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■亀山哲郎の写真よもやま話■
亀山哲郎氏 プロカメラマン亀山哲郎氏が、豊富な経験から、カメラ・写真にまつわる様々な場面におけるワンポイントアドバイスを分かり易くお伝えします!
■著者プロフィール■
1948年生まれ。大手出版社の編集者を経て、1985年よりフリーランス・カメラマンとしてコマーシャル写真に従事。雑誌、広告の仕事で世界35ヶ国をロケ。
現在、プロアマの混成写真集団フォト・トルトゥーガを主宰。毎年グループ展を催し、後進の指導にあたる。
2003年4月〜2010年3月まで、さいたま商工会議所会報誌の表紙写真を担当。 これまでに、写真集・エッセイ集などを出版する他、2002年〜2008年には『NHKロシア語講座』に写真とエッセイを72回にわたり連載するなど、多方面で活躍中。

【著者より】
もし、文中でご不明の事柄などありましたら、右記アドレス宛にご質問ください。 → kameyamaphoto2@mac.com

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2015/05/22(金)
第249回:北極圏直下の孤島へ(7)
 読者諸賢へ。現在、「福島 -『失われた地の記憶』- 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 ぼくの滞在した2004年当時、鬼ヶ島(ソロフキ)には25人の修道士が活動していた。宗教や布教活動が禁じられていた旧ソビエト時代、宗教者は施政に不都合な者として存在そのものを否定され、言われなき弾圧や迫害を受けた。あるいは収容所に送られ、命脈を絶たれた宗教者は膨大な数にのぼる。
 新生ロシアとなり、宗教の自由が認められると、国教であるロシア正教(正しくはロシア正教会)は春の芽吹きのように、いっせいに花芽を伸ばし始めた。また、教会や宗教施設も同様に破壊されたが、1ヶ月に及ぶこの旅の行く先々で復興が行われていた。ソロフキもその例外ではない。

 ぼくと修道士との天敵関係が結ばれたのはこの旅からではなく、1987年の初訪ソにさかのぼる。旧ソビエト政権が宗教弾圧政策をとるなか、細々とした活動を認められた修道院のひとつが、モスクワの北方約90kmに位置するセルギエフ・ポサードにあるセルギイ大修道院(1993年世界遺産登録)で、ぼくはロシア正教の聖地であるここにお忍びで出かけたのである。ここにはイコン(聖像画)画家として世界的に著名なアンドレイ・ルブリョフ(1360-1430年)作の『至聖三者』がある(現在はモスクワのトレチャコフ美術館蔵)。

 当時、ソ連のビザは都市ごとに発給され、しかも市街地の中心から半径40km以遠に出ることは御法度だった。ぼくはセルギエフ・ポサードのビザを得てなかったので、この地を訪れるにはどこかのツアーにこっそり紛れ込む必要があった。ぼくはこの手をよく使った。ドイツのツアーだろうがスペインのツアーだろうが、どこでもいい。ホテルに貼り出されているツアー予定表のなかに目的地を見つけ、そこのツアーガイドに「連れて行ってくれ」とお願いすれば、いずれも快く「OK」といってくれる。お堅い政府と異なり、ロシア人は決して「ビザを見せろ」なんていわない。

 セルギイ大修道院は、修道士の姿を見ることのできる稀なる場所のひとつだった。ここで初めて見たロシア正教の修道士に向けて、ぼくは条件反射のようにシャッターを切った。ぼくはまだ「かすめ撮り」に習熟しておらず、その未熟さ故に修道士に目ざとく発見され、こっぴどく叱られた苦い経験があった。実のところ苦くもなんともないのだが、ここでは一応そういうことにしておく。
 初訪ソ故、ぼくはロシア語のアルファベットさえ知らずにいたのだから、ましてや言葉が分かるはずもない。「なにか怒っているようだ」と感じるのが関の山で、その理由も根拠も理解できず(しようとさえしない)、ぼくは「これは言葉の通じぬ外国人の特権を利用するに限る」と決め込んだ。ぼくの「蛙の面に小便」という無手勝流の起源はここにある。

 ソロフキ初日、クレムリンに立ち入ると、巡礼者や村の信者と立ち話をしている、おそらく修道士としては平役と思える衣装を身にまとった宿敵と出会った。ぼくは思案を巡らせ、威風堂々たる修道院にレンズを向けるふりをしながら、まず事始めに何気なくその平役を撮ってみようと画策を始めた。
 神に祈りを捧げるが如く、「私はあなたに如何なる類の敵意も悪意も持ってはおりません。ごらんの通り善意に満ちあふれた人間であります。そのことはイエスさまもとっくにお見通しでしょう。ですから私の撮影行為をお咎めになりませんように」と、その場限りの呪文を何度か唱え、平役に向けて渾身の力を込めて、レンズとともに気を送ったのである。
 なにしろ相手は神がかりだから、油断も隙もない。こちらも万事怠りない準備をして挑まなくてはならなかった。しかし、敵も然るもの、ぼくの入念で隙のない目論見を十分に予見しており、レンズを向けた瞬間、じゃれ猫のように素早い反応を示し、手のひらをぼくに向け、総身の力を振り絞りながら霊波を送り、ぼくの身体髪膚(はっぷ)を揺らし、カメラぶれを起こさせたのだった(参考写真01)。それは、ぼくがこの旅で記録した唯一のカメラぶれだった。
 自分の未熟さを棚に上げていうのだが、どうせカメラぶれを誘発させられるのであれば、然るべき高位の修道士でありたかった。どうみても写真の修道士は神々しさや威厳に著しく欠けている。見るからに下っ端然としている。ぼくはこんな修道士に一敗地にまみれたのである。忿怨(ふんえん)が焔の如く燃え起こるのだ。
 ぼくはふてぶてしくも、「人は見かけによる」といつも豪語している。ぼくの人相学にならえば、この修道士はぼく同様に修業が足りない。
 悔しまぎれの感情が多少含まれているとはいえ、驟雨に立つ巡礼のおばあちゃん(参考写真02)の醸すその雰囲気と品位を見比べていただきたい。見事な顔容ではありませんか。その端厳なさまは、まるで鼠と獅子ほどの差があると、写真は忠実に記録している。写真、恐るべきかなといったところだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/249.html

★「01平役修道士」。
「撮っちゃいかん!」と手でぼくを制す平役。無念至極、わずかにブレが。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf4.5、 1/80秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02巡礼のおばあちゃん」。
毎年1ヶ月間、ソロフキに巡礼に来るのだとか。通り雨のなかで。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf4.0、 1/200秒、ISO100、露出補正-0.67。

★「03祈りを捧げる老女」。
過酷なスターリン時代を生き抜いてきた老女。礼拝堂の前で身じろぎもせず祈りを捧げる。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF135mm F2.0L USM。絞りf4.0、1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/15(金)
第248回:北極圏直下の孤島へ(6)
 読者諸賢へ。現在、「福島 −『失われた地の記憶』‐ 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いをしておりますが、ご支援終了期限となる6月下旬まで、本連載にてご案内させていただきます。よろしくご了承くださいませ。
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細をお伝えしています。ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 「北極圏直下の孤島へ」シリーズはいつまで続くのか、書き手のぼくにも予想がつかないでいる。その日の気分次第というぼくのいい加減な生き方にも起因するところだが、福島同様に人類の歩んだ歴史の、看過できない忌むべき事柄の一片を、ぼく如き一個人のフィルターを通して語ろうというのだから、気紛れが災いして、思うようにはなかなか事が運ばない。

