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「さくら・草五郎の竜神伝説」
竜神画像さくら・草五郎です。 浦和の歴史ものがたりを担当し、毎週月曜日、「さくら・草五郎の竜神伝説」というページを更新します。
浦和には様々な竜伝説があります。ここではそれを紹介しながら、浦和の歴史をひもといていきたいと思います。長いお話しになりますので、少しずつ進めていきます。 皆様からのご質問、ご意見なども書き込めるようになっていますので、ぜひご参加下さい。
なお、2001年5月6日には「見沼竜神祭り」を開催しました。今年も巨大な竜が空を舞うことになります。今年の「見沼竜神祭り」の予定などにももおいおい触れていくつもりです。よろしくお願いします。
見沼竜神祭りフォトアルバム ご参照

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2002/10/28(月)
竜シリーズ 32 さいたま市の竜伝説15 下山口新田
 シリーズ第1回から14回にかけて、さいたま市の竜伝説を紹介してまいりましたが、さいたま市大間木で昔から地域で語り継がれたお話に出会いましたので脚色して紹介させて戴きます。

 むかーしむかし、鳩ヶ谷の低い所に、皿沼(さらぬま)と言う淋しい沼があっての、ある日のことじゃった。
 そこで馬子が馬に水を飲ませようと立ち寄ったそうな。馬に水を飲ませている間、馬子は木の切り株に腰を降ろして休んでおった。
 すると、どこからともなく娘がすすり泣くように近寄ってきての、馬子は心配そうに声を掛けたそうな。
 「娘さん、どうかしたかね……訳を話してごらん!」
 馬子の優しそうな言葉に、安心するように娘が顔を上げると、あまりにも美しいので、馬子は一瞬目を疑ってしまうかのようじゃった。
 「有り難う御座います。実は私の母が病で苦しんでおります。心配で見舞いに行く途中なのですが、このままでは夜になって、歩けなくなってしまいます。それで悲しくなって泣いていたのでございます。」と、言ったそうじゃ。
 「それはそれはお気の毒なことで……よし!私の馬に乗りなさい!」
 馬子は行く先を聞くと自分も馬に乗って走らせたそうじゃ。
 下山口の山口橋まで付くと、娘は馬を下りて馬子に礼を言い、どうした事か、いきなり川に飛び込みおった。
 ザブーーン!バシャ!バシャーン!
 飛び込む音と共に、なにやら水の中で大蛇のような体がうねるのが見えた。
 馬子がおどろいてよくよく覗き込むと、なんと竜が見沼に向かって泳いでいったと言う事じゃ。

 さいたま市下山口、ここに先に紹介した「美女と馬子」の話がある。この話では、鱗や繁盛と衰退、厳島神社に関わる話はないが、美女を馬に乗せてという所は同じである。

 美女を乗り物に乗せる話は、別所沼、四本竹の話も同様。さらに乗せること意外でも、殆ど竜は美女と化して登場している。ここで、竜は雌なのではないかと推測されがちだが、中国で生まれた竜の定義では、龍は男であり、皇帝・武・闘争・陽、とある。

 それに対して鳳凰は女であり、皇后・文・美・平和・陰を現すとある。つまり竜は雄である!それでありながら人間の前に登場する際に美女と化すのは人間に安心感を与えることと、「美女が竜に!」と、することで話が深まることに寄るものであろう。
(文:さくら・草五郎)

2002/10/21(月)
竜シリーズ 31 竜とは竜神とは(12)水神の神
 水神の神として崇められた竜は、火災防除としても奉られていた。江戸時代に溯るが、江戸は中期から後期にかけて世界一の人口密集都市と化した。江戸城を初めとし、大名、旗本、武家屋敷などは緑に囲まれゆったりとした空間を維持していたのだが、その分、町中は商店、長屋でひしめき合い一度火災が起きようものなら、広範囲に火が回り損害は多大なものであった。

