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「さくら・草五郎の竜神伝説」
竜神画像さくら・草五郎です。 浦和の歴史ものがたりを担当し、毎週月曜日、「さくら・草五郎の竜神伝説」というページを更新します。
浦和には様々な竜伝説があります。ここではそれを紹介しながら、浦和の歴史をひもといていきたいと思います。長いお話しになりますので、少しずつ進めていきます。 皆様からのご質問、ご意見なども書き込めるようになっていますので、ぜひご参加下さい。
なお、2001年5月6日には「見沼竜神祭り」を開催しました。今年も巨大な竜が空を舞うことになります。今年の「見沼竜神祭り」の予定などにももおいおい触れていくつもりです。よろしくお願いします。
見沼竜神祭りフォトアルバム ご参照

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2002/03/25(月)
その3 氷川女體神社遍 「四本竹と御船祭り」
むかーしむかし、見沼に満々と水が貯えられていて、大きな大きな沼だった頃のお話しじゃが、見沼で一番深いといわれた所で、沼の主の竜神様にお赤飯や銭を備える「御舟祭」というお祭りがあったそうな。そのお祭りは「竜神まつり」とも言われておったそうじゃ。お祭りは2年に1回、9月の8日に行われていたそうな。見沼を見下ろす神社のふもとから舟に神輿を乗せての、その一番深いと言われる所に4本の長い竹を刺し、「竜神様、いつも沼を守ってくれて有り難うございます。いつも水を恵んでくれて有り難うございます。これは竜神様のお陰で出来た美味しい赤飯です。どうぞ召し上がって下さいまし」と、箸を付けて赤飯をたっぷり沼の中に入れると、とたんに渦を巻いてのー、沼の奥深くに赤飯を吸い込んでしまうそうじゃ。そうして、おどろくことに、見沼の竜神様はお行儀良くてのー、食べ終わると使いの鯉に箸を一本づつ咥えさせると、なんとその二匹の鯉は舟に近寄ると「ふー!」と箸を吹き返したそうじゃ。それから2年に1度、何度も何度もこのお祭りは繰り返されておった。ところが、見沼の干拓騒ぎがおきての、沼の水が全部抜かれてそこを田んぼにして米を作ることになった。沼の水が抜かれ始めてから、北の方からだんだん水が無くなって来ると、そのあたりにいた船頭に「舟に乗せて下さいまし」と美しい女が頼んだそうな。船頭はあまりにも美しいのでよろこんで水の多い南へと舟を漕いであげたそうじゃ。そうして、丁度お祭りで4本の竹を刺すあたりに来ると、美女は立ち上がりいきなり沼に飛び込んでしまったそうじゃ。船頭が止めようと手を差し伸べた時には、なんと竜となって潜っていったと言うことじゃ。やがて、沼の水は全部なくなり、竜神様は天に昇ったそうな。そうして、「御船祭」も出来なくなってしまったのじゃが、氷川女體神社のふもとには、見沼の代わりに丸い手鏡の様な祭場ができて「磐舟祭」となって今も行われているのじゃよ。

さいたま市宮本にある武蔵国一宮の氷川女體神社(女体)の祭神はクシイナダヒメで、この姫はヤマタのオロチにみそめられスサノオノミコトのオロチ退治で助けられてミコトの妻となった。ということでも、この神社と竜神の関わりの深さがうかがわれる。高鼻の武蔵国一宮、氷川神社(男体)の祭神はスサノオノミコト、その二つの神社の中間にある神社が中川の中山神社で、かつては中氷川、簸王子宮として親しまれていた。高鼻の男神、宮本の女神、その中間を王子として共に見沼のほとりにあり、三社が一直線上にあることも興味深い。「御船祭」(竜神祭)が行われた所は、市内の下山口新田で四本竹という名称となっており、昔ここで4本の竹を刺してお祭りを行った所であることを明らかに示している。現にこの一帯からは旧浦和市の発掘調査で790本もの竹と古銭が出土されている。その竹の数からして、隔年ごとに四本使用したと考えると約400年間祭祀が行われていたことになる。見沼が干拓(1727年)される約400年前からということになる。
(文:さくら・草五郎)