 このシリーズで、掲載されるすべての歴史的建造物は、囚人を収監するための監獄として使用された。美しい宗教施設をスターリンはちゃっかり監獄として利用したのだ。世界から隔絶されたこの孤島で、何が行われようと、外に漏れ出す心配はないとの算用が、悪党スターリンを突き動かしたに違いない。事実、この孤島での出来事が外界に知れ渡るには多くの時間を要した。
 
 スターリンばかりでなく、ヒトラー、毛沢東と、その他この手合いの人相はなかなか整いにくく、見るからに悪相である。
 悪相は個人の問題だが、さらに恐ろしいことは、このような輩を熱狂的に支持した民衆が少なからずいたということである。いつの時代も、権力欲に取り憑かれた人間は、人格や命の尊厳など一切顧みることがなく、それは歴史の証明するところだ。ソロフキは、ナチズムや毛沢東の大躍進・文化大革命と双璧をなす20世紀最大の暴政の、ひとつのシンボルなのである。

 帝政時代、自らシベリア流刑を体験したロシアの代表的作家F. ドストエフスキー(1821〜81年)は、その体験に基づき『死の家の記録』をものし、そのなかでこう述べている。
 「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。
 血と権力は人を酔わせる。…人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる」(工藤精一郎訳)。

 人間の三大欲に、もうひとつ御しがたいものとして権力欲がつけ加えられるということだろう。この欲は人間の理性を根こそぎ奪い取り、かつ暴力を正当化するので、まったくもって始末が悪い。ここで人間は悪魔に魂を売り渡すことになる。
 その悪霊が、ここソロフキに16年間(1923〜39年)も住み着き、この地に何百年も続いた豊かで高度な文化とその科学的業績を、木っ端微塵に吹き飛ばしてしまった。旧ソビエト時代も現在も、収容所としてのソロフキは未だ深い謎に包まれたままだ。

 ここで一体何人が虐殺されたのか? という問いに答えられる学者、研究者はいない。旧ソビエト連邦が崩壊した際に、旧KGB(ソ連国家保安委員会)から膨大なファイルや公文書が公開され、今日まで研究が進められているが、その全貌が明らかになるにはまだまだ時間がかかるかも知れないし、あるいは永久に解らないかも知れない。
 収容所時代の悪事を隠蔽し、その痕跡をぬぐい去ろうと旧KGBは収容所が閉鎖されてからの30年間、遺骨を砕いて白海に投棄する作業を続けたが、未だ多くの遺骨がタイガに眠っているという。

 ぼくが訪れてからすでに11年が経過したが、近年ソロフキはヨーロッパで最も人気のある文化遺産とのことだ。しかし、宿泊施設も訪問できる季節も限られているので、この島が今後大きく変貌することはないだろう。加え、ロシア人というのはどこぞやの人種と異なり、文化遺産だから多くの観光客を招き入れ、それで一儲けをしようという意欲に著しく欠けているように思える。いくら人気があっても、この島に不似合いな近代的ホテルを建ててしまうようなことをロシア人はしないと断言してもいい。

 今、平和そのもののこの島には、ぼくにとっての長年の天敵が住み着いていた。この天敵は修道士という聖職者の群れで、黒いマントをこうもりのようにひらひらと翻して足早にぼくの許に駆け寄り、ぼくの撮影行為を著しく妨害し、時によってはぼくを拉致し、「私たちを撮ってはいけない。なぜなら・・・」と、懇々と説教をたれようとするのだ。ロシア語、わかんないもんね。だから蛙の面に小便。ぼくは頑丈だからびくともしない。
 クレムリンを歩き回れば遭遇不可避で、至る所で宿命的な接触が生じる。とっくに面の割れたぼくと天敵は、そのたびに火打ち石のように火花を散らし、クレムリンは鬼ごっこの場と化した。ぼくは常に25人の鬼に追いかけ回されながら、掏摸(スリ)のように彼らの姿をかすめ撮ったのだった。ぼくが、早撮りの技を磨けたのは、ひょっとして天敵のおかげかも知れない。
 しかし、巡礼者にレンズを向けても彼らはにこやかな笑顔を絶やさず、常に心地がよい。決まって、「どちらから?」とやさしく微笑んでくれるのだ。人間的な情が瞬時に通い合う。聖職にある修道士より、修業の身である巡礼者や信者の方がずっと人格者なのではないかと思いながら、排他的な鬼ヶ島の主人たちにさまざまな挑戦を仕掛けたのだった。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/248.html

★「01囚人慰霊碑」。
通称「銃殺通り」に立てられた慰霊碑。このように雲が地から湧き出すように出現する光景はこの地特有のもの。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.0、 1/400秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02墓」。
修道士の墓なのか囚人の慰霊碑なのか不明。カモメが1羽横切る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80-200mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/250秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03自室」。
女将はもっとも居心地の良い部屋をぼくにあてがってくれた。窓からクレムリンが見える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20〜35mm F2.8L USM。絞りf8.0、1/1.6秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/08(金)
第247回:北極圏直下の孤島へ(5)
 ソロフキへの中継地点であるアルハンゲリスク州の州都アルハンゲリスク市で、ソロフキへの渡島を担っているお役人さんから流暢な英語で、「外国の職業カメラマンとしてソロフキに渡るのはあなたが初めてだ。単身で、というのも私の記憶ではあなただけだ」と聞かされた。そして「あなたの職業を“Photographer and an Explorer(探検家)”としておく」とつけ加えた。
 彼のいたずらっぽい笑顔を未だ忘れることができない。
 しかし、ぼくは探検家でもなく冒険家でもないので、一番乗りを得難いこととして捉える意識はまったくなかった。ぼくは写真屋なのであって、大切なことはそんなことではないのだから。
 お役人さんいうところの「探検家」の意味を、ぼくはこの時まだ理解していなかった。

 ペレストロイカの始まった当時、旧ソビエト連邦の取材は従来より比較的容易となり、マスメディアはこぞって旧ソ連の知られざる映像を公開し始めた。その時の決まり文句は、「外国の取材班として初めて」とか、「閉ざされた地の初映像」とか、「秘密のベールを今・・・」などというもので、それを大仰に売りものにしているさまは、なんだかあまりにももの寂しく、滑稽であるように思えた。いや、そんな謳い文句は映像屋としてはなんだか聞き苦しい。
 彼らテレビクルーは、大枚をはたいて取材許可を得、常に複数人で行動し、コーディネーターや通訳が付き、そして身の安全を保証されている。いわば「守られながらの撮影」である。夜、ホテルのレストランにたむろして、仲間うちでワイワイやっている姿をよく目にしたものだ。それを悪いとはいわないが、あの緊張感の希薄さで、現地の真の姿を多角的にどの程度捉えることができるのであろうかとの疑問を、ぼくは常に抱いていた。

 改革・開放を前面に打ち出し、世界の耳目を集めたゴルバチョフ政権ではあったが、それでもソロフキは禁断の土地であった。1991年、ゴルバチョフは失脚し、旧ソ連は新生ロシアとなり、ソロフキはロシア人にも堅い門戸を開き始めた。ぼくのソロフキ行きは実際のところ、旅行者としての旺盛な好奇心と恐いもの見たさの本能で満たされるはずだった。ところが不幸にしてぼくは写真屋としての義務感と使命感に襲われてしまった。ソロフキをテーマにするには、荷が勝ちすぎる。写真など撮らずに、世界の至るところで、いつの時代にも行われてきた非人道的な政(まつりごと)や独裁主義、全体主義の育まれた土壌について、またその犠牲となった数多の死という問いに対する自分発見の旅とするほうが、多少は気が楽だった。ぼくはどこか怖じ気づいていた。
 