 「辰まつり」これは前述の状況下、江戸で行われた火災防除の祭りで、毎年正月行われた行事である。「和訓の栞」によれば、

「正月初の辰の日の辰の刻に辰年の人をして台所の屋根のむねに水を散しむれば失火の災なきのまじない也」

 と、記されている。火災を防ぐまじないの行事、「辰の日の辰の刻、辰年の人をして」とは念が入っている。

 農作物を栽培する上で、日照り続きを避ける雨乞いとしての竜。漁業を営む物の船の安全を願うが故の「竜神まつり」そして火災防除の竜、竜は人間社会に欠くことはできない存在なのである。
(文:さくら・草五郎)

2002/10/15(火)
竜シリーズ30 竜とは竜神とは(11)竜 宮
 日本の浦島太郎の話はあえて紹介するまでも無い、そう思いながらも前回、あらすじを掲載させて頂いた。そこであえて紹介していなかったことがある。それは浦島と乙姫との約束である。

 「絶対に開けないで下さい」と、渡された玉手箱。浦島は承知して持ち帰るが、結果はうっかり開けてしまい、若い筈だった浦島は老人と化す。この話しは日本最古の本とされる古事記や日本書紀に記される。浦島は竜宮という楽園で数十年過ごし、その間いっさい年を取らずにいて、その付けが玉手箱を開けた時に回って来た。

 つまり、竜宮という楽園は「不老の楽園」で、古来からの人間の究極の願望を充たす楽園といえる。時間の止まる世界、乙姫との約束、それを果たせなかった浦島、老人と化す経緯。

 ここでは快楽の時間は夢のごとく、時間を超えて永く続くものではないことも含まれており、約束を守らぬことへの戒めと、いかにも苦有れば楽あり、楽有れば苦あり。人間のバイオリズムを織り込んでいるかの様である。

 秋田県田沢湖の竜伝説「竜姫」では、田沢湖の主、竜王とその娘「辰子」と人間の若者の恋の話。竜王は人間に恋してはならぬと迫る。竜の親子の葛藤と田沢湖を干拓する身勝手な人間像の話だ。

 このようにおそらく、竜宮の主人は竜王で、乙姫はその娘であろう。乙姫は浦島太郎に恋をしてしまう。竜王は、人間に恋する娘にあきれて、「竜の娘にあるまじき」と失望する。それが「乙姫」と竜の娘であり、竜宮の姫に「乙」を付ける所以だったのではないだろうか。竜王は「帰ると」いう浦島に、二度と娘に近づけまいと玉手箱を土産とする。その中身を知る乙姫は、又逢えることを祈りつつ「絶対に開けないで下さい」と手渡す。
と、これは愚者の推理である。
(文:さくら・草五郎)

2002/10/07(月)
竜シリーズ29 竜とは竜神とは(10)竜宮
 インドの竜(ナーガ)は、竜宮(ボーガバティー)に棲むと言われ、中国の貴洲、安順には龍宮(ロンコン)がある。そうして日本には浦島太郎の物語、ここで登場するのも龍宮だ。京都府伊根町にある浦嶋神社の祭神は浦嶋子(うらのしまこ)で浦島太郎をさしている。

 釣りに出かけた浦島太郎は、小亀をいじめる子供達に遭遇する。浦島が亀を助けると、海亀がやってきて、浦島に感謝し、浦島を乗せて龍宮へと向かう。

 美しい珊瑚礁、色とりどりの小魚や鯛に歓迎されながら龍宮へ到達する。龍宮には美しい姫(乙姫)が居て浦島太郎をもてなす。来る日も来る日も、乙姫の歓待を受け、夢の様な御殿で月日のたつのも忘れて龍宮で過ごした浦島は、故郷と両親を思い出し乙姫に帰ると告げる。

 乙姫は、別れの土産に玉手箱を浦島に渡した。海亀にのり、乙姫や珊瑚や魚達に別れを惜しみながらもこの世に帰る。龍宮と違い、この世の淋しさに、浦島はつい玉手箱を開けてしまう。