2002/03/18(月)
竜神伝説考その2 大日堂遍 「井沢為永と竜」
この話は、見沼が干拓されて広い田んぼになる前のむかーしむかしのお話。田んぼになる前の見沼という所はそれはそれは大きな大きな沼じゃった。その大きな沼には「沼の主」と言われる竜がおった。竜といったら水を司る神様で竜神様じゃ。ある時この竜神様にとって居場所がなくなってしまうという大変な出来事が起きた。それは、吉宗公と言う将軍が米を沢山作るために「見沼の水を干して、見沼を田んぼせよ!」と言ってのー、幕府の優秀な土木技師を見沼によこした。その優秀な土木技師とは井沢弥惣兵衛為永と言うお方じゃった。その井沢為永が見沼に来ると、天沼の大日堂というお寺を干拓の事務所にして、さっそく測量をしたり、工事に取り掛かった。ところが、ある日を境に井沢為永のところに美しい女性が毎日のように現れるようになた。そうして為永に「干拓を止めるように!」と迫っておった。ところが為永は「将軍の命令で、米を沢山作る為には干拓を止めるわけには行かんのじゃ!」と言って美女の願いを聞かなかった。それからと言うもの、嵐しや事故で工事が思うようにはかどらず為永は疲れ切って倒れ、寝込んでしまった。すると、看病をするかのように美女がまた訪れて「干拓を止めれば病は治る!」と言うのじゃった。井沢為永の家来が心配して、そーっと障子の隙間から様子を見ると、なんと!真っ赤に口の裂けたヘビが、為永の身体をなめまわしておったそうじゃ。それを見てしまった家来は、びっくり仰天して障子の向こうでそのまま気を失ってしまったのじゃ。翌日、それを聞いた為永は、気味悪がって干拓事務所を片柳の万年寺に移してしまった。竜神様は、美女と化して干拓を止めさせようとしておったのじゃ。

さいたま市天沼、見沼代用水西縁沿いに大日堂という大きな椎の木のあるお寺がある。この話はそこを干拓事務所にしていた時の話しなので、時代が分かり易い。見沼の干拓工事は1727年に始まったので、その頃の話といえる。当然の事ながら、見沼干拓も井沢弥惣兵衛為永の存在と活躍も事実。この干拓で慌てたのは、見沼の竜ばかりではなかった。芦ノ湖の約2倍で日光中禅寺湖と同じ位の大きさだったこの見沼、その水を全部干してしまうと言うのだから、その水を引いて田畑を耕していた安行や笹目も含む広域に渡る村々にとっては一大事で一揆を起こした村もあった程である。井沢為永は、行田から利根川の水を引き、見沼に代わる用水作ことで説得にあたった。そうして完成したのが見沼代用水だった。ここではヘビが出て来るが、大蛇や白蛇などの話も竜伝説同様に扱われ、現に蛇を竜神様として奉る所もある。

(文:さくら・草五郎)

2002/03/11(月)
さいたま市の竜神伝説考 その1 国昌寺遍
「開かずの門」「左甚五郎の竜」「釘付けの竜」

むかしむかーし、見沼はそれはそれは大きな沼で、そこには沼の主と言われる竜がおったそうな。その竜が、時々沼から出てきては作物を荒らすので、村人達はとても困っておった。村人達は、何とか竜を封じ込めることが出来ないものかといつも頭を悩ましておった。そんな時、日光御成街道を通った日光帰りの腕利きの彫り物師、左甚五郎に竜を彫ってもらい、それを国昌寺の山門に封じ込めた。それからと言うもの、作物が荒らされることは無くなった。村人達はほっと一安心しておったのじゃが、竜は黙ってはいなかった。悪さをして、村人をまた脅かしたということじゃ。何をしたかと言えば、葬儀で村人が棺を担いでこの門を潜った、その時突然棺が軽くなってしまったそうな。村人達は不思議に思って恐る恐る棺の蓋を開けてみたそうじゃ。すると、どうしたことか中は空っぽになっておった。「山門の竜の仕業じゃ!」「竜が棺の中を食ってしまった!」と村人達は恐れて、村中大騒ぎとなってのう!それ以来、寺の門は閉ざされて、開かずの門となったのだそうじゃ。そればかりか、山門から抜け出して悪さをすることもあるからと左甚五郎の彫った竜に釘を打ち込んでの、山門から出られないようにしてしまったそうな!それだから「左甚五郎の竜」とか「釘付けの竜」とか「開かずの門」と言われる様になったのじゃ。そうそう、国昌寺の立派な山門は今でも開かずの門のままなのじゃよ。

さいたま市大崎、見沼代用水東縁沿いには国昌寺というお寺がある。この寺は曹洞宗の寺で開山は心巌宗智(しんがんそうち)だが、中興開山は二世の大雲文龍(だいうんぶんりゅう)と言う書家としても著名で、朝廷で時の天皇に書を指導した名僧。龍の字が付いているのが何やら見沼の名僧にふさわしく思われる。因みに、左甚五郎が山門の竜を彫ったと思われるのは日光東照宮の「眠り猫」が出来た改修工事完了の年と考えれば、寛永13年(1636年)となる。この頃の国昌寺住職は三世の直刹快呑(じきさつかいどん)と考えられる。この和尚と左甚五郎はどのような会話を交わしたのだろうか。また、「作物を荒らすのは竜の仕業!」とされるのは、台風そのものが竜の仕業と思われていたからである。「建物や木立をなぎ倒し、広範囲の作物を一気に駄目にしてしまう事が出来るのは竜神様以外に出来る筈はない!」と言う判断だった。これを「竜神様のたたり!水怒り!」と言いつつ人々は自らを戒めていた。

 
Re: さいたま市の竜神伝説考 その1 国昌寺遍2002/04/07 3:45:01  
                     美那子

 
読みました。
 

元の文章を引用する
(文:さくら・草五郎)