた。

 現地で何人かの人たちに住民の帰還率について話を聞いたところ、感覚的には現在おおよそ半分くらいではないかということだった。その現状についてよそ者のぼくでさえ非常に複雑な思いに囚われたが、目の前に差し出された生ビールと確信的に旨そうな刺身類には抗しがたく、その難しい問題は取り敢えず後で熟慮しようと自身を籠絡することにした。刺身を運んできた美人に「この刺身は近海で獲れたもの?」と訊ねると、「いえ、今はすべて北海道からのものです」という。またもや難問をふっかけられたような気がしたが、我々はすべてを後回しにして、取り急ぎ祝杯をあげることにした。餓鬼に免じて、一瞬の「風化」にはお目こぼし願いたい。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/188.html
  <浪江町の写真は前号からの通しナンバー>

★「11浪江町市街」。1階が完全に潰れている。この道の先に浪江名物である焼きそばの「繩のれん」があるとSさんが教えてくれた。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf13、1/125秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「12浪江町市街」。瓦屋根の家は説明を要するまでもなく・・・。比較的新築と思われる家もかなり傾いでいる。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/100秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「13浪江町市街」。鉄道ジジイのぼくはどうしても線路に惹かれる。電柱は折れ曲がり、線路は赤黒く化学変化し、雑草が生い茂る。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/25秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「01南相馬市小高区」。小高区は福島第一原発より北約12kmに位置し、「避難指示解除準備区域」である。小高区の津波による死者は147人にのぼる。震災後2年8ヶ月を過ぎても、復興の手が入らず、すべてが放置されたままだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/100秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「02南相馬市小高区」。「01」とほぼ同地点。6号線沿いにあるパチンコ店。ここも津波襲来時から時が止まったままだ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/125秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/02/21(金)
第187回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(12)
 文章というものはいくら書いても切りがなく、ぼくに冗長さが許されるのであれば(すでに自分勝手に許しているが)、いつまでも延々と書き続けてしまう。そこがぼくの大きな欠点でもあり、悪い癖だとの自覚はある。
 それに比べ写真は点数に限りがあるので、連載引き延ばし作戦は功を奏しない。事は思い通りに運ばない。したがって、1テーマの連載の打ち止めはいつだって写真ネタが先に尽きてしまうことにある。
 「まだ書きたいことは山ほどもあるのだが、しかし、残念ながらもう写真がない」と編集子に訴えるのが、ぼくの討ち死にパターンだ。写真屋のくせに、サービス精神?が余りあって、書き過ぎが災いを招いてしまうのだ。本連載は紀行文とは趣意が異なると思っているが、かつて1ヶ月の旅行を3年にわたり写真併記の紀行文として連載したことがある。活字媒体だったが、ぼくも編集子もよく堪えたものだと今になってそう思う。

 今回、5日間で1800枚余を撮ったのだから、説明的な写真も含めれば、余裕はあるように思えるが、エラそうな能書きを並べ立てている以上、本職である写真はやはり及第点を与えられるものに限られ、そこがなかなかに恥ずかしくもあり、また忌々しいのである。忸怩たる思いだ。

 元気よく走り回ってくれたレンタカーを15時までに返却しなければならず、後発のSさんと連絡を取り合いながら、ぼくは浪江町の市街地をロケハンしてからホテルに戻ることにした。同行していたJさんの顔に不満が浮かぶ。何が不満なのか、ぼくはとっくにお見通しだ。「まだ昼飯食べてないんだけれど、早く食わせろ」との思いであることは分かりきっていた。そうたやすく食わせるものか。何にもまして撮影を優先するのがぼくの慣手段だが、常にうちの女性陣は一食抜かすだけで、「腹が減っては戦ができぬ。なんとかしろ」とぼくを不当に罪人扱いする。「戦なんかまだしてないだろ! してから言え」とぼくは手厳しいのだが、彼女たちはそんなぼくの親心など、どこ吹く風である。親を踏み付けても食にありつきたいのだ。
 そして、何年も前のことにも「あの時は昼食を食べさせてくれなかった」と、恨み骨髄で、ことあるたびに言い及んでくる。彼女たちは決して「あの時のあの一食」を忘れることができないでいる。たかだか一食に、恐るべき執念・俗念・怨念の混合物を抱えている。女の女たる所以がそこにはどす黒く渦巻き、脂っこくへばり付いているのだ。そういう女(ひと)に限って何十年も「ダイエットしなくちゃね」なんていっている。不可能なことをよそよそしくいっては、その場を取り繕うのだ。
 男はそのような妄執に囚われることなく、何が起ころうと一途に撮影という高尚な身ごなしを由とし、己の行住座臥を質すべく心得がある。ただし、彼女たちに比べると、生命力には著しく劣る。だから、男衆は女衆の平均寿命を未来永劫に越えられない。

 浪江町市街地への入口にも検問が設けられており、許可証を提示して、ぼくとJさんは沈黙の街へ入った。地震で崩壊した家々、歪んだ家々、どこにも人影がなくひっそりと静まり返っている。このような状況はもう何度も体験してきたが、慣れることはなく、一種異様な世界に気が圧伏されてしまう。
 人々が消え去った原因は重々分かっているのに、にも関わらずそのたびに「どうしてだろう?」、「みんなどこに消えてしまったのだろう?」、「なぜ避難しなければならなかったのだろう?」という疑問が止めどなく湧き上がってくるのだ。それはきっと、放射線が目に見えぬ、まったく得体の知れぬものだから、人間の心には整理できない恐怖として否応なく把握せざるを得ず、そして従わざるを得ず、その背離に理解の及ばぬ不気味さが漂っているからだと思う。何度体験しても慣れることがないのは、とどのつまりそういうことなのだろうと、持説を以て納得する他なし。

 取るものも取り敢えず避難を余儀なくされた人々と当時の状況を生々しく示すものは至る所に見られる。あらゆるものが放置されたままだが、ぼくはできる限り丹念に“記録写真”としても写し取ったつもりではあるけれど、帰京して写真を見るとまだまだ撮り足りなかったという思いだけが残る。ぼくは写真を撮る時、脳天気の成せる業で、考えながら撮ることはほとんどなく、無感情・無造作にシャッターを押してしまうのが常だが、「立ち入り禁止区域」ではなかなかそうはいかなかった。
 “放置されたまま”というのは、どこか物悲しくも多弁であり、そこには十分な抗言があり、指弾を受けるに値する事柄をじかに見て取れるからだろうと思う。人の消え去った街は、沈黙だけではないのである。
 この地で、視覚の消失点がどうしても遠方になってしまうのは、難題の山積により戸惑いが隠せないからだろうとも思っている。荷が勝ちすぎるテーマに挑んで、動きが取れずにいる自分がひどくもどかしくもあった。

 町内は除染作業が行われたことで放射線量は思ったより低かったが(といっても、さいたま市の約10〜15倍)、野放図なJさんを管理しなければならず滞在は45分間に留め、ぼくらはSさんと落ち合うために南相馬のホテルに戻った。富岡町で撮影を終えたSさんも飲まず食わずだったが(当然のことながら、この区間には飲食店も自販機もない)、初めて震災の地を目の当たりにした彼は、もともと丸い目をさらに丸くし、空腹などにかまっておれるかという男としての気骨を存分に示しながらも、衝撃を隠しきれない様子だった。
 3人で報告をし合っている最中、ぼくに突然の訃報が届いた。もともと血縁関係の極めて薄いぼくだが、幼少の頃よりぼくを可愛がってくれた京都の叔父が亡くなり、ぼくは廊下に出て一人涙した。数少ない親類縁者だったが、ぼくは福島に留まり、撮影を続けることにした。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/187.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「06浪江町市街」。震度6強の地震で完全倒壊した家。逆光と瓦のテカリを重視して露出補正をする。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/80秒。露出補正-1.33。ISO100。2013年11月9日。

★「07浪江町市街」。家人はいずこへ。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/125秒。露出補正-2。ISO200。2013年11月9日。

★「08浪江町市街」。崩壊した家ばかり撮っていたような気がする。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/40秒。露出補正-0.33。ISO200。2013年11月9日。

★「09浪江町市街」。ガソリンスタンド。大混乱の最中、町民はこのスタンドに給油のため並んだに違いない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/50秒。露出補正-1。ISO200。2013年11月9日。

★「10浪江町市街」。浪江町駅前広場。市内循環のバスだろうか? ナンバーが外されたまま放置されていた。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/2000秒。露出補正-3。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/02/14(金)
第186回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(11)
第186回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(11)