 そしてまた、デジタルを使い始めて日が浅いことも不安材料のひとつだった。ぼくはデジタル使用に異常なほど神経質になっていたし、臆病にもなっていた。レンズは焦点距離20mm〜200mmを揃えておけばほとんどのものに対応できると言い聞かせた。持参するレンズは故障も計算に入れ、6本と決めた。私的な写真ではモノクロ写真を愛好するぼくだが、今回はすべてのイメージをカラー写真に固定し、ソロフキのありのままをできるだけ忠実に写し取ることに専心しようと決心。
 表現の範囲を絞っておくことは精神的な負担を軽減することにもつながる。あれもこれもは、つまずきの第一歩。色気は邪意に通じているので、失敗の可能性を高めることに他ならず、だ。自己暗示をかけ、これで少しは気が楽になった。

 希望が現実のものとなって、ぼくは空港から完全にショックアブソーバーのいかれた超オンボロ・激ポンコツバスのなかで、何度も尋常ならざる刺激を受け、宙を舞い、床に叩きつけられ、バスの鉄柱にしがみつきながら(決してオーバーな表現ではない)、やっとの思いで宿にたどり着くことができた。愛想の良い、上品な女将がぼくを出迎えてくれたが、バスの、この世のものとは思えないような激しい衝撃に体中を打たれ、ぼくの脳みそは弁当箱に入れられた絹ごし豆腐のように、まだゆらゆらとして、直進歩行さえままならなかった。
 9月10日、招き入れられた応接間にはすでにペチカ(ロシア式暖炉兼オーブン)が赤く燃え、女将は唯一の客であるぼくを紅茶と手製のクッキーでもてなしてくれた。閉島間近のこの時期、巡礼者の姿はわずかを残すのみで、島全体が閑散とし、静寂に包まれていたが、ソルジェニーツィンの描写通りソロフキのかもめが上空を舞い、鳴き声をあげていた。
 閉島とは、交通の行き来が途絶えることで、村の住民はその期間この地に閉じ込められたままとなる。船は海が凍りつき航行できず、飛行機は荒れ狂う天候に飛行の予定が立たないからだ。

 女将の話によると、あと1ヶ月もすれば、この島はある日突然すべてが凍りつき、氷と雪に閉ざされるらしい。「ある日突然」という言葉に、ぼくは得体の知れぬ凄味を感じ、ゾクッとしたものが背中を走った。生ぬるい気候に甘んじているぼくらには、きっと想像することのできない現象なのだろう。そしてまた、オーロラを背景に浮かび上がるクレムリンの美しいシルエットは想像に余りある。オーロラの燃え上がる時期の、今はそのプロローグだったのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/247.html

★「01ソロヴェツキー諸島の位置」。
Google Earthより。北緯65度。
★「02ソロヴェツキー諸島」。
Google Earthより。大小6つの島から成る。
★「03クレムリン俯瞰」。
Google Earthより。赤線で囲った舟形を逆さにしたものが、クレムリン。左が白海。右が聖湖。ぼくの宿の窓からはクレムリン全景を望めるロケーションだった。
★「04クレムリンの夜明け」。
オーロラならぬ朝焼けを背景に、クレムリン修道院のシルエット。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF80〜200mm F2.8L USM。絞りf5.6、1/50秒、ISO100、露出補正ノーマル。
★「05買い物帰り」。
天空から白い一条の光が射した。それを背景に買い物帰りの主婦を待ち構える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf5.0、1/80秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/05/01(金)
第246回:北極圏直下の孤島へ(4)
 読者諸賢へ。「福島 −『失われた地の記憶』− 」写真集制作のための拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 写真集制作が叶えば、関連団体への寄付はもちろんのこと、被災者支援団体などに書籍を寄贈させていただきます。

 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご参照いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

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 もう一つご案内です。私の主宰する写真クラブ“フォト・トルトゥーガ”の写真展を、5月5日(火)から10日(日)まで、埼玉県立近代美術館で催します。開館時間は10:00−17:30分、入場無料です。ぜひお越し下さい。お待ち申し上げます。
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 ソロフキに対するぼくのイメージはただ1点に集約される。ソルジェニーツィンが『収容所群島』第三巻第二章の冒頭で記したソロフキについてのくだりである。ちょっと引用してみる。

 「半年も白夜の続く白海でボリショイ・ソロヴェツキー島は水の中からいくつかの白堊の教会を持ち上げている。それらの教会のまわりには岩の城壁がめぐらされており、その城壁には地衣がついて錆びた赤色をしている。そして灰白色のソロフキのかもめたちが常に城砦(クレムリン)の上空を飛びかい、鳴き声をあげている。」(木村浩訳)。

 ぼくはこの一節だけを頼りに、長い間その光景を思い描いてきた。1976年にはじめてこの書物に接してから、すでに28年が経過していた。
 アルハンゲリスクを飛び立ったお化けのようにでっかいヘリは、28年間も恋煩いをしてきたぼくを、やっとのことでソロフキ上空まで運んだのだった。機上から見るソロフキは、タイガ(人の入れぬような針葉樹林帯)とツンドラ(1年中ほとんど凍結し、夏期だけ溶け出して湿地となるような土地)からなり、そこに無数の湖沼が点在し(前回の空撮をご参照に)ている。それはまるであばたのようでもあり、クレーターのようにも見えて、海を隔てたこんな小さな島にもカレリア地方特有の地形が広がっていた。
 長い間、想像をたくましくしてきた大虐殺の地を踏みしめて、感慨あらたに深呼吸をしながら、ぼくの生きてきた一節(ひとふし)を心に刻印し、記憶に留めておこうと一意専心、とはいかなかった。ただ、ピリピリと刺すような青白い粒子が極北の淡い光を切り裂きながら、不規則に飛び交っているように思えた。その粒子は静電気を帯びた雷雲のようにあたりを覆い、ぼくにまとわりついてきたような記憶を残した。

 胸に迫り来る思いに浸る間もなく、あらたな試練が待ち受けていた。鉄板を敷き詰めただけの突貫工事のような滑走路と、青いペンキを塗りたくった木造の掘っ立て小屋のような空港事務所は砂地のうえに建ち、ぼくを歓迎しているのか、厄介者のように見ているのか、見当さえつかなかった。
 試練とは、ここからどうやって宿にたどり着くかであった。地図もない。交通機関もない。タクシーもない。つまり旅の基本がここでは失われているのだ。徒歩という最も文明的な手段だけが残されていたが、24kgの荷を抱えていては、それもままならずといったところだ。
 荷物を砂の上に放り出したまま、思案していると、「北極圏をナメるんじゃないよ!」とばかり、挨拶代わりの風が吹き抜け、ぼくの白髪を一瞬額から引き離し、なで上げた。寒くはないが、冷やっこく、なかなかの切れ味だ。曇天。気温13℃。