 時の経つのも忘れ、年を取ることも無く龍宮で過ごした浦島は、箱から吹き上がる白い煙を浴びると、瞬く間に一変して老人と化す。

 ここで登場する海亀は、九匹の竜の子供の第一番目は「贔屓」なのではないだろうか。「贔屓」の特徴は、「支えるを好み、亀に似る」とあった。浦島を背に乗せ、龍宮へ案内したこの亀は竜神の使い(子供)「贔屓」であったように思える。

 子供達が寄って集って小亀をいじめる。これは大きいものが多勢で力の無い物をいじめるべからず。つまり、卑怯な行為への戒めであり、見逃さずそれを制する浦島は正義。これこそ、神と崇める竜神の好む所として竜神の使い(海亀=贔屓)を出し、龍宮へと案内する。

 乙姫は竜の化身ではないだろうか?とも思いたくなる。ところが、果たして竜の化身と想定した場合になぜ「乙姫」と「乙」の文字を当てたのだろう。竜は乙どころか常に最高のものとして作られて来たのである。

これも、検証の余地有りと考える。
(文:さくら・草五郎)

2002/09/30(月)
竜シリーズ28 竜とは竜神とは(9)仏教の竜と竜宮
 五十嵐健吉氏の著書「十二支の動物たち」によれば、インドで言うナーガとは竜のことであり、、仏教の上での竜は釈迦の教化で仏法の守護神となる八部衆の一員と言われ、水辺にいて降雨をつかさどり、竜宮に棲むと記される。竜宮はボーガバティーと言い「快楽の町」を意味している。

 竜宮に棲む難陀竜王(なんだりゅうおう)、優婆難陀竜王(うばなんだりゅうおう)は、釈迦に浄水を注ぐ役目を果たしていると言う。八大竜王は釈迦の侍者としても知られているともある。

 この様に、竜宮とは「快楽の町」、即ち人間の求める究極の環境を備えた空間であり、楽園と言える。

 竜を最高のものとし、その棲み家も最高の物とする。中国、インド共々竜に関する位置づけは変わらない。

 竜宮と言えば、日本で誰しも直ぐに思い浮かぶのは「浦島太郎」だが、池上正治氏の著書「龍の百科」によれば中国の貴洲と言う所に地底の鍾乳洞の舟遊びをさせてくれる龍宮があり、プイ族の若い船頭の操る小船で少し漕ぎ出すと龍門(ロンメン)があり、そこから龍宮(ロンコン)に入ったとある。竜宮はインドでも中国でも存在している。日本の竜宮は浦島太郎を祭る神社が京都府にあるので次回そのあたりから紐解いてみたい。
(文:さくら・草五郎)

2002/09/24(火)
竜シリーズ27 竜とは竜神とは(8)水を司る竜 3
 竜と水。航海、漁業、農業など、農業でも、とくに水稲耕作に、水を司る竜は欠かすことが出来ない存在であった。

 日本で、一番古い竜を現した物として認められているものは弥生時代のものである。偶然にも、水稲耕作が発達したのも弥生時代である。このように竜と水の関係は深い。

 さて、調べを進める中で面白いことに遭遇した。 それは「おかみ」である。「おかみ」即ち竜也りと「説文解字」という辞書に記されていると言うのである。万葉集の中に「吾が岡のおかみに言いて降らしめし雪の摧けしそこに散りけむ」という竜に頼んで降らせた雪を詠ったものがある。

 「おかみ」という文字は雨を冠に水滴を表わす口を四つ並べ、その下に龍と書いた一文字である。仏教の神の中にタカオカミ、クラオカミとしてこの「おかみ」が存在する。

 私が首をひねった面白さは「お上」=お上にはさからえない!の「おかみ」。これは竜と共通することではないか。中国では皇帝=龍の存在である。頭の上がらぬ存在即ち竜=「おかみ」だから「お上」となったのでは?。