 津波により破壊された防波堤に立ち、海風に吹かれていると、浜辺に打ち付ける太平洋の高波が重低音を伴って響いてきた。ズシンズシンというその音波を全身で受け止める心地よさは格別だ。しばらくは身を委ねていたいが、前号で触れたように、津波到来時の「天地を揺るがすような」想像上の音に、そんな思いはたちまち遮断されてしまう。どうしても想像が及ばないその津波音に苛立ちだけが募っていった。

 子供時分の2年間、ぼくは毎週父に連れられて千葉県の勝浦に病身の継母を見舞うため通っていた。外洋に面したその浜辺で、ぼくは波の音に包まれながら多くの時間を一人で過ごした。波と戯れながら貝拾いに夢中になったり、農夫が馬を連れ、波打ち際で馬の体を洗ったりしているその光景が今も鮮明に瞼に焼き付いている。当時ぼくは泳ぎを知らなかったので、水に対する恐怖心があったが、大きな波が打ち寄せるその動きと音を飽きることなく、時間の経つのも忘れて愉しんでいたような気がする。
 「坊主! もう帰るぞ」という父の声がいつも背後から聞こえた。

 写真好きだった親父は、ぼくにとってひたすら厳正で、畏怖の念を抱かす人物だった。勝浦の浜辺で親父を撮った時に、厳しくも子煩悩だった親父は、「ただ撮りゃいいというもんじゃない。わしの背景の波が白波を立てて崩れ落ちる瞬間にシャッターを切るのだ」と教えてくれた。
 白波の立つその瞬間がつかめずに、ぼくはなかなかシャッターを押すことができずにいた。父は無言で、ぼくがシャッターを切るまで同じポーズで寒風吹きすさぶ浜辺に立ち続けてくれた。非常に癇の強い人だったので、いつ「早ようせい!」と怒声が飛んでくるか分からず、ぼくは焦るばかりで、子供心にも生きた心地がしなかった。そのくらい父はぼくにとって恐い存在だったが、青年期に至り、「父は決してそのような人ではなかった」ことを悟った。
 子供のぼくにとってそれは端倪(たんげい)すべからざることに違いないが、父の細やかで豊かな愛情に、今さらながら「ぼくにはとてもできない芸当だ」と感じ入っている。57歳で道半ばにして急逝したが、ぼくは今も粛然とその白波の教えを金科玉条のように律儀に守り通している。
 そこが、どこぞやの写真倶楽部の「糠に釘」、あるいは「のれんに腕押し」、はたまた「馬耳東風」の人たちとは決定的に異なり、ぼくは今日まで素直で良い生徒であり続けている。
 
 あれから60年近くの歳月が経ち、ぼくは請戸の浜辺を眺めながら、勝浦での想い出を重ねていた。“勝浦”という響きはぼくにとって、なぜか寂しく、物悲しいのだが、あの時の親父の写真指南だけが唯一、今もぼくの気持ちを慰謝し、温めているように思える。

 今回の福島での撮影は、動くものが対象ではないので、いつもとは勝手が異なり、ぼくは少々不安な気持ちに襲われていた。“腕”といってもたかがしれたものだが、それが鈍(なま)ってしまうのではないかという予覚があった。と同時に、「オレは静止物だってちゃんと撮れるのだ」ということを「糠に釘」の人々にキッチリと誇示しておくいい機会だった。「うちのおっさんもなかなかやるもんだ。少しは言うことを聞くか」と、このへんで猛省を促しておかなければならない。指導者とは辛いものだ。

 防波堤に立ち、ぼくは父の教えに従い波の弾ける瞬間を“腕が鈍る”ことのないよう1枚だけ気合いを入れ、神経を集中し、タイミングを計りながら撮ってみた。それが「第184回」で掲載した「14:浪江町請戸」だが、フルサイズの焦点距離16mmという超広角レンズのため白波は遠方に小さく見えるだけだ。普段、カメラモニター完全無視のぼくだが、人目がなかったので、この時ばかりはモニターで拡大して確認を取った。「よしっ、鈍ってない!」。
 
 撮影直後にモニターを見て確認する、という動作はもちろんかまわない。デジタル最大の利点のひとつを現代人は大いに活用すればいい。プロでもほとんどがその動作を繰り返しているのを目にする。ぼくは「職人がそんなことをするのは誠に不細工の極みだ。カッコ悪いよなぁ。ましてや人前で臆面もなく!」と思うから、断固しない。人目を忍んでもしない。したい時もあるが、じっとやせ我慢をする。職人気質といえば聞こえはいいが、無意味な片意地がそうさせるのだ。
 だって、フィルムの時はみんなそういう危機感とある種の重圧感を常に背負って撮影に臨んでいた。デジタルになって最大のデメリットは、危機感の欠如だ。気がユルめば写真だってユルくなる。第一、写真は絶対に撮り直しなど効かない瞬間芸だから、撮る以上は失敗などしてはならない。そういう真摯な意識を以てしても、やはり失敗ばかりするから、どうしても写真屋は口だけがどんどん達者になっていく。誰とはいわないが、「口八丁手八丁」か? いや、「口弁慶」ともいうべきか?
 昨今は、写真を撮るという意識が時代とともにすっかり変わってしまったようだ。

 話をもとに戻して、ぼくはもともと広角レンズ派だが、福島では空(雲)をより効果的に描きたいとの思いから、ほとんどの写真が16〜20mmのかなり極端な画角に収まっている。使用レンズも99%が、掲載写真のデータを見ていただけばお分かりのように16〜35mmのズームレンズ1本のみ。
 雲の表情をどう表現するかでまずレンズの焦点距離を決め(雲の流れる様子は焦点距離により際立って異なる)、主被写体に対しては自分が動くという手順を踏襲している。画面内に於けるキャスティングの妙が上手くいったかどうかはぼくの語るところではないが、脇役あっての主人公である。

 父の想い出に浸りながら、雲の表情をどう付けるかという写真的な難問を解決すべく腐心していたぼくは子守どころではなかった。子守をすべくJさんの姿は、堤防の上から眺めやっても見当たらなかった。瓦礫とともにどこかに埋もれ、気を失っているのだろうと思うと、心置きなく写真に没頭できるので、ぼくの心に僅かな光明が差してきたように思われた。
 そんな時、後発の一人Sさんから「今、富岡町の撮影を済ませ、これからそちらに向かう」と電話がかかってきた。待ち人来るである。「ぼくらも一旦撮影を打ち切り、6号線で落ち合いましょう」と、子守を彼に押しつける魂胆だったので、ぼくの声は心なしか弾んでいた。

請戸地区の写真は後日素晴らしい光のもとで撮影できたので、時系列で掲載する予定。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/186.html

★「01浪江町市街」。人っ子一人いない浪江町市街。区域再編により市街地は「避難指示解除準備区域」となった。写真では分かりにくいが、ほとんどの家屋が歪んだり、崩壊したりしている。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/100秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「02浪江町市街」。撮影した3日後に訪れたら、この家屋は取り壊しのモデルケースとして、撤収作業が行われていた。瓦の家屋の多くがこのように崩れ落ちている。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/125秒。露出補正-1。ISO100。2013年11月9日。

★「03浪江町市街」。街の至る所に地震当時そのままの光景が広がっている。真逆光のため、白飛びを防ぐため露出補正は-3。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/640秒。露出補正-3。ISO100。2013年11月9日。

★「04浪江町市街」。浪江町ばかりでなく、双葉町、大熊町でも大谷石の建造物はほとんどが崩壊している。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/160秒。露出補正-1.67。ISO100。2013年11月9日。

★「05浪江町市街」。この家も実際にはかなり歪んでおり、写真ではさらにその歪みが強調されている。建物の歪みを正しく記録するにはこのような焦点距離(16mm)は適切ではない。ツタを強調し、無人の街であることを優先。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/250秒。露出補正-1.67。ISO100。2013年11月9日。

(文:亀山哲郎)

2014/02/07(金)
第185回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(10)
 浪江町請戸地区に打ち上げられた多くの漁船を見ていると様々な思いが飛び交い、ぼくの頭は許容量がささやかで控え目だから、たちまち飽和状態となり、いつものことながら思考停止となった。

 船員は乗っていたのだろうか? 無事だったのだろうか? どのような状態でここまで運ばれたのか? 引き波にも影響されただろうから、実際にはかなり遠方まで運ばれたのではないか? 津波の高さは? 船主や船員はこれからの生活をどうするのか? 船の保険は? 海上では地震はどのように感じるのだろうか? ここに到来した津波はどんな音を立てていたのだろうか? 色や匂いは? などなど。