 立ちん坊のままでは埒が明かぬとみたぼくは、荷物を砂地に放り出し、歩き出した巡礼者の群れを追った。美人のロシア娘を見つけ出し、うろたえる中年東洋人を演じながら、窮状を訴えた。ぼくの怪しい、語尾変化完全無視のロシア語を最後まで真剣な面持ちで聞き入っていた彼女の第一声はロシア語ではなく、味も素っ気もない英語だった。ぼくのロシア語を直訳すれば以下の如し。「私、日本から来た。道、わからない、プリユットホテル。あなた、わかるか?」。
 彼女は両手を大きく天に向けて広げ、「あなた、おひとりなの? ホントにおひとり? オ〜ッ、なんということでしょう!」と、ため息まじりに、珍獣でも見るが如き視線を向け、あきれ顔でぼくを無謀な勇者だと衷心より称えた。そして、明らかに、あってはならないことに出くわしてしまったという様子が容易に見て取れた。
 彼女の言葉には、「グループ・ツアーならまだしも」とか、「ロシア語が堪能ならいざ知らず」というニュアンスが言外に込められていた。ぼくはこのふたつの条件を満たしていなかった。なぜ彼女はそんな驚きの表情を見せるのか、もう収容所時代ではないのに、ここはそんなにヤバイ所なのだろうか。
 彼女は遠来の客を丁重にもてなし、なんとかしてやろうという気概を示し、手を差し伸べてくれたのだった。ぼくの手を引き(こういうことは日本では起こり得ない)、掘っ立て小屋に取って返し、そこに駐車していた博物館にでも展示されていそうなオンボロのボンネットバス(ぼくは木炭車かと思った)の運転手を探し出し、今度は韻を踏んだ見事なロシア語でなにかを訴えていた。
 ぼくはタイガとツンドラの地に置き去りにされなくて済むという確かな手応えを感じ始めていた。なんとかなる。ここはやはり「ニチェヴォー」の国なのだ。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/246.html

★「01山羊の巡礼」。
ソロフキはロシア正教の聖地でもあり、巡礼の地でもある。城壁の赤は、この地特有の地衣(苔)で、『収容所群島』で述べられている通りだ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02チャペル」。
このような世界遺産のチャペルが村の至る所に。空港の隣で。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf7.1、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03空港から村へ」。
遠くにクレムリンが見える。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF35mm F1.4L USM。絞りf8.0、1/100秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/04/24(金)
第245回:北極圏直下の孤島へ(3)
 ソロフキ(ソロヴェツキー諸島)は1992年にユネスコの世界文化遺産(歴史、文化、自然の複合遺産という珍しい位置づけ)に登録された。ソビエト連邦崩壊とほぼ時を同じくしての遺産登録だが、ユネスコ本部のホームページには面白いことが記されている。
 ロシア政府の思惑がどうであったのかぼくには見当すらつかないが、1991年10月、ソロフキへはユネスコの審査委員会(ICOMOS)の誰一人訪問できなかったが、満場一致で世界遺産に指定されたということだ。それほど由緒ある島であることは、昔からヨーロッパに知れ渡っていたらしい。その見事な建造物をスターリンはとんでもないことに利用した。
 世界遺産登録に、絶滅収容所としての負の遺産(その痕跡は島の至る所に残されている)は触れられていない。あくまで人類の高度な芸術・文化様式と宗教的な価値が評価されたようで、そこがポーランドのアウシュヴィッツとは異なる。
 しかし、世界遺産に指定されたからといって、この島をすぐに訪問できるわけでないところがロシアのロシアたる所以だとぼくは思っている。

 ソロフキはモスクワの北方約1300kmのアルハンゲリスクから、さらに西北西に290km、北極圏まで160kmの白海に浮かんでいる。我々の感覚からすれば、そこは最果ての地、地球のてっぺんであり、とんでもないところに、とんでもないものが存在しているということになる。
 飛行機を乗り継いで、ぼくは24kgの荷物を担ぎ、喘ぎつつも、這々の体で中継地のアルハンゲリスクにたどり着いた。ここに至るまでのさまざまは、聞くも涙、語るも涙の連続で、まったく先が思いやられた。
 荷物24kgの正体は、実はデジタルの仕業だった。インフラの整ったロシアで、電源の確保はそう心配ないと思われたが、万が一のことを配慮しての機材追加である。何しろそこは地の果てであり、ほとんど情報のないところだった。起こり得るあらゆることへの対処だけはしっかりしておかなければならなかった。
 フィルムであれば5kg以上は節約できただろう。デジタルを使用しての初めての海外ロケだから、その配慮は涙ぐましいものがあった。ぼくとてプロの片割れ、「予期せぬあれこれに見舞われて撮れませんでした」なんて言い訳は一切通用しない。獲物はしっかり捕獲しなければ生きていけないのだから、およぶ限りの準備をした。それでだめなら、あとはのたれ死ぬか、笑ってごまかすか、そのどちらかに徹すべし、という覚悟がプロには必要なのだ。
 海外での不自由なロケは十分に馴れていたつもりだったが、こんなに難渋した撮影旅行はかつてないことだった。あれから11年後の今、もう時効となったので(と、勝手に解釈している)、当時の内輪話をひとつだけ披露しておこう。11年後の憂さ晴らしである。

 アルハンゲリスクからソロフキへは、小型のプロペラ機(機種名アントノフ)で訪島する手はずが整っていたのだが、空港でチェックインをする際に品の良い金髪碧眼の係官がつかつかとやって来て、「搭乗機が間際で変更となり、ヘリコプターであれば予定通りあなたをソロフキへお連れできるが、それがお気に召さなければ来週まで便はないので待ってもらわなければならない。どうする? このことはどうかご内密に」と、流暢な英語でたたみかけてきた。ぼくは「OK, no problem!」と即答した。どんな手段であっても行ければいいのである。旅での予期せぬ変更こそ面白いものとぼくは心得ているし、この国で起こる天変地異には、もうとっくに慣れっこになっていた。そんなことでいちいち目を丸くしていたら、この広大な国を旅することなどできない。
 何でも「No problem!」と軽くいなすことが肝要で、そうでなければあの鷹揚で楽天すぎるロシア人たちとは勝負ができない。決して彼らに、日本人的気質をもって正面から勝負など挑んではいけないのだ。勝てるわけがないというのは、滞在日数のべ400日間で得たぼくの経験則である。ロシア人というのは、老若男女、美人、不美人(あっ、ロシアには不美人はいないんだっけ)にかかわらず、彼らは二言目には「ニチェヴォー」(気にしない。どうにかなるさ)という伝家の宝刀を抜いてくる。

 軍の払い下げのようなプロペラの2つ付いたどでかいヘリに、ぼくは荷物とともに放り込まれ、アルハンゲリスクを飛び立った。日本ではまだ残暑の厳しい9月上旬、当地の気温は14℃。気のいい操縦士がぼくに「地平線に見えるのがソロフキだ」と遠くを指さし教えてくれた。やがて眼下に夢にまで見たソロフキが姿を現わし始めた。ぼくは操縦士に「なんて美しい海!」と、語りかけた。彼は「きれいだろう。冬なら海が氷結するので下りられるのだが。でも今、海に着水でもしてみるか」と、ウィンクをしてみせた。ぼくは「ニチェヴォー」と、ロシア人の常套句を真似た。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/245.html

★「01ソロフキ島空撮」。
湖とタイガとツンドラ。写真上は波立つ白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「02湖とタイガ」。
島は湖とタイガばかり。このような風景の連続。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20mm F2.8 USM。絞りf5.6、 1/160秒、ISO100、露出補正ノーマル。

★「03虹」。
一日に何度も虹が出る。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF50mm F1.8II。絞りf5.6、1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

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 担当の方から許可をいただきましたので、読者諸賢へ拡散・ご支援のお願いです。

 この連載でかつて(第154〜165回、176回〜197回、224回)原発事故後の福島県の「立ち入り禁止区域」を取り上げました。
 無人となったあの地の惨状を、一介の写真屋として「後世に記録として残し、伝えていく」ことの使命を強く感じております。そのための写真集制作のご支援をクラウドファンディングで募ることになりました。合わせて拡散していただければ嬉しく存じます。
 