 もう一つ「女将」がある。まぎれもなく「おかみ」と呼ぶ。この場合、旅館や水商売など女主人を主に現している。ここで共に水に関わる。そうして偉い立場でもある。即ち竜的存在として「女将」と記し「おかみ」と読むのでは、となる。

 ここで極め付きは、女房を意味する「かみさん」である。これは「おかみ」の「お」が抜けて「かみさん」となったのではないだろうか。つまり、「お」は丁寧語の「お」ではなく、竜からきた「おかみ」の「お」であるにも関わらず、丁寧語の「お」と勘違いして取ってしまった?

 なんで竜の「おかみ」と「かみさん」を一緒に考えるのか。一つは「頭が上がらない、という節もあろうし、台所、つまり水回りを司っているではないか」と言いたい。

 水と竜、考えれば考える程、面白い。
(文:さくら・草五郎)

2002/09/17(火)
竜シリーズ26  竜とは竜神とは(7)水を司る竜 2
 水を司る竜、その竜への期待は広く航路の安全にも竜が欠かせないものとなっている。金毘羅様は漁業地域には欠かせない舟の安全祈願の社だが、この金毘羅様が竜そのものなのである。

 インドではクンピーラというワニを水の神と奉り、そのクンピーラそのものが竜と同一視されていたようである。

 歌にも歌われた「金毘羅 舟 舟 …」その金毘羅様はクンピーラが転じた名称であり、その神様は舟運、漁業など、舟を必要とする所に奉られるものだけに山間部に有ること事態珍しいことである。

 私が福島県会津若松の渋川問屋という旅館に宿泊した際、そこに金毘羅様があるので「おや!」と思った。「渋川問屋」と言う名称の旅館ということで、誰もが変わった旅館名と思うように、そこは由緒ある海鮮問屋だった。

 かつてそこは新潟から魚介類を運ぶ街道沿いであり、この渋川問屋は海産物で商いを行う商人にとって、漁師と同じ気持ちで漁の安全を祈願するという心で金毘羅様を奉ったのである。珍しい中の一例であるが、舟と縁の無い地域に金毘羅様がある場合にはそれなりに理由がある。

 舟の安全を祈願を込めてカヌーで速さを競う祭りもある。それ即ち竜神まつりなのである。
(文:さくら・草五郎)

2002/09/10(火)
竜シリーズ25 竜とは竜神とは(6) 水を司る竜
水を司る竜

 現代のように、科学も発達していない古代から近世に至るまで、人々は天に支配されていた。ここで言う天とは、何者とか神と言うことでなく気象状況である。つまり天候に左右されていると言うことを「天に支配されている」と表現してみた。科学の発達した現代においても、気象条件に左右されていることに違いはないが、風雨を忍ぶ建造物、冷暖房、上下水道の完備、ダムによる治水など、風雨の根元を調節することは今だ不可能でありながら、被害を最小限にくいとめる策を講じている。しかし、冒頭の時代の人々はその時代なりの対策を持ってしても、天候に大きく左右されていた。そして天にある太陽と月、特に月の満ち欠けに不安を抱き、月に一度向かえる全く月が陰ってしまう新月にはこの世の終わりを感じ、恐怖に慄く時代さえあった。人間の力ではどうにもならない気候の変化、その中で最も被害を被るのは干ばつと水害である。つまりどちらも水即ち天から降る雨の量に左右される。雨が無ければ干しあがり、多すぎれば作物もなにも皆だめになってしまう。いずれも食えない状況に陥るのである。

 前回の「水を司るもの即ち竜也!」というように、人間の力の及ばないことを竜の支配するものとして、天と地の橋渡しをする身近で且つ崇高で強く逞しい竜を仕立て上げた。その証が竜のもう一つの定義の中に現われている。「竜は、大きくもなり小さくもなり、地に潜むときあらば天に昇る時もある」その竜を崇めることで干ばつ時に雨を降らしてもらい、豪雨による河川の氾濫を最小限に食い止めようとした。