 ひとつの物事に絞って思考を巡らしても、すぐそこから枝葉のように疑問が広がっていく。一応は想像や憶測を張り巡らせてみるのだが、畢竟するに真実追究の手立てが得られないので、ぼくは潔くそれを放棄する。そうすると一旦脳みそに隙間ができ、そこへまた次なる疑問が侵入してくる。
 難問が「やっと私の番ね」と、行列に並び待ちくたびれたかのようにひっきりなしにやって来るので、ぼくは暇を持て余すこともできない。ぼくに人気があるわけじゃないことくらいは分かるが、「お客様相談室」の電話は鳴りっぱなしで、けれど、ぼくには相談に乗る義務などないのだ。自作自演を棚に上げて、「油断も隙もなくやって来る相手」にぼくは責任を擦りつけた。そんなこんなで、真空状態のような唖然・呆然とした心地を味わうことすらままならなかった。
 いつものことながら、答えのない自問自答を何度か繰り返していると、ぼくの脳組織はパソコンのハードディスクのように著しく断片化して、鬆(す)だらけとなる。加えて、透過能力に長けた放射線の一種であるベータ線のストロンチウムやガンマ線のセシウム137などに、中身の少ない脳は容赦なく射抜かれていたので、スポンジ状となった脳は血の巡りを極度に悪化させ、たちまちぼくを貧血性錯乱状態に陥らせた。

 だがどうしても、情状を酌量し不問に付したくない疑義がある。それは「音」だ。最も関心を惹く「津波の音」に、ぼくの想像はどうしても追いつかない。咆哮をあげ、うねり狂う水の音は、想像では補いきれないほどのものであったに違いなく、勝手な推量を得意とするぼくの試みを完全に覆い尽くし、葬り去ってしまった。

 多くの津波映像を見て、いつも不満に思うことがある。確かに「音」は記録されてはいるが、音源が遠すぎて抑揚が効かず、いまいちリアリティに欠けるのだ。そこに記録された津波の音声は、広角レンズのように「遠くのものはより小さく、近くのものはより大きく」という具合には表現されていない。あまりにも平坦すぎる。音楽で言えば“クレッシェンド”のない楽譜のようにのっぺりとしている。

 記録された映像では、津波の襲来とともに人々の声調がどんどん高くなり、感情の発露が顕著になっていく。とても生々しく、彼らの声音だけが事実をありのままに伝え、真に迫ってくる。人々の音声録画は、迫り来る津波に素直で正直な感情を刻印付けしている。
 だが、当然のことながら、津波の音声は上記のごとく人々の叫びに比例していない。不明瞭でボリュームがなさ過ぎる。ウーファー(低音部分を受け持つスピーカーユニット)のないスピーカーのようだ。したがって、感覚的に消化不良のおかしな齟齬が生じてしまう。ぼくの聴覚はその矛盾した比例に順応することができず、非常なストレスを感じてしまうのだ。津波の音声は、ぼくを含めた視聴者を現実世界に引き込む絶大な効果をもたらすはずだったが、それがここでは欠如している。
 映像をより効果的に観せるには、音声の強弱は欠かせぬ要素だが、マイクを何本も立てて、音を拾う映画とはそこが決定的に異なるところだ。作りものの映画のほうが、実際の映像より「起こりつつあるその時」を分かりやすく伝えることもある。虚構の世界が現実より多くを語り、人々に強い印象を与える、その一例かも知れない。

 この現象は、動画に限らず静止画のスライドショーなどにも顕著に現れる。スライドショーの鑑賞は、音楽のあるやなしやで、視聴者にずいぶんと異なった印象を与える。音楽は、写真や文学より人間の本能的な部分をより刺激し、喜怒哀楽を高ぶらせ、情緒的に揺さぶる作用を持つ。気分の高揚した視聴者は、モニターやスクリーンに映し出された静止画に個人の感情と解釈を容易に持ち込み、同化したり、異化(ロシア・フォルマリズムの芸術説の一。題材を非現実化・異常化してその知覚過程に注意を向けさせる作用を芸術の特質とした。広辞苑)したりすることができるようになる。感情移入がしやすくなるために、二つ以上のものが混ざり合って新たな見方ができたり、非日常性を際立たせてさらなる認識を得られるようになる。このように音楽(音)は一種の麻薬的な効果をもたらす。

 ぼくは音楽と音を、風景(視覚)と同次元で捉える癖があるので、本来、水に浮かんでいるべき船が、雑草の間をぬうように陸地に累々とその姿を横たえている異様な光景を見て、その因となった津波の音が気になって仕方がなかったのだ。
 その音をぼくは永遠に知ることができないだろうが、今後ここを訪れる人々がさまざまな思いを巡らせることができるように、一区画を歴史の語り部として保存して欲しいと切に願う。日本を襲った未曾有の災害の生ける証人として、震災遺構として、次世代に語り継ぐ義務があると、この異様な風景は語っているように思えた。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/185.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「16浪江町請戸」。浪江町沿岸部は地震と津波による壊滅的な被害を受けた。津波による死亡者数は173人とされているが、まだ行方不明者がいるという。遺族が手向けた香華だろうか? ひん曲がったアスファルトは地震か、津波か。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/100秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「17浪江町請戸」。辺り一帯の木造家屋はほとんどが土台を残して流失。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/40秒。露出補正-0.33。ISO160。2013年11月9日。

★「18浪江町請戸」。漁港で最も大きく、頑丈だったと思われる建造物だが、正確な名称は分からず。アスファルトがもぎ取られて、地面が露出している。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/80秒。露出補正-0.67。ISO160。2013年11月9日。

★「19浪江町請戸」。第183回の「08浪江町請戸」の小舟を反対方向から。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/200秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「20浪江町請戸」。海岸より約200mの辺りで唯一流失を免れた民家。「19」の写真に写っている左の家。庭先より撮影。重たいピアノが横倒しになり、積もったほこりの上には動物の足跡が。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/50秒。露出補正-1。ISO400。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/01/31(金)
第184回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(9)
 昨年6月に来た時同様に、今回も真暗闇の無人地帯である飯舘村を迷子のようにさまよってしまった。1時間はロスしたに違いないが、日本で最も美しいといわれるこの村の景観を、ぼくはまだ見ずにいる。飯舘村を縁なきものと決めつけるにはとても心残りだし、無念至極だ。ヘッドライトに映し出された狭い視野からの想像は、針の穴から全体を推し測ろうとする無謀さに似ている。次回、もし許可が下りればぜひ昼間に訪れたい。
 ここを迷走しながら様々なことが脳裏に去来した。その思いを文筆業でない素人が綴るには、あまりに複雑過ぎて困難だ。気張っても仕方がないので、福島県のいわゆる「立ち入り禁止区域」に足を踏み入れての自身のスタンスとなるキーワード、言い換えればぼくの深層に漂うものや皮膚感覚の正体を一語で片をつけてしまおうと、運転しながらさかんに探し求めていた。
 親しい友人は、「それは無意識のうちにかめさんの写真に定着されるんじゃないの」というけれど、写真は時として言葉よりはるかに雄弁であるに違いないが、しかしそれはあくまで抽象的なものだ。写真屋のぼくが、自身の作品について言辞を弄しながら具象的な文に置き換えること、そんな野暮天はいやだし、第一しらけてしまう。そんなことは通常なら認め難いが、福島をテーマとする限り、他人には不要であっても、自分にはやはり「撮影の立ち位置」として確認しておかなくてはと思えてくる。ぼくの撮った福島は、報道写真でも、ルポ写真でも、記録写真でも、ファインアートでもないので、どうしても、ひとつの定まった概念を意識下に置いておきたい。そのためのキーワードが必要なのだと。なにしろ、すぐに軸のぶれる男だから。

 少なくともそれは、原発再稼働や脱原発の問題ではなく、また放射線云々の問題でもなく、事故の直接的な原因とその究明や責任問題ともかけ離れたところにあることは確かだ。それらは重い問題であるには違いないのだが、たかだか1週間とはいえ、現地の空気と肌を直に擦り合わせたぼくにとっては、些末なことに思えてしかたがない。それらの問題は取り敢えず隅に置いて、他に斟酌商量して止まないことがあるように思える。
 今のところ差し当たり、キーワードは唐突と思われるかも知れないが(実のところ“唐突”ではないのだが)、「生け贄」とか「供犠(くぎ)」、「人身御供(ひとみごくう)」である。日本語だと生々しく響くので、あまりカタカナ用語を使いたくはないが、外来語の「サクリファイス (Sacrifice)」などに置き換えた方がどことなくしっくりする。この言葉が通奏低音のようにぼくの主題を即興的に補足していたのは事実だ。