 この場をお借りして、みなさまのご理解とご支援を賜りたく、謹んでお願い申し上げます。

 以下のURLで詳細を伝えていますので、ご覧いただければ幸甚です。
http://kamephoto.com
http://camp-fire.jp/projects/view/1955

(文:亀山哲郎)

2015/04/17(金)
第244回:北極圏直下の孤島へ(2)
 旧ソビエト連邦への初訪問は1987年のことだった。ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革。立て直し)を唱え、西側の国々が彼の新基軸に沸き立っていたころである。そのおかげで、今まであまり耳慣れなかったロシア語が頻繁にTVやラジオから流れ始め、急速に身近なものになっていった。ゴルバチョフのロシア語は南ロシアなまりとのことだが、ロシア語のわからないぼくは、その言語の持つ明瞭で音楽的な、独特な響きに心地よい酔いを覚えたものだった。
 多くの日本人が、ぼくも含めて、社会制度の異なるこの国を禁断の隣国としてとらえていたが、東西冷戦のさなかにあって、その隔たりが少しずつ氷解し始めた時期でもあった。そのくらいゴルバチョフの登場は、世界に大きな期待と波紋を投げかけたのである。

 出版社のN氏に、「ペレストロイカやグラスノスチ(情報公開)といいつつも、まだまだ日本では情報が乏しく、資料もない。特に映像はその最たるもので、かめさん、未知の国を撮りたくない? 撮りたいでしょ。行ってきてよ」との甘言にそそのかされ、ぼくは鼻息荒く、二つ返事で了承した。
 以来、N氏はことあるごとに謀(はかりごと)を巡らせ、ぼくにロシア行きを命じた。
 この国で写真を撮ることの困難さと際どさは縷々として語られていたので、“出たとこ勝負”に嬉々とするぼくには、まさにおあつらえ向きの訪問先だった。

 実は、ぼくはロシアの大地にほのかなロマンを抱いていた。青年時代から読みふけったロシア文学やその登場人物にただならぬ興味と興奮を覚えていたのだ。ぼくにとって、そこは文学の宝庫のように思えた。
 そしてまた、無限の広がりを見せる大地やネギ坊主の教会群は、ヨーロッパ文化とは一線を画した異国情緒を与えている。ヨーロッパ、アラブ、アジアの三種混合文化は、バタ臭さと洗練の交じり合った一種独特の世界を織りなしている。民族色豊かな文化であろうことは、この地に足を踏み入れずとも十分に想像可能なことだった。

 ぼくが、ソロフキの存在を知ったのは、ロシアのノーベル賞作家A. I. ソルジェニーツィン(1918〜2008年)の文学的ドキュメント『収容所群島』(邦訳、1976年)によってだった。ソロフキに於ける恐るべき実体が生々しく描かれており、ぼくは大きな衝撃を受けた。それ以来、シベリアのコルィマ地方とともにソロフキという名称がぼくの脳裏に深く刻印されたのである。
 この書物により、スターリン時代の負の遺産が全世界に知れ渡り、そのかどによりソルジェニーツィンは国外追放となった。しかし、この書物はロシア文学の偉大な倫理感を世に知らしめる結果となったのである。

 ソロフキに人間が住み着いたのは、紀元前5000年にまでさかのぼる。それだけここは豊かな地だったのだろう。1430年代に2人の修道士(ロシア正教)がソロフキにやって来て、修道院を建立し、見事なクレムリン(城砦)を築き上げていった。
 この由緒ある島の長い歴史に、たった16年間(1923〜39年のスターリン時代)だけ人智を超越した悪魔が住み着き、クレムリンをはじめ諸島各地に点在する立派な宗教施設で、あらゆる手段の拷問と殺人法が考案され、大虐殺が行われ、文字通り絶滅収容所と化していったのである。
 ナチスの強制収容所よりもずっと早い時期に、囚人虐待、虐殺がシステム化され、やがてそれがソビエト全土にガン細胞のように繁衍していった。収容所の数、約1万。犠牲者は二千万にのぼる。そのいちばんはじめのガン細胞がソロフキであった。

 ソロフキ行きを何度申し出てもスゲなく断られ続けてきたぼくだったが、新生ロシアとなった2004年にとうとう8日間の滞在許可が下りた。
 当時ぼくはデジタルカメラを使い始めたばかりであり、使い慣れたフィルムでいくか、デジタルでいくか、散々頭を悩ませた。時代はデジタルに突入し、新しもの好きのぼくは、今後のことも考えて、果敢にデジタルで挑む決心をした。訪ロする前の何ヶ月間はテストに明け暮れた。何千枚のテストを繰り返したおかげで、デジタルのおおよその特質(主にシャドウとハイライトの再現能力)を把握でき、不安が徐々に消えていった。このテストが与えてくれた成果はとても大きなものだった。機種が新しくなった今も、ぼくは非常な恩恵を被っている。

 デジタル使用の次なる不安は、撮影したデータをどのように保管して、無事に持ち帰るかだった。当時のCFカード(コンパクト・フラッシュ)は最大2GBで、価格も高価だった。今から思えば隔世の感がある。ぼくはストレージにデータを確実に移し替える練習にも励んだ。
 ソロフキ(人口約千人)で世話になった宿屋(日本でいえば清潔なペンションのような佇まい)の女将にいわせると、「あなたがこの島を訪れた最初の外国人カメラマン」とのことだった。世界初なんて、そんなことの気負いはまったくなかったが、じわっとした責任感だけが重くのしかかってきた。ぼくともあろうものが。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/244.html

★「01ソロフキの第1カット目」。
宿を飛び出した時、思わず目を見はる。「何でこんなところで携帯が。嘘だろ!」。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/250秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「02聖湖よりクレムリンを望む」。
前回掲載のクレムリンを反対側から。極北の光は淡く、どこかおぼろげ。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf8.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

★「03サモワール」。
民家の軒下にサモワール(ロシア式湯沸かし器)が置かれていた。バックは煙る白海。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf4.0、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.33。

(文:亀山哲郎)

2015/04/10(金)
第243回:北極圏直下の孤島へ(1)
 「おまえはこの連載を、無邪気にいつまで続ける気でいるのか?」と自問してみるに、「きっと写真屋をしているかぎりネタは尽きないので、どうしようか?」と、自答することもできず、決着を見ないままこんにちまでやり過ごしてきた。つまり、何も考えずに事の成り行を自然まかせにしている。計画を持たないことをよしとしているので、それはいかにもぼくらしい。
 計画性というものは一見大切なことのように思われるし、否定できない面があることは十分に承知しているが、その計画性のために窮屈な思いをするのは、退屈以外の何ものでもなく、時には、“出たとこ勝負”に賭けることも必要だと思っている。“出たとこ勝負”はかなりのエネルギーを要するので、それはぼくのパワーの栄養源となっているような気もする。

 人はぼくの“出たとこ勝負”を“単なる思いつき”と断じるが、誤解も甚だしい。予期せぬできごとのさまざまをあらかじめ承知し、そこにはいくばくかの処方箋が盛り込まれているのだから、“単なる思いつき”とは意味合いが異なるのだ。処方箋が役立つものかどうか、やってみなければ分からないので、知恵を巡らせたり、工夫を凝らしたりしなければならず、退屈する余地がない。それに、予期せぬできごとに見舞われることほど面白いことはない。