 竜は、こうした純粋な人々の心の中から生まれたものであるが故に、6,000年経った現在でも、架空のものでありながら唯一、12支に存在しているのである。

 2,000年の辰年の正月、色紙に簡単に描いた竜の絵の下にこうしたためた。
  天に昇り
  雲を呼び
  雨をもって
  水を与え
  嵐をもって
  奢りを制す

 竜は雲や雷を支配することによって、自然との協調を忘れ、人間社会の中だけで穿った行動を起こすものに対して、祟りという形で制裁を加える存在としたのである。
(文:さくら・草五郎)

2002/09/02(月)
竜シリーズ24 竜とは竜神とは(5)
 これまで竜と蚕、竜と九の関係などについて述べてきた。

 蚕と言う存在がいかに人間にとって貴重なものであり、偉大なものであったか。それは竜に転化され、架空の物(竜)でありながら、深く人の心に描かれ、形作られ敬われてきたことで良く分かる。

 さらに、九を最高の物として、竜を構成するにあたり、九をあらゆる所に絡めている。

 竜はあくまでも、最高・最強の存在でなければならなかった。中国で作られた竜も鳳凰も、現存する動物や鳥の良い所を組み合わせて描かれている。前回の竜の特徴からも分かるように、手の甲は虎、爪は鷹、角は鹿、と言うように鳳凰も頭はトキ、尾は孔雀とされている。

 甲骨文字から「竜」と言う字がうまれ、やがてそれが「龍」に変わる。筆者の推測にすぎない事ながら、竜は力のあるものであるかぎり「皇帝=竜」として、政治・戦術的に力を有する者にも竜とたとえ始めた。その竜が即ち「龍」なのではないだろうか。つまり、「竜」と「龍」は意味合いが違うと解釈するのである。

 前述の黄河を治めた伝説の皇帝は「水を治めるもの即ち竜也」と言われたように。

 さて、虫と切り離すことが出来ない竜、それがどうして水を司る神となったのか。次回、検証をお楽しみに。
(文:さくら・草五郎)

2002/08/26(月)
竜シリーズ23 竜とは竜神とは(4) 竜と9
竜には9匹の子供がいる。これは前号でおわかり頂けたと思う。では何故9匹なのか、竜を語るにおいて、9と言う数字は決して避けることは出来ない。それは、子供の数ばかりでなく、他にも9が絡んでいるからであり、且つそれが最高の物を作り上げるに相応しいからである。
竜の定義
 1、顔はラクダ
 2、目は兎
 3、鬣(たてがみ)は獅子
 4、角は鹿
 5、身体は蛇
 6、鱗は鯉
 7、手の甲は虎
 8、爪は鷹
 9、腹はシン
と、竜の身体各所を9で定義してる。さらに、鱗の枚数これも81枚という。この81はつまり9×9なのである。これに関連することだが、鯉は竜門と言われる急流の難所を通過すると、竜になると言われ、ここから「登竜門」という言葉が生めれている。さて、この鯉の鱗は何枚といわれているか、これは竜の81の陽数に対して36枚という陰数と定義している。この36即ち6×6なのである。

中国の神話で黄河の治水をに貢献したといわれる「う」という皇帝がいる。ここで漢字で表記できないのは残念だが、この「う」という文字は九を表わす文字と虫の字が合わさった一文字の漢字になっている。これが9画になっているのが見事である。「水を治めるもの即ち竜也!」。つまりこの皇帝こそ竜そのものとしているのである。9画、九を現す冠に虫、9は竜には欠かせぬものであり、前回で紹介した竜の起源と蚕、つまり虫が関連することを証明している。

9、それは数字の上でも最高の数字、神として、最強の物として崇め奉るに相応しく最高の数字をもって竜は現在の姿に作られていったのである。
(文:さくら・草五郎)