 東北地方の文化やその佇まいに心情的愛着をこよなく寄せ、感じ取ってきたぼくだが、原発事故がなければ福島県の浜通り地域を訪れることはなかっただろう。郷土愛の極めて希薄なぼくは、この地域に初めてやってきて、会ったこともない人々や風景に共感と私愛ともいうべき感情を抱いた。
 「ここならぼくも郷土愛に目覚め、郷土とともに生き、そして死ぬのだ。ここに骨を埋めてもいい」と、60半ば男の、勝手な侵入者の言い分としてはちょっと穿ち過ぎのような気もするが、かつてカフカーズ地方のグルジアで同じ思いに浸ったことを思い出す。
 浜通りで生まれ育ち、地方特有の色濃いコミュニティの狭間に揺られ、絶ちがたい愛憎の念を持ちつつも、懸命に生を営なんできた人々は、歪み、腐敗した資本主義のまさにサクリファイスであって、それがこの地の土を蹴り、雑草を踏み、空気を吸ったぼくの偽らざる実感でもあった。

 ぼくは今、どうやって2日目に入ろうかと悩みつつ、立ち往生している。話の取っ掛かりがつかめない。困った!

 7時間の睡眠を取ったぼくは、洗顔中に体の潤滑油が回り始め、とたんに空腹を覚えた。しかし、朝食のバイキングなるしきたりが大の苦手で、腹を減らしたJさんをホテルの外に引っ張り出し、向かいにあるコンビニに餌を求めて進撃。おにぎり、サンドイッチにペットボトルを買い込み、駐車場に止めた車内でのどかに朝食を済ますことにした。「明るい農村の風景」というわけだ。
 昨夜、引きつっていたJさんの顔は、車内朝食に嬉々としているように見えた。おにぎりを包んだセロファンを素早く引きちぎり、乾いた海苔をバリバリと音を立てて食み、時々米粒を飛ばしながら脇目も振らず食に没頭。彼女に限らず、飢えた女性は容易に行儀作法をうっちゃるものだということを、ぼくは撮影の度に、いつでも、どこでも目撃している。そんな時、彼女たちの目つきは餌を奪われまいと異常に鋭い。どんなにお淑やかな女でもだ。
 Jさんは父親がアメリカ人、母親が日本人のハーフだが、顔立ちは80%がとこ白人種であるから、なおさら餌に向かう様は猛禽類のように鋭い目つきとなる。

 衣食住足りた我々は、浪江町の「避難指示解除準備区域」に再編された請戸地区を訪れた。東日本大震災の痕跡を未体験の彼女に、まずは復興の手が入っていない地震と津波の被害地を見せておこうと思った。ここは放射線量が低く、他人を連れて行く身としては比較的安心していられる。福島に来る前に、「Jさん、君だけは若く、しかもトンチキだから、ぼくが徹底的に放射線の管理をする。それでいいね。言うことを聞くんだぞ」と厳しく、鋭い目つきで申し伝えておいた。
 請戸地区への入口はバリケードが築かれ、検問を通らなければならない。許可証を見せ、通りを行くとやがて崩壊した家々が道の両脇に見えてきた。下車した彼女は再び昨夜のように顔を引きつらせ、黙りこくってしまった。ここで、バッタなぞ飛び出してきたらぼくはお手上げだ。とても管理どころじゃない。ともあれ、子守をしながらの撮影という未体験ゾーンにぼくも突入したのである。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/184.html
  <番号は前回からの通しナンバー>

★「11浪江町請戸」。検問を通過し3分も走ると道の両脇に地震と津波に襲われた家並みが立ち並ぶ。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf10、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。2013年11月9日。

★「12浪江町請戸」。打ち上げられたままの漁船。今年から帰還準備のため、解体・撤収作業が始まるという。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/125秒。露出補正ノーマル。ISO200。2013年11月9日。

★「13浪江町請戸」。道路標識と電柱が逆の方向に倒れている。押し波と引き波の作用によるものだろうか。太陽を入れての真逆光撮影。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/800秒。露出補正-1.67。ISO100。
2013年11月9日。

★「14浪江町請戸」。海岸間近。頑丈な堤防が至るところで破壊されている。魚市場を守るためには一体どれほどの高さの堤防が必要なのだろうか。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/500秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「15浪江町請戸」。「14浪江町請戸」の立ち位置から階段を下りたところに流れ着いた車。どこから来たのか、なかに人がいたのかどうか、何も分からない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/200秒。露出補正ノーマル。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/01/24(金)
第183回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(8)
 夕刻5時過ぎにぼくは宿舎である平屋建てのホテルに無事チェックインした。前回6月にもお世話になったホテルだ。6号線沿いにあるこのホテルは、津波の被害こそ免れたものの、地震による損害をかなり受けたという。改築のせいもあってか、こざっぱりしていてぼくはとても気に入っている。観察するところ、前回同様、泊まり客の大半は長期滞在の復興作業員とか除染作業員のようで、要するにおじさんばかりであるから、嬌声とは縁遠く、ホテル内の雰囲気はどこかしっとりと落ち着いている。ぼくも半ジジィの純粋なる肉体労働者なので、共感もあって(ぼくが勝手に共感しているだけらしいが)、極めて居心地がいい。ぼくの旅行は常に仕事と同居している故、華やいだ観光客の姿は目の毒であり、しかもノイジーだからかなわない。まぁ、多少のやっかみもあるのだが。
 食堂のおねぇさんの話によると、相馬野馬追祭り(重要無形民俗文化財)の季節には見物客で賑わうのだとか。したがって、7月の相馬地方はぼくにとって鬼門である。

 ベッドで一伸びしてから、今日の出来事をメモするのがぼくの旅の習いでもある。メモを取ってから、「今日一日、いろいろなことがあったけれど、不思議に疲労感はないなぁ」と独りごちて、後発隊のために借用した放射線線量計の充電をタコ足配線で始めた。
 ガムを1枚噛んだだけの、まったく飲まず食わずの一日だったので、とたんに空腹感を覚え、食堂に駆け込んだ。午後9時過ぎに、我が倶楽部の同胞が一人、新幹線で福島駅に到着し、ぼくは元気なレンタカーを駆って、迎えに行かなければならない。空きっ腹は「ビールをよこせ!」とさかんに叫ぶが、ぼくはその欲望をなだめすかし、口から泡を吹きそうになりながら忍従しなければならなかった。これが本日最大の難事だった。

 福島駅まで、飯舘村、川俣町の山中をすり抜け、63kmの道のりを1時間15分で迷うことなくぼくは完走した。途中、南西の空にはおぼろげな半月が山の稜線に見え隠れしていた。飯舘村で5分ほど車から降り、薄雲のかかった、あやふやで頼りない月の姿を眺めた。色温度が低く、やや黄色を帯び、輪郭が水でふやけた指紋のようにゆらゆらと見えた。停車中のその情景を、ちょっとロマンチックに語りたいが、 実はホテルでビールの腹いせに珈琲を4杯も痛飲したので、軽犯罪を犯すことになってしまった。ロマンチックな情景とは到底言い難い。11月の山中はかなり冷え込み、立ちのぼる湯気で、月はさらに霞みつつ揺れた。というのは事実に反しており、シベリアじゃあるまいし。
 厳冬期のシベリアでは吐く息も、お小水のそれも、瞬く間にダイヤモンド・ダストとなり、キラキラと光輝きながら、我が身に降りかかって来る。これはホントの実話(変な日本語)。体温と同じ温度の放水がたちまち凍り、地と自身を結ぶ「氷のかけ橋」になるというのは架空のもので、想像としてもありてい過ぎて面白味に欠ける。実際はこんなことに、なりはしない。
 彼の地でこれを実験するのは並大抵のことではない。-42℃のなかでグローブのような手袋を2枚脱ぎ、素手で3枚履いた毛皮のズボンの間からナニを引っ張り出すわけで、このチン事を想像していただきたい。毛皮を何重にも着込んだその姿は、まるで機動戦士ガンダムのようであり、漫画のガンダムは器用に用が足せるのだろうか? と厳寒の雪原で死の恐怖に怯えながらぼくは考えた。そんなぼくを見て、笑い飛ばす白熊のようなロシア人は、やはり同じ人間ではない。とにかく、科学的探究心に燃えた男子は大変だったのだ。