 “出たとこ勝負”のこの連載も来月でもう6年目を迎える。なんともはや、といったところだが、過日担当者に契約更新の書類を渡されて、ぼくは無計画・無警戒に判子を指示通りに押してしまった。もう1年、この“出たとこ勝負”を続けろという意味らしい。こうなったらもう連載の最長不倒を目指すしかない。NHKの連載だって最長不倒記録を打ち立てたのだから、読者諸兄にそっぽを向かれるまでやってみっか。

 今月は、かつて上梓した写真集やエッセイ集で取りあげた紀行を、今度は写真のあれこれを織り交ぜて記してみようと思う。これはむずかしい。
 旅で起こったことのさまざまを“写真抜きに”自由気ままに綴ることはたやすいが、「写真よもやま話」というお題目にしたがってのことだから、どこで足かせを外すかが思案のしどころだ。

 海外でのロケはどれも辛いものばかりだったが、そのなかでも「もうこんな旅は二度と御免だ」と、心身ともに消耗しきった北極圏直下の孤島へのお話しを、かつての文章からかいつまみ、手直ししながら何度かにわたって無計画にお伝えしよう。

 今から11年前の2004年9月初旬から10月初旬にかけて、ぼくはロシアの北方地域を放浪した。この地域を指してロシア人は「セーヴェル」(北)と呼ぶ。
 13世紀に始まったモンゴルの襲来(タタールのくびき)から、かろうじて避けることのできたこの地域は、ロシアの文化が最も色濃く残され、宝石のような光を放っている。
 ロシアの濃密な文化はとても興味のある対象には違いないが、ぼくのお目当ては20数年来入島の許可を申請し続けてきた白海に浮かぶソロヴェツキー諸島(ロシア人は“ソロフキ”と呼ぶ)だった。

 旧ソビエト時代、ぼくは何の因果か仕事で12回も、気の遠くなるような広大な地を、隅から隅まで重たい機材を背負って訪れた。この茫漠たる広さは、私たち日本人にはどうしても実感できない。「それを知るには列車の旅がお勧め」なんてことを、その筋の方々は軽々しくおっしゃるが、列車の旅を優先したぼくでさえ、ロシアのだだっ広さを語るには役不足なのである。写真でさえこの広さを表現するにはとても歯が立たず、やはり写らない。
 当のロシア人は、自分たちの国土面積が世界一だとは知っているが、ぼくらがいうところの「広い」とは思っていないようだ。多くのロシア人と接して、彼らの口からその類の言葉を聞いたことは一度もない。
 おそらく「広い」という概念は、生まれながらの居住環境によって決定されるべくもので、広い土地に住めばそれを普通のこととして感受するのだろう。海に棲息する生物は、訊ねてみたわけではないが、「海の水は塩辛い」などと感じていないのと同じである。彼らにとって「イカの塩辛は辛くない」のである。

 訪問先での関係機関に、「ソロフキに行きたいのだが、どうすれば許可がもらえるか?」と、何度も聞いてみた。答は判で押したように、「ロシア人だって行けないのに、外国人であるあなたが行けるはずがない」とニベもなかった。
 当時の旧ソビエトは外国人の立ち入りを厳しく禁じた、いわゆる閉鎖都市なるものが数多くあったのだが、ちょっとした鼻薬を効かせれば許可を与えてくれたものだ。ぼくはこの鼻薬でずいぶんと閉鎖都市をものにした。けれど、ソロフキだけは効かない。
 ロシア人の多くは、日本人が思っているよりもはるかにお人好しで、融通が利くのだが、ソロフキだけは「触らぬ神に祟りなし」を頑強に守り通しているようだった。押しても引いても彼らは動じなかった。
 当時、軍港都市として立ち入ることが厳禁だった極東のウラジオストークでさえ、ぼくは彼らを懐柔できたのにである。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/243.html

★「01ソロフキ・クレムリンの夜明け」
クレムリンとはロシア語で城砦という意味。ロシア各地にクレムリンがある。
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf7.1、 1/40秒、ISO100、露出補正-1。

★「02夕陽に映えるソロフキ・クレムリン」
カメラ:初代EOS-1Ds、レンズEF20-35mm F2.8L USM。絞りf5.6、 1/125秒、ISO100、露出補正-0.67。

(文:亀山哲郎)

2015/04/03(金)
第242回:花見を眺める
 ぽかぽか陽気に誘われ、現代アートを観に上野の美術館に赴いた。花見時の上野は初めてだ。噂に聞くほど、ここでは桜花のもと盛大なる酒宴が繰り広げられているのだろうかと、多少の興味も手伝って、ぼくはその生態をカメラに収めてみようという気になった。

 本来、気の利いた生真面目な執筆者(そのような人を指して、“実直な人”とか“誠実な人”というらしい)であれば、桜の季節に向けて「桜の撮り方」、なんて講座を設けるものだが、世に数多ある綺麗な桜の写真に、ぼくはほとんど感応できない写真屋なので、したがってその手際をお伝えすることができない。それが、ぼくなりの実直さでもある。

 そんなわけで、桜にも、桜を愛でながら酒を嗜む風雅な人々(そんな風にはとても見えないが)にも、さしたる興味はないのだが、速写のトレーニングをしておくにはいいかもしれない。
 速写は街中スナップをするには欠かすことにできない技で、その技を十全に活かすためには、カメラの手早い操作はもちろんのこと、頭の上に8本ほどのアンテナを冠のように乗せておく必要がある。ただこの時に注意しなければならないことは、掏摸(すり)のような目つきになってはいけないということだ。被写体を渉猟するあまり、刑事のように鋭くなってはいけない。不思議なもので、そのような時、相手はそれを敏感に察知するものだということをお忘れなく。視覚の代用として、犬のように嗅覚を働かせてもいい。
 四方八方からの電波(情報)を正確に捕らえ、対処するためには、予期・予測・予知・予感など、“予”のつく漢字をぞんざいに扱ってはならない。それらを十把一絡げにして我々は“イマジネーション”とも呼ぶ。“予”とは「あらかじめ」という意味だから、どんな場面に遭遇してもすぐに対応できるように身支度を調えておかなければならない。「備えあれば憂いなし」といったところだ。
 そして、あらゆる“前触れ”や“前兆”といった、“前”の字もやはりゆるがせにできない。侮っては事を仕損じる。

 動体を捉えるには、「いいな!」と感じた時はすでに時遅しというもので、その光景は時空とともに光速で消え去り、感情だけがそこに取り残される。時空と知覚のギャップは撮影者にとって、とても残酷なものだ。だからこその醍醐味ともいえるが、そのためにぼくは、「“いいな!”と思うであろうその瞬間を予知する」ことに努めている。これらのことをそつなく察知し、認識し、消化しなければ、思い描いた絵がカメラに転写されることはない。だから、ぼくはことごとく失敗する。

 野暮天を重々承知で、今回は掲載写真について少しばかりの状況説明を。何かのご参考になれば幸いである。

 ぼくの予備知識によれば、上野公園の花見客の間には、中国語ばかりが飛び交っているはずだった。中国語を母国語とする人々で溢れかえっているとの情報もあった。
 立錐の余地もないほどに敷き詰められた敷物の間を縫うようにぼくは歩を進めた。花見客を興味深く、じっくりと観察しているうちに、ぼくは突発性難聴に見舞われたように音を失った。これはぼくの生理的特質で、ひとつの感覚に重きを置くと他の感覚が極端に麻痺してしまうのだ。その症状が顕著に表れるので、ぼくはどうしても「ながら族」にはなりきれない。他人の何十倍も雑音が苦手ゆえ、知らずのうちに肉体がそのように反応してしまうのだろう。
 聴覚に気を惹かれれば今度は視覚を失い、イヤフォンなどして歩けばたちまち車に轢かれる。ぼくの五感は連携を拒み、常に孤立しているので、花見客の言語が何であるかに思いが至らず、感知できなかった。
 
 公園を歩いていると、遠方約50m先に外国人の集団をみつけた。中国語集団ではなさそうだ。「いざ、花見に出陣」という様子でこちらに向かってくる。異国にあって、彼らが神経を尖らせていないのは、集団であり、またエキゾティックな佇まいに心を奪われて、好い気保養をしているからなのだろう。彼らの表情からは、生まれ育った地の、黙示的な民話や宗教的説話に裏打ちされたおだやかさがうかがえた。信仰心とは異質な何かがあった。
 彼らの姿を写真に収めるに際し、こちらも彼らの生まれ育ちを踏みにじることのない心性の持ち主であることを牧歌的に言いならわして、毒を消しておかなければならない。

 集団の黒人女性がきっと道化役を演じ、みんなの気持をさらに弾ませているに違いなかった。白人の間にあって、彼女は慕われているのである。その心地よさにぼくは便乗してシャッターを押せばいいのだと言い聞かせた。この写真を撮る1分前に、2人のドイツ人にとっ捕まって、何年ぶりかで拙いドイツ語で勝負し、すでに和気あいあいの、異人種との接触にぼくも好い気保養をしていたのである。

 黒人を撮る時にぼくはいつもユージン・スミスを思い浮かべる。大変なヒューマニストであった彼は、黒人の肌をどのような明度に表現するかに悩んだという。アンセル・アダムスによると、白人の肌は概ねゾーンVI、つまり露出計の基準となる18%中間グレー(拙「よもやま話」第19回:風景を撮る(7)参照)より1絞り露出オーバーの明度で表現するとあるが、ぼくはスミスよりリアリストなので黒人の肌は概ねゾーンIV(1絞りアンダー)を目安としている。スミスは何かに囚われすぎていたのではないだろうか。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて用いられた魅力的なガム・プリント(ゴム印画法。Gum Bichromate Process)を模してみようと暗室作業を始めたのだが、実際の技法を試したことがないので、昔見たおぼろげな記憶を頼りにMacと格闘。あくまでもぼくのイメージのなかで醸成したガム・プリントである。モノクロとカラーを試みたのだが、絵柄によっては、うん、そう悪くはない。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/242.html

カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO320。

★「01ガム・プリント試作。モノクロ」。
★「02ガム・プリント試作。カラー」。

(文:亀山哲郎)

2015/03/27(金)
第241回:組写真に思う
 この1年の間に何人かの読者諸兄から「組写真」についての所感をたずねられた。それなりのことをしたためて、お返事を差し上げたつもりではあるけれど、その内容を要約すれば、「ぼくには理解が及ばず、すいません」というものだった。この一言を書くために、優に2000文字近くを要するのだから、ぼくはサービス精神がありすぎる。
 また先週、「販売目的を含めた写真展示をしたいのだが、売れ筋の写真というものがあるのなら教えて欲しい」という質問もあった。これにも2204文字(メールをWordにコピペすれば正確な文字数がすぐに分かる)を費やしてしまった。読み手があまりにも気の毒である。

 「組写真」について語ろうとすれば、ぼくはきっと後悔することになるだろうという予感に今ひしひしと襲われている。思いつきで始めてしまった罰を受けることになるだろうが、もう書き出してしまったので、後に引けず、ちょっと弱った。
 「行き当たりばったり」とか「人生は取りあえず」が、ぼくの座右の銘だと公言しているので、拙文を丹念に読んでいるらしい奇特な知人友人の手前、今さら指針を覆すわけにもいかず、さらに弱っている。どこかでぼくは立ち往生するだろうが、しかし、先回りをして立ち往生を極力避けようとする人は(「君子危うきに近寄らず」という閉塞感に満ちた退廃的なことわざがあるらしいが)、進歩に恵まれないので、やはりこちらも気の毒な人といえる。
 「立ち往生」とは「立ち止まって考えること」がぼくの勝手な解釈なのだが、どの辞書にもそうは記されていない。「立ったまま死ぬこと」なのだそうだ。「組写真」の講釈くらいで殺されてはかなわないので、「自業自得」とか「自縄自縛」の四文字熟語程度に留めていただきたい。

 たまたまこの2週間に、組写真にくわしい人たちと歓談する機会があったが、ぼくは素通りをしている。「理解が及ばない」ということは、未体験だからという以上に、ぼく自身にその気がないからだろうと思う。その気がないということはつまり、魅力を感じていないことと、必然性を感じていないからでもある。
 ぼくに写真のスタイルというものがもしあるのだとすれば、組写真は場違いのものであり、肌合いの異なるものでもあり、氷炭相容れない(性格が反対で、調和・一致しないことにいう。広辞苑)ものとして位置づけている。 
 ぼくにとって写真とは常に「単写真」を指す。「組写真」を、UFOもしくは地球外生物のようなものとして眺めている。
 「単写真」にしか興味を覚えないのは、1枚の写真に想いのさまざまを込め、鑑賞者に提示し、過日も述べたように「その主語・述語は鑑賞者に委ねる」のが、潔くもあり、誠の紳士だと信じて疑わないからだ。作者は語らずして鑑賞者にさまざまを連想させ、自由な洞察に導くのが本来の写真のありようであり、それが良い写真だとぼくは定義づけている。ちょっと気障ないい方をすれば、たった1枚(一葉)の印画紙のなかから、鑑賞者が沈黙する森羅万象や造化の妙を感じ取ってくれればいい。一打一葉がぼくの写真的な美学だから、それを実直に遂行している。
 作者自らが鑑賞者にあれこれを差し出し、多角的に説明し、「私はこうなんですよ」とすることをよしとしないので、一葉で語るスリリングな「単写真」から逃れることができずにいる。その一葉は、鑑賞者によってどのような見方をされても、まったくかまわない。百人百様のありようを認めるからこそ、一葉に価値を見いだす。一葉のほうが、多葉より概念の固定・縛りがない分、より深く、自由に、柔軟に鑑賞者に訴えるものがあるとぼくは考えている。

 「単写真」だけを念頭に置くぼくは、予期せぬ被写体と鉢合わせをした時の、心の中で突如噴出するインスピレーション(写真的霊感)が、どれほど自分にとって危うくも愛おしいものであるか、如何ばかりの感情の高揚を与えてくれるかをよく知り、大切にしたいと望んでいる。全神経を尖らせ、時空を瞬時に切り取った、1枚限りのものの無限性をぼくは愛でたい。

 しばらく前、さる著名な詩人Tさんがぼくの写真を左様に見初めてくれ、こういわれた。「あなたは組写真をしないのですか?」と。ぼくの返事を待つまでもなくTさんは、「あなたの写真はその必要がまったくありませんね。1枚の写真が雄弁なので、私のテキストを差し挟む隙がない」と、ひと息に放たれた。
 ぼくの写真が雄弁であるかどうかは分からないが、少なくともやはり組写真向きの写真(そのようなものがあればのことだが)でないことは確かなようだ。

 ぼくが組写真についての何がしかを持ち合わせているのであれば、前述した「素通り」をせずに済んだのだろうが、しょせんぼくには「理解が及ばない」のだから、あまり建設的な会話は望めそうもない。個人の写真に対するスタンスを互いに認めているのでなおさらのことだ。