 福島駅でJさんを出迎え、帰路ぼくはカーナビの電源を入れた。助手席のJさんと写真について話し込んでいるうちに、どこかで来た道を間違えてしまったらしい。おぼろ月はすっかり姿を消していた。行けば行くほど辺りは黒の濃度が増し、「人家途絶えて久しからず」という状況に変化していった。往路と同じ道でないことはすぐに感じ取ったが、何はともあれ、とにかく東進すればいい。「すべての道はローマに通ず」というではないか。
 真っ黒の墨汁が降りかかり、車を包み込んでいくさまに、Jさんはだんだん口数が減っていく。彼女にしてみれば前人未踏、最長不倒の確信的暗闇に違いない。バッタが道に飛び出したくらいで、ギャーギャーと雄叫びを、失礼、雌叫びを上げる人だから、いずれ恐怖のあまり前後不覚の悶絶状態になるに違いない。山中の曲がり曲がった道に方向感覚を失ったぼくは、カーナビを頼りにひたすら東へ。
 突然彼女は、「飯舘村だぁ。今の看板にそう書いてあった」と、気を失いつつもつぶやき、まだ視覚だけはなんとか持ちこたえているようだった。近い将来、写真屋になるという彼女の行く末をぼくは案じた。写真屋が恐怖に無神経であってはまずいが、繊細であるのはさらに困りものだからだ。
 「この道はもしかしたら、バリケードが築かれており通行できないかもね。まぁ、行ってみましょ」とぼくは現実的な予測を引きつるJさんに伝えた。ヘッドライトの反射光に照らし出された彼女の顔は少し歪んでいるように見えた。ぼくの言葉に相づちを打とうと口元が突っ張っているようだった。まだ気を失ってはいない。気丈に振る舞おう、弱みを見せてはならないと踏ん張っている様子が、ぼくを愉快な気分にさせた。
 予測通りヘッドライトに金属のバリケードが照らし出された。「帰還困難区域」につき通行止めだ。カーナビにはバリケードまで示されていない。やっぱり役立たずのカーナビ。「すべての道はローマに通じていない」。
 ぼくは狭い山道をUターンし、来た道を引き返した。3分も走ると屋根に赤いライトを点滅させながらパトカーが対向からやって来た。ぼくは運転席の窓を開け、手を振りパトカーに静止を求めるという一世一代の晴れやかな姿を演じた。実に堂々としたものだったと記憶する。静止を求められたことは過去に何度もあるが、権力に対しての能動はちょっとばかり気分がいい。しかし、すぐにへりくだって、「道、教えてちょうだい」と、この日2度目の揉み手をしてしまうからいやになる。お巡りさんはぼくのカーナビを覗き込みながら、親切に教えてくれた。助手席に座った失神まがいの彼女の顔が少しほころんだように見えた。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/183.html
  番号は前回からの通しナンバー

★「06浪江町請戸」。浪江町請戸地区は、丘に打ち上げられた多くの船があちらこちらに点在している。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16~35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/80秒。露出補正ノーマル。ISO100。2013年11月9日。

★「07浪江町請戸」。請戸漁港の建物に、半分に折れた船が挟まっている。いかに凄まじい津波の威力だったか。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/100秒。露出補正-0.33。ISO160。2013年11月9日。

★「08浪江町請戸」。本来、船の浮かぶような場所でないところに佇む小舟。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/60秒。露出補正-0.33。ISO160。2013年11月9日。

★「09浪江町請戸」。請戸漁港の施設。頑丈な鉄骨が歪みながらも倒壊を免れている。周辺の建造物はほとんど跡形もなく流失。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/60秒。露出補正-0.33。ISO160。2013年11月9日。

★「10浪江町請戸」。この辺りは田んぼだったのだろうか。ひしゃげた農耕機具があちこちに散乱している。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/200秒。露出補正-0.33。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/01/17(金)
第182回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(7)
 20年以上もエンストという不幸にぼくは見舞われたことがない。几帳面に整備などしていないにも関わらず、エンジンがかからないという不具合とは長い間、縁がなかった。ぼくにとって「エンスト」は死語に近いといっていい。それが選りに選って、こんな所でエンストしてしまったのだから、世間様の仰せに従えば、「お前の普段の行いは相当悪く、その報いがとうとうやってきたのだ。それを天罰という」と、しかつめらしくいわれるのだろう。鼻をふくらませながら得意気にはやし立てるに違いない。
 エンスト時、ぼくはお気楽人間だからほとんど危機感を持たなかった。JAFは、さすがにここまでは来てくれないだろうが、どうしてもエンジンがかからなければ、この地は現在、人口密度ならぬパトカー密度が日本一高い場所なので、警察に連絡を取ればなんとかなると踏んでいた。昨年6月に来た時はパトカーだらけだったが、今回は以前ほどではないように思える。しかし、6号線に3分も突っ立っていれば、必ず1台は通る。
 ここでの宿泊は一時帰宅者にも禁じられており、また滞在時間の制限もあり、ぼくのエンストは意図的なものではなく不可抗力なのだから、したがって、警察はお咎めなく救い出してくれるだろうという計算があった。そんな思いを抱いていたので、のんびりとカメラをぶら下げ撮影に余念がなかったのだ。
 ただ、どうしても5時15分までに南相馬市にある浪江町役場の出張所に出向かなければならなかった。後発の人たちのために線量計とGMサーベイメーターをいくつか借りる予約をしておいたからだ。当日は金曜日だったため、この日を逃すと月曜日まで後発隊は手ぶら状態となってしまう。線量計が放射線を防ぐわけではないが、防ぐ手立てや科学的な目安を失うことになってしまうので、一応のガイド役であるぼくは、なんとしても借用しておかなければならなかった。

 そんな事情を抱えていたので、エンジンのかかった車が再び機嫌を損ねぬうちにと、ぼくは脇目も振らず6号線を北上し、まっしぐらに南相馬市に向かった。距離にして20kmほどだろうが、交通渋滞がないのでずいぶん近く感じられた。南相馬市に入り、出張所を探すために近辺をうろうろしていたら、エンジンが「もうあきまへんわ」と関西弁でうなだれながらいい、急に力なく咳き込み始め、そしてウンともスンともいわなくなった。力尽きて、よろよろと路肩にしなだれるように止まってしまった。「万策尽きた」と思いきや、その場所がなんとレンタカー店の真ん前だった。ぼくは運転席で思わず腹をヒクヒクさせながら、「こんな好都合な巡り合わせって現実にあるのだろうか。まるで嘘っぽいドラマの筋書きみたいだ。“事実は小説よりも奇なり”というが、ホントにこういうことがあるんだなぁ」と、出来過ぎの展開がにわかに信じ難く、この奇跡的な物語をしみじみと味わうべく煙草をくゆらせた。

 レンタカー店の受付嬢に事情を説明しながら、「おたくは商売上手だね。まるで巻き尺で計ったかのように、御社の車の出入りの邪魔にならぬ位置で、ピタリとぼくの車は止まったんだよ」と車を指さしながら標準語でいうと、「あらっ、ホントホント、なんて運がいいんでしょうね。手品か魔法みた〜い」とぼくの顔をしげしげ仰ぎ見ながら福島訛りで嬉しそうに答えてくれた。ぼくは、「運がいいんじゃなくて、普段の行いがいいからですよ」とはいわなかった。

 レンタカーを借りたぼくは何年ぶりかでカーナビというものを操作してみた。出張所はすぐに分かり、線量計などを借り、ふと気がついた。ぼくの立ち入り許可証に記された車のナンバーと車種は、エンストしたものだから具合が悪い。出張所のごま塩頭のおじさんに事の次第を話し、どうしたものかと相談を持ちかけた。申請した車とは異なるので、そう簡単に許可証は下りないだろうが、ダメでもともとという気持ちもあって、ぼくはごま塩氏に愛顧調に揉み手をしながら迫ってみた。
 「二本松市にある仮役場に問い合わせてみますので、ちょっとお待ちください」とごま塩氏はやはり福島訛りでいった。待つ間、ぼくは震災時や現在の浪江町、南相馬市についての取材を出張所のおじさんたち相手に試みた。元編集者とはいえ、編集業を離れて長い歳月を経るうちに、ぼくは「余計なことは訊ねない」という姿勢を身につけていたので、どこかぎこちない。今回の旅はできるだけ地元民の話を訊くことを念頭に置いていた。無人地帯に行くのだから、実際には南相馬市に限られてはいたが。
 10分も経たぬうちに許可証の照会が済み、すぐに新しいものを渡してくれた。許可証にはレンタカーのナンバーと車種がプリントされていた。お役所の融通はちょっと予想外だっただけに、なぜかとても嬉しく、ありがたかった。ぼくは丁重に頭を下げた。