 ぼくも詩人にならってひと息でいうのであれば、組写真について肯定も否定もしないということである。「肯定をしない」ことについての所見は述べておかなければならないだろう。これは特に若い人、あるいは写真事始めの人たちにとって、危険をはらんでいるように感じる。組写真に取り組むのであれば、1枚の写真に自分の想いをある程度表現できるようになってから始めていただきたい。1枚の写真のクオリティを確保できないうちは、止めたがいい。これがぼくの組写真に対する基本的な考え方である。
 多くの組写真を見ていると、往々にして1枚の写真のクオリティがないがしろにされている。安易な写真の羅列(組み合わせ)をそこに見るのは、表現作法として、あまりに痛々しい。写真は互いに補い合うものなのだろうかという疑念がぼくには常につきまとっている。その伝、「単写真」には過不足が明瞭で、逃げ場がない。

 これ以上「組写真」に言及すると、ぼくは立ち往生となる。もう黙ろう。少なくとも自己顕示欲の権化のようなぼくは、写真の見せ方に限り、寡黙を貫きたいと望んでいる。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/241.html

 偉そうなことをいってしまった手前、今掲載写真を選ぶのに立ち往生している。「理解が及ばない」ことについて、述べるもんじゃありません。身の程知らずってんでしょうかね。
 近所に買い物にふらっと出たついでに。
 カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO200。

★「01」。北浦和駅のすぐ近くにまだ昭和の香りの漂う場所がありました。
★「02」。強い西日の逆光、黒猫が道をよぎる。リサイズ画像なので、やわらかくボケた映像を見ていただけないのが、ちょっと残念。
★「03」。ぼくの嫌いな鳩。図々しい。なぜ歩調に合わせていちいち首を突き出すのか。羽の模様が美しくない。声がくぐもって、しかも音痴。手の届くところまで行かないと飛び立たないそのさまは、人を食っている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。よって、仇討ちのような気分でシャッターを押す。

(文:亀山哲郎)

2015/03/20(金)
第240回:妄想のはざまで
 この1週間、写真についてのあれこれを話し合ったり、歓談する機会に恵まれた。写真は基本的には一人で考え、行動するものだとぼくは考えているが、長年写真に従事していると、ぼくの単独孤立主義をごり押しするわけにもいかず、相手のプロ・アマを問わず必然的に接点が多くなる。 
 思わぬところでの出会いというものは、好むと好まざるにかかわらずなのだが、ぼくのように極めて非社交的な人間、今でいえば“引きこもり”タイプの人間にとってさえ、同好の志との交歓は精神にほどよい潤滑作用をもたらしてくれると感じることがある。
 外界を遮断し、部屋にこもって、何かにコツコツと精を出し、勤しんでいることがとりわけ好きなぼくは、外気に触れることで新鮮な発見をしたり、刺激を得ることが多々ある。そんな刺激を確かに感じた時が、ぼくの“撮りどき”なのだが、その“撮りどき”は不定期かつ気紛れにやってくるので、機を逸することのほうが多い。

 逃した機会を埋め合わせようと、焦燥感を募らせながら気の向くままにふらっと撮影に赴いたりすることが常態化している。帰宅後、自室にこもり撮影時のイメージを再現しようと辛抱強くパソコンと対峙し、ついでに焦慮を暗室作業で紛らわせている。
 この時の執念と集中力は何十時間、何日間も途切れることはなく、我ながらアッパレなものだと感心もするが、ただ最近は多事にかまけて、“気の向くまま”がなかなか訪れない。「写真を撮らない写真屋」は、さまにならない。愛機を眠らせておくことほど、商売人にとって居心地の悪いことはない。良心のお咎めを受け、「おまえは一体何をやっているのだ」という目に見えぬ厳しい視線が、チクチクと突き刺さってきて、まことに精神衛生上よろしくない。

 こんなことに漫然と身をやつしていると朽ちてしまうような気がして、友人に「オレは三河島(東京都荒川区)界隈を撮る」と自己を鼓舞するために宣言してみた。それから、何もせずにかれこれもう1年が経過しようとしている。
 行ったことのない地のイメージばかりが先行し、頭の中ではすでに1000枚近くの「三河島界隈」の写真を撮っている。それは玉石混淆だが、3枚くらいの玉が混じっているらしいのだ。三河島行きを心してからの1年間、ぼくはその妄想に取り憑かれていたといっていい。虚構を通り越しての妄想だから、イメージと現実とのギャップがありすぎて、どうしても埋まらない。三河島妄想をひどく後悔している。

 妄想のさまざまを具体的にいえば、ぼくは三河島界隈には二等車の車両が1台連結された小豆色の省線電車(この呼称は1920〜49年まで。その後、国電となり現在のJRに至る)が未だに走っていると思い込んでいる。モーターの、低速時のうなるような音から、グリッサンドのように回転を上げていくその生々しい音韻は、無骨で野太く力強い。
 「お化け煙突」(千住火力発電所。荒川区南千住。1926〜63年。ぼくは見たことがない)が、いく筋もの黒い煙を天に向けてゆらゆらと吐き出し、ススをあたりにまき散らながら、高度成長期の曙を誇示するかのように突っ立っている。
 黄昏時ともなると、瓦やスレート、トタン葺きの木造の家々から、かっぽう着を着た主婦たちが、祭り太鼓のようにまな板をトントンと包丁で打ち付ける音を響かせている。
 電柱にはコールタールが塗られ、1本おきに取り付けられた裸電球がニクロム線をチカチカさせながら、不安定な電圧のもと、頼り気なくほのかな光をぼんやりと放っている。

 ぼくの妄想はぶた草のように野放図で厚かましく、どんどん繁殖していく。幼年時代の残り火を細切れにして、貼り絵のように映像を仕上げてみようと愉しんでいる。
 しかし、妄想に駆られたイメージは現実のものとはまったく合致しないことは明々白々で、それがぼくの三河島行きを断固阻止している。あまりにもかけ離れたものをどう溶融させ、ほどよく印画紙に定着させるかが見えてこないのだ。

 先日、何人かの写真愛好家とコーヒーを飲みながら歓談した折りに、ぼくはこんなことをいった。「撮影に赴く前に、まずイメージの構築をする。描いたイメージを、今度は現地で取り崩していく。この作業が上手くできれば、写る」と、自身に言い聞かせるようにいった。
 そして、「近々のうちにぼくは三河島界隈を撮る」と、逃げ道を塞ぐために自虐的な気持になりながらいった。そうでもいっておかないと、また無為な1年を送ってしまうような気がしたからだ。
 しかしぼくは、学生時代から関心を抱き、関連書物を読み漁った「下山事件」(1949年。足立区)や、中学3年時のゴールデンウィークに起こった「三河島事故」(1962年。荒川区)が、頭から拭いきれずにいる。痛ましい二つの事件と陽炎のような妄想のはざまに、ぼくは揺れている。

 ※参照 → http://www.amatias.com/bbs/30/240.html

 昨年、三河島界隈にまで近づいたのですが、どうしても足が伸ばせず、その周辺をうろついていました。後ろ姿のものばかりを掲載したのは、Webでは個人を特定できないものを選ばざるを得なかったからです。

 カメラ:Fuji X100S。レンズ焦点距離35mm固定(35mm換算)、ISO200。

★「01荒川区東十条」
★「02荒川区上中里」
★「03荒川区東十条」
★「04荒川区東十条」
★「05足立区千住」

(文:亀山哲郎)