 3つの難事を無事やり過ごしたぼくは足取りも軽く、今度は6号線を12,3km南下し、気になっていた桃内駅に行ってみようと考えた。陽は西に傾きかけており、ぼくの好きな時間帯だ。シャドウとハイライトが際立つので、フィルムでは様々なテクニックが必要だが、その点デジタルは露出さえ間違わなければ
イメージ通りの絵が得やすい。30分ほど経ったら陽が沈んでしまったので、撮影を打ち切り、宿舎のある南相馬へ戻った。道すがら、レンタカー店を通過した。店の前に放り出したままの我がポンコツ車の姿はすでになく、メーカーに引き取られた後だった。
 ぼくのカーナビ付きの元気なレンタカーは、この夜、真っ暗闇の山中をさまようことに・・・。嗚呼、またしても!

 今回、時制に合った写真は桃内駅だけで、それはすでに前回掲載してしまったので、話は前後するが、翌日午前中に訪れた浪江町請戸地区の写真を掲載することに。ここは地震と津波に襲われた地域で、放射線のために現在住民はまだ帰還できない。区域再編により「避難指示解除準備区域」(年間20mSv以下。空間線量3.8μSv/h)となっている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/182.html

★「01浪江町請戸」。津波に襲われ1階部分は完全に流失。海岸より約500m地点。逆光なので、露出補正により太陽の大きさを決める。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf13、1/500秒。露出補正-2.67。ISO100。2013年11月9日。

★「02浪江町請戸」。地震と津波により家がよじれている。海岸より約2.5km地点。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/100秒。露出補正-0.33。ISO100。2013年11月9日。

★「03浪江町請戸」。津波により押し流された車がぐしゃぐしゃにひしゃげている。海岸より約1.5km地点。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf7.1、1/400秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。

★「04浪江町請戸」。橋が飛ばされ、橋げたも倒壊。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/125秒。露出補正-0.33。ISO100。2013年11月9日。

★「05浪江町請戸」。流された漁船があちらこちらに散らばっている。海岸より約1.5km地点。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/400秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月9日。
(文:亀山哲郎)

2014/01/10(金)
第181回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(6)
 新年の仕事始めは撮影でなく、某出版社の依頼による原稿書きだった。写真屋がおかしな話だ。新年からちょっと複雑な心境。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて中央アジアを学術調査、探検をしたスウェーデンの地理学者スヴェン・へディン(1865〜1952年)の話を、ちょうど半年ほど前に編集者に語ったのがきっかけだった。編集者にいわせると、「その時のかめさんは“少年のような眼差しで”(彼の言葉のママ)へディンの『中央アジア探検紀行』やチェリー=ガラードの『世界最悪の旅』を熱っぽく語った」のだそうだ。彼は都合の悪いことに、その時のぼくの熱気を覚えており、3000字で『中央アジア探検紀行』の概要を書いてくれといってきた。編集者なら自分で読んで、書けばいいじゃないか。近頃はそういうお手軽編集者、ジャーナリストが多いのではないかとさえ思える。チェーホフの名さえ知らない関係者がいて、ぼくはひっくり返った覚えがある。知っていればいいということではないが、世の中がその安直な循環を許している、そんな風潮が蔓延しているのだろう。
 ぼくが彼に語ったのは半年前のことなので「そんなこといったっけ?」というぼくのおとぼけ的かつ恣意的な手法は使いにくく、悲しいかな原稿料に目がくらみ(くらむほど高くはないのだが)、仕方なく安直に「はいよ」と引き受けてしまった。人は自分に都合の良いことは、かなり正確に記憶しているものらしい。都合の悪い人間は忘れたがっているのに、報酬で相手を自分の思い通りに動かそうとする人間は、やはり概ね「良い悪人」ではなく「醜い悪人」といえる。写真屋が、手隙で専門外のことに手を出し金銭を得ようと企むのは、職人を自負している限りさらに悪質である。

 初めてヘディンの書に接したのは高校時代で、今手元には黄色に変色したそれ(白水社刊1964年発行)がある。その後、学生時代にドイツ語の本と照らし合わせながら再読。ぼくはそのくらいのめり込んでいたのだろうが、探検家や冒険家に憧憬を抱くことはまったくなかった。ぼくの興味は、知らぬ世界を文章で見せてくれることと、それを伝えてくれる彼らの探究心および知的情熱に限られていた。だから、南極一番乗りを果たしたアムンセンより、二番乗りのスコットのほうを、探検家の人的資質としてずっと高く評価している。

 そんな効能書きとはまったく関係なく、今回は大熊町でのハプニングについてのお話。

 双葉病院を撮った後、かつて鉄道少年だったぼくは線路を見たくなった。踏切や駅はいつの時代でもぼくを特別な感情と情趣に誘ってくれる。夜行列車に乗った時に、過ぎ行く踏切の警報音がドップラー効果により低くなり、どこか哀愁を帯びて響き、乗客のさまざまな思いを乗せて走り去って行く。素晴らしい旅情である。あの得もいわれぬ情感は誰しも経験するところではないだろうか。暗闇の中で、外の光景や世界を思い起こしてくれる唯一のものが踏切の警報音とレールの継ぎ目の音だ。その音を聞くたびに「彼らは大した役者だ」とぼくは思う。そこに住む人々と休戚(きゅうせき)を共にし、妙に感傷的な気分に浸ってしまうから不思議だ。したがって、踏切が多いとぼくは忙しい。余韻を味わいながらも、時として情致に溺れそうになることもある。
 これがぼくの日常的な感覚であるとすると、深い傷と憂愁に閉ざされているこの地の閉じることのない踏切や真っ赤に錆びついたレールは異なった感情を呼び起こすものなのかどうか、いや、異質な何かがあるに違いない。そう思うと居ても立ってもいられず、勘に頼って踏切へまっしぐら。

 2011年3月11日午後2時46分まで、この町の踏切は警報音を鳴らし、ピカピカに光ったレールの上を幾万の人々が列車に乗って往来していた。ある瞬間にすべてが途絶えた。
 踏切を見つけたぼくは道の真ん中に車を放り出し、駆け寄った。往来の途絶えた無人地帯だから、どこに車を止めても駐車違反の切符を切られる心配がない。おかしな言い方をすれば、ぼくは放射線に打たれながらもささやかな解放感に浸った。この地上で生を営んでいるものは自分だけかも知れないという“曰く言い難し”の感覚だ。駐車違反の恐れがないと、あるいは他人のお咎めがないと、人は計らいやおもんぱかりを失う。
 ぼくは計らいと正気を取り戻し、車を寄せようとキーをひねった。セルモーターは威勢良く回るがエンジンがかからない。誰かにセルモーターを回してもらい、プラグが点火しているか一人なので調べようがない。いつまでもセルモーターを回し続けるとバッテリーが上がってしまう。そうなったら元も子もない。「燃料ポンプがへたばっているのかも知れない。30分間待ってみよう。そうすればかかるかも知れない」とぼくは車を上下に大きく揺すりながらとっさに根拠のない判定を下した。「JAFはここには来てくれないだろうなぁ」と付け加えた。「この高放射線量下、孤立無援で車中一泊ってのはちょっと気味が悪いが命を奪われるわけではないし。心配して埒の明くことじゃないから、とにかく30分間撮影しよう。オレ一人でよかったなぁ」と再び付け加えた。
 本心を語れば、この出来事は意図したことではないので(まさにハプニングで、先が見えない)、自身の心境の変化をかなり冷静に見つめることができる機宜を得たと感じた。災い転じて、というところである。
 踏切を撮り、ここに来る時に気になった自販機(第179回掲載写真「03 大熊町」参照)をもう一度、今度はカラーのイメージに添って撮りたかったので1km余の道のりを歩いて戻り、自販機を前にして「ああでもない、こうでもない」とつぶやきながら、取り敢えず撮ってみた。「取り敢えず写真はダメ」といつもいっているくせに。
 自販機を撮り終えて時計に目をやるととっくに30分を経過していた。エンストした車はすっかり忘却の彼方。せっかくの機宜を棒に振ってしまった。ぼくはかなりのお間抜けなお人好しだということだけが判明した。車に近づきながら「エンジンは必ずかかる」と願を懸け、キーをひねると「ブルルンッ」と安堵の響き。ヘディンやスコットどころか、やっぱりぼくは探検家には絶対に向いていない。運を天に任せることしかしない人間は必ず遭難するものだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/181.html

★「01大熊町踏切」。エンストした車を放置し、かつてこの町にもいた鉄道少年に思いを馳せる。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf8.0、1/100秒。露出補正-0.67。ISO100。2013年11月8日。

★「02大熊町踏切」。真っ赤に錆びたレールとそれを覆う雑草群。踏切上に立つ雑草が物悲しい。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf11、1/80秒。露出補正-1。ISO 200。2013年11月8日。

★「03大熊町自販機」。飲料水も煙草も自販機に入った当時のままなのだろう。中の金銭も奪われた形跡は見られない。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/80秒。露出補正-0.33。ISO 100。2013年11月8日。

★「04常磐線桃内駅」。もともと無人駅の南相馬市桃内駅。ここは「帰還困難区域」ではなく「避難指示解除準備区域」であり、南相馬市からであれば許可証がなくても立ち入ることができ、写真は比較的多く見られる。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/50秒。露出補正-1。ISO 250。2013年11月8日。

★「05常磐線桃内駅」。地震によりレールが曲がっている。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8.0、1/50秒。露出補正-1。ISO 200。2013年11月8日。
(文:亀山哲郎)

2013/12/20(金)
第180回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(5)
 前回6月に訪れた時に、ぼくの感情を最も強く支配していたものは恐れと義憤だった。11月の再訪に向けて、この正体を詳細にわたって突き止め、理解し、解きほぐしておこうと、さらに多くの書物や資料を漁った。そのなかには、福島原発事故がなければ、そして自身がこの地を撮影するに至らなければ、おそらく生涯縁がなかっただろうと思われるユーリー・I・バンダジェフスキー著『放射線セシウムが人体に与える医学的生物学的影響』(久保田護訳 合同出版)をはじめとする関係類書にまで手を伸すことはなかっただろう。門外漢であるぼくが読まざるを得なかったのは、感知と自身の合意をどこかで取りつけておく必要があったからだ。

 今回の旅は、前訪問時に抱いていた恐れと義憤に取って代わり、ものの善悪について深く考えさせられた。「ものの善悪」なんて宗教や哲学ではあるまいし、考えることはあってもぼくが公に語れるようなものではないことは承知している。第一、「ものの善悪」や「善人・悪人」を誰がどう定義し、判定するのか。果たしてそれが人間に可能なことなのだろうかということからして、ぼくはつまずいてしまう。人間を創り賜うたものが神であるのなら、神こそ最大の過ちを冒したとぼくは断じるが、そんな非科学的な飛躍はさておき、「原始の火」を灯した人類は、「原子の火」というとてつもなく巨大で、自分で始末できないものを生み出し、その道しるべさえ分からず、ぼく同様つまずいている。「原子の火」は悪だろうか?
 原子の火は、物理的に一旦暴走を始めると制御不能であり、そしてそれは人間の欲望にも火を灯し、挙げ句、果てしない欺瞞を誘い、その暴走を許している。原子力(核)は人間の理性と良心を蝕み、人が人としてのあるべき容姿を完全に葬ってしまった。原発事故という未曾有の人災にあって、人間の理知とはそれほどモロく崩れ去る、つまり人間の欲得がこれほどまで露わに表出・顕現するものなのだろうかというのが、現地で得たぼくの実感である。悪霊の化身が辺り一帯を徘徊している。その姿はぼくにとって、書物や報道からはなかなか可視化しにくい。
 そしてまた、ぼくは良心のあるなしで、善悪を定めたがっている自分がいることにも気づいている。人間らしさの欠如=悪人というわけだ。

 ぼくは10数年前まで「性善説」を頑なに信じてきた。青臭い時代(純朴な時代?)が半世紀も続いた。悪人に出会ったことはないし、未だにないと思っている。とても仕合わせである。今、「性悪説」を取るまでもなく、では、どうして義憤に駆られたのだろうか? 原発事故により廃墟と化した町、問答無用とばかり住み慣れた土地から引きはがされた人々。その大罪を犯した人々に対しての義憤と片付けてしまえば事は済むのだろうか?
 倫理・道徳・法に背き過ちを冒した者は、即ち悪人なのだろうかという疑問がむくむくと頭をもたげる。だとすれば、ぼくも悪人であり、あなたもそうだ。世の中は悪人だらけである。世の中の大半は「良い悪人」であり、一方で「醜い悪人」がいる。二分化をしてしまえば、ぼくも少しばかり溜飲を下げることができるのだが、それもなかなか難しい。震災の被害が深刻化したり、長期にわたると、普段無関心であった人が、テレビや週刊誌の言説に従って、いきなり声高に「許すまじ!」と吠え出す。悪人とはいわないが、醜悪である。
 原発推進を謳えば非難され、脱原発を叫べば圧力を受けたり、バッシングの憂き目に遭う。人はどんどん居場所を失いつつある。あらぬ汚名を着せられることもある。
 あららっ、こんな着地点のない話をダラダラとしていると、これだけで連載5回分くらいは費やしてしまう。ぼくも「双葉病院」の話がいつ始まるのかと気が気でない。

 大熊町の双葉病院事件はさまざまな要因が絡んで起きた事件である。双葉病院は原発から4.5kmの位置にあり、地震発生時(2011年3月11日午後2時46分)、双葉病院とその関連施設であるドーヴィル双葉の患者合わせて436人が寝泊まりしていた。患者の平均年齢はおよそ80歳で、認知症や精神障害をかかえ、歩行困難な患者が多数いた。電気、水道が途絶え、寒さと暗闇の中で医療従事者と患者は、目に見えぬ放射能の恐怖とともに過ごさなければならなかった。その光景は患者を守る凄絶をきわめた戦場でもあり、まさに阿鼻叫喚の巷と化していただろう。
 避難がスムーズに行われず(救出は5回にわたった)、全員が救出されたのは事故から5日も経った16日だった。その間、搬送中、避難所、避難先の病院で50名が落命した。
 3月12日、1号機水素爆発。14日、3号機水素爆発。15日、2号機圧力抑制室損傷。双葉病院からすぐ近くにあるオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)では、14日屋外で800μSv/h、15日2000μSv/hを記録している。とんでもない高線量である。
 原発から半径5km圏内にあるすべての医療施設は、12日には避難が完了したが、双葉病院だけが取り残され、救助が遅れに遅れた。

 福島県災害対策本部は正確な情報を把握できず、指揮系統も曖昧で、コントロールタワーとしての機能を果していない。そして、自衛隊のちぐはぐな救出作戦も災いしていた。14日、猛烈な高線量下、自衛隊の輸送支援隊長は双葉病院職員の車を借用し、そのまま姿を消すという珍事まで起こった。車は最後まで戻ってこなかった。珍事と笑えるような話ではない。

 17日、福島県災害対策本部の救助班長を務めていた保健福祉総務課長がプレスリリースで、「双葉病院には、病院関係者は一人も残っていなかったため、患者の状態は一切分からないままの救出となった」と発表した。救出すべき患者を残したまま医師たちが逃亡したので多くの死者が出たとの報道発表文にメディアは飛びつき、裏付けを取らず鵜呑みにしたまま、トピックとして発表してしまった。「患者置き去り事件」として、この誤報はまたたく間に日本を席巻した。
 双葉病院院長をはじめ医療スタッフは職業倫理に従い、隣り合わせの死とともに最後まで職務を誠実に遂行した。

 というのが「双葉病院事件」の非常に大雑把なあらましである。ぼくはこの病院の前に立ち、「双葉病院事件」に係わったそれぞれの立場の人々について「ぼくだったらどうしたか?」を考えていた。救世主のような善人面をするのか、醜悪な悪人になってしまうのか、いずれにしても義人とは縁がなさそうである。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/180.html

★「01双葉病院東病棟」。震度6強の地震が浜通り(福島県の太平洋沿いの地域)最大の病院を襲った。建設当初より強い地震を想定し、鉄筋がより多く使われ、倒壊を免れている。電気・水道の途絶えた病院は重病人をかかえ、寒さ対策に苦渋した。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf10、1/50秒。露出補正-1.33。ISO125。2013年11月8日。

★「02双葉病院」。一時的に雲が晴れる。中央管理棟(右)と東病棟(左)。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/50秒。偏光フィルター使用。露出補正ノーマル。ISO 200。2013年11月8日。

★「03双葉病院玄関」。双葉病院の玄関からガラス越しに撮った内部。当時の大混乱がそのまま残されている。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/2秒。露出補正-0.67。ISO 400。2013年11月8日。

★「04双葉病院西病棟」。3階建ての西病棟は強い地震で屋上の貯水タンクから大量の水が流れだし、水浸しとなった。看護スタッフは水に浸されていないこの部屋にマットと布団を敷き、蝋燭を頼りに怖がる患者を寝かしつけた。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/20秒。露出補正ノーマル。ISO 640。2013年11月8日。

★「05双葉病院西病棟」。同上の部屋。インフラの断たれた看護・治療がどれほどの困難を極めたか。それに加え原発の恐怖が加算された。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf9.0、1/25秒。露出補正ノーマル。ISO 640。2013年11月8日。
(文:亀山哲郎)

2013/12/13(金)
第179回:福島県「立ち入り禁止区域」再訪(4)
 「富岡町を出てやっと次の地点に行くのかなと思ったら、逆戻りをして結局まだ富岡町あたりをふらついている。時制も逆になっている。どうしてかめさんの文章はこうなっているのか? “まだ富岡を出られないでいる”って、読んでいて大笑いしちゃったよ。いつになったら『立ち入り禁止区域』に入るのさ」と友人に揶揄されてしまった。しかし、このようなことをわざわざご注進に及んでくれるのは奇特な人といわざるを得ない。“奇特”とは、優れた意味で使用するのが正しい使い方で、しばしばネガティブな表現として用いられるが、それは誤用。したがって、揶揄などといっては罰が当たる。
 「映画だって、時制をさかのぼり突然過去の場面が現れることがあるでしょ。それと同じ手法だ。ぼくだってちゃんと計算づくで書いているんだよ」と精一杯の弁明を試みた。実をいえば、それはあからさまな嘘で、ぼくはそんな手の込んだことはまったく考えていない。いつだって、思いつくままに書くから、結果としてそうなるだけ。所詮はアマチュアに過ぎない。
 ぼくは少し意地になり、こう続けた。「次回は(今回)、さらにさかのぼって広野町と楢葉町にまたがって立地するJヴィレッジについて書こうか。今回の第一訪問地はここだったからね。原発事故当時から今年6月まで、ここは事故の対応拠点となっていた。そのJヴィレッジを2周したけれどぼくの眼鏡に適った被写体はなく、“うん、いい! 美しい!”とつぶやいたのは小用に立った際の便器だけだ。今回の旅の第1 カットは埃だらけの便器だった。恐怖に青ざめた人々全員が、この世の終末を頭に描き、体をブルブルと震わせながら頻繁に放水した便器だ。その話を書いてしまうと、便器の写真を掲載しなくてはならなくなる。ちょっと気に入った写真なんだけれど、そこにぼくが自作した物語はあっても、便器自体は福島県である必然性がない。それはここで発表する写真じゃないしね。それこそ、読者諸氏に揶揄されちゃうよ。“便器の撮り方”なんてね」。

 富岡町の仏浜交差点から国号6号線を約2.5km北上すると、検問所に差しかかった。信号機の下には「富岡消防署北」と記してある。ここから北側の検問所である浪江町高瀬までの約15kmが通行禁止(6号線)の「立ち入り禁止区域」、いわゆる「帰還困難区域」となる。6号線のこの区間は横道に入れぬように何処も厳重なバリケードが築かれている。
 富岡町の検問所は多くの警察官や係員に厳重に管理され、国境警備隊の管理する入国審査に似ている。まるで国境越えの気分だ。昔なら関所越えである。書類に不備があるとお咎めを受けつつ逮捕、なんてことはないが、おそらく「お引き取りください」と丁重にいわれ、Uターンを余儀なくされるに違いない。どれほど言を左右に託しても絶対に入れてもらえないことは確かである。許可証に記された日時、名前と身分証、車のナンバーと車種の確認が取れれば、係のおじさんはマスク越しに「お気をつけて」と気前よく通してくれる。

 ぼくはもう20回近くこの関所越えを体験したが(南側は今回初めて)、全員ヘルメットを被り、マスクをしたおじさんばかりで女性の姿はどこにも見当たらない。理由はもちろんのこと、女性にはこの地で長時間働くことはまことに不適切だからだ。したがって、この地に来ると婦人警官ばかりでなく女性がやたらと懐かしく、かつ愛おしく思えてくるから不思議だ。いや、不思議じゃない。過酷な労働条件下で働く作業員たちは誰もがそう思っているはずだ。1万ページ近い原発関係の書物を読んでも、そのような告白は1行も見当たらないが、男は過酷な条件下にあればあるほど女を思うものだ。ぼくは正直に彼らの代弁をしているに過ぎない。

 富岡町を過ぎ、大熊町に入ると線量が上がってきた。車を路肩に止め計ってみる。6号線沿いは除染が進んでいるのだろうが、それでも6.8μSv/h。6月に来た時はこの近辺で車内21μSv/hを計測したから、この減衰はセシウム137の半減期が30年(120年経っても1/16減衰するだけで、永遠に0にはならない)と考えると、おそらく除染作業が反映された結果だろう。除染については思うところ多々ありなのだが、先を急ごう。
 どこも横道はバリケードで封鎖されていたが、1カ所だけ開いているのを見つけた。人もいない。カーナビを付けていないので位置は分からなかったが、ぼくは強い磁場に吸い込まれるように6号線を左折し、そこに滑り込んだ。“呼び込まれるがまま本能的に”、という表現が適正かも知れない。この道の先に何か重要なものがあると、ぼくの勘はしきりと訴えていた。一時的に開けられたバリケードなら、いつ閉じられてもおかしくはない。そう考えるのが自然で無理がない。「おまえ1人なのだから、閉じ込められたって、かまやしないじゃないか」とぼくの背後霊はさかんに言い做(な)す。ぼくには選択肢がなくなった。
 20キロほどに速度を落としながら、両脇の家々に目を配る。当たり前だが、人っ子ひとりいない。あたりは静寂に包まれているが、なにかピリピリしたものを感じ始めていた。道路の片側が陥没しており、慎重に車を進めると小さな四つ角に出、そこに「医療法人博文会 双葉病院」という看板が立っていた。ぼくは思わず「うわっ! うわ〜っ!」と声をあげ、「ここがそうなのか!」と再び呻いた。看板の赤い矢印はこの四つ角を左に曲がれとぼくに指示を与えている。大変な悲劇を生み、大騒動を起こしたあの双葉病院である(解説は次回で)。ぼくは、砂利道の四つ角をそろりそろりと曲がると、眼前に大きな双葉病院が現れた。ここからこの旅のハプニングが始まった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/179.html

★「01富岡幼稚園」。富岡町立富岡幼稚園。ここの全景写真もどれを選ぼうか迷ったが、取り敢えず真面目に説明的なものを。不真面目なものはありませんが。
撮影データ:EOS-1DsIII。レンズEF16〜35mm F2.8L II USM。絞りf11、1/250秒。露出補正-0.67。ISO 200。2013年11月8日。

★「02富岡幼稚園」。窓ガラスに写り込んだ室内の絵がなんとも痛々しく悲しげだ。ここにいた子供たちは今小学生になっている。どこにいるのだろうか?
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8、1/30秒。露出補正ノーマル。ISO 250。2013年11月8日。

★「03大熊町」。6号線から横道に。「あぶくま信用金庫」のアンパンマンと朽ち果てた商店。自販機だけが震災前のまま佇んでいる。すべての時制がずれている。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf8、1/125秒。露出補正-0.33。ISO 200。2013年11月8日。

★「04双葉病院」。双葉病院の説明とガラス越しに撮った内部はいずれ。雑草の生い茂る駐車場に置かれた車は職員のものだろうか?
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf10、1/100秒。露出補正ノーマル。ISO 200。2013年11月8日。

★「05双葉病院」。正門より病院全景。患者救出時、病院外にまでベッドが並べられていた。多くの人が自力で歩けない人だった。今はひっそりと静まりかえっているが、ここに立てば当時の喧噪が聞こえてくる。
撮影データ:カメラとレンズ同上。絞りf13、1/50秒。露出補正-0.67。ISO 125。2013年11月8日。
(文:亀山哲郎)